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聖書通読

1福音伝道:2023/03/14(火) 05:40:03 ID:0BUKU4Ck
聖書通読のスレッドです。

manna通読表に従って読んでいきましょう
https://wlpm.or.jp/manna/my-calendar/

724福音伝道:2024/01/07(日) 09:38:53 ID:8zhBGqb2
>>723
atheistさん、おはようございます。明日の月曜日の聖句は創世記7章です。

ハーパーによると、6:1-4は、J資料が洪水の話を始まる前段に、古い神話素材の
断片を用いているそうです。古代オリエントに広まっていた「神々の反乱」だそうで
若い世代の神々が、自分たちの生みの親でる古い世代の神々の権威に挑戦するとい
うモチーフを利用したそうです。
従来は天的な存在者と地上の人間は隔絶された存在者でしたが、そのルール破りを
若い神の子たちがするわけです。

フランシスコ会訳注は、別観点から、洪水を引き起こした堕落を説明するために
著者は当時一般に伝えられていた神話、天人と人の女の不倫から生まれた巨人伝説を
用いたものと思われる。「人の娘たち」は「悪い女」で「カインの子孫でまったく肉的な女のこと」
2節の「望むままに娶った」は、不信仰なレメク(4:19)が始めた一夫多妻を意味し
当時の習わしになっていたと、不倫というような根拠不明な解説をしています。
また「人の娘たち」がなぜ「悪い女」とか「カインの末裔」とか「肉的」と言えるのか
レメクを引き合い出す根拠が不明です

原文直訳
神々の息子たちは、人の娘たちを見て、彼女たちがよい(美しい)ので、
彼らが選んだところの誰からでも、自分たちのために妻として娶った。

原文は「美しい」から娶ったとあり、「悪い女」どころか「良い」とある。
フ会は神学的立場から「エロティックで誘惑的な悪い肉的オンナ」と解釈したい
のだろうがゆきすぎだ。
単純にエローヒムの息子たちが、ハ・アダム(人間)の娘たちを娶ったとあるのだから
完全に多神教世界の神と人が結婚する神話ですね

ネフィリームは、カナン神話の巨人族。原語的には「落ちる、倒れる」の派生語

6:6原文直訳
そしてアドナイは、地に人を彼が造ったことを悔やんだ。
そして彼の心に彼は悲しんだ。

ハーパーは、「人間の心の悪への傾斜」と「神の心の痛み」が鮮やかに対比され
ていると的確に解説していますが、「悲しんだ」と語は、分析すると
「自ら苦しみを覚える」と語なので、心の中で深く痛めているわけです。
またご指摘通り、悔いたり心を痛めたりする「人間的な」神ですね

725atheist:2024/01/08(月) 05:38:52 ID:???
>>724
例によって寝落ちしてしまいました

やはりネフィリムのところは古代オリエントの神話が素材になってるんですね
フランシスコ会訳注の説明はかなり強引にユダヤキリスト教の枠内で物語を解釈しようとしてますね

心を痛める神というのはおそらく神話が人間世界の投影である限り
ごく普通のことであるのに、ヤハウェが絶対神、唯一神化されていくに従って
徐々にその「人間性」が希釈され抽象化されていったのだと思います
イエスの物語は抽象的な神を再び地に降ろし具体的な現実の中で
その本質、つまりは愛を語ろうとしたものなんだろうと思います

726福音伝道:2024/01/08(月) 09:16:16 ID:8zhBGqb2
>>725
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は創世記7章です。

1994年刊 日本基督教団出版局『目で見る 聖書の時代』月本昭男 1600円によると
考古学的には1960年代以降、初期鉄器時代(BC13C末-12C)の小さな居住遺跡が、
イスラエル全域(南はネゲブから北はガリラヤまで)の山地や丘陵地帯に、突如として
300以上も出現することが判明し、10から100人の満たない民家が小家畜用の広場を
囲むようにしてできているそうです。また数世代後、広場には公共の建物や穀物貯蔵施設が
建てられ、居住地は次第に拡大していっているそうです。
で、出土した土器の形態は、後のイスラエルの特徴を示しているをので、最初期の
イスラエルの諸部族の居住地であろうと推定されています。

つまりイスラエルの諸部族は、BC13末から12Cにかけて、カナンの山地や丘陵地帯で
小規模ながら、小家畜飼育から定住農耕へと移行していったことが考古学的に確認
されているそうです。カナンを武力制圧したというよりは徐々に平和浸透していった
というのが歴史的事実に近いようです。

また文字は、BC3000年頃にシュメルの絵文字が最初で、これから発達して、
バビロニアやアッシリアでは楔形文字ができたそうです。
一方でBC3000年頃にエジプトでは象形文字が生まれたそうです。
一方でカナンでは字数が600もある楔形文字や700字もある象形文字は難解すぎる
ので、習得に専門的な訓練を必要としない、わづか22字の表音文字を使用し、
誰でも使えるので、簡単な「農事歴」などを庶民が壊れた土器にメモしていました。
つまり文字もカナン人の文字をイスラエルはパクっています。

そういう背景があり、300以上の諸部族が連合して一つになるにあたって
先行する現地の文化や神話、各部族の伝承する神話を統合していったのかもですね
その中で多神教世界の断片や人間的な神神の話も残っているのかもです

727atheist:2024/01/09(火) 03:03:05 ID:???
>>726
イスラエルの起源については、わたしも読んだ本などからだいたい同じような印象を持っています
基本的にはイスラエルの起源に関して大きく分けると3つの説があるそうです
ひとつは伝統的な征服説、2つ目が先生が紹介している平和的浸透説、3つ目は
社会革命説、ということらしいです

このうち征服説、特にヨシュア記に描かれているような短期間の征服は
現在ではほぼ否定されているそうで、平和的浸透説が主流、社会革命説が
傍流という印象でした

平和的浸透説に関しても平地にいたカナン人の一部が丘陵地帯に進出あいるは逃避したと
考える人と、外部から徐々に丘陵地帯に入ってきたと考える人、及びカナン人と外部の人の複合と
考える人がいて
カナン人の進出説の理由として社会的革命説が唱えられた、という感じみたいです

征服説や外部からの浸透説に一定の支持があるのはヤハウェという神が
カナン人の神々(Canaanite Pantheon)に属していないことがひとつの理由になっているようで
おそらくミディアン地方で信仰されていた神が、後にイスラエルの一部となる人たちによって
もたらされたか、あるいはなんらかの理由でイスラエルで信仰されるようになったのだろうと
推測されますが、なにぶんにも考古学的証拠がそれほど潤沢ではないので
あくまでも推測の域を出ないようです


さて7章はノアの洪水の箇所ですね

もちろんこの箇所はシュメール神話の焼き直しですが
ヘブライ語聖書の文脈では、人類の堕落と結び付けられて
正しい人の選別の意味を持たされています
創造→被造物の堕落→選別(救い)と滅びという流れはのちのキリスト教にも受け継がれています
またユダヤ教でも神の懲罰と契約という原型がこの物語で出来上がったように思います
その意味では単にシュメール神話のパクリとして一蹴してしまうわけにはいかない射程を
もっているのだろうと思います

728福音伝道:2024/01/09(火) 05:45:49 ID:8zhBGqb2
>>727
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は創世記8章です。

南メソポタミアのユーフラテス川沿岸のシュメル遺跡では
ウルでBC4000紀末に厚さ3mの泥水による粘土層が発見されたそうです。
他にもキシュ、シュルパックで洪水の跡が発見されましたが、時代は一致してない
そうです。つまりメソポタミア全土を覆うような大洪水はありませんでしたが、
洪水は頻繁にあったようで、バビロニアに複数の洪水物語が生まれたようです。

これらの洪水物語は、神々の気まぐれであったり、
人間が増えすぎてやかましくなったから滅ぼそうと神が決める点にあります。
聖書では人間が悪になったので洪水で滅ぼそうと決めますので
「やかましい」という点が「悪」と骨格は似ていると私は思います。

フランシスコ会訳注の注目点は「雄牝7匹づつ」について
三つのつがい+犠牲獣としての1匹と解釈しています。
洪水後、どこから犠牲獣を準備したんだと小学生の私は疑問でしたので
なるほど、と思いました。そう解釈できるのか、と。
ノアの息子たちも三夫婦という三つがいですし、何か意味があるのかもです

729atheist:2024/01/10(水) 01:49:56 ID:???
>>728
いわゆる四大文明(これは日本だけの言い回しで外国ではこのようなまとめ方はしないようです)は
大河の洪水に肥沃な土壌を依存していましたから、洪水は恵みでもあったわけですが
当然その洪水の規模によってはそこに住んでいる人にとっては壊滅的な破壊をもたらしもしたでしょうから
このような洪水神話がたくさん残っているのでしょうね

雄雌7匹ずつというのは雄7匹、雌7匹ということではないんですね
雌雄合わせて7匹なら、たしかに3つがい+1匹となって、その1匹は何なんだ、ってことになりますね
それが犠牲獣ということですね


さて8章は引き続きノアのお話です

洪水が止み、水が引いて、いよいよノアたちは地上に降り立ち
これから再び地に満ちていく、という流れです

神は燔祭の香ばしい香りをかいで、もう二度とすべての生き物を滅ぼすようなことはしない
と誓います
面白いのはその理由として「人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである。」と言われている点です

これは人は生まれたときから悪に染まっているので、義人だけを選別しても仕方がない、
ということでしょうか?

730福音伝道:2024/01/10(水) 06:43:35 ID:8zhBGqb2
>>729
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は創世記9章です。

「人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである。」を
原文直訳すると
人の心のイェーツェル(衝動)は、彼の少年時代から悪い

悪いは「ラア」が使用されています。
【善トーブ と 悪ラア を知るための木】のラアです。

イザヤ45:7
わたしは光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する。
わたしは主である、すべてこれらの事をなす者である。

ヘブライ語聖書の神は、一元的に善も悪も一人でなされますが、
「わざわい」がラアです。

ラアは「悪」「わざわい」の両義を持つ語です。

人は少年時代から、その心は悪の衝動を一日中持っているが、悪だからと言って
滅ぼすのはやめた。ということですね。
そして次章で契約を立てられます

731atheist:2024/01/11(木) 01:17:48 ID:???
>>730
人間は一見すると悪意などなさそうに見える幼少期から悪への衝動をもっているものだから
それを飲み込んだ上で滅ぼすのをやめて人間と契約を結ぼう、という流れですね

神が考え方を見直す、というのもキリスト教の神観念に慣れたわれわれには新鮮な感じがします


さて9章はノア契約の箇所ですね

簡単に言えば、繁殖、食肉、血抜き、殺人の禁止を人に許可ないしは指示し
神は二度と洪水によって生き物を滅ぼさないと約束します
その契約の印として虹を置く、と

なかでも重要なのは繁殖の指示で、生殖に対して否定的な仏教と著しい対照をなすように思います
反出生主義などはダイレクトに仏教的な世界観に通じるものがあって
ユダヤ教的な繁殖奨励の思想とはずいぶん異なる印象を受けます

後半にはノアの裸体の話が出てきますが
いやなんでこの流れでハムの息子のカナンが呪われなきゃらなんのよ、と思ってしまいますw
まあ父であるノアの裸を見てしまったハムの子孫は呪われよ、ということなんでしょうが
どう見ても酔っ払って勝手に裸で寝てたノアが悪いですw

732福音伝道:2024/01/11(木) 06:08:41 ID:8zhBGqb2
>>731
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は創世記10章です。

ノアが祝福され、「産めよ、増やせよ」という命令が繰り返され
再編成された人類の新たな始祖とされます。
そして神は片務契約を立て、ノアに義務を課すことなく、神だけが義務を
負います。約束によって神は自分を義務拘束するのですね。
以上はハーパーによると、アブラハムの契約に似ているそうで、
両者ともP資料だそうです。

またノアの裸体の話はハーパーの推測では
類型としては、ロトの泥水が娘たちとの性的不法行為だったように、
婉曲的にハムの「自分の父の裸をさらす」行為は性的不法行為を暗示している
かもしれないし、そうではなくて単に文字通り、父に対する敬意の欠如かもしれ
ないが、ハムの行為は結果的に息子に呪いを招き、他の兄弟の奴隷となることに
なった、と。

フランシスコ会訳注は、ノアは人類の第二始祖とされたが
アダムに許されたのは食べ物として植物だけが与えられたが
ノアは、力づくで動物を支配し、食べ物にしてもよいことになった。
但し、血は魂なので神へ返して、食用を禁じられたそうです。
かくして、動物と人間との間の平和がなくなったそうです。

またフランシスコ会訳注は、裸体事件を解析します。
18節ではハムは次男。24節では末の息子になっている。なぜか
20-27節は、セム、ヤフェト、カナンをノアの息子とする古いJ資料で
22節「…の父ハム」は後代の付加で、この伝承では犯人は末の息子のカナンだった
のであろうと推定しています。
またハムはすでに神から祝福された者なので、犯人ではあるが、呪いの対象とならず
呪いの対象が息子のカナンになったとする解釈も可能とか
またイスラエル人(セム族)に征服されたカナン人は堕落した民族であったと
キリスト教神学的暴論を書いています。

とはいえ真相はカナン人を呪われた悪者の仕立てたかったのであろうと
思います。

福音派の解釈によると、ノアの失態はテストであった。
ハムは、他の兄弟へ告げ口することで「反逆の霊」を露呈させた
他の兄弟は醜態を見ないように後ろ向きに近づき父を衣で覆い
テストに合格したそうです

733atheist:2024/01/12(金) 01:04:18 ID:???
>>732
たしかにアブラハムの契約に似ているかもしれませんね
どちらも子孫の繁栄が約束されています

ノアの裸体については、性的不法行為を婉曲的に表している可能性もあるのですか
そういったことでもない限り、これほどの呪いには見合わないかもしれまえん

ノアの契約では、はっきりと肉食が示されましたね
それと同時に血に対する禁忌も明確化されています
このあたりがP資料的な特徴を示す部分なんでしょうか

フランシスコ会訳注も推測の域を出ないのでしょうが
イスラエル民族から見たカナン人を反映した物語なのかもしれません
カナン人にとってはずいぶん一方的な言い方ですが
ヤハウェを唯一神とする信仰からはカナン人の多神教や宗教儀式は
堕落そのものと映ったのでしょうね

福音派の解釈はちょっと強引すぎる気がします


さて10章はノアの子、セム、ハム、ヤペテの系譜ですね

ハム→カナン→ヘテ(ヒッタイト)の系譜で分かる通り、民族の由来としては
著しく不正確なもので、単に当時の諸民族の由来を神話的に推量してまとめたものなのでしょう

系図のなかで特に特異な記述をされているのがニムロデですが
、11節でアッシリアのに関連付けられていますから、権勢を誇ったアッシリア王の誰かが
重ね合わされているように読めます

734暇人 A:2024/01/12(金) 05:58:35 ID:8zhBGqb2
>>733
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は創世記11章です。

実際は、放牧民が丘陵地帯に数百部族いて、平地の農耕カナン人と平和的に交流し
農業を学び取り入れ、婚姻し、土着宗教を取り入れ、最終的には地元カナン人と
ひとつになって行ったのでしょうけど、祭司階級が信仰の純化を描くために
カナン人を悪者にしたのかもですね。ヨシュア記でエリコの戦いが描かれていますが
実際はエリコも次の攻略都市も廃墟だったようです。廃墟を武力侵攻して住民殲滅
舌と言う物語を創作しています。

フランシスコ会訳注によると、著者は自分の知っているすべての民族の家系を
遡って、ノアの三人の息子の名と結び、全人類が同一の祖先から出ていると述べている
そうです。
しかもP伝承を土台にJ資料も織り込み、更に著者自身の加筆もあるそうで
7節ハビラとシェバはハムの子孫だが、28,29節ではセムの子孫と矛盾を気にせず
挿入しているそうです。
分類の傾向は人種学的ではなく地理学的だそうです
ヤフェトの子孫…北から西にかけて 小アジア カスピ海 黒海 地中海沿岸
ハムの子孫…南方 アフリカ北東部 その対岸地方 カナン(パレスティナ)
セムの子孫…東方 メソポタミア アラビア
すべての民族の中で神の民としてイスラエルが選ばれた民であり、その特権を
描くことにあるそうです。

ニムロデ…原文ではニムロッド。「反乱を起こす」という意味です。
勇士で狩人として描かれています。

聖書辞典は「古代バビロニアのただひとりの王」
「バベル、ウルク、アッカド諸都市を含む古代王国の建設者」としています。

wikiでは
「古来、伝説上ニネヴェを建設したとされるニノスとニムロドを同一視する説がある
が、最新の研究では、アッカドの狩猟農耕の神と讃えられたニヌルタ、あるいは、
王名にその名を冠したトゥクルティ・ニヌルタ、あるいは、『シュメール王名表』に
ウルクの初代王として記録されているエンメルカルなどがニムロドと見立てられている。」

735atheist:2024/01/13(土) 01:29:13 ID:???
>>734
エリコの戦いの考古学的痕跡がないことが征服説が否定された最初の根拠だったようです
その他にも原イスラエル人の居住地と考えられる遺跡はほとんどが東側ではなく西側にあること、
土器の類似性など、イスラエル人は実際はカナン人から派生したであろう証拠がかなりあるそうです

いずれにしても、イスラエルはカナン人とは異なる自民族のアイデンティティを確立するために
征服物語を創作し、カナン人の神々を偶像として誹謗し、
自分たちがカナン人とは異なることを強調したかったのでしょうね

ノアの三人の息子の系譜は、要は自分たちがその当時知っていた民族を
すべてノアの息子の子孫として物語ったということですね
まあ神話というのはそういったものですから、なにもこの点はユダヤ人独自というわけではないですね


さて11章はバベルの塔のお話ですね

といっても大半は例によって系図に費やしていますから
まあアブラハム(アブラム)に至るまでの系図の導入といったところでしょうか

バベルの塔のお話も、世に様々な言語があることの由来譚だと思いますが
ユダヤキリスト教的には人間の傲慢や高慢を示す物語として読まれているということに
なりそうですね

736福音伝道:2024/01/13(土) 07:22:41 ID:8zhBGqb2
>>735
atheistさん、おはようございます。本日と明日の聖句は創世記12章です。

フランシスコ会訳注によると、
バビロニアでは、「バベル」は「神の門」。「バビロン」は「神々の門」だそうです
このような聖所はジグラドと呼ばれ「神々の聖所」として建てられたそうです。

また、「バベル」はヘブライ語の「バラル」(混乱する)と言葉遊びされている
そうです。

11:9原文直訳
それ故、彼は、その名をバベルと呼んだ。
なぜならそこで(バベルで)、主が全地の言語をバラル(乱された)からである。

737atheist:2024/01/14(日) 03:53:00 ID:???
>>736
バベルはバビロンと関係があると思ってましたが
神が複数になるだけで、ほぼいっしょですね
またヘブライ語の「混乱する」とも音が近く、ここでも言葉遊びが行われているということですね


さて12章はアブラハムが父と分かれてカナン、そしてエジプトの地へと進む箇所です

ここでは神がアブラハムにカナンの地を与える約束をしています
さらにエジプトではサライにまつわる物語で、出エジプト以前に
イスラエルの民が神に寄って守られていることを暗示させます
サライはこの時点ではファラオの目に留まるほど「美しい女」とされていますが
もうけっこういい年のおばあさんになっているはずですから
それはどうなのよ?と思います
と言っても聖書の物語では何百歳という歳が平気で出てきますから
その辺は気にしなかったんでしょうね

738福音伝道:2024/01/14(日) 09:04:24 ID:8zhBGqb2
>>737
atheistさん、おはようございます。明日の月曜日の聖句は創世記13章です。

11章によると、アブラムはウルで生まれて、父に連れられて、カナンを目指したが
ハランに住み着いていたことになっているが、
12章では、アブラムが
「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」
と言われている。

この「国」は原語では「出生地」という意味なのでウルのはずなのだが。
「故郷」には「親族の地」の意味があり、アブラムはハランを「親族の地」と
していたからハランのことだし、「父の家」はハランにあったはずだ。

さてサライは何者か。11章の原文を読む限りでは、叔父ハランの娘である。
11:29原文直訳
そしてアブラムとナホルは彼ら自身に妻を娶った。
アブラムの妻の名はサライ(私の王女)。そしてナホルの妻の名はミルカ(女王)。
ハランの娘である。ミルカの父であり、イスカ―「見る」の父である。
・・・・
この文は、叔父ハランの娘たちをアブラム・ナホル兄弟が娶り、
サライの別名が「見る」、つまり「先見者」であると書かれているように思う。
またサライは「私の王女」 ミルカは「女王」の意であり、
叔父の名ハランが、同地の地名ハランと同名であり、ここでハランが亡くなった
とされることから、実はハランの地元の族長の娘らをアブラム・ナホルが娶り
ナホルは同地に土着し、アブラムはカナンを目指したが、アブラムの親族の地
となったのではなかろうかと妄想しています。

アブラムは美人妻を異母妹と称してエジプト王に妻として差し出すことで
優遇されたようなので、倫理観もなにもあったものではないですよね
キリスト者はなぜアブラムに腹を立てないか不思議。

エジプト入りが何歳かわかりませんが、出ハラン時でアブラム75歳。サライ65歳。
美人とはいえ65歳の女性をフォラオが召し出すのだろうか。

739atheist:2024/01/15(月) 01:41:36 ID:???
>>738
わたしは単純にウル→ハラン→カナン→エジプトという経路で捉えていたので
特に「国」については気にしてませんでしたが、出生地となると聖書上はウルになってしまいますね

サライ、ミルカがそれぞれ私の王女、女王の意味であれば
たしかに身分の高い家柄を暗示させますね
アブラハムはハランを出てカナンの地に新しい族長の領域を作ろうとしたのかもしれません

サライがアブラムの妻だとサライが奪われた上でアブラムが殺されるので
妹としてファラオに差し出せば、倫理的にはともかくアブラムの身は助かる、ということなのでしょうね

740福音伝道:2024/01/15(月) 05:37:51 ID:8zhBGqb2
>>739
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は創世記13章です。

ウルは現在のイラク南部、ジーカール県のテル・エル=ムッケイヤルで、
割と内陸なのですが、古代ではてユーフラテス川がペルシア湾に注ぐ河口そばに
位置する都市だったそうです。
BC6500頃に人が居住し、BC3000にはウル第一王朝、
BC10000頃に新アッシリア帝国及び新バビロニア帝国の支配を受けるようになって
BC500年頃まで都市があったそうです。

ハランは現在のトルコ南東部のシャンルウルファ県ハッラーン。
ユーフラテス川やその支流バリフ川の上流の平原にあり、土壌は肥沃で雨量も
メソポタミア南部より多く、農耕が早くから行われた地であった。そうです。
BC14Cには、ヒッタイトによって、焼き払われ、BC763には新アッシリアから略奪に遭い
以来アッシリアの支配を受けていたが、BC612新バビロニアに首都ニネベが陥落すると
アッシリアの亡命政府がハッラーンに置かれたがBC608に陥落
というように、大都市であるがゆえに戦禍も多かったみたいです。

もしかすると、先祖がイラクからユーフラテスを遡上し、ハランに至り
定着し、ハランに親族も増えたが、戦禍が多いのでアブラムはハランを
捨てたのかもですね でもハランは親族の地なので、嫁捕りはハランで
みたいな感じだったのかもです。息子イサクがハランのラバンの娘を娶り、
孫ヤコブがハランの親族の下で20年働く。

741atheist:2024/01/16(火) 02:54:00 ID:???
>>740
ウルはシュメール文明等でも有名ですが
ハランも古代ではけっこう大きな都市だったんですね
ハランに戦禍が多かったのであれば、アブラハムたちが
移動を重ねたのも分かるような気がします


さて13章はアブラハムとロトがエジプトを出てカナンの地に新たな居を構える箇所ですね

アブラハムらが遊牧状態でも「家畜と金銀に非常に富んでいた」ということは
相当大きな一族をすでに形成していたものと思われます
そこでアブラハムとロトは別れますが、ロトの選択したヨルダンの低地には
例のソドムとゴモラがあったわけですね

ともかくもアブラハムはいったんエジプトまで下ったものの
ようやくカナンの地に至り、神は再びアブラハムにこの地を約束します
始祖の段階で再三カナンの地が約束されているということは
ユダヤ人のこの地に対する執念を感じさせます

742福音伝道:2024/01/16(火) 06:16:27 ID:8zhBGqb2
>>741
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は創世記14章です。

13:2直訳
そしてアブラムは家畜で、銀で、そして金で非常に重い。

「家畜」は「買う」の派生語で「買われるモノ」
「売買される商品としての家畜」のことです。
古代にあって、エジプトでかなりの金持ちになっていたと描写されています。

ロトもまた、羊の群れと、牛の群れと、天幕とがあった とあり、
「家畜」は「羊の群れ」「牛の群れ」だったようです。

そして豊かになった故に、アブラムとロトの羊飼いたちの間で
トラブルがあった。
二人が豊かになったために土地は定住するために十分ではなかったという。

豊かさが争いを生むわけです。とても示唆的であると思います。

15節直訳
なぜなら、あなたが見ている所の全地を私はお前に与えよう。
またあなたの子孫まで永遠に。

今のパレスティナの大量虐殺を見ると「怖い聖句」です。

ロトはどこへ行くかの優先権をアブラムからもらい、見たところ一番良い場所を
選びます。「主の園のように」「エジプトの地のように」
ヨルダン川の低地は潤っていたそうです。

743atheist:2024/01/17(水) 00:27:36 ID:???
>>742
ここでの「家畜」が「買われるモノ」であれば、やはり単純に金持ちであることを強調しているようですね
基本的に争いは所有をめぐって起こりますね
特に土地の所有をめぐって古今東西どれほど多くの血が流されてきたかを考えると
アブラハムのとった行動はなかなか賢明な行動だったと言えるかもしれません


さて14章はアブラハム周辺で起こった争い事についての記述ですが
なにぶんにも固有名詞が多すぎて、よく分からなくなりますw

ともかくアブラハムは奪われたロトとその財産を奪い返しますが
そのとき出陣したのが318名ということで、これは一族というか一家族としては
たいへん大きな数であったように思います

18節でサレムの王メルキゼデクが出てきますが
ここではいと高き神の祭司と言われています
メルキゼデクもヘブライ語聖書ではそれほど多く出てくるわけではないのに
新約聖書の書簡ではイエスに匹敵するほどに評価されています
ほとんどこの一箇所だけで、なぜこれほどまでに評価されるようになったのでしょうか?

744福音伝道:2024/01/17(水) 06:12:31 ID:8zhBGqb2
>>743
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は創世記15章です。

ハーパーによると14章は伝統的な五書資料のいづれにも結び付けられないそうです。
戦争記録とアブラム英雄物語からなるそうです。
最も近いのはダビデの対アマレク人討伐遠征(Ⅱサム30章)だそうです。

アブラムがヘブライ人と呼ばれているのも318名の部下も他に類例がないそうです。

サレムの王で、エルヨーン神の祭司であるメルキセデクが、アブラムを祝福したところ
から、ヘブライ語聖書では、エルヨン神とヤハウェとの同一視がなされました。
そしてサレムとは、エルサレムのことで、各地にあった神殿を否定し
エルサレムのみを聖地とする神学を捕囚後、ユダヤ人は形成していたのですが
その元祖をアブラムまで遡れるという神話をここで描いているのです。
それがメルキセデクのアブラムに対する祝福と、お礼としての1/10税の支払いです。

原文は、「エル・エルヨン」ですが訳すと「神・いと高き」です。

詩編110:4主は誓いを立てて、み心を変えられることはない、
「あなたはメルキゼデクの位にしたがってとこしえに祭司である」
ヘブライ書5-7章で8か所 メルキゼデクは出てきます
7:1このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司であったが、王たちを
撃破して帰るアブラハムを迎えて祝福し、
7:2それに対して、アブラハムは彼にすべての物の十分の一を分け与えたのである。
その名の意味は、第一に義の王、次にまたサレムの王、すなわち平和の王である。
7:3彼には父がなく、母がなく、系図がなく、生涯の初めもなく、生命の終りもなく、
神の子のようであって、いつまでも祭司なのである。

745atheist:2024/01/18(木) 01:33:28 ID:???
>>744
14章はJEDPのいずれにも属さないんですね
ということはおそらくですが、後代になってから
カナン神話系列のエルとイスラエル民族神話のなかで後に唯一神となるヤハウェを
同一存在として扱うためにエル・エリヨンの祭司がアブラハムを祝福したという話を創作したと
読めそうですね

その意味ではヤハウェを唯一神とする民族の族長物語の元祖と言えるアブラハムに
祝福を与えると同時に、カナン神話のエルとヤハウェを結びつけることになるメルキゼデクの
役割は神話形成史において、極めて重要ということが言えそうです
ヘブライ書でここまで高く評価されているのも筆者がこういったメルキゼデクの役割を
直感的に掴んでいたからかもしれません


さて15章はこのあとの族長物語から出エジプト記までの神話を神が予言する形で書かれています
またアブラハムに子ができることも予言されています
言ってみれば、これからの物語の予告編といった感じです

終盤18節以下はカナン諸民族の地がイスラエル民族に与えられるという形で
イスラエル民族のカナンの地への権利を神話的に正当化していますね

746福音伝道:2024/01/18(木) 06:06:23 ID:8zhBGqb2
>>745
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は創世記16章です。

ダマスコのエリエゼル…聖書辞典では家令とあります。

17節 煙の立つかまど、炎の出るたいまつが、裂いたものの間を通り過ぎた。

松明の契約ですね。切り裂かれた犠牲獣の間を通り過ぎることで「契約」とする
風習が古代にあったそうです。

「わたしはこの地をあなたの子孫に与える。
エジプトの川から、かの大川ユフラテまで。」
エジプトからシリア、トルコ、イラクまで与えるとありますが
ここまで広大な領土をアブラムの子孫が得たことはありません。
これは当時の人にとって全世界を与えるという比喩表現だったのだろうと
思います

747atheist:2024/01/19(金) 01:10:12 ID:???
>>746
家令ということは奴隷長という感じですかね
奴隷と言っても近世アメリカの黒人奴隷のようなものではなく
実質的には寝食を共にする雇われ人という感じに近いでしょうが

犠牲獣を切り裂いてその間を通り抜けるという契約の儀式は変わってますね
どんな由来があるんでしょうかね

エジプトの川から、かの大川ユフラテまでというのは
当時の世界ではほぼ文明の及ぶ地域すべてという捉え方だったんでしょうね


さて16章はサラ(サライ)とハガルの話ですね

まずはサラの側からアブラハムにハガイを与えたのに、サラは5節で
「わたしが受けた害はあなたの責任です。」と言ってます
これは書かれてはいませんが、ハガイがサラを見下したのは
アブラハムがハガイを正妻のように扱ったためだ、とサラは非難したということでしょうか

ハガイはサラの「いじめ」を避けて逃げますが、神はハガイに温情をかけます
そしてハガイの子孫は数え切れないほどになると言いながら
12節ではまるでハガイの子孫は他の全人類の敵であるかのように言ってます
これはどういうことでしょうか

あとは13節のエル・ロイですね
このエルは神の意のエルと同じということでしょうか

748福音伝道:2024/01/19(金) 06:29:48 ID:8zhBGqb2
>>747
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は創世記17章です。

家令とありますから、僕の長であったのでしょうね。しかもアブラムの家で
生まれたとありますので、生まれた時からよく知っている方であったのでしょう。

変わった契約と註も書いてありました。

サライは当時の習慣である、「娠できなければ、代わりにはしためを主人に
与え、生まれた子は自分の子とする」方法に従ったのです。
ところが、はしためのハガルは自分が身籠ると、女主人サライを軽んじた。
習慣違反したのでサライは怒ったのですね。
そして主人のアブラムの許可のもと、サライは、はしためハガルを折檻しました。
するとハガルはびびって逃亡。
するととある井戸で、神の使いに会った
神の使いは、ハガルを諭し、従順に女主人サライに仕えなさいと命じた。
そして、ハガルとその子孫が繁栄すると予言しました。
ハガルは感謝して、み使いを「見る・神」と呼んだ。
そして女主人に許しを請い、従順に使え、アブラムの子イシュマルを生みました、とさ。

エル・ロイのエルは「神」です。「ロイ」は見る、です。
「見る神」ないし意訳して「顧みる神」まで原意を踏まえてますが
キリスト教やユダヤ教の神学では、神を見たら死にますので
「わたしは本当に神を見たのに、まだ生きているのか」と読み替えるそうです。
ご苦労なことです

ハーパーは代理出産制度で法的にサライの子となると解説しています。
4節 女主人を見下げるようになった
原文直訳 そして彼女の女主人は、彼女の目に、キッレールされた
キッレール は呪われたという意味。
侮蔑したと訳されていますが、原意は呪ったです。

12節 イシュマルは、後にアラブ人の先祖と信じられるようになり、イスラム教では
神の特別加護があった特別な存在とされているそうです。

資料仮説的には、ハガルの逃亡がJ資料。説得されて戻ってくるのは別資料。
イサクが生まれた後、21章で追放されるのがエロヒスト資料だそうです

749atheist:2024/01/20(土) 04:28:35 ID:???
>>748
ということはサラが自発的にそういった提案をしたと言うよりも
当時の慣習に従っただけで、法的には代理出産の扱いになって
ハガルの子はサラの子になるはずなのに、逆にハガルのほうが図に乗ったということですね

エル・ロイは「見る神」ということで、神学的には神を見たらまずいので
読み替えが行われたということですね

12節がなぜハガルの子孫を「敵」とするのか分かりませんが
のちのアラブ人の祖とされるわけですから、物語を造ったユダヤ人に
アラブ人への反感があったのかもしれませんね


さて17章はこれまでの契約をまとめて、さらに割礼の契約を示したところですね
またここでようやくアブラムがアブラハムに、サライがサラに改名されて
サラに子ができることが予言されます

イシュマエル及びその子孫にも割礼が義務付けられるということは
ヘブライ語聖書も尊重するイスラム教徒も割礼が義務になっているということでしょうか

750福音伝道:2024/01/20(土) 08:47:06 ID:8zhBGqb2
>>749
atheistさん、おはようございます。本日と明日の聖句は創世記18章です。

エル・シャダイが出てきます。フランシスコ会訳とハーパーはも共に「山の神」と
解説しています。そして伝統的に「全能の神」と訳される、と。
そもそもユダヤ人は牧畜の諸部族が丘陵や山地に住んでいて、徐々に平地の農耕民と
平和的に交雑していったのですから、「山の神」を崇めていたというのは説得力が
あります。
ハーパーは、バアルはツァフォン山に、ヤハウェはシナイ山やシオン山にしばしば
関連付けられることを指摘。

さて17章は、神との契約のP資料版だそうです。
「永遠の契約」と言われ、「割礼」がしるしとなります。
ぐぐりますとwikiに
イスラム教では生後7日か10-12歳頃までに割礼を受けるそうです。
これはコーランには規定がなく、ハディース(ムハンマド言行録)に言及があり
スンナ(慣習)として行われるそうです。
聖書では8日目までにとありますが、イシュマエル自身は13歳で割礼されてい
ますので、やはり17章に従っているのでしょう。

751福音伝道:2024/01/20(土) 08:51:21 ID:8zhBGqb2
17節で、アブラムは笑います。
イツハクが「彼は笑った、笑う」という意味なのですが
19節で「お前は彼の名をイツハクと呼べ」と神から命ぜられます。

ここにも言葉遊びがあります。

752atheist:2024/01/21(日) 09:11:04 ID:???
>>750
また寝落ちしてしまいましたw

エル・シャダイは元々「山の神」という意味である可能性があるわけですね
わたしはそのまま「全能の神」という意味だと思ってました

たしかに割礼等厳格な宗教儀礼が書かれた箇所ですから
P資料というのは頷けます

やはりイスラム教にも割礼はあるんですね

イサクに限らず、創世記ではよく人名・地名の由来譚が描かれてますね


さて18章はアブラハムに現れた「三人の人」がサラの懐妊を予言する箇所、
それに続いてソドムとゴモラに関するアブラハムとの問答です

創世記では人の寿命が長く、高齢になっても子を産んだりしますが
11節にあるとおり、すでに老齢に至り、更年期に入っていることが書かれていますから
老化自体は今の人間とさほど変わらなかった、という認識なのでしょう

「三人の人」はキリスト教では三位一体を示唆していると言われたりしますが
ユダヤ教ではこの人たちはどのような扱いになっているのでしょうか?
発言の内容から神の御使いであるように描かれいるように思われます

後半の箇所は以前も読みましたね
正しい人がいったい何人いれば赦されるのか、という問題です

753福音伝道:2024/01/21(日) 20:23:23 ID:8zhBGqb2
>>752
atheistさん、こんばんは。明日の月曜日の聖句は創世記19章です。

「三人の人」をフランシスコ会訳は、主とみ使い二人としています。
ハーパーは、カナン神話では、主神が二人の従者を伴って出没するのは定番だそうで
ここでは、ヤハウェと、その随行員二人という形で現れているそうです。

ハーパーによると、何人の義人がいればという問題は
エレ5:1では、「たった一人の義人がエルサレムを救う」とされ
エゼ14:12-20は「義人は自分一人を救うにすぎない」とされているそうです
18:22-33はハーパーによると後代の加筆だそうです

754atheist:2024/01/22(月) 01:38:12 ID:???
>>753
なるほど、おそらくはカナン神話の影響で「神+御使い(従者)2人」というのが
ユダヤ教ないしはリベラルな聖書学の定番的な理解になりそうですね

義人の数の問題はひとりでもよしとする場合と自分以外救えないという場合に分かれちゃうんですね
これはキリスト教の終末問題とも絡んで興味深い問題です

755福音伝道:2024/01/22(月) 05:34:46 ID:8zhBGqb2
>>754
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は創世記19章です。

私が参考にしています
北海道砂川市にある空知太栄光キリスト教会の銘形秀則牧師の『牧師の書斎』HPも

「ところで、三人の正体は次第に明らかになっていきます(18:20/19:1)が、
そのうちの一人は「主」(יהוה)ご自身です。後の二人は御使いです。
アブラハムと対話しているのは「主」なのです。」
と福音派の牧師さんも同じ立場です。

756atheist:2024/01/23(火) 00:44:47 ID:???
>>755
ということはほぼこの三人は「神と御使い」という解釈で一致してるんですね


さて19章はソドムとゴモラの話及びロトとその娘たちの話ですね

これはたしか以前も休日分かなにかで読んだと思います
現代的な感覚で言えば、いくらなんでも娘を「客人」の身代わりに差し出そうとするのは
抵抗がありますが、ともかくソドムとゴモラはその腐敗のために滅ぼされます
ロトの妻のエピソードは実際にあった塩の柱の神話的由来譚でしょう

さらにえげつないのがロトのその娘たちの性交ですが
その子孫がモアブとアンモンというイスラエルの隣国にして敵国ということで
これもまた敵国の由来を近親相姦という不貞に求めた一種の由来譚だと思います

この章のエピソードは同性愛や近親相姦といった性的にタブーとされる行為が
描かれていますが、神話的物語を通じて実際に行われていたこういった行為への
禁忌を促していたのだろうと思います

757福音伝道:2024/01/23(火) 05:39:13 ID:8zhBGqb2
>>756
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は創世記20章です

5節 われわれは彼らを知るであろう
「知る」は、単純能動態願望形・一人称複数
「我々は知りたい」が直訳ですが、フランシスコ会訳によると「ソドムの罪」と
言われる男色を意味すると。確かに女を知ると聖書にあると、セクスするという
意味なので、そうなのかもしれません。

要するに、男色でなぶりものにするから旅人ふたりを出せとロトに要求があった。
それで身代わりに処女の娘ふたりを提供するので赦せと提案するという流れですね
この時代、娘は父の所有物でしかなかった上に、ロトはホストとして客人の安全の
責任を負ったからですね
ハーパーは土師記19:10-30との類似に注目しています。
こちら自分の処女の娘と旅人の女を差し出すのですが、
旅人の女だけが一晩中、凌辱されます。そして朝になり女を連れ帰って
12等分に切り分けイスラエル中に送りつけるという
残忍な物語になっています。70人訳は女が「死んでいたからである」と
付加していますが、原文にはなく生死不明です。
いづれにせよ現代感覚では理解しがたいのですが

ロトの娘たちとは「寝たシャーカブ」が6回も使われています。
この語は、男性が女と寝た、とつかわれる語なのですが、ここでは
娘がロトと寝たと逆転されています。
また名づけは父がするものですが、娘たちが名づけています。
古代の家父長的制度の下の性的常識が逆立ちされています。

758atheist:2024/01/24(水) 01:41:43 ID:???
>>757
古代社会では女は男の財産とみなされていましたから
こういった娘の扱いはさほど抵抗がなかったのかもしれませんね
むしろ客人に害を与えるほうが名誉の問題として許されざることだったのでしょう
そういえば士師記にもそういうえげつない話がありましたね

たしかにロトと娘たちの近親相姦は娘たちに主導権がありますね
古代の女たちにとっては子を生むことが女の最高の価値でしたから
ここまでして子孫を残そうとしたのでしょうね


さて20章はファラオとサラの話のアビメレクバージョンといったところです

2節の「召し入れた」が具体的にどのようなことか分かりませんが
4節でまだサラに近づいていなかった、と言われているので
妻としてアビメレクの家に入れたが、まだ手はつけていなかった、ということだと思います

いずれにしてもアビメレクは何も悪いことはなく、むしろアブラハムたちの「嘘」により
不当に災難を受けたという感じです

12節でサラはアブラハムの父の娘と言われているので異母兄妹ということになると思いますが
妻ということを隠していたので、やはり非はアブラハム側にあると言える気がします

とはいえ、これも神によるアブラハムの庇護と恩恵という物語の一部なのでしょうね

759福音伝道:2024/01/24(水) 06:08:54 ID:8zhBGqb2
>>758
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は創世記21章です。

ハーパーによると、妻を妹と偽る物語のE資料版だそうです。
12章ではファラオとサラは性交渉をしますが、ここでは神がアビメレクに警告し
妨げられます。
特徴としては、エロヒームという名、神の畏れのモチーフ、アブラハムが預言者として
王のために執り成しを行う、サラを妹と称したことの正当化があり、
アブラハムの富み栄えと、アビメレクの多産と健康で終わっているそうです。
J資料ではエジプトからの抑圧と開放がアブラハムが先取り体験するのが主題であったが
E資料では預言者的人物としてのアブラハムが描写されているそうです。
このE資料では非イスラエル人に対して開かれた態度が描かれ、アビメレクは
「義なる異邦人」として描写されている。そうです。

2節の「召し入れた」の原文直訳は「取った」です。

760atheist:2024/01/25(木) 01:12:28 ID:???
>>759
E資料とJ資料では神だけでなくアブラハムの描き方にも違いがあるということですね
E資料(20章)ではアブラハムは預言者であり、王とアブラハム双方が富み栄えるという描写が
なされているのに対し、J資料ではエジプトからの開放が主軸にあって、アブラハムはその先駆として
扱われている、という感じですね


さて21章は前半がハガルとイシュマエルの話、後半がアビメレクの話です

ここでもサラはハガルに追い出そうとします
アブラハムが困っていると神はアブラハムにサラの言う通りにするよう言います
結果としてハガルとイシュマエルは追い出されますが、神は彼女らを見捨てず
その子孫を「ひとつの国民」とすることを約束します
文の内容からはイスラエルの民とアラブの民がそれぞれ分かれた由来を
このような物語として語っているように思われます

後半のアビメレクの箇所はあまり意図がよく分かりませんが
要はペリシテ人の地にアブラハムがとどまったこと、それにベエルシバの地名由来譚という感じがしました

761福音伝道:2024/01/25(木) 06:38:09 ID:8zhBGqb2
>>760
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は創世記22章です。

