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聖書通読2

1福音伝道:2024/05/11(土) 06:13:40 ID:BX/SFP8o
聖書通読のスレッドです。

前スレッド
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/news/3665/1678740003/

117atheist:2024/07/15(月) 03:41:05 ID:???
>>116
日本でも似たような風習があったんですね
カナンでももみあげや髭を剃ったり切ったりして死者を悼む風習があったので
そのカナンの風習と一線を画すための禁止されたらしいってことですね

「社会福祉」的な規定がレビ人のみであれば
単に祭司階級の自己保身とか自己防衛になってしまいますが
社会的弱者にも適用されているので、このへんはユダヤ教の先進的な部分だったのかも知れませんね

118福音伝道:2024/07/15(月) 06:28:49 ID:LsQB0PWE
>>117
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は申命記15章です。

卑弥呼の時代、日本人男性は刺青をしていたようです。
「男子は大小と無く、皆黥面文身す」と魏志倭人伝にあります。
中国では、罪人に刺青をしていたそうなので、野蛮と映ったことでしょう。

古代各地で 刺青や剃髪の習慣があったようです。
最近ではファッションでのタトゥーがあり、インバウンドを狙う日本では
「刺青お断り」を外すのがトレンドのようです。

119atheist:2024/07/16(火) 00:28:53 ID:???
>>118
考えてみればアフリカのいわゆる未開社会のひとたちも体に装飾を施してますし
10万年くらい前の洞窟から身体糊塗用の色素と見られるものもみつかったりしてるので
刺青というのはむしろ人類が古くから行なってきたお身体装飾の主流と言えるのかも知れませんね
アメリカ人などはごく普通の人がタトゥー入れてますから、タトゥー=ヤクザもんというのは
近代日本の特殊文化なのかも知れません

さて15章は主に借金の赦し、奴隷身分の解放について記されています

7年毎に借金の返済がちゃらになるなら、大金を貸す人はいなくなるような気がしますが
実際にこの規定通りに行われていたのでしょうか?
仮に規定通りではないとしても、富の偏在や身分の固定を防ぐ規定として
これまたユダヤ教の優れたところなのかもしれないと思いました

ちょっと気になったのは6節です
もしかしたらこの箇所がユダヤ人=金貸しというイメージに寄与したのかな、と

逆にユダヤ人が金融業を営むようになっていったのも
単に歴史的経緯からだけではなく、こういった聖句にも淵源があるのかなと感じました

17節の行為は人を家に固定することの象徴的行為なんでしょうが
痛そうですね

120福音伝道:2024/07/16(火) 06:10:07 ID:LsQB0PWE
>>119
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は申命記16章です。

フランシスコ会訳注によると、債務7年目免除は本文通りですと、免除の年があり
その年になると国中で一斉免除となったのですが、多くの学者は個別に借金して
7年目が免除の年になった解釈されているそうです。
対策としては6年で返済するように約束するとかだったのかもですね。

雇用人は3年契約だったそうで、奴隷は6年契約で7年目には自由になる
という制度であったそうですが、一説には奴隷の働きの価値は雇用人の半分
という意味かもとフランシスコ会訳注は推測しています。

ハーパーによると、元々は農作地を7年ごとに休耕にするという習慣があり
申命記史家は、イスラエルの社会的不公平を解決する革命的に解決する手段として
採用されたそうです。
背景として、小農民が裕福な債務者に対して、恒常的に土地を失うということがあり
それを是正するための律法だとのこと。

そして、申命記は、農地を借金のために失った小農民に対する規定を、農地のみ
ならず、社会的身分、借金の為に奴隷として身売りさせられてしまった者にまで
拡大し7年目の奴隷解放を命じているそうです。

古代貨幣が流通するに伴い貧富の差が生まれ、それを改革する立場のようですね

121atheist:2024/07/17(水) 02:24:02 ID:???
>>120
一応は規定通りってことですね
土地・財産・身分の格差、不平等が蓄積して
ヤハウェ共同体の一体性が損なわれるのを回避するための社会的施策が
宗教的な律法という形で法制化されたということなのでしょうね


さて16章は過越の祭、七週の祭り(後のペンテコステ?)、それに仮庵の祭について
簡潔に記されています

これまでもレビ記(でしたっけ?)で記されてきた主要な祭をここで再整理してる感じですね

特徴的なのは、「むすこ、娘、しもべ、はしためおよび町の内におるレビびと、
ならびにあなたがたのうちにおる寄留の他国人と孤児と寡婦と共に」喜び楽しまなければならない
と書かれているところです

ここではユダの土地にいる人すべてが身分・民族・社会的境遇に関係なく
祝うことが謳われています
セットで書かれている「あなたはかつてエジプトで奴隷であったことを覚え」、というのが
その背景にあり、これが共同体の底辺や寄留の他国人への配慮につながっているような気がします

122福音伝道:2024/07/17(水) 05:52:24 ID:LsQB0PWE
>>121
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は申命記17章です。

過越の祭、七週の祭り(後のペンテコステ?)、それに仮庵の祭は、
出エジプト、レビ、民数記にも出てきますね。
ただ出エジプトでは犠牲獣は1歳の羊か山羊ですが、申命記では、
仔羊、仔山羊のほか、牛でもOKです。また中央の聖所限定に変更されています。

また過越し祭りと酵母をいれないパンは別の儀式でしたが、申命記では
一つの祭りに合体しています。

7節 それを焼いて食べ
口語訳は、出12:9に合わせて、原文の「煮る」を「焼く」に改竄していますね
これは霊的な犯罪的行為ですね
新共同訳、聖書協会共同訳は、正しく「煮て」
新改訳第三版、2017は、ごまかし訳の「調理して」

「七週の祭」は、出34:22と一致。出23:16では「取り入れの祭り」
民28:26だと「初穂の祭り」
ギリシア語ではペンテコステ(50日目の日)
ユダヤ教の伝統だと、シナイ山で十戒を受けた記念日だそうです

三大祭りで一番にぎわったのが最後の秋祭りの仮庵の祭だそうです
身分・民族・社会的境遇に関係なく盛大だったのでしょう

123atheist:2024/07/18(木) 02:24:57 ID:???
>>122
申命記と出エジプト記や民数記では、細かいところで祭の記述がちょっと違ってるんですね

「煮る」を「焼く」に変える意図がわかりません
「焼く」に特別な意味があるのでしょうか?

