[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
御書研鑽
101
:
無名人
:2009/12/02(水) 08:02:07
61; 一生成仏・仏界湧現
外典・三千余巻の所詮に二つあり所謂孝と忠となり忠も又孝の家よりいでたり、孝と申すは高なり天高けれども孝よりも高からず又孝とは厚なり地あつけれども孝よりは厚からず (p191)
通解;
102
:
無名人
:2009/12/02(水) 17:15:18
200(413) 退転のいましめ
今度・強盛の菩提心を・をこして退転せじと願しぬ
通解;
103
:
無名人
:2009/12/03(木) 10:23:54
御書p200(413) 難を乗り越える
既に二十余年が間・此の法門を申すに日日・月月・年年に難かさなる、少少の難は・かずしらず大事の難・四度なり二度は・しばらく・をく王難すでに二度にをよぶ、今度はすでに我が身命に及ぶ其の上弟子といひ檀那といひ・わづかの聴聞の俗人なんど来つて重科に行わる謀反なんどの者のごとし
104
:
無名人
:2009/12/03(木) 18:05:02
御書p200〈413〉 三障四魔
いはずば今生は事なくとも後生は必ず無限地獄に堕べし、いうならば三障四魔必ず競い起るべしと・しりぬ、二辺の中には・いうべし
通解;言わないならば今生では何事も起こらないにしても、後生は必ず無限地獄へ堕ちるであろう。言うならば三障四魔が必ず競い起こるということが分かった。二辺のなかでは言うべきである。
105
:
無名人
:2009/12/04(金) 10:52:17
御書p202〈413〉 比類ない忍難と慈悲心
されば日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし
通解;されば、日蓮の法華経に対する智解は、天台・伝教に比べて、千万が一分もおよぶことはないけれども、難を忍び、慈悲にすぐれている点では、天台・伝教は日蓮に恐れをいだくであろう。
拝読の手引き;この御文では、法華経の智解に対しては、謙遜の立場から、天台・伝教を立てておられますが、難を忍び、慈悲の広大さにおいては、天台・伝教は日蓮大聖人に遠くおよばないことを示されています。大聖人の一生を考えてみると、立宗宣言以来、松葉ヶ谷の法難、伊豆伊東の流罪、小松原の法難、竜口の法難、佐渡流罪とう、苦難との戦いの連続でした。それは、地位も、力も、名誉もない立場で、民衆を不幸にしようとする魔との熾烈な戦いでした。あらゆる人々の苦しみを、ことごとく、自分の苦しみとして、民衆の幸福のため、世界の平和のために、心をこがし、身を尽くされた大慈大悲の生涯だったのです。その慈悲の深さ、広大さは、天台・伝教のそれとは比べものにならないものです。ところで、現代社会に目を向けてみますと、一面では、科学文明の発達を謳歌し、豊かな生活を楽しんでいるようです。しかし、ベトナム戦争は果てしなく続き、公害は人類の生存をおびやかしつつあります。また、地震、火災、交通事故の増加等、暗たんたる様相を強めています。そうした状況にあって、世の指導者といわれる人々の中に、自己の保身のため、一身の名聞名利のために振る舞っている人のなんと多いことでしょう。これは、民衆の幸福を考えない、あまりにも慈悲のない姿であるといわざるをえません。今、私達は、日蓮大聖人の弟子として、妙法流布の文化運動を展開しています。その精神は、あくまでも大聖人の精神を受け継いでの活動です。たとえ、それが、大聖人の大慈悲の精神には遠く及ばなくても、その精神、その誇りを一瞬たりとも忘れてはなりません。そして世界平和の達成を目指し、この世から悲惨の二字をなくすまで、勇敢に、力を合わせて、慈悲の運動を展開していきましょう。(単行本「きょうの発心百選」143)
106
:
無名人
:2009/12/04(金) 18:36:06
御書p202〈413〉 数数の二字を身で実践
又云く「数数見擯出」等云々。日蓮法華経のゆへに度度ながされずば「数数」の二字いかんがせん。此の二字は天台・伝教も、いまだよみ給はず。況や余人をや。末法の始めのしるし、「恐怖悪世中」の金言のあふゆえに、但日蓮一人これをよめり。
通解;
またいわく「数数擯出せられる」等と。日蓮が法華経のゆえにたびたび流されなければ「数数」の二字をどうするのか。この二字は天台・伝教もまだ読まれていない。まして余人が読むはずがない。末法の始めのしるしである「恐怖悪世の中」という金言のあふゆえに、ただ日蓮一人がこれを身で読んだのである。
拝読の手引き;
仏法における実践の持つ重さを強調されています。日蓮大聖人は、ここにも述べられているように、法華経勧持品の「数数見擯出」――二度にわたって流罪に処せられること――の予言を、身をもって読まれ、現実に、伊豆と佐渡の二度の流罪を経験されたのです。これはいかに意図的に行おうとしても、できるものではありません。大聖人はあくまで、法華経の文々句々ふしゃくを、仏の金言として固く確信されて、不惜身命の実践を敢行されたのです。その実践があってはじめて、法華経の予言通りの姿、振る舞いとなったのです。大聖人がこのように法華経の予言を確信され、その通り実践されたのも「末法の始めのしるし、『恐怖悪世中』の金言のあふゆへ」であったのです。法華経に説かれた「恐怖悪世」という末法の始めの様相が大聖人の活躍された日本の時代そうそのままであり、見事に的中しているところから、大聖人は法華経こそ仏の真実の教えであると確信されたのです。大聖人の、経文を身読するという厳しい実践は、まさに、法華経の文々句々を、そのまま仏の金言と信ずる信仰の炎に支えられていたことは、いうまでもありません。私達も、大聖人の教えに絶対の確信を持っています。問題は実践です。大聖人ほどではないにしても、その精神に一歩でも近づく努力をしたいものです。(単行本「きょうの発心百選」478)
107
:
無名人
:2009/12/05(土) 06:25:27
御書p203(403)
つくりたくなき罪なれども父母等の地獄に堕(お)ちて大苦を・うくるを見てかた(形)のごとく其(そ)の業(ごう)を造(つく)つて願つて地獄に堕ちて苦(くるしむ)に同じ苦に代(かわ)れるを悦(よろこ)びとするがごとし
108
:
無名人
:2009/12/05(土) 17:27:27
御書p202〈413〉 良薬は口に苦し
夫れ小児に灸冶を加うれば必ず母をあだむ。重病の者に良薬をあたうれば定んで口に苦しとうれう。在世猶しかり、乃至像末辺土をや。山に山をかさね、波に波をたたみ、難に難を加へ、非に非をますべし。
通解;
だいたい、子供に灸をすえれば、必ず母をあだむものです。また、重病の者に良薬を与えれば、きっとにがくて飲みにくいというでしょう。釈尊の在世でさえ、この道理で怨嫉が多かったのです。したがって、時代が像法から末法へとくだり、まして、日本のような世界のはずれの国においては、怨嫉が盛んなのは当然です。山にまた山を重ねるように、波にまた波をたたむように、難に難を加え、非道に非道を増大して、正法は解きがたく信じがたくなるのです。
拝読の手引き;
ここでは、末法において、正法(三大秘法の南無妙法蓮華経)を説いていくことが、極めて困難であり、正法弘通を妨げる風波も、釈尊在世などとは比べものにならないほど激しくなることを述べられています。この「開目抄」は日蓮大聖人が、幕府の弾圧を受けて流罪された佐渡の地で、しかも極寒のさなかに認められたものです。大聖人は、苦悩の底に沈み、嘆き迷う民衆を深く生命の次元から救うために、妙法の哲理を樹立され、その流布に身命をなげうって戦い抜かれたのです。しかし、貪(むさぼり)瞋〈いかり)癡〈おろか〉の三度くに厚く覆われた民衆も権力者も、その正義の救済の叫びに耳を傾けないばかりか、たび重なる迫害の嵐で応じたのでした。その大聖人の殉教の激闘に源を発する妙法の清流は、今、時を得て、広く民衆と社会を潤す潮流となって、静かに力強く、その波動を高めつつあります。私達は、忍耐と誠意で一切の障壁を乗り越えつつ、今日もまた歓喜の前進をしていきましょう。
109
:
無名人
:2009/12/06(日) 12:25:18
御書p204〈413〉 妙法を体現する指導者に
若し法華経ましまさずば、いかにいえたかく大聖なりとも、誰か恭敬したてまつるべき。夏の桀・殷の紂と申すは万乗の主、土民の帰依なり。しかれども政あしくして世をほろぼせしかば、今にわるきもののてほんには桀紂・桀紂とこそ申せ。
通解;
もし法華経が説かれないならば、どんなに家柄が高く大聖といわれていても、だれが敬うだろうか。夏の桀王、殷の紂王というのは、万乗の主であり、土民の帰依するところであった。しかれども、悪政のため世をほろぼしてしまったので、今日でも悪人の手本には桀紂・桀紂というではないか。国王であっても、無徳なら、だれもあがめることはないのである。
拝読の手引き;
法にはずれた行動をする人は、人から尊敬されません。その資格、地位にふさわしい人格、実践者でなければ、軽蔑されるだけです。日蓮大聖人は、ここで、王であっても悪王であれば尊敬されない例を引かれて、そのことを指摘されています。また、妙法を離れては、どのように高名な弟子、智徳すぐれた弟子も、人々から敬われないと述べられています。人々から仏弟子として尊敬され、その指導、発言が重んじられているのは、ひとえに、妙法の力によるのです。私達はここから、それぞれ、幹部として後輩から慕われ、生きがいをもって毎日を送れるのも所詮は妙法の力、学会の力によるのであるということを、決して忘れてはならないと思います。妙法の法則にかなっているからこそ尊敬されるのであって、思い上がった態度は、絶対にあってはなりません。それでは、心ある後輩から軽蔑されるだけです。どのような高位にあっても、道理にはずれたことをする人は、どうして民衆の共感をうることができましょうか。寝食を忘れても国民の幸福を考えるべき政治家の、現実の姿を見れば、それはよくわかります。桀紂の例をお引きになっていますが、私達も民衆救済、妙法流布の精神に反しては、喜んでついてくる人はなく、組織にスキマ風が吹くことを知らねばなりません。卓越した法を人に体現する――すなわち、妙法の指導者として恥ずかしくない実践を、自ら踏み行う誠実な姿の中に、組織の発展も勝利の因もあるのです。(単行本「きょうの発心」137)
110
:
無名人
:2009/12/06(日) 19:01:47
御書p204〈413〉
畜生すら猶恩を報ず何にいわんや大聖をや
111
:
無名人
:2009/12/07(月) 08:02:29
御書p207〈413〉 水すめば月影を浮かぶ
水すまば、月、影ををしむべからず。風ふかば、草木なびかざるべしや。法華経の行者あるならば、此等の聖者は大火の中をすぎても、大石の中をとをりても、とぶらはせ給うべし。
通解;
水が澄むならば、月は必ず影を浮かべるのである。風が吹けば、草木はなびくのである。そのように、法華経の行者があるならば、これらの聖者は大火の中をくぐってでも、大石の中を通ってでも、法華経の行者をとぶらわれるのである。
拝読の手引き;
法華経(三大秘法の御本尊)を信仰する、真実の法華経の行者には、必ず大火をくぐってでも、大石の中を通ってでも、諸天善神の守護が厳然とあることを教えられた一節です。澄んだ水面に月の影がうつり、風が吹けば草木がなびくことは天然自然の道理です。それと同じように、法華経の行者が常にどこにあっても守られることは絶対的な原理なのです。ここで述べられている「これらの聖者」とは、英知・人徳にすぐれた尊い人として、人々から尊敬されている、舎利弗や迦葉等の釈尊の高弟のことです。法華経の行者のもとには、このような聖者が常に来たって守護するということです。この御文にある「法華経の行者」とは、総じていえば、末法今時、三大秘法の御本尊を信じて、広宣流布を目指し、強盛な行学に励む人のことです。したがって、この御文を私達の信仰生活に約して拝するならば、大聖人の御書の一節を心肝に染めて、強靭な信仰の実践に励む人は、必ず常に智慧ある人、力ある人に恵まれて、悠々とした所願満足の人生コースに入っていけることを明示された御文と拝せるでしょう。また、もっと本質的にいえば、自身の智慧と力、さまざまな特質が常に湧現し、勝利の人生を築くことができる、との文意でもあります。もとより、ここで心しなければならないことは、諸天善神の守護といっても、自己の信心のいかんによって決まるものだということです。強い信心で豊かな人間性を開発する、不断の努力・勇気と誠意の人に、諸天の加護は輝くのです。(単行本「きょうの発心」475)
112
:
無名人
:2009/12/08(火) 09:58:48
御書p211(413) 華を見て池の深さを知る
雨の猛を見て竜の大なる事をしり華の大なるを見て池のふかきことは・しんぬべし
通解;
天台は法華文句に「雨の降り方の激しさから、その雨を降らしている竜の大きいことを知ることができる。蓮華の咲き方の盛んなのを見て、根を下ろしている池の深さを知ることができる
拝読の手引き;
この御文は、地涌の菩薩の姿があまりにも光輝に満ち、釈迦の弟子などとは比較することも愚かなほど優れているのを見て、弥勒菩薩が、これらの菩薩の師匠は、釈迦などのとうてい及ばない仏ではなかろうか、と考えめぐらすところを描写するなかに出てきます。釈迦の仏法と大聖人の仏法の勝劣は、ここにもはっきりとあらわれていますが、ともかくも、弟子の姿で師匠の偉大さがおしはかれることを、この雨、華の譬えをもって述べられたところです。茶道でも剣道でもその他どんな分野であれ、弟子の成長、力量、人格を見れば、師匠の大きさというものがわかります。脇士を見れば師匠がわかるともいわれています。一人偉大に見えても後継者をつくれない人は、本当に偉大であるとはいえません。無数の同志をつくれる人が偉いのです。また、弟子の立場からいえば、師匠の原理に恥じない己に育とうとの努力をすることが当然の責務です。なかんずく、仏法においては、弟子の成長が最も大切であり、広宣流布を達成するには、師弟不二の弟子がどれだけ多く輩出するかで決まることを知るべきです。また、この御文は、物事の盛んな状態を見て原因の根深さを知ることもできる、という原理をあらわしています。たとえば現代社会の悪弊を見て、いかに文明の病根が根深く、思想が病んでいるか――したがって、本源的な生命次元の変革、抜本的な思想変革しかない、という私たちの主張は、真面目に人生と社会の未来を考える人の胸をうつのです。あるいはまた、生活の功徳、組織の生きいきとした発展と信心の深化の関係等をも、実践的に、この御もんからくみとることも可能でありましょう。(文庫本「きょうの発心」439)
113
:
無名人
:2009/12/08(火) 18:27:42
御書p214〈413〉 穢土を浄土へ転換
今爾前・迹門にして十方を浄土とがうして、この土を穢土ととかれしを打ちかへして、此の土は本土となり、十方の浄土は垂迹の穢土となる。
通解;
爾前経や法華経迹門にあっては、十方の国土を浄土と名付け、この土(娑婆世界)を穢土と説かれていたのを、今(法華経寿量品において)逆転させて、この土こそ本土であり、十方の浄土は垂迹の穢土となったのである。
拝読の手引き;
法華経本門の国土論を、明確に説かれた御文です。国土論といえば、私たちの住む自然や環境についての考え方を説いたものですが、これをどう考えるかによって、私たちの人生は大きく分かれるのです。いいかえれば、国土論は、私たちの人生の姿勢の問題となります。本文にもあるように、爾前・迹門では、私たちが現に住んでいるこの世界を、穢土(けがれた世界)ときらい、この世界以外の十方の国土を浄土(きよらかな世界)として、あこがれ求めたのです。しかし、法華経本門寿量品で、この思想を逆転し、十方の国土こそ穢土であり、私たちが、今、こうして生活している世界こそ浄土であると説いたのです。この逆転は、人生の姿勢の上で大変な相違となります。十方に浄土を求める考え方は、現世否定的で、消極的な人生となります。人生のあらゆる問題に対して、積極的に取り組む強い姿勢ではなく、あきらめムードの人生となるのです。しかし、この消極的な姿勢を打ち破ったのが、法華経寿量品なのです。ここでは、人間の住むこの世界を離れて、どこにも浄土はないという考えが説かれています。そして、浄土というのは、待つものではなく、自力がつくり出すものであるとの強い姿勢を打ち出しています。さらに、日蓮大聖人の仏法では、生命論の立場から、浄土も穢土も、要は一人一人の一念の姿勢によって決まると説かれたのです。いかに苦しくつらい現実であろうとも、南無妙法蓮華経と御本尊に唱える時、そのまま浄土に転換できるのです。私達は、きょうよりさらに一段と発心し、自己の生命の変革を通して、環境、状況を転換し、地域の浄土化を期していこうではありませんか。(文庫本「きょうの発心」389)
114
:
無名人
:2009/12/09(水) 09:58:15
御書p214(413) 玉石混交の戒め
雲は月をかくし、讒臣は賢人をかくす。人讃すれば黄石も玉とみへ、諛臣も賢人かとをぼゆ。今濁世の学者等彼等の讒義に隠されて寿量品の玉を翫ばず。また天台宗の人人もたぼらかされて金石一同のをもひをなせる人人もあり。
通解;
(世間一般でも)雲は月を隠し、主君にいつわりの告げ口をする家臣の存在は、真に主君を思い社会を思う立派な人物を隠してしまうものです。また、多くの人がほめたたえれば、黄色の石も玉と見えたりするし、忠誠の心もなくただこびへつらう家臣も、立派な人物のように思われてしまうものです。今、濁った世の中の学者らも、仏法の正義をゆがめて説く諸師たちのいつわりの考え方に眼を覆われて、寿量品の宝珠を尊重しようとしない。また、法華経を正しく受け継いでいて当然の、天台宗の人びとまでたぶらかされて、金(真実の教え)と石(仮の教え)とを、まったく同じものと思い込んでいる人びともいるのです。
拝読の手引き;
ここでは、世間一般の事例を引かれて、真実の仏法を正視眼で見極め信受していくことが、どんなに困難なことであるかを教えられています。もちろんここでは、日蓮大聖人御在世当時の一般の学僧や、ひいては法華経を依経とする天台宗の人々などの憂うべき傾向を指摘されているわけですが、私たちも、ここでの教訓は、十分に心していきたいと思います。最高峰の生命の哲理を学び実践する私達ですが、氾濫する情報の"雲"によって、澄み渡る妙法の"月"を隠すようなことがあってはまりません。また、さまざまな風評にたぶらかされ、妙法の珠玉の哲理を、黄石のごとき諸思想と同視するような過ちを犯さないよう注意したいものです。そのためにも、妙法の哲理を自分のものとして主張できる教学力をもつことが大事でしょう。(文庫本「きょうの発心」568)
115
:
無名人
:2009/12/09(水) 18:59:21
御書p218〈413〉 求道者にひらく仏法の心
此の経文の心は眼前なり。晴天に大日輪の懸れるがごとし。白面に黶のあるににたり。而れども生盲の者と邪眼の者と「各謂自師」の者、辺執家の者はみがたし。万難をすてて道心あらん者にしるしとどめてみせん。
通解;
この経文(宝塔品)の心は眼前に明らかである。青空に太陽の輝いているごとく、白顔にほくろのあるように明々白々である。しかし、生盲の者と、邪眼の者と一眼のものと自分の邪師の教えのみ主張するものと、かたよった教えに執着するような者は、この明らかな事実すら見違えるであろう。万難を排して、真の仏道を求める者に、しるしとどめてみせようと思う。
拝読の手引き;
宝塔品では、妙法を末法に弘める意義と困難さを釈迦仏、多宝仏、十方分身の諸仏が、説き示しています。六難九易の原理も、正法を弘めるが故の難なのです。これは、一代の諸経の浅深勝劣を判断する時、法華経が最も深く、かつ、最も優れていることを明白に示したものです。釈迦仏、多宝仏、分身仏の三仏が一致して示した生命哲理にほかなりません。ところが、この宝塔品の明らかな事実すら、曲げて見ようとする学者が多く、日本国中の諸宗の僧侶はことごとく、仏に対する反逆者となっているとの指摘がなされています。偏見、邪見に執着する者には遂に仏法の本質を理解することはできません。そういった生命の本質に暗く、迷いに沈む者の無明の闇を断破する戦いに、日蓮大聖人は、大勇猛心をもって立ち上がられたのです。「同心あらん」人には、五体にしみ入るように生命の哲理は吸収されていくことでしょう。仏法哲理を単に知識として頭に入れるだけでは、少しも感激はわいてこないことは経験があると思います。仏法哲理は師弟相対の感応を通じてこそ信解も成り立つとの指導を心に刻み、明日の成長のための汗を流していきましょう。(文庫本「きょうの発心」626)
116
:
無名人
:2009/12/10(木) 09:55:43
御書p218〈413〉 求道者にひらく仏法の心
此の経文の心は眼前なり。晴天に大日輪の懸れるがごとし。白面に黶のあるににたり。而れども生盲の者と邪眼の者と「各謂自師」の者、辺執家の者はみがたし。万難をすてて道心あらん者にしるしとどめてみせん。
通解;
この経文(宝塔品)の心は眼前に明らかである。青空に太陽の輝いているごとく、白顔にほくろのあるように明々白々である。しかし、生盲の者と、邪眼の者と一眼のものと自分の邪師の教えのみ主張するものと、かたよった教えに執着するような者は、この明らかな事実すら見違えるであろう。万難を排して、真の仏道を求める者に、しるしとどめてみせようと思う。
拝読の手引き;
宝塔品では、妙法を末法に弘める意義と困難さを釈迦仏、多宝仏、十方分身の諸仏が、説き示しています。六難九易の原理も、正法を弘めるが故の難なのです。これは、一代の諸経の浅深勝劣を判断する時、法華経が最も深く、かつ、最も優れていることを明白に示したものです。釈迦仏、多宝仏、分身仏の三仏が一致して示した生命哲理にほかなりません。ところが、この宝塔品の明らかな事実すら、曲げて見ようとする学者が多く、日本国中の諸宗の僧侶はことごとく、仏に対する反逆者となっているとの指摘がなされています。偏見、邪見に執着する者には遂に仏法の本質を理解することはできません。そういった生命の本質に暗く、迷いに沈む者の無明の闇を断破する戦いに、日蓮大聖人は、大勇猛心をもって立ち上がられたのです。「同心あらん」人には、五体にしみ入るように生命の哲理は吸収されていくことでしょう。仏法哲理を単に知識として頭に入れるだけでは、少しも感激はわいてこないことは経験があると思います。仏法哲理は師弟相対の感応を通じてこそ信解も成り立つとの指導を心に刻み、明日の成長のための汗を流していきましょう。(文庫本「きょうの発心」626)
117
:
無名人
:2009/12/10(木) 18:20:31
御書p223〈413〉 第一に富める者と確信
当世・日本国に第一に富める者は日蓮なるべし。命は法華経にたてまつり、名をば後代に留むべし 。大海の主となれば諸の河神皆したがう。須弥山の王に諸の山神したがはざるべしや。法華経の六難九易を弁うれば一切経よまざるにしたがうべし。
通解;
今の世で、日本国において最も富める者は日蓮であろう。命は法華経にたてまつり、名をば後代にとどめるのである。大海の主となれば、もろもろの河神はすべてこれに従う。山の王たる須弥山には、もろもろの山神が皆従うのは当然のことである。法華経の六難九易をはっきりと弁えるならば、一切経を読まなくとも、一切の経教の仏、菩薩すべてこの行者に従うのである。
拝読の手引き:
日蓮大聖人がさまざまな難を克服されて、御本仏としての実証を示された大確信を述べられた一節です。大聖人は竜口の難の後、極寒の地・佐渡に流刑となり、それこそ筆舌に尽くしがたい二年有余の歳月を送られたわけですが、そうした極限状態にあっても、御本仏としての悠々自適の境涯で、遠く離れた鎌倉や富士方面の弟子達を指導激励されていたのです。ではこの大聖人の大確信は、どこから生まれてきたものであるかについて考えていくならば、そこには大聖人の全生命を法華経流布に賭された、革命的な実践に貫かれていることがわかります。それは妙法流布という前代未聞の大事業に対し、種々の客観的な障害がその前途に待ち受けていることをはっきりと見定めたうえで、そうした厳しい現実の社会に飛び込み、一歩一歩着実に布教活動を進めていく実践であり、競い起る障魔の嵐を打ち破られ、御本仏としての実証を示された実践であります。私達の信仰もこうした大聖人の実践を範として、信心即社会の原理を踏まえ、妙法の実証者としての自覚に立って、全魂込めて日々前進していかなければなりません。どんな障害もすべて妙法のリズムに巻き込み、悠々と克服する決意で――。(文庫本「きょうの発心」440)
118
:
無名人
:2009/12/11(金) 10:04:55
御書p223(413) 竜女の成仏は女人成仏の手本
竜女が成仏此れ一人にはあらず、一切の女人の成仏をあらはす。法華已前の諸の小乗経には女人の成仏をゆるさず。諸の大乗経には成仏往生を許すやうなれども、或は改転の成仏にして一念三千の成仏にあらざれば、有名無実の成仏往生なり。「拳一例諸」と申して竜女が成仏は末代の女人の成仏往生の道をふみあけたるなるべし。
通解;
法華経提婆品に説かれる竜女の成仏は、一人の成仏を示したのでなく、一切の女性の成仏をあらわしたものです。法華経以前の小乗の諸経では、女性の成仏を許しません。諸大乗経では成仏往生を許すようですが、それもあるいは身を男子に改めて成仏するといったもので、一念三千の原理にのっとった即身成仏ではないので、有名無実の成仏往生なのです。「一をあげてもろもろを例す」といって、竜女の成仏は、末代の成仏往生の道をふみあけたものなのです。
池田先生の指導:
竜女の成仏は、竜女一人の成仏ではなく、すべての女性の成仏を示しているということです。「竜女が成仏は末代の女人の成仏往生の道をふみあけたるなるべし」〈御書p223〉との仰せは、「一人」の成仏こそが、「万人」の成仏を約束するということです。まず、「一人」です。一は「万の母」です。どんな「一人」でも救っていくとの情熱なくして広宣流布はありえません。さらに、大聖人は、権大乗経にも女性の成仏を一見認めているような教えがあることに対して、教義的な面からも破折を加えています。すなわち、爾前経で女性の成仏を認めているようでも、それは「改転の成仏」すなわち、女性が男性に生まれ変わってからの成仏に過ぎないと喝破されています。これに対して、竜女が示したのは「一念三千の成仏」、すなわち、九界の身を改めることなく仏界の生命を開くことができる「即身成仏」です。要するに、竜王の八歳の娘である竜女の身を改めず、そのままの身において成就する成仏です。提婆や竜女の成仏が示しているのは、まさに、「変毒為薬」「即身成仏」という妙法の功力にほかなりません。この功力によって、初めて末法濁世の万人の救済が成り立つのです。妙法こそが、末法の全民衆を根源的に救う大良薬だからです。(単行本池田大作開目抄講義上p210)
119
:
無名人
:2009/12/11(金) 18:03:16
御書p223(413) 障魔に勝ち切ってこそ法華経の行者
日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて返年の二月・雪中にしるして有縁の弟子へをくればをそろしくて・をそろしからず・みん人いかに・をぢぬらむ
通解;
日蓮と名乗った者は、去年の九月十二日深夜、子丑の時に首をはねられた。これは、魂魄が佐渡の国に至って、明けて二月、雪の中で記し、縁ある弟子に送るのであるから、ここに明かす勧持品に説かれる難は恐ろしいようであるが、真の法華経の行者にとっては恐ろしいものではない。
池田先生の指導;
悪世末法に、万人の成仏のために法華経を弘めるのが「広宣流布」の戦いです。この戦いに立ちあがる「法華経の行者」には、あらゆる障魔が競い起ってくることは必至です。魔性の具体的発現として、必ず「三類の強敵」が出来します。その三類の強敵と戦い、勝利してこそ、一生成仏と広宣流布が現実のものとなるのです。日蓮大聖人の御生涯にあって、三類の強敵が最大の規模で襲いかかってきた極限の法難が、竜口の法難と佐渡流罪です。しかし、結局は、いかなる魔軍も大聖人のお命を奪うことはできなかった。大聖人は、「竜口までもかちぬ」〈御書p843〉と仰せです。あらゆる法難を乗り越えた末に、ついに権力の手による処刑という絶体絶命の法難にも「勝った!」と大勝利の宣言をされているのです。元品の無明を正体とする第六天の魔王が、僣聖増上慢、道門増上慢、俗衆増上慢という悪鬼入其身の軍勢を総動員して、日蓮大聖人の御生命を奪い、広宣流布を破壊しようとしても、敵わなかったのです。あらゆる魔性の跳梁を打ち破られた大聖人の生命こそが、久遠元初自受用報身如来という御本仏の本地の生命そのものにほかなりません。勧持品は、宝塔品・提婆品の「五箇の鳳詔」を受けて、八十万億那由侘の諸の菩薩が滅後の弘教を誓う品であり、その誓いの言葉の中に「三類の強敵」が説かれます。いわば、宝塔・提婆両品は、"師匠の勅命"であり、勧持品は"弟子の誓い"となります。ともあれ、障魔に勝ち切っていくことこそが、末法の広宣流布を担う真の師弟の道なのです。(単行本池田大作開目抄講義下p11)
120
:
無名人
:2009/12/12(土) 09:11:28
御書p224(413) 我慢を拝しさらなる求道を
悪世の中の比丘は、邪智にして心諂曲に、未だ得ざるを為れ得たりと謂い、我慢の心充満せん。
通解;
悪世末法の中の僧は、知恵がよこしまで、心は諂い曲がっている。まだ得ていない悟りを得たと思い、慢ずる心が盛んである。
拝読の手引き;
法華経勧持品の二十行の偈のうち、三類の強敵の第二、道門増上慢の姿を説いた御文です。この経文の予言通り、悪世末法の諸宗の僧は、皆仏法を究め尽くしたような顔をして、民衆を欺いていました。しかし、その欺瞞性を法華経の行者である日蓮大聖人に指摘されると、彼らは邪智を働かせて互いに結託し、大聖人を誹謗、さらに進んで第三類の姿をあらわし、宗教者としの節を曲げ、権力にこびへつらって、大聖人を抹殺しようとの暴挙に出た徒輩もいたのです。「観心本尊抄」には「諂曲なるは修羅」とあります。修羅の本質はエゴイズムです。増上慢の心もその一面です。諸宗の僧――ある意味では、現代の知識階級の一部がこれに通ずる面もある――は、まがりくねった自我に気がつかないで、無智の民衆に対しては優越感を味わい、自分よりも智慧が優れた者には嫉妬を抱いていたのです。だが、さらに深く考えてみると、これは他宗のよこしまな僧の話として聞き流すわけにはいきません。私達の中にも、知らない間に、増上慢の心がそっと忍び込んでいるかもしれないのです。厳しく考えれば「未だ得ざるを為れ得たりと謂い」とは、すぐに慢じやすい凡夫の私達に対する大きな警鐘ではないでしょうか。少し教学を勉強したからといって、仏法の哲理がわかったような錯覚に陥ることもあります。幹部になって、創価学会のことがすべてわかったと思いこむこともあるでしょう。しかし、大聖人の仏法は、一生かかっても究め尽くせない深いものであり、学会もまた”信心の血脈"を伝える仏の団体です。私達は、仏法の真髄、学会精神を体得するために"生涯求道"の謙虚にして真実の人生を歩みたいものです。(文庫本「きょうの発心」667)
121
:
無名人
:2009/12/12(土) 17:31:25
御書p229〈413〉 魔の本質を見抜く知見
無限の者・一眼の者や邪見の者は末法の始めの三類を見るべからず。一分の仏眼を得るもの此れを知るべし。
通解;
無限の者・一眼の者・邪見の者は、末法における三類の強敵を見ることはできないであろう。一分の仏眼を、正法を信じて得られた者が、これを見ることができるのである。
拝読の手引き;
末法今時に正法を信仰しひろめる者には、必ず三類の強敵があり、このことを知れる人は、仏の正しい知恵を一分でも得た者に限られる。と教えられています。「無限の者」とは仏法に全く無知のもの、「一眼の者」とは仏法の一部分しか知らない、生かじりの者、「邪見の者」とは仏法を自己流に曲げて解釈し、邪説を立てる者をいいます。これらの人々には、三類の強敵を見ることはできないのです。同じものを見ても、目のある人とない人とでは、大変な差が生じます。時には全く正反対の評価さえ起こりかねません。その本質を見抜くには確かなる目が要求されるもののようです。このことは仏法についてもそのまま当てはまります。魔性の本質、敵の存在を、それと見抜くには、仏法の鋭い知見が必要です。広布を阻み、正しい信仰をおさえる三類の強敵――この平和と成長の阻害者は、よほど仏法を根底にした、曇りなき知恵の目、澄んで充実した生命の持ち主でないと、その本質を知ることはできないのです。別の言い方をすれば、妙法のために本当に戦っている人のみが、生命、社会の敵をそれと見抜き、利他の実践に精進できる人といえるのではないでしょうか。戦っていない時、戦いの一念がない時には、なにも見えてきません。挑戦の姿勢がある人にのみ、おかれた状況の厳しさ、、敵の存在が、ひしひしと迫ってくるものなのです。その意味でのこの御文は、信心の強弱をはかるバロメーターの意味をもっています。ともかく、三類の強敵の存在を、私達は、常に、永久に忘れてはなりません。(文庫本「きょうの発心」587)
122
:
無名人
:2009/12/13(日) 11:04:46
御書p230(413) 末法救世主としての自負
日蓮よりほかに日本国に取出さんとする人なし。日蓮は法華経の行者にあらず、天これをすて給うゆへに。誰をか当世の法華経の行者として仏語を実語とせん。
通解;
(法華経勧持品の予言に)的中するものは、日蓮以外には日本国中探してもありえない。しかし日蓮は法華経の行者ではない。なぜなら諸天がこれを捨てて助けようとしないからである。しからば、だれをか当世の法華経の行者として、仏語が真実であるとの証明にしようか。
拝読の手引き;
末法に法華経を弘める者にはあ必ず三類の強敵が襲いかかるとの経文の予言が正しければ、三類の強敵が日本国に充満している時、法華経の真実の行者が出ないわけは絶対にありえません。悪口罵詈され、刀杖が加えられ、官権に訴えられてたびたびの流罪、死罪にあっているのは実に日蓮大聖人の一人でした。寺院を焼いてその科で流罪になった僧侶はたくさんいました。また、公家や武家にこびへつらい、かえって憎まれた高僧と呼ばれた僧侶も数を知りませんでした。こうした僧侶等はとても法華経の行者とはいえません。「法華経の行者」とは、たんに法華経を読んだとか、祈祷したとか、そういう人を指しているのではありません。「開目抄」の提言が、主師親の三徳を具備した仏、すなわち人本尊開顕の書であることを思うとき、この一節は、大聖人が末法の御本仏であることを明かされた結論部分であることがわかります。大聖人は遠く佐渡に流され、主だった弟子は捕えられたり、領地を没収されたり、数々の迫害にあっています。大聖人門下は官憲の弾圧に風前のともしびであったのです。しかも民衆は幸福になる真の宗教を知らず、苦悩の底に沈んでいる現実。「日蓮は法華経の行者にあらず」は慨嘆ではありません。三類の強敵逆巻く濁流の中から起たんとする、御本仏の脈々たる搏動が伝わってくる御文です。(文庫本「きょうの発心」603)
123
:
無名人
:2009/12/13(日) 17:46:46
御書p230(413) 「仏と提婆は身と影とのごとし」
仏と提婆は身と影とのごとし。生生にはなれず。聖徳太子と守屋とは蓮華の花菓同時なるがごとし。法華経の行者あらば必ず三類の怨敵あるべし。三類はすでにあり。法華経の行者は誰なるらむ。求めて師とすべし。一眼の亀の浮き木に値うなるべし。
通解:
仏と大悪の提婆とは身と影のごとし。また生生世世に離れることがない。聖徳太子とこれに敵対する物部守屋とは、蓮華の花と実が同時になるような関係にあった。これと同じく法華経の行者であるならば、必ず三類の怨敵があるべきである。しかるに三類はすでに日本国にある。法華経の行者はだれであろう。求めて師としたいものである。あたかも一眼の亀が浮木にあうようなものである。
拝読の手引き;
日蓮大聖人が三類の怨敵が競い起るなかを、南無妙法蓮華経の大白法を流布する実践を貫かれた御本仏であることを明かされた御文です。どんな時代であれ、社会であれ、人びとの既成の概念を越えた革新の所説を広く流布させていくことは、大変な難事であり、それには必ず旧説にのっとる既成勢力の激しい反発があります。大聖人の仏法は、従来まで支配的であった釈迦仏法の限界を打ち破り、真実の庶民仏教として人びとを幸福へと導く革新の宗教です。その大聖人の仏法を世に流布することに対し、既成仏教をはじめとする反対勢力の激しい反発と非難があったのは、この御文の原理が示す通り当然のことといえましょう。まして、当時の世相は法華経の経文の予言どおりに濁乱の極に達していました。そうした厳しい時代状況の中で、妙法流布の戦いを裕然たる仏の境涯でもって進められたのが大聖人であり、それはまさしく末法の御本仏としての位を証明されたものです。私達はこうした大聖人の戦いを通し、妙法流布の至難さを深く自覚するとともに、いかなる障害に直面しようとも、絶対の確信と使命感を失わない不動の信心を確立しなければなりません。妙法を社会に開く実践が社会のあらゆる分野で展開されていますが、決して後退することなく、勝利の実証を示し、地域広布を前進させていきたいものです。(文庫本「きょうの発心」420)
124
:
無名人
:2009/12/14(月) 10:12:40
御書p232②(413) 門下の根源の迷いを払拭
詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、
通解;
結局のところは、天も私を捨てるがよい。いかなる難にも遭おう。身命をなげうつ覚悟である。
池田先生の指導;
「詮ずるところは天もすてたまえ諸難にもあえ身命を期とせん」〈御書p232〉 私は「開目抄」の白眉ともいうべきこの一節を拝するたびに、御本仏・日蓮大聖人の崇高なる魂の響きに全生命が共鳴し、大いなる勇気と歓喜に打ち震える思いがします。昭和35年〈1960年〉の5月3日、私の第三代会長就任の折、深く拝した御聖訓でもあります。 広宣流布は、常に「一人立つ」勇者から始まります。 思えば、仏教の歴史も、人間の内なる尊極の生命に目覚めた釈尊が「一人立った」瞬間から始まったと言うことができる。 そして、御本仏であられる日蓮大聖人が、濁世を生きる人間が尊極の生命に立脚して生きていける道を示され、その実現のために大難を覚悟で「一人立たれた」からこそ、末法万年の広宣流布が開幕したのです。 この大聖人のお心に連なって、わが創価学会は、先師・牧口先生、恩師・戸田先生が現代における宗教革命と人間革命の道に一人立ち上がられた。 私も不二の弟子として一人立ち上がり、未聞の世界広宣流布の道を、切り開いてきました。 真正の「一人立つ」闘争には、必ず、「二人」「三人」と、勇者が続きます。学会においても、一人また一人と無名の気高き庶民が立ち上がって、今日、地球を包み込む善と正義のネットワークが築かれてきたのです。 世間・門下の義難をつき抜けた、大聖人の大境涯を示された御文です。"諸天の加護がほしい"とか、"難に遭いたくない"というような人々の思惑を超えて、大聖人御自身の御境地である法華経の行者としての覚悟が示されているのです。 大聖人の御境地からすれば、諸天の加護の有無を超えて大切なことがある。いかなる大難があろうと、身命を賭して成し遂げねばならない。 それは、仏が自らの大願として法華経で説いた、最高善である万人の成仏である。そして、その実現である広宣流布にほかなりません。 これこそ、世間や門下の人々がこだわり、執着するものを超えて、大聖人が戦い取ろうとされたものなのです。 法華経の行者とは、仏の大願を我が誓願とし、仏の滅後の悪世にあらゆる困難を超えて実現していく「戦う人」の謂です。特に、末法の悪世においては、法華経の肝心であり、凡夫成仏の法である妙法蓮華経を弘めなければ、その大願は成就できません。 妙法蓮華経は「心の法」です。人々に妙法蓮華経への不信をもたらす法華誹謗は、まさに人々を成仏から遠ざける悪縁であり、仏の大願を妨げる大敵なのです。ゆえに、末法の法華経の行者は、必然的に謗法と戦う人にならざるを得ないのです。 誓願とは、法華経の行者の「戦う魂」です。それゆえに、大聖人は、この一段において、法華経の行者としての誓願を説かれるのです。(単行本池田大作開目抄講義下p78)
125
:
無名人
:2009/12/14(月) 18:27:37
御書p232(413) 「不退」こそ信仰の真髄
身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、
通解:
舎利弗が過去世に六十劫の菩薩行を積み重ねたのに途中で退転してしまったのは、眼を乞い求めたバラモンの責めに耐えられなかったからである。久遠の昔に下種を受けた者、あるいは大通智勝仏の昔に結縁した者が退転して五百塵点劫、三千塵点劫という長遠の時間を経なければならなかったのも、悪知識に会って惑わされたからである。善につけ、悪につけ、法華経を捨てるのは地獄に堕ちる業なのである。
池田先生の指導;
信仰で最も大切なことは「不退の心」です。それは身・口・意にわたる不退でなければなりません。生涯、戦い続ける魂を失わない。それが日蓮仏法の精髄です。創価の心です。大聖人御自身、本抄で立宗の時の誓願を振り返られ、覚悟の法戦を開始されゆく「不退の誓い」を示されています。「今度、強盛の菩提心を・をこして退転せじと願しぬ」〈御書p200〉と。 私達は今、濁劫悪世の娑婆世界の穢土で仏道修行をしています。謗法充満の悪知識の中で、三障四魔・三類の強敵と戦いながら、信仰の実証を示すことは、常に、自己の生命の無明と戦う練磨が不可欠です。何があっても動揺しない「強き心」、まっすぐに誓いの道を貫き通す「清き心」を確立しなければ、魔性の風に仏道修行の灯はまたたく間に消されてしまう。その心を強くすることが「不退」の原点です。深き覚悟がなければ、悪知識の障魔を破ることはできません。大聖人は、この悪知識の恐ろしさを示すために、大乗の修行を退転した舎利弗の例、そして三千塵点劫の昔の大通結縁以来の退転者、また久遠五百塵点劫以来の退転者の例を取り上げられています。 しかし一面から言えば、それ以上の精神の労苦を、私達学会員は悪世末法の弘通にあって日常的に経験しています。無智、悪心、邪智ゆえの反発を受け、罵詈中傷されるなかで、わが魂をすりへらす思いで、人々のために尽くそうとしていく。それが、どれほど尊い菩薩の行動の真髄であるか。 学会員の皆さま方は、何があろうとも、柔和忍辱の心で、御本尊に真剣に祈りきっていく。そして唱題を重ねるなかで、"あの人にも仏性がある""あの人の仏界に届け"とさらなる対話と行動に雄々しく進んでいく。そして、結果として、自己の境涯を大きく拡大していくことができるのです。 真実の釈尊の仏法、また、日蓮大聖人の仏法が立脚するのは、万人成仏の法華経の思想です。この思想の対極にあるのが無明にほかならない。すなわち、万人に等しく尊極の生命があることを認められない暗き生命です。 法華経への違背は、坂道を転げ落ちるように最後は無明の淵である無間地獄に辿りついてしまいます。 それゆえに「法華経をすつるは地獄の業なるべし」なのです。 法華経こそ、万人の尊厳を認める宗教であります。法華経こそ、法性を開く宗教であります。そして法華経こそ、価値を創造する宗教であります。 この法華経が弘められた時は必ず、そこから転落させようとする悪知識が働きます。悪知識は私達の生命を無明へ陥れ、権威に従属させようとします。その悪知識に粉動されてはならない。そのためには、宗教の敵である謗法の悪と戦いきるしかないのです。言い換えれば「戦う心」こそ「不退の心」である。戦いを忘れてしまったならば、悪知識の磁力に打ち勝つことはできません。 ここに、生命勝利の重要な方程式があることを忘れてはならない。(単行本池田大作開目抄講義下p85)
126
:
無名人
:2009/12/15(火) 09:10:56
御書p232(413) 誓願に生きる人こそ無上道の人生
大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頚を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず
通解;
「大願を立てよう『法華経を捨てて観無量寿経などを信じて後生を期するならば、日本国の国主の位を譲ろう』『念仏を称えなければ、父母の首をはねるぞ』などと種々の大難が起こってこようとも,智者に私の正義が破られるのでない限り、そのような言い分に決して動かされることはない。その他のどんな大難も風の前の塵に過ぎない。私は日本の柱となろう。私は日本の眼目となろう。私は日本の大船となろう」と誓った誓願は断じて破るまい。
池田先生の指導;
大聖人は「善に付け悪につけ」と仰せです。悪知識は善悪両面から攻めてくるということです。その原理を知悉されているからこそ、大聖人は不退の誓願を立てられます。 「日本国の位を譲ろう」との誘惑があろうとも「父母の首を刎ねる」との脅迫があろうとも、そうした大難に絶対に屈することはない。どんなに身命に及ぶような大難であっても、風の前の塵のように吹き払っていくことができるとの御断言です。また「我が義は破られることはない」との御確信を示されています。そして、不退転の誓いとともに、大聖人が貫かれてきた偉大なる大願が示されます。「我日本の柱とならむ」「我日本の眼目とならむ」「我日本の大船とならむ」あまりにも崇高な主師親の誓いでありましょう。 日蓮大聖人は、立宗の日に、この大願を決意されたと拝することができます。そして、二十年。あらゆる障魔の嵐が吹き荒れても、何ものも大聖人の「不退の心」を揺るがすことはできませんでした。「ちかいし願やぶるべからず」――この御文は、ひとたび誓った誓願は、未来永劫に断じて破ることはない、との御断言です。 この仏の大願を我が誓願として生き抜く信心の人こそ、仏界の生命が湧現するのです。 わが創価学会は、この「誓願」を不惜身命で貫き通してきたからこそ、すべてに大勝利することができたのです。 「誓願」は、悪世末法に法を弘める上で根幹の柱です。正義に生きる強い誓いの心がなければ、濁世の激流を押し返すことなどできません。魔性を打ち返すことはできません。いかなる大難をも恐れない。いかなる苦難にも怯えない。その勇気を生みだす根源の力が、広宣流布の誓願です。誓願に生きれば、どのような障魔が出来しても、悠然たる王者の魂が光ります。どのような宿命が襲来しても、毅然たる勇者の魂が輝きます。 そして「わが誓願の心」が破られることがなければ、あらゆる障魔にも宿命にも負けることは断じてありません。また、仏法者にとって、「誓願の心」が破られるのは最大の敗北です。これまでの退転者、反逆者は、増上慢となり、名聞名利に流され、誓いの精神が腐って、惨めに破れ去っていきました。ゆえに「心こそ大切」なのです。「不退の心」を持ち、「誓願の心」を貫くことが人間勝利の真髄であることを、日蓮大聖人は教えられているのです。 この御本仏の魂を受け継いだのが創価学会にほかなりません。いな、創価学会しかありません。 私の脳裏には、会長就任直前の戸田先生の言葉が刻まれています。「私には広宣流布しかない」「私は立つぞ!誰が何と言おうが、恐れるものか!もう、何ものにも邪魔させるものか!」「私は、一人立つぞ!」と。 いつの時代にあっても、いずれの国土にあっても、広宣流布は、常に「一人立つ精神」から始まります。「一人立つ」心があれば、妙法の力用は自在に発揮されます。私も、戸田先生の弟子として、世界広宣流布という未聞の道に「一人」立ち上がりました。「一人立つ精神」こそ、三世永遠に変わらぬ妙法弘通の根本原則です。そして「誓願の心」こそ、法華経の行者の魂であり、大聖人の宗教の根幹です。(単行本池田大作開目抄講義p89)
127
:
無名人
:2009/12/15(火) 17:44:14
御書p232(413) 苦難とは「生命の鍛錬」
銅鏡は色形を顕す。秦王験偽の鏡は現在の罪を顕す。仏法の鏡は過去の業因を現ず。
通解;
銅の鏡は外界の物の色や形を映し出す。秦王の用いた験疑の鏡は現在の罪を映しあらわすことができたという。仏法の鏡は過去世の業因を現在の我が身に映しあらわしている。
拝読の手引き:
仏法の鏡に照らせば、過去いかなる事を行ってきたか、きわめて明瞭であると述べられています。仏法の鏡は、単に姿形しか映せない鏡でもなく、現在の姿しかわからない鏡でもありません。三世にわたって、深く、生命の因果、実相を照覧できる妙鏡なのです。人の目はごまかせても、仏法の目をごまかすことはできません。因果の理法は厳然たるものであり、自分自身の生命のうえに、くっきりと過去の一切の行ないが刻まれていることを知らなければなりません。さまざまな不幸、悲惨に苦しむ人、低い獣的な境涯にあっても平然として、美しい人間性の喪失を憂おうともしない姿、あるいは不如意のうらぶれた敗残の人生等々――それらは、本源的な因を、過去世の悪業に求めることができます。その宿命を転換するのもまた、仏法に求める以外にありません。過去遠々劫の福徳を増幅させる方途を、仏法はさし示しているのです。すなわち、妙法の唱題――自行化他にわたっての題目です。民衆救済のため日々の仏道修行に励み、朝晩、たゆまず唱題に打ち込むことです。そうすれば、転重軽受の大利益をうけ、福運は潮の満ちてくるように、わが身をおおうようになることは必然です。本気で戦うことが大切です。宿命転換の原理にしたがい、難も競い起ることでしょう。鉄でも熱し鍛えるならば傷があらわれてきます。生命を美しく強いものに鍛えるときです。難など恐れてはなりません。強く戦った護法の功徳の力により、重罪を呼び寄せ滅して、生命を変革できる願ってもないときなのです。転重軽受の原理をどこまで確信し、実証できるか――それが人生の成否を決めてしまいます。発心し、実践して難が起こり障魔が競えばしめたものです。その壁を一歩破ればさわやかな希望の未来が開けているからです。惰弱な信行学でなく、常に烈々たる一念に燃えた実践でありたいものです。(文庫本「きょうの発心」172)
128
:
無名人
:2009/12/16(水) 07:50:53
御書p232(413) 苦難とは「生命の鍛錬」
斯由護法功徳力故等とは摩訶止観の第五に云く「散善(さんぜん)微弱(びじゃく)なるは動(どう)ぜしむること能(あた)わず 今止観を修して健病虧ざれば生死の輪を動ず」等云々、又云く「三障四魔紛然として競い起る」等云々
通解;
「正法を護持する功徳の力によるのである」とは、摩訶止観の第五の巻の「心が定まらない状態で善を収める修行の力は微弱であり、宿業を転換することはできない。今、止観を修行すれば、自分の普通の状態の心身について、又心身の病について、その両方をいずれもかけずに観察し把握することになるので、生死流転の輪を動かし、宿業を転換することができる」の文に当たり、また、摩訶止観の「行学に懸命に励めば三障四魔が紛然と競い起る」の文に当たる。
池田先生の指導;
護法の実践で鍛え上げられた生命は、謗法の悪業という不純物をたたき出し、三世永遠に不滅となります。 無始以来の生死の繰り返しのなか、この一生で日蓮大聖人の仏法に巡り合い、謗法を責め、自身の生命を鍛え上げることで宿命転換が実現し、永遠に崩れない仏界の境涯を胸中に確立することができる。 それが「一生成仏」です。 この日蓮仏法の透徹した実践は、私達の人生における苦難の意味を一変させます。 もはや、苦難は避けて通るべきマイナス要因ではなく、それに打ち勝つことで自分自身の成仏へと向かっていく積極的な要素となるのです。 もちろん、苦難の渦中にいる人にとってみれば、苦難と戦うことは楽なことではありません。 辛いこと、苦しいことを待ち望んでいる人などはいません。 なければないほうがいいと考えるのが人情です。 しかし、たとえ現実に苦難に直面したとしても、大転換の秘法を知って、「悪と戦ったからこそ、今、自分は苦難にあっている」と理解し、「この苦難を乗り越えた先には、大いなる成仏の境涯が開かれている」と確信していく人は、根本的に強い人生を生き抜くことができる。 この究極の仏法の真実を、生命の奥底で体得しているのが、わが創価学会の同志であると確信します。 その証に、わが同志は、苦難に直面した特に「強い」。 そして何より「明るい」。 それは、宿命転換という生命の根源の善のリズムを、すでに体験的に知っているからです。 また、自分は経験していなくても、会得した他の同志の姿に日常的に接しているからです。 宿命と戦いながら広宣流布の信心に立つ人の姿には、すでに願兼於業という仏法の究極の真実が映し出されています。 どんな苦難も恐れない。 どんな困難も嘆かない。 雄々しく立ち向かっていく。 この師子王の心をとり出だして、「宿命」を「使命」に変え、偉大なる人間革命の勝利の劇を演じているのが、わが久遠の同志の大境涯といえます。 したがって、仏法者にとっての敗北とは、苦難が起こることではなく、その苦難と戦わないことです。 戦わないで逃げたとき、苦難は本当に宿命になってしまう。 生ある限り戦い続ける。 生きて生きて生き抜いて、戦って戦って戦い抜いていく。 この人生の真髄を教える大聖人の宿命転換の哲学は、従来の宗教の苦難に対する捉え方を一変する、偉大なる宗教革命でもあるのです。 "大変な時ほど宿命転換ができる" "苦しい時ほど人間革命できる" "いかなる苦難があろうと必ず最後は転換できる"――この大確信に生き抜いていくのが、日蓮仏法の信心であります。 そして、日蓮大聖人に直結して、この宿命転換の道を現実に歩み、宗教革命の大道を世界に開いているのが、わが創価学会であります。 この誇りと喜びを持って、さらに前進していきましょう。(単行本池田大作開目抄講義下p117)
129
:
無名人
:2009/12/16(水) 17:47:22
御書p233(413)
正法を護らんと欲せば彼の貧女の恒河に有って子を愛念するが為に身命を捨つるが如くせよ
通解;
「正法を護ろうとするならば、貧女がガンジス河にあって、我が子を愛念するがゆえに身命を捨てたごとくしなさい」
130
:
無名人
:2009/12/17(木) 09:54:41
御書p233(413) 眠れる師子を起こす
今、日蓮強盛に国土の謗法を責むれば此の大難の来るは過去の重罪の今生の護法に招出だせるなるべし。鉄は火にあわざれば黒し、火と合いぬれば赤し。木をもって急流をかけば、波、山のごとし。眠れる獅子に手をつくれば大いに吼ゆ。
通解:
今、日蓮は強盛に国土の謗法を責めるからこの大難がくるのであり、それは過去の重罪を今生における護法の功徳によって招き寄せるのである。そのありさまは、鉄が火に熱せられないうちは黒いが熱せられると赤くなる。木をもって急流をかけば、波が山のごとくまきおこる。眠っている師子に手をつければ大いに吼えるようなものである。
拝読の手引き;
日蓮大聖人は真剣に信心に励めば、その護法の功徳力により、過去の重罪を招き出して軽くうけ、消すことができると、示同凡夫の立場で述べられています。 したがって、真面目な実践の途上に、障魔が起こり難があるのは、かえって喜ぶべきことなのです。 過去遠々劫からの悪業により、生命の奥深くに沈殿し、しみついた濁りは、生命の哲理を知らない他教では、いかんとも解決のしがたいものです。 その重罪を招きあらわして消し去る力はなく、生命の濁りはいよいよ堅固なものとなり、未来永遠にその重罪を受けていかなければなりません。 私達の受持した日蓮大聖人の仏法には、宿命を転換させる偉大な力が備わっています。 生命の欠陥というか、重罪というか、それを露にして、完全にして清浄な生命に変革する力があるのです。 刀を作るにも、鉄の鍛え方が弱ければその傷は見えませんが、よく火で熱し、鍛えれば傷が現れてきます。 仏道修行とは、自己の生命を福徳豊かな、強く清浄な生命にする、人間革命の修行です。 真剣さに応じて、その"上達"もきまります。 人間勝利の人生の"達人"になるには、自己の生命の弱さ、濁りとの対決を避けてはなりません。 この悩みを解決したい、あの願いをかなえたい、と本気になって信心の実践に励めば、今までその人の生命を弱く濁らせていた第六天の魔王が驚いて、低い迷いの境涯から離れさせまいと反発するのは当然です。 急流を木でかけば波が起こり。眠れる師子に手をつけば吼えるのは道理です。 発心もなく、あるいは発心弱く低迷していることは、第六天の魔王がべっとりとその人の生命をおおっている状態とたとえてよいでしょう。 転重軽受の法門を実践し、高く広々とした境涯に前進する勇気ある信心を貫きたいものです。(文庫本「きょうの発心」204)
池田先生の指導:
ここに日蓮仏法の宿命転換の大道があります。 強盛に国中の謗法を責めたがゆえに、大難が競い起った。それは過去の重罪が現れたことに他ならないのだから、今それを消し果てることで苦悩の生死流転を脱却することができる、という結論です。 あえて謗法を「責め出だす」という強い戦いこそが、宿命転換の直道です。 そのためには「勇気」が必要です。 反対に、臆病にとらわれた弱い戦いでは、生死の苦悩を転換することはできません。(単行本池田大作開目抄講義下p115)
131
:
無名人
:2009/12/17(木) 21:11:07
御書p234(413) 疑う心なくば仏界に至る
今、日蓮強盛に国土の謗法を責むれば此の大難の来るは過去の重罪の今生の護法に招出だせるなるべし。鉄は火にあわざれば黒し、火と合いぬれば赤し。木をもって急流をかけば、波、山のごとし。眠れる獅子に手をつくれば大いに吼ゆ。
通解;
今、日蓮は強盛に国土の謗法を責めるからこの大難がくるのであり、それは過去の重罪を今生における護法の功徳によって招き寄せるのである。そのありさまは、鉄が火に熱せられないうちは黒いが熱せられると赤くなる。木をもって急流をかけば、波が山のごとくまきおこる。眠っている師子に手をつければ大いに吼えるようなものである。
拝読の手引き;
日蓮大聖人は真剣に信心に励めば、その護法の功徳力により、過去の重罪を招き出して軽くうけ、消すことができると、示同凡夫の立場で述べられています。 したがって、真面目な実践の途上に、障魔が起こり難があるのは、かえって喜ぶべきことなのです。 過去遠々劫からの悪業により、生命の奥深くに沈殿し、しみついた濁りは、生命の哲理を知らない他教では、いかんとも解決のしがたいものです。 その重罪を招きあらわして消し去る力はなく、生命の濁りはいよいよ堅固なものとなり、未来永遠にその重罪を受けていかなければなりません。 私達の受持した日蓮大聖人の仏法には、宿命を転換させる偉大な力が備わっています。 生命の欠陥というか、重罪というか、それを露にして、完全にして清浄な生命に変革する力があるのです。 刀を作るにも、鉄の鍛え方が弱ければその傷は見えませんが、よく火で熱し、鍛えれば傷が現れてきます。 仏道修行とは、自己の生命を福徳豊かな、強く清浄な生命にする、人間革命の修行です。 真剣さに応じて、その"上達"もきまります。 人間勝利の人生の"達人"になるには、自己の生命の弱さ、濁りとの対決を避けてはなりません。 この悩みを解決したい、あの願いをかなえたい、と本気になって信心の実践に励めば、今までその人の生命を弱く濁らせていた第六天の魔王が驚いて、低い迷いの境涯から離れさせまいと反発するのは当然です。 急流を木でかけば波が起こり。眠れる師子に手をつけば吼えるのは道理です。 発心もなく、あるいは発心弱く低迷していることは、第六天の魔王がべっとりとその人の生命をおおっている状態とたとえてよいでしょう。 転重軽受の法門を実践し、高く広々とした境涯に前進する勇気ある信心を貫きたいものです。(文庫本「きょうの発心」204)
132
:
無名人
:2009/12/18(金) 08:01:07
池田先生の指導;
この御文の身読が、創価学会の永遠の生命線です。常にこの御文に立ち戻り、前進していけば、私たちの信仰は不滅の輝きを放つからです。 この御文の精神に照らせば、私たちが難に直面した時は、すべて「まことの時」です。三障四魔が競い起こった時も、自身の宿命転換の時も、広宣流布の活動の"剣ヶ峰"の時も「まことの時」に反転攻勢できる信心が不可欠です。その信心を私たちは、日々、大聖人から教わっているという自覚に立つことです。断じて「つたなき者」になってはならない。(大白蓮華2009・5勝利の経典『御書』に学ぶ) 「我並びに我が弟子」との仰せは、拝するごとに、金文字のように鮮烈に浮かび上がってきます。 普通の宗教者であれば、「我が弟子たちよ」と一方的に呼びかけるにとどまるところです。 ところが大聖人は「我並びに」と仰せです。 「私もそうだ」と語りかけるお心に、師弟一体の仏法の精神が込められています。 そして、その師弟を貫く強靭な核が「不惜身命」です。 師である日蓮大聖人御自身もまた法に対して「不惜身命」であられるがゆえに、仏法を万人に開く民衆の指導者たりえるのです。 弟子もまた、弟子の次元で法を弘通するために、師と同じ「不惜身命」の実践で戦い抜いていかなければなりません。 御文では、多くの難があっても、それに耐えて信心を貫きさえすれば、求めなくても自ら成仏の利益があると仰せです。 いわば「不求自得」〈求めずして自ら得たり〉の成仏です。 なぜ、求めなくても成仏できるのか。 それは、衆生の生命が本来、妙法蓮華経の当体だからです。 そして、「強き信」によって、本来具わっている妙法蓮華経の自在の働きが何の妨げもなく現れてくるからです。 人間の生命の上に、この妙法蓮華経が自在に働き出した時、その生命を仏界の生命といいます。 妙法の無限の力が、何の妨げもなく働き出し、種々の人間の力として発揮されていきます。 例えば"一人立つ勇気"、例えば"苦境を切り開く智慧"、例えば"人を思う慈しみの心"。 そういう、いわゆる仏の生命として説かれる種々のものが、必要な時に適切な形で現れてくる。 何の妨げもなく、妙法を人間の力として呼び現すことができる。 ここで大事なのは、妙法の力が現れ出てくるのを妨げているものが、実は私達の心の中の根本的な迷い、すなわち「無明」であるという点です。 「無明」とは、妙法がわからないという根本的な無知です。 また、妙法がわからないために、生命がさまよった状態になり、暗い衝動的なものに支配される。 これが不幸をもたらしていきます。 諸の不幸、苦しみの根に、この無明がある。 したがって、妙法がわかれば、この無明はたちどころに消えてしまう。 これを譬えて言うと、妙法が太陽で、無明は、それを覆う暗黒の雲みたいなものです。 暗雲が晴れると、太陽の光がサーッと差し込んでくる。 根本的な迷いを打ち破れば、直ちに妙法の力が生命に働き出し、さまざまな功徳、価値創造の働きとなって現れてくる。 そのさまざまな形で功徳、価値が開花してくることが「蓮華の法」です。
133
:
無名人
:2009/12/18(金) 17:57:10
ですから、「衆生は妙法の当体であり、仏界の生命をもともと具えている」といっても、無明の暗雲を晴らす戦いをしなければ、仏界は実際には現れてこない。 単に、形ばかり題目を唱えていればいいかというと、そうではない。 もちろん、僧侶に唱えてもらうなどというのは論外です。 唱える人が無明を晴らす戦いをしなければならない。 無明は心の中の迷いですから、これはやはり、自分の心の中で戦わなければならない。 その戦いとは、一言で言うと「信」を貫くことです。 仏の悟りを表明した法華経に基づいて、大聖人が御自身の内に発見され、そしてまた、その御自身の戦いの中で確かめ、実証されてきた妙法蓮華経という根源の法の働きをわが生命に自在に表すには、大聖人と同じ意味での「唱える」ということが必要になる。 つまり、その根本に「無明と戦う心」である「信」がなければならない。 大聖人の弘められた題目は、いわば「戦う題目」です。 疑い、不安、煩悩などの種々の形で無明は現れてくる。 しかし、それを打ち破っていく力は「信」以外にない。 大聖人は「無疑曰信」〈疑いなきを身という〉と仰せです。 また、「元品の無明を退治する利剣は信の一字なり」〈御書p751〉とも言われている。 鋭い剣です。 魔と戦うということも、根本的には無明と鋭く戦うのでなければならない。 私達は、広宣流布を妨げる魔の勢力と戦っています。 この魔との戦いも、根本的には無明との戦いです。 また、人生に起こってくるいろいろな困難と戦うのも、本質は無明との戦いです。 妙法への「信」、言い換えれば「必ず成仏できる」「必ず幸せになれる」「必ず広宣流布を実現していく」という一念が失せたならば、人生の困難にも、広布の途上の障魔にも、負けてしまいます。 本抄で「疑う心」に負けてはいけない、「嘆きの心」にとらわれてはいけないと言われているが、その疑いや嘆きこそ、まさに無明の表れなのです。(単行本池田大作開目抄講義下p127)
134
:
無名人
:2009/12/19(土) 09:42:41
御書p236(413) 時を知る
章安の云く「取捨宜きを得て一向にす可からず」等、天台云く「時に適う而已」等云云
通解:
章安の云く「摂受と折伏とは取捨よろしきをえて、一向にすべきではない」と。天台云く「摂受か折伏かいずれをとるかは、時にかなうのみである」と。
戸田先生の指導;
いったい摂受と折伏の二つの法門は水火のごとき関係にあり、火は水をいとい、水は火をにくんでたがいにその立場が相容れないのである。摂受のものは折伏するものを冷笑し・折伏のものは摂受の手ぬるいのを見て悲しく思う。いまその原則を示すならば、無智・悪人の国土に充満する時は、摂受を第一に立てて法を弘む、安楽行品のごときがこれである。邪智・謗法のものの多い時は、折伏を第一に立て常不軽品の如く弘法する。たとえば熱い時に冷い水を用い、寒い時に火をこのむようなものである。草木は太陽の眷属であり、寒い冬には苦しみの状態にある。諸水は月の所従であるから、熱い時にその本性を失ってしまう。摂・折二門はこのように相容れないのであるが、末法にもまた摂受と折伏があるべきである。いわゆる無智悪人の悪国と、邪智謗法の破法の国があるべきゆえに、悪国には摂受を行じ、破法の国には折伏を行ずるのである。されば日本国の当世は悪国か破法の国か。邪智謗法の国であることはとうぜんであり、折伏でなければ弘法も不可能であり、絶対に功徳を受けることがあり得ない。(日蓮大聖人御書十大部講義第二巻下p290)
135
:
無名人
:2009/12/19(土) 17:52:54
御書p236(466) 時機にかなった実践を
設い山林にまじわって一念三千の観をこらすとも、空閑にして三密の油をこぼさずとも、時機をしらず、摂折の二門を弁へずばいかでか生死を離るべき。
通解;
たとえ、山林の奥深くにすわって、自分の生命は十界互具・百界千如・三千世間の当体であると観察をこらそうとも、人里離れた静かなところで、身・口・意の三種の秘密の修行を、油断なく一心不乱に行おうとも、今がどのような時であり、衆生はどのような機根の人びとであるかを知らず、摂受と折伏という二つの実践法の立てわけをわきまえなければ、どうして生死(苦しみ)を離れることができようか。
拝読の手引き;
仏法は、一切の民衆を一人ももらさず、救済するために説かれました。 そして、仏法によって、それぞれの命に宿る、悪い因果の集積(不幸を招く業)を打破して、幸福をもたらす善因を刻むためには"実践修行"が欠かせぬことを説いています。 ところが釈尊に始まる一般の仏教では、その実践修行の内容が曖昧であり、いろいろな仏教者が、色々な修行法を立てたのです。 山林の中で瞑想にふけったり、静かなところで秘密の法をこらしたりというのも、そうしたたぐいです。 しかし、そうした修行は、特定の人にしか実行できないものです。 たとえできたにしても、末法においては有害無益なものです。 日蓮大聖人は、このことを経文の原理を通して明確にし、特に、修行の基本として、時と衆生を知り、摂受(相手の考え方等を受け入れながら法を説く)折伏(誤った考え方等を打ち破り正しい法に従わせる)を立て分けることの大切さを、指摘されているのです。 そして、末法現代は、南無妙法蓮華経を根本とした、折伏の時であり、今の衆生は折伏によって救われる人々であることを教えられているのです。 私達は、今、折伏布教を推進することこそ、仏法の正しい実践であり、自他共の宿命転換、生死離脱の直道であることを確信していきたいものです。(文庫本「きょうの発心」675)
136
:
無名人
:2009/12/20(日) 10:11:04
御書p237(413) 妙法に恥じない人生
伝教大師の南京の諸人に「最澄未だ唐都を見ず」等といはれさせ給いし、皆法華経のゆへなれば、はぢならず。愚人にほめられたるは第一のはぢなり
通解;
伝教大師は奈良の学者たちに「最澄はいまだ唐の都をみていない。仏教の中心地を知らないくらいだからたいしたことはない」等と悪口をいわれているが、これらすべて法華経のゆえに受けた怨嫉であるから、一向に個人的な恥ではない。それよりも愚人にほめられることが第一の恥である。
拝読の手引き;
妙法をたもった私たちの生き方を教えられた重要な一節です。 私達は過去世から深い宿縁によってこの世に生を受け、妙法を信受することができました。 不幸な人々を救い、混迷の社会を変えゆく、崇高な使命をもつ地涌の菩薩です。 御本尊をたもち、創価学会員となって人間革命、平和建設を目指す私達はだれがほめようがけなそうが、生涯不退転の信心を貫いていくことが大事です。 人間として、妙法の信仰に生き、その広宣流布の活動を推進することほど、尊く偉大な生き方は、ほかにありません。 高らかに、胸を張って前進していくべきです。 いかなる地位に立とうと、財をどんなに積もうと、社会人として、人間として立派に生きることを忘れてはなりません。 世間の毀誉褒貶にとらわれ、人間が人間として生きる上で、最も尊い実践である信仰をおろそかにするようなことが断じてあってはなりません。 世間への恥に生きるか、それとも冥の照覧を確信し、自分の心に恥じない人生を送るか、ここに人間の生き方の根本的な相違が生じます。 私達が御本尊をたもち、南無妙法蓮華経と唱え、妙法広布に日夜邁進する姿は、人間としての真実の勝利が輝く人生であり、御本仏日蓮大聖人の精神にかなった最高の人生であることを強く確信しましょう。 人生の最後の勝利を決定するのは名誉でも地位でも権力でもありません。 それら一切の虚飾を取り去った裸の人間そのものの輝きなのです。 それにはどんなに苦しくとも辛くとも、最高の哲学を持ち、妙法広布の使命観を燃やして一歩一歩着実に前進する以外にありません。 この一節を人生の指針として、誇りも高く広布の道程を進んでいこうではありませんか。(文庫本「きょうの発心」187)
137
:
無名人
:2009/12/20(日) 17:16:21
御書p237(413) 万人が慈悲の実践を
日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり
通解;
日蓮は日本国のあらゆる人にとって、主であり、師であり、父母である。
池田先生の指導;
法華経の行者としての大聖人のお振る舞いそのものが、三徳の慈悲の行動にほかなりません。 また、極めて重要なことは、大聖人自らが三徳を顕わして悪世末法の衆生を救済されただけでなく、万人が慈悲に生きる具体的な実践として、折伏行と唱題行という道を開かれたことです。 悪世末法の凡夫が慈悲に生きる。 これは簡単なものではありません。 しかし、そのことが実現しなければ、仏法の本来の目的は永久に成就しません。 無慈悲の末法万年を真の意味で救いきるためには、仏の三徳を継承した法華経の行者が出現し、その仏の行者を軸として無数の慈悲の体現者である法華経の行者、慈悲の実践者が誕生していくしかないのです。 確かに、凡夫にとって慈悲は直ちに出るものではありません。 しかし、凡夫は慈悲の代わりに勇気を出すことはできます。 そして、慈悲の法を実践し弘通すれば、その行為は、まさに慈悲の振る舞いを行じたことと等しいのです。 そして、凡夫から凡夫へ、慈悲の善のかかわりが無数に広がっていきます。 慈悲の暖流で無明の世界を包み込み、慈悲の縁起の世界を勇敢に広げることこそ、釈尊を源とする真の仏教の系譜を継ぎ、発展させることになるのです。(単行本池田大作開目抄講義下p180)
138
:
無名人
:2009/12/21(月) 09:39:37
題名 :祈祷経送状p238(535)
対告衆 :最蓮房
執筆年次 :文永10・1・28
聖寿 :52
西紀 :1273
著作地 :佐渡・一ノ谷
大意 :大聖人ご自身が三類の強敵に会われたことについて述べられ、山ごもりの件、末法の行者の息災延命の事、出家の妻帯肉食の事ついて述べられ、正法弘通の志を強調。
139
:
無名人
:2009/12/21(月) 17:14:11
題名 :如来滅後五五百歳始観心本尊抄(p238・527)
観心本尊抄
対告衆 :富木常忍
執筆年次 :文永10・4・25
聖寿 :52
西紀 :1273
著作地 :佐渡・一ノ谷
大意 :法本尊開顕の書。三大秘法の大本尊を明かされた最重要法門の書である。
140
:
無名人
:2009/12/22(火) 09:51:12
御書p239(527) 生活それ自体が説法
故に序の中に「説己心中所行法門」という。良に故有るなり。謂う、尋ね読まん者、心に異縁なかれ。
通解;
故に摩訶止観の巻頭にある章安大師の序の中に「己心の中に行ずる所の法門を説く}といっているが(天台大師の己心に行ずる自行の法門が即ち一念三千であるとは)誠に理由の深いことである。こいねがわくは尋ね読まん者、この点において心に異縁――他事に心を奪われること――を生じてはならない。
拝読の手引き;
この文は妙楽大師の「摩訶止観輔行伝弘決」の文ですが、その中に出てくる章安大師の説いた「己心の中に行ずる所の法門を説く」〈説己心中所行法門〉について、私達の生活、立場から考えてみましょう。 私達の生活というものは、瞬間瞬間の生命活動のあらわれたものです。 私達の生活すべては、己心〈生命、一念〉の中に行ずる所の法門を説法しているのです。 地獄の苦しみにさいなまれている人は、その一念が強く、その人の姿に、振る舞いにあらわれるのです。 また天にも昇らんばかりの楽しい境涯のとき、顔は生き生きと、身も、足取りもかるい。 その人の一切の行動は、その人の境涯を説きあらわしているのです。 つまり諸法実相の厳しい姿といえます。 したがって、いかに表面を繕っても、絶対にかくすことのできないのが、私達の奥底の一念です。なぜなら私達の己心〈一念〉に行じている所の法門を、私達は自己の体で説法しているからです。 一般に、説法といえば、仏がその境涯や法を、衆生に向かって説くものと理解されています。 しかし、その本来の意味は、単に仏のみならず、松柏風波をはじめ森羅万象はことごとく、それぞれの法を説いているのです。 ちまり、生命活動のあらわれそのものが、説法なのです。 このように考えると、私達の生活は瞬間瞬間、説法をしているわけです。 所詮、私達の己心において何を行じているかで、私達の人生の説法は決まるのです。私達は、御本尊に唱題を重ね、己心に無量の福運と光輝に満ちた仏界を躍動させ、力強くたくましい人生の姿を説法し続けようではありませんか。(文庫本「きょうの発心」186)
141
:
無名人
:2009/12/22(火) 20:12:07
御書p240(527) 妙法は「汝自身」を知る明鏡
観心とは我が己心を観じて十法界を見る是を観心と云うなり、
通解;
観心とはわが己心を観じて、自己の生命に具足している十法界を見ることである。
拝読の手引き;
「観心」とは「心を観ずる」と読みます。ソクラテスが主張した有名な言葉に「汝自身を知れ」とありますが、この汝自身を知ることが「観心」であるといってよいでしょう。 本文に「わが己心を観じて」というのは、自分自身の生命を観ずることです。 しかし、生命とは時々刻々と変化する不可思議な存在です。 善とか悪とか、一面的に規定できない、限りない重層性をもっています。 このような生命の本質と全体像を解明しなければ「汝自身」を知ることはできません。 中国の天台大師は、生命の実態を「一念三千」として把握しました。しかし、これを理論的に認識するだけならば迹門の域を出ません。 現実に自己の生命をどうリードし、変革していくかということが大事な問題です。 この問題のカギは、自己の生命を映し出す鏡――つまり本尊にあります。 「汝自身を知る」ための本尊(信仰の対象)を地球上で初めて確立されたのが日蓮大聖人です。 それが「一閻浮提総与の大御本尊」です。 末法において「観心」とは、この大御本尊への信心をいいます。 本尊があっても、信心の眼を開かなければ、自己の生命を見つめることはできません。 したがって、「わが己心を観じて」とは御本尊を信じて唱題に励むことです。 そのときに「十法界を見る」とあるように、自己の生命に、仏界という至宝を含む十法界が、ことごとく具わっていることがわかるのです。 といっても、これは単なる認識論や観念論ではなく、現実生活のうえで、仏界を湧現し、価値創造をしていけるということなのです。 私達は、いかなる活動にあっても、この信心という一点を見失ってはなりません。 信心こそ自己変革、ひいては社会変革の原動力だからです。(文庫本「きょうの発心」595)
142
:
無名人
:2009/12/23(水) 08:15:50
御書p241(527) 六道流転を超えた人生
瞋るは地獄・貪るは餓鬼・癡は畜生・諂曲なるは修羅・喜ぶは天・平かなるは人なり他面の色法に於ては六道共に之れ有り四聖は冥伏して現われざれども委細に之を尋ねば之れ有る可し
通解;
瞋るは地獄界、貪るは餓鬼界、癡は畜生界、諂曲なのは修羅界、喜ぶは天界、平らかなのは人界である。このように他人の相には六道がすべて具わっている。四聖は冥伏していて日常に現れないけれども、くわしく探し求めるならば必ずそなわっている。
拝読の手引き;
この御文は、人界に十界が互具されているかとの質問に対して、私達の日常生活での姿を見れば六道の生命は明らかに、また四聖も、なかなか現れないが厳然として、具わっていることを明かされたものです。 ここで私たちが考えたいことは、六道的な生命の状態に流されていくかどうかということです。 ともすると私達は日常生活での忙しさに追われ向上心を失いがちです。 そうなると、どうしても六道の生命状態を繰り返すだけで、成長や進歩は望めません。 そして、いつのまにか惰性が忍び寄り、無気力、あきらめといった自分をダメにする生命傾向が強くなり、目標もなく刹那的な生活に追いやられてしまうのです。 御本尊を持ち信心に励む私達は、こうした六道の姿勢を打ち破るところに、事実上の人間革命があることを知っていきたいものです。 その具体的な実践方法は、いうまでもなく唱題であり、悩める人を救っていく地涌の菩薩としての修行です。 妙法を持った者は、誰もが求道心を燃やし、努力することによって、より人間的な境涯である四聖の生命を現わすことができるのです。 六道的な生き方を超えて四聖的な人生態度に変えていこう――その努力と挑戦の繰り返しで人間革命は成っていくのです。(文庫本「きょうの発心」552)
143
:
無名人
:2009/12/23(水) 17:47:48
御書p241(527) 仏界を明かす
「我等劣心に仏界を具する」
通解;
我ら凡夫の劣等な心に尊極無常の仏界を具している
戸田先生の指導;
仏が出現するその根本目的は衆生の仏知見を開発して、その仏知見を衆生に示し、その仏知見を悟らしめ、そして仏知見道に入らしめるためである。 いかに仏に力ありとするも、衆生に仏知見がなかったならばどうしてこれを開くことができようか。 われわれ衆生に仏界を具していることは明らかなことであるが、問題は末法に至ってこの仏知見を開かしめるかにある。(日蓮大聖人御書十大部講義第四巻p216)
144
:
無名人
:2009/12/24(木) 08:49:34
御書p241(527) 現じ難い仏界の生命
但仏界計り現じ難し。九界を具するを以て強いて之を信じ、疑惑せしむることなかれ。
通解;
ただ仏界ばかりは日常生活に現れがたいのである。しかし、すでに九界を具していることがわかった以上は、しいて仏界のあることを信じ、疑ってはならない。
拝読の手引き;
私達凡夫の生命にも、仏界という尊極の生命がそなわっています。 この事実を、釈迦は法華経にきてはじめて明かしたのです。 そして、日蓮大聖人は、一切衆生の生命に仏界を顕現する実践的方途を確立するために御本尊を建立されました。 大聖人の仏法は、仏界を生命の一様相として把握しています。 つまり、宇宙と生命の根本原理を覚知し、自身の生命が宇宙の本源的なリズムと冥合した生命を指して仏界というのです。 しかし、そのような仏界は、個人の内証として得られるものであり、そのまま日常生活(九界)の中にあらわれるものではありません。 ここに、大聖人が「但仏界計りは現じ難し」と仰せられた理由があります。 しかし、大聖人は「強いて之を信じ」と仰せです。 これは、観念や理論の世界から信仰の世界への飛躍を促しているのです。 九界が私達の生命に具していることは、観察や思索によってわかります。 だが、仏界という確たる実在を知らなかったために、私達は不幸な生活を抜本的に変革することができなかったのです。 仏を人格としてのみ説いた爾前経では、仏は他の国土(浄土)にいると説かざるをえませんでした。 キリスト教等においても、人格神を説いたため、その住所を天に求めざるをえませんでした。 それらの教えを信じた人々は、皆現実社会の外に幸福を求めたのです。 それに対して、大聖人は、仏界を人間生命の中に見出し、仏界の湧現こそ生命変革の原理であると説かれました。 さらに、この生命の変革が環境革命をもたらすのです。 私達は、日々唱題に励み、生命の基盤として仏界を確立していきたいものです。(文庫本「きょうの発心」654)
145
:
無名人
:2009/12/24(木) 18:35:16
御書p246(527) 妙法の偉大さ
釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う
通解;
釈尊のあらゆる因位の修行によって得た功も、仏果を成じてからの衆生救済の大行動による徳も、すべて妙法蓮華経の五字に具足されており、私どもはこの妙法を受持することによって、おのずからその一切の功徳を譲り与えられるということであります。
池田先生の指導:
これこそ、仏法の究極であり、一切衆生成仏の根源を明快に断言された、珠玉の御金言であります。 御本尊は、十方三世の諸仏の因位の万行、果位の万徳の凝結した宝珠であり、しかもそこに、宇宙をもつつむ偉大なる力用が具足されているのであります。 私はこの「譲り与え給う」との御文に、御本仏の比類なき大慈悲が感じられてならない。 なぜなら、久遠元初の生命といっても、仏法哲理の極理を究めた難信難解の法であり、凡夫の容易に知りうるところではありません。 私どもが今、それにふれることができるのは、七百年前の歴史の現実のうえに、日蓮大聖人がご出現になったからであります。 「我等此の五字を受持すれば……」とは、この御本尊に帰依する受持の一念の中に、もったいなくも日蓮大聖人の御命、そして久遠元初の自受用身如来の命が通ってくるのであります。 それこそ、宇宙本然の姿である万法の体に合掌冥合しゆく尊い座であり、そこには、いっさいを包括し、統合し、作動させてゆく、あふれるばかりの力が秘められているのであります。 私どもは、御本尊に南無する一瞬において、根源の法に立っているのであります。 そこから、社会に、人生に、わが当体に、妙法五字を顕現していくのであります。 いわば釈尊の仏法が、百千枝葉が一根に趣くように、妙法へと向かう努力、精進であったとすれば、私ども受持の当体には、妙法を百千枝葉へと展開する未曾有の宗教運動の世界が、豁然と眼前に開かれていくのであります。 そして今、この元初の太陽が、全世界を照らしつつある――。思うだに感無量であります。 本因妙の仏法においては、いかなる人であれ、みずからの願いを、久遠元初の当体である御本尊にかけることにより、未来の輝ける人生が開けゆくのであります。 いな、厳密にいえば、人それぞれの願いが、久遠の本因と冥合した瞬間、因果俱時で、結果そのものが生命の内奥にはらまれてしまうのであります。 電源にスイッチを入れた途端、暗かった部屋のすみずみまで電光に照らしだされるように、その瞬間、すでに生命の奥底では、宿命転換が成し遂げられ、未来の実証を呼びよせる永遠無量の宝珠が積まれているのであります。 ともあれ、御本尊の御建立によって、末代の荒凡夫の私どもが、久遠元初の御本仏の生命と感応し、合一できる道が開かれた。 いな、一切衆生を久遠元初の仏と同じ尊極の当体ならしめようとされたところに、御本仏大聖人の大願があったのであります。(新版池田会長全集10「観心本尊抄」講義p225)
146
:
無名人
:2009/12/25(金) 10:46:04
御書p246(527) 一生成仏・仏界湧現
「我が如く等くして異なる事無し我が昔の所願の如き今は已に満足しぬ一切衆生を化して皆仏道に入らしむ」、妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳は骨髄に非ずや
