したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

フェイク『男』のチラシの裏

339フェイク『男』:2017/06/14(水) 22:40:21 ID:32ZaGZsg
617 名前:フェイク『男』 投稿日:2017/06/14(水) 22:20:50 ID:32ZaGZsg
タロットの17番目である「星」は、希望、明るい前途、鋭い洞察力、ひらめき、霊感、願いの成就、失望、絶望、高望み、自信過剰、見損ない、現実逃避などを暗示するとされる。
ジョジョの作者である荒木氏は主人公の姓である「ジョースター」について、「スター」の部分は希望の星のような発想による命名であると語っており、
まさしく漫画の主人公というものは希望に満ちた存在だし、前途は明るく願いは叶うべきで、特に単純な力による解決を良しとしないジョジョの主人公ともなれば、ひらめきや洞察力は何より重要に違いない。
その一方で、あまりに過剰な表現をし過ぎれば、しょせん漫画の主人公などというものは空想の産物、高望みの現実逃避であると、読者を失望させることになりかねないという一面もある。
そしてそんな主人公たちのスタンドもまた、強く逞しい不屈の力で皆の希望となり、鋭い洞察力を活かせるような応用力を備え、時には新たな能力に成長して願いを叶えるような能力ばかりなのである。
そういうわけで、ジョジョ三部の「スタープラチナ」を始めとして、四部の「クレイジーダイヤモンド」、六部の「ストーンフリー」、七部の「タスク」と、三部以降の歴代主人公は全て「星」の暗示だとしておく。
(参照:主人公のスタンド能力の傾向…>>46の最上段)

340フェイク『男』:2017/06/14(水) 22:40:32 ID:32ZaGZsg
618 名前:フェイク『男』 投稿日:2017/06/14(水) 22:21:02 ID:32ZaGZsg
タロットの18番目である「月」は、嘘や裏切り、水のトラブル、未知の世界への恐怖、不安定、幻惑、潜在的な危険、欺瞞、隠れた敵、失敗、過去からの脱却、徐々に好転、優れた直感、漠然とした希望などを暗示するとされる。
ジョジョ三部の「ダークブルームーン」も、水中という特殊環境での戦いを得意とし、その本体は恐らく元々鍛えられた水夫であり、巧みな変装で攻撃対象を騙そうとするも、自分自身も騙されて正体を暴かれるという、これらの暗示通りの能力だった。
そして四部では、不定形の液状スタンドを酒に化けさせて不意討ちしたり、様々な日常の水分に混ざり込んで攻撃を仕掛け、その本体は刑務所からの脱走後に町中へと隠れ潜みつつ、主人公の敵として忍び寄る「アクアネックレス」が、
六部では、天国という未知の世界へ辿りつくための途中の能力であり、その本体は己のスタンドが何を引き起こすか予測も付かない不安と危険の中で、それでも漠然とした希望を信じて過去からの脱却を目指す「C-MOON」が、
七部では、隠れた敵や潜む危険を鋭く見つけ出す能力を有するが、その本体は事情により敢えてこのスタンドを手放すという危険を冒すことで、その後に更なる技術へと成長することになる「ジャイロのスキャン能力」が、「月」の暗示と言えるだろう。
(参照:C-MOONについて…>>41の最上段)

341フェイク『男』:2017/06/14(水) 22:40:43 ID:32ZaGZsg
619 名前:フェイク『男』 投稿日:2017/06/14(水) 22:21:14 ID:32ZaGZsg
タロットの19番目である「太陽」は、成功、誕生、祝福、満足、物質的な幸福、力の結合、恒常的、不調、衰退、流産、堕胎などを暗示するとされる。そしてこれらは現実の太陽そのもののことでもある。
太陽は地上に存在するあらゆる生命のエネルギー源であり、また同時に太陽の熱や渇きは地上に衰退をもたらす脅威にもなる。従って、本物の太陽と同然の姿と迫力であるジョジョ三部の「サン」もまた、これらの暗示通りの能力だった。
そして四部では、奇妙な経緯により植物として誕生し、太陽の力を利用した光合成を用いて、地上に遍在する空気という物質を自在に操る能力を有し、最終的には気の合う飼い主を得て幸せにやっているらしい「ストレイキャット」が、
六部では、未知だが確かに存在する未確認生物と心を通わせることで、敵の体温を奪って不調をもたらし、その本体は精神の成長と祝福を求め、己の心を太陽神の名を冠する宇宙計画に譬えて戦い、最後には満足して斃れていった「スカイハイ」が、
七部では、ツェペリ家の鉄球技術とジョースター家の乗馬技術の結合の末に、世界に遍在する重力を支配し、攻撃対象に老化のように衰えさせるものの、結局は一度も完全な発動には至らなかった「ボールブレイカー」が、「太陽」の暗示と言えるだろう。