アビメレクとの話は、原文で読めばべえる・シェバの由来譚です。
ベエルが井戸で、シェバが七なのです。 直訳すると「七・井戸」という地名です。
その七の由来を記念してシェバ匹の雌の子羊をアブラハムがアビメレクに与える
話です。しかしフランシスコ会訳は言います。
二つの由来譚であると。22-24節、27,31節では、23節誓いなさい(ヒシャヴア)
24節誓います(イシャヴェア) 27節契約(ベリート) 31節誓いあった(ニシュベウー)
この誓うという動詞の名詞「誓い」がシェバなので、「誓いの井戸」という由来譚
であると。で、この「誓いの井戸」が26:33からも妥当である、と。
私はここでは「七つの井戸」やろうと思いますが、言われてみれば
「誓いの井戸」もあるなという感じです。

ハーパーの解説はひどいです。イサクはアブラハムとヤコブの二つの物語群を結びつける
「つなぎの役割」を果たしているにすぎない、と。
誕生と犠牲、結婚、ゲラるへの旅、ヤコブへの祝福だけだ、とのこと。
「誕生」について21章のE資料は、P資料18:2のサラの笑いを取り上げるが、
P資料の不信仰のしるしとしての「笑い」ではなくて、息子を得た喜びの「笑い」
へ変更されていることを指摘。9節メツァヘク「遊ぶ」と訳されてますが、この語は
イツハクと同根の動詞なので、
「サラは、エジプト女ハガルがアブラハムに産んだ息子であるイシュマエルが
イサクしているのを見た」イサクにとって代わろうとしたと解釈することが可能
と主張しています。考えすぎちゃうかと思いますが紹介しておきます。

ベエルシバについてハーパーは「水場の権利に関する紛争の解決」する
ためのものとだけ指摘しています

762atheist:2024/01/26(金) 02:11:44 ID:???
>>761
「七つの井戸」か「誓いの井戸」かは別にして、地名由来譚ではありますね
もちろん宗教的には由来として語られた物語の宗教的意味が大切になるのでしょうが

イサクは例の犠牲の話でも重要な役割を担っているので
アブラハムとヤコブのふたつの物語群をつなげるだけの役割というのは
どうなんですかね


さて22章はその燔祭としてのイサクの話です

キリスト教(ユダヤ教)では一般にアブラハムの忠実な信仰の話として語られ
特にキリスト教ではイエスの犠牲と結びつけて語られたりもします

やや下衆なツッコミになりますが、12節で神はアブはラムの神に対する畏敬を「今知った」と言っています
全能の神がそれはどうなのよ、と思いますが、物語の展開上、このような人間的な神でなければ
神との対話が成立しないのかもしれません

やっと授かった愛する子を親自らが犠牲に捧げることを命じる神というのは
現代人には非情な神、野蛮な神、理不尽な神と映ってしまいますが、
創造主と被造物という圧倒的な彼我の差がヘブライ語聖書では反復して語られるテーマで
それは造った者と造られた者という構図をことあるごとに想起させる重要な役割を担っているのでしょう
まさにこの圧倒的な存在の差というのがアブラハムの宗教に共通する宗教観なのだと思います

763福音伝道:2024/01/26(金) 06:49:22 ID:8zhBGqb2
>>762
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は創世記23章です。

エル・シャダイはヨプ記の70人訳が「全能の神」と訳して以来、
「全能の神」と考えられていますが、17章のエル・シャダイは、
アブラハムと結びついた氏神で、実はただの「山の神」なので、
「今知った」はありうるし、自然であると思います。

出エジプトに曰く
13:1主はモーセに言われた、
13:2「イスラエルの人々のうちで、すべてのういご、
すなわちすべて初めに胎を開いたものを、人であれ、獣であれ、みな、
わたしのために聖別しなければならない。それはわたしのものである」。

これは、イサクが犠牲にされたことに基づくのでしょうけど、
実際は初子を贖う代わりに「銀5シェケル」を払ったそうです。

民数記18:16 その贖いの代金として、生後一か月以上は聖所のシェケルの
評価によって銀五シェケルで贖わなければならない。一シェケルは二十ゲラである。

私は祭司階級が宗教税を掠め取るために設定した神話であると考えています。

ハーパーはアブラハムの忠誠を描くE資料は、古い要素を含んでおり、
1-14節は特定の聖所による礼拝形式の説明であったのだろうと推定しています。
人間の子供の代わりに犠牲獣を捧げる習慣形式の正当化しているとのこと。

21章と22章は対をなしていて、アブラハムの忠誠によって二人の息子が「死」の
危険に直面します
21:14で、ハガルにパンと水を負わせ(ヘブライ語サーム)
22:6で、イサクに薪を背負わせます(ヘブライ語ヤーセム)
そして神によって救われる

アドナイ・エレは、原文では「ヤハウェ・イルエ」とフランシスコ会訳註は
解説します。
原文直訳は「ヤハウェ(主)は見る」です。

口語訳 人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う。
原文直訳 今日、「主の山で見られる」と言われる

「見る」が、すなわち「備える」と訳されるのか不可解です

764atheist:2024/01/27(土) 02:32:06 ID:???
>>763
17章の物語が出来た段階では、まだ全能の神という絶対性がそれほど顕著ではなかったということですね
ヨブ記などでは創造主と被造物の絶対的な差が明確に語られていますが、創世記では
もっと素朴な物語になっていて、神も後悔したりしますからね

初子の犠牲は祭司階級が代替のお金で宗教税を掠め取るための神話だというのは
あり得そうですね
一般にクリスチャンは聖書を文字通り神の言葉として読んだり、あるいは少なくともそこに
神の知恵に通じる教訓を読み取ったりしますが、こういう読解は宗教社会学的な観点を完全に欠いている
ため、外部の人間からは極めて恣意的、ご都合主義的に聞こえてしまうことがあります
まあそういった読み方をするのが宗教というものなんでしょうが

イサクとイシュマエルが対を成して語られている、というのには気づきませんでした
たしかに言われてみるとそう読めますね

「備えあり」の部分が原文から離れているとすると、けっこう問題であるような気がします
というのはこの箇所はよく主による備えとして語られるからです


さて23章はサラの埋葬に関して、カナンの地の一部がアブラハムの所有となった由来を語ったところですね

ここでアブラハムに土地を提供したのはヘテびとです
ヘテびとといえばヒッタイト人ということになるはずですが、聖書の語るヘテびとは
どうも歴史上のヒッタイト人とは異なるようです

アブラハムとエフロンのやり取りはまるで日本人の奥さんどうしが
贈答品のやり取りをしているような感じで、ちょっと親近感を覚えます
それはともかく、少なくともこのエピソードではアブラハムとヘテびとの間には
強い信頼関係があったことが伺えます

765福音伝道:2024/01/27(土) 09:56:22 ID:8zhBGqb2
>>764
atheistさん、おはようございます。本日と明日の聖句は創世記24章です。

2節後半 アブラハムは中にはいってサラのために悲しみ泣いた。
原文直訳 そして来て、アブラハムはサラのために胸を叩いて嘆き、
     また彼女のために泣いた。
原文の悲痛感を口語訳は脱臭してあっさり訳しています。

原文 ヘット ヘテびとは、ヒッタイト人を指しますが、あのヒッタイトではなく
10:1ノアの子セム、ハム、ヤペテ 
10:6ハムの子孫はクシ、ミツライム、プテ、カナン
10:15カナンからその長子シドンが出て、またヘテが出た。
10:16その他エブスびと、アモリびと、ギルガシびと、
10:17ヒビびと、アルキびと、セニびと、
10:18アルワデびと、ゼマリびと、ハマテびとが出た。
という、ノア→ハム→カナン→カナン諸部族の第二のヘテびとですね

マクベラの洞窟を買い取るわけですが、マクベラは「二重」という意味で
後にアブラハム夫妻 イサク夫妻 ヤコブ夫妻の墓になります。夫婦で二重かもしれないです

ハーパーはこのやりとりを「オリエント風の礼儀正しさ」「古代近東の財産法に則っている」
解説しています。またエフロンの主張である「畑も一緒に買い取れ」は、
畑にある種の封建的義務が課せられていて、その義務をアブラハムに引き受けせる
ことを望んでいるそうです。
具体的なことは解りませんが、九州の田舎に住めば、地域の行事 どぶさらいや
道路愛護、消防団、婦人会、壮年会、子供会、お宮さんの管理、祭りの参加
などの義務が生じるのと同じかもですね

聖書的には、カナンの地を買い取ったので、子孫のための足場を築いた
ことになります。実際 三代の夫婦の墓所となりました。

銀400シェケルは4.6kg弱だそうです。シェケルは重さの単位ですが、時代によって
重さが変わるので特定できないはずなのですが、現在の価格(123円)で換算すると
56.5万円程度です。
ただアブラハムの頃は金と銀は同価格だったという証言もありますので
金価格(10,617円)で換算すると4800万円程度になります。大金ですね

766atheist:2024/01/28(日) 00:26:13 ID:???
>>765
「胸を叩いて嘆き」という箇所を省く意味が分かりませんが
この描写だけでもずいぶん受ける印象は違ってきますね

ヒッタイトの名は学者が聖書から取って、あの小アジアの王国に付けたようですが
別に歴史的に聖書のヘテびとと一致するわけじゃないみたいですね

アブラハムとエフロンのやり取りは古代近東の財産法あるいは財産に関する慣習が背景にあるわけ
ですね
付随的な義務があるのは日本の田舎も同じみたいですね
都市部の一人暮らしだと地域社会との関わりはほとんどありません
楽といえば楽ですが、昔あったような近隣家族との交流がなくなるのは
やはり市松の寂しさを感じます

金額は換算基準でずいぶん違ってきますね
これでは高いのか安いのか分かりませんw


さて24章はイサクの嫁選びの箇所です

アブラハムはしもべに命じてカナン人ではなく故郷の人をイサクの嫁として選んでくるように言います
いとこ婚かと思っていましたがリベカはイサクのいとこの子ですね
サラが高齢で生んだ子なので、世代がひとつズレているのでしょう

物語はやや長めですが話としては単純ですね
しもべがイサクの嫁になる娘を選ぶ際の決めてについての記述が反復されているので
長くなっているのかもしれません

古代のことですから、当たり前といえば当たり前に親の決めた婚姻ですね
リベカも素直に従います

ものすごく細かいことですが、65節にある「リベカは、被衣で身をおおった」というのは
今のイスラム教徒と同様、結婚相手であっても結婚前には
男性の前では肌を晒さないということなのかもしれません

767福音伝道:2024/01/28(日) 09:12:30 ID:8zhBGqb2
>>766
atheistさん、おはようございます。明日の月曜日の聖句は創世記25章です。

23:2
直訳 そして来て、アブラハムはサラのために胸を叩いて嘆き、
     また彼女のために泣いた。
口語訳 アブラハムは中にはいってサラのために悲しみ泣いた。
聖書協会共同訳 アブラハムはサラのところへ行き、その死を悼んで泣いた。
新改訳2017 アブラハムは来て、サラのために悼み悲しみ、泣いた。

新改訳が一番、直訳ぽいです。また口語訳の問題点は「来て」を省略しています。
この「来て」は議論になっていて
1.アブラハムとサラは同居していなかった
2.同居していたが、遺体の方に来たという意味である
と議論があって、聖書協会共同訳は「ところへ行き」と同居感を出しています。

ハーパーはリベカが「私は行きます」と答えたことをもって、
女族長となる決意表明であると解釈しています。
また祝福という語が1,27,31,35,48,60節に出ていることに着目して
24章のキーワードとしています。
フランシスコ会訳註は、リベカという名前が「祝福する」という動詞バラクの
言葉遊びのようであると解説。
ただ私にはどう言葉遊びなのかいまいちわかりません。

原文「すると彼女はベールを取った。そして自分を覆った」
について、フランシスコ会訳註もハーパーも言及していないです。
ぐぐると、
「女性の慎み深さと徳を守るために、結婚の準備段階でベールを被った」と
あります。
パウロス先生の時代では、既婚女性も人前ではベールを被っていたようです

768atheist:2024/01/29(月) 02:40:49 ID:???
>>767
口語訳は「来て」というのがどのようなことを表しているのか
分からなかったので省いてしまったんですかね

リベカの「わたしは行きます」という返答が女族長となる決意表明だというのは
深読みのし過ぎのような気がしますが、結果としてはそうなるので間違いとも言えないですね

ベールを被る行為は中東から地中海地方にかけて
女性の貞淑や慎みを表す伝統的な習慣だったのかもしれませんね

769福音伝道:2024/01/29(月) 05:22:54 ID:8zhBGqb2
>>768
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は創世記25章です。

昨夜のNHK大河で、平安時代の貴族男子も帽子を取られるのは
現代人で言うとパンツを奪われるのと同じぐらい恥ずかしいことであった
と解説がありました。

私たちには理解できない感覚ですが、そういう習慣があったのでしょうね

770atheist:2024/01/30(火) 05:18:05 ID:???
>>769
また寝落ちしてしまいました、すみません

たしかに現代人とは異なる羞恥心があったのかもですね


さて25章はアブラハムの子孫の系図ですが
後半はイサクとリベカの子、エサウとヤコブの有名なエピソードですね

まず冒頭、アブラハムが後妻をめとっていたのはまったく記憶にありませんでした
まあ古代ですから別に不思議はありません

後半の有名なエピソードは、ヤコブの奸計であってエサウは被害者と思ってましたが
最後の文章を見ると、「エサウが長子の特権を軽んじた」ことが原因とされてますね
これまた現代人の感覚からすると、たかだがあつものを兄弟に分けてあげるのに
長子の特権をぶんどったヤコブのほうが悪人と映りますが、古代あるいは聖書編纂者にとっては
その特権を軽んじたエサウのほうが罪深いということなのかもしれません

771福音伝道:2024/01/30(火) 06:02:46 ID:8zhBGqb2
>>770
atheistさん、おはようございます。創世記26章です。
お疲れのご様子、睡眠を優先されてください。

フランシスコ会訳註によるとケトラの子孫はアラビア南西部
ハガルの子孫は北西部に住んだそうです

ハーパーによると、ヤコブの物語群にはJ、E、Pのすべての資料群が含まれ
J資料のヤコブは悪漢小説の主人公のように、計算高い詐欺師なのに神から祝福される。
そしてヤボク川のほとりで神と格闘することで根本的な変化がある
E資料のヤコブは、欺きによってではなくて「食べ物」との交換で長子権を買い取り、
エサウが長子権にふさわしくないことを自ら暴露してしまう。
Eではべテルで決定的な神との邂逅がある。Pは断片挿入だそうです
長子権べコラーと祝福ベラかーの言葉遊びがあると指摘しています

「エサウが長子の特権を軽んじた」の「軽んじた」という動詞は
「ヤハウェを軽んじた」の場合にも使われる動詞で、呪いを暗喩しているそうです

772atheist:2024/01/31(水) 00:59:33 ID:???
>>771
ありがとうございます
歳ですかねw

ヤコブの話がすべての資料の混合だとすると
一貫性がゆるくなるのも無理はないですね
J資料のような詐欺師から祝福される者へ、という筋書きが
E資料の長子権重視で見えにくくなってしまったのではないか
という気がしました


さて26章は以前のアビメレクとアブラハムのお話の焼き直しのような箇所ですね
今度はアビメレクとイサクバージョンになっています
ともに妻を妹と偽ってアビメレクに非難されます
アビメレクがそれほど長寿であるとは書かれていないようなので、このアビメレクは
先代アビメレクの子かもしれませんが、同じパターンの話になっているので
同じアビメレクについてアブラハムバージョンとイサクバージョンがあるのかもしれません

773福音伝道:2024/01/31(水) 06:18:16 ID:8zhBGqb2
>>772
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は創世記27章です。

フランシスコ会訳註によると、本章だけがイサクを独自に取り上げているが
アブラハムの名が8回も出てきて、アブラハムの生涯が反映されているとのこと。

一方ハーパーは、12章と20章に続き「妻=妹物語」の第三版と分析し
12章はトーラー先取り物語 20章はアビメレクの執り成しをする預言者物語
本章はアビメレクが自身で妹ではなく妻だと見抜く知恵物語であり、
トーラーと預言書と知恵文学のユダヤ教三区分を彷彿とされると主張しています。

774atheist:2024/02/01(木) 00:53:07 ID:???
>>773
たしかにアブラハムへの言及が多いところを見ると
アブラハムの生涯を反映していると考えることも出来ますね

「妻=妹物語」はアブラハムとファラオ、アブラハムとアビメレク、イサクとアビメレクで三回目ですね
わたしはそれぞれの物語の異同を考えるほどには読み込んでいないのでハーパーの解説のようなことは
思いも付きませんでしたが、基本的なプロットが同じでも、そこに盛られたテーマは異なるということですね


さて27章はまたまたエサウがヤコブを欺く話ですが
今回はリベカが主導権を握ってヤコブにエサウを欺かせた趣ですね

前回もそうですが、このヤコブとエサウの話はギリシャ神話の話のように
正邪、善悪、清濁を合わせ持った実に人間的な物語になってますね
わたしはこういうのは好きですが、聖書としてはいったいどんな教訓があるんでしょうか?
これじゃリベカもヤコブも肉親を騙して利己的にその権利や祝福を奪い取っただけで終わってしまいます
以前の先生の解説でヤコブの改心というか再生というような話もあったと思いますが
神と相撲を取ることがどのような改心の契機になっているのか分かりません
あるいは相撲の話はまた別で、実際にはそれぞれ別の伝承が組み合わされて
まるで改心話のように解釈されただけということでしょうか?

775福音伝道:2024/02/01(木) 05:50:09 ID:8zhBGqb2
>>774
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は創世記28章です。

ハーパーはJ資料によるイサクへの「欺き」の物語は、受け身な族長イサクと
確固たる決意を持った能動的な妻リベカで描かれると解説する。

母リベカはヤコブに作戦を授けます
そして計算高いヤコブは、母リベカに「欺きが発覚したら呪われる」と反論します
すると母リベカは「呪いは私が受ける」と応じます。
このことはイサクが兄エサウにヤコブが「策略」を使ったと言っているように
著者自体は不正行為という認識ですが、フランシスコ会訳註によると
「神は不正行為を用いても自分の計画を実現される」とのこと。
え?いいのかと思いましたが、そう解説されています。

ハーパーはイサクの祝福について
イサクの祝福は「豊穣」と「支配」だが、
「天の露」と「地の油」という言葉は、
豊穣を司るカナンの女神アナトについてのウガリット文書に見られる表現に
酷似しているそうです。
麦とぶどう(酒)とオリーブ油が豊穣の具体的な内容とのこと

そして「欺き」は結果として「家族内争い」と結果としての「離別」で終わると
ハーパーは指摘しています。
フランシスコ会訳註は、イスラエル(ヤコブ)の「支配」は、後代の子孫サウルとダビデの
時代まで続くと解説しています。

776atheist:2024/02/02(金) 01:29:49 ID:???
>>775
リベカが自分が呪いを受けてまでヤコブに祝福を与えたかった理由は何なんでしょうね
たしかにリベカはこのセリフで分かるように相当アグレッシブです

> 「神は不正行為を用いても自分の計画を実現される」
まあヤハウェは異国の王の心を操ってイスラエルに懲罰的崩壊を与えるような神として
観念されているくらいですから不正行為如き問題ないのかもしれません
それにしては義にうるさい神ですが

豊穣と支配というのはいかにもユダヤ教的な祝福ですね
ウガリット文書に見られる表現に酷似しているとのことですが
当時のレヴァント地方の一般的な宗教観が反映されているのでしょうね


さて28章はヤコブが父の命に従って妻を娶るためにリベカの兄のラバンのもとへと向かう箇所です

ここでは有名なヤコブの梯子が出てきます
ヤコブが正式にアブラハムの祝福をイサクから引き継いだことを象徴的に示すエピソードですね

夢の中でのヤコブと神のやり取りは、改めてユダヤ教が契約の宗教であることを感じさせます
古代であれば特にそうですが、宗教は個人の選択だとか信仰だとかではなく
代々信じられてきたものをそのまま引き継ぐのが当たり前と考えてしまいます
しかし21節にあるように、ヤコブはヤハウェが20節の条件を満たすのであれば
ヤハウェを自分の神とする、と言っています
もちろん古代のことですから、ここではヤコブとヤハウェの一対一の契約関係といった
近代的な個人主義に基づく信仰ではありませんが、それでも敢えてもう一度自分自身が神と契約する
形での信仰は目を引きます
13節のヤハウェのことば(わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神)からもそれが感じられます
ヤハウェはここでヤコブと契約し「ヤコブの神」となったということなのでしょうね

777福音伝道:2024/02/02(金) 06:43:09 ID:8zhBGqb2
>>776
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は創世記29章です

リベカは弟ヤコブ推しですね。兄エサウは毛深かいが、弟ヤコブは滑らかだったから
か、父イサクが兄エサウを愛していたので、妻リベカが弟ヤコブを贔屓にしたのか
なぜでしょうね

ハーパーは、28章のヤコブの旅立物語がエル・シャダイや、「産みかつ増えるように」
を挙証しP資料と指摘します。そして母ではなく、父イサクのイニシアチブで旅立つ。
兄エサウの怒りから逃れるためではなく、リベカの一族から妻を探すためである。
一方兄エサウはカナンの地のヘト人から娶る。
資料批判的には、前章の「豊穣」と「支配」ではなく、P資料の祝福は
「無数の子孫」と「土地」だそうです。

べテルでヤコブは後二回、神顕現を体験します。ここは第一回目の体験ですね
元来は聖所べテルの由来譚だったものが、J資料とE資料との合成で語られている
そうです。北部諸部族が独立した際に族長ヤコブにちなんでイスラエルの名で
建国したわけですが、べテルがかれらの聖所となったそうです。

778atheist:2024/02/03(土) 01:19:39 ID:???
>>777
同一線上の物語であっても資料によってテーマが異なるわけですね
「豊穣と支配」にしろ「無数の子孫と土地」にしろ、その祝福は現世利益的ですが
後者のほうがより即物的な感じがします

ベテル(Bethel)はアレフベートのベートにエルですね
アレフベートを覚える際に読んだ記憶がありますが
ベートは元々「家」を象形化したものに由来していたと思います
だとするとまさに「神の家」って感じですね
それほど重要な聖地であったのでしょうね


さて29章はヤコブがラケルに出会い、ラバンのところに行って妻を娶る箇所ですが
この物語も面白いですね

ヤコブはラケルが気に入って7年間働いてようやくラケルとエッチができるかと思いきや
騙されて姉のレアを与えられてしまいます
ラケルを得るためにさらに7年間働く約束を強いられます
今度はヤコブが騙される番ですね

さらには神はレアを憐れんで子を授けますが、ラケルは子ができません
この辺の宗教的な教訓は分かりませんが、なかなかどうして、このヤコブと姉妹の話も
実にドロドロしていますw

そういえばラケルは英語でRachel(レイチェル)ですね
レイチェルはけっこうありふれた人名で最初にこの名で覚えてしまったため
しばらくラケルという名には違和感がつきまといました
まあJohnとヨハネみたいなもんですね
英語名はどうも脳天気なアメリカ人が思い浮かんでしまっていけませんw
その意味では日本語名のほうが原語に近いし風格があっていいのかもしれません

779福音伝道:2024/02/03(土) 10:09:51 ID:8zhBGqb2
>>778
atheistさん、おはようございます。本日と明日の聖句は創世記30章です。

29:6ヤコブはまた彼らに言った、「彼は無事ですか」。
この「無事」と訳される語はシャロームです。
平和な叔父ラパン家にヤコブは不和をもたらします。

17節レアは目が弱かったが、ラケルは美しくて愛らしかった。
「弱い」は、ラコット。弱いで正しい訳ですが、「潤んでいる」「優しい」とも
訳せます。弱いは直訳。
ヤコブは美しいので妹ラケルを愛し、姉レアを憎んだ(31節)
ヤコブは父イサクを欺いて長子相続権を兄エサウから奪ったが
嫁取りする場合、姉からという原則を叔父から欺かれて飲まされた結果
妹リベカを欲しかったヤコブは姉レアをまず押し付けられたので
姉レアを憎んでしまった。
31節で主はレアがきらわれるのを見て、
とあるが、このセヌアーは「憎む」という動詞。
かくしてヤコブはいさかいの原因になるがイスラエル12部族の祖となり
ハーパーもフランシスコ会訳註もヘブライ語聖書の中で珠玉の名品と
讃えています。

780atheist:2024/02/05(月) 01:54:14 ID:???
>>779
ラケルは典型的な美人タイプ、レアは地味子という感じですね
で、ヤコブは姉のレアではなく、見た目に釣られてラケルを欲することで
ラバン一家に不和をもたらすわけですね
それに対して今度はヤコブがまんまとラバンに騙されます
しかもラケルには子ができず、レアばかり子を生むことになるわけですから
ヤコブはしてやられたといった風ですね
たしかにこの物語は珠玉の名品と言えるかもしれません

781福音伝道:2024/02/05(月) 05:50:03 ID:8zhBGqb2
>>780
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は創世記31章です。

782atheist:2024/02/06(火) 01:30:24 ID:???
>>781
31章はヤコブがレア、ラケル姉妹を連れてラバンの元から逃げ去る箇所ですね

この章ではラバンは散々な書き方をされています
ともかくも神がヤコブを「守る」形でラバンの欺きを反転させますが
ヤコブもいよいよ堪忍袋の緒が切れて、夜逃げのようにラバンの元を去ります

この章でひとつ注目すべきはラバンの家にあった「テラピム」です
あとで「神」と言い換えられていますが、要はラバンたちが家においていた神の偶像でしょう
それをラケルが盗み出しますが、動機は書かれていません
貴重品だと思って盗み出したのか、愛着があって盗み出したのか
はたまた編者的には(ユダヤ教徒的には)異教の偶像だから盗み出して破棄しようとしたのか
分かりません

結局ラケルの機転でテラピムは見つからず、ヤコブとラバンは石塚を立てて
そこを両者の境界とします

この章も宗教的というよりはドロドロした人間ドラマの一貫といった感じがします

783福音伝道:2024/02/06(火) 06:20:08 ID:8zhBGqb2
>>782
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は創世記32章です。

13節 べテルの神であると主は名乗っている エル・べテルである
30節  ラバンはテラフィムをエロヒムと呼んでいる
53節  ナホルの神 エル ナホルはアブラハムの祖父
イサクの神は「イサクの畏れ」と表現されている
J資料を基調にE資料の挿入が見れらる

フランシスコ会訳註は、テラフィムを、「家の守り神の事で、尊敬され、助けを祈る
のにふさわしい一族の小さな像であったかもしれない。相続権と関係し、同権利を
証明する徴となるものだったらしい。このテラフィムは、後にシケムの近くで
外国の神々の像と一緒に埋められたようである」
新共同訳聖書辞典は「偶像の一つ。家の守護神と推測される。等身大のもの、小さい
携帯の守り神がある。前16世紀のメソポタミアのフリ人の文書(ヌズ文書)によると
テラフィムは家の神であり、その所有は家の財産の所有権を表すものであった。
創世記31:19-35の物語でラケルが父の家の守り神(テラフィム)を盗み出したというこ
とは、ラケルが夫のために資産の相続権を確保しようとしたことを示す」

ハーパーは、ラケルがテラフィムを盗んだのは結納金を父が使い果たしたためと解説
しています。つまり賠償金だと。

784atheist:2024/02/07(水) 01:29:50 ID:???
>>783
なるほど、テラピムが家の守護神で家の財産権、相続権を表すものなら
ラケルが盗み出したのも合点がいきますね
ヤコブはラバンに不当に労働の成果を奪われていましたし
家を分かつとなればラケルはヤコブの妻として正当な財産を受け取る権利があると考えたのでしょうね


さて32章はヤコブたちが元の地へと戻る過程でエサウと再開しようという場面ですね
ヤコブはかつて兄を騙した後悔からか、はたまたエサウの群れが400という多勢であったため
ビビったからなのか、ともかくも合う前にふんだんに贈り物を用意します

後半はエサウに会う前の夜に神と相撲(レスリングと言ったほうが適切か)をする箇所です
これは非情に有名な場面ですが、なぜ神はヤコブと組み合ったのか、それにどんな意味があったのかは
いまいち判然としません
しかもその「神」はヤコブに「あなたはもはや名をヤコブと言わず、
イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」と言います
神と取っ組み合って勝つことがどういうことかも分かりません
イスラエルという名称はこのエピソードを元に「神と競う」というような意味だったと思いますが
単に名前の由来を説明するための創作として挿入されたのでしょうか

785福音伝道:2024/02/07(水) 06:40:21 ID:8zhBGqb2
>>784
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は創世記33章です

マナハイムは直訳すると「二つの陣営」です。ヤコブは兄が400人を率いてくると
聴いた時、恐れて自分の率いる「人、牛、羊、らくだ」を二つの陣営(別の単語)に
分けます。

32:24ヤコブはひとりあとに残ったが、
ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした。

原文通りの訳。「人が」「組み打ちした」とあります。

32:28B あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。
直訳 なぜならエロヒームと共にやりぬいた、そしてあなたは人々と共にはできたからである

イスラエルは原意は「神は闘う」です。拡大解釈されて「彼は神と闘う」となります。

ハーバーによると、25-33節は神話や民話に由来するモチーフが色々見られ
様々な注解を生み出した。最初の注解はホセ12:4-5や知10:10-12である
J資料とE資料が使われているが、もはや分割できないまでに融合しているとのこと

この物語の最初期の格闘相手はカナンの神であるとのこと。
ヤコブに課せられた難題が解決できないように妨害する役目があり
ヤコブのカナン侵入を妨害しているとのこと。
だが、最終形態では一神教のせいで、格闘相手がヤハウェと同一視
されるようになり、謎めく箇所になったとのこと。
そして二つの原因譚、地名の由来譚と、神の顔をみたということで
聖所ペヌエルの由来譚にも結び付けられたとのこと

またイスラエルへの改名はヤコブの人柄と運命の変更を表し
イスラエルという名は、創世記に一貫する「争い」という主題と
うまく合致するとのこと

786atheist:2024/02/08(木) 01:13:53 ID:???
>>785
そうすると本来この「神」はカナンの神で綾子部のカナン入りを妨害する立場にあった、
そしてヤコブとカナンの神の格闘だったものが、神は唯一というユダヤ教の宗教思想のために
結果としてヤコブとヤハウェの格闘と解釈されるようになった、という経緯ですね

これならなぜヤコブが神と格闘するという話になったのかがよく分かります
簡単に言えば、元の話のプロットはそのままで登場人物(この場合は神)が大きく変容してしまったため
意味不明の物語となってしまった、という感じですね

またイスラエルへの改名はヤコブの運命の変更を表していて
それが神は闘うという創世記のテーマに合致している、ということですね
もしかしたら元々嵐の神、戦いの神であったであろうミディアン地方の神ヤハウェの
性質が強く反映されているのかもしれません


さて33章も元々は地名の由来譚であったもののように読めますが
ひとまずエサウとヤコブの和解が実現したという流れになってますね
このようにしてヤコブのカナン入りが果たされたということなのでしょう

ここでのヤコブはともかくエサウに対して平身低頭に振る舞います
平和裏にカナンに入りたいという動機があったからでしょうが
この態度がかつて兄を騙して長子権を奪ったことに対するヤコブの悔い改めということになるんでしょうか
これで悔い改めと言われてもちょっと納得しかねますが

どちらにしてもヤコブの心のなかでの葛藤や逡巡が描かれているわけではないので
なんか都合よく神との格闘、改名を間に挟んでヤコブが改心したと解釈しているだけのような気もします

787福音伝道:2024/02/08(木) 05:40:53 ID:8zhBGqb2
>>786
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は創世記34章です。

エサウが弟ヤコブに4節で抱擁しキスをすることで和解が描かれていて
弟ヤコブもかつて兄から奪った祝福を返却する。
10節の贈り物を受けてください
贈り物と訳されるベラカーの第一義は「祝福」である。
これは27:36
こんどはわたしの祝福を奪った
に対応しています。奪ったベラカーを、ここで返却することで和解をしています。

ただ用心深い弟ヤコブは兄の誘いを断り同行しませんので
この和解は全面的な和解ではありません。

それで兄は死海東岸を下り、死海南から出るセイル川へ帰りますが
ヤコブは、逆に北上し、スコトに定住します。スコトは小屋の複数形です。
そして父祖アブラハムゆかりのシケムに土地を購入します
ヤボク川からヨルダン川を越えて死海の北部ですが西に来るわけです
完全に兄エサウを避けている移動です

100ケシタ ケシタは不明な度量です。
エル・エロヘ・イスラエル フランシスコ会訳註は、
「イスラエルの神エル」あるいは「力ある(者)はイスラエルの神」と解説。

原文を素直に読めば
そして彼はそこに柱を建てて、それを「イスラエルの神々の神」と呼んだ
エロへは、エルの複数形かつ連語形です

788atheist:2024/02/09(金) 05:38:14 ID:???
>>787
例によってまた寝落ちですw

10節の「贈り物」はちゃんと「祝福」と訳したほうがエサウからヤコブが奪った祝福の話とリンクしてくるので
いいですね
こういうところは物語の構造をちゃんと掴んで訳してほしいところです

読んでいるときには地理的な側面はほぼ無視していましたが
そうやって説明されるとヤコブの行動がはっきりと分かります

「イスラエルの神々の神」という表現はまだ唯一神教以前ということになりますね


さて34章はレアの娘デナがヒビびとのシケムとエッチしたことに怒ったデナの兄弟のシメオンとレビが
ヒビびとを殺戮しまくるお話です

2節での書き方はシケムがデナをレイプしたような書き方になっていますが
3節ではデナを深く慕ったと書いてあります
実際はレイプに近かったのか同意だったのか、よく分かりません
デナの気持ちも書かれていないのでなおさらです

どちらにしてもこの出来事に怒ったシメオンたちはヒビびとを騙して殺戮・略奪の限りを尽くします
ヤコブは息子たちの行為をよく思っていませんが、さりとて激しく責め立てた形跡もありません

少なくともシケムは心からデナを嫁に欲していたようなので
シメオンたちの行為は単に自分たちの名誉が汚されたことに対する怒りであって
正当化できないもののように思われます

シメオンたちはその後も普通に生き残っていたようですから
なんとも身内に甘い神と言わざるを得ません
まあ例によってこれもまた歴史を導く神の計画とか言ってしまえばすべてそれで済んでしまいますが

789福音伝道:2024/02/09(金) 06:34:28 ID:8zhBGqb2
>>788
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は創世記35章です。

2節原文を読むとレイプです
その地のヒヴィ人の族長ハモルの息子シェヘムが彼女を見た。
そして彼女を捕らえた。そして彼女と寝た。そして彼女を辱めた。

ヒヴィはアラム語では蛇のことです。蛇人ですね。
「辱めた」は、原意は「いじめる」です。「無理強いする」「強姦する」という
意味もあります。つまり、ハッキリと2節で強姦したと書いてあります。
見かけて、捕らえて、セクスして、レイプした。
町で見かけて、誘拐して、家に連れ込み、セクスして蹂躙したわけです。

兄弟が怒って当然です。仕返しした二人は同母の兄弟たちです。
「遊女」のように扱ったので、殺し財産を略奪したそうなのですが
割礼させておいて苦しんでいるところを襲うのは卑怯ではないのかなと疑問なのと
殺戮についてはヤコブは子供たちに不満を漏らしていますので
父やこぶ感覚からしてもやりすぎであったのでしょう

ハーパーによると「強姦」の定式表現があり
「彼女を見た。彼女を捕らえた。彼女と共に寝て、彼女を辱めた。」が
典型となるそうです。アムノンがタマルを(2サム13章)など

そして親たちが平和的解決を模索しているのに
息子たちの暴力的報復は、ヨセフに対する兄たちの暴虐行為の不吉な前兆でも
あるそうです。

790福音伝道:2024/02/09(金) 08:16:02 ID:8zhBGqb2
その土地の族長の息子が、新参者の娘を手籠めにしたわけですが、
3節原文
そして彼の魂がヤアコヴの娘ディナーにくっついた。
そして彼は娘を愛した。
そして娘の心の上に話した。

原文を読むと、手籠めにした後で、息子は、ディナーに魂を奪われてしまった。
愛してしまったので、ディナーにプロポーズしたとあります。
そしてディナーは受け入れたのか、拒絶したのかわかりませんが
息子と共に暮らすことになりました。
そこで息子は父に話をして、父はヤコブに平和的解決の相談に行きます。

ヤコブが叔父の娘を貰う時は、財産を持ってなかったので7年奉仕して
娘一人をもらい受けます。
シェヘムは、その手順を踏まなかったが、惚れたので遅まきながら
持参金を提示して正規にもらい受けようとはしたのですね

普通ならば、多少多額の賠償金をふっかけて解決する話のはずです。
ところが虐殺という暴虐が行われるわけですが、
ディナーの兄弟たちの提案である割礼について
負い目のあったシェヘムは一番に受け入れ、部族の若者たちに
熱心に説き伏せることになります。

間違ったことをしたとはいえ、シェヘムは彼なりに誠意を尽くそうとは
したわけですが、虐殺されてしまいます。

実際の歴史では、現地民との婚姻が平和的に進行したのに
こういう神話が設定されたのは、宗教的理由からだと思われます。
信仰の純化のために虐殺が正当化されている気配を私は感じます

791atheist:2024/02/10(土) 03:11:18 ID:???
>>789-790
なるほど、レイプの定型表現で、これはレイプと断定していいということですね
それなら兄弟たちが怒るのも当然と言えます
ただやはりやりすぎですね
シケム本人を殺すだけならまだしもプチジェノサイドですからね
しかも本人含め、ヒビびとはその後は十分誠意を尽くしていますから

> 信仰の純化のために虐殺が正当化されている気配を私は感じます

わたしもそう思います
実際の歴史でユダヤ人による異邦人虐殺はそれほどなかったにしろ
やはり宗教保守派の狂気が反映された物語なのだろうと感じました


さて35章はヤコブたちが再びベテルに来てそこで神と対話する話です

2節で「あなたがたのうちにある異なる神々を捨て」と書かれているとおり
一応まだこの頃は諸々の神々が信仰されていた多神教状態だったのでしょうね
その状態からヤハウェを自分たち唯一の神としていく過程を物語風に綴ったものという感じです

後半はベニヤミンの誕生、ラケルの死、最後にイサクの死が簡潔に語られます
創世記後半の最重要人物であるヨセフについては名前が言及されるだけにとどまっていますね

792福音伝道:2024/02/10(土) 09:25:03 ID:8zhBGqb2
>>791
atheistさん、おはようございます。本日と明日の聖句は創世記36章です。

べテルは原文では「ベート・エル」(神の家)ですね。
エロヒーム(神々)が、ヤコブにあなたの兄エサウから逃れた時に現れたエル(神)のために
祭壇を作ってそこへ棲め。神の家に住めということですね
で、家族や彼と共にいた人に異国のエローヒム(神々)を捨てよとヤコブは命じています

この時、神々が、一つの神を選べとヤコブに命じ、ヤコブは一族に命ずる
という形式になっていますね 拝一神教ですね

不思議なのは7節 エル・ベート・エル(神の家の神)と名付けていますね
ベート・エルは地名べテルと訳されるようになってますので
単に「べテルの神」という意味かもです。
ただ10節で改名を命ずるのはエローヒム(神々)です。
しかも11節でエローヒムは「私はエル・シャダイである」(全能の神)と仰せです。
エローヒムが自分はエル・シャダイと名乗っているのにもかかわらず
ヤコブはエローヒムが天に上ると石で記念碑を建てて、ぶどう酒と油を注ぎ
ベート・エル(べテル)と名づけます。エル・シャダイではなく。

この辺の原文で読むと混乱ぶり、意味不明な点をハーパーは、
E資料がコアであるがP資料とJ資料から取られたはなはだ雑多な素材がまとめられている
と解説しています。
べテルの聖所の創建はJ版が採用。他の神々からの清めの儀礼、べテル巡礼指示。
エル・シャダイはP資料を採用。産みかつ増えよ、王が子孫から出るなどもP
これはヤコブからイスラエルの改名物語としてのP資料だそうです

伏線として、長男ルベンが父ヤコブの側女ビルハと寝ます。
これは長子権を失う根拠になるそうです

793atheist:2024/02/11(日) 00:47:13 ID:???
>>792
原文ではエル、エローヒム、エル・シャダイが混在しているんですね
例によって元資料の継ぎ接ぎということですが、そうなると統一的な記述ではなくなるので
あまり物語の真意を求めても意味なさそうですね

ビルハの名は覚えているので、父の側女と息子の疑似母子相姦的な内容が印象に残っていたのでしょう


さて36章はエサウの系図ですね

人名の羅列なので特筆すべき内容はありませんが
エサウはカナン人と交わって子孫をつくったことがヤコブとの対比で目立ちます
またエドムの祖として描かれることで、のちのユダとの対立に根拠を与えているようです

794福音伝道:2024/02/11(日) 07:54:39 ID:8zhBGqb2
>>793
atheistさん、おはようございます。明日の月曜の聖句は創世記37章です

ハーパーによると、ヤコブと兄エサウの物語は、現実が反映されているそうです
つまりダビデ王の時にエドム人を属国化した当時のエドム人の族長たちが
描かれているそうです。
そしてBC587のバビロニアの攻撃に際して、エドム人はエルサレム神殿に火を
かけたことが、エドムへの憎悪と敵対心に拍車をかけたそうです。

兄弟民族なのに、バビロニアから助けなかったどころか
手先になって神殿を破壊した、そして自分たちが捕囚され
恨みは頂点に達したとハーパーは分析しています

795atheist:2024/02/11(日) 20:33:07 ID:???
>>794
ダビデ王時代のエドム人が反映されているとすれば
少なくともその部分は前10世紀以降の資料ということですね

またバビロニアの侵攻時のことも反映されているなら
かなりのちになってからの編集ということにもなりますね

ヘブライ語聖書は複数資料に基づくうえに
何度も編集が繰り返されて伝えられてきたと考えられますから
重層的な記述で構成されていて、それが読みにくさの大きな理由になっているんでしょうね

796福音伝道:2024/02/12(月) 08:25:11 ID:8zhBGqb2
>>795
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は創世記37章です。

ちなみにヘロデ大王がイドマヤ(エドムのギリシャ語読み)出身です

797atheist:2024/02/13(火) 01:01:17 ID:???
>>796
ヘロデ大王がエドム出身であったことが、あの福音書の悪役的な描写に繋がっているのかも
しれませんね


さて37章はヨセフの物語の始まりの箇所ですね

父に愛されたヨセフを妬んだ兄弟たちによってエジプトへと売られてしまうヨセフですが
まあ普通に言って兄弟たちがみなヨセフを拝する夢を見たなどと言ってしまえば
そりゃ恨みを買いますねw

意外と言ってはなんですが、さついに逸る兄弟たちのなかでルベンはヨセフを救い出そうとします
結局ルベンの提案もあって、ヨセフは殺されずに生き延びてエジプトに行くことになるわけですが
物語的にはこの兄弟たちの蛮行が後半のヨセフと兄弟たちの再開をドラマチックにする伏線になっています

このヨセフの物語はサムソンとデリラの物語やエステルの物語などと並んで
起伏に富み今読んでも面白いものですね
紀元前にこういった物語が造られたというのはやはり驚嘆すべきことなのでしょう

798福音伝道:2024/02/13(火) 06:02:10 ID:8zhBGqb2
>>797
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は創世記38章です。

ハーパー曰く、J,E,P資料がちりばめられているそうです。
1節のヤコブはP 34節のヤコブはEだが、3,13節のイスラエルはJだそうです
ヨセフを救うのがルベンであるのはE、ユダであるのがJ
イシュマエル人の隊商に売り飛ばされるのがJ
ミディアン人の商人に誘拐されるのがE
というように。

