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仏教大学講座講義集に学ぶ 【御義口伝講義】
115
:
美髯公
:2013/11/12(火) 23:02:24
他の「御義口伝」には「所謂南無妙法蓮華経と唱え奉るは自身の宮殿に入るなり」(P.787 ⑩) と述べられている。我々が自行化他の仏道修行として
創価運動に身を挺しているのも、結局は自身の宮殿を磨く人間錬磨の実践なくしては、真実の幸福はありえないからである。いくら外面を飾っても、
内面がバラックでは仕方がない。「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時無明の惑障劫けて己心の釈迦多宝住するなり」(P.741 ⑮) と仰せの通りで
ある。更に「関鑰とは無明なり開とは法性なり鑰とは妙の一字なり」(P.787 ⑯) と、重ねて述べられている。ここに「鑰とは妙の一字なり」とある点に
注意しておきたい。つまり、無明・煩悩の中にこそ、我々が成仏出来る鍵があると断じておられるのである。これは煩悩即菩提、生死即涅槃、無明即法性と、
生命の大転換を示した仏法の原理である。しかも、その大転換の鍵は「開とは信心の異名なり」(P.716 ⑫) 別の「御義口伝」にあるように、御本尊への
真剣な祈りと実践にある。
「法華玄義」には「秘密の奥蔵を発らく、之を称して妙と為す」とある。この文を引かれて大聖人は「謗法不信の関鑰を却けて己心の仏を開くと云う事
なり」と示されている。つまり「開仏知見」の本意がここにある。所詮「如却関鑰開大城門」というのは、さまざまな謗法不信の関鑰を退けて、己心の仏界を
涌現しゆく事を示した経文と解せるのである。法華経方便品に「諸仏世尊は衆生をして仏知見を開かしめ」云々とある。この仏知見を開く鍵は信心以外に
ない。悩み苦しみの当体かも知れない。しかし、それを開いていく鍵もまた、悩み苦しむ我々の生命の中にある事を知らねばならない。
また我々は地獄界の門、畜生界の門、餓鬼界の門という、さまざまな門を持っている。全ての門が閉ざされて、地獄界の門だけが開いている場合もあろう。
そうした中にあって、大城門の幸福の門、つまり仏界を開いていくのは信心なのであると銘記したい。御本尊に向かって題目を唱える時、あらゆる煩悩・
苦悩を打ち破っていく活力が湧き、大城の門を開く事ができるのである。重く閉ざされた生命の扉を開く。この「閉」から「開」へという展開こそ、仏法の
主眼がある。「我等が一身の妙法五字なりと開仏知見する時・即身成仏するなり」(P.716 ⑫) と。我々自身の生命こそが妙法の当体であり、尊極無比の
仏性を備えている当体であると射抜く事 ― それが「開」であり、成仏という事である。こうした視点から仏法を見ていく時に、宝塔の儀式も実に身近な
ものとなってくる。仏法は決して高遠な哲理の彼方にあるのではなく、我々自身の肉団の中に、最も身近な所にあると分かってくる。
116
:
美髯公
:2013/11/14(木) 22:05:08
同時に「貴賤上下をえらばず」一切の人間を七宝塔とみる事ができるかどうか、そうした生命の尊厳に立てるかどうか、が最も重要なのである。今日の
社会が現世主義に冒されて生命の軽視の風潮に覆われているのを知る時、こうした仏法の生命観がいかに重い意味を持っているかに改めて気づくのである。
このところ、異常な事件が続発し、しかもその動機が犯罪の凶悪さに比して、余りにも単純な所から、よく“理由なき犯罪”と呼んでいるが、その根因は
結局の所、自分及び他人の生命の重さを実感できないために起こる、いわば“生命の犯罪”といってよいだろう。生命が病んでいるのである。
従って、生命それ自体を治療する以外に現代社会の病は治療できない。なればこそ、それはまさしく宗教の分野であり、なかんずく仏法の生命変革の原理に
立ち戻る以外にないと主張しておきたい。
我々が展開している創価運動とは、その意味から一人が一人の生命を開く“生命の運動”であり、生命の尊厳観を定着させて行く時代即応の運動であると
いえる。経済革命、政治革命も必要である。しかし、その根底に人間を人間に即して、生命を生命に即して総体的に捉えながら推し進める人間革命が
なければ、部分観に陥り徒らに分断と対立を生み、つまる所、生命そのものを軽視する風潮へと流れ込んでしまう事を厳に戒めていきたい。
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