通解;
方便品には仏が「法華経を説いて一切衆生に即身成仏の大直道を与え、仏と衆生と等しくして異なることがなくなった。仏がその昔に請願した一切衆生を度脱せんとの誓いが、今はすでに満足し、一切衆生をして皆成仏道に入らしめることができた」と説かれている。妙覚の釈尊は我らの血肉で因果の功徳は骨髄である。すなわち師も久遠元初の自受用身、弟子もまた久遠元初の自受用身と顕れ、自受用身に約して師弟が不二なること明らかである。
池田先生の指導;
久遠元初の自受用身としての大聖人の御生命を顕わされたのが御本尊であり、ゆえに、御本尊を信受して南無妙法蓮華経と唱えるとき、私どもも自受用身の当体となる。師匠である大聖人も自受用身、弟子である私どもも自受用身であり、師弟不二となるのであります。 この段を拝するたびに、私は、日蓮大聖人の一切衆生を成仏させんとの大慈悲と、仏法の本源的な平等観の深さを思わざるをえないのであります。 古今のほとんどあらゆる宗教は、人間を超えたなんらかの“絶対者”を設けるのを常としてきました。西欧の宗教などでは、人間と神との間に深い断層があり、ただ絶対神たる神の恩寵にすがる以外にない存在です。仏法においては、われわれ衆生が仏であり、尊極無常の存在なのであります。 ゆえにこの大聖人の宣言は、あらゆる人間蔑視の古き宗教に決別を告げると同様に、権威の“絶対者”の手から人間の尊厳を取り戻そうと模索しつづけてきた、近代の多くの人権宣言の根源を射ぬく、高らかな人間宣言ともいうべき師子吼であったといってよいと考えます。 私は、大聖人が「妙覚の釈尊」を「血肉」に、「因果の功徳」を「骨髄」に配されていることに、甚深の意義が感じられてならない。 思うに私どもの運動も、どれだけこの御本仏の生命に感応できるかということにつきるといえましょう。一人が一人の宝塔を開き、そのまた一人が一人の宝塔を開く――この地道にして着実な生命の開拓作業の中に、御本尊との感応の響きは、いんいんと幾重にも、幾次元にも広がっていくのであります。 ともあれ、人間の心を動かすものは、人間の心であります。大聖人は、みずから凡夫僧の姿をとってご出現になり、つねに庶民と哀感をともにしつつ、心のヒダにふれながら、この原理を私どもに事実のうえで示してくださいました。これは、蔵の財、身の財の次元の満足をはるかに超えた心の財の充足、すなわち絶対の幸福境涯であります。 その点について、恩師は、次のように述べています。 「されば、この大宗教を信ずることによって生命のリズムは宇宙のリズムに調和して、生きている幸福をしみじみと感ずるのである。生命の歓喜こそ、幸福の源泉である」 私どもの一生成仏の目標は、まさにこの一点にあります。「わが如く等しくして異なること無からしめん」との、御本仏の大慈悲に浴する道は、ここにしかないことを確信しつつ、障魔に粉動されず、わが道を進んでいこうではありませんか。(新版池田会長全集10p242)
147
:
無名人
:2009/12/25(金) 21:04:02
御書p253〈527〉 混迷の極に地涌出現
今末法の初め小を以て大を打ち、権を以て実を破し、東西共にこれを失し天地顛倒せり。迹化の四依は隠れて現前せず。諸天其の国を捨て之を守護せず。此の時地涌の菩薩始めて世に出現し、但妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ。
通解;
今、末法の初めは、小乗教をもって大乗教を打ち、権大乗教を以て実大乗教を破り、東を西といい、西を東といって東西共にこれを失い、天地が顛倒する大混乱の時代である。像法時代に正法をひろめた迹化の四依の菩薩はすでに隠れて現前せず。諸天善神はそのような国を捨て去り守護しない。この時、地涌の菩薩が、はじめて世に出現し、ただ妙法蓮華経の五字(三大秘法の御本尊)をもって、幼稚の衆生に服せしめるのである。
拝読の手引き;
一面、時代そのものが、暗闇の極に達したといえる末法の初期にこそ、新たなる救済の哲理を掲げた大聖が出現し、民衆救済の大運動を展開することを述べられた御文です。 正法・像法の期間、時代と社会を潤し、ときには、その文化の花を爛漫と咲かせた釈迦仏法は、しかし、有限の宗教でした。その威力は、釈迦自身が予見していたごとく末法の到来とともに、隠没し、思想界は混乱の極みに陥ったのです。ともに、かつて登場したような便りとすべき指導者は隠れてあらわれず、諸天善神の律動もなく、底知れない暗い時代が現出したのです。 しかし、闇が深ければ深いほど、暁が近い――といわれるように、この一つの時代の終局のなかに、実は、まったく新しい力強い仏法の誕生があったのです。すなわち「この時地涌の菩薩始めて世に出現し」云々とあるように、地涌の菩薩の上首のお姿をもって、日蓮大聖人が出現し、三大秘法の南無妙法蓮華経を樹立されたのです。それは、一切の病める民衆の取って服すべき大良薬であり、未来永遠の時代と社会を照らし晴らす“太陽”ともいえる仏法なのです。 大聖人はすでに七百年前、民衆救済、社会変革への大宗教運動の基盤を深く堅固に築かれました。私達は地涌の菩薩の一員として、人々に妙法の清流を注ぎつつ、今なお渦巻く時代の濁流を浄化し、明るく清らかな人間社会を築き切っていこうではあ地ませんか。(文庫本「きょうの発心」253)
148
:
無名人
:2009/12/26(土) 09:40:34
御書p254(527) 末法広宣流布の予言
「後の五百歳、閻浮提に於て広宣流布せん」と。天台大師記して云く「後の五百歳、遠く妙道に沾わん」と。妙楽記して云く「末法の始め冥利無きにあらず」と。
通解;
法華経薬王品にいわく「後の五百歳(末法)に、全世界に妙法が流布するであろう」と。天台大師は法華文句に記して云く「後の五百歳(末法)の始めより未来永劫まで、妙法が流布するであろう」と。また妙楽大師は文句記に記していわく「末法の始め、下種益がないわけがない」と。
拝読の手引き;
三大秘法の南無妙法蓮華経の広大な利益が、末法万年、悠久の未来まで、人々の生命をうるおすことを予言した文々句々です。 仏法はその視点の広大なことで、他の思想哲学の追随を許しません。そのビジョンの大きさは他のマネのできないところです。全世界の人々の幸せと恒久の平和を願う仏法の姿勢の雄大さが端的に現れているのが、ここにあげた御文です。私達は、このような未曾有の仏の大業に参加できる喜びをかみしめ、大いなる希望に燃え、着実に前進していきたいものです。 世界に妙法の大利益が満ちあふれ、日蓮大聖人の精神が時代精神、世界精神となる――その深く広く強く、妙法の清水が満ちなければなりません。一人ひとりが確たる人間革命の実証を示すこと、そこから次の広布の大きな流れが巻き起こってくるのです。 大聖人の理念を学び、深め、自己のものとして定着させ、生活・行動にあらわす”生命の開拓作業”ともいうべき人間構築の戦いが、展開されていかなければなりません。自発・農道の人、すなわち、他からいわれなくとも、やむにやまれぬ自己の生命の内的発動として、布教に心をこめ、人間革命に励む人が、今ほど必要とされる時はないのです。(文庫本「きょうの発心」503)
149
:
無名人
:2009/12/26(土) 17:34:53
御書p254(527) 妙法の偉大さ
此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し月支震旦に未だ此の本尊有さず
通解;
この通り経釈の予言に的中したときに地涌千界の大菩薩が世に出現して、本門の釈尊を脇士となす一閻浮提の本尊がこの国に建立されるであろう。インドにも中国にもいまだこの御本尊は出現したことはなかった。
戸田先生の指導;
釈尊は二千年と二千五百年の間に仏が出現することを予言し、天台も同じく後五百歳の広宣流布を予言し、妙楽また末法の始めを指して冥益あることを示して法華経の流布を予言し、伝教は末法甚だ近きに有りとして自分の法華経流布は正時でないことを示し、ついでまた時と所とを明らかにして末法の始めの広宣流布を予言している。 さればこそ、この予言に合して大聖人御出現あって「この時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊この国に立つべし」とはっきりおおせられたのである。 この「一閻浮提の本尊」とは妙法五字の文底深秘の本門の本尊であることはいうまでもない。前文に塔中の妙法蓮華経の左右には釈迦牟尼仏・多宝仏というのがこの本門の脇士となすとの意であり、また一閻浮提第一の本尊と同意である。また「此の地涌千界始めて世に出現しただ妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ」と云うのも同じ意である。 またインドにも中国にもいまだこの本尊がましまさなかったとは、御本尊の讃に「一閻浮提の内未曾有の大曼荼羅なり」と仰せられる意と同じである。その理由は天に二人の主がないと同様に、能弘の師がこの日本国に生まれられて、インド・中国にはお生まれにならないからである。すなわち今日において我が国からインド・中国へ、仏法が渡るということと同じ意である。(日蓮大聖人御書十大部講義第四巻p496)
150
:
無名人
:2009/12/27(日) 08:57:44
御書p254(527) 天晴れぬれば地明らか
天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか
通解;
天が晴れるならば、地はおのずから明らかとなる。同様に、法華経を知る者は世間の法をもおのずから得るであろう。
池田先生の指導;
ひとたび天が晴れわたれば、大地が明るく照らされる。それと同じく、妙法を信じ行ずれば、世法で勝ちゆく道も晴れ晴れと開かれてくるとの仰せです。人生に勝ち、社会を照らしゆくことが、仏法者の生き方です。現実を離れて仏法はない。千変万化する世界を見つめ、価値創造の光を放つ力こそ、信心です。人生は、さまざまな困難の連続である。しかし、信心の上では決して負けない。一歩も退かない。この一念が、「即」人生の勝利、社会での勝利を開くのです。
仕事でも、学業でも、題目を唱え抜いて真剣に挑戦すれば、必ず勝利の智慧が湧いてきます。これが「天晴れぬれば」の生き方であり、「地明かなり」の妙用です。(2009・10・8御書と師弟)
151
:
無名人
:2009/12/27(日) 22:58:14
御書p254(527) 御本仏の大慈悲
一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う
通解;
一念三千を識らない末法のわれわれ衆生に対して久遠元初の御本仏は大慈悲を起こされ、妙法五字に一念三千の珠を裏み独一本門の大御本尊として末代幼稚の頸に懸けさしめたもう。
戸田先生の指導;
この文の意は末法今時の理即但妄の凡夫は自受用身即一念三千の仏を識らずに不幸におちいっている。ゆえに久遠元初の自受用身即日蓮大聖人は大慈悲を起こされて妙法五字の本尊に自受用身即一念三千の相貌を図顕せられて、末代幼稚の首に懸けてくださった。すなわちこれを信ぜしめよとの意である。 この文について「妙法五字の袋の内に本果修得・事の一念三千の珠を裏む」あるいは「妙法五字の袋の内に理の一念三千の珠を裏む」と解しているものがあるが、これは文底深秘のご聖旨を知らぬものである。これは、ただ妙法五字の袋の内に久遠元初の自受用身即一念三千の珠を裏むと拝すべきである。しこうして久末一同の義を思い合わせるに久遠元初の自受用身とは日蓮大聖人の御事であると、はっきり胸にきざみこまぬと末法の大仏法は諒々とならないのである。 すなわち妙法五字とは、その体は一念三千の本尊であり、一念三千の本尊の体とは宗祖日蓮大聖人であらせられる。たとえば「一心是れ一切法・一切法は只是れ一心」というがごとく、大聖人の一心に具足せられる一念三千の御本尊は即妙法五字の大御本尊であらせられる。 われらはこの本尊を信受し南無妙法蓮華経と唱え奉れば、わが身即一念三千の本尊、日蓮大聖人とご同体になるので、三世十方の仏・菩薩・梵天・帝釈・四天等が我らを守護されるのである。これ正しく幼稚の頸に懸けしむの意である。ゆえに、ただ仏力法力をあおいで信力行力を致すべきである。「一生空しく過ごして万劫悔ゆるなかれ」との日寛上人の強き誡めと拝すべきである。(日蓮大聖人御書十大部講義p501)
152
:
無名人
:2009/12/28(月) 06:39:09
題名 :観心本尊抄送状
対告衆 :富木常忍
執筆年次 :文永10・4・26
聖寿 :52
西紀 :1273
著作地 :佐渡・一ノ谷
大意 :観心本尊抄の重要性、同抄を排する心構え等が明かされている。
153
:
無名人
:2009/12/28(月) 21:16:38
題名 :撰時抄
対告衆 :
執筆年次 :建冶元・6
聖寿 :54
西紀 :1275
著作地 :身延
大意 :寿量文底秘沈の大白法の存在を示唆し、この深法が広宣流布すべきことを明かしている。
154
:
無名人
:2009/12/29(火) 10:22:18
御書p256〜①(p717〜①) 時を知る
夫れ仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし、過去の大通智勝仏は出世し給いて十小劫が間一経も説き給わず経に云く一坐十小劫又云く「仏時の未だ至らざるを知り請を受けて黙然として坐す」等云々、いまの教主釈尊は四十余年の程法華経を説き給わず経に云く「説く時未だ至らざるが故」と云々、老子は母の胎に処して八十年、弥勒菩薩は兜率の内院に籠らせ給いて五十六億七千万歳をまち給うべし、彼の時鳥は春ををくり鶏鳥は暁を待つ畜生すらなをかくのごとし何に況や仏法を修行せんに時を糺さざるべしや、
通解;
仏法を習学しようとしたならば、必ずまず時を習わなければならない。過去の大通智勝仏は、出世されてから十小劫の間、一経も説かれなかった。このことを法華経化城喩品第七には、「一坐十小劫」と説き、また「仏は法を説くべき時が未だ来ていないことを知っていたから、説法を請い願われても黙然と坐していた」等と説かれている。次に、今の教主釈尊は成道してから四十余年の間、法華経を説かれなかった。このことを法華経方便品第二には「説く時がいまだ来ていなかったから」といっている。外道でも、老子は母の胎に八十年いて時を待ったという。また弥勒菩薩は兜率の内院にこもり、五十六億七千万歳の間、出世の時を待っているといわれている。彼の時鳥は春の終わろうとする初夏を待って鳴き、鶏は暁を待って鳴く。畜生すらこのように時を違えないのであるから、まして仏法を修行しようとする者が時をたださないでよいだろうか。
155
:
無名人
:2009/12/29(火) 10:23:22
池田先生の指導;
仏法を修学するものは、必ず時をわきまえるべきことを明かされている。その理由として、過去の大通仏、現在の釈迦仏、未来の弥勒菩薩について述べ、また外道の聖賢たる老子、畜生たる時鳥、鶏等も時を待つことを例証として引かれている。 なにゆえに「必ず先ず」と時を重視するかといえば、次のように、宗教の五綱がそれぞれの時代によって相違するがゆえである。すなわち、第一の教についていえば、正法時代は小乗教・権大乗経、像法時代は法華経の迹門、末法は独一本門の流布すべき時である。第二に機については、正像は本已有善の機であり、末法は本未有善である。第三に時はいまの論点であり、第四に国については、正像にはインドの釈尊の仏法が東に伝えられ、末法に入っては日本の日蓮大聖人の仏法が西へ還る。第五に教法流布の先後とは、末法においては正像に流布した大小権実がことごとく無益となり、ただ寿量品文底下種の大白法が流布すべき時である。このように時によってすべてが決定されているゆえに「必ず先ず時を習うべし」と仰せられたのである。 日蓮大聖人の滅後においても、幾多の時代の変遷を経て今日に至っているが、大きく分けると、逆縁の広宣流布の時代と、順縁の広宣流布の時代とに分けられるであろう。 仏法においては、それぞれの生命の感ずる時間をもって、その時間としている。 生命活動の本源をたどれば、究極は現在の瞬間の生命にあることがわかる。過去というものを考えれば、あるものを縁として過去を思い出すゆえに、過去の実在を知りうるのである。思い出すということがなかったら、過去があったのか、なかったのか、まったくわからない。記憶を再現することは、一瞬の生命の働きであり、一瞬の生命を成いて過去の生命活動を湧現するのである。ゆえに現在の一瞬の生命活動があるゆえに過去があり、過去は現在の一瞬にすべて包含される。また、将来起こることを考え、未来を認め、未来を確信するのも、現在の一念の働きであり、現在の一瞬の生命活動の働きといえる。たしかに、いま現在と思った刹那はすぐ過去となり、未来もたちまち現在となり、過去となる。したがってこの瞬間の生命に、過去、現在、未来があるのである。 さらに一瞬の生命に因果を有しており、過去のすべての因が現在の果となり、現在の因が未来の果と生ずる。そして因果俱時不思議の一法を南無妙法蓮華経と名づけるのである。 このように、過去も未来も、すべて現在の一瞬に含まれ、一瞬一瞬の生命活動が変化しつつ連続するのが永遠である。現在の一瞬の生命のうちに、過去永遠の生命を包含し、未来永劫の生命を包含する。久遠の生命も一念の生命におさまるのである。 次に久遠即末法とは、すなわち「久遠とははたらかさず・つくろわず・もとの儘」であり、本然のありのままの姿を久遠といい、それはそのまま現在の諸法実相になるのである。ゆえに生命活動の本質をたどってみれば、究極はすべて一瞬であり、それをさして久遠元初ともいい、末法ともいう。そして、久遠元初も末法も、ともに三大秘法の南無妙法蓮華経がひろまる時なるがゆえに久遠即末法、久末一同というのである。 所詮、仏法より見れば、われわれの生命活動なくして、時間はない。われわれの生命活動を根本として、宇宙生命の運動、変化から感じ取っていくのが、真実の時間なのである。以上が仏法で説く時間論の一断面である。(池田大作全集27p71)
156
:
無名人
:2009/12/29(火) 20:26:23
御書p257〜①(p718〜③) 路に迷うのは誰の罪
人路をつくる、道に迷う者あり、作る者の罪となるべしや。良医薬を病人にあたう、病人嫌いて服せずして死せば、良医失となるか。
通解;
ある人が路を作った。その路に迷う者があるからといって、それは路を作った者の罪だといえるだろうか。良医が薬を病人にあたえた。そのとき、病人が薬を嫌って飲まないで死んだならば、それは良医の過失となるであろうか。
池田先生の指導;
折伏をすた場合に、相手が入信しないのみか、かえって誹謗をし、罰を受けてさらに苦悩へとおちていく人がある。こういう人を見ると、初めから折伏されないほうが幸福だったのではないかなどという疑問も生ずる。しかし日蓮大聖人は、はっきりと「人路をつくる路に迷う者あり作る者の罪となるべしや」等の譬えをあげて、折伏する者に罪はないと断定されてえる。ゆえに、われわれは確信を持って折伏を行ずべきである。(池田大作全集27p111)
157
:
無名人
:2009/12/30(水) 08:21:16
御書p 260〜⑨(p717〜⑮) 妙法を持った人の位
道心あらん人人は此を見ききて悦ばせ給え正像二千年の大王よりも後世ををもはん人人は末法の今の民にてこそあるべけれ此を信ぜざらんや、彼の天台の座主よりも南無妙法蓮華経と唱うる癩人とはなるべし
通解;
仏道を求めようと願う人々ならば、このことを見聞きしてお悦びなさい。後世の成仏を願うならば、正像二千年の大王と生まれるよりも、末法の今の庶民であるほうがよいのである。どうして、そのことを信じないでいられようか。像法時代に彼の天台の座主になるよりも、末法において南無妙法蓮華経と唱える癩人となるべきなのである。
池田先生の指導;
世人はよく創価学会員に対して、貧乏人のくせにとか、病人のくせになどと批判する。しかし、学会員はいかに恵まれない環境にある人であっても、即身成仏するのである。地涌の菩薩として、世界人類の一切の苦悩を救うべき尊い使命をもって生まれてきているのである。 それでは、なぜ地涌の菩薩が、貧しい家や病気をもって生まれてきたのであろうか。それは一には本人の宿業であり、悩みを乗り越えることによって其罪畢已するためである。二には自ら清浄の業報を捨てて、願ってこの世へ折伏を行ずるために、そのような姿となって生まれてきたのである。折伏を行ずる人が、裕福で健康で、何一つ不自由のない人ばかりでは、折伏された人が、御本尊の功徳を信じられないとの道理なのである。恩師戸田前会長は、つねに「われわれ学会人は、折伏を行ずるために、願って貧乏で、また病気の身などに生まれてきたのだ。ゆえに折伏をやりきれば必ず絶対的幸福の境涯にもどる。自ら願ってそうしたのだから文句をいう必要はあるまい」と言われていた。 折伏を行ずるには、一般大衆と苦しみや悩みをともにしながら仏道修行に励んで、そのなかに大御本尊の功徳を身をもって証明し、現実に見せていかなくては、人々は信用しない。 日蓮大聖人が、王侯や貴族に生まれることなく、貧窮下賎の身で出世された理由は、一切衆生を救わんがためである。 そのうえで日蓮大聖人のご一生にわたる大難を思うならば、われわれに今悩みがあるからといっても、それは実に取るに足らない小難であり少悩である。必ず解決できるものと確信して、信心強盛に折伏に励むことが肝要であろう。 しかも再三にわたって述べてきたように、いま創価学会は世界広布、順縁広布という、かつてない新しい時代を迎えつつある。日蓮大聖人のご入滅後の時代において、中天の太陽のごとき時代が、いま到来したのである。じつにこのよき時代に生まれ合わせた福運を身に感じて、黄金時代の最中に、戦い抜いていきたいものである。(池田大作全集27p164)
158
:
無名人
:2009/12/30(水) 20:53:14
御書p 264〜⑱(p726〜⑬) 待望される力ある宗教
闘諍堅固の仏語地に堕ちず。あたかもこれ大海のしをの時をたがへざるがごとし。是をもって案ずるに、大集経の白法穏没に時の次いで、法華経の大百法の日本国並びに一閻浮提に広宣流布せん事も疑うべからざるか。
通解;
闘諍堅固と予言されている仏の語は、地に落ちることなく、実に予言通りの戦乱の世相である。あたかも大海の潮が時を違えることなく満ち干するようなものである。このように仏の予言が事実と符合していることから考えれば、大集教の白法穏没の時についで、法華経の大百法が日本の国をはじめ一閻浮提に広宣流布することも、疑いのないことであろう。
拝読の手引き;
仏法が消えると、世の中が戦乱の世相となるのは、仏の予言通りであることを指摘されて、この混乱の世相こそ、三大秘法の御本尊が広く流布すべき時代の到来を示すものであることを述べられた、広宣流布への大確信あふれる一節です。 現在、時代は激動の様相を呈し、だれもが既成の価値観、宗教・思想の崩壊を感じざるをえない状況にあります。しかし、文明は行き詰まりの様相をあらわし、既成の権威や価値観に対する不信の念が強まれば強まるほど、人々は現状打開の道を求めて、より力強く正しい宗教・思想の台頭を本然的に求めるといえるでしょう。 昨今“第二の宗教時代”の到来を指摘する声が強くなっています。生きがい論や人生論がブームを呼び、さらに宗教なかんずく仏教書に、文明蘇生の方途が求められ始めています。 このことは「大海のしをの時をたがへざるがごとし」とありますように、当然の時代の趨勢だといえましょう。私達は今こそ、仏法の真髄である三大秘法の御本尊が、広宣流布することこそ、時代・社会の本然的な要請であることを確信して、一層の信心・行学に精進していきたいものです。 新時代構築の方途を求めて、今日の社会には人間性、環境革命、意識革命など、さまざまな言葉が氾濫しています。だが、根なし草の空しさを観ずることがいかに多いことでしょうか。それらの美辞麗句に実体を与え、実際の生活行動のうえに人間革命の姿を示していく人こそ真に人類の危機を転換する先駆者であることを確信して、地道な実践に励んでいきたいものです。(文庫本「きょうの発心」333)
159
:
無名人
:2009/12/31(木) 09:17:11
御書p 265〜⑪(p717〜⑥) 生命悪を除くのが真の親
法華経をひろむる者は日本の一切衆生の父母なり。章安大師云く「彼が為に悪を除くは則ち是れ彼が親なり」等云々。されば日蓮は当帝の父母、念仏者・禅衆・真言師等が師範なり、又主君なり。
通解;
法華経を弘める者は、日本国の一切衆生の父母である。章安大師は「相手のために悪を除いてあげることが相手の人にとっては親の徳になるのである」等といっている。それゆえ、日蓮は(日本国中の謗法を除こうとしているのであるから)日本の現在の帝王の父母であり、念仏者・禅衆・真言師等の師範であり、また主君である。
拝読の手引き;
日蓮大聖人が主師親の三徳を具備された末法の御本仏であることを明かされた一節です。 大聖人の民衆救済の実践が、単なる慈善事業や福祉事業とは根本的に異なるのは、一切の事象を起こさせる根源である人間生命に巣くう悪の根を断ち、汚濁しきった生命を根本的に生きいきとよみがえらせ、人間として最高の人生を歩ませていく点にあります。 誰人の生命にも尊極無常の生命たる仏性がそなわっていますが、誤れる宗教、思想によって、無明の闇に覆われ、いまだ開き顕すことができず、苦悩のうめきをあげているというのが、人類の姿ではないでしょうか。 そうした不幸の根源である無明の闇を打ち払い、常楽我浄の人生を送れるように、一切衆生に三大秘法の南無妙法蓮華経を流布する実践を展開されたのが大聖人なのです。不幸な人々を生命の奥底から変革させ、救済していく実践ほど、地道ですが尊いものはありません。この実践の持続により、社会、時代は大きく変革されていくのです。 私達の実践の原点は、この大聖人の戦いのなかにあります。時代、社会構造の変化に伴って実践は多角化されてきますが、その根本精神は決して変わることなく、一人の悩める庶民に対し、暖かい救いの手を差し伸べ、その人が自らの使命を感じて立ち上がるにいたるまで努力していくことにあります。私達はどんな分野、立場で戦おうとも、この大聖人の民衆救済の精神を忘れることなく、前進していきたいものです。(文庫本「きょうの発心」496)
160
:
無名人
:2009/12/31(木) 20:03:56
御書p 266・⑬(p728・⑨) 比類なき仏法を勧める徳
仏滅後の後、仏法を行ずる者にあだをなす事多しといえども、今のごとくの大難は一度もなきなり。南無妙法蓮華経と一切衆生にすすめたる人一人もなし。この徳はたれか一天に眼を合せ、四海に肩をならぶべきや。
通解;
仏滅後から今日まで、仏法を行ずる者に対してさまざまな迫害がなされたといっても、今の日本のような大難は一度もなかった。それは日蓮のように南無妙法蓮華経と唱えるよう一切衆生にすすめた人が一人もいなかったからである。この南無妙法蓮華経をひろめる日蓮の徳は、誰人か一天に眼を合わせ、四海に肩を並べる者がいるだろうか、いるはずがないのである。
拝読の手引き;
日蓮大聖人が前代未聞の大迫害を受けられたのは、大聖人が全宇宙、全世界で肩を並ぶべきもない、大慈大悲の大徳をそなえられた御本仏であることを意味するとの大確信を述べられた一節です。 大聖人が竜口の法難をはじめとする種々の大難に一歩も退くことなく、妙法流布、令法久住の戦いを進められたのは、その根拠に、不幸にさいなまれる末法の民衆一人ひとりに根本の法である南無妙法蓮華経を教え、仏界を顕現させて成仏得道させんとの大慈悲の精神が脈打っていたからなのです。 時代、社会の混乱、腐敗はその極みに達し、人びとは自己の保身、栄誉栄達のみにきゅうきゅうとして生きているのに対し、一身の危険も顧みず、全民衆の幸福のために全魂込めて戦われる大聖人の姿は、まさしく末法の御本仏としての尊き実証の姿といえましょう。 この原理は、妙法を社会に開く実践をしている私達にもあてはまります。すなわち、徳、慈悲、民衆救済といっても、何か特別な精神をいうわけではなく、私達が地涌の菩薩としての自覚に立ち、その本質である利他の実践を貫いていくとき、初めてその人の人間性のなかににじみ出てくるものといえましょう。特にポーズをとったり、特別に構えたりするのではなく、その人の生命の内奥より自然の発露として出てくるものなのです。 そのために、私達は、妙法の哲人としての自覚をさらに深め、自己を厳しく練磨していきましょう。(文庫本「きょうの発心」482)
161
:
mumeijinn
:2010/01/01(金) 11:36:13
御書p 269・⑧(p731・⑥) 翻訳、解釈作業の重要性
我が仏法は月支より他国へわたらんの時、多くの謬悞出来して、衆生の得道うすかるべしととかれて候。されば妙楽大師は「並びに進退は人に在り。何ぞ聖旨に関わらん」とこそあそばされて候へ。今の人人いかに経のままに後世をねがうとも、あやまれる経経のままにねがわば得道あるべからず。
通解;
釈尊の仏法はインドから他国へ渡るときに、多くの誤りがでてきて衆生の得道も薄くなるであろうと(涅槃経の第三・第九等に)説かれている。そこで妙楽大師は「誤り伝えるかどうかは、人師のいかんにより、仏の御心には関係がない」といわれているのである。今の世の人びとが、どんな経のままに後世を願っても、誤りのある経文を信じて、経文通り後生を願ったところで、得道ができるわけがない、
拝読の手引き;
仏法の原点である釈尊の経文や日蓮大聖人の御書を翻訳するときに誤りを犯せば、人びとの理解を妨げ、成仏を薄めてしまうというのです。 釈迦仏法とは異なり、大聖人の仏法では、法体としての御本尊が確立されているので、その根本は誤りようがありません。しかし、仏法の実践や流布という面になると、その正しい在り方を知らねばなりません。 外国語に翻訳する場合に限らず、七百年前の教義を現代に合わせて解釈する場合でも、教義を間違って解釈すれば、その実践も誤ることになり、成仏できません。さらに、大聖人の仏法を誤り伝えては大変なことになります。 私達は、自分勝手に御書を解釈するのではなく、代々の会長の著作を読み、教学座談会等で正しい講義を聞いたうえで、自分の身に当てはめて考え、実践していかなければ、一生成仏も、また広宣流布も、達成することはできないでしょう。(文庫本「きょうの発心」554)
162
:
mumeijinn
:2010/01/01(金) 20:03:54
御書p 271・⑧(p733・⑨) 信仰者の姿勢
此経を釈して云く浅は易く深は難しとは釈迦の所判なり浅を去て深に就くは丈夫の心なり
通解;
この経を釈して、浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判であり、浅きを去って深きに就くは丈夫の心である。
日寛上人の指導;
日寛上人は「秀句に云く『六難は是れ即ち法華経を指す。九易は則ち是れ余の経典をさす』云々。余の経典を去って法華経に就くが故に『浅を去って深に就く』というなり。当に知るべし、『丈夫』は即ち釈迦の異称なり。これ十号の一名なり」〈文段集p269〉と。(池田大作全集27p319)
163
:
mumeijinn
:2010/01/02(土) 10:44:32
御書p 283・⑮(p746・⑪) 難を受けること第一
漢土・日本に、智慧すぐれ才能いみじき聖人は度度ありしかども、いまだ日蓮ほど法華経のかたうどして、国土に強敵多くまうけたる者なきなり。まづ眼前の事をもって、日蓮は閻浮第一の者としるべし。
通解;
漢土(中国)にも日本にも、知恵がすぐれ、才能の高い聖人はたびたび出現したが、いまだ日蓮ほど法華経の味方となって、国土に多くの強敵をもうけた者はいない。まずこのような眼前の事実をもって、日蓮は世界第一の智者であることを知るべきである。
拝読の手引き;
日蓮大聖人こそ一閻浮提(全世界)第一の法華経の行者であることを述べられている一節です。 確かに、中国、日本にも天台大師や伝教大師のように知恵、才能ともにすぐれた聖人と称せられる人がいましたが、法華経の精神、つまり衆生済度という仏法の原点に立脚し、その実践を生涯貫き通したのは日蓮大聖人ただお一人だったのです。 しかも、末法において法華経を弘通することは、宝塔品に説かれている六難九易の原理からいっても、また、勧持品の二十行の偈に予言されている三類の強敵の出現ということからみても、大変困難な事業であることは明らかです。事実、大聖人が立宗宣言されてから三十年にわたる妙法流布の過程において、死罪、流罪に及ぶさまざまの難が競い起りましたが、そのたびごとに諸天の厳然たる加護を呼び起こし、御本仏としての実証を示されてきたのです。 現在、私達は、妙法流布の戦いを推進していますが、その前途に種々の困難なことが横たわっていることは間違いありません。そうした困難にぶつかった場合に、私達はあくまでも妙法流布の先駆者としての自覚に立ち、最高の誇りと襟度をもって前進していきたいものです。 そのためにも、絶えず自身の姿を通して社会へ大聖人の仏法を大きく開いていけるよう、一人ひとりの信心を深め、自己の研鑽に励み、成長していきましょう。そうした一人ひとりの有智の実践の積み重ねによって、令法久住の不動の礎が築かれていくことを確信して――。(文庫本「きょうの発心」459)
164
:
mumeijinn
:2010/01/02(土) 23:15:33
御書p 287・⑧(p717・⑦) 御本仏の境涯・確信
外典に曰く未萠をしるを聖人という内典に云く三世を知るを聖人という余に三度のかうみようあり
通解;
外典に云く「将来に起きることを知るのを聖人という」と。内典にいわく「三世を知るを聖人という」と。日蓮には三度の大功績がある。
拝読の手引き;
妙楽大師の「止観輔行伝弘決」二の末には「説苑にいわく(中略)一には萠兆未だ現ぜず。存亡の機を見るを、名づけて聖臣となす云々」〈大正四十六巻p215〉と。文選四十四にいわく「明者は危ふきを無形に見、智者は福を未萠に規る」〈『文選』六、p168、集英社〉とある。外典とは、仏教典以外の書であり。ここでは『説苑』や『文選』をさす。 「内典」とは何を指すのか詳らかではないが、天台大師の『摩訶止観』巻二上には「云何ぞ諸の聖人、三世の心を知らん」〈大正四十六巻p15〉等とある。内典とは仏法の経典をいう。聖人とは仏の異名である。すなわち仏教では、過去、現在、未来を知っているのを聖人といい、仏というのである。(池田大作全集27p466)
165
:
mumeijinn
:2010/01/03(日) 09:23:43
御書p 287・⑪(p717・⑩) 主・師・親
「日蓮は日本国の棟梁なり予を失うは日本国の柱橦を倒すなり」
通解;
「日蓮は日本国の棟梁である。日蓮を失うということは日本国の柱を倒すことになる」
拝読の手引き
日蓮大聖人が主師親の三徳を具備された末法の御本仏なることを明かされている。御文は、特に主徳をあらわされている。棟梁がなければ家はたもたない。「種々御振舞御書」には「日蓮によりて日本国の有無はあるべし、譬えば家に柱なければ・たもたず人に魂なければ死人なり、日蓮は日本の人の魂なり平左衛門既に日本の柱をたをしぬ」〈御書p919〉と仰せられている。(池田大作全集27p468)
166
:
mumeijinn
:2010/01/03(日) 18:17:18
御書p 290・⑪(p753・⑬) 信仰の要諦は
されば我が弟子ら試みに法華経のごとく身命もをしまず修行して、此の度仏法を心みよ。
通解;
されば我が弟子等、試みに法華経に説かれているとおり、身命も惜しまず修行して、このたび仏法が真実であるかないかを試みてみなさい。
池田先生の指導;
大聖人の門下には、長年にわたって信心してきた人も多くいた。しかし打ち続く大難の中で、疑いを起こして退転する弟子も出た。
仏法の真髄は、あまりに深い。妙法の功力は、あまりに大きい。
ゆえに、わが門下よ、断じて退いてはならない。妙法流布に生き抜くならば、必ず最高の幸福境涯を築くことができる――。
御書には、御本仏の大確信が脈打っている。
リーダーは惰性を排し、どこまでも誠実に、真剣に、広布のため、同志のために行動し抜くことだ。
増上慢になり、油断し、横着になれば、自分が損をする。大福運を逃してしまう。特に、役職が上になり、自分が偉くなったように錯覚し、会員を下に見て、威張るようなことがあれば大変だ。
これまでも、そうやって堕落し、ついには退転していった人間がいたのは、皆様がご存じの通りだ。
今こそ、全リーダーが初心に立ちかえって、命を惜しまず、労苦をいとわず、思う存分、戦うことだ。
唱題を唱え抜いて、悔いなく戦いきることだ。
必ず、永遠の成仏という大果報を勝ち取っていくことができる。
創立80周年は、皆が大功徳を開く時なのである。(2009・11・23 本部幹部会 上)
167
:
mumeijinn
:2010/01/04(月) 10:51:00
御書p 287・⑮(p750・⑭)
「王地に生まれたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えたてまつるべからず」
通解:
鎌倉幕府の代に生まれ合わせた以上は、身は幕府に随えられているようであるが、心まで随っているのではない。
168
:
mumeijinn
:2010/01/04(月) 19:13:38
御書p 288・④(p751・④) 地道
衆流あつまりて大海となる微塵つもりて須弥山となれり、日蓮が法華経を信じ始めしは日本国には一茀一微塵のごとし、法華経を二人・三人・十人・百千万億人・唱え伝うるほどならば妙覚の須弥山ともなり大涅槃の大海ともなるべし仏になる道は此れよりほかに又もとむる事なかれ
通解:
多くの流れが集まって大海となる。わずかの塵が積もって須弥山となる。日蓮が法華経を信じ始めたことは、日本の国にとって一つの茀、一つの微塵のようなものであるが、その結果、二人、三人、十人、百千万億人と唱え伝えていくならば、やがて妙覚の須弥山ともなり、大涅槃の大海ともなるであろう。仏になる道はこれよりほかに求めてはならないのである。
169
:
mumeijinn
:2010/01/05(火) 10:33:27
御書p 290・⑪(p753・⑬) 闇天に輝く月天子
されば今法華経の行者は心うべし。「譬ば一切の川流江河の諸水の中に海これ第一なるが如く、法華経を持つ者も亦復是くの如し」。又「衆星の中に月天子最もこれ第一なるが如く、法華経を持つ者も亦復是くの如し」等と御心えあるべし。当世日本国の智人等は衆星の如し。日蓮は満月の如し
通解;
さればいま、法華経の行者は次のように心得べきである。「譬えば一切の川の流れや江河の諸水の中にあっても、海がこれ第一なるが如く、法華経を持つ者もまたかくの如くであって、諸人の中において第一である。また多くの星の中に、月天子が最もこれ第一であるように、法華経を持つ者もまた第一である」と。この法華経薬王品の文をよくよく心得なさい。当世日本国の智人等は多くの星であって、日蓮は満月のごとく、最もこれ第一である。
拝読の手引き
日蓮大聖人が末法の暗闇を照らし、民衆を救うただ一人の救世者――御本仏であることを示され、また、大聖人の仏法を実践する私たち法華経の行者も最高に尊い存在であることを述べられた一節です。 大聖人が三世を通達した御本仏の境涯で説きあらわされた法門は、無明の闇に覆われた私達末代の凡夫の生命を浄化し、尊極の生命である仏界を顕現させる最高唯一の生命哲学です。その最高の法門を持ち、実践している私達は、妙法の体現者として、社会のあらゆる分野において最高に価値ある存在となっていかなければなりません。大聖人の仏法が、私達の信仰人としての実践を通して世に開き顕わされていったとき、初めて広く社会に流布されていくのです。 私達は常に勝れた人間変革の哲学を持ち実践している誇りと自覚を決して忘れることなく、宗教革命に勇躍前進していきたいものです。その場合大事なことは、強盛の大信力をいだすために、各人が信心をみがき、学会の流れに呼吸を合わせ、成長していくことです。 たとえ世間的には無名であっても、清らかな人間の連帯をめざす創価学会の一員として、妙法を根底に一対一の対話を積み重ね、刻々と時代を変革しゆく戦いを地道に実践していく人こそ、最高に尊い人なのです。どんな障害に直面しようとも、環境に左右されることなく、峻厳な信心の姿勢、学会精神を生涯失うことなく、広布の新時代へ明るく羽ばたいていこうではありませんか。(文庫本「きょうの発心」199)
170
:
mumeijinn
:2010/01/05(火) 18:38:55
御書p 292・⑬(P755・⑰) 時代に生きる”六難九易”の原理
裸形にして大火に入るはやすし、須弥を手にとてなげんはやすし、大石を負うて大海をわたらんはやすし、日本国にして此の法門を立てんは大事なるべし。
通解
赤裸の身で大火に入ることはやさしい。須弥山を手にとって投げることも、まだやさしい。また大石を背負って大海原を渡ったりすることも、なおやさしいことであるが、日本国でこの三大秘法の法門を立てることは、難事の中の難事であり、大事のなかの大事である。
拝読の手引き
法華経宝塔品第十一に説かれている六難九易の譬えを引かれて末法の今日、三大秘法の御本尊をたもち、ひろめることの難しいことを教えられています。 事実、この御書があらわされた当時の日本の社会は、強大な武力を背景にした鎌倉幕府の権力が幅をきかせる一方、暴風雨、凶作、流行病等の打ち続く災害に加えて、蒙古襲来の危機を迎えるなど、人身は極度に混乱・動揺していました。それまで人々の生命を指導していた規制の宗教、道徳はその権威を失い、精神の退廃も著しいものがあったようです。 このような時代にあって、真に人々の信仰心を呼びさまし、人間革命の法を流布し、また自らも実践を持続しきることは、難事中の難事であったといえます。民衆を外から統治することを役割とする統治体制と、人間を生命の内から解放する妙法とは、本質的に相容れない面があるからです。このことを説いたのが、法華経宝塔品にある”六難九易”の原理です。 この“六難九易”の原理は、いかに時代・社会が変わったとしても、客観的事実として今日にも貫かれています。現在の活動がいかに善意ある人間性の立場からの活動であるからといっても、決して私達の活動が容易に進むものではありません。 このことを知るとき、私達の日々の生活態度は、決して他人や社会を無視した、一人よがりな行動であってはならないでしょう。私達は、あくまで忍耐強く常識をわきまえて、妙法の功徳を実証しきっていける一人ひとりでありたいものです。(文庫本「きょうの発心」441)
171
:
mumeijinn
:2010/01/06(水) 12:42:23
御書p 292・⑧(p755・⑪) “確信”こそ信仰者の要件
法華経を一切経の頂にありと申すが法華経の行者にてはあるべきか。
通解
法華経(三大秘法の南無妙法蓮華経)を一切経の最高峰にあると確信し、主張しきっていくのが、真の法華経の行者であるべき姿であるといえよう。
拝読の手引き
妙法こそ、一人ひとりの生命は大宇宙と等しく壮大であることを達見して、各人の生命の力と特質を最高に発揮せしめ、無上の生き方と幸せへの道を示し、濁世変革の根源的な原動力となる唯一最高の生命哲理です。 このことを、いかなる権威・権力にも、苦難にも屈せず、粘り強く、堂々と主張しきっていける人こそ、真の妙法信仰者だといえます。 見栄や形式、権威といった虚飾をもって身を守り、自説に確信のない人は、いざというときには挫折して、自己の小さな殻の中に閉じこもってしまいがちです。その提言と主張をやすやすと放棄するものです。 そういった人が多いのが、五濁と指摘された世の中の姿なのかもしれませんが、御本尊を絶対と信じて、不屈の忍耐と勇気をわき立たせ、信念の正道を征く真実の「法華経の行者」との差は歴然でしょう。この人こそ、まさに揺るぎなき“人間王者”だと称えられるべきです。 今日、既成の権威や形式の虚飾が音を立てて崩れ始め、不信と不安の暗雲が、人びとの心を覆いつくしています。“人間党”の旗を高く持し、正義の主張に生きる私達の存在は、漆黒の無明の闇に大きく輝く灯火であることを心の底から確信したいものです。(文庫本「きょうの発心」698)
172
:
m
:2010/01/06(水) 19:10:47
題名 :聖愚問答抄 上・下
対告衆 :
執筆年次 :文永2
聖寿 :44
西紀 :1265
著作地
大意 聖人と愚者との問答形式で、愚者が法華一乗に帰する次第がのべられ、権実相対の義が明かされている。
173
:
mumeijinn
:2010/01/07(木) 10:47:58
題名 :報恩抄
対告衆 :
執筆年次 :建冶2・7・21
聖寿 :55
西紀 :1276
著作地 身延
大意 真実の報恩について説かれている。大恩を報ずるためには仏法を習い究め智者となることが肝要。
174
:
mumeijinn
:2010/01/07(木) 18:59:14
御書p 293・①(p888・①) 報恩こそが人間を向上させる
夫れ老狐は塚をあとにせず白亀は毛宝が恩をほうず畜生すらかくのごとしいわうや人倫をや、されば古への賢者予譲といゐし者は剣をのみて智伯が恩にあてこう演と申せし臣下は腹をさひて衛の懿公が肝を入れたり、いかにいわうや仏教をならはん者父母・師匠・国恩をわするべしや、此の大恩をほうぜんには必ず仏法をならひきはめ智者とならで叶うべきか
通解
狐(きつね)は老いても生まれた古塚(ふるつか)を後にせず、毛宝に助けられた白亀も戦(いくさ)に敗れた毛宝を背に乗せて助け、その恩に報じた。畜生すらかくのごとくである。況(いわん)や人間においてをやである。
池田先生の指導
師匠の恩を知る者は、必死になってその恩に報いるものだ。また、正法を求め、護り、わが身をなげうつ先人の説話は、御書のなかにも、数多い。いざという時に、不惜身命で、師の恩に報いよ!これが大聖人の教えである。このことを、青年部の諸君に、また、真実の学会の同志にこそ語っておきたいのだ。(2009−4大白蓮華p67) 報恩ということは、封建時代や特定の時代の遺物ではない。時代の変遷によって、種々の意義、種々の形態はあっても、永久に人間としてわきまえなければならない重要な倫理というべきである。人類始まって以来、洋の東西を問わず、報恩という徳義は、人間性に深く根差し、一般庶民の中に奥深く融け込んだものであった。これは、古来、多くの教訓や寓話として、全世界の国々に残されていることからも、推察できる。真実の報恩とは、仏法で説く四恩および本抄で根源的に示された報恩の道理であり、これこそ、永久に人類の指針、基準とすべき倫理であると主張するものである。ひるがえって、現代社会に目を転ずると、民主主義をはき違えたいわゆる放縦主義、無責任主義が横行している。そして、ふみはずした民主主義思想が、どれほど社会に悪影響を及ぼしているか、計り知れないものがある。真実の民主主義とは、真実の宗教によってのみ説かれ、実践されるものである。今の社会に見られるような無責任な放縦主義や、社会を無視した個人のわがままや、倫理道徳のない個人の尊厳や、秩序のない平等は、真の民主主義ではないのである。われわれは、日蓮大聖人の仏法こそ、真実の宗教であり、真の民主主義を確立するものであると信ずる。すなわち、大仏法を信じることによって、苦悩を即菩提に変えていくことが真の自由であり、民族、人種の差別なく、あらゆる人々がすべて一念三千の生命であるがゆえに真の平等であり、だれびとも仏界を具え仏界を湧現できるがゆえに真の尊厳なのである。仏法が説く知恩、報恩は、そのように窮屈で非人間的な封建的なものではない。とくに日蓮大聖人の仏法における報恩思想は、釈尊の仏法よりも一重立ち入った最高の報恩思想であり、全人類が等しく仰ぐべき徳義であることを、重ねて強く主張するものである。(池田大作全集28「報恩抄」講義) 報恩こそ人間の道である。仏法の道である。邪心の人間、狡猾な人間、増上慢の人間は、ひとたび難が起こるや、逃げる。それどころか、恩ある人に怨をなそうとさえする。 そうした畜生のごとき所業を、戸田先生の時代から、私は見てきた。危難の矢面に立って、私は一人、正義の道を切り開いてきたのである。 命がけの信心を貫く人間がいなければ、正義の旗は、悪人に踏みにじられてしまう。だからこそ、後継の諸君が一人立つのだ。 「報恩」の要諦とは何か。それは、「不惜身命」であると、日寛上人は教えられている。「身命を惜しまず邪法を退治し、正法を弘通すれば」一切の恩に報いていけるのである(報恩抄文段)。(各部代表者会議 聖教新聞2008年12月29日付)
175
:
mumeijinn
:2010/01/08(金) 10:13:18
御書p 293・⑤(p888・⑤) 仏法研鑽に時間をつくろう
仏法を習い極めんとをもはば、いとまあらずば叶うべからず。いとまあらんとおもはば、父母・師匠・国主等に随いては叶うべからず。是非につけて、出離の道をわきまへざらんほどは、父母・師匠の心に随うべからず。
通解
仏法を習い極めるためには、仏道修行に打ち込む時間がなくてはならない。仏道修行の時間をつくろうと思ったなら、父母・師匠・国主等に左右され従っていては、絶対に目的を果たすことはできない。ともかく、成仏に至るための仏道修行の道を知らないうちは、父母・師匠等の心に従っていてはならない。
池田先生の指導
この大恩を報ずるには、どうしたらよいか、それには必ず仏法を習いきわめ智者とならなければならないと仰せられている。仏法を習いきわめ智者となるためには、一大聖教を学び、八宗の章疏を習いきわめなくてはならないであろう。しかし、末代下根の衆生がどうしてそのような習学ができるであろうか。それでは結局、恩を報ずることができないのか。 真実の報恩は、三大秘法の仏法を信じ、題目を唱え、折伏を行ずることである。ゆえに折伏を行じて広宣流布のために戦う創価学会員は、真実の報恩の誠を尽くすことになるのである。 親の恩を報ずるのは親孝行という徳義であるが、仏法においては下品、中品、上品の孝を説いている。日蓮大聖人は"孝養に三種がある。衣食を施すのを下品とし、父母の意に違わないのを中品とし、功徳を回向するのを上品とする"と仰せられている。ゆえに、三大秘法の大仏法を持ち、ひいては親を折伏し正法に帰依させ、また亡き親に対しては朝に夕に正法で回向するのが最高の親孝行というべきである。また、親に反対されたり、一家の中に信仰に反対の人がいても、はじめに入信した人が、しっかりと、信心修行に励み、自分の生活に大御本尊の功徳を証明していくならば、ついには反対の家族や親も、ともに信仰できるようになり、この世で成仏するのである。これこそ真実の親孝行であり、それは一家のため、国のためになっていくのである。それを日蓮大聖人は「世を安じ国を安ずるを忠となし孝となす」(「一昨日御書」御書p183)と仰せられているのである。 以上のように、すべての報恩に上品、中品、下品の段階があることを知るべきであり、特に上品の報恩、すなわち三大秘法の大御本尊の功徳を知らしむる事は、最高の喜びなのである。(池田大作全集28「報恩抄」講義)
176
:
mumeijinn
:2010/01/08(金) 18:10:47
御書p 294・⑪(p889・⑭) 依法不依人
「法に依って人に依らざれ」
通解
涅槃経には、「法によって人に依らざれ」とある。
池田先生の指導
現代においても、世の指導者と仰がれる学者、評論家、思想家たちも、日蓮大聖人の大白法を知らないものは、みな暗師であり、愚人といわざるをえない。 すなわち「法に依って人に依らざれ」という原理は、現代社会にも通用する重要な原理なのである。現代日本の評論家、学者等の中には宗教の正邪もわきまえず創価学会をうんぬんする人がいるが、学会の信奉す日蓮大聖人の大仏法を根本的に論じたものは、皆無である。これは、まことに不思議な現象である。 仏法を論じ、学会を批判するならば、東洋仏法の真髄である日蓮大聖人の色心不二の大生命哲理を深く究明し、しかる後に批評すべきであろう。 宗教、哲学、思想に関するのみでなく、他の種々の学問、自然科学等の分野においても、初めにとりついた概念に固執するという傾向が、善悪に関わらず多いものである。一般の学問は、まだ比較的、弊害は少ないが、こと宗教、哲学、思想となると大なる弊害があらわれるのである。 虚心に仏法の真髄を究明していくならば、一国に王が一人であるごとく、天に太陽が一つであるごとく、末法における御本仏は、真実の救世主は、日蓮大聖人ただお一人であることを知るのである。(池田大作全集28「報恩抄」講義)
177
:
mumeijinn
:2010/01/09(土) 10:13:38
御書p 294・⑰(p890・②) 法華経は如意宝珠
須弥山の頂に帝釈の居るがごとく、輪王の頂に如意宝珠のあるがごとく、衆木の頂に月のやどるがごとく、諸仏の頂に肉髻の住せるがごとく、此の法華経は華厳経・大日経・涅槃経等の一切経の頂上の如意宝珠なり。
通解
須弥山の頂上には帝釈がいるように、てんりんじょうおうの頂には如意宝珠があるように、多くの木の上には月がクッキリと浮かぶように、諸仏の頭には頂上の肉が高く隆起して髻(髪の頭上の束ねた部分)のようになっている肉髻があるように、この法華経こそは華厳経・大日経・涅槃経等の一切経の頂上に位するところの如意宝珠である。
池田先生の指導
「天台・妙楽、伝教大師の御れうけんの後の眼あらん人人はしりぬべき事ぞかし」との仰せであるが、これらの諸大師が法華経第一と決定されてから、すでに千年をこえる。また日蓮大聖人が三大秘法を御建立になり、立正安国の大道を示されてからでも、すでに七百年になる。しかるに宗教界の現状を見るにいかに進歩がなく、宗教に対する邪智、邪見が根深いかを知るであろう。もし創価学会の出現がなければ、さらに幾百年、幾千年にわたって、邪宗教が全世界を不幸におとしいれていくか、計り知れないものがあったであろう。(池田大作全集28「報恩抄」講義)
178
:
mumeijinn
:2010/01/09(土) 18:13:23
御書p 297・⑭(p893・③) 法華経の行者
仏だにも忍びがたかりける大難をば凡夫はいかでか忍ぶべきいわうや在世より大なる大難にて・あるべかんなり、いかなる大難か提婆が長三丈広一丈六尺の大石阿闍世王の酔象にはすぐべきとはおもへども彼にもすぐるべく候なれば小失なくとも大難に度度値う人をこそ滅後の法華経の行者とはしり候はめ
通解
仏でさえ忍びがたかった大難を、どうして凡夫が忍べようか。ましてや仏の在世よりも大きい難であろうというのである。 提婆達多が長さ三丈、幅一丈六尺の大岩を投じたり、阿闍世王が酔象を放った大難を越えるような大難が果たしてあるだろうかと思われるが、仏の在世にもすぎると経文にあるのだから、何の小さな罪も犯していなくても大きな難にたびたび会う人をこそ、仏滅後の法華経の行者と知ることができるだろう。
池田先生の指導
妙法流布という使命に走るものは、全宇宙の諸天善神が守りに護ってくれるのだ。これほど痛快な人生はないのだ。妙法の信仰者には、絶対に敗北はない。敗北のない人は、永遠に勝利者である。幸福の王者である。人生の長者である。そのための信仰だ。(大白蓮華2009−4p83)
179
:
mumeijinn
:2010/01/10(日) 09:26:18
御書p 308・⑪(p904・⑨) 身近なところから仏法の実践を
「此れをせめずば大日経・法華経の勝劣やぶれなんと存じていのちをまとに・かけてせめ候なり」・・・・・・粮米をつくし、人をわづらはして、漢土へわたらせ給はんよりは、本師伝教大師の御義をよくよくつくさせ給うべかりけるにや。
通解
このように責めなければ、大日経と法華経の勝劣が破れてしまうと思い、命をかけてこの邪義を責めるのである。・・・・・・(慈覚、智証の二人は)たくさんの粮米を注ぎ込み、また多くの労力を使って、漢土(中国)へ渡り、仏教を習学するよりは、日本天台宗の本師である伝教大師の立てられた教義を、よくよくきわめ尽くされるべきであったのではなかろうか。
池田先生の指導
「師資の道一を闝いても不可なり」とは宣旨の中の文言であるが、正法正師を選んで信行に励んでこそ、即身成仏がかない、邪法邪師を信ずるものは無間地獄に堕ちるという仏道修行の根幹を示したものである。「師資の道」とは、師弟の道である。師とは師匠であり、資とは禀けるの意で、弟子を意味する。すなわち、仏法において、師弟の道は一つでも欠けてはならないとの謂である。 日蓮大聖人と日興上人のお姿は、最高の師弟のお姿であり、六老ありといえども、ただ日興上人の一人が、日蓮大聖人の大仏法を余すところなく理解され、大聖人を正しく御本仏と拝されたのである。日興上人以外の五老僧やその末流は、日蓮大聖人を御本仏と仰げず、三大秘法の大御本尊を信じえないゆえに、謗法の徒であり、大聖人との師弟の道は成り立たないのである。 わが学会が、日蓮大聖人、日興上人以来の唯一の正法を清純に守り、大御本尊を信じている姿こそ、正しく師弟の道を遵奉しているものである。邪宗、邪義のものが、真の師弟の道もなく、あまつさえ世襲制をしいているような姿は、けっして仏法とはいえないのである。(池田大作全集28「報恩抄」講義)
180
:
mu
:2010/01/10(日) 19:01:22
310・⑧(p906・⑨) 浅きは易く深きは難し
浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり浅きを去って深きに就くは丈夫の 心なり 天台大師は釈迦に信順して、法華宗を助けて震旦に敷揚し、叡山の一家は天台に相承して、法華宗を助けて日本に弘通す
通解
浅きは易く深きは難しとは、釈尊の所判である。浅きを去って深きにつくのが丈夫の心である。天台大師は釈尊に信順して法華宗を中国に弘め、比叡山の一門は、天台大師に相承して、法華宗を日本に弘めるのである
拝読の手引き
「法華秀句」の中の言葉(「伝教大師全集第三巻p273)。随他意の方便権教は法門として浅く、信じ易くが、解し易いが、深い法門である随自意の正法は、信じ難く解し難い。法華経の宝塔品第十一には六難九易を示し、法師品第十には難信難解を説いている。(池田大作全集28p276)
181
:
mumeijinn
:2010/01/11(月) 08:03:26
御書p 312・⑱(p909・③) あえて不幸の根源悪に挑戦
師子のねぶれるは手をつけざればほへず。ハヤキ流は櫓をささへざれば波たたからず。盗人はとめざればいからず。火は薪を加えざればさかんならず。謗法はあれども、あらわす人なければ、王法もしばらくはたえず、国もをだやかなるににたり。
通解
眠れる師子に手をつけなければ師子は吠えることなない。いかに急流でも流れに櫓を支えなければ、波は立たない。どんな盗人でも、とがめなければ騒ぎ立てることはない。火は薪を加えなければ、火勢が盛んにはならない。同じく謗法はあってもこれを指摘し、破折する人が出なければ、大智人を迫害する大謗法は世に起こらない。故に、一国の政治もしばらくの間は、そのまま保ちえて、穏やかなままに過ぎていくであろう。
拝読の手引き
社会の真の平和と幸福を確立するため、生命のレベルから、一切の不幸の元凶を糾明し、克服するのが、地涌の菩薩の使命です。表面上は平穏に見える社会の裏面に戦争の危機や公害をはじめ数々の病患があり、人びとに犠牲と苦悩を強いようとする権力の魔性が伏在し、思想、宗教の乱れが根深いことを見抜き、それへの挑戦の姿勢を私たちは片時も忘れてはなりません。 人びとを不幸にする根源悪に対し、妥協して責めず、あるいは服従することに甘んずるなら、その魔性はそれほど露わにならないかもしれません。しかし、魔性の暗躍、跳梁を坐して見るに耐えられず、社会の本源的浄化に立ち上がったのが日蓮大聖人であり、地涌の戦士です。 波の高いのは覚悟の上の遠征です。先駆者に中傷の風波が襲うのももとより承知の上です。(文庫本「きょうの発心」602)
182
:
mumeijinn
:2010/01/11(月) 19:40:25
御書p 314・⑪(p910・⑯) 強情な信仰とは法華経身読の人
法華経をよむ人の此の経をば信ずるようなれども、諸経にても得道なるとおもうは、この経をよまぬ人なり。
通解
法華経を読む人が、たとえこの法華経を信じているようであっても、もしも、法華経以外の諸経でも得道があると思うのは、この法華経を正しく読まぬ人というべきである。
拝読の手引き
日蓮大聖人の妙法を信ずるといっても、他の仏教経典あるいは他の思想哲学でも、同じように人生の道を極め、幸福になれるのではないかと考えて、御書を学び求め、妙法の真意を知っていこうとしなければ、真に大聖人の仏法を信仰している人の姿とはいえません。 最も愚かなことは、御本尊への強盛な信仰こそ人生・生活等の一切を左右する原動力であることを忘れて、他の思想・哲学や方法論にとらわれ、信心の実践をおろそかにしてしまうことです。 このようにいうことは、なにも、他の思想哲学などを軽視してもいい、勉強するにあたいしない、といっているのではありません。先哲がそれこそ命を削るような思いで思索し、書き著わしたものです。人生、社会、自然などについての鋭い観照の姿には頭が下がります。また、そこに説かれるものは、人を引きつける、強い力を持っています。酔うがごとくそれに傾倒して、それを人生の基調とする人も多く出てくるのも当然といえるかもしれません。 だが、ここで注意したいことは、それらの思想哲学は、一分の理を明かしたものに過ぎないということです。いかに鋭くはあっても、そこに限界があり、どうしても偏頗を免れません。 これに対して、真の仏法は、円教であり、諸法の実相を究め尽くしたものです。他の思想哲学との関連をいえば、部分観と全体観の違いがあるのです。したがって、他のいかなる哲学といえども、南無妙法蓮華経の仏法を根底において、はじめて、その価値が正しく評価され、生かされてくるのであり、幸福を築く基調の哲理は妙法以外にない、ということを銘記すべきです。(文庫本「きょうの発心」480)
183
:
mumeijinn
:2010/01/12(火) 06:34:15
御書314・⑮(p911・②) 信仰者の姿勢
「法華経を讃むると雖も還て法華の心を死す」等云云、此等をもつておもうに法華経をよみ讃歎する人人の中に無間地獄は多く有るなり、嘉祥・慈恩すでに一乗誹謗の人ぞかし
通解
伝教大師は慈恩大師を責めていうには「法華経を讃むといえども、かえって、法華経の心を死している」等と。 これらによって思うのは、法華経を読み法華経を讃嘆する人々の中に、無間地獄に堕ちる人が多いということである。嘉祥や慈恩という人々こそ、実は、すでに法華一乗を誹謗する人たちなのである。
池田先生の指導
末法の法華経とは、三大秘法の南無妙法蓮華経である。日蓮大聖人を尊敬するといっても、日蓮大聖人の御正意や末法における本尊を知らず、或は法華経、あるいはニセマンダラ、あるいは釈迦仏像、あるいは鬼子母神、キツネ、竜神、戒名等を本尊にしている姿は、まさしく「法華の心を死す」ものであり、破仏法の行為である。 末法今時においては、「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ」〈「教王殿御返事」御書p1124〉と仰せられた、大御本尊を信ずる以外には、大聖人のお心にかなう信仰はありえないことを知るべきである。(池田大作全集28「報恩抄」講義)
184
:
mumeijinn
:2010/01/12(火) 22:30:19
御書321・⑱(p918・⑬) 死身弘法
「今度命をおしむならば・いつの世にか仏になるべき、又何なる世にか父母・師匠をも・すくひ奉るべきと・ひとへに・をもひきりて申し始め」
通解
今度命を惜しんだならば、いつの世に仏になることができようか。また、いつの世に父母、師匠を救いたてまつることができようか。このように考えて、ひとえに思い切っていいだしたところ
池田先生の指導
いかにして恩を報ずるかは、一般的に言えば、八宗の章疏等修学しなければならないが、日蓮大聖人の仏法においては、三大秘法の大御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え、死身弘法に励むことが、唯一の知恩、報恩なのである。(池田大作全集28「報恩抄」講義)
185
:
mumeijinn
:2010/01/13(水) 07:46:24
御書322・④(p918・⑰) 難を受けて立つ信心
その後弥菩提心強盛にして申せば、いよいよ大難かさなる事、大風に大波起こるがごとし。昔の不軽菩薩の杖木のせめも我身につみしられたり。覚徳比丘が歓喜仏の末の大難も、これには及ばじとをぼゆ。
通解
その後いよいよ菩提(悟り)を求める心を強盛にして正法を弘めたので、いよいよ大難が重なってきたのは、大風が吹いて大波が起こるようなものであった。昔の不軽菩薩が杖木によって人びとから打たれ責められた苦しみも、わが身で知ることができた。覚徳比丘が、歓喜増益如来の末法に受けた大難も、日蓮が受けた大難には及ぶまいと思う。
池田先生の指導
日蓮大聖人の、伊東流罪、竜の口法難、佐渡流罪、身延へ入山とたどられた御一生は、じつに末法の御本仏として、未来永遠の一切衆生を救われんがための、大慈大悲の御一生であらせられたのである。 わが創価学会の今日あるも、すべて初代会長、二代会長の死身弘法の御徳の賜物である。われわれは、いかにしてこの師の重恩を報ずることができようか。ただひたすら、寸刻を惜しみて信行に励み、不自借身命の決意も新たに、広宣流布の大道を邁進するのみである。しかし、また、ここに時代の相違を知らなければならない。 日蓮大聖人の御一代にわたる大難をはじめとして、正法の歴史は迫害と法難の歴史でもあった。江戸時代においても、入牢、追放、遠流等が跡を絶たなかったのである。 しかし、創価学会の初代牧口会長の牢死、二代会長の会長就任からは、ようやく広宣流布の時きたれるか、日本国内はいうまでもなく、遠く世界の各国にまで、弘教が進みつつある。弾圧や迫害に耐え忍んできた前代に比し、いまは個人も家庭も社会も、大御本尊の大功徳に浴しながら、ますます信行に励む順延広布の時代となったのである。(池田大作全集28「報恩抄」講義)
186
:
mumeijinn
:2010/01/13(水) 17:44:58
御書p324・⑮(p921・⑮) 一切の哲理は法華経の大海に流入
法華経は露・涓・井・江・小河・大河・天雨等の一切の水を一茀ももらさぬ大海なり。
通解
法華経と他の経々とを比較するならば、法華経は、露やちょろちょろ流れる水、井戸水や水たまり、小さな川や大河、雨水などに譬えられる一切経の水を、一滴ももらさずに収めつくした、大海のようなものである。
拝読の手引き
法華経すなわち、三大秘法の大御本尊には、八万宝蔵と言われる一切経の生命哲理と功徳が、ことごとく収めつくされていることを、大海に譬えて述べられています。 水といっても、ほんのひとしずくの水から河川、そして大海に至るまで、さまざまです。仏教のいかなる経典といえども、そこに説かれる哲理は、すべて生命尊厳の教えであることに変わりはありません。 しかし、同じ水であっても、つかの間に消えてしまう露や、したたり水のようなものもあれば、豊かな水量をたたえた大河もあります。しかし、どんな大きな大河であっても、大海に勝るものはありません。 法華経の大海こそ、あらゆる時間・空間の制約を越えて、一切の人々に、常に生命尊厳の実証と大功徳を示しきらせていける大哲理なのです。 また、いかなる知識や哲理といえども、大海に流れ込む諸河川のように、すべて妙法の一分を説いたものにすぎず、妙法を知らなければ、画竜点睛を欠いたものになってしまいます。 今日、行き詰る現代文明を打開する道を求めて、仏教書の研究がブームを呼んでいます。しかし、ともすればそれは理論、観念にのみ終始しがちです。 私たちは今こそ、法華経こそ最も勝れた経典であり、その法華経の肝心、実態、画竜点睛こそ、三大秘法の御本尊であることを、現実の生活を通して示しきる日々でありたいものです。そして、大いに仏法対話を展開していきましょう。(文庫本「きょうの発心」650)
187
:
mumeijinn
:2010/01/14(木) 06:25:15
御書p326・⑩(p923・⑬) 力ある大宗教の出現
日蓮が南無妙法蓮華経と弘むれば南無阿弥陀仏の用は月のかくるがとく、塩のひるがごとく、秋冬の草のかるるがごとく、冰の日天にとくるがごとくなりゆくをみよ。
通解
日蓮大聖人が、南無妙法蓮華経と唱えひろめることによって、南無阿弥陀仏の働きが、あたかも太陽が出て月が隠れるように、潮がひいていくように、秋冬の草が枯れていくように、あるいは氷が太陽の光にあってとけるように、衰えゆく様子をはっきりと見なさい。
拝読の手引き
日蓮大聖人の仏法が、いかに大きな力をもっているかを明かされた御文です。 大聖人の御一生は、まさに、この御文にある通りであったといえます。鎌倉時代の当時、真言宗、禅宗、浄土宗、律宗の四周が栄えていましたが、国土、社会は良くなるどころか、ますます混乱の度を増していました。大聖人はこの事態を憂え「四箇の格言」をもって、既成仏教の欠陥と限界を糾弾し、真の民衆救済の宗教として、南無妙法蓮華経の大仏法を確立されたのです。 立宗宣言、四箇の格言に始まる大聖人の激烈な一生は、浄土宗をはじめ、既成諸宗が民衆に及ぼしていた“用“(働き、影響力)を空洞化し、相対化する歴史的な宗教革命であったのです。それは、ちょうど、太陽の前に月がかくれるように、あるいは潮がひき、秋冬の草が枯れていき、氷が太陽にとけていくような姿にたとえられます。 大聖人は、南無阿弥陀仏の”用”が衰えゆくようすを「みよ」と確信をもって、いいきっておられます。私たちはこの大聖人の確信を胸に、日夜活動に励みたいものです。あくまでも、道理にかなった実践、常識豊かな行動を忘れずに――。 今、私たちの行動も、やはり、三大秘法の御本尊を知らしめ、形骸化した宗教界に新風を吹き込む宗教革命の実践です。この大聖人の力強い宣言を銘記して、元気いっぱいに活躍していこうではありませんか。(文庫本「きょうの発心」411)
188
:
mumeijinn
:2010/01/14(木) 20:56:53
御書p328・⑯(p926・⑥) 広宣流布
日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし、此の事いまだ・ひろまらず一閻浮提の内に仏滅後・二千二百二十五年が間一人も唱えず日蓮一人・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と声もをしまず唱うるなり
通解
日本から中国、インド、そして全世界において、仏法の智慧がある人と、そうでない人を分け隔てることなく、一人一人がみんな一緒に他の修行を捨てて、南無妙法蓮華経と唱えるべきである。このことは、いまだ広まっていない。全世界の中で、釈尊の入滅後、二千二百二十五年の間、一人も唱えなかったのである。ただ日蓮一人が、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と、声も惜しまず唱えているのである。
池田先生の指導
本門の題目には信行を具する。信は行の初めであり本因妙である。行は信の終わりであり本果妙である。信も行も刹那の始終であり、一念の因果である。 また、「一同他事をすてて」とは信心であり、「南無妙法蓮華経と唱う」とは修行である。ゆえに、もっぱらこの本尊を信じて題目を唱えることが肝要なのである。〈文段集p436〜437の趣意〉(池田大作全集28p497)
189
:
mumeijinn
:2010/01/15(金) 04:49:37
御書p329・②(p926・⑨) 礎は深く堅固に
根深ければ枝しげし、源遠ければ流れながし。
通解
草木の根が深ければその枝も繁茂し、源が遠ければその流れは長い
拝読の手引き
根が深く張って入る草木には枝が生い茂り、水源の遠い川はその流れが非常に長いように、人生すべて土台、根元がいかに堅固でどこまで深いかが、重要な問題であります。 ゆうゆうたる人生を送り、勝利の生活を確立する根本は信心であり、信心の土台さえしっかりしていれば、生活に憂いはありません。信心が強盛か、それとも揺らぎがちな信心かどうか、その違いは、生活のうえに、将来の人生のうえに、明暗二様、恐ろしいほどに、その結果を現ずるのです。 広大なビルディングをつくるには土台が深く強くなければなりません。堅固な土台の上にこそ、はじめて高層建築が出来上がるのです。現在の強固な信心の土台の上に、人間革命、将来の大成があるのです。池田会長は「建設之譜」に次のようにうたっています。 礎は 深く また深く―― 塵未来の 永劫の聖火を 閃然として 点すからには 永遠に崩れない 礎を いまこそ 築こうではないか! 礎は ふかく深く そして 岩底まで 掘らねばならぬ 正本堂建立の昭和四十七年、また次の十年間を目標に、今こそ自己の奥底に信心の楔を深く打ち込んでいきましょう。 現在、信心の源が豊かでなければ、将来の成長に影響し、福運も生命力も枯渇してしまいます。修行の根が浅ければ、功徳の果実、豊かな人格の枝葉は繁りません。 広宣流布のために、令法久住のために、我が組織を生き生きとして、団結固い人材の堅域にしてみせるぞ、激動の未来に備えて深い堅固な実力を身につけよう、と心を新たにし、強い信心を築き上げていきましょう。(文庫本「きょうの発心」36)
190
:
mumeijinn
:2010/01/15(金) 19:34:48
御書p329・③(P926・⑪) 掲げよう!慈悲の灯
日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ 。此の功徳は伝教・天台にも超へ、竜樹・迦葉にもすぐれたり。
通解
日蓮の慈悲が広大ならば、南無妙法蓮華経は万年のほか、未来までも流布(るふ)するであろう 日本国の一切衆生の盲目を開く功徳がある。無間地獄の道をふさぐものである。
191
:
mumeijinn
:2010/01/15(金) 19:37:03
池田先生の指導
わが創価学会は、この御聖訓の正しさを実証を持って示した。末法万年尽未来際への令法久住の流れをつくった。そして人類の不幸の流転をおしとどめるために、世界広宣流布の道を開いている。世界の心ある知性も、この創価の前進に、21世紀の希望を託している。(全国最高協議会 聖教新聞2005年2月26日付) 日蓮大聖人は、学問や観念で人々を救われたのではない。慈悲という本源的な生命のうえから発する力をもって、人々の救済に向かわれたのであります。 されば「開目抄に」には「日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし」(御書p202)と説かれたのであります。 慈悲なきところみ難はない。民衆を本源より救いきろうとする慈悲の力の前にには、これを妨げる三障四魔が紛然として競い起るのが、仏法の原理であります。日蓮大聖人は「仏法は勝負なり」の道理によって、たび重なる難を忍ばれ、大慈悲のやむにやまれぬ発露のままに、実践行に挺身されたのであります。 「南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし」とは、南無妙法蓮華経の法力が、慈悲という大聖人の人格に発する力によって尽未来際にまで流れ通うことであります。しょせん、この文は広宣流布の淵源が、日蓮大聖人の慈悲の振る舞いから始まったことを意味しているといってもよい。 慈悲とは、仏法を根本とした崇高な人間の営為の中に、にじみ出てくる人間の光なのであります。法、法といっても、しょせんは、、仏法を信ずる人間の営みの中に流れていくことはまちがいない。 「日本国の一切衆生の盲目」の「盲目」とは、これは肉眼をいうのではない。どんなによい肉眼をもっていても、生命の本源に暗く、人生に暗く、未来の光を感じない人はここでいう盲目なのであります。 日蓮大聖人の仏法は、たとえていえば暗闇をさまよう船を導く灯台であります。また、荒波を航行する船の羅針盤であります。方向性を失った生活、人生、社会はみじめこのうえもない。つねに未来を切り開く叡智の光の光源こそ、南無妙法蓮華経であることを、強く訴えておきたい。
192
:
mumeijinn
:2010/01/15(金) 19:38:03
またここには師弟の問題が論じられている。師弟こそ人間の生き方の究極であり、生命の盲目を開く師なき人は、人間として向上を失っていくのであります。 「無間地獄の道をふさぎぬ」の「無間地獄}とは、人間の苦悩の極限をさすのであり、人間が人間らしさを失い、品位も尊厳も、芥のごとく踏みにじられていく塗炭の苦しみをいうのであります。その最たるものは戦争でありましょう。 ゆえに、無間地獄の道をふさぐということは、あらゆる苦悩の根源である、生命奥底の魔性を冥伏させることによって、三毒熾盛の根を断つことを意味している。そこに、人間が最も人間らしく生きることのできる平和、文化建設の方途が示されることは必然であります。 「此の功徳は伝教・天台にも超へ竜樹・迦葉にもすぐれたり」 日蓮大聖人の、主・師・親の三徳を具備なされた三大秘法の仏法を流布しゆく功徳は、伝教、天台にも超過し、竜樹、迦葉にも勝れているとおおせであります。 迦葉、竜樹、天台、伝教がいまだ弘めなかった「大法」を弘通する者は、これらの人々の受けなかった「大功徳」を受けられるとおおせなのであります。まさに「法妙なるが故に人貴し」の原理であります。それは「人貴きが故に所尊し」となっていくことも必然である。 ここは、あくまでも日蓮大聖人の仏法、および御自身の功徳について述べられた御文です。そのことを前提としたうえで、私たち信徒の立場に約して拝するならば、我々にとってまことにありがたいおおせであります。あの釈尊十大弟子の筆頭たる摩訶迦葉、かの”大乗八宗の祖”とされる竜樹を凌駕し、中国において小釈迦と言われた大聖哲・天台大師を超え、かつまた、日本の平安期の精神文化を築いた伝教大師に勝る、とのおおせである。 ここに、迦葉、竜樹を代表としてインドの先哲、天台大師を代表として中国の碩学、伝教大師を代表として日本の大宗教家をあげておられる。三国を網羅しているということは、当時の世界観に照らして全世界に通ずる意味をもっているのであります。すなわち、大御本尊を受持し、日蓮大聖人の仏法を信ずる人は、全世界の先哲や碩学よりもなお尊貴であることを訴えておられるのであります。 末法の大法・南無妙法蓮華経こそ宇宙本源のリズムの根源力であり、この妙法を唱えられる福運を、我々は改めて肝に銘ずべきでありましょう。 またこれこそ、日蓮大聖人の仏法の骨髄の御教示であると拝することができる。なぜなら、天台、伝教等々これらの先哲は、かつて人々の崇拝の的であり、雲閣月卿をみるがごとき高貴な存在であった。それに対し、我らは無名の庶民である。しかし、それらの人々よりも、なお偉大な人間としての実践行動ができることを示されているからであります。(池田会長全集10p523)
193
:
mumeijinn
:2010/01/17(日) 18:08:07
御書p329・⑤(p926・⑫) 時を知る
極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず、正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか、是れひとへに日蓮が智のかしこきには・あらず時のしからしむる耳、春は花さき秋は菓なる夏は・あたたかに冬は・つめたし時のしからしむるに有らずや
通解
極楽浄土での百年の修行の功徳は、汚(けが)れた、この国土での一日の修行の功徳に及ばない。正法、像法二千年の弘通は、末法の一時の弘通に劣るであろう。これは、日蓮の智慧がすぐれているからではない。ひとえに弘むべき時節が来たからである。春は花が咲き、秋は果がなる、夏は暖かく、冬は冷たい、これらも時のしからしむるによるゆえではないか。
池田先生の指導
竜樹、天親よりも、天台、伝教よりも、日蓮大聖人の仏法の功徳が最も勝れていることを明かされているのである。そしてそれは「時のしからしむる耳」であると仰せであるが、これはまことに甚深なるおことばと拝するのである。「三大秘法抄」および「日蓮一期弘法付嘱書」には「時を待つべきのみ」と仰せであり、今はまさしくその順縁広宣流布の時なのである。 「冬は必ず春となる」〈妙一尼御前御消息」御書p1253〉と仰せのように、仏法においては、とくに「時」が重要である。だれが疑おうが、だれが怨嫉しようが、だれが反対し、だれが弾圧しようが、日蓮大聖人の三大秘法の仏法は、必ず全世界に流布され、絶対の功徳があることは、冬が春になり、太陽が東から西へ行くよりも確実なことなのである。これ、ひとえに「時のしからしむる耳」のゆえである。 世界広布、大白法の流布の途上には、多少の弾圧や摩擦が起こるのは当然である。三障四魔が競い起ることは御本仏の御金言である。しかし、水が低きに流れる道理のように、三大秘法の大御本尊、、すなわち日蓮大聖人の仏法は必ず全世界に流布されていくのである。(池田大作全集28p498)
194
:
mumeijinn
:2010/01/18(月) 05:56:42
題名 :報恩抄送文
対告衆 :浄顕房・義浄房
執筆年次 :建冶2・7・26
聖寿 :55
西紀 :1276
著作地 身延
大意 報恩抄の重要性や拝読の心構えを明かし、また墓参の代理に日向を遣わすことなどを記している。
195
:
mumeijinn
:2010/01/18(月) 19:29:28
題名 :法華取要抄
対告衆 :富木常忍
執筆年次 :文永11・5
聖寿 :53
西紀 :1274
著作地 身延
大意 法華経の要中の要である三大秘法の南無妙法蓮華経が末法弘通の本尊であることを明かされている。
196
:
mumeijinn
:2010/01/19(火) 08:51:11
御書p337・⑯(p613・⑯) 仏法の破壊は人心から
今当世の悪王比丘の仏法を滅失するは、小を以て大を打ち権を以て実を失う。人身を削りて身を失わず、寺塔を焼き尽くさずして自然に之を喪す。其の失前代に超過せるなり。我が門弟之を見て法華経を信用せよ。
通解
末法今時の悪王や悪僧が仏法を滅ぼすのは、小乗教をもって大乗教を打ち破り、権教をもって実教を失うのである。身はそこなわないが、人の心を削り、寺塔を焼き尽くさないで、自然に仏法を滅ぼしてしまうのである。その罪は正法・像法の前代よりもはるかに重い。私の弟子は、この現状を見て、法華経(御本尊)を信用しなさい。
拝読の手引き
正法を知らない指導者や宗教家、学者、知識階層がいかにして仏法を滅ぼすか、正法を持つ者はいかにしてそれを防ぐべきかを説かれた一節です。 寺塔を焼くならば、仏法を破ろうとしていることは誰の目にも明らかです。しかし「人身を削て身を失わず」とあるように、仏法の破壊はそういう外形的なところから起こるものではありません。人の心から起こるから怖いのであり、それは目に見えません。身は仏法の信者でありながら、その信心を削り取られてしまうのです。それは仏教の中で何が正しい教義なのかわからなくなり、また仏教と他の宗教・哲学との優劣に迷うところから生じます。 信心の心が破られれば、そこに仏法はありません。御本尊を信ずる生命の躍動の中にのみ仏法は脈打っているのです。 したがって正法滅失に対する最後の歯止めは、御本尊との豊かな境智冥合につきます。唱題のリズムがあれば、魔の付け入るスキはないのです。歓喜と前進に満ちた生命、素晴らしい実証から湧きあがる哲理への確信のある限り、正法は盤石です。戒めるべきは弱々しい信心です。だからこそ、日蓮大聖人は「法華経を信用せよ」と端的に要諦を示されたのです。(文庫本「きょうの発心」566)
197
:
mumeijinn
:2010/01/19(火) 19:28:31
題名 :四信五品抄
対告衆 :富木常忍
執筆年次 :建冶3・4・10
聖寿 :56
西紀 :1277
著作地 身延
大意 末法の法華経の行者の修行の姿を述べられている。
198
:
mumeijinn
:2010/01/20(水) 11:31:30
御書p339・⑪(p968・⑥) 指導者
教弥よ実なれば位弥よ下れり
199
:
mumeijinn
:2010/01/20(水) 16:37:35
御書p342・⑥(p971・①) 妙法を持った人の位
問う汝が弟子一分の解無くして但一口に南無妙法蓮華経と称する其の位如何、答う此の人は但四味三教の極位並びに爾前の円人に超過するのみに非ず将た又真言等の諸宗の元祖・畏・厳・恩・蔵・宣・摩・導等に勝出すること百千万億倍なり、請う国中の諸人我が末弟等を軽ずる事勿れ進んで過去を尋ぬれば八十万億劫に供養せし大菩薩なり豈熈連一恒の者に非ずや退いて未来を論ずれば八十年の布施に超過して五十の功徳を備う可し天子の襁褓に纒れ大竜の始めて生ずるが如し蔑如すること勿れ蔑如すること勿れ
200
:
mumeijinn
:2010/01/21(木) 06:20:37
御書p342・⑩(P971・⑤) 功徳
「若し悩乱する者は頭七分に破れ供養すること有る者は福十号に過ぐ」
201
:
mumeijinn
:2010/01/21(木) 19:11:03
題名 :下山御消息
対告衆 :下山兵庫光基
執筆年次 :建冶3・6
聖寿 :56