799atheist:2024/02/14(水) 01:31:17 ID:???
>>798
ここもまた資料の接合があるんですね
ルベンとユダに関してはうまいこと繋げてますが
イシュマエル人の隊商とミディアン人の商人は記述に矛盾が見られますね


さて38章はユダとタマルの話です

オナンの話はもちろんオナニーの語源となったものですが
物語の中では自分の子とならないことを嫌ってタマルに産ませなかったという内容ですね

ユダの子はエルもオナンも神に殺されますが
筆者はその背景をユダがカナン人の娘を娶ったことに見ているのでしょう
ユダは残りのシラを殺されないようタマルを騙しますが
タマルもそれに反撃してユダを騙し返します
最終的にはユダが折れるというか、自分の罪を認める形で収まりますね

ユダは平然と遊女に扮したタマルを買ってますが
一応神の民、しかもヤコブの息子が遊女を買うのは問題なかったんでしょうかw

800福音伝道:2024/02/14(水) 06:37:28 ID:8zhBGqb2
>>799
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は創世記39章です

未亡人と夫の兄弟が結婚する義務があるというレビラト婚によって
タマルは弟のオナンと結婚しますが、オナンが義務を果たしません。

エル…目覚めるという意味
オナン…不満、つぶやきという意味
シェラ…失望、欺きという意味
タマル…なつめやしの実という意味

二人の息子が死んだのでタマルを不吉と感じたユダはタマルを親の元に返します。
末の息子が成人したら呼ぶと約束しますが、それは嘘でした。
フランシスコ会訳註は、推測します
タマルがヘト人だったすれば、ヘト人の律法ではレビラト婚が拡大解釈され
死者の妻を迎える義務は義弟の次に義父にもあるとしているそうです。

カナン地方では、豊穣祭の時に、アシュタロテ女神の身代わりの神殿娼婦と
交わることでアシュタロテ女神と一体となるという信仰があったそうです。
タマルはこの習慣を悪用して、遊女に返送して、ユダが通りかかるところで
待ち伏せたそうです。そしてユダはまんまとタマルの策略にひっかかり
子種をタマルに発射するわけです。
そしてタマルは報酬の代わりに証拠だけを貰い姿を消します

そして三か月後、タマルの妊娠を知ると、ユダは人をやってタマルが不義を
したということで殺戮しようとしますが、タマルから証拠が送られてきます
そこでユダは知ります。自分がタマルを騙して末の息子をタマルに与えなかった
ので、タマルが計略を用いて自分の子種を得たのであると。
そしてユダはタマルによって双子を得ます。
このタマルの子の一人ペレツの子サルモンは遊女ラハブと結婚してボアズを生みます
遊女ラハブはヨシュアのカナン侵攻偵察隊を助けた遊女ですね
孫ボアズはモアブ人の女ルツによってオベデを生み、この系図はダビデと
つながります

801atheist:2024/02/15(木) 00:55:52 ID:???
>>800
この結婚方式はレビラト婚っていうんですね
しかしユダヤ人というか当時のユダヤ人の名付けは
子供にとっては酷いですね
失望とか欺きなんて名前をつけられたら、今ならグレてしまいますw

もしユダがアシュタロテ神と一体となるという意味合いを知ってて
タマルと交わったとしたら、もう完璧にヤハウェに対する裏切りになっちゃいますね
おそらくは知らずにタマルと交わったのでしょうが

ユダヤ教的には罪がありまくりのユダとタマルの子孫の妻たちが
ラハブやルツといった聖書的にも重要な人物というのも、なかなか深いですね
一筋縄ではいかないヘブライ語聖書の物語をよく象徴しているような気がします


さて39章はヨセフがエジプトに着いてからまずは侍衛長、次に獄屋番に信頼されていく箇所ですね

最初の侍衛長の妻とヨセフの話は、まるで昼ドラですねw
ヨセフは侍衛長の妻の奸計によって侍衛長を怒らせ
獄に繋がれることになりますが、ここでもまた獄屋番の信頼を受けます
一応聖書では神が裏で恵みを与えた、つまりは茶番に近いものですが
ともかくヨセフがいると栄えることになるので、ヨセフは次々とのし上がっていきます

802福音伝道:2024/02/15(木) 06:08:17 ID:8zhBGqb2
>>801
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は創世記40章です。

ヨセフはエジプト人に買い取られるわけですが、神から祝福されているので
することなすことうまくいって、家宰まで出世します。一方、主人の妻から
誘惑を受けます。タマルは大胆な行動で子孫をつなぐわけですが、
主人の妻は不倫によって家庭破壊行動に出ていますので前章とは対照的です。
ヨセフは断りますが、とうとう主人の妻の嘘によって、監獄へと送られます。
監獄でも看守長に気に入られ、囚人頭に出世します。

ハーパーはBC10知恵文学、ソロモンの宮廷で書かれたと推測します。
そしてソロモンが投影されていると分析しています。

2節 主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり
原文 しかし主がヨセフと共にいた。そして成功する人となった

神が共におられると、やることなすこと、「成功する」ようです。
なにをしてもうまくいくというのが「幸運」と訳されている内実です。
まちこ神学がここに見られるのかもしれません。

803atheist:2024/02/16(金) 00:51:16 ID:???
>>802
たしかに同じ「悪女」でもタマルは子孫を残すという目的に合致した行動をとってますね
逆に侍衛長の妻は珍しいほどに典型的な悪女として描かれてます

ヨセフに対する神の恵みはイスラエル民族の保護と成長という神の計画に沿ったものとして
描かれているのでしょうが、繁栄の神学の場合は神の計画は欠如していて
むしろ神を使役する人間が主体であるかのような神学になっていますね


さて40章は給仕長と料理長の夢をヨセフが解き明かす箇所ですね

ここはあとのパロの夢の解き明かしの前座といったところですが
似たような夢であっても給仕長と料理長の運命は正反対になってしまいます

夢の解き明かしというパターンも聖書ではよく出てくるように思います
傍から見るとカルト的な宗教によくある(自己)洗脳手法の一貫でしかありませんが
古代においてはこういった夢も超自然的な意味を持って捉えられていたのでしょうね
聖書ではそれを神の計画や忠告として物語に組み入れたのでしょう

804福音伝道:2024/02/16(金) 05:16:11 ID:8zhBGqb2
>>803
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は創世記41章です

給仕役と料理役
直訳「酒を飲ませる者とパンを焼く者」
給仕役は、註によると、酒を捧げるだけではなく王の相談役でもあったとあります。

13今から三日のうちにパロはあなたの頭を上げて、
あなたを元の役目に返すでしょう。
19今から三日のうちにパロはあなたの頭を上げ離して、
あなたを木に掛けるでしょう。

ソムリエもパン焼きにも「あなたの頭を上げて」と同じことが語られます。
実は「上げる」という動詞にはフランシスコ会訳註によると真逆の意味があるそうです
A.ある者を以前ついていた高い地位に戻す
B.処刑して頭を切り離す

口語訳は「あなたの頭を上げ離して、」と訳していますが
原文は「あなたの頭を上げて」だけです。

全体の流れとしては、夢見る者だったヨセフが ここでは
夢解き明かし能力を発揮する箇所です。

原語的には、「上げる」という動詞に真逆の二つの意味があることを利用して
同じような夢が二つの真逆の未来を予告しているという物語となっています

805atheist:2024/02/16(金) 23:56:39 ID:???
>>804
原文の「上げる」には「高い地位に戻す」と「首を切り離す」のふたつの意味があって
そのふたつの意味をかけて使われているわけですね
ここでも言葉遊びが見て取れますね


さて41章はパロの夢の解き明かしの箇所ですね

この章ではっきり分かりますが、夢は神がこれからすることを告げるもので
ヨセフをそれを解き明かすことを通じてパロを除くエジプトの頂点に立つことになります
よくできたお話ですが、この話もまたヤコブたちイスラエルの民とヨセフを引き合わせるための
前座的な話になっていますね
そしてそれがまたイスラエルの民のエジプトでの隷属、さらには出エジプトへとつながる、
といったふうに、それぞれのエピソードは壮大な物語の一部として機能しています
古代においてよくこれだけの物語を作ったものだと感心します

ちょっと気になったのはヨセフがパロに与えられたザフナテ・パネアという名前です
パロが与えたわけですからエジプトの言葉だと思われますが、なにか意味があるのでしょうか?

806福音伝道:2024/02/17(土) 08:07:39 ID:8zhBGqb2
>>805
atheistさん、おはようございます。土日の聖句は創世記42章です。

物語としては劇的ですね。
奴隷として売られたが、神が臨在してなんでもうまくいくので
主人に愛され、家宰に出世。すると主人の妻が誘惑。拒否して囚人に。
すると牢獄でも出世して、夢の解き明かしをしてみせる
2年後、ファラオが夢見た時、誰も解き明かせなかったが
解き明かしてもらった給仕長がフォラオに牢獄のヨハネを教える
そしてファラオの夢を解き明かし、対策も進言する
フォラオを感心させて、エジプトの宰相に任じられ、穀物管理者となる

そしてザフナテ・パネアという名前を与えられる。
原文ではツファナット・パアネア
フランシスコ会訳註にもハーパーに解説なし。
新共同訳聖書辞典にも解説無
ミルトス・ヘブライ文化研究所編『ヘブライ語対訳シリーズ 創世記Ⅱ』の欄外註に
「隠れている物を解く人」の意か とあります。
改革派静岡教会のサイトでは
「神が語られたので、その者は生きているという意味の名前」としています

エジプトの名前をヘブライ語音写しているので
元の意味は不明となっているようです。
ただ色々と推測はされているようですか、どれだけの信ぴょう性が
あるかは不明です

807atheist:2024/02/17(土) 21:51:06 ID:???
>>806
エジプトの言葉、しかもそれを当時のヘブライ語で音写したとあっては
やはり原語がなんであったかは分からない、といったところでしょうか
「隠れている物を解く人」というのは物語の流れからは妥当な感じがしますね


42章は飢饉に苦しむヤコブ一家のヨセフの兄弟たちが穀物を買いにエジプトに行き
ついにヨセフと会う箇所ですね

ヨセフは兄弟たちに気付いても、兄弟たちはヨセフに気づきません
ヨセフは兄弟たちの誠実さを試しますが、42章ではヤコブがベニヤミンを連れて行かせることを
拒否するところで終わっているので、まだエピソードの途中ですね

ここでもルベンはヨセフと兄弟たち、あるいはヤコブとの間に入って物語を進める役割になっていますね
ルベンはあまり印象がなかったのですが、このヨセフの物語を読み直して、今のところ兄弟たちの中では
一番まともな人物という印象になりました

808福音伝道:2024/02/18(日) 08:43:48 ID:8zhBGqb2
>>807
atheistさん、おはようございます。明日月曜日の聖句は創世記43章です。

42:9ヨセフはかつて彼らについて見た夢を思い出して
これは
37:6ヨセフは彼らに言った、「どうぞわたしが見た夢を聞いてください。
37:7わたしたちが畑の中で束を結わえていたとき、わたしの束が起きて立つと、
あなたがたの束がまわりにきて、わたしの束を拝みました」。
37:8すると兄弟たちは彼に向かって、「あなたはほんとうにわたしたちの王に
なるのか。

ドラマティックですね。夢が現実となるわけです。

そして、兄たちはヨセフにきづかないということで『断絶』が描かれ
ヨセフは兄からの仕打ちの仕返しをします。
ヨセフは末の弟を連れて来い。それまではシメオンを捕縛すると言います。
これを受けて兄弟たちは、過去の罪を思い出し悔い改めます

42:21彼らは互に言った、「確かにわれわれは弟の事で罪がある。
彼がしきりに願った時、その心の苦しみを見ながら、
われわれは聞き入れなかった。それでこの苦しみに会うのだ」

ルベンの熱弁を聴き、ヨセフは泣きます。
この涙は後に最終的に和解の時にも流されます 45:2

ルベンが息子二人を出して、ベニヤミンを連れて行くことを提案しますが
ヤコブは断ります。ヨセフを喪ったショックが強かったからですね
ではシメオンの立場は?と思うわけですが、ヤコブはここでは頑なです。
しかしのちに食料がなくなるとあっさりベニヤミンを差し出します。

なんだか怖い話ですが、古代の7年の飢饉、おそらく気候変動の寒冷化による
は、危機的だったのでしょう




そして兄弟たち

809atheist:2024/02/19(月) 05:17:41 ID:???
>>808
ヨセフの物語はもしかしたらひとまとまりの物語としては
エステル記に次いで最長の部類かもしれませんね

たしかにシメオンの立場がないですねw
でもヘブライ語聖書は当たり前のように自分の子どもであっても
好き嫌いというか愛着に差をつけますよね
そのへんも現代人とは感覚が違うので、慣れないと読みにくいひとつの要因ではあると思います

810福音伝道:2024/02/19(月) 12:24:50 ID:8zhBGqb2
>>809
atheistさん、こんにちは。本日の聖句は創世記43章です。

どちらも自分の子供なのに、贔屓しすぎですよね
とはいえ餓えると あっさり差し出します

811atheist:2024/02/20(火) 00:55:58 ID:???
>>810
43章はそのまま続きの物語ですね

いよいよ兄弟たちがエジプトから持ち帰った穀物も食い尽くしてしまい
ついにヤコブも折れてベニヤミンを連れて行く許可を出しますね
今度はもらった倍の銀を携えていきますが、兄弟たちはまだヨセフに対して
疑心暗鬼です

最終的に同じ食卓に付きますがベニヤミンの分は他の兄弟達よりも
5倍も多い、というところで笑ってしまいました
たしかにベニヤミンはヨセフと同じ母から生まれていますし
なによりもヨセフを売り払ったときに関与していませんから、そうしたい気持ちもわかります

あとはエジプト人も他の民族とともに食事することは忌むんですね
ヨセフが宰相の座にまで上り詰めたというのに

812福音伝道:2024/02/20(火) 05:57:24 ID:8zhBGqb2
>>811
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は創世記44章です

43:10もしわれわれがこんなにためらわなかったら、
今ごろは二度も行ってきたでしょう」。

ヤコブがベニヤミンを送り出すまで、相当な期間があったようです。
約400kmとして、古代人の道路事情なので1日10km 片道40日
往復二度で160日ですね。

直訳
なぜならエジプト人はへブル人たちとパンを一緒に食べることができなかった。
なぜならそれは、エジプト人にとって避けたいことであった。

それで彼らはヨセフにはは、ヨセフだけ置いた。
そして彼らには、彼らだけに置いた。
そしてエジプト人には、エジプト人だけに置いた。

ベニヤミンの分け前は、彼らみんなの分け前より五倍多かった

だが、酒については
そして彼らは飲んだ そして彼と共に彼らは酔っぱらった
とありますので
料理は、ヨセフ、エジプト人、へブル人が別々のテーブルで、
へブル人の兄弟たちにはヨセフの前から料理が運ばれるという演出があり
食卓を別にすることで、まだ兄弟が断絶していることを思い出させるが
最後に酒が入ると「ヨセフと共に兄弟たちが飲み、酔っぱらった」とあります
これは和解の前兆を意味しているのかもです

813atheist:2024/02/21(水) 01:40:37 ID:???
>>812
160日ということは半年近くですね
聖書の記述からはたいした日数が経っていないように感じましたが
実はずいぶんヤコブは粘ったということになりますね

酒で和解というのはどこも同じで、ちょっと微笑ましいですね


さて44章は兄弟たちの帰還ですが、ヨセフの策略でベニヤミンが銀の杯を盗んだことにされ
再びヨセフのもとに戻る、というお話ですね

このあとヨセフが身元を明かすことになるのですが、
ヨセフはなぜこのような面倒くさいことをしたのでしょうか

普通に兄弟たちが帰る前に身元を明かし、神の計画を述べれば済んだように思われます

814福音伝道:2024/02/21(水) 05:53:26 ID:8zhBGqb2
>>813
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は創世記45章です

5これはわたしの主人が飲む時に使い、またいつも占いに用いるものではありませんか。

銀の杯で、飲み、また占う、とあります。
占いに用いる は、原文では「占いあてる」です。
銀の杯で占い、未来をヨセフは言い当てたようです。

ベニヤミンの袋にひそかに銀の杯を入れさせ、盗んだことにさせます。
31:19ラケルは父の所有のテラピムを盗み出したのですが
そのことを知らないヤコブはラバンに調べることを赦し、
誰か盗んでいる者がいれば、生かしておかないといいます。
44章でも嫌疑をかけられた兄弟たちは、盗んだ者がいれば「死」、
他の者は奴隷になると申し出ます。
そしてベニヤミンのところで見つかります。
そしてヨセフの所まで戻ると、ヨセフはベニヤミンだけ置いて
他は無罪放免とします。
ところがユダが、あのヨセフを銀で売ることを提案したユダが
完璧な演説をして、身代わりになることを要望します。

これはユダが自分の罪を認めて、悔い改めたということなのです
43節
44:33どうか、しもべをこの子供の代りに、わが主の奴隷としてとどまらせ、
この子供を兄弟たちと一緒に上り行かせてください
が、クライマックスとなります。

このユダの変身、変貌があったからこそ、ヨセフは兄たちを
赦せたのかもです

815atheist:2024/02/22(木) 01:00:14 ID:???
>>814
夢の解き明かしも未来予測でしたし、この銀の杯も未来予測なんですね

そういえばヤコブとラケルがラバンのところから逃げるときにも
そんなシーンが有りましたね
もしかしたら同一の伝承から造られたお話なのかもしれません

ユダの演説で場が収まったという感じでしたが
たしかに元々ユダはヨセフを売り渡そうと言い出した人物ですから
これがユダの悔い改めということになるわけですね
まあこのシーンを描きたいがためにヨセフの策略を入れたのかもしれませんね


さて45章はヨセフが身元を明かすところです

このヨセフのセリフで今までの伏線がすべて神の計画として回収されますね
古代の物語としては見事としか言いようがありません
宗教的な観点から見ても、人間には理由がわからない苦難が
時としてより大きな神の計画の一環である場合がある、という教訓があるように思います

ユダヤ教ではこのような話を語り継ぐことで、自分を襲った運命を神の元で解釈し
生き抜いてきたのでしょう

816福音伝道:2024/02/22(木) 06:11:16 ID:8zhBGqb2
>>815
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は創世記46章です。

約400kmとして、古代人の道路事情なので1日10km 片道40日
往復二度で160日と計算しましたが、6節で、この二年の間とありますね。
半年分は貯えがあったとして、1年半分ほど貰ったのかもですね

5節の「神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです」
は、ヨセフ物語の核心ですね。

8節 神はわたしをパロの父とし
原文 エロヒームが私をファラオの父とし、
フランシスコ会訳註によると「ファラオの父」とは親友、相談役の意味で
エジプトでは称号の一つだそうです。別の注解は「指導者、顧問」の意。

ここでもベニヤミンだけ特別扱いされ、銀三百シケルと晴着五着が与えられます
ベニヤミン族の有名人はサウル王とパウロス先生ですね
そしてユダ族の有名人がダビデ王と主イエースース。

817atheist:2024/02/23(金) 01:02:30 ID:???
>>816
半年でも1年でも、そんな量の穀物をどうやって1回で運んだんでしょうかねw
「父」というのが指導者や顧問の意ならわかりますが、親友というのはちょっと奇異な感じがしますね

ユダ→ダビデ→イエスというのはマタイの系図に従えばそうだとして
サウルとパウロがベニヤミンの子孫というのは知りませんでした


さて46章はヤコブ一家が総出でエジプトに向かう箇所ですね
といってもそのたいはんはヤコブの系図になってます

羊飼いはエジプトでは忌み嫌われているそうですが
これは何ででしょうか?
羊飼いというより、ヒクソスに征服されたこともあるので遊牧民を忌み嫌っていたという
ことでしょうかね

818福音伝道:2024/02/23(金) 08:32:52 ID:8zhBGqb2
>>817
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は創世記47章です

1日小麦90gとすると1年分は32.85kg なんとか運べたかもですね
戦後食糧難時代、一日に1人が農村から都市に持ち出せる青果の重さが
30kg(8貫)でしたので。その後統制されて2貫になりましたが。

46:3神は言われた、「わたしは神、あなたの父の神である」
原文 そして彼は言った。「私はエル。あなたの父のエロヒームである」

父イサクのエロヒームに生贄を屠殺すると、幻が出てしゃべったわけですが
まあ先祖の神々を祀っていたら、突如出現して、「私は神。お前の父祖の神々だ」と
言ったわけです。単数と複数が混在していて興味深いです。
この時代、たぶん一神教ではないです。あくまで先祖の神々です。

27節で70人とあるが、フランシスコ会訳註によると、出1:5,申10:22の70に
あわせての改作だとしています。70人訳は75人としていて使徒7:14も75だそうです
70人分の小麦を11人で運んだとなると、1人当たり200kgですので、これは無理
ですね。ラクダとかロバとか、荷車がないと。

34節。家畜の牧者 羊飼 わかりにくい。
これはこういうことです。

家畜の所有者と言いなさい。
エジプト人は、雇われて、他人所有の羊を群れを世話する「羊飼い」を
嫌うからです。 という意味です。
「羊飼い」はエジプトでは小作だったようです。
なので誤解されないように「家畜の所有者」つまり金持ちであると
自己紹介しなさいということですね

原文 「家畜の人々」「羊の群れを飼う者」
原文もわかりにくい。解説がないとプロットを理解できないです。

ハーパーは、エジプト人ではないアジア人に対する嫌悪感を「羊飼い嫌い」で
表しているかもしれない。ヤコブ一家がヨセフの影響力を利用してエジプトの
国政に野心を持っていないことを表明するために「羊飼いの仕事」を続けたい
と申し出させると解説していますね。 あほですね。

819atheist:2024/02/24(土) 00:20:31 ID:???
>>818
飢饉の時代であったこともあり、実質小麦しか食べるものがない状態で
一日ひとりあたり90gで足りるんでしょうかね?
わたしはひとり90gと言われてもピンとこないので足りるのかもしれませんが
ヤコブのところには妻や僕、それに子どもたちもいたわけですから
それを勘案するとかなりの量を運ばなければならなかったような気がします

エルとエロヒームが混在しているというのは面白いですね
アブラハムからヤコブに至るまで、実質ヤハウェを主なる神とせよ、という物語ですから
逆に言えばその背景には様々な神々がいて、その中からヤハウェのみを自分の神として
崇拝していく物語ということになりますね

「羊飼い」というのは農耕で言う「小作」に当たるわけですね
要は無産市民のようなものですから、それをエジプト人は嫌った、ということですね


さて47章はヤコブたちがゴセンの地に住んでからのエジプトの様子を描いていますが
まあヨセフもあこぎですねw
飢饉に乗じて民の銀、家畜、田地まで収奪し、挙句の果てに民を隷属させます
ここはおそらく当時のエジプトの実情をヨセフの物語のなかで説明しようとしたものなんでしょうね

最後はヤコブがヨセフに先祖たちの地に自分を葬るよう願うところで終わっています

820福音伝道:2024/02/24(土) 12:41:51 ID:8zhBGqb2
>>819
atheistさん、こんにちは。明後日の月曜日の聖句は創世記48章です。

エジプトの民は、家畜や田畑を取られて奴隷になったわけですが
種まで供給されて税率は20%なので良心的かもです、日本の江戸時代だと40-50%ですし
去年の日本人の国民負担率は46.8%ですし、エジプトの奴隷以下の高負担です
それとヨセフのおかけで奴隷になったが生き延びれたので。

ただ、古代はこうやって、農業生産物が他人を支配する原因になったように
思います。なんといっても1粒が2000粒になる米などの穀物は富の集積に
つながり、富の蓄積は貧富の差を生み、富者の貧者支配につながったと。

ハーパーによると、当時のエジプトの政治。
すべての土地が王の所有とされる制度の起源の物語をヨセフの功績として
描いているそうです。税率も。
聖書的にはヨセフがエジプト人の命を救った美談として挿入されたそうです。

まあ日本の古代律令国家もスタートはすべての土地は天皇の所有(公地公民 )
でした。
私は所有権というのはおかしいと思います。期限付き使用権とすれば
良いと思います 有効活用しなければ、重課税するとか

821atheist:2024/02/25(日) 01:59:13 ID:???
>>820
金曜が祝日なので混乱してしまいますが
一応今までのスケジュールだと48章は土日分ですよね?

たしかに税率が20%なら良心的かもしれませんね
特に近年の日本の国民負担率は高いですし
何よりも物価高のなかで増税を繰り返していますから
もうアホとしかいいようがありません

やはり当時のエジプトの政治状況をヨセフの物語として
説明しているんですね

特に土地の所有権というのは不公平極まりないものですよね
本人が勤勉に努力して買い取った土地ならまだしも
子孫に相続されるので、階級・階層も再生産されて不平等が永続化します
土地は社会的所有にして個人の土地に対する権利は利用権にすれば
歪んだ階級・階層の再生産はいくらか緩和されるかもしれません

ただ古代の日本の公地公民もそうですが、こういった発想は歴史的にはほぼ絵に描いた餅で
きちんと施行されることもなく、すぐに私的所有(荘園)に取って代わられていきますね
過剰な欲望を持った動物である人間の宿命なのかもしれません


さて48章は死期の迫ったヤコブにヨセフが会いに行く箇所ですね

そういえばなぜエフライムやマナセがルベンたちと並んで12支族のひとつに数えられることがあるのか
疑問でしたが、5節に答えが書いてありますね

今回気になったところは、まるでヤコブとエサウを彷彿とさせるような
エフライムとマナセへのヤコブの祝福のところです
今回はヤコブが意図的にエフライムをマナセより上に置きますが
これはどうしてなんでしょうか?

822福音伝道:2024/02/25(日) 09:37:35 ID:8zhBGqb2
>>821
atheistさん、おはようございます。失礼、混乱していました。
月曜の聖句は創世記49章。土日が48章でした。

フランシスコ会訳註によると、祭司職レビとヨセフの代わりに
エフライムとマナセがカナンの土地の分配分を取ることになって
12部族の領地分配が決定されて、後にユダ王国から独立した
北王国(10部族連合)をエフライムが率いたとあるので、
長子権には言及されてませんが、マナセの代わりエフライムを長子に
したのは歴史の何かが反映されているのかもです。

ハーパーは、単に目が悪くなって、兄と弟を間違えたとヨセフが判断して
父ヤコブに進言したが、弟のほうが繁栄するから兄なのだと説明したとだけ
解説しています。原文通りの解釈ですね

福音派は
長子の権威は、ヤコブからヨセフへ、そしてレビ族のモーセへ、
そしてエフライム族のヨシュアへ、そして士師の時代を経て、
ベニヤミン族のサウルへ、
そしてユダ族のダビデ、ソロモンとつながって行き、
イエス・キリストにまでつながって行きます。
と、見てます。

823atheist:2024/02/26(月) 02:07:34 ID:???
>>822
なるほど後の歴史がこの話に反映されているということですね

福音派の解釈は聖書の物語の主人公をそのまま長子の権威と考えているみたいですね

ヨセフの物語、というか創世記もいよいよ終盤ですが
このヨセフの物語でイスラエル民族がエジプトに滞在し隷属していく様を描き
このあとの出エジプト記へと繋がっていくことを考えると、長尺のヨセフの物語もまた
壮大なイスラエル民族独立物語の一幕ということになりますね

824福音伝道:2024/02/26(月) 06:29:59 ID:8zhBGqb2
>>823
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は創世記49章です

創世記14:13
14:13時に、ひとりの人がのがれてきて、ヘブルびとアブラムに告げた。

この「へブルびと」は原文では定冠詞付きの「ハ・イブリ―」です。
イヴリーがなぜ「へブル人」とか「ヘブライ人」と称されるかというと
これはギリシア語の「ヘブライオス」の訳語だからです。
が、ヘブライ語ではイヴリー人なのに、誰もイブリー人と言いません。
不思議です

語源的にはイヴリートは、動詞アーヴァル(渡る)の名詞化なので「渡来人」という
意味です。
つまり、イブリー人とは「よそ者」という意味の言葉なのです。

歴史的には、「よそ者」で山地に住んでいたはずの者たちが
聖書ではなぜかエジプトに住んでいたことになります。
壮大な物語ではありますが不思議です
ただ「元よそ者」であったという認識が歴史物語にきちんと
組み込まれているように思います

825atheist:2024/02/27(火) 00:21:20 ID:???
>>824
スラブ民族と英語のslaveの関係に似ていますね
もっともこちらはスラブ民族のほうが「奴隷」の語源になっているので
反対の関係ですが


さて49章はヤコブの「遺言」とでも言えるような箇所で
このなかでヤコブは12支族それぞれに「祝福」を与えていますが
実際は祝福ととれるものと呪詛ととれるものに分かれていますね

ルベンやシメオン、レビは実質呪詛ですね
それに対してユダやヨセフ(あるいはその「長子」のエフライム)は大いなる祝福を与えられています

これは実際にはすでに成立していた12支族の趨勢を後付で説明した物語のように読めます
北王国の主はエフライムですし、南はユダですからね

ただレビはのちのち祭祀を司る支族となるのになんで呪詛されてるんでしょうね

826福音伝道:2024/02/27(火) 06:00:13 ID:8zhBGqb2
>>825
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は創世記50章です

ルベンは、35:22によって長子権を奪われます。
35:22イスラエルがその地に住んでいた時、
ルベンは父のそばめビルハのところへ行って、これと寝た。
イスラエルはこれを聞いた。

シメオンとレビは、ディナ凌辱に対する暴力的な復讐によって呪われ
長子権はユダのものとなり、フラシスコ会訳注によると、
ユダの権利はダビデの支配によって明らかにされ、ダビデの子救い主キリストによつて
最終的に成就され永遠のものとなる、と。

ハーパーによると49:24-25で神々の名前が連発されているそうです
ヤコブの牡牛 牧者 イスラエルの石 あなたの父の神 エル・シャダイ
とあります。

ヤアコヴ ミシャム(ヤコブ そこから→「ヤコブの牡牛」という神の名
ロエー  「牧者」
エヴェン イスラエル 「イスラエルの石「」
メ・エル アヴィーハ 神から あなたの父の→「あなたの父の神」
シャダイ 原文にエルはなくシャダイだけで「全能者「」と訳されるが

乳ぶさと胎の祝福をもって
原文…タハット(下で) ビルホット(祝福) シャダイム(乳房の) ヴァラハム(と胎の)
 乳房と胎の祝福の下で

シャダイムが、乳房のと訳されているように、シャダイのそもそもの意味は山々なので
女体の山ということで乳房になったことが推察されるので、
この聖句は注目箇所です

827atheist:2024/02/28(水) 01:12:43 ID:???
>>826
たしかにルベン、それにシメオンとレビは前の方でやらかしてましたねw
ということで長子権はユダに移り、ダビデを通じてイエスへと引き継がれていった、
というふうになっているわけですね

24-25節の「〜により」の〜は神々のことなんですね
シャダイは元々は全能ではなく山々で、そこから乳房の比喩表現となっているってことですね


さて創世記もついに最終章です

ヤコブの喪の様子と、最後にはヨセフの死が描かれています
2-3節の記述はもしかするとエジプトの習慣のミイラ化のことかなと思いました
ヨセフたちは父の埋葬と喪を終えると、ふたたびエジプトに戻りそこで暮らすことになります
年月を経て優遇されていた地位を失い奴隷化していきますが、これが出エジプトの背景にあり
またヨセフの24節のセリフに暗示されていますね

828福音伝道:2024/02/28(水) 06:00:21 ID:8zhBGqb2
>>827
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト記1章です。

2節 父に薬を塗ることを命じたので
原文 そして彼の父をラハノットするように命じた

ラハノットは、香料を詰めて防腐処理することを指すので
「薬を塗る」は直訳風ですが、要するに「ミイラにするように」
という意味です。
ご推察通り「エジプトの習慣のミイラ化」のことです

新改訳2017
父をミイラにするように命じたので
聖書協会共同訳
父のなきがらをミイラにするように命じた
新共同訳
父のなきがらに薬を塗り、防腐処置をするように命じたので

最近の訳では「ミイラにするように」と分かりやすく訳しています。

さて、フランシスコ会訳註によると、次の出エジプト記が、モーセ五書のみ
ならず、聖書全体の基礎と位置付けています。単なる歴史書ではなくて、
「エジプトでは、ばらばらに奴隷として存在した一族が、シナイにおいて
主と契約を結び、自由な「祭司の王国、聖なる国」を形成するという宗教的歴史書、
宗教的叙事詩であり、英雄モーセは脇役であり、主役は「主」という名を啓示する
神である、と。
ハーパーは、J資料とE資料の素材が散りばめられているが、それはEでは知られて
いない、つまり族長たちが知らなかったヤハウェの名の啓示であり、エジプト人たち
に、ヤハウェの力を示すことにあったそうで、これは祭司資料pによって祭司的歴史が
描写されているそうです。で、最終的に申命記記者の再配列があるとのことです。

829atheist:2024/02/29(木) 01:11:38 ID:???
>>828
やはりミイラのことだったんですね
40日もかかるというのはどう考えても普通の防腐処理ではないので
そうじゃないかと思いました

創世記が聖書全体の基礎と普通なら考えそうですが
ヤハウェによる隷属からの解放というのがユダヤ人にとっては
宗教的に決定的なことですから、たしかに出エジプト記こそ聖書の基礎とは言えるかもしれません

ヤハウェの名の啓示というのは、ヤハウェが元来異邦人の神であったことを暗示させます
逆にだからこそ契約という概念が前面に出てくるのでしょう
元々イスラエル民族(カナン民族)の神であれば、わざわざ契約とはならないでしょうから


さて今日からはその出エジプト記です
まず第一章はイスラエル人がエジプトで増え栄えたために
恐れをなしたエジプト人がイスラエル人を隷属させてゆく過程を描いています
後半はイスラエル人から男子が生まれたら殺すようにという王の命令ですね

イスラエル人がエジプトで増え栄えたというエジプト側の記録はまったくないので
これまた神話的な誇張と言っていいですが、イスラエル人の正当性を主張する話として
創作されたのだと思います

ともかくこの話がモーセの誕生の序曲になってますね

830福音伝道:2024/02/29(木) 06:21:51 ID:8zhBGqb2
>>829
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト2章です

ハーパーは、エジプトの強制労働を、ノアの箱舟の元となったメソポタミアの
アトラ・ハシースと同類型とみなしています。
人口増加→運河を掘るための重労働→人口増加で騒がしくなり→神が眠れず怒り
→人間の糧食を断ち、旱魃を起こす→人に好意的な神が旱魃を終わらせる
→再び神が眠れず旱魃を起こす→人間の英雄と人間に好意的な神が協力して
なんとか人間たちを救う→ついに神は大洪水を起こす→大きな船をつくり英雄と
人々はなんとか助かる。
出エジプトではユダヤ人は重労働をするがそれでも増え、ファラオは脅威を感じ
神のように、更に重労働を明示、次に助産婦に男児間引きを命じ、失敗すると
男児をナイル川に投げ込むように指図する、と。
で、この男児の一人のモーセがテイバー(創世記では箱舟、出エジプトでは「かご」)の
中に入れられているところを助けられる

なるほど、原文テイバーは、箱舟と訳された語です。モーセの場合は籠と訳されて
ますが、同一単語です。

ジョン・ドレイン『旧約聖書大全』p62によると
「ヨセフの物語は、エジプト語で「異国の支配者たち」を意味するヒクソスによる
第十五王朝(BC1670頃)の出来事だったと思われる。この時代の支配者は非エジプト人
であり、そのためヨセフのような余所者が権力を行使する地位に就くことも寛容だった。
そしてヨセフのことを知らない新しい王は、おそらく生まれながらのエジプト人の王が
ヒクソス王朝衰退の後、力を持つようになった新王朝のことであろう」
ヒクソス注
「セム系を中心とした西アジアの遊牧民。エジプト中王国末期に、シリアから侵入し、
デルタ地帯を支配し、第十五、第十六王朝を建てた。BC16C半ばに衰え、エジプトを
追放された」

フランシスコ会訳註は、「新しい王」は「新王朝」の意と注記し、
可能性として「新しく王となった若いフォラオを指すかもしれない」とも
併記しています。

831atheist:2024/03/01(金) 02:03:30 ID:???
>>830
ノアの方舟とモーセが入れられたかごが原文では同一の単語だというのは面白いですね
地理的に近接した地域の神話群では類似のテーマやプロットが見られるというのはよくあることですが
ここでも元になったメソポタミア神話の影響があるのかもしれませんね

ヨセフの物語とヒクソスの関連はポピュラーな聖書の謎解きなどでは語られることがありますが
ヒクソス時代に関する史料が極めて少ないために、考古学的には現在はほぼ考慮されていないようです
ただヒクソスはほぼセム語系の民族であったと言われてますし、エジプトにおいて一時期支配した
史実はあるわけですから、ヨセフの物語との関係をどうしても考えたくなってしまいますよね


さて2章はモーセの誕生から成長するまでの物語で、これもまた有名なお話ですね

わたしは個人的に有名な幼少期の話よりも15節以降、モーセがミデヤン(ミディアン)地方に行ったという
逸話のほうに興味があります

以前も書いたと思いますが、ヤハウェの出自がこのミディアン地方であるという有力な仮説があるからです
ごくわずかですがそれを支持する考古学的な傍証や文献学的な示唆もあるため、このモーセの逸話と
よくマッチするように思えるからです
あとに出てくるモーセとヤハウェの邂逅、ヤハウェの名乗りなども非常に示唆的です
惜しむらくは今のところ、この仮説(Kenite-Midianite Hypothesis)を十分立証できるほどの
考古学的証拠がないことでしょうか

ともかくも聖書の物語としてはモーセはミデヤンの祭司の娘と結婚し子をもうけます
エジプトにいるイスラエル人はいまだ苦役を課され苦しみの叫びを上げています
それを聞いたヤハウェが…ということで次章に続きますね

832福音伝道:2024/03/01(金) 05:36:50 ID:8zhBGqb2
>>831
aheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト3章です

ハーパーはまず、サルゴン伝説(後代の偽書)に注目します。
メソポタミアの支配者サルゴン大王(BC3000年)は赤ん坊の時、
大祭司であった母親によって
アスファルトを塗って防水したイグサの籠に入れられて川に流されたそうです
そして灌漑作業者に発見されて拾い上げらたそうで似ていると。
モーセ誕生物語もこの伝説もサルゴン伝説と同様J資料に書けており、伝説的とのこと。

また両親の名をあかすことすらできていないし、モーシェーを
「マーシャー」(引き上げる)というヘブライ語に関連付けているが
むしろエジプト語の「子供」に由来する名前である、と。
このモーシェーという名前は古いレビ人の系図によくみられるエジプト名であり
レビ人の一部が一時、エジプトに住んでいたことを示しているとのことです。
(ほかにもホフニ、ピネファス、メラリなどがレビ人系図のエジプト名)

ハーパーは、多くの神学者がヤハウェの起源をミディアン付近に求めるべきと
考えているとのこと。神の山ホレブ山もここにあります(3:1)
これは残念ながら「エロヒムの山」ですが、wikiでは「YHWHの山」とも
呼ばれるとありますがどこで呼ばれているかを確認できなかったです

また、ハーパーによると、ミディアン人は遊牧民として描かれていますが
考古学的証拠からは定住民だそうです。

状況証拠的にはヤハウェは、ホレブ山の神、ミディアン人の神であったのでしょう。

またハーパーによると、ミディアンへの逃亡記事はE資料とJ資料に書かれている
そうです。

833福音伝道:2024/03/01(金) 05:54:04 ID:8zhBGqb2
義父の名前は錯綜しています

1.レウエル(出2:18)
2.エトロ(出4:18)
3.ホバブ(土師記4:11) しかもカイン人
4.レウエルの子ホバブ(民10:29)

ハーパーは分析して、少なくとも二つの伝承がある
古い伝承ではモーセの義理の父はミディアン人エトロ
第二の形ではカイン人ホバブ
第三の形が今のレウエルだが、第三形というより、ただの誤記とも言える
とのこと。手厳しい。(義父の父親の名前が誤記された)

834atheist:2024/03/02(土) 01:45:05 ID:???
>>832-833
そういえばサルゴン大王とモーセの伝承の類似性についてはどこかで読んだことがありました
指摘されるまで完全に忘れていましたが、この辺もメソポタミア神話の影響が感じられるところですね

モーセを含む古いレビ人の名前がエジプト名というのは
非常に示唆的ですね
やはりなんらかの形で、のちに形成されるイスラエル民族の一部がエジプトに住んでいたのかもしれません
出エジプト神話はそれを誇張して描き、カナンにいたイスラエル人の神話群のなかに取り込んでいった
ということを暗示しています

ミディアン仮説はまだ定説にまでは至ってないようですが
おそらく最も有力な説なんでしょうね
この章もEとJが混在しているということはホレブ山を含む名称の扱いにも表れているのかもしれません

義父の名前はあまり気にしてませんでしたが
こうしてみるとかなり混乱してますね
逆にこのような混乱がそのまま残されているということは
編集者が無理やりでっちあげたのではなく、古い伝承を保存してきたことを伺わせます


さて3章はモーセが神と出会い、神に出エジプトの使者の役割を任命されるところですね

やはり気になる箇所は14節の「有って有る者」「わたしは有る」というヤハウェの名称です
宗教的あるいは形而上学的にはいろいろ言われていますが
学術的にはこの名称はどのように解釈されているのでしょうか?

あとまったく記憶にありませんでしたが、22節で神様は、しれっとエジプト人を略奪するように命じてますw

835福音伝道:2024/03/02(土) 11:07:53 ID:8zhBGqb2
>>834
atheistさん、おはようございます。本日と明日の聖句は出エジプト4章です

フランシスコ会訳註によると、
本書の著者はヤーウェという名を「彼はいる」と三人称と考えている。
一人称の「私はいる」(エーイェ)は、14節2回、12節では「私は共にいる」という
形で使われている。 と解説します。

ハーパーは、まず「燃える柴」に注目します。
燃える柴の原語seneセネーからホレブ山の別名のシナイ山が連想されたとしています。
申命記33:16にヤハウェの称号として「柴の中に住まわれる方」とあると指摘しています。
ホレブとシナイは元々はヤハウェの山について別の伝承から来ているが物語の現在では
同一のものである、と。 
そして次のモーセの任命に関しては
E由来の短い版3:9-10 J版の長い部分3:7-8,16-22 P版は6:5-13

問題の3:13-15はE版だそうです。エロヒスト伝承では、この時、民は神の名を忘れたか
まだ知らなかったそうです。今それが神秘的な仕方で明らかにされた。
神は自分を「わたしはある。わたしはあるというものだ」と明らかにする
ヘブライ語エフイェー「わたしはある」は、このようにヤハウェの名と結びつけられた
モーセは「私はある」という者が遣わしたということになるのであるとのこと。
この論理はidem per idem(同じものによっておなじもの)というものでヘブライ語族で
は定型の表現カテゴリーだそうです。

つまり、エロヒストによる言葉遊びというか こじつけのようですね
22節の略奪もエロヒストが犯人だそうです

836atheist:2024/03/03(日) 05:57:18 ID:???
>>835
正しい読みが消失して以来、テトラグラマトンの正確な読みとその意味も確定できないとはいえ
「私はいる」を三人称化した「彼はいる」というのが有力なようですね

3章14節では神の言としてはっきりと「わたしは有る」と言われていますから
やはりヤハウェの名称は少なくともユダヤ人にとっては存在を表しているのだろうと思います

ただ形而上学的に(あるいは神学的に)捏ねくり回された意味ではなく
やはり虚像としての「死んだ」偶像の神々に対置された「生きている」神、実在している神という
意味が込められていたのだろうと感じます

出エジプト記ではモーセにその名を明かすという形で神の名が示されますが
そういう形でミディアン人の神であったヤハウェが名称の意味を再解釈されて
エロヒムと結び付けられたのかなとも思います
そういう意味では言葉遊びと言えそうですね


さて4章はモーセが神の召命を受けてエジプトへと旅立つ箇所です

モーセはさんざん渋りますが、結局神に押される形で召命を受け
エジプトへと向かいますが、途中で神はなぜだかモーセを殺そうとします(24節)
これはどうしてでしょうか?