三大祭りでおそらくいちばん有名なのは過越の祭だと思いますが
一番賑わったのが仮庵際というのはちょっと意外です
秋の収穫のあとだからでしょうかね


さて17章は前半が例によって異教に走るものの処分、後半が王を立てる場合の注意って感じですね

前半は一応証人を複数立てる条件をつけてはいますが
ともかく異教はなんとしても排除しなければならないという強い動機が感じられます

後半の王については「主が選ばれる者」というのがみそであるような気がします
実際に主が誰を選んだかは祭司に委ねられるでしょうから、ヤハウェ信仰に反する者が
王になることがないよう配慮されているのだと思います

物語の設定上はまだカナン征服前で、王を立てる立てないといった話が
出てくるような時期ではありませんが、書かれたのがヨシア王の時代ないしはその前後であれば
具体的にユダ王国の王となる者を想定していたのでしょうね

124福音伝道:2024/07/18(木) 06:24:14 ID:LsQB0PWE
>>123
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は申命記18章です

12:9生でも、水で煮ても、食べてはならない。
火に焼いて、その頭を足と内臓と共に食べなければならない。

と、ありますのに申命記16:7で
そしてあなたの神、主が選ばれる場所で、それを【煮て】食べ、
朝になって天幕に帰らなければならない。

だと、矛盾となるので、口語訳は、聖書の整合性のために
【煮て】を【焼いて】と改竄し、
新改訳系は【煮て】を【調理して】と胡麻化して訳しています。

一番賑わったのが仮庵際は、フランシスコ会訳注です。
秋の収穫(ぶどうとオリーブの収穫)のあとなので、農繁期が終わって
民が開放的気分になったのかもですね

サムエル記上8章 10:9では、王政に否定的
同9:1-10,10:16では王政に肯定的
申命記のここでは、中立的とフランシスコ会訳注は解説しています。

ハーパーによると前半は、司法制度についてであり、そもそもは地方で裁判して
いたものを中央で裁判するように中央集権化したものであり、通常であれば
上級審は王が裁決したはずであるが、申命記は王政に信頼を置かず意図的に
無視しているとのこと。

王については、申命記は王権に高い評価を与えていず、歴史の中で
王が異教崇拝を導入したことを非難し、社会階層全てに公儀を施すのではなく
富裕階級を築き上げ、結果他国との戦争に民を巻き込んだと非難した上で
それでも尚、約束された地の暮らしに王が生活の一部を担うと認めているそうで
ユートピア的に理想の王像を描いているそうです。
「市民王」が申命記の描く理想の王像だそうです。

125atheist:2024/07/19(金) 02:01:15 ID:???
>>124
なるほど12章で「煮ても」食べるのはダメだと書いてあるのに
16章では「煮て」食べなければならないと矛盾したことを言ってることになるので
口語訳はそこを「焼いて」と変えてしまったわけですね

ハーパー的には申命記は王政に信頼をおいていないと考えているんですね
わたしはこれについてはよく分かりません
言われてみるとそのとおりとも思えますし、ちょっと深読みのし過ぎのようにも思えます
ただ申命記史家はかなり原理主義的な思想を持った集団であったであろうということは
言えると思うので、王政についても理想主義的な王を思い描いていたのかも知れませんね


さて18章は前半でレビ人の取り分というか処遇について語っていますが
9節あたりから預言者とその他の「霊能者」を区別して、異教の風習に染まらないよう注意を促しています

簡単に言うと、預言者とその他の霊能者の区別は、語ったことが成就するか否かということになりそうですが
占いでよくあるように、大抵の場合、どうとでも取れるような言葉で語られたりしますから
実際に預言者とその他の霊能者を区別するのは難しいんじゃないと思います

このへんはどうやって本物の預言者とそうでない者を識別していたんでしょうか?

126福音伝道:2024/07/19(金) 06:11:50 ID:LsQB0PWE
>>125
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は申命記19章です。

前半は異教崇拝に傾きがちな地方聖所を廃したために失業した地方レビ人の権利保障の
話で、地方に留まっても犠牲獣の内、肩と頬と胃の肉は地方レビ人のものだよ、
地方レビが中央に上ったら、中央レビ人と同じ権利を有するよという話ですね

後半は、土着の異教に影響されるなという話で、預言者と他の者をどう識別するか
というと、第一には、ヤハウェが派遣した預言者は「ヤハウェの言葉」を語る者
である。他の神のことを語る者は偽物である。
では、偽予言者がヤハウェの言葉を預かりを語る者だと自称した場合はどうか。
偽予言者が語った言葉が実現しなければ、そいつは偽物であると聖書にはありますね

atheistさんが危惧される「どうとでも取れるような言葉]への対応は書かれてないですね

127atheist:2024/07/20(土) 02:29:18 ID:???
>>126
第1段階の選別はヤハウェの言葉を語るのか、それ以外の神の言葉を語るのかということで
これはひとまず分かりやすいですよね
問題は第2段階で、ヤハウェの言葉を語ると称しながら異教の神の言葉、あるいは嘘を語っている場合で
その見分けの基準が言葉が実現するかどうかとなるわけですね

これも想像ですが、神の言葉を預かったと本気で思い込んで預言した上、外れてしまった人は
問題なく排除されたと思います
それに対しあくまでも実際にはヤハウェの言葉を預かったと自分では思っていないのに
そう偽って語る人は、当然外れたときのリスクを考えて、抽象的な物言いをしたことと思います

実際に神の言葉を預かるということがあり得るのかは、信仰の問題ですから置くとして
上記のように預かっていないのに預かったふりをする偽預言者は判別がつかないだろうということです
そういったことはおそらく当時の人達も考えていたでしょうから、いったいどこから預言者という
特殊な類型の人たちが生まれ、社会で一定の認知を受け、ユダヤ教の中に根付いていったのかというのが
ちょっと疑問だったんです


さて19章は殺人や偽証に関する掟について書かれてますね

拙いながらも古代としては、そして宗教的律法の枠内としては、「被告人」の権利の保証や
偽証の排除についてよく考えられているように思います
ただ21節にあるように、根底にはハムラビ法典流の同害復讐法があるため
いわゆる近代的な人権の尊重にまでは至っていないようですね
たびたび語られる信仰共同体の純化のために同害復讐が是認されているようです

128福音伝道:2024/07/20(土) 08:14:29 ID:LsQB0PWE
>>127
atheistさん、おはようございます。本日と明日の聖句は申命記20章です。

基本、預言者の予言が外れた場合の対処方法は、民に責任転嫁すると思われます。
モシェ自身がまずそうです。
お前たちがヤハウェ信仰に純粋ではなく、金の子牛像を作ったから云々と。
まちこさんも、台風が来ないと予言して、台風が来て畑の支柱が折れた際も
責任を私へ転嫁されてました。

同害復讐法はフランシスコ会訳注によると、原則であって、実際は
故意の殺人を除くと、同等の保障をして解決を図ったそうです。
論点はあくまで過度な復讐禁止にあったそうです。

ただ、6節「復讐する者」、原文は「ゴエル」で「血の復讐をする者」という意味で
殺害された者の近親者の中から最も近い者が、殺人犯を殺す義務を負ったそうで
その義務者をゴエルと呼んだそうです。
ここには文字通りの「同害復讐法」が生き残ってます。言葉さえあるほとです。
イスラエルのこの慣習を緩和するために、ハーパー曰く、「逃れの町」が設定された。
フランシスコ会訳注によると、元々、「逃れの町」は地方聖所が担当したが、申命記に
よって聖所が中央に一本化されると、一般地が新たに「逃れの町」となったとのこと。
しかしハーパーはこの「逃れの町」が実際に機能していたのか確証がない。
申命記のユートピア的記述の可能性ありと指摘しています。

ハーパーは続けてlex talionis(タリオ法 同害復讐法)に言及して、
関大に扱おうとするいかなる誘惑も未然に防ぐために引用しているとしてます。

129atheist:2024/07/21(日) 00:41:31 ID:???
>>128
なるほど民に責任転嫁するという方法がありますねw
預言が外れたのはお前らがヤハウェに従順じゃなかったからだ、と

6節の「復讐する者」では単に個人的な怨念で復讐するという感じですが
原文的には「殺人犯を殺す義務を負った者」なんですね
こうなるとまさに目には目をとなってしまい、共同体に亀裂が入るので
その緩和のために「逃れの町」が規定されたわけですね
ハーパー的には、これはあくまでも理想であって現実とは限らないようですが


