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御書研鑽
102
:
無名人
:2009/12/02(水) 17:15:18
200(413) 退転のいましめ
今度・強盛の菩提心を・をこして退転せじと願しぬ
通解;
103
:
無名人
:2009/12/03(木) 10:23:54
御書p200(413) 難を乗り越える
既に二十余年が間・此の法門を申すに日日・月月・年年に難かさなる、少少の難は・かずしらず大事の難・四度なり二度は・しばらく・をく王難すでに二度にをよぶ、今度はすでに我が身命に及ぶ其の上弟子といひ檀那といひ・わづかの聴聞の俗人なんど来つて重科に行わる謀反なんどの者のごとし
104
:
無名人
:2009/12/03(木) 18:05:02
御書p200〈413〉 三障四魔
いはずば今生は事なくとも後生は必ず無限地獄に堕べし、いうならば三障四魔必ず競い起るべしと・しりぬ、二辺の中には・いうべし
通解;言わないならば今生では何事も起こらないにしても、後生は必ず無限地獄へ堕ちるであろう。言うならば三障四魔が必ず競い起こるということが分かった。二辺のなかでは言うべきである。
105
:
無名人
:2009/12/04(金) 10:52:17
御書p202〈413〉 比類ない忍難と慈悲心
されば日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし
通解;されば、日蓮の法華経に対する智解は、天台・伝教に比べて、千万が一分もおよぶことはないけれども、難を忍び、慈悲にすぐれている点では、天台・伝教は日蓮に恐れをいだくであろう。
拝読の手引き;この御文では、法華経の智解に対しては、謙遜の立場から、天台・伝教を立てておられますが、難を忍び、慈悲の広大さにおいては、天台・伝教は日蓮大聖人に遠くおよばないことを示されています。大聖人の一生を考えてみると、立宗宣言以来、松葉ヶ谷の法難、伊豆伊東の流罪、小松原の法難、竜口の法難、佐渡流罪とう、苦難との戦いの連続でした。それは、地位も、力も、名誉もない立場で、民衆を不幸にしようとする魔との熾烈な戦いでした。あらゆる人々の苦しみを、ことごとく、自分の苦しみとして、民衆の幸福のため、世界の平和のために、心をこがし、身を尽くされた大慈大悲の生涯だったのです。その慈悲の深さ、広大さは、天台・伝教のそれとは比べものにならないものです。ところで、現代社会に目を向けてみますと、一面では、科学文明の発達を謳歌し、豊かな生活を楽しんでいるようです。しかし、ベトナム戦争は果てしなく続き、公害は人類の生存をおびやかしつつあります。また、地震、火災、交通事故の増加等、暗たんたる様相を強めています。そうした状況にあって、世の指導者といわれる人々の中に、自己の保身のため、一身の名聞名利のために振る舞っている人のなんと多いことでしょう。これは、民衆の幸福を考えない、あまりにも慈悲のない姿であるといわざるをえません。今、私達は、日蓮大聖人の弟子として、妙法流布の文化運動を展開しています。その精神は、あくまでも大聖人の精神を受け継いでの活動です。たとえ、それが、大聖人の大慈悲の精神には遠く及ばなくても、その精神、その誇りを一瞬たりとも忘れてはなりません。そして世界平和の達成を目指し、この世から悲惨の二字をなくすまで、勇敢に、力を合わせて、慈悲の運動を展開していきましょう。(単行本「きょうの発心百選」143)
106
:
無名人
:2009/12/04(金) 18:36:06
御書p202〈413〉 数数の二字を身で実践
又云く「数数見擯出」等云々。日蓮法華経のゆへに度度ながされずば「数数」の二字いかんがせん。此の二字は天台・伝教も、いまだよみ給はず。況や余人をや。末法の始めのしるし、「恐怖悪世中」の金言のあふゆえに、但日蓮一人これをよめり。
通解;
またいわく「数数擯出せられる」等と。日蓮が法華経のゆえにたびたび流されなければ「数数」の二字をどうするのか。この二字は天台・伝教もまだ読まれていない。まして余人が読むはずがない。末法の始めのしるしである「恐怖悪世の中」という金言のあふゆえに、ただ日蓮一人がこれを身で読んだのである。
拝読の手引き;
仏法における実践の持つ重さを強調されています。日蓮大聖人は、ここにも述べられているように、法華経勧持品の「数数見擯出」――二度にわたって流罪に処せられること――の予言を、身をもって読まれ、現実に、伊豆と佐渡の二度の流罪を経験されたのです。これはいかに意図的に行おうとしても、できるものではありません。大聖人はあくまで、法華経の文々句々ふしゃくを、仏の金言として固く確信されて、不惜身命の実践を敢行されたのです。その実践があってはじめて、法華経の予言通りの姿、振る舞いとなったのです。大聖人がこのように法華経の予言を確信され、その通り実践されたのも「末法の始めのしるし、『恐怖悪世中』の金言のあふゆへ」であったのです。法華経に説かれた「恐怖悪世」という末法の始めの様相が大聖人の活躍された日本の時代そうそのままであり、見事に的中しているところから、大聖人は法華経こそ仏の真実の教えであると確信されたのです。大聖人の、経文を身読するという厳しい実践は、まさに、法華経の文々句々を、そのまま仏の金言と信ずる信仰の炎に支えられていたことは、いうまでもありません。私達も、大聖人の教えに絶対の確信を持っています。問題は実践です。大聖人ほどではないにしても、その精神に一歩でも近づく努力をしたいものです。(単行本「きょうの発心百選」478)
107
:
無名人
:2009/12/05(土) 06:25:27
御書p203(403)
つくりたくなき罪なれども父母等の地獄に堕(お)ちて大苦を・うくるを見てかた(形)のごとく其(そ)の業(ごう)を造(つく)つて願つて地獄に堕ちて苦(くるしむ)に同じ苦に代(かわ)れるを悦(よろこ)びとするがごとし
108
:
無名人
:2009/12/05(土) 17:27:27
御書p202〈413〉 良薬は口に苦し
夫れ小児に灸冶を加うれば必ず母をあだむ。重病の者に良薬をあたうれば定んで口に苦しとうれう。在世猶しかり、乃至像末辺土をや。山に山をかさね、波に波をたたみ、難に難を加へ、非に非をますべし。
通解;
だいたい、子供に灸をすえれば、必ず母をあだむものです。また、重病の者に良薬を与えれば、きっとにがくて飲みにくいというでしょう。釈尊の在世でさえ、この道理で怨嫉が多かったのです。したがって、時代が像法から末法へとくだり、まして、日本のような世界のはずれの国においては、怨嫉が盛んなのは当然です。山にまた山を重ねるように、波にまた波をたたむように、難に難を加え、非道に非道を増大して、正法は解きがたく信じがたくなるのです。
拝読の手引き;
ここでは、末法において、正法(三大秘法の南無妙法蓮華経)を説いていくことが、極めて困難であり、正法弘通を妨げる風波も、釈尊在世などとは比べものにならないほど激しくなることを述べられています。この「開目抄」は日蓮大聖人が、幕府の弾圧を受けて流罪された佐渡の地で、しかも極寒のさなかに認められたものです。大聖人は、苦悩の底に沈み、嘆き迷う民衆を深く生命の次元から救うために、妙法の哲理を樹立され、その流布に身命をなげうって戦い抜かれたのです。しかし、貪(むさぼり)瞋〈いかり)癡〈おろか〉の三度くに厚く覆われた民衆も権力者も、その正義の救済の叫びに耳を傾けないばかりか、たび重なる迫害の嵐で応じたのでした。その大聖人の殉教の激闘に源を発する妙法の清流は、今、時を得て、広く民衆と社会を潤す潮流となって、静かに力強く、その波動を高めつつあります。私達は、忍耐と誠意で一切の障壁を乗り越えつつ、今日もまた歓喜の前進をしていきましょう。
109
:
無名人
:2009/12/06(日) 12:25:18
御書p204〈413〉 妙法を体現する指導者に
若し法華経ましまさずば、いかにいえたかく大聖なりとも、誰か恭敬したてまつるべき。夏の桀・殷の紂と申すは万乗の主、土民の帰依なり。しかれども政あしくして世をほろぼせしかば、今にわるきもののてほんには桀紂・桀紂とこそ申せ。
通解;
もし法華経が説かれないならば、どんなに家柄が高く大聖といわれていても、だれが敬うだろうか。夏の桀王、殷の紂王というのは、万乗の主であり、土民の帰依するところであった。しかれども、悪政のため世をほろぼしてしまったので、今日でも悪人の手本には桀紂・桀紂というではないか。国王であっても、無徳なら、だれもあがめることはないのである。
拝読の手引き;
法にはずれた行動をする人は、人から尊敬されません。その資格、地位にふさわしい人格、実践者でなければ、軽蔑されるだけです。日蓮大聖人は、ここで、王であっても悪王であれば尊敬されない例を引かれて、そのことを指摘されています。また、妙法を離れては、どのように高名な弟子、智徳すぐれた弟子も、人々から敬われないと述べられています。人々から仏弟子として尊敬され、その指導、発言が重んじられているのは、ひとえに、妙法の力によるのです。私達はここから、それぞれ、幹部として後輩から慕われ、生きがいをもって毎日を送れるのも所詮は妙法の力、学会の力によるのであるということを、決して忘れてはならないと思います。妙法の法則にかなっているからこそ尊敬されるのであって、思い上がった態度は、絶対にあってはなりません。それでは、心ある後輩から軽蔑されるだけです。どのような高位にあっても、道理にはずれたことをする人は、どうして民衆の共感をうることができましょうか。寝食を忘れても国民の幸福を考えるべき政治家の、現実の姿を見れば、それはよくわかります。桀紂の例をお引きになっていますが、私達も民衆救済、妙法流布の精神に反しては、喜んでついてくる人はなく、組織にスキマ風が吹くことを知らねばなりません。卓越した法を人に体現する――すなわち、妙法の指導者として恥ずかしくない実践を、自ら踏み行う誠実な姿の中に、組織の発展も勝利の因もあるのです。(単行本「きょうの発心」137)
110
:
無名人
:2009/12/06(日) 19:01:47
御書p204〈413〉
畜生すら猶恩を報ず何にいわんや大聖をや
111
:
無名人
:2009/12/07(月) 08:02:29
御書p207〈413〉 水すめば月影を浮かぶ
水すまば、月、影ををしむべからず。風ふかば、草木なびかざるべしや。法華経の行者あるならば、此等の聖者は大火の中をすぎても、大石の中をとをりても、とぶらはせ給うべし。
通解;
水が澄むならば、月は必ず影を浮かべるのである。風が吹けば、草木はなびくのである。そのように、法華経の行者があるならば、これらの聖者は大火の中をくぐってでも、大石の中を通ってでも、法華経の行者をとぶらわれるのである。
拝読の手引き;
法華経(三大秘法の御本尊)を信仰する、真実の法華経の行者には、必ず大火をくぐってでも、大石の中を通ってでも、諸天善神の守護が厳然とあることを教えられた一節です。澄んだ水面に月の影がうつり、風が吹けば草木がなびくことは天然自然の道理です。それと同じように、法華経の行者が常にどこにあっても守られることは絶対的な原理なのです。ここで述べられている「これらの聖者」とは、英知・人徳にすぐれた尊い人として、人々から尊敬されている、舎利弗や迦葉等の釈尊の高弟のことです。法華経の行者のもとには、このような聖者が常に来たって守護するということです。この御文にある「法華経の行者」とは、総じていえば、末法今時、三大秘法の御本尊を信じて、広宣流布を目指し、強盛な行学に励む人のことです。したがって、この御文を私達の信仰生活に約して拝するならば、大聖人の御書の一節を心肝に染めて、強靭な信仰の実践に励む人は、必ず常に智慧ある人、力ある人に恵まれて、悠々とした所願満足の人生コースに入っていけることを明示された御文と拝せるでしょう。また、もっと本質的にいえば、自身の智慧と力、さまざまな特質が常に湧現し、勝利の人生を築くことができる、との文意でもあります。もとより、ここで心しなければならないことは、諸天善神の守護といっても、自己の信心のいかんによって決まるものだということです。強い信心で豊かな人間性を開発する、不断の努力・勇気と誠意の人に、諸天の加護は輝くのです。(単行本「きょうの発心」475)
112
:
無名人
:2009/12/08(火) 09:58:48
御書p211(413) 華を見て池の深さを知る
雨の猛を見て竜の大なる事をしり華の大なるを見て池のふかきことは・しんぬべし
通解;
天台は法華文句に「雨の降り方の激しさから、その雨を降らしている竜の大きいことを知ることができる。蓮華の咲き方の盛んなのを見て、根を下ろしている池の深さを知ることができる
拝読の手引き;
この御文は、地涌の菩薩の姿があまりにも光輝に満ち、釈迦の弟子などとは比較することも愚かなほど優れているのを見て、弥勒菩薩が、これらの菩薩の師匠は、釈迦などのとうてい及ばない仏ではなかろうか、と考えめぐらすところを描写するなかに出てきます。釈迦の仏法と大聖人の仏法の勝劣は、ここにもはっきりとあらわれていますが、ともかくも、弟子の姿で師匠の偉大さがおしはかれることを、この雨、華の譬えをもって述べられたところです。茶道でも剣道でもその他どんな分野であれ、弟子の成長、力量、人格を見れば、師匠の大きさというものがわかります。脇士を見れば師匠がわかるともいわれています。一人偉大に見えても後継者をつくれない人は、本当に偉大であるとはいえません。無数の同志をつくれる人が偉いのです。また、弟子の立場からいえば、師匠の原理に恥じない己に育とうとの努力をすることが当然の責務です。なかんずく、仏法においては、弟子の成長が最も大切であり、広宣流布を達成するには、師弟不二の弟子がどれだけ多く輩出するかで決まることを知るべきです。また、この御文は、物事の盛んな状態を見て原因の根深さを知ることもできる、という原理をあらわしています。たとえば現代社会の悪弊を見て、いかに文明の病根が根深く、思想が病んでいるか――したがって、本源的な生命次元の変革、抜本的な思想変革しかない、という私たちの主張は、真面目に人生と社会の未来を考える人の胸をうつのです。あるいはまた、生活の功徳、組織の生きいきとした発展と信心の深化の関係等をも、実践的に、この御もんからくみとることも可能でありましょう。(文庫本「きょうの発心」439)
113
:
無名人
:2009/12/08(火) 18:27:42
御書p214〈413〉 穢土を浄土へ転換
今爾前・迹門にして十方を浄土とがうして、この土を穢土ととかれしを打ちかへして、此の土は本土となり、十方の浄土は垂迹の穢土となる。
通解;
爾前経や法華経迹門にあっては、十方の国土を浄土と名付け、この土(娑婆世界)を穢土と説かれていたのを、今(法華経寿量品において)逆転させて、この土こそ本土であり、十方の浄土は垂迹の穢土となったのである。
拝読の手引き;
法華経本門の国土論を、明確に説かれた御文です。国土論といえば、私たちの住む自然や環境についての考え方を説いたものですが、これをどう考えるかによって、私たちの人生は大きく分かれるのです。いいかえれば、国土論は、私たちの人生の姿勢の問題となります。本文にもあるように、爾前・迹門では、私たちが現に住んでいるこの世界を、穢土(けがれた世界)ときらい、この世界以外の十方の国土を浄土(きよらかな世界)として、あこがれ求めたのです。しかし、法華経本門寿量品で、この思想を逆転し、十方の国土こそ穢土であり、私たちが、今、こうして生活している世界こそ浄土であると説いたのです。この逆転は、人生の姿勢の上で大変な相違となります。十方に浄土を求める考え方は、現世否定的で、消極的な人生となります。人生のあらゆる問題に対して、積極的に取り組む強い姿勢ではなく、あきらめムードの人生となるのです。しかし、この消極的な姿勢を打ち破ったのが、法華経寿量品なのです。ここでは、人間の住むこの世界を離れて、どこにも浄土はないという考えが説かれています。そして、浄土というのは、待つものではなく、自力がつくり出すものであるとの強い姿勢を打ち出しています。さらに、日蓮大聖人の仏法では、生命論の立場から、浄土も穢土も、要は一人一人の一念の姿勢によって決まると説かれたのです。いかに苦しくつらい現実であろうとも、南無妙法蓮華経と御本尊に唱える時、そのまま浄土に転換できるのです。私達は、きょうよりさらに一段と発心し、自己の生命の変革を通して、環境、状況を転換し、地域の浄土化を期していこうではありませんか。(文庫本「きょうの発心」389)
114
:
無名人
:2009/12/09(水) 09:58:15
御書p214(413) 玉石混交の戒め
雲は月をかくし、讒臣は賢人をかくす。人讃すれば黄石も玉とみへ、諛臣も賢人かとをぼゆ。今濁世の学者等彼等の讒義に隠されて寿量品の玉を翫ばず。また天台宗の人人もたぼらかされて金石一同のをもひをなせる人人もあり。
通解;
(世間一般でも)雲は月を隠し、主君にいつわりの告げ口をする家臣の存在は、真に主君を思い社会を思う立派な人物を隠してしまうものです。また、多くの人がほめたたえれば、黄色の石も玉と見えたりするし、忠誠の心もなくただこびへつらう家臣も、立派な人物のように思われてしまうものです。今、濁った世の中の学者らも、仏法の正義をゆがめて説く諸師たちのいつわりの考え方に眼を覆われて、寿量品の宝珠を尊重しようとしない。また、法華経を正しく受け継いでいて当然の、天台宗の人びとまでたぶらかされて、金(真実の教え)と石(仮の教え)とを、まったく同じものと思い込んでいる人びともいるのです。
拝読の手引き;
ここでは、世間一般の事例を引かれて、真実の仏法を正視眼で見極め信受していくことが、どんなに困難なことであるかを教えられています。もちろんここでは、日蓮大聖人御在世当時の一般の学僧や、ひいては法華経を依経とする天台宗の人々などの憂うべき傾向を指摘されているわけですが、私たちも、ここでの教訓は、十分に心していきたいと思います。最高峰の生命の哲理を学び実践する私達ですが、氾濫する情報の"雲"によって、澄み渡る妙法の"月"を隠すようなことがあってはまりません。また、さまざまな風評にたぶらかされ、妙法の珠玉の哲理を、黄石のごとき諸思想と同視するような過ちを犯さないよう注意したいものです。そのためにも、妙法の哲理を自分のものとして主張できる教学力をもつことが大事でしょう。(文庫本「きょうの発心」568)
115
:
無名人
:2009/12/09(水) 18:59:21
御書p218〈413〉 求道者にひらく仏法の心
此の経文の心は眼前なり。晴天に大日輪の懸れるがごとし。白面に黶のあるににたり。而れども生盲の者と邪眼の者と「各謂自師」の者、辺執家の者はみがたし。万難をすてて道心あらん者にしるしとどめてみせん。
通解;
この経文(宝塔品)の心は眼前に明らかである。青空に太陽の輝いているごとく、白顔にほくろのあるように明々白々である。しかし、生盲の者と、邪眼の者と一眼のものと自分の邪師の教えのみ主張するものと、かたよった教えに執着するような者は、この明らかな事実すら見違えるであろう。万難を排して、真の仏道を求める者に、しるしとどめてみせようと思う。
拝読の手引き;
宝塔品では、妙法を末法に弘める意義と困難さを釈迦仏、多宝仏、十方分身の諸仏が、説き示しています。六難九易の原理も、正法を弘めるが故の難なのです。これは、一代の諸経の浅深勝劣を判断する時、法華経が最も深く、かつ、最も優れていることを明白に示したものです。釈迦仏、多宝仏、分身仏の三仏が一致して示した生命哲理にほかなりません。ところが、この宝塔品の明らかな事実すら、曲げて見ようとする学者が多く、日本国中の諸宗の僧侶はことごとく、仏に対する反逆者となっているとの指摘がなされています。偏見、邪見に執着する者には遂に仏法の本質を理解することはできません。そういった生命の本質に暗く、迷いに沈む者の無明の闇を断破する戦いに、日蓮大聖人は、大勇猛心をもって立ち上がられたのです。「同心あらん」人には、五体にしみ入るように生命の哲理は吸収されていくことでしょう。仏法哲理を単に知識として頭に入れるだけでは、少しも感激はわいてこないことは経験があると思います。仏法哲理は師弟相対の感応を通じてこそ信解も成り立つとの指導を心に刻み、明日の成長のための汗を流していきましょう。(文庫本「きょうの発心」626)
116
:
無名人
:2009/12/10(木) 09:55:43
御書p218〈413〉 求道者にひらく仏法の心
此の経文の心は眼前なり。晴天に大日輪の懸れるがごとし。白面に黶のあるににたり。而れども生盲の者と邪眼の者と「各謂自師」の者、辺執家の者はみがたし。万難をすてて道心あらん者にしるしとどめてみせん。
通解;
この経文(宝塔品)の心は眼前に明らかである。青空に太陽の輝いているごとく、白顔にほくろのあるように明々白々である。しかし、生盲の者と、邪眼の者と一眼のものと自分の邪師の教えのみ主張するものと、かたよった教えに執着するような者は、この明らかな事実すら見違えるであろう。万難を排して、真の仏道を求める者に、しるしとどめてみせようと思う。
拝読の手引き;