342フェイク『男』:2017/06/14(水) 22:40:53 ID:32ZaGZsg
620 名前:フェイク『男』 投稿日:2017/06/14(水) 22:21:33 ID:32ZaGZsg
タロットの20番目である「審判」は、再生、復活、結果、改善、敗者復活、良い報せ・悪い報せ、悔恨、未練、停滞、執着、恐れ、行き詰まり、再起不能などを暗示するとされる。特に、聖書における最後の審判に例えられることも多い。
ジョジョ三部の「ジャッジメント」も、既に起こってしまった結果を認められない人間の悔恨や未練に付け込んで、死者の復活を装いつつ攻撃を行い、物理的な攻防よりも先に相手の心を戦闘不能にしてしまうという、これらの暗示通りの能力だった。
そして四部では、対象を紙の中に封印することで全く停滞した状態へと追いやるが、紙を開ければ誰でもそれを復活させることが可能であり、その本体は他者の恐れの心を審判することに執着していた「エニグマ」が、
六部では、既に起こった物事の結果を土の中から掘り返して再生させ、攻撃対象を行き詰まりへと追いやったり自身の情報収集に使ったりすることができ、その本体は自分自身の人生を復活させることに執着していた「アンダーワールド」が、
七部では、死者たちをゴミの中から再生したり、既に起こってしまった結果を認められない人間の悔恨や未練に付け込んで攻撃を行うことで、最終的には恐らく対象を全く停滞した再起不能の状態にしてしまうらしい能力であり、
更に効果範囲の中ならば本体は死の淵からも復活することが出来るものの、実は条件を満たせば誰でも同じく復活することが可能で、その本体は自分自身の人生を復活させることに執着していた「シビルウォー」が、「審判」の暗示と言えるだろう。

343フェイク『男』:2017/06/14(水) 22:41:05 ID:32ZaGZsg
622 名前:フェイク『男』 投稿日:2017/06/14(水) 22:22:03 ID:32ZaGZsg
タロットの21番目である「世界」は、物事の完成、宇宙全体、成就、完全、総合、完遂、完璧、優勝、制覇、永遠不滅、堕落、未完成、臨界点、調和の崩壊などを暗示するとされる。
また最後のタロットでもあることから、これらの暗示は概ね漫画作品における最後の敵、いわゆるラスボスを指し示していると考えていいだろう。
漫画のラスボスというものは作中で最も強い野望を抱き、目的の成就のためなら既存の調和を崩壊させることも厭わず、邪悪であるとか強者であるとかどのような属性にしろ、どこかの面で完全な存在であるものだ。
その一方で、最後には主人公に敗北してそれらの野望は未完成に終わるのがお約束でもあるが、その場合そこでその物語は終わりとなるのが通例である。即ちラスボスとはその漫画作品を能動的に動かす、作品を総合した存在なのである。
またジョジョ三部以降の歴代ラスボスは、いずれも時間に関わる能力を有することで知られるが、これらの能力は全て、少なくとも時間を計る分には宇宙全体に関わる効果であり、一手に世界を支配する能力であると言える。
ジョジョには他に運勢を操作するとか予知を行うといった、運命そのものに関わる能力もあるが、時間を操る能力はそれらに比べて持続時間が短かったり発動条件が困難だったりする代わりに、能力の即効性や強制力は絶対的だという特徴がある。
そういうわけで、三部の「ザ・ワールド」を始めとして、四部の「キラークイーン」、六部の「メイド・イン・ヘブン」、七部の方の「ザ・ワールド」と、三部以降の歴代ラスボスは全て「世界」の暗示だとしておく。
なお、七部のラスボスは大統領かディエゴかという疑問をたまに聞くこともあるが、これは単に以前のラスボスが担っていた要素を七部では大統領とディエゴで分担しているというだけの話で、取り敢えずスタンドの暗示に関しては上記の通りとする。

344フェイク『男』:2017/06/14(水) 22:41:27 ID:32ZaGZsg
624 名前:フェイク『男』 投稿日:2017/06/14(水) 22:23:11 ID:32ZaGZsg
ジョジョ三部に登場するスタンド能力の大部分は、タロット及び作中でタロットの起源とされるエジプト九栄神の暗示で説明されるが、数体ほど何の暗示も行われていないものが存在する。
これは作品的には、単にタロットや九栄神だけでは足りなかったという作者都合に過ぎないのだが、それでも敢えて暗示が無いことの暗示を無理矢理に解説してみることとする。
暗示が無いということの暗示は大きく分けて二つある。一つは、そのスタンドが作中で真っ当なスタンド能力として成立していないということだ。
つまり、能力の断片しか描かれていなかったり、暴走していて十全に機能している場面が無かったり、まともに名前も付けられていなかったりするもので、三部では「ホリィのスタンド」と「ジョナサンのスタンド」がこれに当たる。
そしてもう一つは、既存の世界の枠組みの外側を暗示するスタンドだ。三部の「ティナ―サックス」と「クリーム」は、暗示が無い割りに一つのスタンドとしてかなりハッキリとした描写があり、明らかに上記の二つとは異なる雰囲気がある。
これらのスタンドはタロットや九栄神とは無関係な名前や真っ当な能力が与えられた物語上初めてのスタンドたちであり、四部以降もタロットや九栄神という世界観とは無関係なスタンドが次々と現れることの前兆となっているのである。
また、それらのスタンド能力も、幻覚の光景を周囲に映し出すとか、本体以外の全ての存在を拒絶して粉微塵に破砕する暗黒空間であるとか、どことなく異世界感を抱かせるものだと言えなくもない。