西紀 :1277
著作地 身延
大意 法華経信仰の経緯を述べ、大聖人の仏法の正しさを客観的に論じている。
202
:
mumeijinn
:2010/01/22(金) 10:19:16
御書p344・⑤(p992・⑬) 我慢偏執の心
当世日本国は人毎に阿みだ経並びに弥陀の名号等を本として、法華経を忽諸し奉る。世間に智者と仰がるる人人、我も我も時機を知れり知れりと存ぜられげに候へども、小善を持て大善を打ち奉り、権経を以て実教を失ふとがは、小善還って大悪となる、薬変じて毒となる、親族還って怨敵と成るが如し。難治の次第なり。
通解
当世の日本国は人ごとに阿弥陀経や弥陀の名号(南無阿弥陀仏)等を根本として法華経をないがしろにしている。世間で智者と尊敬されている人たちは、誰も彼も自分こそ時機に叶った法を知っていると思っているようだけれども、小善を以て大善を打ち、権教を以て実教を失うというその誤りは、小善がかえって大悪になり、薬が毒になり、親族がかえって怨敵になるようなものである。まことに救い難いところである。
拝読の手引き
仏法において、時と機根にかなった法を説くことがいかに至難であるかを明かされています。 大聖人当時、智者と目される人々が、なぜ、時機相応の教えを説いたのでしょうか。思うにそれは本文にも「我も我も時機を知れり」とあるように、“我も”という人間の生命に内在する我慢偏執の心と名聞名利を求める一念に元凶があったのではないでしょうか。仏法の本質を正確に見ることができなかったのだといえましょう。“我こそ知っている”という思いあがりによって、その結果、小善が大悪になり、薬が毒となり、親族が怨敵となるような混乱と不幸を招いたのです。 事情は現代にあっても、まったく変わりません。多くの識者と目される人々の中に、何人が、まったく“私”という心をすてて、民衆のことを考えているでしょうか。真に民衆のことを考え、民衆と一体になっている人は、物事の本質を的確につかみ、人々をしかるべき方向――幸福と平和――にリードしていくことができるのです。 現代においてそれを実践しつつあるのは、創価学会以外にありません。なぜなら、私達学会員の信奉する日蓮大聖人の三大秘法の仏法こそ、今日の時機に叶った仏法であるからです。 私達は御本尊を根本に、大聖人が「難治の次第なり」と述べられた当時の世相とあまり変わらない現代社会の変革をめざし、日夜の活動に邁進したいものです。(文庫本「きょうの発心」259)
203
:
mumeijinn
:2010/01/22(金) 19:03:16
題名 :本尊問答抄
対告衆 :浄顕房日仲
執筆年次 :弘安元・9
聖寿 :57
西紀 :1278
著作地 身延
大意 妙法五字の本尊の未曽有なることを述べられ、法華経の題目こそ末法弘通の本尊である。
204
:
mumeijinn
:2010/01/23(土) 10:25:50
御書p365・①(p1149・①) 題目を以て本尊とすべし
問うて云く、末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし
通解
質問していう、末法と云うすべてが濁り乱れた悪い時代に生きる凡夫は、いったい、何物を本尊と定めるべきであろうか。答えていう、法華経の題目(南無妙法蓮華経)をもって本尊とすべきである。
拝読の手引き
ここでは、問答形式によって、末法と言う悪世に生きるわれわれは、三大秘法の南無妙法蓮華経を、本尊と定めていくべきであると、明確に断言されています。 本尊とは、人生・生活の根本規範となるものであり、その人の生きる姿勢、価値観を決定づける原点ともいえるものです。したがって、どのような本尊を選びとるかということは、すべての人にとって、最も重要な問題であることはいうまでもありません。そして、最高最尊の本尊を人生の原点に定めることは、時代をこえて、人間らしい充実した生き方を求めるすべての人の、強い願望であるといえましょう。 末法の初めに出現された日蓮大聖人は、この全民衆の要請にこたえることのできる本尊を「南無妙法蓮華経の大御本尊」として確立されたのです。 そして、この大御本尊が最高最尊であり、すべての人が原点とすべき本尊であることを、さまざまな教説・哲理を自在に用いながら明らかにされたのです。そして、低劣な本尊をあがめることが、人生・社会を不幸にし混乱させる根本原因であることを、生涯、叫び続けられたのです。 建長御念(1253)四月二十八日の立宗宣言に始まる大聖人の想像をこえる激闘は、人々を、正しい本尊感にめざめさせようとする“本尊革命”ともいうべき、大慈悲の実践であられたといえるでしょう。そこに、民衆救済の最直道が示されていることを、私達は忘れてはならないと思います。 そして、その御書の精神を、日々の活動のうえに実践し、確信あふれる仏法の対話を繰り広げていこうではありませんか。(文庫本「きょうの発心」396)
205
:
mumeijinn
:2010/01/23(土) 20:17:49
御書p366・⑤(p1150・⑤) 妙法の偉大さ
本尊とは勝れたるを用うべし
206
:
mumeijinn
:2010/01/24(日) 09:11:08
御書p366・⑨(p1150・⑤) 能生の法
法華経は釈尊の父母、諸仏の眼目なり。釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり。故に今能生を以て本尊とするなり。
通解
法華経は釈尊の父母であり、あらゆる仏の眼目である。釈尊も大日如来も、また全宇宙に存在するあらゆる仏も、この法華経から生まれたのである。それゆえ今、あらゆる仏を生みだす能生の法である法華経をもって(日蓮大聖人は)本尊とするのである。
拝読の手引き
妙法の一法こそ、過去・現在・未来の三世にわたる、あらゆる仏を生みだした、最も根源的な成仏の法であることを教えられた一節です。 信仰実践の対象として、どのような宗教にも、根本として尊敬すべき“本尊”があります。したがって、あらゆる宗教のもつ価値の高低浅深は、その宗教が信奉する本尊のいかんによって、決定されてくることは当然だといえます。今日、人間性を見失った文明の行方が心配されていますが、強く清浄で暖かな人間性の究極である”仏界の生命”を“本尊”とする私達の宗教ほどすぐれたものはありません。豊かな最高人格である“仏”の生命に合掌冥合するとき、私達の生命にも、そのすばらしい仏界があらわれ、暗く濁った宿命の流れも転換されていくのです。 この御文には、妙法のあらゆる仏を生みだした根源の法であることが明かされていますが、いついかなる時、いかなる場所においても、いかなる人をも成仏させる根源の南無妙法蓮華経を信受できた私達の福運は、仏の智慧をもっても考えることができないくらい大きいのです。 三大秘法の御本尊は、あらゆる仏の生みの親であり、私達の浅薄な知識や思索では、はかり知ることのできない宇宙の不可思議な生命のリズムを御本尊として具現化されたものです。私達は、あくまで純真にして謙虚な信心の実践によってのみ、初めて成仏の境涯を開いていけることを、常に心していきたいものです。 こと信心の姿勢においては、権威や知識にとらわれた慢心の人よりも、純真な信心に励む人の方が、絶対に幸福者であることを確信すべきです。(文庫本「きょうの発心」382)
207
:
mumeijinn
:2010/01/25(月) 05:38:04
御書p373・⑧(P1157・⑧) 罰
日蓮がいさめを御用いなくて真言の悪法を以て大蒙古を調伏せられば日本国還つて調伏せられなむ還著於本人と説けりと申すなり
208
:
mumeijinn
:2010/01/30(土) 10:19:57
御書p374・③(p1158・③) 自他の幸福を願う祈り
願わくは此の功徳を以て父母と師匠と一切衆生に回向し奉らんと祈請仕り候。其の旨をしらせまいらせむがためにご不信を書きおくりまいらせ候に、他事をすてて此の御本尊の御前にして一向に後世をもいのらせ給い候へ。
通解
願わくば、この(妙法弘通の)功徳をもって父母と師匠と一切衆生とに回向してあげたいと祈るものです。その趣旨をお知らせしようと思って、疑問に思われることについて、書き送って差し上げたのです。ですから〈真言や念仏などの〉他事をすてて、この御本尊の前で、ただ一心に後の世のことまでも祈りきっていきなさい。
拝読の手引き
日蓮大聖人は、末法の一切衆生のために、ご自身の功徳、福運を分かち与えていくことを、その願いとされていることを明かされ、この御本尊を絶対と信じて、現在から未来にわたる幸福を祈りきっていくことが大切であることを強調された一節です。 いつの時代にあっても、人びとが願い求めるものは、幸福を満喫しうる有意義な人生の確立にあることは、いうまでもありません。だが、とかくその幸福の実態は、他人を考えないものであったり、長続きのしないものであったりしがちです。 しかし、私達の信受する御本尊は、現在の人生における幸福を確立するのみならず、未来世の人生をも幸福に導き、より深く生命自体を変革していく根本法なのです。また、自己の幸福の確立のみならず、他人の幸福を願って、時代・社会をも平和と繁栄に導く大功徳が備わっています。 真の人間性を追求しゆく私達にあっては、ただ単に自分一個の幸福のみに満足するような利己主義の姿勢は、戒めていきたいものです。父母や師匠を始め、一切衆生に御自身の戦われた功徳を回向しようと願われ、不幸の元凶に向けて、ただ一人挑戦された大聖人の大慈悲のお振る舞いをしのぶとき、そこにこそ至高の人間としてのお姿を拝することができます。 人間革命を目指す私達は、この大聖人の御境涯に学び、謙虚な求道者の姿勢を持続しきって、自他の幸福を祈り実践するまことの弟子となっていきたいものです。(文庫本「きょうの発心」414)
209
:
mumeijinn
:2010/01/30(土) 18:37:24
題名 :諸宗問答抄
対告衆 :
執筆年次 :建長7
聖寿 :34
西紀 :1255
著作地
大意 天台・禅・華厳・法相・三論・倶舎・成実・律・真言・念仏等の諸宗の者と法論をする時の要点を教えたもの、各宗の教義を簡潔に述べ、批判している。
210
:
mumeijinn
:2010/01/31(日) 10:06:43
題名 :一生成仏抄
対告衆 :富木常忍
執筆年次 :建長7
聖寿 :34
西紀 :1255
著作地
大意 只題目ばかり唱えることが一生成仏を決定すると教えられている。
211
:
mumeijin
:2010/01/31(日) 19:10:48
御書p383・①(p21・①) 唱題の意義
夫れ無始の生死を留めて此の度決定して無上菩提を証せんと思はばすべからく衆生本有の妙理を観ずべし、衆生本有の妙理とは・妙法蓮華経是なり故に妙法蓮華経と唱えたてまつれば衆生本有の妙理を観ずるにてあるなり
通解
無限の過去から繰り返されてきた生死の苦悩を留めて、今この人生で間違いなく最高の悟りを得ようと思うならば、必ず衆生に本来具わる妙理を自身の中に見ていくべきである。 衆生に本来具わる妙理とは妙法蓮華経のことである。ゆえに、妙法蓮華経と唱えれば衆生に本来具わる妙理を自身の生命の中に見ていることになるのである。
池田先生の指導
これが信心の目的です。「無始の生死」――生命は永遠である。宇宙が存在していたときから、私どもの生命はある。始めがあって終わりがあるというような生命ではない。無始無終、どこまでいっても、われわれの生命は永遠なのです、宇宙も長遠なのです。 その永遠の生命のなかにあって、「生死を留めて」、すなわち不幸、苦悩、苦しみというものをとどめて、「此の度決定して無上菩提を証せんと思はば」、すなわちここで一念発起して成仏を遂げたいと思うならば、「すべからく衆生本有の妙理を観ずべし」――自分の生命のなかに仏界が存在する、自分自身が妙法蓮華経の当体であることを知らなくてはならない。それを覚知するということは、御本尊に題目を上げる以外に道はないのです。 「衆生本有の妙理」とは、われわれの生命に本来そなわっている妙理のことで、それは何かといえば、「妙法蓮華経是なり」と。それは南無妙法蓮華経のことである。妙法蓮華経と唱えれば、「衆生本有の妙理」を観じたことになるのです。 その南無妙法蓮華経という偉大なる法を御図顕あそばされたのが日蓮大聖人であり、すなわち御本尊なのです。御本尊に南無妙法蓮華経と唱えることによって、「衆生本有の妙理」を観ずることができるのです。すなわち、自分自身が妙法蓮華経の大宇宙のリズムに合致した、妙法蓮華経の当体であるということを観ずることができる、覚知することができるというのです。(新版池田会長全集p420)
212
:
mumeijin
:2010/02/01(月) 09:43:33
御書p383・③(p21・③) すべてを包み、すべてに内在する妙理
文理真正の経王なれば文字即実相なり唯所詮一身法界の旨を説き顕わすを妙法と名く故に此の経を諸仏の智慧とは云うなり、
通解
法華経は、文も法理も真実で正しい経であるので、経文の文字はそのまま実相であり、実相はすなわち妙法である。
池田先生の指導
「文理真正の経王なれば」 「文理」とは、南無妙法蓮華経という文と、文によってあらわされいる法理のことで、それが真実の法であり、一切経の王である。すなわち、御本尊は、仏さまの悟りをそのままあらわされた究極の経であり、八万宝蔵の大将であり、一切の経々の王さまです。 八万法蔵を要約すれば、三大秘法に帰着するし、三大秘法をせんじつめれば、帰趨するところは一大秘法の御本尊です。ゆえに経王です。 したがって、「文字即実相なり」――御本尊のお文字は、即実相である。仏さまのお姿である。御命であり、観念的なものではない。「実相即妙法なり」、御本尊には妙の働きがある。不可思議なる働きがある。信ずれば功徳があり、誹謗すれば大罰を受けるというその力がある。 「唯所詮一心法界の旨を説き顕すを妙法と名く」「一心法界の旨」ということは、衆生の一心〈生命〉に法界(現象世界)のすべてが収まり、またこの一心が全宇宙に拡がっていくとの原理です。これを天台は一念三千の法理として示しました。一切の経の究極は、一念三千の法門になるのです。それを説き明かしたのを妙法というのです。 ゆえに、「此の経を諸仏の智慧とは云うなり」と。 その南無妙法蓮華経、即一念三千の仏法によって、三千の諸仏は仏になることができた。したがって、成仏できる本源の知恵は、南無妙法蓮華経である、御本尊なのであるというのです。(新版池田会長全集p421)
213
:
mumeijin
:2010/02/01(月) 21:11:03
御書p383・③(p21・③) 一心法界
唯所詮一心法界の旨とは十界三千の依正色心・非常草木・虚空刹土いづれも除かず・ちりも残らず一念の心に収めて此の一念の心・法界に偏満するを指して万法とは云うなり、この理を覚知するを一心法界とも云うなるべし
通解
結局、一心法界の法理を説き顕わしている教えを妙法と名づけるのであり、ゆえにこの法華経を諸仏の智慧というのである。 一心法界の法理についていえば、十界・三千における依報も正法も、色法も心法も、非常の草木も、また大空も国土も、どれ一つとして除かず、微塵も残さず、すべてを自分の一念の心に収め入れ、また、この一念の心が宇宙のすみずみにまで行きわたっていく。そういうさまを万法と言うのである。この法理を覚知することを一心法界ともいうのである。
池田先生の指導
「一心法界の旨」について、ここでさらに説かれています。 「十界三千の依正色心・非情草木・虚空刹土いずれも除かず」 全宇宙のありとあらゆる生命存在と現証世界のすべてをさしているのです。 「十界三千の依正色心」――十界は、地獄から仏界までの十の境界をいい、瞬間瞬間にあらわれる生命の境地をあらわしたものです。 私自身一個の生命体とすれば、私のこの宿命、たとえていうならば、病気で苦しんでいる宿命であるならば、これは地獄界です。その地獄界でありながら、ご飯を食べた、いい手紙が来た、いい音楽が聞こえたと喜びを感じる、天上界です。地獄界即の天上界です。十界に具足の十界がまたあるのです。 宇宙全体からみた十界ならば、自分自身は人間界です。この人間界のなかに、喜びや悲しみや楽しみがありますから、やはり十界の働きがそなわっている。 十界に各々十界があるので百界、そのそれぞれに十如是をそなえているので千如、さらに国土世間、五陰世間、衆生世間の三世間を具して三千世間となります。 「依正」とは、正報は我が身、依報は環境世界です。「色心」の色は肉体、心は精神です。「虚空」は大空、「刹土」は小さい土地。 「いずれも除かず・ちりも残らず一念に収めて」 一切の宇宙の全存在と現象が衆生の一心におさまる、含まれるということを、一心法界というのです。 「一念の心・法界に偏満するを指して万法とは云うなり」 また、これは逆にいったわけです。一念というものは、したがって、全宇宙に通ずるということなのです。 「此の理を覚知するを一心法界とも云うなるべし」 具体的にいえば、御本尊を拝むことによって、題目を唱えきっていくことによって、如来秘密神通之力の力をおだしくださることができるのです。大宇宙のリズムは、きちんとわが生命の幸福に及ぼす作用になっているのです。(新版池田会長全集p422)
214
:
mumeijin
:2010/02/02(火) 06:10:10
御書p383・⑥(p21・⑥) ”汝自身を知れ”
但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず麤法なり、麤法は今経に非ず今経にあらざれば方便なり権門なり、方便権門の教えならば成仏の直道にあらず成仏の直道にあらざれば多生曠劫の修行を経て成仏すべきにあらざる故に一生成仏叶いがたし、
通解
正し妙法蓮華経と唱え持っているといっても、もし、自身の生命の外に法があると思ったならば、それはまったく妙法ではなく、麤法(不完全な法)である。 麤法は、法華経ではない、法華経でなければ方便の教えであり、仮の教えである。方便であり、仮の教えであるならば、成仏へ直ちに至る道ではない。成仏へ直ちに至る道でなければ、何度も繰り返し生まれて重ねる長遠な修行を経て成仏できるわけでもないので、一生成仏はついに叶うことはない。
池田先生の指導
「妙法蓮華経と唱へ持つというとも若し己身の外に法ありと思はば全く妙法にあらず」 御本尊を持ち、題目を唱えているとしても、わが身が妙法の当体であると信じられないならば、成仏できない。他に幸せになる道はないか、幸せにしてくれる人はいないかと、環境や他人を頼っていく生き方が、「己心の外に法あり」と思うすがたです。 それでは「妙法にあらず」です。麤法というのです。「麤法」とは、妙法に対して劣った法とか、粗雑な法をいいます。御本尊を持っていない邪宗教は、法を盗んで、南無妙法蓮華経を唱えているけれども、それは麤法である。 「麤法は今経にあらず」――麤法であれば、それは法華経ではない。「今経にあらざれば方便なり権門なり」――法華経でなければ、方便経であり権教です。「成仏の直道」になるわけはありません。いつまで修行しても、絶対に成仏することはできないと断定していらっしゃるのです。 三大秘法の御本尊を離れたならば、ぜんぶ麤法になり、権教になり、外道になり「多生曠劫の修行」、すなわちどんなに長いあいだ修行しても、永久に仏になることはできない。いわんや、一生成仏はできるわけはないのです。(新版池田会長全集p424)
215
:
mumeijin
:2010/02/02(火) 19:11:50
御書p382・⑧(p21・⑧) 妙法の当体
故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと信心を発すべきなり
通解
ゆえに、妙法と唱え蓮華と読む時は、自身の一念を指して妙法蓮華経と名づけているのだと、と深く信心を起こすべきである。
池田先生の指導
「妙法と唱へ蓮華と読まん時」、すなわち御本尊にお題目を唱えるときは、自分の一念、生命を南無妙法蓮華経と名づけられたのであると信じていきなさい。と。題目を唱えた結果は、生活のうえに、はっきり事実としてあらわれるのです。信心即生活で、南無妙法蓮華経は、即いっさいの生活活動の源泉なのです。 自分自身が妙法蓮華経の当体になるのだ、その働きを湧現するのだという深い深い信心をもって、御本尊に題目を上げきりなさい、というお言葉です。(新版池田会長全集p425)
216
:
mumeijin
:2010/02/04(木) 18:11:08
御書p383・⑩(p21・⑩) 功徳善根は一念の所作
都て一代八万の聖教・三世十方の諸仏菩薩も我が心の外に有りとは・ゆめゆめ思ふべからず、然れば仏教を習ふといへども心性を観ぜざれば全く生死を離るる事なきなり、若し心外に道を求めて万行万善を修せんは譬えば貧窮の人日夜に隣の財を計へたれども半銭の得分もなきが如し、
通解
釈尊が一代の間に説いた八万聖教や、三世十方の仏や菩薩たちも、すべて自身の心の外にあるとは、決して思ってはならない。したがって、仏教を習うといっても、自身の心性を見ていかなければ、まったく生死の苦悩を離れることはないのである。 もし、心の外に成仏への道を求めて、万行万善を実践したとしても、それは、譬えば貧しい人が、昼夜、隣人の財を数えても、一銭の得にもならないようなものである。
池田先生の指導
「一代八万の聖教」――釈尊一代で説かれた膨大な経教といえども、また三世十方の諸仏、菩薩といっても、ぜんぶわが心の外にあると思ってはならない。 地獄というも、極楽というも、仏というも、修羅というも、すべてわが一念にあるのだというのです。つまり、不幸になる原因も、幸福になる因も、自分のなかにあると、とらえることが大切です。 どんなに仏法を学し、有名な宗教家や学者になったとしても、「心性を観ぜざれば」ということは、御本尊に題目をあげて、わが仏界を湧現していかなければ、自分自身が妙法蓮華経の当体なりと信じて実践しなければ、「全く生死を離るる事なきなり」、苦しみを離れることは絶対にできない、とのおおせです。 大聖人が衆生のために御本尊を御建立くだされたということは、どれほどありがたいことか、御本尊にめぐりあい、題目を唱えられることが、どれほどの福運であるか、いまさらながら感謝にたえないではありませんか。 「若し心外に道を求めて万行万善を修せんは」 心外に道を求めてあらゆる仏道修行をしようとも、どんなに慈善事業をしようとも、御本尊を離れた修行であるがゆえに、なにも利益はないのであります。 「譬えば貧窮の人日夜に隣の財を計へたれども半銭の得分もなきが如し」 なんの得にもならない、くたびれ損だということのたとえです。(新版池田会長全集10p426)
217
:
mumeijin
:2010/02/05(金) 06:01:48
御書p383・⑫(p21・⑫) 仏法を学んで外道になる
然れば天台の釈の中には若し心を観ぜざれば重罪滅せずとて若し心を観ぜざれば無量の苦行となると判ぜり、故にかくの如きの人をば仏法を学して外道となると恥しめられたり、爰を以て止観には雖学仏教・還同外見と釈せり 、
通解
そうであるから、妙楽が天台の教えを説明したなかに、「もし心を見なければ重罪を滅することはできない」と述べ、もし心を見なければ、無量の苦しみの修行になると断じているのである。ゆえに、このような人を「仏法を学んでいながら外道となる」と厳しく批判されているのである。 すなわち、天台の『摩訶止観』には、「仏教を学んでいながら、かえって外道と同じ考え方に陥っている」と述べている。
池田先生の指導
天台大師もこのようにいっているではないか、「若し心を観ぜざれば、重罪を滅することはできない。御本尊を信じて題目を上げなければ、絶対に罪は消えない。また、御本尊を信心しなければ、どんな仏道修行をしても、ただ無量の苦行となる罪業を積むだけだ。業因をつくるだけだ」――と。 皆さん方は信心できたからよかったのです。世の中には、立派そうな人もいるし、非常に福運のありそうな人もいるし、幸せそうな人もいるかもしれませんが、一生涯という長い間の人生をみ、また永遠の生命からみた場合には、かわいそうな姿になっていくのです。 反対に御本尊を持った人は、これから幸福へ、それから生命力を横溢して、福徳を積み勃興していけるのです。 したがって、「かくの如き人をば」――御本尊を知らない、創価学会以外の宗教、人々です。いくら仏法を勉強しているような姿を見せても、ぜんぶそういうような輩は外道である。 それで摩訶止観には、「雖学仏教・還同外見」、すなわち「仏教を学すといえども、かえって外見と同ず」、外道と同じであると釈しておられるのです。 さらにいえば、御本尊を持っていても、信じて実践できない人は、やはり外道と同じになってしまうのです。(新版池田会長全集10p427)
218
:
mumeijin
:2010/02/05(金) 23:11:56
御書p383・⑭(p21・⑭) 一生成仏の信心とは
然る間・仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり
通解
したがって、仏の名を唱え、経巻を読み、華を供え、香をたくことまでも、すべて自分自身の一念に功徳・善根として納まっていくのだ、と信心を起こしていきなさい
池田先生の指導
ゆえに御本尊にお題目を唱え、方便品、寿量品を読誦し、またしきみやお線香をお供えするということも、ぜんぶわが一念に功徳、善根として納まるのであると信じていくのです。 講義を聞くのも、座談会に行くのも、指導しに行くのも、御供養することも、一切法は是れ仏法ですから、わが身が一念三千の当体になるわけですから、御本尊のためになすいっさいの行動が、感謝にあふれ、真心を込めたものであるならば、すべて自分自身の功徳、善根になるというのです。どんなささやかな努力であっても、すべて我が身の福運となってかえってくるのです。 これがすこし、その一念がくるい、その一念が、信心から、この「一生成仏」の原理からはずれた場合には、とても苦しくなるのです。すぐにもんくやわがままをいいたくなるのです。その一念が、功徳をぜんぶ消してしまうのです。(新版池田会長全集10p428)
219
:
mumeijin
:2010/02/06(土) 09:06:57
御書p383・⑮(p21・⑮) 万人に開かれた生命変革の道
之に依って浄名経の中には諸仏の解脱を衆生の心行に求めば衆生即菩提なり生死即涅槃なりと明せり
通解
このこと(仏法の一切がわが己心にあるととらえていくべきこと)から浄名経の中では、「諸仏の悟りは衆生の心の働きに求めるべきである。衆生を離れて菩提はなく、生死の苦しみを離れて涅槃はない」と明かしている。
池田先生の指導
「解脱」とは悟りです。あらゆる仏の得た悟りの境地、諸仏が悟ったその知恵が、じつはそのまま「衆生の心行」にあるということです。衆生とはわれわれ凡夫です。 そのことを、「衆生即菩提」――九界の衆生が凡夫の身そのままで成仏する、迷いの生活が悟りへと開ける、また「生死即涅槃」――苦しみの生命が幸福に輝く生命に転換する、と明かしているのです。われわれ凡夫が御本尊に題目を上げれば、すなわち、それが悟りであり、解脱なのです。(新版池田会長全集10p429)
220
:
mumeijin
:2010/02/06(土) 20:51:01
御書p384・①(p22・①) 穢土即浄土
衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土と云ひ穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、
通解
(浄妙経【じょうみょうきょう】に)衆生の心が汚(けが)れれば、住む国土も汚れ、心が清ければ国土も清いとあるように、浄土(じょうど)といい穢土(えど)といっても、土に二つの隔(へだ)てがあるわけではない。ただわれらの心の善悪によるのである。
池田先生の指導
われわれ凡夫の心が寂しければ、その土も寂しく感ずるのです。われわれの心が楽しければ、その土も同じように楽しく感ずる。浄土というも、穢土というも、ぜんぶ、わが一念一心によって決定される。その反映であるというのです。すなわち「土」には二つの違いはないのです。 「只我らが心の善悪に見えたり」 自分の住んでいるところを楽しくするもしないも、それはわが一念によって決定されるのです。 広くいえば、全世界を地獄界にするか、修羅界にするか、仏界にするか、天上界にするかは、そこに住む人々によって決定されるのです。 ですから、御本尊を持つわれわれの一念で、どんなところをも楽しい国土にしていく、そういう環境をつくっていくのが、私どもの役目なのです。座談会に行っても、我が家へ帰っても、会社へ行っても、わが一念で、喜びにあふれた楽しい世界に変えていけるのです。(新版池田会長全集10p430)
221
:
taka
:2010/02/07(日) 09:27:27
御書p384・②(p22・②) 生命の変革と国土の変革
衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり
通解
衆生といっても仏といっても、またこれと同じである。迷っている時には衆生と名づけ、悟った時には仏と名づけるのである。
池田先生の指導
「衆生(凡夫)」といっても、「仏」といっても、なんのへだてもないのです。同じ当体なのです。同じ人間なのです。したがって、「迷う時は衆生」であり、「悟る時は仏」でもある。 同じ凡夫の当体でありながら、御本尊に題目をしみじみとあげて、わがこの生命こそ妙法と覚って、たくましい生命力と清らかな知恵をもって、人々を救ってあげたい、この法を教えてあげたい、という境涯の場合は「仏」です。 反対に信心を一生懸命やらないで、商売も苦しい、家庭も暗いといつも愚痴をこぼしている場合には「衆生」なのです。迷いなのです。 御本尊を拝んで、御本尊に照らされて、九界の現実の世界にあって悠々と闊歩していく、人生をたくましく切り拓いていく、それが私ども信心をしているものの姿なのです。安心立命です。 悩みや苦しみがあっても、それに引きずられない。悠々とそれを見おろして乗り切っていける。それで、人々を慈悲をもって、御本尊へ、御本尊へとみちびききっていく心が充満している。これがもう地涌の菩薩の生命なのです。(新版池田会長全集10p431)
222
:
mumeijin
:2010/02/10(水) 16:59:11
御書p384・③(p22・③) 月々日々に革新
譬(たと)えば闇鏡(あんきょう)も磨(みが)きぬれば玉と見ゆるが如し、只今(ただいま)も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、
通解
例えば、闇鏡も磨けば玉と見えるようなものである。ただ今も一念無明の迷信は磨かない鏡である。これを磨けば必ず法性真如の明鏡となるのである。
池田先生の指導
「闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し」 くもった鏡も磨けば、玉のようによくうつる。 「一念無明の迷信は磨かざる鏡なり」 したがって、私どもの「一念無明の迷信」は、生命自体にそなわった根本の迷いであるがゆえに、不幸なのです。 これを磨くならば、必ず「法性真如の明鏡」と変わるのです。「法性」とは妙法蓮華経、「真如」とは真理のことで、結局、妙法蓮華経という意味です。「法性真如の明鏡と成る」とは、仏の生命、仏界の境地が湧現するということです。正しいものの見方ができ、豊かな知恵がわいてくるのです。 また染浄の二法でいえば、一念無明の迷信が「染」です。九界です。それから法性真如の明鏡が「浄」で、清らかということです。仏界です。 一念無明の迷信は、魔の働きになってくるのです。法性真如の明鏡は仏の働きです。信心は魔と仏との闘争です。ですから題目をあげないで、御本尊を忘れては、その魔に負けてしまうというのは、ここにあるのです。(新版池田会長全集10p432)
223
:
mumeijin
:2010/02/11(木) 06:14:13
御書p384・④(p22・④) 持続
深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり
通解
深く信心をおこして日夜朝暮に、また怠ることなく磨くべきである。どのようにして磨くべきか、それはただ南無妙法蓮華経と唱えるのをこれを磨くというのである。
池田先生の指導
この御書の初めに「無上菩提を証せんと思はば」とありますが、無上菩提を証せんと思うならば、このようにして深く信心をしなさい、と結論されているのです。 無上菩提ということは、それ以上の悟りがないという意味なのです。無上に対して爾前経の悟りは有上なのです。 南無妙法蓮華経によって悟った悟りが、無上菩提なのです。最高の悟りになるのです。それを悟らんとするならば、「深く信心」をして、そして「日夜朝暮に又懈らず磨くべし」、今の皆さんの姿です。朝晩の勤行を怠らず邁進していることは、日蓮大聖人のおおせどうりに仏道修行している人です。 朝晩の勤行は、「日夜朝暮」とおしたためですから、朝だけでもいけないのです。晩だけでもいけないのです。地道な実践の積み重ねこそ、大切であります。 「只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是を磨くとは云うなり」 御本尊に、南無妙法蓮華経と唱え、唱えきって、わが生命を磨いていくのであります。(新版池田会長全集10p433)
224
:
mumeijin
:2010/02/11(木) 23:14:23
御書p384・⑥(p22・⑥) 妙とは超合理の世界
抑妙とは何と云う心ぞや。只我が一念の心不思議なる処を妙とは云うなり不思議とは心も及ばず語も及ばずと云う事なり,然れば・すなはち起るところの一念の心を尋ね見れば有りと云はんとすれば色も質もなし又無しと云はんとすれば様様に心起る有と思ふべきに非ず無と思ふべきにべきにも非ず、有無の二の語も及ばず有無の二の心も及ばず有無に非ずして而も有無に偏して中道一実の妙体にして不思議なるを妙とは名くるなり
通解
そもそも「妙」とは、どのような意味であろうか。それはただ、自身の一念の心が不思議であることを「妙」というのである。不思議とは、私達の心の働きも及ばず、また、言葉でも表せないということである。すなわち、瞬間瞬間起こっている自身の一念の心を探求してみると、それを有ると言おうとすれば色も形もない。また、無いと言おうとすれば様々に心が起こってくる。有ると考えるべきでもない。無いと考えるべきでもない。有と無の二つの言葉では表せず、有と無という二つの考えでも理解できない。有と無のどちらでもなく、しかも、有か無かのいずれかの姿をとるという、中道にして普遍究極の真理のままの姿であり、不思議であるそのあり方を「妙」と名づけるのである。
池田先生の指導
これはこのとおりです。「妙」とはどういう心か、ただ一念の心が不思議な作用をする、これを妙というのである。したがって、妙法は不可思議、思義することのできないということです。言葉でもいいあらわすことができない、文字でもいいあらわすことができない、それを、「不思議」といい、「妙」というのであります。 「一念の心」は妙です。十界三千の働きは、縁にふれて刻々と変わっているのです。 ここは、恩師戸田先生が牢獄の中で無量義経を読んでいたそのなかで、いきあたったところなのです。ちょうど、その三角でもない、四角でもない、まるくもない、青でもない黄でも赤でもない、縦でもない、横でもない、長さでもない、距離でもない、という経文にぶつかったのです。なんのことだろう。それが仏性、心性、すなわち、生命そのものである。一念一心という表現だったそうです。それが、われわれの一念一心の作用なのです。 切ってみても出てきはしない。有るとかいえば無いし、無いかといえば、きちんと精神作用、活動がある。妙であります。 有無ということばでとらえられないというのです。有でもない、無でもない。しかも有か無のどちらかをもってあらわれる中道一実の不思議な当体を妙というとのおおせです。(新版池田会長全集10p434)
225
:
mumeijin
:2010/02/12(金) 09:52:09
御書p(p22・⑨) 「妙心」の連続が「妙経」
此の妙なる心を名けて法とも云うなり、この法門の不思議をあらはすに譬を事法にかたどりて蓮華と名く、一心を妙と知りぬれば亦転じて余心をも妙法と知る処を妙経とは云うなり
通解
この「妙」である心を名づけて「法」ともいうのである。この法門の不思議を譬喩で表すのに、具体的な事物になぞらえて「蓮華」と名づける。一つの心を妙と知ったならば、さらに転じて、そのほかの心もまた妙法であると知ることを「妙経」というのである。したがって法華経は、善であれ悪であれ、一瞬一瞬に起こる一念の心の当体を指して、これが妙法の体であると説き宣べている経王なので、成仏の直道というのである。
池田先生の指導
「此の妙なる心を名けて法とも云うなり」 妙法です。妙とは法性、法とは無明と説いてある御書もありますが、いろいろな心の働き、現象があるのですから、法になります。 御本尊は妙法の当体です。その妙法の当体に私どもが妙法蓮華経と唱える南無妙法蓮華経と唱えると、自然に病気が治る、生命力が湧く、功徳が出てくる。これが現証です。不思議といわざるをえないが、事実は事実です。 したがって、「此の法門の不思議をあらはすに譬を事法にかたどりて蓮華と名づく」 これが譬喩蓮華です。妙法をあらわすものとして蓮華と名づけるのだというのです。 「一心を妙と知りぬれば亦転じて余心をも妙法と知る処を妙経とは云うなり」 心には善心、悪心、それから善心でも悪心でもない場合は、無記となぞらえておりますが、一切が妙法蓮華経なのだという意味なのです。 また、苦しい、楽しい、つらい、悲しい、その人に応じて、おのおの刻々とその作用があります。それらすべて妙法蓮華経なのです。苦しい、だからといって、南無妙法蓮華経を唱えるしかない。唱える当体が御本尊です。つらい、どうしたらいいか、南無妙法蓮華経を唱える。唱える当体は何か、対境は何か。それは御本尊です。結局はそういうことになるし、それが大事なのです。 悲しい、といっても題目を唱える以外にない。さびしい、といっても題目を唱える以外にない、悩むといっても題目を唱える以外にありません。したがって、ぜんぶ仏になれる。結果はみな幸せになれる。これが妙境です。(新版池田会長全集10p435)
226
:
mumeijin
:2010/02/12(金) 20:53:05
御書p384・⑪(p22・⑪) 成仏は決定して疑いなし
然ればすなわち善悪に付いて起り起こる処の念心の当体を指して是れ妙法の体と説き宣べたる経王なれば成仏の直道とは云うなり、此の旨を深く信じて妙法蓮華経と唱へば一生成仏さらに疑あるべからず、故に経文には「我が滅度の後に於て、応にこの経を受持すべし。是の人仏道に於て決定して疑いある事無けん」とのべたり、努努不審なすべからず穴賢穴賢、一生成仏の信心南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経。
通解
したがって法華経は、善であれ悪であれ、一瞬一瞬に起こる一念の心の当体を指して、これが妙法の体であると説き宣べている経王なので、成仏の直道というのである。この趣旨(妙法蓮華経が己身の法であるとの趣旨)を深く信じて妙法蓮華経と唱えれば、一生成仏はまったく疑いないのである。ゆえに、経文には「私が入滅(死ぬこと)した後の未来の世において、まさに、この法華経(現在では御本尊)を受持しなさい。この人は成仏することは絶対に疑いがない」と述べています。ゆめゆめ、不審をなしてはなりません。あなかしこ、あなかしこ。 一生成仏の信心、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。
池田先生の指導
善心であり悪心であり、いずれにしても念々起こるところの心、その心自体が、こんどは南無妙法蓮華経と誓って、この題目を唱えればぜんぶ成仏できる。どんな悪心であろうが、男性であろうが、女性であろうが、愚かな人であろうが、高貴な人であろうが、ただ御本尊に題目をあげればいいのだ、仏になるのだ、というのです。 その一念の本体から悪心もでるし、それから善心もでるし、悩みもでるし、苦しみもでてくるのですから、なんでもその一心一念に、題目を、御本尊に向かって唱えさせればいいのです。本当に簡単であり、ありがたい法門です。 「経文には」というのは神力品です。神力品には「我が滅度の後に於て」――釈尊滅度の後においてというのです。滅度には、三種類あります。滅度正法、滅度像法、滅度末法です。この「滅度」は末法と読んでいいのです。 「応に斯の経を受持すべし」――「斯の経」とは、末法の経、すなわち南無妙法蓮華経です。その三大秘法の南無妙法蓮華経を受持した「是の人」とは、名字即の凡夫です。 「仏道に於て」――仏道とは仏道修行です。その仏道修行において仏になることは「決定して疑有る事無けん」――疑う必要は絶対にないというのです。 さらに「努努不審をなすべからず」と念をおされていらっしゃいます。 「一生成仏の信心南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経」 釈尊の仏法は妙法蓮華経序品第一、妙法蓮華経譬喩品第三、妙法蓮華経如来寿量品第十六というふうに、説明なのです。 日蓮大聖人の仏法は、南無妙法蓮華経です。すなわち南無妙法蓮華経を唱え、それ自体の生命活動が生活の上に功徳としてあらわれる。実際なのです、実践なのです。即生活に通ずるのです。 釈尊の仏法は妙法蓮華経、序品第一、方便品第二というふうに説明書きなのです。文底から拝すれば、御本尊の説明なのです。また御本尊を中心にした功徳論と罰論、これが法華経二十八品といってもいいでしょう。 それに対して、日蓮大聖人の仏法は南無妙法蓮華経の仏法であり、すなわち歴劫修行せず、この世で、このままの凡夫の姿で、成仏の境界の生活ができる、との意味なのです。(新版池田会長全集10p437)
227
:
mumeijin
:2010/02/13(土) 10:49:07
題名 :主師親御書
対告衆 :御両親
執筆年次 :建長7
聖寿 :34
西紀 :1255
著作地
大意 法華経による悪人成仏・女人成仏の功徳を述べている。
228
:
mumeijin
:2010/02/13(土) 18:14:12
御書p386・⑯(p24・⑯) 難
世間の人々我も持ちたり我も読み奉り行じ候に敵なきは仏の虚言か
通解
法華経を持ち実践しているといっても、実際に敵が出現していないのであれば、仏の言葉は虚妄になってしまう」
池田先生の指導
古来、法華経を読んだ人は多かった。
しかし、、大聖人ほど、法華経に説かれている通りに、大難を受けられた方はおりません。
仏法を語れば必ず難にあう。悪世の中で、真実を語り抜くほどの難事はありません。(2009・11・8御書と師弟)
229
:
mumeijin
:2010/02/14(日) 10:22:19
御書p388・⑤(p26・⑤) 唱題で生命の濁りを清浄に
男此の経を信じまひらせて聴聞するならば、提婆達多程の悪人だにも仏になる、まして末代の人はたとひ重罪なりとも多分は十悪を過ぎず、まして深く持ち奉る人仏にならざるべきや。
通解
男子がこの法華経を信じて説法を聴聞するならば、提婆達多ほどの悪人でも成仏するのである。まして末代の人はたとえ重罪であるといっても大多数の人は十悪を越えていない。まして深くこの経を持っている人が成仏しないわけがあろうか。
拝読の手引き
釈迦に敵対し、悪逆のかぎりをつくした提婆達多さえも法華経によって成仏したことを通して、いかに悪業が強い人であっても必ず妙法によって人間革命できることを述べられた一節です。 確かに、末法の衆生というのは三毒が強盛です。多くの誤れる宗教が、人々に謗法の罪を重ねさせ、不幸、堕地獄の因をつくらせたのです。そのように悪業の強い人でも救える功力を備えたのが、大聖人の仏法なのです。 ところで、現代に生きて少しでも真面目に自己と対決する人であれば、自己の生命の濁り、醜さにイヤ気がさす場合があるのではないでしょうか。社会の濁流に巻き込まれていつのまにか、本来の自己の清浄なありかたを忘れてしまっている、といった反省を、心ある多くの現代人がしているのではないでしょうか。人間の心ほど恐ろしいものはないともいわれますが、宿業の重さ、福徳の微弱さ、生命の濁りに、がくぜんとする……そのように、生命のうちにひそむ悪を鋭く見つめることは大切ですが、それで未来への明るい前進を失ってはおろかです。 提婆達多でさえ成仏できたのです。汚泥の中に蓮華が美しい大きい花を咲かせるように、善悪一如で、見事に清浄な人間革命の花を咲かせることができるのが、妙法の力なのです。正中の正、清浄の中の清浄である御本尊にめぐりあえた私達です。必ず清浄な生命の当体にと自己変革できる福運の持ち主であることを強く確信したいと思います。 ただ、題目の力が弱くなってくると、人間の生命の“悪”が噴出し生活が曲がってきます。心すべきは、信力・行力の持続であり、そのたえまなき伸長です。(文庫本「きょうの発心」398)
230
:
mumeijin
:2010/02/14(日) 18:34:24
題名 :一代聖教大意
対告衆 :
執筆年次 :正嘉2・2・14
聖寿 :37
西紀 :1258
著作地
大意釈迦の一代聖経を四経、五時に配して聖経の大意を明かし、法華経の正意を説いている。
231
:
mumeijin
:2010/02/15(月) 05:42:29
題名 :一念三千理事
対告衆 :
執筆年次 :正嘉2・
聖寿 :37
西紀 :1258
著作地
大意:十二因縁、一念三千理事、三身釈の三部から成る。
232
:
mumeijin
:2010/02/15(月) 18:58:31
題名 :十如是事
対告衆 :
執筆年次 :正嘉2・
聖寿 :37
西紀 :1258
著作地
大意:我が身が三身即一身の当体であると覚知することが即身成仏である。
233
:
mumeijin
:2010/02/16(火) 09:17:20
御書p411・②(p49・②) 未来の結実を確信
譬えば春夏田を作りうへつれば、秋冬は蔵に収めてこころのままに用うるが如し。春より秋をまつほどは久しき様なれども、一年の内に待ち得るが如く、此の覚に入って仏を顕はす程は久しき様なれども、一生の内に顕はして我が身が三身即一の仏となりぬるなり。
通解
(わが身が仏であると悟れば、一生のうちに成仏できることは)たとえば春や夏に、田を作りタネを植えれば、秋や冬には実となり蔵に収めて、思いのままに用いることができると同じようなものである。春より秋を待つ間は長いようだけれども、一年のうちに待ち得るように、この覚りに入って、成仏の実証を顕わすまでは長いようだけれども、一生のうちに必ず顕わすことができるのであり、わが身が三身即一身の仏となるのである。
拝読の手引き
春や夏にまいたタネが、やがて花を咲かせ、秋や冬には実を結び収蔵できるのは、自然のことわりです。 と同じように、私達が三大秘法の御本尊をたもったということは、まさに生命の奥底に、幸福の種子を植えつけたことになるのです。そして、わが身が南無妙法蓮華経の当体であることを信じ、学会という豊かな大地にしっかりと根を張って、真面目に信行学の実践に励んでいくならば、生涯において、必ず絶対に崩れない幸福境涯を顕現し、所願満足の人生が開けることは間違いないのです。 しかし、草木が成長していくには、風雨や、日照り等々、厳しい自然の条件下におかれることがたびたびあります。大地に深く根を張り、試練に耐え抜いたものだけが、やがて見事に結実していくのです。 私達の人生航路、仏道修行の道程においても、同様に幾多の苦難が待ちうけていることでしょう。人生が建設途上の上り坂であればあるほど、悩みや苦難は大きいかもしれません。 だが、辛い時、苦しい時に、真剣に唱題し、豊かな生命力と英知を湧現させて、悩みや苦難に挑戦してこそ、真に人間革命できることを瞬時も忘れてはなりません。そうした自己自身の戦う生命の姿勢のなかに福運が刻まれ、さまざまな特質が開花していくのです。その実践のなかに、将来の幸福も、未来の繁栄も明らかに内包されていることを確信すべきです。(文庫本「きょうの発心」202)
234
:
mumeijin
:2010/02/16(火) 18:04:52
題名 :一念三千法門
対告衆 :
執筆年次 :正嘉2・
聖寿 :37
西紀 :1258
著作地
大意:法華経が余興に勝るのは法華経に一心三観・一念三千があるからである。
235
:
mumeijin
:2010/02/17(水) 05:50:00
御書p415・⑬(p53・⑬) 功徳
此の娑婆世界は耳根得道の国なり以前に申す如く当知身土と云云、一切衆生の身に百界千如・三千世間を納むる謂を明が故に是を耳に触るる一切衆生は功徳を得る衆生なり
通解
この娑婆世界は耳根得道の国である。以前に述べたように「当に知るべし身土一念の三千である」とある。一切衆生の身に百界・千如是・三千世間を納める理由を明かすゆえに、妙法蓮華経を耳に触れる一切衆生は功徳を得る衆生である。
拝読の手引き
娑婆世界は、耳で妙法を聞くことによって成仏得道できる国土であることを述べられている。「耳根」とは六根(眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根)の一つで、聴覚器官や聴覚能力をいう。「根」は力があり、強い作用をもつものの意である。法華玄義巻六下二「此の土は耳根利なるが故に、偏に声塵を用う」(大正三十三巻p755)とある。「声塵」とは耳根の対象となる対境をいう。 「耳根」が鋭いということについては、さまざまな例証がある。例えば人間の五感の中で、耳は誕生以前から死に至るまで機能しているとされる。胎内にいる子供はほぼ六カ月で、聞く器官と神経ができあがり、また臨終の時でも、周囲の音が聞こえている場合が多いといわれる。ただ聞こえていることを周囲に知らせる力がないだけのことだという。 しかも、声や音は、いわば直接、生命の深みに響き、影響を与えていく。その意味で「耳」は世界と宇宙に開かれた”生命の窓”ということができよう。したがって、至高の音声である妙法の題目を唱え、響かせていくことがいかに尊貴なことであるかを知ることができるのである。 古来から「耳根」が重要視されてきた一例を挙げれば、「聖人」の「聖」の字も、意味の中心は「耳」にある。「天の声を聞き分ける」のが、その本義である。また「聡明」の「聡」という字も、耳が中心である。「耳が良く通じている」、つまり“聞き上手”というのが原義である。即ち、宇宙の森羅万象の「声」をよく聴く力と徳を「聡」といい、その人を「聖」というわけである。 ちなみに、「娑婆世界は耳根得道」であるが、娑婆世界以外の他の国土(天体)はどうなのかというと、必ずしも耳根得道ではないとされる。 「以前に申す如く当知身土と云々」は、先に挙げられた妙楽大師の止観輔行伝弘決巻五の「当に知るべし身土一念の三千なり故に成道の時、此の本理に称うて一心一念法界に偏し」(大正四十六巻p295)の文のことで、一念三千の法理を示した天台大師の摩訶止観の文を受けた釈である。 既述したように、「身」は衆生の一身〈正報〉、「土」はその身が存在する場所・国土(依報)で、本来、不二であることから身土不二という。つまり、正報である身も依報の国土も、我ら衆生の一念に即三千とあらわれるのである。また「一身」とは所証の境、「一念」とは能証の智であり、「法界」とは十法界、「遍し」とは遍満の意である。ゆえに、成仏の時には本地難思境智の妙法に叶って、一身も一念も、ともに法界に遍満するのである、との意である。 此の釈にみられるように、一切衆生の身に十界互具・百界千如・三千世間をおさめるという意義を明かしたのが妙法蓮華経であるゆえに、この妙法蓮華経の題目を「耳に触るる一切衆生」は、順縁・逆縁の別なく、必ず成仏の功徳を得られるのである。(日蓮大聖人御書講義第五巻下p179)
236
:
mumeijin
:2010/02/17(水) 19:16:24
題名 :十法界事
対告衆 :
執筆年次 :正元元
聖寿 :38
西紀 :1259
著作地
大意:十界互具の義をめぐって爾前・迹門・本門を比較相対し、四重の興廃を論じている。
237
:
mumeijin
:2010/02/18(木) 06:12:07
題名 :爾前二乗菩薩不作仏事
対告衆 :
執筆年次 :正元元
聖寿 :38
西紀 :1259
著作地
大意:爾前経では二乗をはじめ菩薩も成仏できないと、諸経論を引用して明かしている。
238
:
mumeijin
:2010/02/18(木) 20:06:43
題名 :十法界明因果抄
対告衆 :
執筆年次 :文応元・4・21
聖寿 :39
西紀 :1260
著作地
大意:十法界の名目を示し、各界の因果を詳細に明かされている。
239
:
mumeijin
:2010/02/19(金) 09:23:40
御書p433・⑩(p133・⑩) 自身を軽んじ他人を重んず
菩薩界とは、六道の凡夫の中に於て自身を軽んじ他人を重んじ悪を以て己に向け善を以て他に与えんと念う者有り。仏此の人の為に諸の大乗経に於て菩薩戒を説きたまえり。
通解
菩薩界というのは、六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天)の凡夫の世界において、自分自身を軽んじて他人を重んじ、悪をもって自分に向け、善をもって他人に与えようとする者がいる。仏は、この人のためにもろもろの大乗経で、菩薩界を説かれたのである。
拝読の手引き
この御文は、十界のうち菩薩界について述べられたものです。地涌の菩薩である私達は、この御文から、現実社会における仏道修行のあり方を学ぶことができます。 私達の修行の場は、六道の凡夫の中、つまり現実社会であり、民衆の中です。そこで妙法をひろめようとするとき、私達の姿勢としては、決して他人を軽んじてはならないということです。たとえ自分を軽んじることがあっても他人を尊重し、大事にしていくことが大切なのです。また、あらゆる悪を自分の身に受けても、決してそれを他人に向けるのではなく、むしろ他人には善を与えていくという姿勢が大事です。それは、私達はあくまでも地涌の菩薩であり、その行動は慈悲をその根底としているものであるからです。 したがって、この姿勢は、他人に対してへりくだるといったことではありません。また意識して行っていくという作為的なものであっても菩薩の立場としては不十分だといえます。その人の一挙手一投足の中に自然とにじみ出てくるものでなければなりません。そこまで私達の境涯を高め、人間革命をしていくことが必要なのです。それを可能にし、成就するものが御本尊への唱題にあることはいうまでもありません。 友人づくりといい、人間共和の社会建設といい、これらは、いずれも、この御文にあるような姿勢からなされるものです。そして、これは、特に、地域社会での活動の重要性を考えれば、私達学会員一人ひとりが常に銘記しておかねばならないことだといえます。 地涌の菩薩としての精神をけっして忘れることなく、人間の苦悩をこの世界からなくすために、あらゆることに配慮しつつ、逞しく前進しましょう。(文庫本「きょうの発心」309)
240
:
mumeijin
:2010/02/19(金) 20:14:39
題名 :教機時国抄
対告衆 :
執筆年次 :弘長2・2・10
聖寿 :41
西紀 :1262
著作地: 伊豆・伊東
大意:宗教の五綱について説かれている。
241
:
mumeijin
:2010/02/20(土) 08:37:36
御書p438・⑧(p188・⑧) まず相手を知ること
舎利弗尊者は金師に不浄観を教え、浣衣の者には数息観を教うる間、九十日を経て、所化の弟子仏法を一分も覚らずして、還って邪見を起し一闡提と成り畢んぬ。
通解
舎利弗尊者は、金師=鍛冶師=に不浄観を教え、浣衣の物=洗濯業を営む者=には数息観を教えたので、その教化を受けた弟子は、九十日を経て、仏法を一分もさとることができずして、かえって邪見を起こし、謗法不信の者となってしまったのである。
拝読の手引き
この御文では、仏法をひろめていくうえに、相手の状態を知り、その状態に応じて法を説いていくことがどんなに大切であるかを教えられています。 ここに述べられている不浄観というのは、身の不浄を、心をとどめて見つめ、貪欲の心をなおそうとする修行法であり、また、数息観とは、自分の出る息、入る息を数えて心の散乱をなおそうとする修行法です。 したがって、鍛冶師は鉄を練るのに、よく呼吸を整え精神を集中しなければならないわけですから、むしろ、数息観を教えられた方が、日常生活に根ざしているので、仏法を理解しやすいわけです。 また、洗濯業を営む者の場合も、数息観より、身の汚れを見つめる不浄観を教えられたほうが、やはり理解しやすいことはいうまでもないことです。それを舎利弗はまったく逆な教え方をしたため、皆、邪見をおこし、仏法に不信をいだいてしまったのです。人々は、仏法そのものを一分も理解できなかっただけでなく、かえって謗法不信の者になってしまったのです。 このことは、私達への重要な教訓を含んでいるといえます。もちろん、不浄観や数息観などは今日では全く必要ないことですが、ただ、舎利弗のような“失敗”は、よくやりがちです。折伏においても指導においても、相手の人柄、生活状態などにきめ細かに心を配っていくことは何よりも大事なことです。 人は、自分をよく知ってくれる人に、大きな信頼を寄せるものです。それが、仏法への理解を一段と深める機縁になることはいうまでもありません。(文庫本「きょうの発心」174)
242
:
mumeijin
:2010/02/20(土) 16:12:27
御書p438・⑫(188・⑫) 折伏
謗法の者に向つては一向に法華経を説くべし毒鼓の縁と成さんが為なり
通解
謗法の者に向かってはひたすら法華経を説くべきである。それは毒鼓の縁を結ぶためである。
拝読の手引き
日蓮大聖人が教えられた三大秘法は究極の法それ自体である。したがって、そのあと順逆いずれの方向に機が発動しても、この究極の法に帰着することは間違いない。当然、順の方向をとれば即身成仏できるが、逆の方向をとれば阿鼻地獄の苦に堕ちる。しかし、後者の場合も、すでに教わった法の偉大さへの理解を深めさせることとなり、一念を逆から順へ転換することによって、同じくただちに即身成仏できるのである。 今、私達も、この日蓮大聖人の仏法を弘めていくにあたっては、順逆ともに救うことができるのであるから、機をわきまえることができないからといって恐れる必要はなくなったのである。むしろ、結果的には、機を知らなくとも、知ったと同じ効果を得ることができるのである。 但し、逆の方向に発動することもあり、その場合は、誹謗・中傷・迫害となって還ってくるから、いわゆる三障四魔・三類の強敵を覚悟して、それに耐える勇気ある実践を貫くことが要請されるのである。(日蓮大聖人御書講義第六巻上p20)
243
:
mumeijin
:2010/02/21(日) 09:10:01
御書p439・①(p189・①) “時”知らずば空転
仏教を弘めん人は必ず時を知るべし。譬えば農人の秋冬田をつくるに種と地と人の功労とは違わざれども一分も益なく還って損す、一段を作る者は小損なり、一町二町等の者は大損なり、春夏耕作すれば上中下に随って皆分分に益あるが如し。仏法も亦復是くの如し。
通解
仏教をひろめようとする人は、必ず時を知るべきである。たとえば、農夫が秋や冬に田を作れば、種と地と人の労力はかわらなくても、少しも得るところはなく、かえって損をする。一反を作る者は小損であり、一町二町を作る者は大損である。しかし、春や夏に耕作すれば、耕作面積の大中小に応じて、皆、それぞれの収益があるようなものである。仏法においても、また、このようなものである。
拝読の手引き
法を弘めるにあたって「時」を知ることの大切さを述べられた御文です。 仏法で説く「時」には、実に深く、広い意味があります。衆生が仏の出現を感じ、仏が衆生の機を受けて応ずる機感相応の「時」、また、弘教の次第という「時」、さらに一般にいう時代、社会といった意味まで含んでいるのです。 私達は、いわば過去から未来へと流れている時間と、広大な広がりを持つ空間との”交差点”で、生きていると考えることができます。そこには、さまざまな文化や思想、民衆の“生命”の傾向、社会環境、自然環境等が渾然一体となって渦巻き「時」を形成しているのです。したがって、そうした「時」の的確な判断なしに行動すれば、往々にして空転となることがあります。このことを稲作の例を引いて、大聖人は、わかりやすく教えておられるのです。 大聖人の仏法を学ぶ私達は、時代、社会をリードして、平和で繁栄した楽土を築こうとしています。それだけに「時」の把握は重要なものとなります。 世間の法もまた仏法に含まれます。身近な地域社会の動きから、大きな時代、社会の変化、民衆の動きといったものを洞察して、広宣流布のために的確な行動をとっていくことが大切なのです。そういった意味で、今はいかなる「時」かを凝視し、思案して、時代開拓の人として、社会と断絶することなく、自己の能力を最大限に発揮して信心に励んでいきましょう。(文庫本「きょうの発心」291)
244
:
mumeijin
:2010/02/21(日) 19:37:58
題名 :顕謗法抄
対告衆 :
執筆年次 :弘長2
聖寿 :41
西紀 :1262
著作地: 伊豆・伊東
大意:八大地獄の因果、無間地獄の因果の軽重、問答料簡、行者弘教の用心の4点が明かされている。仏法を弘める者は宗教の五綱を心得て正法を弘めるべきである。
245
:
mumeijin
:2010/02/22(月) 08:59:46
題名 :持妙法華問答抄
対告衆 :
執筆年次 :弘長3
聖寿 :42
西紀 :1263
著作地: 鎌倉
大意:世間の名聞名利に執着することなく、ひたすら御本尊を信じ、題目を唱えて成仏することを勧められている。
246
:
mumeijin
:2010/02/22(月) 19:44:18
御書p463・⑯(p213・⑯) おごる人久しからず
只須く汝仏にならんと思はば慢のはたほこをたをし忿りの杖をすてて偏に一乗に帰すべし、名聞名利は今生のかざり我慢偏執は後生のほだしなり
通解
ただあなたが仏になろうと思うならば、慢心(まんしん)のはたほこを倒し、いかりの杖を捨(す)てて、ひとえに一乗の法華経(ほけきょう)に帰依(きえ)しなさい。
拝読の手引き
南無妙法蓮華経は宇宙の本源であり、永久不変の法則です。地球がジョウジュウエクウの四劫の原理で、未来に死の世界となったとしても、妙法は厳然と大宇宙に存在しているのです。 日蓮大聖人はこの大宇宙の法則が、自己の生命の奥底に鼓動することを証得されたのです。ゆえに末法の御本仏というのです。しかも、未来永遠の全民衆を救うために、南無妙法蓮華経を御本尊として具現化、行動されたのです。 私達はこの御本尊を信じ、実践したときに、たとえ自分では妙法を証得していなくとも、本然的に具わっている仏界の生命が湧現し、事実の生活の上で、最高の幸福をあらわしきっていけるのです。 それを、少し仏法にふれただけでもうなんでもわかったようなつもりになり、仏法の指導等を素直に聞けない人、御書に真剣に取り組めない人、またすぐ感情的になって団結を乱す人等等、こういう慢心や、わがままを張って、最も大事な信心修行を怠っている人は、御本尊の真の偉大さを知ることができません。真の幸福をつかむことはできないのです。 また、私達の人生の根底になにをおいているかによって、幸不幸の岐路が決定されてしまうことを知らねばなりません。 名誉、地位、財産に目がくらんで、それを根底におく人の人生は、一見はなばなしいように見えますが、虚像のようなはかない幸福にすぎないのです。人生の盤石なる基盤は、御本尊を根底におくことによって築きあげられるのです。(文庫本「きょうの発心」59)
247
:
mumeijin
:2010/02/23(火) 07:04:17
御書p464・⑧(p214・⑧) 仏力を疑うことの愚かさ
譬えば高き岸の下に人ありて登ることあたはざらんに、又岸の上に人ありて縄をおろして、この縄にとりつかば我れ岸の上に引き登さんと云はんに、引く人の力を疑い縄の弱からん事をあやぶみて、手を納めてこれをとらざらんが如し。争か岸の上に登る事をうべき。
通解
たとえば高い岸の下に人がいて、登ることができず、岸の上に人がいて縄を下し、この縄につかまれば、岸の上に引き上げてあげようといっているのに、引く人の力を疑い、縄が弱くて切れるのではないかと危ぶみ、手をひっこめてこの縄をつかもうとしないようなものである。どうして岸の上に上ることができるだろうか。
拝読の手引き
仏の力を疑い、妙法の教えの縄を危ぶんでいる愚かな衆生を哀れんでいられる御文です。 尊極の生命の当体であられる三大秘法の御本尊に境地冥合することが、私達の信心における目標です。生命と生命の荘厳な対話、ひたぶるな信行があってこそ、はじめて、御本尊の世界に入ることができるのですが、なかなか、完全には冥合、得入することができません。そこにさまざまな不純物が介在し、真剣な唱題ができないからです。 御本尊第一とよく口にはしますし、心の浅い部分ではそう思っているのでしょうが、具体的実践のうえには、その通りの姿を示せない――それは生命の奥深く染まっていないからです。 御本仏の教えを信じ、御本尊の力を信じている私達ですが、御本仏の目から見れば、信心の姿勢はまだまだ弱いことでしょう。生命の奥底にある弱さ、魔性と戦い、生命の奥底から信を鍛え上げ、信心を金剛不壊なものに鍛えあげていきたいものです。 何か事が起こったらすぐ信心をやめてしまったり、こんなにもやっているのに結果がでないと不信をぶつけてみたり、焦ってしまうというようなことはないでしょうか。不信のドス黒い毒素が、生命と生命の清浄な対話を断ち、生命から知恵と福運の輝きを失わせるのです。 生命哲学を学び、妙法の教えが堅固な縄であることを知った私達です。濁った低い境涯の生命を、高く純で高貴な生命に転ずる道は、強い信の実践しかないことを銘記して、前進していきたいものです。(文庫本「きょうの発心」231)
248
:
mumei
:2010/02/23(火) 19:56:38
御書p464・⑬(p214・⑬) 信仰の人こそ尊貴
受けがたき人身をうけ値いがたき仏法にあひて争か虚くて候べきぞ、同じく信を取るならば又大小・権実のある中に諸仏出世の本意・衆生成仏の直道の一乗をこそ信ずべけれ 。持つ処の御経の諸経に勝れてましませば、よく持つ人も亦諸人にまされり。爰を以て経に云く「能く是の経を持つ者は一切衆生の中に於て亦為第一なり」と説き給へり。大聖の金言疑ひなし。然るに人此の理をしらず見ずして、名聞・狐疑・偏執を致せるは堕獄の基なり。
通解
受けがたい人身を受け、あいがたい仏法にあいながらどうして空しくすごしてよかろうか。同じ信心をするならば、仏教に、大乗教、小乗教、権教、実教とある中で諸仏が出世した本意でもあり、一切衆生が成仏しゆく直道の法をこそ信ずべきである。あなたがたがもっている法華経(御本尊)はあらゆる経の中で最勝の経であるゆえ、この法華経をよくたもつ人もまた他の人びとよりも勝っているのである。ここをもって法華経に「能く是の経を持つ者は一切衆生の中に於て亦為第一なり」と説かれている。大聖の金言に疑いはない。ところが、世間の人はこの法理を知らないで、また見ないで名聞にはしり、猜疑心が強く、偏見に固執して正しい言説を受け入れようとしない姿は堕地獄の基因となる。
249
:
mumei
:2010/02/24(水) 07:04:12
拝読の手引き
三大秘法の御本尊を信仰しえた私達妙法の徒こそ最高の幸せ者であると述べられた御文です。 自分が人間に生まれてきたことを当たり前のように思っている人が数多くいますが、それは大きな錯覚であり、偏見といえます。不幸な境涯に生まれてきた人が親を恨み、逆に一見、恵まれた立場にいる人が他の人々を見下し不遜になるのも、こういう偏見にとらわれているからといえましょう。 「受けがたき人身を受け」とあるように、仏法では、単なる現象面ではなく、生命の本質論から人間として生まれてきたことを解明しているのです。有情の生命をもつものは人間に限らず、獣、鳥、昆虫等、それこそ無量の数にのぼります。大宇宙に冥伏していた生命は、そういう目に見えるさまざまな形態をとって顕れているのです。人間として生を受けるということは、実に稀なことなのです。 まず、私達は人間として生まれたという事実を、厳粛な気持ちでかみしめたいものです。そこで、今度はこのような受けがたき人生を、どう生きるかということが問題です。 現代人は、“生きがい”を求めてさまよっています。それも、文明が発達し、物質的にも経済的にも豊かな国、社会ほど深刻な問題となっているのです。 “生きがい”を得ようと、自己のすべてを傾注できる精神的価値を探求している人は、まだ幸せです。だが、ほとんどの人は、それすらも求めようともせず、無目的に日々の生活を送っているのが実情です。ある人は、それすらも求めようともせず、無目的に日々の生活を送っているのが実情です。ある人は刹那的な享楽を求め、ある人は“エコノミック・アニマル”の権化のごとく、金もうけに狂奔する等々、あげればきりがありません。 こういう人たちを支配しているのは、自分さえよければよいとするエゴイズムです。表面は虚勢を張り、尊大ぶっていますが、内面は空虚なものです。名聞名利を求め、権威によりかかる人ほど、心はうつろであり、孤独なのです。ある哲学者は、この人生が、生きるに値するかどうかを判断することが、哲学上の重大な問題であると述べています。 御本尊を信受し、大聖人の仏法を学ぶことによって、私達は人間として生を受け、広宣流布に邁進することが無上の喜びであることを実感しています。 「能く是の経を持つ者」とは、三大秘法の御本尊を持つ者ということです。この人は「一切衆生の中において亦為第一なり」と説かれています。つまり、日蓮大聖人の仏法をたもつ人は、全世界で最高に幸福な人であるといわれているのです。この教えこそ、真の“生きがい”をのべたものといえます。 すなわち、私達はこの人生が生きるに値することを生命全体で感得しているゆえに、生きる情熱を十倍にも、二十倍にも湧き出すことができるのです。 また、御本尊をたもつということは、ただ単に御本尊を御安置し、功徳を願うことを意味するものではありません。「能く是の経を持つ者」とあるように、受け身ではなく、能動的に自らの責任として妙法を護持しきり、社会のため、人のために生きることなのです。端的にいえば、広宣流布という大目的観、使命感に生きているという、生命の奥底からの実感をもっている人が「能く是の経を持つ者」に相当するといえましょう。 その人こそ、人間として最も尊い人なのです。ここで心すべきことは、信心の本質を忘れて、自己の名聞名利や、役職というレッテルに固執してはならないということです。信仰人として、どこまでも謙虚に仏法を求め、無名の民衆の側に立ち、誇りをもって自己の人生を生ききっていきましょう。(文庫本「きょうの発心」99)
250
:
mumei
:2010/02/24(水) 19:59:00
題名 :木絵二像開眼之事
別名: 法華骨目肝心
対告衆 :
執筆年次 :文永元
聖寿 :43
西紀 :1264
著作地:
大意 :真実の開厳は法華経によらなければならない。草木成仏の本義は一念三千にある。法華経の真意は即身成仏にある。
251
:
mumei
:2010/02/26(金) 07:02:41
御書p465・⑰(p215・⑰) 人によりて弘まる
一切の仏法も又人によりて弘まるべし之に依つて天台は仏世すら猶人を以て法を顕はす末代いづくんぞ法は貴けれども人は賎しと云はんやとこそ釈して御坐(おわし)候へ、されば持(たも)たるる法だに第一ならば持つ人随つて第一なるべし
通解
一切の仏法もまた人によって弘まるのである。これによって天台大師は「仏の在世でさえ、なお人によって法をあらわす。末代にあって、どうして法は尊いけれども人は賎しいといえようか」と解釈されている。それゆえ持たれる法さえ第一ならば、持つ人もまた第一なのである。
拝読の手引き
仏法に弘宣に寄せて、人の尊いゆえんを示された御文である。 仏教において「法」が大事であることはいうまでもなく、とくに釈尊の経典においては、「法」の優位が強調されている。それをうけて天台大師も、たとえば法華文句巻十下には「法は是れ聖の師にして、能く生じ能く養い、能く成じ能く栄うるは法に過ぐるは莫し、故に人は軽く法は重きなり」〈大正三十四巻p143〉と述べているのである。このように仏法を修行するうえにおいては「身軽法重死身弘法」が根本精神である。しかし、仏法を弘めるうえにおいては「人」が重要である。この段では、弘教において、「人」がその要であると示されているのである。仏法を求める修行において「法」が最も重要であることは、当然である。「人」に頼ることは不安定であり、仏の教えが歪められる恐れもある。その故に、涅槃経でも「依法不依人」と説かれ、不変である法を根本とすべきであると教えてきたのである。とくに仏の滅後において、それぞれ勝手な解釈が出る恐れがある。仏の在世であれば、仏自身によって、そうした考え方に修正がなされるし、そうした考え方が出ようはずもない。しかし、仏滅後においては、時を経るにしたがって、人師の都合や考え方にしたがって捉え方も変わってくる。そこに原理・原典が歪められる恐れもある故に、仏の法を根本とすべきで”人師”の説に頼ってはならないと教えたのである。 しかし法を弘めていくのは「人」であり法が存在するというだけでは、流布しない。 御書にいわく「法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」〈p856〉と。妙楽大師の法華文句記巻九中にいわく「子父の法を弘む世界の益あり」〈大正三十四巻p324〉と。「世界の益」とは世界悉壇の利益であり、娑婆世界の衆生にさまざまな利益を与えることを意味する。 法は人によって現実生活に生き生きと躍動し、その本来の力を発揮するのである。法の力を生かすも殺すも、すべて人の力である。それほど人の力は大きい。逆にいえば、その責任は重いともいえる。仏がこの世界に遺した法は、たとえようもなく尊い。その故に、その教えを正しく継承し、弘宣していく人の使命もまた、たとえようもなく尊い。その自覚、認識をここでは教えられているのである。 日蓮大聖人が、釈尊の仏法の本懐は、人の振る舞いであり、不軽菩薩の修行が肝心であると教えられている(崇峻天皇御書)のは、人を最大限に敬っていくべきことを教えられていることに留意しなければならない。しかも不軽品は、弘教の方軌を説いた品であり、法を弘める人の尊さを示しているのである。(日蓮大聖人御書講義第六巻上p391)
252
:
mumei
:2010/02/28(日) 11:52:30
御書p466・⑯(p216・⑯) 名利は夢の中の栄華
生涯幾くならず。思へば一夜のかりの宿を忘れて幾くの名利をか得ん。又得たりとも是れ夢の中の栄へ、珍しからぬ楽しみなり。
通解
人間の一生涯といってもわずかなものである。考えてみれば、一夜の仮の宿のようにはかない生涯であるのを忘れて、どれだけの名利を得ようとするのか。また、得たといっても、それは夢の中の栄華のようなもので、どれほどの楽しみがあろうか。
拝読の手引き
中国の故事に「盧生の夢」というのがあります。盧生という青年が旅先の邯鄲というところで道士に会い、まくらを借りて眠りました。すると、盧生は裕福、栄華をきわめて一生を終るまでの夢を見たのです。しかし目ざめてみると、宿の主人は先ほどから高粱をたいており、まだそれが煮えていなかったといいます。 このように、人間の一生の栄華というものは、はかないものです。私達はその短い一生の間にこそ、永遠の幸福境涯を確立する仏道修行を、まず第一に考えなくてはなりません。名聞名利におぼれた一生ほど、無価値な一生はありません。私達はあくまでも信心第一に進んでいこうではありませんか。 信心をした私達にも、信心にゆるみがあると、名聞名利の気持ちが起こってきます。このことは厳に戒めねばなりません。 厳しくいえば、少しでもいい子になりたい、自分の功績だと認めてもらいたいなどという考えは、広布を前進させる活動の中にさしはさむべきではありません。しかし、ここで注意すべきことは、社会的な地位や名誉を得てはならないことではないのです。広宣流布の推進のために、大聖人の仏法の宣揚のために、信心をたもった私達が大いに力を発揮して、社会的に認められることは大事なことです。特に新しい十年に入って、文化運動の展開が叫ばれているとき、このことは重要になっています。 むしろ、最高の仏法を奉じたればこそ、大いに独自の才能を開発し、学問、文学、音楽、スポーツなどのさまざまな分野で一流の人物に成長すべきです。名聞名利かどうかはあくまで本人の一念の問題です。私達は広宣流布のためと確信して、大いに力を発揮し、各界で認められる人材と成長しましょう。(文庫本「きょうの発心」87)
253
:
mumei
:2010/03/01(月) 12:21:15
御書p467・⑯(p217・⑯) 今生の名聞・後世の弄引
寂光の都ならずは何くも皆苦なるべし本覚の栖を離れて何事か楽みなるべき、願くは「現世安穏・後生善処」の妙法を持つのみこそ只今生の名聞・後世の弄引なるべけれ須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき
通解
仏国土(ぶっこくど)でないならば、どこも皆、苦の世界である。仏の悟(さと)りの住処(すみか=境地【きょうち】)を離れて、どんなことが楽しみとなるだろうか。すべからく専心(せんしん)に南無妙法蓮華経と自身も唱え、他人にも勧めることこそ人間として生まれてきた今生の思い出となるのである。 すべからく専心(せんしん)に南無妙法蓮華経と自身も唱え、他人にも勧めることこそ人間として生まれてきた今生の思い出となるのである。
拝読の手引き
人生において何が最も重要であるかを述べられたところである。「寂光の都」「本覚の栖」とは、妙法に住する境界であり、これを離れて真実の幸福、楽しみはない。人が六道輪廻を繰り返すのは、環境に支配される迷妄の自己に安住しているからである。この六道輪廻から脱するには、自身をコントロールできる強靭な自己を確立する以外にないのである。 たとえば、欲望は人間が生きていくためには必要なものだが、欲望に流されれば、常に満足することを知らず、貪欲の炎に焼かれ苦しむことになり、また得たものを失えば、さらに苦しみを増すことになる。欲望そのものをなくしてしまえば、そのような苦しみを味わうこともなくなるといえるが、欲望を失った人間は生ける屍といってもよい。本来、欲望は活動的な「生」にとって不可欠であり、これをなくすことは「生」の否定でもある。欲望は、人間にさまざまな意欲をもたらす源泉の一つであり、生きるためになくてはならない力である。 したがって大事なことは、欲望を、人生において意義ある創造をもたらす源泉として使いこなす立場に立つことにある。そのような六道をコントロールする力の源泉が南無妙法蓮華経であり、南無妙法蓮華経の信心に住した境地が「寂光の都」「本覚の栖」である。しかもその境地は、現世だけでなく、未来永遠に続くのである。 そのことを具体的に示された文が「今生の名聞・後世の弄引」である。つまり「今生の名聞」とは、今生において、胸中に三世にわたる妙法の生命を輝かすことこそ真実の「名聞」であり、三世十方の諸仏菩薩に、日蓮大聖人の眷属として普く尊い名を知られることになるのである。 妙法を離れた今生の名聞・名利は、ただ今生限りのものにすぎない。位人身を極め、天下に栄耀栄華を誇ったとしても、それは六道に輪廻する無常の営みにしかすぎない。人間として稀なる生を受け、しかも値い難き仏法にあい、妙法を信受できたということは、本有常住の妙法に我が身を住せしめる千載一遇の機会に巡りあったということである。人間として生まれたが故に、自行化他にわたる仏道修行を実践することができるのである。しかも,「後世の弄引」として、妙法信受の因が、後世における成仏の果を決定するのである。これほどの偉大な功徳力が他にあろうか。であるならば、人間であってはじめて実践が可能な、妙法信受、即ち自行化他にわたる妙法の実践を貫くことが肝要である。(日蓮大聖人御書講義第六巻上p419) 妙法を唱え、広宣流布に生き抜いた人生は、人間として尊極無常にして永遠不滅の栄光に包まれるのだ。
254
:
mumei
:2010/03/01(月) 21:27:10
御書p469・①(p248・⑭) 声を聞いて心を知る
人の声を出だすに二つあり。一つは自身は存せざれども、人をたぶらかさむがために声をいだす。是は随他意の声。自身の思を声にあらはす事あり、されば意が声とあらはる。意は心法、声は色法、心より色をあらはす。又声を聞いて心を知る、色法が心法を顕すなり。
通解
人が声を出すのに二つの場合がある。一つは自身には思いが存しないけれど、他人をたぶらかすために声を出す場合である。これは随他意の声である。もう一つは、自身の思っていることをそのまま声に顕わす場合である。だからこの場合はその人の意思が声と顕われたのである。意思は心法、声は色法なので心より色を顕わしたことになる。また逆に声を聞いて人の心を知るのは、色法が心法を顕わしているのである。
拝読の手引き
私達の声の表わす意味がいかに深いものであるかを説かれた御文です。ここでいわれる声はいうまでもなく、私たちの言語音声のすべてを含みます仏法では、言語音声を生命活動の発露としてとらえているのです。 したがって、猫や犬の鳴く声も、その他の動物の言葉にならない音声も、すべて、それぞれの生命状態を表わしているのです。声を発する時の思いや、心の状態は心法〈心の動き〉であり、表現された音声は色法(感知できる働き)としてとらえ、この色心が不二であり一体なのです。「人の声を出すに二つあり」とここに説かれていますが、どちらが自然の姿であるかは、右に述べた所から明らかでしょう。 自分は本当にそう思っていないのに、他人の意に合わせて語ったりする声は随他意の声であり、これは不自然であり、厳しくいえば、人をたぶらかしていることになります。自分の思想や考えに確信がなかったり生命自体が弱かったりするとこの姿になり、これでは人をひきつける魅力はでてきません。 やはり私達は後者の声でありたいものです。自分の思っていることを、そのまま堂々と語り、何を気がねすることもない。誤っておれば素直に反省し、また前進する。この姿勢に立つ人こそ色心不二の仏法を実践している人であり、清らかで力強い人生を歩む人です。そのためには、常に御本尊に唱題し、みずみずしい生命力の源泉を得ていかなければならないことはいうまでもありません。(文庫本「きょうの発心」192)
255
:
mumei
:2010/03/02(火) 11:43:44
御書p469・⑱(p249・⑯) 脱命、奪功徳
今真言を以て日本の仏を供養すれば鬼入って人の命をうばふ。鬼を奪命者といふ。魔入って功徳をうばふ。魔を奪功徳者といふ。鬼をあがむるゆえに、今生には国を滅ぼす。魔をたとむゆへに、後生には無間獄に堕す。
通解
今、真言でもって日本の仏を供養するならば、鬼が入って人の命を奪う。鬼を奪命者というのである。また魔が入って功徳を奪う。魔を奪功徳者というのである。鬼を敬うがゆえに、今生では国を滅ぼし、魔を尊ぶゆえに後生には無間地獄におちるのである。
拝読の手引き
世の不幸の根源であり、人間社会の苦悩の淵源である魔、鬼の本質について述べられた一節です。 魔や鬼といっても、なにか恐ろしい姿をしていて、特別の人格をもっているといったものではなく、誤れる思想、邪悪な宗教に縁することによって起こる生命の働きをいいます。 鬼を「脱命者」といい、魔を「奪功徳者」というように、両者とも個人の生命、さらには宇宙の生命の内にあって、調和をはかり、一切を価値創造していく根源の力を奪いとる働きをなすのです。 この生命のリズムを破壊する働きとは、個人においては、人間精神の荒廃、肉体的苦痛をもたらし、また、社会、国土においては戦争、公害、権力の横暴、風俗の乱れ等となってあらわれ、社会の混乱、国土の破壊を引き起こしていくのです。 この魔に支配された生命軽視の社会、家庭を、真実の生命尊重の世界に変えていく実践の哲学が日蓮大聖人の仏法なのです。私達の生命には魔や鬼の働きを押え、屈服させることのできる仏界という力強い生命が具わっています。この仏界を湧現し、生命自体を変革していくことが魔を打ち砕き、調和に満ちた世界を現出せしめる根本なのです。この仏界を湧現させる方途は、一切の根源の法である三大秘法の御本尊との境智冥合以外にないのです。 魔も仏もともに私達の生命に内在するものであれば、私達は常に生命を破壊し、不幸におとしいれる働きをなす魔との、厳しい対決の姿勢を堅持していかなければなりません。そうした私達の強い一念と実践があってはじめて、現実生活に仏界を開きあらわし、真実の幸福な人生を送っていけるのです。(文庫本「きょうの発心」249)
256
:
mumei
:2010/03/07(日) 11:11:48
題名 :女人成仏抄
別名:
対告衆 :
執筆年次 :文永2
