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日 本

642NAME:2014/05/06(火) 11:55:17
元寇、もし日本が屈していたら?
濱口和久(4)元寇、戦わず属国になれば日本はどうなっていたか…時宗の「戦争指導力」と「胆力」現代リーダーは見習え
2014.5.6 07:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140506/wlf14050607000010-n1.htm

強硬姿勢の裏に綿密な分析…国運かけた戦いへ

 平安時代中期に中国東北部の女真族による海賊が九州北部へ侵攻した「刀伊の入寇(といのにゅうこう)」から約250年後、新たな脅威が日本を襲う。日本人なら誰もが知っている蒙古襲来(元寇)だ。この戦いでは、鎌倉幕府の御家人や西日本の武士団の活躍が有名だが、幕府の執権、北条時宗のリーダーとしての胆力の強さも忘れてはならない。 中国・元の初代皇帝フビライ汗は日本を属国にしようと、朝貢を求める国使をたびたび送ってきた。これに対して時宗は、常に強硬な態度を示し続ける。

 これには理由があった。元が日本に襲来するにしても、十数万以上の軍勢は一度に動員できない。しかも元軍は東シナ海や玄界灘を渡ってくるため、途中で難破する可能性もある。日本にたどり着いたとしても、軍勢は疲労しているに違いない−。後に元によって滅ぼされる宋から逃げてきた僧たちの情報をもとに、こうした情勢判断をしていたからだといわれている。 その後、文永11(1274)年の「文永の役」と弘安4(1281)年の「弘安の役」の二度にわたり、日本軍は襲来した元軍を撃退した。日本戦史の中で、日露戦争と並ぶぐらい大きな意味を持つ勝利であったことは、歴史が証明している通りだ。

上皇の力も借り〝オールジャパン〟実現

 二度にわたり元軍を敗退させた最大の要因は暴風雨だったが、蒙古襲来に際し、時宗が日本全国の武士団を統一したことも、勝利につながる大きなポイントだろう。

というのも、この時代、鎌倉幕府が命令を下せるのは幕府の御家人だけだった。守護、地頭を全国に配置しているといっても、土着の国侍や地方の国司などの勢力は朝廷の命令でしか動かなかった。おまけに真っ先に蒙古襲来に備えなければならない西日本の武士団には、幕府の御家人はほとんどいなかった。 元軍の襲来が近づくなか、本来は後宇多天皇に詔勅を賜るべきところではあったが、天皇は幼少であったため、時宗は先の天皇である亀山上皇の力を借りる。上皇から時宗に対して、「全国の武士団への指揮命令権を与える」という宣旨が下りたことにより、全国の武士団は宣旨に従い、九州北部に出陣して行った。時宗は上皇の宣旨という非常に巧妙なやり方で、全国の武士団を統一したのである。

 「文永の役」の後には、九州北部の沿岸部を警備する異国警固番役を強化するとともに、長門(現在の山口県)に長門探題を新たに設置。御家人のみならず非御家人も動員して、博多湾岸に今でも残る石塁を構築して防衛強化にも努めた。元の国使を二度までも処刑する行為にも出ている。これらの処刑には、元への示威行動の意図もあったに違いない。

歴史のif…富も文化もすべてが奪われていたはず

 元からの朝貢の求めを受け入れて臣下の礼を取り、属国になっていれば、間違いなく日本には元の役人や軍隊が進駐してきただろう。そうなれば、元の軍人が守護や地頭に代わって全国に配置され、あらゆるものを搾取し、伝統も文化も完全に破壊されていたに違いない。それは、元に支配された国の歴史を見れば明らかである。




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