345フェイク『男』:2017/06/14(水) 22:41:48 ID:32ZaGZsg
625 名前:フェイク『男』 投稿日:2017/06/14(水) 22:23:34 ID:32ZaGZsg
さて、私が説明したタロット解説の中にも(事情的に言えば数合わせのために)除外されたスタンドがいくつかあるので、それらも上述の暗示の無い暗示に当て嵌めておく。
四部では、次々と新しい能力を身につけ、Act1とAct2が音繋がりの発展形かと思いきやAct3で殴ったものを重くすると、もはや一つの能力とは言えなくなってしまった「エコーズ」、
本当にスタンド能力なのかも不明な、自称宇宙人の「アース・ウィンド・アンド・ファイヤー」、存在だけは言及されたがそれ以上の描写は一切無い「虹村一家の父親のスタンド」の三体。
六部では、スタンドのステータスはいずれも「なし」で、幽霊の世界という実在する異空間に関わる能力であり、スタンドというよりはそういう霊感能力の一種なのではないかとも思われる「バーニング・ダウン・ザ・ハウス」、
同じく幽霊を扱う能力を持っていたとされる「エンポリオの母親のスタンド」、プッチ神父がFF対策として準備していたらしいということ以外は詳細不明の(実は意外と強そうな)「水を熱湯にするスタンド」、
全てのステータスが「?」で、連載当時は名前も付けられておらず、能力も正体不明の代物で、本体も天国という更なる世界に関わりがあるということ以外はほとんど何も判らない「グリーン・グリーン・グラス・オブ・ホーム」の四体である。

346フェイク『男』:2017/11/17(金) 22:44:09 ID:8CECwU1.
303 フェイク『男』2017/11/17(金) 22:38:55.56ID:WF/9nCFI
【エジプト九栄神で読み解く漫画論その9…アトゥム神】
この「ジョジョの奇妙な冒険」という漫画作品には非常に多くの「元ネタ」がある。だが、その「元ネタ」となる作品群とて、無から突然に出現したわけではなく、更に「元ネタ」があるものだ。
そうして「元ネタ」をどんどん辿っていけば、いずれは「現実世界」に行き着く。即ち「現実世界」こそが唯一の「オリジナル」であり、人間の創作活動とは言わば全てが「二次創作」だ。
そして一般に「二次創作」には、原作に対する「愛」や「敬意」が重要だと考えられている。ならば、創作物にはまず「現実世界」への愛や敬意があって然るべきだろう。(無暗に現実を肯定しろというわけではないが)
(参照:「タスク」に見る創作の段階…ttp://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/movie/4971/1132500800/211)
さて、エジプト九栄神の一つ「アトゥム神」は似たような能力を持つ「オシリス神」より後に登場したスタンドであり、その本体も兄弟関係ながら、明らかに「アトゥム神」の方が「オシリス神」より便利な能力に見える。
これも言ってみれば「アトゥム神」は「オシリス神」の二次創作のようなものだ。「オシリス神」という「元ネタ」に更なる能力を上乗せしているのだから、機能的には「アトゥム神」の方が上で当然である。
だが作中の扱いはと言えば、「アトゥム神」の本体ダービー弟は明らかに兄よりも情けなく愚かな末路を迎えている。優れた技術や能力を持ちながら、その力に慢心し、単純なイカサマを見破ることが出来なかった。
それは「アトゥム神」が強すぎたからだ。「オシリス神」は純粋に本体の技術を頼りとする能力だったが、「アトゥム神」は追加で読心能力という、およそゲーム関係では無敵の能力を得てしまった。
だからその読心が通用しなくなった時に、己の地金が露呈してしまったのだ。それこそ、己の能力頼りではなく常に自身の技術を必要とする「オシリス神」のダービー兄ならば、こんなことにはならなかった。

347フェイク『男』:2017/11/17(金) 22:44:36 ID:8CECwU1.
304フェイク『男』2017/11/17(金) 22:40:31.02ID:WF/9nCFI
ダービー弟には兄の能力や技術に対する「敬意」が無かった。だから、己を律し戒める「敬虔さ」に欠け、DIOが言うところの「死んでもいいという覚悟」が出来ておらず、最終的な敗北に繋がったのだ。
(参照:技術を能力に進化させたスタンド…ttp://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/movie/4971/1132500800/106の二段目)
(参照:技術を補うためのスタンド…ttp://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/movie/4971/1132500800/137の上段)
ただし、ここで一つ注意しておくべきことがある。「アトゥム神」のダービー弟は確かに無様な敗北を迎えたが、我々は彼のような敗北者を見下すべきではないということだ。
作中、空条承太郎はダービー弟に対し「お前の兄貴ならこんなイカサマ難なく見破っていただろうな……」と兄と比べる発言をしてはいるものの、決してダービー弟を馬鹿にしてはいない。
もっとも、ダービー兄も最終的には承太郎に負けたのだから、兄を褒めすぎても自画自賛になるだけで格好悪いとも言えるのだが、それよりも、弱者を見下し軽んじる精神は「敬虔さ」に反する。
ダービー弟のような者を見下げる考え方そのものが、ダービー弟の敗因である兄への侮蔑と同類なのだ。たとえ出来の悪い「二次創作」でも、それもまた「現実世界」の生み出した文化の一部なのである。

348フェイク『男』:2017/11/18(土) 21:00:12 ID:Tl8qwHQc
310フェイク『男』2017/11/18(土) 20:58:41.63ID:WcUVgbYN
【エジプト九栄神で読み解く漫画論その8…アヌビス神】
俗に「漫画の作者は自分より頭の良いキャラを描けない」と言われるが、バトル漫画においては「自分の描写力を超えた戦闘も描けない」と言い表すことも出来る。
これは特に「インフレバトル」と呼ばれる類の漫画作品に顕著であり、ジョジョの作者である荒木氏も折に触れて「インフレ」を避けるような発言を行っている。
さて、エジプト九栄神の一つ「アヌビス神」は、敵の攻撃を覚えてどんどん強くなっていくという、まさに「インフレバトル」そのままの能力を有していた。
しかし、最初のうちは活用していた「物体を透過する斬撃」は途中から使われなくなり、最終的にはマヌケなミスを繰り返して自滅することとなる。
しかも「物体を透過する」とか「他者を操る」とかこれまた色々とインフレ気味にくっついている能力の数々も、最後には上手く扱えずに失敗続きだった。
これはまさに「漫画家は自分の描写力を超えた戦闘を描けない」という制約そのものの姿だ。自分の描写力を超えた物事を無理に描き続けようとすれば、
そこには自然と見落としや間違いが生まれ続け、岡目八目の読者にはそんな漫画家の悪戦苦闘が「マヌケなミスの繰り返し」に見えてしまうのである。
ちなみに、この現象を作中の理屈に落とし込むならば、アヌビス神は「星の白金」の渾身のラッシュを覚え切ったところで「容量オーバー」となり、
スペック不足のパソコンが処理落ちするように、ミスを重ね続けてしまったというところだろうか。これもまたバトル漫画ではお約束の展開だ。