宝塔品では、妙法を末法に弘める意義と困難さを釈迦仏、多宝仏、十方分身の諸仏が、説き示しています。六難九易の原理も、正法を弘めるが故の難なのです。これは、一代の諸経の浅深勝劣を判断する時、法華経が最も深く、かつ、最も優れていることを明白に示したものです。釈迦仏、多宝仏、分身仏の三仏が一致して示した生命哲理にほかなりません。ところが、この宝塔品の明らかな事実すら、曲げて見ようとする学者が多く、日本国中の諸宗の僧侶はことごとく、仏に対する反逆者となっているとの指摘がなされています。偏見、邪見に執着する者には遂に仏法の本質を理解することはできません。そういった生命の本質に暗く、迷いに沈む者の無明の闇を断破する戦いに、日蓮大聖人は、大勇猛心をもって立ち上がられたのです。「同心あらん」人には、五体にしみ入るように生命の哲理は吸収されていくことでしょう。仏法哲理を単に知識として頭に入れるだけでは、少しも感激はわいてこないことは経験があると思います。仏法哲理は師弟相対の感応を通じてこそ信解も成り立つとの指導を心に刻み、明日の成長のための汗を流していきましょう。(文庫本「きょうの発心」626)
117
:
無名人
:2009/12/10(木) 18:20:31
御書p223〈413〉 第一に富める者と確信
当世・日本国に第一に富める者は日蓮なるべし。命は法華経にたてまつり、名をば後代に留むべし 。大海の主となれば諸の河神皆したがう。須弥山の王に諸の山神したがはざるべしや。法華経の六難九易を弁うれば一切経よまざるにしたがうべし。
通解;
今の世で、日本国において最も富める者は日蓮であろう。命は法華経にたてまつり、名をば後代にとどめるのである。大海の主となれば、もろもろの河神はすべてこれに従う。山の王たる須弥山には、もろもろの山神が皆従うのは当然のことである。法華経の六難九易をはっきりと弁えるならば、一切経を読まなくとも、一切の経教の仏、菩薩すべてこの行者に従うのである。
拝読の手引き:
日蓮大聖人がさまざまな難を克服されて、御本仏としての実証を示された大確信を述べられた一節です。大聖人は竜口の難の後、極寒の地・佐渡に流刑となり、それこそ筆舌に尽くしがたい二年有余の歳月を送られたわけですが、そうした極限状態にあっても、御本仏としての悠々自適の境涯で、遠く離れた鎌倉や富士方面の弟子達を指導激励されていたのです。ではこの大聖人の大確信は、どこから生まれてきたものであるかについて考えていくならば、そこには大聖人の全生命を法華経流布に賭された、革命的な実践に貫かれていることがわかります。それは妙法流布という前代未聞の大事業に対し、種々の客観的な障害がその前途に待ち受けていることをはっきりと見定めたうえで、そうした厳しい現実の社会に飛び込み、一歩一歩着実に布教活動を進めていく実践であり、競い起る障魔の嵐を打ち破られ、御本仏としての実証を示された実践であります。私達の信仰もこうした大聖人の実践を範として、信心即社会の原理を踏まえ、妙法の実証者としての自覚に立って、全魂込めて日々前進していかなければなりません。どんな障害もすべて妙法のリズムに巻き込み、悠々と克服する決意で――。(文庫本「きょうの発心」440)
118
:
無名人
:2009/12/11(金) 10:04:55
御書p223(413) 竜女の成仏は女人成仏の手本
竜女が成仏此れ一人にはあらず、一切の女人の成仏をあらはす。法華已前の諸の小乗経には女人の成仏をゆるさず。諸の大乗経には成仏往生を許すやうなれども、或は改転の成仏にして一念三千の成仏にあらざれば、有名無実の成仏往生なり。「拳一例諸」と申して竜女が成仏は末代の女人の成仏往生の道をふみあけたるなるべし。
通解;
法華経提婆品に説かれる竜女の成仏は、一人の成仏を示したのでなく、一切の女性の成仏をあらわしたものです。法華経以前の小乗の諸経では、女性の成仏を許しません。諸大乗経では成仏往生を許すようですが、それもあるいは身を男子に改めて成仏するといったもので、一念三千の原理にのっとった即身成仏ではないので、有名無実の成仏往生なのです。「一をあげてもろもろを例す」といって、竜女の成仏は、末代の成仏往生の道をふみあけたものなのです。
池田先生の指導:
竜女の成仏は、竜女一人の成仏ではなく、すべての女性の成仏を示しているということです。「竜女が成仏は末代の女人の成仏往生の道をふみあけたるなるべし」〈御書p223〉との仰せは、「一人」の成仏こそが、「万人」の成仏を約束するということです。まず、「一人」です。一は「万の母」です。どんな「一人」でも救っていくとの情熱なくして広宣流布はありえません。さらに、大聖人は、権大乗経にも女性の成仏を一見認めているような教えがあることに対して、教義的な面からも破折を加えています。すなわち、爾前経で女性の成仏を認めているようでも、それは「改転の成仏」すなわち、女性が男性に生まれ変わってからの成仏に過ぎないと喝破されています。これに対して、竜女が示したのは「一念三千の成仏」、すなわち、九界の身を改めることなく仏界の生命を開くことができる「即身成仏」です。要するに、竜王の八歳の娘である竜女の身を改めず、そのままの身において成就する成仏です。提婆や竜女の成仏が示しているのは、まさに、「変毒為薬」「即身成仏」という妙法の功力にほかなりません。この功力によって、初めて末法濁世の万人の救済が成り立つのです。妙法こそが、末法の全民衆を根源的に救う大良薬だからです。(単行本池田大作開目抄講義上p210)
119
:
無名人
:2009/12/11(金) 18:03:16
御書p223(413) 障魔に勝ち切ってこそ法華経の行者
日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて返年の二月・雪中にしるして有縁の弟子へをくればをそろしくて・をそろしからず・みん人いかに・をぢぬらむ
通解;
日蓮と名乗った者は、去年の九月十二日深夜、子丑の時に首をはねられた。これは、魂魄が佐渡の国に至って、明けて二月、雪の中で記し、縁ある弟子に送るのであるから、ここに明かす勧持品に説かれる難は恐ろしいようであるが、真の法華経の行者にとっては恐ろしいものではない。
池田先生の指導;
悪世末法に、万人の成仏のために法華経を弘めるのが「広宣流布」の戦いです。この戦いに立ちあがる「法華経の行者」には、あらゆる障魔が競い起ってくることは必至です。魔性の具体的発現として、必ず「三類の強敵」が出来します。その三類の強敵と戦い、勝利してこそ、一生成仏と広宣流布が現実のものとなるのです。日蓮大聖人の御生涯にあって、三類の強敵が最大の規模で襲いかかってきた極限の法難が、竜口の法難と佐渡流罪です。しかし、結局は、いかなる魔軍も大聖人のお命を奪うことはできなかった。大聖人は、「竜口までもかちぬ」〈御書p843〉と仰せです。あらゆる法難を乗り越えた末に、ついに権力の手による処刑という絶体絶命の法難にも「勝った!」と大勝利の宣言をされているのです。元品の無明を正体とする第六天の魔王が、僣聖増上慢、道門増上慢、俗衆増上慢という悪鬼入其身の軍勢を総動員して、日蓮大聖人の御生命を奪い、広宣流布を破壊しようとしても、敵わなかったのです。あらゆる魔性の跳梁を打ち破られた大聖人の生命こそが、久遠元初自受用報身如来という御本仏の本地の生命そのものにほかなりません。勧持品は、宝塔品・提婆品の「五箇の鳳詔」を受けて、八十万億那由侘の諸の菩薩が滅後の弘教を誓う品であり、その誓いの言葉の中に「三類の強敵」が説かれます。いわば、宝塔・提婆両品は、"師匠の勅命"であり、勧持品は"弟子の誓い"となります。ともあれ、障魔に勝ち切っていくことこそが、末法の広宣流布を担う真の師弟の道なのです。(単行本池田大作開目抄講義下p11)
120
:
無名人
:2009/12/12(土) 09:11:28
御書p224(413) 我慢を拝しさらなる求道を
悪世の中の比丘は、邪智にして心諂曲に、未だ得ざるを為れ得たりと謂い、我慢の心充満せん。
通解;
悪世末法の中の僧は、知恵がよこしまで、心は諂い曲がっている。まだ得ていない悟りを得たと思い、慢ずる心が盛んである。
拝読の手引き;
法華経勧持品の二十行の偈のうち、三類の強敵の第二、道門増上慢の姿を説いた御文です。この経文の予言通り、悪世末法の諸宗の僧は、皆仏法を究め尽くしたような顔をして、民衆を欺いていました。しかし、その欺瞞性を法華経の行者である日蓮大聖人に指摘されると、彼らは邪智を働かせて互いに結託し、大聖人を誹謗、さらに進んで第三類の姿をあらわし、宗教者としの節を曲げ、権力にこびへつらって、大聖人を抹殺しようとの暴挙に出た徒輩もいたのです。「観心本尊抄」には「諂曲なるは修羅」とあります。修羅の本質はエゴイズムです。増上慢の心もその一面です。諸宗の僧――ある意味では、現代の知識階級の一部がこれに通ずる面もある――は、まがりくねった自我に気がつかないで、無智の民衆に対しては優越感を味わい、自分よりも智慧が優れた者には嫉妬を抱いていたのです。だが、さらに深く考えてみると、これは他宗のよこしまな僧の話として聞き流すわけにはいきません。私達の中にも、知らない間に、増上慢の心がそっと忍び込んでいるかもしれないのです。厳しく考えれば「未だ得ざるを為れ得たりと謂い」とは、すぐに慢じやすい凡夫の私達に対する大きな警鐘ではないでしょうか。少し教学を勉強したからといって、仏法の哲理がわかったような錯覚に陥ることもあります。幹部になって、創価学会のことがすべてわかったと思いこむこともあるでしょう。しかし、大聖人の仏法は、一生かかっても究め尽くせない深いものであり、学会もまた”信心の血脈"を伝える仏の団体です。私達は、仏法の真髄、学会精神を体得するために"生涯求道"の謙虚にして真実の人生を歩みたいものです。(文庫本「きょうの発心」667)
121
:
無名人
:2009/12/12(土) 17:31:25
御書p229〈413〉 魔の本質を見抜く知見
無限の者・一眼の者や邪見の者は末法の始めの三類を見るべからず。一分の仏眼を得るもの此れを知るべし。
通解;
無限の者・一眼の者・邪見の者は、末法における三類の強敵を見ることはできないであろう。一分の仏眼を、正法を信じて得られた者が、これを見ることができるのである。
拝読の手引き;
末法今時に正法を信仰しひろめる者には、必ず三類の強敵があり、このことを知れる人は、仏の正しい知恵を一分でも得た者に限られる。と教えられています。「無限の者」とは仏法に全く無知のもの、「一眼の者」とは仏法の一部分しか知らない、生かじりの者、「邪見の者」とは仏法を自己流に曲げて解釈し、邪説を立てる者をいいます。これらの人々には、三類の強敵を見ることはできないのです。同じものを見ても、目のある人とない人とでは、大変な差が生じます。時には全く正反対の評価さえ起こりかねません。その本質を見抜くには確かなる目が要求されるもののようです。このことは仏法についてもそのまま当てはまります。魔性の本質、敵の存在を、それと見抜くには、仏法の鋭い知見が必要です。広布を阻み、正しい信仰をおさえる三類の強敵――この平和と成長の阻害者は、よほど仏法を根底にした、曇りなき知恵の目、澄んで充実した生命の持ち主でないと、その本質を知ることはできないのです。別の言い方をすれば、妙法のために本当に戦っている人のみが、生命、社会の敵をそれと見抜き、利他の実践に精進できる人といえるのではないでしょうか。戦っていない時、戦いの一念がない時には、なにも見えてきません。挑戦の姿勢がある人にのみ、おかれた状況の厳しさ、、敵の存在が、ひしひしと迫ってくるものなのです。その意味でのこの御文は、信心の強弱をはかるバロメーターの意味をもっています。ともかく、三類の強敵の存在を、私達は、常に、永久に忘れてはなりません。(文庫本「きょうの発心」587)
122
:
無名人
:2009/12/13(日) 11:04:46
御書p230(413) 末法救世主としての自負
日蓮よりほかに日本国に取出さんとする人なし。日蓮は法華経の行者にあらず、天これをすて給うゆへに。誰をか当世の法華経の行者として仏語を実語とせん。
通解;
(法華経勧持品の予言に)的中するものは、日蓮以外には日本国中探してもありえない。しかし日蓮は法華経の行者ではない。なぜなら諸天がこれを捨てて助けようとしないからである。しからば、だれをか当世の法華経の行者として、仏語が真実であるとの証明にしようか。
拝読の手引き;
末法に法華経を弘める者にはあ必ず三類の強敵が襲いかかるとの経文の予言が正しければ、三類の強敵が日本国に充満している時、法華経の真実の行者が出ないわけは絶対にありえません。悪口罵詈され、刀杖が加えられ、官権に訴えられてたびたびの流罪、死罪にあっているのは実に日蓮大聖人の一人でした。寺院を焼いてその科で流罪になった僧侶はたくさんいました。また、公家や武家にこびへつらい、かえって憎まれた高僧と呼ばれた僧侶も数を知りませんでした。こうした僧侶等はとても法華経の行者とはいえません。「法華経の行者」とは、たんに法華経を読んだとか、祈祷したとか、そういう人を指しているのではありません。「開目抄」の提言が、主師親の三徳を具備した仏、すなわち人本尊開顕の書であることを思うとき、この一節は、大聖人が末法の御本仏であることを明かされた結論部分であることがわかります。大聖人は遠く佐渡に流され、主だった弟子は捕えられたり、領地を没収されたり、数々の迫害にあっています。大聖人門下は官憲の弾圧に風前のともしびであったのです。しかも民衆は幸福になる真の宗教を知らず、苦悩の底に沈んでいる現実。「日蓮は法華経の行者にあらず」は慨嘆ではありません。三類の強敵逆巻く濁流の中から起たんとする、御本仏の脈々たる搏動が伝わってくる御文です。(文庫本「きょうの発心」603)
123
:
無名人
:2009/12/13(日) 17:46:46
御書p230(413) 「仏と提婆は身と影とのごとし」
仏と提婆は身と影とのごとし。生生にはなれず。聖徳太子と守屋とは蓮華の花菓同時なるがごとし。法華経の行者あらば必ず三類の怨敵あるべし。三類はすでにあり。法華経の行者は誰なるらむ。求めて師とすべし。一眼の亀の浮き木に値うなるべし。
通解:
仏と大悪の提婆とは身と影のごとし。また生生世世に離れることがない。聖徳太子とこれに敵対する物部守屋とは、蓮華の花と実が同時になるような関係にあった。これと同じく法華経の行者であるならば、必ず三類の怨敵があるべきである。しかるに三類はすでに日本国にある。法華経の行者はだれであろう。求めて師としたいものである。あたかも一眼の亀が浮木にあうようなものである。
拝読の手引き;
日蓮大聖人が三類の怨敵が競い起るなかを、南無妙法蓮華経の大白法を流布する実践を貫かれた御本仏であることを明かされた御文です。どんな時代であれ、社会であれ、人びとの既成の概念を越えた革新の所説を広く流布させていくことは、大変な難事であり、それには必ず旧説にのっとる既成勢力の激しい反発があります。大聖人の仏法は、従来まで支配的であった釈迦仏法の限界を打ち破り、真実の庶民仏教として人びとを幸福へと導く革新の宗教です。その大聖人の仏法を世に流布することに対し、既成仏教をはじめとする反対勢力の激しい反発と非難があったのは、この御文の原理が示す通り当然のことといえましょう。まして、当時の世相は法華経の経文の予言どおりに濁乱の極に達していました。そうした厳しい時代状況の中で、妙法流布の戦いを裕然たる仏の境涯でもって進められたのが大聖人であり、それはまさしく末法の御本仏としての位を証明されたものです。私達はこうした大聖人の戦いを通し、妙法流布の至難さを深く自覚するとともに、いかなる障害に直面しようとも、絶対の確信と使命感を失わない不動の信心を確立しなければなりません。妙法を社会に開く実践が社会のあらゆる分野で展開されていますが、決して後退することなく、勝利の実証を示し、地域広布を前進させていきたいものです。(文庫本「きょうの発心」420)
124
:
無名人
:2009/12/14(月) 10:12:40
御書p232②(413) 門下の根源の迷いを払拭
詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、
通解;
結局のところは、天も私を捨てるがよい。いかなる難にも遭おう。身命をなげうつ覚悟である。
池田先生の指導;
「詮ずるところは天もすてたまえ諸難にもあえ身命を期とせん」〈御書p232〉 私は「開目抄」の白眉ともいうべきこの一節を拝するたびに、御本仏・日蓮大聖人の崇高なる魂の響きに全生命が共鳴し、大いなる勇気と歓喜に打ち震える思いがします。昭和35年〈1960年〉の5月3日、私の第三代会長就任の折、深く拝した御聖訓でもあります。 広宣流布は、常に「一人立つ」勇者から始まります。 思えば、仏教の歴史も、人間の内なる尊極の生命に目覚めた釈尊が「一人立った」瞬間から始まったと言うことができる。 そして、御本仏であられる日蓮大聖人が、濁世を生きる人間が尊極の生命に立脚して生きていける道を示され、その実現のために大難を覚悟で「一人立たれた」からこそ、末法万年の広宣流布が開幕したのです。 この大聖人のお心に連なって、わが創価学会は、先師・牧口先生、恩師・戸田先生が現代における宗教革命と人間革命の道に一人立ち上がられた。 私も不二の弟子として一人立ち上がり、未聞の世界広宣流布の道を、切り開いてきました。 真正の「一人立つ」闘争には、必ず、「二人」「三人」と、勇者が続きます。学会においても、一人また一人と無名の気高き庶民が立ち上がって、今日、地球を包み込む善と正義のネットワークが築かれてきたのです。 世間・門下の義難をつき抜けた、大聖人の大境涯を示された御文です。"諸天の加護がほしい"とか、"難に遭いたくない"というような人々の思惑を超えて、大聖人御自身の御境地である法華経の行者としての覚悟が示されているのです。 大聖人の御境地からすれば、諸天の加護の有無を超えて大切なことがある。いかなる大難があろうと、身命を賭して成し遂げねばならない。 それは、仏が自らの大願として法華経で説いた、最高善である万人の成仏である。そして、その実現である広宣流布にほかなりません。 これこそ、世間や門下の人々がこだわり、執着するものを超えて、大聖人が戦い取ろうとされたものなのです。 法華経の行者とは、仏の大願を我が誓願とし、仏の滅後の悪世にあらゆる困難を超えて実現していく「戦う人」の謂です。特に、末法の悪世においては、法華経の肝心であり、凡夫成仏の法である妙法蓮華経を弘めなければ、その大願は成就できません。 妙法蓮華経は「心の法」です。人々に妙法蓮華経への不信をもたらす法華誹謗は、まさに人々を成仏から遠ざける悪縁であり、仏の大願を妨げる大敵なのです。ゆえに、末法の法華経の行者は、必然的に謗法と戦う人にならざるを得ないのです。 誓願とは、法華経の行者の「戦う魂」です。それゆえに、大聖人は、この一段において、法華経の行者としての誓願を説かれるのです。(単行本池田大作開目抄講義下p78)
125
:
無名人
:2009/12/14(月) 18:27:37
御書p232(413) 「不退」こそ信仰の真髄
身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、
通解:
舎利弗が過去世に六十劫の菩薩行を積み重ねたのに途中で退転してしまったのは、眼を乞い求めたバラモンの責めに耐えられなかったからである。久遠の昔に下種を受けた者、あるいは大通智勝仏の昔に結縁した者が退転して五百塵点劫、三千塵点劫という長遠の時間を経なければならなかったのも、悪知識に会って惑わされたからである。善につけ、悪につけ、法華経を捨てるのは地獄に堕ちる業なのである。
池田先生の指導;
信仰で最も大切なことは「不退の心」です。それは身・口・意にわたる不退でなければなりません。生涯、戦い続ける魂を失わない。それが日蓮仏法の精髄です。創価の心です。大聖人御自身、本抄で立宗の時の誓願を振り返られ、覚悟の法戦を開始されゆく「不退の誓い」を示されています。「今度、強盛の菩提心を・をこして退転せじと願しぬ」〈御書p200〉と。 私達は今、濁劫悪世の娑婆世界の穢土で仏道修行をしています。謗法充満の悪知識の中で、三障四魔・三類の強敵と戦いながら、信仰の実証を示すことは、常に、自己の生命の無明と戦う練磨が不可欠です。何があっても動揺しない「強き心」、まっすぐに誓いの道を貫き通す「清き心」を確立しなければ、魔性の風に仏道修行の灯はまたたく間に消されてしまう。その心を強くすることが「不退」の原点です。深き覚悟がなければ、悪知識の障魔を破ることはできません。大聖人は、この悪知識の恐ろしさを示すために、大乗の修行を退転した舎利弗の例、そして三千塵点劫の昔の大通結縁以来の退転者、また久遠五百塵点劫以来の退転者の例を取り上げられています。 しかし一面から言えば、それ以上の精神の労苦を、私達学会員は悪世末法の弘通にあって日常的に経験しています。無智、悪心、邪智ゆえの反発を受け、罵詈中傷されるなかで、わが魂をすりへらす思いで、人々のために尽くそうとしていく。それが、どれほど尊い菩薩の行動の真髄であるか。 学会員の皆さま方は、何があろうとも、柔和忍辱の心で、御本尊に真剣に祈りきっていく。そして唱題を重ねるなかで、"あの人にも仏性がある""あの人の仏界に届け"とさらなる対話と行動に雄々しく進んでいく。そして、結果として、自己の境涯を大きく拡大していくことができるのです。 真実の釈尊の仏法、また、日蓮大聖人の仏法が立脚するのは、万人成仏の法華経の思想です。この思想の対極にあるのが無明にほかならない。すなわち、万人に等しく尊極の生命があることを認められない暗き生命です。 法華経への違背は、坂道を転げ落ちるように最後は無明の淵である無間地獄に辿りついてしまいます。 それゆえに「法華経をすつるは地獄の業なるべし」なのです。 法華経こそ、万人の尊厳を認める宗教であります。法華経こそ、法性を開く宗教であります。そして法華経こそ、価値を創造する宗教であります。 この法華経が弘められた時は必ず、そこから転落させようとする悪知識が働きます。悪知識は私達の生命を無明へ陥れ、権威に従属させようとします。その悪知識に粉動されてはならない。そのためには、宗教の敵である謗法の悪と戦いきるしかないのです。言い換えれば「戦う心」こそ「不退の心」である。戦いを忘れてしまったならば、悪知識の磁力に打ち勝つことはできません。 ここに、生命勝利の重要な方程式があることを忘れてはならない。(単行本池田大作開目抄講義下p85)
