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聖書通読

1福音伝道:2023/03/14(火) 05:40:03 ID:0BUKU4Ck
聖書通読のスレッドです。

manna通読表に従って読んでいきましょう
https://wlpm.or.jp/manna/my-calendar/

951atheist:2024/04/26(金) 02:42:31 ID:???
>>950
さらっと流してましたが、たしかに聖別に7日間必要というのは
それだけ聖別がたいへんなことだということですね

原文だとはっきり「食べた」と言ってるんですね
かなりリアルなイメージです
逆に火が燃え盛ったり雷が轟いたりする様を見聞きして
古代の人はリアルに神を感じたのでしょうね


さて10章はアロンの子ナダブとアビフがヤハウェお命令を守らなかったことで
焼き滅ぼされたという話です

ヤハウェの聖性と絶対性を強調する話として語られているのでしょうが
なにも殺すことはあるまいに、と思ってしまいますw
火を扱っていますから、おそらくはこういった事故が実際にあって
それにこのような教訓話を添えたのだと思います

16節以下のモーセとアロンの会話がよく分かりません
モーセはエレアザルとイタマルが命令どおりにしなかったことに怒っていますが
アロンの言を聞いて、良しとしています
これはどうしてでしょうか?

952福音伝道:2024/04/26(金) 06:07:32 ID:BX/SFP8o
>>951
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記11章です。

異火 原文は「他の火を」 彼が命じなかったところの他の火が何を指すか不明と
フランシスコ会訳註。執行時間が違ったとか、方法が違ったとかいろいろ推論され
ているとか。いずれにせよ、規定に反した火であったため、原文では
そしてヤハウェの前面から火が出た
そして彼らを食べた
そしてヤハウェの前面に彼らは死んだ。
この感じから受ける印象は、推察通り「火の事故」があった感じですね

「あなたがたは髪の毛を乱し、また衣服を裂いてはならない。」
普通に読めば、ここは悲しみの表現であるが
「あなたがたの上に主の注ぎ油があるからである」
と、結び付けて想像すると、祭司は聖性のために油を注がれ、長い服を着て
髪もあった上で、祭壇で火を扱っていたとすれば、燃えやすかったという
条件が揃ってますね。

10:16以下をフランシスコ会訳註もハーパーも福音派も解説していないので
私の感想を書いておきます。
まず、フランシスコ会訳註は、アロンのミスだが、アロンの子に対してモーセが
怒ったのはアロンの顔をつぶさないためとだけ解説しています。
司祭らが食べることで、会衆の罪を贖うための犠牲獣を焼いてしまっていたの
ですから、モーセが怒ってしかるべきなのですが、アロンは、今日、異火を
使ってヤハウェを怒らしたわれわれ祭司が食べていたら、ヤハウェは果たして
喜ばれただろうかとモーセに答えます。そこでモーセは、あっ食べずに燃やした
ほうがましかと納得したのかもですね

953暇人 A:2024/04/26(金) 09:57:10 ID:???
https://talk.jp/boards/psy/1713677840/714
714 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2024/04/26(金) 09:52:09.76 ID:OROAS [2/3] 0
ほーかいくん〜の
最大の天敵の
福音伝道があらわれた〜〜〜
福音伝道の獅子奮迅のレスが楽しみだ〜〜

954atheist:2024/04/27(土) 02:58:03 ID:???
>>952
わたしは「異火」と書いてあるところから、単に命じられていない火を使って
それがヤハウェの逆鱗に触れた、と解釈していました
なんにせよ、相当厳しい処分ですね

「あなたがたは髪の毛を乱し、また衣服を裂いてはならない。」というのは
ヘブライ語聖書でよく出てくる悲嘆の表現ですよね
わたしはナダブとアビフが死んだことを同じ祭司は悼んではいけないと言っているのかと思いました

なるほどモーセが納得した理由は、アロンの「一度ヤハウェを怒らせてしまったのだから
そのまま何もなかったように祭司が食べていたらヤハウェは快く思わないだろう」という主張に
納得したと考えられる、ってことですね
これだと筋が通ってそうです


さて11章は食物規定ですね
食べていいものといけないものを細かく指示しています

一貫して出てくる死体に対する忌避は通常感覚でもよく分かるのですが
ひずめと反芻に拘っているのはなぜでしょうか?

また虫やトカゲ類などを食べてはいけないというのも感覚的には理解できますが
鳥類の区分けはどうなっているんでしょう?
たしかに挙げられた鳥は普通あまり食べないなというものが多いように思います
単にまずいということでしょうか?
ちなみに鳥類になぜかこうもりまで入っていますw

955福音伝道:2024/04/27(土) 14:57:48 ID:BX/SFP8o
>>954
atheistさん、こんにちは。土曜と日曜の聖句はレビ記12章です。

ハーパーによると、祭司制度が世界を三分したそうです
1.コーデシュ(神聖)
2.タホル(標準)
3.ターメー(異常)
神聖と異常の領域には、様々な度合いがあり、最高に神聖な聖所の最奥が、
力の頂点だったそうです。
異常の領域は神からかけ離れた「死と混沌と不規則」な領域で
人々は各領域間の境界を前進したり後退したりしていたそうです。
ターメーとされたものと接触すると、通常住んでいるタホルの境界の外へと
追いやられることになり、タホルに連れ戻すためには一定期間と儀式が必要に
なったそうです。また一般人はタホルからコーデシュにも行けたそうです。

なぜ、「ひずめ」と「反芻」にこだわったのは不明ですが、フランシスコ会訳註は、
豚などは異教徒が用いたので、反発されて禁止されたのではと推測していますし、
岩狸とうさぎは反芻にしないので誤認と指摘した上で、頭を動かして食べるので
反芻と思ったのだろうと推定しています。
福音派は語義から「原文直訳 食べ戻しをあげるもの」の「あげるもの」から
テキトーなことを主張しています、
また「原文直訳 ひづめを割るもの」についてもテキトーで強引な解釈をしています

鳥の区分について、フランシスコ会訳註は、
廃墟に住むものや、死肉を食べる鳥が禁忌とされたとした上で、
挙げられている鳥名は不明なものもあると指摘しています。

ちなみに、11章の規定をキリスト教は廃棄したそうです。
ユダヤ教の一部は守っているそうです

956atheist:2024/04/28(日) 02:33:07 ID:???
>>955
三分は聖・俗・穢れ、といった感じでしょうかね

蹄と反芻については、よく分かっていないのですね
一応異教で用いられる動物を忌避するところからはじまって
のちに総体的に分類する際に、理由付けとして蹄と反芻を理由として用いたのかもしれませんね

鳥については廃墟に住まうものや死肉を食べるものということで
こちらは納得しやすいです

キリスト教は基本的に食事規定ってないですからね
これは福音書の中の「口から入るものが人を汚すのではない」というイエスの言が
根拠になっているんでしょうか?


さて12章は出産にまつわるおきてです

出産に際して母子ともに清めの期間が置かれるのは分かりますが
なぜか女の子の出産は男の子の出産の倍の清め期間が必要になっています
これはどうしてでしょうか?