349フェイク『男』:2017/11/19(日) 22:50:04 ID:WNMTiR.U
319フェイク『男』2017/11/19(日) 22:48:10.39ID:YXmW551u
【エジプト九栄神で読み解く漫画論その7…トト神】
「事実は小説より奇なり」という言葉があるが、逆に小説(などの創作物)では事実ほど突拍子も無い出来事を次々と起こすことは出来ないとも言える。
現実に起こす出来事は全てが基本的に偶然の産物であり、もしも運命だとか神の采配だとかが存在するとしても我々にはとてもそれを実感できないのに対し、
創作物の中の出来事は全てが基本的に作者の産物であり、何らかの「意味」や「必然性」をもって世に送り出されることを期待されているからである。
(参照:創作物の中の偶然…>>139
さて、ジョジョという漫画には非常に魅力的な戦いがいくつも描かれているが、その多くは戦う双方が究極にまで力を出し尽くしているものだ。
力を出し切れないうちに不運にも負けてしまうとか、極端に言えば滑って転んだ隙に殺されたとか、隕石が落ちてきたり地割れに呑まれて死んだり、
そんなことも確率的には現実にありえる物事ではあるが、そういうのは漫画の作中ではまず起きない。あるとしても、その偶然にも何らかの作品的「意味付け」がされているものだ。
物語にはそれを語るだけの「意味」がある。だから漫画の登場人物、特にメインキャラクターともなれば、理不尽な偶然からは自然と守られることになるのである。
エジプト九栄神の一つ「トト神」は予知能力によって未来に起こる「偶然」をも味方につけ、毒や爆弾や狙撃といった割と「現実的」な手段を用いて主人公一行を攻撃したが、
その試みがことごとく失敗に終わったのも、上述の理由によるものである。そして作中でトト神の本体ボインゴは、主人公やラスボスたちは強運に守られていると考えている。
この強運に作中の理屈で理由を与えたものが、六部における「引力」という概念であろう。強い精神力の持ち主はその精神的な質量により、霊的な重力を生み出す。
そして重力によって引き寄せられた善いものを自身に取り込み、悪しきものをその強さで退けることで、強者は創作物の中の世界で合理的に強運を発揮するのである。

350フェイク『男』:2017/11/21(火) 23:55:41 ID:lm.hZfBc
329フェイク『男』2017/11/21(火) 23:51:03.90ID:ZeegSnTF
【エジプト九栄神で読み解く漫画論その6…クヌム神】
まるで現実に則しない物語など無意味でつまらないものだが、どんな創作物でも現実性の追求には技術的・時間的に限度があり、どこかで線を引いて妥協せざるを得ない。
そして特にジョジョという漫画は、作中における複雑な出来事の簡略化や、単純な主題の誇張を強く押し出し、その外連味をむしろ一種の持ち味としている作風だと言える。
例えば、モブキャラが物語の中で重要な立ち位置になった途端に美形のメインキャラ風の顔になったり、逆に重要人物のように思われていた者がモブキャラだと判った途端に顔が適当な感じになったり、
金髪のキャラの髪の毛を緑色に塗ったり、広瀬康一の身長だとか、川尻洪作に化けた吉良吉影のドクロネクタイだとか、女から男になったアナスイだとか、大統領のダイエットだとか……この手の表現は枚挙に暇が無い。
ただ、これらは何の意味も無く受けを狙っているだけというわけではなく、どれも一応きちんとした表現意図があってのことであろう。目的が絞れているからこそ、表面上の見せかけではない創作が出来るものだ。
逆に言えば、作者が己の創作に迷いを抱いていると作品にもそれが表れるものである。個人的には、近年に荒木氏が手がけることの多い「今の絵柄で昔のキャラを描いた絵」の何とも言えない違和感について、
それは単に今と昔の画風の差だけでなく、その背後にある作風の変化が昔のキャラに対応しておらず、昔のキャラを描くことが表面上のことになってしまっているのではないかと思わなくもないのだが……。

351フェイク『男』:2017/11/21(火) 23:56:04 ID:lm.hZfBc
330フェイク『男』2017/11/21(火) 23:52:11.69ID:ZeegSnTF
さて、エジプト九栄神の一つ「クヌム神」のオインゴは作中で承太郎に化け、ジョセフとポルナレフを騙そうとするが、この時のオインゴは焦りや混乱で随分とマヌケな顔を晒している。
それこそ、承太郎と言えばジョジョの作中では崩れた顔やギャグ顔をほとんど見せることのないキャラクターだ。「トト神」の極めてシュールな画風の中ですら、承太郎は心持ち美形に描かれているようにすら見える。
そしてオインゴに応対するジョセフとポルナレフも、相手の不審な言動を少し怪しみつつも結局その正体を見破ることは無く、かなり不注意なように描かれている。これらもまた、漫画的な誇張表現であろう。
漫画の主人公たちは常に冷静で格好良いとは限らない。承太郎も見えないところでは口の中に煙草を入れる一発芸を披露したりするし、あれだけ顔の崩れたオインゴでも正体を見破られたりしない顔なのである。
(とはいえ、承太郎に化けたオインゴの方もギャグ描写のために「誇張」して過度なマヌケ面になっているのだろうから、果たして本当の承太郎がどの程度の顔立ちなのかは、ハッキリした言及が無い以上は断定できない)

