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運スレ的に富田メモと靖国神社がどうあるべきか考察しよう

1無党派さん:2006/07/20(木) 12:32:26 ID:ueIB0Wtg
本日(7月20日)、日経新聞が昭和天皇の最晩年の昭和63(1988)年に当時の宮内庁長官
が陛下御自身が靖国神社へのA級戦犯合祀を不快に思われていたことをおっしゃったと
書いた部分を含むメモが公開されたと報じ、他のマスコミもそれに続きました。

その真贋に疑問を持つ方も住民の中には見受けられますが、半藤一利氏・秦郁彦氏と
いった保守系の研究者も実物を見て本物ではないかという意見を述べています。

これを機会に、靖国神社はどうあるべきか。A級戦犯分祀など可能な方法が本当にあるのか?
祭神の対象を広め、世界の戦争犠牲者を区別なく祭るべきではないのか。
そういう論議を富田メモを元に運スレ的に進めていくスレです。

■関連スレ
運スレ的に皇室の在り方を論じましょう・2
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/1733/1139062695/

2無党派さん:2006/07/20(木) 12:35:22 ID:NaX6FLy6
中共の作戦だとしたら、うまい作戦だよな。

3無党派さん:2006/07/20(木) 12:46:27 ID:Qv0X/LZw
ハン板(飯研)から派生した避難所は↓こちら

スクーポ! 昭和天皇はA級先輩の靖国は参拝しない
http://society3.2ch.net/test/read.cgi/korea/1153348424/

4無党派さん:2006/07/20(木) 15:06:17 ID:GdlbS2wU
上手い作戦かなあ??

310 名前:無党派さん メェル:sage 投稿日:2006/07/20(木) 14:31:03 ID:vZ9Jf1qD
驚きの白さに・・・アタック〜♪

ttp://ca.c.yimg.jp/news/20060720133420/img.news.yahoo.co.jp/images/20060720/jijp/20060720-04602612-jijp-pol-view-001.jpg


昼前のTBSのニュースで自分も見たんだけど、
■■■って黒塗りならぬ貼り込み日記w
しかもその部分だけ青インク。
しかもそのページの黄ばみのない白さ加減!!!!

いやあ、すげえことやらかしてんじゃね?
永田君もびっくりな。

5無党派さん:2006/07/20(木) 15:30:32 ID:wZT03HkI
これは仮にメモが事実でもガセネタでも、総理側から見れば不利益にはならない
ような希ガス
このメモを持って新たな戦没者慰霊施設の計画を進めるにしても靖国神社が分祠
するにしても、それは昭和天皇の「遺志」の政治利用でしかない
ガセネタならマスゴミが自らの死刑執行書にサインをしたも同然

6目に付いたものを適当に転載:2006/07/21(金) 00:19:19 ID:PHsvjgE6
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1153404662/14

14 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/07/20(木) 23:12:33 ID:aPMNMCCd0 ?
                         4.28   ●
(1行目解読不能)
 中曽根の靖国参拝もあったが
 藤尾(文相)の発言
=奥野は●●と違うと思うが
 バランス感覚のことと思う
 単純な復古ではないとも

 私は或る時にA級が
合祀されその上松岡、白取
までもが
 筑波は慎重に対処して
くれたと聞いたが
 松平の子の今の宮司がどう考
えたのか 易々と
松平は平和に強い考が
あったと思うのに親の心子知
らずと思っている
 だから私あれ以来参拝
していない それが私の心だ
・関連質問 関係者もおり批判になるの点

(左下縦書き)
 余り関係も知らず
 そうですかが多い

(貼り付け別ページ裏写り部分)
ttp://puka-world.com/php/upload/ren/img-box/1153402303990.jpg

7無党派さん:2006/07/21(金) 00:22:51 ID:PHsvjgE6
http://puka-world.com/php/upload/ren/img-box/1153404068267.jpg
http://www.vipper.org/vip295965.jpg