957福音伝道:2024/04/28(日) 08:41:23 ID:BX/SFP8o
>>956
atheistさん、おはようございます。今日はお休みで明日の聖句はレビ記13章です。

キリスト教にユダヤ教のような食事規定がない理由をAIのCopilotに尋ねましたら、
宗教的背景:
ユダヤ教は旧約聖書に基づいて食事の制約を明確に定めています。これに対して、
キリスト教は新約聖書を中心に信仰されており、食事に関する規定は比較的緩やかです。
イエス・キリストは、律法を完全に守ることよりも、愛と慈悲を重視しました。そのため、食事規定に厳格な制約を課す必要性は低くなりました。
新約聖書の教え:
新約聖書では、イエスが「何でも食べてよい」と宣言したことが記されています(マルコによる福音書7:18-23)。
イエスは、食べ物そのものよりも、人々の心の清浄さを重視しました。
異文化との接触:
キリスト教はユダヤ教から発展した宗教であり、異なる文化や民族との接触が
増えました。これにより、食事規定を柔軟に適用する必要が生じました。
使徒会議の決定:
使徒会議(紀元50年ごろ)において、ユダヤ教からキリスト教への改宗者に対して、
ユダヤ教の食事規定を厳格に守る必要はないとの判断が下されました(使徒行伝15:28-29)。
この決定により、キリスト教徒はユダヤ教の食事規定を必ずしも守る必要はなくなりました。

マルコ7:19それは人の心の中にはいるのではなく、腹の中にはいり、
そして、外に出て行くだけである」。
イエスはこのように、どんな食物でもきよいものとされた。
使徒15:28すなわち、聖霊とわたしたちとは、次の必要事項のほかは、
どんな負担をも、あなたがたに負わせないことに決めた。
15:29それは、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、
避けるということである。これらのものから遠ざかっておれば、それでよろしい。
以上」。

マルコは説得力ありますね。「どんな食物でもきよい」と仰せですので。

ハーパー曰く、出産は母親の日常生活からの脱退の時と、三段階の再入過程によって
特徴づけられているそうです。一つの過渡期だそうです。
1.7日間の汚れの期間(男児の場合、女児は倍)…家庭と家族からの隔離
2.8日目に儀礼的な入浴と割礼…通常の家庭生活を回復するも、宗教儀式は除外
3.33日間隔離(男児の場合、女児は倍)を経て、宗教儀式に参加可能

女児出産の場合、期間が倍なのは、ハーパーの推測では、
女児を生むことで、将来、母親がまた血によって穢れる子供を持つからであろう
とのこと。ただし、原文では期間完了後、「罪が赦される」とはなく、
「清くなる」とあることから、罪とは考えてられていないことを強調しています

7日間、隔離されて、ゆっくり休み、
33日間、公的行事を免除されて家庭でゆっくりできたと
考えていると休養ボーナスだったかもです。女児の場合はボーナスが倍。

958atheist:2024/04/29(月) 02:44:07 ID:???
>>957
生成AIの回答は一般的に言われていることを総覧的に要約するのに優れてますね
人間の場合はなかなかすぐに総覧的な知識は出てこないので、こういうときには便利ですね

マルコ7:19のイエスの言も、考えてみればこれまでのユダヤ教の律法(この場合は食事規定)に対して
完全に否を突きつけていることになるので、かなり革命的なことだったと思います
それに対し使徒15:28で書かれている使徒たちの決定はユダヤ教の伝統を重視する派閥と
異教からの改宗者の間をうまく取り持つように配慮された妥協案で、イエスの過激さを薄めているようです

女児出産が男児の場合に比べて倍になっているのは
その女児が将来また子を生むことになるのを勘案している、ということですね
さすがに出産が「罪」とは言えず、単に穢れと清めという枠で考えられているわけですね

たしかに清めの期間は休養ボーナスと言えそうですw
そうすると女児の場合のほうがかえってお得ということになりそうですw

959福音伝道:2024/04/29(月) 08:37:03 ID:BX/SFP8o
>>958
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記13章です。

生成AIの回答は、間違っている場合もありますが、なかなかのものですね。

女性は産褥のために、社会から排除されたとも見えますが
古代にあって、休養期間とみると、また違った側面が浮かび上がるかもです。
殊に出産は母体にいのちの危険が伴う大行事です。釈尊の母親も産後に亡くなって
います。古代にあっては「命懸け」であったろうと思われます。
ただ一般的に女児より男児のほうが身体が弱く手がかかったはずなのですが
女児が倍になっているのは宗教的な意味付けで、合理的ではなかったのかもです。

960atheist:2024/04/30(火) 02:48:41 ID:???
>>959
特に古代では衛生環境がそれほど整っているわけではなかったでしょうから
産後は母子ともに感染症などの危険にさらされることがありますよね
そういったことも含めて、母子を守るという側面もあったのでしょうね


さて13章は皮膚病についてです

これまた事細かに皮膚病について書いてありますが
診断は祭司に任されています
古代ユダヤ社会では、現代で言う医者はいなかったのでしょうか?
それとも皮膚病の場合はなにかしらの罪の結果というような観念があって
祭司にその判断を任されたのでしょうか?

書いてある内容の詳細さから言って、コミュニティに感染を拡大するおそれがある皮膚病を
隔離して抑止する意図が伺えるので、ここでの祭司は医者の代替であったように感じられます

961福音伝道:2024/04/30(火) 06:18:55 ID:BX/SFP8o
>>960
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記14章です。

13:2原文直訳
アダム(人間)が、もし彼の肉の皮に、隆起したもの、または結ぶもの、
または光るものがあるならば、そして彼の肉の皮にツァラアットの打撃があるならば
すると彼はアロンに、または祭司に、彼の息子たちの祭司蓮の一人に連れて来られる。

つまり、この時代、祭司という宗教者が皮膚病かどうかを判断していたのです。
そもそもはレビびとのみが祭司として医療行為をしていたわげてすが、預言者らも
聖書では医療行為をしていますので「宗教」=「医療」であったのかもですね。
新約では主イエースースや弟子も悪魔追い出しや病癒しをしています。

962atheist:2024/05/01(水) 01:26:10 ID:???
>>961
やはりユダヤ教は病気に対して宗教的な意味を持たせていたから
医療行為は祭司(のちには預言者)が行うようになった、ということですね
実際には単に祈祷や奇跡で治したというよりも、レビ記の記述に見られるように
かなり細かく観察をしているので、それなりに現実的なところもあったように感じられます


さて14章は引き続き皮膚病についてですが、ここでは特にらい病(ハンセン病)に対する対処が
語られているようです

と言っても、訳語や「らい病」となっているだけで、要はツァーラアトですよね?

一応毛を剃ったり水で清めたりといった感染予防措置的なことはされるようですが
それよりも宗教的儀式の意味合いが強いようです

それにしても他にも様々な病気、特にマラリア等の感染症もあったでしょうに
なぜここまで皮膚病に対して強い警戒を示しているのでしょうか?

963福音伝道:2024/05/01(水) 05:49:28 ID:BX/SFP8o
>>962
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記15章です。

ツァラアットです。
ハーパーによると、
第一に病に冒されている者の「清め」の儀式
第二に、通常の人々の生活の中で、その人の地位を回復するための儀式
が描かれているとします。

フランシスコ会訳註は、5-7節の儀式は死人状態から復帰の儀式と同じと
解説しています。

重い皮膚病や家屋のカビは伝染したことから、社会から嫌われ疎外され排斥された
ということがあって、「清め」と「社会復帰」への儀式が整備されたのかもですね

ちなみに14:34a
口語訳 家にわたしがらい病の患部を生じさせることがあれば、
聖書協会共同訳 私がその地の家に規定の病の患部を生じさせたなら、
新共同訳 あなたたちの所有地で家屋にかびが生じるならば、
新改訳2017 わたしがその所有地にある家に、ツァラアトに冒された箇所を生じさせたとき、

「かび」と訳されたりもしますし「かび」のことですが、原文は家屋の場合も
「ツァラアットの打撃」です。

964おともだち2:2024/05/01(水) 11:05:29 ID:KNQNXxY2
順天堂大学老人性疾患病態・治療研究センターのある人物は、かなり以前から、他社(製薬企業)の大規模な新薬開発プロジェクトの詳細な進捗状況を(株)日本セルヴィエという外資系の企業に秘密裏に情報提供している。やがて大きな問題になるだろう。

965atheist:2024/05/02(木) 01:31:25 ID:???
>>963
やっぱりツァラアットなんですね
単に社会からの排除でおしまいではなく、ちゃんと社会復帰まで視野に入れたうえでの
儀式になってるところが重要ですね
皮膚病でもカビでも、いつ誰が被害を被るか分かりませんから、単に社会から隔離してしまえば
いいという訳にはいかないですからね

皮膚病もカビも同じツァラアットで表現されるということは
ものの表面に生じた変質をツァラアットと言ったのもしれません


さて15章は身体からの液体の漏出についてです

15節までは怪我や病気による体液の漏出に関してだと思われますが
それ以降は男は射精、女は生理についてということになりそうです

16節は女性と同床した場合ではないので、これは自慰あるいは夢精ということになるのでしょうか?