352フェイク『男』:2017/11/23(木) 00:47:56 ID:eX5hMC8.
334フェイク『男』2017/11/23(木) 00:46:00.51ID:4cdpPyCu
【エジプト九栄神で読み解く漫画論その5…セト神】
俗に「子供向けと子供騙しは違う」と言われるが、登場人物が現実的に殴り合うような作品ならまだしも、そもそも現実に存在しない超能力を用いた「能力バトル」というものは、どうすれば「子供騙し」ではなくなるだろうか。
荒木氏の作品はそれこそデビュー作「武装ポーカー」の頃から単純な力比べによる決着を良しとせず、力の上に更なる工夫を凝らす作風だったが、ジョジョ三部から登場した「スタンド」はその流れにおける一つの到達点である。
一部の例外を除き、スタンド使いは肉体的にはただの人間である。単なる銃や刃物の攻撃でも充分に致命的だし、荒木氏の好むホラーやサスペンスの文脈から、時にはハサミやカミソリといった凶器が猛威を振るうこともある。
そこに一つの発想が生まれる。もしも読者の自分がスタンドを使えるなら、果たして自分は作中のスタンド使いたちのように戦えるだろうか? 肉体的にはほとんど同じ人間なのに、まるで戦える気がしないのではないだろうか。
ジョジョの登場人物は敵も味方も皆が「知恵」を振り絞って戦っている。そして、単に言葉の上で理屈を捏ねているだけでなく、自分の命を懸けてその理屈を実証する精神力と迫力、即ち「凄味」がある。
スタンドという超能力は現実には存在しないが、スタンド使いが戦いの中で振るう「力押しだけではない知恵」や「理論を実践する凄味」は現実にも通用する強さであり、老若問わず楽しめる要素なのだ。
そして、エジプト九栄神の一つ「セト神」の本体アレッシーが、ほとんど無力なまでに若返らせたはずの相手に何度も敗北を喫したのも、彼の戦った相手が力押しだけでない強さを備えていたからだと言える。
二歳児相当にまで若返ったポルナレフは「知恵」を振るい、スタンドが使えない幼少期の承太郎は「凄味」を見せた。大人と子供の単純な力関係に頼るしかないアレッシーが敗北したのは必然だったというものだ。

353フェイク『男』:2017/11/23(木) 22:10:45 ID:eX5hMC8.
339フェイク『男』2017/11/23(木) 22:07:07.20ID:4cdpPyCu
【エジプト九栄神で読み解く漫画論その4…バステト女神】
創作物において現実性は大事な要素の一つではあるが、諸々の事情で表現が「規制」されている現実も存在する。その中には、例えば政治、宗教、差別問題など、確かに娯楽目的の漫画で扱うには少々荷が重い部類も多い。
だがそこまで大仰な題材でなくとも、身近な存在の中にも描写の制限がありそうな分野がある。その一つが「女性」だ。いくら男女平等の世の中とはいえ、一方で男女の肉体的・性格的な差異は依然として認めざるを得ない。
少年漫画の男性主人公が、いくら敵であろうと「女性を殴る絵面」はそうそう描けないし、そもそも作者自身も男性ならば女性の行動や心情を描写するにも難しい。
ジョジョという漫画では「スタンド」という設定により、女性を敵として戦う場合も相手が女性だからと変に手加減することなく、直の殴り合いを避けることが出来ているが、
エジプト九栄神の一つ「バステト女神」の本体マライアの表現はその中でも特異である。作中、マライアは自身が勝利を確信した攻撃を戦闘相手に凌ぎ切られ、顔を歪めて激怒する場面があるが、
普通、美人の女性キャラともなれば、たとえ怒り狂ったり暴言を吐くような「変顔」とか「顔芸」の際も、相応の「絵になる」描写になるものだが、この時のマライアはどうしようもなく「醜い」としか言えない。
これもまた、色々と制限のある中でも女性を男性と対等に扱おうという描写の一環であると言えなくもない。とはいえ少々「醜すぎる」ようにも思うが、限られた範囲内での精一杯の表現と考えれば、それも仕方ない。
なお、ジョジョの作者である荒木氏は昔から女性を描くのが苦手だったそうだが、六部連載前にアメリカの刑務所を取材した際「女性と男性に違いは無い」という話を聞いたという。
「女性の中にも殺人犯もいれば強姦犯もいる」とのことで、それが六部の、あの何と言うか生き生きとした女性たちの描写に繋がっているのだが、マライアの変顔は言わばその出発点だったのかもしれない。