126
:
無名人
:2009/12/15(火) 09:10:56
御書p232(413) 誓願に生きる人こそ無上道の人生
大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頚を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず
通解;
「大願を立てよう『法華経を捨てて観無量寿経などを信じて後生を期するならば、日本国の国主の位を譲ろう』『念仏を称えなければ、父母の首をはねるぞ』などと種々の大難が起こってこようとも,智者に私の正義が破られるのでない限り、そのような言い分に決して動かされることはない。その他のどんな大難も風の前の塵に過ぎない。私は日本の柱となろう。私は日本の眼目となろう。私は日本の大船となろう」と誓った誓願は断じて破るまい。
池田先生の指導;
大聖人は「善に付け悪につけ」と仰せです。悪知識は善悪両面から攻めてくるということです。その原理を知悉されているからこそ、大聖人は不退の誓願を立てられます。 「日本国の位を譲ろう」との誘惑があろうとも「父母の首を刎ねる」との脅迫があろうとも、そうした大難に絶対に屈することはない。どんなに身命に及ぶような大難であっても、風の前の塵のように吹き払っていくことができるとの御断言です。また「我が義は破られることはない」との御確信を示されています。そして、不退転の誓いとともに、大聖人が貫かれてきた偉大なる大願が示されます。「我日本の柱とならむ」「我日本の眼目とならむ」「我日本の大船とならむ」あまりにも崇高な主師親の誓いでありましょう。 日蓮大聖人は、立宗の日に、この大願を決意されたと拝することができます。そして、二十年。あらゆる障魔の嵐が吹き荒れても、何ものも大聖人の「不退の心」を揺るがすことはできませんでした。「ちかいし願やぶるべからず」――この御文は、ひとたび誓った誓願は、未来永劫に断じて破ることはない、との御断言です。 この仏の大願を我が誓願として生き抜く信心の人こそ、仏界の生命が湧現するのです。 わが創価学会は、この「誓願」を不惜身命で貫き通してきたからこそ、すべてに大勝利することができたのです。 「誓願」は、悪世末法に法を弘める上で根幹の柱です。正義に生きる強い誓いの心がなければ、濁世の激流を押し返すことなどできません。魔性を打ち返すことはできません。いかなる大難をも恐れない。いかなる苦難にも怯えない。その勇気を生みだす根源の力が、広宣流布の誓願です。誓願に生きれば、どのような障魔が出来しても、悠然たる王者の魂が光ります。どのような宿命が襲来しても、毅然たる勇者の魂が輝きます。 そして「わが誓願の心」が破られることがなければ、あらゆる障魔にも宿命にも負けることは断じてありません。また、仏法者にとって、「誓願の心」が破られるのは最大の敗北です。これまでの退転者、反逆者は、増上慢となり、名聞名利に流され、誓いの精神が腐って、惨めに破れ去っていきました。ゆえに「心こそ大切」なのです。「不退の心」を持ち、「誓願の心」を貫くことが人間勝利の真髄であることを、日蓮大聖人は教えられているのです。 この御本仏の魂を受け継いだのが創価学会にほかなりません。いな、創価学会しかありません。 私の脳裏には、会長就任直前の戸田先生の言葉が刻まれています。「私には広宣流布しかない」「私は立つぞ!誰が何と言おうが、恐れるものか!もう、何ものにも邪魔させるものか!」「私は、一人立つぞ!」と。 いつの時代にあっても、いずれの国土にあっても、広宣流布は、常に「一人立つ精神」から始まります。「一人立つ」心があれば、妙法の力用は自在に発揮されます。私も、戸田先生の弟子として、世界広宣流布という未聞の道に「一人」立ち上がりました。「一人立つ精神」こそ、三世永遠に変わらぬ妙法弘通の根本原則です。そして「誓願の心」こそ、法華経の行者の魂であり、大聖人の宗教の根幹です。(単行本池田大作開目抄講義p89)
127
:
無名人
:2009/12/15(火) 17:44:14
御書p232(413) 苦難とは「生命の鍛錬」
銅鏡は色形を顕す。秦王験偽の鏡は現在の罪を顕す。仏法の鏡は過去の業因を現ず。
通解;
銅の鏡は外界の物の色や形を映し出す。秦王の用いた験疑の鏡は現在の罪を映しあらわすことができたという。仏法の鏡は過去世の業因を現在の我が身に映しあらわしている。
拝読の手引き:
仏法の鏡に照らせば、過去いかなる事を行ってきたか、きわめて明瞭であると述べられています。仏法の鏡は、単に姿形しか映せない鏡でもなく、現在の姿しかわからない鏡でもありません。三世にわたって、深く、生命の因果、実相を照覧できる妙鏡なのです。人の目はごまかせても、仏法の目をごまかすことはできません。因果の理法は厳然たるものであり、自分自身の生命のうえに、くっきりと過去の一切の行ないが刻まれていることを知らなければなりません。さまざまな不幸、悲惨に苦しむ人、低い獣的な境涯にあっても平然として、美しい人間性の喪失を憂おうともしない姿、あるいは不如意のうらぶれた敗残の人生等々――それらは、本源的な因を、過去世の悪業に求めることができます。その宿命を転換するのもまた、仏法に求める以外にありません。過去遠々劫の福徳を増幅させる方途を、仏法はさし示しているのです。すなわち、妙法の唱題――自行化他にわたっての題目です。民衆救済のため日々の仏道修行に励み、朝晩、たゆまず唱題に打ち込むことです。そうすれば、転重軽受の大利益をうけ、福運は潮の満ちてくるように、わが身をおおうようになることは必然です。本気で戦うことが大切です。宿命転換の原理にしたがい、難も競い起ることでしょう。鉄でも熱し鍛えるならば傷があらわれてきます。生命を美しく強いものに鍛えるときです。難など恐れてはなりません。強く戦った護法の功徳の力により、重罪を呼び寄せ滅して、生命を変革できる願ってもないときなのです。転重軽受の原理をどこまで確信し、実証できるか――それが人生の成否を決めてしまいます。発心し、実践して難が起こり障魔が競えばしめたものです。その壁を一歩破ればさわやかな希望の未来が開けているからです。惰弱な信行学でなく、常に烈々たる一念に燃えた実践でありたいものです。(文庫本「きょうの発心」172)
128
:
無名人
:2009/12/16(水) 07:50:53
御書p232(413) 苦難とは「生命の鍛錬」
斯由護法功徳力故等とは摩訶止観の第五に云く「散善(さんぜん)微弱(びじゃく)なるは動(どう)ぜしむること能(あた)わず 今止観を修して健病虧ざれば生死の輪を動ず」等云々、又云く「三障四魔紛然として競い起る」等云々
通解;
「正法を護持する功徳の力によるのである」とは、摩訶止観の第五の巻の「心が定まらない状態で善を収める修行の力は微弱であり、宿業を転換することはできない。今、止観を修行すれば、自分の普通の状態の心身について、又心身の病について、その両方をいずれもかけずに観察し把握することになるので、生死流転の輪を動かし、宿業を転換することができる」の文に当たり、また、摩訶止観の「行学に懸命に励めば三障四魔が紛然と競い起る」の文に当たる。
池田先生の指導;
護法の実践で鍛え上げられた生命は、謗法の悪業という不純物をたたき出し、三世永遠に不滅となります。 無始以来の生死の繰り返しのなか、この一生で日蓮大聖人の仏法に巡り合い、謗法を責め、自身の生命を鍛え上げることで宿命転換が実現し、永遠に崩れない仏界の境涯を胸中に確立することができる。 それが「一生成仏」です。 この日蓮仏法の透徹した実践は、私達の人生における苦難の意味を一変させます。 もはや、苦難は避けて通るべきマイナス要因ではなく、それに打ち勝つことで自分自身の成仏へと向かっていく積極的な要素となるのです。 もちろん、苦難の渦中にいる人にとってみれば、苦難と戦うことは楽なことではありません。 辛いこと、苦しいことを待ち望んでいる人などはいません。 なければないほうがいいと考えるのが人情です。 しかし、たとえ現実に苦難に直面したとしても、大転換の秘法を知って、「悪と戦ったからこそ、今、自分は苦難にあっている」と理解し、「この苦難を乗り越えた先には、大いなる成仏の境涯が開かれている」と確信していく人は、根本的に強い人生を生き抜くことができる。 この究極の仏法の真実を、生命の奥底で体得しているのが、わが創価学会の同志であると確信します。 その証に、わが同志は、苦難に直面した特に「強い」。 そして何より「明るい」。 それは、宿命転換という生命の根源の善のリズムを、すでに体験的に知っているからです。 また、自分は経験していなくても、会得した他の同志の姿に日常的に接しているからです。 宿命と戦いながら広宣流布の信心に立つ人の姿には、すでに願兼於業という仏法の究極の真実が映し出されています。 どんな苦難も恐れない。 どんな困難も嘆かない。 雄々しく立ち向かっていく。 この師子王の心をとり出だして、「宿命」を「使命」に変え、偉大なる人間革命の勝利の劇を演じているのが、わが久遠の同志の大境涯といえます。 したがって、仏法者にとっての敗北とは、苦難が起こることではなく、その苦難と戦わないことです。 戦わないで逃げたとき、苦難は本当に宿命になってしまう。 生ある限り戦い続ける。 生きて生きて生き抜いて、戦って戦って戦い抜いていく。 この人生の真髄を教える大聖人の宿命転換の哲学は、従来の宗教の苦難に対する捉え方を一変する、偉大なる宗教革命でもあるのです。 "大変な時ほど宿命転換ができる" "苦しい時ほど人間革命できる" "いかなる苦難があろうと必ず最後は転換できる"――この大確信に生き抜いていくのが、日蓮仏法の信心であります。 そして、日蓮大聖人に直結して、この宿命転換の道を現実に歩み、宗教革命の大道を世界に開いているのが、わが創価学会であります。 この誇りと喜びを持って、さらに前進していきましょう。(単行本池田大作開目抄講義下p117)
129
:
無名人
:2009/12/16(水) 17:47:22
御書p233(413)
正法を護らんと欲せば彼の貧女の恒河に有って子を愛念するが為に身命を捨つるが如くせよ
通解;
「正法を護ろうとするならば、貧女がガンジス河にあって、我が子を愛念するがゆえに身命を捨てたごとくしなさい」
130
:
無名人
:2009/12/17(木) 09:54:41
御書p233(413) 眠れる師子を起こす
今、日蓮強盛に国土の謗法を責むれば此の大難の来るは過去の重罪の今生の護法に招出だせるなるべし。鉄は火にあわざれば黒し、火と合いぬれば赤し。木をもって急流をかけば、波、山のごとし。眠れる獅子に手をつくれば大いに吼ゆ。
通解:
今、日蓮は強盛に国土の謗法を責めるからこの大難がくるのであり、それは過去の重罪を今生における護法の功徳によって招き寄せるのである。そのありさまは、鉄が火に熱せられないうちは黒いが熱せられると赤くなる。木をもって急流をかけば、波が山のごとくまきおこる。眠っている師子に手をつければ大いに吼えるようなものである。
拝読の手引き;
日蓮大聖人は真剣に信心に励めば、その護法の功徳力により、過去の重罪を招き出して軽くうけ、消すことができると、示同凡夫の立場で述べられています。 したがって、真面目な実践の途上に、障魔が起こり難があるのは、かえって喜ぶべきことなのです。 過去遠々劫からの悪業により、生命の奥深くに沈殿し、しみついた濁りは、生命の哲理を知らない他教では、いかんとも解決のしがたいものです。 その重罪を招きあらわして消し去る力はなく、生命の濁りはいよいよ堅固なものとなり、未来永遠にその重罪を受けていかなければなりません。 私達の受持した日蓮大聖人の仏法には、宿命を転換させる偉大な力が備わっています。 生命の欠陥というか、重罪というか、それを露にして、完全にして清浄な生命に変革する力があるのです。 刀を作るにも、鉄の鍛え方が弱ければその傷は見えませんが、よく火で熱し、鍛えれば傷が現れてきます。 仏道修行とは、自己の生命を福徳豊かな、強く清浄な生命にする、人間革命の修行です。 真剣さに応じて、その"上達"もきまります。 人間勝利の人生の"達人"になるには、自己の生命の弱さ、濁りとの対決を避けてはなりません。 この悩みを解決したい、あの願いをかなえたい、と本気になって信心の実践に励めば、今までその人の生命を弱く濁らせていた第六天の魔王が驚いて、低い迷いの境涯から離れさせまいと反発するのは当然です。 急流を木でかけば波が起こり。眠れる師子に手をつけば吼えるのは道理です。 発心もなく、あるいは発心弱く低迷していることは、第六天の魔王がべっとりとその人の生命をおおっている状態とたとえてよいでしょう。 転重軽受の法門を実践し、高く広々とした境涯に前進する勇気ある信心を貫きたいものです。(文庫本「きょうの発心」204)
池田先生の指導:
ここに日蓮仏法の宿命転換の大道があります。 強盛に国中の謗法を責めたがゆえに、大難が競い起った。それは過去の重罪が現れたことに他ならないのだから、今それを消し果てることで苦悩の生死流転を脱却することができる、という結論です。 あえて謗法を「責め出だす」という強い戦いこそが、宿命転換の直道です。 そのためには「勇気」が必要です。 反対に、臆病にとらわれた弱い戦いでは、生死の苦悩を転換することはできません。(単行本池田大作開目抄講義下p115)
131
:
無名人
:2009/12/17(木) 21:11:07
御書p234(413) 疑う心なくば仏界に至る
今、日蓮強盛に国土の謗法を責むれば此の大難の来るは過去の重罪の今生の護法に招出だせるなるべし。鉄は火にあわざれば黒し、火と合いぬれば赤し。木をもって急流をかけば、波、山のごとし。眠れる獅子に手をつくれば大いに吼ゆ。
通解;
今、日蓮は強盛に国土の謗法を責めるからこの大難がくるのであり、それは過去の重罪を今生における護法の功徳によって招き寄せるのである。そのありさまは、鉄が火に熱せられないうちは黒いが熱せられると赤くなる。木をもって急流をかけば、波が山のごとくまきおこる。眠っている師子に手をつければ大いに吼えるようなものである。
拝読の手引き;
日蓮大聖人は真剣に信心に励めば、その護法の功徳力により、過去の重罪を招き出して軽くうけ、消すことができると、示同凡夫の立場で述べられています。 したがって、真面目な実践の途上に、障魔が起こり難があるのは、かえって喜ぶべきことなのです。 過去遠々劫からの悪業により、生命の奥深くに沈殿し、しみついた濁りは、生命の哲理を知らない他教では、いかんとも解決のしがたいものです。 その重罪を招きあらわして消し去る力はなく、生命の濁りはいよいよ堅固なものとなり、未来永遠にその重罪を受けていかなければなりません。 私達の受持した日蓮大聖人の仏法には、宿命を転換させる偉大な力が備わっています。 生命の欠陥というか、重罪というか、それを露にして、完全にして清浄な生命に変革する力があるのです。 刀を作るにも、鉄の鍛え方が弱ければその傷は見えませんが、よく火で熱し、鍛えれば傷が現れてきます。 仏道修行とは、自己の生命を福徳豊かな、強く清浄な生命にする、人間革命の修行です。 真剣さに応じて、その"上達"もきまります。 人間勝利の人生の"達人"になるには、自己の生命の弱さ、濁りとの対決を避けてはなりません。 この悩みを解決したい、あの願いをかなえたい、と本気になって信心の実践に励めば、今までその人の生命を弱く濁らせていた第六天の魔王が驚いて、低い迷いの境涯から離れさせまいと反発するのは当然です。 急流を木でかけば波が起こり。眠れる師子に手をつけば吼えるのは道理です。 発心もなく、あるいは発心弱く低迷していることは、第六天の魔王がべっとりとその人の生命をおおっている状態とたとえてよいでしょう。 転重軽受の法門を実践し、高く広々とした境涯に前進する勇気ある信心を貫きたいものです。(文庫本「きょうの発心」204)
132
:
無名人
:2009/12/18(金) 08:01:07
池田先生の指導;
この御文の身読が、創価学会の永遠の生命線です。常にこの御文に立ち戻り、前進していけば、私たちの信仰は不滅の輝きを放つからです。 この御文の精神に照らせば、私たちが難に直面した時は、すべて「まことの時」です。三障四魔が競い起こった時も、自身の宿命転換の時も、広宣流布の活動の"剣ヶ峰"の時も「まことの時」に反転攻勢できる信心が不可欠です。その信心を私たちは、日々、大聖人から教わっているという自覚に立つことです。断じて「つたなき者」になってはならない。(大白蓮華2009・5勝利の経典『御書』に学ぶ) 「我並びに我が弟子」との仰せは、拝するごとに、金文字のように鮮烈に浮かび上がってきます。 普通の宗教者であれば、「我が弟子たちよ」と一方的に呼びかけるにとどまるところです。 ところが大聖人は「我並びに」と仰せです。 「私もそうだ」と語りかけるお心に、師弟一体の仏法の精神が込められています。 そして、その師弟を貫く強靭な核が「不惜身命」です。 師である日蓮大聖人御自身もまた法に対して「不惜身命」であられるがゆえに、仏法を万人に開く民衆の指導者たりえるのです。 弟子もまた、弟子の次元で法を弘通するために、師と同じ「不惜身命」の実践で戦い抜いていかなければなりません。 御文では、多くの難があっても、それに耐えて信心を貫きさえすれば、求めなくても自ら成仏の利益があると仰せです。 いわば「不求自得」〈求めずして自ら得たり〉の成仏です。 なぜ、求めなくても成仏できるのか。 それは、衆生の生命が本来、妙法蓮華経の当体だからです。 そして、「強き信」によって、本来具わっている妙法蓮華経の自在の働きが何の妨げもなく現れてくるからです。 人間の生命の上に、この妙法蓮華経が自在に働き出した時、その生命を仏界の生命といいます。 妙法の無限の力が、何の妨げもなく働き出し、種々の人間の力として発揮されていきます。 例えば"一人立つ勇気"、例えば"苦境を切り開く智慧"、例えば"人を思う慈しみの心"。 そういう、いわゆる仏の生命として説かれる種々のものが、必要な時に適切な形で現れてくる。 何の妨げもなく、妙法を人間の力として呼び現すことができる。 ここで大事なのは、妙法の力が現れ出てくるのを妨げているものが、実は私達の心の中の根本的な迷い、すなわち「無明」であるという点です。 「無明」とは、妙法がわからないという根本的な無知です。 また、妙法がわからないために、生命がさまよった状態になり、暗い衝動的なものに支配される。 これが不幸をもたらしていきます。 諸の不幸、苦しみの根に、この無明がある。 したがって、妙法がわかれば、この無明はたちどころに消えてしまう。 これを譬えて言うと、妙法が太陽で、無明は、それを覆う暗黒の雲みたいなものです。 暗雲が晴れると、太陽の光がサーッと差し込んでくる。 根本的な迷いを打ち破れば、直ちに妙法の力が生命に働き出し、さまざまな功徳、価値創造の働きとなって現れてくる。 そのさまざまな形で功徳、価値が開花してくることが「蓮華の法」です。
133
:
無名人
:2009/12/18(金) 17:57:10
ですから、「衆生は妙法の当体であり、仏界の生命をもともと具えている」といっても、無明の暗雲を晴らす戦いをしなければ、仏界は実際には現れてこない。 単に、形ばかり題目を唱えていればいいかというと、そうではない。 もちろん、僧侶に唱えてもらうなどというのは論外です。 唱える人が無明を晴らす戦いをしなければならない。 無明は心の中の迷いですから、これはやはり、自分の心の中で戦わなければならない。 その戦いとは、一言で言うと「信」を貫くことです。 仏の悟りを表明した法華経に基づいて、大聖人が御自身の内に発見され、そしてまた、その御自身の戦いの中で確かめ、実証されてきた妙法蓮華経という根源の法の働きをわが生命に自在に表すには、大聖人と同じ意味での「唱える」ということが必要になる。 つまり、その根本に「無明と戦う心」である「信」がなければならない。 大聖人の弘められた題目は、いわば「戦う題目」です。 疑い、不安、煩悩などの種々の形で無明は現れてくる。 しかし、それを打ち破っていく力は「信」以外にない。 大聖人は「無疑曰信」〈疑いなきを身という〉と仰せです。 また、「元品の無明を退治する利剣は信の一字なり」〈御書p751〉とも言われている。 鋭い剣です。 魔と戦うということも、根本的には無明と鋭く戦うのでなければならない。 私達は、広宣流布を妨げる魔の勢力と戦っています。 この魔との戦いも、根本的には無明との戦いです。 また、人生に起こってくるいろいろな困難と戦うのも、本質は無明との戦いです。 妙法への「信」、言い換えれば「必ず成仏できる」「必ず幸せになれる」「必ず広宣流布を実現していく」という一念が失せたならば、人生の困難にも、広布の途上の障魔にも、負けてしまいます。 本抄で「疑う心」に負けてはいけない、「嘆きの心」にとらわれてはいけないと言われているが、その疑いや嘆きこそ、まさに無明の表れなのです。(単行本池田大作開目抄講義下p127)