ともかくも妻のチッポラが息子のちんこの皮を切ってモーセの足にくっつけると
モーセは許されてしまいますw
まあ割礼で神との契約を示したということなのでしょうが
ともかく神がモーセを殺そうとしたのがあまりにも唐突すぎて展開についていけませんw

837福音伝道:2024/03/03(日) 08:48:51 ID:8zhBGqb2
>>836
atheistさん、おはようございます。明日の月曜日の聖句は出エジプト5章です。

「生きている」神、実在している神という神学は聖書に現れていますし、
沈黙する神が聖書で語られる一方で、創世記・出エジプトの神は、人に、
人類の歴史に積極的介入をされる神ではあります。
ただ私の印象では「わたしはある」というのは、「ない」のを主張者自身が知悉し
ているので強弁しているように感じます。

遊牧民ケニ人(カイン支族)の神であったホレブ山の神ヤハウェが、
カナンで部族連合国家を形成するときに、ライバルのバアル神ら
他の神々に勝利して、選ばれたのではないかと思います。
そしてヘブライ語で「私はある」という意味に後付けで解釈されたのでいかと。

第二伝承で神はモーセに「杖」「ツァラアト」「血」の奇跡能力を与えて、
説得しますが、モーセスは口下手だと断ります。頑固なモーセスに神は怒り
アロンの口に語らせろと強要します。
そしてモーセスはしふしぶ出立するわけですが、旅の途中で神はいきなり
モーセスを殺そうとします。唐突で意味不明の個所です。

フランシスコ会訳註によると、24-26節を「モーセの子の割礼」と題し
非常にわかりにくいと注意し、数々の解釈がなされているとして、一つの解釈を
示します。
アブラハムとの契約に定められた割礼をモーセが子に施さなかったので、神は怒って
モーセを殺そうとされたが、妻ツィボラが息子に割礼を授けて、その血をモーセの
両足(性器の事)につけることでモーセの命を救う。
「(割礼による)血の花婿」とは、恐らく結婚の準備として割礼を行うミディアン人の
習慣に言及したものであろう とのことです。

ハーパーは24-26節を不思議な出来事と評価しています。
モーセを襲ったのは、ヤボクの渡しでヤコブと格闘した「人」のような、
ある種の天使であったのであろう。このエピソードでは「割礼の血」が「過越の血」の
ように悪魔的な襲撃をかわす力を持っていたと考えられていた。
(ハーパーは注記していないが25節「つけて」は「過越の血」を「つけて」と同じ単語)
しかしもしそうであるならば、モーセを襲った者が「ヤハウェ」であるのは
驚くべきことである。なので70人訳は「ヤハウェの使い」と修正しているのは理解できる、と。
最もわかりやすい解釈は、旅の途中でモーセが重病にかかり、彼の妻(祭司の娘)が
とっさの判断で癒しの儀式をして、健康を回復させた。
この物語は「血の花婿」という書き手の時代にははっきりしていたが、我々には
はっきりしない表現を説明するための手段となっている、とのことです。

838atheist:2024/03/04(月) 02:21:57 ID:???
>>837
わたしが「形而上学的に(あるいは神学的に)捏ねくり回された意味ではなく」と書いたのは
聖書に書かれている素朴なレベルではなく、それを抽象的哲学的に表現した神学議論や
哲学議論という意味で書いたのですが、死んだ偶像としての(異教の)神々との差別化を図るために
ヤハウェは生きていること、実在していることを聖書は常々強調していますね

> ただ私の印象では「わたしはある」というのは、「ない」のを主張者自身が知悉し
> ているので強弁しているように感じます。

これはちょっと意外でした
わたしの印象では聖書の伝承を伝えてきた人や聖書を編集した人たちは
本気で神は存在すると思っていた印象があるからです
先生はむしろここで敢えて「わたしはある」と強弁することで
逆に「ない」ことを筆者自身は知悉していたのではないか、という印象なんですね
そう言われるとそうかもしれませんw

わたしもヤハウェを「外から」持ち込む際にヘブライ語の「わたしはある」という意味で
解釈をこじつけたのではないかと感じますが、何分にもこのあたりの知識がないため
今のところ単なる印象程度です

24節はやはり意味不明なんですね
モーセが子に割礼を施さなかったから、というのも
ちょっと取って付けたような説明ですね
それならそうと書いてあれば分かりますが、一切そういったことが書かれていませんからね

過越しの血と同じ「つける」ということばを使っているのは
予兆的な感じがしますね

重病説もどうなんでしょうか
ただ我々にはもはやはっきりしない「血の花嫁」という表現に
そういった癒やしの儀式と関連した意味があったのかもしれないと言われると
そうかもしれないと言わざるを得ません

いや〜ヘブライ語聖書はところどころこういった意味不明な箇所が出てきますから
まともに解釈しようと思ったら大変ですが、そこがまた謎解きのようで面白いところでもありますね

839福音伝道:2024/03/04(月) 06:03:33 ID:8zhBGqb2
>>838
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト5章です。

ヘブライ語聖書は子音しかなく、母音の補い方で別の単語、意味となりますので
これで意味を確定するのは至難だと思います。なので残存するラビ二家系統の
うちの一系統の解釈に従って読んでいるそうですが、この二家系統ともパリサイ派の
後継でありますし、比較的新しい、中世の解釈です。
一方で70人訳はBC年代の訳です。むしろこちらが正しい場合もあるのかもです。

というわけで意味不明箇所がたくさんあって当然です。
訳者はごまかしますが、ギリシア語新約も意味不明後は多いです。
また意味が明瞭であっても、一般的な単語を特別な意味として宗教的に
使っている場合もあります。
「血の花婿」も読み方によっては「血の花婿」とも読めるそうです。

モーゼス自体は生後3か月でナイル川に流されたので、生後8日目に割礼を受けて
いたという設定なのでしょうが、エジプト王家でエジプト人として育ったとする
ならばユダヤ教のことは知らなかったはずです。
エジプト人を殺して、ミディアン人のところまで逃亡し40年間遊牧民として、義父の
家畜を管理してきて息子たちに割礼をしてなかったのであれば
モーゼス自体はユダヤ教徒ではなかったのではないかと、設定を疑問に思います。

しかも息子に割礼したのが、ミディアン人の妻。
ミディアム人「結婚の準備として割礼を行う」として、なぜ息子に急遽施したのか
二人の息子がいるのに、なぜ長男だけを施術したのかと
設定に対する疑問は山積みではあります

840atheist:2024/03/05(火) 01:35:00 ID:???
>>839
ラビの一系統の、しかも中世の解釈となるとかなり偏っている可能性もありますね
ニクダー抜きの「素の」原文は分かるので、もちろん文献学者やヘブライ語聖書学者が
批判的に読むことはできるのでしょうが、一般人の我々が読むときはすでに定まった母音解釈を
基にした翻訳でしょうから、そのへんは注意しておかないといけませんね

血の花嫁がもしかすると血の花婿ですかw
よく聖書で「正確な逐語訳を目指した」とか前口上があったりして
なるほど原文に近い意味なんだな、と思って読みがちですが
もう原文の時点で特定解釈が生まれているなら逐語訳と言っても
想像よりはるかに「解釈済み」の訳なんでしょうね

たしかにモーセは生まれて三ヶ月エジプトの王宮に連れて行かれて
そのままそこで育てられたならユダヤ教についてはほとんど知らないはずですね
エジプト人を殺した後は翌日すぐにミディアン人のところに行くわけですから
神に出会うまではほぼユダヤ教には触れていないことになりますね
ここもいろいろな伝承が混在しているのでしょうから細かいことは良きに計らえ、なんでしょうw


さて5章は途中で終わっちゃってますね
モーセとアロンが荒野でヤハウェに捧げ物をするために民を去らせてくれとパロに頼むと
それをサボりの口実ととったパロは民にわらを与えずにレンガを今までどおり作れと
無理難題を強いることになります
こうなった原因はもちろんモーセたちにありますから民はモーセたち怒りをぶちまけます
そうなると今度はモーセが神に苦情を言いに行きますが、ここで5章は終わっています

というか、いきなり現れたモーセがいかにヘブルびとの代表を名乗ろうが
パロに直接会えることはないように思うんですがw

841福音伝道:2024/03/05(火) 05:57:07 ID:8zhBGqb2
>>840
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト6章です。

ハーパーは6-18節にモーゼスが登場しないことに着目してある注解者が
この箇所は「イスラエルの労働激化」伝承はモーセが登場しない古い伝承が
挿入されていると主張しているそうです。
別の注解者は1:8-14と5:6-18は、エジプトでの奴隷状態の労働を重くする
出来事をモーセの登場と関連付けるために挿入されたと考えるそうです。

アロンの饒舌による説得と、奇跡の力で民は、アロンとモーセを代表とみとめた
らしいですね。で、イスラエルの民の代表として、モーセはファラオに交渉しに
行くわけですが、普通なら奴隷頭と交渉でしょうに、ファラオに会えるというのは
設定に無理があるかもですね

5節 今や土民の数は多い
これは、酷い訳。
直訳は「見よ、地の民は」
「地の民」とは地主のことなので、奴隷のイスラエル人を「地の民」と
呼ぶのはおかしいので
サマリア五書では
「イスラエルの子らは、地の民よりももっと多い」となっているそうです。

伝承の中で「イスラエルの子らは」が脱落したのかもです。
土民はひどい、地主のことなのに。

新改訳2017
見よ、今やこの地の民は多い
聖書協会共同訳
今や、この地の民は増えているのに
サマリア五書
イスラエルの子らは、地の人々よりもっと多い
(イスラエル人は、地主であるエジプト人市民よりもっと多くなっている)
だから強制労働でイスラエル人の力を削がないといけない

842atheist:2024/03/06(水) 02:22:37 ID:???
>>841
なるほどパロによる労働激化はモーセ伝承とは別筋の伝承だった可能性があるということですね
とすると後になってイスラエルの隷属からの解放伝承をより効果的なものにするため
挿入されたのかもしれませんね

土民だと普通に隷属化されたイスラエル民族の意味に取れてしまいますね
地の民=地主であればエジプトの貴族や富裕民ということになるでしょうから
サマリア五書のほうが正確ということになりますね


さて6章ですが、間にレビびとの系図を挿入しながら、モーセとヤハウェの対話を描いています

特に前半のヤハウェのことばは極めて重要だと思います
3節でヤハウェはアブラハム、イサク、ヤコブには「全能の神(エル・シャダイ?)」として現れたが
「主(ヤハウェ)」という名では現れなかった、と述べています

つまり族長物語の神(エルやエロヒム、エル・シャダイ)の伝承と
モーセの神(ヤハウェ)の伝承の接合がこの3節のヤハウェのセリフによって
辻褄が合わされているように感じます

ヤハウェはそのままイスラエル民族解放の神として、この出エジプト記の主役となっていきますね

上記と関連するかもしれませんが、モーセはここで自分のことを「くちびるに割礼のない者」と語っています
これはいったいどういう意味でしょうか?

表面的には、モーセは散々自分は弁が立たない的なことを言っていたので
そういうことを表していそうですが、わざわざ割礼というユダヤ人にとっての神との契約の証を
使って表現しているので、もっと重要な意味もありそうです

そういえば前章でも唐突に息子の割礼が出てきました
このへんはモーセのエジプト育ち、ミディアン暮らしと結びつき
元々ミディアン人の神であったであろうヤハウェの外来性とも関連があるのではないか
という気がしてきます

空想をたくましくすれば、そもそもモーセのモデルとなった人物は非ユダヤ人で
非ユダヤ人である人物あるいあは一団がヤハウェ信仰をもってイスラエルに入ってきた
というようなことを暗示しているのではないかという気さえしてきます

843福音伝道:2024/03/06(水) 06:39:02 ID:8zhBGqb2
>>842
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト7章です。

6:2からは祭司資料です。JE資料で、「重労働」(6:6,2:23)に苦しむ民を
ヤハウェが開放するわけですが、それの繰り返しです。
神の名も3:13-15のE記事の焼き直しです。
ここでは、
そしてエロヒームはモシェに語った。そして彼に言った。私はヤハウェ。
そして私はアブラハムに現れた。イツハクに、そしてヤフコヴに。
エル・シャダイとして。しかし私の名ヤハウェは、私は彼らに知られなかった。
となっています。
ちなみにフランシスコ会訳註は、エル・シャダイをここでも「山の神」と注記
しています。
ハーパーによると、この祭司資料では、族長たちはヤハウェという名をしらず
ここではじめて明らかにするというのは創世記13:4のヤハウェスト伝承と矛盾
する点が興味深いとのことです
創世記13:4すなわち彼が初めに築いた祭壇の所に行き、
その所でアブラムは主の名を呼んだ
「主の名」は「ヤハウェの名」です。
ハーパーは「エル・シャダイ」を古くは「神、山におられる方」で
複数形の「シャッダイーム」がBC8Cヨルダンのデイルアラ文章で
「世界支配について決定を下す神の会合場所の神々の山に集う神々」のことで
あったので単数形の「エル・シャダイ」はその神の山の会議に出席する神の一人
であろうと推測しています。
祭司資料では、この「エル・シャダイ」が族長たちに現れ、今、モーセとアロンと
民にヤハウェという名が明かされるという物語になっているそうです

「くちびるに割礼のない者」は、祭司版の表現
ヤハウェスト版は4:10「わたしは口も重く、舌も重いのです」
祭司資料なので「割礼」という比喩を使っているようです。
原文は「しかも私は唇の無割礼」

844atheist:2024/03/07(木) 01:31:01 ID:???
>>843
逆にE資料とJ資料の伝承は、なぜここまでうまく噛み合っているのでしょう?
もちろん創世記13:4と出エジプト記6:3のような矛盾はあっても
伝承の骨格が大きく違わないということは、P資料やD資料の編集者、あるいはその後の編集者たちが
できるだけストーリーとしてつながるように各伝承を配置したり修正したりした、ということなんでしょうかね

ともかくP資料の編集者は、族長たちにはエル・シャダイとして知られていた神が
モーセたちに初めて本名であるヤハウェを名乗った、という筋書きで神の同一性を保とうとした
という感じでしょうか

本来は別の神であったエロヒム(エル、エル・シャダイ)とヤハウェが
イスラエル民族の形成と統合の過程で融合していき、さらに唯一神教化の過程で
同一の神として崇拝されるようになった、という感じなんでしょうかね


さて7章はモーセたちとパロとの対決前半戦という感じですね

杖を蛇に変えたり、川の水を血に変えたりしますが、パロの魔術師たちも同じことをします
ここは奇跡合戦ですね

ずっとなんでヤハウェはわざわざパロの心を頑なにしたんだろうと思ってました
心を頑なにできるなら、反対に心を砕いてヘブルびとを去らせることだって簡単にできるだろう、と

ただ今回読んでて思ったんですが、少なくともこの伝承ができた当時は
ヤハウェはイスラエル民族の神ではあっても、エジプトやその他異邦の神ではないから
エジプト人にヤハウェの凄さを見せつける必要があって、こんなまどろっこしいことをしたんじゃないかと
いう気がしました
つまりは唯一神、あるいは創造神という世界規模での神ではなく、あくまでも民族神としてのヤハウェが
描かれているのかなと思いました
少なくとも伝承の伝え手はそういう前提で物語を作ったのではないかと

エジプトの神とイスラエルの神、奇跡合戦でどちらが勝つか、というストーリーにして
最終的にイスラエルの神が勝つという結末を描きたかったのかな、と思いました
要はヤハウェはエジプトの神より偉いぞ、とw

845福音伝道:2024/03/07(木) 06:10:30 ID:8zhBGqb2
>>844
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト8章です。

山地の諸部族が平地のカナン人と平和的に融合していった際に
強大な周辺諸国と対抗するために一つにまとまる必要があり
諸部族がそれぞれの聖所で崇拝していた神々から、なぜかヤハウェが選択されて
諸部族の神々はヤハウェの別名となって吸収されたのではないかと推測しています

7章は冒頭から驚かされます
口語訳 1節 見よ、わたしはあなたをパロに対して神のごときものとする
直訳 見よ、私はあなたをファラオに対してエロヒームとした。
「神の如き」と原文にはありません 
ずばりヤハウェがモーセをエロヒームとしたあります

7:16原文  ヤハウェ― エロへ― ハ・イヴリーム
      ヘブライ人の神ヤハウエー
と、ヤハウエーはモーセがフォラオに、名前をあかすように命じます

ハーパーは言います。フォラオの心を頑なにする必要はなかった。
ただヘブライ人の奴隷を解放するためだったらと。
しかし、二つ目の目的があった。
「ヤハウェの力のデモンストレーションである」と。
推察通りのイスラエルの神の勝利物語がペースにあったのかもですね
エジプトの神より我々の神は強いというような。これは唯一神教ではないですね

846atheist:2024/03/08(金) 01:42:20 ID:???
>>845
これはまだ決着の着いていない論争ですが
はたして統一王国(ダビデ・ソロモンの王国)が実際にあったのかという問題とも絡んでくると思います
おそらくダビデやソロモンは歴史上の人物だと思いますが
彼らの王国はエルサレム周辺の極めて小さな王国であった可能性もあり
聖書に描かれているような強大な国家であった可能性はほぼないと思います

ということはそもそも統一王国が分裂したというよりもカナン地方にいた諸部族が
緩やかに連合王国的な結びつきを形成し、徐々に同一の民族という意識を育む中で
神の統一も行われていったのではないか、という気がします
ダビデとソロモンの王国は同一民族という意識が強くなった際に彼らの過去に対して
照射されたイデオロギー的構築物であるのではないか、ということです

民族の統一の過程が神の統一の過程、及び共通の歴史(物語)の構築と並行するという意味では
先生と同じ方向性の観方かもしれませんね

1節は原文では直喩ではなく隠喩なんですね
おそらく神の代理として神の力を行使させる、というような意味なのでしょうね

パロの心を頑なにしたという記述に関しては、ハーパーとほとんど同じ解釈というか印象なんですね
単なる個人的な印象だったんですが、ちょっと心強く思いましたw


さて8章は奇跡合戦の続きです

まずはカエル召喚ですが、これはエジプトの魔術師も対抗して五分の戦いです
というか、魔術師たちはいくら対抗意識が強くても、自分たちの国に自ら被害を及ぼすのはどうかと思いますw
音を上げたのはパロのほうで、モーセに出国を認めるからカエルを除去してくれと頼みます
ところが困難が去るとまたしてもパロは心を頑なにして出国を拒みます

次はちりをブヨにカエル魔法ですね
ここで魔術師たちもとうとう音を上げてしまいます
ところが今度は逆にパロのほうが意地を張ります
そこで次にはアブを呼び寄せます
パロは妥協案としてエジプト国内で犠牲を捧げるよう提案しますが
モーセたちはこれを受け付けなかったので、ついに出国の許可を出します
こうしてアブは去りましたが、またしてもパロは約束を反故にします
…いつまで続くんでしょうかw

こうして読んでみると、やっぱり徐々に被害を大きくして
大々的にヤハウェの力を誇示してゆくさまが描かれてますね
こうして最後の初子殺しの奇跡までこのパターンが反復されます

847福音伝道:2024/03/08(金) 06:18:04 ID:8zhBGqb2
>>846
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト9章です。

7章は冒頭から驚かされます
口語訳 1節 見よ、わたしはあなたをパロに対して神のごときものとする
直訳 見よ、私はあなたをファラオに対してエロヒームとした。

口語訳は、推察のように「神の代理として神の力を行使させる」と受け止めている
わけですが、私は原文が「ヤハウェが人間モシェを神々の一人にした」と書いてある
と読めます。

エジプトに対する災いは出エジプト10 詩編78と詩編105が7つです。

1. 出と78…血 105…暗闇
2.出…カエル 78…ぶよ 105…血
3.出…ぶよ 78…カエル 105…カエル
4.出…あぶ 78…青虫/いなご 105…ぶよ
5.出…家畜 78…雹/霜 105…雹
6.出…腫物 78…家畜 105…いなご
7.出…雹 78…初子 105…初子
8.出…いなご
9.出…暗闇
10.出…初子

出エジプトの10は、古いヤハウェリスト7つに祭司史資料の3つ(ぶよ 腫物 暗闇)を
追加したものだそうです。つまり詩編78がヤハウェストのリストです

ただ元々のJ資料の構成では、有害な三つ(血 カエル あぶ) 財産破壊の三(家畜 雹 いなご)
最後に人間の命を奪う(初子)と徐々にエスカレートするし、ヤハウェが直接災いを
下すのですが、P版となった出エジプトでは祭司としてモシェの手や杖、あるいは
アロンの杖という媒介を通すそうです。

血の災いは、エジプト文書にもあり、エチオピアとスーダンの青ナイル流域の熱帯赤土が
砂泥が運ばれるためにナイルが赤く染まることがあったそうです。

さて8章の「ぶよ」は、「しらみ」とか「蚊」と訳している人もいるそうです。
元々は災害を大きくしていくという構成になっていたものが、「あぶ」イメージから
「ぶよ」を挿入したりして、少し不明瞭になっているようです

848atheist:2024/03/09(土) 00:58:32 ID:???
>>847
人間モーセを神々のひとりにした、ということになると
ユダヤキリスト教の根本的な世界観に違背するように思うのですが、どうでしょうか?
ただこれが書かれた時代では、まだ創造主と被造物を峻別する世界観が確立していなかったのかも
しれませんね
文脈的にもヤハウェはエジプトの神に対抗する文脈で、つまりは多神教的世界観を背景に残しているので
神と人間の間には絶対的な隔絶がなかったのかもしれません

出エジプト記のほうが詩篇よりむしろ新しいということですね
P資料でモーセ・アロンを媒介としているのはどうしてでしょうかね
祭司たちですからレビ族を重視した、ってことでしょうか

ナイルは氾濫期には黒土が削れて黒くなると思ってましたが
赤土で赤く染まることもあったんですね

ぶよならまだしもさすがにしらみや蚊だと気持ち悪いだけで
ヤハウェの力の誇示には向かないかもしれません


さて9章はヤハウェが起こす災厄の続きで
家畜に対する疫病、腫物、雷、とエスカレートしていきます

16節にちゃんと書いてありますね、自分の力を見せつけるためだと

ヤハウェは災厄をエジプトの上にのみ注ぐよう配慮してます
これもまたイスラエルの神であることを明確に示すためだろうと思います

このエジプトに対する災厄のくだりは、大国エジプトの支配下・影響下にあった小国イスラエルに
とっては、胸のすくような描写だったんだろうと思います
そのままの勢いでカナンの地を蹂躙する物語を創作しますが
単純な征服物語で終わらなかったのは間に荒野での40年間という試練を挟んでいるからかもしれません

849福音伝道:2024/03/09(土) 13:32:09 ID:8zhBGqb2
>>848
atheistさん、こんにちは。本日と明日の聖句は出エジプト10章です

7:1
口語訳 見よ、わたしはあなたをパロに対して神のごときものとする
聖書協会共同訳 見よ、私はあなたをファラオに対して神とし
新改訳2017 見よ、わたしはあなたをファラオにとって神とする。
直訳 見よ、私はあなたをファラオに対してエロヒームとした。

ユダヤキリスト教の根本的な世界観に違背するので、口語訳は「ごときもの」と
神学的に改ざんしてました。それはいくらなんでもひどいということで最近では
「対して」「とって」を限定的意味に位置付けているようですね
でも私が思うに、古い伝承の多神教的名残ではないかと。

P資料でモーセ・アロンを媒介としているのはご推察通り、レビ族の祭司的優位性を
強調するためであろうと思います。なにせレビ族の系図だけ書いてますし。
古い伝承ではヤハウェが直接、災厄をエジプト人に下しています。
しかしP資料では、モシェの杖だけではなくて、アロンの杖まで災厄において
大活躍します。

ハーパーによると、家畜の疫病は炭疽だそうです。根拠は不明。
腫物はP資料のみ  おそらく家畜の疫病が「家畜と人の疫病」だったものが
二つに分離し、人の腫物が独立したのであろうと推測しています
雹の災いはEとJにもあるそうです。それを素材にして
P資料的アレンジがあるとのこと。

850暇人 A:2024/03/09(土) 16:01:01 ID:???
>>709-710
聖書通読が終わったら、無量寿経通読をお願いいたしまふ

851atheist:2024/03/10(日) 03:10:05 ID:???
>>849
たしかに直訳してしまうとユダヤキリスト教の伝統に馴染んでいる人にとっては
著しい違和感を生じることになるので、口語訳はこのように訳したんでしょうね
わたしは直訳でちゃんと意味が通じるものは直訳にして解釈は読者に委ねるべきだと思います

そういえば今回はレビ族の系図がいきなり挿入されてましたね
やはりレビ族に焦点を当てようとする編者の意図が見えます

なるほど家畜の疫病と腫物は同じ災厄だったものを
家畜と人の別々の災厄に分けた可能性があるってことですね


さて10章はイナゴと暗闇の災厄ですね

パロは出国の許可を男だけ→女子供も→家畜も、といったふうに徐々に折れていきますが
例によってヤハウェにその都度心を頑なにされるので災厄は続きます

こうなってくるともはやパロはヤハウェの舞台演出上の手駒にすぎず
ヤハウェが如何に偉大かを表すための道具に過ぎなくなってきますね

852福音伝道:2024/03/10(日) 06:38:27 ID:8zhBGqb2
>>851
atheistさん、おはようございます。明日の月曜日の聖句は出エジプト11章です。

10:10パロは彼らに言った、
「万一、わたしが、あなたがたに子供を連れてまで去らせるようなことがあれば、
主があなたがたと共にいますがよい。あなたがたは悪いたくらみをしている。

原文
すると彼は彼らに言った。
「このようにヤハウェがあなたがたと共にいるようにと言うのか
あなたがたとあなたがたの子供たちとを私が去らせる場合には。
見よ、あなたがたの顔の前に災いがあることを」

「あなたがたと共にある」が「ヤハウェ」の皮肉です。口語訳は意味不明になっています。
訳が悪すぎて。

ハーパーによるとイナゴ記事は短いE版(12-13a,14a)に、長いJ版が追加されたもの
で、Pによる編集はないそうです。
暗闇は10:15の「いなごは地の全面をおおったので、地は暗くなった。」から派生した
ものの可能性があるとのこと。

いづれにせよ、ここでファラオは、モシェに対して、次会えば殺すと宣言し
決裂が描かれています

853atheist:2024/03/10(日) 20:33:20 ID:???
>>852
たしかに10節の口語訳は意味不明ですね
そういえばこれを聞こうとしてて最後まで読んだときには忘れてましたw

原文であれば「俺がお前らを去らせる場合にはヤハウェがともにいるように言うつもりか、
いやいやお前らには災いがあるからよく見ていろ」的なパロの脅しですね

暗闇はいなごほどの被害はないのになぜと思いましたが
ここは元々一つの災厄だった可能性があるということですね

854福音伝道:2024/03/11(月) 06:09:57 ID:8zhBGqb2
>>853
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト11章です。

むしろ脅かしているのは、ヤハウェですけどw
行かさなければ、災いを起こすと言っているのですから。
よくモシェとアロンが死刑にならなかったものです。

「あなたがたの顔の前に災いがあることを」の「災い」を
諸訳は「悪意」と訳しています。
確かに、言うことをきかなければ災いを起こすというのは「悪意」ですw

ただ聖書的には、王権が人間を奴隷化しているということが
既に「災い」があってしかるべき「非・愛的行為」なのかもです

855atheist:2024/03/11(月) 23:23:22 ID:???
>>854
> むしろ脅かしているのは、ヤハウェですけどw

それを言っては元も子もw

エジプトも時代によって民の待遇は違うんでしょうが
わたしが今まで歴史関連の書物で読んだ限りは
古代にあってはけっこう待遇は良かったみたいです
まあ異民族に対する場合はまた違ったのでしょうけど


さて11章でついにヤハウェはクライマックスの初子殺しを宣言しますね

ここでもヤハウェはエジプト人にモーセに対する好意をもたせたり
いつものようにパロの心を頑なにしたり、やりたい放題です

ちょっとよくわからないのが2節の「あなたは民の耳に語って、男は隣の男から、
女は隣の女から、それぞれ銀の飾り、金の飾りを請い求めさせなさい」というセリフです
これはどういった意味なのでしょうか?

856福音伝道:2024/03/12(火) 05:25:29 ID:8zhBGqb2
>>855
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト12章です。

2節は、すでに予告されています
3:21わたしはこの民にエジプトびとの好意を得させる。
あなたがたは去るときに、むなし手で去ってはならない。
3:22女はみな、その隣の女と、家に宿っている女に、銀の飾り、金の飾り、
また衣服を求めなさい。そしてこれらを、あなたがたのむすこ、娘に着けさせなさい。
このようにエジプトびとのものを奪い取りなさい

実際に実行します
12:35そしてイスラエルの人々はモーセの言葉のようにして、エジプトびとから
銀の飾り、金の飾り、また衣服を請い求めた。
12:36主は民にエジプトびとの情を得させ、彼らの請い求めたものを与えさせられた。
こうして彼らはエジプトびとのものを奪い取った。

シンプルには詩編105編で歌われています、
105:37そして金銀を携えてイスラエルを出て行かせられた。
その部族のうちに、ひとりの倒れる者もなかった。

続編の知恵の書10章は、この金銀奪取をフランシスコ会訳註によると、
「イスラエルの子らが奴隷として働いた労苦への報酬と考えている」と解説します

15知恵は清い民、すなわち、とがのない種族を、
迫害者である民から解放した。
16主の僕の魂に入り、不思議な業としるしをもって
恐るべき王たちに対抗した。
17知恵は清い人々に労苦の報いを与え、
驚くべき道を通らせ、
昼間は彼らの避難所となり、
夜は彼らの星明かりとなった。

ハーパーによると、元々のJ資料では初子の死は、第七で災いのクライマックスだったのが
P資料では第十となり、過越設定の導入となっているのですが、この1-3節は初子の災いにも
過ぎ越しにも関心がない。これは12:35-36の略奪の事を言っており、
J版の3:21-22対するE版だそうです。編集者によってここに挿入さけたため、
難解になっているとのことです。4-8節が元々は10章に続いていたといいます

857atheist:2024/03/13(水) 01:16:09 ID:???
>>856
前の章にも書いてあったんですね
一応略奪ですが、隷属中の労務に対する報酬という扱いになってるわけですね

編集者が各資料を編集する際にパッチワークのように資料の断片を繋いだため
難解になってる、というのはこれまでも何度かありましたね
こういう部分は注解がないと変な曲解をしてしまう部分ですね


さて12章本番の過ぎ越しの箇所ですね

前半は特にそうですが、全体的に過ぎ越しの祭の掟について
事細かに記述されています
ここは祭司資料ということでしょうか

それにしても種入れぬパンに拘りますねw
一応39節にそれらしき理由が書かれていますが
これもまたこの過ぎ越しを記念する掟の一つということのようですね

後半には異邦人や寄留者、雇人などについてヤハウェ共同体の一員とみなせる資格が書かれていますが
仮住まいの者はまだしも、なぜ雇人はだめなのでしょうか?
雇人も割礼を条件に認めても良さそうに思えます

858福音伝道:2024/03/13(水) 06:19:57 ID:8zhBGqb2
>>857
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト13章です。

イスラエルの子らが必ず行う祭儀が三つ規定されています
1.過越の祭り 12:1-14,21-28,43-51
2.除酵祭 12:15-20,13:3-10
3.初子の聖別 13:1-2,11-16

第一の月は現在の3月4月だそうです。
フランシスコ会訳註によると、過越は遊牧民の習慣に由来し、
除酵祭は農耕民の習慣に由来するものであり、カナン定着後、カナンの習慣に
倣った三つの祭りの一つで、冬前に種が蒔かれ、春に収穫される大麦の祭りの
ことだそうです。
祭司伝承によると、初期の過越では酵母を入れないパンを食べた(8節)
ヤーウェ伝承とエロヒーム伝承では、急いで出発するために、酵母をまだ
入れてない練粉をもって出かけた(34,39節)そうです。
カナン定着後過越しの祭りと合併して除酵祭七日間が祝われたそうです

ハーパーによると1-20節はPで、21-23節がJだそうです。
でJの21-23節では「滅ぼす者」(23節)と呼ばれる悪霊を避けるための血の儀式
なのですが、イスラム化する前のアラビアの習慣で、群れを安全を祈願して
春の出産シーズンに、生まれたての羊から1匹を犠牲として捧げたそうです。
なのでエジプトの初子殺しの結合する前からイスラエルの祝われていたはずだが
入手できる最古のJ資料では第十の災いと結びつけられているそうです。
「滅ぼす者」はヤハウェの代行者であるとハーパーは解説していますが
私にはヤハウェ自身が「滅ぼす者」として描かれているように思います。

ハーバーによると、「種入れぬパン」とは遊牧民が常食していたパンだそうで
これは先祖の遊牧民の食事と服装を再現して追体験することに由来しているのと
エジプト脱出とが結びついてるイメージのようです。
つまり単なる春の祭りが、エジプト脱出のお祝いと結びつけられたようですね

43-51節はP資料で、38節の「雑多な人がいる」を受けて
外国人と雇われた雇人が儀式から除外されています
一方、寄留者と奴隷で参加希望者は割礼を受ければイスラエル人となり
儀式参加可能となります。
つまり割礼を受ければ寄留者つまり外国人でもOKですし、奴隷でも可能です。

45節 仮ずまいの者と、雇人とは、これを食べてはならない。
原文 一時滞在者と雇い人はその中で食べれない。

一時滞在者は、旅行人のことですね。割礼を受けてないからですね
金で買った男奴隷は主人が奴隷に割礼を施せば、食べられると44節にあります
ので、雇い人は自由人ですので、家の主人が奴隷のように家の主人の意志で
割礼を施術できないので、食べられないということです。
「その中で」とありますが、これは主人の家の中でという意味ですね
一時滞在者や雇人が割礼を希望したら食べられたかもですね
聖書にも注解にも言及がないですけど

859atheist:2024/03/14(木) 01:08:21 ID:???
>>858
0時頃家に着いたのですが、3月中旬とは思えないくらい寒いですw
天気予報だと1度くらいまで下がるとのこと
勘弁してほしいですw


本来別々のお祭りだったものを出エジプトの物語の中に位置付け
その根拠を祭司たちが説明しようとした、って感じですね

わたしが出エジプト記の単語のなかで鮮明に今も覚えているのは
unleavened bread(種無しパン)とtabernacle(幕屋?)です
ともかく嫌というほど出てきたので自然と覚えてしまいました

なのでどうしてこんなに種無しパンに拘っているんだろうと疑問に思っていました
本来は特に特定の出来事に由来するものではなく、遊牧民の常食パンだったものが
出エジプトのエピソードと結び付けられたわけですね

まあ祭司たちはこういった儀式を厳格に守らせることで
自らの地位を維持する存在ですから、嫌というほど強調したのかもしれませんね

なるほど寄留民はそもそも一時的にユダヤ共同体にいるだけで、いずれは去っていく人ですし
雇人は自由人なので割礼を強制できないという理由で、外されたってことですね


さて13章はそのまま出エジプトの過程を描いていますが
記述の主眼はやはり儀式(初子の聖別と種無しパン)に置かれています

9節と16節で「これを手につけて、しるしとし、目の間に置いて覚えとしなければならない」と出てきますが
そもそも「これ」が何を指しているのか分からない上に、目の間に置くとはどういうことかも分かりません
これはいったい何なのでしょうか?

860福音伝道:2024/03/14(木) 05:39:19 ID:8zhBGqb2
>>859
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト14章です。

9節と16節
「これを手につけて、しるしとし、目の間に置いて覚えとしなければならない」
原文
そして、あなたにとって、あなたの手の上に印になれ。
そして、あなたの両目の間に記念になれ。
(あなたの口にヤハウェの教えがあるために。)

9節では、種なしパン 16節では焼いた子羊の肉を手に取った時に
ヤハウェの教えの「印」としなさいという意味ですね
ヤハウェが奴隷状態のエジプトから豊穣なカナンへと連れ出したくれたんだ
その恩義を忘れるなということのようですね
「両目の間に記念」は、目で見てエジプト脱出を思い起こせということですね

聖書協会共同訳
あなたは、この言葉を自分の手に付けてしるしとし、
また、額に付けて記念としなさい。
それは主の律法があなたの口にあるためであり、
主が力強い手によって、あなたをエジプトから導き出されたからである。

口語訳の「これを手につけて、しるしとし」の「これ」を
「この言葉」と解釈していますね。原文には「これ」も「この言葉」もないです。

ユダヤ教の祈祷時に、額と左腕に「印」としてティフリンをつけるので
おそらくはその習慣に基づいた訳出であろうと思います。

ハーパーは聖書より後の時代のユダヤ教でテフィリン(経札、祈りの革紐)を
身に付けるようになった。
ここでは「この言葉」を腕と目と目との間の額につけて、しるしとすることを
求めていると解釈しています。

この言葉とは父が子に教える14b,15節の
『主が強い手をもって、われわれをエジプトから、奴隷の家から導き出された。
そのときパロが、かたくなで、われわれを去らせなかったため、
主はエジプトの国のういごを、人のういごも家畜のういごも、ことごとく殺された。
それゆえ、初めて胎を開く男性のものはみな、主に犠牲としてささげるが、
わたしの子供のうちのういごは、すべてあがなうのである』
を指すとのことです。

861atheist:2024/03/15(金) 05:17:30 ID:???
>>860
例によって寝落ちですw

文字通りだと、それぞれその前に書かれた種無しパンと焼いた子羊の肉を指していて
ヤハウェの教えの印とし、目で見て出エジプトを思い起こせ、ということですね

なるほどユダヤ教の習慣のティフリンというものに基づいて
「この言葉」というような解釈がされたんですね
おそらくですが、そのティフリンのほうが逆にこの箇所から生まれた習慣なんでしょうね


さて14章はヘブライ語聖書の中でも一、二を争うほど有名な場面です

ただ今回改めてこれを読んで、この「海分け」の場面が「夜もすがら」、つまりは
一晩中にわたって行われていたことに気づきました(21節)
映画などの影響でしょうか、なぜかモーセが杖を振り下ろすと、一瞬にして海が割れ
イスラエルの人々は数時間程度で海を渡りきったようにイメージしてました
夜というイメージもなぜか抜けてました
最終的にエジプト人が海に飲まれたのは「夜明けになって」からで
この海を渡る脱出劇は一晩通して行われたんですね

前にも書いたことがありますが、やはり「主」はちゃんと「YHWH」なり「ヤハウェ」なりと記述してほしいです
まあ宗教書ですからみだりに書くわけにはいかないのは分かりますが
例えば18節の「エジプトびとはわたしが主であることを知るであろう」というセリフは
ヤハウェがエジプト人に対しても主であるように読めてしまいます
でも実際は単にわたしがヤハウェである、とヤハウェ神の強さを誇示しているだけで
ここでは宗教上の主従の関係を示しているわけではないですよね

ユダヤキリスト教ではヤハウェは創造主であって全世界の神ということになってますが
この出エジプト時のヤハウェはやはり民族神、軍神として描かれています
それが「主」という訳だと、あたかもエジプト人がようやくヤハウェこそ全人類の神であることを知る、
といった読み方になってしまうような気がします

862福音伝道:2024/03/15(金) 06:13:44 ID:8zhBGqb2
>>861
atheistさん、おはようございます。お疲れのご様子。無理されないでください
本日の聖句は出エジプト15章です。

4節や18節の「エジプトびとはわたしが主であることを知るであろう」の
「主」は原文ではיהוה 英訳では大文字のLORDで、区別がつくのですが
邦訳は「主」なのでわかりにくいですね。ヤハウェと訳するのが宗教的禁忌
になるならば習慣通りの発音の「アドナイ」と訳するべきだったかもです。
一番良いのはヤハウェですけど

フランシスコ会訳註によると、この有名な「海分け」などの奇跡は、ヨシュア記三章の
ヨルダン川の奇跡。上流のアダムで川が壁のように堰き止められるで渡川で終わると
あります。

ハーパーによると、15:1-19の古い詩が原形としてあって、14章はよく練られた
散文として長い複雑な文学史の結果できたものであるとしています。
具体的にはJ版とP版の二つの記事からなっていて、そこにE版からの付加もある
とのことです。

1.15章の古い詩ではヤハウェの鼻息、つまり大風でエジプト軍を妨害し混乱させ
そして鉛のように沈ませた。つまりエジプト軍は船であった可能性あり
2.14章のJ版では、風が水を堰き止めイスラエルを渡らし、追いかけるエジプト人
には風が止み溺れさせる

元々は風にかきたてられて海に溺れさせられたという伝承が
J版では風が海底から水を吹き飛ばし、また戻すというように解釈変化が
起こっているとのこと。
これはヨシュアのヨルダン川徒渡に結びられた結果、生じた変化とのことです。
P記事は更に、ファラオが戦車軍で追う物語を追加。モシェが杖で海を割り、
渡り終えると、再びモシェが手を伸べて海を戻すと。
水を分かつイメージはP版の追加であり、J版では水は風で押し返されるだけである
とのこと。

863atheist:2024/03/16(土) 01:53:59 ID:???
>>862
お気遣いありがとうございます
でもどちらかというと、最近は無理をしないので簡単に寝落ちしてしまってますw

「アドナイ」という訳語はいいかもしれませんね
最初にアドナイということばの経緯を説明しておいて
あとはそれで通せば、一般的なことばとしても使われる「主」よりは
はるかに誤解が少なくなりますし、一応は宗教的禁忌にも触れないことになりますからね

採算的に難しいかもしれませんが、礼拝やデボーションの用途とは別の理解・研究用の聖書として
「ヤハウェ」で一貫させた聖書を作るのもありだと思います
極端に言えば、聖書協会共同訳の「主」を「ヤハウェ」に置き換えただけの「ヤハウェバージョン」を
出すだけでも、だいぶ読み方感じ方が違ってくると思います

ヨシュア記のヨルダン川渡河の箇所は出エジプトの「海分け」のコピーマイナーバージョンだと思ってました
むしろヨルダン川渡河に結び付けられたため、本来ただの大風による水没伝承だったものが
「海分け」へと変容していったといったほうがいいみたいですね


さて15章は前章の続きですが、大半はヤハウェを称える歌で占めれれてますね

11節など、明らかに一神教以前の世界観で歌われています
14節以下はのちのカナン征服まで先んじて歌われています

この章の歌を見ると、多神教下でイスラエル民族とヤハウェがそれぞれ自分たちの神と自分の民を
選び取った、つまりは契約によって結びついたことがよく分かります
この段階ではヤハウェはまさに民族神そのものですね

ミリアムはこの章の20節で初めて出てきたようですが
わたしは彼らの長幼をアロン→モーセ→ミリアムだとばかり思ってました
「アロンの姉」と書いてあるので、ミリアム→アロン→モーセなんですね

864福音伝道:2024/03/16(土) 10:41:23 ID:8zhBGqb2
>>863
atheistさん、おはようございます。本日と明日の聖句は出エジプト16章です。

2節の「主」は、「ヤハウェ」ではなく「ヤハ」
フランシスコ会訳註によると、「ヤーウェ」ではなく「ヤー」とした上で
1.多くの学者は「ヤー」は「ヤーウェ」の略形。
2.他の学者は原形とみなす
3.レビ人の間では神は「ヤー」として知られていた。
 この「ヤー」から「ヤーウェ」が作られたか、「ヤーウェ」と発音が似ているので
 代用になった
4.「ヤー」は、イザヤ、エレミヤ、モリヤなど固有名詞の部分として出ているし
 「ハレルヤ」の「ヤ」も「ヤー」であるとのこと
  ただ「ヤー」が独立して出るのは詩編で、ほとんどは本節と同様「ヤーウェ」と
共に出るとのこと

3節はヤハウェ。4節は彼。6節もヤハウェ。7,8,10節はあなた。
11節はヤハウェ。12,13,17節あなた 18節ヤハウェ。
なぜか2節だけが「ヤハ」です。

11節 原文
神々の中で、ヤハウェよ、
だれがあなたのようなものだろうか。
だれが聖においてあなたのようなものだろうか
賛美によって畏れるべき者、奇跡を行う者。

完全に多神教世界観です。多くの神々の中で、とりわけ「奇跡」を行う
能力によって偉大と歌われてますね
12節で「あなたが右手を伸ばした時、地は彼らを飲み込んだ」とありますので
モーセの杖ではなく、ヤハウェ自身がエジプト人をアレツ(土地)に飲み込んだ
というのが古い伝承のようです。

20節。アロンの姉、女預言者ミリアム 諸訳は「姉」と訳しますが
原文のアホットは「姉妹」で「姉」「妹」を単語からは特定できません。
「姉」と特定する場合は「アホット グドラー」です。
聖書辞典では民数記26:59を挙げて「姉」としていますがここも「姉妹」です。
ただ、2:4で「彼の姉妹が」と出ていますが、これがミリアムですので
赤ちゃんのモシェが母親によって流されているのを見ていたとあるので
明らかにモシェよりは姉です。

865atheist:2024/03/17(日) 01:54:26 ID:???
>>864
「ヤハ」は略称ないしは原形ということですね
ヤハウェとセットで使われているので基本的にはヤハウェと同一ということになりそうですね

古い伝承でヤハウェ自身が行為を行っていたのが、のちにモーセによって代行されるのは
単純な神話からより抽象的あるいは霊的な神として捉えられるようになったからであるように
思われます

原文のアホットというのはちょうど英語のsisterと同様、長幼の概念を含まないんですね
むしろ大和言葉のように長幼の概念を含まない兄弟姉妹ということばがないほうが特殊なのかもしれません
2:4の「彼の姉妹」がミリアムだとしたら、アロンとミリアムの弟がモーセで
アロンとミリアムのどちらが年上かは判断できないということですね


さて16章はこれまた有名なマナの箇所ですね

ここも改めて読んでみると、安息日をはじめとする律法遵守の教訓として書かれているように思えます
どうしてもマナの奇跡物語として受け取りがちですが、実際の描かれ方はいかに律法を守ることが
重要か、という視点で書かれているように思われます
やはりここも祭司たちの意向が強く反映されているように感じました

ところでわたしが参照しているものでは
33節と35節でマナと書かれるべきところがカナと書かれています
https://www.wordproject.org/bibles/jp/02/16.htm#0
これは単なる間違いなんでしょうか?