聖寿 :44
西紀 :1265
著作地:
大意 :法華経を信受すれば女人を始め一切衆生が成仏すると教示。
257
:
mumei
:2010/03/07(日) 21:36:47
御書p474・①(p267・①) 死を直視できない弱さ
夫れ生をうけしより、死を免れざる理は、賢き御門より卑き民に至るまで、人ごとに是を知るといへども、実に是を歎く者、千万人に一人も有りがたし。
通解
そもそも、この世に生を受けてからというものは、死を免れることはできないという道理については、賢く身分も高い御門をはじめとし、卑賤な民にいたるまで、すべての人が知っているが、実際にこのことを大事とし、また心から嘆く者は、千万人に一人もないのである。
拝読の手引き
人間の生存への願望を見事にえぐられた御文です。人間は、いずれは確実におとずれる”死"を無視しては生きていけない存在です。そこで、目の前の享楽やささいなことに没頭して、死を忘れようとするのです。 昭和四十五年十一月に起きた作家・三島由紀夫氏の割腹自決事件は四十六年に入ってからも、総合雑誌、文芸誌などでさまざまに論じられているようです。賛否両論、侃々諤々の感がありますが、ただ、長らく泰平ムードに酔いしれていた日本人に、あらためて”死"の意味や重さを目の前につきつけたことはたしかでしょう。 ひところ、盛んだった"生きがい"の問題も、最近では、結局それは何に賭けて死ぬかという"死にかた”の問題に変化していることからも、その影響を知ることができます。 いかに、生き方や生きがいの問題を論じても、ここに述べられているように"死"という万人が逃れることのできない厳粛な事実を人生の大事としなくては、砂上の楼閣でしょう。なぜなら、常に死を大事としている人は、瞬間瞬間の"生"を大切に価値あるものにしようとするからです。 逆に、死を全然、他人事のように思っている人は、結局、今、刻みつつある生を粗末にする人でしょう。だからといって、死をいつも恐れたり嘆いたりして、虚無的になることがよいというのではありません。 大聖人の仰せのように、受けがたき人身を受けた喜びをかみしめつつ、しかも、死を本有の死と見る視点に立ち、ゆうゆうと、自らの人生の大道を歩むということなのです。これ生死不二の生命観といえます。広宣流布の大業に生きる私達は、今一度この御文を深く読み、現在の生をより充実したものにしていきたいものです。(文庫本「きょうの発心」116)
258
:
mumei
:2010/03/12(金) 11:59:36
御書p479・⑮(p272・⑮) 人生の無常を克服
先亡後滅の理始めて驚くべきにあらず。願ふても願ふべきは仏道、求めても求むべきは経教なり。抑汝が云うところの法門をきけば、或は小乗、或は大乗、位の高下は且らく之を置く、還って悪道の業たるべし。
通解
先に死んだ人をとぶらう身であっても、人間として生を受けた以上は死を免れることができないのは、自然の道理であり、あらためて驚くべきことではない。ただ願っても願うべきなのは、仏道であり、求めても求め抜いていかなければならないのは経教である。だが、いったいあなたがたがいうところの法門を聞いてみ。位の高下はしばらくおく。いずれを信じても、かえって悪道の行いとなって、不幸になっていく。
拝読の手引き
人生は無上であり、願うべきは仏道、求むべきは仏の教えであるが、その法はただ、法華経にかぎるのであり末法今時においては、三大秘法の南無妙法蓮華経に尽きることをよくわきまえなさいと戒められた御文です。 人生の苦悩を免れ、小乗教、権大乗教に救いを求めようとしても、救いが得られるべくもなく、そのことに執着してかえって、成仏を説いた法華経を信ずることができないわけですから、知らずしらずのうちに三悪道、四悪趣のちまたを流転する運命に陥っていくのです。 死は一定であり、まことに人生は無常です。無常の現起するのをみては、おろおろしたり、年老いて自己の死の到来を思っては、ショックをうける人があまりに多いのが、人の世の実相です。死をどうとらえ、どう生きていったらよいのか――生と死を深く解明しきった真実の仏法を求めなければならない理由はそこにあります。 低い思想、宗教に惑わされることなく、高き仏法より入るべきなのです。道を求め、先哲の経巻、教義をたずねる人は、大勢いますが、悲しいことに、すべて悪道の業となっているのです。 日蓮大聖人は、どう生きたらよいのか模索し、無常を克服することを求めている、末法の衆生に、生命哲学を顕わし、御本尊を授けられたのです。幸いこの妙経につきえた私達。さらに求道の念を高め、前進したいものです。(文庫本「きょうの発心」179)
259
:
mumei
:2010/03/12(金) 22:20:12
御書p481・⑮(p274・⑮) 仏法は只経文を先きとすべし
仏法は強ちに人の貴賎に依るべからず只経文を先とすべし
通解
仏法は絶対に、人の貴賎によってはならないただ経の高低浅深に依るべきである
池田先生の指導
仏法における基準はどこまでいっても人の貴賎ではなく、法の高低浅深です。「人を身なりや外見で判断しては絶対にならない。その人が、将来どうなるか、どんな使命をもった人か、身なりなんかで絶対に判断がつくはずがない」これは恩師・戸田先生の厳命です。創価学会の世界において、社会的地位や肩書、学歴などは、一切関係ありません。信心の志のある人が偉大なのです。広宣流布のために行動する人を大切にするのです。これは、これからも永遠に変えてはならない大原則です。(大白蓮華2009−9勝利の経典「御書」に学ぶ)
260
:
mumei
:2010/03/13(土) 08:47:43
御書p487・②(p280・①) 今日も発心、明日も発心
汝実に道心あらば、急いで先非を悔ゆべし。夫れ以れば、此の妙法蓮華経は一代の観門を一念にすべ、十界の依正を三千につづめたり。
通解
あなたに本当に道心があるならば、過去の非を悔い改めるべきである。よくよく思索すればこの妙法蓮華経は、一大聖教の観心の法門を一念に収め、十界の依報、正法のすべてを三千の法にちぢめたものである。
拝読の手引き
仏法を求めようとする心、信仰心があるならば、低級な宗教観、誤った思想を改め、一念三千を説いた妙法を求めるべきであると述べられた一節です。 一念三千の法門は生命、宇宙の現象、本質をあますところなく解明し、完璧な法則として説きあらわしたものです。だが一念三千の法門の展開だけでは、哲学的、観念的範疇の域を出ません。この哲理に実体を与えたのが日蓮大聖人の仏法なのです。すなわち、南無妙法蓮華経こそ一念の実体なのです。 したがって、南無妙法蓮華経の一法に釈迦の一代聖教はすべておさまっていることになります。釈迦の因行果徳の二法をことごとくそなえているのです。南無妙法蓮華経の仏法は無限の内容を含んでおり、行き詰まりのない法なのです。 ゆえにこの仏法をたもったからには、永遠に自己革新していこうとの意欲をもって当然といえます。「道心あらば」とは、きょうも発心、あすも発心という清新な決意で仏法を求め抜いていくことといえます。また「先非を悔ゆべし」とは、常に惰性、保守、固定観念を打破し、開いていくべきことを教えられているとも拝せましょう。 無限の内容をはらんでいる仏法にどこまでも挑戦し、自らの智慧を磨き成長することです。向上心の無い人の中にはもはや仏法はないといっても過言ではありません。 たとえば、御書を学ぶ場合にも、古文を現代文に変えただけの解釈ではなく、そこに展開されている一つひとつのことに対して、なぜこのようになるのか、元意は何か――現実の私達の生活と関連づけて学んでいくことです。そこには必ず新しい発見があります。仏法哲理の深さに感銘を受け、一層、信心を深めていかねばと求道の心を新たにすることでしょう。(文庫本「きょうの発心」122)
261
:
mumei
:2010/03/13(土) 21:40:56
御書p491・⑯(p285・⑬) 庶民のための社会建設
予父母の後世を助け、国家の恩徳を報ぜんと思うが故に、身命を捨つる事敢えて他事にあらず。唯知恩を旨とする計りなり。先ず汝目をふさぎ心を静めて道理を思へ。我は善道を知りながら親と主との悪道にかからんを諌めざらんや。又愚人の狂ひ酔って毒を服せんを我知りながら是をいましめざらんや。其の如く法門の道理を存じて、火・血・刀の苦を知りながら争か恩を蒙る人の悪道におちん事を歎かざらんや。身をもなげ命をもすつべし。諌めてもあきたらず、歎きても限りなし。
通解
私は父母の来世を助け、国家の恩徳に対して報いようと思うが故に、妙法のために身命を捨てるのである。このことは、少しも他のことのためではない。ただ知恩を本意とするばかりである。まず、あなたは目を閉じ、心を静めて道理を正しく考えなさい。自分は善道を知っていながら親と主人とが、悪道に掛かりあうのを見て、諌めないことがあろうか。また、愚かな心のために狂い酔って、毒をのんでいるのを自分が知っていながら、これを戒めないことがあろうか。そのように、仏法の道理を承知し、火・血・刀の苦しみを知りながら、どうして恩を受けた人が悪道に堕ちる事を嘆かずにおられようか。身をなげ命を捨てて諌めてもあきたらないし、いくら嘆いても限りがないのである。
262
:
mumei
:2010/03/14(日) 11:00:14
拝読の手引き
妙法を信じ、妙法を行ずる者の基本姿勢を述べられた一節です。 日蓮大聖人が仏法と真っ向から取り組み、そして会得した永遠不変の真理・南無妙法蓮華経の極説を掲げて宗教革命に身を投じられたのはなんのためか。ひとえに、父母を救い、人々を救い、社会を救う以外のなにものでもないし、それが真の知恩、報恩であると、きっぱりと言いきっておられます。むろん、ここにある「国家」とは今日では「社会」ということです。 大聖人の根本精神は、どこまでも全民衆を救済していくという、大海原のような"慈悲"の精神に貫かれているのです。さらに現実の社会から遊離するのではなく、むしろ、泥沼のような社会の中に入り、社会を蘇生し、庶民のための社会を築くことに、大聖人の真意があったことはいうまでもありません。 大聖人の仏法を信仰する私達は地涌の菩薩であり、大聖人の本眷属です。そのことを本当に自覚するならば、いかなる立場になろうとも、この大聖人の精神を忘れてはなりません。 御本尊には一切の功徳が雲集しているゆえに、その御本尊を信ずる私達が功徳にあふれた生活を確立できることは自明の理です。だが、自分の功徳のみを求める信心は、大聖人の仏法を行ずる人の真のあり方とはいえないのです。また、そういう自己本位の行き方は、三障四魔や難を受けた時にもろいものです。名越えの尼が退転してしまったのも、一つには利己主義的な一面があったからなのです。 地涌の菩薩である私達にとって、信心とは広宣流布への自覚であり、その使命遂行の決意です。それは、他から強制されるものではなく、本物の信心に立ったときに内から自然とにじみ出てくるものです。 大聖人の仏法に精通すればするほど、社会への眼が開かれるはずです。現代社会がかかえているさまざまな病根、例えば公害問題や、核兵器の恐怖等も、その本質は人間のエゴイズムを助長させてきた思想に誤りがあることを私達は知っています。 一部の学者の間では、このまま現代文明が進行すれが、人類は滅亡するかもしれないとささやかれています。それほど病根は深いにしても、ただ終末論を唱えるのでは問題の真の解決にはなりません。大事なことはそういう問題をいかに解決し、人々の苦を除き、未来を切り開くかとということではないでしょうか。そのためには、地道のようであっても、一人一人に仏法を理解させ、正しい生命観をうえつける戦いを不断に続ける以外にありません。 これまでその粘り強い実践を積み重ねてきて、妙法の努力の基礎を築くことができました。だが、これからがいよいよ本格的な段階であり、あらゆる分野にわたって妙法の種子を植え、育てていかねばなりません。 また、こうした文化運動を展開するにあたって、心しなければならないことは「争か恩を蒙る人の悪道に堕ちん事を歎かざらんや」という、どこまでも民衆を思い救おうとする慈悲の精神であることはいうまでもありません。 このことは学会の中にあって、指導的立場にいる人も常に銘記すべきことでしょう。そういう人は後輩と比較して「法門の道理」を存じている人です。いまだに、信仰の本義、学会員としての使命を自覚していない人に対して、なんとか本物の信心に立たせたいという、一念の奥底からの思いやりを込め接することが望まれます。 相手の心を知って、喜びも苦しみも自分のこととして考えてあげることが、人間性であるといえましょう。信心した私達は同じ地涌の同志として、ともどもに広布を目指したいものです。(文庫本「きょうの発心」100)
263
:
mumei
:2010/03/15(月) 10:16:50
御書p491・⑮(p285・⑫) 知恩・報恩は生き方の規範
我釈尊の遺法をまなび、仏法に肩を入れしよりこのかた、知恩をもて最とし報恩をもて前とす。世に四恩あり之を知るを人倫となづけ知らざるを畜生とす。
通解
私は、釈尊の残された法門を学び、仏法と取り組んで以来、恩を知ることを最も大切とし、恩を報ずることを第一と考えてきたのである。世間には四恩ということがいわれている。このことを知ることを人間といい、知らないことを畜生というのである。
拝読の手引き
この御文は、人間にとって、とくに信仰人にとって、知恩、報恩の大切なことを教えられているものです。 ここに述べられた四恩については、大聖人の御書には、一切衆生の恩、父母の恩、国王の恩、三宝の恩、または一切衆生の恩のかわりに師匠の恩をあげられています。 現代では、知恩、報恩ということについて、なにか古いもの、封建的なものといった考えがあります。それは、かつての権力者が「恩」の思想を統治の手段としてきたという歴史的背景があることに要因がありましょう。しかし、知恩、報恩の思想は、いつの時代にも変わらぬ生き方の規範となるものではないでしょうか。私達は、自分一人で勝手に生きているように思えますが、決してそうではなく、人間との、自然との、さまざまな相関関係によって生きています。それは、相関関係であり、相互扶助の関係です。つまり、私達の生は"生命の連帯"でたもたれているのです。この"生命の連帯"の場においては、慈悲を根本とする感謝の念ともいうべき知恩、報恩の生活態度、人生態度が必要なのではないでしょうか。 人間が動物と一線を画し、人間らしく生きること、それは四恩を知ることにあると大聖人はおおせです。大聖人のこの教えを深く心に刻み、私達にとって知恩、報恩とは具体的に何かを一人ひとりが思索して、信仰人としての道をまっとうしていきましょう。(文庫本「きょうの発心」278)
264
:
mumei
:2010/03/15(月) 21:02:57
御書p494・⑨(p288・⑤) 枯れ草の人生に決別
誠に禿樹禿に非ず、春に遇って栄え華さく。枯草枯るに非ず、夏に入って鮮やかに注ふ。若し先非を悔いて正理に入らば、湛寂の淵に遊泳して無為の宮に優遊せん事疑なかるべし。
通解
葉が落ちてしまった木は、本当に枯れ木になってしまったのではない。春になれば枝葉も栄え、花を咲かせる。枯れ草も、本当に枯れてしまったのではなく、夏に入れば緑の葉が、鮮やかなみずみずしさをみせる。もし前の非を悔い改めて、正法に入るならば、満々と水をたたえて奥深く静まりかえっている淵に遊泳して、無為の宮で、思うがままの境涯にいたることは疑いない。
拝読の手引き
たとえ葉が落ち、枯れたように見える草木でも、春や夏がくれば、必ず葉を茂らせ花を咲かせます。その大自然の道理を例に引かれて、謗法の人生に決別し、正法を信受するならば、たとえ枯れ朽ちたような人生であっても、必ず蘇生し、自在の境涯を築くことができることを、教えられた御文です。 「先非」とは、私たちが過去に誤った思想、宗教を信じ、行じてきたことです。その浅薄な思想、宗教への執着心を悔い改めて、正しい道理である三大秘法の御本尊を信じ、行学に励んでいるのが私達です。私達は生涯にわたって信心に励んでいくならば、人生を自由自在に謳歌する成仏の境涯に至ることは、絶対に間違いないのです。「湛寂の淵」とは、御本尊の功徳を満々とたたえた淵であり、成仏の境涯といえます。「無為の宮」とは、真実の生命観に立脚した境涯、すなわち、妙法の世界といえるでしょう。 現在、苦悩の日々を歩んでいる人もいるでしょう。また、心身ともに恵まれない中で歯をくいしばり、努力に努力を重ねている人もいることでしょう。 しかし、枯れた草木にでも時が来れば必ず葉を茂らせ、花を咲かせます。それと同じように、今はどんなに人生の寒風にさらされている人でも、強盛な信心を貫いていくならば、その人にとって最も適した最高の人生コースに入っていくことは、絶対に間違いありません。そのことを確信して、あらゆる苦難に挑戦し、不動の自己を築き上げていきましょう。(文庫本「きょうの発心」257)
265
:
mumei
:2010/03/18(木) 20:09:37
御書p494・①(p287・⑯) かみしめたい妙法受持の福運
誠に聖教の理をきくに、人身は得難く、天上の絲筋の海底の針に貫けるよりも希に、仏法は聞き難くして、一眼の亀の浮木に遇うよりも難し。今既に得難き人界に生をうけ、値い難き仏教を見聞しつ。今生をもだしては又何れの世にか生死を離れ菩提を証すべき。
通解
まことに聖教の道理を聞くに、人と生まれることは難しく、天上の糸筋が海底の針の穴に入るよりもまれなことである。また、仏法は聞くのが難しく、一眼の亀が浮木にあうよりも難しい。今、すでに、生まれがたき人界に生を受け、あいがたい仏教を見聞した。今生、口を閉ざしては、またいつの世に、生死の苦しみを離れ、悟りをうることができようか。
拝読の手引き
人間として生まれ、仏教を信受することは、まことにまれなことです。その仏法における最高のものをもちえた私達は、積極的に、仏教の弘通にいそしむべきことを、この御文から学んでいきたいと思います。 わが身を振り返ってみれば、たしかに意に満たないことが多く、欠点が目につきやすいものです。ついつい悲観的になる人もでてくるものです。だが、人間に生まれたといういうことは、聖道正器といって、正しく仏法を修行することのできる境涯を、無にすることほど愚かなことはないでありましょう。 人界に生をうけても、仏法にあうことはなかなか難しいものです。仏が世に出現することはまれであり、出現しても法を説くとはかぎらず、説いてもそれを信受することはまたまた難事です。 今、三大秘法の仏法を受持している身の福運を、よくよくかみしめたいものです。信仰の世界は誇りと感謝が大事です。人間として生まれ、大法をたもち、師をみつけえたことへの感謝の一念を、たえず胸中に新鮮なものとすべきです。 それを忘れ、あるいはその自覚も薄く、日々、広布への前進の歩みを進めないでは、悪い宿命に縛られた自分の生命を、清浄で福運に満つ生命へと人間革命することもできません。空しく福運を切り、六道の不幸の巷を流転する以外にないのです。今生、空虚な生を送るにとどまらず、未来にもその果報を受けていかなくてはなりません。(文庫本「きょうの発心」251)
266
:
mumei
:2010/03/19(金) 11:39:15
御書p496・⑬(p290・⑩) 真に充実した人生を
今世は百年の内外の程を思へば夢の中の夢なり。非想の八万歳今だ無常を免れず。忉利の一千年も猶退没の風に破らる。況や人間閻浮の習いは露よりも危うく、芭蕉よりももろく、泡沫よりもあだなり。水中に宿る月のあるかなきかの如く、草葉にをく露のをくれさきだつ身なり。
通解
今世というのは、百年内外の程度だと思えばまるで夢の中の夢である。三界の無色界の最頂である非想の八万歳といっても無常を免れず。欲界の忉利天の一千年もやはり、退没の風〈咲き誇っている花をはかなく散らしてしまう風〉により破られるのである。ましてや人間についてはこの世界の道理として、人の命は露よりも危うく、芭蕉よりももろく、泡沫よりもむなしいのである。また水中に映った月があるかなきかのように、草葉の上の露のように、人間は死に遅れたり先立ったりしながらもいずれ消えていく身なのである。
拝読の手引き
人間の一生が、いかにはかないかを教えられた御文です。退没の風、夢の中の夢、露、芭蕉、水中の月などをもって大聖人は、私たちの人生にたとえておられます。深い人間凝視のまなざしとともに、露のようにはかない人間への限りない慈愛をこの御文から読み取ることができます。これは、鎌倉幕府の権力の弾圧と障魔に対して獅子王のごとき戦いを展開された大聖人の、もう一つの側面です。これほどの洞察と慈愛をもって、大聖人は妙法弘通に邁進されたのです。私達は決してこのことを忘れてはなりません。 現在、日本の知識人層の間に、仏教の無常感が色濃くその影をやどし、やたらと、人間の無力や絶望感を強調するむきが多いようです。そしてそれをもって自分の存在理由にしているようです。当然、そこには、無常なる人間を救済せんとする責任ある態度は出てきそうにありません。いま、私たちの日夜の活動は、そうした退廃的な風潮を打ち破っているともいえます。大聖人の仏法は、人生が無常であるからこそ一瞬たりとも、おろそかにせず生を充実させるべきことを説かれているのです。 私達は一人でも多くの人に、大聖人の仏法を伝えることによって、はかない人生を歩む人々に、真に充実した人生のあることを教え、救っていきたいものです。(文庫本「きょうの発心」234)
267
:
mumei
:2010/03/21(日) 22:09:30
御書p496・②(p289・⑰) 妙法流布こそ仏弟子の実践
只人をはばからず経文のままに法理を弘通せば、謗法の者おおからん世には必ず三類の敵人有って命にも及ぶべしと見えたり。其の仏法の違目を見ながら、我もせめず国主にも訴えずば、教えに背いて仏弟子にはあらずと説かれたり。
通解
ただ、人を気にすることなく、経文のままに法理を弘通していくならば、謗法の者が多い世においては必ず三類の敵人があって命に及ぶ難があると経文に明かされている。その仏法の違目を見ながら自分もせめず、国主にも訴えなければ、仏の教えに背くことになり仏弟子とはいえないと説かれているのである。
拝読の手引き
折伏こそ御本仏日蓮大聖人の本眷属としての道、仏弟子としての道をまっとうする唯一の実践であることを述べられた一節です。 大聖人は当時の民衆が相次ぐ三災七難によって塗炭の苦しみに喘いでいる実情を見て、人間としての共通の悩みに立って、立正安国の戦いを起こされたのです。 あくまでも民衆救済を第一に、民衆の味方として、民衆の幸福を願い、邪悪な思想、権力と厳しく対決し、平和な社会建設に生涯を貫かれたのです。この崇高な民衆救済の精神こそ創価学会の根本精神であり、私たちの実践の根本精神でなければなりません。 ひるがえって現代社会の世相を見る時、科学技術は高度に発達し、物質的にも非常な繁栄を誇っていますが、その実、人々は生きがいを失い、精神的空洞化は、ますます増大しつつあります。さらに、戦争、物価高、公害といった人災がますます顕著な形であらわれ、日に日に人々をおびやかしています。 こうした、文明、時代、人間の荒廃の本質を見極め、その転換を図っていくのが、私たちの使命であり、責任なのです。 時代、社会を変革し、社会を根本的に蘇生させていくために、私達は真の仏弟子として妙法流布の実践に勇敢に取り組んでいこうではありませんか。(文庫本「きょうの発心」265)
268
:
mumei
:2010/03/23(火) 10:20:29
御書p497・③(p291・⑩) 無常は昨日の夢
誠に生死を恐れ、涅槃を欣い、信心を運び、渇仰を至さば、遷滅無常は昨日の夢、菩提の覚悟は今日のうつつなるべし。只南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪やあるべき来らぬ福や有るべき、真実なり甚深なり是を信受すべし
通解
誠に生死の苦しみを恐れて涅槃を願い、妙法の五字に信心を運び、これを渇仰するなら遷滅無常(万物は生滅をくりかえし、変化するものであり、常住でないということ)は昨日の夢となり、悟りの菩提は今日の現実となるのである。ただ南無妙法蓮華経と唱えさえするならば、滅しない罪障があるだろうか、来ない福徳があるだろうか。どんな罪障も消滅し、どんな幸福もおとずれるのである。南無妙法蓮華経は真実甚深の法でありこれを信受すべきである。
拝読の手引き
折伏こそ御本仏日蓮大聖人の本眷属としての道、仏弟子としての道をまっとうする唯一の実践であることを述べられた一節です。 大聖人は当時の民衆が相次ぐ三災七難によって塗炭の苦しみに喘いでいる実情を見て、人間としての共通の悩みに立って、立正安国の戦いを起こされたのです。 あくまでも民衆救済を第一に、民衆の味方として、民衆の幸福を願い、邪悪な思想、権力と厳しく対決し、平和な社会建設に生涯を貫かれたのです。この崇高な民衆救済の精神こそ創価学会の根本精神であり、私たちの実践の根本精神でなければなりません。 ひるがえって現代社会の世相を見る時、科学技術は高度に発達し、物質的にも非常な繁栄を誇っていますが、その実、人々は生きがいを失い、精神的空洞化は、ますます増大しつつあります。さらに、戦争、物価高、公害といった人災がますます顕著な形であらわれ、日に日に人々をおびやかしています。 こうした、文明、時代、人間の荒廃の本質を見極め、その転換を図っていくのが、私たちの使命であり、責任なのです。 時代、社会を変革し、社会を根本的に蘇生させていくために、私達は真の仏弟子として妙法流布の実践に勇敢に取り組んでいこうではありませんか。(文庫本「きょうの発心」265)
269
:
mumei
:2010/03/26(金) 11:11:49
御書p497・③(p290・⑱) 真心の仏法対話
若し仏法を行ずる人有って、謗法の悪人を治罰せずして観念思惟を専らにして邪正権実をも簡ばず、詐って慈悲の姿を現ぜん人は諸の悪人と俱に悪道に堕つべし。
通解
もし仏法を修行する人があって、謗法の悪人を罰しないでただ観念思考を専らにして法の邪正権実をも簡ばないで、それが慈悲であるかのように詐りよそおう人は、もろもろの悪人とともに悪道のおちるのである。
拝読の手引き
妙法の実践者である私たちが、法の邪正、権実を正さずして、安易な妥協を図ることを厳しく戒められています。 日蓮大聖人の仏法は、全民衆の仏法であり、社会に大きく開かれた宗教です。 社会との厳しい戦いを忘れた宗教は、いつしか社会、民衆との間に深い溝をつくり閉鎖的となり、結局、堕落した死せる宗教となってしまうでしょう。 日蓮大聖人の仏法は、利己主義の思想ではなく、あくまでも民衆の幸福実現のために尽くす利他主義の思想です。その気高い崇高な精神、民衆救済の精神を、自らの信条として実践していくのが私達の使命であり、責務なのです。 社会のさまざまなゆがみが誤った思想、誤った宗教によって引き起こされていることを知った私達は、混乱と矛盾の様相を示す社会の現状を黙視するわけにはいきません。どこまでも自己の確信を人々に訴え、覚醒を人々に促していくのは宗教者として当然の使命ではないでしょうか。 反対にそうした基本的な実践を怠り、傍観者的態度を取っていくならば、それは宗教者として失格であり、後悔と、敗北の人生に堕落してしまうことを知るべきでしょう。 私達は一人ひとりの真心の仏法対話を通し、新しい社会を、切り開いていく崇高な実践を力強く推進していきたいものです。そこに栄光の人生が開けることを強く確信して――。(文庫本「きょうの発心」260)
270
:
mumei
:2010/03/28(日) 11:55:11
御書p498・②(p291・⑰) 如意宝珠の一珠
如意宝珠は一つあれども万宝を雨して欠処之無し。是れ又少が多を兼ねたるにあらずや。世間のことわざにも一は万が母といヘリ。此等の道理を知らずや。所詮実相の理の背契を論ぜよ。強ちに多少を執する事なかれ。
通解
如意宝珠(御本尊)は、たった一つの珠であるけれども、それから万宝を意のままに取り出すことができ欠けるところがない。これはまた少が多を兼ねている姿ではないだろうか。世間のことわざにも「一」は「万」を生みだす母といっている。これらの道理を知らないのだろうか。所詮、実相の心理にしたがうか、そむくかで問題を論じなさい。無理に多いか少ないかに執着することがあってはならない。
拝読の手引き
人が物事を判断する際の、本質的な規範、基準を示された御文です。それとともに、人がいかに目先の事や浅い見地で、判断しているかについても、鋭く指摘されています。 私達が友人や近隣の人に御本尊の偉大さ、南無妙法蓮華経の功力を語る時、よく経験することですが、意外と、大小,広狭、多少の範疇で判断している人が多いということです。批判しないまでも、私達の言葉や体験を嘲笑したり、無関心であったりしています。 よく聞かれる言葉に「御本尊だけで幸福になるとは考えられない」とか「南無妙法蓮華経の七字に、一切の万法を含むなんて……」と、御本尊や南無妙法蓮華経の力が、普遍妥当性を有する真理か否かを、真剣になって検討、思索することなしに、安直に拒否する姿があります。その拒否の根底にあるのは、狭きは広きに、少は多に、小は大に含まれるはずであるというその価値判断です。 これはなにも、信心していない人達に限るのではありません。私達においても、信心が弱まり、御本尊への確信をなくしたときに、この基準で信心をおしはかるようになります。とくに、前途にこえがたい難題が横たわっているときなど、それが余りにも大きく見えて、信心で突き破るのが不可能に思える時があるものです。 しかし、如意宝珠の一珠は、一だけれでも、万宝を生みだすのであり、いかに難問でも打破する力を御本尊は与えてくれるのです。これこそ信心の極意といえましょう。私達は常に“実相の理”に照らして、御本尊をだきしめて前進したいものです。(文庫本「今日の発心」152)
271
:
mumei
:2010/03/28(日) 21:57:37
題名 :如説修行抄
別名:
対告衆 :
執筆年次 :文永10・5
聖寿 :52
西紀 :1273
著作地: 佐渡・一ノ谷
大意 :鎌倉で難と戦っている門下一同を激励され、如説修行の姿を詳しく教示されている。 創価学会は、初代会長の牧口常三郎先生以来、どこまでも「日蓮大聖人直結」御書根本』によって、広宣流布の一切の環境を切り開き、前進してきました。ここに未来永劫にわたる学会の不滅の原点があります。この「絶対勝利の信心」の根幹の精神を拝していくのが「如説修行抄」です。 「如説」とは文字通り、「仏の如く」との意味です。また、「師の如く」とも拝することができます。 何よりも大聖人御自身が、正法である法華経を身読されて「如説修行」するお姿を門下に教えてくださいました。 それは釈尊の説いた正法が見失われ、人心が乱れ、争いごとが惹起される末法の闘諍言訟の時に、決然と、万人成仏の旗を掲げられた「破邪顕正」の言論闘争であられます。この大折伏戦は、経文に説かれている通り三類の強敵を招き寄せました。大聖人は、その魔性に敢然と立ち向かって勝利され、法華経こそが真実であることを証明されたのであります。 私たちにとっての如説修行とは、大聖人が仰せられているままに実践することです。 青年部は今こそ、大聖人の大哲理を深く拝して、「確信」と「言論の力」を鍛えに鍛えていただきたい。 どこまでも「師匠の仰せのまま」に、苦難に臆さず理想のために戦う仏弟子の生き方を教えられたのが本抄です。「師弟不二の書」ともいうべきこの重書を、ただただ末法万年の広布のために、未来永遠の創価の勝利のために、魂にきざみつけて拝してまいりたい。
272
:
mumei
:2010/03/29(月) 10:32:34
御書p501・①(p554・①) 真正の弟子に末法流布の覚悟を促す
夫れ以れば末法流布の時・生をこの土に受け此の経を信ぜん人は如来の在世より猶多怨嫉の難甚だしかるべしと見えて候なり
通解
よくよく考えてみるに、末法という法華経を流布すべき時に、生をこの国土に受け、この経を信じる人には、釈迦如来の在世よりも「猶多怨嫉」の難が激しく起ると経文に明らかなのである。
池田先生の指導
“これからは、本物の弟子によって一切が決まる“ “真剣な弟子が立ち上がれば、広宣流布は必ずできる” この日蓮大聖人の御確信が、「観心の本尊抄」御執筆の翌月の著作である本抄「如説修行抄」、さらにまた一月後の「顕仏未来記」から烈々と拝されてなりません。 これらの御抄は、まさに大聖人の御遺言の書とも拝察されます。本抄は“不惜の弟子よ今こそ折伏行に立ち上がれ”との渾身の呼びかけであり、「顕仏未来記」は仏法西還・閻浮提広宣流布を遥かに展望された理想実現の書です。 すなわち、末法万年にわたる一切衆生救済という壮大な民衆仏法の大構想は、「日蓮と同意」「日蓮が如く」とあるように、真正の弟子が出現して初めて現実のものとなる。ゆえに、全門下に、“わが本物の弟子よ、不惜の心で末法広宣流布の大聖業に立ち上がれ”と全魂の呼びかけをなされているのではないでしょうか。 本抄の冒頭は、末法において法華経流布の時に、この国に生を受け、法華経を信ずる者には、釈尊の時代よりも甚だしい難が競い起るとの「猶多怨嫉況滅度後」の経文から説き起こされています。 これは末法流布の使命の自覚と苦難の覚悟を促されているのです。苦難に臆する弱き精神では、広宣流布の大業を成し遂げることはできません。大聖人と同じく民衆救済の深い精神に立ち、不惜身命の強靭な心で大難に立ち向かってこそ、真の弟子です。また、師匠と同じ心で共に戦える喜びが、あらゆる苦難を乗り越える力となるのです。続く御文で大聖人は、釈尊の在世と、末法とを比べて、釈尊の時代よりも末法のほうが激しい大難が起こることは必然であることを明快に論じられています。 在世で「教えを説く人」は「仏」であり、かたや末法の師は「凡師」である。また、在世の弟子は「大菩薩・阿羅漢」かたや末法の弟子は「三毒強盛の悪人等」である。 仏が法を説き、立派な弟子が実践した時代にあってもなお、怨み妬む者が多かった。ましてや、外見は凡夫の師匠が法を説き、貪瞋癡の三毒の強盛な人々が弟子である末法では、在世以上の大難が競うのは必然であると示されています。 ゆえに「善師をば遠離し悪師に親近す」〈p501〉と仰せのように、せっかく善き師・日蓮大聖人にめぐりあえたのに、正邪の判断を失い、自ら離れて悪師に近づいていってしまうのです。それが末法の現実です。(大白蓮華2010・1勝利の経典「御書」に学ぶ)
273
:
mumei
:2010/03/30(火) 11:12:43
御書p501・⑤(p554・⑤) 「何があっても恐れるな!」
真実の法華経の如説修行の行者の師弟檀那とならんには三類の敵人決定せり,されば此の経を聴聞し始めん日より思い定むべし況滅度後の大難の三類甚だしかるべしと、然るに我が弟子等の中にも兼ねて聴聞せしかども大小の難来る時は今始めて驚き肝をけして信心を破りぬ、兼ねて申さざりけるか経文を先として猶多怨嫉況滅度後・況滅度後と朝夕教へし事は是なり
通解
真実の法華経の如説修行の行者として師となり、その弟子檀那となるならば、三類の敵人が必ず現れるのである。 そうであるからこそ、「この法華経を聞き、信心を始めた日から覚悟を決めるべきである。法華経に『ましてや、釈迦滅後はなおさらである(況滅度後)』と説かれる通り、三類の敵人による大難が激しいであろう」と言ってきたのである。 ところが、私の門下の中にも、以前からそう聞いておきながら、いざ大小の難が起こってくると、今になって初めて気づいたかのように驚き、肝をつぶして、信心をやぶってしまった者がいる。 かねてから言っておいたではないか。経文を第一として、「釈尊の在世でさえ敵対し嫉妬する者が多い。それにもまして、滅後にはなお激しい難を受ける、激しい難を受ける(猶多怨嫉、況滅度後、況滅度後)」と朝夕繰り返し教えてきたのは、このことである。
池田先生の指導
私にとって忘れ得ぬ原点となった御金言です。戸田先生との運命的な出会いを果たし、創価学会の信仰の道に入ったばかりの私は、この一節を心して肝に命じました。 大聖人は、如説修行の行者には「三類の強敵の出現は必定である」「況滅度後の大難は甚だしい」と厳然と示されています。 私は覚悟し、決意しました。 「革命は死なり」と。 私は、広宣流布の師匠・戸田先生の弟子である。師匠が獄に入り、壮絶なる闘争を刻まれた以上、この師匠と歩めば大難は必ず出来する。その時に何も恐れてはいけないと、深く心に誓いました。 もちろん、仏法は殉教主義ではありません。法のため、師匠のため、不惜の心で、働きに働き、尽くしに尽くし、生きて生き抜いて弘通してこそ、真実の死身弘法・不惜身命の実践です。 ここで大聖人は、いざ大小の難が現実に起こると、肝をつぶして臆病になり、信心を失い退転してしまう、愚かな弟子の敗残の生命を峻厳なまでに打ち破られています。 この御聖訓を講義してくださったときの戸田先生は本当に厳しかった。東京・市ヶ谷にあった先生の会社の小さい事務所の一室であったと記憶しています。真の弟子には、厳格な日蓮仏法の真髄を教えておこうとの渾身の講義をしてくださいました。 「何があっても恐れるな!一歩も退くな!」 日蓮大聖人の御精神に直結するがゆえのあまりにも峻厳なるご指導でした。 本当の信心とは、これほど厳しいのか! 本当の学会活動の使命とは、これほどまでに御聖訓通りの厳格さがあるのか! 強く深い衝撃と触発を受けました。 大聖人は、この御文の最後で、「猶多怨嫉況滅度後」と朝に夕に教えてきたのは、このことであると仰せです。 三類の強敵は、三障四魔の中でも最も恐ろしい天子魔(大六天の魔王)が、その働きをつぶさに現してきたものです。 大聖人はその迫害と敢然と戦いぬかれている師匠の立場から、「猶多怨嫉況滅度後」を日々教えられた。それでも門下たちは臆病の心を起こして退転してしまった。「千が九百九十九人は堕ちて候」(p907)と述べられているほどです。 障魔に勝つか負けるかは、末法流布において決定的に重大なことです。簡単に障魔に心を打ち破られていく弟子の姿を見ることほど師匠にとって辛いことはない。 大聖人は「開目抄」でも綴られています。「我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこしてみなすてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時は忘るるなるべし(p234) いざ苦難に直面した時に、いかに人の心とは弱くなるものか。難が起こった時こそが「まことの時」であり、信心の真価が試される時なのです。(大白蓮華2010・1勝利の経典「御書」に学ぶ)
274
:
mumei
:2010/03/31(水) 11:31:43
御書p501・⑮(p554・⑮) 「権実二経の戦」の本質
かかる時刻に日蓮仏勅を蒙りて此の土に生まれけるこそ時の不詳なれ、法王の宣旨に背きがたければ経文に任せて権実二教のいくさを起こし忍辱の鎧を着て妙教の剣を提げ一部八巻の肝心・妙法五字の旗をさしあげて未顕真実の弓をはり正直捨権の矢をはげて大白牛車に打ち乗って権門をかっぱと破りかしこへ・おしかけ・ここへ・おしよせ念仏・真言・禅・律等の八宗・十宗の敵人をせむるに或は逃げ或はひきしりぞき或は生け捕られし者はわが弟子となる、或はせめ返し・せめおとしすれども、かたきは多勢なり法王の一人は無勢なり今に至るまで軍やむ事なし
通解
このような時に日蓮が仏の命を受けてこの国土に生まれたことは、まさに時の不運である。 しかし、法王である仏の命に背くことはできないので、経文のままに、実教をもって権教を破る戦をおこし、忍耐の鎧を着て、爾前権教を立ち切る妙法の剣をたずさえ、法華経全巻の要である妙法蓮華経の五字の旗を差し上げて、「権教には真実が説かれていない(未顕真実)との弓をかまえ、「きっぱりと権教を捨てよ(正直捨権)」との矢をつがえ、大白牛車に乗って、権教の門を一気に打ち破り、あちらへおしかけ、そちらへ押し寄せ、念仏・真言・禅・律などの八宗・十宗の敵人を責めたところ、ある者は逃げ、ある者は退き、あるいは生け捕られた者は私の弟子となる。また、立ち向かってくる者には反撃し、攻め落としてきたが、敵は多勢である。ただ一人法王の命を受けた私は無勢である。今に至るまで戦は、やむことがない。
275
:
mumei
:2010/04/02(金) 09:51:39
池田先生の指導
末法の本質は「闘諍堅固・白法穏没」ということにあります。つまり、仏教の内部から乱れ、教えと教えの争いが起こり、何が釈尊の正法かわからなくなって、ついには仏法が滅びてしまう「法滅の時代」が末法です。そして、法の乱れとともに、万民が乱れ、ついには国土が滅びてしまうのです。 そのような法滅の時代に、法を正して法滅を阻止する折伏の戦いを起こす、。それとともに、民衆を苦悩から救い、国土の崩壊を止めていく立正安国の理想を掲げて戦うのが、末法の如説修行の行者です。 これが「如説修行」であると言えるのは、法華経で仏が菩薩たちに向かって、この滅後の戦いを命じられているからです。それを「仏勅」「法王の宣旨」と言われています。 法華経では、仏の教えに方便〈三乗〉と真実(一乗)があることを示し、釈尊の滅後には正直に方便を捨てて、一乗たる法華経を弘めていくべきことを菩薩に命じます。ゆえに、法滅の危機に出現した末法の如説修行の行者は、方便権教と真実である実教(法華経)を明確にたてわけていく「権実二経のいくさ」をあえて起こさなければならないのです。あくまでも法滅を阻止するためです。 すでに諸経が混乱している闘諍言訟の末法において、この権実二経の違いを明確にしていくならば、権教を拠り所として既存の宗教的権威と化した諸宗から、必ず反発があり、誤解と批判と迫害の嵐が押し寄せてくる。ゆえに、この「いくさ」を戦う人は「時の不詳(不運)であると覚って覚悟の戦いをしなければならない。また、「忍辱の鎧」を着て迫害の嵐に耐えなければならない。 この「いくさ」における最強の武器は、仏みずから権実二経を立て分けて示された法華経そのものです。これを「妙教の剣」と言われています。仏の言葉以上に切れ味のよい折伏の力はありません。折伏はどこまでも「道理」を武器とする慈悲の戦いです。 もし道理以外のもの、たとえば権威や権力、また暴力などを武器としたならば、それは、仏の命じた思想戦とはいえません。宗教としての自己否定であり、最も堕落した末法の法滅の様相そのものと言わざるをえない。 「一部八巻の肝心・妙法五字の旗」とは、法華経の真髄としての南無妙法蓮華経の題目のことです。正義の軍勢の旗印です。万人成仏の妙法を高く掲げて、人々を不幸に陥れる悪と戦う「法華弘通の旗印」〈p1243〉です。
276
:
mumei
:2010/04/04(日) 22:48:00
「妙法蓮華経の五字」とは、全衆生の仏性の名であり、自他の仏性を呼びあらわす実践の唱題です。ゆえに、一人一人に生命の勝利の旗を打ち立てる力があるのです。「権実二経のいくさ」とは、妙法への強盛な信を根本に、真剣な唱題で自他の不幸を打ち破り、幸福を切り開く「人間勝利の戦い」にほかなりません。 この妙法五字の旗を掲げた行者が「未顕真実」「正直捨権(正直捨方便)」の仏語を弓矢として使い、魔の働きを射止めていけるのです。 また、「大白牛車」とは、あらゆる人を成仏の目的地まで運ぶ「法華一乗」を意味します。壮大にして華麗な大安心の乗り物です。どのようなところでも自在に赴き、人々を救い出すのです。 この法華経の大白牛車に乗り込んで「権門をかっぱと破りかしこへ・おしかけ・ここへ・おしよせ……今に至るまで軍やむ事なし」と仰せです。 なんと躍動感にあふれた御文でありましょうか。縦横無尽に広布に駆け巡る生命力が湧き起こってきます。この御文で、如説修行の行者が現世安穏ではないという疑難は一挙に吹き払われます。草創以来の学会員の活動もこの御聖訓通りの生き生きとした、そして力強い実践でした。 戸田先生はこの御文を通して、次のように指導されました。 「悪を放置してはならぬ! 前へ前へ攻めて出て、敢然と打ち破っていくことだ」 戸田先生は民衆救済の指導者であり、「破邪顕正」の闘将でもあられた。先生の生命には、常に邪悪と戦う破折の精神が漲っておられました。 この攻撃精神、破折精神こそ学会の魂です。青年部の心意気です。この御文に、「せめ返し」「せめをとし」ともあります。青年部の諸君には、この御聖訓通り、民衆を苦しめる一切の悪の根を断ち切るまで戦い抜く執念をもってもらいたい。広宣流布のため、人々の心にはびこっていく魔性を打ち破っていかなくてはならないのです。 この御文の最後で大聖人は「かたきは多勢なり法王の一人は無勢なり」「今に至るまで軍やむ事なし」と仰せです。 創価の三代の師弟は常にこの決定した一念で戦ってきました。牧口先生は軍国主義の荒波の中、日蓮仏法の興隆のため、一人、決然と立ち上がられました。戸田先生も戦後の荒野に一人立たれ、学会の再建と75万世帯の願業に挑まれました。そして第3代の私もまた、戸田先生の弟子として一人立ち、世界広布の大航海へと旅立ったのです。 広宣流布とは仏の軍勢と魔軍との連続闘争です。「軍やむ事なし」です。戦い続けるなかにこそ、真の成仏の境涯が輝くことを「如説修行」の実践が示しているのです。(大白蓮華2010・1勝利の経典「御書」に学ぶ)
277
:
mumei
:2010/04/05(月) 13:15:44
御書p502・⑤(p555・⑤) 粘り強い対話と人間性の輝きを
法華折伏・破権門理の金言なれば終に権教権門の輩を一人もなく・せめをとして法王の家人となし天下万民・諸乗一仏乗と成つて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり
通解
「法華経の折伏は、権教の理を打ち破る(法華折伏・破権門理)」の金言であるので、ついに権教を信ずる輩を一人も残さず攻め落として仏の門下とし、国中のすべての人々が、二乗や菩薩などをめざす低い教えを捨てて最高の成仏の教えを信じ、妙法だけが独り盛んになった時、すべての人々が同じく、南無妙法蓮華経と唱えるならば、吹く風は枝を鳴らさず、雨は優しく降って土を砕かず、時代は理想とうたわれた伏羲・神農のような世となって、今世では不幸な災難を払い長寿の方法を得て、人も法も共に不老不死の姿が現実となる時を、おのおの御覧あれ「現世は安穏」という経文に何の疑いもないのである。
池田先生の指導
道理と仏意のうえから「現世安穏」の経文が決して虚妄ではないことを明らかにされている御文です。 「法華折伏・破権門理」とは天台大師の「法華玄義」にある有名な言葉です。法華経における折伏は、権門の理を破折するところにある、との意です。 法華経において、仏自身が権門の理を破しているのですから、「権実二教のいくさ」においては、権教に執着する人々は結局のところ仏自身の折伏によって破折され、仏意に随わざるをえません。すべての人が仏意に正しく随っていくことを「法王の家人」となると言われ、すべての教えが一仏乗たる法華経のもとに統合されていくことを「諸乗一仏乗」と言われている。 また「妙法一人繁昌せん時」とは、仏が悟った成仏の法である妙法が正法として正しく信受され、妙法に対する誹謗・不信も一掃され、仏法が妙法を根本として栄える時を指しています。 ここで言われていることは、八宗十宗というように諸宗派が乱立して闘諍言訟の様相を呈しているなかで、そのなかの一宗派が諸宗を制覇していくことではありません。諸宗の根源でもある仏の悟りの妙法が、社会の根本原理として妨げられることなく働いてくることを意味するのです。 「万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば」との仰せも、仏が実証し、説かれた万人成仏の法の功徳が、あまねく人々に行きわたっていく順縁広布の精神的状況を確立していくことにほかならない。それが即ち「立正安国」の「立正」ということでもあります。 牧口先生は、妙法流布によって実現すべき精神的価値を、一次元から「大善」と言われた。戸田先生は、全人類の「人間革命」を高らかに謳われた。そのうえで私は、全人類が目指すべき精神的価値を「生命の尊厳」として展開してきました。
278
:
mumei
:2010/04/05(月) 23:16:51
広宣流布は難事中の難事です。それは、人々の生命を変革する作業が伴うからです。妙法への「信」とは内発の力です。一人一人の生命を内から変革する「信」を芽生えさせるには、粘り強い一対一の対話が不可欠です。 したがって、言うまでもないことですが、「天下万民・諸乗一仏乗」といっても、強制されて法が広まることではありません。仏法の人間主義が人々に受け入れられ、社会の思潮となり、全人類の共通の価値観となって初めて「諸乗一仏乗」と言えるのです。粘り強い対話と、法を弘通する側の人間性の輝きがなければ広宣流布は実現しません。 その意味で、創価学会・SGI(創価学会インタナショナル〉によって、現在、壮大なる対話の陣列が築かれたこと自体、現代の軌跡といっても過言ではありません。 学会が唯一の日蓮仏法の「如説修行」の仏勅の団体だからこそ、幾多の荒波を乗り越えて広宣流布に邁進することができたのです。 いまや大聖人の仏法を根幹とする、創価の人間主義の連帯は、世界192ヵ国・地域にまで興隆しました。 まさに「一人繁昌せん」の御聖訓を自らの行動指針として体現されているのが、わが学会同志なのであります。 大聖人は「妙法一人繁昌」する時、必ず現世安穏の世の中になると御断言です。 では広宣流布の暁には、どのような世界が出現するのでしょうか。続く御文では「吹く風枝をならさず雨壤を砕かず」と仰せです。万人が生命尊厳の妙法を信じ、題目を唱えていくならば、大風や豪雨などが起こっても、必ず変毒為薬していくことができる。 「羲農の世」という古代中国の伝説上の世のように、わが国土に平和と繁栄と幸福がもたらせていくのです。 「人法共に不老不死」ともあります。“法の不老不死”とは、万法を包み、支え、生かしていく妙法の働きが衰えることも絶えることもないことです。一次元で言えば、すべてのものが調和し、多様性のままに価値創造の働きを起こしている姿とも言えるでしょう。 また“人の不老不死”とは、もちろん老いない、死なないということではなく、おいの苦しみ、死の苦しみに負けない常楽我浄の境涯が実現するということです。釈尊が明らかにしたように、老いや死の苦しみは無明がもたらすもたらすものです。妙法の力が顕現する世にあっては、人々はおのずと妙法への確信に立ち、無明を打ち破っていけるのです。 このように、如説修行の行者が広宣流布の戦いによって実現する世界は「現世安穏」が明らかな理想社会です。しかし「現世安穏」といっても、決して彼方の理想社会にのみあるものではありません。法華経の教えの通りに、「自他共の幸福」と「平和安穏の国土」の実現を目指して戦う如説修行の行者の境涯そのものが、じつはすでに「現世安穏」なのです。 それは、大聖人御自身の戦いを示された先の御文にも明らかです。いかなる困難にも負けず、広宣流布のために戦う躍動の姿に、真の「現世安穏」が輝きわたるのです。これこそ、日蓮仏法の「現世安穏」の本義なのです。 戦えば、自身の仏界が躍動します。最高の歓喜に満ちあふれてきます。日蓮仏法の不惜身命には悲壮感はありません。溌剌たる挑戦には、常に歓喜の生命が漲るものです。 「如説修行の行者」の戦いの意義を説かれた本抄の文末も、大聖人は「あらうれしや・あらうれしや」〈p505〉と結ばれています。また、「法華経の行者」の戦いの意義を余すところなく述べられた「開目抄」でも、その結びの一節に「日蓮が流罪は今生の小苦なれば・なげかしからず、後生には大楽を・うくべければ大いに悦ばし(p237)と、大歓喜の境涯を謳われています。 広宣流布への挑戦は苦闘の連続です。それは同時に、無常の歓喜が伴う仏界湧現の実践にほかならないのです。戦う生命の中に成仏の喜悦の大境涯が躍動する。「大難即成仏」「大難即悟達」の境涯にまさる「現世安穏」はありません。大聖人の御指導のままに、御書の仰せ通りに、広宣流布に戦う魂を赫々と燃え上がらせていくなかにこそ、幸福と希望の大前進があるのです。(大白蓮華2010・1勝利の経典「御書」に学ぶ)
279
:
mumei
:2010/04/08(木) 10:42:24
御書p502・⑬(p555・⑬) 仏意である「一仏乗」への信を確立せよ
予が云く然らず所詮・仏法を修行せんには人の言を用う可からず只仰いで仏の金言をまほるべきなり(中略)此等のをきての明鏡を本として一分もたがえず唯有一乗法と信ずるを如説修行の人とは仏定めさせ給へり
通解
私は言う。「それ(=すべての経も成仏の教えと信じることが如説修行であると信じること)は間違いである」と。仏法を修行するにあたっては、人の言葉を用いてはいけない。ただ仏の金言を仰いで、守るべきである。(中略) これらの法華経の経文の規範を明確な手本として、少しも違えることなく、「ただ成仏の教えだけがある」と信じるのが、如説修行の人であると、仏は定めておられる。
池田先生の指導
本抄では、「如説修行の行者とは、どのように法華経を信ずる人なのか」との問いが立てられます。そして、末法における法華経への「信」のあり方が明らかにされていきます。 釈尊の「仏意」を明かした経典が法華経です。法華経に示された仏意とは、何か。それは「諸乗一仏乗」であり、「万人の成仏」です。 「諸乗」とは、釈尊の教えとして残されている種々の教えです。声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の「三乗」は、その代表です。釈尊は人々の機根の違いに合わせて、これらの種々の教えを説きました。しかし、その真意は人々の機根を整えて最終的には「一仏乗」を教えることにあったのです。 「一仏乗」とは、“人々を仏の境涯に至らしめる唯一の乗り物”という意味で、万人を成仏させる仏の教えは最終的に、この一仏乗以外にありません。 この「一仏乗」を説ききった経典こそ、法華経です。 法華経では、仏の真意が「万人の成仏」にあることを明らかにされています。とともに、成仏の大法の名を「妙法蓮華経」と明かし、その哲学的本質を「諸法実相」と説きました。また、釈尊自身が行じた究極の成仏の因果を「本因本果」〈十界互具・一念三千〉として指し示し、法華経を修行する功徳を「一念信解」「六根清浄」「其罪畢已」「即身成仏」等として説き究めたのです。 さらにまた、万人の成仏を実現していくための「広宣流布の大願」が掲げられました。この大願に生きることにこそ、真実にして永遠なる「菩薩道」があることを宣言されています。 このように法華経は、あらゆる角度から仏の真意である「一仏乗」を教えているのです。また、全編が「一仏乗」の教えで一貫しているのです。ゆえに、法華経を聞き、受持していけば、「一仏乗」への信が起こり、成仏を妨げる迷いが打ち破られていきます。そして、成仏の因果が我が生命に刻まれ、偉大なる一生成仏の大功徳が現れるのです。具体的な教法と修行と功徳としての一仏乗は、法華経にしか説かれておりません。 だからこそ、法華経を如説修行する行者の「信」の在り方は、「ただ法華経のみを信ずる」という在り方でなければならない。仏意が分からず他教に心を移せば、一仏乗への信を失うことになりかねないからです。
280
:
mumei
:2010/04/19(月) 17:46:43
ところが、大聖人の御在世の多くの学者たちは、「諸乗一仏乗」を誤解し、誤った「信」の捉え方を言いたてました。それは、「諸乗はすべて一仏乗であると法華経で開会されるのであるから、念仏・真言・禅のどれを信じて修行しても、また、諸経典に説かれる種々の仏菩薩を信ずる信仰も、すべて一仏乗を信じたことになる」という謬見です。 ここには「開会」という考え方をめぐって、重大な間違いがあります。「開会」とは、究極の真実を明らかにして、方便の諸経をその真実に関係づけて統一していくことです。諸経を統一する究極の真実、つまり一仏乗は法華経において正しく位置づけられたうえで、その限りで法華経の一部を表現する教えとして用いることができるのです。方便の諸教は、一仏乗たる法華経を根本とした時に、初めて生かされるのです。 法華経の本義をよく知らない世間の学者は誤った「信」の在り方を主張しました。しかしながら法華経には、仏自身の言葉として正しい「信」の在り方が明確に示されております。ゆえに、この段で大聖人は、人々の誤りを認識させ、正しい「信」を確立させるために、仏法を修行する際には「人(人師)の言葉を用いてはならない」「仏の金言を根本とすべきである」と戒められてうるのです。 そして、法華経への正しい信の在り方を示す仏の金言として、本抄では、法華経の開経とされる無量義経や法華経の諸品から多くの経文が引用されております。 まず、無量義経からは、経典といっても権教(方便)と実教(真実)を明確に分けるべきことを示す「方便力を以てす、四十余年には未だ真実を顕わさず」の経文があります。また、歴劫修行を説く爾前経では永久に成仏できないことを示す経文(「終に無上菩提を乗ずることを得ず」)も引かれている。 法華経からは、まず仏自身が法華経において方便を捨てて真実の一仏乗を説くことを示す経文(「世尊は法久しくして後、要ず当に真実を説きたまうべし」「二無く亦た三無し仏の方便の説を除く」「正直に方便を捨てて」があります。また、法華経を信ずる人はもっぱら法華経のみを信ずべきことを説く経文(「乃至余経の一偈をも受けずば」もある。さらに法華誹謗を戒める経文(「若し人は信ぜずして、この経を毀謗せば、即ち一切世間の、仏種を断ぜん(中略)その人は命終して阿鼻獄に入らん」等を引かれている。 そして、結論として、「唯有一乗法(ただ一乗の法のみ有り)」の経文を通して、仏法には一乗法(一仏乗)のみがあるとの断固たる信心を立てる人が「如説修行の行者」であることを示されています。 ここで注意すべきことは、これらの経文は決して“排他的信仰”を示すものと誤解してはならないという点です。大聖人は、どこまでも仏意に従って、一仏乗への信仰を確立せよと促されているのであります。 末法は、「闘諍言訟・白法穏没の時」です。すなわち、仏の真実の教えである一仏乗が分からなくなり、仏法としての統合の基軸を失い、仏法の内部の争いが生ずる。そして、ついには仏法自体が滅していかざるをえない時代です。大聖人の御在世の八宗・十宗という日本仏教の分裂状況は、一仏乗を忘れた法滅の危機を示すものにほかなりませんでした。 その仏法の危機を乗り越えるために、法華経信仰の確立をここで訴えられました。万人の成仏を成り立たせるために、究極の生命尊厳・人間尊敬の原理と実践が説き切られている経典は、法華経以外にないからです。 また、この法滅の危機は、人間の危機でもある。国土・社会の安穏を崩壊させゆく戦乱の危機でもあります。この危機を乗り越えるためにも、一仏乗への「信」を確立した主体者を輩出していくことが、法華経に目覚めた大聖人の一門の使命なのです。(大白蓮華2010・2勝利の経典「御書」に学ぶ)
281
:
mumei
:2010/04/21(水) 10:07:10
御書p503・⑦(p556・⑦) 摂受・折伏時によるべし
凡仏法を修行せん者は摂折二門を知る可きなり一切の経論此の二を出でざるなり、されば国中の諸学者ら仏法をあらあら学すと云えども時刻相応の道をしらず(中略)然るに正像二千年は小乗権大乗の流布の時なり、末法の始めの五百年には純円・一実の法華経のみ広宣流布の時なり
通解
仏道修行をする者は、摂受・折伏の二つの修行があることを知らなければならない。すべての経・論も、この二つに収まる。そうであるならば、国中の諸宗の僧は仏法を学んでいるようでも、時にかなった修行法を知らない。(中略)正法・像法の二千年間は、小乗教・権大乗教が広まる時である。末法の始めとなる五百年は、成仏への教えを完全に説いた法華経だけが広宣流布する時である。
池田先生の指導
前段では、末法における「如説修行の行者」の「信」の在り方について論じられました。この段からは「如説修行の行者」の「行」、すなわち、如説修行の人が、末法においては、いかなる実践をなすべきなのかがテーマとなっていきます。 この段の最初に質問が掲げられています。それは、法華経のみを信受するというのであれば、法華経に説かれる五種の修行を安楽行品の如くに励むのは如説修行の行者といえるのか、という問いです。 五種の修行とは、法華経法師品などに説かれる修行法で、法華経を「受持」「読」「誦」「解説」「書写」することです。大聖人は、これに対して、「妙法蓮華経の五字の受持」の一行を末法の法華経修行の根本として立てられました。 また、安楽行品には、初信の者が悪世に法華経を安楽に修行して仏果を得るための「摂受」の修行法が説かれています。例えば、「楽って人、及び経典の過を説かざれ」(法華経p431)とあるように、悪口せず心静かに修行する行き方です。ここでの質問には、大聖人が末法の修行として「折伏」を重視することへの人々の疑問が含まれています。この問いは、諸宗の人々だけでなく、大聖人の門下からもなされました。 これに対して大聖人はまず、「仏法を修行する者は、摂受・折伏の二つの修行法を知らなければならない」と仰せです。 ここで言う『摂受」とは、仏道修行に一人静かに専念する修行法のことです。法華経の中では、安楽行品のように「摂受」の修行も説かれている一方で、不軽品のように法華経の真実を あらゆる人々に言い切っていく「折伏」の修行も説かれています。 この摂受と折伏とは、本来、両方とも必要な修行で、摂受を行ずべき時には冷静に判断して摂受を行い、折伏を行ずべき時には勇気を起こして折伏を実践すべきものです。どちらか一方が是で、どちらかが非であるとすべきものではありません。それゆえに、法華経にも両義が説かれているのです。 これに対して、折伏を排斥する摂受主義、摂受を認めない折伏主義などは、本来の「摂折二門」から外れた思想となります。
282
:
mumei
:2010/04/22(木) 10:42:12
本抄の前年(文永9年)に認められた「開目抄」や「佐渡御書」では、摂受、折伏について次のように教えられています。 「開目抄」では、「末法に摂受・折伏あるべし」といわれ、無智の者・悪人が国土に充満しているときは摂受を第一とし、邪智・謗法の者が多いときは折伏を第一とすべきであると仰せです(p235) 「佐渡御書」にも「摂受・折伏時によるべし」(p957)とあります。 すなわち、大聖人はどちらの修行を用いるかは、「時」を基準に判断すべきであると仰せなのです。それが、本抄で言う「時刻相応の道」です。 ところが、大聖人御在世の現実の仏教者たちは、仏教を学んでいるようでいて、この基準を知らなかった。それゆえに、正法・像法時代の主流的な慣行であった摂受に偏って、大聖人の折伏を仏教にあってはならないとして非難していったのです。それは、仏教の根本を知らない愚かな姿そのものでした。 本抄では、「時」が重要である例として、農作業などにおいても「時」や「季節をわきまえるべきであることを示されます。仏法にも同じく、小乗教、大乗教、実教のそれぞれが流布して得益がある「時」が存在します。 ここでいう「時」とは、単に時間の推移を意味する時ではありません。正法・像法・末法という、釈尊滅後の「法」の受容の変遷を鑑みた時代区分です。それは、衆生の生命状態や、衆生を取り巻く社会・国土の状況、思想・宗教の流布の次第などを含めた総合的な時代認識であると言えます。 大聖人は、正法・像法の2千年は、小乗教や権大乗教が流布する時であると明かされています。正法時代、像法時代は、衆生の機根が整っている人が多い。また、過去世等における法華経との結縁が熟したことにより、小乗教や権大乗教を縁として、得道していける人がいました。また、大方の傾向として、一部の人が得道できれば、その人々の人格・振る舞いを通して社会によい影響力を及ぼすことができた時代もあったともいえます。 一方、末法は、「純円・一実の法華経」のみが広宣流布していくべき時であると示されています。「純円」とは、方便を交えずに、もっぱら完全なる成仏の法のみを説く教えのことです。また、「一実」とは、究極の真実の教えという意味です。要するに「純円・一実の法華経」とは、先に述べた「一仏乗を説き尽くした教えとしての法華経を指しております。 仏法が法滅の危機にあり、しかも、衆生の生命を惑わす悪縁に満ちた五濁悪世である末法の時代においては、一仏乗を力強く説き尽くした法華経以外に、衆生と時代を救う力を持ちません。 しかも、一仏乗を誹謗する謗法の魔性が跋扈するのが末法です。大聖人は、成仏するために信ずべき法を、このうえなく明確にされた御本尊を顕されました。そして、信の持続を可能にする唱題行を立てられることによって、末法の人々の生命に内在する仏性を直接的に触発する下種仏法を確立されました。さらに、この日蓮仏法の修業の要諦として、謗法の魔性と戦う折伏の実践が不可欠であることを、御自身の実践を通して厳然と示してくださったのです。(大白蓮華2010・2勝利の経典「御書」に学ぶ)
283
:
mumei
:2010/04/24(土) 11:15:36
御書p503・⑬(p556・⑬) 末法は「法華経の敵」と戦う時
この時は闘諍堅固・白法穏没の時と定めて権実雑乱の砌なり、敵有る時は刀杖弓箭を持つべし敵無き時は弓箭兵杖何かせん、今の時は権教即実教の敵と成るなり、一乗流布の時は権教有って敵となりて・まぎらはしくば実教よりこれを責む可し、是れを摂折二門の中には法華経の折伏と申すなり、天台云く「法華折伏・破権門理」とまことに故あるかな
通解
(法華経が広宣流布する)この末法の時は、「争いが絶えず、釈尊の仏法が力を失う(闘諍言訟・白法穏没)」時と説かれているように、権教と実教が入り乱れている時である。 敵がいる時は、刀や棒や弓矢を持つべきである。敵がいない時は、弓矢や刀は何の役に立つであろうか。 今の時は、権教がただちに実教の敵となっている。一仏乗の法が広まる時に、権教があって敵となって、法の正邪が紛らわしいのであれば、実教の立場から権教の誤りを責めるべきである。これを摂受と折伏という二つの法門の中では、「法華経の折伏」というのである。 天台が「法華経の折伏は、権教の理を打ち破っていく(法華折伏・破権門理)」といっているのは、まさしく道理に適っている。
池田先生の指導
ここで大聖人は、末法は「闘諍堅固・白法穏没の時」であると仰せです。これについては先に述べました。また、この末法における仏法内の混乱を「権実雑乱の砌」ともいわれています。 権教は、本来の釈尊の教えの中に位置づければ、衆生の機根を整えて、法華経の一仏乗に至らせるための方便の教えです。ところが、末法では、権教の一部を拠り所とする勢力が、自らが拠り所とする経典を絶対化して、果ては法華経を誹謗し、人々の正しい信仰を捨てさせる魔性を起こしていく濁った時代です。その意味で、権教が、直ちに「実況の敵」「法華経の御敵」となる時代であるといわれています。 このような時代や国土にあっては、法華経による万人の成仏を実現させるためには、法華誹謗の魔性を帯びた権教の勢力の悪を力強く打ち破らなければならないと仰せです。これが大聖人の折伏です。 「実教より之を責むべし」と仰せです。この折伏戦は、部分的な教法である「権教」を絶対化してしまう仏法上の悪を、仏の真意である一仏乗を顕した「実教」によって鋭く打ち破っていく思想戦です。前回拝したように、大聖人はこれを「権実二教のいくさ」と呼ばれた。
284
:
mumei
:2010/04/25(日) 21:18:36
大聖人が言われる「いくさ」は、徹頭徹尾「対話のいくさ」であり、「道理の戦い」にほかならない。どうすれば仏の真意を納得させられるかという戦いである。いかに仏の心を人々に届けゆくかという勝負である。そこで、大聖人は、天台大師の「法華折伏・破権門理」の文を再び引用されています。仏自らが、衆生を成仏させるために法華経を説いて、権門の理を鋭く破折されていった。この慈悲と道理の戦いが、法華の折伏にほかなりません。 加えて、諸宗を破折し、妙法を弘通すれば、三障四魔が競い、三類の強敵が立ちはだかることは、経典に照らして明白です。しかし、眼前に立ちはだかる民衆の不幸を黙って見過ごすわけにはいかない。何より、仏の正法が失われてしまうことを放っておくわけにはいかない。 こうした、やむにやまれぬ熱誠で立ち上がられた不惜身命・身軽法重による民衆救済の大闘争こそが、大聖人の「折伏精神」の本義なのです。万人成仏という、仏法本来の寛容の精神に満ちあふれた実践こそが「法華経の折伏」なのです。 「悪を排斥することと、善を包容することは同一の局面である」とは、牧口先生の信念でした。 心の寛容とは、人間の尊厳と平等性を脅かす暴力や抑圧を断じて許さず、万人尊敬の思想を掲げて、民衆を苦しめる魔性と戦うことです。そして「生命を手段化する思想」「人を差別・分断する思想」が広がっているならば、その精神的土壌となっている元凶を強く打ち破らなければならない。人々を不幸に陥れる無明との戦い。これが「権実二教のいくさ」の本質であり、日蓮仏法の折伏精神の根幹にほかならないのです。 すなわち、自他の仏性を信じ抜く。故に万人を尊敬する。折伏の根幹は「慈悲」の精神です。 同時に、人間の尊厳を嘲笑する魔性や無明とは毅然と戦う。「慈悲」即「勇気」の破折精神でもあります。 創価学会が、世界の宗教との文明間対話を繰り広げることができるのも、この「慈悲」即「破折」の人間主義の旗を掲げているからです。「生命の尊厳」「人間の尊敬」という哲学を共有する一切の思想・宗教とは、人類の不幸を根絶するために「人道的競争」が可能です。そもそも、人間の尊厳性を否定する「悪」と戦うことが、21世紀の人類に必要な宗教の要件なのであります。 いずれにせよ、不軽菩薩の実践に象徴される、人を敬うという尊貴な振る舞い。迫害や難にひるまない信念の強さ。邪悪と戦い抜く心。今いる場所で信頼を勝ち得て、妙法への理解を深める実証――。要するに、私たちの日々の学会活動すべてが、破邪顕正の高貴な精神闘争であり、現代における折伏行であることを強く訴えておきたい。(大白蓮華2010・2勝利の経典「御書」に学ぶ)
285
:
mumei
:2010/04/28(水) 11:19:09
御書p503・⑯(p556・⑯) 戦うべき時に戦ってこそ真実の修行
然るに摂受たる四安楽の修行を今の時行ずるならば冬種子を下して春菓を求る者にあらずや、鶏の暁に鳴くは用なり宵に鳴くは物怪なり、権実雑乱の時法華経の御敵を責めずして山林に閉じ篭り摂受を修行せんは豈法華経修行の時を失う物怪にあらずや
通解
それを、摂受である安楽行品に説かれる四つの修行を、今の時に実践するならば、冬に種子を蒔いて春に収穫を得ようとするようなものではないか。鶏は、夜明けに鳴くので役に立つ。日暮れに鳴けば「化け物」である。 権教と実教が入り乱れている時に、法華経の敵を攻めずに山林に閉じこもり、摂受を修行しているのは、まさしく、法華経修行の時を見失った「化け物」ではないか。
池田先生の指導
ここで大聖人は、権実雑乱の戦うべき時に戦わず、山林に閉じ籠って権威を飾るような既成仏教の「摂受主義」を痛烈に破折されます。それは、暁ではなく宵になく役立たずの鶏のような「物怪」であると断じられているのです。 末法は、魔性により権教と実教が入り乱れるということは先ほど述べました。加えて重大な問題として、本来、法華経を信仰の規範とすべき天台宗の者たちが、悪を放置して折伏もせず、現実を離れた山林で摂受の修行に耽っていたのです。 戦うべき時に戦わない、悪が跋扈しても傍観する。それは悪を助長していることと同じです。結果的に、仏法破壊に加担してしまっているからです。 仏の説いた法の厳格さが薄れ、曖昧になると、実践する人々の精神も腐敗・堕落していきます。修行が懶惰懈怠になれば、魂が脆弱になり保身に走ります。そうなれば権力側にすり寄って宗教の権威化が始まる。この権威主義の悪弊が「摂受主義」の本質です。当時の仏教界の大半がそうであったといっても過言ではありません。社会の基底部たる宗教が混迷している時代だからこそ、精神の土壌を変革する折伏行の実践こそが、仏の真意を実現する如説修行となるのです。 今の日顕宗も、大聖人を迫害した当時の諸宗と全く同じです。戦時中、軍部政府権力と対峙し、非道な弾圧にも屈せずに平和と幸福のために戦ったのは、他の誰でもない、創価学会の牧口先生であり、戸田先生でした。宗門は権力からの弾圧を恐れ、御書の刊行を禁止し、御書の御文を一部削除するという、大聖人門下としてはあってはならない過ちを犯したのです。そればかりか、如説修行の牧口先生・戸田先生が逮捕されるや、両先生を登山禁止処分にしたのです。 戦後もまた、大聖人の仰せのままに折伏に励み、妙法を弘通してきたのは、宗門ではありません。学会です。その崇高な仏勅の広宣流布の団体・創価学会を破壊しようと企んだのが今の日顕宗です。 どちらが如説修行の団体か。どちらに大聖人の折伏精神が脈打っているか。正邪はあまりにも明白であります。
286
:
mumei
:2010/04/30(金) 11:57:16
戦うべき時に戦う――その真正の勇者の道を歩んだのが牧口先生、戸田先生です。創価学会は、大聖人の御精神のままに、立正安国のため、自他共の幸福のため、現実に広宣流布を進めている「如説修行」の和合僧です。まさに、広宣流布の「時」に適った仏意仏勅の団体の出現――それが、学会が誕生した意義なのです。 牧口先生、戸田先生という不世出の仏法指導者が出現されたのが、法滅の戦乱期の日本であったということにも、「時」の不思議さを感ぜずにおられません。 牧口先生は、一国を戦乱に陥れた誤った思想に対して厳然と声を上げ、御本尊根本に「罰論」を主張された。戸田先生は、戦後の荒野に一人立たれ、不幸に喘ぐ民衆を救うべく、妙法に生き抜く「利益論」で折伏をされた。そして三代の私も、両先生の御精神を受け継ぎつつ、戦後の世界の動乱の中で、仏法に説かれる「人の振る舞い」を基軸とした「実証論」を展開し、一閻浮提の広宣流布を推し進めてきました。 これも、「如説修行抄」の原理のままに「戦うべき時にどう戦うのか」「仏法のため、民衆のためにどう戦うのか」という覚悟から生じた創価の智慧です。 「いざという時、指導者は悪と戦う勇気がなくてはならない。そうでなければ、無責任である。最も大切な庶民を守れないからだ」「ひとたび、広宣流布の戦を起こしたならば、断じて勝たねばならぬ。戦いを起こしておいて、負けるのは、人間として最大の恥だ」 私は、この「師の説の如く」戦ったゆえに、一切に勝利してきました。特に、我が青年は、この勝利の因を勇敢に受け継いでほしいのです。(大白蓮華2010・2勝利の経典「御書」に学ぶ)
287
:
mumei
:2010/05/04(火) 22:33:56
御書p504・①(p557・①) 正法弘通に三類の出現は必然
されば末法・今の時・法華経の折伏の修行をば誰か経文の如く行じ給へしぞ、誰人にても坐せ諸経は無得道・堕地獄の根源・法華経独り成仏の法なりと声も惜しまずよばはり給いて諸宗の人法共に折伏してご覧ぜよ三類の強敵来たらん事疑い無し
通解
では末法今の時に、まさしく法華経の折伏の修行を、一体誰が経文に説かれた通りに行じてきただろうか。 誰人であろうとも、「法華経以外の諸経は、無得道の教えでありだ地獄の根源である。ただ法華経だけが成仏の法である」と、声も惜しまずに叫んで、諸宗の「人」と「法」をともに折伏して御覧なさい。三類の強敵が現れることは疑いない。
池田先生の指導
ここからは、正しい実践を貫く、末法の時に適った「如説修行の行者」とは誰なのかを示されていきます。 最初に「末法・今の時・法華経の折伏の修行をば誰か経文の如く行じ給へしぞ」と仰せです。「末法・今の時」とは、前段で述べられているように「権実雑乱の時」です。この権実雑乱を正さなければ、「闘諍言訟・白法穏没」の法滅の時を迎えてしまうことは避けられません。だからこそ、「諸経は無得道・堕地獄の根源」「法華経独り成仏の法」と権実雑乱を正していく折伏が重要なのです。 爾前の諸教には、さまざまな得道が説かれていますが、爾前諸経に説かれている道だけでは決して成仏はできません。なぜならば、爾前諸経には十界互具・一念三千の法理が説かれいないからです。ただし爾前諸経を縁として法華経に入り、十界互具・一念三千の妙法に触れれば得道は可能です。しかし末法今時においては、諸宗が乱立して、自らの拠り所とする諸経を絶対化し、法華経に入るどころか法華経を誹謗する教えを立ててしまっているのです。これが権実雑乱です。 ゆえに諸経はそれ自体では無得道であり、法華経のみが成仏の法であると破折しなければならないのです。 大聖人は、たとえ誰人であっても、この折伏を行えば、三類の強敵が出現することは疑いないと仰せです。 「法華経の折伏」とは、このように成仏の道理に基づく破折なのであって、決して、排他的・独善的なものではありません。これまでも確認してきましたが、「折伏」の根幹は、成仏の法を惜しむ心であり、万人を救い切る「慈悲」の精神です。正法を誹謗し、民衆を不幸に陥れる魔性とは敢然と戦う「身軽法重」の破折精神です。それが根本にあればこそ、悪を打ち破ることができるのです。 この法華経の折伏は、法を護り、民衆を救う正義の実践であるがゆえに、増上慢の勢力から迫害が生じるのです。この構図を理解しなければ、法華経の行者が受ける大難の本質は分かりません。
288
:
mumei
:2010/05/05(水) 12:06:08
ここで、その点を理解する意味で、「三類の強敵」について再確認しておきたい。 法華経勧持品第13の冒頭には、悪世の衆生は善根が少なく、増上慢が多いことが示されています。増上慢の者は、供養を貪り、悪の因を積み、解脱から遠ざかるとも説かれています。この増上慢の勢力の中で、正法である法華経を説けば、おのずと迫害が生ずることは明らかです。 勧持品では、そうした中で、法華経の会座に連なった菩薩たちが、滅後悪世の娑婆世界で、いかなる大難を受けても法華経を弘通していくことを誓います。その誓が示され、迫害の様相が説かれるのが「勧持品二十行の偈」です。この中で、迫害者を3種に分類したのが「三類の強敵」です。 それぞれの特徴について経文にもとづいて言えば、第1の俗衆増上慢は「無知」の者であり、第2の道門増上慢は「邪智にして心諂曲」の者であり、第3の僣聖増上慢は「人間を軽賎」し「利養に貪著」する、「悪心」の者です。 この「無知」「邪智」「悪心」という増上慢の心は、「無明」の働きによってもたれされます。 無明とは、生命に具わる根源的な無知です。その無知から煩悩などの暗い衝動が生じ、生命を不幸へと追いやっていく。特に万物が妙法の当体であることが分からない最も根源的な無知を「元品の無明」といいます。正法が説かれた時にも、それを信解できず、かえって反発して、正法を破ろうとする働きを生む。ここに無明の恐ろしさがあるのです。 人間自身に潜む元品の無明から大六天の魔王の働きが起こります。そして、この大六天の魔王に生命を支配された者が法華経の行者に敵対するのです。 「三沢抄」には、末代の凡夫が仏になろうと修行する時に、この大六天の魔王が、それを妨げようとして様々な働きを起こすことが説かれています(p1487〜1488)。――すなわち、その人が成仏すれば多くの人が導かれて仏になり、やがてこの娑婆世界が浄土と変革される。娑婆世界を所領とする第六天の魔王は、自分の国土が奪われることを恐れるために、家来全員に命じて法華経の行者が成仏することを妨げようとする。それが駄目であれば、今度は法華経の行者の弟子檀那や国土の人々の身に入り、諌めたり脅したりして妨げようと仕組みます。それでも駄目なら、第六天魔王自ら行動を起こして、国主の身に入って法華経の行者を脅し、なんとしても成仏を止めようとする、というのです。
289
:
mumei
:2010/05/06(木) 10:58:14
戸田先生はよく、「三障四魔のうち死魔までは勝てるが、本当に恐ろしいのは最後の天子魔である」と言われていました。この天子魔とは第六天の魔王のことです。そして、「三沢抄」に示されているように、第六天の魔王が、俗衆・道門増上慢の心を操作し、僣聖増上慢の心を操作し、僣聖増上慢の身に入って、法華経の行者に対する迫害を引き起こすのです。 御書には「元品の無明を対治する利剣は信の一字なり」(p751)と仰せです。戸田先生は、「この第六天の魔王を破るのは信心の利剣しかないんだ」と、幾度も強調されていた。妙法への「信」によって無明を打ち破れば、生命に本来的に備わる「元品の法性」が湧現するのです。元品の法性とは、仏が悟った万物の究極の真理のことです。 成仏とは、いわば、この法性と無明との戦いに勝つことです。そして、法華経の行者の折伏行とは、元品の法性を現す行動にほかならないのです。 さて、この無明と法性との観点なら、あらためて見れば、大聖人が「諸経は無得道」であると強く破折されているのは、諸経がそれを信奉する人々の無明をいっそう助長するからです。 本来、成仏の因果は、十界互具に基づかなければなりません。しかし、諸経が説くように、九界と仏界が断絶し、九界を否定して仏界を求める生き方のほうが、ある意味で凡夫には”常識的”に映り、理解しやすい面がある。それゆえに権教は衆生の機根に応じた随他意の教えなのです。 本当であれば、この随他意の方便の教えを捨てて、随自意の真実の教えに向かわなければならない。ところが、この権教の教えにとらわれてしまうと、むしろ、正しい成仏の因果が説かれている法華経を否定し、誤った因果に拘泥し、いっそう無明が助長されていくのです。 無明の働きが権教への執着を生み、権教の不十分な教えが無名をさらに助長する。この無明の連鎖ゆえに、諸経は「堕地獄の根源」であると断ぜざるをえないのです。 反対に、「法華経独り成仏の法なり」とは、十界互具の真の成仏の在り方を説く随自意の経典である法華経だけが、人々の仏性を触発する力ある経典にほかならないということです。 それゆえに、末法の一切衆生を救うためには、人々の無明を助長する諸経を破折し、法性を触発する法華経を弘通しなければなりません。しかしそれは同時に、法華経の行者に敵対する第六天の魔王の働きが激化することであり、三類の強敵が必然的に起こらざるをえないのです。ゆえに「三類の強敵来らん事疑い無し」なのです。(大白蓮華2010・3勝利の経典「御書」に学ぶ)
290
:
mumei
:2010/05/16(日) 09:30:47
御書p504・④(p557・④) 大難を乗り越えゆく大慈悲の闘争
我らが本師・釈迦如来は在世八年の間折伏し給ひ天台大師は三十四年・伝教大師は二十余年・今日蓮は二十四年の間権理を破すその間の大難数を知らず、仏の九横の難に及ぶか及ばざるかは知らず、恐らくは天台・伝教も法華経の故に日蓮が如く大難にあい給いし事なし、(中略)是等の大難には竜樹・天台・伝教も争か及び給うべき、されば如説修行の法華経の行者には三類の強敵打ち定んで有るべしと知り給へ
通解
我らの本師である釈迦如来は、在世八年の間、法華経を説いて権教を折伏された。天台大師は三十数年、伝教大師は二十数年、そして今、日蓮は二十数年の間、権教の理を破してきた。その間に受けた大難は数を知らない。 釈尊が受けた九横の大難に及ぶか及ばないかはさておいて、おそらくは天台大師も伝教大師も法華経ゆえに難を受けても、日蓮が受けたような大難に会うことはなかった。(中略) これらの大難には、竜樹や天台大師、伝教大師もどうして及ぶであろうか。したがって、如説修行の法華経の行者には、三類の強敵が必ず競い起こると知りなさい。
池田先生の指導
ここでは釈尊、天台大師、伝教大師の受難の先例をあげて、誰がどのような大難を受けたのかを明かされます。 釈尊も、天台も、伝教も、法華経の正義を宣揚し、権教の教えを破折したがゆえに、大難を受けました。釈尊が受けた「九横の大難」は有名です。大聖人は、この釈尊の大難を別として、天台・伝教の受けた大難は「悪口・怨嫉計り」であり、大聖人ほどの大難ではなかったと明言されています。 大聖人が受けられた難は、幕府からの2度の流刑、竜の口の首の座、また、左腕を折られ、額に傷を負った小松原の法難など身命に及ぶ大難が続きました。また、大聖人と共に戦う弟子たちも、流罪、入牢、所領没収、追放などの大難を受けたことが記されています。 ここで大聖人がなにゆえに、天台・伝教が受けた難と、御自身が受けられた難を比較されているのか。それは、弘通する法の深さと大難が密接に関係しているからであると拝することができます。 大聖人は、「治病大小権実違目」で、法華経を修行する時に初ずる三障四魔について、天台・伝教が受けた時よりも大聖人のほうが、「具さに起これり」「ひとしおまされたり」と示されています。そして、大難と教法の関係について、こう仰せです。「一念三千の観法に二つあり一には理・二には事なり天台・伝教等の御時には理なり今は事なり観念すでに勝る故に大難また色まさる」(p998) 「事の一念三千」とは、元品の法性を直ちに触発する大法です。南無妙法蓮華経による直達正観です。無明を断ち切り、万人の仏性を呼びあらわす力ある大法です。ゆえに、元品の無明を揺さぶり、三障四魔、なかんずく天子魔、すなわち大六天の魔王をも呼び起こす動執生疑の力があるのです。
291
:
mumei
:2010/05/17(月) 10:31:13