宗教書でこういったことについて事細かに書かれるというのは、非常に珍しいことなんじゃないかと
思われます
逆に聖書でこういったことまで書かれているということは
聖書が単に宗教書であるだけでなく社会的な法規まで含んだ書だということになりますね
まあすべてが神の配下にあるというのがユダヤ教ですから、当然といえば当然なのかもしれません

966福音伝道:2024/05/02(木) 05:56:43 ID:BX/SFP8o
>>965
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記16章です。

16節は、一人でした場合ですね。無精と自慰ですね。
またフランシスコ会訳註によると16-18節は祭司ではない者には適用されなかったと
ラビ伝承が伝えているそうです。
逆に聖所に入る時のみならず、戦争に行く場合も(主のために戦う場合)、性関係が
禁じられたそうです。

女性の出産の場合は、40日か80日律法上不浄とされ、その後清いものとされた
わけですが、男性の精の露出も「精の露出」(原文・ザーラの層が出る時)、によって
命の一部が消耗するとみなされ、体力が回復するまでは律法上不浄とみなされたそうです。
また、聖所には入らないイスラエル人以外の者には、この規定は適用されなかった
そうです。

ハーパーは、いきなり
2-15節を「淋病」の結果としての「病的な露出」と断定しています。
16-18節 正常な精の露出
19-24節 正常な生理
25-30節 女性の病的な出血

淋病の人は、一時的には接触や唾液を通して、
二次的には、触れたモノをとおして他人様に悪影響を及ぼしたそうです。

31節では、汚れに対する法体系の背後にある思想が語られているそうです
つまり、聖所を汚す不浄を警戒しているわけですが、なぜかというと
「死をもたらす神の怒りを被ることがないように、規則や布告が啓示された」
そうです

967atheist:2024/05/03(金) 01:46:38 ID:???
>>966
ということは一般人に関しては自慰等は「お咎めなし」ということなんですね
聖所に入ったり「聖戦」をしたりするときには、神のみ前に出るということで
穢れが伴うと考えられた性関係はご法度だったということですね

「精の露出」が「命の一部の消耗」とみなされたというのは
科学的には文字通りに正しいことになりますが
当時はもう少しマンガ的にというかゲーム的にというか、HPの消耗くらいの感覚だったのかもしれません

前半部分は淋病と断定していいんでしょうか
これも当時性病と言えば、淋病だったのかもしれませんね


さて16章はスケープゴートに関する章だと思いますが
ここでは説明なく「アザゼル」ということばが出てきます
このアザゼルというのは原語的にはどのような意味なのでしょうか?

ヤハウェのための犠牲とアザゼルのための雄羊があり
アザゼルのための雄羊は荒野に放たれるということは
アザゼルなるものが荒野におり、それに少なくともここでは
ヤハウェのための罪祭と同等の価値を認めているように見えます

英語的なスケープゴートという解釈では罪を他者に負わせて贖うという側面が強調され、
アザゼル自体は無視されますが、わたしは「アザゼルのために」という部分が気になります

968福音伝道:2024/05/03(金) 08:56:31 ID:BX/SFP8o
>>967
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記17章です。

アザゼルは原語的には解明されていず、ハーパー、フランシスコ会訳註、ミルトスは
諸説あるとしつつも、諸説について紹介していません。
ネットでは諸説の一つが恰も確かなように紹介されています。
1.wiki…「強い、ごつごつした」を意味するアズ と「強大」を意味するエルの合成語
     タルムード釈義では荒野の峻嶮な岩山か断崖を指すとされる
2.福音派…「やぎ」(エーズ)と「立ち去る、消え失せる」(アーザル)の複合語
 scapegoat (初出16世紀)は scape (escape, 逃げる)と goat (山羊)の合成語

フランシスコ会訳註によると、初期にはヤギは「不毛の地」に逃がされていた。
衰弱して死ぬか、野獣に食い殺されたそうです。後代ではエルサレムの東12kmの
ところにある岩の崖に連れて行かれ、そこから後ろ向きに突き落とされたそうです。
で、その場所を「アゼザル」と呼んでいたらしいのですが、この儀式がユダヤ人に
よって言い伝えられていくうちに、地名が人格化されて、「荒れ野の鬼神」を意味
するようになったそうです。
『エチオピア語エノク書』には、悪魔の頭目として現れるらしいです。

ハーパーは、アゼザルが場所か、悪魔であるか、「汚れた」荒れ野の擬人化であるか
は断言できないという慎重な立場です。

新共同訳聖書辞典は、贖罪の日に用いられる二頭のヤギの内、全国民の罪を背負わせて
荒れ野に放たれた1頭のヤギを受け取ると考えられた超自然的存在。
すなわち荒れ野に住む鬼神の名と考えられる。罪を清めるために、罪の源であるところの
鬼神に、それを送り返すという思想の表れである。

「アザゼルのために」、原文では、前置詞+固有名詞 ラ・アゼザルです。
レビ16章にだけアゼザルが四回出てきますが、すべてラ・アゼザルです。

ヤハウェに一頭、アゼザルに一頭を捧げたわけですので、そもそもは
ヤハウェとアゼザルが同格の感がありますね。
全体としては、アロンの息子二人が聖所を汚したので、彼らは死に、死後、二人の
罪を贖うために、二頭のヤギが捧げられたのですが、二人なので二頭は説得力ある
として、なぜアゼザル?という感じはありますね

969atheist:2024/05/04(土) 01:27:04 ID:???
>>968
どうやら諸説あっても確定的なことは言えないということのようですね
一応元々地名ないしは地形名であったものが人格化あるいは擬人化されて
ある種の悪魔のように考えられていた、というのがもっともそれらしい説という感じでしょうか

実際上、放逐されたヤギは餓死するなり野獣に食い殺されるなりして死ぬということは
ヤハウェに捧げる場合と同様、犠牲にすると言っていいようですね

新共同訳聖書辞典の場合は、さすがに悪魔に犠牲を捧げると言うわけにはいかず
罪の源である超自然的存在に罪を送り返す、と解釈しているわけですね

レビ16章にだけにだけ登場するということを鑑みても
ここは早計な断定を避けて、もう少し考えてみたほうがよさそうですね


さて17章は主に動物の血について書かれているようです

血は命であるから、血は食べてはならず、また命でもって命を贖うために使用されなければ
ならない、と説いているようです
そのため血は祭壇に注ぎかけるものとされていますね
この血(命)の贖いというのが、キリスト教の十字架解釈にまで
脈々と続いているように感じられます

7節は時代的にはどう考えても荒野放浪時代ではなく
カナンの地に定着して以降の話のように思われます

エホバの証人が輸血を拒否していた根拠の聖句はやはりここなんでしょうか?

970福音伝道:2024/05/04(土) 07:50:40 ID:BX/SFP8o
atheistさん、おはようございます。本日と明日の聖句はレビ記18章です。

口語訳17:7a
彼らが慕って姦淫をおこなったみだらな神に、再び犠牲をささげてはならない。
聖書協会共同訳
彼らが慕って淫らなことをしてきた山羊の魔神に、二度といけにえを献げてはならない。
新改訳2017
また、彼らが慕って淫行をしていた雄やぎの偶像に、もういけにえを献げなくするためである。
原文直訳
そして、彼らが淫行していたところの雄山羊たちに、彼らのいけにえたちを再び屠らない。

「みだらな神」「山羊の魔神」「やぎの偶像」の原語は「雄山羊たち」です。
つまり、元々は、家畜を飼うものたちは、その家畜を屠る時、荒野の「雄山羊たち」
という名の超自然的存在に犠牲を捧げていたそうなのですが、その儀式が
みだらであったそうです。しかも大地に殺した獣の血をどぼどぼと流していた
そうです。
これに対して、ヘブライ語聖書は野蛮として否定して、「血」は「いのち」そのもの
であるから、「血」を流して食料にしたり、ヤハウェに捧げる時は、規定の儀式を
聖所でしなさいと定めたようです。そして「血」は食べるものではなく、聖所に
注ぐものと決められたみたいですね。

エホバの証人のサイトでは、
(創世記 9:4。レビ記 17:10,14。申命記 12:23。使徒 15:28,29)を根拠聖句
として「血を避けるものとしている」と主張しています。
そこは、「血を食べるな」であって、「輸血するな」ではありませんが

971atheist:2024/05/05(日) 02:27:53 ID:???
>>970
原語はただの「雄山羊たち」なんですね
そうするとヘブライ語聖書でよく出てくる異教の神々、特にカナン地方の神々とは別っぽいですね
もともと家畜を飼う人たちが荒野の超自然的存在に対して犠牲を捧げていた対象を指していて
その犠牲のやり方が「みだら」であった、ということで、のちに言われるような異教への傾倒を指して
「姦淫」と言っていたわけではないようですね

また血を命とするユダヤ教から見れば、犠牲獣の血はそのまま大地に垂れ流していた状態だったので
それを否定して聖所に注ぐようになった、と

エホバの証人の根拠聖句はレビ記のここ以外にもあるんですね


さて18章は性交に関する禁忌を述べた章ですね

ともかく18節までは、これまた事細かに近親相姦の禁止について書いてあります
端的に「親族を犯してはならない」と一言言えば済みそうなのに
まるで近代の罪刑法定主義のように具体的にひとつひとつ書き出しています

そのあとは不倫や獣姦、同性愛の禁止などがさらっと書かれています

気になったのは15節です
ここはなんで「あなたの息子の嫁を犯してはならない」ではなく「あなたの嫁を犯してはならない」
なんでしょうか?これは昔の日本でよくあった、舅が息子の嫁のことを「うちの嫁は…」と表現するのと
同じなんでしょうか?

