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仏教大学講座講義集に学ぶ      【 開目抄講義 】

1美髯公 ◆zkpDymnu/M:2016/05/27(金) 22:12:28

 【仏教大学講座】は
  昭和四十八年は「教学の年」と銘打たれ、学会教学の本格的な振興を図っていく重要な時と言う命題の基に開設された講座です。

 設立趣旨は
  ①日蓮大聖人の教学の学問体系化を図る。
  ②仏法哲理を時代精神まで高めていくための人材育成をする。
  ③現代の人文・自然・生命科学などの広い視野から仏法哲学への正しい認識を深める
  等

 期間は一年、毎週土曜(18:00〜21:15)開座、人員は五十名、会場は創価学会東京文化会館(実際は信濃町の学会別館って同じ所?)

 昭和五十二年度の五期生からは、従来方式から集中研修講義方式に変わり期間は八日間で終了と言う事になる。

  そして、それらの講義を纏めたものがとして「仏教大学講座講義集」として昭和50年から54年に渡って全十冊になって販売されました。
 その中から、御書講義部分を中心に掲載していきたいと思っております。
 個人的には、この昭和48年から昭和52年の間が、一番学会教学の花開いた時機だと思っております。

 なお、よくよく考えた結果、講義担当者名は非転載といたします。
 各講義に於いては、概論・概要でしか講義されておりませんので、あくまでも個々人の勉学の為の一助的な役割しか果たしておりませんので
 その辺りの事を銘記して、各人それぞれ各講義録で精細に学んでいって下さればと思います。
 今回の【 開目抄講義 】は、講義集の第三、第五集に掲載されております。

8美髯公 ◆eqY.FnGTp2:2019/04/22(月) 16:03:49
            
                                 一

  「開目抄」は極めて人間的な書である。日蓮大聖人の代表的な著作では、「立正安国論」が社会変革を目指した鋭い警世の書であり、「観心本尊抄」は、
 信仰の対象である本尊について、教理の上から深い考察が為されている。それらに比較し、本抄は五重の相対の上から教判が行われているが、
 あくまでも本質は、大聖人ご自身が法華経の行者であるか否かについて、深い疑問を構え、幾重もの精神的格闘を経て、主師親三徳具備の御本仏たる
 確信を高らかに披瀝されるに至るのである。御文の中には、大聖人が法華経の行者であるとすれば、なぜ諸天の加護がないのか、について深刻な疑問を
 設けられている所がある。これは結論として難がある事が正法を受持している証拠であり、また、難にあって信心を動揺させている門下に教えるために
 設けられた疑いであるが、大聖人ご自身の内省なしに述べられたものではあるまい。謗法の有無についても、御自身の問題として自問された結果、
 法華経の行者、主師親三徳具備の仏としての確信に立たれているのである。

  八万法蔵の内珠玉の如き法華経をたもち、かつ社会への貢献を願って布教に尽くしているにもかかわらず、上一人より下万民に至るまで大聖人の
 真意を解しようとしない。仏法の因果の理法が正しいならば、これは如何なる因によるのか。自身に如何なる誤りのある故か。それらを、人間として
 悩みつつ、その果てに人間道の勝利者としての確かな実感を得られたに違いない。悩み無く、戦いなくして仏身の成就はない。成仏とは、まさしく
 一人の人間の悪戦苦闘の彼方にある昇華である。
 従って、この「開目抄」を拝するにあたっては、大聖人の心の叫びを我がものとし、ひたすら信読、身読するのでなければ、その真意は把めまい。
 これは私自身への自戒を込めての実感である。以下、「開目抄」の大要、重要個所を述べるにあたって、学究の徒としてではなく、求道の子としての
 立場を貫きたいと願っているのである。

10美髯公 ◆eqY.FnGTp2:2019/04/22(月) 16:21:48

                                 二

  「開目抄」はいうまでもなく人本尊開顕の書である。本尊とは「根本尊敬」の意であるが、それが「人」であるとは、どういう事であろうか。
 そこに実は、日蓮大聖人の仏法の基本的な考え方が隠されているのである。人本尊という言葉だけからすれば、一般の宗教に見られがちな偶像の
 概念に似ている様な感がする。事実、仏教においても、仏像は偶像としての機能を果たしてきた。それが仏教の本質を少なから歪めてきた事は疑い
 ない。「仏」といえば、人間とは縁のない名であり、何千年か前の偉人の名であり、ある場合には死人の代名詞であったりする。
 「仏」とは、覚者であり、宇宙を究極に於いて律する法を悟った人をいうにもかかわらず、仏がその法自体であるかの様な印象を与えている。人は
 「神」には成れないが「仏」には成れる。というところに仏教の本質があるにもかかわらず、仏が神と同一の存在になってきたのが、仏像に象徴
 される仏教のあり方ではなかろうか。

  宗教の役割は、人間の目に映り、時空間を流動する事象を測定しうる世界にのみ生きていては人間ではない、その奥に横たわる本質の世界に目を
 向けよ、と教える所にあるはずである。「宗」という字が根本の意であれば、宇宙、人生の根本を教えるものという意味が明らかになろう。
 そのために、まずこの人間存在、またそれが構成する社会が如何に卑小かお知らしめる事も、有効な教育手段であるに違いない。日頃、傲慢で
 エゴに凝り固まっている人間が如何に愚かで矮小であるかを教え、もっと尊いもの、「聖」なるものを知らなければ、人間として生きている事には
 ならない。こう強調する事が宗教者として当然の行為であると考えるのも無理はない。

16美髯公 ◆eqY.FnGTp2:2019/05/04(土) 18:49:49

 キリスト教にあっても、人間を「原罪」を背負った罪深き存在であるとしているのは、よく知られている所であり、仏教にあっても、浄土系の宗派、
 なかんずく浄土真宗などはその典型である。そこでは善人が蔑まれ、悪人こそ仏の慈悲を受けるに足る「正機」の衆生であると考える。
 それはひたすら、神という存在、阿弥陀仏の慈悲を教える事によって、日常的現世から脱却して一歩高みに登らせようという意図から来たもので
 あるかも知れない。

17美髯公 ◆eqY.FnGTp2:2019/05/04(土) 19:25:28

 しかし、こうした教育方法の一方の罪、弊害は人間を事実に於いて矮小化せしめやすいという事であろう。神という巨大な存在に比べて人間は
 如何に小さいか、

18美髯公 ◆eqY.FnGTp2:2019/05/04(土) 19:27:10

 しかし、こうした教育方法の一方の罪、弊害は人間を事実に於いて矮小化せしめやすいという事であろう。神という巨大な存在に比べて人間は
 如何に小さいか、また阿弥陀仏の慈悲に縋るべき哀れな衆生を強調する事は、そのまま人間をその境涯から出させない事でもある。

19美髯公 ◆eqY.FnGTp2:2019/05/04(土) 19:32:59
子供に「・・・・してはならない」と教えると小さくなる。


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