このように、末法の法華経の行者は、成仏の根源となる下種の法を弘通するがゆえに、像法時代の天台・伝教よりも激しい大難が起こるのです。 重要な点は、そうした大難を乗り越えてこそ、真の法華経の行者であるということです。大難を勝ち越えてこそ、弘通する法の力を証明できるからです。 大聖人は、大難の渦中において、「自受法楽」の勝利の境地を悠然と表明されている。例えば、伊豆流罪の折にも、第六天の魔王の働きかけた大難の中で、「大なる悦びあり」(p935)、「人間に生を受けて是れ程の悦びは何事か候べき」(p937)と、歓喜の大境涯を宣言されています。佐渡流罪の時にも、「当世・日本国に第一に富める者」(p223)と仰せであられる。 そして大聖人は完璧に勝ち切られた。すなわち最大の法難である竜の口の法難について、「竜口までもかちぬ」(p843)と仰せです。また、「今では魔王も懲りているであろう」(p同、通解)とまで述べられ、あらゆる大難を乗り越えて第六天の魔王に打ち勝った凱歌の御心境を明かされています。 戸田先生はよく言われました。「大聖人は、ありとあらゆる大難を忍ばれながら、一切衆生を救おうという大慈大悲の戦いをなされた。そして、すべての大難を勝ち超えられた。これが御本仏の実証であられる」と。 仏法は勝負です。三障四魔・三類の強敵に打ち勝ってこそ、真実の法華経の行者です。「開目抄」に云く、「難を忍び慈悲にすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし」(p202)と。 日蓮大聖人は、末法の民衆を救う大慈悲のゆえに、大難を覚悟のうえで莞爾と法華弘通に先駆なされた。苦しむ民衆を守る屋根の如く、混乱する国を支える柱の如く、一人立たれて障魔の嵐を受け切っていかれた。 それは、悪と不幸の見えざる根を看破し、苦悩する人々を励まし蘇生させつつ、自他共の幸福を目指す善の大連帯を永遠に築きゆくためであられた。いかなる障魔も強敵も、この巨大な慈悲即智慧の魂を侵すことはできません。末法万年の全人類に及ぶ究極の慈悲の姿を一身に現じておられるがゆえに、私たちは日蓮大聖人を末法の御本仏と拝するのです。(大白蓮華2010・3勝利の経典「御書」に学ぶ)
292
:
mumei
:2010/05/18(火) 11:12:14
バラルト(ベネズエラ)
ベネズエラの大文豪・バラルト先生は謳った。 「嵐を越えると、大空は一層、輝きを増す」「試練や苦難を乗り越えてこそ、心は感謝にあふれ、より鮮烈に幸せを感じることができる」(聖教新聞2010・3・17創価学園卒業式)
293
:
mumei
:2010/05/19(水) 10:10:44
御書p504・⑨(p557・⑨) 真実の「如説修行の師弟」を明かす
されば釈尊御入滅の後二千余年が間に如説修行の行者は釈尊・天台。伝教の三人は・さてをき候ぬ、末法に入っては日蓮並びに弟子檀那等是なり、我等を如説修行の者といはずば釈尊・天台・伝教等の三人も如説修行の人なるべからず
通解
ゆえに、釈尊滅後の二千余年の間で、如説修行の行者は、釈尊・天台大師・伝教大師の三人はさておいて、末法に入ってからは日蓮並びにその弟子檀那だけである。我らを如説修行の者と言わないならば、釈尊・天台大師・伝教大師の三人も如説修行の人とはならないのである。
池田先生の指導
「如説修行」の行者とは一体、誰なのか。本抄の結論を明かされる重要な御文です。 釈尊滅後において、釈尊、天台、伝教はさておいて、末法に入ってからの「如説修行」の行者は、「日蓮並びに弟子檀那」だけであるとの絶対の御確信です。 ここで肝心なことは、大聖人お一人ではなく「日蓮並びに弟子檀那」「我等」と、大聖人に連なる弟子、門下一同まで含んでくださっていることです。大聖人と同じく、死身弘法・不惜身命の心で仏道修行に励む弟子は、如説修行の行者にほかならないことを明かされているのです。 何という御本仏の大慈悲でしょうか。 仏法の精髄は師弟です。「如説修行」という師弟不二の実践の中に成仏があるのです。 日寛上人の文段には、「如説とは師説なり。修行とは弟子に約す。謂く、師の所説の如く弟子これを修行す、これ如説修行なり」と明かされています。すなわち、「如説修行」即「師弟不二」の実践が、一切の要諦なのです。 師匠の願いはただ一つです。それは、不二の弟子が誕生することです。そして、師匠と同じ志に立った地涌の群像が、ここかしこで活躍することです。本物の弟子を求めるゆえに、あえて同じ労苦の道を歩めと、師匠は厳命するのです。本物の弟子であるがゆえの苦労と試練こそ誇りである。「日蓮並びに弟子檀那」との仰せからは甚深の意義が拝されます。 また、今日まで様々な大難の中、「師と共に」との思いで一緒に戦ってきたわが弟子に対する最大の御慈愛のお言葉であったに違いありません。 いずれにしても、本抄のこの一節を拝して、弟子たちが、不二の覚悟に立ち上がったことは想像に難くありません。 真実の弟子が立ち上がってこそ、師弟の如説修行が完成します。広宣流布の大河の流れが滔々と始まるのです。 この民衆救済の大河を受け継ぎ、大聖人の御精神のままに、現代において大難と戦いながら、広布の前進を続けてきているのが、わが創価学会です。 軍部政府からの弾圧と戦われた初代の牧口常三郎先生も二代の戸田先生も、そして三代の私もまた、数々の「三類の強敵」「三障四魔」と闘い、厳然と勝利してきました。 不当の権力による弾圧と戦った、あの大阪事件の渦中、戸田先生は訴えられました。 「破折すべきことは徹底して破折していくんです。黙っていれば、世間はそれが真実だと思い込んでしまう」「正義が嘘八百に負けてたまるものですか」「正義は勝つというが、かならずしも勝つとは限りません。戦わなければ正義も敗れる。学会は正義なればこそ、負けるわけにはいかん。断じて勝たねばならない。だから戦っていくんです」 正義の中の正義であるがゆえに、戦い続けなければならない。そして断固、勝たねばならない。これこそ三代の師弟に脈打つ学会精神であり、「宗教界の王者」たる学会の如説修行の魂です。 大聖人は、女性の千日尼への御消息文の中で「よしにくまばにくめ法華経・釈迦仏・天台・妙楽・伝教・章安等の金言に身をまかすべし、如説修行の人とは是れなり」(p1308)と記されています。大聖人は女性の弟子にも師と同じ「如説修行」に生きる重要性を訴えられているのです。 学会も、婦人部・女子部の「如説修行」の祈りと行動と団結で築かれてきたことを絶対に忘れてはなりません。(大白蓮華2010・3勝利の経典「御書」に学ぶ)
294
:
mumei
:2010/05/24(月) 09:29:46
御書p504・⑱(p557・⑱) 三世永遠の成仏の境涯を確立
一期を過ぐる事程も無ければいかに強敵重なるとも・ゆめゆめ退する心なかれ恐るる心なかれ。縦ひ頸をば鋸にて引き切り、胴をばひしほこを以てつつき、足にはほだしを打ってきりを以てもむとも、命のかよはんほどは南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱えて、唱え死に死ぬるならば、釈迦・多宝・十方の諸仏、霊山会上にして御契約なれば、須臾の程に飛び来りて手をとり肩に引懸けて霊山へはしり給はば、二聖・二天・十羅刹女は受持の者を擁護し、諸天善神は天蓋を指し、旗を上げて、我等を守護して慥かに寂光の宝刹へ送り給うべきなり。あらうれしや・あらうれしや
通解
一生が過ぎゆくのは、わずかな間であるから、どんなに強敵が重なろうとも、決して退く心を起こしてはならない。恐れる心を起こしてはならない。 たとえ頚を鋸で引き切り、胴をひしほこで突き、足に枷をはめられ錐でもってもまれても、命の続いている限りは、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱えに唱え抜いて死ぬならば、釈迦・多宝・十方の諸仏は、霊山会でお約束されたことなので、たちまちのうちに飛んで来て、手を取り肩に担いで霊山ヘと走ってくださるのである。その時は、二聖(薬王菩薩・勇施菩薩)・二天(毘沙門天王・持国天王)・十羅刹女は法華経受持の者を助け護り、諸天善神は天蓋を指しかけて旗を立て、我らを守護して、寂光の宝刹へと必ず送ってくださるのである。なんとうれしいことか、なんとうれしいことか。
池田先生の指導
大聖人は、三類の強敵の責めにあい、苦難と戦う門下に対して、「ゆめゆめ退する心なかれ恐るる心なかれ」と、烈々と御指導なされます。私は若き日、恩師・戸田先生から、この御文の講義を直接、受けたことがあります。その時、戸田先生は語られました。「この決心なくして、信心のリーダーとはいえない」そしてさらに、死身弘法・不惜身命の信心を教えられた「縦ひ頚をば・・・・・・」以下の御文では、「これが信心の真髄なのである」と強く語られました。 恩師の鋭く痛烈な指導は、今も鮮明に胸中に焼き付いています。 この仰せは、当時の大聖人や門下への迫害の様子からして、決して誇大な表現ではなかったと拝察されます。 もちろん仏法は、命を軽んずるような殉教主義ではありません。「命のかよはんほどは」「唱えて唱へ死るならば」とあるとおり、最後の最後まで生き抜き、正法を行じ抜いていくべきであります。生きて生きて生き抜くための信仰です。そのうえで。もし仮に仏法のために殉教するようなことがあったとしても、それは不幸の死、悲嘆の死では決してない。戸田先生は、「妙法のための死であるならば、それはたとえば眠ったとき、はじめ、ちょっと何か夢をみたが、あとはぐっすり休めるようなものであるから、成仏は間違いない」と厳粛に語られたことがあります。また、不慮の事故などで亡くなる場合もあります。しかし、妙法の大功力を思えば、全く心配はありません。
295
:
mumei
:2010/05/26(水) 10:56:39
続く御文でお約束されている通り、題目を唱えた生命は、命終の時には、仏界の大境涯に入り、未来永劫の絶対的幸福境涯へと到達することは必定なのであります。 釈迦・多宝の二仏、十方の諸仏が、たちまちのうちに飛んで来て、手を取り肩に担いで霊山へと走ってくださると仰せです。 さらに、二聖、二天、十羅刹女等の諸天善神が、法華経を受持したものを守護し、功徳に満ちた仏国土へと送ってくださると明かされます。なんとありがたいことではないでしょうか。 大聖人は、門下に対して、もし大聖人より先に亡くなるのであれば、梵天・帝釈・閻魔大王等に「日本第一の法華経の行者・日蓮房の弟子なり」と名乗りなさいと仰せです(p1498)。 師弟不二の信心は、生死不二の安穏をお約束するのです。「生も歓喜、死も歓喜」です。法華経の行者の弟子として妙法に生き抜いた時、師弟共に「生も安穏、死も安穏」「生も勝利、死も勝利」の三世永遠の幸福境涯を実現できることは断じて間違いありません。 「只今仏果に叶いて寂光の本土に居住して自受法楽せん」(p504)と仰せです。妙法を根幹に生き抜いていけば誰もがこの絶対的幸福の境地を得ることができると約束されているのです。それゆえに文末には「あらうれしや・あらうれしや」と示されているのです。 師に誓った不二の信心を貫きゆく人生以上の誉れはありません。まして、その人生は必ず「仏果」に叶い、「寂光の本土」に住して大安心の境涯となると御本仏の御断言です。したがって、いかなる大難があっても何も心配することはないし、恐れる必要はありません。さらに、御本仏の永遠の眼から見れば、「自受法楽」は間違いないと保証してくださっている。これ以上の喜びはありません。 本抄に「唱えて唱へ死に死るならば」と仰せの如く、最後まで自行化他にわたる題目を声も惜しまず唱え抜いていけるかどうか。それが師弟不二の「如説修行の信心」の肝要です。 あらためて先に拝した「法華経独り成仏の法なりと声も惜しまずよばはり給いて」の一節が心に蘇ってきます。これこそが「如説修行の実践」の要諦と言えるでしょう。 諸御抄にも「声も惜まず」(p726)「言をも惜まず」(p1438)等とあります。また「声仏事を為す」(p708)とも仰せです。 声を惜しむことなく、言うべきことをはっきり言う。語るべきことは、一言一句たりとも、語らずにはおかない――。この折伏精神に基づいた弘教の方軌を忘れない限り、広宣流布は必ず大きく前進します。そう御本仏・日蓮大聖人が御断言されているのです。 また、これが学会精神です。 牧口先生は「言わねばならないことを言えないような臆病者は、大聖人の弟子にはなれない」と語られています。 大聖人は、「この書御身を離さず常に御覧有る可く候」(p505)と仰せです。私たちも、この御書の精神を常に忘れず、誉れの「大聖人の弟子」として、どこまでも折伏精神を根幹に「一対一の対話」を真剣に実践して、自他の生命変革を遂げていきたい。 それが「宗教界の王者」たる創価学会の根本の活動です。題目を唱えに唱え、語りに語り抜きながら、諸仏諸天が賛嘆する仏勅の如説修行の拡大の歴史を勝ち開いていこうではありませんか。(大白蓮華2010・3勝利の経典「御書」に学ぶ)
296
:
mumei
:2010/05/28(金) 10:46:57
題名 :顕仏未来記
対告衆 :
執筆年次 :文永10・5・11
聖寿 :52
西紀 :1273
著作地 佐渡・一ノ谷
大意:日蓮大聖人が釈迦の未来記を実証したことを述べ、さらに大聖人の未来記を顕し、大聖人の仏法が全世界に広宣流布していくことを予言されている。
297
:
mumei
:2010/05/29(土) 10:27:15
御書p508・②(p561・⑪) 広宣流布
月は西より出でて東を照し日は東より出でて西を照す仏法も又以て是くの如し正像には西より東に向い末法には東より西に往く
通解
月は西から出て東を照らし、日は東から出て西を照らす。仏法もまたこの大宇宙の法則通りである。正法ならびに像法時代には、仏法は西のインドより、中国、朝鮮、日本へと次第に伝わり、末法においては、南無妙法蓮華経の大仏法が、東のこの日本から、西の朝鮮、中国、さらにインドへと流布してゆくのである。
拝読の手引き
ここで「月は西より出て東を照らし」と釈迦仏法を月に譬え、「日は東より出て西を照らす」と、日蓮大聖人の大仏法を太陽に譬えられているのは、深い意味がある。 大聖人の仏法こそ、東洋仏法の真髄であり、究極の実態である。あたかも、太陽が自らの熱核反応によって、莫大な光と熱を発しているように、大聖人の大仏法は、全民衆、全生命、全宇宙に、その生命力と法則性を及びしている本源なのである。 これに対し、釈迦仏法は、この本源の大聖人の大仏法、すなわち三大秘法の南無妙法蓮華経の光と熱を受けて、これを反射している月のごとき存在に過ぎない。釈迦一代の教え、いわんや竜樹、天親、天台、伝教等の教えは、ことごとくこの三大秘法の仏法の反映に他ならないのです。 さらに「月は西より出で」というのは、月が第一日は西の空から輝き始め、次の日は、やや東寄りの空から、さらに次の日は、またさらに東寄りの空から輝き始めることをいう。それは、太陽が、東の空から出て西へ移り、沈むのとは違う。 その姿は、釈迦仏法が、インドから中国、朝鮮、日本へと移ってきた方程式の中に、見事に示されている。インドに流布し終わって、中国に伝えられ、中国で興隆したときには、すでにインドの仏教は凋落していた。同様にして、中国から朝鮮を経て日本に流布した時も、中国における仏教の権威は、滅亡していったのである。 今、日蓮大聖人の仏法は、太陽のごとき仏法であり、日本に興り、全世界に流布するとともに、末法万年尽未来際、すなわち未来永遠にわたって、衰滅することなく輝きわたっていくのである。 日蓮大聖人御在世から現代にいたるまで、七百年の歳月が流れた。この化儀の広布の夜明けを迎えるまで、思えば、苦悩の民衆にとっては、長い闇であった。だが、それも、末法万年の広宣流布の磐石の基礎をつちかうための準備期間であったともいえよう。 今日、創価学会の出現によって、化儀の広布の幕は切って落とされた。まさに、七百年間、否、仏教三千年史の上において、一貫して希求されてきた、最も光輝ある時代が到来したのである。この時に生まれ合わせ、この偉大なる事業に参加しえた身の福運を感ずるならば、誰人といえども、不自惜身命の実践をせずに入られないであろう。(日蓮大聖人御書講義第七巻p222)
298
:
mumei
:2010/06/08(火) 11:10:46
御書p507・⑤(p560・⑭) 諸天の力を揺り動かす信心
仏の滅後に於いて四味三教等の邪執を捨て実大乗の法華経に帰せば、諸天善神並びに地涌千界等の菩薩、法華の行者を守護せん。この人は守護の力を得て本門の本尊妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布せしめんか。
通解
仏の滅後に於いて、真実を説いていない四味・三教等への邪な執着を捨て、真実を解き明かした大乗教である法華経に帰依するならば、諸天善神ならびに地涌千界等の菩薩は、必ず法華経の行者を守護するであろう。そしてこの人は、その守護の力を得て、本門の本尊・南無妙法蓮華経を一閻浮提〈全世界〉に広宣流布させていくであろう。
拝読の手引き
この一節は、日蓮大聖人が、末法の法華経の行者として、諸天等の守護の力を得て、必ず、妙法を全世界に向けて広宣流布していくと宣言された御文です。 法華経説法の儀式において、一切の諸天善神、諸菩薩は末法の法華経の行者を守護することを誓っています。すなわち、法華経には、濁乱の末法において妙法流布のために実践する人は必ず諸天等に守護されるという原理が示されているわけです。大聖人の弟子として、今、妙法広宣流布の実践に励む私達は、この御文を自らの確信として指針にしていきたいと思います。もちろん、ここで、諸天とか菩薩とかいっても、何も特別な存在をいうのではありません。それは、生命の本質にそなわる働き、作用にほかなりません。 御本尊に唱題し、境智冥合していくとき、そうした種々の働きを私たちの生命の中から湧現させていくことができるのです。つまり、諸天や菩薩の守護を得るということは、本質的には、自らの内面に秘められているそうした作用を発揮するということなのです。とすれば、諸天等の加護を得るか否かは、私たち一人ひとりの信心の強弱、または法華経の行者としての自覚の浅深にかかっているといえましょう。 ゆえに、自己の使命に目覚め、自発・能動の姿勢で妙法を社会に開いていく実践を進めていく人に対し、諸天の加護があるのは当然といえましょう。私達は、自己の信心を深め、諸天をも揺り動かすだけの信力、行力で広布の舞台を、着実に切り開いていきたいものです。〈単行本「きょうの発心百選」465〉
299
:
mumei
:2010/06/10(木) 10:28:48
御書p507・⑯(p561・⑦) 仏の未来記をすべて実証
我が言は大慢に似たれども仏記を扶け如来の実語を顕さんが為なり。然りと雖も日本国中に日蓮を除いては誰人を取り出だして法華経の行者と為さん。汝日蓮を謗らんとして仏記を虚妄にす。豈大悪人に非ずや。
通解
わが言葉は、大慢に似ているように聞こえるかもしれないが、それは仏の未来記を立証し、仏の実語を顕すためなのである。しからば、日本国中において、日蓮を除いてほかに誰人を選び出して法華経の行者ということができようか。それ故、あなたこそ、この法華経の行者である日蓮を誹謗しようとして、仏の未来記を虚妄にするものである。それこそまさに大悪人ではないか。
拝読の手引き
もしも日蓮大聖人御自身が末法に出現されなかったならば、釈迦の経文はすべて虚妄になってしまうことを厳然といいきられ、大聖人こそ末法の御本仏であることを明かされた大確信がひしひしと伝わってくる御文です。 大聖人の生涯を貫く実践は、まさに仏の未来記を実証し、仏の実語を顕現する法華経の行者としてのお振る舞いでした。その間、実に卑劣な中傷、策謀、弾圧があり、身命に及ぶ大難が競い起こりましたが、一つ一つに厳然と正義の挑戦を示されて、すべての障魔を打ち破って前進される獅子王のごとき大聖人の姿には、さすがの魔軍も、なすすべを持ちませんでした。 今日の私達の広宣流布への実践に最も必要なのは、この大確信ではないでしょうか。私達は日蓮大聖人の御遺命達成を誓って出現した地涌の菩薩ですが、それもただ単に観念的に認識するにとどまらず、日常の実践活動を通して実感されなければなりません。 私達の実践が即大聖人の未来記を事実のうえに示現するものでなければ、真実の弟子であると大確信を持っていいきれないのではないでしょうか。 どんなに時代、社会が変わろうとも、この根本精神だけは生命の奥底に刻み込んで前進していきたいものです。その確信に立って、あくまでも仏法則社会の原理をふまえ、礼儀正しく、常識豊かに妙法流布の戦いを推進していきましょう。(単行本「きょうの発心百選」408)
300
:
mumei
:2010/06/11(金) 10:07:33
御書p508・⑤(p561・⑭) 一人ひとりが”伝持の人”に
漢土の大蔵の中に小乗教は一向之れ無く、大乗経は多分之を失す。日本より寂照等少々これを渡す。然りと雖も伝持の人無れば、猶木石の衣鉢を帯持せるが如し。
通解
漢土(中国)の大蔵経(一切の経典)の中に小乗教はまったく無く、大乗経は大部分を失っている。日本から天台僧の寂照らが、少々、大乗経を渡したが、しかし、そうはいっても、伝持の人がいなければ、あたかも、木や石が衣をまとい、鉢を持っているようなものである。
拝読の手引き
ここでは、日蓮大聖人が世界でただ一人の法華経の行者であることを明らかにするために、正しく伝持する人がいないため、中国において仏法が滅失していることを述べられています。私達は、この一節から”伝持の人”の重要性について、学びとりたいと思います。 私達の信心修行の目的は、自らの人間革命にあることはいうまでもありませんが、いま一つ、日蓮大聖人の真の弟子として、妙法の広宣流布を遂行するという大目的を、瞬時も忘れてはなりません。実は、妙法の広宣流布への姿勢をはなれた人間革命などはないのです。 自分だけのしあわせを願う単なる信仰者に終止するのではなく、大聖人が全民衆救済のために全生命をかけて打ち立てられた妙法を、次代に、未来に、伝えきっていく”伝持の人”として、この生涯を生きぬいていきたいものです。 三大秘法の仏法こそ、民衆救済の根本原理であり、それは、人類共有の最高の哲理として確立され、未来永遠に、伝持されていかなければなりません。それが、崩れることのない平和建設への真の道であることは、仏法を少しく学べば、自明のことです。そして、この大仏法伝持の人として生き抜く人生こそ、最も尊い人生であることはいうまでもないことです。 所詮、妙法を正しく清浄に伝持しきっていけるのは、その偉大さに目覚めた人であり、私達以外にありません。一人ひとりが、この重大な、そして崇高な使命を自覚し、広宣流布の大願成就を、心から御本尊に祈りつつ、日々の活動に全力を傾注していきたいものです。 どのような立場にあっても、決して木石のごとき存在になるのではなく、令法久住のために、能動的、自発的に実践していこうではありませんか。(単行本「きょうの発心」342)
301
:
mume
:2010/06/12(土) 10:43:18
御書p508・⑱(p562・⑨) 御本仏の未来記を明かす
天台云く「雨の猛きを見て竜の大なるを知り華の盛なるを見て池の深きを知る」等云々、妙楽のいわく「智人は起を知り蛇は自ら蛇を識る」等云云
通解
天台大師は、法華文句の第九の巻に次のように述べている。「雨の降り方の猛烈さを見て〈瑞相〉、それを降らせている竜の大きさを〈現象〉知ることができる。また蓮華の花の咲き方の盛んなのを見て〈瑞相〉、その池の深いこと〈現象〉を知ることができる」と。妙楽は、法華文句記に釈して「智者は事の起こる由来を知り、蛇は自ら蛇の道を知っている」と述べている。
拝読の手引き
「雨の猛を見て竜の大なるを知り云々」、天台の法華文句感第九にある文。竜は竜王及びその部衆をいい、金翅鳥、修羅竜神と共に雲を起こし、雨を降らせ、地動を起こすといわれている。文の意は「雨の猛烈に降るさまを見て、その強さにより、それを降らせる竜の大きさを知ることができ、また蓮華の花の大なるを見て、その花を咲かせた池の深さを知ることができる」ということ。このように世間においても吉凶の瑞相はある。まして日蓮大聖人の文底下種仏法が興隆するに、大瑞相がないわけがない。すなわち正像に超過する大瑞が起きたのである。正嘉の大地震、文永の大彗星こそ、大法興隆の大瑞にほかならない。 「智人は起を知り蛇は自ら蛇を識る」天台の法華文句を、さらに釈した妙楽の法華文句記に「然るに智人は起を知り、蛇名自ら蛇を識る、豈輔処の人其の真応亦二身を具すること有るをを識らざらんや」とある。智者は事の起こる由来を知り、蛇でなければ蛇のことはわからないという意。(日蓮大聖人御書講義第七巻p235〉
302
:
mume
:2010/06/14(月) 10:28:49
御書p509・⑤(p562・⑭) あらゆる人に妙法の功徳を
願くは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん、我を扶くる弟子等をば釈尊に之を申さん、我を生める父母等には未だ死せざる已前に此の大善を進めん
通解
願わくは自分を迫害した国主等を、まず最初に化導してあげよう。自分を助ける弟子等のことを釈尊(久遠元初の自受用報身)に申し上げよう。また自分を産んでくれた父母等には、生きているうちに、この南無妙法蓮華経の大善をすすめよう。
拝読の手引き
日蓮大聖人が末法の御本仏としての大慈悲心と大確信を述べられた一節です。 「我を損ずる国主等」とは、逆縁の衆生だといえます。「国主等」とありますが、今日においては、権力者をはじめ、民衆それ自体をさす言葉だといえるでしょう。「我を扶くる弟子等」とは順縁の衆生であり、今日では三大秘法の御本尊を信受する私たちのことだといえます。 すなわち、日蓮大聖人の仏法は、反対する者も信ずる者も、ともに救いきっていく大慈悲の精神によって貫かれているのです。この御書は文永10年(1273)5月11日御流罪の地・佐渡で命をねらわれるようななかで、したためられたものです。そのような大変な立ち場に立たされながら、大聖人を迫害した人々に対して「最初に之を導かん」と断言されています。まさに御本仏の絶対的な大慈悲の境涯に立たれての御文だといえるでしょう。 また「我を扶くる弟子等」とはまさに大聖人の仏法を信ずる私たち弟子のあり方を示唆された御文だといえます。すなわち、日蓮大聖人の広宣流布の大理想を生涯にわたって推進し、具体化しゆく人こそ、真の弟子だといえるのです。 その人こそ、釈尊すなわち、久遠元初の当体である御本尊の生命と境智冥合して、一生成仏の境涯を得ることができるのです。さらに「我を生める父母等には・・・・・・」の御文は、真実最高の親孝行が、親を最高に幸福にしていく妙法を教えることにあることを、示された御文です。 私達はこの御文の精神を学び、いまだ理解のない肉親、隣人に対して、妙法を信ずる者として誠意ある姿をもって臨み、真心の対話を地域社会に繰り広げていきたいものです。〈単行本「きょうの発心百選」325〉
303
:
mume
:2010/06/15(火) 10:53:49
御書p509・⑥(p562・⑮) 妙法弘通に甘えは禁物
今夢の如く宝塔品の心を得たり。此の経に云く「若し須弥を接って他方の無数の仏度に擲げ置かんも亦未だ為難しとせず。乃至若し仏の滅後に悪世の中に於いて能くこの経を説かん、是れ則ち為難し」等云云。
通解
今、夢のように、宝塔品の要である六難九易の文意を得ることができた。すなわち、この法華経宝塔品には「もし須弥山をつかんで、他方の無数の仏土に投げおこうとも、それはまだむずかしいことではない。乃至もし、仏の滅度の後、悪世末法においてよくこの法華経(御本尊)を説くということは、これこそ非常に難しいのである」等と説かれている。
拝読の手引き
「夢の如く」とは、謙遜の言葉です。流罪、死罪等、数々の大難を受けられた大聖人が、宝塔品の心――六難九易の意味するところのものを、身でもって読みとられたことを述べられた一節です。 須弥山を他方の世界に投げるなどという、まず不可能に近い例を九つ引いて、それさえ、滅後末法に正法を弘通する難しさにくらべれば容易である、易しいと、宝塔品には説かれています。 つまり、末法における弘教、折伏は、きわめて難事であり、それだけ覚悟を要求されているのです。それは何故か――体制というものは、本質的に、革新の所説、しかも生命の根底からの抜本的革新を嫌うからです。 大聖人の未聞の人間革命の仏法の宣言、流布に、当時の統治体制は、流罪、死罪という迫害を加え、いままた、その正統の流れを寸分たがうことなく受け継ぎ、実践する創価学会に、大難が起こった事例をみれば、正法流布に難があるのは、厳然たる客観的法則であることがわかります。 未来永遠の衆生のため、組織や政治権力を越えた思想的次元に生きる実践には、次代を問わず、いつも、六難九易が発生する社会的客観性が存在するのは当然なのです。妙法弘通、友好活動にいそしむ私達は、順調は当然だと楽観せず、この峻厳な原理を胸にして、油断と怠惰を排して前進したいものです。〈単行本「きょうの発心百選」418〉
304
:
mume
:2010/06/16(水) 10:29:38
御書p509・②(p562・⑪) 正しく広布の方軌を示す
「日来の災・月来の難・この両三年の間の事既に死罪に及ばんとす今年・今月万が一も脱れ難き身命なり」
通解
そのために日ごとに災いをうけ月ごとに難をこうむってきた。特にこの二、三年の間の難は大きく、まさに死罪にまで及ぼうとした。今年また今月は、万が一にも身命が助からないという状態におかれている
拝読の手引き
「この両三年の間の事」とは文永8年9月12日の竜の口の頚の座より佐渡御流罪中のことを指す。この間、大聖人の身辺は常に危険にみまわれ、「昼夜十二時に仏の短を狙いし」がごときありさまで、念仏者は口々に悪口をなし、阿弥陀仏のかたきと狙っていたのである。こうした中で日蓮大聖人は毅然とし、峨々たる眉山のごとく、洋々たる大河のごとく、振舞われ、極寒をものともせず、妙法広布のために、令法久住のために、観心本尊抄をはじめとする重要御書を、死身弘法の精神で、魂魄を止めて執筆なされたのである。 よってこの御文を拝するときに、妙法広布の厳しさを痛切に感ずると共に、今日、順縁広布の時に生まれあわせたわれわれは、己心の魔に打ち勝ち、常に大聖人佐渡御流罪の厳しさを、広布達成まで瞬時たりとも忘れることがあってはならない。いかに時代が変わろうとも、妙法広布への燃え上がる情熱と闘魂を内に秘め、さらに只今臨終の決意に立って邁進する者こそ、日蓮大聖人の弟子であり、創価学会員であると信ずる。(日蓮大聖人御書講義第七巻p248)
305
:
mum
:2010/06/17(木) 11:18:18
御書p509・③(p562・⑫) 師弟不二の原理
「世の人疑いあらば委細の事は弟子に之を問え」
通解
世の人々はもし我が言うことについて疑いがあるならば、詳しいことは弟子に問いただしなさい。
拝読の手引き
この御文は短いが実に厳しい文であり、師弟不二の原理を厳然と述べておられる。すなわち、師匠は原理を説き、弟子は師匠の教えを応用し、実践し、敷衍すべきであるとの意である。師は三大秘法の広宣流布のために心血をそそいで弟子に伝える。弟子は広布実現のために師を守り、師と共に、さらに師の真意を永遠に伝えねばならない。よって、弟子は口に本門を唱え、心に爾前迹門をいだき、いざという時にひるむような弱者であっては、人類恒久の平和は達成されない。かような弟子はこの文を拝すべき資格のない者である。我々は生涯、革命児として、開拓者として、先駆者として、さらに広布の礎として、第三文明建設のために、絶えざる前進をしなければならない。 ひるがえって大聖人の時代は逆縁広布の時代であった。今は順縁広布の時代であり、全世界の民衆のために、民衆が心の奥底より渇仰する三大秘法の本門の大御本尊を全魂込めて流布せねばならぬ時である。 よって大聖人の時代の精神にたちかえって、莞爾として妙法広布に立ち上がり、逞しく実践するものこそ庶民の指導者であり、全民衆が待望する人材と知るべきである。(日蓮大聖人御書講義第七巻p248)
306
:
mu
:2010/06/18(金) 10:41:35
御書p509⑧(p562・⑰) 丈夫の心
浅きを去つて深きに就(つ)くは丈夫(じょうぶ)の心なり
通解
浅い小法(しょうほう)を捨(す)て去り、深い大法につくことこそ、丈夫(仏【ほとけ】)の心である。
拝読の手引き
丈夫の心とは、究極的にいえば、仏の心と言うことである。だが一般的に敷衍して論ずるならば、勇気ある人という意味になる。 すなわち、人間は、本然的に安易な道をとろうとする弱みをもっているものである。遠大な目的間に立てば、いまは苦しくとも耐えて、困難な道を進むべきだということがわかっていても、なかなか、思うようにできないことが多い。その弱い自己に打ち勝って、あえて苦難の道を選び、前進していくのが丈夫の心、すなわち勇気ある人といえるのでる。 平坦な道や下り坂であれば、そこには努力を必要としない。だが、それはいくら進んでも、出発の時に立っていた位置の高さより高くなっているということはない。険しい登り道は、並々ならない努力を必要とする。しかし。それを乗り越え、がんばりぬいて、登っていったとき、かつていた地点をはるか眼下に見下ろすような、高い位置に立つことができるのである。 妙法は、あらゆる哲学、あらゆる人生の生き方の中で、最も難しい、険しい道である。無始以来の罪業をこの一生に集め、三類の強敵は行く手を阻まんと迫ってくるであろう。だが、臆せず、屈せず、自己と戦い、自己の宿業と戦い、あらゆる障害と戦いぬいていく人こそ、丈夫の中の大丈夫であり、最も勇気ある人なのである。(日蓮大聖人御書講義第七巻p253)
307
:
mu
:2010/06/19(土) 10:47:37
題名 :当体義抄
対告衆 :最蓮房
執筆年次 :文永10
聖寿 :52
西紀 :1273
著作地 : 佐渡・一ノ谷
大意:一切万法ことごとく妙法蓮華の当体であることを明かし、特に日蓮大聖人の弟子檀那のみが、当体蓮華を実証できる旨を説かれている。
308
:
taka
:2010/10/03(日) 11:19:25
御書p510・①(574・①) 一切衆生が妙法の当体
問う、妙法蓮華経とはその体何物ぞや。答う、十界の依正則ち妙法蓮華の当体なり。問う、若爾れば我らが如き一切衆生も妙法の全体なりと云わるべきか。答う、勿論なり。
通解
問う、妙法蓮華経とは、その実態はなんであるのか。答う、十界の依法と正法のすべてが、妙法蓮華経の当体である。問う、もしそうであるのなら、われらのような一切衆生も妙法の全体といえるか。答う、勿論なり。
拝読の手引き
妙法蓮華経の本体、実体は何かといいますと、総じていえば、あるいは理の上でいえば、十界三千の生命、つまり森羅万象すべてがその当体になります。 十界とは、周知のように、地獄界から仏界までを含む、生命のすべての現象を表しているのですが、それが妙法の当体であると断定されているのです。楽しんだり、苦しんだりしながら日々の生活を送る私達の生命の活動も、妙法の現れなのです。しかも、単に孤立した生命だけ、言い換えれば、環境から切り離された生命が解明されているのではなく、依正不二の原理が説かれ、さまざまな環境と自分との関係が解明されています。 ただし大切なのは、すべてが妙法の当体であり、仏界を湧現できうるということで理論のうえで理解するだけにとどまるのではなく、その仏界根底のよりよい生命になっていくための実践活動をするということです。 一切衆生は理の上ではことごとく妙法の当体ですが、事のうえにおいてもそうかというと、そうではありません。事実のうえに妙法の当体となるには仏法の信行学が必要なのです。 たとえば、地獄すなわち苦しみの人生が続く人にとっては、生命の変革、革命を望まずにはいられません。ところがそういう人も妙法の当体ですから、仏界湧現できる可能性は、他の人と平等に持っています。題目を唱えていったときに、自分の身の上に、実際に力強い生命が発揮されてくるのです。 あくまでも妙法の当体なのですから、自分の生命をどのようにしていくかは、自分自身で決定できるのです。とともに、環境も、革命された生命にふさわしいものになっていくのです。〈単行本「きょうの発心百選」525〉
309
:
taka
:2010/10/05(火) 10:26:52
御書p510・⑥(574・⑥) 十界の事相の所以を釈す
法性の妙理に染浄の二法有り染法は熏じて迷と成り浄法は熏じて悟と成る悟は即ち仏界なり迷は即ち衆生なり、此の迷悟の二法二なりと雖も然も法性真如の一理なり、譬えば水精の玉の日輪に向えば火を取り月輪に向えば水を取る玉の体一なれども縁に随て其の功同じからざるが如し、真如の妙理も亦復是くの如し一妙真如の理なりと雖も悪縁に遇えば迷と成り善縁に遇えば悟と成る悟は即ち法性なり迷は即ち無明なり
通解
諸法の本性の不思議な理として、生命の一念には「洗浄の二法」がある。染法が働くならば迷いとなり、浄法が働けば悟りとなる。この悟りが、すなわち仏界であり、迷いは、衆生すなわち九界となるのである。この迷悟の二法は二であるけれども、しかもその根底においては共通した法性真如の一理なのである。譬えていうならば、水精の玉は太陽に向ければレンズの作用で火を取り、月に向かってみれば、すなわち月夜になればその冷気のため凝結作用によって水を取る。このように玉は一つであるが、縁によってその効能が異なるのと同じことである。 十界に具わった真如の妙理も、また、このようなものである。法性の理は、ただ一つの妙なる真如の理であるけれども、悪縁にあえば迷いとなり、善縁にあえば悟りとなる。その悟りはすなわち法性であり、迷いはすなわち無明である。
拝読の手引き
この章は、森羅万象ことごとく、妙法蓮華の当体である理由を明かされたところである。一切衆生の当体が妙法蓮華の全体というならば、地獄界ないし菩薩界の業因業果も皆これ妙法蓮華の当体と考えてよいのかという問いに対して、そのとおりであると答え、その理由を洗浄の二法の上から、体一相異、相異体一に約して述べられている。 悩み苦しむ九界の生命活動といっても、力強い仏界の生命活動といっても、その本質は法性真如の一理たる妙法に帰するのである。共に妙法の働きであって、九界の業因業果に苦しみ、不幸な人生を送る人も、その本質は妙法蓮華の当体である。 しかしこれは一応の義であり、地獄界、畜生界、修羅界等の生命に支配されている人は、染法の濁った罪業であるが故に、真実の妙法の当体とはいえないのである。再往は御本尊を受持し、本源の妙法の生命を湧現し、浄法の正常な生命を確立して初めて妙法蓮華の当体となるのである。(日蓮大聖人御書講義第七巻p308)
310
:
taka
:2010/10/06(水) 10:11:09
御書p511・⑧(575・⑧) 「権教の人」「実教の人」
当世の諸人これ多しと雖も二人を出でず。謂ゆる権教の人実教の人なり。而も権教方便の念仏等を信ずる人は妙法蓮華の当体と云わる可からず。実教の法華経を信ずる人は即ち当体の蓮華真如の名体是れなり。
通解
当世の人は数多いけれどもすべての人は二種類に収まってしまう。それは、権教を信ずる人と実教を信ずる人である。しかして、権教・方便の念仏等を信ずる人は、妙法蓮華の当体ということはできない。実教の法華経〈三大秘法の御本尊〉を信ずる人こそ当体蓮華であり、真如の妙体なのである。
拝読の手引き
”権教”とは実体のない教えであり、「権教の人」とは真実の幸福の実体を知らない人といえます。そして”実教”とは実体のある教えであり、絶対的幸福の実体を知る人が「実教の人」といえましょう。 今日”人間性回復”とか”生命の尊厳””平和””幸福”といった言葉が、よく叫ばれています。しかし、単に言葉の空転に終わっている傾向が少なくありません。大切なのは、現実の人生、社会のうえに、幸福と平和をどう具現できるかです。ただ言葉の空転だけでは、まさしく”権教”という以外にありません。 ひるがえって今日、私達が信受する三大秘法の御本尊は、現実に人々を幸福にし社会の繁栄をもたらす根源の当体です。御本尊こそ実教のなかの実教であり、信受する私達は、まさに「実教の人」です。 御文にある「真如の妙体」とは、清浄にして尊極なる仏界の当体ということです。妙法を信受しきる私達は、今、たとえ、いかなる境遇にあっても、生命の奥底の位は、光輝に満ちた「真如の当体」であることを確信しきっていきたいものです。 しかし、厳しくいえば”実教”を信仰する人といっても。いまだ実践力にとぼしく、人間革命の実証を示しあらわしていけない人は、真実の「実教の人」とはいえないでしょう。私達は、常に自己の信心を点検し、名実ともに「実教の人」として一層の信心の成長を図っていきたいものです。〈単行本「きょうの発心百選」360〉
311
:
taka
:2010/10/06(水) 22:17:58
御書p512・⑨(576・⑨) 信受に約す
所詮妙法蓮華の当体とは法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是なり、正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩・業・苦の三道・法身・般若・解脱の三徳と転じて三観・三諦・即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり
通解
所詮、妙法蓮華経の当体とは、法華経を信ずる日蓮の弟子檀那等の父母所生の肉身そのものをいうのである。正直に方便の教えを捨て、ただ御本尊のみを信じ、南無妙法蓮華経と唱え行ずる人は、煩悩・業・苦の三道が、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観・三諦がそのまま信心の一心に顕われ、その人の所住の処は、常寂光土となるのである。
拝読の手引き
われわれが住むこの世界を、娑婆とするか寂光土とするかは、正報である我々の一念によって決定されるのである。わが奥底の一念が、地獄であれば、我らが住む世界はことごとく地獄である。奥底の一念が修羅界であれば、われわれをとりまく世界はことごとく修羅界である。我らの一念が天界であれば、国土も天界となるのである。 しかしてわが一念に仏界を湧現し、当体蓮華仏と顕れれば、依法はことごとく常寂光土となるのである。 したがって、妙法が広宣流布した世界こそ常寂光土となるのは、明々白々たるものではないか。今日、幾多の悲惨な現実が我らの眼前に展開している。戦争、飢餓等、その現状はあまりにも悲惨であり、残酷である。この五濁乱漫の世相の根源は実に人間生命の濁りである。しかして、われわれが妙法を全世界に広宣流布するならば、必ずやこの乱れきった娑婆世界も常寂光土と転ずることができるのである。このように仏法はまずその人自身の当体を確立するところから出発している。自身の当体を確立しないで、なんの制度であり、政治、文化であろうか。 また「其の人の所住の処は常寂光なり」とは信心唱題の故に、仏身を成じ、その所従の所は常寂光土となるというのであるから、これ本国土妙というのである。 されば、本因、本果は正報の十界である。本国土は十界の依報である。しこうして三妙合論するといえども、三千の相いまだに明らかでない。したがって次に能居所居・身土・色心等といって依正の十如を明かしているのである。(日蓮大聖人御書講義第七巻p346】
312
:
taka
:2010/10/08(金) 20:30:08
御書p512・⑪(576・⑪) 正信の信仰に立とう
能居所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり。
通解
能居所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮大聖人の弟子檀那等のなかの正信の者のことである。
拝読の手引き
まず「能居所居・身土・色心」とは、それぞれ不二一体であることを明かされています。つまり、能居(居住するもの)=身と所居(居住する所)=土も、また、色(物質、肉体)と心(精神)も不二な存在としてあるのです。また「倶体倶用」とは、体と力用がともにそなわっていることです。仏といえば、依正、色心、体用すべてにわたって仏なのです。 「無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏」とは、久遠元初の自受用身たる日蓮大聖人のことであり、御本仏のことです。「日蓮が弟子旦那の中の事なり」と示されていますが、私達は、その御本仏の生命の当体である御本尊を信ずることにより、私達自身の依正、色心等すべてにわたって、仏の力用が湧現することを確信したいものです。 ここで「日蓮が弟子檀那の中の事なり」の「中」の字について考えてみましょう。日寛上人はこれについて、正信に当たる、日蓮大聖人の仏法を正しく信ずる者のことをさしている、といわれています。それは、真剣に仏法に取り組み、強盛な信心を貫くことであり、そのとき、わが身が当体蓮華とあらわれるということです。それはまた厳しくいえば、信心の姿勢が弱かったり、広布への態度が不真面目であったり、妙法の偉大さが心中深く染まらない人は、真の幸福を樹立することはできないということでもありましょう。広布の責任感を強くもち、主体的に取り組む人に、人生の真の栄光は輝くのであり、傍観者的、第三者的な立場であっては正信の人とはいえないのです。 私達は現在、どのような立場にあろうとも、自ら、広布の主体者である、との自覚と誇りをもちたいものです。広布に真剣に取り組む人が、信心強盛の人であり、正信の人なのです。責任感と使命感にあふれ主体的な活動を展開するなかにこそ、真に幸福な、最も充実した人生が開けていくことを確信していきたいものです。〈単行本「きょうの発心百選」289〉
313
:
taka
:2010/10/09(土) 16:34:46
御書p519・⑩(584・②) 説得性ます譬喩蓮華
問う、当体の蓮華解し難し。故に譬喩を仮りて之を顕すとは経文に証拠あるか。答う、経に云く「世間の法に染まらざること蓮華の水にあるが如し。地よりも而も涌出す」云々。地涌の菩薩の当体蓮華なり。譬喩は知るべし。
通解
問う、当体の蓮華ということは、理解しがたい。そこで、譬喩をかりて、これをあらわしたというが、その証拠が経文にあるか。ことう、法華経涌出品に「本化の菩薩は、世間の法に染まらないこと、あたかも蓮華が泥水の中にありながら、清浄であるのと同じである。しかも、この本化の菩薩は大地から涌出した」と説かれている。これはまさしく、地涌の菩薩が当体蓮華であることを示している。譬喩は自ずと明瞭であろう。
拝読の手引き
ここには、地涌の菩薩の例を引きながら、当体蓮華と譬喩蓮華について説かれています。「当体」と「比喩」との関係は、実体そのものと、そのわかりやすい譬え、説明といってよいでしょう。ある実体を説明しにくいとき、それに類似のものをもってきて理解をはやめるというやり方は、日常一般でも行っていることですが、仏法の指導者も、この比喩を用いて、その深義をわからせようと、大変な努力を注いだのです。 上根の機の者は即座に悟りを得ても、中根、下根のものはそうはいかない――そこで、比較などを用い、譬喩を巧みに使って法を説いていったのが釈迦です。また、天台も譬喩が巧みでした。 日蓮大聖人の御書を読めば、そこには、甚深の哲理が、実にわかりやすい譬え、卑近な生活法則、生活事実を駆使して、説かれています。非常に鋭く深い悟達の故に、その用いられる譬喩は、適切にして要を得ているのでしょう。また、衆生を思う心が深く、その理解度、機根がよくわかるが故に、巧みな譬喩、説明が次から次へと展開されるのではないかと拝されます。 南無妙法蓮華経の不思議の一法、仏界という言語を絶した生命境涯、生命を充実させる勤行の確かな手応え――この当体蓮華を、いかにして仏法を知らない人に伝え理解させていくか、譬喩を展開するその弟子としての努力と精進のなかに、福運はそなわってくるのです。〈単行本「きょうの発心百選」505〉
314
:
taka
:2010/10/10(日) 10:13:55
御書p522・②(585・②) 二乗作仏の意義を明かす
一切衆生のみならず、十界の依正の二法、非情の草木、一微塵に至るまで皆十界を具足せり。
通解
一切衆生だけではなく十界の依報・正法の二法も、非常の草木や一微塵に至るまで、みな十界を具足している。
拝読の手引き
法華経では、一切の衆生がもともと十界を具えていることを明かしており、更には十界の依報(環境)と正報(生命)も、非常とされる草や木も、大地を構成する塵一つに至るまで、ことごとく十界を具えている、としている。(日蓮大聖人御書講義第八巻p62】
315
:
taka
:2010/10/10(日) 19:34:31
御書p529・⑬(631・⑬) “教"実ならば"位"低し
所被の機下劣なる故に劣ると云わば権を取って実を捨てよ。天台の釈には教弥弥下しという故なり。
通解
その仏法の教えによって救われるところの、民衆の機根が低く、劣っているために、その教えが劣っている、というのであるならば、方便権教を取って、法華真実の教えを捨てる以外なかろう〈決してそうであってはならない〉天台の釈には、教えがいよいよ真実であるならば、その教えによって救われる民衆の機根も、その教えを説く仏の位も、いよいよ低くなる、といわれている故である。
拝読の手引き
最も身分の低い、しいたげられた貧しい庶民の味方となって、あらゆる人々を根底から救い切っていく教えこそ、真実の仏法であることを、明示された一節です。 同時にこのことは、その教えを説く仏の立場に当てはめることもできます。インド生誕の釈迦は、迦毘羅衛上の王・浄飯王の王子として生まれました。 それに対し末法の御本仏日蓮大聖人は、三国の太夫という貧しい漁師の子として、ご誕生されています。真に力ある仏法は、あらゆる地位も名誉も権力をも必要とせず、その法自体の力によって、未来永遠に、民族、国境、階層、地位等の全てを超越して広まっていくのです。 同時にこの御文は、私達が広宣流布をめざして、人間革命にはげむ立場においても、重要な一節であるといえるでしょう。世間にも「身分が高いほど謙虚であれ」といわれます。仏法を深く学べば学ぶほど、人間革命が進み、自己の境涯は開かれていくのです。そして、常に謙虚に振る舞い、どのような立場の人をも包容し、その人格を尊敬していくようになれるのです。 妙法の実践を深めれば深めるほど、皮相的な姿にとらわれず、事物の本質を、明確にみきわめていける、英知が備わってくるのです。おのずから、自己の行動、意識を謙虚にみつめ、内省していける余裕も備わってくるのです。 これが仏法を実践する者の基本姿勢だといえましょう。また、この姿勢こそ現在、失われつつある人間相互の信頼と、連帯の絆を蘇生させうる、キーポイントであるといえるでしょう。〈単行本「きょうの発心百選」280〉
316
:
taka
:2010/10/12(火) 08:51:21
御書p537・⑤(p628・⑤) 二難符号の現証で覚醒促す
「去ぬる文永五年に蒙古国の牒状渡来するところをば朝に賢人あらばこれを怪しむ可し、設い其れを信ぜずとも去る文永八年九月十二日御勘気を蒙りしの時吐く所の強言次の年二月十一日に符号せしむ、情有らん者は之を信ず可し何に況や今年既に彼の国災兵の上二箇国を奪い取る」
通解
去る文永五年に蒙古国の書状が渡来したときに、国に賢人がいたならば、これを不思議なことと思ったことであろう。 たとえ、それを信じなくても、去る文永八年九月十二日、御勘気を受けた時に強く言っておいた予言は、次の年の二月十一日に符合した。 心ある者は、これを信ずべきである。ましてや、今年は既に蒙古の国が兵をもって攻めてきて、壱岐・対馬の二カ国を奪い取った。
拝読の手引き
大聖人が予言された他国侵逼難は、既述したとおり、文永五年(1268年)閏正月十八日、蒙古国の牒状が鎌倉に渡来したことによって、現実のものとなってきた。 このことから、大聖人は直ちに同年四月五日、当時、幕府に影響力をもった人物とされる法鍳房に「安国論御勘由来」をしたためられ、幕府への奏上を依頼されている。 しかし、大聖人に返ってきたものは悪口であり、沈黙であり、欺瞞であった。 また、このときに気づかなくとも、文永八年(1271年)九月十二日、平左衛門尉頼綱に向かって諌めた自界叛逆の難の予言が「次の年」の文永九年二月十一日に、早くも符合しているのであるから、「情有らん者は信ず可」きなのに、無視しつづけたのである。 大聖人はその夜、竜の口の首の座に坐られ、翌月には佐渡に配流となられるが、大聖人のこの予言のうち、自界叛逆難は半年を待たずして的中する。すなわち、文永九年(1272年)二月十一日に、執権・時宗とその異母兄・時輔との間の確執から騒乱が起こったのである。いわゆる「二月騒動」である。 この内乱については、その一ヶ月前の文永九年一月十六日、配流先の佐渡で、塚原問答の直後、大聖人は佐渡の守護代・本間六郎左衛門尉にも予言されていた。(日蓮大聖人御書講義第八巻p463】
317
:
taka
:2010/10/14(木) 09:05:30
御書p537・⑤(p628・⑤) 二難符号の現証で覚醒促す
「去ぬる文永五年に蒙古国の牒状渡来するところをば朝に賢人あらばこれを怪しむ可し、設い其れを信ぜずとも去る文永八年九月十二日御勘気を蒙りしの時吐く所の強言次の年二月十一日に符号せしむ、情有らん者は之を信ず可し何に況や今年既に彼の国災兵の上二箇国を奪い取る」
通解
去る文永五年に蒙古国の書状が渡来したときに、国に賢人がいたならば、これを不思議なことと思ったことであろう。 たとえ、それを信じなくても、去る文永八年九月十二日、御勘気を受けた時に強く言っておいた予言は、次の年の二月十一日に符合した。 心ある者は、これを信ずべきである。ましてや、今年は既に蒙古の国が兵をもって攻めてきて、壱岐・対馬の二カ国を奪い取った。
拝読の手引き
大聖人が予言された他国侵逼難は、既述したとおり、文永五年(1268年)閏正月十八日、蒙古国の牒状が鎌倉に渡来したことによって、現実のものとなってきた。 このことから、大聖人は直ちに同年四月五日、当時、幕府に影響力をもった人物とされる法鍳房に「安国論御勘由来」をしたためられ、幕府への奏上を依頼されている。 しかし、大聖人に返ってきたものは悪口であり、沈黙であり、欺瞞であった。 また、このときに気づかなくとも、文永八年(1271年)九月十二日、平左衛門尉頼綱に向かって諌めた自界叛逆の難の予言が「次の年」の文永九年二月十一日に、早くも符合しているのであるから、「情有らん者は信ず可」きなのに、無視しつづけたのである。 大聖人はその夜、竜の口の首の座に坐られ、翌月には佐渡に配流となられるが、大聖人のこの予言のうち、自界叛逆難は半年を待たずして的中する。すなわち、文永九年(1272年)二月十一日に、執権・時宗とその異母兄・時輔との間の確執から騒乱が起こったのである。いわゆる「二月騒動」である。 この内乱については、その一ヶ月前の文永九年一月十六日、配流先の佐渡で、塚原問答の直後、大聖人は佐渡の守護代・本間六郎左衛門尉にも予言されていた。(日蓮大聖人御書講義第八巻p463】
318
:
taka
:2010/10/15(金) 09:35:37
御書p537・⑧(p628・⑦) 魔に魅入られた姿
「設い木石為りと雖も設い禽獣為りと雖も感ず可く驚く可きに偏ゑに只事に非ず天魔の国に入って酔えるが如く狂えるが如く歎く可し哀れむ可し恐る可し厭う可し」
通解
たとえ木石であっても、たとえ禽獣であっても、感じ驚くであろう。それを無視していることは実に只事ではない。 天魔が国に入って、酔ったようになり、狂ったようになっているのである。驚くべきであり、哀れむべきであり、恐るべきであり、厭うべきである。
拝読の手引き
このように、”他国侵逼”という日蓮大聖人の予言が現実となって現れたのであるから、たとえ非情の木石や、禽獣のような畜類であったとしても、大聖人の正しさに目覚めるべきはずである。 しかるに、幕府から何の沙汰も、反応もないということは、「偏に只事には非ず」と仰せられ、その本質は天魔が国に魅入って、為政者が「酔えるが如く狂えるが如く」心破作七分の状態に陥っているゆえであると指摘され、「歎く可し哀しむ可し恐る可し厭う可し」と、ご心境を吐露されている。 いうまでもなく、大聖人によるこれらの予言は、いわゆる直感やインスピレーションなどの「利根と通力」(p16)によるものでは決してない。 あくまで経典という仏法の明鏡に照らした結果であり、それ自体、大聖人が仏法を体得された仏であることを証明したものであった。 撰時抄では「余に三度のかうみようあり」(p287)と述べられ、三度にわたって国を諌めて予言したことが的中したことをもって、御自身が三世を見通された兼知未萠(未来に起こるべきことをあらかじめ知り抜いている)の聖人たる証とされているが、ここであえて「高名」と称されているのも、仏法の正しさ、仏法の智慧と境界を末代の凡夫に教えんがためであったと拝されるのである。(日蓮大聖人御書講義第八巻p466】
319
:
taka
:2010/10/16(土) 08:27:49
御書p537・⑰(p628・⑯) 一生の証
我弟子等の中にも信心薄淡き者は臨終の時阿鼻獄の相を現ず可し其の時我を恨む可からず
通解
我が弟子らのなかにも、信心薄い者は臨終のときに阿鼻地獄の相を現ずるであろう。そのときに日蓮を恨んではならない。
拝読の手引き
最後に、日蓮大聖人の弟子門下の中でも「信心薄淡き者」は、臨終の時、無限地獄へおちるであろうと重ねて警告され、その時になって大聖人を「恨むべからず」と戒められている。 「臨終」は、決してごまかしのきかぬ人生の総決算であり、赤裸々な「一生」の証である。どのような生き方を貫いたかが、「臨終」の相に如実にあらわれる。 ゆえに、正法の信心、人間としての生き方は、だれが見ていようといまいと、正しく、清浄でなければならないことを深く明記していきたい。(日蓮大聖人御書講義第八巻p491)
320
:
taka
:2010/10/18(月) 10:17:47
御書p537・⑬(p628・⑫) 「偏身に汗を流せ」
今日蓮が弟子等も亦是くの如し。或いは信じ或いは伏し、あるいは随い或いは従う.。但名のみ之を仮りて心中に染まざる信心薄き者は、設い千劫をば経ずとも、或いは一無間、或いは二無間、ないし十百無間疑い無からん者か。是を免れんと欲せば、各々薬王・楽法の如く臂を焼き皮を剝ぎ、雪山・国王等の如く身を投げ心を仕えよ。若し爾らズンバ五体を地に投げ偏身に汗を流せ。若し爾らずんば珍宝を以て仏前に積め。若し爾らずんば奴婢となって持者に奉えよ。若し爾らずんば等云々。
通解
日蓮大聖人の弟子として信伏随従する。といってもただ名のみそうであって、心中に染まらない信心の薄い者は、たとえ千劫無限地獄を経ることはなくても、あるいは一無間あるいは二無間ないし十百無間地獄を経ることは疑いない。これを免れようとするならば、各々、薬王菩薩、楽法梵志のように、ひじを焼き、皮をはぎ、雪山童子、須頭檀王等のように、身を投げ心から仕えなさい。もしそうでなければ五体を地に投げ全身に汗を流しなさい。
拝読の手引き
きわめて厳しい一節であり、仏法に違背することがいかに福運を消すものか、また仏道の成就を目指す仏弟子の心構えと実践はいかにあるべきかを示された御金言です。人間として最高の幸福の道をまっとうさせ、宿命転換せしめて、無限地獄におとさないようにしようとの、強い大きな厳父の愛を感ずる一節です。 心に深く決意し、これをわが身の実践に移す――全力投球の闘魂こそが、弟子の心でなくてはなりません。 仏法の世界は不思議なものです。本気になってぶつかれば、ちょうど鐘を打てば響くように、必ず、自分の生命に実感としてあらわれるものがあるのです。観念的な、責任のない、いいかげんな姿勢であれば、御本尊に響くものもそれだけであり、その人の生命、生活のうえにあらわれるものも、それだけにしかすぎません。真面目にこつこつと重ねた実践ほど尊いものはなく、そこに無量の福運の花が咲におうのです。御本尊を信じきり、広布に心を定めて、人知れず、茨の道を切り開く実践を展開することは、容易なことではありません。 薬王、楽法のような修行は今必要ありませんし、時代相応の実践を忘れてはなりませんが、全身に汗を流し、体を大地にたたきつける思いで、広布推進に全力を傾注する、仏弟子としての誠意だけは貫き通したいものです。〈単行本「きょうの発心百選」267〉
321
:
taka
:2010/10/19(火) 09:49:20
御書p541・⑦(p846・⑥) 一切皆是仏法
「一切法とは、一切皆是れ仏法なり」
通解
「如来の一切の所有の法」とは一切が皆仏法であるということである。
拝読の手引き
「如来の一切の所有の法」の文は、如来が一切所有しているという意であるが、これは一切法が皆、仏法であることを意味し、一切法の名をあらわすとして、五重玄の中の「名」にあてている。
322
:
taka
:2010/10/21(木) 09:30:05
御書p544・⑨(p1056・⑨) 四依の文
「法に依つて人に依らざれ義に依つて語に依らざれ知に依つて識に依らざれ了義経に依つて不了義経に依らざれ」
通解
涅槃経に「法に依るべきであり人に依ってはならない。義に依るべきであり語に依ってはならない。知に依るべきであり識に依ってはならない。了義経によるべきであり不了義経に依ってはならない」とある。
拝読の手引き
四依とは、真実の仏道を求める人々が何を依りどころとすべきかを四つに分けて示したものである。普通、四依には「法の四依」と「任の四依」があるが、ここでは、法において依りどころとすべき四つの原則が示されているので「法の四依」という。 「法に依って人に依らざれ」とは、仏法を修行する者は、仏の教法そのものを依り処にすべきで、人師に依ってはならない、と言う意味である。法を説く「人」が、根本の「法」に背いている場合には、いかなる人であっても、その言うところを用いてはならないのである。 「義に依って語に依らざれ」とは、教法の意義に従うべきであって、表現の語(文章)に依ってはならない、という意味である。教えの意義を分かろうとせずに言葉の表面のみにとらわれると大きな誤りが生ずるのである。 「知に依って識に依らざれ」とは、仏の智慧に依るべきであって、菩薩以下の識に依ってはならない、という意味である。諸法実相の法理に通達した仏の智慧に依るべきであって、菩薩や論師・人師等の説く法門は不完全なので「識」といい、それにとらわれてはならないということである。 「了義経に依って不了義経に依らざれ」とは、中道実相の義を説いた了義経に依るべきで、そうでない不了義経に依ってはならない、という意味である。了義経とは釈尊の仏法では実教である法華経であり、不了義経とは四十余年の方便権教をいう。したがって「了義経に依って不了義経に依らざれ」ということが、正しい法を知るための原理・法則を示した「法の四依」のうちの結論ともなっている。 大聖人は、この涅槃経の四依の文の意を「菩薩・人師の言に依るべからず仏の御定を用いよ華厳・阿含・方等・般若等の真言・禅宗・念仏等の法には依らざれ了義経を持つべし了義経というは法華経を持つべしという文なり」と示されているのである。 なお「仏の御定を用いよ」とは、釈尊が已今当の三説のなかで「我が諸説の諸経、而も此の経の中に於いて、法華最も第一なり」と示されていることを指している。(日蓮大聖人御書講義第九巻p152)
323
:
taka
:2010/10/22(金) 10:07:14
御書p545・⑱(p1057・⑱) 仏の金口
已今当の三説の中に、仏になる道は法華経に及ぶ経なし、と云う事は正しき仏の金言なり。
通解
已今当の三説のなかで仏になる道は法華経に及ぶ経はないと説かれている。これは、まさしく仏の金口より出た御言葉なのである。
拝読の手引き
法華経の法師品第十には已今当の三説に超過した法華経こそ、釈尊の諸説の経の中で最も第一であることが明かされている。 そのように「仏になる道は法華経に及ぶ経なし」というのが「正しき仏の金言」なのであって、疑う余地はないのである。 したがって、我が所依の経が最も勝れると主張した人師は、仏に敵対する邪義を立てた者であり、謗法の大罪に当たるのである。 法華経の立場に立って余経を劣っていると下すことは、人師の説でなく、仏説たる経文に明らかなことであり、天台大師・妙楽大師が一貫して主張した正意でもある。(日蓮大聖人御書講義第八巻p179)
324
:
taka
:2010/10/23(土) 09:09:13
御書p545・④(p1057・④) 多い言行不一致の姿
法華経は元よりめでたき御経なれば誰か信ぜざると、語には云うて、而も昼夜朝暮に弥陀念仏を申す人は、薬はめでたしとほめて、朝夕毒を服する者の如し。
通解
法華経はもとよりすばらしい教えだから、誰が信じないことがありましょうかと、いいながらも、昼夜朝暮に念仏を唱えている人は、薬は体のためにいいものだといいながら、それを飲まないで、朝夕に毒を飲んでいるようなものである。
拝読の手引き
たとえ、妙法はすばらしいと言葉でほめても、実際には、誤れる宗教、思想を人生観としている人は、幸福になれないどころか、不幸になっていくと厳しく戒められている御文です。 末法の衆生は、貪・瞋・癡の生命の濁りが盛んで、そのため、どうしても我見に執着し、なかなか道理を正視できないのです。これは、日蓮大聖人御在世当時も現代においても、少しも変わるものではありません。 私達のまわりでも、大聖人の生命哲学、創価学会に対して、心では軽蔑し、反発しながらも、口先や表面上で、お世辞をいう人がいますが、そういった人達は、まさに、この御文通りの人達といえるでしょう。幸い、私達は、御本尊を信じることができました。私達の生命の奥底に、幸福になる種子が、確実に植え付けられたのです。 しかし、厳しくいえば、学会員だといいながら、心中深く信心に染まらずに、他の法に心ひかれ、勤行・唱題を怠ったり、同志に怨嫉したり、あるいは増上慢になったりするようなことがあれば、薬はいいといいながらも、朝夕に毒を飲んでいる人と同じ轍を踏むことになりかねません。 貪・瞋・癡の衆生であるため、信心したいといっても、私たち一人一人の生命の中には、仏法をなかなか信じきれない生命の濁りがあることを認識し、一瞬一瞬、この己心の魔と対決し、打ち破っていかなければならないのです。常に求道の姿勢を堅持し、自己完成への厳しい道を貫いて、幸福の種子を大樹と実らせ、功徳の花を咲かせていこうではありませんか。(単行本「きょうの発心百選」171」)
325
:
taka
:2010/10/24(日) 10:22:23
御書p550・⑰(p1062・⑯) 正法の祈りの叶うを示す
よき火打とよき石のかどと・よきほくちと此の三寄り合いて火を用ゆるなり、祈も又是くの如しよき師と・よき檀那と・よき法と此の三寄り合いて祈を成就し国土の大難をも払ふべき者なり
通解
よい火打金と、よい石の角と、良い火口と、この三つが寄り合って火を用いられるのである。祈りもまた同じである。よい師と、よい檀那と、よい法と、この三つが寄り合って祈りを成就し、国土の大難をもはらうことができるのである。
拝読の手引き
当時は火を得るために、火打ち金と火打ち石のかどを打ち合わせ、そこから出た火花を火口に移したことにたとえられて、祈りというものは「よき師と・よき檀那と・よき法」の三つが寄り合って初めて祈りも叶い、国土も安穏になることを教えられている。 末法の現在で「よき師」とは御本仏日蓮大聖人であり、「よき檀那」とは正法を受持し外護する信徒をいい、ここでは「国主」が正法を外護すれば「よき檀那」となるとの意が含まれている。「よき法」とは三大秘法の妙法をさすことはいうまでもないであろう。よき檀那がよき師とよき法によって祈るとき「国土の大難をも払ふ」ことができるのである。(日蓮大聖人御書講義第九巻p255)
326
:
taka
:2010/10/25(月) 10:03:21
御書p551・②(p1063・②) 真の信仰者の条件
吉檀那とは、貴人にもよらず賤人をもにくまず、上にもよらず下をもいやしまず、一切人をば用いずして、一切経の中に法華経を持たん人をば、一切の人の中に吉人なりと説き給へり。
通解
善き在家の信者というのは、身分の貴い人とか賎しい人とか、立場の上下にかかわらず、一切の人びと(のわたくしごとの言葉)を用いないで、一切経の中で最もすぐれている法華経を信受する人を、一切の人の中でも最も善い人だと、仏は説かれています。
拝読の手引き
広布を推進するためには、必ずよき師と、よき檀那と、よき法の三つが大事であることを明かされて、ここでは、とくに”よき檀那”すなわち真の信仰者の在り方について述べられています。檀那とは”施主”と訳し、在家の信仰者を意味します。 社会的立場の上下や、身分の貴賎といった外的諸条件を行動、判断の基準としがちなのが、社会一般の姿ですが、ここには、人間の価値というものは、決してこのような身分や立場、さらには国境・民族や個人的差異によって、評価してはならないとの仏法の平等観が、鮮明に浮かびあがっているように思えてなりません。 さて、日蓮大聖人は、いたずらに人びとの言葉に左右され、粉動されるのではなく、信仰実践の方向を、大聖人の御書に求め、御書の一節一節に述べられたままに、常に正しい信仰の姿勢を持続しきっていく人こそ、真によき檀那である、と教えられているのです。 妙法の信仰に立脚しきらない人びとの言葉は、とかくその人の私的な立場が強くにじみでるものであり、広宣流布・一生成仏という大切な問題に判断を狂わせられるおそれがあります。是は是、非は非と聞き分ける賢明な判断、広布への責任感が、よき檀那の条件であり、その意味で”人”よりも”法”に立脚することが大切なのです。 すなわち「一切経の中に法華経を持たん人」とは、仏法の最高峰である法華経の肝心、三大秘法の御本尊、そして御書を第一とする人のことです。御本尊と冥合しきり、御書を学び求め、自らの血肉としていく信仰者の立場を堅持し、全員がよき檀那となりましょう。〈単行本「きょうの発心百選」536〉
327
:
taka
:2010/10/26(火) 09:30:16
御書p551・⑪(p1063・⑪) 受持即観心
何なる衆生か仏になるべきと問わば、法華経を受持し奉らん人必ず仏になるべしと答うべきなり。これ仏の御本意なり。
通解
どのような人びとが成仏することができるのかと質問されれば、法華経〈三大秘法の御本尊〉を受持し奉る人が、必ず仏になることができる、と答えるべきである。このことは仏の御本意なのである。
拝読の手引き
三大秘法の御本尊を信じ、持ち、生涯にわたって強盛な信心を持続しきる人こそ、必ず人間革命、一生成仏を実現しうることを述べられた一節です。「仏」とは、清浄にして豊かな知恵をそなえ、自身の絶対的幸福境涯を確立するとともに、社会を平和と繁栄に導く力をそなえた、最高人格の境涯をいいます。人間ならだれしも、自分自身の幸福な人生と、社会の平和と繁栄に役立つ人材になることを願うものです。仏法は、だれもが人間として生まれたからには、そういった素晴らしい幸福境涯、「仏」という最高人格の境涯を開くことを、仏道修行の目的として説かれた教えです。しかし、釈迦仏法においては相手の機根に合わせて、さまざまな角度から様々なことを説いていました。ある者に対しては戒律を説き、ある者に対しては声聞、縁覚の悟りを得ることをすすめました。そして、その究極の法として、仏界の悟りを目指すべきことを示唆したのです。それは、いってみれば成仏という山の頂を指して、登れとすすめている教えだといえましょう。それに対して末法の御本仏・日蓮大聖人は、知恵ある者もない者も、境涯の低い者も高い者も、等しく一生のうちに成仏の境涯を開いていける根本の実践法として、三大秘法の御本尊をあらわされたのです。したがって私たちの信ずる御本尊こそ、あらゆる仏道修行者の目指す究極の当体だといえます。大聖人の仏法は”成仏”という仏法の最高峰から直ちに発した教えです。まさに、大聖人が御本尊をあらわされ、末法の一切衆生に与えられたことこそ、仏法の歴史上、未曾有の大革命であったといえるのです。三大秘法の御本尊を信受する私達こそ、あらゆる人々が求める最高の人生道を歩む者であるとの自覚に立ちたいものです。〈単行本「きょうの発心百選」431〉
328
:
taka
:2010/10/27(水) 10:38:15
御書p552・②(p1064・②) "強いて”仏法を説く勇気
末法にかひなき僧の法華経を弘めんには、かかる難あるべしと経文に正しく見えたり。されば人是を用ひず、機に叶はずと云へども、強いて法華経の五字の題名を聞かすべきなり。是ならでは仏になる道はなきが故なり。
通解
日蓮等のように末法に甲斐ない僧が法華経を弘めようとすれば、不軽菩薩等のうけたような大難にあうことは経文に明白です。したがって、人がこの法華経を用いようが用いまいが、また機根にあおうがあうまいが、強いて法華経の五字の題目を聞かすべきです。これよりほかに成仏する道はないからです。
拝読の手引き
私達が自他共に成仏する道とは何か。それは、三大秘法の南無妙法蓮華経の題目を「強いて」相手に聞かせることだと大聖人は仰せになっているのです。私達はこの「強いて」に大いに心を留めるべきだと思います。 大都会の真ん中で、お年寄りや幼児が餓死したり、死んで何ヶ月もたって発見されたり、人間関係がまるで砂漠の砂のように干涸らびているのが今の社会です。そのなかで、ややもすると私達は、他人の苦しみを自分の心の痛みとして感ずることのできない、無慈悲な自分になってしまいがちです。ここに「折伏」の意義があるのです。 折伏は、私達に忘れかけた慈悲の心を呼び戻す強力な”電磁波”となるでしょう。なぜなら慈悲の実践行為である折伏は、私達の生命を無慈悲と覆っていた靄を一瞬のうちに払いのけて「如来の使いにして、如来に遣わされ、如来の事を行ずる」地涌の菩薩という本地を自覚させる本門鏡なのです。 「強いて」とは、無慈悲な自分の心にムチ打つ勇気でもあります。また、社会正義のために仏法理念、生命哲学を社会に宣揚してやまない勇気ともいえるでしょう。「鳥と虫とはなけどもなみだをちず。日蓮はなかねどもなみだひまなし」(御書p1361)という大慈大悲の日蓮大聖人の御境界に、私達は一歩でも二歩でも近づきたいものです。〈単行本「きょうの発心百選」539〉
329
:
taka
:2010/10/28(木) 11:28:29
御書p552・⑭(p1064・⑭) 妙法は順逆ともに成仏
とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし、信ぜん人は仏になるべし謗ぜん者は毒鼓の縁となつて仏になるべきなり、何にとしても仏の種は法華経より外になきなり
通解
とにもかくにも法華経を強いて説き聞かせるべきである。信ずる人は仏になり、謗る者は毒鼓の縁となって仏になるのである。 どちらにしても仏の種は、法華経より外にはないのである。
拝読の手引き
どうせ「法華経に背く失」によって地獄に堕ちるのなら「法華経を強いてと聞きかす」べきであり、それによって素直に法華経を聞いて信ずる順縁の者は直ちに仏になり、信じないで誹謗する逆縁の者も、法華経を謗った縁によって法華経に触れ、仏種が植えられるので、いったんは地獄に堕ちるけれど、それを縁としてやがて必ず仏になるのである。 「毒鼓の縁」とは、法を聞いて信ぜずに反対しても、その縁によって煩悩を断じて得道できることをいう。 「何にとしても仏の種は法華経より外になきなり」と仰せのように、順延逆縁、信謗ともに一切衆生を成仏させる種子は「法華経」――寿量文底下種の南無妙法蓮華経以外にないのである。(日蓮大聖人御書講義第九巻p281)
330
:
taka
:2010/10/29(金) 10:10:04
御書p556・④(p1068・④) へつらいに真実なし
人に吉と思はれ、人の心に随いて貴しと思はれん僧をば、法華経のかたき世間の悪知識なりと思うべし。此の人を経文には、猟師の目を細めにして鹿をねらひ、猫の爪を隠して鼠をねらふが如くにして、在家の俗男俗女の檀那をへつらい、いつわり、たぼらかすべしと説き給へり。
通解
人によい人だと思われ、他人の心に従って尊いと思われようとする僧は、法華経のかたきであり、世間の悪知識であると思いなさい。この人のことを経文には、猟師が目を細めにして鹿を狙い、猫が爪を隠して鼠を狙うようなものであり、在家の俗男、俗女の檀那にへつらったり、いつわったり、たぼらかしたりすると説かれています。
拝読の手引き
これは、直接には、他宗の僧侶の本質をえぐりだしたものですが、これを厳しく拝して私たち自身の姿勢の上に、展開してみましょう。すなわち、信仰者の姿勢として、自らの節、つまり、法華経の精神を曲げてまでいたずらに世間と妥協したり、こびへつらうことを厳しく戒められた一節であると拝せます。 確かに、他人によく思われようとしてあえて真実の主張をせず、他人の心に従っていくならば、表面的には、また、一時的にはそれなりの評価を受け、尊ばれるかもしれませんが、最終的には惨めな敗北の人生を余儀なくされてしまいます。 いかなる社会、時代においても、自らの信念を生涯曲げることなく貫き通すことは至難のわざですが、そこには人間としての真実の輝きと栄光があります。 まして、私達の主張、実践は、すべての民衆に幸福と平和と繁栄の基礎となる生命哲理を教え、人間としての最高の生き方を示していく正義の実践です。その過程において、ときには苦しくつらいこともあるでしょうが、最後まで最高の誠実さと社会人としての見識をもち、粘り強く地道に実践を貫いていくことが大切なのです。 このことを自覚し、苦しくともつらくとも妙法広布の正義の大道をあゆみ、勝利の人生を築いていきたいものです。〈単行本「きょうの発心百選」472〉
331
:
taka
:2010/10/30(土) 11:29:23
御書p557・④(p1069・④) 仏性を一音によび顕す唱題の力
一度妙法蓮華経と唱うれば一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞・一切の梵王・帝釈・閻魔・法王・日月・衆星・天神・地神・乃至地獄・餓鬼・畜生・修羅・人天・一切衆生の心中の仏性を唯一音に喚び顕し奉る功徳・無量無辺なり、
通解
ひとたび妙法蓮華経と唱えれば、一切の仏、一切の法、一切の菩薩、一切の声聞、一切の梵王、帝釈、閻魔法王、日月、衆星、天神、地神、乃至地獄、餓鬼、畜生、修羅、人天、一切衆生の心中の仏性を、ただその五字の妙法の一音に呼びあらわすのですから、その功徳は無量無辺なのです。
拝読の手引き
この御文は、南無妙法蓮華経と唱える唱題の功徳の素晴らしさを述べられたものです。 仏性とは、何ものも壊すことのできない最高の、最も尊い生命といえます。私達の仏道修行の目的の一つは、この仏性を湧現させて崩れることのない幸福境涯を築くことにあります。それを可能にするのが御本尊ですが、この御文では、私達がご本尊に向かって題目を唱えることによって、自分の成仏だけではなく、あらゆるものの成仏をも実現することができる、と述べられています。 ここで成仏とは、あらゆるものを蘇生させ、それらのもつ本然的な力を最高に発揮させて、豊かな価値創造をさせていくことと考えることができましょう。 ところで、この御文に示された原理は、一般人性のうえの問題だけではなく、さまざまなことについていえます。たとえば学会活動において、よく”一切の成功の源泉は唱題である”といわれることもそうです。私達の真剣な唱題は、座談会や家庭指導といった諸活動の力を最大限に発揮させ、広布推進への大きな価値創造をさせていくのです。 私達の幸福の建設においても、また、さまざまな活動の成功においても、その原動力は御本尊への、真剣な唱題にあることを、この御文から深く学び、明るく逞しく前進していきましょう。〈単行本「きょうの発心百選」429〉
332
:
taka
:2010/11/02(火) 09:20:23
御書p557・⑥(p1069・⑥) 空飛ぶ鳥と籠の鳥
我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり、譬えば篭の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し、空とぶ鳥の集まれば篭の中の鳥も出でんとするが如し口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ、梵王・帝釈の仏性はよばれて我等を守り給ふ、仏菩薩の仏性はよばれて悦び給ふ
通解
我が己心の妙法蓮華経を本尊と崇めたてまつって、我が己心の中の仏性が南無妙法蓮華経と呼び呼ばれてあらわれるところを仏というのである。
拝読の手引き
御本尊に向かって唱題することは、じつは万物と己心に具わる仏性を呼び現し讃嘆することと同義なのです。つまり自身の仏性顕現させる唱題の音声に応じて、全宇宙の諸天善神も動き、私たちの生命を護ってくれる――この法理には、ほかの他力本願的な信仰とは一線を画する、日蓮仏法の特質が端的に現れています。(大百蓮華2009・10月号・勝利の経典「御書」に学ぶ)
334
:
taka
:2010/11/06(土) 09:32:57
御書p563・⑯(p1226・⑯) 心の一法
「心の一方より国土世間も出来する事なり」
通解
心という一法から国土世間も出てくるのである。
拝読の手引き
例えば、華厳経巻十に「心は工なる画師の如く、種々の五陰を描き一切世界の中に、法として造らざる無し」(大正9巻p465)と説かれ、また無量義経に「無量義とは一法より生ず」と説かれているように、妙法蓮華経の一法、すなわち我が一念の生命からすべての法が出生してくるとの意。(日蓮大聖人御書講義第十巻上p142)
335
:
taka
:2010/11/06(土) 19:11:40
御書p563・⑬(p1226・⑬) 心の不思議さ
言と云うは心の思いを響かして声を顕すを云うなり
通解
「言葉というのは心の思いを響かせて、声に表したものをいうのである」(御書p563、通解)
拝読の手引き
”心の不思議さ”を一重深く述べられているところである。 凡夫の使用する言葉は、心にある思いを響かせつつ、音声として外に表してきたところをいうのであると説かれている。 凡夫と仏との差異はどこにあるかといえば、自らの”心”の本性についての不思議さを知らずに迷っているのが凡夫であるとすると、その不思議さを知って悟り尽しているのが仏である、ということになる。しかも、仏が悟り尽くしている”心の不思議さ”を”神通”と名づけて、その不思議な働きを縦横無尽に使っているのが仏という存在なのである。(日蓮大聖人御書講義第10巻上p156)
336
:
taka
:2010/11/07(日) 09:15:47
御書p563・⑰(p1226・⑰) 我が身一人の日記文書
然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり
通解
したがって八万四千の法蔵は我が身一人の日記の文書なのである。
拝読の手引き
この思義も言語も及ばない生命の法理を自ら悟り、衆生のために説き示そうとしたのが八万四千の法蔵すなわち一代聖教であることを述べられている。 仏と同じく覚知できる能力は本来一切衆生に具わっているということである。 ただし、事実の上で覚っているのは仏のみであり、仏は衆生にも等しく悟らせるために、自身の悟っている心理を説き明かした。 それは「此の心の一法より国土世間も出来する」という一念三千の法門であり、「我が身一人の日記文書」なのである。(日蓮大聖人御書講義第十巻上p155)
337
:
taka
:2010/11/08(月) 13:08:04
御書p563・⑩(p1226・⑩) 善悪無記が生命の実体
善に背くを悪と云い、悪に背くを善と云う。故に心の外に善無く悪無し。此の善と悪とを離るるを無記と云うなり。善悪無記、此の外には心無く、心の外に法無きなり。
通解
(善悪善悪というけれども)善に背くのを悪といい、悪に背くのを善というのである。だから人間の心を除いて、善も悪もないのである。この善と悪とを離れた所を無記というのである。善、悪、無記の三つのほかには心というものはなく、したがって、心のほかには万法はないのである。
拝読の手引き
善といい、悪といっても、人間の心を離れて存在するものではないことを述べられています。 私達凡夫はともすれば、最初から、善や悪というものがあって、善とはこのようなもの、悪はこんなものであるというように、それぞれのイメージをいだきがちです。たしかに、他人の犯した過失や罪悪、あるいは逆に他人の行なう善き行為を見て善悪を判断するわけですが、ここでいっていることは、本当の善悪の問題は一人ひとりの心の中にしかないということです。 つまり、人間の心(生命といってもよい)は、もともと善をも悪をもなし得るのであり、ただ縁に触れることによって、結果として、善といわれ悪といわれる行為をしてしまうのです。そうした人間の心、生命の姿を”無記”というのです。 世上の道徳や倫理は、単に人間に、悪をなさず善をなせと教えますが、それがいかに根の浅いものであるかは右に述べたことから明らかです。すなわち、人間の心、生命の”無記”を考えなければ、画竜点睛を欠くのです。仏法は、この心の不思議さに着目して、いかなる悪縁に触れても粉動されない強固な生命を築くことをめざしてきたのです。私達の御本尊は、強固な生命を築くための対境であり、善縁といってよいでしょう。 御本尊に唱題することによって、私達を取り巻く環境に粉動されない自己を築くことができるのです。唱題によって得た歓喜と強固な生命力は、私達に、生きることの素晴らしさと喜びを与えてくれるでしょう。個人の研鑽が叫ばれている今日、私達はますます唱題に励んでいこうではありませんか。〈単行本「きょうの発心百選」454〉