メモ全体が読み取れそうなキャプ

8無党派さん:2006/07/21(金) 11:50:12 ID:c9pDI1G.
解釈その1
528 名前:名無しさん@6周年 投稿日:2006/07/21(金) 09:40:28 ID:Kj/Uyt6L0
メモ自体は本物だと思うよ。
以下は俺の仮説。

「前にあったね どうしたのだろう 中曽根の靖国参拝もあったか 藤尾(文相)の発言」

これは、昭和天皇がされた質問ではないか。

「=奧野は藤尾と違うと思うが バランス感覚のことと思う 単純な復古ではないとも.
  私は 或る時に.A級が 合祀され その上松岡.白取 までもが、・・・ 」

この部分は、上の質問に対する誰かの答えだと思う。

「余り閣僚も知らず そうですかが多い」

というのは、この答えを聞いている時の天皇の様子だと思う。

9無党派さん:2006/07/21(金) 16:05:26 ID:K.Uo3Cw2
(3ページ目と4ページ目の暫定メモ内容)
http://sakuratan.ddo.jp/imgboard/img-box/img20060721082842.jpg

                63.4.28 〔■〕                  4.28 〔4〕
☆Pressの会見                     前にあったね どうしたのだろう
[1]  昨年は                       中曽根の靖国参拝もあったか
  (1) 高松薨去間もないときで           藤尾(文相)の発言.
    心も重かった                 =奧野は藤尾と違うと思うが
  (2)メモで返答したのでつく            バランス感覚のことと思う
   していたと思う                   単純な復古ではないとも.
  (3) 4.29に吐瀉したが その前で
   やはり体調が充分でなかった         私は 或る時に.A級が
  それで長官に今年はの記者          合祀され その上松岡.白取
  印象があったのであろう             までもが、
  =(2)については記者も申して           筑波は慎重に対処して
  おりました                      くれたと聞いたが 
                           .○   松平の子の今の宮司がどう考  
[2]  戦争の感想を問われ          余そ えたのか 易々と
  嫌な気持を表現したが           り う    松平は平和に強い考が
  それは後で云いたい            閣で  あったと思うのに 親の心子知
   そして戦後国民が努力して       .僚す  らずと思っている
  平和の確立につとめてくれた       も が   だから 私あれ以来参拝
  ことを云いたかった            . 知.か  していない.それが私の心だ
 "嫌だ"と云ったのは 奥野国土庁長   . ら 多
 の靖国発言中国への言及にひっかけて  す い ・ 関連質問 関係者もおり批判になるの意
 云った積りである

10無党派さん:2006/07/21(金) 16:26:03 ID:K.Uo3Cw2
>>9の用語解説

『63.4.28』
天皇誕生日の前日。天皇誕生日には毎年記者会見がある。

『高松薨去』
1987年(昭和62年)2月3日

『4.29に吐瀉したが その前で』
前年、1987年の記者会見の後で吐瀉したということは、この頃からお体の具合が悪かったのか。
その年の9月22日、歴代天皇で初めての開腹手術を受ける。

『奥野発言』
1988年4月12日の記者会見での奥野誠亮国土庁長官の発言。靖国神社参拝を問題視する傾向を批判。
「トウ小平氏の発言を無視することは適当ではないが、日本の性根を失ってはならない。
中国とは国柄が違う。占領軍は国柄、国体という言葉の使用を禁止し、教科書からも削除したが、
教科書では神話、伝説をもっと取り上げたほうがよい」
「白色人種がアジアを植民地にしていた。それが日本だけが悪いことにされた。だれが侵略国家か。
白色人種だ。何が日本が侵略国家か、軍国主義か。(江戸時代に)開国して目をさましてみたら、
軍事力強化の立場に追い込まれていた」
1988年5月13日に国土庁長官を辞任。