866福音伝道:2024/03/17(日) 09:48:46 ID:8zhBGqb2
>>865
atheistさん、おはようございます。明日の月曜日の聖句は出エジプト17章です。

フランシスコ会訳註の16章の見出しは「鶉、マナ、安息日」です。
「鶉」は肉なのに、印象が薄いです。

リンク先は30節でマナと書いています。「カナ」は誤植ですね。根拠は
WordProject聖書日本語 ページを確認しますと、著作権切れの口語訳とあります。
Japanese Holy Bible [(Kougo-yaku] 1954/1955]
口語訳では33節も35節も、「マナ」です。

ちなみに、我々には「マナ」と知られますが原文は「マン」「マーン」です。
「マーン」は「何か」という意味です。

モシェの議論はすり替えですね。
民衆が食料がなくなり、不平を言ったのは、モシェとアロンが近道の海外沿いを
行かず、群衆をシナイ半島側に南下させたため、日数が大幅に延長されて、食料不足に
陥ったためなのに、俺たちに不平をいうことは、ヤハウェに不平を言ってると、
脅迫します。(8節) これはリーダーとして問題があるように思います。

民数11:31-35に、
主のもとから風が起り、海の向こうから、うずらを運んできて、
これを宿営の近くに落した。・・・
とあります。13節では「うずらが自分で飛んできた」ことになっていますが、
大風を起こされて、うずらを宿営あたりに落とした奇跡というのがあったのかも
ですね。

16:15イスラエルの人々はそれを見て互に言った、
「これはなんであろう」。
彼らはそれがなんであるのか知らなかったからである。
モーセは彼らに言った、「これは主があなたがたの食物として賜わるパンである。

この15節の「これはなんだろう」は「マン フ―」です。
直訳は「何か これは」です。
なぜ「マーン」なり「マン」が「マナ」となったのでしょう。

ハーパーの16:1-36の見出しは「マナ」です。「鶉」と「安息日」の立場が・・・。
15節を「これは一体なん[manマーン]だろう」とお互いに尋ねあったと解説。
こうして彼らはこのパンを[manマナ]と名付けたと解説しています。
なんで「マーン」が「マナ」と呼ばれたかのついての言及がないです。
そして自然現象に由来する伝承と解説。
シナイ半島に育つタマリスクの木につくカイガラムシが樹液を吸い、
その一部が排せつされて日光で結晶化し地面に落ちている
この粘着性の物質が炭水化物と糖に富んでいて、
餓える旅人の生命維持ができるものとのこと。
現在のシナイ住人からもmannと呼ばれて神からの賜物とされているとのこと
本当か?

16:4b彼らがわたしの律法に従うかどうかを試みよう
このように安息日規定についてヤハウェが民を試すのは申命記的付加だそうです
J版ではうずらはずっと後になってでてくるがP版のここでは鶉がでてくるとのこと。
ここでも物語が重層化されているようです

867暇人 A:2024/03/17(日) 09:58:04 ID:???
マナはぱんみたいもの。
箱の中にもカチコチで残っているとかいないとか。

868暇人 A:2024/03/17(日) 19:07:04 ID:kX44/jpw
神は存在しない

869atheist:2024/03/18(月) 01:52:37 ID:???
>>866
なんで鶉なんでしょうね
肉であればもっと大量に摂取できる動物のほうが良さそうに思えます
鳥にしても鶏だと家禽になってしまい飛ぶこともできないので空から降ってくるという物語のイメージには
合わなかったということでしょうか

「カナ」というのは単なる誤植ですね、了解しました

マナについてはちょっと辞書で調べてみました
Anchor Yale Bible Dictionaryによると、先生の言われるとおり、原文は"What is it?"の意だそうです
またTheological Wordbook of the Old TestamentによるとLXXでは6章14節で"man"となっているものの
その他の箇所では"manna"となっており、英語の"manna"はこれに由来するそうです
やはりmanがなぜmannaに変わったのかという理由は書いていませんでした

タマリスクの気につく虫が樹液を吸った後の排泄物がマナの由来であろうということも書いてありました

モーセのロジック、というか編集者のロジックとしては
やはりパロの心を頑なにしたのと同様、ヤハウェの威光を示すため、ということなのでしょうね
民にとってみれば最初から近道行っとけ、という気持ちにもなるでしょうw

わたしはこの章だけでなく、出エジプト伝承は比較的単層的な伝承であろうと思っていましたが
どうやらこの物語も各資料が重層的に編集されているようですね
どちらにしても安息日をはじめとする律法遵守を強調している部分は
保守派や神殿関係者の意向が強く働いているように思います

870福音伝道:2024/03/18(月) 06:06:29 ID:8zhBGqb2
>>869
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト17章です。
70人訳を確認してみました。

https://sacred-texts.com/bib/poly/exo016.htm

出エジプト記はすべてmanです。
16:31 Μαν
32,33節,35節(二か所)manですね

民数記がご指摘どうりmannaとなってました。
ありがとうございました。謎が解けました。
マンかマナとなった根拠に70人訳があるのですね これはマンナですけど。
https://sacred-texts.com/bib/poly/num011.htm
https://sacred-texts.com/bib/poly/deu008.htm

民数紀11:6,7,9 μαννα
申命記8:3,16 μαννα

ちなみにμανναは新約聖書ではヨハネ6:31.49 へブル9:4 黙示録2:17に
出てきます。
つまり「マーナ」がギリシア語訳されて「マンナ」となり、
西洋人が「マンナ」を「マナ」と発音したということのようですね

871暇人 A:2024/03/18(月) 06:32:30 ID:8/72qoTM
ホームセンターコーナン生野店の駐車場で、12時頃〜16時頃に来ては鳩に餌を与えている『なにわ 581 く 29-54』のキャップ帽クソハゲジジイが究極的にうざいし腹立つから誰かなんとかしてくれ。

872atheist:2024/03/19(火) 02:39:46 ID:???
>>870
昨日は20度を超えていたのに、今日は10度以下と、体がついていきませんw

出エジプト記では16:14以外も"man"なんですね
どの辞書だか忘れましたが、LXXの"manna"がラテン語聖書に引き継がれ
それがさらに西洋の聖書にそのまま引き継がれた、というようなことが書いてありました


さて17章は前半はモーセと民の間で水をめぐる言い争いとモーセの岩打ち、後半は
アマレク人との戦いですね

水をめぐっては、ヤハウェを試みたことが主題なのだろうと思います
しかしその試みに対する評価はここでは書かれていません
のちに主を試みるなとか試みてみよとか出てきますが、ここはその走りのようなものでしょうか

アマレク人との戦いの描写はやや滑稽に映ります
モーセが杖を上げたかどうかで優劣が変わり、モーセの腕が疲れてくると
アロンたちがそれを支える、という描写です
もうちょっとかっこよく描写はできなかったのでしょうかw

ここでは戦闘の代表としてヨシュアが登場しますね
カナン征服の先駆け的なエピソードなのでしょう

873福音伝道:2024/03/19(火) 06:40:11 ID:8zhBGqb2
>>872
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト18章です。
三寒四温で、体がついていかないですね。ご自愛ください。

7節。そして彼はその所の名をマッサ、またメリバと呼んだ。
原文 そして彼はその場所の名をマサーと、そしてメリヴァーと呼んだ。
イスラエルの息子たちの争いの故に
そしてヤハウェが私たちの内にいるかいないかどうかと言って
ヤハウェを試みたが故に

マサーは「試み」の意。メリヴァーは「争い」の意なので、
地名由来譚のようですね。

民数記20:13ではメリヴァーのみですが、
ここでは「マサー 試み」が加筆されていて、フランシスコ会訳註は、
民数記20:13からの加筆と解釈しています。
とはいえ申命記33:8や詩編95:8でメリヴァーとマサーはセットで語られていると
一般化されている旨にも言及しています。

イェホシュアとフールが登場します。
イェホシュアは闘い、フールは助手としてアハロンと共にモシェを支えます。
イェホシュアをギリシア語訳するとイエースースですね。

15節 「主はわが旗」 「ヤハウェ ニスィ」
「ニスィ」は「旗」「軍旗」という意味ですが後期には「奇跡」「印」の意味となり
フランシスコ会訳註によると、「玉座」とも解釈されるそうです。

ハーパーも、民数記のメリバだけが古い記事であり、マサは二次的付加としつつ
古い段階でマサがセットになったと解説。モーセとアロンがすぐに約束の地へ
入らなかった理由を説明していると主張しています。
つまりヤハウェを試み、争ったから罰として荒野に40年ということだそうです。
ひどすぎる。。。責任転嫁だ。

アマレクはユダの南の荒地の遊牧民で、しばしば略奪者として描かれるとのこと。
ハーパーは14節について、「イスラエルにとつて好ましくない結果になったことを
暗示している」と指摘しています。
そして申命記25:17-19,1サム15:2より、申命記的記事からの挿入だろうとしています。

一説によると、定着農耕民のカナン人は、遊牧民からの略奪を受けたそうで
遊牧民との間の緩衝として、牧畜民を受け入れて、遊牧民の襲撃からの緩衝地帯とし
農作物と家畜の肉や乳と交換し、農繁期には臨時労働力としたそうです。
イスラエルは、牧畜民として、遊牧民アマレクとライバル関係にあり
敵対関係にあったので、てひどく敗北した記憶もあったので、その敗北を
消し去るようにした箇所かもです。

874atheist:2024/03/20(水) 01:18:31 ID:???
>>873
地名由来譚に沿って「試み」と「争い」が語られているわけですね
フランシシコ会訳注もハーパーも民数記の「争い」のみの形が古形で
「試み」はそれに加筆されたものという解釈なんですね
おそらくは地名に合わせて追加されたものと思われます

ヨシュアとイエスはヘブライ語的には同名ですが
ヨシュアはヘブライ語聖書、イエスはギリシャ語新約聖書で出てくるので
一見異なる名前に見えますね

アマレク人との争いは申命記からの挿入ですか
これも編集過程で他書のエピソードが切り貼りされるような形で成立したということですね

イスラエルはカナンの農耕民とアマレク人遊牧民との緩衝地帯として受け入れられたというのは
面白いですね
そういった地理的理由からライバル関係にあったので、アマレク人は敵として聖書に登場するのでしょうね


さて18章はモーセとしゅうとのエテロの再会の箇所です

11節でエテロの口を通じて語られるように、ここでも記述には多神教的背景がありますね

18章のメインはモーセがひとりで行っていた裁きを、軍隊編成のような形にして
分担させよというエテロの助言です

これは実際にイスラエルで行われていた裁判システムを反映した記述なんでしょうか?
それとも単にモーセに率いられたイスラエル人たちの物語にのみ見られる編成なんでしょうか?

875福音伝道:2024/03/20(水) 09:41:17 ID:8zhBGqb2
>>874
atheistさん、こんちには。明日の月曜日の聖句は出エジプト19章です。

11節 今こそわたしは知った。実に彼らはイスラエルびとにむかって
高慢にふるまったが、主はあらゆる神々にまさって大いにいますことを」。

直訳  今、私は知った。ヤハウェがすべての神々より偉大であることを。
彼らが彼らの上に傲慢に振舞ったからです。

フランシスコ会訳註は、この「彼らの上に」を「民に対して」と訳した上で
傲慢に振舞った「彼ら」を、エジプト人の「神々」のことかもしれないと
注記しています。そう解釈すると、ここはヤハウェ対エジプトの神々の闘いを
ヤハウェが完全勝利したという多神教世界観の中でのヤハウェの優位性ということ
になります。

千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長
フ会訳は「千人隊長 百人隊長 五十人隊長 十人隊長」と軍隊にしていますw
原文「千人のサレー 百人のサレー 五十人のサレー 十人のサレー」です
サレーの原意は「おさ(長)」なので口語訳が訳として正確ですが、実は
「千人を指揮する隊長」の意味で使われる軍隊語でもありますのでフ会訳が正しいです。

民数記では70人を集めるようにヤハウェによってモシェに命じられます
11:16主はモーセに言われた、「イスラエルの長老たちのうち、民の長老となり、
つかさとなるべきことを、あなたが知っている者七十人をわたしのもとに集め、
会見の幕屋に連れてきて、そこにあなたと共に立たせなさい。
11:17わたしは下って、その所で、あなたと語り、またわたしはあなたの上に
ある霊を、彼らにも分け与えるであろう。彼らはあなたと共に、民の重荷を負い、
あなたが、ただひとりで、それを負うことのないようにするであろう。

なぜ、出エジプトでは、軍隊組織が採用されたのでしょう
いづれにせよ、モシェが多忙となり、官僚組織ではありませんが
モシェの下に権威を分与される小リーダーが選ばれ、更にその下に小リーダーが
と段々と小規模リーダーが増えていったのかもですね
区長 組長 班長みたいな感じで

876atheist:2024/03/21(木) 00:34:15 ID:???
>>875
「すべての神々より偉大」という時点で多神教だと思いますが
「彼ら」がエジプトの神々であるとすれば、その神々を現実に介入する実在の神ということに
なりますから、完全に多神教と解釈できますね
そのなかでヤハウェはエジプトの神々とは格が違うということを誇示しているのでしょう

裁きの分担の箇所はやはり軍隊式なんですね
出エジプト記の設定では成年男子で60万、全人口数百万というような設定でしたから
そりゃもうモーセひとりで裁き切れるわけがないので
行政組織のようなものを作ったということなのでしょうね
民数記ではそれが変わって代表70人に神の力を分け与える的な形で処理しているようですが


さて19章はシナイの荒野に入ってヤハウェがモーセに十戒を授ける前段階といったところですね

ヤハウェはともかく民は山に触れるなということを強調しています
触れたら殺すとまで言っていますから、これはシナイ山を聖なる山として聖別するような感じなのですかね?

ひとつ気になったのは4節で「あなたがたを鷲の翼に載せてわたしの所にこさせたこと」の部分です
こんな記述は今までなかったと思うので、これは単にヤハウェが民をエジプトから連れ出したことを
表しているのだと思いますが、実際の旅は荒野をゆっくりと進んでいくもののように描かれています
なぜこんな比喩を使ったんでしょう?

877福音伝道:2024/03/21(木) 06:35:59 ID:8zhBGqb2
>>876
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト20章です。

民数記の70人が古く、出エジプトの千、百、五十、十人長と軍隊式に整理された
のは二段階目かもですね。

19節から40章が第三部シナイにおけるイスラエル です。

スィナイ山はエロヒームの住まう山のように書かれていますね。
ヤハウェがスィナイ山に住まわれていて、炎に包まれているので、
彼を見ようとスィナイ山に入ると、焼け死ぬ。または煙を吸って死ぬ。
特別に赦されたモシェとアハロンだけが近くまで来れるが、
イスラエルの民は特別にヤハウェに仕える祭司として、すべての民の中から
選ばれたので、身を清めてスィナイ山の境界、麓までは来ることができ
ヤハウェの声を聴くことができる。そこでスィナイ契約として十戒という律法が
与えられた。
「シナイ山がそもそも神の住まう聖なる山」なので、
近づくためには神の怒りを買わないように民を「聖別」しないとダメ
という感じですね。
この際の聖別は「衣服を洗う」と「女性に近づくな」です。

4節 あなた達は私がエジプトに行ったことを見た。
そして私はあなた達を鷲たちの両翼の上に乗せた
そして私はあなた達を私の所へ連れてきた。

申命記に
32:11わしがその巣のひなを呼び起し、その子の上に舞いかけり、
その羽をひろげて彼らをのせ、そのつばさの上にこれを負うように、
32:12主はただひとりで彼を導かれて、ほかの神々はあずからなかった。
とありますが、
鷲が、ヒナの巣立ちの際に、飛ぶように誘い、雛が、飛ぶ練習をして、
飛び疲れると親の鷲が、雛を安全に自分の羽に乗せるところから、
ヤハウェがイスラエルの民を親鷲のように保護しながら
スィナイ山の自分の所まで連れてきたという恩着せですね。
で、お前たちのために今までこれほどした。さて契約を結ぶぞ
みたいな感じですね

ハーパーは19:1-25を「シナイ顕現」と銘打ちます。
ヤハウェは契約の宣言の最初のところで民に現れる。3章でヤハウェだけが経験した
顕現は共同体全体が分かち合うものとなる。
柴の中の火の代わりに、「濃い霧に覆われたずっと大きな火」であり、山全体が
燃えているように見えた。J資料の19:18は火山のイメージと考える注解者もいるが
E資料の16,19節では「雷を伴う嵐のイメージ」であるとのこと。
3-8節の契約は申命記的で、6節の「祭司の王国」が独自資料だそうです

878atheist:2024/03/22(金) 01:10:37 ID:???
>>877
出エジプト物語の元となるような出来事があったにしろ、数百万という単位は
物理的にあり得ませんし、また考古学的にも一切の証拠がないので
軍隊式の編成は数百万という設定に見合うように構想されたんでしょうね

聖別が「衣服を洗う」というのはいいとして、「女性に近づくな」というのは
例によって月のものを穢れと考えたからでしょうか
レビ記だったと思いますが、そういう話が出てきますよね

なるほど鷲の比喩は飛ぶように連れ出したということではなく
申命記にあるように保護という観点から譬えられたものということですね
民を遠回りをさせたのも一応訓練と考えれば分からなくもないですが、
恩着せがましいといえば恩着せがましいかもしれませんw

ハーパーによると、3章のモーセへの顕現→19章の共同体への顕現という流れなんですね


さて20章はいよいよ十戒をヤハウェがモーセに述べ伝える箇所です

6節までの冒頭は明らかに拝一神教の内容になっていると思います
多神教的宗教環境において崇拝はヤハウェのみに限定するよう厳しく命じていますね
殺してはならないとか盗んではならない、などの戒があるため、一般的な戎を授けているように
見えますが、これ以降延々と細かい儀式的細則の話が続きますよね

そういった文脈を考えると、十戒含めこれ以降の話は、出エジプト及びシナイ顕現の物語の中で
祭司たちが事細かな宗教儀礼を民に伝えるために作った箇所であるように思えます

879福音伝道:2024/03/22(金) 06:30:23 ID:8zhBGqb2
>>878
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト21章です。

現代日本でも、たとえば博多祇園山笠の山の舁き手は、7/1-15まで「女人断ち」を
されるそうです。その昔は舁き手の詰め所の入口に「不浄の者立入るべからず」と
書かれた立て札があったそうです。しかし時代により女性蔑視との批判が高まり
立札が撤廃されたのが、平成15年で、最近の事です。
「不浄の者」とは喪中の人と女性とのことで宗教的な理由でした。
スィナイ山の場合も似たような感覚だったのかもですね

一般的に十戒と理解されていますが
原文の「アセレット ハ・デヴァリーム」(34:8)は「十 the・言葉」、
「10の言葉」ですね
20:1は「コル ハ・デヴァリーム」なので「すべての言葉」ですね
口語訳は「すべての言葉」と訳していますが、「十戒」のことなので
「すべての戒」と訳するべきですね

聖書協会共同訳も新改訳もフランシスコ会訳も、ここと34:28を「言葉」「ことば」と
訳していますね。なので統一性があるのでよいのですが、口語訳は34:28を
十誡と訳していますので「すべての誡」とすべきです。

直訳
3節 あなたに 他のエロヒームが わたしの顔の上に ありえない
4節 あなたは造るな あなたのために 彫像を そしてすべての肖像画を
   上にある天の中にあるところのものを そして下にある地にあるところのものを
   そして地の下の水の中にあるところのものを
5節 あなたはされらにひれ伏すな そしてそれらに仕えさせられるな
   なぜなら私ヤハウェはあなたのエロヒームであり、エル・カナーである。
   父祖たちの邪悪を、息子たちの上に、三代目の上にと四代目の上に
   罰する者である。
6節 しかし千代に慈しみをする者である。私を愛する者たちと、
   そして私の戒めを守る者たちに。

この戒めは「命令」のことですね
エル・カナーは「妬みの神」ですね。
他の神々に浮気をするな 嫉妬しちゃうからね。
私だけを愛したら、慈愛を注ぎますよ 裏切ったら四代目の子孫まで
ストーカーしちゃうよん という怖い神ですね
多神の中で私だけを愛してという拝一神教ですね

ハーバーはこの十戒記事は、E資料と断定した上で、申命記な考え方を
反映させられいると
20:24あなたはわたしのために土の祭壇を築き
20:25あなたがもしわたしに石の祭壇を造るならば

聖所をどこに作ってもよいということなので、
エルサレム神殿のみを聖所とするより古い段階の規定です

880atheist:2024/03/23(土) 01:29:08 ID:???
>>879
男女平等なんて観念のなかった時代に女性が蔑視されていたのは理解できるんですが
「不浄」とみなされた理由は何なんだろうなあといつも思います
おそらくは性に関係しているのでしょうが、日本の場合は性に対する禁忌の敷居が極めて低く
どちらかというとむしろ肯定的に捉えられていたのに、やはり「不浄」という扱いを受けるのは
ユダヤ教同様、月経に関係しているのかなあ、と

このあとずっと「〜してはならない」という言い回しが続くので、まあ戒ですよね

「妬む神」というのも神学的にはいろいろと解釈されたりしますが
ごちゃごちゃ屁理屈付ける必要もないほど、明確に他の神々に対する妬みですよね
要は嫉妬ですね
ただ逆に考えればこれほどあからさまに嫉妬する神であることを宣言するのは
かえっておもしろいと思います

土の祭壇、石の祭壇ということはまだエルサレム神殿が排他的に聖所となっていなかったころですから
祭司階級が確立していなかった頃ということになりますね
結局こういった物語や戒律の伝承者が祭司的意識を持って編集したということなのでしょうね


さて21章はもろにハンムラビ法典の法文化の影響を受けた戒律が続きますね
奴隷と自由民の間に法的差異があるのも古代ですから当たり前としても
やはりハンムラビ法典とよく似ているんじゃないかと思います

こういった「法文」が延々と続くということは、やはりこの物語にかこつけて
共同体の法規を語ったのでしょう
恐ろしいのはこのような法規が神の言葉とされているところです
法は時代や状況によって異なるのは当然ですし、権利や義務の観念の発達によっても
変更されて然るべきなのに、いったん神の言葉とされると変更が極めて難しくなってしまうからです

神の言葉という体裁で、祭司的な意識を持った集団が自分たちの法的価値観を共同体に
押し付けた、ということなのだろうと思います

881福音伝道:2024/03/23(土) 07:32:26 ID:8zhBGqb2
>>880
atheistさん、おはようございます。本日と明日の聖句は出エジプト22章です。

「不浄」は、古代感覚での衛生観念が出発点ではないでしょうか
レビ15章を見ますと「肉からの流出」自体を「不浄」にしていまして
「月経」「精子」を同列に「流出」だから「不浄」としています。
12章では出産自体が「不浄」とされていて、出産後66日間隔離されますが
現代でもお産後42〜56日間を産褥期間と設定し、身体の回復期間とされています
ので、むしろ女性に優しい制度が出発点だったのかもです。

21:1-22:16をハーパーは「法律集」とし、この種の判例法は古代近東の膨大な法典
の中に広く認めらていて、挿入であると断じています。
この法律は新しい支配者によって宣言される共同体統治の改善を表しているので
民を罰して縛るというより、同害報復法・復讐法というより、復讐に制限を加えている
そうです。(目には目をは同害報復だけど…私の感想)

882atheist:2024/03/24(日) 03:42:16 ID:???
>>881
なるほど「不浄」に関しては、わたしは一面的な捉え方しかしていませんでした
衛生観念というファクターを導入して観てみれば、より客観的に考察できるように思いました
「月経」のみならず射精や出産なども衛生面では大きな問題となりそうですから
そういったものを「穢れ」として「隔離」することは古代においては理にかなっていたのかもしれませんね

ハンムラビ法典自体が単なる道外復讐法ではないと言われているので
ハーパーの説明もそれに準じたものかもしれませんね
ハンムラビ法典以前と比べると復讐に制限を設けた画期的な法ということになるでしょうし
現代の視点から見ると同害復讐や身分差別といった点が目につくのでしょうね


さて22章はそのまま詳細な法規が続きます
財産に関する法規は当時も頻繁に争われたことでしょうから
かなり事細かに決められていますね

目についたのは17節から20節の性に関する規定と22節から28節の、現代で言えば社会福祉にあたるような
規定です

17-18節は見事なまでに娘を父親の財産として扱ってますね
娘の意思は考慮されていません
奇異なのは18節で、魔法使いの女は殺せと書かれていることです
そのまま魔女狩りの根拠になりそうな箇所ですが、
ここでの魔法使いとは実際はどのような存在だったのでしょうか?
20節の獣姦の規定があるということは実際に獣姦する人がいたということですね

22節移行の寄留者、寡婦、孤児に対する保護思想は古代では画期的なものであったように感じます
特に彼らを苦しめるものには神の怒りが燃え立つといった表現で、相当強く保護思想を打ち出している
ように感じられます

883福音伝道:2024/03/24(日) 07:12:38 ID:8zhBGqb2
>>882
atheistさん、おはようございます。明日、月曜日の聖句は出エジプト23章です。

フランシスコ会訳註によると、1-2aの盗人の殺人は後代の加筆だそうです。
申命記
22:29女を犯した男は女の父に銀五十シケルを与えて、
女を自分の妻としなければならない。
古代イスラエルにあっては、娘は完全に父親の財産です。
しかも申命記には価格も記載されています。
現代のイスラエルシェケルで換算すると約2000円です。
別の推定では約200万円ほどという説や
1シェケル=2デナリという説もあります。一日の労賃が1デナリですので
この説を採用すると50シェケル=100デナリ(100日分の労賃)=100万円となります。
結納金100万円だとすると平成日本と同じ程度かもです。

ハーパーは際立った人道主義的な関心が寄留者・未亡人・孤児・負債者・貧者の
待遇についての規則の中に表れており、としています。
これはヘブライ語聖書以来キリスト教の優れた点の一つかもですね

獣姦が語られているということは、そういう者がいたということなのでしょうね
信じがたいですけど。
原文
メハシェファーをあなたは生かすな。
獣と共に寝る者すべては、必ず死刑に処せられる。

メハシェファーは、wikiによると、呪術を行う女性と解釈されて
欽定訳で「witch(魔女)を生かしておくべからず」と訳されて
魔女迫害の正当化の根拠となったそうです。
15世紀から17世紀の魔女狩りとなったそうです。曰く付きの聖句ですね

884atheist:2024/03/25(月) 02:19:12 ID:???
>>883
お金に換算されて、かつ娘自身の意思が考慮されないとなると
もう完全に父親の所有物といった扱いになりますね
もちろん実際は親子ですから娘に対する愛情もあり娘の意思を聞くこともあるでしょうが
法的には財産の扱いになりますね

寄留者・寡婦・孤児・貧者等、社会的弱者に対するこのような保護というのは
そのままキリスト教思想へと受け継がれていると思います
古代においてなぜこのような人道的な配慮がなされたかは興味があるところですが
おそらく諸々の民族的苦難を経験していることに関係しているのだろうと思います

やっぱり18節は魔女狩りの根拠にされていたんですね
呪術というからには人を呪うようなことするんでしょうが
なぜに女だけ?とは思います
非近代の社会にはよくあることですが
男-外、表、直、正、祭祀、に対し女-内、裏、曲、負、呪術、といった二項対立の価値観が
背景にあったのかもしれません

885福音伝道:2024/03/25(月) 06:17:21 ID:8zhBGqb2
>>884
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト23章です。

神殿祭儀を司る祭司、レビ人と、競争関係にあったのが、庶民的な呪術師で
タクシー会社における「白タク」のような関係だったのかもですね。
で、女性が多かったとか。

イスラエル人の先祖が寄留者だったからでしょうし
古代において、寡婦や孤児は経済的に困窮していたが、国家が助けなかったので
地域コミュニティーが手助けせよということなのかもですね
一種のセーフティーネットなのかもです。

そもそも農業の生産性は驚異的です。
キュウリなど私ですら、畑ですと1苗から100本から150本収穫できます。
自宅の庭では1苗から20本程度ですが、農業を人類が手に入れ、
爆発的に生産性UPしたのだと思います。
寄留者・未亡人・孤児・負債者・貧者に優しくする経済力はあったはずです

886atheist:2024/03/26(火) 02:27:12 ID:???
>>885
祭司と呪術師は公式と非公式の関係みたいなものでしょうね

古代では国家的な福祉機構なんてなかったでしょうから、個人的な援助に
神の命令という形で強制力を持たせていたのかもしれませんね

土地にもよると思いますが、干魃などがなければ
通常の生産力は農耕に必要な労働力を再生産するよりはるかに大きなものなんでしょうね
そうじゃなきゃ人口が増えるなんてことはありませんからね


さて23章は前半は正義と公正について、中盤は安息年・安息日・祭儀について、最後は
ヤハウェの排他的崇拝と見返りとしてのカナンの地の領有について、という感じですね

前半では特に訴訟における正義と公正について書かれていますが
ここも古代においてはかなり発達した公正概念が書かれているように思います

安息日ならぬ安息年については五書では初出かもしれません
6年連続の耕作だとかなり土地が疲弊してしまうように思いますが平気なもんなんですかね?

後半は例によって例のごとくですが、先住民からしてみればいい迷惑ですねw
ユダヤ人には近隣民族と仲良くやっていく発想はないようですw

887福音伝道:2024/03/26(火) 06:20:49 ID:8zhBGqb2
>>886
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト24章です。

18c英国で資本によりコムギ→カブ→オオムギ→クローバーを輪作する
ノーフォーク農法が始まると、安く大量に小麦が生産できるようになり
対抗できない小作農家は離農あるいは牧畜に移行し、大地主に土地が
集積されたそうです。結果人口爆発したとか。
単作より連作が生産性をあげますし、麦は肥料の量で生産をあげれます。

またイスラエルの2万年前の狩猟時代の遺跡から野生種の小麦が発見されています。
外皮を剥くのがやっかいなエンマ-小麦ですが、外皮が剥きやすい突然変異を選抜
していき、現代のデュラム小麦となったそうです。
六年連作は疲弊すると思います。私でいえば、土の疲弊を防ぐために
牛糞と腐葉土を10年間は春と秋に1万円づつほど投下しています。
現在は土ができたので、豚糞を春と秋に2000円づつ投下しています

ここでは、休耕ではなくて、7年目の農地は、貧しい人用に開放しなさい
ということのようですね。セーフティーネットのようです。

フランシスコ会訳註によると、
仔山羊を母の乳で煮るなは、異教徒カナンの宗教儀式だったので禁止したそうです。

後半部は、E資料的な形式に沿っているが、実は申命記記者の挿入であると
ハーパーは分析しています。

888暇人 A:2024/03/26(火) 10:08:53 ID:hdgBNB2g
国土面積 20,770k㎡ のうち、耕作可能面積 437,000 ha(国土の 20%)、
灌漑面積162,000 ha、非灌漑面積 138,000 ha(主に麦が栽培される)。
人口の2%の農業者で90%の自給率だそうです。
年間降雨量のほとんどが12-2月に降り、年間500mmほどだそうです
年間1,000mm超える日本の反収の約半分の収量だそうです。

古代では1粒から10粒ほどの収量だったそうです。
現代日本では20倍の収量なので約半分ほど。うまく作れば30倍も。
降雨1000mm必要な水田の米作は2000粒なので、米は圧倒的

889暇人 A:2024/03/26(火) 11:43:03 ID:hdgBNB2g
失礼。
1反当たり、現代ヨーロッパでは反収1トンの技術革新があるそうです。
北海道でも反収634kg 10俵超えです。
米作が8-12俵なので、米作とそん色ないですね

令和4年の小麦反収全国平均は447kgなので米の536kgよりは
少ないですが、1粒からぶんけつするので1穂から20粒でもぶんけつした分
増えるようです。

890atheist:2024/03/27(水) 00:12:40 ID:???
>>887-889
当時のイスラエルがどのような農法をとっていたのかは
わたしには分かりませんが、少なくともここでは輪作や休耕といったことが
書かれているのではなくて、単純に7年目の農地は貧者用に開放せよ、ということですね

後半部は一応E資料に準拠しているうようでも
実際は申命記記者の挿入の可能性がある、と

> 人口の2%の農業者で90%の自給率

現代のことであったとしても、凄まじい生産力ですね
そりゃ農耕牧畜が「発明」されて以降、人がワラワラ増えるはずですw


さて24章はモーセがシナイ山に登り、神に十戒(律法)の石版をもらいに行く箇所ですね

ここで気になった箇所はまず8節の「あなたがたと結ばれる契約の血である」という部分です
これはのちにイエスが最後の晩餐でワインに対して述べたことばを彷彿とさせます

それから10-11節ではモーセだけでなく長老たちも神の姿を見てますね
しかも神は姿を見た彼らに手をかけなかったので、彼らは神を見ながらちゃっかり飲み食いしてますw
「いまだかつて神を見たものはいない」というヨハネ?のことばはなんだったのでしょう

891福音伝道:2024/03/27(水) 06:40:59 ID:8zhBGqb2
>>890
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト25章です。

ご指摘通り、「契約の血」は
マルコ14:24イエスはまた言われた、
「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である。
マタイ26:28これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流す
わたしの契約の血である。
ルカ22:20食事ののち、杯も同じ様にして言われた、「この杯は、あなたがたのために
流すわたしの血で立てられる新しい契約である。
1コリ11:25食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血に
よる新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。

マルコ・マタイはそのまま「契約の血」と引用し
パウロとパウロ派のルカはイエースースの流す血を象徴するワインを「新しい契約」
としています。モシェが注いだ「血」が「古い契約」ですね

10,11節
そして彼らはイスラエルのエロヒームを見た。
そして彼の両脚の下には、業のようにサフィアのれんががあり
天のように澄んでいた。
そしてイスラエルの息子たち、代表者たちに、彼は彼の手を伸ばさなかった。
そして彼らはハ・エロヒームを見た。
そして食べた。そして飲んだ。

出エジプト33:20また言われた、
「しかし、あなたはわたしの顔を見ることはできない。
わたしを見て、なお生きている人はないからである」。
であるのに、ここでは神は民の代表者たちに手を伸ばさなかったので
民は、神々を見て、神々の前で余裕で飲み食いまでしていますねw
それであるのにモシェは従者ヨシュアを連れて、神に会うために
更に山を登りますね。
 
ハーパーはこの矛盾を資料説で読み解いています。
1aと9-11節はJ資料あるいは古い独立資料に由来 2-8節はE資料だそうです。
「民の代表たちが神を見て食べ飲んだ」のは「契約の食事」だそうです。
ヤハウェとイスラエルの特別な結びつきを表しているとのこと。
で、E資料の方は、「契約の血」だそうです。
この出エジプトの「契約の食事」と「契約の血」という二つのスタイルを
新約はうまく「最後の晩餐」の場面で統合し、後の神学で「新契約」という
神学を育んでいったようですね

犠牲獣の血というおぞましい契約より古い契約は
神を見て、食べ飲むという「契約の食事」だったようです。
こちらは古代的で穏健であると思います。

892atheist:2024/03/28(木) 00:40:35 ID:???
>>891
なるほどマルコ・マタイでは「契約の血」ということでヘブライ語聖書を引き継いでいるのに対し
パウロ・ルカは「新しい血」ということで新約であることを強調しているわけですね

「契約の血」がE資料で「契約の食事」がJまたは古い独資料なんですね
新約の最後の晩餐はこのふたつのことなった資料に由来するテーマを
統合して新しい契約という神学を作り出したというわけですね

こうしてみると新約の各著者がいかにヘブライ語聖書をよく読んでいるのか分かります


さて25章はヤハウェがモーセに捧げ物や幕屋、器について極めて詳細に指示する箇所です

にしても素材から寸法に至るまで、よくもまあこんなに細かく指示したものです
実際は祭司が祭儀のための詳細な指示をヤハウェの口を借りて語っているといった感じです
こういった事細かな祭儀もキリスト教では廃棄されましたが
カトリックや東方正教会などでは伝統が積み重なるにつれ、新たな祭儀の細目が
再び作られていったように思います
まあ宗教ではこういった形式というのがけっこう重要になりますから
ユダヤ教が特別というわけではないのでしょうが、こういった祭儀的細目を
神の口を通じて語る形になっているところがユダヤ教の特徴なのかもしれませんね

893福音伝道:2024/03/28(木) 05:34:44 ID:8zhBGqb2
>>892
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト26章です。

ハーパーによると、原型は近東の古代遊牧民の宗教的設備だそうです。
クッバqubbaは、小さなドーム型の天幕で、赤く染めた覆いとアカシヤ材で
構成され、真ん中に偶像を安置していたそうです。
幕屋はこれの影響をうけたうえで、精巧に描かれる宮の一部なので
宮自体は、フェニキア神殿建築の影響を受けた上で祭司資料の編集があるそうです。
10-22節の契約の箱は、ハーパーは言及してませんが、偶像の代わりに置かれた
のでしょう。
机には、「神のみ前のパン」が置かれ、燭台は植物用語が多用されて、
「聖なる木」に起源を持っているとハーパーは解説しています。
フランシスコ会訳註は、絵を添えてます。わかりやすいです

894atheist:2024/03/29(金) 05:48:10 ID:???
>>893
すみません、例によって寝落ちですw

こういった宗教設備も他の民族の影響を受けているんですね
宗教も文化の一部で、文化が他の文化の影響を受けるのは
むしろごく当たり前のことなのに、聖書はヤハウェとイスラエルの間の物語として
進行しますから、ついついそういった当たり前のことを忘れがちです


さて26章はもう完全に幕屋の作り方に絞って書いてありますね

こうやって文字で説明されても分かりにくいことこの上ないですが
絵を見れば一発でどんなものなのかが分かります
わたしが使ってるLogosという聖書ソフトでも
tabernacleで検索すると想像図がたくさん出てきます
というか普通にネットで画像検索してもたくさん出てきますねw

聖書を初めて通読し始めたときに、最初に挫折しかかったのは
この出エジプト記の詳細な宗教施設・儀式の記述部分でした
まあユダヤ教徒でもないので、こういったところは適当に流して読めばいいんだと
思い直して、通読を続けたことを思い出します

895福音伝道:2024/03/29(金) 06:07:23 ID:8zhBGqb2
>>894
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト27章です。
お疲れのご様子、睡眠を優先されて下さい。

有名な幕屋は、原文直訳では「住まい」ですね。
ハーパーは、幕屋は聖所と至聖所を含む構造物でアカシヤ材で囲われ
天幕で覆われ、更に毛皮で覆われていたと解説しています。
更に至聖所は四本のアカシヤ材に架けたベールで覆われているそうです。

面白いのは幕屋の天幕にケルビムの装飾が施されていることと
毛皮は赤く染めた雄羊の毛側とじゅごんの毛皮からなっていたそうです。
羊は飼育していたからよいでしょうが、じゅごんをどうやって入手したのでしょ
海の民ペリシテとは、敵対関係にあったはずですが。

896atheist:2024/03/30(土) 01:43:54 ID:???
>>895
ありがとうございます
疲れてるというか、聖書読む前にちょっと休憩のつもりで横になると
気づいたら朝、みたいな感じですw

原文ではただの「住まい」なんですね
英語のtabernacleからの印象ではもっとなにか意味があるのかと思ってました
そう言えば至聖所はthe Holy of Holies(聖の中の聖)のように英語では訳されていたと思います

たしかにじゅごんはどこから手に入れたんでしょうね
物語上では荒野で40年間彷徨っていたことになってますが
そのときには手に入りそうもありませんから
実際はカナンの地でペリシテ人と交易関係があった時代の装飾なのかもしれませんね


さて27章はさらに続いて祭壇の制作法、及び幕屋の庭とそれを囲う柱の設定などについて
書かれています

ということでユダヤ人ならぬわたしには特に書くこともありませんが
21節を見る限り、アロンの家系の者はどうやら寝ずに灯火の番をしなければならないようですから
交代制の夜勤といった感じでその責務を果たしていたんでしょうね

897福音伝道:2024/03/30(土) 10:25:56 ID:8zhBGqb2
>>896
atheistさん、おはようございます。本日と明日の聖句は出エジプト28章です。

原文 アカシアの木で祭壇を作りなさい。

この祭壇は、天幕の外にあった燔祭用の祭壇だそうですが、アカシアは、10年で
材木利用可能な成長の極めて速いマメ科の植物で、堅いそうです。
アメリカに移植されて、電柱材とか枕木として利用されていて
我々日本では丈夫なのでフローリング材として使われているそうです。
丈夫で硬く、成長が早いので価格が安価でよいことづくめですが、
イスラエルでは利用されまくって砂漠化して残ってないそうです。

杉材は最低30年だそうで、熟成するほど硬く良い木になるそうで
30-50年ものが良く使われるそうです。ただ100年熟成はそれなりの価値が
あるそうです。
マツ科のレバノン杉もほぼ絶滅したそうだが、樹齢6500年のものが残存している
そうです。
縄文杉の科学推定が4000-5000年前なので、レバノン杉が世界最古ですね
こちらは船の木材として利用されたそうです。