338
:
taka
:2010/11/10(水) 10:55:08
御書p564・⑨(p1227・⑨) 一切の法は皆これ仏法
無明をば断ずべからざるなり。夢の心の無明なるを断ぜば寤の心を失うべきが故に、総じて円教の意は一毫の惑をも断ぜず。故に一切の法は皆これ仏法なりと云うなり。
通解
無明〈自分の心のありさまを明らかに悟らないこと〉を断ずるべきではない。夢の心である無明を断ずるならば法性であるさめた心をも失ってしまうからである。総じて、円教の本意はわずかばかりの煩悩をも断じないから、一切の法は皆これ仏法であるというのである。
拝読の手引き
無明と法性は、同じ一つの心のあらわれであることを説かれた御文です。無明はまた九界であり、迷いの状態をさし、法性とは仏界であり、悟りの状態をさすことはいうまでもありません。 円教、つまり、日蓮大聖人の仏法においては、無明といい、法性といっても、全く別々のものではなく、同じ生命のあらわれにすぎません。すなわち、生命の本質は九界即仏界、無明即法性、迷悟不二ということです。 爾前・権教では、無明と法性を別のものとして考え、無明を完全に断じ尽くした後に法性に至るとしたのです。 この考えでいくと、人間の人間らしい姿である無明、煩悩を、たとえ一面ではそれが人間の不幸の源泉であるとしても、断ち切るというのですから、人間の死につながります。その結果は、法性を得ることができなくなってしまいます。そうではなく、無明、迷いを明らかに見つめたとき、それがそのまま法性であると説く大聖人の仏法こそ人間に勇気と希望を与える教えであるといえます。 日蓮大聖人は、民衆が最も実践しやすく、しかも無明を法性と転じ得る法を確立されたのです。それが、今、私達が日夜に唱題している御本尊なのです。 御本尊に唱題して得た生命力と知恵で私達は、無明を無明として明らかに見ることができるのです。しかもその境涯は、一切の法を、すべて仏法として見るだけの不動の余裕をもたらすのです。私達は自分の欠点や弱さに負けることなく、一層唱題に励み成長したいものです。〈単行本「きょうの発心百選」376〉
339
:
taka
:2010/11/11(木) 10:23:52
御書p564・⑫(p1227・⑫) 十如是により正仏不二明す
此の十法界は一人の心より出で八万四千の法門と成るなり、一人を手本として一切衆生平等なること是くの如し
通解
この十法界は一人の心から生み出されて八万四千の法門となるのである。 この法門は、一人を手本として一切衆生に平等に当てはまるのである。
拝読の手引き
十如是のなかの相・性・体の三如是が、本門の立場では応身・報身・法身の「本覚の三身如来」にほかならない。この三如是から残りの七如是が生じて十如是となる、そしてこれら十如是を具えているのが十法界であり、更には八万四千の法門となることを述べられている。 これは一人の生命について明かしたものであるが、一切衆生にも平等にあてはまるものであり、すなわち万人の成仏の道がここに示されたのである。 迹門方便品第二の十如是は、べいいて言えば仏の生命について明かしたもので、例えば如是相は本覚の応身如来をあらわすが、総じては一切衆生の相好をあらわしている。ゆえに本覚の三身如来という一人を手本として一切衆生の生命の真実の姿を示しているのである。(日蓮大聖人御書講義第十巻上p308)
340
:
taka
:2010/11/13(土) 23:04:37
御書p565・⑨(p1228・⑨) 「己心と仏心とは異ならず」
己心と仏心とは異ならずと観ずる故に、生死の夢を覚まして本覚の寤に還るを即身成仏と云うなり。
通解
自己の生命と仏の生命とは異なるものではないとみるが故に、迷いの夢をさまして真実の悟りの目覚めた状態にたちかえることを、即身成仏というのである。
拝読の手引き
即身成仏の本義がきわめて明瞭に説き明かされています。凡夫がその身をなんら改めることなく、そのままの姿で成仏する、最高の幸福な人生を樹立できるというのが、この仏法の偉大なところですが、それはどうしてそのようにいえるのか、この御文に明確に示されています。 仏界といえば、なにか特別な世界と思い、私達とはまったく離れたところにあるものと考えがちですが、実は、それは迷いであり、錯覚にほかなりません。仏法で無明といわれる、その迷いは膜のように、生命をおおいつくし、おのが生命のなかに至尊の実在があることを、容易に気づかせません。 この無明の闇晴れてみれば”己心”と仏心”とは、一体不二であることは、明らかです。私達の生命というものは、善悪の縁にあい、善悪の法(現象、振る舞い)を生ずるものです。千変万化、種々の姿をとりますが、その本体は変わりません。濁った醜い生命も美しい慈悲に満ちた生命も、その体は一で、あらわれ方の差異にすぎません。劣悪の生命にも尊極の生命がはらまれているとは、なんとすばらしい発見ではないでしょうか。 ただそう考えただけでは、即身成仏はできません。己心を仏心と観じ、本覚の寤に還るということを、言葉の上だけではなく、生命の上に、実現しなければ意味がありません。すなわち、仏界を湧現できなければなりません。御本尊への唱題の一行のみ、現今における肝心であることを、知るべきです。 唱題祈念がおろそかであれば、生命は明澄とならず、所詮、夢中の人生であり、生死の毎日を逃れることはできません。「己心と仏心とは異ならず」にはなんと程遠いことでしょうか。 仏心が、仏界が、私達の生命をおおうとき、知恵明らかに、物事に対処して誤りなく力強く豊かな人生を送っていけるのです。その源泉たる勤行の姿勢を、今一度点検したいものです。〈単行本「きょうの発心百選」155〉
341
:
taka
:2010/11/14(日) 21:41:23
御書p566・⑮(p1229・⑮ よき社会人こそ仏法の実践者
一切の法は皆是れ仏法なりと通達し解了する、これを名字即と為す。名字即の位より即身成仏す。故に円頓の教には次位の次第無し。
通解
一切の法はすべて仏法であると物事の本質に通達し、完全に理解するところを、名字即というのである。この名字即の位から即身成仏するのである。ゆえに完全円満な教法〈御本尊〉には、修行の順序や悟りの次第などはないのである。
拝読の手引き
ここでは、完全円満な南無妙法蓮華経の教えは、ただ信じきっていくことによって、すべての人が等しく人間革命・一生成仏を成し遂げることの出来る力ある教法であることを明示されています。 ここで「名字即」とは、天台が立て分けた成仏に至るまでの仏道修行の六即の位の一つですが、今日でいえばはじめて三大秘法の御本尊を信受した位にあたるといえます。この位は「一切の法は皆是れ仏法なりと通達し解了する」位と述べられています。 このことは、言い換えれば私達の生活する社会・職場にあっても、その各人の分野で深く一切の物事に通達し、その社会をよりよき方向にリードしていける資質・力量をそなえた者こそ、真に御本尊を信仰する人だということができる、と思います。 なかには、まだまだ時代・社会をリードしていこうとの使命を自覚し、大いに力量を発揮しきれない人もいるかもしれません。しかし、ひとたび妙法を信受したからには、自己のもてる資質・力量を十分に発揮すべく、大いに学び、努力・精進していくのが、信仰者のあるべき姿といえましょう。その謙虚にして旺盛な持続性ある努力の積み重ねのうえに、初めてなにものにもかえがたい、真実にして尊極な自己の境涯を開いていくことができるのです。 私達は、いよいよ強情な信仰心をふるい起こし、職場に、社会に、御本尊の大功徳を実証しきっていける一人ひとりに成長していきたいものです、その実践の原動力こそ、御本尊への豊かな唱題にあるのです。〈単行本「きょうの発心百選」476〉
342
:
taka
:2010/11/16(火) 20:12:04
御書p569・⑪(p1232・⑪) 末代の学者の違背
痛ましいかな、悲しいかな、末代の学者仏法を習学して還って仏法を滅す。
通解
末代の学者が仏法を習学して、かえって仏法を滅するのは、痛ましいことである。悲しいことである。
拝読の手引き
涅槃経の「法に依って人に依らざれ(依法不依人)」(大正十二巻p401)の文を引かれ、末法の諸宗の僧らが、この涅槃経の戒めに背いて、仏法を学しながら、かえって仏法を滅ぼしていることを悲しまれている。 妙楽大師の時代の大乗仏教の僧らが、法華円頓の経を聞いて尊重しないできたことを指摘し、更に時代が下がって象法時代の末になると、ますます信心も薄くなってくる結果、経典や本はたくさんあっても、その内容については少しも思惟せず、実践もしないで、生死の迷いの世界を流転することは、痛ましいかぎりであると述べている。(日蓮大聖人御書講義第十巻上p254)
343
:
taka
:2010/11/30(火) 21:22:38
御書p570・⑥(p1233・⑤) ”生命の鏡”
我が心の鏡と仏の心の鏡とは只一鏡なりと雖も、我等は裏に向かって我が性の理を見ず、故に無明と云う。如来は面に向って我が性の理を見たまえり。
通解
我らの心の鏡と、仏の鏡とは、まったく同一の鏡であるといっても、我らの(鏡の)裏に向かって、自己の仏性の理を見ないのである。故に、無明というのである。如来(仏)は、(鏡の)表面に向かって、自己の仏性の理を見られるのである。
拝読の手引き
ここでは「心の鏡」という譬えを通し、仏と、迷いの衆生との、相違の本質を指摘されています。 「心の鏡」とは”生命の鏡”と拝することができるでしょう。すなわち、日蓮大聖人は、ここで、迷いの衆生にも、仏にも、まったく同一の「鏡」があるという譬えを用いられているのです。 いうまでもなく「鏡」ですから表裏がありますが、衆生は、この「鏡」の裏面に向かっているから「無明〈迷い〉」というのだと述べられています。「性の理を見ず」とは、仏性をあらわすことができない、ということです。これに対し、仏は「鏡」の表面に向かっているので「性の理」を明澄に映し出すことができ、仏性をあらわすことができるのだと仰せです。以上からおわかりのように、この「心の鏡」”生命の鏡”とは、とりもなおさず、仏法の法門を意味しているのです。 「鏡」の”裏面”とは、簡単にいえば、成仏できない法門、つまり、衆生を幸福にできない宗教、思想といえます。その”表面”とは成仏できる法門、つまり、三大秘法の御本尊のことです。 すなわち、大聖人の仏法こそ、全民衆をしあわせにできる明澄な「鏡」の表の面であり、あらゆる宗教、思想、価値観等は、その裏の面であるともいえるでしょう。人々は皆、幸福と平和を目指し、等しく「鏡」に向かっています。ただ懸命にその”裏面”に向かっている人がなんと多いことでしょう。 私達は、幸いに、入信によって、この向き方を転換できました。「鏡」が”生命の鏡”だけに、表裏いずれを向くかが、人生の幸不幸を分けてしまうという、冷厳な事実を忘れてはならないでしょう。〈単行本「きょうの発心百選」361〉
344
:
taka
:2010/12/01(水) 10:12:05
御書p570・②(p1233・②) 品格ある振る舞い
行住坐臥の四威儀の所作は皆仏の御心と和合して一体なれば、過も無く障りも無き自在の身と成る。これを自行という。
通解
行(歩行すること)住(とどまり立つこと)坐(すわること)臥(横に寝ること)の四威儀の所作は、皆、仏(御本尊)のお心と和合して一体であれば、とがもなく、さわりもない、自在の身となるのである。これを自行というのである。
拝読の手引き
行、住、坐、臥の四つの所作とは、とりもなおさず、人間の起居動作のすべてです。 仏道修行をする者は、常に、自らの一挙手一投足を戒め、放逸、怠惰に陥ることなく、威儀を失ってはならないということから、行、住、坐、臥の四威儀といわれます。 しかし、だからといって、それは決して、戒律主義的に自己の行動を律し、意義をたもつというのが本義ではないのです。透徹した信仰の実践によって、おのずと行動そのものに品格が備わり、威厳がにじみ出てくるということです。言うまでもなく、行動、振る舞いというものは生命の姿勢の表れです。生命の姿勢が御本尊と和合して一体であれば、行、住、坐、臥のことごとくが、御本尊の心にかなった威儀となることは、いうまでもありません。 御本尊を根本として生きるならば、歩いていようと、立ち止まっていようと、すわっていようと、そして寝ていようと、一日二十四時間のどの断面をとっても、それが皆、妙法のリズムにかなった仏界の振る舞いとなるのです。「過も無く障りも無き自在の身」と述べられているように、妙法の世界に生ききっていく者の起居は、過ちも無く、さえぎるものもない、まったく自在の動作となるのです。日蓮大聖人は、この自在の境地を開くのは、真実の法門の修行によると述べられています。 私達はどこまでも御本尊を人生、生活の根本にすえ、強盛な信心を貫き、瞬間瞬間に揺るぎ無い自在の境地を開ききっていきたいものです。私達は、なお未完成の凡夫ですが、この御文を自信の明鏡とし、自己の日々の行、住、坐、臥の実際をを点検しつつ、仏意にかなう信心の確立に励んでいきたいものです。〈単行本「きょうの発心百選」258〉
345
:
taka
:2010/12/03(金) 01:20:33
御書p574・⑪(p1237・⑪) 仏性を開き顕す善知識
因とは一切衆生の身中に総の三諦有って常住不変なり。此れを総じて因というなり。縁とは三因仏性は有りと雖も、善知識の縁に値わざれば悟らず知らず顕れず。善知識の縁に値えば必ず顕るるが故に縁と云うなり。
通解
因とは、一切衆生の生命に総の三諦が、常に変わらずそなわっている。これを総じて因という。縁とは、成仏する因となる三つの性分、正・了・縁の三因仏性は誰にでもあるといっても、信心をすすめる善知識という縁にあわなければ、成仏の境涯を悟ることも知ることも、あらわすこともできない。しかし、善知識の縁にあえば、必ず成仏の境涯をあらわしていくことができる。そのゆえに縁というのである。
拝読の手引き
人間革命、一生成仏を成し遂げていくうえにおいて、全知識に縁していくことが、最も大事な要素であることを強調された一節です。 あらゆる衆生の生命には、仏界の生命を発揮し、あらわしていく原因がそなわっています。しかし、一切衆生に成仏の因がそなわっているといっても、その成仏の境涯を開き、あらわしていくためには、善知識という縁にあうことが必要です。善知識とは、人を仏道修行にみちびき、仏道を成じさせるものをいいます。 価値観の多様化が指摘される昨今、時代は、生命の新たな連帯を求めて、新たな宗教を求めつつあるといえます。最高最善の縁、つっまり、根本の善知識が、人法一箇の御本尊であることはいうまでもありませんが、今、私達の立場でこの御文を拝するならば、御本尊を信受し、人間革命の方途を知った私達こそ、社会のあらゆる人々に、生命の尊厳と、それを確立する具体的実践を教え、うながす、善知識の立ち場にあることを自覚したいものです。 私達の善知識としての実践は、現在においては、社会のあらゆる人々との仏法の対話を通し友好・友情の輪を広げていくことにあるといえるでしょう。 また半面、私達も、自己の信心の向上をめざして、善知識を求めきっていきましょう。ややもすれば惰性に流され、自己との厳しい対決、成長を怠りがちになるのが、凡夫の常です。そのようなときに、常に弱い自己を励まし、たゆみなき精進をうながしてくれる信心強盛な先輩に接することがきわめて大切なのです。〈単行本「きょうの発心百選」262〉
346
:
taka
:2010/12/11(土) 10:42:53
御書p575・②(p1238・②) 根なし草の人生に決別
生死の夢を覚まし、本覚の寤に還って生死の紲を切る可し。今より已後は夢中の法門を心に懸く可からざるなり。
通解
生死〈苦しみ・迷い〉という夢から目をさまして、本有常住の生命観にかえって、苦悩のきずなを断ち切りなさい。これより以後は、夢中の法門(南無妙法蓮華経の三大秘法以外の教え)に心をかけてなならない。
拝読の手引き
この御文は、私達に永遠の生命観に立脚した、正しい人生観をもつべきであることを教えられた一節です。 「生死の夢」とは、悩みや迷いに左右された根無し草の人生であり、小目的の人生観です。 「寤」にかえるとは、逆に本覚であり生命の本質を把握した微動だにしない人生と言えます。私たちが題目を唱え、広宣流布という大目的に向かって日々全力あげて戦い、成仏という絶対不壊の幸福境涯を築くことをいいます。 法華経以前の前四味の教え〈華厳・阿含・方等・般若経〉には成仏という名のみあってその実体は明かされていません。だから「夢中の法門」なのです。成仏について名実ともに明かされたのは法華経であり、末法今時においては、南無妙法蓮華経に尽きるのです。この妙法以外の一切の教えは、所詮「夢中の法門」です。 現在、刹那主義者や、享楽主義者がふえている事実は、現代人の多くが既成の人生観、価値観、世界観に限界を感じ、満足できなくなっている証拠と言えます。生命の本質に対して無知、すなわち、生死の夢を離れることができない悲しい姿――それが現代の偽りのない実相ではないでしょうか。 また、最近の各紙には、創価学会が前から叫び実践してきた「人間性の回復」「二十一世紀は生命の世紀」等々の言葉が見受けられるようになりましたが、学会の実践と違って、各紙の論調にはそれを実現していく具体的な方法、理念的な裏付け等は明らかにされていません。そうした実態をもたない思想、理念は「夢中の法門」であると言ってよいでしょう。苦悩の人生を断ち切る日蓮大聖人の大生命哲学を受持できた私達は、いかに恵まれた人生であるかを痛感せずにはおられません。 私達は、さらに確信をもって目先の小さな目的に左右されることなく、社会の第一人者として成長し、妙法の偉大さを実証していきましょう。そのことが、この御文を身読することになるのです。そして、ゆうゆうと人生を闊歩していきましょう。(単行本「きょうの発心百選」150)
347
:
taka
:2010/12/13(月) 10:27:38
御書p576・⑧(p1331・⑧) 病める文明を蘇生する宗教
此の時仏出現し給いて、仏教と申す薬を天と人と神とにあたへ給いしかば、燈に油をそへ、老人に杖をあたへたるがごとく、天神等還って威光を増し勢力を増長せし事成劫のごとし
通解
(果報が薄れて三災七難の出現した)住劫の時に、仏が出現されて、仏教という薬を、天と人と神とに与えられたので、ちょうど消えいらんとしていた燈に油を添加し、歩行の難儀な老人に杖を与えたように、天神等がかえって威光を増し、勢力を増長したことは成劫の時代のようである。
拝読の手引き
成劫とは一つの世界の始まり、生成の時代であり、住劫とはその世界が完成の状態から衰退へと向かう時代をさしています。衆生も国土も、その生命の力が弱まり、さまざまな病がさまざまな分野に噴き出てきている――その時に仏が出現して、一切の存在に、活力源ともいうべき仏教という良薬を与えたのです。 生命の暗き重たき疲労を除きいやすものが仏教であり、一切の生命を生きいきとよみがえらせるものこそ、仏の良薬です。 今日、文明は病んでいます。いたるところに矛盾があり、人の心もまたバラ色の未来像を失って、いいしれぬ空虚感におおわれています。人の心だけでなく、国土たる環境世界までも、疲弊の悲しき色を見せています。文明論的に、また国土論的に入っても、生命の法が、真剣に探求されねばなりません。 個人の生命についていえば、濁世の波を飲んで生命を損減し、自身の所行でますます福運を消している一人ひとりを蘇生させるものは、妙法の力しかありません。生命が弱まってにぶい光を放つところから一切の悪も不幸も起こってくるものです。妙法の力用に、一切の人びとが気付くべき時代相というべきではないでしょうか。 ともあれ、福運あって仏法を信受できた私達は、生命の疲れを除く良薬の存在、そしてそれを服する努力を常に忘れてはなりません。〈単行本「きょうの発心百選」583〉
348
:
taka
:2010/12/15(水) 11:16:47
御書p582・③(p1337・③) “世間の眼”の自覚
法華経の第四に云く「仏滅度の後、能く其の義を解せんは、是れ諸の天人世間の眼なり」等云々。日蓮が法華経の肝心たる題目を日本国に弘通し候は、諸天・世間の眼にあらずや。
通解
法華経第四の巻、宝塔品にいわく「仏が涅槃した後に、よく法華経の哲理を領解するものは一切世間の眼目である」と。日蓮が法華経の肝心である南無妙法蓮華経を日本国に弘めることは、諸天・世間の眼ではなかろうか。
拝読の手引き
御本尊をたもち、生命哲理を研鑽し、妙法を弘めていくということは、全社会の指導者の資格をもったことになる、と教えられた一節です。 戦後の日本がその行動原理としたものは経済至上主義でした。それに科学技術の盲目的信仰が片棒をかつぎ、日本はやみくもに、営利第一主義で、エコノミック・アニマルの道を突き進んでまいりました。たしかに、物の生産においては自由世界第二位という成果をあげ、世界に、冠たる経済大国にのしあがることができました。 しかし、物の大量生産の裏側では、かけがえのない宝が失われつつあります。清澄な空気、青い海、澄んだ川、緑の樹木といった、心の安らぎを与えてくれる生活環境が次々と奪われています。それとともに、精神的退廃も進展しつつあり、深刻な問題となっているのです。 人々は物の豊かさだけが幸福の指標ではないことにようやく気づき、やっと”生きがいとは何か”ということを模索し始めたのです。ところが、生きがい論の特徴はその専門家がいないことだといわれています。 創価学会はもともと、人生の生きがいを求める人々によって生まれた世界です。事実、私たちは自己の全生命を燃焼させるに足る偉大なる仏法をたもち、広宣流布という目的に向かって日日充実した生活を送っています。 生命の充実こそ、真の幸福である以上、私達こそ、最高の生きがいを感じているといえましょう。私達は、生命というあらゆる現象の本源を教える指導者として、心の飢えを満たすものは妙法であることを社会の人々に知らしめていく使命をもっています。そのためにもさらに人格をみがき、仏法を深く学んでいきたいものです。(単行本「きょうの発心百選」109)
349
:
taka
:2010/12/17(金) 10:10:45
御書p585・①(p1340・①) 赤子の口に乳を注ぐ母の慈悲
今日蓮は去ぬる建長五年四月二十八日より今年弘安三年十二月にいたるまで二十八年が間又他事なし、只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり、此れ即母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり
通解
「今、日蓮は去る建長5年(1253年)4月28日から今年弘安3年(1280年)12月に至るまで、足かけ28年の間、他のことは一切なく、ただ妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れようと励んできただけである。これはちょうど、母親が赤子の口に乳をふくませようとする慈悲と同じである」(同p585、通解)
拝読の手引き
日蓮大聖人のご一生が、終始一貫して慈悲のお振る舞いであったことが拝せます。「二十八年が間又他事なし」の確信の、なんと私たちに勇気を与えてくれることでしょう。 数時間おきに、昼も、真夜中も関係なく、乳飲み子に乳をふくませることは、実に大変な労力です。睡眠不足と戦いながらの授乳を見ると、母というものは、かくあるべきものか、の思いに至ることもあります。「慈しみ育む」という表現がピッタリします。 大聖人のお弟子の訓育にしても、折伏教化の果敢なるお振る舞いにしても、民衆を幸せにせずにおかない厳父の叱咤にしても、権力者への痛烈な破折・糾弾にしても、そこには一切衆生の「異の苦」「同一苦」を「悉く是れ日蓮一人の苦」と受け「日蓮は泣かねども涙ひまなし」という大慈大悲のお心情の発露がありました。 ひるがえって、私達の立場で考えてみますと、例えば友の幸せをねがい、唱題に励み、令法久住の人材たらんと、切磋琢磨を誓い合う日々の学会活動の中に、大聖人のご精神がにじみ出ていると思うのです。また、健康的で明るい家庭を建設し、信頼厚い力ある人となって、地域へ、地域へと伸びゆくことともいえましょう。それが家庭と個人を社会に直結させ、広宣流布の事実相を示すことになるからです。 〈単行本「きょうの発心百選」686〉
350
:
taka
:2010/12/18(土) 10:07:13
御書p587・⑧(1342・⑧)信仰人としての根本姿勢
涅槃経に云く「一切衆生異の苦を受くるは悉く是如来一人のくなり」等云々。日蓮云く、一切衆生の同一苦は悉く日蓮一人の苦と申すべし。
通解
涅槃経では「一切衆生が、さまざまな苦しみを受けるのは、ことごとく如来(仏)ひとりの苦である」等と説いている。日蓮がいうには、一切衆生の苦しみは、悉く日蓮一人の苦しみといわねばならない。
拝読の手引き
一切衆生の苦しみを、ご自分の苦しみとして、民衆を救済されようとする大聖人の大慈悲の気持ちがふつふつと感じられる御文であり、信仰人としての根本精神を示されたものと拝することができます。 慈悲の一念というのは他人の苦しみを自分の苦しみと感ずるところに生まれてくるのではないでしょうか。そこに、その苦しみをともに解決しようという気持ちが起こり、そして実践へと結びついていくのです。ここに宗教的実践活動の根源があり、信仰人としての本来の姿があるのです。 考えて見れば、創価学会の活動は、この大聖人の精神を根本精神として展開されてきたものです。あらゆる人々の苦しみを自分たちの苦しみと感じ、世界から不幸という二字をなくすために戦ってきたことに、私たちは大いなる誇りを感じたいものです。 非常に残念に思うことは、現在の社会には、他人の苦しみを自分の苦しみと感じていこうとする姿勢が欠けていることです。現在、私達が直面しているさまざまな問題も、この他人の苦しみを自分の苦しみと感じないところに遠因があるように思えます。 私達は、大聖人のように、一切衆生の苦しみを、自分の苦しみとしていくことはできないかもしれません。しかし、せめて私達が日常生活で接する身近な人達の苦しみは、自分達の苦しみと感じていきたいものです。そこに、各地域における人間の連帯が築かれ、その総和として広範な大衆運動が展開されるのです。 この意味からも「一切衆生の同一苦は悉く是日蓮一人の苦」との仰せは、私達にとって非常に大切なことを教えておられるのです。このことを深く銘記して、この根本精神を忘れず生涯信仰人として、大聖人の仏法に生ききっていきたいものです。(単行本「きょうの発心百選」330)
351
:
taka
:2010/12/29(水) 19:09:56
御書p588・⑱(p1343・⑱) 仏法流布の原理
月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり、月は光あきらかならず在世は但八年なり、日は光明・月に勝れり五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり
通解
月は西から東に向かう。月氏〈インドのこと〉の仏法が東へ流れるべき相である。日は東から出る。日本の仏法が月氏へかえるべき瑞相である。月はその光が明るくはない。それと同じように月氏の仏法〈釈迦在世の正法〉がその救済の光を放ったのはただ八年にすぎない。日はその光明が月にすぐれている。その光明のすぐれた日光のごとく、太陽の仏法が末法の長き闇を照らすべき瑞相なのである。
拝読の手引き
釈迦仏法と比較して、日蓮大聖人の仏法がはるかにすぐれていることを明かし、この日輪の仏法が、東洋〈さらには全世界〉の不幸の人びとを救っていくことを予言された有名な一節です。 人が信仰の心を失い、物質、富を第一義とし、もしくは考え方の基底に置く風潮が強い世の中。人間性の無視、人間疎外の世の中。信頼の欠如と憎悪、断絶に象徴される人間関係。戦火、災難の絶えない私達人間の世界。貪、瞋、癡、慢・疑が盛んで、五濁の強い流れに押し流されていく末法の時代。この末法・五五百歳の長い闇を照らし、人類の心の幸せの道を指し示す大光明こそ、三大秘法の南無妙法蓮華経の仏法なのです。 昭和47年10月16日には「正本堂久遠の灯点火大法要」が盛大に営まれました。人びとの無明の闇を照らし晴らし、煩悩の薪を焼いて(悟り、幸福)の知恵の灯をあかあかと燃え上がらせる妙法を象徴する「灯」――この久遠の灯・妙法を、時代の闇、人の心の無明に点火すべく、まず自身の生命に燃え上がらせ、多くの人を善導し、法灯を永遠に守り、発展せしめていきましょう。令法久住は各人が伝持の人と成長することで決まることを自覚して――。〈単行本「きょうの発心百選」495〉
352
:
taka
:2011/01/06(木) 11:12:05
御書p589・②(p1334・②) “太陽の仏法”の輝き
月は光あきらかならず、在世は但八年なり。日は光明月に勝れり、五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり。
通解
太陽にくらべ月の光は明るくない。月にたとえられる釈迦仏法は、釈迦の在世においては法華経が説かれた、ただ八年の間、輝いただけである。日の光明は月よりすぐれている。それは、太陽にたとえられる日蓮大聖人の仏法が、五五百歳〈末法〉の長い闇を照らし晴らしていく瑞相である。
拝読の手引き
ここでは、日蓮大聖人の仏法が、釈迦仏法などはるかに及ぶことのできない、すぐれて偉大な法門であることを明言されています。 まさに、日蓮大聖人の仏法と釈迦仏法の勝劣は、法自体の威光の上に明らかです。星の輝きも月の光も、太陽の出現によって消えうせていくように、日蓮大聖人の太陽の仏法の登場によって、月のごとく、星のごとき法華経をはじめとした一切の釈迦仏法の光明は、消えていくのは当然です。 仏教の体系が釈迦に源を発することは、歴史上明らかなことですが、日蓮大聖人の仏法をその釈迦仏法の範囲でみていくことは大きな誤りとなります。御義口伝をはじめ、大聖人の仏法哲理の真髄にふれるとき、それが釈迦仏法の延長線上にあるかにみえながら、実は、そこに、釈迦仏法とは明瞭に一線を画した、まったく新しい大哲理が展開されていることに気づきます。 教学を研鑽する場合など、複雑難解な釈迦仏法の教義に頭を痛めることもあるとは思いますが、私達は常に、日蓮大聖人が身命をかけて打ち立てられたこの偉大なる太陽の仏法への確信を深めつつ、その文底仏法の立場から、釈迦仏法の体系をも悠然と学び、大聖人の仏法の卓越した哲理をあらゆる角度から証明しきっていきたいものです。 地上の闇を照らす太陽が一つであるように、人類の闇を照らしていく太陽の仏法は、未来永遠にわたって大聖人の仏法以外にありません。その妙法の威光は、いま、広布爛熟の時を得て、ますます輝きを増しています。 人類の新しい夜明けです。人間勝利の新世紀の開幕です。私達は、この”時”にめぐりあえた喜びをかみしめつつ、誉れ高い先駆者として自らがわかちもつ使命の道を、勇敢にたくましく切り開いていきたいものです。〈単行本「きょうの発心百選」209〉
353
:
taka
:2011/01/07(金) 13:06:32
御書p640・⑭(p1519・⑭) 生命の歓喜を伝えよう
法を聞き歓喜し讚めて乃至一言を発す、則ち為れ已に一切三世の仏を供養するなり。
通解
法を聞いて喜び、ほめて、一言をも発すれば、すでに一切の三世の仏を供養することになるのである。
拝読の手引き
法華経方便品の文です。妙法は、三世十方の諸仏が悟りを開いた根源の法であり、宇宙を律する法です。諸法の王であり、諸仏が胸中深く、秘し持っている法門です。 諸仏がこの世に出現することは、経典に、きわめて長遠な時期にもまれなことであると説かれています。世に出たからといって、この妙法を説くとはかぎりません。人界に生を受け、この法を説く仏に出会うということがいかに至難なことか、およそ想像を絶する稀有なでき事です。法に接して真剣に求道の心を燃やし、受持、実践する人は、これまた、ひじょうに少ないと経典は明かしています。 三世の諸仏が護念している妙法を信受して、法の偉大さ、わが身の福運に、歓喜の叫びをあげる。すなわち、仏法対話を行うことは、一切の仏を供養することになり、すばらしい福運がますます身につき、人間として最高の人生を歩むことができるのです。 仏法対話は、信心の歓喜、生命の歓喜を、まだ仏法を知らない人に伝えることです。道理を示し、偏見と迷いを除くことは不可欠ですが、単なる理屈を述べたてる会話とは決定的に違います。大きな慈愛の一念に満ち、それがそのまま歓喜の躍動する誠実な生命となって、相手の胸を打つ――この生命と生命の崇高な対話が仏法対話であることを忘れてはならないでしょう。 ”人として生を得てよくぞ仏法に巡り会うことができた””友よ、あなたにも生命の宝塔を開き築いてもらいたいのだ”という誠実な思いが、体内に脈打つとき、仏法の対話は開花、結実を見るのです。〈単行本「きょうの発心百選」607〉
354
:
taka
:2011/01/10(月) 10:05:20
御書p708・③(p1554・③) 帰命とは
御義口伝に云く南無とは梵語なり此には帰命と云う、人法之れ有り人とは釈尊に帰命し奉るなり法とは法華経に帰命し奉るなり
通解
南無妙法蓮華経について、日蓮大聖人の御義口伝には、次のように仰せである。 「南無」とは梵語であって、これを漢語に訳せば「帰命」という。その帰命する対境、対象に「人」と「法」とがある。「人」とは、文底の釈尊即人本尊たる日蓮大聖人である。「法」とは末法の法華経であり、法本尊であるところの南無妙法蓮華経である。すなわち、人法一箇の大御本尊に帰命することが、真実の中の真実の帰命なのである。
拝読の手引き
南無ということは、梵語(サンスクリット)である。日本語に訳せば、現代に約すならば"南無"という意味は帰命ということを言うのです。昨年、インドを訪問しました。インド人はあいさつする時に合掌して「ナマステ」と言います。これは梵語の音調というか、南無の語源になっているように考えられるのです 「この釈尊とは人本尊を意味します。すなわち、日蓮大聖人に帰命し奉ることをいうのです。帰命に「人法」があると訳すのですね。法とは法本尊、すなわち南無妙法蓮華経に帰命することをいうのです。人法一箇ですから、御本尊に帰命することが真実の帰命であり"南無"なのです。南無妙法蓮華経が宇宙の本源であり、そこに我々が帰命する。これは当然なことです」「妻が夫に帰命する姿もあります。恋人が恋人に帰命する姿もあります。昔の家臣は主君に帰命した姿です。そういう姿では、絶対の幸福とはいえない帰命の姿です。人生にとって、本源に帰命する姿は何かといえば、大聖人に帰命し、南無妙法蓮華経に帰命する事のみが最高の帰命であり、幸福の源泉になってくるという意味です。(大白蓮華2009−11師弟の「御義口伝」講義)
355
:
taka
:2011/01/11(火) 10:01:00
御書p708・④(p1554・④) 帰命とは
又帰というは迹門不変真如の理に帰するなり命とは本門随縁真如の智に命くなり帰命とは南無妙法蓮華経是なり」
通解
又「帰」というのは、迹門不変真如の理に帰するのである。「命」とは本門随縁真如の智に命くことなのである。南無妙法蓮華経は、宇宙本源の絶対真理である。ゆえに、妙法を唱えることによって、宇宙の本源に合致できうるのである。したがって、不変真如の理に帰したことになる。そして、その偉大なる妙法の力が、わが生命活動に、生活の上に、顕現してくるのである。これ随縁真如の智に命いたことになるわけである。結局、帰命とは、南無妙法蓮華経自体のことなのである。
拝読の手引き
「帰命の"帰"と、帰命の"命"とを分けていらっしゃるのです。帰命の"帰"とは、『迹門不変真如の理に帰する』ことを言うのです。この御書を拝読すると、御書それ自体は"不変真如の理"です。絶対的真理ですから。したがって、また永久に変わらざる、大聖人の大哲理という真如の理です。そこに帰するでしょう。今、我々は、一生懸命に拝読しようとしていることは、"帰"しているということです」「"命"とは「本門随縁真如の智に命くなり」、つまり、"随縁真如の智"というのは、この"不変真如の理"である御書をば、信心、それから我々の智慧によって会得して、自分自身の生活の源泉、生命活動の源泉にしていけるのです。したがって、これが"命"です」「ここにマイクロホンがあります。マイクロホンそれ自体の原理は、発声された音調を拡大するというものです。これは、"不変真理の理"でしょう。それを我々が現実に利用していくということは"随縁真如の智"に命いたわけなのです」「分ければ"不変真如の理"に帰し、そしてまた、"随縁真如の智"に命くことをいうけれども、それは理論的に言われた次元です。南無妙法蓮華経それ自体が、すでに帰命なのです。題目を唱えることは、全部、宇宙の本源に合致することであり、生活の上に、生命活動の上に発動していくという意義なのです」(大白蓮華2009−11師弟の「御義口伝」講義)
356
:
taka
:2011/01/13(木) 12:48:24
御書p708・⑤(p1554・⑤) 生命の実体
釈に云く随縁不変・一念寂照と
通解
釈には「随縁不変・一念寂照」とある。随縁真如の智も、不変真如の理も、共に実在しているのが、生命の実体であり、本質なのである。これを妙法というのである。これすなわち、三大秘法の南無妙法蓮華経である。この御本尊に帰依することによって、絶対的幸福境涯たる成仏が叶うのである。
拝読の手引き(池田先生の指導)
随縁とは随縁真如の智である。不変とは不変真如の理である。一念とは瞬間の生命を指す。寂照に寂とは静を意味し、照とは照り輝く、動の意味となる。瞬間瞬間の生命活動が大宇宙のリズムに合致し、妙法に照らされた境涯、つまり絶対的幸福境涯をいう。すなわち、随縁真如の智、不変真如の理を説く法華経(御本尊)を信ずることによって、わが生命の上に、仏界を湧現することを示している。(御義口伝講義上p50)
357
:
taka
:2011/01/14(金) 13:09:33
御書p708・⑤(p1554・⑤) 色心不二
又帰とは我等が色法なり命とは我等が心法なり色心不二なるを一極と云うなり 釈に云く一極に帰せしむ故に仏乗と云うと
通解
又「帰」とは、我々の色法を意味する。「命」とは、我々の心法を意味するのである。この色法すなわち肉体・物質と、心法すなわち精神・心の働きが不二であると説く、日蓮大聖人の色心不二の生命哲学こそ、最高唯一の哲学なのである。この日蓮大聖人の、大宗教に帰依することによって、成仏の境涯、すなわち、色心ともに、絶対の幸福確立をなすことができるのである。
拝読の手引き(池田先生の指導)
「帰」とは、絶えず新陳代謝して宇宙に還元されていく肉体であり、色法をいう。「命」とは心法のことである。絶えず、宇宙のリズムに冥合してゆこうとする作用をいう。この色心不二の生命哲学が、最高の大哲理なりとの日蓮大聖人の御確信であられる。「色」とは、目にみえるもの、物質、形質、あるいは肉体を意味する。「心」とは物質にあらざるもの、性質、性分、あるいは精神、内在する力等を意味する。 唯物思想は、物質の根源であり、物質中心主義である。唯心思想は、精神が本源であり、物質は、その幻影に過ぎないとする思想である。共に、ある一面の真理を説いたものといえよう。しかし、部分観は、部分観としての意義をもつだけである。部分観をもって、全体観とすることは、はなはだしい誤りと言わざるを得ない。生命それ自体は、唯心でも、唯物でもない。思うに、現代の哲学においては、今日に至るまで、生命について、幾多の議論が展開されてきた。だが、なんら根本的解決はなされていないのである。 もはや、不可思議なる生命の実体を、唯物、唯心で見ようとする時代は過ぎ去った。もしも、このような思想で論ずる人ありとせば、過去の死滅せる思想に執着する、哀れな人にほかならない。 それは結論していえば、生命は、「色心不二」なのである。これこそ、現代の哲学、生物学、医学等々、すべてが帰趨していく事実なりと訴えるものである。とくに、生命の問題と密接な関係をもつ、医学の分野において、そうした傾向が顕著ではないかと思う。「精神身体医学」が最近とみに叫ばれるようになってきている。これも一つの好例と考えられる。これは、病気の原因を、単に肉体だけに限るのではなく、心にも原因を求めようとする推移である。こうした考え方は、仏法では、すでに三千年前から説いてきた。 一極とは、いま述べたとおり、最高の哲学をいう。仏乗とは、一仏乗のことである。すなわち成仏の境涯をいう。妙法という、最高の哲理、大思想を実践してのみ、永遠に崩れざる幸福境涯を開くことができるとの言であられる。 低級哲学、偏頗な思想を基にすれば、必ず矛盾を生じ、混乱と不幸をもたらしてしまうものである。世界の大部分の人々は、真実の妙法の大哲理を知らない。その証拠に、社会は不安定であり、世界は動乱の連続なのである。なお、個人は主体性を失い、行手を失い、無価値の人生に終始しているといえよう。 この文こそ、天台の文を引いての、最高峰の大思想、永遠不滅の大哲学はこれなりとの、日蓮大聖人の宣言なりと拝するものである。(御義口伝講義上p69)
358
:
taka
:2011/01/15(土) 10:37:40
御書p708・⑥(p1554・⑥) 広宣流布は必ずできる
又云く南無妙法蓮華経の南無とは梵語・妙法蓮華経は漢語なり梵漢共時に南無妙法蓮華経と云うなり
通解
又、仰せには、南無妙法蓮華経の「南無」とは梵語であり、妙法蓮華経は漢語である。梵漢共時に南無妙法蓮華経というのである
拝読の手引き(池田先生の指導)
「世界の広宣流布は必ずできるということです。大聖人の仏法に偏頗はないという御文です。梵語、漢語、日本語が、御本尊の中に全部入っています。したがって、日本だけの仏法ではないということです。御本尊を拝するならば、梵語もあります。右端、左端にある梵字は不動明王並びに愛染明王が表されている。漢語も書かれてあるではないですか。梵・漢・日、全部入っているのです」「南無妙法蓮華経の南無は、梵語です。妙法蓮華経は漢語です。『梵漢共時に南無妙法蓮華経』というのだと。したがって、世界の仏法であるとの依文なのです」「南無妙法蓮華経は、永久不変の法であり、究極の音律です。それを翻訳し、題目として唱えていくことはありません。題目は、どこでも南無妙法蓮華経です。題目は瞬時に仏に通じる世界共通の言葉なのです」(大白蓮華2009−11師弟の「御義口伝」講義)
359
:
taka
:2011/01/16(日) 11:32:45
御書p708・⑨(p1554・⑨) 声仏事を為す
妙とは法性なり法とは無明なり無明法性一体なるを妙法というなり蓮華とは因果の二法なり是又因果一体なり 経とは一切衆生の言語音声を経と云うなり、釈に云く声仏事を為す之を名けて経と為すと、或は三世常恒なるを経というなり、法界は妙法なり法界は蓮華なり法界は経なり蓮華とは八葉九尊の仏体なり能く能く之を思う可し。
通解
妙法を、無明、法性に約して説けば、妙は法性であり悟りである。法は無明であり、迷いを示す。したがって、妙法というとき、すでに無明法性一体であることがあらわされている。蓮華とは、因果の二法を示し、因果一体、すなわち因果俱時をあらわしている。 経とは一切衆生の言語音声をいうのである。しかして、章安大師が「声仏事を為す之を名けて経と為す」といっているように、南無妙法蓮華経こそ、最高の経なのである。また、生命が、過去、現在、未来の三世にわたって、永遠に続いていくことを経というのである。所詮、大宇宙も、わが生命も、森羅万象ことごとく妙法であり、蓮華であり、経なのである。宇宙生命の根源のことを、妙法蓮華経というのである。この中で、蓮華とは、八葉九尊という形式で示されている。以上のことを、よくよく思索しなさい。
拝読の手引き
霧が深く前もうしろもよく見えない。自分がどこにいるかも定かではない。行けども行けども濃霧に迷い込むのみ。それが、日が出て、周囲がカラリと晴れ渡る。緑の山も青い湖もはっきり見えてくる。旅人の心も何か明るくはずんでくる……。 同じ場所でありながら、二つの際立った様相を呈する前述の例は、生命の本質、無明・法性の関係性を理解するのに役立つように思います。 迷いの生命といい、悟りの生命といい、そこに違う実体があるのではないのです。一つのものの二相にすぎません。三毒に覆われて自己の本質を知らない凡夫と、己の本質を知った仏も、本来その体は一つなのです。 法性を無明と別のところに求めるのは麤法であり、妙法の考え方ではありません。無明の体をそのまま法性にと転ずる、すなわち、即身のまま、衆生の生命を仏の生命にと変えるのが、即身成仏の仏法たる妙法なのです。苦悩、迷いに満ちた衆生が、妙法に冥合するとき、明るい意欲と豊かな力と知恵がわき出てくるのが、妙法の力なのです。 生命は因果一体です。御本尊は因果一体の当体であり、これに冥合するとき、かくありたいという方向に、即本源的に向かっているのであり、所願満足の因果、宿命転換の因果がはらまれているのです。焦ることはありません。朗々たる唱題を続けましょう。妙法蓮華の当体たる御本尊への絶対の自信と誇りをもって、暑さでゆるみがちな気持ちを、自行化他の実践で引き締めていきましょう。〈単行本「きょうの発心百選」620〉 (池田先生の指導)声仏事を為すということは、南無妙法蓮華経ということなのです。今、御本尊に題目を上げられるということは、声が仏事を為しているのです。だから、本当の経なのです。人に利益を与えているのです。自分自身が自体顕照で楽しい人生を歩んでいけるのです。ですから、人間に生まれたことは最高の幸せなのです。仏道修行が達成できる位があるのです。受け難き人生を受けたわけですから、無駄のない人生にしていかなければなりません」(大白蓮華2009−11師弟の「御義口伝」講義)
360
:
taka
:2011/01/17(月) 10:42:27
御書p709・⑩(p1555・⑩) この通りに私は聞いた
第一如是我聞の事
通解
この通りに私は聞いた
拝読の手引き(池田先生の指導)
「『我是くのごとく聞きにき』何を聞いたのか。それは南無妙法蓮華経によって、永遠の生命が悟れる、南無妙法蓮華経によって成仏できる、大御本尊の力によって、家庭の幸福も、全人類の幸福も確立することができるとということを聞き、実践している。したがって私どもは『法華経の行者』である、こう拝されるのです」「如是とは信順の辞なり、信心ということです。信順の順は、すなわち師資の道成ず。師弟相対です。順はすなわち師匠の言う通りに仏道修行をしていくことを意味するのです。煎じ詰めれば、如是我聞とは信心ということ、師弟不二ということです」(大白蓮華2009−11師弟の「御義口伝」講義)
361
:
taka
:2011/01/18(火) 11:22:00
御書p709・⑭(p1555・⑭) 「如是我聞」の本義
伝教云く法華経を讃むると雖も還って法華の心を死すと、死の字に心を留めて之を案ず可し
伝教大師は「法華秀句」の中で、慈恩の「法華玄賛」の邪義を責めて「法華経をほめたとしても、法華経の真意を知らなければ、かえって法華経の心を死すことになるのである」と打ち破った。この「死」の字に心を留めて考えるべきである。
拝読の手引き(池田先生の指導)
「『死の字に心を留めて之を案ずべし』。ここが大事なのです。御本尊を持っても、大聖人の仰せの通りに信心しなければ、やはり自分の幸福を『死す』ことになってしまうのです」『戸田先生は生前、さまざまな指導をされた。多くの人が『そうは言うけれぢも、現実は……』という聞き方をしていた。私は全部『その通りです』と実践してきました。ある時は、先生は私に『どんな立場にあっても、学会を守れ』と一言おっしゃった。師匠の一言です。たとえ万が一、戸田先生がそのことをお忘れになろうとも、そうおっしゃったことは事実だ。ゆえに、私はそのことを胸に堅く秘めながら、いついかなる時も『その通り』にやってきました。……『その通り』に実行するから『師弟不二』なのです。これが法華経です。これが『如説修行』です。これが『如是我聞』の本義です」(大白蓮華2009−11師弟の「御義口伝」講義)
362
:
taka
:2011/01/19(水) 10:10:24
御書p712・③(p1558・③) 民衆救済の本義
仏の衆生を護念したもう事は、護とは唯我一人能為救護、念とは毎時作是念是なり。
通解
仏が衆生を護念するということは、護とは譬喩品の「唯我一人のみ、能く救護を為す」とあるごとく、日蓮大聖人が一切衆生を救護されることが護念の護である。また念とは寿量品に「常に自ら是の念を作さく、何を以てか衆生をして、無上道に入り、速やかに仏身を成就することを得せしめん」とあるように、大聖人が一切衆生を救おうとされる大慈大悲の一念が護念の念なのであある。
拝読の手引き
御本仏の崇高なお立場、ご境涯に、粛然、エリを正す思いがする一節です。 私達の到底及ばない境涯であるとはいえ、いやしくも仏弟子であることを誓い、民衆救済を願った者であるならば、一歩でもこの境涯に近づくべく、信心の姿勢を厚く強いものにしていきたいものです。 それにはまず、身近なところから出発することです。ブロック長であるならば、ブロックの人達が、朝晩勤行に真剣に励み、仕事に家事にと建設的な一日を送り、立派な信徒となり、福運をつけていくように、祈念する姿勢を強めることです。座談会に成長した姿で出席し、広布の人材に育つよう祈る長の一念の強弱で、組織の構築の度合いも決まってしまうのです。 また、入信して日まだ浅い人も、すでに、大聖人の仏法を受持した人である以上、仏法を知らない人にとっては真のリーダーとしての役割を担っているのです。”天人の眼たれ”といわれていますが、民衆救済のその強い自覚に立って、悩める人、未入信の家族等々までも、護念していく人になっていきたいものです。自分のことで精一杯であるというのが世の中であり、自分の当面の悩みを祈念し唱題するだけでも立派なことですが、さらに一歩進めて、他の心病める人のことまで護念し題目を送ってあげられる人は、仏法の原理にかなって、まことの仏弟子として成長し、大福運をつけられるのです。 いずれにしても”生命力が衰え、生命がすさんだ濁世に生きる人達を救うのは、私達以外にない”との強い自覚に立ち”どうしたら信心の力のわからない人に仏力法力の偉大さをわからせ幸福にしてあげられるか”と心を砕くことが仏道の正しき実践であり、福運の根源であることを銘記すべきです。〈単行本「きょうの発心百選」307〉
363
:
taka
:2011/01/22(土) 12:13:17
御書p712・⑪(p1558・⑪) 廻向
今日蓮等の類い聖霊を訪う時法華経を読誦し南無妙法蓮華経と唱え奉る時・題目の光無間に至りて即身成仏せしむ、廻向の文此れより事起るなり
通解
今、日蓮大聖人およびその門下が、大御本尊に結縁してなくなった人を法華経方便品第二、寿量品第十六を読誦し、南無妙法蓮華経と唱えて追善供養する時、題目の光りが無間地獄に至って、即身成仏することができる原理である。廻向の文はこれより事起こるのである。
拝読の手引き(池田先生の指導)
われわれは、偉大なる日蓮大聖人の大仏法たる、五字・七字の南無妙法蓮華経をもって、供養するものである。どうして、先祖の聖靈の苦悩を救えないわけがあるだろうか。(御義口伝講義上p248)
364
:
taka
:2011/01/23(日) 07:26:51
御書p713・⑭(p1559・⑭) 秘妙方便
文句の三に云く方とは秘なり便とは妙なり妙に方に達するに即ち是れ真の秘なり
通解
文句の第三に次のようにいっている。「方とは秘であり、便とは妙である。妙に方に達する、すなわち、妙法という万法の根源に秘密のうちに達することが、真の秘なのである。
拝読の手引き(池田先生の指導)
私どもが、拝んでいる方便品第2の、その題号に対する御義口伝の解釈です。方便品の"方"とは秘密の"秘"ということであり、"便"とは、妙法の"妙"ということです。すなわち、方便即秘妙であり、方便ということは秘妙方便ということです。妙法蓮華経ということを意味している。南無妙法蓮華経を唱えんがための方便であるということですね」(大白蓮華2009−11師弟の「御義口伝」講義)
365
:
taka
:2011/01/24(月) 11:55:10
御書p714・⑦(p1560・⑦) 秘
秘とはきびしきなり三千羅列なり
通解
秘とはきびしきことをいう。妙法はきびしき大宇宙の法則である。いっさい宇宙の森羅万象には、三千が一つも欠けることなく、きびしく羅列しているのである。
拝読の手引き(池田先生の指導)
「妙法は厳しい大宇宙の法則であり、因果俱時である。おまけもなければ、割引もないのです。これが仏法です。信心しても、本当に信心しきっていない人は、三千羅列した厳しい姿を見せています」「喜んで御書を講義をするのは、菩薩界です。しかし、いやいや講義するのは形式であり、義務で苦しい心の状態です。それは表面に見えない自分の一念なのです。だから『秘』とは厳しいのです。『秘』とは自分の一念であり誰にも分からないからです」「御本尊に題目をあげていくこれは仏界です。しかし、なぜ『秘とはきびしきなり』かというと、秘の一念をたどった場合、例えば同志を嫉妬した場合には、他人には知られなくても、十四誹謗の中の、恨善誹謗、憎善誹謗になります。厳しい話になりますが分かりますね。(大白蓮華2009−11師弟の「御義口伝」講義)
366
:
taka
:2011/01/25(火) 10:07:01
御書p715・②(p1561・②) 源遠長流
根深ければ則ち条茂く源遠ければ則ち流長きが如し
通解
根が深ければ大木となり枝や葉は茂り、源が遠ければ流れが長いようなものである。
拝読の手引き(池田先生の指導)
この文は、実智がいかに甚深無量であるかを譬えたものである。「根深ければ」とは、宇宙の本源たる妙法蓮華経である。「条茂く」とは、森羅万象である。すなわち、妙法によって初めて森羅万象が説き尽くされることをいうのである。また、大御本尊を根本にしたときに、いっさいが福運と転じ、悠々たる人生を生きぬいていけるという事実である。また人間革命が根本となり、それを土台として、漸次、政治革命、教育革命、経済革命にと進み、真の平和社会が築かれることをも意味する。 家屋を造る場合にしても、土台が大事である。土台が深く、堅固であるならば、りっぱな高層建築ができる。所詮、人間革命なき社会改革は、流血の惨事を繰り返すのみであり、それによってつくられた新しい社会も、また幾多の悲惨な犠牲を出して崩壊する。利害による統一は、利害の対立によって破られ、権力による統一は、権力の弱体化と新しい権力者により打ち破られる。人々に共通なものは、ともに「人間」であるということである。すべての人々がこの共通の広場にもどり、そこから出発したときに、人類が心から望む犠牲なき繁栄と、活気にみなぎった世界が現出することを確信する。 また「源遠ければ」とは、永遠の生命ということである。「流長し」とは、永遠の生命を解き明かした真実最高の仏法によって、初めて永遠の幸福を確立することができるということである。 これを、信心に約していえば、大御本尊を信じたものは永久に行き詰まらないということである。すなわち、いっさいの行き詰まりは、真の一字によって打開されることである。社会もまたしかりである。どんなに科学が発達し、工業、経済が成長したからといっても、もっと恒久的な土台であるべき大仏法、大哲理が根底になかったならば、真の幸福、真の繁栄というものは永続しなかろう。 また、これを生活に約して論ずれば、青年期の修行がいかに大事であるかを、示すものといえる。青年時代に苦労し、勉強し、基礎的な力を十二分に蓄えておくならば、その青年は将来において、偉大な発展を遂げていくであろう。 また、戸田城聖前会長は「青年時代にもった理想を、一生涯貫いていく人が、世の中でもっとも偉大な人である」といつも申されていた。いついかなる時でも、勇気と情熱と溌剌たる青年の息吹こそ、いっさいを変化させる根源である。 思うに、青年とは限りなき発展をはらんだ生命活動である。岩にぶつかり、谷間を流れていた水も、ゆうゆうたる大河となり大海に注ぐがごとく、青年の生命は、洋々と開く未来に向っているのである。この大御本尊を持った人のみが永久の青年であり、不滅の若さを誇りうるのである。これ「源遠ければ流長し」ではないか。 また「源遠ければ」とは建設の力であり、開拓する力であり、また草創精神である。いかなる社会、組織も、時代が下り、草創期の苦しみを忘れたときに、その社会なり組織は固定化し、人々は出来上がった世界に安住し、惰性に流され、気力を失い、やがては崩壊に向かっていくということは、過去の歴史が証明している事実である。 永久の発展をしていくためには、いつも若さと力強い建設の息吹がみなぎっていなくてはならない。いつも未来をめざし、現実の一瞬一瞬を、たえざる建設と努力と精進をしぬいていく人々の心の結集が、潑剌とした、しかも和気あいあいたる社会を、永続させる本源なのである。これ、本因妙の精神である。これが「源遠ければ流長し」にあたるのである。(御義口伝講義上p227)
367
:
taka
:2011/01/26(水) 10:59:24
御書p715・⑭(p1561・⑭) 信によって智慧の門に入る
智慧とは一心の三智なり。門とはこの智慧に入る処の能入の門なり。三智の体とは南無妙法蓮華経なり。門とは信心の事なり。爰を以て第二の巻に以信得入という。入と門とは之れ同じきなり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉るを知恵とは云うなり。
通解
智慧とは、一心の三智をいう。門とは、この一心の三智にはいるところの能入の門である。三智の体とは南無妙法蓮華経である。門とは信心のことである。だから法華経第二の巻の譬喩品第三には「以信得入(信をもって入ることを得)」というのである。入と門とは、ともに信心を意味し、同じことである。今、日蓮大聖人およびその門下が信心強盛に、南無妙法蓮華経と唱えるのを智慧というのである。
拝読の手引き
この御文は、方便品第二にある「諸仏智慧甚深無量其智慧門」についての御義口伝のうち「其智慧門」について述べられたものです。 「智慧とは一心の三智」とありますが、三智とは、二乗、菩薩、仏のもつ智慧のことで、これらの智慧によって不幸の因であるあらゆる煩悩を明らかに見、解決することができるといわれています。日蓮大聖人は、それらの三智の本体を南無妙法蓮華経といわれているのです。 では、その智慧を得るものは何か。それは信心であるとおおせです。南無妙法蓮華経の御本尊を信じ、題目を唱えていけば、幸福を創造する一切の智慧を得ることができるのです。このことを「以信得入」または「以信代慧(信をもって智慧にかう)」というのです。 幸福な人生の建設といっても、不幸や悪を、幸福や善に転換し、豊かな価値創造をしていかないと実現できません。その価値創造への智慧は、私達の己心にある仏界の湧現によって発揮されるのです。私達が日夜、勤行・唱題に励むのも、ここにその理由があります。 強い持続力と求道心によって、私達はますます自己をみがき、日々、心ゆくまで唱題に励み、豊かな価値創造で幸福と希望に満ちた人生を送っていきましょう。〈単行本「きょうの発心百選」432〉
368
:
taka
:2011/01/27(木) 10:31:37
御書p717・⑰(p1563・⑰) 一切の濁りを浄化する妙法
我此土安穏なれば劫濁に非ず。実相無作の仏心なれば衆生濁にあらず。煩悩即菩提・生死即涅槃の妙旨ならば煩悩濁にあらず。五百塵点劫より無始本有の身なれば命濁に非ざるなり。「正直に方便を捨てて、但無上道を説く」の行者ならば見濁に非ざるなり。所詮南無妙法蓮華経を境して起るところの五濁なれば、日本国の一切衆生、五濁の正意なり。
通解
妙法を信受する者は「我が此の土は安穏なり」〈寿量品〉とあるように、寂光の国土世間に住しているので、劫濁の影響を免れる。実相無作の仏身なので、衆生濁を離れている。妙法は煩悩即菩提・生死即涅槃を説いたすぐれた教えなので、煩悩濁はない。久遠元初以来、無始無終、三身常住なので、命濁ではない。「正直に方便を捨てて、但無上道を説く」実践者なので見濁ではない。詮ずるところ、これらすべての五濁は、南無妙法蓮華経を信ずるか否かにより、その有無が決まるものであるから、妙法不信の日本国の一切衆生こそまさに五濁にあたる人々なのである。
拝読の手引き
時代、社会、人間の濁りは、結局、妙法に反するところに、深くその源を発することを知るべきです。妙法の正しい知見、豊かな清流がなくなるときに、一切の濁りが生じてくるのです。 妙法とは、宇宙生命の本源の法以外のなにものでもありません。それとの冥合がなくなれば、必然的に、私達一人ひとりの生命にさまざまな障害がでてきます。そして時の経過とともに、それが複雑にからみあい、五濁のすがたに定着するのです。 それは、私達が日々の勤行、仏道の実践、仏法の精神を根本とした生活を欠かさないとき、そうでないときの自己自身を比較し考えてみれば、実感として迫ってくる不動、真実の哲理であることが分かります。 文明の狂った進行、疎外、不信の社会、噴出してとどまるところを知らない煩悩、人生観やものの見方の歪み、生命の濁りといった問題を、根底から解決するカギをにぎっているのが私達であることを確信して、妙法の言論を堂々と展開していきたいものです。〈単行本「きょうの発心百選」488〉
369
:
taka
:2011/01/28(金) 10:46:26
御書p717・②(p1563・②) 如我等無異
「師弟感応して受け取る時如我当無異と悟るを悟仏知見と云うなり」
通解
その信力行力によって大御本尊と境智冥合し、仏力、法力があらわれ、師匠である、日蓮大聖人および大御本尊の生命が、われわれ弟子の身の中に顕現され、ほうべっb品の「我が如く等しくして異なること無からしめんと欲しき」の文のごとく、わが身仏なりとの大確信に立つことができる。これが悟仏知見である。
拝読の手引き(池田先生の指導)
「師とは大聖人、弟とは弟子です。すなわち御本尊を持つ私たちです。感応とは、境智冥合です、信心です。したがって、我々の信力行力で、大聖人、御本尊の仏力法力に感応するのです。その時に、われらと異なることなし、私どもは仏である、我々は南無妙法蓮華経の当体であると仰せです。『当体義抄文段』には、『我ら、妙法の力用によって即蓮祖大聖人と顕るるなり』というもったいない一節があります。戸田先生は、大聖人の御仏智が湧くとも仰せになっています。だから困るわけがないではないですか。そうでしょう、仏と同じになるというのですから」(大白蓮華2009−11師弟の「御義口伝」講義)
370
:
taka
:2011/01/29(土) 08:58:23
御書p720・⑫(p1566・⑫) 今者已満足
妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳骨髄に非ずや、釈には挙因勧信と挙因は即ち本果なり、今日蓮が唱うる所の南無妙法蓮華経は末法一万年の衆生まで成仏せしむるなり豈今者已満足に非ずや 。已とは建長五年四月二十八日に初めて唱え出す処の題目を指して已とは意得べきなり。妙法の大良薬を以て一切衆生の無明の大病を冶せん事疑い無きなり。此れを思い遣る時んば満足なり。満足とは成仏と云う事なり。
通解
妙覚の釈尊は我ら衆生の血肉であり、因果の功徳は骨髄であるとは、師も久遠元初の自受用身、弟子もまた久遠元初の自受用身としてあらわれ、自受用身に約して師弟不二であることを明かされているのである。また釈には、「挙因勧進」とあり、因を挙ぐは則ち本果なりとは、仏の種子を覚知せしめることを成仏というのである。 今、日蓮大聖人がお唱えになる南無妙法蓮華経は、末法一万年の衆生を、ことごとく成仏せしめるのである。どうして「今者已満足」でないといえようか。「已」とは、日蓮大聖人が建長五年4月二十八日、清澄寺において、はじめて唱え出されたところの題目をさして、「已」と意得るべきである。妙法の大良薬をもって、一切衆生の根本の迷い、不幸の根源を除き去り、幸福境涯に住せしめることは、疑いないのである。これを思いやるときに、日蓮大聖人の所願は満たされたのである。また衆生に約していえば、成仏をもって満足というのである。
371
:
taka
:2011/01/29(土) 08:59:42
拝読の手引き(池田先生の指導)
大聖人は「万年のため」「全人類のため」に、立教開宗されたのである。断じて、一部の堕落した特権的僧侶のためではない。 「妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳骨髄に非ずや」 これは、信仰の目的が、あくまで、仏と等しい生命を、確立することにあるとの義である。これは、絶対的幸福及び人格完成ともいえるのである。釈尊といっても、所詮は、われら凡夫の生命を差しており、われら凡夫の仏界を湧現して、人生を楽しみきっていくことに尽きるのである。 「挙因は即ち本果なり」とは、挙因とは成仏を指すからである。そのわけは、三重秘伝抄に「種子を覚知するを作仏と名づくるなり」とあり、挙因とは種子を覚知することを意味するからである。結局、人生の目的とは何か。それは成仏することであり、永遠の生命を覚知するということなのである。 「今日蓮が唱うる所の南無妙法蓮華経は末法一万年の衆生まで成仏せしむるなり」 このなかに一万年とは、正法千年、像法千年というのに対して、いわれたものである。したがって、釈迦仏法のように限界があるのではなく、未来永劫にわたって力のあることを示されたものである。一万とは、必ずしも、一万、二万という厳密な意味でいわれたものではなく、無限であることを示されたものであろう。この万ということばには「みつる」という意味がある。また、報恩抄(p329)には「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし」と仰せられていることからも、大聖人の仏法が不滅の大仏法であることが明らかであろう。 今ここに、末法の御本仏日蓮大聖人は、末法万年の衆生を救わんとの大確信を述べられているのである。 ある特定の期間、一時的に民衆を幸福にすることができる人はいよう。しかし未来永劫にわたって全人類を救い切るとは、仏にあらずんば、絶対に言いえない御確信と拝するものである。日蓮大聖人は、生涯、全民衆救済を叫びつづけられた。その間、大難は、次から次へと大聖人に襲いかかったのであった。しかし、いかなる大難も、御本仏日蓮大聖人の御境界を侵すことはできなかったのである。 日蓮大聖人の、広宣流布へのこの絶対なるご予言こそ、今日の姿なりと強く確信して止まない。釈迦仏法は、大聖人のご出現に依り、虚妄とならなかった。大聖人の仏法は、わが創価学会の出現によって、不虚妄の証明をなしたものといえる。大聖人の御確信、御精神は、化儀の広宣流布、王仏冥合に前進する、われら正信の弟子のみが、ひしひしと感じゆけるものであろう。われらは、この大聖人の願望をば、絶対に、遂行でき得ることを深く信じ、ますます決意を新たに勇猛精進していきたいものである。と同時に、日本国の幸福と安泰のため、かつは、世界の恒久平和確立のため、世の指導者は、今こそ頭を垂れて、大聖哲の言々句々を信受すべきであると絶叫してやまないのである。 「満足とは成仏という事なり」 この段を生活に約し論ずれば、学校を良い成績で修了したことも所願満足といえる。立派な会社に就職できたことも、また所願満足といえる。給料が上り、生活の安定をみたのも所願満足といえよう。有名人になり、人々から尊敬されるようになったことも、また病人が健康になったことも、みな所願満足に通ずる意である。 しかしながら、それらの満足は、相対的な満足なのである。本然的欲求の一部を満たしたに過ぎない。いつ崩れさるかも知れぬ。 絶対的な、根底からの満足、幸福は、結局、成仏以外にはないのである。何ものにも、こわされない、侵されない、幸福境涯。そして常に、瞬間瞬間を楽しみきっていける、生命の躍動、福運。これこそ、生命の奥底からの満足である。この満足の成就は、大御本尊の生命と、わが生命との境智冥合しかないことを銘記すべきである。(御義口伝講義上p299)
372
:
taka
:2011/01/30(日) 09:56:52
御書p721・⑩(p1567・⑩) 慈悲
「大悲とは母の子を思う慈悲の如し今日蓮等の慈悲なり」
通解
「大悲」とは、母親が子を思う慈悲、慈愛の念のごときもので、今日蓮大聖人の慈悲こそ一切衆生をあくまで救いきっていこうという大慈悲なのである。
拝読の手引き(池田先生の指導)
慈悲とは、愛、憎のごとき相対的なものではなく、絶対的なものである。慈とは楽しみを与え、悲とは苦しみを抜いてあげる義をいう。キリスト教で説く愛とは、根本的に違いがあり、自他ともに永遠に救済しきる働きが含まれているものである。しかも、慈悲とは、修行によって得られるものではない。大御本尊を信じ、唱題していくときに、自然と仏の慈悲の境地に立脚し、わが生命のなかに、ほとばしり出るものである。ゆえに、慈悲ほど強いものはない。百万言を尽くしても、慈悲なき言は、相手に感動を与えるものでは決してない。そして、相手を思い、幸福を願っての心からの、言々句々は、その人の心を、根底から揺り動かさずにおかないであろう。いま、われわれは、大御本尊を、即日蓮大聖人と拝し、仏弟子として甚深の慈悲を蒙っているのだ、と確信し、感謝を忘れてはならない。そして、いまだ正法を知らぬ人々に対し、この御本山の功徳を教えてあげることが、私たちの慈悲の行為となっているのである。橋を造ったり、学校に寄附したり、人に親切にしたりすることは、もちろん善であるが、これは、一時的な社会の善に過ぎない。これ小善というものである。また、これらは本来、政治等で解決すべき問題でもある。慈悲は大善である。大善は、根本的に、しかも永久に、最も多くの人の幸福のためにする行為である。したがって、われわれの折伏活動こそ、大善の中の大善であることを、強く強く確信すべきである。現在、社会に最も必要なことは、この慈悲ということである。日蓮大聖人の大慈悲に包まれながら、大生命哲学を学び、生活の源泉としていく以外に、真に、安心立命の人生はない。また、社会も、おたがい慈悲がなければ、まるで闇のようになり、三悪道から抜けることは、永久にできえないことであろう。ために、政治の根底に慈悲がなければ、大衆は断じて救われない。慈悲ある政治こそ、王仏冥合であり、第三文明であり、新社会主義の建設なりと主張しきるものである。(御義口伝講義上)
373
:
taka
:2011/01/31(月) 11:27:59
御書p722・④(p1568・④) 合掌の中に十界互具がある
合掌とは法華経の異名なり向仏とは法華経に値い奉ると云うなり合掌は色法なり向仏は心法なり、色心の二法を妙法と開悟するを歓喜踊躍と説くなり
通解
「合掌」とは法華経の異名である。「向仏」とは、妙法蓮華経にあいたてまつるということである。合掌は色法であり、向仏とは信心であり心法である。色心の二法を妙法蓮華経であると開悟するのを、譬喩品で、舎利弗が歓喜踊躍したと説くのであり、歓喜踊躍とは心法色法一体の姿なのである。
拝読の手引き(池田先生の指導)
成仏の目的たる、また理論上完璧な極理となる、一念三千を説いたのが方便品である。法説周である舎利弗は、この方便品にきて、はじめて生命の本質を覚ることができたのである。そして、経文上では譬喩品にきて、釈尊に対し合掌した儀式をふむわけである。「色心の二法を妙法と開悟するを歓喜踊躍と説くなり」とは、生命哲学の極理であり、智慧第一の舎利弗が、最後に会得したのも、この色心不二の生命哲学以外のなにものでもない、ということである。宇宙、生命の根本は、心でもない、物でもない、色心不二なのである。現在、真の智人、哲人、学者がいるならば、舎利弗の如く、御本尊の前で歓喜踊躍することは、当然であろう。(文庫本「御義口伝講義上(二)p34) (池田先生の指導) きちっと合掌をして、御本尊を見つめて勤行をするのが正しい姿です。真言のいんけい〈指で形をつくり、また、組み合わせて、仏の内証を表したもの〉などと異なり、ありのままの自然の姿は合掌です。御本尊に対しての合掌は最も正しいのです。合掌の「合」は妙である。合掌の「掌」とは法である。妙は仏界、法は九界、九界即仏界とも約せます。ちょうど指は十本です。十の指で、そしてまた掌を合わせる。十界互具を意味するのです。(大白蓮華2009・12師弟の「御義口伝」講義)
374
:
taka
:2011/02/01(火) 12:15:12
御書p723・②(p1569・②) 身も心も動じない
身とは生死即涅槃なり意とは煩悩即菩提なり
通解
「身」の泰然とは、生死即涅槃である。「意」の泰然とは、煩悩即菩提である。
拝読の手引き(池田先生の指導)
私どもは、信心をして、真に泰然(身も心も落ち着いて物事に動じないさま)、快得安穏にならなくてはならない。それが目的であるわけです。 身意泰然を分けた場合に、煩悩即菩提、生死即涅槃になり、「身」の方が生死即涅槃になります。なぜかならば、生死とは苦しみです。苦しみは、生活の上にあらわれるでしょう。だから「身」の法に約すのです。例えば、商売がうまくいかない――苦しみです。だが、それを打開した、福運を持ち、智慧を働かせて、荒波を悠々と乗り切っていけた、勝った、成功した――涅槃です。そして「意」の泰然ということは、煩悩即菩提です。煩悩ということも苦しみですが、どちらかといえば、心の問題になります。その煩悩を、題目の力によって菩提に変え切っていく、宿命転換していく、智慧を湧かせていく、煩悩の鎖にとらわれないで、煩悩を使い切っていく――それは心の問題になるわけです。(大白蓮華2009・12師弟の「御義口伝」講義)
375
:
taka
:2011/02/02(水) 11:02:26
御書p723・⑮(p1569・⑮) 幸福へ自在に廻転
廻転とは題目の五字なり自とは我ら行者の事なり
通解
廻転、宿命転換は、南無妙法蓮華経の、五字七字の題目の力、御本尊のお力によるのである。自とは我ら、御本尊を信じて題目を唱える者のことである。
拝読の手引き(池田先生の指導)
南無妙法蓮華経を唱えていけば、ぜんぶ宿命転換になるということです。回転していくのです。宿命転換です。病気だ。苦しい。治りたい。そこで南無妙法蓮華経と唱えた。すると生命力が湧き、病気も治ってくるでしょう。而自廻転です。題目を唱えることによって、而自廻転できるのです。大きくいえば、戦争を平和に廻転できるのも、妙法の原理です。妙法の而自廻転の原理を根本にしていけばいいのです。(大白蓮華2009・12師弟の「御義口伝」講義)
376
:
taka
:2011/02/03(木) 11:36:00
御書p724・⑥(p1570・⑥) 「妙」の字
鏡に於て五鏡此れ有り。妙の鏡には法界の不思議を浮べ、法の鏡には法界の体を浮べ、蓮の鏡には法界の果を浮べ、華の鏡には法界の因を浮べ、経の鏡には万法の言語を浮べたり
通解
鏡には妙、法、蓮、華、経の五つの鏡があり、妙の鏡には法界の不思議を浮かべ、法の鏡には法界の体を浮かべ、蓮の鏡には法界の果を浮かべ、華の鏡には法界の因を浮かべ、経の鏡には万法の言語を浮かべるのである。
拝読の手引き(池田先生の指導)
非常に深い哲学です。宇宙の森羅万象の実相というものは、物理学者でも、科学者でも、どうしても解明できないものがあるのです。妙法によって感得し、理解するしかないわけです。ロシアの科学者が言っていた。「自分はキリストのような神は信じないが、あまりにも不思議な宇宙、それを形成している本質を神というのだったら、私は信じる」と。全部、不思議です。それを明鏡に映しだすように如実に見つめていける力が南無妙法蓮華経です。(大白蓮華2009・12師弟の「御義口伝」講義)
377
:
taka
:2011/02/04(金) 23:17:40
御書p724・⑮(p1570・⑮) 自身法性の大地
御義口伝に云く、一門とは法華経の信心なり。車とは法華経なり。牛とは南無妙法蓮華経なり。宅とは煩悩なり。自身法性の大地を生死生死と転ぐり行くなり云々。
通解
御義口伝には次のように仰せである。一門とは法華経の信心のことであり、車とは法華経、大白牛車の牛とは南無妙法蓮華経である。また、宅とは煩悩を意味する。自身法性の大地とは、成仏という、永遠の生命を覚知した絶対の幸福境涯であり、生死生死と転ぐり行くとは、その永遠の幸福境涯のうえに立って、いっさいの生活をしていくことである。
拝読の手引き(池田先生の指導)
幸福というものは、絶対に自分自身で築いていくものであって、人から与えられるものではないということです。人から与えられたものは崩れてしまう。いつ、頼る親が死に、夫が死ぬか分からない。現実はあまりにも厳しい。また、時代が変わったために、どれだけの人が不幸になったか。全部、自分自身の智慧、自分自身の福運、それが大事だということでしょう。その福運も智慧も、ともに南無妙法蓮華経によって得られるのです。諸君も、子どもの時は、お母さんやお父さんが面倒を見てくれ、かわいがられ、大事にされ、幸せに暮らしているけれども、やがて結婚したり、あるいは社会に出て、激しい、さまざまな闘争の世界に入るわけです。その時になって、やはり、頼るものは自分です。その自分自身が、最高度に自体顕照して、悠々と力強く、戦い生きていくための力は何か。その源泉は妙法しかないということです。それが「自身法性の大地」という意味です。(大白蓮華2009・12師弟の「御義口伝」講義)
378
:
taka
:2011/02/10(木) 22:43:32
御書p725・⑧(p1571・⑧) 無疑曰信
一念三千も信の一字より起り三世の諸仏の成道も信の一字より起るなり、此の信の字元品の無明を切る利剣なり其の故は信は無疑曰信とて疑惑を断破する利剣なり解とは智慧の異名なり信は価の如く解は宝の如し三世の諸仏の智慧をかうは信の一字なり智慧とは南無妙法蓮華経なり、信は智慧の因にして名字即なり信の外に解無く解の外に信無し信の一字を以て妙覚の種子と定めたり
通解
「一念三千も信の一字より起り」とは、仏界が湧現するのでなければ、一念三千にはならない。仏界は、御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えて、初めて現れるのである。すなわち、信によって一念三千は成り立つのである。また三世のあらゆる仏も、みな御本尊を信じて題目を唱えたからこそ、成道したのである。 信ということは、元品の無明――根本の迷い、すなわち、御本尊に対する迷いを切るのである。そのゆえは「疑い無きを信という」ということで、信の疑惑を断ち切る利剣なのである。解ということは、智慧の別名である。信ずることによって、智慧という宝を買うことができる。三世のあらゆる仏の智慧を買うのは信によるのである。智慧とは南無妙法蓮華経のことである。御本尊を信ずることは、日蓮大聖人の智慧をいただくもとであり、名字即の位である。信と解――御本尊を信ずることと仏をさとることとは一体である。信の一字こそ、妙覚――仏のさとりの種である。
拝読の手引き(池田先生の指導)
信解の信ということは、実に、いっさいの根本なのである。「一念三千も信の一字より起り三世諸仏の成道も信の一字より起こるなり」との仰せは、信ずるということがなければ、仏法は成り立たないことを意味するものである。われわれは、友人を信じ、親を信じ、また自己を信じ、あるいは本を信じ、人の話を信じ、あるいは、新聞に報道されたことが事実であると信ずる。信じたり、信じなかったりすることが現実の生活であろう。生活から、信ずるということを取り除いたら、あとになにが残るだろうか。社会というものの本質が、おたがいに信頼し合い、尊敬しあって、初めて成り立つものである。 しかしながら、現実の社会は、あまりにも不信と欺瞞とに満ち満ちているではないか。そこに、いっさい信ずべきものを失った青年は、社会をのろい、血肉を分けた親兄弟をのろい、退廃的になり、あるときは爆発的に、みずからのエネルギーを快楽のために発散する。もし、彼が、自己をも信ずることができなくなれば、もはや、生きる張りあいを、いっさいなくしてしまうことであろう。なにごとも、信が根本であることがうかがえるものだ。社会を改革しようとする息吹も、芸術家が偉大な芸術をうんでいくのも、科学者が偉大なる発見をするのも、信あればこそである。一般の学問においても、認識するということの第一歩は、すべて、信ずるということから始まり、実験証明によって初めて正しく認識できうるのである。況や、仏法の根本においては、必ず信の一字より起こることは、当然の中の当然の理なのである。 人生の幸福の源泉たる智慧は、仏法の「以信代慧」「以信得入」という原理が示すごとく、結局は、三大秘法の大御本尊に対する強き信をもって智慧に代え、正法に対する信をもって幸福境涯を築く以外にないことを知らなければならない
379
:
taka
:2011/02/10(木) 22:44:41
しかし、この信の対境を誤れば、また不幸におちいらざるをえないのである。妙楽大師いわく「たとい発心真実ならざる者も、正境に縁すれば功徳なお多し、正境に非ずんば、たとい偽妄無きもまた種とならず」と。すなわち「鰯の頭も信心から」というような、浅はかな宗教観は、まったく非科学的であり、迷信であり、邪見であることを知るべきである。あくまでも仏法は、文理現の三証具備でなければならない。 いま、われわれの信心の姿を見て、愚かな人は、他の宗教と同じと思い、よく「盲信」であると批判する。しかし、彼らは、われわれが常に大聖人の深遠なる生命哲学を追求していることを知らない。その幽玄でしかも明晰なる大哲理に、われらは、全生命からほとばしりいでる喜びの活動をしているのである。ある哲学者は、「信仰とは、理性の延長なり」といった。まことに、深き思索の結果の叫びであろう。 戸田城聖前会長は、また「理は信を生じ、信は理を求める。求められた理は、さらに心を深めるのである」と述べられている。この深遠なる道理をわきまえる実践をば知るならば、どうして「盲信」などと批判できようか。あえてそう批判する人たちこそ、いっさいの生活に、活動に、信ずるという純朴な人間性を喪失してしまった、哀れな存在であるといわれてもやむを得なかろう。 次に「信」と解」の関係であるが、信とは、大御本尊を信ずること、生活活動への源泉を意味する。解とは、実際生活、活躍にあって、具体的に働く智慧の意味である。今、われら仏の軍の、一日も早く、王仏冥合の実現を期しゆこうという、祈り、一念、一心は、信である。その戦いの完遂への、一歩一歩の具体的な構想、企画、活動等は、解ととるのである。 「信は無疑曰信とて疑惑を断破する利剣なり」――疑い無きを信という。三大秘法の大御本尊の大功徳を絶対に信じ、日蓮大聖人の色心不二の生命哲学を最高唯一と信ずることが、仏法の根本である。 たとえ一時的には罰を受けようが、病気になろうが、家が焼けようが、どんなことがあってもご本尊を疑わない。大聖人の仰せどおりに信心修行をまっとうしきる――これが無疑曰信であり、その信心をしている人が成仏できうるのである。少し世間から批判されたり、迫害を受けたり、そんなことで疑ってはならない。それでは信が弱いのであり、薄いのである。一生涯、永遠に御本尊をだきしめてはなさない。どんなことがあっても、題目を唱えきっていく、これが無疑曰信の信心といい得るのである。 さて仏法においては、以上のごとく、信ずるということが根本であり、そこに何等の疑問もない。これはひとえに、仏法が文証、理証、現証の上に立って、絶対にゆるぎない大哲学であるからである。 西洋の哲学者たちっが、本来ありもしない「唯一絶対の神」をめぐって、どれほど深刻に悩んだかをうかがい知ると同時に、文証、理証、現証に照らして一点の疑わしきところもない大生命哲学を奉ずるわれわれが、いかに恵まれた人生であるかを、痛感せずにおられないではないか。(御義口伝講義上p412)
380
:
taka
:2011/02/12(土) 10:52:36
御書p726・④(p1572・④) 師の大慈悲
御義口伝に云く、父に於て三之れ有り、法華経・釈尊・日蓮是なり。法華経は一切衆生の父なり。この父に背く故に流転の凡夫となる。釈尊は一切衆生の父なり。この仏に背く故に、備に諸道を輪ぐるなり。今日蓮は日本国の一切衆生の父なり。章安大師の云く「彼が為に悪を除く、すなわち是れ彼が親なり」と。
通解
御義口伝には次のように仰せである。捨父逃逝の父とは三通りに読むことができる。法華経と釈尊と日蓮大聖人とである。法華経は一切衆生の父である。この父に背くから九界をさまよう凡夫となるのである。釈尊は一切衆生の父である。この父なる仏に背いたものは、諸の悪道を輪廻したのである。今末法においては、日蓮大聖人が御本仏として、日本国の一切衆生に対して父の徳を備えておられるのである。章安大師は「民衆のために、不幸の根源である邪宗を取り除いてあげる人こそ真の親である」といっているが、末法に入って邪宗を徹底的に折伏されたのは、日蓮大聖人の一人であったではないか。