『藤尾発言』
1986年第3次中曽根内閣で文部大臣に就任した藤尾正行が、入閣直後に歴史教科書問題に関連して発言。
「われわれがやったとされる南京事件と広島と長崎の原爆と、一体どっちが規模が大きくて、どっちが
意図的で、かつより確かな事実としてあるのか。日韓の合邦というものは、当時の日本を代表していた
伊藤博文と、韓国を代表していた(李朝の)高宗との談判、合意に基づいて行われている。(中略)韓国側にも
やはり幾らかの責任なり、考えるべき点はあると思うんです。(「文芸春秋」誌1986年10月号)」
韓国側抗議し、辞任を拒否した同大臣を中曽根首相が罷免。

11無党派さん:2006/07/21(金) 16:31:59 ID:K.Uo3Cw2
※『私は 或る時に・・・』(徳川侍従長による類似発言あり)
http://www.tv-asahi.co.jp/n-station/cmnt/shimizu/2001/0816num90.html

昭和天皇について知りたいことはたくさんありましたが、その一つは、なぜ1975年11月を最後に
靖国神社へ行かなくなったのか、ということです。この問いに答えられる人は天皇の側近である
徳川義寛・侍従長しかいません。何日も朝駆けし、出勤途中を待ちかまえて尋ねました。徳川侍従長は
口が堅く、ほとんど無言の行でしたが、A級戦犯合祀と関係があるらしいこと、徳川侍従長も合祀に
批判的だったことは分かりました。

後に侍従長を退いてから同僚の記者が取材した証言録によると、以下のような経緯でした。
――靖国神社の合祀者名簿は例年、10月に神社が出してくるが、1978年は遅れて11月に出してきて、
A級戦犯を合祀したいという。その10年ほど前に総代会はA級戦犯を合祀する方針を決めていたが、
旧皇族である宮司の筑波藤麿さんが先延ばししてきたのに、宮司が代わると間もなく合祀を実施した。
徳川氏は「松岡洋右さんのように軍人でもなく病死した人も合祀するのはおかしい」などと問いただ
したが、押し切られた。

「靖国神社は元来、国を安らかにするために奮戦して亡くなった人をまつるはずなのであって、国を
危うきに至らしめたとされた人も一緒に合祀するのは異論も出るでしょう」「筑波さんのように、
慎重な扱いをしておくべきだったと思いますね」と、徳川氏は語っています。

12無党派さん:2006/07/21(金) 16:43:21 ID:K.Uo3Cw2
147 名前:146 投稿日:2006/07/21(金) 15:47:10 ID:ch0U+Nwh
※3ページ目と4ページ目を続けて読むと次の事が判ります。
1.メモはプレスの会見を筆記したものである。
2.昭和63(1988)年4月28日の記述である。
3.質問に対るす答えは率直な感想を述べているように読み取れる。
発言内容を事前にチェックされる立場の人物ではない事が判る。
4.高松宮様に対して薨去という言葉を使っている事から宮家ではなく
仕える立場の人物の発言と読み取れる。
5.「(3) 4:29に吐瀉したが」のくだりは客観的な表現で自身の事ではない。
(転載者注:ここの "4:29" の部分の "9" は "7" に斜線を入れたもののように見える、
 とすると "4.27" で前日のことで、やはり日付だと思われる。)
6.戦争の感想を問われた時「嫌な気持を表現」している人物である。
7.あまり閣僚を知らない人物である。
8.会見時の発言に「そうですか」が多かった。
9.靖国神社の松平永芳宮司を松平の子と呼ぶ事から近親者で年配者である事が判る。

以上の事から考えて、このメモの発言者として最も適当な人物は徳川侍従長である事は明白です。
理由は以下の通りです。
a.徳川侍従長のが勇退日は昭和63(1988)年4月末日。(会見の有無は確認できず)
b.徳川侍従長の以前からの発言と相似している。
c.前出の1〜9の指摘事項に全てあてはまる。