移動祭壇が元々なので、安価で丈夫で当時、入手しやすかったアカシヤ材が
選ばれたのかもですね。

長さ五キュビト 幅五キュビトの四角で、高さは三キュビトである
原文は、長さは五アモット、幅は五アモットの正方形であれ、
    そして祭壇は、それの高さは三アモット。

アモットはアンマという単位のことだが、「肘の長さ」で約50cm程度らしいが
個々人で肘の長さは差があるので、かなりアバウトな単位なのかもです。
でも古代にあっては神官とか長(おさ)の肘の長さが身近でわかりやすい単位だった
のかもですね。

その四すみの上にその一部としてそれの角を造り
原文のこだわり
それの四つの隅から、それから角があるように、それの上に角を造れ。

つまり、後から角をつけるのではなく、木自体から角が生えているように
作れということですね。角は力の象徴なので、最も神聖な部分として、
ここに償いの血が塗られたそうです(レビ17:11)
ただイラストをみると、後からくっつけているようですが。

人類が最初に作った合金が青銅ですが、青銅がふんだんに作られていますね。
木炭程度の火力で加工でき、るつぼから、型枠で流し込めば簡単に制作できる
ので重宝されたのかもです。
そもそも銅鉱石に自然状態で、銅と同時に錫が含有されていたそうです。
なので自然に合金の青銅が鋳造されたそうです。
錫の含有量を減らせば、金ぴかになり、増すと、銀色に輝くそうです。
銀色に輝き硬くもろくなるそうです。で参加して青銅色となるそうです。

葬儀の際、灯火を絶やしたらいけないということで一晩だけですが
寝ずの番をしたことがあります。蝋燭が短くなると、次の蝋燭に引き継ぐのですね
最近では24時間蝋燭や、LED蝋燭があるそうですが、
古代の灯火守は大変だったでしょう。

898atheist:2024/03/31(日) 01:55:00 ID:???
>>897
木材としてずっとアカシアが出てきてましたが、なんでだろうと思ってました
ちゃんと理由があったんですね
成長が早く安価で硬質ということで使われまくったわけですね
レバノン杉が乱伐でほとんどなくなってしまったことは歴史上有名な出来事ですが
イスラエルのアカシアも同様の運命を辿ったというのは知りませんでした

度量衡は古代においてはそれほど厳密ではなかったのでしょうね
日本(中国)でも尺などの単位は身体基準ですから、古代ではどこでも
おおよその単位だったんだろうと思います
それにしてはよく建築物の長さの辻褄があったものだと思います

角については黙示録でしたっけ、やはり角は力の象徴だということを
先生がおっしゃっていたのを思い出しました

青銅は単に試行錯誤の末に銅と錫の合金になったんだろうと思ってましたが
元の銅鉱石にそもそもズズが含有されてたんですね
だから文明の東西にかかわらず、最初の金属器として青銅器が発生するわけですね
「青」銅と言われるのはいわゆる緑青ですよね
本来の光沢を再現した青銅器の映像を見たことがありますが
ずいぶん印象が違いました
この光沢ならたしかに権力の象徴になるだろうなあと思えるものでした

LED蝋燭なんてものがあるんですねw
考えてみれば古代では夜になれば真っ暗ですから
聖所で火を灯し続けるというのはむしろ当たり前だったのかもしれません


さて28章はアロンとその子孫が祭司として指名される箇所ですね
レビ族が十二支族のなかで特異な存在となっていく起源のようなものですね
といってもここもまたその聖職服の詳細な製造法がメインです

エポデの肩紐のところにイスラエルの子、つまりは十二支族の祖の名を刻め、とありますが
これはイスラエル民族をひとつの民族として束ねるための重要な象徴だったのでしょうね

899福音伝道:2024/03/31(日) 07:50:05 ID:8zhBGqb2
>>898
atheistさん、おはようございます。明日の月曜日の聖句は出エジプト29章です。

28:30あなたはさばきの胸当にウリムとトンミムを入れて

ハーパーによると「ウリムとトンミム」は『占いの道具』らしい。
これで占って神託を得て、裁きの結論を出したそうです。

ハ・ウリームは、「光」
ハ・トゥミームは、「完全な、純な」という意味ですが、
おそらくは、ウリムと呼ばれる透明の石と
トンミムと呼ばれる色付きの石を道具に可否を占ったのでしょう。

占い禁止のはずですが大祭司は神託を得るために、日本の古代巫女とおなじく
占って結果を得たようです。さすが古代人です。

十二支族の祖の名とありますが、族名がありません。
諸伝承で名前が異なりますので、ここで何を12とししたか知りたいところです。

しかし大祭司の衣装が豪華絢爛過ぎます。
放浪生活なのに、これは飾りすぎだと思います

900atheist:2024/04/01(月) 02:25:48 ID:???
>>899
占いの禁止は祭司制度が確立したあとに生じたものかもしれませんね

たしかに十二支族は何を十二とするか部分的に異なることがあるので
出エジプト記で名前を書いておいてくれたら混乱がなかったですね
というか、これだけ詳細に幕屋や服装について書いてあるのだから
肝心の名前くらい書いておけばいいのにと思います

祭司の衣装も含め出エジプト記に書かれた祭儀や建造物、衣装の詳細は
実際はカナン定着後、十分にユダヤ教が確立したあとのことを
荒野での放浪時に遡って挿入したものなんでしょうね

901福音伝道:2024/04/01(月) 05:09:56 ID:BX/SFP8o
>>900
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト29章です。

元々はいろんな部族を統合するために、大昔に兄弟であったという神話を
作ったようですが、そのご先祖様もそれぞれの部族で違いがあったものを
ひとつの父系にまとめたようですね。
とはいえ、実際は北のエフライム族と南のユダ族が二大勢力で他は影が薄いですね
エフライムにはシロとベテルに聖所がありましたし、ヨシュアはエフライムの山に
葬られました。北イスラエルの王もエフライムから出ました。
こちらが本来のイスラエルぽいのですが、北王国が滅ぶと、中心がサマリアとなつた
ため、逆にユダから差別されるようになったようです。
ユダ族のダビデが本家と考えるユダ王国からすると、北はその他10支族なのでしょう

902atheist:2024/04/01(月) 23:38:15 ID:???
>>901
> 元々はいろんな部族を統合するために、大昔に兄弟であったという神話を
> 作ったようですが

わたしもそう考えています
基本的にはカナンの平野部に住んでいた人たちが前1200年前後に
カナンの丘陵地帯に移り住んだのがイスラエルの原型であろうと推測しています
ただヤハウェの由来や出エジプト神話などを考慮すると、単純に元カナン人が
丘陵地帯に移動しただけとは考えにくく、おそらくは実際にミディアン地方、場合によっては
エジプトにいたカナン人ないしはそれに近い民族の人達がカナン地方に移り住んだ元カナン人たちと
合流したのだろうと思います

ひとつのイスラエル民族というアイデンティティを作り上げるために
神話の形を使って部族連合を統一の祖先から由来したものだと説明したのでしょうね

北のエフライム族と南のユダ族が二大勢力でサマリアは北が滅んだあとに中心となったとのことですが
わたしは北王国時代からサマリアは王国の中心であると思っていました
北王国の滅亡後、異民族との混合が進み、聖所が移動して、宗教的にもサマリアが北の中心になると
「純血」ではなくなった北に対する蔑視がユダの人たちに生じた、ということなのでしょうね


さて29章では、アロンとその子孫の聖別、およびその際の儀式について詳細に書かれています

わたしにはこの記述は、祭司を司るようになった一族が自分たちの宗教的権威を独占するために
作り出した儀式であり、神話であるように思われます
またその詳細は幕屋の作り方同様、慣習的に行われていた儀式を整理し統合したもののように
思われます

ここで気になったのはまず7節で油注ぎが出てくるところです
これは油注ぎの最も古い記述なのでしょうか?

それから聖別に雄牛や雄羊の血が使われていることです
非常に基本的なことになってしまいますが、なぜ聖別に犠牲獣の血が使われたのでしょうか?

903福音伝道:2024/04/02(火) 06:25:40 ID:BX/SFP8o
>>902
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト30章です。

ヘブライ語聖書を読むと、聖書はエルサレム以外にも、
べテル、ダン、シロ、シケム、ベエルシバ、ギべオン、ギルガルらがあります。
その他にも屋外の礼拝所、高き所(バモース)と呼ばれる礼拝所もあります。

二列王記23章あたりを読みますと、BC7Cのヨシヤ王が、異教礼拝の「高きところ」を
破却して、聖所をエルサレム一か所に収斂されたように読めます。
アッシリア従属からの独立後の民族自立運動の一環と読めますが、
雑多な聖所が廃止されていく祭司たちの動きがもっとのちの時代に実際にあった
ように思います。バビロン捕囚からの帰還後とか。
一方サマリアは、捕囚を受けてないので、純粋に伝統的な信仰のままだったのかもです
純化された捕囚帰還組と、穏健で伝統的な現地定着組みたいなイメージです

聖書で最初に油注ぎをしたのは、ヤコブです。べテルの神の命令が古いですね
創世記28:18
ヤコブは朝早く起きて、頭の下に置いていた石を取り、それを柱として据え、
その上に油を注いだ。
31:13
あなたはベテルで柱に油を注ぎ、私に誓いを立てた。私はベテルの神である。
今すぐこの地を出て、生まれ故郷に帰りなさい。』」

人に対する塗油の最初は、祭司で、ここです。
油注がれた者の第一は「大祭司」
第二が王たち(サム上10:11)、第三が預言者ら(列王上19:16)です。

ハーパーによると、血は「祭儀的な汚れ」を取り除くためだそうです。
第一段階…牡牛の血を「祭壇の角」に塗って、祭壇の汚れをぬぐうことで
祭壇が、次の犠牲を受けるのにふさわしい場所として浄化される
第二段階…罪の償いのために雄羊が焼き尽くす犠牲として捧げられる
これによって、次の犠牲を受ける準備が整い
第三段階…別の雄羊、「任職のお羊」として、その血を任職者の右の耳たぶ・
右手の親指、右足の親指に塗られて、血で汚れをぬぐい、新しい祭司が聖別
されるそうです。

904atheist:2024/04/02(火) 23:46:29 ID:???
>>903
捕囚を経験して純化(先鋭化)した信仰をもつエルサレム(ユダ)と
伝統的な信仰スタイルを温存したサマリアという対比ですね

人への塗油はここで語られる祭司への油注ぎが最初だが
油注ぎそのものの初出は創世記のヤコブのところ、ということですね
祭司の聖別がそのまま王の聖別へと移行した感じですね

血は犠牲と結びつき、犠牲は浄化と結びついているため
血が聖別に使われたということでしょうか
聖俗を分け隔てるには命というコストが必要という感じですね
生贄は古代人のそういった宗教感覚から来ているものなんでしょうね


さて30章もさらに儀式やそれにまつわる細則の記述になっています

ここでは12節で出てくる「命のあがない」というのが気になりました
人の数を数える際に命のあがないが必要というのはどういうことでしょうか?
一応災いの起こらないように、とは書いてありますから、要は人数分の加護費用ということでしょうか?

ここでも聖なるものを俗人や俗の使用に使ってはならないといったように
聖俗を明確に分け隔てることが強調されてますね

905福音伝道:2024/04/03(水) 05:39:25 ID:BX/SFP8o
>>904
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト31章です。

なぜ、獣の血が罪の浄化と結合したのか不明ですが、
レビ人が祭儀を定式化する時にはあった観念ですね。
その前は、遊牧民が、神に犠牲獣を捧げてましたが
初子を神に捧げるという点と、血=いのちという点は
初期からあったように思います。

「命のあがない」の原文直訳は「いのちの身代金」ですね
「登録することによって彼らの中に災いがないように」するとたの
「いのちの身代金」とありますね。

なぜ「登録」すると「災い」かが登録者に生じるかというと
ハーパーによると、登録の主要目的が軍務における動員可能人数の調査に
あるとのことですで、登録者は軍務につくことで災いが生ずる率が高まる
ので、無事を祈願しての賠償金だったのかもですね。
後にこれは神殿税として、毎年奉納させられることになるのですが、
ここでは、聖所建造費用を民に分担させたみたいですね。

祭司は二段階の洗浄をしていますね 聖別観点からは三段階です
1.青銅の洗盤の水で清める
2.ハープ入りの聖別の油で清める
3二段階の聖別をしたあと、更に.特別に調香した香料を焚いて、
神の面前に立つ祭司との間に煙で煙幕効果を醸して「境界」を
作り出しています。

つまり神の神聖さの演出ですね。

906atheist:2024/04/04(木) 01:40:12 ID:???
>>904
初子や血を特別視するのは直感的には分かりやすいですね
ですから何か特別な文化的理由がなくても極めて原初的な感覚から始まったものかもしれません

原文ではもろに「いのちの身代金」なんですねw
なるほど登録=軍務ということで軍務における無事の祈願と考えれば
納得しやすいです
これがのちに神殿税へと変化していくんですね

水と聖油で清めたあと香を炊いて聖的な空間を演出したってことですね
神様が来臨するんですからそれなりの手順や荘厳さというものが必要になりますね


さて31章はベザレル、ホリアブというふたりの「職人」の召命に続いて
安息日が再度強調されています

安息日に仕事したら殺される、というのはかなり強烈です
逆にイエスの安息日に関する発言は、こういった律法を背景に考えると
いかに革新的、革命的であったかが分かりますね

907福音伝道:2024/04/04(木) 06:02:12 ID:BX/SFP8o
>>906
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト32章です。

31:14それゆえ、あなたがたは安息日を守らなければならない。
これはあなたがたに聖なる日である。
すべてこれを汚す者は必ず殺され、すべてこの日に仕事をする者は、
民のうちから断たれるであろう。

割と正確だが、なぜか「その魂は」が抜けている。
原文直訳
そしてあなたがたは安息日を守れ。
なぜなら、あなたがたにとって、それは聖。
それを冒とくする者は、必ず殺される。なぜなら、そのうちに仕事を行う者は
それの民の中から、「その魂が」絶たれる。

ハーパーは13節と17節で安息日をヤハウェとイスラエルの「しるし」と
呼んでいることに注目して言います。
「祭司記者の神学では、一つ一つの歴史的契約は、
目に見える記念、あるいはしるしなのである。
虹はノアとの間に立てた万物との契約のしるしであり、
割礼はアブラハムとのに立てた族長との契約のしるしであった。
安息日は、ここでシナイ契約のしるしとして宣言される」

フランシスコ会訳註は、民数記15:32-36で
安息日で「たきぎ集め」した者がモシェの前に連れて来られて、
ヤハウェが「その人は必ず殺されなければならない。全会衆は宿営の外で、
彼を石で撃ち殺さなければならない」とモシェに言い、
実際に石打で虐殺されたとありますね。

ひどっ。

908atheist:2024/04/05(金) 05:52:17 ID:???
>>907
…すみません、また寝落ちです…

「魂が絶たれる」というのはヘブライ語聖書ではあまり聞いたことのない表現です
一応ユダヤ教では神が息(霊)を吹き込み土塊を生きたものとする、といった生命観だと思いますが
霊が肉と結びついて魂という自我に当たるものができる、といった感じなのでしょうか?
そしてその魂を断つことで生命が失われるということでしょうか?

この安息日遵守というのがシナイ契約になるわけですね
要はヤハウェ信仰を遵守するか否かで、生か死かが決まるということで
実際にこれが遂行されていたとすれば、ウルトラカルトですね


さて32章はモーセがシナイ山から下ってくるのが遅いことに業を煮やした民が
アロンに迫って金の牛を彼らの神として鋳造する、というお話ですね

これは思いっきり嘘っぽいお話ですが、ヤハウェに代えて偶像を崇拝することを戒めるために
こしらえたお話なんだろうと思います

民がなんで民がテキトーに造った牛の像を、彼らをエジプトから連れ出した「生きた」神に
代わるものと信じられたのかが不明です
一応お話的には少なくともヤハウェは実際に奇跡を起こして民を連れ出しているわけですから
そんなすごい神に牛の像が取って代われるわけがないと思うのが普通だと思います

それにモーセとともにヤハウェの力とことばを体験しているアロンがそんな民に押し切られるのも
おかしな話です
ともかくもアロンは民に押し切られて牛の像を造ります
ヤハウェは怒って民を滅ぼそうとしますがモーセが説得して収めます
このへんは様々な神話に見られるようなごく人間的な性質をもった神ですね

結局モーセはレビの子たちに命じて民を三千人ほど虐殺します

909福音伝道:2024/04/05(金) 06:58:52 ID:BX/SFP8o
>>908
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト33章です。
私も今起きたところなので、ちょうどよかったです。

創世記2:7 直訳
そしてエロヒームであるヤハウェは、
ハ・アダム(人)を、ハ・アダマ(土)の塵から、形造った。
そして彼の鼻の中に命(ハイーム)の息吹(ニシュマット)を吹き込んだ
そしてハ・アダム(人)は、生けるレ・ネフェシュ(前置詞+魂)となった。

「命の息吹」を「土人形」にヤハウェが吹き込むと
「生けるネフェシュ」となったという発想です。
新約ではさらに進んで
ネフェシュは、人格主体なので、絶たれて死んでも、
肉体から離脱したネフェシュは死後にも活動主体のままです。
そのネフェシュが地獄に落ちるのか、神の国へとどちらに行くのかが問題と
なりますが、出エジプトの段階では、絶たれて終わりのようですね

フランシスコ会訳註は、BC931-910のヤロブアムを王上12:28で挙げて
12:28そこで王は相談して、二つの金の子牛を造り、民に言った、
「あなたがたはもはやエルサレムに上るには、およばない。
イスラエルよ、あなたがたをエジプトの国から導き上ったあなたがたの神を見よ」
似ていると指摘。
つまり、後代の事象の挿入と考えるようだ。

ハーパーは、古い物語資料(JE)から書かれており、全体のテーマとしては、
民の不平・離反による契約の破棄と、モシェの執り成しによる契約更新。
具体的には北王国では、ヤハウェ信仰が「金の若い牡牛像」と結びついており
ヤロブアムはダンとべテルの聖所で「牡牛の像を用いるヤハウェ信仰」をしていたし
後の首都サマリアでも「子牛像」が首都聖所の最高の聖像であった。
アロンも金の牡牛像を鋳造した上で「明日はヤハウェ祭り」としており
民も異教の神を造れと言ったのではなく
「さあ、わたしたちに先立って行くエロヒームを、わたしたちのために造ってください。」
と言っています。

目に見えない神の像を造ったことが問題となるわけですが、
「鋳造の子牛」は、ヤハウェの像として、アロンは鋳造しています。
ハーパーは、アロンがヤハウェの像としたか、台座としたか、なお不明としています。
そして全体を「幕屋建設のパロディ」と分析しています。
そしてヤハウェ信仰は元々「強力で雄々しい若牛の形で崇拝された」が、
「幕屋と契約の箱」神学一派により「子牛像」が拒絶されて廃棄された、と。

また、祭司といえばアロンの系譜だが、レビ人の中にアロンの末裔に対する
不満があり、アロンの血筋に敵意を持ったサークルが、アロンに金の子牛像を
造らせて、その権威を落としているという説も紹介しています。

また金の子牛像をモシェが粉々に砕き、水に溶かして民に飲ませたという記述は
神明裁判であり、具合が悪くなったものが有罪とされたそうです。
金を飲ませるとか、まじかと思いますが、なにせ古代。。。

910atheist:2024/04/06(土) 01:25:34 ID:???
>>909
ヘブライ語聖書では死後についてはあまり語られることが多くはありませんね
おそらくゾロアスター教の影響で善悪が明確に分離しだし、キリスト教の死後の天国と地獄という発想に
つながっていったのかもしれません
この段階になると死後も魂は生き続けることになりますね

わたしは金の牛はヤハウェに代わる神として読んでいましたが
ここはヤハウェの像なんですね
それであれば民が像を作れと迫ったのも、アロンがそれに押されたのも合点がいきます

このエピソードの背景にはおそらくヤハウェ信仰本来の雄牛像信仰と幕屋と契約の箱神学との
闘争があったというのは面白いですね
こういったところにもヤハウェ信仰の変遷が見て取れるのかもしれません

虐殺の背景には神明裁判があったというのはちょっと意外です
これもまたヘブライ語聖書、というか聖所全般であまり出てこないような気がします
日本神話の「うけい」みたいな感じですね


さて33章はカナンへと向かう道程についてモーセと神が対話をする場面です

この章はいろいろと変というかよく分からないところが多いです

まずヤハウェは民が頑なであることを理由に一緒に行ったら滅ぼしてしまうから行かないと言います
そんな堪え性のない神なのかと思いますが、結局モーセに説得されて一緒に行くことになります
またその際に「飾り」が重要な意味を持つようですが、なんの意味を持つのかさっぱり分かりません
特に6節のヤハウェのセリフの意味が分かりません

それから11節ではヤハウェはモーセと「顔を合わせて語られた」と書いてあるのに
20節ではヤハウェはモーセに「あなたはわたしの顔を見ることはできない」と言っています
これもまたどういうことなんでしょうか?

911福音伝道:2024/04/06(土) 09:22:11 ID:BX/SFP8o
>>910
atheistさん、おはようございます。本日と明日の聖句は出エジプト34章です。

33章では、まだヤハウェは「金の子牛像」を造った民に対して怒っています。
なので、お前たちは行け。下準備はしてやる。でも俺は行かないと拗ねています。
そこで、民は反省を示すために「飾り」をつけるのをやめて
つまりチャラチャラせず、ヤハウェに反省していますという態度を示しています。

5節は、装身具をつけている民を見ると、ヤハウェが「金の子牛像」を
思い出して民を怒りのままに殺してしまうので、はずせと命じ
6節で、民がその命令に従ったという流れですね

ハーバーによると、7-11節は、古い物語の断片が混入している。
これはモシェとヤハウェの親密さを際立させることになっているとのこと。
「会見のための天幕」はP資料の幕屋のような精巧に造られていない宿営の
外に置かれた「単純な宮」であり、ヨシュアが伴われていた。
「モシェとヤハウェが友のように、顔と顔を合わせて、ヤハウェが語った」
ことが強調されているそうです。
この特別な親密さを梃子にしてモシェはヤハウェに同行を祈願します。
12-17節 17節でヤハウェは同意します。
そこで18節でモシェはヤハウェに「あなたの栄光」をお見せくださいと
更にお願いすると、19節で、善、恵み、憐みを保証した上で
20節、「顔を見ることは出来ない」と拒絶した上で
21-23節で「後ろ姿」だけを特別にお見せになります。

単純に言うと11節は古い資料。20節は新しい祭司資料なだけですが
11節の顔はパニーム。20節の顔はパナイ。「私の顔」です。
強引に、矛盾を敢えて会通しますと、
11節ではパニームとパニームとを合わせて友のように語ったとありますが
ヤハウェとモシェとの特別に親密な関係の比喩的表現であり、実際に
顔をつき合わせたわけではない。20節で、モシェは親密さを根拠として
ヤハウェの栄光を直接見ることを望んだが、ヤハウェは、「私の顔」を直接見せると
モシェが死ぬので拒絶した上で、温情で、特別に「後ろ姿」を見せた
と解釈できるかもです

912atheist:2024/04/07(日) 01:55:08 ID:???
>>911
「飾り」は「金の子牛像」を造ったときのチャラチャラした態度を表しているわけですね
ヤハウェはそれに拗ねて民を殺しちゃうかもしれないから、はずせと命じたんですね

ヤハウェとモーセの「顔合わせ」は古い資料で、後半はのちの編集ということですね
無理やり筋を通すとすれば、11節は親密さの比喩表現で、後半のほうがスタンダードな(後の)
ユダヤ教のパターンって感じですね


さて34章はモーセが砕いてしまった石版を再び作り、またシナイ山に登って
ヤハウェの戒めを石版に刻まれる場面です

ここはユダヤ教保守派の典型的な考えが述べられている箇所だと思います
異民族の排除や偶像禁止、その他の細かい戒めが書かれています

7節では信賞必罰が語られ罰すべき者は三、四代に渡って罰するとあります
古代らしい思考法ですね

中盤にある、民が異教になびく箇所などは、実際にそのようなことがあった後代の経験を
ここに挿入して語られているようです

これまたかなり基本的な質問になりますが、14節でヤハウェは自らその名を「ねたみ」と
述べています

この「ねたみ」というのは要は民が異教に浮気することに対する嫉妬ということでしょうか?
それとも原語的にはもっと他の意味があるのでしょうか?

913福音伝道:2024/04/07(日) 07:53:25 ID:BX/SFP8o
>>912
atheistさん、おはようございます。明日の月曜日の聖句は出エジプト35章です。

スィナイ山にモシェが二枚の石板を持って上ると、ヤハウェは
雲の中に居ながら、下って、モシェと共に立ち、「ヤハウェ」という名を宣言され
「悪と、とがと、罪とをゆるす者」と仰せなので、モシェは、
「わたしたちの悪と罪とをゆるして、一緒に行って下さい」とお願いする。
するとヤハウェは民と契約を結ぶとして、28節「十の言葉」を書き記したとあります。

所謂、「十戒」は、民が裏切った後で、もう信用できないと民を、
モシェとの特別な関係にあって、自分を「悪と、とがと、罪とをゆるす者」を
規定してしまったがために、赦す代わりに「契約」を結び、これだけは守れよ
と締結したものですね。赦す者だが同時に「罰すべき者をば決してゆるさず、
父の罪を子に報い、子の子に報いて、三、四代におよぼす者」とも言って、
甘いだけではないからね。本当に怒らせてたら、子々孫々まで赦さないんだから、と。

14節原文。なぜなら他のエルにひれ伏すな。
なぜならヤハウェはカナーである。彼の名は、エル・カナーである。

これは20:5でも出てきてまして
「エル・カナーは「妬みの神」ですね。
他の神々に浮気をするな 嫉妬しちゃうからね。
私だけを愛したら、慈愛を注ぎますよ 裏切ったら四代目の子孫まで
ストーカーしちゃうよん という怖い神ですね
多神の中で私だけを愛してという拝一神教ですね」
と申しましたが、
「熱烈な、情熱的な、妬み深い」という男性・形容詞です。
愛が深い故に嫉妬も深いという感じの語ですね

ハーバーもフランシスコ会訳註も、ここを「祭儀的十戒」と呼び
「道徳的十戒」と区別しています。
またハーパーは、二回目の契約だが、20章のEとPに先行するJ資料にあった
最初の契約締結記事が繁栄されていると分析しています。
さらに「十の言葉」として語られているが「十の言葉」がないと指摘しています。

914atheist:2024/04/08(月) 00:43:28 ID:???
>>913
なるほど、赦すと罰するの二律背反をうまく整合させるための契約ということですね

「妬み」はそう言えば以前説明していただいてましたね、完全に忘れてましたw
結局そのまま嫉妬ということでよさそうですね
たしかに嫉妬であれば、他の神を前提とした表現ですから
この段階では完全に拝一神教ですね

28節の十戒はそのまま以前出てきた十戒だと想ってましたが
ここでは「祭儀的十戒」であって以前の「道徳的十戒」とは別なんですね


さて35章はその祭儀的十戒の内容に当たるものでしょうか

ともかく捧げ物や作業、奉仕に関する命令になってますね
命令とは言え、ここでは「心から喜んで」なされたことが強調されているようです

様々な捧げ物や装飾品などが事細かに書かれていますから
やはり祭儀に関する規定が物語の中に挿入されたもののように思えます

915福音伝道:2024/04/08(月) 05:35:33 ID:BX/SFP8o
>>914
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト35章でしたが
既にされておられますね。

さて、ハーパーによると、24:12-31:18で権威付けられた様々な仕事が
以下で実行に移されるそうですが、権威づけの時と順番が異なっており、
実際の手順に従っているそうです
1.まず安息日が設定され、「幕屋建設」作業を休日で制限することができた
2.作業の始まる前に献納物の記事が置かれた。献納物という材料がないと作業できませんので。
3.作業開始前に職人の任命がなされた。
で、36-38章で、幕屋建設が始まります。

916atheist:2024/04/09(火) 00:37:35 ID:???
>>915
あれ?今日の分だったんですねw
土曜はたまたま出勤していたので、土日分を金曜分、月曜分を土日分と勘違いしてしまったようです
すみませんでした

幕屋建設の前振りみたいなもんですね
安息日の設定→献納物の収集→職人の任命と進んで
次章から幕屋建設に入るわけですね

917福音伝道:2024/04/09(火) 05:43:24 ID:BX/SFP8o
>>916
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト36章です。

土曜日に仕事、お疲れ様です。

918atheist:2024/04/10(水) 00:30:09 ID:???
>>917
36章は聖所、幕屋の設営、建築ですね

ここは例によって事細かにその設営・建設の材料や寸法を書き出しているだけなので
特に言うことはありません

強いて言えば、民が進んで捧げ物を持ってくるため、必要以上の捧げ物で溢れてしまった様が
描かれているところです

最初は無駄な記述のように思われましたが、これはイスラエルの民が心を合わせて積極的に
設営・建設に、つまりはヤハウェ崇拝に関わった様を描写するための記述なんだろうと思いました
3節の「自発のささげ物」という言い回しでもそのことが伺えます

919福音伝道:2024/04/10(水) 06:32:37 ID:BX/SFP8o
>>918
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト37章です。

3節の「自発のささげ物」は、ネダヴァーの訳ですね。
これは「ナーダヴ」という動詞から派生した名詞で、
動詞が「喜んで、進んで、気前よく・・する」という意味なので
「喜んで、進んで、気前よく「捧げられたもの」という意味で
「任意の捧げもの」「自発のささげ物」「随意の捧げ物」と訳されているようです。

偶像崇拝禁止のはずが、「ケルビム」の刺繍はなぜかセーフで、為されます。
エデンと共に元々は、メソポタミアに起源を持つケルビムですが、聖書では
創世記3:24で、ケルビムと回る炎のつるぎを置いて、人が命の木に近づけないように
したとあることから、「汚れた人間が神に近づくことができないことのしるし」とし
て刺繍されたようです。
贖罪所の一部として「二対の金のケルビム像」安置が命じられています。25章。

ソロモンの神殿には大きなケルビム像があったそうです。
これ、偶像やんと思いますが、ユダヤ教的には偶像ではなかつたのでしょう
論理構成が不明ですが。

920atheist:2024/04/11(木) 01:05:16 ID:???
>>919
宗教的義務感からのささげ物ではなく、自ら喜んでするささげ物というような意味ですね

なるほどケルビムが刺繍や像として配されたのは、汚れた人を近づけないためということですね
ケルビムは一応天使であって神の被造物であり、かつ神の配下に属するものなので
偶像崇拝にも異教崇拝にも当たらない、と考えたのでしょうか
偶像禁止の背景には神を被造物の像で表すことの禁忌と異教の神の崇拝の排除が
あったのでしょうから、ケルビムはそのどちらにも抵触しないと考えたのかもしれませんね


さて37章は前章の続きで、ここは箱、机、燭台、祭壇などの材料、寸法、装飾についての記述ですね

それにしてもこのような材料を荒れ地で放浪しているイスラエルの民がどのように調達したことに
なっているのでしょうか
もちろん、これはカナンの地に定着して以降の宗教儀礼を放浪時代に神によってモーセに与えられた戒
の形で記述したものなんでしょうが、物語の辻褄としてはどのように説明しようとしたのでしょう
書かれてはいなくても、放浪時代には他民族や隊商との交易があったという設定なのでしょうか

921福音伝道:2024/04/11(木) 06:51:52 ID:BX/SFP8o
>>920
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト38章です。

材料は、物語的には、エジプトを脱出するときに強奪しています。
3:21わたしはこの民にエジプトびとの好意を得させる。
あなたがたは去るときに、むなし手で去ってはならない。
3:22女はみな、その隣の女と、家に宿っている女に、
銀の飾り、金の飾り、また衣服を求めなさい。
そしてこれらを、あなたがたのむすこ、娘に着けさせなさい。
このようにエジプトびとのものを奪い取りなさい」。

ただ燭台ひとつにしても1キカル(34kg)の純金なので、時価4億3千万円の純金製
ですね。

ただとうてい史実として、これらの多量の物資を持って移動したとは
思えないですね。

922atheist:2024/04/12(金) 00:26:27 ID:???
>>921
なるほどたしかにエジプトを出るときにエジプト人の財宝や衣服を強奪してましたね
物語的にはそれが祭壇等の材料に使われたと考えれば、一応筋は通りそうです
もちろんエジプト側にもそういった史実を指し示すような史料はありませんし
そもそも出エジプト自体証拠はありませんから、史実としてはこれらの略奪物が
材料になっていることを傍証するものではありませんね


さて38章は祭壇、庭についての材料や寸法に関する記述のあとに
使われた(捧げられた)金銀青銅の総計が記されています

金は二十九タラント七百三十シケル、銀は百タラント千七百七十五シケル
及び百タラント、青銅は七十タラント二千四百シケルなどなど…

これは大雑把に言えばどれほどの額になるんでしょうか
ちょっと検討もつきませんが

923福音伝道:2024/04/12(金) 05:45:42 ID:BX/SFP8o
>>922
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト39章です。

金は二十九タラント七百三十シケル、銀は百タラント千七百七十五シケル
及び百タラント、青銅は七十タラント二千四百シケル

原文では
金は九と二十キカル、七・百と三十シェケル
キカルは約34kg シェケルは約10グラム 986kg+7.3kg=993.3kg 約1トンですね

銀は3400+17.750=3,417.75kg 3.4トンですね 
青銅は2,380+24.000=2,404kg 2.4トンです。

金銀青銅6800kg÷約60万人=約11g 一人あたりにするとわづかです。

924atheist:2024/04/13(土) 00:56:35 ID:???
>>923
金銀をトンの単位で持ち運ぶというのはとんでもないことですが
60万人(家族などを含めると数百万人)で割ればそれほどでもないですね
まあ60万というのは明らかに誇張ですが、それを言ってしまえば金銀の量も誇張ということになって
しまうので、物語的には一人当たりにすれば常識の範囲内ということでしょうか


さて39章は衣服についての詳細ですが、32節以下はこれまでのまとめになってますね
衣服については前の方の章で同様の内容が出てきたように思います

ともかくも「まとめ」にあるように、民はヤハウェがモーセに命じたことを忠実に成し遂げたわけですね

いよいよ出エジプト記も残り1章です

925福音伝道:2024/04/13(土) 09:28:09 ID:BX/SFP8o
>>924
atheistさん、おはようございます。土日の聖句は出エジプト40章です。

ハーパーの39:1-31の解説は、たったの四行で「祭服の準備」について、
ヘブライ語伝承本文では最後に作られているが、ギリシア語テキストでは
最初に作られているという指摘だけです。
ここを深掘りすると面白いかもです。

32節以下のまとめでは
「主がモーセに命じられたようにおこなった」が、32,42,43節で三度、繰り返されて
いますが、ハーパーは「最後の命令と実行の図式」を補強すると解説していますが
単なる補強なのでしょうか。なぜくどいのか。

物語では、80歳から120歳まで荒野を彷徨ったことになっています。
この聖所建造は、40年の前半だと思われますが、そうすると、この移動聖所が
40年持ったことになりますが、うちの畑で最初、雌竹を支柱にしていました。
15年ほど前ですと10本で1,000円ほどで安くて便利だったからです。エコですし。
ただ長持ちせず5年程度で朽ちていきました。今は鉄パイプをもっぱら支柱と
しています。
アカシヤ材は枕木にされるほどなので丈夫なのでけれども、ぐぐりますと
に庭に枕木を敷く場合の耐久は15-20年だそうです。雨よけをしていれば
40年持つものなのでしょうか。
10年ごとにぐらいに補強や作り替えしていたという設定なのでしょうか

926暇人 A:2024/04/13(土) 15:10:59 ID:LWkIAPkQ
ワシ 宗教団体を立ち上げる事にした 凄く儲かるらしい 日本バカ多いからカネ巻き上げ放題 多額の献金が期待できる
教 団 名    【 吉 川 流  法 茎 経 学 会 】別名 吉川カスユキ チンカス献金教
教  主     教主をネット掲示板で有名な 吉川 和征(ヨシカワ カスユキ・チンカスユキ)とする(カツグミコシハカルクテ クスノチンカスヤローに限る)
教団住所    吉川 和征 尊師 がネット電話帳に載せてる 【 千葉県船橋市旭町2丁目24-1-113 】を教団住所とする
お 題 目    【ヨシカワカスユキ チンカスホーケー ニタリチンカス クサレチンカス ヨシカワカスユキ ダップン ダップンヘドガデルホドムナクソワルスギクソヤロー
         ケンキンケンキンアリガネノコラズサシダセケンキンケンキン ヨシカワカスユキ チンカスホーケー
         シャッキン シャッキン シャッキンシロヨ ソノカネマルゴトコッチニヨコセ アトハハサンハサンジコハサン 
         ヨシカワカスユキ チンカスホーケー ニタリチンカス クサレチンカス ヨシカワカスユキ ダップン ダップンヘドガデルホドムナクソワルスギクソヤロー】
入信しタップリ献金しないと必ず地獄行き ご先祖様も地獄に真っ逆さまでのたうち回る  朝・昼・夕に3回ずつお題目唱えて 尊師吉川カスユキ を崇め 讃え祝福しやれヨ

927atheist:2024/04/14(日) 05:57:40 ID:???
>>925
昨日は仕事じゃなかったんですが出かけてて例によって寝落ちですw

ギリシャ語テキストでは最初というのは七十人訳のことですか?

木材の強度についてはわたしはよく分かりませんが
乾燥地帯だったので、その分持ちも良かったということですかね


さてついに出エジプト記も最終章ですね
ここは元日の幕屋建設について書いてあるようです

ここでも「主が彼に命じられたように行った。」が繰り返されてますね
主の命じた祭式を確実に守れという強調表現なんでしょうかね

出エジプト記の後半は祭儀にまつわる詳細がほとんどで
前半の物語形式とは対照的で、出エジプト物語に
祭儀関連の史料をくっつけたような印象でした
後半はレビ記につながって、前半の物語は民数記につながる、という構成なのかもしれません

928福音伝道:2024/04/14(日) 09:25:30 ID:BX/SFP8o
>>927
atheistさん、おはようございます。お疲れさまでした。1日お休み頂いて
明日の月曜日の聖句はレビ1章です。

2節「あかしの箱」。
ぐぐりますと、wikiに、出エジプト後1年で完成。荒野時代は祭司が担いで移動。
ヨシュア時代以降はシロのの幕屋の至聖所に安置。
BC11C大祭司エリの時代に、ペリシテ人に奪われる。
その後、ペリシテ人に災厄があったので、送り返される。
BC10Cのソロモン王はエルサレム神殿に安置。
BC6Cのバビロン捕囚で行方不明に。

フランシスコ会訳註によると、出エジプトは、バビロンから帰還後、編集となって
います。
すると、えんえんと幕屋や「あかしの箱」について、制作方法を記しているが
「ブツ」が失われている状態で書いているということになります。

なぜ所謂「失われた聖櫃」をこんなに鮮明に記述したのでしょうか。
或る意味、「聖櫃」とその中の「石板」自体を偶像崇拝しているように
見えるのですが、偶像そのものが失われているわけです。

最後は「顕現の雲」が出てきます。
雲、原語でアナン。このアナンが神の臨在の象徴となっています。
現在、このような「雲」がみられることはないです。

さてレビ記は、一般的に律法五書の中心と呼ばれています。
ハーパーによると、出エジプトで、モーセは神の臨在する幕屋を建設し
イスラエルの民が神と共に生活するをことを可能にしました。
そこでレビ記では、これに続けて神の臨在が永続するために、神が民に要求した
「生活と礼拝の仕方」を詳述しているそうです。

フランシスコ会訳註によると、
1.まず8-10章 祭司叙任式を中心として
2.「献げ物の規定」1-7章、「贖罪の日」16章が第一段階
3.更に「律法上の清浄」に関する規定 11-16章
4.最後に「神聖法典」17-26章が追加。
という成立段階を経ていると分析されるそうです

929atheist:2024/04/15(月) 01:51:08 ID:???
>>928
あくまでも聖櫃伝承ということで、聖櫃の詳細は第二神殿時代に祭司たちによって作られたもの
ということではないでしょうか
聖櫃でも石版でも神殿でも、宗教的には崇拝の象徴となるものでしょうから
これほどまでに詳細に記述されたのかもしれませんね

夜の火と昼の雲が放浪時代のヤハウェの印として描かれてますね

明日からはレビ記ですね
レビ記はそれこそ祭司たちがもっとも書きたかった書物なのかもしれません
「生活と礼拝の仕方」を詳述しているということですが
これはまさに俗と聖の両面を祭司たちが統制しようとしていることの現れであるように思います

律法の詳細となると、また砂を噛むような文章が続くように思われますが
以前読んだときにはユダヤ人の考え方の一端に触れられて、意外と面白かった記憶があります

930福音伝道:2024/04/15(月) 06:23:21 ID:BX/SFP8o
>>929
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記1章です。

出エジプト39章では
金 約1トン 銀は3.4トン 青銅かー2.4トンですが
wikiによると、エズラ2:69によると「神の宮」再建のために、つまり第二神殿再建時に
すなわち、その力に従って工事のために倉に納めたものは、
金六万一千ダリク、銀五千ミナ、祭司の衣服百かさねであった。
とあります。
ざっと 金518.5kg 銀2.875トンと、祭服100着です。
移動時の祭壇の半分の量の金と、80%の銀で、再建したことになりますが
第二神殿時代に祭司たちが、古への聖櫃について在りし日の栄光を美化し
て書いたのかもですね

931atheist:2024/04/16(火) 02:03:52 ID:???
>>930
第二神殿時代は捕囚からの解放後の民族国家再建の時代ですから
端的に金がなかったとは言えるかもしれませんが、それでも荒野放浪時よりも
安定していたでしょうから、やはり古の聖櫃に願望を投影していたのかもしれませんね


さて今日からはレビ記です
まずは第1章ですが、ここは家畜の供え物について書かれてますね

牛も羊も古代イスラエル人にとっては重要な家畜だったのでしょうから
これを供え物にするのはごく自然なことだと思います

だとは思いますが、それを焼いて香ばしい香りをヤハウェに捧げる、というのは
いったいどういった発想なのでしょうか?