拝読の手引き(池田先生の指導)
ここは、父子一体、師弟不二の大慈悲を説かれたところです。日本国の一切衆生は子の如し、日蓮は父のごとしです。縁に粉動されたり、退転したりした人に対して、ああ、かわいそうだ、もっと言っておいてあげればよかった、なんとか救ってあげたかったと思われる仏の御心境であり、御心情なのです。(大白蓮華2009・12師弟の「御義口伝」講義)
381
:
taka
:2011/02/13(日) 10:54:45
御書p726・⑫(p1572・⑫) 煩悩の火を智火へ昇華
妙法に逢い奉る時は八苦の煩悩の火、自受用報身の智火と開覚するなり。
通解
妙法にあい奉るときは、八苦の煩悩の火が転じて、自受用身の智火となり、悟りとなるのである。
拝読の手引き
八苦とは、生・老・病・死の四苦に、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五盛陰苦の四苦を加えたもので人生の苦悩を、見事に分析、表現したものです。 生・老・病・死のほか、愛するものと別れなければならない苦しみ、恨み憎むものと合わなければならない苦しみ、求めても得られない苦しみ、心身に執着していることから生ずるあらゆる苦しみ……私達の生活は、そういった悩み、苦しみに満ちみちています。 人間が生き続ける存在である以上、この八苦の煩悩は消えません。この煩悩の火を消し、欲望を断滅することは、そのまま、人間の死を結果するだけです。八苦の煩悩は、人間の生存と、本質的に、分かちがたく結びついているのです。人間というものは、煩悩の当体なのであって、これを滅し去ることは、不可能でもあり、必要ないのです。煩悩の火をそのまま菩提(悟り)の火に昇華することができるのです。 古来、さまざまな宗教が、この人間性の強い強い一面、ドス黒い生命の濁り、悪の存在、煩悩の火の問題に取り組みましたが、いたずらな滅却を説く等、いずれにしても、その無力を示してきました。煩悩即菩提の原理を明かした妙法の生命哲学の偉大さに、人類もやがて目をみはるときがくるでありましょう。 御本尊に題目を唱えるとき、どうおさえようもない苦悩、欲望の生命の波立ちが、幸福と成長の価値創造の波動へと転ずるのです。妙法第一の人、妙法を思索と行動の基底に置く人は、煩悩の火がそのまま自受用報身の智火(本仏の知恵、御本尊の知恵)と輝き開くのです。 悩みが深ければ深いほど、生命の濁り、力不足の壁が深刻に考えられれば考えられるほど、題目を朗々と唱えることです。やむにやまれぬ題目・祈念が、無明の闇を照らし晴らすことを、確信したいものです。〈単行本「きょうの発心百選」422〉
382
:
taka
:2011/02/14(月) 11:20:06
御書p726・⑮(p1572・⑮) 衆生救済へ悔いなき実践
日本国の一切衆生は子の如く、日蓮は父の如し。法華不信の失に依って、無間大城に堕ちて返って日蓮を恨みん。また日蓮も声も惜しまず法華を捨つべからずというべきものを、霊山にて悔ゆること之れ有るべきか。
通解
日本国の一切衆生はあたかも窮子のようなものであり、日蓮はその父のようなものである。彼らは法華不信のとがにより、無間地獄におちてかえって、彼らを救おうと努力している日蓮を恨むであろう。また、この日蓮も声も惜しまず、法華経を捨ててはいけないというべきものを、霊山で(仏としてのご境涯から)悔いることであろう。
拝読の手引き
法華経信解品の長者窮子の譬えを踏まえて述べられた一節です。 幼くして父を捨て離れた子が諸国を流浪し、困窮の生活を送り、ついに父の長者にめぐりあい、その子であることを知るにいたる、という筋ですが、たとえてみれば、一切衆生は、御本尊の偉大さを教え示す大聖人に背いて、不幸の巷を流転する窮子です。父たる大聖人が救いの手を差し伸べても、逃げてばかりいて、自己の本地をさとらず、地獄におちてかえって逆恨みする人がなんと多いことでしょうか。 しかし、全精魂を傾け尽くして、一切衆生の救済を願い折伏を実践される大聖人に対して、これに耳を傾けることなく、地獄の生活におちてしまった衆生のことを、大聖人は悔いておられるのです。自己の非をたなにあげて恨む”窮子”のことも、すべて、ご自身の責任として痛みを感じられる、とどまるところを知らない広大な慈悲の姿に、強くうたれざるを得ません。 この偉大な人類の師匠の門下となった私達は、その億分の一でもよい、その精神をうけつぎ利己主義に陥ることを戒め、こと広布の進展ということに関しては、一切を自己の責任とするぐらいの決意をもちたいものです。たとえば、信心指導にあたっては、はたして相手の心の内を思い、真心こめて、礼儀正しく常識豊かに、真剣にやりきったかどうか、悔いは残らなかったかどうか、わが心に問うてみる心尊き妙法の実践者でありたいものです。〈単行本「きょうの発心百選」463〉
383
:
taka
:2011/02/17(木) 11:35:50
御書p727・⑥(p1573・⑥) 無上宝聚不求自得
宝聚(ほうじゅ)とは三世(さんぜ)の諸仏(しょぶつ)の万行(まんぎょう)万善(まんぜん)の諸(しょ)波羅蜜(はらみつ)の宝を聚(あつ)めたる南無妙法蓮華経なり、此(こ)の無上(むじょう)宝聚(ほうじゅ)を辛労(しんろう)も無(な)く行功(ぎょうく)も無く一言(いちごん)に受取る信心なり
通解
宝の聚(あつま)りとは、三世の諸仏のあらゆる修行(しゅぎょう)、善行(ぜんこう)を集(あつ)めた南無妙法蓮華経である。この無上宝聚をを何の苦労(くろう)も修行の功徳もなく、妙法の一言によってわが身に受け取ることのできる信心である。
拝読の手引き(池田先生の指導)
「不求自得」ということであるが、これは御文に「此の無上宝聚を辛労もなく行功も無く一言に受取る信心なり」と仰せられているごとくである。実際に、われわれは、いったい御本尊を何十年もかかって求め抜いてきたかというと、そうではない。初めは気もすすまず、半信半疑の気持ちで入信した。そして、実践してみて、初めて、偉大な大仏法であることがわかった。なんの辛労もなく、行功もなく、われわれは、大御本尊を受持できたではないか。 また、信心した立場からいえば、釈迦仏法の場合は歴劫修行であるのに対し、日蓮大聖人の仏法は受持即観心であり、直達正観であるということである。いまの宗教界の現状をみるとどうか。何十万、何百万の金銭をつぎ込んで修行している人もいる。寒いときに、死にもの狂いで、水を浴びて修行している人もいる。彼らは、それでなんとか救いを得よう、正しいものを求めようとしているのである。ところが、われわれは、そんな労苦は全く必要としない。 ただ、常識人中の常識人として行動していけばよいのである。食べたい時に食べ、寝たい時に寝、何十時間勤行するわけでもない。わずか三十分、四十分の勤行で、大功徳を受け、宿命転換なされるわけである。誠に、もったいない御本尊と、感謝を忘れてはならない。優秀なる機械になればなるほど、実用のときは簡単であり、能率もよいと同様に、最高の仏法であり、哲学であるがゆえに、修行も簡単であり、功徳も絶大なのである。〈御義口伝講義上p436〉
384
:
taka
:2011/02/18(金) 11:15:31
御書p729・③(p1575・③) 師弟の境智冥合
今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と領するは述なり日蓮が讃嘆するは成なり
通解
いま、日蓮大聖人の門下が、末法の成仏は、南無妙法蓮華経以外にないと納得することは「述」であり、日蓮大聖人が、その信心を讃嘆されるのは「成」に当たるのである。
拝読の手引き(池田先生の指導)
「述成」とは、師弟不二、境智冥合を表していると拝すべきです。 大聖人と日興上人のお姿こそ、述成であり、師弟不二なのです。 御書のいたるところに、「日蓮等の類い」と仰せられているのは、我ら凡夫を御本仏の境涯まで引き上げてあげよう、境智冥合させてあげよう、という御慈悲のあらわれなのです。(大白蓮華2009・12師弟の「御義口伝」講義p33)
385
:
taka
:2011/02/19(土) 10:54:53
御書p732・⑫(p1578・⑫) 即の一字
化城即宝処とは即の一字は南無妙法蓮華経なり念念の化城念念の宝処なり
通解
化城即宝処の即の一字は南無妙法蓮華経である。われわれが南無妙法蓮華経と唱えるときに、念念の化城、九界の生命は、念念の宝処、すなわち仏界の生命となるのである。
拝読の手引き(池田先生の指導)
妙法を唱え、妙法に生き、「勇猛精進」していけば、この法理に則り、どんな苦難も栄光に転じゆく「逆転劇」が、必ず開かれるのだ。
この絶対の確信に立って、永遠の栄光を勝ち取るまで、“わが弟子として、不屈の信心を勇敢に貫け!”と御本仏は常に励ましてくださっている。(2009・10・5方面長協議会) 化城とは九界です。 無明流転の人生です。 宝処とは仏界です。 化城もわれわれの生命。 宝処もわれわれの生命。 仏なりといっても、われわれの生命の仏界を湧現することにつきます。 だんだんと修行して仏になるのではありません。 仏の境涯は、遠くにあるものでもなければ、だんだん仏になるのでもない。 わが身即ち仏なり、当体なり、と確立しきることにつきる。 化城は観念論であり、宝処は生活です。 化城は理で、宝処は事になる。 御書を勉強しているのは、化城の念念であって、それを生活に具現化した場合には、宝処の念念に変わるのです。 化城を去ることはできないのです。 この身で仏になる以外にない。 煩悩即菩提が大聖人の哲学です。 煩悩を去る、煩悩を断ずるというのは、爾前の教えです。(大白蓮華2009・12師弟の「御義口伝」講義p37)
386
:
taka
:2011/02/21(月) 10:07:11
御書p734・⑦(p1580・⑦) 化城即宝処
今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は化城宝処なり。我等が居住の山谷曠野皆皆常寂光の宝処なり。
通解
今、日蓮大聖人およびその門下として、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、化城を即宝処と開くことができるのである。我々が居住する山や谷、広野など、皆、すべてのところが、常寂光の宝処(仏国土)となるのである。
拝読の手引き
爾前迹門の諸経では、私達が現実に生活する国土を、悩みや苦しみが充満するけがれた所として忌み嫌い、遠いかなたに理想的世界があると教えました。 たとえば、東方の薬師如来の住む浄瑠璃世界、または、西方の阿弥陀如来の住む極楽浄土など、さまざまな世界を説き示しました。いずれも、苦悩多い現実社会に背を向け、架空の世界に、はかない夢を託そうとする、現実逃避の低い教えであることはいうまでもありません。 はるかな世界に理想郷を夢見るのは、凡夫の常であるかもしれません。しかし、真実の幸福世界は、決して遠いかなたにあるのではありません。この苦悩多い現実との対決によってこそ、それは開かれるものです。日蓮大聖人は、この御文で、化城の現実世界を即宝処と開く鍵こそ、南無妙法蓮華経であると教えられています。 そして、妙法を信受する者の居住する所は、ことごとく光輝に満ちた寂光土であると仰せられています。私達は、この御文を確信しきり、さらに信心を強め、自身をみがき、それぞれの地域を、名実ともに常寂光の都に変革していこうではありませんか。 喧騒な都会であろうと、過疎化が叫ばれる山村であろうと、ともかく、今、現に私達が住む地域に、妙法の清流を注ぎ、はつらつとした人間社会を建設していきたいものです。 一人ひとりが、それぞれの地域で妙法の実証を示し、近隣の人々から信頼され、慕われる存在となり、まず、自分の住む地域に、仏法の精神を基調とした、美しい人間共和の社会を築きあげていこうではありませんか。それが真実の郷土開発の源流となることを確信して――。〈単行本「きょうの発心百選」269〉
387
:
taka
:2011/02/22(火) 10:08:10
御書p734・⑩(p1580・⑩) 皆共至宝処
御義口伝に云く皆とは十界なり共とは如我等無異なり至とは極果の住処なり宝処とは霊山なり、日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るものは一同に皆共至宝処なり、共の一字は日蓮に共するときは宝処に至るべし不共ならば阿鼻大城に堕つ可し
通解
御義口伝には、次のように仰せである。 「皆共に宝処に至る」の「皆」とは、地獄より仏界にいたる全てを居うのである。「共」とは、「如我等無異」――方便品の「我が如く等しくして異なること無からしめんと欲しき」、つまり一切衆生を仏と同じ境涯に入らしめるということである。 「至」とは、極果の住処へ至る、すなわち、最高の幸福境涯に至るということである。「宝処」とは霊鷲山のことである。大御本尊のいますところであり、また、最高の幸福境涯を意味している。 今、大御本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱え奉る日蓮大聖人の門下は、一同に皆共至宝処、すなわち、成仏することができるのである。 とくに、「共」の一字は、日蓮大聖人と共にいる――大聖人を信ずるときには、成仏することができるし、日蓮大聖人と共でない、すなわち、離れ、不信の念をおこすならば、阿鼻地獄におちる、不幸のドン底におちるということを示しているのである。
拝読の手引き(池田先生の指導)
「皆共至宝処」の文こそ、自由、平等、尊厳の、民主主義の一大原理である。「皆」とは、十界三千の当体のことである。日本人も、イギリス人も、フランス人も、インド人も、ロシア人も、みな同じ生命であるとの言であられる。すなわち、人類平等の大生命哲学と拝すべきである。「共」とは、いかなる人たりとも、等しく、仏界を具している。信心によって、仏界を湧現することによって、仏の生命と等しくなる。妙法の当体となるとの、もったいない平等論である。「至」とは、極果に至る信心のことである。すなわち、ひたぶるに信心に励み、社会に価値創造しゆく我らの住処こそ、尊厳であり、霊山なりとの言であられる。 「日蓮に共する時は」とは、大聖人の弟子として、真剣に信心し、王仏冥合に進む人のことである。すなわち、創価学会である。したがって、われらの住処は、宝処である。我此土安穏である。平和と幸福を享受できうることは、絶対に間違いないわけである。不共、謗者の人々は、阿鼻大城に堕ちざるをえない、御金言に照らし、現実の世界をみて。一日も早く、いかなる障魔にも打ち勝って、楽土日本を、築いてゆきたいものである。〈御義口伝講義上p553〉
388
:
taka
:2011/02/24(木) 10:59:01
御書p735・⑨(p1581・⑨) 琴線に触れずして力は発揮できない
今日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉れば「我即ち歓喜す」とて、釈尊歓喜し給うなり。歓喜とは善悪共に歓喜なり。十界同時なり。深く之を思う可し。
通解
今、日蓮大聖人の門下が南無妙法蓮華経と唱え奉れば、「我則ち歓喜す」とて、釈尊、すなわち文底の釈尊である日蓮大聖人は、ご歓喜あそばされるのである。この歓喜は善悪ともに(仏界も九界も)歓喜するのである。十界が同時に歓喜し、成仏していくのである。このことを深く思案していくべきである。
拝読の手引き(池田先生の指導)
私達が三大秘法の御本尊を信じて行学に励んでいけば、文底の釈尊である日蓮大聖人が喜ばれ、歓喜の信心を貫くところには、いかなる境遇の人でも、万人が必ず成仏できることを述べられています。 「我則歓喜」とは、法華経見宝塔品第十一に「此の経は持ち難し若し暫くも持つ者は我すなわち歓喜す」とあるところからきています。 私たちにとって、信心を持続しきっていくことこそ、仏道修行の最大事です。その信心のあるところには、必ず御本尊の大功徳が湧き出てくるのです。もし苦境に負けて退転したり、縁に粉動されて遠ざかったり、あるいは信心が惰性に流されたりすれば大聖人は、どれほど悲しまれることでしょう。 仏にとっては、衆生が妙法を離れて不幸に陥ることが、胸がはりさけるようにつらく悲しいことなのです。私達はまず、御本尊への絶対の信をふるいおこし、生涯、不退転の信心を確立すべきです。信心の歓喜は、そのうえに立ってのたゆみない努力、実践のなかに芽ばえるものです。 歓喜の信心にまで高められた人は、御本仏の喜ばれる弟子だといえます。そこにこそ、豊かな生命力と英知、福運が満ちあふれ、どんな宿業をも転換し、人間革命の姿を実証することができるのです。 どんなにつらく、苦しい立場の人をも歓喜させるもの、十界すべての衆生を、生命の奥底から大歓喜せしめる根源こそ、三大秘法の御本尊なのです。私達は、このことを確信して、日々の生活のうえに、御本尊の大功徳の実証を示しきっていきたいものです。〈単行本「きょうの発心百選」357〉 (池田先生の指導) 皆さんが喜んで折伏し、教学に励んでいけば、大聖人が喜ばれる。 皆さんが苦しんでいれば、大聖人が悲しまれる。 歓喜の前進をしていくことが、信心の最大事なのです。 経に「一念随喜の功徳」とあるように、歓喜の信心の集まるところに、必ず功徳は湧いてくるのです。 諸君が成長してくれれば、親も喜ぶであろうし、私もうれしい。 諸君が落第ばかりしていれば、親も悲しいし、私も苦しい。(大白蓮華2009・12師弟の「御義口伝」講義p40)
389
:
taka
:2011/02/25(金) 10:38:35
御書p735・⑬(p1581・⑬) 信心修行の目的
御義口伝に云く、学とは無智なり、無学とは有智なり。
通解
御義口伝には次のように仰せである。「学」とはこれから勉学すべき無智のものをいい、無学とは学問の修行が終了した有智のものをいう。
拝読の手引き(池田先生の指導)
「学」とは、学問の未熟な人。「無学」とは、すでに学問に透徹した人。今の世間で使われている意味と反対になる。 所詮、色心共に、無学に到達することが、信心修行の目的になる。 現代語で言えば、完全なる凡夫、人間、人格ということであろう。(大白蓮華2009・12師弟の「御義口伝」講義p41)
390
:
taka
:2011/02/27(日) 12:15:47
御書p736・⑯(p1582・⑯) 真実の仏の使い
今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉るは真実の御使なり。
通解
今、日蓮大聖人をはじめ大聖人の弟子として、南無妙法蓮華経と唱えたてまつる人びとこそ真実の仏のお使いなのである。
拝読の手引き
この一節は、法華経法師品に説かれている「如来の使い」についてしるされた部分で、釈迦の滅後、末法に入って三大秘法の南無妙法蓮華経を信受する人こそ「如来の所遣」として「如来の事を行ずる」人であることが述べられています。末法相応、唯一の正法である三大秘法の御本尊を受持した私達こそが仏の使途であることを確信して、誇り高く進んでいきたいものです。 ところで、生涯かけて仏道を求め知ることはもちろんですが、私達には仏の使いとして、苦悩に沈み幸せを求める人びとにこの仏道を説き、広布のいばらの道を開いていく使命があるのです。 まず知道者としては、どんな境遇や境涯にいる人に対しても、最高に尊貴な生き方を指し示していけることが要請されるわけですから、たとえばどのような質問を受けても、何を聞かれても自らが理解し、把握していて、そして教え、導くことができるだけの深い教学力が望まれるのです。 つぎに説道者とは、仏法をたもち十分に人々を説得し、納得させうる人ということです。したがって、現在でいえば、座談会などで実り多い、魅力ある話のできる人のことといえるでしょう。 そして開道者――仏道を知り成仏・得道の方途を説くとともに、さらに数多くの人の幸せの道を押し開いていく、このような開道者であるためには、道を求める一人ひとりに的確な指導を与え、そうした人たちが発心、奮起していくようでなくてはならないでしょう。加えて、同じ目的観に立った求道者が和合僧の団結で進んでいけるよう、また行学の二道を増幅していけるよう、いばらの道を開いていくことが大事です。 こうしてみると、おのおのが立派な求道者であると同時に、現代でいう全体人間として広布の道で活躍していく――そこに仏の本眷属である地涌の菩薩としての指導者像が求められるともいえるでしょう。〈単行本「きょうの発心百選」530〉
391
:
taka
:2011/02/28(月) 10:06:47
御書p736・⑧(p1582・⑧) 創価の師こそ「法師の中の大法師」
「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は法師の中の大法師なり」と。
通解
いま、南無妙法蓮華経と唱え奉る日蓮大聖人およびその門下は、法師の中の大法師、つまり、指導者の中の大指導者である。
拝読の手引き(池田先生の指導)
すなわち「法師」とは、一般的にいえば、指導者のことです。 「大法師」とは、経済の指導者、政治・科学等の指導者などを、さらに指導していく原理と力を有する者のことをいうのです。(大白蓮華2009・12師弟の「御義口伝」講義p43)
392
:
taka
:2011/03/01(火) 10:38:30
御書p736・⑫(p1582・⑫) 我らの大願
大願とは法華弘通なり
通解
大願とは、法華弘通のことである。。すなわち広宣流布(こうせんるふ)のことである。
拝読の手引き(池田先生の指導)
この文は、地涌の菩薩の使命・目的を明かされています。 大願とは広宣流布のことです。 仏法に身を捧げた私達革命児こそ、真の弟子として、三世十方の仏・菩薩より、大賞讃を受けるのです。(大白蓮華2009・12師弟の「御義口伝」講義p43)
393
:
taka
:2011/03/02(水) 10:03:49
御書p736・③(p1582・③) 阿難とは歓喜なり
今日蓮らの類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、山海慧自在通王仏なり。全く外に非ざるなり。我ら行者の外に阿難此れ無きなり。阿難とは歓喜なり、一念三千の開覚なり。
通解
今、南無妙法蓮華経と唱え奉る日蓮大聖人およびその門下は、山海慧自在通王仏である。この仏も、全く我々以外の別の存在をさしているのではない。我々法華経の行者以外に阿難はないのである。阿難とは歓喜であり、一念三千の当体であると開覚することをさすのである。
拝読の手引き
山海慧自在通王仏の名号を与えれた阿難は歓喜、慶喜などと訳されていますが、この経文に出てくる一人の人物が、私達とかけはなれた特殊の人格では決してなく、実は、私達一人ひとりの生命にも等しく湧現すると教示されている一節です。 末法の法華経たる南無妙法蓮華経の御本尊を信じ修行する者こそ、ほかならぬ阿難であるとのご断定なのです。 煩悩を菩提に転じ、生死を涅槃(悟り)と変えていく、知恵があふれた、自由自在のはつらつたる生命、調和のとれた完全な生命――その山海慧自在通王仏というも、何か他の特別の存在ではなく、妙法を実践しきる私達のことをさしているとのご指摘なのです。 自己をそのようなすぐれた特質、力を有する、一念三千の当体と開きさとること――そこから、自然のうちに生命は歓喜におおわれていきます。その”一念三千の開覚”とは、単なる観念の上でのことではありません。気持ちのうえでそう確信するだけのものではあれば、早晩、必ず現実の厳しい人生の荒波にあって、もろくも崩れ去ってしまうことでしょう。事実のうえにそのような実証を示しうるから、仏法は強いのです。色心不二の生命のうえに、確たる実感を覚え、日々の生活のうえに、その山海慧自在通王仏の生命を、あらわしきっていけるから、仏法は根源の生活法ともいわれ、万人から支持されているのです。 歓喜が、そして生命力が、豊かに全身を包んでいる、真の”阿難”に、一人ひとりがなりたいものです。〈単行本「きょうの発心百選」490〉
394
:
taka
:2011/03/03(木) 10:35:59
御書p737①(p1583・①) 如来
法華の行者は男女ともに如来なり
通解
「法華の行者」すなわち、南無妙法蓮華経と唱え折伏を行ずる者は、男女ともに如来である。
拝読の手引き(池田先生の指導)
この文は、男女同権の原理です。単なる法律上の男女同権だけでは本質的な同権とはなりえないのです。(大白蓮華2009・12師弟の「御義口伝」講義p44)
395
:
taka
:2011/03/06(日) 11:35:40
御書p737・①(p1583・①) 日々の勤行を確実に
今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は与如来共宿の者なり、傅大士の釈に云く「朝朝・仏と共に起き夕夕仏と共に臥し時時に成道し時時に顕本す」と 云々
通解
いま南無妙法蓮華経と唱え奉る日蓮大聖人および、その門下は、法華経法師品にあるように「如来と共に宿する」ものに相当する。弥勒菩薩の後身であると言われる傅大士は「毎朝仏と共に起き、また毎晩仏と共に安らかに寝ていく。またおりおりに題目を唱え、本地を顕していくことである」と述べている。
拝読の手引き
この御文は、朝の勤行、夕の勤行、またおりおりに題目を唱えることが、私達の生活、人生においていかに重要な意義をもつものであるかを、述べられたものです。 「仏」「如来」とは、日蓮大聖人の生命そのものである御本尊に他なりません。私達が朝に夕に御本尊に向かい、勤行・唱題に励むことは仏とともにいることなのです。このことを確信することが、また信心なのです。 仏道修行の基本ともいうべき勤行・唱題は、地道で毎日行うものであるがゆえに、惰性に陥りやすいものです。だが、どんなに、信心経歴を積み、また、たとえ指導的立場になったといっても、常に自覚を新たにし、正しい勤行を心がけていくべきことは云うまでもありません。 健康が思わしくなかったり、生活に行き詰っていたり、はつらつさを欠いているような人は、やはり勤行の姿勢が不真面目であり、勤行に対する意識それ自体が、安易ともいえましょう。ここで、自分自身の勤行の姿を見つめ直してみましょう。御本尊を正視せず、下を向いたり、目を閉じたままの人がいませんか。また、方便品・寿量品の一言一句を正しく読んでいますか。 さらに大事なことは、祈りを込めて題目を唱えることです。人生の諸問題に直面したとき、人の心は揺らぐものです。しかし、それであれこれ迷い悩んで、祈りを忘れてしまったならば、問題を打開することはできません。 「時時に顕本す」とあるように、きょうも、あすも発心し、日々向上していきたいものです。それには、一回一回の勤行に真剣勝負で臨むことです。〈単行本「きょうの発心百選」128〉
396
:
taka
:2011/03/07(月) 10:19:09
御書p738・⑫(p1584・⑫) 「変化人」とは
御義口伝に云く変化人とは竜口守護の八万大菩薩なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るものを守護すべしという経文なり
通解
御義口伝には、次のように仰せである。この変化人とは、たとえば竜口の首の座のとき、八幡大菩薩が守護の力を発揮して光り物が現れたことを指すのである。 末法において南無妙法蓮華経と唱える日蓮大聖人およびその弟子檀那を、諸天善神が必ず守護するという経文なのである。
拝読の手引き(池田先生の指導)
諸天善神の働きの文です。所詮、この経の法理は、われわれの立場から考えるならば、自己が変われば、国土も、対境も、周囲の人々も、皆変わるという事実から、思索して、会得すべきであろう。 これこそ、仏法の真髄、一念三千の大哲理であり、これを覚知せんがための信心なのです。(大白蓮華2009・12師弟の「御義口伝」講義p46)
397
:
taka
:2011/03/08(火) 11:35:07
御書p738・⑧(p1584・⑧) 及清信士女供養於法師
御義口伝に云く士女とは男女なり法師とは日蓮等の類いなり清信とは法華経の信心の者なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るもの是なり云々、此れ諸天善神等・男女と顕れて法華経の行者を供養す可しという経文なり。
通解
法師品には、諸天善神の働きについて、次のような文証がある。「我(仏のこと)化の四衆、比丘比丘尼、及び清信士女を遣わして、法師を供養せしめ」云々と。 御義口伝には、次のように仰せである。「士女」とは男女のことである。「法師」とは法華経の行者である日蓮大聖人及びその門下のことである。「清信」とは法華経――御本尊を信ずる者についていうのである。いま南無妙法蓮華経と唱え奉る日蓮大聖人の弟子檀那の信心は清信である。
拝読の手引き(池田先生の指導)
法華経の行者は、かならず、さまざまな形で、護られているという、御文である。 一見して、不思議に思える経文であるが、生命論より深く考察するならば、感応の原理により、諸天善神の加護が、絶対にあるものと確信するのである。 日蓮大聖人が伊豆伊東へ流罪された時には、船守弥三郎夫妻が真剣に御供養申し上げ、大聖人から「ことに五月のころなれば米もとぼしかるらんに日蓮を内内にて・はぐくみ給いしことは日蓮が父母の伊豆の伊東かわなと云うところに生まれ変わり給うか、法華経第四に云く「及清信士女供養於法師」と云々、法華経を行ぜん者をば諸天善神等或いはヲトコとなり或いは女となり形をかへさまざまに供養してたすくべしという経文なり、弥三郎殿夫婦の士女と生れて日蓮法師を供養する事疑いなし」とのお言葉を賜っている。また、佐渡御流罪の時の阿仏房、千日尼夫妻の命をかけての活躍は、この経文に符節を合わせたごとくではないか。 また、現在、われわれも信仰の生活体験を通して、だれびとも、諸天の加護を認めざるを得ないのである。仏法は決して、観念論ではない。現実論であり、証拠主義である。したがって、御本尊を受持する人は、かならず、親子、兄弟、友人などから、また職場や、社会等において、事実、さまざまな形をもって、護られているのであり、よく功徳がないという人も、周囲をみつめたり、入信時にさかのぼって現在を考えてみたときに、いつの間にか、大功徳をうけているのに気がつくのである。この段は、その原理を説かれていると思う。〈御義口伝講義上p619〉
398
:
taka
:2011/03/09(水) 10:36:28
御書p739・①(p1585・①) 師弟の道
御義口伝に云く、是師とは日蓮等の類なり。学とは南無妙法蓮華経なり。随順とは信受なり云々。
通解
御義口伝には次のように仰せである。「是師」とは日蓮大聖人のことである。「学」とは南無妙法蓮華経を学ぶのである。「随順」するとは「信受」するということである。つまり、日蓮大聖人を師匠と仰ぎ、その御金言を信受し、人法一箇の御本尊に向かって南無妙法蓮華経と唱えるということである。
拝読の手引き(池田先生の指導)
悪師に随順したときは、必ず不幸と混乱を招き、善師に随順してこそ、幸福と繁栄が享受できるのである。 現今の事実をもって、師弟の道が不必要だとはいえない。いな、人生における行動も、すべて師によって決定されているのです。(大白蓮華2009・12師弟の「御義口伝」講義p48)
399
:
taka
:2011/03/10(木) 10:56:03
御書p739・③(p1585・③) ともに一念三千の当体
御義口伝に云く、日蓮等の類い南無妙法蓮華経は学者の一念三千なり。師も学も共に法界三千の師学なり。
通解
御義口伝には、次のように仰せである。日蓮大聖人ならびにその門下の唱える南無妙法蓮華経というものは、真実の仏法を探求し、実践していくものの一念三千の当体である。したがって、師匠である日蓮大聖人も、また、その師匠日蓮大聖人の教え、・南無妙法蓮華経を信受して、実践していく門下も、ともに、宇宙森羅万象いっさいの師匠であり、学者となるのである。所詮、一念三千を知った人は、師弟不二、境智冥合の原理によって、世界最高の学者である。あらゆる階層、あらゆる世界において、大指導者として君臨すべき資格があるとの御文である。
拝読の手引き(池田先生の指導)
大聖人の御生命も、随順する我ら凡夫の生命も、ともに一念三千の当体であるから、師弟不二なのです。 師匠と同じく、弟子も共に、最高真実の生命観を把握せよというのが、日蓮大聖哲の仰せです。(大白蓮華2009・12師弟の「御義口伝」講義p49)
400
:
taka
:2011/03/12(土) 09:28:03
御書p739・⑯(p1585・⑯) 有七宝
御義口伝に云く七宝とは聞・信・戒・定・進・捨・慙なり、又云く頭上の七穴なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは有七宝の行者なり云々。
通解
見宝塔品第十一の最初に「その時に仏前に七宝の塔あり」と述べられている。これについて御義口伝には、次のように仰せである。七つの宝とは、聞、信、戒、定、進、捨、慙のことで、七聖財ともいわれる。また七宝とは、頭上の七穴、すなわち二つの目、二つの耳、二つの鼻の穴、一つの口を云うのである。今、南無妙法蓮華経と唱え奉る日蓮大聖人およびその門下は、七宝を有する真の法華経の行者である。
拝読の手引き(池田先生の指導)
法華経宝塔品に説かれた宝塔とは、諸々の幡蓋が、金、銀、瑠璃、シャコ、瑪瑙、真珠、マイエの七宝で飾られた、美しい宝塔をあらわしている。しかるに、日蓮大聖人は、この七宝を、妙法を根本とした、聞、信、戒、定、進、捨、慙と決定されて、即身成仏、人間完成の実践原理を厳然と示されたのである。 「聞」とは、正しい仏法を聞くことであり、聞いてよく御本尊を信受していくのは「信:であり、御本尊を受持して身口意の三業をもって正法を守りきり、非を防ぎ悪を止める、金剛不壊の戒を「戒」という。また「定」とは。禅定であり妙禅である。信心唱題により、安心立命の境涯を会得できる生命のことであり、「信」とは題目をあげ折伏をやり抜く精進行のことである。「捨」とは、不自惜身命であり、身命を捨てて仏法を求めきることである。また、信心を貫いて、なお足れりとせず、さらに、向上していこうとする心、常に反省して前進していく心は{慙」である。 また、七宝とは、頭上の七穴であると仰せである。二つの目、二つの耳、二つの鼻の穴、一つの口とあらわれている頭上の七穴、環境や社会に対するいっさいのアンテナとなり、生活にいろいろの現証を具現することになるから、七つの宝となるのである。〈御義口伝講義上p645〉
401
:
taka
:2011/03/13(日) 09:41:36
御書p740・⑧(p1586・⑧) 民衆救う大音声
惣じて大音声とは大は法界なり。法界の衆生の言語を妙法の音声と沙汰するを大音声とは云うなり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉るは大音声なり。
通解
総じていうと、大音声の大とは法界、つまり、宇宙の大きさをいうのである。この宇宙の一切の衆生の言語を、すべて妙法の音声であると定かにしていくのを大音声という。今、日蓮大聖人およびその門下が、南無妙法蓮華経と唱え奉る題目は大音声になるのである。
拝読の手引き
題目を唱える衆生は、九界の衆生であっても、九界即仏界で、妙法のリズムにかなった生命の活動となります。それゆえ、私達の音声、所作を大音声というのです。衆生の一念、音声は、妙法という宇宙本然のリズムに合致するとき、広大な宇宙法界に広くゆきわたっていくのです。 この方程式があるからこそ、広宣流布を願い、世界の平和を訴えて発する私達の音声が、一波が二波、三波、やがては万波となって日本中、世界中を動かしていくのです。勤行・唱題を基板にした私達の日々の生活、振る舞い、話す言葉、すべてが新時代建設への原動力になっていくともいえます。 末法の一切衆生救済のため、崇高な言々句々をはなたれた大聖人の音声こそ、大音声ではありますが、その仏弟子として、社会の中で信仰に励む私達の音声も、師弟不二の原理から、大音声となります。また、御書に記された一切の指針のままに実践し、実現していくことも大音声を発していくことになるのです。 したがって、隣人、知人に語りかける私達の言葉、振る舞いは、相手の生命をゆさぶり、ともども幸福への道、宿命転換への道を歩むようになるのは、絶対間違いないことなのです。 私達の力強い祈りのこもった音声は、必ずや一切衆生を揺り動かしていくでしょう。必ずや私達の訴える理念に、人びとは耳をそばだて、心を開き、賛同するようになるでしょう。私達こそが、民衆救済の大音声を発しているのだと確信し、同志ともども、魔軍の音声を打ち破って、粘り強い活動をやりぬこうではありませんか。〈単行本「きょうの発心百選」510〉
402
:
taka
:2011/03/15(火) 10:52:41
御書p741・⑤(p1587・⑤) 諸法実相
今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉るは、十界同時の光指すなり。諸法実相の光明なるが故なり。
通解
今、日蓮大聖人およびその門下が、南無妙法蓮華経と題目を唱えるときは、十界の各界同時に功徳があらわれるのである。それは、諸法実相の明らかな光に照らされるから、功徳があるのである。
拝読の手引き(池田先生の指導)
妙法護持の我らは、「十界同時の光指なり」の生活ができるのです。 すなわち、いかなる境遇の人たりとも、いかなる人生の瞬間たりとも、九界を遊戯し、苦悩、宿命にながされることなく、悠々と、一切の苦難を乗り越え、遊楽の人生を送ることができるとのお言葉と拝する。(大白蓮華2009・12師弟の「御義口伝」講義p51)
403
:
taka
:2011/03/17(木) 10:08:59
御書p742・⑯(p1588・⑯) 難に遭うから幸福が築ける
此の法華経を持つ者は、難に遭わんと心得て持つなり。
通解
この御本尊を信じ、仏道修行に励む者は、必ず難にあうであろうと心得て、信心すべきである。
拝読の手引き(池田先生の指導)
この御文は、最高の幸福論を説かれたところです。 三大秘法の御本尊を持つ以上は、難に遭うことを覚悟して持てとの仰せです。 仏法の方程式が厳然と説かれているではないか。 遠くは、釈尊は九横の大難に遭い、天台大師は南三北七に責められ、伝教大師は六宗にあだまれています。 近くは、牧口先生は牢獄で亡くなり、戸田先生もまた2年の長きにわたって獄中生活を送られた。 難に遭うことを覚悟してこそ、魔を防ぐことができるのです。(大白蓮華2009・12師弟の「御義口伝」講義p53)
404
:
taka
:2011/03/18(金) 09:32:04
御書p742・⑨(p1588・⑨) 譬如大風吹小樹枝
御義口伝に云く此の偈頌の如清涼池と譬如大風と燃大炬火とは三身なり、其の中に譬如大風とは題目の五字なり吹小樹枝とは折伏門なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは大風の吹くが如くなり
通解
「譬えば大風の、小樹の枝をを吹くが如し」と読む。仏の説法の姿を表現しているのである。御義口伝には、次のように仰せである。宝塔品の偈頌の「清涼池の(蓮華荘厳せるが)如し」「譬えば大風の(小樹の枝を吹くが)如し」「(夜の闇の中に)大いなる炬火を燃せるが如し」、この三つは法報応の三身をあらわしているのである。 その中の「譬えば大風の……如し」、とは、題目の五字を云うのである。「小樹の枝を吹く」とは、大風ともいうべき題目によって、小樹の枝のような邪宗教が折伏されるのである。すなわち「法華折伏破権門理」のことを申されているのである。今、日蓮大聖人およびその門下が、南無妙法蓮華経と唱えて折伏していく、その姿というものは、大風の吹くようなものである。
拝読の手引き(池田先生の指導)
宝塔品の偈頌に「如清涼池、譬如大風、燃大炬火」とあるが、これは、三身を表わしている。如清涼池は、「清涼池の蓮華荘厳せるが如し」とあり、功徳あふるる清浄なる仏身、すなわち応身ともいえよう。譬如大風は「譬えば大風の小樹の枝を吹くが如し」とあり、仏の智慧、はたらき等を指すがゆえに、報身と考えられる。燃大炬火とは「夜の闇の中に大いなる炬火を燃せるが如し」とあり、仏の力、本質を明かしたもので、法身と拝することもできる。 次に、「譬如大風」とは題目であり、「吹小樹枝」とは折伏のことである。我々の唱える題目は、自行化他にわたる南無妙法蓮華経である。一切経のすべての理法、すべての功徳は、この一句の中に包摂されるのである。ゆえに、経中の王であり、戸田城聖前会長が、この題目を唱え、折伏に励む創価学会を、宗教界の王者といわれた意義はここにある。一切の教団が、南無妙法蓮華経の前には、あたかも、小樹が大風に吹かれて、なびくようなものである。現在における一切の思想、哲学といえども、南無妙法蓮華経の偉大な哲理と力に対しては、とうていおよぶものではない。もともと「無量義は一法より生ず」といい、「百千枝葉悉く一根に趣く」と説かれているが、その一法あるいは一根こそ南無妙法蓮華経なのである。この題目を根本として、すべての哲学は生かされるものであると知るべきである。(御義口伝講義上p688〉
405
:
taka
:2011/03/19(土) 09:47:11
御書p745・⑤(p1591・⑤) 身心無懈倦
日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉りて即身成仏す身心無倦とは一念三千なり云云
通解
日蓮大聖人およびその門下は、南無妙法蓮華経と唱えて即身成仏するのである。身心無倦【=たゆむことがない】というのは、われわれが一念三千の当体であると示しているのである。
拝読の手引き(池田先生の指導)
身心とは、生命のことである。すなわち、最高のクフく境涯である。「ゲケン」とは、苦悩の生活のことである。環境に流され、宿命に泣き、宿命に苦しみゆく不幸なる生命活動である。「情に妙法を存せるが故に」とは、大御本尊を持つことである。妙法護持の人生は、必ず宿命を打破し、そして、福運を積みゆくことができる。人生行路にあって、自在の境涯を会得することができるのである。身心とは、色心と同意である。ゆえに、いかなる肉体的苦痛、精神的煩悶も、ことごとく解消することを意味する。これこそ、われらの、幾千万の体験、体得が、如実に証明しているところである。 なお、われわれは、常になさねばならぬことが沢山ある。しかし、信心がないと、あれもしなければならない、これもしなければいけない等々と現実に立ちふさがる様々な問題の重圧に、耐えかねてしまうものだ。弱々しく、引き退がるか、あせりと、いらだちで、苦悩するのが常であろう。逆に、題目を力強く唱えゆく人は、未来に、いかなる難問が横たわっていても、悠々と乗り切ってゆく力が湧く。現実の生活は、日々に洋々と開けゆき、、大洋のごとく、行き詰まるところをしらぬ。確信は、磐石の巌のごとくである。心境は、豊かで潤いのあること、田園のごとくである。あらゆる波乱も、変毒為薬して、それがすべて、その人生を飾りゆくものとなってしまうのである。 「身心無懈倦」とは、生命の部分観のみしか説かぬ法、哲学、思想に対し、一念三千の法門は、融通無礙の哲理であることをあらわしている。一念三千こそ、生命を完全に解ききった大哲理なるが故に、身心無懈倦なのである。 また、一代聖教大意(p402)に「止観の五に云く『夫れ一心に十法界を具す一法界に又十法界を具すれば百法界なり一界に三十種の世間を具すれば百法界には則ち三千種の世間を具す此の三千一念の心に在り」文、妙楽承け釈して云く「当に知るべし身土一念の三千なり故に成道の時この本理に称て一心一念法界に徧ねし」」と。 身心無懈倦の身心とは、一念三千の一念であり、妙楽の云う「一身一念」にあたる、無懈倦とは三千の変化であり、妙楽のいう「法界に徧ねし」にあたるのである。ゆえに身心無懈倦とは、一念三千なのである。〈御義口伝講義上p735〉
406
:
taka
:2011/03/21(月) 10:51:03
御書p748・⑨(p1594・⑨) 師子吼
師子吼とは仏の説なり説法とは法華別しては南無妙法蓮華経なり、師とは師匠授くる所の妙法子とは弟子受くる所の妙法・吼とは師弟共に唱うる所の音声なり作とはおこすと読むなり、末法にして南無妙法蓮華経を作すなり
通解
ここは勧持品(p440)の「仏前に於いて、師子吼を作して誓言を発さく……」とあるところである。 御義口伝には、次のように仰せである。師子吼というのは仏の説法である。説法とは法華経、別して南無妙法蓮華経を説くことをさす。師子吼の「師とは、師である仏が授ける妙法であり、「子」とは、弟子が受ける妙法であり、「吼」とは、師匠と弟子と、ともに唱える音声をいうのである。作とはおこすと読む。師子吼を作すとは、末法において南無妙法蓮華経を作すことをいうのである。
拝読の手引き(池田先生の指導)
「説法とは法華別しては南無妙法蓮華経なり」とは、種脱相対をあらわしている。すなわち、説法とは法華経であるが、別しては法華経寿量品文底の南無妙法蓮華経をさすのであるとの意味なのである。 次に「子とは……」以下の文は、師弟不二を示されたものである。「師とは師匠」とは、日蓮大聖人である。「教授るところの妙法」とは大御本尊のことである。人法一箇を示す。「子とは弟子」とは大御本尊を信ずる者であり、「受くる所の妙法」とは、信心で受けるところの妙法、すなわち、大御本尊を信じて、わが己身の大御本尊を湧現することである。「吼とは師弟共に唱うる所の音声なり」とは、師弟不二である。 また「南無妙法蓮華経を作す」とは、信心は受動ではなく、能動であるということであり、また広宣流布も他の人がやるのを待つのではなく、己自身がやると決めることである。戸田会長は、かつて「広宣流布は、一人の青年が命を捨てれば、必ずできる」と申され、また「青年よ一人立て」とも呼号なされた。まず第一歩は、自分みずからやるのである。それが次第にひろがっていくことは、まちがいない。われわれがやっていることは、大衆のもっとも欲していることをしているからである。〈御義口伝上p783〉
407
:
taka
:2011/03/22(火) 10:17:18
御書p750・③(p1596・③) 難来るを以て安楽
妙法蓮華経を安楽に行ぜむ事、末法に於て今日蓮等の類いの修行は妙法蓮華経を修行するに難来るを以て安楽と意得可きなり
通解
妙法蓮華経を修行するのに、難が襲ってくることをもって、安楽であると心得るべきである。
拝読の手引き
真実の安楽の境涯が、厳しい仏道修行の絶えざる実践のなかにあることを説かれた御文です。 安楽といえば、あらゆる人々が安楽を求めて生きているといってよいでしょう。病弱の者は健康体になろうと努力し、経済的に豊かでない人は、豊かになろうと懸命になっています。人それぞれ、目的や方向の違いはあっても、少しでも、現在の苦の境涯を脱却して、安楽を求めて限りなく努力しているのが、人間の自然の姿といえるでしょう。 しかし、このようにして得た安楽は、相対的な安楽であり、どこまでいっても終わりのない性質のものといってよいでしょう。小さな安楽は次のより大きな安楽へ、そしてさらに大きな安楽へと、限りなく、人間の欲望が拡大するにつれて、求める安楽も大きくなるのです。その結果、初めは安楽を求めて出発したはずが、かえって不幸になり、苦しみに変わるという笑えない悲しい事態が起こってくるのです。 では、いったい、絶対的な安楽の境涯はなんでしょうか。それが成仏の境涯なのです。人それぞれの生命の中にある仏の境涯を、御本尊へのひたむきな祈りを込めた唱題によって湧現し、一人でも多くの人に御本尊の功力を、教えていく化他行に邁進するとき、証得できるのです。自行化他にわたる仏道修行を全魂こめて実践するなかに、生命の無常の歓喜と躍動があるのです。 その際、三障四魔が猛然と起こってくるのは、仏法の道理です。真実の安楽というのは、それに敢然と挑戦し、ゆうゆうと乗り切るときに得られる境涯なのです。私達はいかなる難や障害をも恐れることなく、唱題一筋に乗り切り、なにものにもおかされない、永遠の幸福境涯を確立しきろうではありませんか。〈単行本「きょうの発心百選」180〉
408
:
taka
:2011/03/23(水) 10:15:58
御書p751・⑦(p1597・⑦) 地涌の流類
今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱え奉る者は皆地涌の流類なり
通解
今、日蓮大聖人およびその門下が、南無妙法蓮華経と唱えるのは、すべて地涌の菩薩の眷属なのである。
拝読の手引き(池田先生の指導)
諸法実相抄〈p1360〉には「皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり」とある。すなわち南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、皆地涌の菩薩の眷属なることをいうのである。 従って、法華経二十八品、従地涌出品に説かれた、教相における地涌の菩薩は、この大聖人の観心釈によって、所詮は日蓮大聖人の弟子を意味することがわかろう。遠く経文にあったものは、実は現実のわが身の上のことなのである。 法華経を読むと、非常に数字的に大きいことが説かれている場合が多い。たとえば経文には「百千万億那由佗劫」とある。だが大聖人の観心釈では、それは百界千如と読むわけである。また「観音三十三身」とあるのを、大聖人は、空仮中の三諦と読み、十界と読み、また法報応の三身と読む。また「千仏の御手」とあるのを、千如と読む等、けっして経文上のこととしてではなく、一歩深く、生活に直結して説かれている。これが大聖人の仏法から法華経を解釈する読み方なのである。次にあげる涌出品の文を教相のまま読んでも、現在の創価学会の広宣流布に向かう姿に、ひじょうによく似ていることがうなずける。 「一一の菩薩、皆是れ、大衆の唱導の首なり。各六万恒河沙等の眷属を率いたり。況や五万、四万、三万、二万、一万恒河沙等の眷属を将たる者をや。況や復、乃至一恒河沙、四分の一、乃至千万億万那由佗分の一なるをや。況や復、千万億那由佗の眷属なるをや。況や復、億万の眷属なるをや。況や復、千万、百万、乃至一万なるをや。況や復、一千、一百、乃至一十なるをや。況や復、五,四,三,二,一の弟子を将たる者をや。況や復、単己にして遠離の行を楽えるをや。是くの如き等比、無量無辺にして、算数譬喩も知ること能わざる所なり」 また、この経文からすれば、まだまだ折伏はできることになる。「仏語実不虚」の自信をもち、勇気をもって、誉れ高く、進んでいきたいものである。〈御義口伝上p848〉
409
:
taka
:2011/03/24(木) 11:06:58
御書p751・⑮(p1597・⑮) 不幸の根を切る信の利剣
此の本法を受持するは信の一字なり。元品(がんぽん)の無明(むみょう)を対治(たいじ)する利剣(りけん)は信の一字なり無疑曰信(むぎわっしん)の釈(しゃく)之(こ
れ)を思う可(べ)し
通解
元品の無明を対治する利剣は信の一字である。法華文句(ほっけもんぐ)巻十上の「疑い無きを信と曰(い)う」という釈をよく考えるべきである。
拝読の手引き
三大秘法の大御本尊を受持する根本は、信の一字であるとの御文です。元品の無明とは不幸の根源をいいますが、それを断ち切る利権は、信の一字しかないとの仰せなのです。 無明とは「明らかなることなし」ということで、生命の実体を明らかに悟ることのできない迷いをいいます。つまり元品の無明とは、不幸を起こさせる究極の実体のことです。具体的には生命感の誤りです。 人間の不幸を解決するのに、政治や法律、経済を変えたとしても、人間生命に巣食う元品の無明を晴らさない限り、真の意味で、人間の幸福はありません。環境革命をいかに進めようとも、人間の本質的な幸福の確立には遠く及ばないのです。社会の激変、時代の流れに動かされない金剛不壊の境涯は、妙法を信じ、無明を断ち切るところにあるのです。 大聖人は、不幸の人生を幸福の人生に転換させるものこそ、信の一時であるといわれているのです。その信心の姿勢こそ無疑曰信なのです。大御本尊に対して絶対の確信に立つことなのです。この姿勢、この一念が、一切の行動の出発点なのです。勤行のとき大御本尊に対し、学会活動の中に、自己の信心の姿勢が無疑曰信かどうか、常に反省していきたいものです。 仮にでも、無疑曰信の姿勢を崩し、我見をもって深遠な仏法を推し量るならば、自身の元品の無明は晴れないことを心すべきです。仏法に対する傲慢な姿勢こそ、無明の人生となることを知りましょう。〈単行本「きょうの発心百選」23〉
410
:
taka
:2011/03/25(金) 09:26:11
御書p754-1(p1600−1) 生死
生死を見て厭離するを迷いと云い始覚と云うなり
通解
生死を見て、それを厭離し恐れるのを迷いといい、始覚というのである。
拝読の手引き(池田先生の指導)
誰だって、恐いのです。死を恐れない人はいない。 永遠の生命を知らない人、信心のない人は、生死をいとい、そこを離れようとするのです。 ただ御本尊を信じ、永遠の生命観に立脚した人が生も死も楽しみきっていけるのです。(大白蓮華2009・12師弟の「御義口伝」講義p57)
411
:
taka
:2011/03/26(土) 11:03:56
御書p756・③(p1602・③) 智慧と福運増す唱題
是好良薬とは、或は経教、或は舎利なり。さて末法にては南無妙法蓮華経なり。好とは三世諸仏の好み物は題目の五字なり。
通解
寿量品の是好良薬とは、一般的には、あるいは経教、あるいは舎利(仏の身骨)とされている。だが、これは文上のことであり、末法においては、南無妙法蓮華経こそ、その実体なのである。「好」とあるのは、三世諸仏の好み物は、題目の五字なるが故である。
拝読の手引き
私達が日夜読む寿量品の中に出てくる「是好良薬」についての御義口伝です。 「是の好き良薬」とは、三大秘法の南無妙法蓮華経の御本尊であり、どんな病も治す功力をもっています。肉体的な悩みにせよ、精神的な悩みにせよ、一切の病悩を本源的に救済する力があるのです。 もとより、人それぞれ、宿命も違いますし、生命状態も異なるので、病患(病気をわずらうこと、病)の除去には、時間的違いもでてくるでしょう。だが、必ず、因果俱時で、その病は本源的に除去され、信心の積み重ねにより、時間の経過とともに、その実証をあらわしてくることは間違いありません。それを強く確信しきり、実証をあらわしていける人が、強信の人なのです。 色香美味をそなえた大良薬ですが、これをいやがるのは、毒気が生命の奥深く入っているからです。おいしいものをおいしいと感じられないことは不幸なことですが、大良薬を嫌う生命の濁りを直視し”信服”の姿勢を強めなければなりません。 御本尊を避けよう、勤行がいやになったなどというときは、大変な危険信号なのです。魔が生命体をおおい、仏界への接近、冥合を妨げているからです。南無妙法蓮華経の題目を三世諸仏が好む――これは、獅子王のような生命力と、智恵、行動力を持続する人の糧が題目であるからです。 本当に賢明で生命力豊かな人は、御本尊が好きで好きでたまらないのです。拝めば拝むほど知恵と福運が増し、生命力が増してくるからです。 同じ良薬でも、これはうまくないと吐き捨てる人、好きでたまらないという人、あるいは同じ人でもうまくないと避ける時、服するのがうれしくて仕方がない時――結局、その違いは、そのまま自己の信心と生命の充実、幸福のバロメーターであることを知るべきです。〈単行本「きょうの発心百選」279〉
412
:
taka
:2011/03/27(日) 10:30:55
御書p756・⑮(P 1602・⑮) 全人格をもって説法しよう
御義口伝に云く、常住とは法華経の行者の住処なり。此とは娑婆世界なり。山谷曠野を指して此とは説き給う。説法とは一切衆生の語言の音声が本有の自受有智の説法なり。末法に入っては説法とは南無妙法蓮華経なり。今日蓮等の類の説法是なり。
通解
寿量品第十六の「常に此に住して法を説く」の文について、御義口伝には次のごとく仰せである。「常住」とは法華経の行者の住処をいうのである。「此」とは娑婆世界をいうのである。山であれ。谷であれ。広野であれ、法華経の行者の住するところは「常住此説法」の「此」であると説かれるのである。「説法」とは、一切衆生の語言の音声が本有の自受有智の説法なのである。末法においては「説法」とは南無妙法蓮華経である。日蓮大聖人ご自身の説法も、また弟子檀那の説法も、南無妙法蓮華経の説法以外にないのである。
拝読の手引き
妙法を受持した人が仏道修行に励むところは、いずれの地であれ、どのような立場、境遇であれ、人間革命をなしゆく激闘の戦野にほかならないのです。また、理の上では一切衆生の語言音声はことごとく、その境涯と心情の発露を示しているものですが、その説法それ自体が、幸福に直結した説法であるかというと、そうではありません。妙法を信受する私達の南無妙法蓮華経の題目の説法こそ、真実の幸福への原動力となるのです。 南無妙法蓮華経を根底にした説法とは、地域において、家庭において、その人の人格からにじみ出る生命の輝きともいえます。その人の所作、振る舞い、態度、発言、行動に、御本尊への信の一念や人生への姿勢、使命に生きるさわやかさが自然と現れてくるものなのです。 このようにして妙法の偉大さを知らしめていくことが下種に直結するのです。下種――妙法の説法の有無は、信心のバロメーターです。真剣に唱題に精進しているときはm仏法の話を人に語りたいという情熱がわき上がっているものなのです。〈単行本「きょうの発心百選」630〉
413
:
taka
:2011/03/28(月) 10:15:12
御書p757・⑥(p1603・⑥) 現実の生活の場こそ霊山
霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり。
通解
霊鷲山とは、御本尊いますところであり、また日蓮大聖人およびその門下が、南無妙法蓮華経と唱え奉るその住処を指していうのである。
拝読の手引き
三大秘法の御本尊を信受し、広宣流布、一生成仏を目指して信仰の実践に励むとき、その場所こそが、霊鷲山という清浄な場所となることを教えられています。 霊鷲山といえば、古代インドの摩訶陀国の首都である王舎城の東北の方角にあった山で、当時、釈尊が法華経を説法した場所だといわれています。古来仏教徒の間では、最も浄らかで尊い場所として、よく知られています。特に、法華経を信仰する人びとにとっては、理想の仏国土であり、あこがれの浄土であったことは、いうまでもありません。 ところが日蓮大聖人は、大御本尊のいますところ、大聖人のいますところはもとより、私達妙法信仰者の生活する場所をも「霊山」であるとされています。 このことは、私達の願い、あこがれる理想の浄土とは、決して現実を離れた他の国土にあるのではなく、あくまでも妙法を信受して、広宣流布を推進し、一生成仏・人間革命を目指して精進する、現実の生活の場のなかに、開かれていくことを、教えられているのです。 振り返って、私達が生活する現実の場が、霊山であるといわれても、ピンとこない場合があるかもしれません。その生活環境も、決して恵まれた条件ばかりはそろっていないでしょう。 しかし、いかなる状況下にあっても、妙法の大功徳を実証せずにおくものかという、大いなる決意を私たちは固めていきたいものです。そのとき、そこに絶対的幸福が現出するのです。 穢土にするも浄土にするも、すべて一念によって決まります。自身の生命と環境に挑み、幸福へと変革していく姿勢の強い人こそ、信心の強い人といえるのです。〈単行本「きょうの発心百選」657〉
414
:
taka
:2011/03/29(火) 10:20:43
御書p758・⑪(p1604・⑪) 行道とは唱題の道
所詮末法に入っては法華経の行者は行道なり、謗法の者は不行道なり、道とは法華経なり。天台云く「仏道とは別して今の経を指す」と。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉るは行道なり。唱えざるは不行道なり。
通解
所詮、末法に入って、日蓮大聖人の立場からいえば、法華経の行者が行道であり、謗法の者が不行道になるのである。行道不行道の道ということは、結局、法華経すなわち末法においては大御本尊のことなのである。天台は「仏道とは別して法華経を指すのである」と。いま、日蓮大聖人及び南無妙法蓮華経と唱え奉る弟子檀那は行道である。唱えない者は不行道になるのである。
拝読の手引き
寿量品第十六の「我常に衆生の道を行じ道を行ぜざるを知って」の文についての御義口伝です。仏は行道の者、不行道の者を全部手に取るように知っていることを、このように述べられたものです。 御本尊にひたすら唱題する者のことは、だれが見ていようがいまいが、御本尊だけはご存知です。生命を究め尽くしたのが仏法です。その人の信心、行動、祈り、一念、そして福運は、厳然と生命に刻みつけられていきます。 ですから、世間的な立ち回りや要領だけでは通用しないのが信心の世界です。否、人間革命の激闘の世界に要領の入る余地はありません。日々、月々、年々にたゆまず、まじめに仏道修行を実践する人に、確かな結果があらわれないわけがありません。行道の人は仏の称賛するところとなることは疑いありません。 奥底の一念は、なるほど目には見えません。また日々、いかなる祈りを持続しているかは目には見えません。しかし「秘とはきびしきなり、三千羅列なり」(御書全集p714)で、その一念は現実に実相としてあらわれ、将来にも、目に見える具体的なかたちに展開していくのです。この目に見えない一念の世界を変革しきって、そこに限りなく幸福の因を刻んでいくのが信心なのです。(単行本「きょうの発心百選」616)
415
:
taka
:2011/03/30(水) 10:27:44
御書p759・⑧(p1605・⑧) 自我偈は自身の生命を説いたもの
自とは始なり、速成就仏心の身は終りなり。始終自信なり。中の文字は自受用なり。仍って自我偈は自受用身なり。
通解
自我得仏来の自が自我偈の始めの文字であり、速成就仏身の身が終わりの文字である。したがって始めと終わりの文字を合して自身となり、自我偈全体が、別しては日蓮大聖人ご自身のことを説かれ、総じては信心修行する者の自身の生命のことをあらわしている。その中間の文字は、受用、すなわち活動を意味し、三身如来の所作なのである。したがって、自我偈は、自受用身となるのである。
拝読の手引き
私達の朝夕読んでいる経文に如来寿量品第十六の自我偈があります。これは、法華経のエッセンスともいうべきもので、法門の骨髄が、述べられています。 この自我偈の構成をみれば、この御文に明示されているように、仏とこれを信ずる衆生の生命の本質、振る舞いを説きあらわしたものであることがよくわかります。日蓮大聖人、総じては妙法の信者の”自身”とその”受用”――活動、振る舞い、所作が明快に説き示されているからこそ、自我偈は貴いのであり、自我偈は自受用身のことを明かしているのです。 自受用身とは、別しては日蓮大聖人のご生命であり、清浄、光輝に満ち、行き詰まりがなく、自由自在に人生を謳歌して最高の幸福を満喫し、もっとも主体性のある、力強い生命と拝されます。私達も、広布を念頭に置き、大聖人の一念に迫った行動を展開するとき、この自受用身の生命がふつふつと湧現してくるのです。 御本尊になかなか境智冥合しきれない生命の弱さ、信の弱さを嘆く人がいますが、たえず、そのように反省し、勤行の姿勢を正していこうと、いつも努力する人こそ、精進の人といえましょう。自受用身の人たらんとするには、勤行をおろそかに考えてはならないことは、当然のことです。 自我偈の読誦、さらに五座三座の経文の読誦、唱題は、そこに深い意味が込められていることを、確認するような新鮮な気持ちで臨みたいものです。〈単行本「きょうの発心百選」470〉
416
:
taka
:2011/03/31(木) 10:17:53
御書p760・⑦(p1606・⑦) 徐悪こそ慈悲の行為
弥勒とは末法法華の行者の事なり。弥勒をば慈氏という。法華の行者を指すなり。章安大師云く「彼が為に悪を除くは則ち是れ彼が親なり」と。これ豈弥勒菩薩に非ずや。
通解
弥勒とは、末法の法華経の行者のことである。弥勒は慈氏と訳す。結局、法華経の行者を指すのである。章安大師は、涅槃経疏に「彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり」と述べている。この慈悲の行為が弥勒菩薩の本質である。
拝読の手引き
寿量品の対告衆についての御義口伝です。文上では、寿量品は弥勒菩薩に説かれ、釈迦在世の衆生を得脱させたのです。しかし、文底からみれば、その対告衆となった弥勒とは、末法の法華経の行者になります。これは、総じていえば、私達日蓮大聖人の仏法を信じ、南無妙法蓮華経と唱える者をいいますが、別しては、御本仏日蓮大聖人を指します。 弥勒は慈氏と訳しますが、慈悲こそ法華の行者の本質です。その行為は「悪を除く」ことです。悪とは、謗法、悪い宿業であり、不幸の本因を指します。また、一切衆生の生命に内在する慈悲を覆い隠している貪瞋癡の三毒などの悪心、無明をいいます。自己の利益のみを追求し、他人の不幸をかえりみないエゴイズムは典型的な悪の一つです。 そのような悪を除く活動が折伏なのです。自らの生命に巣くう悪心も折伏しつつ、相手の不幸の根因を絶ち、輝くばかりの真我を開かしめることこそ「折伏」の本義といえましょう。 御本尊への唱題に励み、自己の生命を磨きながら、折伏という利他の行を実践するときに、その化他の修行が、さらに自己の生命の浄化をもたらすというのが仏法の実践なのです。 このような生命の根本的変革を通してのみ、人間性の剥奪された社会に人間性を回復することができるのです。まさに現代の社会が最も必要としているものこそ、この慈悲であり「悪を除く」ことではないでしょうか。私達は、勇気をもって、この尊い折伏を実践していきたいものです。〈単行本「きょうの発心百選」609〉
417
:
taka
:2011/04/01(金) 09:04:37
御書p761・⑮(p1607・⑮) 真の歓喜とは
所詮寿量品の内証に随順するを随とは云うなり。然るに自他共に智慧と慈悲と有るを喜とは云うなり。所詮今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱え奉る時、必ず無作三身の仏になるを喜とは云うなり。
通解
所詮は、寿量文底の三大秘法の南無妙法蓮華経に随順することを、随喜の随というのである。しかして、自他ともに智慧と慈悲とがあることを、喜というのである。自分自身も、他の一切の人もともに知恵と慈悲という働きが生命の奥底に具わる時に、真実の喜びとなるのである。所詮、いま末宝において、日蓮大聖人およびその門下が、南無妙法蓮華経と唱え奉るとき、必ず知恵も慈悲も具えた無作三身の仏の生命を開いていく。それを喜というのである。
拝読の手引き
私達の進めている活動は、妙法を基調とした新文化創造の運動といえます。人間がつくりだしたものすべてを文化とするならば、私達の周囲の目や耳にふれるもの、住宅、食べ物、衣服、車、絵画、音楽等の一切が文化といえます。 文化とは、決して特殊な人によってつくられるものではありません。過去の人類の遺産、そして現在の私たちの生活そのものが文化なのです。したがって、妙法の文化といっても、特別なものをいうのではなく、生活の文化、人間の文化を、妙法を信受した私達庶民の手によって築いていくことにほかなりません。 今なお、私達の心をうつ文化遺産の中には、先人達の一念の躍動、智慧の輝きがみられます。また、根底には必ずなんらかの思想が貫かれているといえます。このことは、偉大な思想なくして、真の文化創造はありえないことを物語っているようです。 ある芸術家は、喜びに満ちて創作した作品には、香気が漂い、厳とした気品があると述べています。これは芸術だけに限るものではありません。生命の奥底からの歓喜をもって、満身で人生に取り組むこと自体、偉大な文化創造にほかならないのです。 妙法の歓喜とは仏の生命の発動であり、そこには慈悲と智慧が包含されています。しかも、それは自分だけのものではありません。妙法の優れた力は、他の人々にも慈悲と智慧をはぐくみ、各々の特質、個性を最大限に発揮させ、現実の社会に価値創造させていくのです。 日蓮大聖人の仏法を持った私達は、妙法の信仰に徹しきり、慈悲と智慧の心をみがきにみがき、完璧な人間性を身につけていきたいものです。さらに生命哲理の研鑽を深め、仏法を根本としたものの考え方、見方を骨の髄までしみとおらせることです。 そして、ひとりよがりでなく、他の人々とともどもに、それぞれの分野で社会に挑戦していくとき、過去の文化の模倣ではない、新しい文化が築かれることを確信したいものです。〈単行本「きょうの発心百選」101〉 真実の喜びとはどんなものでしょうか。楽しい喜劇を見て面白がるとか、たまたま学校の試験で良い成績をとって有頂天になっている状態は一時的なものであり、はかないものです。人の心は、くるくる変わりやすいものです。悲報に接すれば、その途端に悲嘆にくれて、見苦しいほど、取り乱してしまいます。 真実の喜びとは、崩れざる幸福境涯が基盤となった、生命の奥底からの歓喜です。 そのためには、生命の本質を究極的に解ききった、真実の仏法哲理、それを具現した御本尊によらなくてはなりません。一切の行き詰まり、苦悩を切り開いていくのは、仏法の知恵と慈悲以外にないからです。 私達が御本尊を真剣に唱えきっていくときに、知恵と慈悲とを備えた無作三身の仏の生命を湧現し、自由自在の境涯となるのです。この境涯に立ったときこそ、真実の喜びとなるのです。 しかも、それは「自他共に」と仰せのように、自分一人のみでなく、他人にも、さらには社会全体にも及ぶものなのです。”一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする”との原理を思い起こそうではありませんか。 私達の地道な実践が、やがて、平和で繁栄に満ちた社会を建設する原点となることを誇りに思い、ひたぶるな前進をさらに推し進めましょう。 信心とは歓喜なりです。私たちは希望をもって、さらに自己の信心を強固にし、個人の幸福と社会の繁栄が一致する「自他共に喜ぶ」社会を築いていこうではありませんか。〈単行本「きょうの発心百選」27〉
418
:
taka
:2011/04/02(土) 09:50:58
御書p763・⑥(p1609・⑥) 自己の生命映す明鏡
浄明鏡とは色心の二法、妙法蓮華経の体なり。浄明鏡とは信心なり。
通解
清浄にして、あらゆる事象を明らかに映し出す浄明鏡とは、色心の二法、それは日蓮大聖人の生命であり、妙法蓮華経の体である御本尊である。すなわち人法体一の御本尊である。また浄明教とは信心である。
拝読の手引き
清らかに磨き上げられた、明るく美しい鏡は、すべてのものをあるがままに映し出します。自分の顔や姿を映す場合、誰しも明るい研磨された鏡を望むものです。しかし、姿、形を映す鏡以上に、自分の生命を見つめるための明鏡が必要なのです。 自己の生命を誤りなく見極め、人生の設計をなし、真実の世界観を確立しつつ、幸福な生涯をまっとうしていく――そのための浄明教こそ御本尊です。 御本尊という曇りなき明鏡によって、また信心という最高の自己練磨によってこそ、真実の主体性のある黄金の人生を築ききっていくことができるのです。 低級な思想で毒され、汚染された生命では何をやっても空転です。挫折を繰り返し、自らの宿命を打開できぬままに、不毛の人生を終える人のなんと多いことでしょうか。 妙法の信心を根本にした私達の場合は、確固たるバックボーンを有し、自己を啓発し、いかなる逆境にあっても、不撓不屈の逞しい生命力で、上げ潮の人生を築いていけるのです。 価値観が錯綜し、情報は渦を巻いて、私達の生活の中に、洪水のごとく流れ込んでいるのが現代です。正しい人生観と価値観で、如実知見していくことほど大切なことはありません。世間の一切のことに通達して、迷いのない判断と行動をとりえたら、これほど安心なことはありません。 私達の幸福への前進を阻む障魔の存在を、それと見破り、砕波していく眼力をそなえた人は、ますます成長し、確固不動の幸福境涯を築いていけることでしょう。惰弱な自己の生命状態を浮き彫りにし、正しい方途を示してくれる明鏡ほどありがたいものはありません。生命の奥底をみつめ、一切を如実知見して幸福を築く明鏡は、宇宙広しといえども、御本尊以外に、絶対ありえないのです。 妙法への帰命、妙法への限りない信――そこにこそ無限の仏智が湧き出て、如実知見の人生が開けてくるのです。〈単行本「きょうの発心百選」44〉
419
:
taka
:2011/04/03(日) 09:20:17
御書p765・⑭(p1611・⑭) 「信伏随従」こそ信心の基本
信とは無疑曰信なり、伏とは法華に帰伏するなり、随とは心を法華経に移すなり、従とは身をこの経に移すなり。
通解
信伏随従の信とは無疑曰信の信であり、伏とは法華経に帰伏することである。随とは心を法華経即御本尊に移すことであり、従とは身を御本尊に移すことである。すなわち、色心ともに御本尊に従い、実践することを随従というのである。
拝読の手引き
私達の信心の基本的な姿勢である「信伏随従」について述べられた一節です。 現代文明、つまり理性へのあくなき信仰によって築きあげられた文明は、驚異的な科学技術の進歩をもたらしました。しかし半面では、片意地なまでに理性に信頼を置きすぎたため、人間生命が本然的にもつ欲望の解明を怠り、その暴走にブレーキをかける術をしらなかったために、現在、地球的規模で起こっている公害問題をはじめとする文明の危機をつくりだし、全人類を絶滅の淵に追いやらんとしています。 こうして混迷せる文明に対し、理性の限界を知り、欲望をコントロールしつつ、調和のとれた文明、文化の創造の源泉たりうる唯一の哲学は、生命の全体像を完璧に解明し、誰人も疑うことのできない信の道を開いた日蓮大聖人の一念三千の哲理以外にありません。 私達の信仰もこの大聖人の仏法への揺るぎなき信を根幹としているのです。疑っても疑ってもなお真実を認めざるを得ない究極の実体、信じて悔いなき永遠不滅の極理への信仰を、無疑曰信というのです。この生命の根本姿勢である信が確固たるものとなった時、私達の実践、行動の根源となり、源泉となっていくのです。 私達は三大秘法の大御本尊への絶対の”信”を一切の基盤としていますが、その信も実践、行動へと展開されていく起点となりうるものでなければなりません。 信仰は単なる内面の世界の変革にとどまらず、必然的に外面の世界、現実の世界の変革に敢然と挑戦していく革新性にその本意があります。私達が現代文明の危機を救い、創価文化ともいうべき新しい世界文化創造への道を切り開いていくべき使命を自覚する時、やむにやまれぬ気持から反戦・平和の戦いを起こしていくのはむしろ当然といえましょう。 どこまでも御本尊を信じきり、唱題し、ブロックで、また社会でおのおのの使命と立場に応じた戦いを逞しく実践しぬいていきたいものです。〈単行本「きょうの発心百選」316〉
420
:
taka
:2011/04/04(月) 09:31:43
御書p767・④(p1613・④) 折伏こそ末法の礼拝行
御義口伝に云く、不軽菩薩とは十界の衆生なり。三世常住の礼拝の行を立なり。吐く所の語言は妙法の音声なり。
通解
これは常不軽品第二十に説かれた不軽菩薩についての御義口伝である。不軽菩薩とは十界の衆生である。この十界の衆生は過去、現在、未来の三世にわたって、常に相手の仏性を礼拝する修行を立てるのである。この衆生の吐くところの語言は妙法の音声であり、南無妙法蓮華経なのである。
拝読の手引き
不軽菩薩とは、いかなる生命の当体であるのかを明確に述べられた御文です。 「不軽」とは、常に相手の仏性を信じて、どこまでも敬い、人間性を最高に尊重していく生命の姿勢です。また、菩薩といっても、色相荘厳の姿をした特別な修行をする人がいるのではなく、やはり私達十界の衆生すべての生命にそなわった生命の傾向性をあらわしたものです。私達の生命には不軽菩薩の生命が本来的に内在していることを「不軽菩薩とは十界の衆生なり」といったのです。 さて、不軽菩薩は一切衆生に仏性があるが故にそれを礼拝しました。このことを私達の立場からいえば、どういうことになるのでしょうか。それは御本尊を信じ、御本尊へのひたぶるな唱題によって、私達の己身の仏界を湧現させることです。それによって尊貴でかけがえのない当体としての自己を発見するところに、人間の尊厳性に対する自覚はほんものになるのです。 それはすでに仏の振る舞いとなり、相手を思う一念は南無妙法蓮華経の音声となって、友人の心をより一歩深いところから揺り動かしてやまないものとなるでしょう。したがって、相手の低い人生観を打ち破り”人間”としての真の生き方を知らしめる折伏行こそ、不軽菩薩の生命を内在させた私達の時にかなった仏道修行なのです。 この折伏行は、相手の人間性を傷つけ軽んずることではなく、人間としての本来の生き方に目覚めさせ、相手の人生を限りなく拓いていく行為なのですから、勇気を奮って、まず身近な友人、知人に実践をしていこうではありませんか。〈単行本「きょうの発心百選」537〉
421
:
taka
:2011/04/05(火) 10:22:15
御書p768・⑯(p1614・⑯) 善因を触発する信心
悪因あれば悪果を感じ、善因あれば善果を感ず。内証には汝等三因仏性の善因あり。事に顕す時は善果と成って皆等作仏すべしと礼拝し給うなり。
通解
生命に悪因があれば悪果を感じ、善因があれば善果を感ずる。不軽菩薩の礼拝は、汝等一切衆生の生命の内証には三因仏性の善因がある。それを信心に励んで事として顕現したときには、善果となって、皆まさに成仏するであろうと礼拝されたのである。
拝読の手引き
因果は万物、万象を貫く原理です。善因あるいは悪因が生命に刻まれていれば、具体的にいつ現われるかは別にして、必ず善果あるいは悪果を生命の上に感じます。 ところでこの因果に、倶時と異時の代表的な二つのとらえ方があります。釈迦仏法は因果異時の法門です。そこから導かれやすい、現在の不幸は過去世の宿業によって決定されているとして一歩も出ない考え方は、消極的、宿命論的な色彩を、生活態度に与えます。 これに対して、日蓮大聖人の仏法は因果俱時です。一念の生命という実在に因果が倶時にはらまれていることを解明し、そこに一念の自由を見いだしているのです。 この因果俱時の法門、蓮華の法を持った人は、諦めの世界に住するのではない。積極的に、自身の生命の悪因も変えていくのです。つまり御本尊に向かって南無妙法蓮華経と唱えるときに(縁因仏性)、自身の生命に本然的に具わる仏界の生命(正因仏性)が、現実に湧現する(了因仏性)なのです。 本源的な善因を開拓したのですから、その善果は生命、生活のうえに現れざるを得ません。濁った生命の流れを取り除き、こんこんとわき出てくる輝く生の泉のほとばしり……過去世からのすべての悪因も、そこから起こる悪果もことごとく洗い流して、一切の生命活動を善因、善果にと変えてしまいます。 どんな人も三因仏性が理の上では具わっています。それを事の上に現すかどうかが信心の戦いなのです。〈単行本「きょうの発心百選」612〉
422
:
taka
:2011/04/06(水) 10:26:23
御書p769・⑤(p1615・⑤) 忍耐強く慈悲の実践
既に杖木瓦石を以て打擲すれども、而強毒之するは慈悲よりも起れり。仏心とは大慈悲心是なりと説かれたれば、礼拝の住所は慈悲なり。
通解
不軽菩薩が上慢の四衆によって、杖木瓦石をもって打ちたたかれても、なおかつ、しいて折伏するのは慈悲の一念より起こるのである。仏心とは大慈悲心を指すと説かれているのであるから、不軽のこうした礼拝の住処は慈悲であるということができる。
拝読の手引き
折伏の根本精神を明示された御文です。 不軽菩薩と同じように、私達の折伏においても、素直に聞く人はまれで、思想の邪を指摘し、仏法哲理を納得せしめようとすると、必ずといってよいほど、相手は反発してくるものです。反対して毒心を起こすのですから、罰は眼前と現れます。だが、毒鼓の縁を結んだことにより、いったんは苦しんでも、必ず妙法を信受し、幸福になることができるのです。 誤れる思想、幸福をむしばむ極悪の宗教の恐ろしさを知らない人、それを親切に教えてあげてもその宗教に執着して正法に反対する人――このような人は、いつまでたっても、不幸の深淵からのがれることはできません。憎まれても、悪口を言われても、忍辱の鎧を着て、私達が折伏してあげる以外に、この人達を救うことはできないのです。 ところで私達の姿を振り返ってみると、なんとまた、利己にのみ執着して、他人のことを考えないことが多いのでしょうか。そのような低い境涯では真実の幸福な人生とはいえず、末法出現の地涌の菩薩のあるべき姿ではありません。 一切衆生の苦を抜き、楽を与えんとされる御本仏の広大無辺な慈悲心には、遠く遠く及ばなくとも、その誉れある弟子になるのだとの決意に立って、頑迷な相手を心の底から救わずにはおくものかとの情熱に燃えて、折伏していこうではありませんか。〈単行本「きょうの発心百選」21〉
423
:
taka
:2011/04/07(木) 10:09:47
御書p777・③(p1623・③) 「求男」「求女」の徳
南無妙法蓮華経と唱え奉る行者は、求男求女を満足して父母の成仏決定するなり。
通解
御本尊に南無妙法蓮華経と唱える法華経の行者は、求男(男の子を産みたい)の願い、求女(女の子を産みたい)の願いを満足して、父母の成仏をも決定していくのである。
拝読の手引き
信心を真面目に実践すれば、当面かかえている問題も解決し、将来の確固とした幸福も心配ないし、父母の幸せをも決めていく、と大聖人は断言されています。この確信を失わない人に人生の勝利の栄冠が輝くのです。 「求女」とは、法華経普門品の言葉で、女の子を産みたいと求めれば、容貌の美しい、みんなに大切にされる女の子が生まれる、という意味です。「求男」とは、同じく、男の子を産みたいと願えば、知恵のすぐれた、福徳のすばらしい男の子が生まれるという意味です。日蓮大聖人は、これをさらに深く展開されて、男女の本質論に及び「求女」の徳は現世安穏、「求男」の徳は後生善処であると述べられています。 女性は、容貌を気にし、外形のことに心を向かがちであり、現在の幸福に焦点を合わせる傾向があります。男性は、両徳と知恵が社会を乗りきっていくのに大事な要素となり、未来の幸福に生きようとする傾向性が強いといえます。保守と進取は人間の幸福にとってともに大切な要素であり、現世安穏、後生善処は、私達の功徳にあふれた人生の確立に二つとも不可欠のものです。この「求女」「求男」の両徳が、妙法の行者にはともに備わると大聖人は確言されているのです。 しかも、単に、自己一個の成仏だけにとどまるものではありません。父母の成仏にも及ぶのです。親子同時の成仏です。子の信心の成長が、父母の信心、発心の導火線となり、終局的には幸福にしていくことを知るべきです。 自己が福運をしっかり積み、親に題目を回向していく……その人が孝子というべきではないでしょうか。親の救済は、この、妙法に生きる真剣な人生態度の中に包含されているのです。〈単行本「きょうの発心百選」378〉
424
:
taka
:2011/04/08(金) 09:44:38
御書p779・⑭(p1625・⑭) 一眼の亀と栴檀の浮木
一切衆生は一眼の亀なり。栴檀の浮木とは法華経なり。生死の大海に南無妙法蓮華経の大孔ある浮木は法華経に之在り。
通解
一切衆生は(大海をさまよい続ける)一眼の亀である。(彼が求める)栴檀の浮木とは法華経である。生死の苦しみの大海にあって(それを根本から救いきっていく)南無妙法蓮華経の大きな穴のある浮木は、ほかならぬ法華経にあるのである。
拝読の手引き
一切衆生と御本尊の関係を、一眼の亀と栴檀の浮木の大きな穴にたとえられて、三大秘法の御本尊にめぐり合うことの、すばらしさを述べられた御文です。法華経厳王品第二十七には「一限の亀の浮木に値えるが如し」(妙法蓮華経並び開結p653)と、妙法にあうことのむずかしさを説いています。 考えてみれば、地球上には無数の生物がいますが、その中でも人間に生まれるということは実に難事だといえましょう。三十数置くの人類の中でも、三大秘法の御本尊を信受できた人は、まだまだ、ほんのわずかな数にしかすぎません。 なかんずく、あい難き御本尊を信仰することができても、化儀の広宣流布が広範に推進されるときにあうことは、一層の難事だといえましょう。そう考えるならば、未曾有の総体革命を展開する創価学会の一員として生まれ合わせた私たちの福運は、想像を絶するものがあるといえましょう。 私達はこの無上の福運を実感すればこそ、安易な日常性に埋没し、無気力、無責任な日々を送ることは、厳につつしみたいものです。福運あって妙法にめぐりあえた私達こそ、無限の可能性を求めて、自己の人間性の開発・向上を追求する謙虚な姿勢を堅持していきたいものです。 私達が信仰する目的は、一生成仏であり、永遠の生命の覚知です。”自分はもう、なんでも知っている”といって、謙虚に仏法の真髄を求め、精進する姿勢を失ってしまったならば、もはや妙法を信仰する者の姿とはいえません。いかなる苦難にもめげず、生涯、妙法の哲理の理解を深め、実証しきる決意を新たにしていきましょう。〈単行本「きょうの発心百選」403〉