972福音伝道:2024/05/05(日) 21:52:42 ID:BX/SFP8o
>>971
atheistさん、こんばんは。本日はお休みです。明日の聖句はレビ記19章です。

一応、6節で原則を述べて、18節までは具体例が列挙されています。

18:6あなたがたは、だれも、その肉親の者に近づいて、これを犯してはならない。
わたしは主である。
原文直訳 誰でも彼の肉のすべての肉親に、裸を暴くために あなた方は近づかないように。
私は主である。

「犯す」の原文は「裸を暴く」です。和姦というよりレイプぽい感じですね。

嫁は「カラ」ですが、日本語の「嫁」と同じく「息子の妻」のことのようです。

ハーパーによると男性と特定の女性たちの「裸体を暴露すること」(性関係)は、
異常なものとされ結婚を禁止されたそうですが、ここでは
実の娘と姪との関係は禁止されてないそうです。
勿論、実の娘とは(出21:9)で禁止されそうですが、姪はOKだったそうです。

エジプトの王族は兄弟姉妹で結婚したり、ラムセス2世は父娘婚をしているので
エジプトとカナンでは。禁止結婚があったのかもですね

973atheist:2024/05/06(月) 02:13:11 ID:???
>>972
「裸を暴く」というのは一種の慣用表現なんでしょうね
ちょっと露骨な感じがしますが

やはりこの「嫁」は「息子の嫁」ということですか
日本語の嫁もそうですが、「他家から嫁いで来た女」というような意味でしょうから
自分の嫁はすでに嫁いでから数十年経って十分に自分の家に同化してしまっているため、
嫁と呼ぶ意義が希薄になってしまって、嫁と言えば息子の嫁と考えられるようになったのかもしれません
それに息子の嫁の場合は自分の嫁とは違い、他家の者という感覚も強いでしょうしね

姪はOKというのはどういう感覚なんでしょうね
甥-叔母関係だと、男は一世代上の尊属に当たる女性と性関係を結ぶことになるので忌避されたのに対し
姪-叔父関係だと、男は一世代下の卑属にあたる女性と性関係を結ぶことになり、これは男性優位社会では
許容範囲だったのかもしれませんね

974福音伝道:2024/05/06(月) 11:23:52 ID:BX/SFP8o
>>973
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記19章です。

叔父姪の結婚は、wikiによると「スペイン・ポルトガルの王族やドイツ諸侯の間では
叔姪婚がしばしば行われた。」そうですが、日本の民法では禁止されているとはいえ
1980年代の調査では、農業後継者の確保等の要請から親族間の結婚が少なからず
行われ、地域的特性から親族間の結婚が比較的多く行われるとともに、
おじと姪との間の内縁も散見されているそうです。

古代中世では、同レベルの相手ということで、結果的に「いとこ婚」が増え
結果的に「叔父姪」の結婚もあったようです。内縁関係に広げれば日本農村でも
見られるそうです。
これは、結婚相手を同族に求める結果、血が濃くなった結果なのかもですね
殊にユダヤ人の場合は、宗教的同一性を求めると同族結婚が増えていったので
それを律法で禁止しタブーにしていったのかもです。

でもなぜか姪は見逃されたのは、同信仰かつ同一ランクの相手が少なくなった
ためなのかもです。

975atheist:2024/05/07(火) 01:54:58 ID:???
>>974
やはり実際にも叔父姪間の結婚はそれなりに多くあったみたいですね

同信仰かつ同一ランクの相手が少なくなったのだとすれば
叔母甥間の結婚も叔父姪間の結婚と同じくらいの頻度で起こりそうですが
それが一般に少ないとすれば、やはり男が卑俗の女を娶ることはよしとされていても
男が尊属の女を娶るのは抵抗があったようにも思われます
ただ現実的には男が尊属の女を娶るというのは、女性の高齢婚ということになってしまうので
妊娠・出産的な観点から忌避されたと考えたほうがいいのかもしれません

こういうのも実態を調べてみると面白い発見があるかもしれませんね


さて19章は十戒の拡大バージョンのような感じですね
特定の分野の戒律というよりも様々な分野の戒律を集めたもののようです

9-10節は今で言う生活保護の制度に似て、古代においてこういった戒律があったことは
驚きですね

13節なども今で言う労働基準法のようなもので、ユダヤ教が社会的弱者の保護を
戒律化していたことが伺われます

感銘を受けたのは15節の「貧しい者を片寄ってかばってはならない」という箇所です
社会的弱者の保護を強く打ち出しているにも関わらず、法の正義については
弱者への同情から正義を曲げて裁いてしまうことを戒めています
このへんは当時のユダヤ人が極めて発達した正義の観念をもっていた証拠のように
思われます

18節はイエスの説法でも使われていた部分ですよね

19節はユダヤ教の「潔癖主義」の表れなんでしょうか
特に「家畜に異なった種をかけてはならない」というのは
品種改良を禁止することにもつながっていきそうです
もちろん同一種の間での優生個体同士の掛け合わせなどはあったのでしょうが

26節では、はっきりと占い・魔法の禁止が書かれていますね

27節は、あのユダヤ人保守派の独特の風貌の元になている戒律でしょうか

この章はユダヤ人の考え方や風習を規定している戒律が多く書かれていて
とても興味深い章でした

976福音伝道:2024/05/07(火) 05:37:12 ID:BX/SFP8o
>>975
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記20章です。

フランシスコ会訳註によると、
ユダヤ人の間では本章をレビ記の中心、モーセ五書の中心、律法の神髄と伝えられた
そうです。十戒のあらましのようなもので、「隣人をおのれのように愛せよ」という
最高の社会的道徳基準を示しているそうです。1-18節と19-37節に二分しています。

一方、ハーパーは、1-2節序説 3-8節神に対する聖性 9-36節 人間の事柄における聖性
に分けた上で、混乱し、折衷的であるが、十戒に並行した祭司的命令であるとします。
まず、神が聖なるものだから、人間も聖なるものであるようにしなければならないと
序説で論じられた上で、3-8節では神との関係における聖性。以下は個人的な人間関係の
中で生き抜かれる生活に関することが命じられているとみています。

具体的には、両親への敬意が神への務めの第一に置かれ、次に安息日、
第三に偶像礼拝禁止、第四で祭儀規定遵守となっていて、両親の敬意が中心に
なっている点が十戒の前半部と類似していると指摘しています。

人間については、まず社会階層の中心から最もかけ離れた「貧しい者と寄留者」の
ことから始められ、落穂拾いの保証が律法化されていると指摘しています。
次の11-12節は商売仲間との関係で「盗むな、騙すな、嘘をつくな、神の名で誓うな」
と命じられ、13-15節では簡単に雇用できる人々のとの関係において、虐げたり、
盗んだり、その日のうちに労賃を支払わなかったりしては駄目と規定され
目や耳の不自由な人の弱みに付け込んだりするなということで、そのようにするのは
神を畏れることであったそうです。
18節は有名な箇所ですね。主イエースースの中心でもあります。