この当時はまだヤハウェは霊的実体としてイメージされるよりも
より具体的な物理的実体を持った神と考えられていたということでしょうか

932福音伝道:2024/04/16(火) 06:08:20 ID:BX/SFP8o
>>931
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記2章です。

フランシスコ会訳注によると、3-9節はモーセ時代に由来し、
10-13節は更に古く、原始的な焼き尽くす儀式が反映されているそうです。
14節の鳥は、更に後代に付加されたそうです。

祭壇の上では、火を絶やしてはいけないと後に規定されますが、本章7節では
まだ、その規定がないのと、また、祭司であるレビ人が犠牲を切り分けると
規定されますが、ここでは、奉献者自身が犠牲獣を屠り、皮を剥ぎ、切り分けて
いますので。

口語訳9節 これは火祭であって、主にささげる香ばしいかおりである。
聖書協会共同訳 これは焼き尽くすいけにえである。
すなわち、主への火による献げ物、宥めの香りである。
新改訳2017 これは全焼のささげ物、主への食物のささげ物、芳ばしい香りである。
原文 オラー イシュー レアーハ 二ホアハ ヤハウェへの

オラー・・・原意は「上る」で、「焼き尽くす捧げもの」の意味。煙が上るから。
イシュー・・・意味不明語。「火(エシュ)」との類似から「火によるささげもの」
      「火祭」「火納物」と訳される。新改訳はウリガット語「レヘム(パン)イシュー」
      の短縮形と類推して「贈り物」と解釈した上で「食物の献げ物」と
レアーハ・・・香りの 
二ホアハ ・・・芳香の
直訳 焼き尽くす捧げもの、ヤハウェへの芳香の香りのイシュー。
と、意味不明な訳となります。

ちなみに、古いとされる13節では
オラー フー イシュー レアーハ 二ホアハ ヤハウェへの
フー・・・「それは」という代名詞がある。9節には「フー」はないが、
  各訳は「これが」を補って訳している。

ハーパーによると、1-2節でモーセが幕屋を建設した出エジプト40章を受けて
モーセに対してヤハウェが幕屋に臨在し、作法を教えはじめる。

古代において「献げ物」は共通現象で、最初は「神への食物供給」の必要性を
認識したことが起源だそうです。
この見方は21:8彼はあなたの神の食物をささげる者だからである
にあるが、一方で詩編50:7-15では非難されます。
その上で古代イスラエルでは、献げ物は、神によって創造された秩序を維持、復興
するための一手段として理解されたそうです。
神と接触し親交を結ぶ手段だったそうです。罪を犯したとき、香りを上らせて
神の怒りを宥めて、関係を正常化しようとしたわけですね。

ハーパーは「オーラ―」を解説して「(煙になって)上っていくもの」とし、
祭壇の上で完全に焼き尽くされるが、皮は祭司に与えられたと解説しています。
皮を焼くのが面倒だったと説明されていますが、私は皮を祭司がゲットしたと聞いて
納得しました。
煙にするということは、神を霊と考えていたからではないかと私は思います。

933atheist:2024/04/17(水) 00:07:05 ID:???
>>932
けっこう細かいところで時代推定ができるんですね

捧げ物は、もともとは「神への食物供給」だったものが神との接触・親交の手段となっていった
という感じでしょうか
「香ばしい香り」の部分はどちらかというと香りそのものよりも
「(煙になって)上っていくもの」のほうに重点があるようですね
肉を煙に変えるわけですから物質的な食物供給から、目に見えない霊的な存在への
捧げ物という観念へ変わっていった、と考えることができるということですね


さて2章は麦粉の供え物ということで、1章が牧畜の成果だったのに対し
2章は農耕の成果の供え物についての規定という感じでしょうか

ここでも出エジプト記同様、「種入れぬ」ものでなければならないとされていますね
やはり獣肉と同じように火で焼くことになっているようです

しばらくは祭儀に関する規定が続きそうです

934福音伝道:2024/04/17(水) 07:01:08 ID:BX/SFP8o
>>933
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記3章です。

前章ではオーラ―(上る)という全焼して香りを上らせる献物コルバンでしたが
今回はミンハー(献物)という意味で、「穀物の献物」でも「犠牲獣の献物」の場合も
ありますが、コルバン ミンハーで、口語訳は「素祭の供え物」と訳しています。
聖書協会共同訳「穀物の供え物」新改訳2017「穀物のささげ物」です。
直訳だと「献物の供え物」です。

口語訳 その供え物は麦粉でなければならない
聖書協会共同訳 その献げ物は上質の小麦粉でなければならない。
新改訳2017 そのささげ物は小麦粉でなければならない。
原文直訳 ソレットであるように。

「なければならない」という義務・必要ではなく、原文は「であるように」と
少し柔らかいです。
またソレットとは全粒粉ではなくて、表皮と胚芽を除いた小麦粉のことで
古代イスラエルにあっては手間がかかる高級小麦粉でしたが、現代日本では
ごく普通の色の白い小麦粉ですね。現代では黄色の全粒粉の方が、食物繊維や
マグネシウム、鉄分、亜鉛というミネラルが豊富で高級感があります。

2節 記念の分として 原語アズカラタハ フランシスコ会訳註によると、意味不明語です。
「想起する」という単語との関連で記念とか、覚えの分としてなどと訳されるそうです。

ハーパーによると「発酵」は、「腐敗」と通じ、死を想起させたので、聖なるものから
排除されたそうです。まあ確かに物理現象としての「発酵」と「腐敗」は同一現象です。
人間に有用な場合が区別されて「発酵」とされているだけですものね。

あと塩、フランシスコ会訳註は、防腐の機能から浄化や保存機能があるとされ
会食に用いられる塩は友情のしるし、民18:19では神とイスラエルの契約を
「塩の契約」と呼んでいると解説しています。

935atheist:2024/04/18(木) 01:21:22 ID:???
>>934
「〜でなければならない」という言い方と「〜であるように」という言い方では
内容的には同じでも、ずいぶんと印象が違ってきますね
前者では厳格な神のイメージがありますが、後者ではもっと近しい存在のように感じられます

古代においても表皮や胚芽を取り除いた穀物があったんですね
日本でいうと白米のようなものでしょうか
栄養より見た目や味に拘った高級食材だったわけですね

酒類も含めれば、古来より人間は発酵食品を飲食してきましたから
むしろ発酵が腐敗に通じて死を想起させるという理由で「種無し」パンが聖なるものとされた
というのにはちょっと意外な感じを受けました

日本でも清めのときに塩を使ったりしますから
これもまた元来の防腐機能に由来してるのかもしれませんね


さて3章は酬恩祭というのが出てきます
今までも燔祭だの火祭だのということばが出てきてますが
こう書かれても、だいたいどれも牛やら羊やらを火で焼いてね?という感じで
なかなか区別がつきません

こういった「〜祭」というのは簡単に言うと、どんな分類になっているのでしょうか?

936福音伝道:2024/04/18(木) 06:38:37 ID:BX/SFP8o
>>935
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記4章です。

ぐぐりますとwikiが「まつり」について、古来日本では
・祭り…命・魂・霊・御霊(みたま)を慰めるもの(慰霊)
・祀り…神・尊(みこと)に祈ること、またはその儀式を指す
・政り…政治のことを政(まつりごと)とも呼んだ
・奉り…その起源は、自然崇拝である古神道にまで遡り、日本神話の海幸彦と山幸彦
にあるように釣針(古くは銛も釣針も一つの概念であった)や弓矢は、幸(さち)と
いい神に供物(海の幸山の幸)を「奉げる」神聖な漁り(いさり)・狩り(かり)の
得物(えもの・道具や神聖な武器)であった。古くから漁師や猟師は、獲物(えもの)
を獲る(える)と神々の取り分として、大地や海にその収穫の一部を還した。
このような行いは、漁師や猟師だけに限らず、その他の農林水産に係わる生業(なり
わい)から、現在の醸造や酒造など職業としての神事や、各地域の「おまつり」にも
あり、地鎮祭や上棟式でも御神酒(おみき)や御米(おこめ)が大地に還される。

レビ記口語訳の燔祭、火祭、素祭、酬恩祭も上記の区分で言うと「奉り」に
属するのではないかと思われますが、宗教的儀式という意味で「祭」が付与
されて訳されたのかもですね。

燔祭、オーラ― 原意は「上る」です。「焼き尽くして煙を上らせる」
火祭、イシュー 意味不明語 「火(エシュ)」による捧げもの 「食物の献げ物」の二説
素祭、ミンハー 献物という意味だが、「穀物の献げ物」と解釈されている
酬恩祭シェラミーム これはシャローム(平和)と同族の語で「和解」という意味

すべての共通点は、火で燃やされることにあります。
オーラ―は、皮だけが祭司の取り分で、他はすべて燃やされるので「全焼」と訳され
イシューは意味不明語ながら「火」と関連づけられたり、「食物」と解されたりします
ミンハーは、そもそもは、ただの供物ですが、カインは農作物をミンハーにし、
  アベルは犠牲獣をミンハーにしましたが、レビのここでは穀物の供物で焼かれます
シェラミームは神との和解のために「脂肪と内臓」だけが焼かれ、肉と皮は祭司の
取り分を取りわけた後、奉献者に返され、奉献者は家族親族友人と聖なる宴をして
食べたそうです。時にはこの宴にレビ人、寡婦、孤児、貧者が招かれたそうです。

フランシスコ会訳註によると、シェラミームは、ギリシア語訳では「救い」と訳され
ラテン語訳では「平和的」と訳されている。原語は「終了」または「達成」の意味が
あり、箴言7:14,民6:14では誓願達成のための奉献の意味で用いられているとのこと。
フランシスコ会訳註は「和解の献げ物」と訳しています。
ハーパーは、「安寧の献げ物」(ゼバハ・シェラミーム)は、
焼き尽くす献げ物や穀物の献げ物と別の第三番目の献げ物であるとしたうえで
新共同訳の「和解の献げ物」とシェラミームの理解が異なると断じ、そもそもは
祝祭の食事において、献呈者によって食されたものであったとしています。
「平和の献げ物」「親交の献げ物」「酬恩祭の犠牲」「共同の献げ物」と多用に
訳されるが、性質と働きを考察すべきと論じ、この献げ物は本来、満願のためとか
特定の意志を持たない自由意思の献げ物として神への感謝を表して捧げられた。
かつてのイスラエルでは動物の屠りがすべて献げ物とみなされていた可能性があり
それゆえ、屠りはすべて聖所内で行われたのだから、食料のための屠りがすべて
安寧の献げ物の範疇に入るものであったのであろう。とのこと。

937atheist:2024/04/19(金) 02:00:13 ID:???
>>936
なるほど、日本でも古代ユダヤでも「神々の取り分として、大地や海にその収穫の一部を還」すことが
こういった捧げ物の基底にあるようですね
自然の恵みは神(々)からの恵み、といった観念がこのような捧げ物につながっていったんでしょうね

火祭が意味不明ですが、燔祭は肉を全焼させて煙を上らせることが重要、
素祭は少なくともレビ記では穀物の捧げ物
酬恩祭は神との和解が主眼で、その方途として脂肪と内臓のみを焼くもの(ハーパーの理解は違うようですが)、
といった区別ですね


さて4章は罪祭についてですね

罪祭は記述内容から和解が主眼であった酬恩祭に近いもののようですが
役割ははっきりと「罪の贖い」であることが記されています

この罪祭がキリスト教にまで通じる贖罪の基本形であったように思われます
罪を犯した本人の代理贖罪として、ここでは仔牛や雄山羊などが屠られます
キリスト教では十字架で「屠られた」イエスをこの罪祭の最終かつ最高の形態として
解釈しているように思われます

938福音伝道:2024/04/19(金) 06:47:22 ID:BX/SFP8o
>>937
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記5章です。

罪祭の原語は、ハッタートですが、「罪」という意味です。
3節直訳
もし油注がれた司祭が罪を犯したために、民の責めになった場合、
そして彼は、彼が罪を犯した(ハタ―)ところのその罪(ハタトー)の故に、
完全な牛の子の若い牡牛を、ヤハウェへの罪(ハッタート)として近づける。

近づけると言う語は、神へ近づける すなわち「捧げる」と訳されます。

「罪」の意味しかありませんが「罪祭」だの「贖罪のささげもの」だのと訳され
ています。

論理構造としては、司祭が自分の犯した罪で、民に迷惑をかけたら、
民に謝罪するのではなくて、なぜかヤハウェに罪を犯したことになり、
つまり罪の対象がすり替わり、犠牲獣をヤハウェに捧げたら赦される
となるようです。
マフィアが人を機関銃で撃ち殺し、教会で贖罪して贖うという映画を
思い起こさせます。

ハーパーは、まず宗教的最高指導者である大司祭の罪について言及されると指摘する。
大司祭の不注意は罪を全会衆に及ぼす。大司祭の罪は不浄のうちの際たるもので
罪が聖所の神聖な場所へと浸透すると考えられたそうで、不浄を清める血の儀式が
狭義の聖所の内側で行われ、至聖所の垂れ幕に七度血が撒かれたとのこと。
この血が聖所内で祭壇を汚していた不浄なものを吸収して浄化した。とのこと。

現代人がアルコール消毒するのと似た感覚だったのかもです

939atheist:2024/04/20(土) 02:22:07 ID:???
>>938
そう言えば英語ではsin offeringとか言ってたような

単純化して言えば、罪を犯せば、それはすなわち神への罪とみなされたという感じですかね
だからヤハウェに贖罪の犠牲獣を捧げて赦してもらう、と

大祭司といえばユダヤ教徒にとっては神の神聖性を維持する最も重要な役職なんでしょうから
その大祭司が罪を犯せば聖所内が罪で穢れると考えたのかもしれませんね
で、血で「消毒」しよう、と


さて5章は諸々の罪について語られていますが
特徴的なのは「それに気づかなくても」とある部分です

これは近代的な法体系で言えば過失に当たるものでしょうが
ここでは気づいていようがいまいが同じ扱いを受けるようですね

あと後半で新しい愆祭というのが出てきました
そもそも漢字が読めませんw
これは罪祭とは異なるのでしょうか?

940福音伝道:2024/04/20(土) 13:00:51 ID:BX/SFP8o
>>939
atheistさん、こんにちは。本日と明日の聖句はレビ記6章です。

そのことに気づかなくても の原文は「そしてそれが見えなくなる」です
仰せの通り、過失のことで、訳としては「気づかずに」という意味なのですが
フランシスコ会訳註は「そのことがその人の目から隠されていても」と安易に意訳せず
より正確に訳しています。

愆祭…けんさい 変換候補で出て来んですw 愆(あやま)つ、という単語だそうです。
原語はアシャム。フランシスコ会訳註によると「咎または責任を負う」の意。
本章では、「聖なるもの」または、隣人の所有物に及ぼした損害に対する
「賠償の献げ物」を指す特殊用語として使用される、とのこと。

20%上乗せして賠償したということのようで、
最近では「賠償の献げ物」系で訳されています。
聖書協会共同訳「償いのいけにえ」新改訳2017「代償のささげ物」
新改訳2017「罪過のためのいけにえ」を新共同訳は「賠償の献げ物」

941atheist:2024/04/21(日) 01:16:06 ID:???
>>940
ちょっと違うかもしれませんが、先生の説明を読んで、たとえ人が見ていなくても
神は見ているという考えが根底にあるのかもしれないと思いました

愆祭は「けんさい」と読むんですね
こんな漢字、たぶん生まれて初めて見ましたw
「あやまつ」ということは、あやまちに対する咎または責任を負うということで
やはり罪祭あるいは罪に近いものっぽいですね
単に「聖なるものや隣人の所有物に対する損害」に意味範囲が限定されている
という感じでしょうか


さて6章は前半は愆祭の続きですが、そのあとは燔祭、素祭、罪祭のおきてについて書いてありますね

それにしてもやはり細かく書かれています
21節の「それは油をよく混ぜて平鍋で焼き」などは使用する鍋まで指定していますw

もうちょっと身近な律法については、もっと後の方で出てくるのでしょうか

942福音伝道:2024/04/21(日) 09:02:49 ID:BX/SFP8o
>>941
atheistさん、おはようございます。明日の月曜日の聖句はレビ記7章です。

21節の「それは油をよく混ぜて平鍋で焼き、それを携えてきて」
原文直訳「平鍋の上に油で、それは作られる、よく混ぜて、あなたそれを持ってくる」
聖書協会共同訳「すなわち、油をひいた平鍋で、良くこね、調理して持って行き」
新改訳2017「それを油でよくこねて平鍋の上で作り、粉々にして焼いた穀物の
ささげ物として携えて行き、主への芳ばしい香りとして献げる。」

たぶん、新改訳の訳しているように、平鍋で、まず油を混ぜて練る。
それを更に焼いて、粉々にして「献げ物」として聖所に持参し燃やす
という手順のようだが、口語訳だと油を混ぜて平鍋でこねるということが
伝わらない。原文にこねるはなく「作る」の意訳ではあるが。
口語訳だと、油で焼くというニュアンスしか伝わらいように思う。
最近の訳はだから「こねる」と訳している

身近な律法はあまりないですね。しいて申せば19章あたりでしょうか。
まあ古代イスラエルの戒めですので

943atheist:2024/04/22(月) 00:45:45 ID:???
>>942
たしかに口語訳だと単に油を混ぜてから焼く、という意味になっちゃいますね
原文の調理の過程が違ってきてしまいます

19章あたりですか…
先は長そうですw

944福音伝道:2024/04/22(月) 05:32:02 ID:BX/SFP8o
>>943
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記7章です。

フランシスコ会訳の小見出しです
7章は、特になく、6章 祭司の守るべき献げ物の規定 の続きです
8章-10章 第二部 アロンとその子らの祭司叙任式
8章 準備 塗油の儀 献げ物の儀 
9章 アロンの初祭儀 
10章 ナダブとアビブの罪と死 祭司に課せられた禁令 会食と祭司の取り分
    贖罪の献げ物の事件
11-16章 第三部 律法上の清浄
11章 一、清い動物と清くない動物 死骸による汚れ 昆虫と爬虫類 結び
12章 二、出産に伴う穢れ
13章 三、皮膚病 四、衣服のかび
14章 五、思い皮膚病患者の清め 六、家屋のかび 結び
15章 七、露出による汚れ 結び
16章 八、贖罪の日 補足・贖罪の日の断食と安息 結び
17-26章 第四部 神聖法典
17章 奉献の場所 血についての禁令 
18章 禁じられた性関係
19章 日常生活の倫理
20章 刑罰 21章 祭司の聖性 22章 奉献の聖性 23章 祝祭歴
24章 幕屋の調度 冒涜に対する罰 25章 安息の年 ヨベルの年
26章 神聖法典の根本原理 従順に対する祝福 違反に対する呪い
   イスラエル民族再興の保証 結び
27章 補遺 奉献物の買い戻し 買戻しの特別条例

945atheist:2024/04/23(火) 00:37:51 ID:???
>>944
小見出し、ありがとうございます

11章くらいからはダイレクトにユダヤ教の清浄観が語られているようなので
そこまでの我慢ですねw

さて7章は37節に「燔祭、素祭、罪祭、愆祭、任職祭、酬恩祭の犠牲のおきて」と書かれているように
各供え物の犠牲に関する詳細になってますね

それにしても23節で脂肪を食べてはならない、と言われているのは
どういう理由なんでしょうか?
血は命を表すのでなんとなく分かりますが、
脂肪はどうして食べてはいけないことになってるんでしょうか

946福音伝道:2024/04/23(火) 06:12:05 ID:BX/SFP8o
>>945
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記8章です。

脂肪を食べてはいけないのは
3:16脂肪はみな主に帰すべきものである。
と規定されているように、古代イスラエルにあって最上のものである脂肪は
ヤハウェのものとして焼かれたからです。

とはいえ、実際は
フランシスコ会訳註では、肉についている脂肪や、奉献用ではない脂肪は食べたそうです。
ハーパーでは、いかなる動物の脂肪も食べることを禁じられたが、通常の動物の脂肪と
鳥の脂肪は食べてよかったとあります。また死んだ動物の脂肪は石鹸づくりに利用された
そうです。

漫画的にイメージ化しますと、ヤハウェに捧げる犠牲獣のうち、脂肪は
良く燃えますので、最上のものとして、炎があがるさまを、ヤハウェが
舐めまわしているとみて、奉献者たちは喜んだようです。
それで脂肪はヤハウェのものだから、食べては駄目 食べたら一族から絶つ
からね。と怖い禁止となったようです。
でも、それはあくまで奉献した犠牲獣の脂肪ですので、自分たちで食べる分の動物の
脂肪は食べたみたいです。

聖書協会共同訳9:24
主の前から炎が出て、祭壇にある焼き尽くすいけにえと脂肪をなめ尽くした。
これを見て、民は喜びの叫びを上げ、ひれ伏した。

947atheist:2024/04/24(水) 00:02:50 ID:???
>>946
なるほど、脂肪はよく燃えるので炎が上がる様を見てヤハウェがそれを食していると考え
ヤハウェへの供え物として最上と認識してきたため、犠牲獣の脂肪は民には禁止されたんですね
その他の脂肪であれば実際は民も利用したり食べたりしてきたってわけですね


さて8章はアロンとその子たちの聖別について書いてある章ですね

祭司の聖別についてはこれまでも何度か書かれていましたが
殊更強調されているところを見ると、やはりレビ記は祭司職の手になる書であり
祭司職(レビ族)の権威を一般の民とは区別し強調する意図が記述の動機としてあるように感じられます

のちに政治的権威となっていくユダ族(ダビデの家系)とレビ族との関係は
どのようなものだったのでしょうか
それぞれ政治的権威と宗教的権威が分権的に機能していたのか
相互補完の関係にあったのか、敵対的関係にあったのか…
時代によっても異なるでしょうが、基本線としてはどのような関係にあったのか気になります

948福音伝道:2024/04/24(水) 06:25:30 ID:BX/SFP8o
>>947
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記9章です。

モーセと、アロンとその子らの関係は、モーセの祭司的補助をアロンとその子らが
しましたが、ダビデ時代では、アロンの子孫らは、祭司という特別職のままでしたが
ダビデは新しい賛美スタイルを確立し、モーセの幕屋をキブオンに置いたのですが
そこにはダビデ自身は参らず、シオンにダビデの幕屋を新設しました。
そして犠牲獣の屠りは従来通りささげたものの、精神的な賛美を新たに導入し、
精神的な賛美である「音楽奉納」のリーダーをアロンの子孫以外のレビ族から
選び、ギブオンのモーセの幕屋にはケハテ族ヘマンとメラリ族エタンを派遣し
ダビデの幕屋にはゲルション族のアサフに担当させました。

息子のソロモンの時代には、この二つの幕屋が統合されてソロモン神殿となります
そして音楽奉納は継続されました。もちろん、レビ族が担当しています。

この意味でダビデ、ソロモン代には相互補完関係であったように思います。

949atheist:2024/04/25(木) 01:01:49 ID:???
>>948
そうするとダビデは音楽奉納という新たな賛美スタイルを導入して
アロンの子孫以外のレビ族にそれを任せたものの
アロンを含むレビ族とは対立関係にあったのではなく
相互補完的に祭儀を発展させた、という感じになるんですね
政治と宗教が互いに支え合う関係、といったところでしょうか


さて9章は全焼の続きで、アロンたちによる捧げ物の詳細ですね
例によって〜祭と名付けられた各種捧げ物をアロンたちが行う様子が描かれています
最終的には24節にあるようにヤハウェがこれら捧げ物に火でもって応える形で終わっています
この「主の前から火が出て、祭壇の上の燔祭と脂肪とを焼きつくした」というところが
前に説明していただいた脂肪の重要性を表してますね

前に示していただいた小見出しだと、明日が祭儀系の最終章っぽいですね
ようやく儀式から解放されますw

950福音伝道:2024/04/25(木) 06:08:14 ID:BX/SFP8o
>>949
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記10章です。

8:35あなたがたは会見の幕屋の入口に七日の間、日夜とどまり、
9:1八日目になって、

俗から聖別されて、聖となるための期間が、つまり任職祭が七日間もあったことに
驚かされます。注ぎ油と祭壇の上の血で聖別されても、ただちにOKではなく
移行準備期間として七日もかかったのです。そうしてはじめて祭司として
神の領域に奉仕できるようになったわけですね

9:24原文直訳
そしてヤハウェの面前から火が出た。
そして祭壇の上で全焼の献げ物と脂肪とを食べた。
そしてすべての民は見た。
そして彼らは叫んだ。
そして彼らは彼らの顔の上に倒れた。(ひれ伏した、との意味)

原文では、燃えるさまを見て、ヤハウェが食べたとイメージしている情景が
浮かびます。
しかも興奮して叫び、そしてひれ伏しているわけで
炎と煙を見て感動的しているのです

951atheist:2024/04/26(金) 02:42:31 ID:???
>>950
さらっと流してましたが、たしかに聖別に7日間必要というのは
それだけ聖別がたいへんなことだということですね

原文だとはっきり「食べた」と言ってるんですね
かなりリアルなイメージです
逆に火が燃え盛ったり雷が轟いたりする様を見聞きして
古代の人はリアルに神を感じたのでしょうね


さて10章はアロンの子ナダブとアビフがヤハウェお命令を守らなかったことで
焼き滅ぼされたという話です

ヤハウェの聖性と絶対性を強調する話として語られているのでしょうが
なにも殺すことはあるまいに、と思ってしまいますw
火を扱っていますから、おそらくはこういった事故が実際にあって
それにこのような教訓話を添えたのだと思います

16節以下のモーセとアロンの会話がよく分かりません
モーセはエレアザルとイタマルが命令どおりにしなかったことに怒っていますが
アロンの言を聞いて、良しとしています
これはどうしてでしょうか?

952福音伝道:2024/04/26(金) 06:07:32 ID:BX/SFP8o
>>951
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記11章です。

異火 原文は「他の火を」 彼が命じなかったところの他の火が何を指すか不明と
フランシスコ会訳註。執行時間が違ったとか、方法が違ったとかいろいろ推論され
ているとか。いずれにせよ、規定に反した火であったため、原文では
そしてヤハウェの前面から火が出た
そして彼らを食べた
そしてヤハウェの前面に彼らは死んだ。
この感じから受ける印象は、推察通り「火の事故」があった感じですね

「あなたがたは髪の毛を乱し、また衣服を裂いてはならない。」
普通に読めば、ここは悲しみの表現であるが
「あなたがたの上に主の注ぎ油があるからである」
と、結び付けて想像すると、祭司は聖性のために油を注がれ、長い服を着て
髪もあった上で、祭壇で火を扱っていたとすれば、燃えやすかったという
条件が揃ってますね。

10:16以下をフランシスコ会訳註もハーパーも福音派も解説していないので
私の感想を書いておきます。
まず、フランシスコ会訳註は、アロンのミスだが、アロンの子に対してモーセが
怒ったのはアロンの顔をつぶさないためとだけ解説しています。
司祭らが食べることで、会衆の罪を贖うための犠牲獣を焼いてしまっていたの
ですから、モーセが怒ってしかるべきなのですが、アロンは、今日、異火を
使ってヤハウェを怒らしたわれわれ祭司が食べていたら、ヤハウェは果たして
喜ばれただろうかとモーセに答えます。そこでモーセは、あっ食べずに燃やした
ほうがましかと納得したのかもですね

953暇人 A:2024/04/26(金) 09:57:10 ID:???
https://talk.jp/boards/psy/1713677840/714
714 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2024/04/26(金) 09:52:09.76 ID:OROAS [2/3] 0
ほーかいくん〜の
最大の天敵の
福音伝道があらわれた〜〜〜
福音伝道の獅子奮迅のレスが楽しみだ〜〜

954atheist:2024/04/27(土) 02:58:03 ID:???
>>952
わたしは「異火」と書いてあるところから、単に命じられていない火を使って
それがヤハウェの逆鱗に触れた、と解釈していました
なんにせよ、相当厳しい処分ですね

「あなたがたは髪の毛を乱し、また衣服を裂いてはならない。」というのは
ヘブライ語聖書でよく出てくる悲嘆の表現ですよね
わたしはナダブとアビフが死んだことを同じ祭司は悼んではいけないと言っているのかと思いました

なるほどモーセが納得した理由は、アロンの「一度ヤハウェを怒らせてしまったのだから
そのまま何もなかったように祭司が食べていたらヤハウェは快く思わないだろう」という主張に
納得したと考えられる、ってことですね
これだと筋が通ってそうです


さて11章は食物規定ですね
食べていいものといけないものを細かく指示しています

一貫して出てくる死体に対する忌避は通常感覚でもよく分かるのですが
ひずめと反芻に拘っているのはなぜでしょうか?

また虫やトカゲ類などを食べてはいけないというのも感覚的には理解できますが
鳥類の区分けはどうなっているんでしょう?
たしかに挙げられた鳥は普通あまり食べないなというものが多いように思います
単にまずいということでしょうか?
ちなみに鳥類になぜかこうもりまで入っていますw

955福音伝道:2024/04/27(土) 14:57:48 ID:BX/SFP8o
>>954
atheistさん、こんにちは。土曜と日曜の聖句はレビ記12章です。

ハーパーによると、祭司制度が世界を三分したそうです
1.コーデシュ(神聖)
2.タホル(標準)
3.ターメー(異常)
神聖と異常の領域には、様々な度合いがあり、最高に神聖な聖所の最奥が、
力の頂点だったそうです。
異常の領域は神からかけ離れた「死と混沌と不規則」な領域で
人々は各領域間の境界を前進したり後退したりしていたそうです。
ターメーとされたものと接触すると、通常住んでいるタホルの境界の外へと
追いやられることになり、タホルに連れ戻すためには一定期間と儀式が必要に
なったそうです。また一般人はタホルからコーデシュにも行けたそうです。

なぜ、「ひずめ」と「反芻」にこだわったのは不明ですが、フランシスコ会訳註は、
豚などは異教徒が用いたので、反発されて禁止されたのではと推測していますし、
岩狸とうさぎは反芻にしないので誤認と指摘した上で、頭を動かして食べるので
反芻と思ったのだろうと推定しています。
福音派は語義から「原文直訳 食べ戻しをあげるもの」の「あげるもの」から
テキトーなことを主張しています、
また「原文直訳 ひづめを割るもの」についてもテキトーで強引な解釈をしています

鳥の区分について、フランシスコ会訳註は、
廃墟に住むものや、死肉を食べる鳥が禁忌とされたとした上で、
挙げられている鳥名は不明なものもあると指摘しています。

ちなみに、11章の規定をキリスト教は廃棄したそうです。
ユダヤ教の一部は守っているそうです

956atheist:2024/04/28(日) 02:33:07 ID:???
>>955
三分は聖・俗・穢れ、といった感じでしょうかね

蹄と反芻については、よく分かっていないのですね
一応異教で用いられる動物を忌避するところからはじまって
のちに総体的に分類する際に、理由付けとして蹄と反芻を理由として用いたのかもしれませんね

鳥については廃墟に住まうものや死肉を食べるものということで
こちらは納得しやすいです

キリスト教は基本的に食事規定ってないですからね
これは福音書の中の「口から入るものが人を汚すのではない」というイエスの言が
根拠になっているんでしょうか?


さて12章は出産にまつわるおきてです

出産に際して母子ともに清めの期間が置かれるのは分かりますが
なぜか女の子の出産は男の子の出産の倍の清め期間が必要になっています
これはどうしてでしょうか?

957福音伝道:2024/04/28(日) 08:41:23 ID:BX/SFP8o
>>956
atheistさん、おはようございます。今日はお休みで明日の聖句はレビ記13章です。

キリスト教にユダヤ教のような食事規定がない理由をAIのCopilotに尋ねましたら、
宗教的背景:
ユダヤ教は旧約聖書に基づいて食事の制約を明確に定めています。これに対して、
キリスト教は新約聖書を中心に信仰されており、食事に関する規定は比較的緩やかです。
イエス・キリストは、律法を完全に守ることよりも、愛と慈悲を重視しました。そのため、食事規定に厳格な制約を課す必要性は低くなりました。
新約聖書の教え:
新約聖書では、イエスが「何でも食べてよい」と宣言したことが記されています(マルコによる福音書7:18-23)。
イエスは、食べ物そのものよりも、人々の心の清浄さを重視しました。
異文化との接触:
キリスト教はユダヤ教から発展した宗教であり、異なる文化や民族との接触が
増えました。これにより、食事規定を柔軟に適用する必要が生じました。
使徒会議の決定:
使徒会議(紀元50年ごろ)において、ユダヤ教からキリスト教への改宗者に対して、
ユダヤ教の食事規定を厳格に守る必要はないとの判断が下されました(使徒行伝15:28-29)。
この決定により、キリスト教徒はユダヤ教の食事規定を必ずしも守る必要はなくなりました。

マルコ7:19それは人の心の中にはいるのではなく、腹の中にはいり、
そして、外に出て行くだけである」。
イエスはこのように、どんな食物でもきよいものとされた。
使徒15:28すなわち、聖霊とわたしたちとは、次の必要事項のほかは、
どんな負担をも、あなたがたに負わせないことに決めた。
15:29それは、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、
避けるということである。これらのものから遠ざかっておれば、それでよろしい。
以上」。

マルコは説得力ありますね。「どんな食物でもきよい」と仰せですので。

ハーパー曰く、出産は母親の日常生活からの脱退の時と、三段階の再入過程によって
特徴づけられているそうです。一つの過渡期だそうです。
1.7日間の汚れの期間(男児の場合、女児は倍)…家庭と家族からの隔離
2.8日目に儀礼的な入浴と割礼…通常の家庭生活を回復するも、宗教儀式は除外
3.33日間隔離(男児の場合、女児は倍)を経て、宗教儀式に参加可能

女児出産の場合、期間が倍なのは、ハーパーの推測では、
女児を生むことで、将来、母親がまた血によって穢れる子供を持つからであろう
とのこと。ただし、原文では期間完了後、「罪が赦される」とはなく、
「清くなる」とあることから、罪とは考えてられていないことを強調しています

7日間、隔離されて、ゆっくり休み、
33日間、公的行事を免除されて家庭でゆっくりできたと
考えていると休養ボーナスだったかもです。女児の場合はボーナスが倍。

958atheist:2024/04/29(月) 02:44:07 ID:???
>>957
生成AIの回答は一般的に言われていることを総覧的に要約するのに優れてますね
人間の場合はなかなかすぐに総覧的な知識は出てこないので、こういうときには便利ですね

マルコ7:19のイエスの言も、考えてみればこれまでのユダヤ教の律法(この場合は食事規定)に対して
完全に否を突きつけていることになるので、かなり革命的なことだったと思います
それに対し使徒15:28で書かれている使徒たちの決定はユダヤ教の伝統を重視する派閥と
異教からの改宗者の間をうまく取り持つように配慮された妥協案で、イエスの過激さを薄めているようです

女児出産が男児の場合に比べて倍になっているのは
その女児が将来また子を生むことになるのを勘案している、ということですね
さすがに出産が「罪」とは言えず、単に穢れと清めという枠で考えられているわけですね

たしかに清めの期間は休養ボーナスと言えそうですw
そうすると女児の場合のほうがかえってお得ということになりそうですw

959福音伝道:2024/04/29(月) 08:37:03 ID:BX/SFP8o
>>958
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記13章です。

生成AIの回答は、間違っている場合もありますが、なかなかのものですね。

女性は産褥のために、社会から排除されたとも見えますが
古代にあって、休養期間とみると、また違った側面が浮かび上がるかもです。
殊に出産は母体にいのちの危険が伴う大行事です。釈尊の母親も産後に亡くなって
います。古代にあっては「命懸け」であったろうと思われます。
ただ一般的に女児より男児のほうが身体が弱く手がかかったはずなのですが
女児が倍になっているのは宗教的な意味付けで、合理的ではなかったのかもです。

960atheist:2024/04/30(火) 02:48:41 ID:???
>>959
特に古代では衛生環境がそれほど整っているわけではなかったでしょうから
産後は母子ともに感染症などの危険にさらされることがありますよね
そういったことも含めて、母子を守るという側面もあったのでしょうね


さて13章は皮膚病についてです

これまた事細かに皮膚病について書いてありますが
診断は祭司に任されています
古代ユダヤ社会では、現代で言う医者はいなかったのでしょうか?
それとも皮膚病の場合はなにかしらの罪の結果というような観念があって
祭司にその判断を任されたのでしょうか?

書いてある内容の詳細さから言って、コミュニティに感染を拡大するおそれがある皮膚病を
隔離して抑止する意図が伺えるので、ここでの祭司は医者の代替であったように感じられます

961福音伝道:2024/04/30(火) 06:18:55 ID:BX/SFP8o
>>960
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記14章です。

13:2原文直訳
アダム(人間)が、もし彼の肉の皮に、隆起したもの、または結ぶもの、
または光るものがあるならば、そして彼の肉の皮にツァラアットの打撃があるならば
すると彼はアロンに、または祭司に、彼の息子たちの祭司蓮の一人に連れて来られる。

つまり、この時代、祭司という宗教者が皮膚病かどうかを判断していたのです。
そもそもはレビびとのみが祭司として医療行為をしていたわげてすが、預言者らも
聖書では医療行為をしていますので「宗教」=「医療」であったのかもですね。
新約では主イエースースや弟子も悪魔追い出しや病癒しをしています。

962atheist:2024/05/01(水) 01:26:10 ID:???
>>961
やはりユダヤ教は病気に対して宗教的な意味を持たせていたから
医療行為は祭司(のちには預言者)が行うようになった、ということですね
実際には単に祈祷や奇跡で治したというよりも、レビ記の記述に見られるように
かなり細かく観察をしているので、それなりに現実的なところもあったように感じられます


さて14章は引き続き皮膚病についてですが、ここでは特にらい病(ハンセン病)に対する対処が
語られているようです

と言っても、訳語や「らい病」となっているだけで、要はツァーラアトですよね?

一応毛を剃ったり水で清めたりといった感染予防措置的なことはされるようですが
それよりも宗教的儀式の意味合いが強いようです

それにしても他にも様々な病気、特にマラリア等の感染症もあったでしょうに
なぜここまで皮膚病に対して強い警戒を示しているのでしょうか?

963福音伝道:2024/05/01(水) 05:49:28 ID:BX/SFP8o
>>962
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記15章です。

ツァラアットです。
ハーパーによると、
第一に病に冒されている者の「清め」の儀式
第二に、通常の人々の生活の中で、その人の地位を回復するための儀式
が描かれているとします。

フランシスコ会訳註は、5-7節の儀式は死人状態から復帰の儀式と同じと
解説しています。

重い皮膚病や家屋のカビは伝染したことから、社会から嫌われ疎外され排斥された
ということがあって、「清め」と「社会復帰」への儀式が整備されたのかもですね

ちなみに14:34a
口語訳 家にわたしがらい病の患部を生じさせることがあれば、
聖書協会共同訳 私がその地の家に規定の病の患部を生じさせたなら、
新共同訳 あなたたちの所有地で家屋にかびが生じるならば、
新改訳2017 わたしがその所有地にある家に、ツァラアトに冒された箇所を生じさせたとき、

「かび」と訳されたりもしますし「かび」のことですが、原文は家屋の場合も
「ツァラアットの打撃」です。

964おともだち2:2024/05/01(水) 11:05:29 ID:KNQNXxY2
順天堂大学老人性疾患病態・治療研究センターのある人物は、かなり以前から、他社(製薬企業)の大規模な新薬開発プロジェクトの詳細な進捗状況を(株)日本セルヴィエという外資系の企業に秘密裏に情報提供している。やがて大きな問題になるだろう。

965atheist:2024/05/02(木) 01:31:25 ID:???
>>963
やっぱりツァラアットなんですね
単に社会からの排除でおしまいではなく、ちゃんと社会復帰まで視野に入れたうえでの
儀式になってるところが重要ですね
皮膚病でもカビでも、いつ誰が被害を被るか分かりませんから、単に社会から隔離してしまえば
いいという訳にはいかないですからね

皮膚病もカビも同じツァラアットで表現されるということは
ものの表面に生じた変質をツァラアットと言ったのもしれません


さて15章は身体からの液体の漏出についてです

15節までは怪我や病気による体液の漏出に関してだと思われますが
それ以降は男は射精、女は生理についてということになりそうです

16節は女性と同床した場合ではないので、これは自慰あるいは夢精ということになるのでしょうか?

宗教書でこういったことについて事細かに書かれるというのは、非常に珍しいことなんじゃないかと
思われます
逆に聖書でこういったことまで書かれているということは
聖書が単に宗教書であるだけでなく社会的な法規まで含んだ書だということになりますね
まあすべてが神の配下にあるというのがユダヤ教ですから、当然といえば当然なのかもしれません

966福音伝道:2024/05/02(木) 05:56:43 ID:BX/SFP8o
>>965
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記16章です。

16節は、一人でした場合ですね。無精と自慰ですね。
またフランシスコ会訳註によると16-18節は祭司ではない者には適用されなかったと
ラビ伝承が伝えているそうです。
逆に聖所に入る時のみならず、戦争に行く場合も(主のために戦う場合)、性関係が
禁じられたそうです。

女性の出産の場合は、40日か80日律法上不浄とされ、その後清いものとされた
わけですが、男性の精の露出も「精の露出」(原文・ザーラの層が出る時)、によって
命の一部が消耗するとみなされ、体力が回復するまでは律法上不浄とみなされたそうです。
また、聖所には入らないイスラエル人以外の者には、この規定は適用されなかった
そうです。

ハーパーは、いきなり
2-15節を「淋病」の結果としての「病的な露出」と断定しています。
16-18節 正常な精の露出
19-24節 正常な生理
25-30節 女性の病的な出血

淋病の人は、一時的には接触や唾液を通して、
二次的には、触れたモノをとおして他人様に悪影響を及ぼしたそうです。

31節では、汚れに対する法体系の背後にある思想が語られているそうです
つまり、聖所を汚す不浄を警戒しているわけですが、なぜかというと
「死をもたらす神の怒りを被ることがないように、規則や布告が啓示された」
そうです

967atheist:2024/05/03(金) 01:46:38 ID:???
>>966
ということは一般人に関しては自慰等は「お咎めなし」ということなんですね
聖所に入ったり「聖戦」をしたりするときには、神のみ前に出るということで
穢れが伴うと考えられた性関係はご法度だったということですね

「精の露出」が「命の一部の消耗」とみなされたというのは
科学的には文字通りに正しいことになりますが
当時はもう少しマンガ的にというかゲーム的にというか、HPの消耗くらいの感覚だったのかもしれません

前半部分は淋病と断定していいんでしょうか
これも当時性病と言えば、淋病だったのかもしれませんね


さて16章はスケープゴートに関する章だと思いますが
ここでは説明なく「アザゼル」ということばが出てきます
このアザゼルというのは原語的にはどのような意味なのでしょうか?

ヤハウェのための犠牲とアザゼルのための雄羊があり
アザゼルのための雄羊は荒野に放たれるということは
アザゼルなるものが荒野におり、それに少なくともここでは
ヤハウェのための罪祭と同等の価値を認めているように見えます

英語的なスケープゴートという解釈では罪を他者に負わせて贖うという側面が強調され、
アザゼル自体は無視されますが、わたしは「アザゼルのために」という部分が気になります

968福音伝道:2024/05/03(金) 08:56:31 ID:BX/SFP8o
>>967
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記17章です。

アザゼルは原語的には解明されていず、ハーパー、フランシスコ会訳註、ミルトスは
諸説あるとしつつも、諸説について紹介していません。
ネットでは諸説の一つが恰も確かなように紹介されています。
1.wiki…「強い、ごつごつした」を意味するアズ と「強大」を意味するエルの合成語
     タルムード釈義では荒野の峻嶮な岩山か断崖を指すとされる
2.福音派…「やぎ」(エーズ)と「立ち去る、消え失せる」(アーザル)の複合語
 scapegoat (初出16世紀)は scape (escape, 逃げる)と goat (山羊)の合成語

フランシスコ会訳註によると、初期にはヤギは「不毛の地」に逃がされていた。
衰弱して死ぬか、野獣に食い殺されたそうです。後代ではエルサレムの東12kmの
ところにある岩の崖に連れて行かれ、そこから後ろ向きに突き落とされたそうです。
で、その場所を「アゼザル」と呼んでいたらしいのですが、この儀式がユダヤ人に
よって言い伝えられていくうちに、地名が人格化されて、「荒れ野の鬼神」を意味
するようになったそうです。
『エチオピア語エノク書』には、悪魔の頭目として現れるらしいです。

ハーパーは、アゼザルが場所か、悪魔であるか、「汚れた」荒れ野の擬人化であるか
は断言できないという慎重な立場です。

新共同訳聖書辞典は、贖罪の日に用いられる二頭のヤギの内、全国民の罪を背負わせて
荒れ野に放たれた1頭のヤギを受け取ると考えられた超自然的存在。
すなわち荒れ野に住む鬼神の名と考えられる。罪を清めるために、罪の源であるところの
鬼神に、それを送り返すという思想の表れである。

「アザゼルのために」、原文では、前置詞+固有名詞 ラ・アゼザルです。
レビ16章にだけアゼザルが四回出てきますが、すべてラ・アゼザルです。

ヤハウェに一頭、アゼザルに一頭を捧げたわけですので、そもそもは
ヤハウェとアゼザルが同格の感がありますね。
全体としては、アロンの息子二人が聖所を汚したので、彼らは死に、死後、二人の
罪を贖うために、二頭のヤギが捧げられたのですが、二人なので二頭は説得力ある
として、なぜアゼザル?という感じはありますね

969atheist:2024/05/04(土) 01:27:04 ID:???
>>968
どうやら諸説あっても確定的なことは言えないということのようですね
一応元々地名ないしは地形名であったものが人格化あるいは擬人化されて
ある種の悪魔のように考えられていた、というのがもっともそれらしい説という感じでしょうか

実際上、放逐されたヤギは餓死するなり野獣に食い殺されるなりして死ぬということは
ヤハウェに捧げる場合と同様、犠牲にすると言っていいようですね

新共同訳聖書辞典の場合は、さすがに悪魔に犠牲を捧げると言うわけにはいかず
罪の源である超自然的存在に罪を送り返す、と解釈しているわけですね

レビ16章にだけにだけ登場するということを鑑みても
ここは早計な断定を避けて、もう少し考えてみたほうがよさそうですね


さて17章は主に動物の血について書かれているようです

血は命であるから、血は食べてはならず、また命でもって命を贖うために使用されなければ
ならない、と説いているようです
そのため血は祭壇に注ぎかけるものとされていますね
この血(命)の贖いというのが、キリスト教の十字架解釈にまで
脈々と続いているように感じられます

7節は時代的にはどう考えても荒野放浪時代ではなく
カナンの地に定着して以降の話のように思われます

エホバの証人が輸血を拒否していた根拠の聖句はやはりここなんでしょうか?