では昭和天皇陛下の発言とした場合、以下の矛盾点が生じます。
イ.この日に昭和天皇陛下の会見は報道されていない。翌29日の天皇誕生日での会見は記録に残っている。
ロ.記者が天皇陛下に対してこのような質問をするとは思えない。又、質問する機会もない。
ハ.発言者は自身を「私」と言っている。天皇陛下であれは公式な場は「朕」と言う筈である。

13無党派さん:2006/07/21(金) 18:07:44 ID:K.Uo3Cw2
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

昭和天皇のお誕生日の会見は1988年4月25日だったことが判明しました!

http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1153461672/891
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1153461672/913

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

14無党派さん:2006/07/21(金) 18:08:12 ID:K.Uo3Cw2
天皇誕生日 「大戦が一番いやな思い出」 87歳の陛下、ほお伝う涙/記者会見
1988.04.29 (1)

 「体調はよく回復したし、疲れることもなく、だいぶ余裕があると思います」−−
天皇陛下は、八十七歳の誕生日を前にした記者会見で、太平洋戦争についてや、
病気のため中止となった沖縄訪問への意欲を、一つひとつ言葉を選ぶように語られた。
「大戦のことが一番いやな思い出」と語りつつ、ほおに一筋、涙も見せられた。
昨秋の手術から七か月。「健康時の八、九分まで体調が戻られた」と側近も驚くほどの
めざましい回復ぶりを示されている陛下は、暖かくなった今月から、ほぼ連日、宮殿や
生物学御研究所に通われている。お住まいの吹上御所では、出版を予定している
「皇居の植物」の執筆にお忙しい毎日。ご進講も多方面のテーマを希望され、
公務にも強い意欲を燃やされている。

 二十五日に行われた記者会見での陛下の主なご発言は次の通り。

 −−昨年の手術から半年余りたちましたが、最近のご体調はいかがでしょうか。

 「体調はよく回復したし、四月に入ってから、ほとんど毎日宮殿や生研(生物学
御研究所)に出かけています。いっこう疲れる様子もなく、だいぶ余裕があると
思いますが、侍医の意見を尊重して無理のないように努めています」

 −−手術が決定した時、どのようにお思いになりましたか。

 「医者を信用して、何ともそういうことは感じませんでした」

 −−皇后陛下のご体調はいかがですか。

 「皇后は腰の痛みは安定したようでありますが、まだ、ひざの故障があるので
歩くのが不自由でありますから、女官の介添えが必要なのであります。
そのほかのことについては、落ち着いたようであります」

 −−生物学の研究も再開されましたが、「皇居の植物」の執筆などで苦心された
点をお話し下さい。

 「普通の学者は研究に専念できますが、私の立場では、公務の余暇にしなければ
ならないので、研究がどうしても断続的になります。だから、成果をまとめるためには、
長い年月が必要であります。植物の場合は、林道等の開発のために消失することもあります。
動物の方は動くことが多いので観察はなかなか困難でありますし、天候のために、
イソ採集や海底の観察ができないこともあります」

 −−先日、五十年以上にわたり陛下にお仕えした徳川義寛侍従長が退任しましたが。

 「徳川侍従長に対しては、思い出も深いのでありますが、特に終戦の時に玉音盤をよく
守ってくれたこと、戦後、全国を巡遊した時に岐阜の付近で歓迎の人波にもまれてロッ骨を
折ったことがあります。裏方の勤務に精励してくれたことを感謝しています。
また、ヨーロッパやアメリカの親善訪問の準備をよくしてくれたので、訪問はだいたい
成功したように思われます。年齢のためにこのたび辞めることになりましたが、
非常に残念に思います」

15無党派さん:2006/07/21(金) 18:08:40 ID:K.Uo3Cw2
天皇誕生日 「大戦が一番いやな思い出」 87歳の陛下、ほお伝う涙/記者会見
1988.04.29(2)

 −−陛下が即位式(昭和三年十一月)をされてから六十年になりますが、
第二次世界大戦について、改めてお考えをお聞かせ下さい。

 「何と言っても、大戦のことが、一番いやな思い出であります。戦後、国民が相協力して
平和のために努めてくれたことをうれしく思っています。どうか今後とも、そのことを国民が
忘れずに、平和を守ってくれることを期待しています」