さて20章は戦いの心得という感じですね

さすがに慣れてはきましたが、それでも酷いですね
自分たちの嗣業となる土地に関しては例外なく皆殺し、
そうでない町については、男は皆殺しにして、女子供家畜はぶんどり分として
自由に使ってよし、ですからね

とは言っても、実際にこのような征服が行われた痕跡はほとんどないので
やはりここもあくまでも異教徒には容赦するなというのが主旨なのでしょう

130福音伝道:2024/07/21(日) 10:20:05 ID:LsQB0PWE
>>129
atheistさん、おはようございます。本日はお休みです。
明日の月曜日の聖句は申命記21章です。

申命記の戦争の記述はハーパーによると、「戦争」は王の職務となっていて
職業軍人が中心になっていたに対して、王政以前の古い聖戦の理想を描いている
そうで、戦争の主体はヤハウェであり、兵隊は職業軍人ではなくて市民だそうです。

で、ヤハウェの戦力は、天の軍勢で、武器は稲妻、嵐(士5:20-21)、地震(ヨシュ6:20)
通常、夜明けに襲い掛かり、敵を恐怖させ敗走させるそうです。
その霊的な戦争のためには陣営は霊的に清浄でなければならないため、
まず祭司が戦争説教をし、市民兵士が勝てると信仰することが求められるそうです。

で、あくまでユートピア的理想なので、領土外の遠隔地に対しては降伏勧告と
強制労働という古代的な人道主義を説くが、領土内の他国人については一転して
無条件殲滅するという極端なことが説かれているそうです。

あくまで戦争遂行は「神からの賜物である領土」についてだけだという主張は
実は、リアルの王政による軍事的冒険主義に対する申命記史家の批判が背景に
あるそうです。あくまでハーパーの分析ですが。

131atheist:2024/07/22(月) 00:39:15 ID:???
>>130
そういう見方もあるんですね
申命記史家が現王政に批判的で、ヤハウェによる「聖戦」を現王政の軍事的冒険主義に
対置して称揚しているというのは私にはあまりよく分かりません
たぶんわたしの頭のなかではヨシア王=ユダ王国王政=神殿勢力という感じで
王政と申命記史家が一体になっているからだと思います

この前提自体が間違っている可能性もあるので
ハーパーの見方も、ひとつの見方として頭においておこうと思います

132福音伝道:2024/07/22(月) 07:30:42 ID:LsQB0PWE
>>131
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は申命記21章です。

余談ですが、1955 年にニムルドでアッシリアのエサルハドン誓約文書という
粘土板が発見されて、その中の呪いの言葉が申命記28章の呪いの言葉と類似
するということで、注目されました。その後、ニムルド版は断片で多くの
学者が再現を試みていたのですが、2009 年に完全版のタイナト版が発見され
全貌が明らかになると、申命記は、実はエサルハドン誓約文書の影響を受けて
エサルハドン誓約文書では、アッシリア王エサルハドンが、息子を王にするの
で、それに忠誠を誓え。永遠にアッシリア王家に忠誠を誓えというものなのですが
申命記史家は、この王をヤハウェに変えて一神教としたのではないかという新説が
提唱されるようになりました。

この制約書粘土板は各地の神殿に置かれていたそうです。
原申命記も、神殿に置かれていたという伝承があります。

ハーパーの軍事的冒険主義がリアルの何を指すのかは不明です

133atheist:2024/07/23(火) 01:07:42 ID:???
>>132
ユダヤ教が唯一神教へと変わっていく重要なきっかけが申命記改革だったということを考えると
その申命記がアッシリアという異国の文書に影響を受けていた可能性があるというのは
宗教史的にはかなりインパクトが大きいですね

もちろん影響と言っても、形式だけを模倣したものから神学的影響まで
様々に解釈されるでしょうから、一概に唯一神教がユダヤ教自体の内在的発展の結果であるという
解釈を否定することはできませんが、ユダヤ教及び聖書というものを考察するときに
当時の国際関係や異国の影響というものを無視してはならないという極めて重要な教訓にもなりますね


さて21章は、前半が野で見つかる殺害された人の扱い、後半が捕虜に取った女の扱い
及び長子の権利やわがままな息子についてです

前半の例はずいぶんと奇妙と言うか珍しい例ですが、犯人が見つからない場合の
その殺人の罪をどうするかということですね
犯人がわかっていればその犯人を処罰することで「清め」となるのでしょうが
犯人がわからなければ地が汚れたままになるので、こういった手続きが必要になるということなんでしょうね

後半もまた、やや奇妙です
これまで異教徒との婚姻をかなり強く否定してきたはずなのに
ここでは妻に娶ることを認めています
「美しい」という形容がついていることからも、実際にイスラエルの男のなかには
異教徒だろうが異国人だろうが、自分の欲望に逆らえない人が実際にそれなりの数いたのでしょうね
ですからここでは現実的な対処を提示しているように見えます
一応もうその女性に飽きてしまった場合にはちゃんと女性の自由を保証するという
配慮もされてはいますが、女性の意思は考慮されてませんね

長子の権利については、父権者の横暴や気まぐれを制御するための規定であるように見えます

手に負えないわがまま息子は結局石打のリンチで殺されるんですねw
これもまたとにかくユダの地から悪を排除しようという宗教的潔癖主義が感じられます

134福音伝道:2024/07/23(火) 05:54:14 ID:LsQB0PWE
>>133
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は申命記22章です。

未解決殺人事件では、血によって土地が汚されたので
その土地を代表して近隣都市の長老の責任において牝牛の首を折って
贖罪しなければにらないということですね。首を折るのは、これは犠牲獣では
ない贖罪であると言うことの象徴だそうです。そして地方のレビ人がこの儀式を
監督・指導したそうです。ここは中央化されなかったようです。

ハーパのによると捕虜女性を公平に扱うための権利保障の側面があるそうです。
というのは捕虜女性はイスラエル男性と婚姻して、男性の保護なしではイスラエル
社会で生きていけなかったそうです。一旦捕虜から妻となると、市民として扱われ
離婚に際しては奴隷のように売られることはなく、自由に市民として出ていけた
とのことです。
一夫多妻制にあって、愛されなかった妻の息子の長子権は父親の私意によって
奪われてはならないと規定されています。これは紛争の元だったのでしょう。
これは創世記48:13-20の否定です。爺様が長子マナセではなく、エフライムに
長子権を与えたのですが、こういう恣意行為を申命記は否定したわけです。

手に負えない息子問題はハーパーによると、絶対的な家父長権が崩壊した時代に
あって。申命記改革は、地域の長老に問題解決に当たれと命じているそうです。
それで、手に負えない息子は石打にされて殺されるわけで、我々現代日本人が
読むと野蛮なのですが、この息子は死刑に値する犯罪を犯している者のことの
ようです。

最期が、木にかけられた者は神にのろわれた者 ですね

135atheist:2024/07/24(水) 01:04:43 ID:???
>>134
そういえばなんで牝牛の首を折るんだろうと思ってました
犠牲獣とは区別された贖罪なんですね

たしかに古代としては捕虜の女性に対しては奴隷のような扱いにはなってませんね
愛されない妻に対しても息子の長子権を否定することなく保証しています
このあたりは宗教共同体としての平等性が発揮された部分だと思います

「手に負えない」「わがまま」といった日本語からは
死に値するような罪を犯した人物のようには聞こえませんが
実際は相当の罪を犯しているということなんですね


さて22章は細かい規則を集めた律法集のような感じになってます

どれも現代からみると奇妙に映りますが、全体としてやはり宗教的潔癖主義が感じられます
特に9節から11節はただ単に異種のものが混ざるのを嫌っているようにしか見えません