134
:
無名人
:2009/12/19(土) 09:42:41
御書p236(413) 時を知る
章安の云く「取捨宜きを得て一向にす可からず」等、天台云く「時に適う而已」等云云
通解:
章安の云く「摂受と折伏とは取捨よろしきをえて、一向にすべきではない」と。天台云く「摂受か折伏かいずれをとるかは、時にかなうのみである」と。
戸田先生の指導;
いったい摂受と折伏の二つの法門は水火のごとき関係にあり、火は水をいとい、水は火をにくんでたがいにその立場が相容れないのである。摂受のものは折伏するものを冷笑し・折伏のものは摂受の手ぬるいのを見て悲しく思う。いまその原則を示すならば、無智・悪人の国土に充満する時は、摂受を第一に立てて法を弘む、安楽行品のごときがこれである。邪智・謗法のものの多い時は、折伏を第一に立て常不軽品の如く弘法する。たとえば熱い時に冷い水を用い、寒い時に火をこのむようなものである。草木は太陽の眷属であり、寒い冬には苦しみの状態にある。諸水は月の所従であるから、熱い時にその本性を失ってしまう。摂・折二門はこのように相容れないのであるが、末法にもまた摂受と折伏があるべきである。いわゆる無智悪人の悪国と、邪智謗法の破法の国があるべきゆえに、悪国には摂受を行じ、破法の国には折伏を行ずるのである。されば日本国の当世は悪国か破法の国か。邪智謗法の国であることはとうぜんであり、折伏でなければ弘法も不可能であり、絶対に功徳を受けることがあり得ない。(日蓮大聖人御書十大部講義第二巻下p290)
135
:
無名人
:2009/12/19(土) 17:52:54
御書p236(466) 時機にかなった実践を
設い山林にまじわって一念三千の観をこらすとも、空閑にして三密の油をこぼさずとも、時機をしらず、摂折の二門を弁へずばいかでか生死を離るべき。
通解;
たとえ、山林の奥深くにすわって、自分の生命は十界互具・百界千如・三千世間の当体であると観察をこらそうとも、人里離れた静かなところで、身・口・意の三種の秘密の修行を、油断なく一心不乱に行おうとも、今がどのような時であり、衆生はどのような機根の人びとであるかを知らず、摂受と折伏という二つの実践法の立てわけをわきまえなければ、どうして生死(苦しみ)を離れることができようか。
拝読の手引き;
仏法は、一切の民衆を一人ももらさず、救済するために説かれました。 そして、仏法によって、それぞれの命に宿る、悪い因果の集積(不幸を招く業)を打破して、幸福をもたらす善因を刻むためには"実践修行"が欠かせぬことを説いています。 ところが釈尊に始まる一般の仏教では、その実践修行の内容が曖昧であり、いろいろな仏教者が、色々な修行法を立てたのです。 山林の中で瞑想にふけったり、静かなところで秘密の法をこらしたりというのも、そうしたたぐいです。 しかし、そうした修行は、特定の人にしか実行できないものです。 たとえできたにしても、末法においては有害無益なものです。 日蓮大聖人は、このことを経文の原理を通して明確にし、特に、修行の基本として、時と衆生を知り、摂受(相手の考え方等を受け入れながら法を説く)折伏(誤った考え方等を打ち破り正しい法に従わせる)を立て分けることの大切さを、指摘されているのです。 そして、末法現代は、南無妙法蓮華経を根本とした、折伏の時であり、今の衆生は折伏によって救われる人々であることを教えられているのです。 私達は、今、折伏布教を推進することこそ、仏法の正しい実践であり、自他共の宿命転換、生死離脱の直道であることを確信していきたいものです。(文庫本「きょうの発心」675)
136
:
無名人
:2009/12/20(日) 10:11:04
御書p237(413) 妙法に恥じない人生
伝教大師の南京の諸人に「最澄未だ唐都を見ず」等といはれさせ給いし、皆法華経のゆへなれば、はぢならず。愚人にほめられたるは第一のはぢなり
通解;
伝教大師は奈良の学者たちに「最澄はいまだ唐の都をみていない。仏教の中心地を知らないくらいだからたいしたことはない」等と悪口をいわれているが、これらすべて法華経のゆえに受けた怨嫉であるから、一向に個人的な恥ではない。それよりも愚人にほめられることが第一の恥である。
拝読の手引き;
妙法をたもった私たちの生き方を教えられた重要な一節です。 私達は過去世から深い宿縁によってこの世に生を受け、妙法を信受することができました。 不幸な人々を救い、混迷の社会を変えゆく、崇高な使命をもつ地涌の菩薩です。 御本尊をたもち、創価学会員となって人間革命、平和建設を目指す私達はだれがほめようがけなそうが、生涯不退転の信心を貫いていくことが大事です。 人間として、妙法の信仰に生き、その広宣流布の活動を推進することほど、尊く偉大な生き方は、ほかにありません。 高らかに、胸を張って前進していくべきです。 いかなる地位に立とうと、財をどんなに積もうと、社会人として、人間として立派に生きることを忘れてはなりません。 世間の毀誉褒貶にとらわれ、人間が人間として生きる上で、最も尊い実践である信仰をおろそかにするようなことが断じてあってはなりません。 世間への恥に生きるか、それとも冥の照覧を確信し、自分の心に恥じない人生を送るか、ここに人間の生き方の根本的な相違が生じます。 私達が御本尊をたもち、南無妙法蓮華経と唱え、妙法広布に日夜邁進する姿は、人間としての真実の勝利が輝く人生であり、御本仏日蓮大聖人の精神にかなった最高の人生であることを強く確信しましょう。 人生の最後の勝利を決定するのは名誉でも地位でも権力でもありません。 それら一切の虚飾を取り去った裸の人間そのものの輝きなのです。 それにはどんなに苦しくとも辛くとも、最高の哲学を持ち、妙法広布の使命観を燃やして一歩一歩着実に前進する以外にありません。 この一節を人生の指針として、誇りも高く広布の道程を進んでいこうではありませんか。(文庫本「きょうの発心」187)
137
:
無名人
:2009/12/20(日) 17:16:21
御書p237(413) 万人が慈悲の実践を
日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり
通解;
日蓮は日本国のあらゆる人にとって、主であり、師であり、父母である。
池田先生の指導;
法華経の行者としての大聖人のお振る舞いそのものが、三徳の慈悲の行動にほかなりません。 また、極めて重要なことは、大聖人自らが三徳を顕わして悪世末法の衆生を救済されただけでなく、万人が慈悲に生きる具体的な実践として、折伏行と唱題行という道を開かれたことです。 悪世末法の凡夫が慈悲に生きる。 これは簡単なものではありません。 しかし、そのことが実現しなければ、仏法の本来の目的は永久に成就しません。 無慈悲の末法万年を真の意味で救いきるためには、仏の三徳を継承した法華経の行者が出現し、その仏の行者を軸として無数の慈悲の体現者である法華経の行者、慈悲の実践者が誕生していくしかないのです。 確かに、凡夫にとって慈悲は直ちに出るものではありません。 しかし、凡夫は慈悲の代わりに勇気を出すことはできます。 そして、慈悲の法を実践し弘通すれば、その行為は、まさに慈悲の振る舞いを行じたことと等しいのです。 そして、凡夫から凡夫へ、慈悲の善のかかわりが無数に広がっていきます。 慈悲の暖流で無明の世界を包み込み、慈悲の縁起の世界を勇敢に広げることこそ、釈尊を源とする真の仏教の系譜を継ぎ、発展させることになるのです。(単行本池田大作開目抄講義下p180)
138
:
無名人
:2009/12/21(月) 09:39:37
題名 :祈祷経送状p238(535)
対告衆 :最蓮房
執筆年次 :文永10・1・28
聖寿 :52
西紀 :1273
著作地 :佐渡・一ノ谷
大意 :大聖人ご自身が三類の強敵に会われたことについて述べられ、山ごもりの件、末法の行者の息災延命の事、出家の妻帯肉食の事ついて述べられ、正法弘通の志を強調。
139
:
無名人
:2009/12/21(月) 17:14:11
題名 :如来滅後五五百歳始観心本尊抄(p238・527)
観心本尊抄
対告衆 :富木常忍
執筆年次 :文永10・4・25
聖寿 :52
西紀 :1273
著作地 :佐渡・一ノ谷
大意 :法本尊開顕の書。三大秘法の大本尊を明かされた最重要法門の書である。
140
:
無名人
:2009/12/22(火) 09:51:12
御書p239(527) 生活それ自体が説法
故に序の中に「説己心中所行法門」という。良に故有るなり。謂う、尋ね読まん者、心に異縁なかれ。
通解;
故に摩訶止観の巻頭にある章安大師の序の中に「己心の中に行ずる所の法門を説く}といっているが(天台大師の己心に行ずる自行の法門が即ち一念三千であるとは)誠に理由の深いことである。こいねがわくは尋ね読まん者、この点において心に異縁――他事に心を奪われること――を生じてはならない。
拝読の手引き;
この文は妙楽大師の「摩訶止観輔行伝弘決」の文ですが、その中に出てくる章安大師の説いた「己心の中に行ずる所の法門を説く」〈説己心中所行法門〉について、私達の生活、立場から考えてみましょう。 私達の生活というものは、瞬間瞬間の生命活動のあらわれたものです。 私達の生活すべては、己心〈生命、一念〉の中に行ずる所の法門を説法しているのです。 地獄の苦しみにさいなまれている人は、その一念が強く、その人の姿に、振る舞いにあらわれるのです。 また天にも昇らんばかりの楽しい境涯のとき、顔は生き生きと、身も、足取りもかるい。 その人の一切の行動は、その人の境涯を説きあらわしているのです。 つまり諸法実相の厳しい姿といえます。 したがって、いかに表面を繕っても、絶対にかくすことのできないのが、私達の奥底の一念です。なぜなら私達の己心〈一念〉に行じている所の法門を、私達は自己の体で説法しているからです。 一般に、説法といえば、仏がその境涯や法を、衆生に向かって説くものと理解されています。 しかし、その本来の意味は、単に仏のみならず、松柏風波をはじめ森羅万象はことごとく、それぞれの法を説いているのです。 ちまり、生命活動のあらわれそのものが、説法なのです。 このように考えると、私達の生活は瞬間瞬間、説法をしているわけです。 所詮、私達の己心において何を行じているかで、私達の人生の説法は決まるのです。私達は、御本尊に唱題を重ね、己心に無量の福運と光輝に満ちた仏界を躍動させ、力強くたくましい人生の姿を説法し続けようではありませんか。(文庫本「きょうの発心」186)
141
:
無名人
:2009/12/22(火) 20:12:07
御書p240(527) 妙法は「汝自身」を知る明鏡
観心とは我が己心を観じて十法界を見る是を観心と云うなり、
通解;
観心とはわが己心を観じて、自己の生命に具足している十法界を見ることである。
拝読の手引き;
「観心」とは「心を観ずる」と読みます。ソクラテスが主張した有名な言葉に「汝自身を知れ」とありますが、この汝自身を知ることが「観心」であるといってよいでしょう。 本文に「わが己心を観じて」というのは、自分自身の生命を観ずることです。 しかし、生命とは時々刻々と変化する不可思議な存在です。 善とか悪とか、一面的に規定できない、限りない重層性をもっています。 このような生命の本質と全体像を解明しなければ「汝自身」を知ることはできません。 中国の天台大師は、生命の実態を「一念三千」として把握しました。しかし、これを理論的に認識するだけならば迹門の域を出ません。 現実に自己の生命をどうリードし、変革していくかということが大事な問題です。 この問題のカギは、自己の生命を映し出す鏡――つまり本尊にあります。 「汝自身を知る」ための本尊(信仰の対象)を地球上で初めて確立されたのが日蓮大聖人です。 それが「一閻浮提総与の大御本尊」です。 末法において「観心」とは、この大御本尊への信心をいいます。 本尊があっても、信心の眼を開かなければ、自己の生命を見つめることはできません。 したがって、「わが己心を観じて」とは御本尊を信じて唱題に励むことです。 そのときに「十法界を見る」とあるように、自己の生命に、仏界という至宝を含む十法界が、ことごとく具わっていることがわかるのです。 といっても、これは単なる認識論や観念論ではなく、現実生活のうえで、仏界を湧現し、価値創造をしていけるということなのです。 私達は、いかなる活動にあっても、この信心という一点を見失ってはなりません。 信心こそ自己変革、ひいては社会変革の原動力だからです。(文庫本「きょうの発心」595)
142
:
無名人
:2009/12/23(水) 08:15:50
御書p241(527) 六道流転を超えた人生
瞋るは地獄・貪るは餓鬼・癡は畜生・諂曲なるは修羅・喜ぶは天・平かなるは人なり他面の色法に於ては六道共に之れ有り四聖は冥伏して現われざれども委細に之を尋ねば之れ有る可し
通解;
瞋るは地獄界、貪るは餓鬼界、癡は畜生界、諂曲なのは修羅界、喜ぶは天界、平らかなのは人界である。このように他人の相には六道がすべて具わっている。四聖は冥伏していて日常に現れないけれども、くわしく探し求めるならば必ずそなわっている。
拝読の手引き;
この御文は、人界に十界が互具されているかとの質問に対して、私達の日常生活での姿を見れば六道の生命は明らかに、また四聖も、なかなか現れないが厳然として、具わっていることを明かされたものです。 ここで私たちが考えたいことは、六道的な生命の状態に流されていくかどうかということです。 ともすると私達は日常生活での忙しさに追われ向上心を失いがちです。 そうなると、どうしても六道の生命状態を繰り返すだけで、成長や進歩は望めません。 そして、いつのまにか惰性が忍び寄り、無気力、あきらめといった自分をダメにする生命傾向が強くなり、目標もなく刹那的な生活に追いやられてしまうのです。 御本尊を持ち信心に励む私達は、こうした六道の姿勢を打ち破るところに、事実上の人間革命があることを知っていきたいものです。 その具体的な実践方法は、いうまでもなく唱題であり、悩める人を救っていく地涌の菩薩としての修行です。 妙法を持った者は、誰もが求道心を燃やし、努力することによって、より人間的な境涯である四聖の生命を現わすことができるのです。 六道的な生き方を超えて四聖的な人生態度に変えていこう――その努力と挑戦の繰り返しで人間革命は成っていくのです。(文庫本「きょうの発心」552)
143
:
無名人
:2009/12/23(水) 17:47:48
御書p241(527) 仏界を明かす
「我等劣心に仏界を具する」
通解;
我ら凡夫の劣等な心に尊極無常の仏界を具している
戸田先生の指導;
仏が出現するその根本目的は衆生の仏知見を開発して、その仏知見を衆生に示し、その仏知見を悟らしめ、そして仏知見道に入らしめるためである。 いかに仏に力ありとするも、衆生に仏知見がなかったならばどうしてこれを開くことができようか。 われわれ衆生に仏界を具していることは明らかなことであるが、問題は末法に至ってこの仏知見を開かしめるかにある。(日蓮大聖人御書十大部講義第四巻p216)
144
:
無名人
:2009/12/24(木) 08:49:34
御書p241(527) 現じ難い仏界の生命
但仏界計り現じ難し。九界を具するを以て強いて之を信じ、疑惑せしむることなかれ。
通解;
ただ仏界ばかりは日常生活に現れがたいのである。しかし、すでに九界を具していることがわかった以上は、しいて仏界のあることを信じ、疑ってはならない。
拝読の手引き;
私達凡夫の生命にも、仏界という尊極の生命がそなわっています。 この事実を、釈迦は法華経にきてはじめて明かしたのです。 そして、日蓮大聖人は、一切衆生の生命に仏界を顕現する実践的方途を確立するために御本尊を建立されました。 大聖人の仏法は、仏界を生命の一様相として把握しています。 つまり、宇宙と生命の根本原理を覚知し、自身の生命が宇宙の本源的なリズムと冥合した生命を指して仏界というのです。 しかし、そのような仏界は、個人の内証として得られるものであり、そのまま日常生活(九界)の中にあらわれるものではありません。 ここに、大聖人が「但仏界計りは現じ難し」と仰せられた理由があります。 しかし、大聖人は「強いて之を信じ」と仰せです。 これは、観念や理論の世界から信仰の世界への飛躍を促しているのです。 九界が私達の生命に具していることは、観察や思索によってわかります。 だが、仏界という確たる実在を知らなかったために、私達は不幸な生活を抜本的に変革することができなかったのです。 仏を人格としてのみ説いた爾前経では、仏は他の国土(浄土)にいると説かざるをえませんでした。 キリスト教等においても、人格神を説いたため、その住所を天に求めざるをえませんでした。 それらの教えを信じた人々は、皆現実社会の外に幸福を求めたのです。 それに対して、大聖人は、仏界を人間生命の中に見出し、仏界の湧現こそ生命変革の原理であると説かれました。 さらに、この生命の変革が環境革命をもたらすのです。 私達は、日々唱題に励み、生命の基盤として仏界を確立していきたいものです。(文庫本「きょうの発心」654)
145
:
無名人
:2009/12/24(木) 18:35:16
御書p246(527) 妙法の偉大さ
釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う
通解;
釈尊のあらゆる因位の修行によって得た功も、仏果を成じてからの衆生救済の大行動による徳も、すべて妙法蓮華経の五字に具足されており、私どもはこの妙法を受持することによって、おのずからその一切の功徳を譲り与えられるということであります。
池田先生の指導:
これこそ、仏法の究極であり、一切衆生成仏の根源を明快に断言された、珠玉の御金言であります。 御本尊は、十方三世の諸仏の因位の万行、果位の万徳の凝結した宝珠であり、しかもそこに、宇宙をもつつむ偉大なる力用が具足されているのであります。 私はこの「譲り与え給う」との御文に、御本仏の比類なき大慈悲が感じられてならない。 なぜなら、久遠元初の生命といっても、仏法哲理の極理を究めた難信難解の法であり、凡夫の容易に知りうるところではありません。 私どもが今、それにふれることができるのは、七百年前の歴史の現実のうえに、日蓮大聖人がご出現になったからであります。 「我等此の五字を受持すれば……」とは、この御本尊に帰依する受持の一念の中に、もったいなくも日蓮大聖人の御命、そして久遠元初の自受用身如来の命が通ってくるのであります。 それこそ、宇宙本然の姿である万法の体に合掌冥合しゆく尊い座であり、そこには、いっさいを包括し、統合し、作動させてゆく、あふれるばかりの力が秘められているのであります。 私どもは、御本尊に南無する一瞬において、根源の法に立っているのであります。 そこから、社会に、人生に、わが当体に、妙法五字を顕現していくのであります。 いわば釈尊の仏法が、百千枝葉が一根に趣くように、妙法へと向かう努力、精進であったとすれば、私ども受持の当体には、妙法を百千枝葉へと展開する未曾有の宗教運動の世界が、豁然と眼前に開かれていくのであります。 そして今、この元初の太陽が、全世界を照らしつつある――。思うだに感無量であります。 本因妙の仏法においては、いかなる人であれ、みずからの願いを、久遠元初の当体である御本尊にかけることにより、未来の輝ける人生が開けゆくのであります。 いな、厳密にいえば、人それぞれの願いが、久遠の本因と冥合した瞬間、因果俱時で、結果そのものが生命の内奥にはらまれてしまうのであります。 電源にスイッチを入れた途端、暗かった部屋のすみずみまで電光に照らしだされるように、その瞬間、すでに生命の奥底では、宿命転換が成し遂げられ、未来の実証を呼びよせる永遠無量の宝珠が積まれているのであります。 ともあれ、御本尊の御建立によって、末代の荒凡夫の私どもが、久遠元初の御本仏の生命と感応し、合一できる道が開かれた。 いな、一切衆生を久遠元初の仏と同じ尊極の当体ならしめようとされたところに、御本仏大聖人の大願があったのであります。(新版池田会長全集10「観心本尊抄」講義p225)
146
:
無名人
:2009/12/25(金) 10:46:04
御書p246(527) 一生成仏・仏界湧現
「我が如く等くして異なる事無し我が昔の所願の如き今は已に満足しぬ一切衆生を化して皆仏道に入らしむ」、妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳は骨髄に非ずや
通解;