 −−日本が戦争に進んだ最大の原因は何だと思われますか。

 「そのことは、人物の批判とかそういうものが加わりますから、今ここで述べることは
避けたいと思います」

 −−沖縄訪問について、お気持ちをお聞かせ下さい。

 「病気のため、沖縄の旅行を中止したことを今も残念に思っています。
その時に、健康が回復したら、なるべく早い時に旅行したいと考えを述べましたが、
今日も、その精神につきましては何も変わっていません」

読売新聞社

16無党派さん:2006/07/21(金) 18:10:23 ID:K.Uo3Cw2
1988.04.12 毎日新聞東京夕刊 9頁 徳川侍従長退任会見(1)

 宮中の生き字引、尾張徳川家の血筋、学者肌、頑固−−。様々な人物評を贈られた
徳川義寛侍従長が半世紀を超える侍従生活に終止符を打つ。侍従に就任したのは
2・26事件の年の昭和十一年十一月。戦前、戦後の激動の中で、天皇、皇后両陛下の
素顔に接し、皇室を支えてきた。次の侍従長は生っ粋の行政官。
天皇の側近も大きく様変りする。

 十二日午前の記者会見で徳川さんは「いつも陛下のおそばで教えていただいている
うちに五十年がたってしまった」と退官に当たっての感想を語った。さらに「乾徳
(けんとく)をつねに仰ぎてひたぶるに 仕へまつりぬこの五十年(いそとせ)を」と、
今朝の心境を託した歌を披露した(乾徳とは天皇の徳の意味)。六十年十月、侍従長に
就いた際「微風のような仕事をしたい」と述べたが、陛下の手術という“嵐”を無事
乗り越え、皇居の新緑を渡る春風に送られて、昭和史のステージを去る。

 お別れ会見は午前十時十五分から、宮内庁舎三階の第一会議室で。徳川さんはカメラ
の前に立つと、まず「大変お世話になりました。ありがとうございました」と丁寧に
頭を下げた。「礼」に生きてきたこの人らしい締めくくり。

 なぜ、この時期に勇退したかに話が及ぶと「辞めることは去年の夏決めていたんです。
(今になったのは)国会が……」と言葉を濁した。

17無党派さん:2006/07/21(金) 18:11:01 ID:K.Uo3Cw2
1988.04.12 毎日新聞東京夕刊 9頁 徳川侍従長退任会見(2)

 島津貴子さん、常陸宮さまが自宅(東京新宿区)でお見合い、結ばれたエピソードに
触れると「島津さんの時は、皇太子さん(の結婚)に皆さんの注意が行っている時で、
うまくいきました」と笑顔に。浩宮さまのお見合いも自宅で、と質問が飛ぶと「子供が
家を建てるので、半分ぐらいに狭くなってしまいます」とかわした。

 退官までの経緯については「(陛下が)ご病気になる前に長官とその件で話をしたの
ですが、ご病気になられたのでそのままずっときてしまった。年齢の問題といっても、
陛下は私より先輩だし、申し出にくかった」と、陛下のご体調を最後まで気づかいながら
退く時期を考えていたことをうかがわせた。「私は歌とか学芸面以外は専門ではないので」
と辞意をお伝えしたとき、陛下は「それならば、ということでありました」。

 在任中、最も印象に残ったことを尋ねると「それは、非常に数が多いから……」と語り、
しばらく沈黙。長かった側近生活に思いをはせている様子だった。そしてやはり「終戦時」
を挙げた。

 「終戦直前の(二十年)八月九日から十日夜にかけて、吹上(御所)に泊まっていたん
ですが、(終戦問題を検討する)閣議がずっと続いていた。九日午後十時半まで続いて…
…翌日の午後三時に重臣会議があるので皆さんに連絡しようとしたら電話が通じず……
十日午前零時三分から二時二十五分まで最高戦争指導者会議があって……陛下のお言葉
(いわゆるご聖断)で終わったわけですネ。その日のことを私はよく覚えています」。
四十三年前の“激動の時間”を、徳川さんは淡々と振り返っていた。