13節以降は特殊な例を非常に細かく説明しています
ということはこういったことがそれなりに頻繁にあったのかも知れません
ここでも女性は生命や生活の保証の対象とは見られていても
意思主体とは見られていませんね

女を犯したらその父に金を払って自分の妻としなければならないというのは
女が傷物になってしまったため、他の男に嫁ぐことができないので
女の意思に関係なく妻とせよ、ということだと思いますが
ここでは女の生活の保証は考慮されていても女の意思はまったく問われていません
まあ古代とはそういう時代だったのでしょうね

136福音伝道:2024/07/24(水) 06:14:08 ID:LsQB0PWE
>>135
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は申命記23章です。

一般市民に
11羊毛と亜麻糸を混ぜて織った着物を着てはならない。
と、命じられているのは、羊毛と亜麻糸で織ったレビびとの祭服が出エジプト
8:5彼らは金糸、青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸を受け取らなければならない。
にあるように、「金糸、青糸、紫糸、緋糸」という染色された羊毛と亜麻糸で
織られているからですね。異種のものを混ぜるのは特別な祭司だけであった
ようです。

13節以降は娘は単に父の所有物であり、銀50シェケルの価値ということが
前提にあるようです。結婚したが気に入らず結納金の銀50シェケルを
取り戻したくて「非処女」だったと難癖をつけたという話が元のようです。
現代にすると233万円程度だったので、でかかったのでしょう。
ただ父親が処女の証明をすると、逆に銀100シェケルを賠償しなければなら
なかったようです。当然ですね。
ちなみに主イエースースの頃は銀の価値は下がっていて50シェケルは40万円程度のようです

137atheist:2024/07/25(木) 01:54:11 ID:???
>>136
少なくとも服装に関しては生地を混ぜるのはレビびとだけなので
一般市民には禁止されたということですね

古代的観念だと女は財産ですから実質的に結納金と処女の交換なのに
「買った商品」に瑕疵があるとクレーム付けて代金を取り戻そうとする奴がいたわけですね
金額的にもちょうど新車を買ったのに、実は中古を売りつけやがって、とあらぬクレームを付けてるような
もんですね


さて23章も細かい律法が続きます

1節でいきなり去勢した男子が出てきますが、古代イスラエルでも去勢はあったのでしょうか?
2節は酷い話ですが、私生児ということは婚外で生んだ子となってヤハウェの祝福を得ない子と
考えられたのでしょうね

前半で特徴的なのはアンモンとモアブに比して、エドムとエジプトには好意的なところです
申命記が書かれたときの時代状況なのか、筆者の神学なのか、理由は分かりません

9節以降では戦時での「下(しも)」の扱いですね
10節の「夜の思いがけない事」はセックスなのか自慰なのか、そのあたりでしょうか?
排泄についても規定があるところがすごいですが、これもまた汚れを嫌う宗教的潔癖主義の
表れのような気がします

そのあと奴隷の扱いや神殿娼婦、神殿男娼、利息、請願と律法が続きますが
最後の隣人の畑の箇所は面白いですね
隣人の畑に入ったら、飽きるまで食べてよいというのがすごですw
これならいざ生活に困っても生きていけそうですw

138暇人 A:2024/07/25(木) 06:11:29 ID:LsQB0PWE
>>137
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は申命記24章です。

1節で口語訳は省略して「去勢した男子」となっていますが、
原文は「睾丸が傷ついた者」「陰茎を切り取られた者」ですね。

勝海舟は子供の時に睾丸を犬に噛まれて手術したそうですが、
こういう事故に遭った人は古代でもいたのかもですね。
問題は「陰茎を切り取られる」去勢が古代イスラエルであったかですが
なかったのではないでしょうか。
ただ、宦官が古代アッシリアで始まったとされていて、BC9C頃にはありました
ので、聖書はアッシリアを意識してアンチ去勢と謳うのやもです。

フランシスコ会訳注によると、口語訳で「私生児」とそれている語は
「不法な近親結婚」「姦通にる非嫡出児」を指すと思われるとのことです。
一夫多妻制の世界ですので。また10代は、実質「永遠」という意味だそうです。

アンモンとモアブは、ロトとロトの娘たちの近親相姦の子孫だから排除したようです
逆にエドムの祖は、イスラエルの祖のヤコブの兄のエサウなので差別するな
エジプトに寄留したことがあるから、エジプト人は3代目から会衆になってOK
という申命記感覚ですね。
京都も似たところがあつて、私が子供の頃に宇治市から京都市へ引っ越しすると
祭りに参加させてくれなかったです。20年ほど居住すると祭りの協賛金だけは
要請されるようになりましたが参加はさせてくれなかったです。地域コミュニティ
が閉鎖的だったです。九州は来た時からウエルカムで驚きました。

10節 夜の思いがけない事→夢精の事です

排せつに関してですが、陣営のうちに神が住まう。その神の力によって勝利すると
信じられていたので陣営内を清潔に保つ必要があるというのが建前です。
実際は清潔でないと病気が蔓延したからではないでしょうか。

人間飢えたら泥棒すると、戦中に疎開した子供たちが大人になって仰せでした。
彼らは畑泥棒したようです。
1人が食べる分はわずかなので、赦されたのかもですね

139atheist:2024/07/26(金) 02:58:02 ID:???
>>138
なるほど当時のユダにはなかったけどアッシリアにはあったので
反アッシリア的姿勢として去勢を否定的に捉えていた可能性があるってことですね

一夫多妻を前提にこの「私生児」は姦通による非嫡出子だけでなく
不法な近親婚による子も意味していたと考えられるのですね
どちらにしても「永遠」に排除されると言われるほど、禁忌に触れる行いということになりそうです

アンモンとモアブに比してエドム、エジプトの厚遇というのは
元の神話であるロトの娘たちの近親婚が関係しているということですね
これは上記の話と合わせると合点がいきます

それにしても京都も古都としてのプライドがあるのか、かなり閉鎖的なんですね

「夜の思いがけない事」は本人にとって「思いがけない」ということで夢精になるんですね

排泄処理には衛生上の理由もある、と

わたしも飢えたら死ぬより泥棒すると思います
しかしその「泥棒」行為を律法で認めているところがすごいですね


さて24章はまだ諸律法が続いているようです

前半は妻の離縁についてですが、離縁というより妻の再婚禁止の条件について
という感じです
むしろ5節の新妻に対する扱いのほうが目を引きます
新婚早々夫が戦死することを回避する律法のようで
ここはずいぶん女性に対する配慮が感じられます

12-15節の貧しい人に対する配慮も注目に値しますね
総じてユダヤ教は共同体内部のことがらについては
古代でもかなり先進的であったように感じられます

同じことは16節以降の律法にも感じられます
古代に限らず身内の罪は身内が贖うといった観念が根強くありますが
古代においてこういった思考ができることもその先進性を示しているような気がします
また17節でも人の身分や現状によって裁きを曲げてはならないというのも
現代ではあたり前のことですが、古代ということを考えるとすごいことであると思います
18節以降も、孤児と寡婦と寄留の外国人に対する社会福祉的規定になってますね

140福音伝道:2024/07/26(金) 07:52:33 ID:LsQB0PWE
>>139
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は申命記25章です。