ハーパーも19節から資料が新たになっていると指摘します。
19節は「神の創設した自然境界を重んじる」ことが説かれていると解説しています。
口語訳 あなたの家畜に異なった種をかけてはならない。
原文直訳 あなたの家畜を二種類、あなたは交尾させないように。
これは、豚と牛とを交尾させるな 種を超えてキメラを作るなという意味ですね

口語訳 あなたの畑に二種の種をまいてはならない
これはほぼ原文通りです。 大根と小松菜を蒔くなということですね
私は小規模多品種栽培の家庭菜園ですので150㎡の畑で年間30種以上栽培します
ので、5㎡の一つの畝に、ほうれん草・コカブ・小松菜の種を蒔いたりしていますが
アブラナ科同士のコカブと小松菜の種採りをするならば、交雑して雑種になります。
確かに品種改良ができませんね

27節は、フランシスコ会訳註によると、ベドウィンの弔いの習慣とし現在でも
用いられているそうで、ユダヤ人も、もみあげを切ったり剃ったりせず、
巻き毛にする習慣が残っているとあるので、元々は遊牧民の習慣だったのかもです

個人的に印象深いのは23-25節です。
果実に関して3年は未熟のままもいで、着果による負担を軽減させ、
むしろ木の成長を促進し、四年目の果実は神に捧げ、五年目から自分の収穫に
という箇所です。とても合理的で現代にも通ずる栽培法です

977atheist:2024/05/08(水) 01:15:49 ID:???
>>976
フランシスコ会訳註では「律法の神髄」、ハーパーでは「混乱し、折衷的」と
評価はずいぶん分かれてますね
わたし自身はどちらかと言うとフランシスコ会訳註の印象に近いです

たしかに19節から唐突に話題が転換してますね

「あなたの畑に二種の種をまいてはならない」の部分は書いてあることは極めて単純ですが
異なった種を近接して蒔くと、自然に交雑してしまうこともこともあるんでしょうか?

ユダヤ人のあの独特の風貌は元はベドウィンの弔いの習慣なんですね
ユダヤ人固有の習慣だと思ってました

23-25節も単純に儀式的なものと思ってましたが
栽培法上も合理的なんですね


さて20章はやはり前章の続きといった感じで、拡大版十戒といった趣です

最初の方はモレクに対する子どもの生贄や占いの禁止などですが
すぐにまた性行為に関する禁止事項に入っていって、これがこの章の大部分を占めます
前章でもかなり詳しく述べられているので、なんか重複する感じがするのですが
23節でこれらの「異常な性行為」はカナン人の習慣であると書いてあるところから
この章は基本的に、これから入っていく土地の異教の汚れた風習を断って
聖なる民としての聖性を堅持せよ、という神の命とまとめることができるように思います
やはりユダヤ教の潔癖主義、純血主義といったものを表しているように感じました

978福音伝道:2024/05/08(水) 07:06:31 ID:BX/SFP8o
>>977
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記21章です。

ぐぐりますと、小麦自体、いくつかの野生コムギが自然に自然交雑したそうです。
具体的にはヒトツブコムギとクサビコムギととが交雑してフタツブコムギとなり、
これが現代のマカロニ小麦の祖先になったそうです。デュラム小麦ですね。
フタツブコムギは更にタルホコムギと交雑して普通小麦になり、これがバスタの小麦の
祖先になったそうです。8000年前のことだそうです。
小麦で4m以内、ライムギで8m以内で交雑するようです。
自然交雑したものの中から有利な性質を持つものを代々選抜して育種して、今の栽培種と
なったわけですが、雑種強勢がありつつも、むしろ交雑すると100のバリエーションが
生まれ、人に有利なのは1つ。99は不利みたいな感じとなります。
例えば交雑しやすいアブラナ科。大根の種を採取しようと素人がしても自然交雑して
採取した種は大根にならないです。
白菜などは交雑しやすいので明治期に育種に失敗し続け、無人島で育種してやっと
成功したほどです。これが松島湾の浦戸諸島の馬放島で育種された「松島白菜」です。
家庭菜園で問題になるのがスイートコーンです。交雑しやすく100m離せ、
授粉期間を2週間ずらせと言われています。交雑すると、キセニア現象により、
甘くならなかったり、白色種がバイカラーになったりするそうです。

フランシスコ会訳は20章を刑罰と題しています。
ハーバーは様々な違反行為の罰則です。

さて、ハーパーはモレクについて恐るべきことを語ります。
原文「ハ・モレク」は「ハ・メレク」(冠詞+王)の訛ったものである
イザヤ6:5に「ハ・メレク・ヤハウェ・ツェバオート」(王なる万軍のヤハウェ)と
あるように、元々、王なるヤハウェがイスラエルの国家の神で、神の称号である
「ハ・モレク」の名の元、子供を捧げていたのであるが、この20:2-5で国家祭儀
であった一つの要素を祭司資料が禁止したのであると。

元々ヘブライの起源のイブリは、アーバル(捧げる)という動詞から派生した語である。
イスラエルでは初物は、人間であれ動物であれすべて神殿にアーバルされたのである。
まあ実際は買い戻されたのですがBC8Cのアハズ王の時代は、神へ子供を捧げる儀式が
実際に行われ、王の献げ物として焼かれたそうです。
フェニキア文化の影響と解釈されていたが、禁止されたのはヒゼキヤ王の時代だ
そうです。

エゼキエル20:26そして、彼らのういごに火の中を通らせるその供え物によって、
彼らを汚し、彼らを恐れさせた。わたしがこれを行ったのは、
わたしが主であることを、彼らに知らせるためである。

ここでは確かにヤハウェが命じています。

エレミヤでは逆にヤハウェは否定します
32:35またベンヒンノムの谷にバアルの高き所を築いて、むすこ娘をモレクにささげた。
わたしは彼らにこのようなことを命じたことはなく、また彼らがこの憎むべきことを
行って、ユダに罪を犯させようとは考えもしなかった。

979atheist:2024/05/09(木) 01:32:25 ID:???
>>978
現在有名な小麦も元は自然交雑のものがけっこうあったんですね
数メートルの近さで交雑してしまうとなると、やはりきちんと管理しない限り
どんどん雑種化してしまいますね

大根や白菜といった、われわれが日常口にする野菜はもっと交雑しやすいとしたら
さらに管理が大変ですね
白菜の育種が無人島で行われたというのは初めて聞きました
すごいですね、それほど育種が難しいなんて

モレクについてのハーパーの解説はこれまた驚きです
ただ冷静に考えると、ヘブライ語聖書では、初物はヤハウェに捧げるということが
よく語られていますから、人間の「初物」つまりは初子を捧げるというのは
ヤハウェ信仰において自然につながってきます
イスラエルが独立した民族になる過程ではカナンの宗教に当然極めて強い影響を受けていたはず、
というよりもカナンの宗教からユダヤ教は出てきたものでしょうから、古代における犠牲(生贄)を
引き継いでいたとしても、殊更おかしなことではなさそうです
途中でカナンの周辺他民族との差別化として、こういった儀式・風習も禁止されていったのかも
しれませんね


さて21章は祭司についての規則になってますね

1節の「死人のために、身を汚す者があってはならない」というのは
具体的には死者に触れたり近づいたりすることでしょうか?