方便品には仏が「法華経を説いて一切衆生に即身成仏の大直道を与え、仏と衆生と等しくして異なることがなくなった。仏がその昔に請願した一切衆生を度脱せんとの誓いが、今はすでに満足し、一切衆生をして皆成仏道に入らしめることができた」と説かれている。妙覚の釈尊は我らの血肉で因果の功徳は骨髄である。すなわち師も久遠元初の自受用身、弟子もまた久遠元初の自受用身と顕れ、自受用身に約して師弟が不二なること明らかである。
池田先生の指導;
久遠元初の自受用身としての大聖人の御生命を顕わされたのが御本尊であり、ゆえに、御本尊を信受して南無妙法蓮華経と唱えるとき、私どもも自受用身の当体となる。師匠である大聖人も自受用身、弟子である私どもも自受用身であり、師弟不二となるのであります。 この段を拝するたびに、私は、日蓮大聖人の一切衆生を成仏させんとの大慈悲と、仏法の本源的な平等観の深さを思わざるをえないのであります。 古今のほとんどあらゆる宗教は、人間を超えたなんらかの“絶対者”を設けるのを常としてきました。西欧の宗教などでは、人間と神との間に深い断層があり、ただ絶対神たる神の恩寵にすがる以外にない存在です。仏法においては、われわれ衆生が仏であり、尊極無常の存在なのであります。 ゆえにこの大聖人の宣言は、あらゆる人間蔑視の古き宗教に決別を告げると同様に、権威の“絶対者”の手から人間の尊厳を取り戻そうと模索しつづけてきた、近代の多くの人権宣言の根源を射ぬく、高らかな人間宣言ともいうべき師子吼であったといってよいと考えます。 私は、大聖人が「妙覚の釈尊」を「血肉」に、「因果の功徳」を「骨髄」に配されていることに、甚深の意義が感じられてならない。 思うに私どもの運動も、どれだけこの御本仏の生命に感応できるかということにつきるといえましょう。一人が一人の宝塔を開き、そのまた一人が一人の宝塔を開く――この地道にして着実な生命の開拓作業の中に、御本尊との感応の響きは、いんいんと幾重にも、幾次元にも広がっていくのであります。 ともあれ、人間の心を動かすものは、人間の心であります。大聖人は、みずから凡夫僧の姿をとってご出現になり、つねに庶民と哀感をともにしつつ、心のヒダにふれながら、この原理を私どもに事実のうえで示してくださいました。これは、蔵の財、身の財の次元の満足をはるかに超えた心の財の充足、すなわち絶対の幸福境涯であります。 その点について、恩師は、次のように述べています。 「されば、この大宗教を信ずることによって生命のリズムは宇宙のリズムに調和して、生きている幸福をしみじみと感ずるのである。生命の歓喜こそ、幸福の源泉である」 私どもの一生成仏の目標は、まさにこの一点にあります。「わが如く等しくして異なること無からしめん」との、御本仏の大慈悲に浴する道は、ここにしかないことを確信しつつ、障魔に粉動されず、わが道を進んでいこうではありませんか。(新版池田会長全集10p242)
147
:
無名人
:2009/12/25(金) 21:04:02
御書p253〈527〉 混迷の極に地涌出現
今末法の初め小を以て大を打ち、権を以て実を破し、東西共にこれを失し天地顛倒せり。迹化の四依は隠れて現前せず。諸天其の国を捨て之を守護せず。此の時地涌の菩薩始めて世に出現し、但妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ。
通解;
今、末法の初めは、小乗教をもって大乗教を打ち、権大乗教を以て実大乗教を破り、東を西といい、西を東といって東西共にこれを失い、天地が顛倒する大混乱の時代である。像法時代に正法をひろめた迹化の四依の菩薩はすでに隠れて現前せず。諸天善神はそのような国を捨て去り守護しない。この時、地涌の菩薩が、はじめて世に出現し、ただ妙法蓮華経の五字(三大秘法の御本尊)をもって、幼稚の衆生に服せしめるのである。
拝読の手引き;
一面、時代そのものが、暗闇の極に達したといえる末法の初期にこそ、新たなる救済の哲理を掲げた大聖が出現し、民衆救済の大運動を展開することを述べられた御文です。 正法・像法の期間、時代と社会を潤し、ときには、その文化の花を爛漫と咲かせた釈迦仏法は、しかし、有限の宗教でした。その威力は、釈迦自身が予見していたごとく末法の到来とともに、隠没し、思想界は混乱の極みに陥ったのです。ともに、かつて登場したような便りとすべき指導者は隠れてあらわれず、諸天善神の律動もなく、底知れない暗い時代が現出したのです。 しかし、闇が深ければ深いほど、暁が近い――といわれるように、この一つの時代の終局のなかに、実は、まったく新しい力強い仏法の誕生があったのです。すなわち「この時地涌の菩薩始めて世に出現し」云々とあるように、地涌の菩薩の上首のお姿をもって、日蓮大聖人が出現し、三大秘法の南無妙法蓮華経を樹立されたのです。それは、一切の病める民衆の取って服すべき大良薬であり、未来永遠の時代と社会を照らし晴らす“太陽”ともいえる仏法なのです。 大聖人はすでに七百年前、民衆救済、社会変革への大宗教運動の基盤を深く堅固に築かれました。私達は地涌の菩薩の一員として、人々に妙法の清流を注ぎつつ、今なお渦巻く時代の濁流を浄化し、明るく清らかな人間社会を築き切っていこうではあ地ませんか。(文庫本「きょうの発心」253)
148
:
無名人
:2009/12/26(土) 09:40:34
御書p254(527) 末法広宣流布の予言
「後の五百歳、閻浮提に於て広宣流布せん」と。天台大師記して云く「後の五百歳、遠く妙道に沾わん」と。妙楽記して云く「末法の始め冥利無きにあらず」と。
通解;
法華経薬王品にいわく「後の五百歳(末法)に、全世界に妙法が流布するであろう」と。天台大師は法華文句に記して云く「後の五百歳(末法)の始めより未来永劫まで、妙法が流布するであろう」と。また妙楽大師は文句記に記していわく「末法の始め、下種益がないわけがない」と。
拝読の手引き;
三大秘法の南無妙法蓮華経の広大な利益が、末法万年、悠久の未来まで、人々の生命をうるおすことを予言した文々句々です。 仏法はその視点の広大なことで、他の思想哲学の追随を許しません。そのビジョンの大きさは他のマネのできないところです。全世界の人々の幸せと恒久の平和を願う仏法の姿勢の雄大さが端的に現れているのが、ここにあげた御文です。私達は、このような未曾有の仏の大業に参加できる喜びをかみしめ、大いなる希望に燃え、着実に前進していきたいものです。 世界に妙法の大利益が満ちあふれ、日蓮大聖人の精神が時代精神、世界精神となる――その深く広く強く、妙法の清水が満ちなければなりません。一人ひとりが確たる人間革命の実証を示すこと、そこから次の広布の大きな流れが巻き起こってくるのです。 大聖人の理念を学び、深め、自己のものとして定着させ、生活・行動にあらわす”生命の開拓作業”ともいうべき人間構築の戦いが、展開されていかなければなりません。自発・農道の人、すなわち、他からいわれなくとも、やむにやまれぬ自己の生命の内的発動として、布教に心をこめ、人間革命に励む人が、今ほど必要とされる時はないのです。(文庫本「きょうの発心」503)
149
:
無名人
:2009/12/26(土) 17:34:53
御書p254(527) 妙法の偉大さ
此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し月支震旦に未だ此の本尊有さず
通解;
この通り経釈の予言に的中したときに地涌千界の大菩薩が世に出現して、本門の釈尊を脇士となす一閻浮提の本尊がこの国に建立されるであろう。インドにも中国にもいまだこの御本尊は出現したことはなかった。
戸田先生の指導;
釈尊は二千年と二千五百年の間に仏が出現することを予言し、天台も同じく後五百歳の広宣流布を予言し、妙楽また末法の始めを指して冥益あることを示して法華経の流布を予言し、伝教は末法甚だ近きに有りとして自分の法華経流布は正時でないことを示し、ついでまた時と所とを明らかにして末法の始めの広宣流布を予言している。 さればこそ、この予言に合して大聖人御出現あって「この時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊この国に立つべし」とはっきりおおせられたのである。 この「一閻浮提の本尊」とは妙法五字の文底深秘の本門の本尊であることはいうまでもない。前文に塔中の妙法蓮華経の左右には釈迦牟尼仏・多宝仏というのがこの本門の脇士となすとの意であり、また一閻浮提第一の本尊と同意である。また「此の地涌千界始めて世に出現しただ妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ」と云うのも同じ意である。 またインドにも中国にもいまだこの本尊がましまさなかったとは、御本尊の讃に「一閻浮提の内未曾有の大曼荼羅なり」と仰せられる意と同じである。その理由は天に二人の主がないと同様に、能弘の師がこの日本国に生まれられて、インド・中国にはお生まれにならないからである。すなわち今日において我が国からインド・中国へ、仏法が渡るということと同じ意である。(日蓮大聖人御書十大部講義第四巻p496)
150
:
無名人
:2009/12/27(日) 08:57:44
御書p254(527) 天晴れぬれば地明らか
天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか
通解;
天が晴れるならば、地はおのずから明らかとなる。同様に、法華経を知る者は世間の法をもおのずから得るであろう。
池田先生の指導;
ひとたび天が晴れわたれば、大地が明るく照らされる。それと同じく、妙法を信じ行ずれば、世法で勝ちゆく道も晴れ晴れと開かれてくるとの仰せです。人生に勝ち、社会を照らしゆくことが、仏法者の生き方です。現実を離れて仏法はない。千変万化する世界を見つめ、価値創造の光を放つ力こそ、信心です。人生は、さまざまな困難の連続である。しかし、信心の上では決して負けない。一歩も退かない。この一念が、「即」人生の勝利、社会での勝利を開くのです。
仕事でも、学業でも、題目を唱え抜いて真剣に挑戦すれば、必ず勝利の智慧が湧いてきます。これが「天晴れぬれば」の生き方であり、「地明かなり」の妙用です。(2009・10・8御書と師弟)
151
:
無名人
:2009/12/27(日) 22:58:14
御書p254(527) 御本仏の大慈悲
一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う
通解;
一念三千を識らない末法のわれわれ衆生に対して久遠元初の御本仏は大慈悲を起こされ、妙法五字に一念三千の珠を裏み独一本門の大御本尊として末代幼稚の頸に懸けさしめたもう。
戸田先生の指導;
この文の意は末法今時の理即但妄の凡夫は自受用身即一念三千の仏を識らずに不幸におちいっている。ゆえに久遠元初の自受用身即日蓮大聖人は大慈悲を起こされて妙法五字の本尊に自受用身即一念三千の相貌を図顕せられて、末代幼稚の首に懸けてくださった。すなわちこれを信ぜしめよとの意である。 この文について「妙法五字の袋の内に本果修得・事の一念三千の珠を裏む」あるいは「妙法五字の袋の内に理の一念三千の珠を裏む」と解しているものがあるが、これは文底深秘のご聖旨を知らぬものである。これは、ただ妙法五字の袋の内に久遠元初の自受用身即一念三千の珠を裏むと拝すべきである。しこうして久末一同の義を思い合わせるに久遠元初の自受用身とは日蓮大聖人の御事であると、はっきり胸にきざみこまぬと末法の大仏法は諒々とならないのである。 すなわち妙法五字とは、その体は一念三千の本尊であり、一念三千の本尊の体とは宗祖日蓮大聖人であらせられる。たとえば「一心是れ一切法・一切法は只是れ一心」というがごとく、大聖人の一心に具足せられる一念三千の御本尊は即妙法五字の大御本尊であらせられる。 われらはこの本尊を信受し南無妙法蓮華経と唱え奉れば、わが身即一念三千の本尊、日蓮大聖人とご同体になるので、三世十方の仏・菩薩・梵天・帝釈・四天等が我らを守護されるのである。これ正しく幼稚の頸に懸けしむの意である。ゆえに、ただ仏力法力をあおいで信力行力を致すべきである。「一生空しく過ごして万劫悔ゆるなかれ」との日寛上人の強き誡めと拝すべきである。(日蓮大聖人御書十大部講義p501)
152
:
無名人
:2009/12/28(月) 06:39:09
題名 :観心本尊抄送状
対告衆 :富木常忍
執筆年次 :文永10・4・26
聖寿 :52
西紀 :1273
著作地 :佐渡・一ノ谷
大意 :観心本尊抄の重要性、同抄を排する心構え等が明かされている。
153
:
無名人
:2009/12/28(月) 21:16:38
題名 :撰時抄
対告衆 :
執筆年次 :建冶元・6
聖寿 :54
西紀 :1275
著作地 :身延
大意 :寿量文底秘沈の大白法の存在を示唆し、この深法が広宣流布すべきことを明かしている。
154
:
無名人
:2009/12/29(火) 10:22:18
御書p256〜①(p717〜①) 時を知る
夫れ仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし、過去の大通智勝仏は出世し給いて十小劫が間一経も説き給わず経に云く一坐十小劫又云く「仏時の未だ至らざるを知り請を受けて黙然として坐す」等云々、いまの教主釈尊は四十余年の程法華経を説き給わず経に云く「説く時未だ至らざるが故」と云々、老子は母の胎に処して八十年、弥勒菩薩は兜率の内院に籠らせ給いて五十六億七千万歳をまち給うべし、彼の時鳥は春ををくり鶏鳥は暁を待つ畜生すらなをかくのごとし何に況や仏法を修行せんに時を糺さざるべしや、
通解;
仏法を習学しようとしたならば、必ずまず時を習わなければならない。過去の大通智勝仏は、出世されてから十小劫の間、一経も説かれなかった。このことを法華経化城喩品第七には、「一坐十小劫」と説き、また「仏は法を説くべき時が未だ来ていないことを知っていたから、説法を請い願われても黙然と坐していた」等と説かれている。次に、今の教主釈尊は成道してから四十余年の間、法華経を説かれなかった。このことを法華経方便品第二には「説く時がいまだ来ていなかったから」といっている。外道でも、老子は母の胎に八十年いて時を待ったという。また弥勒菩薩は兜率の内院にこもり、五十六億七千万歳の間、出世の時を待っているといわれている。彼の時鳥は春の終わろうとする初夏を待って鳴き、鶏は暁を待って鳴く。畜生すらこのように時を違えないのであるから、まして仏法を修行しようとする者が時をたださないでよいだろうか。
155
:
無名人
:2009/12/29(火) 10:23:22
池田先生の指導;
仏法を修学するものは、必ず時をわきまえるべきことを明かされている。その理由として、過去の大通仏、現在の釈迦仏、未来の弥勒菩薩について述べ、また外道の聖賢たる老子、畜生たる時鳥、鶏等も時を待つことを例証として引かれている。 なにゆえに「必ず先ず」と時を重視するかといえば、次のように、宗教の五綱がそれぞれの時代によって相違するがゆえである。すなわち、第一の教についていえば、正法時代は小乗教・権大乗経、像法時代は法華経の迹門、末法は独一本門の流布すべき時である。第二に機については、正像は本已有善の機であり、末法は本未有善である。第三に時はいまの論点であり、第四に国については、正像にはインドの釈尊の仏法が東に伝えられ、末法に入っては日本の日蓮大聖人の仏法が西へ還る。第五に教法流布の先後とは、末法においては正像に流布した大小権実がことごとく無益となり、ただ寿量品文底下種の大白法が流布すべき時である。このように時によってすべてが決定されているゆえに「必ず先ず時を習うべし」と仰せられたのである。 日蓮大聖人の滅後においても、幾多の時代の変遷を経て今日に至っているが、大きく分けると、逆縁の広宣流布の時代と、順縁の広宣流布の時代とに分けられるであろう。 仏法においては、それぞれの生命の感ずる時間をもって、その時間としている。 生命活動の本源をたどれば、究極は現在の瞬間の生命にあることがわかる。過去というものを考えれば、あるものを縁として過去を思い出すゆえに、過去の実在を知りうるのである。思い出すということがなかったら、過去があったのか、なかったのか、まったくわからない。記憶を再現することは、一瞬の生命の働きであり、一瞬の生命を成いて過去の生命活動を湧現するのである。ゆえに現在の一瞬の生命活動があるゆえに過去があり、過去は現在の一瞬にすべて包含される。また、将来起こることを考え、未来を認め、未来を確信するのも、現在の一念の働きであり、現在の一瞬の生命活動の働きといえる。たしかに、いま現在と思った刹那はすぐ過去となり、未来もたちまち現在となり、過去となる。したがってこの瞬間の生命に、過去、現在、未来があるのである。 さらに一瞬の生命に因果を有しており、過去のすべての因が現在の果となり、現在の因が未来の果と生ずる。そして因果俱時不思議の一法を南無妙法蓮華経と名づけるのである。 このように、過去も未来も、すべて現在の一瞬に含まれ、一瞬一瞬の生命活動が変化しつつ連続するのが永遠である。現在の一瞬の生命のうちに、過去永遠の生命を包含し、未来永劫の生命を包含する。久遠の生命も一念の生命におさまるのである。 次に久遠即末法とは、すなわち「久遠とははたらかさず・つくろわず・もとの儘」であり、本然のありのままの姿を久遠といい、それはそのまま現在の諸法実相になるのである。ゆえに生命活動の本質をたどってみれば、究極はすべて一瞬であり、それをさして久遠元初ともいい、末法ともいう。そして、久遠元初も末法も、ともに三大秘法の南無妙法蓮華経がひろまる時なるがゆえに久遠即末法、久末一同というのである。 所詮、仏法より見れば、われわれの生命活動なくして、時間はない。われわれの生命活動を根本として、宇宙生命の運動、変化から感じ取っていくのが、真実の時間なのである。以上が仏法で説く時間論の一断面である。(池田大作全集27p71)
156
:
無名人
:2009/12/29(火) 20:26:23
御書p257〜①(p718〜③) 路に迷うのは誰の罪
人路をつくる、道に迷う者あり、作る者の罪となるべしや。良医薬を病人にあたう、病人嫌いて服せずして死せば、良医失となるか。
通解;
ある人が路を作った。その路に迷う者があるからといって、それは路を作った者の罪だといえるだろうか。良医が薬を病人にあたえた。そのとき、病人が薬を嫌って飲まないで死んだならば、それは良医の過失となるであろうか。
池田先生の指導;
折伏をすた場合に、相手が入信しないのみか、かえって誹謗をし、罰を受けてさらに苦悩へとおちていく人がある。こういう人を見ると、初めから折伏されないほうが幸福だったのではないかなどという疑問も生ずる。しかし日蓮大聖人は、はっきりと「人路をつくる路に迷う者あり作る者の罪となるべしや」等の譬えをあげて、折伏する者に罪はないと断定されてえる。ゆえに、われわれは確信を持って折伏を行ずべきである。(池田大作全集27p111)
157
:
無名人
:2009/12/30(水) 08:21:16
御書p 260〜⑨(p717〜⑮) 妙法を持った人の位
道心あらん人人は此を見ききて悦ばせ給え正像二千年の大王よりも後世ををもはん人人は末法の今の民にてこそあるべけれ此を信ぜざらんや、彼の天台の座主よりも南無妙法蓮華経と唱うる癩人とはなるべし
通解;
仏道を求めようと願う人々ならば、このことを見聞きしてお悦びなさい。後世の成仏を願うならば、正像二千年の大王と生まれるよりも、末法の今の庶民であるほうがよいのである。どうして、そのことを信じないでいられようか。像法時代に彼の天台の座主になるよりも、末法において南無妙法蓮華経と唱える癩人となるべきなのである。
池田先生の指導;
世人はよく創価学会員に対して、貧乏人のくせにとか、病人のくせになどと批判する。しかし、学会員はいかに恵まれない環境にある人であっても、即身成仏するのである。地涌の菩薩として、世界人類の一切の苦悩を救うべき尊い使命をもって生まれてきているのである。 それでは、なぜ地涌の菩薩が、貧しい家や病気をもって生まれてきたのであろうか。それは一には本人の宿業であり、悩みを乗り越えることによって其罪畢已するためである。二には自ら清浄の業報を捨てて、願ってこの世へ折伏を行ずるために、そのような姿となって生まれてきたのである。折伏を行ずる人が、裕福で健康で、何一つ不自由のない人ばかりでは、折伏された人が、御本尊の功徳を信じられないとの道理なのである。恩師戸田前会長は、つねに「われわれ学会人は、折伏を行ずるために、願って貧乏で、また病気の身などに生まれてきたのだ。ゆえに折伏をやりきれば必ず絶対的幸福の境涯にもどる。自ら願ってそうしたのだから文句をいう必要はあるまい」と言われていた。 折伏を行ずるには、一般大衆と苦しみや悩みをともにしながら仏道修行に励んで、そのなかに大御本尊の功徳を身をもって証明し、現実に見せていかなくては、人々は信用しない。 日蓮大聖人が、王侯や貴族に生まれることなく、貧窮下賎の身で出世された理由は、一切衆生を救わんがためである。 そのうえで日蓮大聖人のご一生にわたる大難を思うならば、われわれに今悩みがあるからといっても、それは実に取るに足らない小難であり少悩である。必ず解決できるものと確信して、信心強盛に折伏に励むことが肝要であろう。 しかも再三にわたって述べてきたように、いま創価学会は世界広布、順縁広布という、かつてない新しい時代を迎えつつある。日蓮大聖人のご入滅後の時代において、中天の太陽のごとき時代が、いま到来したのである。じつにこのよき時代に生まれ合わせた福運を身に感じて、黄金時代の最中に、戦い抜いていきたいものである。(池田大作全集27p164)