354フェイク『男』:2017/11/25(土) 00:07:20 ID:rVvn.Lqw
344フェイク『男』2017/11/25(土) 00:05:00.98ID:Oyc4BwjS
【エジプト九栄神で読み解く漫画論その3…ゲブ神】
ジョジョの主題は「人間賛歌」であり、もう少し砕けて言えば「人間は素晴らしい」ということになるが、同時にジョジョの作中にはどうしようもない小悪党とか吐き気を催す悪人とかが山ほど登場する。
もちろん、悪人のいない世界で善人が善行をするだけでは「人間賛歌」としてあまりに弱いのだが、更によくよく見てみれば、そうした小悪党とか大悪人とかも妙に人間的で、ある種の魅力を感じさせるものだ。
それは恐らく単純な受け狙いというだけではなく、邪悪を打倒する「人間賛歌」だからこそ、否定すべき邪悪にも人格があり、人生があり、それなりの言い分があるということまで描かなくてはならないのであろう。
邪悪な人物だからといって何一つ良いところの無い、都合の良い悪党ばかりというのも、やはり薄っぺらい描写になってしまう。そういう、否定すべきものに対しても中立の視点を保つことが、創作には必要なのだ。
エジプト九栄神の一つ「ゲブ神」の本体ンドゥールが言う「悪には悪の救世主が必要」という台詞も、まさにそういった公平な観点を表すものである。
また、このンドゥールの描写辺りから、ジョジョの戦闘では敵側の主観視点で主人公たちとの戦いを描くという表現も増えてくる。これも公正さの一環だ。
ちなみにジョジョの作者である荒木氏によれば、この「人間賛歌」という主題はジョジョの最初の単行本の作者コメント欄に何か書かなければならないという必要に応じてとっさに思いついた言葉であり、
その後も、主に作者が作品の方向性について迷子にならないように、という目的で設定されているとのことだ。これくらいの冷静さの方が中立の視点は保ちやすいのかもしれない。

355フェイク『男』:2017/11/26(日) 01:19:45 ID:G5xBNn6o
351フェイク『男』2017/11/26(日) 01:17:42.36ID:iLbqTn4g
【エジプト九栄神で読み解く漫画論その2…ホルス神】
「公正世界仮説」という概念がある。この大宇宙には善と悪のバランスを保とうとする力が存在し、善悪全ての行いは最終的に然るべき扱いを受けるという考え方だ。
これは例えば、正義は勝つ、悪行には罰が当たる、成功した者はみんな努力している、情けは人の為ならず、など人間の倫理道徳において有益な理念へと繋がることもあれば、
一方で、犯罪の被害者にも落ち度はある、いじめはいじめられる方も悪い、誰々が苦しんでいるのは前世の罪によるものだ、など偶然のはずの出来事に対し被害者を非難する発想にもなりがちである。
こうやって冷静に見てみれば、どうにも都合の良い世界観であるというか、現実の世界はあくまで偶然の産物であり、そこまで人間の目線で辻褄が合っているものではなさそうだとも思えるのだが、
とはいえ上述の言葉の、何というか甘美さを考慮すると、少なくとも人間の心理としては、こうした願望もあることは否定できない。誰だって、自分の運命が全て偶然だと思うよりは、自分の心や努力が報われたいものだ。
そして現実のような偶然ではなく、作者の意思が全てを決定する(と思われている)創作物の中の世界に対しては、この「公正世界」は仮説ではなく事実であることを求められやすい。
漫画の中では本当に正義が勝つものである。あるいはダークヒーローが主役の悪行物語だとしても、例えば弱肉強食であるとか、善行だけでは世の中やっていけないというような概念が、その作品内の正義となっているものだ。

356フェイク『男』:2017/11/26(日) 01:20:06 ID:G5xBNn6o
352フェイク『男』2017/11/26(日) 01:18:11.45ID:iLbqTn4g
さて、エジプト九栄神の一つ「ホルス神」の本体ペットショップは、善悪という概念とは無関係な動物である。動物の世界は弱肉強食であり、彼(?)が主人に従って殺戮を繰り返していたことも邪悪とは言えない。
そしてこのペットショップと死闘を繰り広げた「ザ・フール」のイギーもまた、別段に善の存在ではない。「犬好きの子供は見捨てておけない」という彼の思考は善行らしくも見えるが、人間の善に従っているとは言えない。
片や命令に従うだけのペットであり、片や善も悪も気の向くままに生きる野良犬に過ぎないのだ。また心なしか、氷の能力に砂の能力と、双方のスタンド能力も何だか空虚さや無味乾燥さを暗示していると思わなくもない。
この動物同士の戦いは一応ながらイギーが勝利を収めたが、彼とて戦闘後は川底で溺死を待つばかりであり、実質的には引き分けも同然だった。それを助けたのは、イギーが善行らしい振る舞いで救った「犬好きの子供」である。
即ちジョジョという作品の世界観もまた、「情けは人の為ならず」という言葉が真に実行される「公正世界」であるがために、イギーは生き延びペットショップは死んだままなのだ。