970福音伝道:2024/05/04(土) 07:50:40 ID:BX/SFP8o
atheistさん、おはようございます。本日と明日の聖句はレビ記18章です。

口語訳17:7a
彼らが慕って姦淫をおこなったみだらな神に、再び犠牲をささげてはならない。
聖書協会共同訳
彼らが慕って淫らなことをしてきた山羊の魔神に、二度といけにえを献げてはならない。
新改訳2017
また、彼らが慕って淫行をしていた雄やぎの偶像に、もういけにえを献げなくするためである。
原文直訳
そして、彼らが淫行していたところの雄山羊たちに、彼らのいけにえたちを再び屠らない。

「みだらな神」「山羊の魔神」「やぎの偶像」の原語は「雄山羊たち」です。
つまり、元々は、家畜を飼うものたちは、その家畜を屠る時、荒野の「雄山羊たち」
という名の超自然的存在に犠牲を捧げていたそうなのですが、その儀式が
みだらであったそうです。しかも大地に殺した獣の血をどぼどぼと流していた
そうです。
これに対して、ヘブライ語聖書は野蛮として否定して、「血」は「いのち」そのもの
であるから、「血」を流して食料にしたり、ヤハウェに捧げる時は、規定の儀式を
聖所でしなさいと定めたようです。そして「血」は食べるものではなく、聖所に
注ぐものと決められたみたいですね。

エホバの証人のサイトでは、
(創世記 9:4。レビ記 17:10,14。申命記 12:23。使徒 15:28,29)を根拠聖句
として「血を避けるものとしている」と主張しています。
そこは、「血を食べるな」であって、「輸血するな」ではありませんが

971atheist:2024/05/05(日) 02:27:53 ID:???
>>970
原語はただの「雄山羊たち」なんですね
そうするとヘブライ語聖書でよく出てくる異教の神々、特にカナン地方の神々とは別っぽいですね
もともと家畜を飼う人たちが荒野の超自然的存在に対して犠牲を捧げていた対象を指していて
その犠牲のやり方が「みだら」であった、ということで、のちに言われるような異教への傾倒を指して
「姦淫」と言っていたわけではないようですね

また血を命とするユダヤ教から見れば、犠牲獣の血はそのまま大地に垂れ流していた状態だったので
それを否定して聖所に注ぐようになった、と

エホバの証人の根拠聖句はレビ記のここ以外にもあるんですね


さて18章は性交に関する禁忌を述べた章ですね

ともかく18節までは、これまた事細かに近親相姦の禁止について書いてあります
端的に「親族を犯してはならない」と一言言えば済みそうなのに
まるで近代の罪刑法定主義のように具体的にひとつひとつ書き出しています

そのあとは不倫や獣姦、同性愛の禁止などがさらっと書かれています

気になったのは15節です
ここはなんで「あなたの息子の嫁を犯してはならない」ではなく「あなたの嫁を犯してはならない」
なんでしょうか?これは昔の日本でよくあった、舅が息子の嫁のことを「うちの嫁は…」と表現するのと
同じなんでしょうか?

972福音伝道:2024/05/05(日) 21:52:42 ID:BX/SFP8o
>>971
atheistさん、こんばんは。本日はお休みです。明日の聖句はレビ記19章です。

一応、6節で原則を述べて、18節までは具体例が列挙されています。

18:6あなたがたは、だれも、その肉親の者に近づいて、これを犯してはならない。
わたしは主である。
原文直訳 誰でも彼の肉のすべての肉親に、裸を暴くために あなた方は近づかないように。
私は主である。

「犯す」の原文は「裸を暴く」です。和姦というよりレイプぽい感じですね。

嫁は「カラ」ですが、日本語の「嫁」と同じく「息子の妻」のことのようです。

ハーパーによると男性と特定の女性たちの「裸体を暴露すること」(性関係)は、
異常なものとされ結婚を禁止されたそうですが、ここでは
実の娘と姪との関係は禁止されてないそうです。
勿論、実の娘とは(出21:9)で禁止されそうですが、姪はOKだったそうです。

エジプトの王族は兄弟姉妹で結婚したり、ラムセス2世は父娘婚をしているので
エジプトとカナンでは。禁止結婚があったのかもですね

973atheist:2024/05/06(月) 02:13:11 ID:???
>>972
「裸を暴く」というのは一種の慣用表現なんでしょうね
ちょっと露骨な感じがしますが

やはりこの「嫁」は「息子の嫁」ということですか
日本語の嫁もそうですが、「他家から嫁いで来た女」というような意味でしょうから
自分の嫁はすでに嫁いでから数十年経って十分に自分の家に同化してしまっているため、
嫁と呼ぶ意義が希薄になってしまって、嫁と言えば息子の嫁と考えられるようになったのかもしれません
それに息子の嫁の場合は自分の嫁とは違い、他家の者という感覚も強いでしょうしね

姪はOKというのはどういう感覚なんでしょうね
甥-叔母関係だと、男は一世代上の尊属に当たる女性と性関係を結ぶことになるので忌避されたのに対し
姪-叔父関係だと、男は一世代下の卑属にあたる女性と性関係を結ぶことになり、これは男性優位社会では
許容範囲だったのかもしれませんね

974福音伝道:2024/05/06(月) 11:23:52 ID:BX/SFP8o
>>973
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記19章です。

叔父姪の結婚は、wikiによると「スペイン・ポルトガルの王族やドイツ諸侯の間では
叔姪婚がしばしば行われた。」そうですが、日本の民法では禁止されているとはいえ
1980年代の調査では、農業後継者の確保等の要請から親族間の結婚が少なからず
行われ、地域的特性から親族間の結婚が比較的多く行われるとともに、
おじと姪との間の内縁も散見されているそうです。

古代中世では、同レベルの相手ということで、結果的に「いとこ婚」が増え
結果的に「叔父姪」の結婚もあったようです。内縁関係に広げれば日本農村でも
見られるそうです。
これは、結婚相手を同族に求める結果、血が濃くなった結果なのかもですね
殊にユダヤ人の場合は、宗教的同一性を求めると同族結婚が増えていったので
それを律法で禁止しタブーにしていったのかもです。

でもなぜか姪は見逃されたのは、同信仰かつ同一ランクの相手が少なくなった
ためなのかもです。

975atheist:2024/05/07(火) 01:54:58 ID:???
>>974
やはり実際にも叔父姪間の結婚はそれなりに多くあったみたいですね

同信仰かつ同一ランクの相手が少なくなったのだとすれば
叔母甥間の結婚も叔父姪間の結婚と同じくらいの頻度で起こりそうですが
それが一般に少ないとすれば、やはり男が卑俗の女を娶ることはよしとされていても
男が尊属の女を娶るのは抵抗があったようにも思われます
ただ現実的には男が尊属の女を娶るというのは、女性の高齢婚ということになってしまうので
妊娠・出産的な観点から忌避されたと考えたほうがいいのかもしれません

こういうのも実態を調べてみると面白い発見があるかもしれませんね


さて19章は十戒の拡大バージョンのような感じですね
特定の分野の戒律というよりも様々な分野の戒律を集めたもののようです

9-10節は今で言う生活保護の制度に似て、古代においてこういった戒律があったことは
驚きですね

13節なども今で言う労働基準法のようなもので、ユダヤ教が社会的弱者の保護を
戒律化していたことが伺われます

感銘を受けたのは15節の「貧しい者を片寄ってかばってはならない」という箇所です
社会的弱者の保護を強く打ち出しているにも関わらず、法の正義については
弱者への同情から正義を曲げて裁いてしまうことを戒めています
このへんは当時のユダヤ人が極めて発達した正義の観念をもっていた証拠のように
思われます

18節はイエスの説法でも使われていた部分ですよね

19節はユダヤ教の「潔癖主義」の表れなんでしょうか
特に「家畜に異なった種をかけてはならない」というのは
品種改良を禁止することにもつながっていきそうです
もちろん同一種の間での優生個体同士の掛け合わせなどはあったのでしょうが

26節では、はっきりと占い・魔法の禁止が書かれていますね

27節は、あのユダヤ人保守派の独特の風貌の元になている戒律でしょうか

この章はユダヤ人の考え方や風習を規定している戒律が多く書かれていて
とても興味深い章でした

976福音伝道:2024/05/07(火) 05:37:12 ID:BX/SFP8o
>>975
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記20章です。

フランシスコ会訳註によると、
ユダヤ人の間では本章をレビ記の中心、モーセ五書の中心、律法の神髄と伝えられた
そうです。十戒のあらましのようなもので、「隣人をおのれのように愛せよ」という
最高の社会的道徳基準を示しているそうです。1-18節と19-37節に二分しています。

一方、ハーパーは、1-2節序説 3-8節神に対する聖性 9-36節 人間の事柄における聖性
に分けた上で、混乱し、折衷的であるが、十戒に並行した祭司的命令であるとします。
まず、神が聖なるものだから、人間も聖なるものであるようにしなければならないと
序説で論じられた上で、3-8節では神との関係における聖性。以下は個人的な人間関係の
中で生き抜かれる生活に関することが命じられているとみています。

具体的には、両親への敬意が神への務めの第一に置かれ、次に安息日、
第三に偶像礼拝禁止、第四で祭儀規定遵守となっていて、両親の敬意が中心に
なっている点が十戒の前半部と類似していると指摘しています。

人間については、まず社会階層の中心から最もかけ離れた「貧しい者と寄留者」の
ことから始められ、落穂拾いの保証が律法化されていると指摘しています。
次の11-12節は商売仲間との関係で「盗むな、騙すな、嘘をつくな、神の名で誓うな」
と命じられ、13-15節では簡単に雇用できる人々のとの関係において、虐げたり、
盗んだり、その日のうちに労賃を支払わなかったりしては駄目と規定され
目や耳の不自由な人の弱みに付け込んだりするなということで、そのようにするのは
神を畏れることであったそうです。
18節は有名な箇所ですね。主イエースースの中心でもあります。

ハーパーも19節から資料が新たになっていると指摘します。
19節は「神の創設した自然境界を重んじる」ことが説かれていると解説しています。
口語訳 あなたの家畜に異なった種をかけてはならない。
原文直訳 あなたの家畜を二種類、あなたは交尾させないように。
これは、豚と牛とを交尾させるな 種を超えてキメラを作るなという意味ですね

口語訳 あなたの畑に二種の種をまいてはならない
これはほぼ原文通りです。 大根と小松菜を蒔くなということですね
私は小規模多品種栽培の家庭菜園ですので150㎡の畑で年間30種以上栽培します
ので、5㎡の一つの畝に、ほうれん草・コカブ・小松菜の種を蒔いたりしていますが
アブラナ科同士のコカブと小松菜の種採りをするならば、交雑して雑種になります。
確かに品種改良ができませんね

27節は、フランシスコ会訳註によると、ベドウィンの弔いの習慣とし現在でも
用いられているそうで、ユダヤ人も、もみあげを切ったり剃ったりせず、
巻き毛にする習慣が残っているとあるので、元々は遊牧民の習慣だったのかもです

個人的に印象深いのは23-25節です。
果実に関して3年は未熟のままもいで、着果による負担を軽減させ、
むしろ木の成長を促進し、四年目の果実は神に捧げ、五年目から自分の収穫に
という箇所です。とても合理的で現代にも通ずる栽培法です

977atheist:2024/05/08(水) 01:15:49 ID:???
>>976
フランシスコ会訳註では「律法の神髄」、ハーパーでは「混乱し、折衷的」と
評価はずいぶん分かれてますね
わたし自身はどちらかと言うとフランシスコ会訳註の印象に近いです

たしかに19節から唐突に話題が転換してますね

「あなたの畑に二種の種をまいてはならない」の部分は書いてあることは極めて単純ですが
異なった種を近接して蒔くと、自然に交雑してしまうこともこともあるんでしょうか?

ユダヤ人のあの独特の風貌は元はベドウィンの弔いの習慣なんですね
ユダヤ人固有の習慣だと思ってました

23-25節も単純に儀式的なものと思ってましたが
栽培法上も合理的なんですね


さて20章はやはり前章の続きといった感じで、拡大版十戒といった趣です

最初の方はモレクに対する子どもの生贄や占いの禁止などですが
すぐにまた性行為に関する禁止事項に入っていって、これがこの章の大部分を占めます
前章でもかなり詳しく述べられているので、なんか重複する感じがするのですが
23節でこれらの「異常な性行為」はカナン人の習慣であると書いてあるところから
この章は基本的に、これから入っていく土地の異教の汚れた風習を断って
聖なる民としての聖性を堅持せよ、という神の命とまとめることができるように思います
やはりユダヤ教の潔癖主義、純血主義といったものを表しているように感じました

978福音伝道:2024/05/08(水) 07:06:31 ID:BX/SFP8o
>>977
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記21章です。

ぐぐりますと、小麦自体、いくつかの野生コムギが自然に自然交雑したそうです。
具体的にはヒトツブコムギとクサビコムギととが交雑してフタツブコムギとなり、
これが現代のマカロニ小麦の祖先になったそうです。デュラム小麦ですね。
フタツブコムギは更にタルホコムギと交雑して普通小麦になり、これがバスタの小麦の
祖先になったそうです。8000年前のことだそうです。
小麦で4m以内、ライムギで8m以内で交雑するようです。
自然交雑したものの中から有利な性質を持つものを代々選抜して育種して、今の栽培種と
なったわけですが、雑種強勢がありつつも、むしろ交雑すると100のバリエーションが
生まれ、人に有利なのは1つ。99は不利みたいな感じとなります。
例えば交雑しやすいアブラナ科。大根の種を採取しようと素人がしても自然交雑して
採取した種は大根にならないです。
白菜などは交雑しやすいので明治期に育種に失敗し続け、無人島で育種してやっと
成功したほどです。これが松島湾の浦戸諸島の馬放島で育種された「松島白菜」です。
家庭菜園で問題になるのがスイートコーンです。交雑しやすく100m離せ、
授粉期間を2週間ずらせと言われています。交雑すると、キセニア現象により、
甘くならなかったり、白色種がバイカラーになったりするそうです。

フランシスコ会訳は20章を刑罰と題しています。
ハーバーは様々な違反行為の罰則です。

さて、ハーパーはモレクについて恐るべきことを語ります。
原文「ハ・モレク」は「ハ・メレク」(冠詞+王)の訛ったものである
イザヤ6:5に「ハ・メレク・ヤハウェ・ツェバオート」(王なる万軍のヤハウェ)と
あるように、元々、王なるヤハウェがイスラエルの国家の神で、神の称号である
「ハ・モレク」の名の元、子供を捧げていたのであるが、この20:2-5で国家祭儀
であった一つの要素を祭司資料が禁止したのであると。

元々ヘブライの起源のイブリは、アーバル(捧げる)という動詞から派生した語である。
イスラエルでは初物は、人間であれ動物であれすべて神殿にアーバルされたのである。
まあ実際は買い戻されたのですがBC8Cのアハズ王の時代は、神へ子供を捧げる儀式が
実際に行われ、王の献げ物として焼かれたそうです。
フェニキア文化の影響と解釈されていたが、禁止されたのはヒゼキヤ王の時代だ
そうです。

エゼキエル20:26そして、彼らのういごに火の中を通らせるその供え物によって、
彼らを汚し、彼らを恐れさせた。わたしがこれを行ったのは、
わたしが主であることを、彼らに知らせるためである。

ここでは確かにヤハウェが命じています。

エレミヤでは逆にヤハウェは否定します
32:35またベンヒンノムの谷にバアルの高き所を築いて、むすこ娘をモレクにささげた。
わたしは彼らにこのようなことを命じたことはなく、また彼らがこの憎むべきことを
行って、ユダに罪を犯させようとは考えもしなかった。

979atheist:2024/05/09(木) 01:32:25 ID:???
>>978
現在有名な小麦も元は自然交雑のものがけっこうあったんですね
数メートルの近さで交雑してしまうとなると、やはりきちんと管理しない限り
どんどん雑種化してしまいますね

大根や白菜といった、われわれが日常口にする野菜はもっと交雑しやすいとしたら
さらに管理が大変ですね
白菜の育種が無人島で行われたというのは初めて聞きました
すごいですね、それほど育種が難しいなんて

モレクについてのハーパーの解説はこれまた驚きです
ただ冷静に考えると、ヘブライ語聖書では、初物はヤハウェに捧げるということが
よく語られていますから、人間の「初物」つまりは初子を捧げるというのは
ヤハウェ信仰において自然につながってきます
イスラエルが独立した民族になる過程ではカナンの宗教に当然極めて強い影響を受けていたはず、
というよりもカナンの宗教からユダヤ教は出てきたものでしょうから、古代における犠牲(生贄)を
引き継いでいたとしても、殊更おかしなことではなさそうです
途中でカナンの周辺他民族との差別化として、こういった儀式・風習も禁止されていったのかも
しれませんね


さて21章は祭司についての規則になってますね

1節の「死人のために、身を汚す者があってはならない」というのは
具体的には死者に触れたり近づいたりすることでしょうか?

祭司は聖なる者でなければならないので、ここに書かれている諸規定は
理解はできるのですが、17節以下の「身に傷のある者」が聖所に近づいてはならないというのは
やはりそういった人たちを汚れた者と見ることになりますから根深い差別を助長してしまいますね

この点でも、こういった人たちに触れ癒していったイエスは革命的であったと言えると思います

980福音伝道:2024/05/09(木) 05:43:14 ID:BX/SFP8o
>>979
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記22章です。

考えてみればアブラハムも初子のイサクを神に捧げようとしました。
実際に初子を捧げる民族だったのかもです。それが祭司により廃止され
お金を祭司に払って買い戻すと変更されたように思います。

21:1b
口語訳 民のうちの死人のために、身を汚す者があってはならない。
聖書協会共同訳 一族の死者のことで汚れてはならない。
新改訳2017 親族のうちの死人によって自分の身を汚してはならない。
原文直訳 彼の民によって 魂のために 彼は身を汚さない様に

具体的に死穢という「穢れ」に近づくな。直系親族のみ除くということですが、
原文は「親族」ではなく「彼の民」ですので、口語訳が直訳的です。
一般に「彼の民」を「親族」と解釈する人たちもいます。新改訳などですね。
また、「魂」(ネフェシュ)がここでは「死人、死者」と意訳されます。
肉体から離れた魂というイメージなのかもです。

17節以下の「身に傷のある者」
原文はムム(欠陥)です。
具体的には以下の
目しい、足なえ、鼻のかけた者、手足の不つりあいの者、 足の折れた者、
手の折れた者、 せむし、こびと、目にきずのある者、かいせんの者、
かさぶたのある者、こうがんのつぶれた者
です。

これらの諸欠陥があるものは、祭司としては聖性がないとして儀式に加われません
でしたが、救済措置もあり、
21:22彼は神の食物の聖なる物も、最も聖なる物も食べることができる。
とされています。

古代社会は差別をしますが、同時にそれなりの救済措置もセットされていたのかも
です。

981atheist:2024/05/10(金) 00:50:20 ID:???
>>980
そういえば日本でも一般的には死を穢れと考えますから
なにか具体的な行為ということではなくて、死者に触れたり
長く近くにいたりといった漠然とした死者への接近ということなのかもしれませんね

「身に傷のある者」を忌避するのもまた死に対する忌避と同様、比較的一般的なことなのでしょう
ましてや祭司職ともなればそういった穢れがあってはならないとされるのはむしろ自然なのだと思います

そういったことが差別であるという感覚は近代になってからの人権思想の発達によって
もたらされたものなのでしょうね


さて22章は聖なる食物についての記述になっているますね

これもまた徹底して穢れを避けるように命じられています

ちょっとよく分からないのが11節で際しが金をもって人を買ったときには、その人は聖なる物を
食べることができるとされていることです
同居人や雇人はだめなのに、なぜ買われた人はいいんでしょうか?

982福音伝道:2024/05/10(金) 06:19:11 ID:BX/SFP8o
>>981
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記23章です。

口語訳レビ22:11a
しかし、祭司が金をもって人を買った時は、その者はこれを食べることができる。
聖書協会共同訳レビ22:11a
しかし祭司が財産として銀で買い取った者であれば、その者は食べることができる。
新改訳2017レビ22:11a
しかし、祭司に金で買われた者はこれを食べることが許される。
原文直訳
そして祭司が彼の銀の財産で魂を買う時、彼はそのうちで食べる

原文は「銀で買われたネフェシュ」です。直訳すれば「人」ではなく「魂」。
先日は諸訳が「死体」と訳していた「ネフェシュ」です。
この金で買われたネフェシュとは、新改訳が意訳している通り「奴隷」のこと
ですが、「奴隷」と「祭司の家族」は「祭司自身に属する財産のようなもの」
なので一般特別されて「祭司の聖性の下に属する」とされたので、食べてOKだった
のです。
しかし「祭司の子」でも「女性」が結婚すれば、その所属は夫のものとなりますので
彼女は「聖なるもの」を食べては駄目となります。
ですが離縁されて、父の家、つまり祭司の家に戻れば彼女は
「聖なるもの」を食べれるようになりました。

一方、雇用者や寄留者は、一時的に祭司の家に身を寄せていると言っても
独立した人格主体なので、祭司の支配下にないので、祭司の聖性の下に属さない
とされ、聖なるものをたべてはいけなかったようです。

ハーパーは、買い取られたり、その家で生まれた終身奴隷も含めた家族全体が
安寧の献げ物を食べることができたと解説しています。
「買い取られたり、その家で生まれた終身奴隷」は「家族扱い」ということのようです。

22章でハーパーが注目しているのが8節。
死んだり殺されたりした動物の肉を食べないという規定は元々、祭司限定だった
と指摘。その後、一般に拡大されたことがわかると解説しています。

983atheist:2024/05/11(土) 01:04:48 ID:???
>>982
なるほど祭司(父)の所有物と判断される場合はその祭司の聖性の下に属することになるので
OKということですね
これなら祭司からは独立した人格主体である雇用者や寄留者がダメな理由も説明できますね

8節の記述からだけでは祭司限定だったのかどうか判断はできませんが
祭司の規定が一般に拡大されたとすれば、聖性という点から容易に説明がつくので
合理的ではあるように思います


さて23章は「聖会とすべき主の定めの祭」についての章となっていますが
そもそも「聖会」とはなんでしょうか?そのまま読めば「聖なる会合」くらいの意味合いに取れます

ともかく聖会では労働をしてはならないということが強調されてますね
安息日であれば創世記の記述にその理由を求めることができますが
たとえば贖罪の日の聖会においても労働が禁止されています
これは聖俗を峻別するユダヤ教の性格から来ているようにも思えます

また27節などで「身を悩まし」というフレーズが出てきますが
これは具体的にはどういうことを意味するのでしょうか?
「すべてその日に身を悩まさない者は、民のうちから断たれるであろう。」(29節)と
言われているくらいですから、「身を悩ます」ことは相当重要なことであったと思われます

984福音伝道:2024/05/11(土) 06:12:00 ID:BX/SFP8o
>>983
atheistさん、おはようございます。本日と明日の聖句はレビ24章です。

「聖会」・・・原文「ミクラエー コデシュ」(会 聖の)
具体的には俗な生活から切り離されて、神聖なる神のためのお祭りが年に7回。
春四回 秋三回あったということですね。
ペサハ(過越)  マツォト(除酵祭) オメル・レシート(初穂)シャヴォート(七週の祭り)
ローシュ・ハシャナー(角笛吹きの日) ヨム・キブル(贖罪の日) スッコート(仮庵祭り)

27節などで「身を悩まし」…原文直訳 「そしてあなた達は、あなた達の魂を苦しめる」
これはヨム・キブルの規定ですが、どう苦しめるかというと、断食です。
1年に1回 俺は罪深いと罪を悔い改め、反省し、おとなしくしている日ですね
反省しているのだから、改悛姿勢を「断食」「入浴しない」「香水をつけない」などで
示すことが「自分を苦しめる」ことだそうです。

断食して改悛姿勢を示さないような不届き者は、民から絶たれる
ということですね 怖すぎですが、まあ断食ですし、たいしたことはないです

985atheist:2024/05/12(日) 01:47:32 ID:???
>>984
聖会というのは、要は年七回のお祭りのことですね
過越、除酵祭、七週の祭り、贖罪の日、仮庵の祭りはよく出てくるので
ある程度の認識はありますが、初穂と角笛吹きの日はあまり馴染みがありません

「身を悩ます」というのは、断食や入浴・香水を断つことを通じで改悛姿勢を示すことということですね
これは言われてみればなるほどという感じです


さて24章は祭儀の灯火と菓子についてですが、10節から唐突にヤハウェの名を怪我した者の
話になっています

さらにその話の途中でこれまた17節から唐突に同害復讐の掟が挿入されています

非常に構成の悪い章ですが、メインのテーマは主の名を汚すな、ということのようです

この章の構成はのちに編集が加えられたとかそういった事情によるのでしょうか?

986福音伝道:2024/05/12(日) 06:21:40 ID:BX/SFP8o
>>985
atheistさん、おはようございます。本日はお休みで、明日の月曜日の聖句はレビ25章です。

ハーパーによると、本章全体が、「この章の内容が、なぜこのように配列されているか
についての理論的根拠は明らかではない」としたうえで、
17-22節は、「本来はその状況に関連していないにもかかわらず、この資料の
最終編集で一つにまとめられたものである」と断定していますね。

口語訳-原文直訳対比
オリブを砕いて採った純粋の油…オリーブの純粋なすり潰した油
純金の燭台…純粋な燭台 フランシスコ会訳の解説…原文に金はない。清い燭台と訳せる
十二個の菓子…十二の輪型のパン 十二支族をイメージ 原文ハロットは、菓子というよりパン
ひと重ね六個ずつ、ふた重ねにして…一列に六個、二列にして 重さねてません、並べてます。

24:10以下、ハーパーによると、外人に対する規定とのこと。
つまりヤハウェの名を冒とくすれば、その冒涜の声を聴いた者は
冒涜した者の頭の上に手を置いて、罪を冒とくした者に返したうえで
石打で殺すという。。。なんとも古代的な野蛮さです。

この箇所とあと三か所、いづれも民数記に
何か問題が起こってモシェが判断を求められ、モシェ自身が決断できずに
ヤハウェにお伺いを立て、ヤハウェが命じたことで律法化されているそうです

987atheist:2024/05/13(月) 00:43:28 ID:???
>>986
やはり編集段階で意味不明の挿入があったようですね

石打でリンチ処刑というのは新約のヨハネや使徒行伝にも出てきますが
野蛮極まりないですね
今でも原理主義的なイスラム教徒がこれを行っていますが
神が絶対化されることの危険性を示す一例だと思います

民数記にも出てきて、モーセの決断ではなくヤハウェの命令としているということは
これも神の権威でもって律法を貫徹させようとしているということなのでしょうね

988福音伝道:2024/05/13(月) 04:59:30 ID:BX/SFP8o
>>987
atheistさん、おはようございます。本日と明日の聖句はレビ25章です。

犠牲獣を身代わりにして捧げる時も、犠牲獣の頭に手を置くのですが
これも自分の罪を犠牲獣に移す儀式です。
この頭に手を置く行為で思い出すのは按手です。
聖職志願者が按手されて聖職になったり、
聖霊派で聖霊のバプテスマが按手でなされたりしますが
罪を移すのも、聖別する時も按手するわけですね

989atheist:2024/05/14(火) 01:09:10 ID:???
>>988
手を当てる(置く)ことには、なにか特別な力があるとみなされていたのでしょうね
病気を癒したりするときも手を当てて癒やすこと(まさに「手当て」ですね)が多いし
罪を移したり聖別したりするのも手を置くことで行われるわけですね


さて25章は34節あたりまでが土地と農作業についての、そのあとは
金貸しや身売り(奴隷)についての掟が、これまた細かく書かれています

前半の10節くらいまでの内容は前の章でも出てきていたと思います
土地の滋養を回復する目的もあるのでしょうが、七年目やヨベルの年には
種まきも刈り取りも禁止され、過去年の産物を消費するよう命じられています
飢饉や不作は気候変動などで人間側の計画とは無関係にやってきたりしますから
本当に都合よく6年目に3年分の産物が実る(21節)などとはいかなかったでしょう
このあたりは現実的にはどのようにしていたのか気になります

奴隷についてはイスラエルの民の奴隷化は原則禁止されてますね
仮に身売りすることになっても必ず買い戻すように規定されています
それに対し異邦人については身売り・奴隷化を基本的に肯定しています

近代のキリスト教国は奴隷制を肯定しましたが
これはイスラエルの民をキリスト教徒に、異邦人を黒人等に拡大解釈して
是認したのかもしれないと思いました

990福音伝道:2024/05/14(火) 06:06:54 ID:BX/SFP8o
>>989
atheistさん、おはようございます。本日と明日の聖句はレビ26章です

ハーパーによると、土地の安息は、人間の搾取からの解放、通常の農作業は停止
され、自然収穫物は地主のものとはならず、奴隷、外国人、寄留者が自由に
食べてよかったそうです

ヨベルは広大な土地の集積を防ぐために、50年目には、集積したものを解放
しなければならなかったそうです。
つまり農業が始まると富の蓄積が始まり、貧しい者は豊かな者に、土地や子供や
自分自身を売ったのですが、50年ごとのヨベル年には無条件で返還されるので
実際はヨベルの年まで賃貸されるだけで、富の集積を防止したそうです

ただ、イスラエル人にはヨベルの年の適用があったが、外国人にはなく
買われた外国人は一生奴隷のまま。所有物なので、息子にも所有権が遺産された
そうです。神学的根拠は、イスラエル人は神の子なので、奴隷のままではダメ
究極的には神のものだからダメだが、外国人はそうではないということだそうです

これは自分たち以外の黒人を奴隷にしたのに結びついたかもですね
奴隷貿易が一番利益を出したそうなので。

6年目に3年分の産物が実る ということは私の畑にはないですね
そもそも3年も保管が効くとなると小麦などの穀物だと思いますが
聞いたことがないですね

991atheist:2024/05/15(水) 02:16:17 ID:???
>>990
土地の安息は社会的弱者への対策や富の集積の防止にもなっていたんですね
ヨベルの年についても同様で、このへんは宗教的な掟が社会福祉の役割も兼ねている例になりますね

奴隷制が当たり前だった古代のことですから、一概にユダヤ教を非難することはできませんが
近代において古代の宗教観・社会観を奴隷制や異教蔑視へと転用してきた部分は
反省を迫られそうです

やはりさすがに3年分というのはなさそうですね
おそらく実際はなんらかの例外や解釈変更によって、農作業は行われていたのでしょうね


さて26章はある意味、ヘブライ語聖書の核心と言ってもいいような記述になっています

民がヤハウェとの契約を遵守する限り、ヤハウェはイスラエルに繁栄と安息を与え
逆に民がヤハウェとの契約を破れば、イスラエルから繁栄と安息を奪い去る、という
契約宗教の骨子が描かれています

しかし重要なのは40節以下に書かれているように、自らの罪を告白し悔い改めるならば
ヤハウェは先祖との契約を思い起こしイスラエルを救うというところだと思います

全体的に少なくともこの章はバビロン捕囚期以降に書かれたような内容になっているような気がします
亡国や敵国への捕囚、そこからの救いが暗示されているからです

実際はいつ頃の成立だと見積もられているのでしょうか?

992福音伝道:2024/05/15(水) 06:12:14 ID:BX/SFP8o
>>991
atheistさん、おはようございます。本日と明日の聖句はレビ27章です。
次スレ 聖書通読2
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/news/3665/1715375620/l50

どの時代の編集かという指摘はハーパー、フ会ともにありませんが
フランシスコ会訳註によると、34-39節は捕囚時代の哀れな状態が描かれている。
ハーパーは、祝福と呪いに関して、古代社会において集団間の関係や基本様式を
確立している条約集や法律集の殆どが、服従に対する報酬としての祝福、
不服従の結果としての呪いの宣言で終わっていた(出エジプト、申命記など)
ここは25-26章の結論部分であるとのことです。
で、祝福10 呪い24を整理されています。呪いが祝福の2.4倍ですね

悔い改めをハーパーは分析して
1.自分たちの罪と先祖たちの罪に心を痛める
2.神の意志に歯向かって歩むことによって神に対して犯したもろもろの罪を告白する
3.神が自分たちに立ち向かい敵国に追放したことを知る
4.彼らがこれらの事を行い、その頑なな心を砕き
5.追放の中で苦しむことを通して、その罪を償い、その罪の埋め合わせをする

すると神は、悔い改めを受け入れ云々と。
確実に捕囚後の成立ですね

993atheist:2024/05/16(木) 02:37:25 ID:???
>>992
次スレ、ありがとうございます

たしかに呪いのほうが祝福より圧倒的に多いですねw

悔い改めの基本的パターンは、個人単位に焦点が移っても
キリスト教、特にカトリックにそのまま受け継がれているように思います
とするとやはり捕囚の経験がユダヤキリスト教の信仰の型を決定づけたと言い得るのかもしれませんね


さてレビ記もいよいよ最終章ですね

ここは「誓願」について書かれていますが、誓願の内容ではなく
その誓願の「対価」について主に書かれているようです

対価は年齢・性別・貧富によって異なっていますが
「主に身を捧げる」誓願なので、要は祭司的な役割を全うすることの代替ということで
それが年齢・性別・貧富の「値積り」の差になっているのでしょう
対価は金銭のほかにも家畜や家や畑などが書かれています

気になったのは29節です
ここでは奉納物として人が捧げられる例が取り上げられていますが
彼は「必ず殺さなければならない」とされています

これはいったいどういうことでしょうか?
奉納物ですから、犯罪者、罪人ということとは別で
まさに生贄のようなものなのでしょうか?

994福音伝道:2024/05/16(木) 06:09:05 ID:BX/SFP8o
>>993
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は民数記1章です。

フランシスコ会訳註によると本章は後代の追加だそうで、ハーパーは数合わせと
しています。
この時代、例えば病気の治癒を誓願する時、病気が治ったら、残りの人生を
神にささげる(聖所で奉仕する)という誓願をしたそうですが、実際は相当額を
レビ人に支払ったそうで、彼らの主たる収入源だったようです。

29節。
口語訳 またすべて人のうちから奉納物としてささげられた人は、
あがなってはならない。彼は必ず殺されなければならない。
聖書協会共同訳 永久に奉納されたものが人間であっても買い戻すことはできない。
その人は死ななければならない。
新改訳2017 人であって、聖絶された者はみな、贖われることがない。
その人は必ず殺されなければならない
原文直訳 捧げられたところのすべてのヘレムは、ハ・アダムからであっても
贖われない。それは必ず殺される。

問題は「ヘレム」。単に「奉納されたもの」という意味なのですが、神学的に
「聖なるものとして、俗から聖へと分離された」というニュアンスを特別に
重視すると新改訳のように「聖絶」という意味となります。

フランシスコ会訳は言います。「ヘレム」(永久に主のものとして奉納したもの)は、
「分離」「厳禁」を意味し、最も聖なるものなので、誓願より聖なるものなので
買い戻せない。永久に主のものとして奉納したものは祭司または聖所のものとなる。
人の場合は殺される。
具体的には、自分の支配下にある人が、
重大な罪を犯したり、重大な罪に関係した場合は、
主人はその人を罪の贖いのために永久に神に捧げた。つまり殺した。
後代には、人の場合は単に「破門」を意味したとのこと。

ハーパーは戦争捕虜。としています。

さて民数記。これは70人訳「アリスモイ」(数)に由来します。
ヘブライ語では「荒れ野で」(ベミドバル)です。
設定では出エジプトの二年目と38年後の二度、軍事目的の人口調査。
つまり民を数えたことに由来します。

成立は、申命記の影響を受けた上で、バビロン捕囚後に祭司記者が編集。
一部には第二神殿時代の祭儀も反映されているそうです。
物語と律法からなり、成立は物語の方が古いそうです。
「イスラエルは神の民になろうとしている人々だが、まだ罪人である。
にもかかわらず神の慈悲を受けている」が神学的主題とのことです

995atheist:2024/05/17(金) 02:09:35 ID:???
>>994
青年男子ならまだしも、子どもや女性は人生を神に捧げると言っても
祭司になれるわけじゃないですから、実際は金銭ないしそれに準ずるもので
誓願に対する対価を払うことになりますね

29節の「奉納物」はフランシスコ会訳註によれば
聖なるものであり、それが人であっても犠牲獣と同様殺されるということですが
犠牲獣は傷のないもの(つまりは罪があってはならないもの)なのに
重大な罪を犯した者が、この「奉納物」になるというのは矛盾しているような気がします

実際のところはハーパーの戦争捕虜というのがしっくりくるような気がします
実際にこの時代(前10世紀から6世紀くらいまで)では聖書でも敵国人の聖絶が語られますし
ユダヤ人だけでなく周囲の民族も同様のことをしていたようですから
まあ古代の風習として理解できそうです


さて今日からは民数記ですね

成立年代は意外にもけっこう新しいんですね
ジェノサイドと取れるような記述があることから
わたしはもっと古い記事だと思ってました

まずは1章です

ここはまず戦士となりうる二十歳以上の男性(ただしレビ族を除く)の人数が
各部族ごとに数えられ、最終的に総数は約60万と結論されています

まあ壮大なでっち上げと言っていい数字ですが
おそらくはこの数字はイスラエルの王国時代の戦士数を荒野放浪時代に反映させたものなんじゃないかと
思います(それでも全人口が数百万になってしまいますから誇張ではないかと思います)

カナンを含むメソポタミアの地は他民族が入り乱れて覇を争う地でしたから
記述が軍事よりになるのも当然で、それにつれてヤハウェも軍神としての性格が強くなっていったのでしょうね

996福音伝道:2024/05/17(金) 05:53:45 ID:BX/SFP8o
>>995
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は民数記2章です。

ハーパーは詳述していますが、まとめますと多様な内容があつて
古い部分はBC10C、編集されたのは捕囚期(BC587-538)
古いJとE資料が多いのは11-25章に集中。祭司資料は1-10と26-36章に多いとのこと

総数は約60万
ハーパーの解釈
ルベンの部族のうちで、数えられたものは四万六千五百人
この「千」は、千人という意味ではなく「宿営集団」のこと。
500人が46の宿営集団に分かれたという意味に解釈。
すると総計5,550人となるが、
1:46その数えられた者は合わせて六十万三千五百五十人であった。
603宿営集団550人とは計算が合いません

いづれによ、聖書学者は60万人という数字に疑問を持っています

997atheist:2024/05/18(土) 02:24:52 ID:???
>>996
だいたい前10世紀から前6世紀までの間に成立したということですね
資料的にはD以外の資料から成り立つという感じでしょうか

さすがに60万は説明がつかないので
ここは聖書学者と言えど、疑問を付けているわけですね


さて2章は部族ごとの宿営配置についてですね

というかそれですべてという感じで、他には何も言うことがないくらいですw

物語的には今後の異民族との抗争に備えて軍隊を編成している場面でしょうか
ヤハウェに従ったイスラエルの民が強大であることを誇示しようとしているように見えます

998福音伝道:2024/05/18(土) 07:19:57 ID:BX/SFP8o
>>998
atheistさん、おはようございます。本日と明日の聖句は民数記3章です。

今からカナン侵攻の聖戦が開始される ヤハウェが陣を決め、それに従う様子が
描かれています。
侵攻の最前列を率いるのはユダ連隊。外陣東側に宿営します
第二軍は、南軍のルベン連隊
中央の第三軍は、幕屋とレビ人が中央軍となります。
第四軍は、西軍のエフライム連隊。
最後列の殿軍のダン連隊。宿営の時は前面の北軍です。

つまり時計回り東軍、南軍、中央軍、西軍、北軍と行進する聖戦ですね。
なかなか実践的で、最前列のユダ連隊が最強軍ですね
第二番手のエフライム軍は、中央軍の後ろに控えています。

第一回目の人口調査された彼の世代は、実はカナンに突撃に躊躇して
偵察隊を送りだしたりして慎重なのが神の逆鱗に触れて滅び
第二回目の人口調査、新しい世代となるのですが、ここではまだ
神に従う素直さが強調されています

999atheist:2024/05/19(日) 01:17:31 ID:???
>>998
やはり軍隊編成の場面だったんですね
なんとなく読み流しましたが、ちゃんとその編成のあり方も合理的に考えられていたんですね
現時点ではまだ最初ということもあって、士気も充実して神に素直に従う姿勢が強調されているということ
ですが、偵察隊を送り出すときには相手が大男ばかりで萎縮してしまったんでしたっけ
レビ記と違って民数記は物語が進行するので、少しは読みやすくなるんじゃないかと思います


さて3章は祭司職の人口調査とその配置についてですね

面白いのは12節などで語られているロジックです
神のものになるのはイスラエルの人々の初子である
→その初子の代替としてレビ人が神のものとなる
→神のものとして聖別されたレビ人が祭司職を担う
→レビ人の人数では賄えなかったイスラエルの人々の初子の分は一人ずつ代替の金銭を徴収する
といった流れです

この箇所はまったく記憶になく、単純にレビ人はモーセ・アロンの部族だから祭司職として
聖別されたのだと思っていました
背景には初子は神のものというロジックがあったわけですね

1000福音伝道:2024/05/19(日) 07:53:14 ID:BX/SFP8o
>>999
atheistさん、おはようございます。本日はお休みで明日の月曜の聖句は民数記4章です。

一つの疑問は、レビはヤコブの初子ではなく、三男です。
なぜ初子にこだわるヤハウェがレビを初子の代わりにされたのか。
また、モシェの名前がありますが、アロンの子孫だけが数えられ、
モシェの子孫は数に挙げられてません

また、レビ人の合計が22000人で、イスラエルの初子の合計が22273人だったので
273人×5シュケル=1,365シェケル支払わせたとありますが、レビ人22,000人は
西、南、北の合計であって、東に位置したモシェとアロンの家族が含まれてません。
少なくとも、アロンと、その子エルアザル、イタマル。モシェと子のゲルショムとエリエゼル
の六人はいたはずです。
私には、初子理論というこじつけで、イスラエル人からカネを徴収したようにしか
見えないです。
実際の業務は、次章で、30歳から50歳のレビ人が問題にされています。
ちなみに8:24では25歳から50歳。エズラなどでは20歳から50歳となっており
祭司職の勤労年齢の下限は時代によって異なります。




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