古代中国でも日本でも新婚の者が戦争に徴兵されましたので、
申命記の配慮は突出していますね。

石臼についても、毎日小麦を挽いて小麦粉にしてパンを焼いたそうなので
石臼を質にされるというのは、炊飯器を質に取るようなものですね。
これも禁止されています。最低限の生活保障ということなのでしょう。

申命記が5節以下、人道上の規定するのは、イスラエルを傷の無い、調和のある社会へ
と改革しようとしているからだそうです。
神に対する様々な悪をまず防止した上で、
結婚が進んで容認される社会、誘拐がふさがれ、皮膚病が祭司によって管理される社会
貧しい者や底辺の者たちに特別の配慮を惜しまない社会。
日雇い労働者には適切に賃金が支払われる社会。
貸与は裕福の者が貧しい者へ社会的利益の還元(援助)として描かれており、
利子を稼ぐ手段と申命記は考えてないそうです。
しかも7年ごとに債務は帳消しにされる社会であることを思い出すと
かなり優遇しようとしているのかもです。

141atheist:2024/07/27(土) 00:46:48 ID:???
>>140
新婚者の戦役免除なんて聞いたことがないですからね
石臼が炊飯器というのは分かりやすいです
日々食事に使うものなので、これもまた一種の社会保障と言えるものだと思います

こういった記述を読むと、申命記記者が「理想主義」だというのは分かる気がします
現実にこういった記述通りに律法が運用されたかは分かりませんが
少なくとも古代社会においては突出した社会保障や社会福祉的観点を持っていたことになりますね


さて25章もまだ律法が続きます

むち打ちが40を超えてはならないとされているのは、それ以上に打つと
死んでしまう危険があるからでしょうか?

そのあとにある死んだ兄弟の妻の処遇はけっこう面白いですね
律法の中心は兄弟の家(名)を絶やさないということにあるようで
未亡人を娶ることを拒否した兄弟は徹底的に辱められます

それから気になったのが11-12節です
「隠し所」というのは要は陰部ですよね?
やはり男性の陰部を鷲掴みにするような不埒な真似は絶対許さないということでしょうか
哀れみをかけずに手を切り落とせとまで言うくらいですから、非常に強い禁忌だったのでしょう

最後はアマレクびとに対する復讐のことばで終わってます

なんかこの章だけではないですが全体的に体系的な記述と言うよりは
思いついたままに律法を語ってるような感じに見えます

142福音伝道:2024/07/27(土) 05:57:06 ID:LsQB0PWE
>>141
atheistさん、おはようございます。本日と明日の聖句は申命記26章です。

鞭打ちについてぐぐりますと、現代ではシンガポールで残っているそうです。
打たれる回数は成人男性で上限24回、少年で10回だそうですが、
実際は傷害罪などの重罪でも8〜12回が限度だそうです。
1回打たれるだけで失神してしまう受刑者も少なくないそうなので、40回というのは
相当です。
フランシスコ会訳注によると、古代イスラエルには牢獄がなかったそうで、
死刑の他は、罰金刑か鞭打ち刑だったそうです。申命記が40回まで得っていと
定めたため、数え間違いを避けるためユダヤでは39回を上限としたそうです。
十字架刑の前、主イエースースが鞭打たれましたが、これが最高数の39回です。
死刑確定の重罪人が39回の鞭打ち。身体がボロボロですね。

レビラト婚ですね。近代日本でも兄嫁が子なしで戦争未亡人になった場合、
弟が兄の家を継ぐというのはありましたね。
儒教では逆縁婚としてタブー視するようで、武士階級では忌避されたそうですし
将校の未亡人には遺族年金が充実していたのですが、庶民階級では一般的でした。

「隠し所」はמבשׁ 語義分析すると「恥ずかしいところ」です。陰部のことですね

ハーパーによると、レビラト婚は大家族制を前提としており、弟は兄の家に暮らして
いたそうです。創世記38章では、弟オナンは、兄嫁の寝所に入ってセクスはしたもの
の、射精を膣の中でせず、地へ向けて放出したそうです。自分の子供にならず、
法的には兄の子とされるのが赦せなかったようです

143atheist:2024/07/28(日) 02:22:30 ID:???
>>142
鞭打ちが身体にどれほどのダメージを与えるのか経験したことがないので
分かりませんが、部活で顧問にケツバットされたことはあります
一発で痺れるような痛みでした
おそらく鞭打ちはそれ以上の威力でしょうから、皮膚が裂け肉が切れるような状態なんでしょうね
それを39回というのは恐ろしい刑です

女性がひとりで生きていけない社会であれば、兄弟が娶るのは合理的な女性保護になりますね
恋愛とか愛情よりも、家に収まることが大切な古代では女性の側にも違和感はなかったのかも知れません
むしろオナンのように男性のほうが自分の子とならない性行為に憤慨する、つまりは一家の長となれない
ことに憤慨する場合のほうが多そうです


さて26章はカナン征服後に行われるヤハウェへの感謝とその言葉についてですね

ともかく気になったのは5節の「わたしの先祖は、さすらいの一アラムびとでありました」
という箇所です
エゼキエル書などでもそれとなくイスラエル民族の祖先がカナンの諸部族であることが
語られていますが、ここではアラム人ということになっています
この「アラム人」というのはアブラハムのことを指しているのでしょうか?

いずれにしてもイスラエル民族自身の民族意識にはヤハウェとの契約で
カナンの諸民族からは独立したひとつのイスラエルという民族となった、
という意識があったように思います

ヤハウェ信仰とイスラエルの起源が明確に分かっているわけではないので
断定的にには言えませんが、もともと雑多なカナンの諸民族出身であったはずの
中央山地に集まった人たちが、イスラエルというひとつの民族意識を醸成した背景には
ヤハウェ信仰という宗教が強く関与していたのだろうということが感じられます
これはユダ王国やイスラエル王国が成立した時期とほぼ同時期に成立した
アンモンやモアブ、エドムといった周辺領域国家にも、イスラエルほど出自が雑多でないとしても
ある程度言えそうなことですが、イスラエルの特殊性はやはり神との契約という観念にあるような気がします
この「人為的な」契約から逆に「血筋」としての族長物語が形作られていったのだと思います

144福音伝道:2024/07/28(日) 07:42:24 ID:LsQB0PWE
>>143
atheistさん、おはようございます。本日はお休みです。
明日・月曜の聖句は申命記27章です

フランシスコ会訳注によると、
5節の「わたしの先祖は、さすらいの一アラムびとでありました」は、
父祖ヤコブを指すそうです。
ヤコブは、アラム人である母リベカから生まれ、兄エサウから長子権を奪うと
アラム人の伯父ラバンの元に身を寄せ、ラバンの娘二人を娶ったので、
ヤコブがアラム人と呼ばれていたためだそうです。

次に三年ごとに什一を貧しい人に施すことが語られています。
什一を現代でも推奨する教会がありますが、三年ごとに集まった什一をすべて
貧しい人たちに施す教会がないのは不可思議です。

口語訳はわかりにくいので聖書協会共同訳を引用します。17-18節
今日あなたは、「主を神とし、主の道を歩み、その掟と戒めと法を守り、
その声に聞き従います」と明言したので、
主も、今日あなたに向かってこう宣言された。
「あなたに告げたように、あなたは主の宝の民となり、すべての戒めを守る。