357フェイク『男』:2017/11/26(日) 22:50:56 ID:G5xBNn6o
356フェイク『男』2017/11/26(日) 22:48:59.48ID:iLbqTn4g
【エジプト九栄神で読み解く漫画論その1…オシリス神】
私はこの前置きで様々な考察というか妄想の類を捏ね回しているのだが、エンターテイメントを目的とする漫画作品の場合、読者の納得は理屈よりも感情に拠るところが大きい。
特に週刊少年漫画というものは、「荒木飛呂彦の漫画術」などにも記されている通り、少しでも面白くなかったら読み飛ばされてしまう恐れのある媒体であり、読者を考えさせている暇は無い。
ジョジョという漫画では多くの理屈っぽい説明が成され、これがまた私のような理屈のために理屈を捏ねるのが好きな部類の読者を呼び寄せたりもするのだが、
漫画作中の理屈はそもそも全て読者をまず感情面から納得させるためのものであるのが基本だし、商業作品としての娯楽漫画なのだから出来るだけそうあるべきだ。
中にはごく一部、作者のこだわりを優先して読者への説明が不足している設定もあるにはあるが(「光速を超えたら時が止まる」など)ジョジョの理屈の大部分は、あれで最小限の説明なのである。
さて、エジプト九栄神の一つ「オシリス神」は、その本体の弟のスタンド「アトゥム神」と並び、「賭けというのは人間の魂を肉体から出やすくする」「敗北を認めた瞬間、魂のエネルギーは限りなく0に近くなる」と、
スタンドの個々の能力について込み入った原理が説明されているが、これもまた「何故彼らをゲームで負かせば奪われた魂が戻ってくるのか」とか「何故兄弟というだけでこれほど似た能力なのか」とか、
「そもそも何でバトルじゃなくてゲームなんてしてるのか」といった疑問や違和感に対し、充分な納得感を与えるため必要な説明だったと言える。
思い返せば荒木氏のデビュー作である「武装ポーカー」も賭け事の話だったし、以降もこのようなゲーム系のスタンド能力は時折に登場することから、ジョジョにとってゲーム系の能力は相性が良かったのだろう。

358フェイク『男』:2017/11/26(日) 22:51:23 ID:G5xBNn6o
357フェイク『男』2017/11/26(日) 22:49:45.02ID:iLbqTn4g
余談だが「オシリス神」の能力の疑問として、承太郎が書いた「花京院の魂を賭けるという証文」は本当に有効なのか、というものがあるが、これはどうとでも解釈できる。
例えば「アトゥム神」が承太郎の攻撃を先読みして手首にスタンドの一部を憑りつかせたのと同じくらいには花京院の精神の隙を付けるのではないかとか、
あるいは「アトゥム神」とは違い「オシリス神」なら本当にあれだけで花京院の魂を奪うことができ、これこそが「オシリス神」独自の強みであるとか、
もちろんあれは完全にただのハッタリであり、そんな方法で重圧をかけてくるのも「オシリス神」本体ダービー兄の技術の巧みさだという考え方もありだろう。
どう考えたってそれなりに納得がいくことだし、むしろ種明かししないことも雰囲気作りの一環であることから、わざわざ作中で説明の時間を取ってまで解説することはなかったのだろう。

359名無しさん:2018/10/09(火) 22:58:10 ID:bwHCI11c
524 フェイク『男』投稿日:2018/09/16(日) 22:35:30.75 ID:omrikIsc
ジョジョ六部の登場人物エルメェス・コステロのいわゆる「名言」として、「復讐とは自分の運命への決着をつけるためにある」という台詞が広く知られているそうだが、この台詞を成立させるためにはいくつかの前提条件がある。
これはジョジョ三部の方の復讐者であるポルナレフなどにも共通するのだが、まず復讐対象は冤罪や更生の可能性が一切なく、誰がどう見ても死んで償うべき人間の屑であることが望ましい。また復讐に他者を巻き込むような方法を取ることも避けるべきだ。
そして何より重要なのは、復讐を果たしたとしても本当に「自分の運命への決着」を付けられるかどうかだ。ジョジョの登場人物は誰も彼も強靭な(悪く言えば「漫画的」な)精神力を誇り、だからこそ憎むべき敵を倒してそれで終わりにすることができる。
だがジョジョという漫画以外の状況では、人間は得てしてそれほど強くなく(良く言えば「現実的」であり)復讐を果たしても心が納得しないとか、直接の復讐対象以外にも憎しみを広げたりとか、エルメェスの台詞では解決できない状況になることもある。
そうなると、エルメェスが否定した「復讐なんかをして失った者が戻るわけではない」とか「許す事が大切」という言葉にも一定の意味が生じる。そういう言葉で心が揺らぐ人間は元より復讐などすべきではないということだ。
ちなみに、復讐の場面ではないがジョジョ七部には「心が迷ったなら、撃つのはやめなさい」という台詞も存在する。このような言葉も併せて考えたいところだ。

360フェイク『男』:2018/10/09(火) 22:58:48 ID:bwHCI11c
534 :フェイク『男』 投稿日:2018/09/17(月) 23:57:29.03 ID:C5i68sXW
「勇者と泥棒の話、1」
ジョジョとは全く無関係な話になるのだが、「ドラゴンクエスト」を始めとするコンピューターRPGの主人公である勇者には、しばしば民家のタンスや壺からアイテムを無断借用する、つまり盗みを働いているかのような行動を取らせることができる。
果たして、あの勇者の行いは本当に泥棒なのだろうか。例えば、本当は町の人たちとの色々な会話の結果アイテムを譲り受けているところを、要領の都合でそういった諸々を省略しているだけだという解釈を行う者も古くから存在している。
だが、その作品の中で本当にその行為が盗みとして扱われる場合もある。そうすると、それ以外の場所で行った「盗み」は、本当に泥棒行為なのか、それともそれ以外の場所では穏便にアイテムを譲ってもらっているだけなのか、判別が難しくなる。
それに、パロディ的なギャグとして勇者が泥棒であることを殊更に強調した表現もかつては多々見られたものだ。ここまで来ると、例えば解釈はプレイヤー次第という穏当な思考法では片付かないようにすら思える。
私見としては、あれは単に町中の探検や宝探しの楽しみを味わうためのギミックであり、そもそもそういった現実的な視点から見るべきものではない、と考えているのだが、ここで一つ、別の考え方をしてみたい。