祭司は聖なる者でなければならないので、ここに書かれている諸規定は
理解はできるのですが、17節以下の「身に傷のある者」が聖所に近づいてはならないというのは
やはりそういった人たちを汚れた者と見ることになりますから根深い差別を助長してしまいますね

この点でも、こういった人たちに触れ癒していったイエスは革命的であったと言えると思います

980福音伝道:2024/05/09(木) 05:43:14 ID:BX/SFP8o
>>979
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記22章です。

考えてみればアブラハムも初子のイサクを神に捧げようとしました。
実際に初子を捧げる民族だったのかもです。それが祭司により廃止され
お金を祭司に払って買い戻すと変更されたように思います。

21:1b
口語訳 民のうちの死人のために、身を汚す者があってはならない。
聖書協会共同訳 一族の死者のことで汚れてはならない。
新改訳2017 親族のうちの死人によって自分の身を汚してはならない。
原文直訳 彼の民によって 魂のために 彼は身を汚さない様に

具体的に死穢という「穢れ」に近づくな。直系親族のみ除くということですが、
原文は「親族」ではなく「彼の民」ですので、口語訳が直訳的です。
一般に「彼の民」を「親族」と解釈する人たちもいます。新改訳などですね。
また、「魂」(ネフェシュ)がここでは「死人、死者」と意訳されます。
肉体から離れた魂というイメージなのかもです。

17節以下の「身に傷のある者」
原文はムム(欠陥)です。
具体的には以下の
目しい、足なえ、鼻のかけた者、手足の不つりあいの者、 足の折れた者、
手の折れた者、 せむし、こびと、目にきずのある者、かいせんの者、
かさぶたのある者、こうがんのつぶれた者
です。

これらの諸欠陥があるものは、祭司としては聖性がないとして儀式に加われません
でしたが、救済措置もあり、
21:22彼は神の食物の聖なる物も、最も聖なる物も食べることができる。
とされています。

古代社会は差別をしますが、同時にそれなりの救済措置もセットされていたのかも
です。

981atheist:2024/05/10(金) 00:50:20 ID:???
>>980
そういえば日本でも一般的には死を穢れと考えますから
なにか具体的な行為ということではなくて、死者に触れたり
長く近くにいたりといった漠然とした死者への接近ということなのかもしれませんね

「身に傷のある者」を忌避するのもまた死に対する忌避と同様、比較的一般的なことなのでしょう
ましてや祭司職ともなればそういった穢れがあってはならないとされるのはむしろ自然なのだと思います

そういったことが差別であるという感覚は近代になってからの人権思想の発達によって
もたらされたものなのでしょうね


さて22章は聖なる食物についての記述になっているますね

これもまた徹底して穢れを避けるように命じられています

ちょっとよく分からないのが11節で際しが金をもって人を買ったときには、その人は聖なる物を
食べることができるとされていることです
同居人や雇人はだめなのに、なぜ買われた人はいいんでしょうか?

982福音伝道:2024/05/10(金) 06:19:11 ID:BX/SFP8o
>>981
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記23章です。

口語訳レビ22:11a
しかし、祭司が金をもって人を買った時は、その者はこれを食べることができる。
聖書協会共同訳レビ22:11a
しかし祭司が財産として銀で買い取った者であれば、その者は食べることができる。
新改訳2017レビ22:11a
しかし、祭司に金で買われた者はこれを食べることが許される。
原文直訳
そして祭司が彼の銀の財産で魂を買う時、彼はそのうちで食べる

原文は「銀で買われたネフェシュ」です。直訳すれば「人」ではなく「魂」。
先日は諸訳が「死体」と訳していた「ネフェシュ」です。
この金で買われたネフェシュとは、新改訳が意訳している通り「奴隷」のこと
ですが、「奴隷」と「祭司の家族」は「祭司自身に属する財産のようなもの」
なので一般特別されて「祭司の聖性の下に属する」とされたので、食べてOKだった
のです。
しかし「祭司の子」でも「女性」が結婚すれば、その所属は夫のものとなりますので
彼女は「聖なるもの」を食べては駄目となります。
ですが離縁されて、父の家、つまり祭司の家に戻れば彼女は
「聖なるもの」を食べれるようになりました。

一方、雇用者や寄留者は、一時的に祭司の家に身を寄せていると言っても
独立した人格主体なので、祭司の支配下にないので、祭司の聖性の下に属さない
とされ、聖なるものをたべてはいけなかったようです。

ハーパーは、買い取られたり、その家で生まれた終身奴隷も含めた家族全体が
安寧の献げ物を食べることができたと解説しています。
「買い取られたり、その家で生まれた終身奴隷」は「家族扱い」ということのようです。

22章でハーパーが注目しているのが8節。
死んだり殺されたりした動物の肉を食べないという規定は元々、祭司限定だった
と指摘。その後、一般に拡大されたことがわかると解説しています。

983atheist:2024/05/11(土) 01:04:48 ID:???
>>982
なるほど祭司(父)の所有物と判断される場合はその祭司の聖性の下に属することになるので
OKということですね
これなら祭司からは独立した人格主体である雇用者や寄留者がダメな理由も説明できますね

8節の記述からだけでは祭司限定だったのかどうか判断はできませんが
祭司の規定が一般に拡大されたとすれば、聖性という点から容易に説明がつくので
合理的ではあるように思います


さて23章は「聖会とすべき主の定めの祭」についての章となっていますが
そもそも「聖会」とはなんでしょうか?そのまま読めば「聖なる会合」くらいの意味合いに取れます

ともかく聖会では労働をしてはならないということが強調されてますね
安息日であれば創世記の記述にその理由を求めることができますが
たとえば贖罪の日の聖会においても労働が禁止されています
これは聖俗を峻別するユダヤ教の性格から来ているようにも思えます

また27節などで「身を悩まし」というフレーズが出てきますが
これは具体的にはどういうことを意味するのでしょうか?
「すべてその日に身を悩まさない者は、民のうちから断たれるであろう。」(29節)と
言われているくらいですから、「身を悩ます」ことは相当重要なことであったと思われます

984福音伝道:2024/05/11(土) 06:12:00 ID:BX/SFP8o
>>983
atheistさん、おはようございます。本日と明日の聖句はレビ24章です。

「聖会」・・・原文「ミクラエー コデシュ」(会 聖の)
具体的には俗な生活から切り離されて、神聖なる神のためのお祭りが年に7回。
春四回 秋三回あったということですね。
ペサハ(過越)  マツォト(除酵祭) オメル・レシート(初穂)シャヴォート(七週の祭り)
ローシュ・ハシャナー(角笛吹きの日) ヨム・キブル(贖罪の日) スッコート(仮庵祭り)

27節などで「身を悩まし」…原文直訳 「そしてあなた達は、あなた達の魂を苦しめる」
これはヨム・キブルの規定ですが、どう苦しめるかというと、断食です。
1年に1回 俺は罪深いと罪を悔い改め、反省し、おとなしくしている日ですね
反省しているのだから、改悛姿勢を「断食」「入浴しない」「香水をつけない」などで
示すことが「自分を苦しめる」ことだそうです。

断食して改悛姿勢を示さないような不届き者は、民から絶たれる
ということですね 怖すぎですが、まあ断食ですし、たいしたことはないです

985atheist:2024/05/12(日) 01:47:32 ID:???
>>984
聖会というのは、要は年七回のお祭りのことですね
過越、除酵祭、七週の祭り、贖罪の日、仮庵の祭りはよく出てくるので
ある程度の認識はありますが、初穂と角笛吹きの日はあまり馴染みがありません

「身を悩ます」というのは、断食や入浴・香水を断つことを通じで改悛姿勢を示すことということですね
これは言われてみればなるほどという感じです


さて24章は祭儀の灯火と菓子についてですが、10節から唐突にヤハウェの名を怪我した者の
話になっています

さらにその話の途中でこれまた17節から唐突に同害復讐の掟が挿入されています

非常に構成の悪い章ですが、メインのテーマは主の名を汚すな、ということのようです

この章の構成はのちに編集が加えられたとかそういった事情によるのでしょうか?

986福音伝道:2024/05/12(日) 06:21:40 ID:BX/SFP8o
>>985
atheistさん、おはようございます。本日はお休みで、明日の月曜日の聖句はレビ25章です。

ハーパーによると、本章全体が、「この章の内容が、なぜこのように配列されているか
についての理論的根拠は明らかではない」としたうえで、
17-22節は、「本来はその状況に関連していないにもかかわらず、この資料の
最終編集で一つにまとめられたものである」と断定していますね。

口語訳-原文直訳対比
オリブを砕いて採った純粋の油…オリーブの純粋なすり潰した油
純金の燭台…純粋な燭台 フランシスコ会訳の解説…原文に金はない。清い燭台と訳せる
十二個の菓子…十二の輪型のパン 十二支族をイメージ 原文ハロットは、菓子というよりパン
ひと重ね六個ずつ、ふた重ねにして…一列に六個、二列にして 重さねてません、並べてます。

24:10以下、ハーパーによると、外人に対する規定とのこと。
つまりヤハウェの名を冒とくすれば、その冒涜の声を聴いた者は
冒涜した者の頭の上に手を置いて、罪を冒とくした者に返したうえで
石打で殺すという。。。なんとも古代的な野蛮さです。

この箇所とあと三か所、いづれも民数記に
何か問題が起こってモシェが判断を求められ、モシェ自身が決断できずに
ヤハウェにお伺いを立て、ヤハウェが命じたことで律法化されているそうです