ヤハウェの掟と戒めを守ると、明言(=同意,=契約)したので
ヤハウェはそれを受けて、『ヤハウェの宝の民』とした、と。

父祖ヤコブの血を一方で誇りながら、他方で律法を遵守するから
『ヤハウェの宝の民』とされるとあります。『契約の民』ですね

145atheist:2024/07/29(月) 01:48:30 ID:???
>>144
ヤコブのことなんですね
そういえばラバンとかリベカはアラム人ということになっていたような気がします
イサクとレベカの子がヤコブとエサウで、ヤコブがイスラエルと改称しイスラエル十二支族の
父となった、という流れですから、まあアラム人と言えなくもないですね

繁栄の福音ではマラキをもとに什一献金の重要性を強調しますが
不思議と申命記に書かれている什一の貧者還元を唱える繁栄の福音系の教会は聞きませんね

血筋を強調することは民族の一体感を醸成するのに寄与したのでしょうね
ただヘブライ語聖書で最終的に強調されるのはヤハウェとの契約であり
ヤハウェに聞き従うかどうかなので、やはりイスラエルがひとつの民族として
意識されたのはヤハウェ信仰、とくにヤハウェとの契約という観念によるのでしょうね

146福音伝道:2024/07/29(月) 19:46:36 ID:LsQB0PWE
>>145
atheistさん、こんばんは。本日の聖句は申命記27章です。

まあ捕囚後のユダヤ人は実際に喋っていたのはアラム語です。
主イエースースもアラム語を喋ってました。
アラム人と呼ばれても さほどの違和感がなかったのかもですね

147atheist:2024/07/30(火) 00:55:36 ID:???
>>146
たしかに捕囚後のユダヤ人の話し言葉がアラム語であれば
アラム人と呼ばれても違和感はなさそうですね


さて27章は以前も出てきたゲリジム山での祝福とエバル山での呪いについて
さらに詳しく書かれていますね

祝福については具体的に書き記されていませんが
呪いについては15節以下で詳しく書かれています

内容的には十戒に通じる掟以外に、性的禁忌に関するものが多いですね
近親相姦や獣姦が厳しく禁じられています
これはこの章が執筆された当時、実際にこのような「逸脱した」性行為がかなり行われていたということでしょうか

エバル山については祭壇のような構造物が発掘されたことで話題にはなりましたが
発掘者のZertalが主張する「ヨシュアの祭壇」という説はほぼ受け入れられていないようです
(これをヨシュアの祭壇だと言い張って、聖書は正しかったことが考古学で証明されたと嘯く人たちが
けっこういます)
それでも鉄器時代1期(前1200-1000頃)という、かなり早い段階でのイスラエルの宗教的活動に伴う
構造物であろうとは言われているようですね
ですからゲリジム山とエバル山の申命記やヨシュア記の記述の証明にはなりませんが
すでに鉄器時代1期には「原イスラエル人」になんらかの宗教的活動があったことは示唆される
ように思います(ただしこれがヤハウェ信仰であったかどうかは分かりません)

148福音伝道:2024/07/30(火) 09:03:25 ID:LsQB0PWE
>>147
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は申命記28章です。

12の呪いが置かれていますが、最初と最後の呪いは後代の追加だそうです。
つまり最初は10の呪いで、偶像崇拝、両親への尊敬、殺人は十戒から。
地境を移す行為は19:14,父の妻と交わることは23:1の踏襲。
以下、近親相姦や獣姦問題はハーパーによると、『大家族の高潔さを守ることを意図』
したものだそうです。この時代、現代のような核家族ではなく、一夫多妻制の主人の下、
大家族制だったので、いろいろと間違いが起こったのかもです。
50代の主人が、10代女性を第四夫人として迎え、第一夫人の息子が20代ということが
あったのでしょうし。

https://assets.st-note.com/production/uploads/images/75967650/picture_pc_cf5c923b7db21c5adfb8f9ad538353c2.jpg?width=2000&height=2000&fit=bounds&quality=85

ゲリジム山とエバル山の間の谷間に重要都市シェケムがあります。
アブラハムはカナン到着後、最初の祭壇を築いたのが、
創世記12:6シケムの所、モレのテレビンの木のもと です。

申命記が、エルサレムへと神殿の中央一本化する中で、この二つの山を
呪いと祝福と記載したのは、歴史的な経緯を無視できなかったからだと
思われますが、古代においてはエルサレムではなく、こちらが聖所の
中心だったことが、申命記からも推察できると思います

149atheist:2024/07/31(水) 02:41:47 ID:???
>>148
12の呪いは、おおまかにはこれまでの焼き直しって感じですね
一夫多妻の大家族だとたしかに息子が父の妻よりも年上ということも起こり得ますし
息子と父の妻の間に血のつながりがないこともありますので、比較的簡単に
近親相姦が起こってしまいそうですね
ですからくどいほど近親相姦に言及されるんでしょうね
獣姦はなんでか分かりませんがw

アブラハム伝承の重みがあるためエルサレム中心主義の申命記史家たちも
シェケムを無視することができなかった、ということですね
それにしてもゲリジム山もエバル山も、我々の感覚からすると山というより丘ですねw


さて28章は申命記のなかでは異常に長い章ですが
構成自体は祝福と呪いという単純な構成になってますね

13、14節あたりまでが祝福のことばで、残りはすべて呪いです
つまりは圧倒的に呪いのことばのほうが多く、かつ詳細です
ここはやはりイスラエルの民に対する警鐘ということなのでしょう

36節などに見られるように、この章の少なくとも一部はバビロン捕囚以降に書かれたもの
のように思われます

53節以降の親が子を食らうという極めて陰惨な描写は預言書その他でも
出てきたように記憶しています
このような凄惨な描写は、申命記後のヘブライ語聖書のひとつの決まり文句のようになって
いっているようです

まさにヤハウェに従えば天国、背けば地獄、という感じですね

150福音伝道:2024/07/31(水) 09:31:16 ID:LsQB0PWE
>>149
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は申命記29章です。

ハーパーによると、祝福と呪いとがバランスを欠き、呪いの方が多いのは
背景に危機的状況があるとのことです。またこの祝福と呪いの形式は
アッシリアの宗主権条約に見られるものと非常に似ているとのことです。
アッシリアは戦時の残忍性で悪名高かったそうなのですが、決定的な
影響を与えるとハーパーは見ています。

にしてもヤハウェが呪う時、最終段階として、イスラエルの絶滅があるのは
驚かされます。
63節主は今あなたがたを滅ぼし絶やすのを喜ばれるであろう。
あなたがたは、はいって取る地から抜き去られるであろう。

151atheist:2024/08/01(木) 01:39:28 ID:???
>>150
この表現法もアッシリアの条約に酷似しているんですね
呪いの最終段階にイスラエルの絶滅があるというのは
それだけ申命記記者の危機感が強かったということなのでしょうね


さて29章は前章の呪いの部分がまだ続いているといった趣になってますね

前半はもう何度も書かれていることですが、これまでの経緯を振り返り
ヤハウェがいかにイスラエルの民を救い、守ってきたかを切々と訴え
その神に背いた場合の呪いがこのあとに続きます

一応将来の人々の言という形を取っていますが、28節の内容は
やはり捕囚以後の筆であることを伺わせます

ここでもヤハウェを差し置き、他の神々に仕えることが
いかにイスラエルに災いをもたらすかが強調されていますね
申命記記者の目から見て、それほど当時のイスラエルは
多神教的慣行が横行していたのでしょう

実際前6世紀、つまりはバビロニアによって滅ぼされるまで
イスラエルやユダの民衆はアシェラ信仰を含む様々な神へ信仰をもっていたであろうことが
考古学的にも分かっていますから、宗教的「極右」である祭司や律法学者などにとっては
このような状況が許しがたかったのだろうと思います

