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日 本

637NAME:2014/04/27(日) 11:48:51
緩やかなはずが…

 織田信長はキリスト教布教を奨励したことから各地に南蛮寺と呼ばれる教会が建てられた。だが、一向一揆のような宗教による大規模な反乱を警戒した秀吉は天正15(1587)年、キリスト教の布教禁止などを命じる。 ただ、このとき禁じたのは布教活動だけで信仰までは禁じていなかった。貿易による利益を優先したためだが、漂着事件以来、秀吉はスペイン、さらにはキリスト教による日本征服を恐れるようになっていく。 一説には、積み荷を没収された腹いせに、乗組員の一人が「スペインは日本征服のために宣教師を送り込んだのだ」などとする内容の暴言を吐いたためともいわれている。 このとき、乗組員の前でひとつの秀吉の書状が読まれている。 その中には、都にいる複数のポルトガル人らの証言として、「スペイン人は海賊」「世界各国を武力征服したように日本も征服するため測量に来た」などと書かれていたという。 だが、この疑心暗鬼ともとれる秀吉の書状の内容をよく見れば、秀吉の根拠となっている証言者は日本と最初に貿易を始めたポルトガル人である。 船が種子島に漂着して以来、50年間ずっと日本と交易してきたのはポルトガルである。その意味からすれば、遅れて出てきたとはいえ、スペインは商売がたきであり、面白くない存在であるはず。

宣教師や信者、関係者全員を逮捕するとともに磔の刑に

秀吉はそんなポルトガルの口車に乗ってしまった…ともみられなくもないが、漂着事件直後の文禄5年12月、再び禁教令を公布する。

伸びる弾圧の手

 天正の禁教令で南蛮寺などすべての布教施設が壊された京都で、文禄2(1593)年にフィリピン総督の使節として来日したフランシスコ会の宣教師、ペトロ・バプチスタは、秀吉から今の四条堀川周辺に広大な土地を与えられると、教会や病院、学校などを建てた。 病院には当時、手の施しようもなかった病気の患者や、貧しい人たちを収容して治療を行ったとして、その精神に共感して活動に参加する日本人も数多くいたという。 ところが、サン=フェリペ号事件後に出された禁教令で様相が一変する。 秀吉は、京都にいるキリスト教の一派、フランシスコ会の宣教師や信者、関係者全員を逮捕するとともに磔(はりつけ)の刑にすることを奉行の石田三成に命じる。 日本の文化や伝統を尊重しつつ、大名ら上層部から浸透させたイエズス会に対し、自分たちのスタイルにこだわり、貧しい階層に入っていったフランシスコ会の活動が、秀吉には挑発的に見えたというのだ。 だが、ここでも先発・イエズス会に対する後発・フランシスコ会の構図が見えていただけに、またしても秀吉は乗せられたのだろうか。

 バプチスタらに逮捕のときが迫ってきた。




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