987atheist:2024/05/13(月) 00:43:28 ID:???
>>986
やはり編集段階で意味不明の挿入があったようですね

石打でリンチ処刑というのは新約のヨハネや使徒行伝にも出てきますが
野蛮極まりないですね
今でも原理主義的なイスラム教徒がこれを行っていますが
神が絶対化されることの危険性を示す一例だと思います

民数記にも出てきて、モーセの決断ではなくヤハウェの命令としているということは
これも神の権威でもって律法を貫徹させようとしているということなのでしょうね

988福音伝道:2024/05/13(月) 04:59:30 ID:BX/SFP8o
>>987
atheistさん、おはようございます。本日と明日の聖句はレビ25章です。

犠牲獣を身代わりにして捧げる時も、犠牲獣の頭に手を置くのですが
これも自分の罪を犠牲獣に移す儀式です。
この頭に手を置く行為で思い出すのは按手です。
聖職志願者が按手されて聖職になったり、
聖霊派で聖霊のバプテスマが按手でなされたりしますが
罪を移すのも、聖別する時も按手するわけですね

989atheist:2024/05/14(火) 01:09:10 ID:???
>>988
手を当てる(置く)ことには、なにか特別な力があるとみなされていたのでしょうね
病気を癒したりするときも手を当てて癒やすこと(まさに「手当て」ですね)が多いし
罪を移したり聖別したりするのも手を置くことで行われるわけですね


さて25章は34節あたりまでが土地と農作業についての、そのあとは
金貸しや身売り(奴隷)についての掟が、これまた細かく書かれています

前半の10節くらいまでの内容は前の章でも出てきていたと思います
土地の滋養を回復する目的もあるのでしょうが、七年目やヨベルの年には
種まきも刈り取りも禁止され、過去年の産物を消費するよう命じられています
飢饉や不作は気候変動などで人間側の計画とは無関係にやってきたりしますから
本当に都合よく6年目に3年分の産物が実る(21節)などとはいかなかったでしょう
このあたりは現実的にはどのようにしていたのか気になります

奴隷についてはイスラエルの民の奴隷化は原則禁止されてますね
仮に身売りすることになっても必ず買い戻すように規定されています
それに対し異邦人については身売り・奴隷化を基本的に肯定しています

近代のキリスト教国は奴隷制を肯定しましたが
これはイスラエルの民をキリスト教徒に、異邦人を黒人等に拡大解釈して
是認したのかもしれないと思いました

990福音伝道:2024/05/14(火) 06:06:54 ID:BX/SFP8o
>>989
atheistさん、おはようございます。本日と明日の聖句はレビ26章です

ハーパーによると、土地の安息は、人間の搾取からの解放、通常の農作業は停止
され、自然収穫物は地主のものとはならず、奴隷、外国人、寄留者が自由に
食べてよかったそうです

ヨベルは広大な土地の集積を防ぐために、50年目には、集積したものを解放
しなければならなかったそうです。
つまり農業が始まると富の蓄積が始まり、貧しい者は豊かな者に、土地や子供や
自分自身を売ったのですが、50年ごとのヨベル年には無条件で返還されるので
実際はヨベルの年まで賃貸されるだけで、富の集積を防止したそうです

ただ、イスラエル人にはヨベルの年の適用があったが、外国人にはなく
買われた外国人は一生奴隷のまま。所有物なので、息子にも所有権が遺産された
そうです。神学的根拠は、イスラエル人は神の子なので、奴隷のままではダメ
究極的には神のものだからダメだが、外国人はそうではないということだそうです

これは自分たち以外の黒人を奴隷にしたのに結びついたかもですね
奴隷貿易が一番利益を出したそうなので。

6年目に3年分の産物が実る ということは私の畑にはないですね
そもそも3年も保管が効くとなると小麦などの穀物だと思いますが
聞いたことがないですね

991atheist:2024/05/15(水) 02:16:17 ID:???
>>990
土地の安息は社会的弱者への対策や富の集積の防止にもなっていたんですね
ヨベルの年についても同様で、このへんは宗教的な掟が社会福祉の役割も兼ねている例になりますね

奴隷制が当たり前だった古代のことですから、一概にユダヤ教を非難することはできませんが
近代において古代の宗教観・社会観を奴隷制や異教蔑視へと転用してきた部分は
反省を迫られそうです

やはりさすがに3年分というのはなさそうですね
おそらく実際はなんらかの例外や解釈変更によって、農作業は行われていたのでしょうね


さて26章はある意味、ヘブライ語聖書の核心と言ってもいいような記述になっています

民がヤハウェとの契約を遵守する限り、ヤハウェはイスラエルに繁栄と安息を与え
逆に民がヤハウェとの契約を破れば、イスラエルから繁栄と安息を奪い去る、という
契約宗教の骨子が描かれています

しかし重要なのは40節以下に書かれているように、自らの罪を告白し悔い改めるならば
ヤハウェは先祖との契約を思い起こしイスラエルを救うというところだと思います

全体的に少なくともこの章はバビロン捕囚期以降に書かれたような内容になっているような気がします
亡国や敵国への捕囚、そこからの救いが暗示されているからです

実際はいつ頃の成立だと見積もられているのでしょうか?

992福音伝道:2024/05/15(水) 06:12:14 ID:BX/SFP8o
>>991
atheistさん、おはようございます。本日と明日の聖句はレビ27章です。
次スレ 聖書通読2
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/news/3665/1715375620/l50

どの時代の編集かという指摘はハーパー、フ会ともにありませんが
フランシスコ会訳註によると、34-39節は捕囚時代の哀れな状態が描かれている。
ハーパーは、祝福と呪いに関して、古代社会において集団間の関係や基本様式を
確立している条約集や法律集の殆どが、服従に対する報酬としての祝福、
不服従の結果としての呪いの宣言で終わっていた(出エジプト、申命記など)
ここは25-26章の結論部分であるとのことです。
で、祝福10 呪い24を整理されています。呪いが祝福の2.4倍ですね

悔い改めをハーパーは分析して
1.自分たちの罪と先祖たちの罪に心を痛める
2.神の意志に歯向かって歩むことによって神に対して犯したもろもろの罪を告白する
3.神が自分たちに立ち向かい敵国に追放したことを知る
4.彼らがこれらの事を行い、その頑なな心を砕き
5.追放の中で苦しむことを通して、その罪を償い、その罪の埋め合わせをする

すると神は、悔い改めを受け入れ云々と。
確実に捕囚後の成立ですね

993atheist:2024/05/16(木) 02:37:25 ID:???
>>992
次スレ、ありがとうございます

たしかに呪いのほうが祝福より圧倒的に多いですねw

悔い改めの基本的パターンは、個人単位に焦点が移っても
キリスト教、特にカトリックにそのまま受け継がれているように思います
とするとやはり捕囚の経験がユダヤキリスト教の信仰の型を決定づけたと言い得るのかもしれませんね


さてレビ記もいよいよ最終章ですね

ここは「誓願」について書かれていますが、誓願の内容ではなく
その誓願の「対価」について主に書かれているようです

対価は年齢・性別・貧富によって異なっていますが
「主に身を捧げる」誓願なので、要は祭司的な役割を全うすることの代替ということで
それが年齢・性別・貧富の「値積り」の差になっているのでしょう
対価は金銭のほかにも家畜や家や畑などが書かれています

気になったのは29節です
ここでは奉納物として人が捧げられる例が取り上げられていますが
彼は「必ず殺さなければならない」とされています

これはいったいどういうことでしょうか?
奉納物ですから、犯罪者、罪人ということとは別で
まさに生贄のようなものなのでしょうか?