152福音伝道:2024/08/01(木) 06:31:47 ID:LsQB0PWE
>>151
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は申命記30章です。

ソドム、ゴモラ、アデマ、ゼボイム…神の呪いを表現する時の代表的な地名
ソドムとゴモラは南の伝承 アドマとツェボイムは北の伝承で、ここでは
合体しているそうです。

ハーパーによると、背教は災難と結果として生ずる捕囚。
従順は約束の地での繁栄と長命を意味する。
モーセはイスラエルの前に二つの明確な道を提示するそうですが
いわゆる『不自由な選択』ですね

しかも
29:4しかし、今日まで主はあなたがたの心に悟らせず、
目に見させず、耳に聞かせられなかった。
とあるように、
ヤハウェは決して契約を履行させるために、人間の心に介入して強制まではしません。
自分で気づきなさいという姿勢ですので、捕囚は避けられない運命でも
あるわけです。

簡単そうに見えて、色々な信仰と習合していくのを避けるのはとても
困難なのかもしれません

153atheist:2024/08/02(金) 05:30:07 ID:???
>>152
例によって寝落ちですw

ソドムとゴモラは有名ですが、アデマとゼボイムというのは記憶にありません
北と南の伝承の違いということですね

この呪いの部分が捕囚期ないしそれ以降の編集だとすると
事後的にイスラエルの信仰が理想的なヤハウェ唯一神信仰ではなかったこと、
そしてそれが破滅的な結果をもたらすことを強調したかったのだと思います

信仰ですからこれを否定することはできませんが、世俗的な観点からは
単なる無根拠な理由付けであって、実際は信仰の如何を問わず、当時の国際関係や
領域国家の優劣の結果に過ぎないのでしょう
ただ宗教的に重要なのは、このような理由付けが民をしてヤハウェを排他的に崇拝せしめ
さらにはヤハウェが唯一の神であるという観念に至らしめたことなのだと思います


さて30章はこれまでの祝福と呪いの総括という感じですね

4-5節あたりの記述から、明らかに捕囚期以降に書かれたもののように思われます
捕囚とそこからの帰還というユダヤ人の歴史を振り返って、祝福と呪いのどちらを選択するか
と民に提示しています
実際にイスラエル王国、ユダ王国の滅亡と捕囚を経験したユダヤ人にとっては
非常に説得力のある文言になっているように思います

しかも11節にあるように、ヤハウェの戒めは難しいものではなく
やろうと思えばできることです
とはいえ、それができないのが人間ですからねw
だからこそ、パウロは律法の行いではなく、イエスの信に新たな救いの基準を置いたのだと思います

154福音伝道:2024/08/02(金) 06:47:02 ID:LsQB0PWE
>>153
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は申命記31章です。

要するに、他の神々を礼拝せず、ヤハウェのみを愛しなさい。
そうすれば幸せになりますよ、ということですね。
唯一神教ではなくて、拝一神教ですね。

古代では、すべての転変地変を王の責任にしたりしたそうですが、
ここでは、「契約」という概念を出し、「民の契約不履行」が
不幸の原因だと主張しているわけですね。

ここでは明らかに国家滅亡と捕囚後の民に申命記は語り掛けています。
捕囚の地でこれらを聞き、回心して生きなさい。そうすれば神はもう一度
あなたたちを集め繁栄させてくださる、と。

危機の中で生まれた神学ですね

155atheist:2024/08/03(土) 03:25:13 ID:???
>>154
唯一神教と書いたのは、捕囚期以降の編集部分ではないかという想定に基づいてのことで
ヨシア王当時ということではありません
申命記も複雑な編集過程をたどっているでしょうから、拝一神教的な部分と
唯一神教的な部分が混在しているのだろうと思います

捕囚期前(ユダ王国後期当時あるいは分裂王国当時)のユダヤ教の実態というのは
聖書の編集過程や考古学的に知られる断片的な遺物から推測するしかないと思いますが
祭司的神学と民間信仰との間の乖離もあり
なかなか難しい問題なんだろうと近頃感じています
例えば拝一神教(monolatry的であったのか、単一神(henotheism)教的であったのかなどは
判断が難しい場合があるように思います
いずれにしても捕囚期を経て、より明確な唯一神教へと移行していきますね

なるほど「民の契約不履行」というのは適切な表現ですね
ユダヤ教の粘り強いところは、民の契約不履行でヤハウェと民の関係が解消されるのかと思いきや
民の回心によって復興や繁栄の希望を繋いでいるところでしょうね
さすが世界中に散らされても2000年間生き延びた民族だけのことはあります


さて31章は、いよいよモーセを通して語られたヤハウェの律法の締めという感じですね

設定上はこれからカナンの地に攻め入るにあたり、モーセが最後の訓戒を述べる場面ですね
ここでも民が契約を破り、ヤハウェに見捨てられる未来を「見通して」語っています
次の章から19節などで言われている「歌」に入るわけですね

ずっと律法が語られてきましたから、堅苦しい律法書のような趣きでしたが
こうして最終局面で歌の形でまとめ上げる編集は、なかなかどうして物語的な盛り上がりを感じさせます
モーセの死を前にしたことばというのもクライマックスへ向けて読み手の感情を高めていく構成で
ユダヤ教徒ではないわたしにも、けっこう心に来るものがありますね

156福音伝道:2024/08/03(土) 07:36:09 ID:LsQB0PWE
>>155
atheistさん、おはようございます。本日と明日の聖句は申命記32章です。

モーセからヨシュアへのリーダー交替が描かれているのですが
フランシスコ会訳注によると、
14,15節と23節が元来一続きであったそうです。
この間の16-22節は別伝承が加えられたそうです
ハーパーは、二つではなく、幾つかの別の資料層に由来する断片とのこと。

16-22節は、ヤハウェがモーセに歌を書きしるせと命じ、
モーセがそれを受けて歌を書き、民に教えるわけですが
次章から地際の歌が始まり佳境を迎えます。
盛り上げ方がうまいですね

157atheist:2024/08/04(日) 02:48:15 ID:???
>>156
挿入された部分が捕囚期直前ないしは以降という感じですかね
そう言えばちゃんとモーセからヨシュアへのリーダーの交替も書かれてますね
この辺もしっかり物語を構成する意図が感じられます


32章はその歌の部分になりますね

この章ではよく取り上げられる8-9節がやはり目につきます

ここではエル・エリヨンが主神で、諸々の民を神の子ら(「イスラエルの子ら」)に分配し、
ヤハウェはイスラエルの民を自分の取り分とする、という記述になっているかと思います

問題の「イスラエルの子ら」はクムラン文書では「神の子ら」で
LXXでは「神の御使いら」のようになっていたと思います
文脈からどう考えても「神の子ら」が原文であったであろうと推測されますが
ここはフランシスコ会訳注やハーパーではどのように解説されているのでしょうか?

8-9節が多神教的背景を伝えているのに対し、そのあとに続く文では
拝一神教的な主旨、さらには39節でははっきりと「わたしのほかに神はいない」と
唯一神教的な文言が記されています

このあたりの編集過程はどうなっているのでしょうか?