361フェイク『男』:2018/10/09(火) 22:59:02 ID:bwHCI11c
535 :フェイク『男』 投稿日:2018/09/18(火) 00:02:25.50 ID:EealCGv+
「勇者と泥棒の話、2」
ドラゴンクエストの一作目は、プレイヤーの操る勇者が王城から旅立つ場面より始まる。その王城には鍵の掛かった扉の向こうに宝物庫らしき部屋があり、いくつもの宝箱が置かれている。宝の番人のような兵士もいる。
だが、その扉を開けることができるのはゲーム開始からずっと後の話だ。その王城はゲームの開始時と終了時に必ず立ち寄らなければならないので、プレイヤーはいつもその宝箱を横目にゲームを進めることになる。
果たしてあの宝箱の中には何が入っているのか。泥棒したいかどうかはともかくとして、プレイヤーは気になるはずだ。
ところで、このゲームではラスボスを倒して世界に平和を取り戻すために必要なアイテムの一つとして「太陽の石」というものがある。そして「太陽の石」は王城のどこかにあるというヒントが手に入る。
するとプレイヤーとしては、あの宝物庫の宝箱を確認せざるを得ない。本当はその宝物庫に「太陽の石」は無いのだが、初見のプレイヤーにそれは分からないからだ。(なお「太陽の石」は王城内の別の場所で、盗むのではなく譲ってもらえる)
また、宝物庫の宝の番人に話しかけると「真の勇者なら盗みなどせぬはずだ」と、まさにこれから盗みを働く、あるいは既に盗みを働いた後の勇者を咎めるような台詞を言う。とはいえ、咎める以上のことはしてこない。
このゲームは昔の作品なのでとにかく容量が少ないのだが、それでも勇者が呪われた装備を付けていると王城から追い出される、などという細かいイベントまで実装されている。そんな中、勇者が盗みを働いたことに対する罰は無い。
それはもちろん、この一連の流れは言わばゲームの開発者がプレイヤーを騙しているようなものだからということもある。ヒントに従って素直にゲームを進めていたら泥棒扱いされて、しかも罰まで受けるなんて酷すぎる話だろう。
だが、私の解釈としてはそれだけではない。あの宝の番人は間違ったことを言っている。真の勇者なら、盗みを働いたという誤解を招いてでも、やらなければならないこともあるのだ。

362フェイク『男』:2018/10/09(火) 22:59:27 ID:bwHCI11c
551 :フェイク『男』 投稿日:2018/09/18(火) 23:34:51.95 ID:EealCGv+
ジョジョ二部に登場する柱の男カーズは、シュトロハイムの放った重機関砲の弾丸を「輝彩滑刀の流法」にて切り裂いてみせたが、それを目撃したシュトロハイムもジョセフも、また漫画のナレーションすらも、ただその刃の切れ味を強調するばかりだった。
これはおかしな話であり、そもそも自身に向けて一分間に六百発発射される弾丸を切断して防御するという圧倒的な運動の速度が全く無視されてしまっている。ジョセフに至っては、カーズの突きや蹴りなど普通の攻撃なら波紋で防御できるとすら言っている。
ジョジョ一部ではスピードワゴンが吸血鬼ディオの動きを「動きの速さは動物の豹程度」「ツェペリさんの波紋法を身につけたジョースターさんなら見切ることは可能」と言及していた頃からすると、非現実的なほどのインフレ具合だ。
現実的な話をすれば、この辺りのカーズの異常な描写は「今の人間の科学では奴には勝てん」というシュトロハイムの台詞通り、柱の男は科学力では倒せない、やはり波紋法しかない、という作中設定を改めて提示するためのものでしかないのだろう。
(そもそも死んだはずのシュトロハイムが機械化して生き返ったのも、そんな非現実的な科学力ですら柱の男には敵わない、という設定を強調するためのものと言えなくもない)
ただまあ、無理矢理にでも作中内の理屈で説明を付けるなら、カーズの「輝彩滑刀の流法」は単に刃を高速回転させて切断力を高めるだけでなく、実はカーズ自身の肉体の運動速度を一時的に向上させるという働きもあり、
そんなとてつもない運動速度でもジョセフならお得意の先読みで攻撃を予測しつつ波紋防御すれば、普通の攻撃なら何とかなると考えた……といったところか。
(一応三部以降でも、「灰の塔」戦、「吊られた男」戦、「メイド・イン・ヘブン」戦など、圧倒的なスピードを持つ相手に先読みで攻撃を当てる描写は散見される)

363フェイク『男』:2018/10/09(火) 22:59:37 ID:bwHCI11c
574 :フェイク『男』 投稿日:2018/09/20(木) 23:26:42.32 ID:JZNOPwsS
ジョジョ八部ジョジョリオンに登場する東方鳩の「ウォーキングハート」は、最大4mほど踵を伸ばすという……何と言うか、あまりにもシンプルな能力だ。シンプルすぎて何だか心配になるくらいだ。
だが壁に踵を突き刺し、本体ごと壁を歩いて登るという発想は結構面白い。この手の近距離パワー型スタンドは、例えば本体を担いで走るといった移動はなかなか行わないもので、
スタンド能力を用いて本体ごと移動する場合は、スタンドのパワーだけで力尽くに行うよりも、やはり能力を絡めて行うのがやりやすいのだろうと思われる。
この「ウォーキングハート」も、他にも踵を急激に伸ばし、ジャンピングシューズの要領で本体ごと大きく跳躍するとか、そういう本体ごとアクロバットな戦いを行うのが意外と有用な能力なのかもしれない。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板