994福音伝道:2024/05/16(木) 06:09:05 ID:BX/SFP8o
>>993
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は民数記1章です。

フランシスコ会訳註によると本章は後代の追加だそうで、ハーパーは数合わせと
しています。
この時代、例えば病気の治癒を誓願する時、病気が治ったら、残りの人生を
神にささげる(聖所で奉仕する)という誓願をしたそうですが、実際は相当額を
レビ人に支払ったそうで、彼らの主たる収入源だったようです。

29節。
口語訳 またすべて人のうちから奉納物としてささげられた人は、
あがなってはならない。彼は必ず殺されなければならない。
聖書協会共同訳 永久に奉納されたものが人間であっても買い戻すことはできない。
その人は死ななければならない。
新改訳2017 人であって、聖絶された者はみな、贖われることがない。
その人は必ず殺されなければならない
原文直訳 捧げられたところのすべてのヘレムは、ハ・アダムからであっても
贖われない。それは必ず殺される。

問題は「ヘレム」。単に「奉納されたもの」という意味なのですが、神学的に
「聖なるものとして、俗から聖へと分離された」というニュアンスを特別に
重視すると新改訳のように「聖絶」という意味となります。

フランシスコ会訳は言います。「ヘレム」(永久に主のものとして奉納したもの)は、
「分離」「厳禁」を意味し、最も聖なるものなので、誓願より聖なるものなので
買い戻せない。永久に主のものとして奉納したものは祭司または聖所のものとなる。
人の場合は殺される。
具体的には、自分の支配下にある人が、
重大な罪を犯したり、重大な罪に関係した場合は、
主人はその人を罪の贖いのために永久に神に捧げた。つまり殺した。
後代には、人の場合は単に「破門」を意味したとのこと。

ハーパーは戦争捕虜。としています。

さて民数記。これは70人訳「アリスモイ」(数)に由来します。
ヘブライ語では「荒れ野で」(ベミドバル)です。
設定では出エジプトの二年目と38年後の二度、軍事目的の人口調査。
つまり民を数えたことに由来します。

成立は、申命記の影響を受けた上で、バビロン捕囚後に祭司記者が編集。
一部には第二神殿時代の祭儀も反映されているそうです。
物語と律法からなり、成立は物語の方が古いそうです。
「イスラエルは神の民になろうとしている人々だが、まだ罪人である。
にもかかわらず神の慈悲を受けている」が神学的主題とのことです

995atheist:2024/05/17(金) 02:09:35 ID:???
>>994
青年男子ならまだしも、子どもや女性は人生を神に捧げると言っても
祭司になれるわけじゃないですから、実際は金銭ないしそれに準ずるもので
誓願に対する対価を払うことになりますね

29節の「奉納物」はフランシスコ会訳註によれば
聖なるものであり、それが人であっても犠牲獣と同様殺されるということですが
犠牲獣は傷のないもの(つまりは罪があってはならないもの)なのに
重大な罪を犯した者が、この「奉納物」になるというのは矛盾しているような気がします

実際のところはハーパーの戦争捕虜というのがしっくりくるような気がします
実際にこの時代(前10世紀から6世紀くらいまで)では聖書でも敵国人の聖絶が語られますし
ユダヤ人だけでなく周囲の民族も同様のことをしていたようですから
まあ古代の風習として理解できそうです


さて今日からは民数記ですね

成立年代は意外にもけっこう新しいんですね
ジェノサイドと取れるような記述があることから
わたしはもっと古い記事だと思ってました

まずは1章です

ここはまず戦士となりうる二十歳以上の男性(ただしレビ族を除く)の人数が
各部族ごとに数えられ、最終的に総数は約60万と結論されています

まあ壮大なでっち上げと言っていい数字ですが
おそらくはこの数字はイスラエルの王国時代の戦士数を荒野放浪時代に反映させたものなんじゃないかと
思います(それでも全人口が数百万になってしまいますから誇張ではないかと思います)

カナンを含むメソポタミアの地は他民族が入り乱れて覇を争う地でしたから
記述が軍事よりになるのも当然で、それにつれてヤハウェも軍神としての性格が強くなっていったのでしょうね

996福音伝道:2024/05/17(金) 05:53:45 ID:BX/SFP8o
>>995
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は民数記2章です。

ハーパーは詳述していますが、まとめますと多様な内容があつて
古い部分はBC10C、編集されたのは捕囚期(BC587-538)
古いJとE資料が多いのは11-25章に集中。祭司資料は1-10と26-36章に多いとのこと

総数は約60万
ハーパーの解釈
ルベンの部族のうちで、数えられたものは四万六千五百人
この「千」は、千人という意味ではなく「宿営集団」のこと。
500人が46の宿営集団に分かれたという意味に解釈。
すると総計5,550人となるが、
1:46その数えられた者は合わせて六十万三千五百五十人であった。
603宿営集団550人とは計算が合いません

いづれによ、聖書学者は60万人という数字に疑問を持っています

997atheist:2024/05/18(土) 02:24:52 ID:???
>>996
だいたい前10世紀から前6世紀までの間に成立したということですね
資料的にはD以外の資料から成り立つという感じでしょうか

さすがに60万は説明がつかないので
ここは聖書学者と言えど、疑問を付けているわけですね


さて2章は部族ごとの宿営配置についてですね

というかそれですべてという感じで、他には何も言うことがないくらいですw

物語的には今後の異民族との抗争に備えて軍隊を編成している場面でしょうか
ヤハウェに従ったイスラエルの民が強大であることを誇示しようとしているように見えます

998福音伝道:2024/05/18(土) 07:19:57 ID:BX/SFP8o
>>998
atheistさん、おはようございます。本日と明日の聖句は民数記3章です。

今からカナン侵攻の聖戦が開始される ヤハウェが陣を決め、それに従う様子が
描かれています。
侵攻の最前列を率いるのはユダ連隊。外陣東側に宿営します
第二軍は、南軍のルベン連隊
中央の第三軍は、幕屋とレビ人が中央軍となります。
第四軍は、西軍のエフライム連隊。
最後列の殿軍のダン連隊。宿営の時は前面の北軍です。

つまり時計回り東軍、南軍、中央軍、西軍、北軍と行進する聖戦ですね。
なかなか実践的で、最前列のユダ連隊が最強軍ですね
第二番手のエフライム軍は、中央軍の後ろに控えています。

第一回目の人口調査された彼の世代は、実はカナンに突撃に躊躇して
偵察隊を送りだしたりして慎重なのが神の逆鱗に触れて滅び
第二回目の人口調査、新しい世代となるのですが、ここではまだ
神に従う素直さが強調されています

999atheist:2024/05/19(日) 01:17:31 ID:???
>>998
やはり軍隊編成の場面だったんですね
なんとなく読み流しましたが、ちゃんとその編成のあり方も合理的に考えられていたんですね
現時点ではまだ最初ということもあって、士気も充実して神に素直に従う姿勢が強調されているということ
ですが、偵察隊を送り出すときには相手が大男ばかりで萎縮してしまったんでしたっけ
レビ記と違って民数記は物語が進行するので、少しは読みやすくなるんじゃないかと思います


さて3章は祭司職の人口調査とその配置についてですね

面白いのは12節などで語られているロジックです
神のものになるのはイスラエルの人々の初子である
→その初子の代替としてレビ人が神のものとなる
→神のものとして聖別されたレビ人が祭司職を担う
→レビ人の人数では賄えなかったイスラエルの人々の初子の分は一人ずつ代替の金銭を徴収する
といった流れです

この箇所はまったく記憶になく、単純にレビ人はモーセ・アロンの部族だから祭司職として
聖別されたのだと思っていました
背景には初子は神のものというロジックがあったわけですね

1000福音伝道:2024/05/19(日) 07:53:14 ID:BX/SFP8o
>>999
atheistさん、おはようございます。本日はお休みで明日の月曜の聖句は民数記4章です。

一つの疑問は、レビはヤコブの初子ではなく、三男です。
なぜ初子にこだわるヤハウェがレビを初子の代わりにされたのか。
また、モシェの名前がありますが、アロンの子孫だけが数えられ、
モシェの子孫は数に挙げられてません

また、レビ人の合計が22000人で、イスラエルの初子の合計が22273人だったので
273人×5シュケル=1,365シェケル支払わせたとありますが、レビ人22,000人は
西、南、北の合計であって、東に位置したモシェとアロンの家族が含まれてません。
少なくとも、アロンと、その子エルアザル、イタマル。モシェと子のゲルショムとエリエゼル
の六人はいたはずです。
私には、初子理論というこじつけで、イスラエル人からカネを徴収したようにしか
見えないです。
実際の業務は、次章で、30歳から50歳のレビ人が問題にされています。
ちなみに8:24では25歳から50歳。エズラなどでは20歳から50歳となっており
祭司職の勤労年齢の下限は時代によって異なります。




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