最後はヤハウェがモーセに死地を示す形になっていますが
ヤハウェのモーセに対することばは心なしか、優しさが滲んでいるようにも感じられます

158福音伝道:2024/08/04(日) 08:37:13 ID:LsQB0PWE
>>157
atheistさん、おはようございます。本日はお休みです。
明日の聖句は申命記33章です。

8節原文直訳
エリヨンが諸部族を相続させる時
アダムの子らを分割する時
彼は民の境界を据えた。
神の子ら数に従って 異本:イスラエルの子らの数に従って。

創世記では、エル・エリヨンですが、ここではエルがなく「エリヨン」(至高者)です。
続く節で、ヤハウェの取り分は、ヤハウェの民、ヤコブがヤハウェの相続分であると
ありますので、原文は、「至高者」がいて、神々に土地を分け与えた。
神々の1人のヤハウェの割り当てはヤコブとヤコブの子孫であるという意味で
多神教世界観が背景にありますね

フランシスコ会訳注によると、
マソラ本文では「神の子ら」を「イスラエルの子ら」と読む。
ヘブライ語クムラン写本、古代ギリシア語訳、ラテン語訳は「神の子」なので
本来は「神の子ら」であるとして、本文を「神の子ら」と訳しています。
エリヨンは「いと高き方」と訳しています。

ハーパーは、エリヨンについて解説していず、すべての民族が誕生する時、
イスラエルが民族として選ばれた。と、8,9節を説明しているだけです。

15節 エシュルンは、フランシスコ会訳注によると、「正しい」という形容詞から
派生した語であるが、イスラエルの称号であるが、ここではイスラエルの忘恩と
不忠実を非難して皮肉的に使われているとのこと。

ちなみに「正しい」はヤーシャール。
エシュルンは33章でも出てきます。

159atheist:2024/08/05(月) 02:00:51 ID:???
>>158
8-9節については意外にもフランシスコ会訳注が客観的に観ているのに対して
ハーパーのほうが重要な論点を流してしまってますね

15節のエシュルンについては文脈から明らかにイスラエルの民のことを指しているので
なんらかの別名だと思ってましたが、背後には皮肉が込められていたんですね

申命記も残すところ、あと二章となりました
モーセ五書は2回3回読んだくらいでは、そこに盛られている含蓄や課題を
咀嚼することは到底できませんが、今回の通読でおぼろげながら輪郭らしきものが把握できてきた
ように思います

160福音伝道:2024/08/05(月) 05:01:53 ID:LsQB0PWE
>>159
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は申命記33章です。
お疲れさまです
五書も残すところ二章ですね。

なにせ外国の古代の書物。注解なしにはなかなかむつかしいですね
諸古伝承があり、編者の思想があり、諸異本があり、神学的立場により
様々な解釈がありと。。。
ハーバーもフランシスコ会訳注も、リベラル的解釈に属しますが、
とはいえキリスト教神学の下にあります。
福音派の信仰的な解釈が対極にあります。
これらから有益な情報を取得しつつ、読めたらいいのですがなかなか難しいです

161atheist:2024/08/06(火) 01:28:08 ID:???
>>160
注解がないと無理ですね
注解なしでも読めるような訳だと、特定の神学や解釈を押し付けることになって
探究的な読み方には適しませんから、最初に一通りの見通しを立てるには
いいかもしれませんが、それ以上の読みができなくなりますしね

結局様々な注解や解説書、あるいは注釈等を見比べて読んでいくしかなさそうです


さて33章はモーセによるイスラエルの民の祝福になっていますね

それぞれの部族ごとに祝福の言葉が語られますが、簡単に済ませられる部族もあれば
比較的詳細に言葉が語られる部族もあります

レビやヨセフがやや重視されている感じでしょうか
意外に思ったのはアセルが「他の子らにまさって祝福される」と言われているところです
これは単なる修辞的なもので、特段アセルを他の部族より持ち上げているわけではないんでしょうか
アセルなんてほとんど記憶にないくらい影が薄いように思っていました

162福音伝道:2024/08/06(火) 05:47:18 ID:LsQB0PWE
>>161
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は申命記34章です。

>アセルが「他の子らにまさって祝福される」

これは単なる言葉遊びだと思います。
というのは、アセルというか、アシェルが「幸福な」「祝福された」という意味の
ヘブライ語だからです。
カルメル山以北の地中海沿岸寄りの肥沃な土地を割り当てられたものの
カナ人の強固な都市アコ、ティルス、シドンがあり、完全に掌握できなかったそうです。

幼児イエースースをエルサレム神殿で拝した女性預言者アンナがアシェル族です。

163atheist:2024/08/07(水) 01:37:53 ID:???
>>162
なるほど「アシェル」にはそういう意味があったんですね
そうなるとたしかに言葉遊びだと納得できますね
幼児のイエスを神殿で拝した女性がアシェル族だというのも知りませんでした


さていよいよ申命記、モーセ五書も最後ですね

最終章はモーセの最期の場面です
ヤハウェはイスラエルの民がこれから入っていくカナンの地をモーセに見せ
再度モーセはそこに入っていくことはできないと言いますが
書き手も偉大なる預言者の最期にふさわしい賛辞をもって申命記を閉じています

これを言ってしまってはいけないのでしょうが、ネボ山の頂きからカナンの全地
(ダンからネゲブまで)見えるものでしょうか?
実際に見えなくても、方角は分かりますから、詩的な表現として
このように書いたのだと思います


ということでもう3年か4年くらいになるでしょうか、本当に長期に渡って
聖書の通読にお付き合い頂き、ありがとうございました

もちろんしっかり読めなかった箇所も多く、またまだヘブライ語聖書のほうは
読んでない箇所もあると思いますが、わたしとしては、いつかやろうやろうと思っていた
日本語訳聖書を読むということが曲がりなりにもできました
ひとりでは絶対に無理だったと思います
また日々の講読でわたしが知らなかったり気づかなかったりすることを
適宜ご教授いただけたことも通読の励みになりました

いったん通読はここで終了となりますが、聖書を読むのがこれで終わりというわけではありません
特にヘブライ語聖書は史的・考古学的知見や文献学的・宗教学的知見を深めなかれば
なかなか十分にその意義を捉えることができないので、今後またなにかの機会に
先生に質問することがあるかと思います
あるいはまた単発で特定の書を通して読みたいと思うことがあるかも知れません
そのときはぜひまたいろいろと教えていただければと思います

本当に長いこと、お付き合いくださりありがとうございました

164福音伝道:2024/08/07(水) 06:24:44 ID:LsQB0PWE
>>163
atheistさん、おはようございます。長い間ご苦労様です。
たいへん勉強になりました。有難うございました。
また機会がよろしくお願いいたします

wikiによると、ネボ山からはエリコの西岸地区の町が見えるそうです。
腫れて視界が良いとエルサレムも見えるそうです。
カナン全景とまではいきませんね
特に北はヨルダン川の渓谷の一部しか見えませんので、とてもダンは見えないです
ネフタリ、マナセ、エフライムも見えません。

165atheist:2024/08/08(木) 01:45:26 ID:???
>>164
常識的に考えてもカナン全土が見渡せる山となれば数千メートル級でもどうか
となりそうですよね

そういえば空の澄み渡った日には和歌山からでも富士山が見えると聞いて驚いたことがあります
高い山の上から平地や丘陵地を観るのとは逆になりますが、ヨルダンに富士山級の山があれば
もしかしたらとは思いますね

それでは、また質問等ある場合は、ここか、あるいは先生が普段いそうなところに
書き込みすることにします

166福音伝道:2024/08/08(木) 05:33:05 ID:LsQB0PWE
>>165
お疲れさまでした


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