 終戦の日の二十年八月十五日未明、終戦放送の録音盤を隠しとおしたことについて
「あの日は宿直ではなかったが、たまたま泊まった。十年ぐらいあとになって、私を殴っ
た人が茶釜をもって“すいません”と謝りにきたのには面食らいました」と懐かしそうに
話した。茶釜はいまも手元にあり「茶会でもしろとよく言われるんですが、なかなか他人
には見せませんよ」と笑った。

 しかし、勇退の理由は、八十歳という高齢だけではないようだ。十年程前に左目が網膜
剥(はく)離症になり、今でも書類を読むのはつらい。

 父の故義恕(よしくみ)氏は大正天皇の侍従を務めた。妹の北白川祥子さんはいまも
女官長。兄妹で天皇、皇后両陛下の側近として任えてきた。常陸宮妃華子さまはめい。
一族で皇室を支えてきたという自負があったのだろう。

 義恕氏は尾張徳川家十四代、慶勝氏の十一男。(了)

18無党派さん:2006/07/27(木) 09:54:27 ID:ynH95BVo
富田メモ - 意義と今後の検証 (7月23日付け、日本経済新聞 特集面)

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
富田朝彦元宮内庁長官が残した日記、手帳(富田メモ)を公表するに
当たり、日本経済新聞はその筆跡、内容などを詳細に分析し、現代史の
専門家の意見を聞いた。その結果、書き込まれてきた行事、出来事の
日付や内容は事実と整合性があり、メモの信頼性が高いと判断した。
富田メモにはいくつかの特徴がある。まず日記は一部年をまたいでいるが、
一年で一冊の体裁。期間は1975年から86年まで、内容は昭和天皇の言葉や
宮内庁の出来事のほか、家族や友人のことなど多岐にわたり、写真や新聞の
切り抜きなども数多く張り付けられている。必ずしも毎日書き続けられて
いたわけではなく、日付の間隔がかなり空いている部分もある。
一方、手帳は背とじと取れたものを含めると二十数冊。表紙に
「T・TOMITA」の名前の入った手帳が八七年から九七年分まで。その日の
予定、出来事が小さな文字でびっしりと書き込まれている。だだ、箇条書き
が多く、天皇の言葉を詳しく書いた部分はほとんどない。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
(続く)
http://up2.viploader.net/pic/src/viploader241207.jpg

19無党派さん:2006/07/27(木) 09:55:11 ID:ynH95BVo

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
これと様相を異にする別の手帳が八七、八八年の二年分ある。八七年分は
二つに分かれており、それぞれ五センチ近い分厚さ。八八年の手帳も二冊
ある。内容もそれまでの年の手帳とは一変し、毎日の出来事や出会った人物
との会話、宮内庁が抱える課題などが詳しく書き込まれている。
なせこの二年分の手帳の内容が詳しくなったのかは不明だが、日記が八六年
で途絶えていることから、手帳が日記代わりになったのではないかとみられる。
この二年間の手帳の特徴は書き込みのあるメモ用紙が至るところに張り付け
られている点。出来事や発言を手近のメモ用紙に張り付けたのではないかと
みられる。昭和天皇が靖国神社のA級戦犯合祀に不快感を示した言葉が
見つかった手帳は、すべてメモ用紙を張り付けた形になっている。
その内容は手元にあるメモ用紙にことあるごとに書き込んでいたのでは
ないかとみられ、一日の出来事がすべて書き込まれているのではないかと
思えるほど詳細。一日の出来事を思い出しながら書き日記とは違い、
タイムラグがすくないこの書き込みはより正確な記述といえよう。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

http://up2.viploader.net/pic/src/viploader241207.jpg


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