158
:
無名人
:2009/12/30(水) 20:53:14
御書p 264〜⑱(p726〜⑬) 待望される力ある宗教
闘諍堅固の仏語地に堕ちず。あたかもこれ大海のしをの時をたがへざるがごとし。是をもって案ずるに、大集経の白法穏没に時の次いで、法華経の大百法の日本国並びに一閻浮提に広宣流布せん事も疑うべからざるか。
通解;
闘諍堅固と予言されている仏の語は、地に落ちることなく、実に予言通りの戦乱の世相である。あたかも大海の潮が時を違えることなく満ち干するようなものである。このように仏の予言が事実と符合していることから考えれば、大集教の白法穏没の時についで、法華経の大百法が日本の国をはじめ一閻浮提に広宣流布することも、疑いのないことであろう。
拝読の手引き;
仏法が消えると、世の中が戦乱の世相となるのは、仏の予言通りであることを指摘されて、この混乱の世相こそ、三大秘法の御本尊が広く流布すべき時代の到来を示すものであることを述べられた、広宣流布への大確信あふれる一節です。 現在、時代は激動の様相を呈し、だれもが既成の価値観、宗教・思想の崩壊を感じざるをえない状況にあります。しかし、文明は行き詰まりの様相をあらわし、既成の権威や価値観に対する不信の念が強まれば強まるほど、人々は現状打開の道を求めて、より力強く正しい宗教・思想の台頭を本然的に求めるといえるでしょう。 昨今“第二の宗教時代”の到来を指摘する声が強くなっています。生きがい論や人生論がブームを呼び、さらに宗教なかんずく仏教書に、文明蘇生の方途が求められ始めています。 このことは「大海のしをの時をたがへざるがごとし」とありますように、当然の時代の趨勢だといえましょう。私達は今こそ、仏法の真髄である三大秘法の御本尊が、広宣流布することこそ、時代・社会の本然的な要請であることを確信して、一層の信心・行学に精進していきたいものです。 新時代構築の方途を求めて、今日の社会には人間性、環境革命、意識革命など、さまざまな言葉が氾濫しています。だが、根なし草の空しさを観ずることがいかに多いことでしょうか。それらの美辞麗句に実体を与え、実際の生活行動のうえに人間革命の姿を示していく人こそ真に人類の危機を転換する先駆者であることを確信して、地道な実践に励んでいきたいものです。(文庫本「きょうの発心」333)
159
:
無名人
:2009/12/31(木) 09:17:11
御書p 265〜⑪(p717〜⑥) 生命悪を除くのが真の親
法華経をひろむる者は日本の一切衆生の父母なり。章安大師云く「彼が為に悪を除くは則ち是れ彼が親なり」等云々。されば日蓮は当帝の父母、念仏者・禅衆・真言師等が師範なり、又主君なり。
通解;
法華経を弘める者は、日本国の一切衆生の父母である。章安大師は「相手のために悪を除いてあげることが相手の人にとっては親の徳になるのである」等といっている。それゆえ、日蓮は(日本国中の謗法を除こうとしているのであるから)日本の現在の帝王の父母であり、念仏者・禅衆・真言師等の師範であり、また主君である。
拝読の手引き;
日蓮大聖人が主師親の三徳を具備された末法の御本仏であることを明かされた一節です。 大聖人の民衆救済の実践が、単なる慈善事業や福祉事業とは根本的に異なるのは、一切の事象を起こさせる根源である人間生命に巣くう悪の根を断ち、汚濁しきった生命を根本的に生きいきとよみがえらせ、人間として最高の人生を歩ませていく点にあります。 誰人の生命にも尊極無常の生命たる仏性がそなわっていますが、誤れる宗教、思想によって、無明の闇に覆われ、いまだ開き顕すことができず、苦悩のうめきをあげているというのが、人類の姿ではないでしょうか。 そうした不幸の根源である無明の闇を打ち払い、常楽我浄の人生を送れるように、一切衆生に三大秘法の南無妙法蓮華経を流布する実践を展開されたのが大聖人なのです。不幸な人々を生命の奥底から変革させ、救済していく実践ほど、地道ですが尊いものはありません。この実践の持続により、社会、時代は大きく変革されていくのです。 私達の実践の原点は、この大聖人の戦いのなかにあります。時代、社会構造の変化に伴って実践は多角化されてきますが、その根本精神は決して変わることなく、一人の悩める庶民に対し、暖かい救いの手を差し伸べ、その人が自らの使命を感じて立ち上がるにいたるまで努力していくことにあります。私達はどんな分野、立場で戦おうとも、この大聖人の民衆救済の精神を忘れることなく、前進していきたいものです。(文庫本「きょうの発心」496)
160
:
無名人
:2009/12/31(木) 20:03:56
御書p 266・⑬(p728・⑨) 比類なき仏法を勧める徳
仏滅後の後、仏法を行ずる者にあだをなす事多しといえども、今のごとくの大難は一度もなきなり。南無妙法蓮華経と一切衆生にすすめたる人一人もなし。この徳はたれか一天に眼を合せ、四海に肩をならぶべきや。
通解;
仏滅後から今日まで、仏法を行ずる者に対してさまざまな迫害がなされたといっても、今の日本のような大難は一度もなかった。それは日蓮のように南無妙法蓮華経と唱えるよう一切衆生にすすめた人が一人もいなかったからである。この南無妙法蓮華経をひろめる日蓮の徳は、誰人か一天に眼を合わせ、四海に肩を並べる者がいるだろうか、いるはずがないのである。
拝読の手引き;
日蓮大聖人が前代未聞の大迫害を受けられたのは、大聖人が全宇宙、全世界で肩を並ぶべきもない、大慈大悲の大徳をそなえられた御本仏であることを意味するとの大確信を述べられた一節です。 大聖人が竜口の法難をはじめとする種々の大難に一歩も退くことなく、妙法流布、令法久住の戦いを進められたのは、その根拠に、不幸にさいなまれる末法の民衆一人ひとりに根本の法である南無妙法蓮華経を教え、仏界を顕現させて成仏得道させんとの大慈悲の精神が脈打っていたからなのです。 時代、社会の混乱、腐敗はその極みに達し、人びとは自己の保身、栄誉栄達のみにきゅうきゅうとして生きているのに対し、一身の危険も顧みず、全民衆の幸福のために全魂込めて戦われる大聖人の姿は、まさしく末法の御本仏としての尊き実証の姿といえましょう。 この原理は、妙法を社会に開く実践をしている私達にもあてはまります。すなわち、徳、慈悲、民衆救済といっても、何か特別な精神をいうわけではなく、私達が地涌の菩薩としての自覚に立ち、その本質である利他の実践を貫いていくとき、初めてその人の人間性のなかににじみ出てくるものといえましょう。特にポーズをとったり、特別に構えたりするのではなく、その人の生命の内奥より自然の発露として出てくるものなのです。 そのために、私達は、妙法の哲人としての自覚をさらに深め、自己を厳しく練磨していきましょう。(文庫本「きょうの発心」482)
161
:
mumeijinn
:2010/01/01(金) 11:36:13
御書p 269・⑧(p731・⑥) 翻訳、解釈作業の重要性
我が仏法は月支より他国へわたらんの時、多くの謬悞出来して、衆生の得道うすかるべしととかれて候。されば妙楽大師は「並びに進退は人に在り。何ぞ聖旨に関わらん」とこそあそばされて候へ。今の人人いかに経のままに後世をねがうとも、あやまれる経経のままにねがわば得道あるべからず。
通解;
釈尊の仏法はインドから他国へ渡るときに、多くの誤りがでてきて衆生の得道も薄くなるであろうと(涅槃経の第三・第九等に)説かれている。そこで妙楽大師は「誤り伝えるかどうかは、人師のいかんにより、仏の御心には関係がない」といわれているのである。今の世の人びとが、どんな経のままに後世を願っても、誤りのある経文を信じて、経文通り後生を願ったところで、得道ができるわけがない、
拝読の手引き;
仏法の原点である釈尊の経文や日蓮大聖人の御書を翻訳するときに誤りを犯せば、人びとの理解を妨げ、成仏を薄めてしまうというのです。 釈迦仏法とは異なり、大聖人の仏法では、法体としての御本尊が確立されているので、その根本は誤りようがありません。しかし、仏法の実践や流布という面になると、その正しい在り方を知らねばなりません。 外国語に翻訳する場合に限らず、七百年前の教義を現代に合わせて解釈する場合でも、教義を間違って解釈すれば、その実践も誤ることになり、成仏できません。さらに、大聖人の仏法を誤り伝えては大変なことになります。 私達は、自分勝手に御書を解釈するのではなく、代々の会長の著作を読み、教学座談会等で正しい講義を聞いたうえで、自分の身に当てはめて考え、実践していかなければ、一生成仏も、また広宣流布も、達成することはできないでしょう。(文庫本「きょうの発心」554)
162
:
mumeijinn
:2010/01/01(金) 20:03:54
御書p 271・⑧(p733・⑨) 信仰者の姿勢
此経を釈して云く浅は易く深は難しとは釈迦の所判なり浅を去て深に就くは丈夫の心なり
通解;
この経を釈して、浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判であり、浅きを去って深きに就くは丈夫の心である。
日寛上人の指導;
日寛上人は「秀句に云く『六難は是れ即ち法華経を指す。九易は則ち是れ余の経典をさす』云々。余の経典を去って法華経に就くが故に『浅を去って深に就く』というなり。当に知るべし、『丈夫』は即ち釈迦の異称なり。これ十号の一名なり」〈文段集p269〉と。(池田大作全集27p319)
163
:
mumeijinn
:2010/01/02(土) 10:44:32
御書p 283・⑮(p746・⑪) 難を受けること第一
漢土・日本に、智慧すぐれ才能いみじき聖人は度度ありしかども、いまだ日蓮ほど法華経のかたうどして、国土に強敵多くまうけたる者なきなり。まづ眼前の事をもって、日蓮は閻浮第一の者としるべし。
通解;
漢土(中国)にも日本にも、知恵がすぐれ、才能の高い聖人はたびたび出現したが、いまだ日蓮ほど法華経の味方となって、国土に多くの強敵をもうけた者はいない。まずこのような眼前の事実をもって、日蓮は世界第一の智者であることを知るべきである。
拝読の手引き;
日蓮大聖人こそ一閻浮提(全世界)第一の法華経の行者であることを述べられている一節です。 確かに、中国、日本にも天台大師や伝教大師のように知恵、才能ともにすぐれた聖人と称せられる人がいましたが、法華経の精神、つまり衆生済度という仏法の原点に立脚し、その実践を生涯貫き通したのは日蓮大聖人ただお一人だったのです。 しかも、末法において法華経を弘通することは、宝塔品に説かれている六難九易の原理からいっても、また、勧持品の二十行の偈に予言されている三類の強敵の出現ということからみても、大変困難な事業であることは明らかです。事実、大聖人が立宗宣言されてから三十年にわたる妙法流布の過程において、死罪、流罪に及ぶさまざまの難が競い起りましたが、そのたびごとに諸天の厳然たる加護を呼び起こし、御本仏としての実証を示されてきたのです。 現在、私達は、妙法流布の戦いを推進していますが、その前途に種々の困難なことが横たわっていることは間違いありません。そうした困難にぶつかった場合に、私達はあくまでも妙法流布の先駆者としての自覚に立ち、最高の誇りと襟度をもって前進していきたいものです。 そのためにも、絶えず自身の姿を通して社会へ大聖人の仏法を大きく開いていけるよう、一人ひとりの信心を深め、自己の研鑽に励み、成長していきましょう。そうした一人ひとりの有智の実践の積み重ねによって、令法久住の不動の礎が築かれていくことを確信して――。(文庫本「きょうの発心」459)
164
:
mumeijinn
:2010/01/02(土) 23:15:33
御書p 287・⑧(p717・⑦) 御本仏の境涯・確信
外典に曰く未萠をしるを聖人という内典に云く三世を知るを聖人という余に三度のかうみようあり
通解;
外典に云く「将来に起きることを知るのを聖人という」と。内典にいわく「三世を知るを聖人という」と。日蓮には三度の大功績がある。
拝読の手引き;
妙楽大師の「止観輔行伝弘決」二の末には「説苑にいわく(中略)一には萠兆未だ現ぜず。存亡の機を見るを、名づけて聖臣となす云々」〈大正四十六巻p215〉と。文選四十四にいわく「明者は危ふきを無形に見、智者は福を未萠に規る」〈『文選』六、p168、集英社〉とある。外典とは、仏教典以外の書であり。ここでは『説苑』や『文選』をさす。 「内典」とは何を指すのか詳らかではないが、天台大師の『摩訶止観』巻二上には「云何ぞ諸の聖人、三世の心を知らん」〈大正四十六巻p15〉等とある。内典とは仏法の経典をいう。聖人とは仏の異名である。すなわち仏教では、過去、現在、未来を知っているのを聖人といい、仏というのである。(池田大作全集27p466)
165
:
mumeijinn
:2010/01/03(日) 09:23:43
御書p 287・⑪(p717・⑩) 主・師・親
「日蓮は日本国の棟梁なり予を失うは日本国の柱橦を倒すなり」
通解;
「日蓮は日本国の棟梁である。日蓮を失うということは日本国の柱を倒すことになる」
拝読の手引き
日蓮大聖人が主師親の三徳を具備された末法の御本仏なることを明かされている。御文は、特に主徳をあらわされている。棟梁がなければ家はたもたない。「種々御振舞御書」には「日蓮によりて日本国の有無はあるべし、譬えば家に柱なければ・たもたず人に魂なければ死人なり、日蓮は日本の人の魂なり平左衛門既に日本の柱をたをしぬ」〈御書p919〉と仰せられている。(池田大作全集27p468)
166
:
mumeijinn
:2010/01/03(日) 18:17:18
御書p 290・⑪(p753・⑬) 信仰の要諦は
されば我が弟子ら試みに法華経のごとく身命もをしまず修行して、此の度仏法を心みよ。
通解;
されば我が弟子等、試みに法華経に説かれているとおり、身命も惜しまず修行して、このたび仏法が真実であるかないかを試みてみなさい。
池田先生の指導;
大聖人の門下には、長年にわたって信心してきた人も多くいた。しかし打ち続く大難の中で、疑いを起こして退転する弟子も出た。
仏法の真髄は、あまりに深い。妙法の功力は、あまりに大きい。
ゆえに、わが門下よ、断じて退いてはならない。妙法流布に生き抜くならば、必ず最高の幸福境涯を築くことができる――。
御書には、御本仏の大確信が脈打っている。
リーダーは惰性を排し、どこまでも誠実に、真剣に、広布のため、同志のために行動し抜くことだ。
増上慢になり、油断し、横着になれば、自分が損をする。大福運を逃してしまう。特に、役職が上になり、自分が偉くなったように錯覚し、会員を下に見て、威張るようなことがあれば大変だ。
これまでも、そうやって堕落し、ついには退転していった人間がいたのは、皆様がご存じの通りだ。
今こそ、全リーダーが初心に立ちかえって、命を惜しまず、労苦をいとわず、思う存分、戦うことだ。
唱題を唱え抜いて、悔いなく戦いきることだ。
必ず、永遠の成仏という大果報を勝ち取っていくことができる。
創立80周年は、皆が大功徳を開く時なのである。(2009・11・23 本部幹部会 上)
167
:
mumeijinn
:2010/01/04(月) 10:51:00
御書p 287・⑮(p750・⑭)
「王地に生まれたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えたてまつるべからず」
通解:
鎌倉幕府の代に生まれ合わせた以上は、身は幕府に随えられているようであるが、心まで随っているのではない。
168
:
mumeijinn
:2010/01/04(月) 19:13:38
御書p 288・④(p751・④) 地道
衆流あつまりて大海となる微塵つもりて須弥山となれり、日蓮が法華経を信じ始めしは日本国には一茀一微塵のごとし、法華経を二人・三人・十人・百千万億人・唱え伝うるほどならば妙覚の須弥山ともなり大涅槃の大海ともなるべし仏になる道は此れよりほかに又もとむる事なかれ
通解:
多くの流れが集まって大海となる。わずかの塵が積もって須弥山となる。日蓮が法華経を信じ始めたことは、日本の国にとって一つの茀、一つの微塵のようなものであるが、その結果、二人、三人、十人、百千万億人と唱え伝えていくならば、やがて妙覚の須弥山ともなり、大涅槃の大海ともなるであろう。仏になる道はこれよりほかに求めてはならないのである。
169
:
mumeijinn
:2010/01/05(火) 10:33:27
御書p 290・⑪(p753・⑬) 闇天に輝く月天子
されば今法華経の行者は心うべし。「譬ば一切の川流江河の諸水の中に海これ第一なるが如く、法華経を持つ者も亦復是くの如し」。又「衆星の中に月天子最もこれ第一なるが如く、法華経を持つ者も亦復是くの如し」等と御心えあるべし。当世日本国の智人等は衆星の如し。日蓮は満月の如し
通解;
さればいま、法華経の行者は次のように心得べきである。「譬えば一切の川の流れや江河の諸水の中にあっても、海がこれ第一なるが如く、法華経を持つ者もまたかくの如くであって、諸人の中において第一である。また多くの星の中に、月天子が最もこれ第一であるように、法華経を持つ者もまた第一である」と。この法華経薬王品の文をよくよく心得なさい。当世日本国の智人等は多くの星であって、日蓮は満月のごとく、最もこれ第一である。
拝読の手引き
日蓮大聖人が末法の暗闇を照らし、民衆を救うただ一人の救世者――御本仏であることを示され、また、大聖人の仏法を実践する私たち法華経の行者も最高に尊い存在であることを述べられた一節です。 大聖人が三世を通達した御本仏の境涯で説きあらわされた法門は、無明の闇に覆われた私達末代の凡夫の生命を浄化し、尊極の生命である仏界を顕現させる最高唯一の生命哲学です。その最高の法門を持ち、実践している私達は、妙法の体現者として、社会のあらゆる分野において最高に価値ある存在となっていかなければなりません。大聖人の仏法が、私達の信仰人としての実践を通して世に開き顕わされていったとき、初めて広く社会に流布されていくのです。 私達は常に勝れた人間変革の哲学を持ち実践している誇りと自覚を決して忘れることなく、宗教革命に勇躍前進していきたいものです。その場合大事なことは、強盛の大信力をいだすために、各人が信心をみがき、学会の流れに呼吸を合わせ、成長していくことです。 たとえ世間的には無名であっても、清らかな人間の連帯をめざす創価学会の一員として、妙法を根底に一対一の対話を積み重ね、刻々と時代を変革しゆく戦いを地道に実践していく人こそ、最高に尊い人なのです。どんな障害に直面しようとも、環境に左右されることなく、峻厳な信心の姿勢、学会精神を生涯失うことなく、広布の新時代へ明るく羽ばたいていこうではありませんか。(文庫本「きょうの発心」199)
170
:
mumeijinn
:2010/01/05(火) 18:38:55
御書p 292・⑬(P755・⑰) 時代に生きる”六難九易”の原理
裸形にして大火に入るはやすし、須弥を手にとてなげんはやすし、大石を負うて大海をわたらんはやすし、日本国にして此の法門を立てんは大事なるべし。
通解
赤裸の身で大火に入ることはやさしい。須弥山を手にとって投げることも、まだやさしい。また大石を背負って大海原を渡ったりすることも、なおやさしいことであるが、日本国でこの三大秘法の法門を立てることは、難事の中の難事であり、大事のなかの大事である。
拝読の手引き
法華経宝塔品第十一に説かれている六難九易の譬えを引かれて末法の今日、三大秘法の御本尊をたもち、ひろめることの難しいことを教えられています。 事実、この御書があらわされた当時の日本の社会は、強大な武力を背景にした鎌倉幕府の権力が幅をきかせる一方、暴風雨、凶作、流行病等の打ち続く災害に加えて、蒙古襲来の危機を迎えるなど、人身は極度に混乱・動揺していました。それまで人々の生命を指導していた規制の宗教、道徳はその権威を失い、精神の退廃も著しいものがあったようです。 このような時代にあって、真に人々の信仰心を呼びさまし、人間革命の法を流布し、また自らも実践を持続しきることは、難事中の難事であったといえます。民衆を外から統治することを役割とする統治体制と、人間を生命の内から解放する妙法とは、本質的に相容れない面があるからです。このことを説いたのが、法華経宝塔品にある”六難九易”の原理です。 この“六難九易”の原理は、いかに時代・社会が変わったとしても、客観的事実として今日にも貫かれています。現在の活動がいかに善意ある人間性の立場からの活動であるからといっても、決して私達の活動が容易に進むものではありません。 このことを知るとき、私達の日々の生活態度は、決して他人や社会を無視した、一人よがりな行動であってはならないでしょう。私達は、あくまで忍耐強く常識をわきまえて、妙法の功徳を実証しきっていける一人ひとりでありたいものです。(文庫本「きょうの発心」441)
171
:
mumeijinn
:2010/01/06(水) 12:42:23
御書p 292・⑧(p755・⑪) “確信”こそ信仰者の要件
法華経を一切経の頂にありと申すが法華経の行者にてはあるべきか。
通解
法華経(三大秘法の南無妙法蓮華経)を一切経の最高峰にあると確信し、主張しきっていくのが、真の法華経の行者であるべき姿であるといえよう。
拝読の手引き
妙法こそ、一人ひとりの生命は大宇宙と等しく壮大であることを達見して、各人の生命の力と特質を最高に発揮せしめ、無上の生き方と幸せへの道を示し、濁世変革の根源的な原動力となる唯一最高の生命哲理です。 このことを、いかなる権威・権力にも、苦難にも屈せず、粘り強く、堂々と主張しきっていける人こそ、真の妙法信仰者だといえます。 見栄や形式、権威といった虚飾をもって身を守り、自説に確信のない人は、いざというときには挫折して、自己の小さな殻の中に閉じこもってしまいがちです。その提言と主張をやすやすと放棄するものです。 そういった人が多いのが、五濁と指摘された世の中の姿なのかもしれませんが、御本尊を絶対と信じて、不屈の忍耐と勇気をわき立たせ、信念の正道を征く真実の「法華経の行者」との差は歴然でしょう。この人こそ、まさに揺るぎなき“人間王者”だと称えられるべきです。 今日、既成の権威や形式の虚飾が音を立てて崩れ始め、不信と不安の暗雲が、人びとの心を覆いつくしています。“人間党”の旗を高く持し、正義の主張に生きる私達の存在は、漆黒の無明の闇に大きく輝く灯火であることを心の底から確信したいものです。(文庫本「きょうの発心」698)
172
:
m
:2010/01/06(水) 19:10:47
題名 :聖愚問答抄 上・下
対告衆 :
執筆年次 :文永2
聖寿 :44
西紀 :1265
著作地
大意 聖人と愚者との問答形式で、愚者が法華一乗に帰する次第がのべられ、権実相対の義が明かされている。
173
:
mumeijinn
:2010/01/07(木) 10:47:58
題名 :報恩抄
対告衆 :
執筆年次 :建冶2・7・21
聖寿 :55
西紀 :1276
著作地 身延
大意 真実の報恩について説かれている。大恩を報ずるためには仏法を習い究め智者となることが肝要。
174
:
mumeijinn
:2010/01/07(木) 18:59:14
御書p 293・①(p888・①) 報恩こそが人間を向上させる
夫れ老狐は塚をあとにせず白亀は毛宝が恩をほうず畜生すらかくのごとしいわうや人倫をや、されば古への賢者予譲といゐし者は剣をのみて智伯が恩にあてこう演と申せし臣下は腹をさひて衛の懿公が肝を入れたり、いかにいわうや仏教をならはん者父母・師匠・国恩をわするべしや、此の大恩をほうぜんには必ず仏法をならひきはめ智者とならで叶うべきか
通解
狐(きつね)は老いても生まれた古塚(ふるつか)を後にせず、毛宝に助けられた白亀も戦(いくさ)に敗れた毛宝を背に乗せて助け、その恩に報じた。畜生すらかくのごとくである。況(いわん)や人間においてをやである。
池田先生の指導
師匠の恩を知る者は、必死になってその恩に報いるものだ。また、正法を求め、護り、わが身をなげうつ先人の説話は、御書のなかにも、数多い。いざという時に、不惜身命で、師の恩に報いよ!これが大聖人の教えである。このことを、青年部の諸君に、また、真実の学会の同志にこそ語っておきたいのだ。(2009−4大白蓮華p67) 報恩ということは、封建時代や特定の時代の遺物ではない。時代の変遷によって、種々の意義、種々の形態はあっても、永久に人間としてわきまえなければならない重要な倫理というべきである。人類始まって以来、洋の東西を問わず、報恩という徳義は、人間性に深く根差し、一般庶民の中に奥深く融け込んだものであった。これは、古来、多くの教訓や寓話として、全世界の国々に残されていることからも、推察できる。真実の報恩とは、仏法で説く四恩および本抄で根源的に示された報恩の道理であり、これこそ、永久に人類の指針、基準とすべき倫理であると主張するものである。ひるがえって、現代社会に目を転ずると、民主主義をはき違えたいわゆる放縦主義、無責任主義が横行している。そして、ふみはずした民主主義思想が、どれほど社会に悪影響を及ぼしているか、計り知れないものがある。真実の民主主義とは、真実の宗教によってのみ説かれ、実践されるものである。今の社会に見られるような無責任な放縦主義や、社会を無視した個人のわがままや、倫理道徳のない個人の尊厳や、秩序のない平等は、真の民主主義ではないのである。われわれは、日蓮大聖人の仏法こそ、真実の宗教であり、真の民主主義を確立するものであると信ずる。すなわち、大仏法を信じることによって、苦悩を即菩提に変えていくことが真の自由であり、民族、人種の差別なく、あらゆる人々がすべて一念三千の生命であるがゆえに真の平等であり、だれびとも仏界を具え仏界を湧現できるがゆえに真の尊厳なのである。仏法が説く知恩、報恩は、そのように窮屈で非人間的な封建的なものではない。とくに日蓮大聖人の仏法における報恩思想は、釈尊の仏法よりも一重立ち入った最高の報恩思想であり、全人類が等しく仰ぐべき徳義であることを、重ねて強く主張するものである。(池田大作全集28「報恩抄」講義) 報恩こそ人間の道である。仏法の道である。邪心の人間、狡猾な人間、増上慢の人間は、ひとたび難が起こるや、逃げる。それどころか、恩ある人に怨をなそうとさえする。 そうした畜生のごとき所業を、戸田先生の時代から、私は見てきた。危難の矢面に立って、私は一人、正義の道を切り開いてきたのである。 命がけの信心を貫く人間がいなければ、正義の旗は、悪人に踏みにじられてしまう。だからこそ、後継の諸君が一人立つのだ。 「報恩」の要諦とは何か。それは、「不惜身命」であると、日寛上人は教えられている。「身命を惜しまず邪法を退治し、正法を弘通すれば」一切の恩に報いていけるのである(報恩抄文段)。(各部代表者会議 聖教新聞2008年12月29日付)
175
:
mumeijinn
:2010/01/08(金) 10:13:18
御書p 293・⑤(p888・⑤) 仏法研鑽に時間をつくろう
仏法を習い極めんとをもはば、いとまあらずば叶うべからず。いとまあらんとおもはば、父母・師匠・国主等に随いては叶うべからず。是非につけて、出離の道をわきまへざらんほどは、父母・師匠の心に随うべからず。
通解
仏法を習い極めるためには、仏道修行に打ち込む時間がなくてはならない。仏道修行の時間をつくろうと思ったなら、父母・師匠・国主等に左右され従っていては、絶対に目的を果たすことはできない。ともかく、成仏に至るための仏道修行の道を知らないうちは、父母・師匠等の心に従っていてはならない。
池田先生の指導
この大恩を報ずるには、どうしたらよいか、それには必ず仏法を習いきわめ智者とならなければならないと仰せられている。仏法を習いきわめ智者となるためには、一大聖教を学び、八宗の章疏を習いきわめなくてはならないであろう。しかし、末代下根の衆生がどうしてそのような習学ができるであろうか。それでは結局、恩を報ずることができないのか。 真実の報恩は、三大秘法の仏法を信じ、題目を唱え、折伏を行ずることである。ゆえに折伏を行じて広宣流布のために戦う創価学会員は、真実の報恩の誠を尽くすことになるのである。 親の恩を報ずるのは親孝行という徳義であるが、仏法においては下品、中品、上品の孝を説いている。日蓮大聖人は"孝養に三種がある。衣食を施すのを下品とし、父母の意に違わないのを中品とし、功徳を回向するのを上品とする"と仰せられている。ゆえに、三大秘法の大仏法を持ち、ひいては親を折伏し正法に帰依させ、また亡き親に対しては朝に夕に正法で回向するのが最高の親孝行というべきである。また、親に反対されたり、一家の中に信仰に反対の人がいても、はじめに入信した人が、しっかりと、信心修行に励み、自分の生活に大御本尊の功徳を証明していくならば、ついには反対の家族や親も、ともに信仰できるようになり、この世で成仏するのである。これこそ真実の親孝行であり、それは一家のため、国のためになっていくのである。それを日蓮大聖人は「世を安じ国を安ずるを忠となし孝となす」(「一昨日御書」御書p183)と仰せられているのである。 以上のように、すべての報恩に上品、中品、下品の段階があることを知るべきであり、特に上品の報恩、すなわち三大秘法の大御本尊の功徳を知らしむる事は、最高の喜びなのである。(池田大作全集28「報恩抄」講義)
176
:
mumeijinn
:2010/01/08(金) 18:10:47
御書p 294・⑪(p889・⑭) 依法不依人
「法に依って人に依らざれ」
通解
涅槃経には、「法によって人に依らざれ」とある。
池田先生の指導
現代においても、世の指導者と仰がれる学者、評論家、思想家たちも、日蓮大聖人の大白法を知らないものは、みな暗師であり、愚人といわざるをえない。 すなわち「法に依って人に依らざれ」という原理は、現代社会にも通用する重要な原理なのである。現代日本の評論家、学者等の中には宗教の正邪もわきまえず創価学会をうんぬんする人がいるが、学会の信奉す日蓮大聖人の大仏法を根本的に論じたものは、皆無である。これは、まことに不思議な現象である。 仏法を論じ、学会を批判するならば、東洋仏法の真髄である日蓮大聖人の色心不二の大生命哲理を深く究明し、しかる後に批評すべきであろう。 宗教、哲学、思想に関するのみでなく、他の種々の学問、自然科学等の分野においても、初めにとりついた概念に固執するという傾向が、善悪に関わらず多いものである。一般の学問は、まだ比較的、弊害は少ないが、こと宗教、哲学、思想となると大なる弊害があらわれるのである。 虚心に仏法の真髄を究明していくならば、一国に王が一人であるごとく、天に太陽が一つであるごとく、末法における御本仏は、真実の救世主は、日蓮大聖人ただお一人であることを知るのである。(池田大作全集28「報恩抄」講義)
177
:
mumeijinn
:2010/01/09(土) 10:13:38
御書p 294・⑰(p890・②) 法華経は如意宝珠
須弥山の頂に帝釈の居るがごとく、輪王の頂に如意宝珠のあるがごとく、衆木の頂に月のやどるがごとく、諸仏の頂に肉髻の住せるがごとく、此の法華経は華厳経・大日経・涅槃経等の一切経の頂上の如意宝珠なり。
通解
須弥山の頂上には帝釈がいるように、てんりんじょうおうの頂には如意宝珠があるように、多くの木の上には月がクッキリと浮かぶように、諸仏の頭には頂上の肉が高く隆起して髻(髪の頭上の束ねた部分)のようになっている肉髻があるように、この法華経こそは華厳経・大日経・涅槃経等の一切経の頂上に位するところの如意宝珠である。
池田先生の指導
「天台・妙楽、伝教大師の御れうけんの後の眼あらん人人はしりぬべき事ぞかし」との仰せであるが、これらの諸大師が法華経第一と決定されてから、すでに千年をこえる。また日蓮大聖人が三大秘法を御建立になり、立正安国の大道を示されてからでも、すでに七百年になる。しかるに宗教界の現状を見るにいかに進歩がなく、宗教に対する邪智、邪見が根深いかを知るであろう。もし創価学会の出現がなければ、さらに幾百年、幾千年にわたって、邪宗教が全世界を不幸におとしいれていくか、計り知れないものがあったであろう。(池田大作全集28「報恩抄」講義)
178
:
mumeijinn
:2010/01/09(土) 18:13:23
御書p 297・⑭(p893・③) 法華経の行者
仏だにも忍びがたかりける大難をば凡夫はいかでか忍ぶべきいわうや在世より大なる大難にて・あるべかんなり、いかなる大難か提婆が長三丈広一丈六尺の大石阿闍世王の酔象にはすぐべきとはおもへども彼にもすぐるべく候なれば小失なくとも大難に度度値う人をこそ滅後の法華経の行者とはしり候はめ
通解
仏でさえ忍びがたかった大難を、どうして凡夫が忍べようか。ましてや仏の在世よりも大きい難であろうというのである。 提婆達多が長さ三丈、幅一丈六尺の大岩を投じたり、阿闍世王が酔象を放った大難を越えるような大難が果たしてあるだろうかと思われるが、仏の在世にもすぎると経文にあるのだから、何の小さな罪も犯していなくても大きな難にたびたび会う人をこそ、仏滅後の法華経の行者と知ることができるだろう。
池田先生の指導
妙法流布という使命に走るものは、全宇宙の諸天善神が守りに護ってくれるのだ。これほど痛快な人生はないのだ。妙法の信仰者には、絶対に敗北はない。敗北のない人は、永遠に勝利者である。幸福の王者である。人生の長者である。そのための信仰だ。(大白蓮華2009−4p83)
179
:
mumeijinn
:2010/01/10(日) 09:26:18
御書p 308・⑪(p904・⑨) 身近なところから仏法の実践を
「此れをせめずば大日経・法華経の勝劣やぶれなんと存じていのちをまとに・かけてせめ候なり」・・・・・・粮米をつくし、人をわづらはして、漢土へわたらせ給はんよりは、本師伝教大師の御義をよくよくつくさせ給うべかりけるにや。
通解
このように責めなければ、大日経と法華経の勝劣が破れてしまうと思い、命をかけてこの邪義を責めるのである。・・・・・・(慈覚、智証の二人は)たくさんの粮米を注ぎ込み、また多くの労力を使って、漢土(中国)へ渡り、仏教を習学するよりは、日本天台宗の本師である伝教大師の立てられた教義を、よくよくきわめ尽くされるべきであったのではなかろうか。
池田先生の指導
「師資の道一を闝いても不可なり」とは宣旨の中の文言であるが、正法正師を選んで信行に励んでこそ、即身成仏がかない、邪法邪師を信ずるものは無間地獄に堕ちるという仏道修行の根幹を示したものである。「師資の道」とは、師弟の道である。師とは師匠であり、資とは禀けるの意で、弟子を意味する。すなわち、仏法において、師弟の道は一つでも欠けてはならないとの謂である。 日蓮大聖人と日興上人のお姿は、最高の師弟のお姿であり、六老ありといえども、ただ日興上人の一人が、日蓮大聖人の大仏法を余すところなく理解され、大聖人を正しく御本仏と拝されたのである。日興上人以外の五老僧やその末流は、日蓮大聖人を御本仏と仰げず、三大秘法の大御本尊を信じえないゆえに、謗法の徒であり、大聖人との師弟の道は成り立たないのである。 わが学会が、日蓮大聖人、日興上人以来の唯一の正法を清純に守り、大御本尊を信じている姿こそ、正しく師弟の道を遵奉しているものである。邪宗、邪義のものが、真の師弟の道もなく、あまつさえ世襲制をしいているような姿は、けっして仏法とはいえないのである。(池田大作全集28「報恩抄」講義)
180
:
mu
:2010/01/10(日) 19:01:22
310・⑧(p906・⑨) 浅きは易く深きは難し
浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり浅きを去って深きに就くは丈夫の 心なり 天台大師は釈迦に信順して、法華宗を助けて震旦に敷揚し、叡山の一家は天台に相承して、法華宗を助けて日本に弘通す
通解
浅きは易く深きは難しとは、釈尊の所判である。浅きを去って深きにつくのが丈夫の心である。天台大師は釈尊に信順して法華宗を中国に弘め、比叡山の一門は、天台大師に相承して、法華宗を日本に弘めるのである
拝読の手引き
「法華秀句」の中の言葉(「伝教大師全集第三巻p273)。随他意の方便権教は法門として浅く、信じ易くが、解し易いが、深い法門である随自意の正法は、信じ難く解し難い。法華経の宝塔品第十一には六難九易を示し、法師品第十には難信難解を説いている。(池田大作全集28p276)
181
:
mumeijinn
:2010/01/11(月) 08:03:26
御書p 312・⑱(p909・③) あえて不幸の根源悪に挑戦
師子のねぶれるは手をつけざればほへず。ハヤキ流は櫓をささへざれば波たたからず。盗人はとめざればいからず。火は薪を加えざればさかんならず。謗法はあれども、あらわす人なければ、王法もしばらくはたえず、国もをだやかなるににたり。
通解
眠れる師子に手をつけなければ師子は吠えることなない。いかに急流でも流れに櫓を支えなければ、波は立たない。どんな盗人でも、とがめなければ騒ぎ立てることはない。火は薪を加えなければ、火勢が盛んにはならない。同じく謗法はあってもこれを指摘し、破折する人が出なければ、大智人を迫害する大謗法は世に起こらない。故に、一国の政治もしばらくの間は、そのまま保ちえて、穏やかなままに過ぎていくであろう。
拝読の手引き
社会の真の平和と幸福を確立するため、生命のレベルから、一切の不幸の元凶を糾明し、克服するのが、地涌の菩薩の使命です。表面上は平穏に見える社会の裏面に戦争の危機や公害をはじめ数々の病患があり、人びとに犠牲と苦悩を強いようとする権力の魔性が伏在し、思想、宗教の乱れが根深いことを見抜き、それへの挑戦の姿勢を私たちは片時も忘れてはなりません。 人びとを不幸にする根源悪に対し、妥協して責めず、あるいは服従することに甘んずるなら、その魔性はそれほど露わにならないかもしれません。しかし、魔性の暗躍、跳梁を坐して見るに耐えられず、社会の本源的浄化に立ち上がったのが日蓮大聖人であり、地涌の戦士です。 波の高いのは覚悟の上の遠征です。先駆者に中傷の風波が襲うのももとより承知の上です。(文庫本「きょうの発心」602)
182
:
mumeijinn
:2010/01/11(月) 19:40:25
御書p 314・⑪(p910・⑯) 強情な信仰とは法華経身読の人
法華経をよむ人の此の経をば信ずるようなれども、諸経にても得道なるとおもうは、この経をよまぬ人なり。
通解
法華経を読む人が、たとえこの法華経を信じているようであっても、もしも、法華経以外の諸経でも得道があると思うのは、この法華経を正しく読まぬ人というべきである。
拝読の手引き
日蓮大聖人の妙法を信ずるといっても、他の仏教経典あるいは他の思想哲学でも、同じように人生の道を極め、幸福になれるのではないかと考えて、御書を学び求め、妙法の真意を知っていこうとしなければ、真に大聖人の仏法を信仰している人の姿とはいえません。 最も愚かなことは、御本尊への強盛な信仰こそ人生・生活等の一切を左右する原動力であることを忘れて、他の思想・哲学や方法論にとらわれ、信心の実践をおろそかにしてしまうことです。 このようにいうことは、なにも、他の思想哲学などを軽視してもいい、勉強するにあたいしない、といっているのではありません。先哲がそれこそ命を削るような思いで思索し、書き著わしたものです。人生、社会、自然などについての鋭い観照の姿には頭が下がります。また、そこに説かれるものは、人を引きつける、強い力を持っています。酔うがごとくそれに傾倒して、それを人生の基調とする人も多く出てくるのも当然といえるかもしれません。 だが、ここで注意したいことは、それらの思想哲学は、一分の理を明かしたものに過ぎないということです。いかに鋭くはあっても、そこに限界があり、どうしても偏頗を免れません。 これに対して、真の仏法は、円教であり、諸法の実相を究め尽くしたものです。他の思想哲学との関連をいえば、部分観と全体観の違いがあるのです。したがって、他のいかなる哲学といえども、南無妙法蓮華経の仏法を根底において、はじめて、その価値が正しく評価され、生かされてくるのであり、幸福を築く基調の哲理は妙法以外にない、ということを銘記すべきです。(文庫本「きょうの発心」480)
183
:
mumeijinn
:2010/01/12(火) 06:34:15
御書314・⑮(p911・②) 信仰者の姿勢
「法華経を讃むると雖も還て法華の心を死す」等云云、此等をもつておもうに法華経をよみ讃歎する人人の中に無間地獄は多く有るなり、嘉祥・慈恩すでに一乗誹謗の人ぞかし
通解
伝教大師は慈恩大師を責めていうには「法華経を讃むといえども、かえって、法華経の心を死している」等と。 これらによって思うのは、法華経を読み法華経を讃嘆する人々の中に、無間地獄に堕ちる人が多いということである。嘉祥や慈恩という人々こそ、実は、すでに法華一乗を誹謗する人たちなのである。
池田先生の指導
末法の法華経とは、三大秘法の南無妙法蓮華経である。日蓮大聖人を尊敬するといっても、日蓮大聖人の御正意や末法における本尊を知らず、或は法華経、あるいはニセマンダラ、あるいは釈迦仏像、あるいは鬼子母神、キツネ、竜神、戒名等を本尊にしている姿は、まさしく「法華の心を死す」ものであり、破仏法の行為である。 末法今時においては、「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ」〈「教王殿御返事」御書p1124〉と仰せられた、大御本尊を信ずる以外には、大聖人のお心にかなう信仰はありえないことを知るべきである。(池田大作全集28「報恩抄」講義)
184
:
mumeijinn
:2010/01/12(火) 22:30:19
御書321・⑱(p918・⑬) 死身弘法
「今度命をおしむならば・いつの世にか仏になるべき、又何なる世にか父母・師匠をも・すくひ奉るべきと・ひとへに・をもひきりて申し始め」
通解
今度命を惜しんだならば、いつの世に仏になることができようか。また、いつの世に父母、師匠を救いたてまつることができようか。このように考えて、ひとえに思い切っていいだしたところ
池田先生の指導
いかにして恩を報ずるかは、一般的に言えば、八宗の章疏等修学しなければならないが、日蓮大聖人の仏法においては、三大秘法の大御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え、死身弘法に励むことが、唯一の知恩、報恩なのである。(池田大作全集28「報恩抄」講義)
185
:
mumeijinn
:2010/01/13(水) 07:46:24
御書322・④(p918・⑰) 難を受けて立つ信心
その後弥菩提心強盛にして申せば、いよいよ大難かさなる事、大風に大波起こるがごとし。昔の不軽菩薩の杖木のせめも我身につみしられたり。覚徳比丘が歓喜仏の末の大難も、これには及ばじとをぼゆ。
通解
その後いよいよ菩提(悟り)を求める心を強盛にして正法を弘めたので、いよいよ大難が重なってきたのは、大風が吹いて大波が起こるようなものであった。昔の不軽菩薩が杖木によって人びとから打たれ責められた苦しみも、わが身で知ることができた。覚徳比丘が、歓喜増益如来の末法に受けた大難も、日蓮が受けた大難には及ぶまいと思う。
池田先生の指導
日蓮大聖人の、伊東流罪、竜の口法難、佐渡流罪、身延へ入山とたどられた御一生は、じつに末法の御本仏として、未来永遠の一切衆生を救われんがための、大慈大悲の御一生であらせられたのである。 わが創価学会の今日あるも、すべて初代会長、二代会長の死身弘法の御徳の賜物である。われわれは、いかにしてこの師の重恩を報ずることができようか。ただひたすら、寸刻を惜しみて信行に励み、不自借身命の決意も新たに、広宣流布の大道を邁進するのみである。しかし、また、ここに時代の相違を知らなければならない。 日蓮大聖人の御一代にわたる大難をはじめとして、正法の歴史は迫害と法難の歴史でもあった。江戸時代においても、入牢、追放、遠流等が跡を絶たなかったのである。 しかし、創価学会の初代牧口会長の牢死、二代会長の会長就任からは、ようやく広宣流布の時きたれるか、日本国内はいうまでもなく、遠く世界の各国にまで、弘教が進みつつある。弾圧や迫害に耐え忍んできた前代に比し、いまは個人も家庭も社会も、大御本尊の大功徳に浴しながら、ますます信行に励む順延広布の時代となったのである。(池田大作全集28「報恩抄」講義)
186
:
mumeijinn
:2010/01/13(水) 17:44:58
御書p324・⑮(p921・⑮) 一切の哲理は法華経の大海に流入
法華経は露・涓・井・江・小河・大河・天雨等の一切の水を一茀ももらさぬ大海なり。
通解
法華経と他の経々とを比較するならば、法華経は、露やちょろちょろ流れる水、井戸水や水たまり、小さな川や大河、雨水などに譬えられる一切経の水を、一滴ももらさずに収めつくした、大海のようなものである。
拝読の手引き
法華経すなわち、三大秘法の大御本尊には、八万宝蔵と言われる一切経の生命哲理と功徳が、ことごとく収めつくされていることを、大海に譬えて述べられています。 水といっても、ほんのひとしずくの水から河川、そして大海に至るまで、さまざまです。仏教のいかなる経典といえども、そこに説かれる哲理は、すべて生命尊厳の教えであることに変わりはありません。 しかし、同じ水であっても、つかの間に消えてしまう露や、したたり水のようなものもあれば、豊かな水量をたたえた大河もあります。しかし、どんな大きな大河であっても、大海に勝るものはありません。 法華経の大海こそ、あらゆる時間・空間の制約を越えて、一切の人々に、常に生命尊厳の実証と大功徳を示しきらせていける大哲理なのです。 また、いかなる知識や哲理といえども、大海に流れ込む諸河川のように、すべて妙法の一分を説いたものにすぎず、妙法を知らなければ、画竜点睛を欠いたものになってしまいます。 今日、行き詰る現代文明を打開する道を求めて、仏教書の研究がブームを呼んでいます。しかし、ともすればそれは理論、観念にのみ終始しがちです。 私たちは今こそ、法華経こそ最も勝れた経典であり、その法華経の肝心、実態、画竜点睛こそ、三大秘法の御本尊であることを、現実の生活を通して示しきる日々でありたいものです。そして、大いに仏法対話を展開していきましょう。(文庫本「きょうの発心」650)
187
:
mumeijinn
:2010/01/14(木) 06:25:15
御書p326・⑩(p923・⑬) 力ある大宗教の出現
日蓮が南無妙法蓮華経と弘むれば南無阿弥陀仏の用は月のかくるがとく、塩のひるがごとく、秋冬の草のかるるがごとく、冰の日天にとくるがごとくなりゆくをみよ。
通解
日蓮大聖人が、南無妙法蓮華経と唱えひろめることによって、南無阿弥陀仏の働きが、あたかも太陽が出て月が隠れるように、潮がひいていくように、秋冬の草が枯れていくように、あるいは氷が太陽の光にあってとけるように、衰えゆく様子をはっきりと見なさい。
拝読の手引き
日蓮大聖人の仏法が、いかに大きな力をもっているかを明かされた御文です。 大聖人の御一生は、まさに、この御文にある通りであったといえます。鎌倉時代の当時、真言宗、禅宗、浄土宗、律宗の四周が栄えていましたが、国土、社会は良くなるどころか、ますます混乱の度を増していました。大聖人はこの事態を憂え「四箇の格言」をもって、既成仏教の欠陥と限界を糾弾し、真の民衆救済の宗教として、南無妙法蓮華経の大仏法を確立されたのです。 立宗宣言、四箇の格言に始まる大聖人の激烈な一生は、浄土宗をはじめ、既成諸宗が民衆に及ぼしていた“用“(働き、影響力)を空洞化し、相対化する歴史的な宗教革命であったのです。それは、ちょうど、太陽の前に月がかくれるように、あるいは潮がひき、秋冬の草が枯れていき、氷が太陽にとけていくような姿にたとえられます。 大聖人は、南無阿弥陀仏の”用”が衰えゆくようすを「みよ」と確信をもって、いいきっておられます。私たちはこの大聖人の確信を胸に、日夜活動に励みたいものです。あくまでも、道理にかなった実践、常識豊かな行動を忘れずに――。 今、私たちの行動も、やはり、三大秘法の御本尊を知らしめ、形骸化した宗教界に新風を吹き込む宗教革命の実践です。この大聖人の力強い宣言を銘記して、元気いっぱいに活躍していこうではありませんか。(文庫本「きょうの発心」411)
188
:
mumeijinn
:2010/01/14(木) 20:56:53
御書p328・⑯(p926・⑥) 広宣流布
日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし、此の事いまだ・ひろまらず一閻浮提の内に仏滅後・二千二百二十五年が間一人も唱えず日蓮一人・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と声もをしまず唱うるなり
通解
日本から中国、インド、そして全世界において、仏法の智慧がある人と、そうでない人を分け隔てることなく、一人一人がみんな一緒に他の修行を捨てて、南無妙法蓮華経と唱えるべきである。このことは、いまだ広まっていない。全世界の中で、釈尊の入滅後、二千二百二十五年の間、一人も唱えなかったのである。ただ日蓮一人が、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と、声も惜しまず唱えているのである。
池田先生の指導
本門の題目には信行を具する。信は行の初めであり本因妙である。行は信の終わりであり本果妙である。信も行も刹那の始終であり、一念の因果である。 また、「一同他事をすてて」とは信心であり、「南無妙法蓮華経と唱う」とは修行である。ゆえに、もっぱらこの本尊を信じて題目を唱えることが肝要なのである。〈文段集p436〜437の趣意〉(池田大作全集28p497)
189
:
mumeijinn
:2010/01/15(金) 04:49:37
御書p329・②(p926・⑨) 礎は深く堅固に
根深ければ枝しげし、源遠ければ流れながし。
通解
草木の根が深ければその枝も繁茂し、源が遠ければその流れは長い
拝読の手引き
根が深く張って入る草木には枝が生い茂り、水源の遠い川はその流れが非常に長いように、人生すべて土台、根元がいかに堅固でどこまで深いかが、重要な問題であります。 ゆうゆうたる人生を送り、勝利の生活を確立する根本は信心であり、信心の土台さえしっかりしていれば、生活に憂いはありません。信心が強盛か、それとも揺らぎがちな信心かどうか、その違いは、生活のうえに、将来の人生のうえに、明暗二様、恐ろしいほどに、その結果を現ずるのです。 広大なビルディングをつくるには土台が深く強くなければなりません。堅固な土台の上にこそ、はじめて高層建築が出来上がるのです。現在の強固な信心の土台の上に、人間革命、将来の大成があるのです。池田会長は「建設之譜」に次のようにうたっています。 礎は 深く また深く―― 塵未来の 永劫の聖火を 閃然として 点すからには 永遠に崩れない 礎を いまこそ 築こうではないか! 礎は ふかく深く そして 岩底まで 掘らねばならぬ 正本堂建立の昭和四十七年、また次の十年間を目標に、今こそ自己の奥底に信心の楔を深く打ち込んでいきましょう。 現在、信心の源が豊かでなければ、将来の成長に影響し、福運も生命力も枯渇してしまいます。修行の根が浅ければ、功徳の果実、豊かな人格の枝葉は繁りません。 広宣流布のために、令法久住のために、我が組織を生き生きとして、団結固い人材の堅域にしてみせるぞ、激動の未来に備えて深い堅固な実力を身につけよう、と心を新たにし、強い信心を築き上げていきましょう。(文庫本「きょうの発心」36)
190
:
mumeijinn
:2010/01/15(金) 19:34:48
御書p329・③(P926・⑪) 掲げよう!慈悲の灯
日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ 。此の功徳は伝教・天台にも超へ、竜樹・迦葉にもすぐれたり。
通解
日蓮の慈悲が広大ならば、南無妙法蓮華経は万年のほか、未来までも流布(るふ)するであろう 日本国の一切衆生の盲目を開く功徳がある。無間地獄の道をふさぐものである。
191
:
mumeijinn
:2010/01/15(金) 19:37:03
池田先生の指導
わが創価学会は、この御聖訓の正しさを実証を持って示した。末法万年尽未来際への令法久住の流れをつくった。そして人類の不幸の流転をおしとどめるために、世界広宣流布の道を開いている。世界の心ある知性も、この創価の前進に、21世紀の希望を託している。(全国最高協議会 聖教新聞2005年2月26日付) 日蓮大聖人は、学問や観念で人々を救われたのではない。慈悲という本源的な生命のうえから発する力をもって、人々の救済に向かわれたのであります。 されば「開目抄に」には「日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし」(御書p202)と説かれたのであります。 慈悲なきところみ難はない。民衆を本源より救いきろうとする慈悲の力の前にには、これを妨げる三障四魔が紛然として競い起るのが、仏法の原理であります。日蓮大聖人は「仏法は勝負なり」の道理によって、たび重なる難を忍ばれ、大慈悲のやむにやまれぬ発露のままに、実践行に挺身されたのであります。 「南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし」とは、南無妙法蓮華経の法力が、慈悲という大聖人の人格に発する力によって尽未来際にまで流れ通うことであります。しょせん、この文は広宣流布の淵源が、日蓮大聖人の慈悲の振る舞いから始まったことを意味しているといってもよい。 慈悲とは、仏法を根本とした崇高な人間の営為の中に、にじみ出てくる人間の光なのであります。法、法といっても、しょせんは、、仏法を信ずる人間の営みの中に流れていくことはまちがいない。 「日本国の一切衆生の盲目」の「盲目」とは、これは肉眼をいうのではない。どんなによい肉眼をもっていても、生命の本源に暗く、人生に暗く、未来の光を感じない人はここでいう盲目なのであります。 日蓮大聖人の仏法は、たとえていえば暗闇をさまよう船を導く灯台であります。また、荒波を航行する船の羅針盤であります。方向性を失った生活、人生、社会はみじめこのうえもない。つねに未来を切り開く叡智の光の光源こそ、南無妙法蓮華経であることを、強く訴えておきたい。
192
:
mumeijinn
:2010/01/15(金) 19:38:03
またここには師弟の問題が論じられている。師弟こそ人間の生き方の究極であり、生命の盲目を開く師なき人は、人間として向上を失っていくのであります。 「無間地獄の道をふさぎぬ」の「無間地獄}とは、人間の苦悩の極限をさすのであり、人間が人間らしさを失い、品位も尊厳も、芥のごとく踏みにじられていく塗炭の苦しみをいうのであります。その最たるものは戦争でありましょう。 ゆえに、無間地獄の道をふさぐということは、あらゆる苦悩の根源である、生命奥底の魔性を冥伏させることによって、三毒熾盛の根を断つことを意味している。そこに、人間が最も人間らしく生きることのできる平和、文化建設の方途が示されることは必然であります。 「此の功徳は伝教・天台にも超へ竜樹・迦葉にもすぐれたり」 日蓮大聖人の、主・師・親の三徳を具備なされた三大秘法の仏法を流布しゆく功徳は、伝教、天台にも超過し、竜樹、迦葉にも勝れているとおおせであります。 迦葉、竜樹、天台、伝教がいまだ弘めなかった「大法」を弘通する者は、これらの人々の受けなかった「大功徳」を受けられるとおおせなのであります。まさに「法妙なるが故に人貴し」の原理であります。それは「人貴きが故に所尊し」となっていくことも必然である。 ここは、あくまでも日蓮大聖人の仏法、および御自身の功徳について述べられた御文です。そのことを前提としたうえで、私たち信徒の立場に約して拝するならば、我々にとってまことにありがたいおおせであります。あの釈尊十大弟子の筆頭たる摩訶迦葉、かの”大乗八宗の祖”とされる竜樹を凌駕し、中国において小釈迦と言われた大聖哲・天台大師を超え、かつまた、日本の平安期の精神文化を築いた伝教大師に勝る、とのおおせである。 ここに、迦葉、竜樹を代表としてインドの先哲、天台大師を代表として中国の碩学、伝教大師を代表として日本の大宗教家をあげておられる。三国を網羅しているということは、当時の世界観に照らして全世界に通ずる意味をもっているのであります。すなわち、大御本尊を受持し、日蓮大聖人の仏法を信ずる人は、全世界の先哲や碩学よりもなお尊貴であることを訴えておられるのであります。 末法の大法・南無妙法蓮華経こそ宇宙本源のリズムの根源力であり、この妙法を唱えられる福運を、我々は改めて肝に銘ずべきでありましょう。 またこれこそ、日蓮大聖人の仏法の骨髄の御教示であると拝することができる。なぜなら、天台、伝教等々これらの先哲は、かつて人々の崇拝の的であり、雲閣月卿をみるがごとき高貴な存在であった。それに対し、我らは無名の庶民である。しかし、それらの人々よりも、なお偉大な人間としての実践行動ができることを示されているからであります。(池田会長全集10p523)
193
:
mumeijinn
:2010/01/17(日) 18:08:07
御書p329・⑤(p926・⑫) 時を知る
極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず、正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか、是れひとへに日蓮が智のかしこきには・あらず時のしからしむる耳、春は花さき秋は菓なる夏は・あたたかに冬は・つめたし時のしからしむるに有らずや
通解
極楽浄土での百年の修行の功徳は、汚(けが)れた、この国土での一日の修行の功徳に及ばない。正法、像法二千年の弘通は、末法の一時の弘通に劣るであろう。これは、日蓮の智慧がすぐれているからではない。ひとえに弘むべき時節が来たからである。春は花が咲き、秋は果がなる、夏は暖かく、冬は冷たい、これらも時のしからしむるによるゆえではないか。
池田先生の指導
竜樹、天親よりも、天台、伝教よりも、日蓮大聖人の仏法の功徳が最も勝れていることを明かされているのである。そしてそれは「時のしからしむる耳」であると仰せであるが、これはまことに甚深なるおことばと拝するのである。「三大秘法抄」および「日蓮一期弘法付嘱書」には「時を待つべきのみ」と仰せであり、今はまさしくその順縁広宣流布の時なのである。 「冬は必ず春となる」〈妙一尼御前御消息」御書p1253〉と仰せのように、仏法においては、とくに「時」が重要である。だれが疑おうが、だれが怨嫉しようが、だれが反対し、だれが弾圧しようが、日蓮大聖人の三大秘法の仏法は、必ず全世界に流布され、絶対の功徳があることは、冬が春になり、太陽が東から西へ行くよりも確実なことなのである。これ、ひとえに「時のしからしむる耳」のゆえである。 世界広布、大白法の流布の途上には、多少の弾圧や摩擦が起こるのは当然である。三障四魔が競い起ることは御本仏の御金言である。しかし、水が低きに流れる道理のように、三大秘法の大御本尊、、すなわち日蓮大聖人の仏法は必ず全世界に流布されていくのである。(池田大作全集28p498)
194
:
mumeijinn
:2010/01/18(月) 05:56:42
題名 :報恩抄送文
対告衆 :浄顕房・義浄房
執筆年次 :建冶2・7・26
聖寿 :55
西紀 :1276
著作地 身延
大意 報恩抄の重要性や拝読の心構えを明かし、また墓参の代理に日向を遣わすことなどを記している。
195
:
mumeijinn
:2010/01/18(月) 19:29:28
題名 :法華取要抄
対告衆 :富木常忍
執筆年次 :文永11・5
聖寿 :53
西紀 :1274
著作地 身延
大意 法華経の要中の要である三大秘法の南無妙法蓮華経が末法弘通の本尊であることを明かされている。
196
:
mumeijinn
:2010/01/19(火) 08:51:11
御書p337・⑯(p613・⑯) 仏法の破壊は人心から
今当世の悪王比丘の仏法を滅失するは、小を以て大を打ち権を以て実を失う。人身を削りて身を失わず、寺塔を焼き尽くさずして自然に之を喪す。其の失前代に超過せるなり。我が門弟之を見て法華経を信用せよ。
通解
末法今時の悪王や悪僧が仏法を滅ぼすのは、小乗教をもって大乗教を打ち破り、権教をもって実教を失うのである。身はそこなわないが、人の心を削り、寺塔を焼き尽くさないで、自然に仏法を滅ぼしてしまうのである。その罪は正法・像法の前代よりもはるかに重い。私の弟子は、この現状を見て、法華経(御本尊)を信用しなさい。
拝読の手引き
正法を知らない指導者や宗教家、学者、知識階層がいかにして仏法を滅ぼすか、正法を持つ者はいかにしてそれを防ぐべきかを説かれた一節です。 寺塔を焼くならば、仏法を破ろうとしていることは誰の目にも明らかです。しかし「人身を削て身を失わず」とあるように、仏法の破壊はそういう外形的なところから起こるものではありません。人の心から起こるから怖いのであり、それは目に見えません。身は仏法の信者でありながら、その信心を削り取られてしまうのです。それは仏教の中で何が正しい教義なのかわからなくなり、また仏教と他の宗教・哲学との優劣に迷うところから生じます。 信心の心が破られれば、そこに仏法はありません。御本尊を信ずる生命の躍動の中にのみ仏法は脈打っているのです。 したがって正法滅失に対する最後の歯止めは、御本尊との豊かな境智冥合につきます。唱題のリズムがあれば、魔の付け入るスキはないのです。歓喜と前進に満ちた生命、素晴らしい実証から湧きあがる哲理への確信のある限り、正法は盤石です。戒めるべきは弱々しい信心です。だからこそ、日蓮大聖人は「法華経を信用せよ」と端的に要諦を示されたのです。(文庫本「きょうの発心」566)
197
:
mumeijinn
:2010/01/19(火) 19:28:31
題名 :四信五品抄
対告衆 :富木常忍
執筆年次 :建冶3・4・10
聖寿 :56
西紀 :1277
著作地 身延
大意 末法の法華経の行者の修行の姿を述べられている。
198
:
mumeijinn
:2010/01/20(水) 11:31:30
御書p339・⑪(p968・⑥) 指導者
教弥よ実なれば位弥よ下れり
199
:
mumeijinn
:2010/01/20(水) 16:37:35
御書p342・⑥(p971・①) 妙法を持った人の位
問う汝が弟子一分の解無くして但一口に南無妙法蓮華経と称する其の位如何、答う此の人は但四味三教の極位並びに爾前の円人に超過するのみに非ず将た又真言等の諸宗の元祖・畏・厳・恩・蔵・宣・摩・導等に勝出すること百千万億倍なり、請う国中の諸人我が末弟等を軽ずる事勿れ進んで過去を尋ぬれば八十万億劫に供養せし大菩薩なり豈熈連一恒の者に非ずや退いて未来を論ずれば八十年の布施に超過して五十の功徳を備う可し天子の襁褓に纒れ大竜の始めて生ずるが如し蔑如すること勿れ蔑如すること勿れ
200
:
mumeijinn
:2010/01/21(木) 06:20:37
御書p342・⑩(P971・⑤) 功徳
「若し悩乱する者は頭七分に破れ供養すること有る者は福十号に過ぐ」
201
:
mumeijinn
:2010/01/21(木) 19:11:03
題名 :下山御消息
対告衆 :下山兵庫光基
執筆年次 :建冶3・6
聖寿 :56
西紀 :1277
著作地 身延
大意 法華経信仰の経緯を述べ、大聖人の仏法の正しさを客観的に論じている。
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