425
:
taka
:2011/04/09(土) 10:42:28
御書p780・⑨(p1626・⑨) 普賢菩薩の働き
此の法華経を閻浮提に行ずることは普賢菩薩の威神の力に依るなり、此の経の広宣流布することは普賢菩薩の守護なるべきなり
通解
この法華経を全世界に行ずるということは、普賢菩薩の威神の力によるのである。この経が広宣流布するのは普賢菩薩の守護によるのである。
拝読の手引き
妙法の流布は普賢菩薩の生命の働きによって大きく守られ、促進されることを述べられた御文です。普賢菩薩とは、学問、学理を追求する生命の働きであり、広布推進に欠くことのできない特質です。 私達一人ひとりの生命に約していえば、教学に励み、良書を読み、英知に輝く人材、洞察力のすぐれた人間に育っていくことが、広宣流布を決定づけるということではないでしょうか。 広布の流れを豊かにするには、有智の団結しかないことを、私達はよく知っています。一人ひとりが妙法を根本に知恵をみがき、知識を豊かにし、しかもその知識が自己の血肉となり、生きている。人間性の豊かさに裏打ちされた輝くばかりの知性の光がある……そういう人材をたくさん輩出していくことが大切なのです。 世間一般の学者、知識人の学理、知識は庶民をはなれ、観念論に終わっている場合がよくみられますが、私達妙法をたもった者の学理、知識は人を助け、妙法の流れを強く豊かにし、自己の成長に直結する英知の輝きとなって結晶するのです。 ”学ばずは卑し”という言葉があります。求道の息吹を失った人には、みずみずしい成長はありません。勉強していこうという人の生命には、未来が感じられます。一切のものが私達の勉強の対象となります。教学を根本に、知識を吸収し、知恵を発揮していくことの重要性を、私達はよくよく心に刻んでいきたいと思います。 悩める者の友であり、庶民の心からのリーダーになるためには、また、自信を英知輝く人にするためにも”学”の重要性をいま一度考えてみることが大切なのです。広布とは言論戦であり、総体革命なのです。〈単行本「きょうの発心百選」395〉
426
:
taka
:2011/04/11(月) 10:04:19
御書p780・①(p1626・①) 先ず自身を輝かせよう
今日本国の一切衆生は邪見にして厳王なり。日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は二人の如し。終に「畢竟住一乗」して邪見即正なるべし。
通解
今、日本国中の一切衆生は、正法をたもたず邪法にたぶらかされており、妙荘厳王といえる。日蓮大聖人およびその弟子として、南無妙法蓮華経と唱えるものは浄蔵・浄眼の二人のようなものである。最後は必ずや「畢竟して一乗に住せしむ」の神力品の経文のごとく、無数の民衆をして正法に帰依せしめて、邪見が即正見にと変わる厳王品の原理通りになっていくのである。
拝読の手引き
妙荘厳王品には、有名な話が出てきます。父王・妙荘厳王は外道を信じています。これを、この浄蔵・浄眼の二人が、母・浄徳夫人の協力を得て、正法に帰依せしめるという話です。父王の邪見を正見に変えるために、二人は、正法の力の偉大さを示すべく、さまざまの神変を現じていきます。父は、これを見て非常に歓喜し、二人の師匠がだれであるかを問い、ともに仏所に詣で仏法を受持するというものです。 さまざまな神変を現じたとは、人間革命の実証を示したことです。日々、確信に燃え、歓喜に輝き、幸福になっていく、たくましくなっていく、清らかで福々しく、包容力豊かになっていく……そういった妙法を持った者の変化していく姿ほど、妙法の力を雄弁に物語るものはありません。 なお、唱題と教学に励み、仏法対話に精出す人は、日ならずして、生命の奥底から輝き出し、外見上にも、なんらかの、否定しようのない実証をあらわすことができることを銘記すべきです。 邪見に染まり、生命を歪め、濁らせている人びとは実に多くいます。心の奥では必ずや、人知れず己の姿に悩んでいることでしょう。その迷い、苦しみを抜き、正見にめざめさせる尊い行為が学会活動です。二人の兄弟が力を合わせたように団結して、妙法の麗しい絆を強めつつ、勝利と正義の実証、正義の言論で、多くの厳王の幸福のために戦いましょう。〈単行本「きょうの発心百選」644〉
427
:
taka
:2011/04/12(火) 10:20:49
御書p784・③(p1630・③) 桜は桜、梅は梅
量の字を本門に配当する事は量とは権摂の義なり。本門の心は無作三身を談ず。此の無作三身とは仏の上ばかりにて之を云わず。森羅万法を自受用身の自体顕照と談ずる故に、迹門にして不変真如の理円を明かす処を改めずして己が当体無作三身と沙汰するが本門事円三千の意なり。是れ即ち桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見すれば是れ即ち量の義なり 。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱え奉る者は無作三身の本主なり。
通解
無量義の量の字を迹門、本門、観心のうち、本門に配当することは、量とは一切のものを包含するという意味があるからである。本門の元意は、無作の三身を説きあらわすところにある。この無作三身とは、単に仏のことばかりではなくして、妙法に照らされた一切の生命活動のことをあらわしているのである。 すなわち、森羅万象、一切の生命活動は、本門において自受用身の自体顕照と説かれるがゆえに、迹門において説かれている不変真如の理円をそのまま改めないで、おのおのの当体がそのまま無作三身と顕現していくのである。これが本門事の一念三千の元意なのである。 これすなわち、桜は桜、梅は梅、李は李と、おのおのの当体を改めずして、そのままの姿で無作三身と開見していくのである。これこそ一切を摂することであり、量の義である。 今日蓮大聖人およびその門下として、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、すべて無作三身の本主なのである。
拝読の手引き
日蓮大聖人の仏法は、すべてのものを包容し、おのおのの特質を最高に生かしきっていく寛容性に飛んだ信仰であることを教えられた御文です。 今、新しい時代の到来とともに、私達一人一人に強く望まれることは、妙法の輝く光を燦々と浴びて、自己自信を照らしあらわし、なかでも、その特性、個性を存分に顕現しきっていくことです。すなわち、この御文にあるように、一人一人が自体顕照の人生、生活を立派に確立することが今、最も強く要請されているのです。 自体顕照とは、平易にいえば、自分自身というものを、明らかに照らしあらわすということです。つまり、それはそれぞれの特性、個性というものを最高度に発揮した生活といえましょう。 人として生まれながら、自分自身の個性を存分に発揮できないまま、主体性埋没の日々を送ることほど、味気のない人生はないでしょう。 今、世間では、”生きがい論”が盛んですが、科学技術文明の驚異的発展の陰で巨大な管理者会のなかで、人々が、真に価値ある人生を希求し、まさぐっていることは事実です。 ひるがえって、今、座談会を主軸に、大ブロック組織の完璧を期す私達にとっても、この主体性の開花、大ブロック員個々の自体顕照の実証ほど大切なものはありません。 一人一人の個性をどう伸ばすか、一人一人の生命に眠る特性をどう開花させるか等、個々の尊厳を守り、称え、開いていくことこそ、妙法に目ざめた私達に課せられた最大の使命であるといっても過言ではありません。それはまた、団結を築く要諦でもあります。宇宙、生命の本源へ鋭く迫り、その本質を曇りなく解明された日蓮大聖人は、その人間蘇生、主体性の確立の、いわば生命開発の原理ともいえる珠玉の指針を明示されているのです。 「此の無作三身とは仏の上ばかりにて之を云わず。森羅万法を自受用身の自体顕照と談ずる故に」と示されているように、無作三身如来といっても、それは仏のことだけをいうのではなく、人間も自然もすべて無作三身如来、つまり、妙法の生命の当体であると述べられているのです。 しかも、森羅万法という現象の世界は常に千変万化の変化相を示しますが、その千変万化の一つ一つがことごとく妙法に照らされた姿なのであると教えられているのです。 また「是れ即ち桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見すれば、是れ即ち量の義なり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱え奉る者は無作三身の本主なり」と述べられていますが、妙法は、千差万別の個々そのままの姿で、それぞれの特性を最高度に開発させていく本源の力なのです。仏法は個性を最も尊重する哲理なのです。 今、広布の活動につどい寄った私達の生活、境遇等も、千差万別です。しかし妙法の世界では、どのような性格の持ち主でも、どんな境遇の人でも、皆、自体顕照し、おのおのの持ち味を最高に輝かせることができるのです。一人一人が広布の大使命を主体的に分かちもつ貴重な人材なのです。 梅は梅とし、桜は桜として、互いに尊敬しあい、美しい団結の花を咲かせきっていこうではありませんか。〈単行本「きょうの発心百選」98〉
428
:
taka
:2011/04/13(水) 10:42:24
御書p785・⑮(p1631・⑮) 煩悩の薪を菩提の智火に
法華の行者は、貪欲は貪欲のまま、瞋恚は瞋恚のまま、愚痴は愚痴のまま、普賢菩薩の行法なりと心得可きなり。
通解
法華経を信じ行ずる者は、貪欲は貪欲のまま、瞋恚は瞋恚のまま、愚痴は愚痴のままで、普賢菩薩の行法(一念三千の振る舞い)となると心得るべきです。
拝読の手引き
煩悩即菩提を教えられている一節です。 貪欲とはむさぼりであり、さまざまな欲望です。瞋恚とは、怒りのことであり、感情が激したり感情のままに動かされている状態といってよく、愚痴は、愚かなことを意味します。この三つは、心身ともに、また今世だけでなく後世にまで、生命を毒するので、三毒といわれます。 古来、めざめたる人は、この三毒の煩悩をどのようにしたらよいかと、解決策をさがし求めましたが、ついにその方法を見つけることはできませんでした。断ちきってしまえと考えることは容易ですが、それでは、人生は成り立ちません。少なくともなま身の人間、凡夫の実行しうるところではありません。死んでしまっては、生の楽しい活動はできません。 煩悩は、たしかに、不幸の根源ではありますが、また、煩悩があるからこそ、生命は維持でき、生活と生産ができ、文化の進歩と向上があるのです。要は、貪・瞋・癡の煩悩にふりまわされて、不幸にならなければよいのであって、これを転換して菩提に、幸福にとできればよいのです。妙法は、それを可能にする唯一の道です。煩悩の薪を焼いたとき、ドス黒く燃え上がるか、あるいは、菩提(悟り、幸福)の知恵の火が清らかに燃え上がるか、不完全燃焼か完全燃焼なのか……薪はおなじ煩悩であっても、その差はきわめて大きいものがあります。 大聖人の仏法は、この一節に示されているように、悩み、欲望、煩悩を、なんら断尽することなく、菩提の智火を燃え上がらせ、煩悩がそのまま人の成長と幸福に結びつくのです。煩悩という最も人間的な要素、ありのままの人間性をなんら否定しないで、最も清浄な形で展開する人間主義の仏法が、私達の宗教なのです。題目の持続で、煩悩がすべて、幸福の因となるのです。〈単行本「きょうの発心百選」387〉
429
:
taka
:2011/04/14(木) 10:08:34
御書p786・⑯(p1632・⑯) 凡夫と仏の違い
我が心本より覚なりと初めて覚るを成仏というなり。所謂南無妙法蓮華経と初めて覚る題目なり。
通解
自己の生命が久遠元初以来、仏の当体であると、はじめて事実の上に覚ることを、成仏というのである。わが身が南無妙法蓮華経の当体であると、はじめて事実の上に覚るのは、大御本尊に向かって唱題するからである。
拝読の手引き
凡夫と仏の違いはどこにあるのでしょうか。それは自分自身が仏であると覚知しているかどうか、につきます。 いかなる人の生命にも、仏の生命が内包されています。だれでも仏の当体なのです。だが衆生は、九界の迷いの中にあって、自分がそのような存在であるとはしりません。 ”夢中の人”と”寤の人”の違いといってよいでしょう。衆生とは、無明(迷い)の眠りの中にあって、自身の本質に気づいていない人のことなのです。 自分の生命が、もともと仏の生命であったと悟るーーそれはまた譬えてみれば、鏡の表を見ることに当たりましょう。鏡の裏を見ているのが、無明の衆生の境涯です。だが、鏡自体に違いはありません。迷悟不二、生仏一如です。 その差別を決定づける鍵が、題目です。持続の題目の行により、生命は”迷”から”悟”へ、と事実の上で、変革されていくのです。自身が南無妙法蓮華経の仏であり、内に輝くばかりの英知と清浄な生命の力がある存在であることを、発見することでしょう。 覚知とは観念論ではありません。現実生活の上に、我が生命の実感の上に、仏の生命があらわれ、仏の所作、振る舞いとなるのです。自行化他にわたって、題目を実践し抜こうではありませんか。本仏の当体であられる御本尊との冥合により、自信、もったいなくも、蓮祖大聖人とあらわれるのです。清浄な仏の生命と知恵がこんこんと湧き出て、有意義な人生を送る根源は題目なのです。(単行本「きょうの発心」615)
430
:
taka
:2011/04/15(金) 09:36:23
御書p788・⑥(p1634・⑥) 日々の発心は本因の題目から
南無妙法蓮華経は三世一念なり。今日とは末法を指して今日と云うなり。
通解
南無妙法蓮華経は、三世にわたる奥底の生命を説いたものである。また「彼の久遠を観るに、猶し今日の如し」の「今日」とは末法を指して今日というのである。
拝読の手引き
この御文は久遠即末法の原理を説かれたものですが、常に清新はつらつたる本因妙の信心を貫いていくために、ぜひとも身に刻んでおきたい一節です。 ややもすると私達は過去の出来事に固執して、現在の境遇を嘆いたり、いたずらに将来に対して不安を抱いたりしがちです。 しかし、日蓮大聖人は「三世一念なり」と示されているのです。つまり、私達の生命活動の本源をたどれば、過去、現在、未来の三世は、究極は現在の瞬間の生命に収まるということです。現在の瞬間に過去遠々劫の宿命も、また福運もすべて含まれているのです。未来も現在のお瞬間が起点であり、未来を確信し、左右していくのも、結局は現在の一念の働きが大きく影響していくわけです。 だから私達が過去に拘泥し、未来に向かって希望を失うことは、生命の原理からみて極めて愚かなことです。たとえ現在は、どのような境遇にあろうとも、今の一念が必ずや未来に希望を開いていくという大確信をもつことこそ、本因妙の信心であることを銘記したいものです。〈単行本「きょうの発心百選」695〉
431
:
taka
:2011/04/17(日) 08:41:39
御書p789・④(p1635・④) 迷いの生命を離れて仏界はない
我等が一念の妄心の外に仏心無し九界の生死が真如なれば即ち自在なり。所謂南無妙法蓮華経と唱え奉る即ち自在なり。
通解
我々の生命のなかにある迷いの生命を離れて仏界の生命はなく、九界の生死が御本尊に照らされれば、自在の生死となるのである。すなわち、南無妙法蓮華経と唱え奉ることにより、自在となるのである。
拝読の手引き
法師品の「まさ二知るべし是くの如き人は、生ぜんと欲する処に自在なり」の文について述べられたものです。すなわち妙法を持った人は、いかなる所に生まれようともすべて寂光の世界であり、自由自在に振る舞っていくことができるという意味です。 この御文について日蓮大聖人は「一念の妄心の外に仏心無し」と説き明かされ、迷い悩む生命自体に仏界があると示されています。迷いの生命といっても、仏の生命といっても、生命それ自体には変わりがないのです。 私達はいうまでもなく一生成仏を目指して信心に励んでいますが、それは営々と仏道修行を積み重ねた末に特別な境地に達するというのではありません。あくまでも私達の日常生活のなかで、悩みや苦しみと表裏一体となって仏界が存在しているのです。しかも、私達の自覚しだいでいつでも仏の生命をあらわすことができるのです。 大聖人は、現在の自分の内奥に仏の生命があることを知り、題目を唱えることによって自由自在に仏界をあらわしていくことができると教えられています。 私達の日常生活には、さまざまな苦悩が充満していますが、そうしたときに、その苦悩に引きずりまわされていくか、力強い唱題でゆうゆうと乗り越えていくかで、その人の境涯には天地雲泥の差ができてしまうのです。自由自在の境涯とは、この人生の苦悩をたくましい生命力で軽々と乗り切っていけることを意味するともいえましょう。私達は日々の真剣な勤行・唱題によって、この自在の境涯を打ち立てていきましょう。〈単行本「きょうの発心百選」556〉
432
:
taka
:2011/04/18(月) 09:20:56
御書p790・⑦(p1636・⑦) 価値創造に不断の心労
一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり
通解
一念に億劫の辛労を尽くすなら、本来わが身に具(そな)わる無作の三身(仏【ほとけ】の生命)が念々に起こるのである。いわゆる南無妙法蓮華経は精進行である。
拝読の手引き
我が行動は果たして御本仏のお心にいささかも恥じることのない精進行なのかどうか、広宣流布へ人知れぬ辛労を尽しているかどうか――この御文に接するとき、おのが信心のあり方を厳しく指摘される思いをいだくのではないでしょうか。 「一念に億劫の辛労を尽せば」とは、日蓮大聖人が民衆救済に戦われた辛労ですが、私達の信心であるといえます。信心とは決して観念ではありません。全生命、全人生を妙法に賭けていく、奥底の一念の姿勢です。それは厳然と、その人の行動のうえに、生活態度のうえに、行動する姿のうえに、声の響き、さらに計画、作戦のうえに反映されていくものです。 実践のないところに一念の辛労はありません。一念の辛労のないところ、自己の境涯の飛躍はないのです。立正安国実現のために、惰性を排し、全生命に億劫の辛労を重ねているかどうか、よくよく反省しなければなりません。 広宣流布に全魂傾けて実践するとき、もったいなくも日蓮大聖人のご生命が、私達の生命に湧現してくるのです。誰から与えられるものでもない、活動に徹しきる自己の一念の源底より、本来の偉大にして、崇高な生命が湧き起こってくるのです。題目を真剣に唱え、全心血、全闘魂を傾けて実践する一念それ自体が、すでに仏智であり、最大の価値創造をしていくことができるのです。 「所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」とは精進の中に仏法があることを意味します。精とは無雑の意で、御本尊を唯一無二と信ずることであり、深とは無間(間断なく)の意で、絶えず自己の境涯を開き、前進していくことです。自己の信心は絶えざる前進を続けているかどうか、安逸と怠惰の一念が忍びこもうとしていないかどうか、たえず自己の信心をみつめていきましょう。〈単行本「きょうの発心百選」31〉
433
:
taka
:2011/04/19(火) 11:08:05
御書p792・⑬(p1638・⑬) 福智の二法
依正福智共に無量なり。いわゆる南無妙法蓮華経は福智の二法なり。
通解
一切の森羅万象は、依報も、正法も、福智ともに無量なのである。南無妙法蓮華経とは福智の二法なのである。
拝読の手引き
妙法の光に照らされるとき、生命に内包されている福運と智慧が輝きを増し、幸福な人生が展開されるのです。 人生において、智恵のない人ほど、気の毒な人はないといっても過言ではないでしょう。ここに智慧とは、決して知識量の多少とか、ましてや学歴の有無をいっているのではありません。物事の本質、複雑に揺れ動く社会の動向を、鋭く見抜き、自己の人生の充実に役立てる能力です。難しくいえば、如実知見できる力といってもいいでしょう。 物事を正しく判断し、正しく対処し、幸福を築く源泉の一つとなる智慧は、生命の輝きのあらわれであり、豊かな生命力から発するものであることを忘れてはなりません。「以信代慧」――信心のみずみずしい発動のあるところ、信の英知が湧きいづることを、私達は、確信もって想起しましょう。そして、その時、知識、情報が、一切生きることをも――。 人生の勝利者になるには、この智慧のほかに、福運という決定的に大事な要素が必要です。社会の波は実に厳しいものです。よほどの努力がないと、乗り切れません。いや、どんなに努力しても、それが成功と安定に結びつかず、空転を続ける場合が、いかに多いことでしょう。 学歴も知識も豊富で、頭脳明晰といわれながら、不如意の人生を送る人は、意外に多いものです。三悪道、四悪趣の境涯を、ほとんど一歩も出ることなく”社会の波”におぼれる人は、所詮、宿命転換の原理により、福運のない低い境涯を、福運豊かな高い境涯に転ずる以外に、その苦境を抜け出すことはできません。 良運をつかみたいと願っていながら、その方策を知らないのが、世間一般の姿です。福運をつける唯一の道は、妙法の当体たる御本尊に題目を唱え、我が身を妙法の大リズムに冥合させる以外にありません。宇宙のリズム、生命のリズムに相違するところに、努力の空転があることを知るべきでしょう。 地道な実践以外に、福運をつける方法はありません。着実に唱題を重ね、日々実践に全力を傾けたいものです。〈単行本「きょうの発心百選」93〉
434
:
taka
:2011/04/20(水) 07:17:38
御書p794・⑪(p1640・⑪) 妙法受持で黄金の人生道
道とは能通に名づくる故に十界の心心に通ずるなり。この時皆成仏道と顕るるなり。皆成仏道の法は南無妙法蓮華経なり。
通解
(皆成仏道の)道とは、能く通ずると云う意味であり、十界のあらゆる心が互いに通じ合っているということである。この故に、十界のあらゆる衆生は、皆、仏道を乗ずることができるのである。この皆成仏道の法は、三大秘法の南無妙法蓮華経なのである。
拝読の手引き
ここでは、三大秘法の南無妙法蓮華経によって、十界のあらゆる衆生が、ことごとく仏道を感じ、絶対的幸福境涯にいたることができることを示されています。 特に「よく通ずる」という「道」の特質をあげ、妙法が皆成仏道の法であるという場合の「道」とは、十界のあらゆる生命が互いに通じ合うということであり、それはとりもなおさず、十界のあらゆる生命が、仏の境涯に到達できるということであると明かされています。 すなわち、この御文は、日蓮大聖人の打ち立てられた三大秘法の南無妙法蓮華経が、どのような境涯の人をも本源的に救済しきる、全民衆に開かれた宗教であることを示しているといえましょう。 妙法への信仰の道は、地獄のような苦悩の境涯に呻吟している人々にも、欲望に翻弄され、アニマル化した人々にも、等しく開かれた真実最高の人生道なのです。私達は幸いにして、御本尊を信受し、この黄金の人生道に入ることができました。なかには、自分は福運がないからとか、謗法時代が長かったからとか、自らを卑下して歓喜を失っている人がいるかも知れませんが、それでは、せっかく開かれた道で足踏している姿といえましょう。 この御文に「能通」と述べられているように、私達が今歩んでいる道は、仏の境涯、つまり揺るぎない幸福境涯に通じていることを忘れてはなりません。強く純粋な信心を根本に、希望に燃えて前進するとき、わが人生には功徳と福運の花が咲き競うことを確信しようではありませんか。〈単行本「きょうの発心百選」318〉
435
:
taka
:2011/04/21(木) 10:00:19
御書p797・⑰(p1643・⑰) 提婆と竜女の生命
法界の衆生の逆の辺は調達なり。法界の貪欲・瞋恚・愚痴の方はことごとく竜女なり。調達は修徳の逆罪、一切衆生は性徳の逆在なり。一切衆生は性徳の天王如来、超達は修徳の天王如来なり。竜女は修徳の竜女、一切衆生は性徳の竜女なり。
通解
全宇宙の生命の仏法に敵対する働きは、提婆達多である。むさぼり、いかり、おろかの三毒強盛な生命は、竜女である。提婆は事実のうえに犯した逆罪であり、一切衆生の場合は本来その生命の中にそなえている逆罪である。提婆が天王如来として未来の成仏を許されるのだが、一切衆生は理のうえの天王如来であり、提婆は事のうえでの天王如来である。同じく、竜女は事実のうえでの竜女であり、一切衆生はその生命の中にそなわっている竜女の生命である。
拝読の手引き
仏法をはじめとして正しいもの、道理のあるものに対して、敵対し、反発し、怨嫉する生命も、むさぼり、いかり、おろかの三毒の生命も、すべての人に、本然的にそなわっています。 経文では、提婆と竜女の例が述べられていますが、これは、なにも私たちと無関係の世界の存在について明かしたものではありません。だれびとの生命にも巣食う、弱いそして悪の生命の具体的な典型例として説かれているのです。仏法は生命論なのです。ちなみに、性徳とは生命に本然的にそなわっている性質であり、修徳とはその性質が事実のうえにあらわれることです。 とまれ、私達の生命に宿る非道、反逆、三毒の傾向性を、生命のうえ、生活のうえに、強くあらわし、四悪趣(地獄、餓鬼、畜生、修羅)の人生を歩む愚だけは、絶対にさけなければなりません。人格を、そういったものを強くにじみださせて、くもらせてはなりません。そうであっては光輝に満つべき貴重な人生を台なしにしてしまいます。 濁った、厳しい世間のなかにあって、なおかつ、人格を豊かですばらしいものにするには、生命の奥底にある明るく清らかな強い生命を涌出させることです。そしてその道は、御本尊への唱題、日々の仏道の実践による”生命の洗濯”以外にないことを銘記すべきです。〈単行本「きょうの発心百選」359〉
436
:
taka
:2011/04/22(金) 07:41:51
御書p799・⑦(p1645・⑦) 本有常住の生命を確信
寿量品とは十界の衆生の本命なり。此の品を本門と云う事は本に入る門と云う事なり。凡夫の血肉の色心を本有と談ずるが故に本門とは云うなり。この重に至らざるを始覚と云い迹門と云うなり。これを悟るを本覚と云い本門と云うなり。
通解
寿量品とは、十界の衆生の生命の本質、根本の生命のことである。この寿量品を本門というのは「本に入る門」という意味である。すなわち、凡夫の血肉からなるこの生命が、色心ともに本有、久遠より常住のものであると論じているので本門というのである。生命をここまで本源的に説いていないのを仏に約して始成正覚といい、経に訳して迹門というのである。永遠の生命を悟るのを本覚と云い、本門というのである。〈単行本「きょうの発心百選」288〉
拝読の手引き
法華経寿量品は、仏の永遠の生命を明らかにした哲理ですが、仏に限らず一切衆生の生命が永遠であり、色心の二法よりなる私達も、無始無終の永遠の存在であることを明瞭に解き明かした大哲理です。 現実の幸、不幸の種々の差別相などに照らしてみても、生命の久遠以来の確たる流れを否定すると種々の矛盾が起こります。また、諸学の発達によって、今後、この哲理が理解されやすいようになるとは思いますが、他の哲学、宗教の考えも及ばぬこの難信難解の法門を真に理解体得するには、所詮、自身の生命による実感しかありません。真剣に唱題を重ね日々の仏道修行をまっとうするなかに、自然に証得されるものなのです。 大聖人の内証の寿量品たる大御本尊が、私達十界の衆生の本命です。南無妙法蓮華経の大生命(仏界)こそ、久遠以来、私達の生命の奥底を流れる本質なのです。わが生命の胸中を貫くその珠玉の仏界を、事実のうえに輝きあらわすことが大事です。仏界を顕現するなかに、永遠の生命の理が、わが身に実感としてわかってくるのです。 題目を朗々と唱え、求道心に燃えて教学に励む。そして、時にかなった学会活動にいそしむ。一見地味ではありますが、その着実な積み重ねによって、生活のうえに、仏法の哲理を顕現していけるのです。久遠以来の生命活動を、今、自分は行っているのだとの深い自覚にどこまで立てるか、真剣に取り組みたいものです。〈単行本「きょうの発心百選」288〉
437
:
taka
:2011/04/23(土) 09:17:09
御書p799・⑯(p1645・⑯) 五十展転の原理
五十展転とは、五とは妙法の五字なり、十とは十界の衆生なり、展転とは一念三千なり。教相の時は、第五十人の随喜の功徳を校量せり。五十人とは一切衆生の事なり。妙法の五十人妙法蓮華経を展転するが故なり。所謂南無妙法蓮華経を展転するなり。
通解
五十展転とは、観心からいえば五とは妙法の五字、十とは十界の衆生、展転とは一念三千を意味する。教相の上でいえば、五十展転は妙法の功徳への随喜を一人から他へ、次々と語り伝えたとき、その五十番目の人がそれを聞いて随喜する功徳の大きさを示したものである。五十人とは単に五十人に限定されるのでなく、一切衆生を意味する。妙法を持った人がそれぞれ妙法を説いていく、すなわち南無妙法蓮華経の御本尊を弘めていくからである。
拝読の手引き
有名な五十展転の原理です。折伏の功徳、弘教の功徳を述べ表したものですが、歓喜の中に功徳の因があることを見抜くべきです。 仏法対話は決して義務的な感情でするべきものではありません。また、できるものでもありません。歓喜と確信に満ちた姿で、語らいを続ける中に福運は積まれていくのです。生命の内に燃えるものがなければ、弘教、対話の気持も起こらず、また、行ったにしても、成功しません。弘教、対話への、やむにやまれぬ一念と実践があるかどうか――これこそ、ごまかしのきかない信心のバロメーターです。 その自然なる一念が消えているときは謙虚に己を御本尊の前で反省して、あるべき姿にと祈ることです。御書をひもとくことです。たくましい力、歓喜の躍動が、全身を覆うことは間違いありません。化他への衝動を抑えていた魔性を破り、仏法を人に語れるようになれば”生命の位”は飛躍的に上昇し、広大な福運が約束されることは、いうまでもないことなのです。〈単行本「きょうの発心百選」639〉
438
:
taka
:2011/05/05(木) 11:13:06
御書p1・⑭(p138・⑭) 即座に悟りを得
其の諸説を聴聞せし人幾百万といふ事をしらず、当座に悟をえし人は不退の位に入りにき。又法華経をおろかに心得る結縁の衆もあり、其の人人当座中間に不退の位に入らずして三千塵点劫をへたり。
通解
(大通智勝仏の十六人の王子)が説いたところの法華経を聞いた人の数は、幾千万人になるのか、数えることができないほど多くいた。そのうち、その場で直ちに悟りを得た人は、不退の位に入った。また、その十六人の王子と縁を結んだ衆生の中には、法華経をいい加減に考える人びともいた。その人びとは、その時以来、不退の位に入ることができないまま(退転して)、三千塵点劫という、数えきれないほど長遠の期間、苦悩の境涯を流転したのである。
拝読の手引き
ここでは、三千塵点劫という遠い昔に出現したという大通智勝仏の、十六人の王子達の法華経説法を聞き、仏縁を結んだ衆生の姿が述べられています。同じ法華経の説法を聞いても、強く純粋に信じ、不退転の姿勢を持続しきっていける人と、強固な持続の決意がなく、やがて信仰の心を失って、不幸な生活におちてしまう人がいるのです。 ここに、「当座に悟をえし人」とあるように、法華経の説法を聞いて、即座に悟りを得る人が不退位に入ることができるのです。仏法は只今の瞬間の一念がいずこにあるかが最も大切なのです。そのうちに解るだろうという安易な姿勢を排し、真剣な一念をもって仏法を求めぬく姿勢の中に信心はあるのであり、不退転が確立されるのです。 私達が、仏法の説き示す力強く清浄な仏の境涯に入っていくカギは、御本尊を”信ずる”ということ以外にはありません。私達が御本尊を受持したことは、まさに”信ずる”事の第一歩を踏み出したわけですが、私達はこの尊い信心のあゆみを常に前進させ、みずからの胸中に不退転の決意を確立することが大事です。不退転の信心によって、仏の境涯、妙法の世界が、私達の現実の生活のうえに、ぐんぐん開けてくることは疑いないのです。(文庫本「きょうの発心百選419」)
439
:
taka
:2011/05/06(金) 10:38:36
御書p1・⑧(p138・⑧) 甘言柔語を見抜く力
悪知識と申してわづかに権教を知れる人、智者の由をして、法華経を我等が機に叶い難き由を和げ申さんを誠と思いて、法華経を随喜せし心を打ち捨て、余経へうつりはてて、一生さて法華経へ帰り入らざらん人は、悪道に堕つべき事も有りなん。
通解
悪知識といって、すこしばかり権教を知っている人が、智者の様子をして、法華経(南無妙法蓮華経の御本尊)が私たちの機根にあいにくい事情をやわらかに言うと、それを本当だと思い、御本尊を随喜して信じた心を打ち捨て、他の教えに移ってしまって、一生の間そのままで、御本尊のもとへ帰ってこないような人は、当然、悪道に堕ちることもあるでしょう。
拝読の手引き
せっかく歓喜して持った正法を、悪知識のもっともらしい発言に粉動され、退転の心を起こしてしまう――そういう人の人生は、暗く鈍い光りを放つ悪道の一生でしかありません。 「智者の由をして」しかも「和らげ申」してくるから、その人が本当の味方のように錯覚してしまうのでしょうが、よく相手の本質、あるいはさまざまな発言、批判の裏にある心を読み取る、確かな信心の眼を唱題と教学で養わなくてはなりません。 ”信心をしても目に見えていいことはないではないか””信心していると迫害されて損しますよ””そんなにまで熱心にしなくても……”等々、悪知識の言葉は人の(弱い)心をとらえ、まことに巧みです。 しかし、目に見えない深く広大な生命の世界に素晴らしい変化が起こり、時とともに、冥益あるいは顕益として功徳が噴き出ること、正法故の悪口、迫害は生命のヒズミともいうべき悪業を転換する願ってもない機会であること等を体で知っていれば、悪知識もかえって善知識にと変え、決して「余教」に心を奪われる愚は犯さないのです。キッパリと妙法の正しさを言いきれる一人ひとりであり、また、悪知識につけいられるスキのない目標のある日々でありたいものです。(単行本「きょうの発心百選」561)
440
:
taka
:2011/05/07(土) 10:35:07
御書p3・⑩(p140・⑩) 躍動の信心根幹に教学研鑽
法華経を信じ侍るは、させる解なけれども三悪道には堕すべからざる候。六道を出る事は一分のさとりなからん人は有り難く侍るか。但し悪知識に値って法華経随喜の心を云いやぶられて候はんは力及ばざるか。
通解
法華経(御本尊)を信仰する人は、さしたる仏法哲理に対する理解が無くても地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちることはない。ただ、苦・楽のあいだを悪循環する六道の境涯から脱皮することは、仏法哲理に対するわずかな理解もない人には難しいであろう。ただし、仏法への理解があるものでも、悪知識(善意の人をたぼらかす人)にあって、御本尊に対する随喜の心を言い破られてしまっては、六道の脱皮も不可能であろう。
拝読の手引き
ここでは、私達の信仰の基本的なあり方が示されています。とくに、周囲のどのような言動にも動揺することなく、御本尊にめぐりあえた歓喜の心を持続し、その躍動する信心を根幹に、教学の研鑽に励んでいくことが、どんなに大切であるかを教えられています。 よく、自分は頭が悪いから、などの理由で、教学を嫌う人がいます。もちろん、人間革命、宿命転換の源泉が、歓喜の信心そのものにあることは、この御文にも明らかですが、真に六道の悪循環の境涯から脱皮し、揺るぎない幸福境涯を確立するためには、教学の研鑽が、強力なバネになることも忘れてはならないことです。 教学は、悪知識の本質を見抜き、信心をたぼらかす言説を、断破しきっていくための利剣でもあります。絶えず、悪知識を破りきっていくところに、初信の歓喜躍動のみずみずしい信心を、どこまでも貫いていくポイントがあるといえるでしょう。 教学の研鑽と歓喜の信心とは、表裏一体の関係にあるといえます。喜びに満ちて信仰に励む人は、必然的に仏法哲理を求め、仏法探求に励む人の心に、信心の喜びがふつふつとわきあがってくるのは当然です。学歴や年齢などにこだわらず、全員で教学研鑽の機運を盛り上げ、躍動する信心で前進しようではありませんか。(単行本「きょうの発心百選」424)
441
:
taka
:2011/05/08(日) 10:00:07
御書p7・⑯(p144・⑯) 善知識と悪知識
文の心は、悪知識と申すは甘くかたらひ詐り媚び言を巧にして愚癡の人の心を取つて善心を破るといふ事なり
通解
文(章安大師が涅槃経の文についてのべたこと)の心は、悪知識というのは、甘い言葉で語りかけ、いつわり、こび、言葉巧みに、愚痴の人達の心を取って、善心を破るということである。
拝読の手引き
この御文は、仏道修行において、甘い、巧みな言葉等で、善心を破ろうとする悪知識に心すべきことを教えられたものです。 悪知識というのは、私達の仏道修行を妨げて、不幸におとしいれる者のことをいいます。悪知識の働きかけには硬軟両面があります。おどかし、迫害等の弾圧的なやり方と、利益、名誉、巧言等による懐柔です。これは両方とも、人間の心の弱さをついた方法です。 弾圧的なやり方は、生命の危機を覚えさせる面が強いため、それとすぐわかります。しかし、懐柔的なやり方でこられると、表面上は、なかなかその目的が感知できません。それが敵のつけ目でもあるし、私達の心のスキをつかれやすい点でもあるのです。 歴史上、さまざまな戦においても、謀略に満ちた懐柔策で、滅ぼされた例は枚挙にいとまがありません。だからこそ、この御文で、大聖人がそうした懐柔策の恐ろしさを鋭く指摘されているのです。 利で誘う巧言やこびには、人間はとくに弱く、悪知識に負けてしまうのはその本質を見抜けないからです。それは、私達の生命の濁り、信心の濁りによるのです。その解決は、信心を磨き、生命を浄化させていく以外にありません。美しく磨かれた鏡には映像がはっきり映し出されます。しかし、曇った鏡には、像は映ってもさだかではありません。 それと同じように、磨かれた生命の鏡、信心の鏡には、魔の姿も克明に映し出され、私達はその本質をとらえることができます。魔を魔と見破れば、悪知識に信心を破られることはありません。むしろ、私達の信心の姿勢によって、悪知識を善知識にさえかえることができるのです。すべては、私達の信心にかかっているのです。悪知識にたぶらかされて、惨めな人生を送ることなく、生き生きと躍動し、歓喜と希望に満ちた人生を送っていきましょう。(文庫本「きょうの発心百選」188)
442
:
taka
:2011/05/09(月) 10:43:09
御書p9・⑥(p146・⑥) 法に依って、人に依らざれ
仏の遺言の依法不依人と説かせ給いて候へば、経の如くに説かざるをば何にいみじき人なりとも御信用あるべからず候か。
通解
仏の遺言に、依法不依人(法に依って、人に依らざれ)と説かれているので、仏の経の通りに説かない人については、いかにその人がすぐれていようとも、信用してはならないといえよう。
拝読の手引き
仏法の流布にとって、いかに仏の教えるままに説いていくことが大切であるかを述べられた御文です。 この中の「如く」というのは、仏の教え通りにという意味ですが、より詳しく実践的に考えると「経の如く説く』とは身口意の三業にわたって、仏の教えのままに説くことをいいます。したがって単に口だけとか心の中だけで法の通りであっても、身、つまり、行動がともなわねば不完全といえるとともに、行動のみで、心が別でも、法の「如く」とはいえないのです。 今を去る七百年前、仏の経の通りに、身口意の三業の正法読誦を一生涯、貫かれたのは、いうまでもなく、日蓮大聖人お一人であったのです。 大聖人は当時の混乱する宗教界にあって、なにが最も正しい仏法であるかを、仏の遺言にしたがって判断されたのです。つまり、人師に依らずして、忠実に仏の説いた法に依って、当時の一切の諸宗を検討されたのです。 その結果、すべてが仏の教説通りではなく、それぞれ自己流の我見を立てているにすぎないと喝破され、仏の出世の本懐たる法華経、さらに、その文底に秘沈された三大秘法の仏法の流布こそ仏説にかなった実践であると確信され、なにものにも微動だにしない、あの崇高で師子王のような振る舞いをとられたのです。依法不依人という遺言は、大聖人にして初めて用いることのできる言葉といえます。 現在においても、事情はまったく同じです。”宗教王国”と皮肉られるわが国において、いったい、どの宗教が仏の教説通りの実践をしているでしょうか。答えは火を見るより明らかです。私達、創価学会員は、現在における唯一の、生きた仏教を実践する者としてのは誇りに燃えて、広宣流布の活動を一段と推進し、依法不依人の金言をさらに輝かしいものとしていこうではありませんか。(文庫本「きょうの発心百選」371)
443
:
taka
:2011/05/10(火) 14:36:39
御書p15・⑬(p152・⑬) 慳貪を打破する利他行
「若以小乗化、乃至於一人我即堕慳貪、此事為不可」。文の心は、仏但爾前の経計りを説いて法華経を説き給はずば仏慳貪の失ありと説かれたり。
通解
法華経の方便品に「もし、小乗の諸経によって衆生を化導し、一人にでも法華経を説かなかったなら、私(仏)は、慳貪に堕ちることになってしまう。このことは、してはならないことである」という文がある。この経文の意味は、仏が、ただ、仮の教えである爾前の経教だけを説いて、真実の教えである法華経を説かれなかったならば、仏に、慳貪の過失がある事になってしまう、と説かれたのである。
拝読の手引き
ここでは、民衆救済を目指す仏が、人びとのレベルを高めるために、仮に、低い教えを説いただけで、成仏(絶対的幸福)の境涯を築く最高真実の教えである法華経を説かなかったならば、それは、仏が、欲ばりで物をおしみ、人に施しをしないという慳貪の罪を犯すことになる、ということが述べられています。 慳貪の「慳」には、物をおしむ、出しおしみをする、という意味があります。また「貪」は、むさぼりであり、欲の深いことをあらわします。 この慳貪は、清浄な生命を暗く覆う悪心の一つにかぞえられています。それは、強欲で、物を一人占めにし、人に分け与えようなどとはまったく考えない、生命作用のいやらしい一面です。生命浄化の信仰を実践する私達は、生活の場でも、こうした悪心を冥伏させ、清らかで明るい日々を送っていくことが大事なことはいうまでもありません。さらに私達は、この一節に示されているように、広布を目指す実践の場においても、慳貪の過ちを犯すことのないよう心していきたいものです。 私達は、最高真実の救済の哲理をもって、日々、広宣流布、民衆救済の活動を推進しているわけです。どのように時代が変わり、活動内容が多様化しても”御本尊を教える”という第一義を忘れず、妙法の偉大さを、おしみなく訴えきっていきたいものです。(文庫本「きょうの発心百選}436)
444
:
taka
:2011/05/11(水) 10:56:38
御書p24・②(p161・⑪) 誤れる宗教が混乱を招く
傍を好んで正を忘る、善神怒を為さざらんや。円を捨てて偏を好む、悪鬼便りを得ざらんや。
通解
傍である念仏を好んで、正である法華を捨てるならば、どうして善神が怒らないわけがあろうか。円教である法華経を捨てて、偏頗な念仏を好んで、どうして悪鬼が便りを得ないことがあろうか。
拝読の手引き
日蓮大聖人は、人びとの不幸や時代、社会の濁り、混乱の根本原因は、誤れる宗教にあると喝破され、「立正安国論」を著して、時の為政者の迷妄を打ち破ろうとされました。「立正安国論」では、誤れる宗教の代表として念仏を取り上げられて、その非を厳しく糾弾されていますが、この御文もその一節です。 ここでは、法華経に対して「傍」であり「偏」である念仏を好む故に悪鬼が頼りを得て、社会が乱れると述べられていますが「傍」や「偏」を好む故に悪鬼が便りを得るということは、私達の生き方にとって、非常に大切なことを教えておられると拝することができます。 「傍」とは「かたわら」という意を持ち、正統からはずれていることをいいます。また「偏」とは「かたよった」との意味で、一方的、極端といったことをも含むと考えられます。「悪鬼」とは、人の思考の乱れを引き起こし、時代、社会を混乱させる働きのことをいいます。つまり、物事の本筋からはずれ、片寄った極端な考え方、思想は、必ず人びとを不幸にし、社会を乱すことになるということです。 現代史においても、物質第一主義で走り続けたり、極端な武力闘争路線をとったことが、どのような結果をもたらしたかは私達のよく知るところです。思想であれ、行動であれ「傍」「偏」であるものは、一時的には良いようであっても、長い目でみたときには、必ず、さまざまな弊害を生んで、行き詰ってしまうものです。 やはり「正」であり「円(まどかの意)」でなければならないのです。これは、仏法で説く、中毒、寛容、調和といったことでもあるのです。誤りのない人生、広布の活動のためにも、この御文をそれぞれの立場で思索し、実践に移していきたいものです。(文庫本「きょうの発心百選」462)
445
:
taka
:2011/05/13(金) 10:39:31
御書p37・④(p56・④) 経論を以て邪正を直す
願わくば一切の道俗一時の世事を止めて永劫の善苗を植えよ。今経論を以て邪正を直す。信謗は仏説に任せ敢て自義を存する事無かれ。
通解
願わくば、一切の出家し仏道修行に励む人たち・世俗の信仰者たちよ。一時の世俗の諸事を差し置き(この「守護国家論」の真意をよく理解し)未来永遠にわたる幸福の苗を植えなさい。今、ここには、経論によって(教えの)邪正を糾明することにする。信ずるか謗るかは、ひとえに仏説に任せ、あえて自分勝手な言い分をもつことがあってはならない。
拝読の手引き
「守護国家論」は、浄土宗の法然があらわした仏法破壊の謗法の書である「選択集」を、さまざまな角度から破折し、その誤りの根源を明らかにされ、末法における正しい仏道修行がいかなるものであるかを示されて、国家社会の心の平和、民衆の幸福確立への原理を示された御書です。 ここで拝読する一節は、仏道修行を志すすべての人が、この「守護国家論」の真意をよく理解し、自分勝手な言い分に固執することなく、あくまでも経典の原理によって誤れる法と決別し、正しい法に目を開いて、自身の生命に、未来永遠にわたる幸福と反映への”苗”を植えるよう教えられているところです。 いうまでもなく、ここでは、いまだ謗法のベールで目をおおわれた人びとに対し呼びかけられているわけですが、私達の立場からは、ここから御書を学ぶ意義と重要性とを学び取ることができるのではないでしょうか。 「守護国家論」に限らず、日蓮大聖人のすべての御書は、幸福と平和への原理、実践のあり方を示された真理の法典であり、一切の民衆を救わずにはおかないという、大慈大悲の筆でつづられた仏道修行の原典です。 そこには、人生への目を開き、新たな決意を促す珠玉の指針が無数にちりばめられています。私達は常に御書をひもとき、大聖人との生命の対話を重ねて、自らの心田にさらに深く幸福の”苗”を刻み、また、これを育んでいきたいものです。(文庫本「きょうの発心百選」442)
446
:
taka
:2011/05/14(土) 08:34:53
御書p45・⑥(p64・⑥) 妙法の“名翻訳者”
訳者に於ても梵・漢未達の者、権教宿習の人有って、実の経論の義を曲げて権の経論の義を存せり。
通解
(経典の)翻訳者においても、インド語と中国語に通達していない者、また、権教(真実を明かしていない仮の教え)がすっかり命に染まりついてしまっている人があって、真実の経論の意味を曲げて訳し、権教的な考え方をもたせてしまったのである。
拝読の手引き
ここでは、仏法の真実の法門が誤りなく清浄に伝えられていくことがどんなにむずかしいかを、仏典が中国語に翻訳されていく姿を通し示されています。すなわち、仏法を歪める一つの要素が翻訳の過程に、とくに翻訳をする人の力量、思想傾向にあることが指摘されているわけです。 翻訳者の力量とは、いいかえれば、語学力です。仏教がインドから中国へ伝わっていく過程では、いうまでもなく翻訳者がインド語と中国語にどれだけ通達しているかが問題となるわけです。 語学力とか、通達するとかいっても、決してただ両国の言葉を話せるということだけではなく、それは、両国社会の歴史から風俗・習慣等に至るまでの諸状況にも通じ、しかも、両国言語を自在に駆使できる”力”を意味するといえるでしょう。その”力”不足の翻訳者では、仏法の原典を誤りなく訳すことなど及びもつかないのは当然です。 次に、より恐れなければならないのが思想傾向です。ここにも、権教という低級な思想が命に染まりついている訳者は、真実の教えも権教という色メガネで見ることになり、結局、仏法そのものを歪めて訳してしまうことが指摘されています。このことからも、仏法を国境を越えて正しく浄らかに伝えていくためには、真実の仏法に対する深い理解力をもった力ある翻訳者の出現が何より望まれることがわかると思います。 また、仏法の対話を重ねる私達の実践の立場からいえば、私達自身が相手の立場をよく理解し、誰もが納得できる豊かな表現力をもつ”妙法の名翻訳者”になることが大事ではないでしょうか。(文庫本「きょうの発心百選」446)
447
:
taka
:2011/05/15(日) 09:04:49
御書p45・⑪(p64・⑪) 虚は多く実は少なし
今の世の一切の凡夫設い今生を損すと雖も上に出す処の涅槃経第九の文に依って且らく法華・涅槃を信ぜよ。其の故は世間の浅事すら展転多き時は虚は多く実は少し。況や仏法の深義に於いてをや。
通解
今の代の一切の凡夫は、もし仮に、正しい仏法を信仰することによってこの一生を無駄にするようなことがあるといっても、上述したところの涅槃経第九の文によって、しばらく法華・涅槃の正法を信じなさい。その理由は、世間の浅薄な問題でさえ、次から次へと伝わり広まっていくときには、偽りは多く真実は少ないのである。まして、仏法の深い教義においては、なおさらのことである。
拝読の手引き
この一節は、日蓮大聖人が、濁り乱れた末法の世に生きる凡夫に対し、あくまでも経文の鏡に照らし、正しい仏法である法華・涅槃(今日では南無妙法蓮華経の御本尊)を信じきっていくよう強調されているところです。 そして経文の鏡に照らすことが大事である理由として、世俗の小さな問題でも、人から人へと伝わり広まっていくときには、その真実は歪められた姿で伝わっていくケースが多いことから考えても、民衆の本源的救済の方途を説いた仏法の正義が、偽りなく、誤解されることなく伝え広まっていくことが、難事中の難事であるからだと述べられています。 ここにあげられている涅槃経の第九には、大要次のような意味のことが示されています。すなわち、正法が世界にわたって広く流布するとき、魔にたぼらかされた悪僧があらわれ、正しい仏法の美味をおとし、さも立派そうな文章や意味のない言葉で飾りたてて正しい教えを混乱させ、仏法の根本義を破り、人びとの正法を尊び敬う心を妨げようとするであろう。ちょうど牛乳を売る人が多量の水で乳を薄めるように――。 ここで拝読する一節も、私達の心に留めておくべき御文ではないでしょうか。私達は、あくまでも、経典の原理、御書の明鏡に照らして、御本尊への確信を深め、どのような障魔のささやきにも心を動かすことなく、生涯、不退の信心を貫き通していこうではありませんか。(文庫本「きょうの発心百選」450)
448
:
taka
:2011/05/16(月) 10:13:10
御書p48・⑦(p67・⑦) 法華の大海は涸れず
末代濁悪の無慚無愧の大旱魃の時、四味の川流江河は渇ると雖も法華経の大海は減少せず等と説き了って、次下に正しく説いて云く「我滅度の後後の五百歳の中に広宣流布し閻浮提に於て断絶せしむること無けん」と定め了んぬ。
通解
仏は、末法濁悪の世の、恥じる心のない、清らかな心の水のかれ果てた、精神の大旱魃の時、四味(真実を説き明かしていないもろもろの権教)の河川の流れはかれるといっても、法華経の大海の水は、いささかも減少することはない、等と説き終わって、その後に、まさしく次のように説いている。すなわち「私が入滅して後、後の五百歳(末法)の世に広宣流布し、全世界において断絶せしめることはないであろう」と定められてのである。
拝読の手引き
ここでは、濁り乱れた末法の世に、もろもろの権教は力を失い、かれ尽きるようなことがあるとしても、法華経の教えだけはいささかも衰えを見せないだけでなく、ますます威光を増し、広く全世界にわたって流布していくであろう、と経文に明らかに述べられていることを示されています。 この文にある「法華経の大海」とは、日蓮大聖人の樹立された三大秘法の南無妙法蓮華経の大海にほかなりません。「大海」とは、いうまでもなく、測り知れない深さ、広さを意味します。 また、「四味の川流江河」とは、幸福と平和とを目指しながらも、その実現への力を持たない、空理空論であり、妙法以外の一切の宗教、哲学といえましょう。「無慚無愧の大旱魃の時」とは人びと心すさんだ、まさしく精神の荒廃したときです。このようなときには「四味の川流江河」の諸思想は、人びとの心を潤すことはできず、かれ尽きてしまうということです。そして、一人、深遠広大な妙法の思想のみが、人びとの心を洗い浄化していく源泉として、全世界にわたって流布していくというのです。 折りしも、物質文明の異常な繁栄の陰で、精神の荒廃、心の貧しさが指摘されている昨今です。私達は、この時代の動向を鋭く洞察し、偉大な生命の思想を掲げ、さらに仏法の対話を力強く展開していきたいものです。(文庫本「きょうの発心百選」458)
449
:
taka
:2011/05/17(火) 19:49:37
御書p56・⑮(p75・⑮) 幸せを破壊する悪師
適宿善有って実教に入りながら、一切衆生を化して権教に還らしめ、剩得実教を破せしむ。豈悪師に非ずや。
通解
たまたま、宿善があって真実の教え(法華経)の道に入りながら、自ら退転し、一切衆生を経化して権教(真実を説いていない仮の教え)である念仏宗にかえらしめ、そのうえさらに、真実の教えである法華経を破壊せしめる。ということは、これはまさしく悪師ではないか。
拝読の手引き
この御文は、念仏宗の法然の本質的な誤りを指摘されているところです。ここに「宿善」とあるのは、生命自体に宿している善根、すなわち、幸せをもたらす素因といってよいでしょう。言い換えれば、正しい仏法にめぐりあえる要因を、自らの生命に宿していることといえます。 法然は、一応は、天台宗の学問を修学し、いわば法華経の道、つまり実教の道に入ったわけですが、結局、法華経の本質をきわめることができず退転し、権教であり、末法には有害無益の念仏の教えを民衆のあいだに広くはびこらせていったのです。無知の大衆は邪義と知らずに法然の教えに従い、権教におちただけでなく、法華経そのものを破壊する、正法誹謗の悪徒と化していまったのです。こうした悪徒を生んだという意味からも、法然はまさしく悪師という以外ありません。ここでは、この悪師としての法然の本質的な歪みを、厳しく指弾されているのです。 それは、実教の道に入りながら、その実教の本質、元意を、読みきわめることのできなかった愚かさであり、慢心であるといえましょう。 宿善によって、妙法という最高真実の教えの門に入ることのできた私達も、この点は厳に心していかねばなりません。 自分の浅い智慧で、妙法の信仰、仏法の哲理とはこんなものかと推量し、この偉大な実教を捨てることほど愚かな、自惚れた姿はありません。私達は、どこまでも不退の求道者として行学に励み、謙虚に仏法の本質に迫り、その偉大さを生活実感として体得していきたいものです。(文庫本「きょうの発心百選」464)
450
:
taka
:2011/05/18(水) 09:11:08
御書p65・⑱(p84・⑱) 人生を破滅させる悪友
悪象の為に殺されては山趣に至らず、悪友の為に殺されては必ず三趣に至る。是の悪象等は但身の怨と為り、悪知識は善法の怨と為らん。是の故に菩薩常に当に諸の悪知識を遠離すべし。
通解
悪象のために殺されては地獄・餓鬼・畜生の三趣におちない。悪友のために殺されれば必ず三趣に至る。この悪象等はただ身の怨となり、悪知識は善法の怨となるのである。この故に菩薩は常にもろもろの悪知識を遠ざけはなすべきである。
拝読の手引き
涅槃経の一節です。この文は、どんなに凶悪な象よりも、悪知識を恐れなければならないことを強調されたものです。ここでいう悪友、悪知識とは、誤れる法、思想をたもち、人びとの信心修行を妨げ、不幸へいざなう人のことです。 世に信仰を求める人は数多くいますが、その人達がきまって不幸になっていくのは、この悪知識に親近し、たぶらかされてしまうからです。どんなに教養があり、外見が立派でも、持っている法が悪法であれば、それは悪知識であり、信じ従う人を不幸に引きずり込んでしまう恐ろしい力を持っているのです。そのほか、悪知識はいろいろな形をとります。 たとえば、個人の幸福と人類の繁栄のための絶えまない努力を否定し、刹那主義的、享楽主義的な人生を送ることの方が楽しくていいではないか、とフィーリングに訴えるなど、真面目な仏道の実践に疑惑と停滞を生ぜしめる人などは、悪知識といってよいでしょう。 私達が自己の真の幸せを真剣に願うならば、こうした悪知識を悪知識として見抜かなければなりません。悪知識にたぶらかされるということは、人生、生活の根本規範としての宗教を誤ることになり、それは、とりもなおさず、幸福と繁栄への生命の軌道を破壊することになるからです。 そこで大切なことは、私達の一念の姿勢、人生へ取り組む姿勢です。その姿勢いかんによって、仏道修行を妨げる悪知識であっても、それを善知識として自らの成長と幸福への善縁とすることができるのです。この強い主体的な姿勢が確立されたとき、私達を取り巻く混迷の状況は大きく転換され、一切が自らの幸福増進に直結していくのです。(文庫本「きょうの発心百選」271)
451
:
taka
:2011/05/19(木) 10:16:50
御書p66・④(p85・④) 悪知識をも善に変える信心
謬って悪知識を信じ邪法を習い此の正を空しうすること莫れ。
通解
誤って悪知識を信じ、邪法を習って、この一生を空転させるようなことがあってはならない。
拝読の手引き
ここにのべられてる「悪知識」とは、人を不幸に導く者のことです。つまり、人びとの正しい仏法に対する信仰心を動揺させ、ついには、その正しい信仰そのものを捨てさせ、幸福の軌道から転落させてしまう――このような働きをする者を「悪知識」というのです。 ここでは具体的に、人を地獄へおとす教えである念仏宗をひろめた法然のことを「悪知識」といわれているわけです。 法然は、末法の人々を救う教えは念仏宗以外にないとし、法華経などは、教えのレベルが高すぎて、愚かな末法の人々は救われないといい、法華経などは捨てよ、閉じよ、さしおけ、なげうて、と誹謗したのです。こうして、無知の人びとのあいだに念仏の邪法をはびこらせていったのです。 この御文で日蓮大聖人は、そうした「悪知識」の教説を誤って信用し、邪法の門に足を踏みいれ、この尊い人生、かけがえのない一生を無駄にし、空転させるようなことがあってはならない、と厳しく戒められているのです。このことは、末法における最高の宗教である三大秘法の御本尊を信仰する現代の私達にとっても、常に心していかなければならない点であるといえましょう。 大事なことは「悪知識」を「悪知識と見破っていくことです。そのためにも、信心をみがき、鋭い教学力を養っていくことが大切です。何ものにも揺るがぬ確信と、物事の本質を見抜く英知の源泉として、勤行・唱題を怠らず実践し、仏法哲理の学習に地道に励んでいくことです。法然の例でもわかるように、まことしやかな言動を展開するのが「悪知識」の特徴といえます。それは、仏法哲理の本質に照らせば、取るに足らない妄説であることは明らかなのです。 私達は、一生涯、妙法の軌道、幸福のレールから転落することのないよう、どこまでも不動の信心を貫いていきたいものです。(文庫本「きょうの発心百選」473)
452
:
taka
:2011/05/20(金) 10:15:34
御書p66・⑯(p85・⑯) 信ずることの尊さ
法華経は即ち釈迦牟尼仏なり。法華経を信ぜざる人の前には、釈迦牟尼仏入滅をとり、此の経を信ずる者の前には、滅後為りと雖も仏の在世なり。
通解
法華経は、すなわち釈迦牟尼仏である。法華経を信じない人の前には、釈迦牟尼仏は、死の姿を取り、この法華経を信ずる者の前には、たとえそれが仏の滅後であっても、仏の在世である。
拝読の手引き
この御文では、法華経は即釈尊であるから、法華経を信じない人には、釈尊は入滅の姿を取り、その人は、なんの功徳もうけることはできないが、信ずる人には、釈尊は、在世の姿を示し、大きな功徳をうけることができる、と述べられています。 すなわち、ここでは、正法を信ずることの尊さと、信じないことの愚かさを示されているといえましょう。また、今日の私達の立場から、法華経とは、三大秘法の御本尊であり、釈迦牟尼仏とは、末法の御本仏日蓮大聖人のことであると拝することができます。 日蓮大聖人は、未来永遠の民衆救済の根源の実体として、人法一箇の大御本尊を御図顕されました。しかし、どんなにすばらしい御本尊でも、それを信受しなければ功徳をうけることはできません、御本尊を絶対と信受してこそ、真に功徳をうけ幸福境涯を築くことができるのです。大聖人滅後、すでに七百年近い歳月の経過はありますが、御本尊を無二に信受しきる人には、時間の隔たりをこえ、大聖人に直接、指導をうけて、人間革命、生活革命、さらには、広宣流布の活動に励むことができるという、歓喜の実感が湧いてくるのです。 御本尊は、仏法の哲理を知らない人には、単なる文字にしか見えないかもしれません。だが少しでも教学に励み、仏法の生命論のなんたるかを幾分かでも知った者には、御本尊が、御本仏の法魂、生命であることを認識できるのです。 単なる観念のうえの認識ではない――朗々と唱題に唱題を重ねるとき、わが身が即仏の大生命とあらわれるのです。すなわち、広布と民衆救済への使命感、生きていることのどうしようもない歓喜が、全身に満ち、前進への豊かな生命力が、湧現してくるのです。 「雖近而不見」と経文にありますが、あまりに近くにありすぎるため御本尊が、尊厳な仏の当体であることを、ややもすれば忘れやすい私達への、大きな教戒の一節ではないでしょうか。(単行本「きょうの発心百選」114)
453
:
taka
:2011/05/21(土) 08:30:37
御書p70・⑱(p89・⑱) 無疑曰信が大善の人生に
設い前に解心無くともこの法華経を聞いて謗ぜざるは大善の所生なり。
通解
たとえ、前もって仏法哲理に対する明らかな理解が無くとも、法華経(三大秘法の南無妙法蓮華経)の教えを聞いてそしることなく、素直に信ずることができるのは、生命に宿っている大善のもたらすところなのである。
拝読の手引き
この御文は、たとえ、仏法に関してはまったくの無知で、その哲学的素養が皆無であっても、御本尊を素直に信受できる人は、大福運の持ち主であり、自らの生命に大善を積みたくわえている人であることを、示されていると拝せます。 この御文の前のところで引用されている法華経、涅槃経の経文にも、法華経信受の人が大善根を積んだ人であることが明示されています。たとえば、法華経法師品には、仏の亡くなった後の世において、法華経の教えをわずかでも聞いて信順し歓喜する人は、かつて、十万億の仏を供養した人である、と述べています。 この経文からも、法華経の真髄である三大秘法の南無妙法蓮華経の大法門を信受できた私達が、文字通り測り知れない「大善」の人であり、大福運の持ち主であることがわかると思います。ここに述べられている「解心」とは、私達の立場でいえば、教学に対する理解、教学力にあたるといえます。 今、御本尊を信受しているほとんどすべての人は「先に解心無く」――まったく教学に対する理解もないままで、ただ自らの内なる大善によって入信できた、といって過言ではないと思います。 ところで、そのように大福運によって入ることのできた信仰の道こそ、自らの幸福建設の直線コースです。そこで忘れてはならないことは、その信仰をより強めていく源泉として「解心」すなわち、教学に対する理解を常に深めていくことがきわめて大事だということです。私達は求道心旺盛に教学を深め、信心を強固にして、内なる福運の水量を、さらに豊かにしていきたいものです。(文庫本「きょうの発心百選」477)
454
:
taka
:2011/05/22(日) 07:47:36
御書p70・⑨(p89・⑨) 偶然でない妙法との出あい
法華経流布の国に生まれて此の経の題名を聞き、信を生ずるは宿善の深厚なるに依れり。設い今生は悪人無知なりと雖も必ず過去の宿善有るが故に、此の経の名を聞いて信を致す者なるが故に悪道に堕せず。
通解
法華経(御本尊)が流布する国に生まれ、法華経の題名を聞いて信を生ずるということは、過去世に積んだ善根が深く厚いことによるのどある。たとえ、今生において、仏法に無知な悪人であっても、必ず過去に善根を積んでいるので、法華経の名を聞き信ずるようになるのである。したがって、その人は悪道におちないのである。
拝読の手引き
私達が、現在、御本尊にめぐりあい、勤行・唱題に励んでいるのは、実に過去世に積んだ善根によっているのであるとの御文です。 凡夫の愚かさから、私達は御本尊との出会いを、まったく人生の途上の単なる偶然や出来事と考えがちですが、そう思っている限り、深い純粋な信心に立脚することはできません。信心というのは、現在の自分が置かれた境遇に対して、どう見るかによって、その厚薄が決まってくるともいえるのではないでしょうか。 御本尊との出あいについても自分を取り巻く、多くの無関心の者や反対者のなかで、こうして、自分だけが受持することができた不思議さを思うべきでしょう。 それまでまったく仏法とは縁遠い環境のなかで生活してきた人(仏法では、これを無知悪人という)であっても、ひとたび仏法の話を聞くや、やがて御本尊を受持し、勤行・唱題に励めるというのは、やはり、過去世に積んだ善根によるのです。また、そう確信するとき、御本尊への深い信仰と感謝の念がこんこんとわいてくるのではないでしょうか。 私達は、忙しい日夜にあっても、この信仰の原点だけはしっかとおさえ、常に帰るべき信仰の”故郷”として、生命の奥深くに持っておきたいものです。そのように心がけるとき、永遠に、四悪道の暗黒の世界におち込むことはないのです。否、それどころか、歓喜と福運に満ちみちた人生が開かれゆくことは火を見るより明らかといえるのです。(文庫本「きょうの発心百選」393)
455
:
taka
:2011/05/23(月) 12:52:42
御書p72・⑥(p91・⑥) 現実の中に築く理想郷
法華涅槃を信ずる行者は余処に求む可きに非ず。此の経を信ずる人の所在の処は即ち浄土なり。
通解
法華経、涅槃経を信ずる行者は、浄土をどこか他の所に求めるべきではないのである。この経(法華経、涅槃経)を信ずる場所こそが浄土なのである。
拝読の手引き
ここでいわれている「法華涅槃」「此の経」は、今の私達にあてはめていえば、御本尊であることはいうまでもありません。 私達が御本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱えるところがまさに浄土であると述べられています。浄土というのは、浄土宗が主張しだしたものです。その教えは、この世は戦乱・貧困・疾病が絶えない穢土であるから、来世にはもっと住みよい浄土に生まれることを念願するというものです。以来、欣求浄土の信仰は、現世否定的で消極的な生き方を人びとに教える要因となっていきました。 日蓮大聖人は弱者の溜息にも似た浄土信仰を徹底的に打ち破り、自分が住むこの土を浄土にしなければならないという現実変革の宗教を樹立されたのです。もっとも、物質文明の繁栄下にある現代人は、来世に浄土を求めるようなことはありません、むしろ、現世を享楽し、ゆうゆうと生きているように見えます。しかし、それは、矛盾に満ちた現実との対決を避け、享楽の世界に逃げた姿ともいえるのではないでしょうか。 浄土の希求は、単に来世に求めるだけでなく、自分が直面する現実を離れて何かに逃避する姿をさしているのです。この意味では、現代人もやはり、浄土信仰にとらわれているといえるでしょう。 しかしながら、現代人はあれこれと求め、またそれぞれ獲得しながら、いっこうに心は満たされず不安な状態になっているようです。いずれ、心に満足を与える確かなものを求めるようになるのは時代の必然です。現に、静かな仏教書ブームがあるのはそれを暗示しています。 私達は、幸いにも、現在の一瞬をも逃避せず浄土(寂光土)に転換しうる方途を知り、実践しつつあります。この御本尊の大きな力を、病める現代の人びとに教え、示していく活動こそ、人間としての最高の行為と確信し、さらに生命の対話を根気よく続けていこうではありませんか。(文庫本「きょうの発心百選」426)
456
:
taka
:2011/05/28(土) 12:19:44
御書p97・⑥(p14・⑥) 信は仏道の源
信は道の源功徳の母と云へり菩薩の五十二位には十信を本と為し十信の位には信心を始と為し諸の悪業煩悩は不信を本と為す
通解
信は仏道の根源であり、功徳を生ずる母であるという。菩薩の修行の位である五十二位においては、十信を本とし、十信の位では、信心をはじめとしている。また、もろもろの悪業や煩悩は不信を本とするのである。
拝読の手引き
釈迦は菩薩になるための歴劫修行の最初に「信」を置いていますし、仏法では「信」がすべての基本なのです。 大聖人の仏法を実践する私達の行動を考えてみても、御本尊に対する「信」が根本になっています。仏道修行の要諦は、信・行・学です。この信・行・学の関係は、決して並列的なものではなく「行』と「学」の根底に「信」が必要であることを示しているのです。 御本尊に対する「信」の強弱によって、その行動の強弱が決定され、その行動の強弱に応じて功徳は顕れ、幸福な人生を満喫できるかどうかが決まるのです。したがって「信」のない仏道修行はありえないし、そのように見える形のものがあったとしても、それは手なくして宝の山に入ったようなもので、功徳を自分のものとすることはできないのです。 よく「御本尊は信じるが、日常の活動はどうも……」という人がいます。しかし、信があるのなら必然的に仏道修行を行なうはずです。実践をともなわない信はありえないといっても過言ではありません。厳しい言い方かも知れませんが「活動はどうも……」というのは、信がないのです。だから、そのような人には功徳が実証できませんし、幸福な人生を築くことはできません。 功徳の実証のない姿は、そのまま、不信の証拠でもあります。信というのは、目には見えませんが、生活の実相として現われてくるものなのです。御本尊に対する不信は、不幸の因をつくる行動を生み、その結果、煩悩、業、苦の三悪道に覆われた人生になります。それは個人のみならず、社会不安、時代の混迷を導くことにもなるのです。 人生は、一日一日が二度と繰り返すことのできない、貴重なものであり、日々の行動の積み重ねが、未来を決定します。日々、御本尊に対する絶対の「信」に立って、たくましく前進したいものです。(文庫本「きょうの発心百選」130)
457
:
taka
:2011/06/04(土) 11:02:48
御書p100・③(p17・③) 常に源に還る姿勢
流を酌む者は其の源を忘れず、法を行ずる者は其の師の跡を踏む可し。
通解
仏法の流れを受けつぐ者は、其の源を忘れてはならない。また仏法を修行する者は其の師匠の足跡を踏むべきである。
拝読の手引き
仏法を信じ、仏道修行に励む者には、永遠に忘れてはならない一節でしょう。 私たちが信心の惰性に陥り、歓喜を失っているときなど、それぞれの胸に聞いてみるとよいでしょう――果たして自分は、信心の原点を見失っていないか、師匠である日蓮大聖人の教え通りに実践しているか、などと。このように、自分の胸に問うことによって、惰性を破り、歓喜を取り戻すことができるのです。ここにあげた一節は、私達が信心に喜びをなくしたとき、しっかりと読みたいものです。 私達が、いま日夜に実践している仏道修行の源は何か。いうまでもなく、日蓮大聖人の民衆救済の大慈悲です。また、開祖・日興上人の厳しい護法の精神も私たちにとっての源泉といってよいでしょう。また、私達は「師の跡を踏んでいるだろうか……大聖人の遺された御書はいうまでもなく、代々の会長の指導を、私達が身口意の三業にわたって、実践しきったとき、この一節を読んだことになるのです。 創価学会は、日蓮大聖人の正当な法水を受けつぐ唯一の宗教団体であることはいうまでもありません。創価学会のみが日蓮大聖人の法をそのまま受けつぎ、したがって「其の源」を忘れていないのであり、さらに、日蓮大聖人の偉大な実践の足跡を、そのままたどっているのも、わが創価学会です。 700年前の日蓮大聖人は、仏法の長い正統な流れを受けつがれ、釈尊の教えを、現実のうえで証明されたのです。以上のことから、私達のいま行っている実践こそ、3000年の仏法の流れをくむものであることを知りたいものです。 私達はこの意義を深く知って、さらに唱題に、友好活動に、使命を一層深く自覚し、前進を期していこうではありませんか。(文庫本「きょうの発心百選」416)
458
:
taka
:2011/06/05(日) 08:53:33
御書p111・⑧(p251・⑧) 一知半解の仏教観
世間に智者と思はれたる人人、外には智者気にて内には仏教を弁へざるが故に、念仏と法華経とは只一つなり。南無阿弥陀仏と唱うれば法華経を一部よむにて侍るなんど申しあヘリ。
通解
世の中で、智者と思われている人びとは、外面ではいかにも智者らしく振る舞っているが、内面では仏教をわきまえていないので、念仏と法華経とは全く同一である、と言っている。また、南無阿弥陀仏と唱えれば法華経一部二十八品を読誦したことになるなどと言い合っているのである。
拝読の手引き
大聖人当時にいた、一知半解の智者達を鋭く批判された御文です。 一知半解とは、なまかじりのことです。なまかじりの仏教の知識をふりまわし、いかにもわかったような顔をして、念仏と法華経は結局は同じであるといっていた人が、大聖人当時にかなりいたことが、この御文からわかります。 そうした一知半解の人びとがいるのは、当時のみならず現在も同じです。現代は教育が普及しているだけに、大聖人の頃よりも、もっと人数が多いようです。ある意味では、何事に対しても一知半解なのが現代人ともいえるでしょう。”宗教は結局、何でも同じだ”というのが、そうした現代人の一般的な見解になっています。 私達の現在の活動も、現代人のそのような宗教観を改めさせる貴重な戦いとなっているのです。かつての私達も、一知半解の宗教観を人並みにいだいていたわけですが、仏法の生命哲学にふれることによって、正しい宗教観を身につけることができたのです。 私達は、一人ひとりがますます、信行学を深めることによって、いよいよ混迷を深める現代人の風潮に対して、これを徐々に変革していきたいものです。私達の日々の活動は、そうした大きな宗教観の変革、つまり”題目”の実践なのです。私たちは、さらに唱題を重ね、立派な活動を展開していきましょう。(文庫本「きょうの発心百選」406)
459
:
taka
:2011/08/13(土) 10:03:32
御書p111・⑪(p251・⑪) 過去世よりの大福運を確信
法華経の題目は過去に十万億の生身の仏に値ひ奉って、功徳を成就する人、初めて妙法蓮華経の五字の名を聞き、始めて信を致すなり。
通解
法華経の題目(三大秘法の南無妙法蓮華経)は、過去に、十万億という数えきれないほど多くの仏にあいたてまつって仏道修行に励み、測り知れない功徳を成就した人が、はじめてこの妙法蓮華経の五字の名を聞き、はじめて信受し唱えるところの題目なのである。
拝読の手引き
ここでは、三大秘法の御本尊を信受し、南無妙法蓮華経の題目を唱えることのできる人は、過去に大福運を積んだ人であることを示されています。 すなわち、南無妙法蓮華経の大法門を耳にし、信受できる人は、実は、過去世に、十万億というほど多くの生きた仏に会い、その仏のもとで仏道修行に励み、善根【幸福の因)を積み重ねた、福運の満ちあふれる人なのだということです。つまり、ここでは、御本尊を信じ題目を唱える人が、大福運の持ち主であることを教えられているわけです。 私達がこの世で妙法の話を聞き、信仰の心を起こすことができたのは、つまるところは、私達自身のうちにみなぎる福運によるのです。 私達は、それぞれ、さまざまな経路をたどりながらも、ともかく、御本尊への信仰の門に入ることができたわけです。自分の入信のいきさつを振り返って”私はなんて愚かだったのだろう”とか”なんて自惚れが強かったのだろう”とか反省する人もあるかと思います。また苦悩のどん底から救いを求めるように入信したころを懐かしく思い起こす人もあることでしょう。 しかし、入信の経路がどうであれ、とにもかくにも、妙法の信仰者になれたということは、決して偶然ではないばかりか、過去に大福運を積んだという、仏法上深い意味があることを知りたいものです。そして、たとえどのような境遇にあっても、自身の内面に輝くこの大福運を確信しきって、歓喜の信心を貫き、題目を高らかに唱えつつ、広布の庭に乱舞しきっていきたいものです。(文庫本きょうの発心百選」494)
460
:
taka
:2011/08/14(日) 21:09:52
御書p124・⑦(p228・⑱) 妙法は生命諸活動の本源
過去現在の諸仏法華経を離れて成仏す可からず。法華経を以て正覚を成じ給う。法華経の行者を捨て給わば諸仏還って凡夫と成り給うべし。恩を知らざる故なり。
通解
過去、現在の、もろもろの仏は、法華経(三大秘法の南無妙法蓮華経)を離れて成仏することは不可能である。あくまでも、この法華経によって正しい覚りを成じられるのである。したがって、この法華経の実践者(別して日蓮大聖人)を捨てられるならば、もろもろの仏は、かえって、凡夫となられてしまうのである。それは、恩を知らないからである。
拝読の手引き
ここでは、南無妙法蓮華経こそ、あらゆる仏が正覺を得るための根源の方途であることを述べられ、さらに、諸仏が、この南無妙法蓮華経の行者である日蓮大聖人から離反するならば、その不知恩のとがにより、たちまち、仏の境涯から凡夫の境涯へ戻りおちてしまうという厳しい方程式を示されています。 諸仏は、南無妙法蓮華経を師としてはじめて生命を与えられるのです。その諸仏が、この妙法を体現された行者・日蓮大聖人を捨てるということは、根源の師を忘れた不知恩の姿であり、そこに仏としての生命は失われてしまうということです。 この御書では、とくに、大日如来に執着する真言宗の誤りを指摘されているわけですが、この御文は、私達の実践の指針としても銘記していくべきであると思います。 私達は、妙法の御本尊を信受し、凡夫の身に仏海を湧現し、また、凡身ながら如来(仏)の使いとして、妙法流布という如来の事を実践しているわけです。しかし、魔にたぼらかされ、御本尊から離反し、師を捨てる心が起こるならば、まさしく不知恩の者となってしまいます。 大切なのは信心の姿勢です。信心のスキにより、崇高な生命の位を放棄することのないよう心して、御本尊を無二と信じ、強く澄みきった信心を生涯貫いていきたいものです。(文庫本「きょうの発心百選」499)
461
:
taka
:2011/08/15(月) 09:20:02
御書p141・⑯(p489・⑯) 苦難はね返す強靭な生命力
日蓮流罪に当たれば教主釈尊衣を以て之を覆いたまわんか。去年九月十二日の夜中には虎口を脱れたるか。「必ず心の固きに仮りて神の守り即ち強し」等とは是なり。
通解
日蓮が流罪にあったので教主釈尊は衣で私を覆ってくださったのだろう。去年(文永八年)九月十二日の夜中、竜の口の首の座という虎口も、仏の守護によってのがれたのではないだろうか。妙楽大師が「必ず信心の固いことによって神の守りも強い」等といったのはこのことである。、
拝読の手引き
この御文は、純粋で強固な信心によって、諸天の加護が働き、所願満足の人生となることを教えておられるものです。 私達は、常に、純粋で強い信心の確立をめざしています。それは、信心の確立が、幸福の源泉であり、苦難をはね返す強力な力となり、人間として正しく生きることを可能にしてくれるからです。そのためには、絶えざる信心の練磨、生命の鍛錬が必要です。日々の勤行・唱題、そしてそれによって啓発された英知による思索と実践が、その基本となることはいうまでもありません。 現代社会では、自分の苦しみ悩みに取り組んで、自分を鍛えていこうとするよりも、それをできるだけさけ、楽しく過ごそうとする人が多いようです。豊富な物資、消費生活、さまざまなレジャーが、それに拍車をかけているようです。 人生を楽しむこと自体は、結構なことですが、生命の練磨、鍛錬を根底としての楽しみであることが、より堅固な成長と幸福に直結するのです。目標への挑戦をさけ、レジャー等に逃げ込んでばかりいれば、文明の荒廃をもたらしてしまいます。そこには、充実し、生きいきと躍動した生活、人生はなく、襲いくる苦難、苦闘に耐えきれずに、人生の落伍者となってしまいます。 大聖人は、佐渡流罪、竜口での虎口を脱したのは、信心強きゆえの諸天の加護によると述べられていますが、これは又別言すれば、命に及ぶ大難さえもはね返すような強い生命力、福運を持たれていたということではないでしょうか。 私達も、いざというときに、難を乗り越えられるだけの強い生命力と福運を、日々の実践の中で、たゆみなく練磨し、築いていきたいものです。(文庫本「きょうの発心百選」227)
462
:
taka
:2011/08/16(火) 09:26:31
御書p141・⑦(p489・⑦) 教によって人の勝劣を定む
法華経の外の諸経の大菩薩は法華の名字即の凡夫より下れり。何ぞ汝始めて之を驚かんや。教に依って人の勝劣を定む。先ず経の勝劣を知らずんば何ぞ人の高下を論ぜんや。
通解
法華経の外の諸経の大菩薩は法華の名字即の凡夫より下れり。何ぞ汝始めて之を驚かんや。教に依って人の勝劣を定む。先ず経の勝劣を知らずんば何ぞ人の高下を論ぜんや。
拝読の手引き
ここには、仏法のひとつの人間観、人間評価のあり方が示されています。 この御文のところは、日蓮大聖人ただ一人が法華経を身読し、仏法の正しさを顕証しきったのである、という主張に対し、それはうぬぼれであるという疑難が寄せられ、その疑いを破折されているところです。すなわち、ここでは、人の勝劣・高下を評価するには、その人が、どのような経教をよりどころとして立っているかを知ることが、極めて重要であることを示されているわけです。 そのひとつの例として、法華経の凡夫と諸経の大菩薩との勝劣を述べられています。釈迦仏法において、法華経は完全円満な思想であり、諸経は、片寄った、部分観的思想といえます。したがって、法華経をよりどころとする凡夫のほうが、諸経の大菩薩より優れていると指摘されているわけです。 ここにいう経教とは、人びとのよりどころとする思想、信条ともいえましょう。その意味で、人間の本質を解明し、さらにその奥に”生命”を発見した、大聖人の仏法、すなわち妙法の生命哲学、生命の思想を、自らの信条として生きる人の位が、いかに尊貴なものであるかがわかると思います。 この尊貴な位に立つ私達にとって、この生命の思想が指し示す理想(法)に肉薄し、肉化していこうとする努力、精進が大事なことはいうまでもありません。その迫真の実践を貫くなかにこそ、この尊貴な”人格”は一層輝きを増し、現実に価値を生んでいくことができるのだといえましょう。(文庫本「きょうの発心百選」509)
463
:
taka
:2011/08/17(水) 09:34:43
御書p142・⑨(p498・⑦) 宗教心の基盤に妙法を
一戒をも犯さず、道心堅固にして後世を願うと雖も、法華に背きぬれば無間に堕ちて展転無数劫と見えたり。
通解
一つの戒律をも犯すことなく、仏の境地を目指す心も堅固であって、未来の世の幸せを願うといっても、法華経(三大秘法の南無妙法蓮華経)にそむくならば、絶え間ない苦しみの境涯に堕ちて、数えられないほど長遠の期間ころがっていくことが明らかである。
拝読の手引き
ここでは、妙法にそむくということが、人間として、どんなに愚かな行為であるかを教えられています。 すなわち、たとえば、殺生をしてはいけない等々の戒律を、ただひとつも犯すことなく、また、成仏を目指す心が堅固であって、未来の幸せを願い求めたとしても、妙法という根源の法にそむくならば、幸せどころか、不幸の坂をころがり落ちて長く苦悩に泣かねばならない、と指摘されているのです。 ここにいう戒律とは、いいかえれば、人間として、また仏道修行者として、当然守るべき倫理であるといえますが、ここでは、ただ、この倫理を守り、求道心が堅固であるというだけでは、必ずしも幸せの保証にはならないことを示されているのです。 妙法という一点を、倫理を守り道を求める姿勢の根底にすえることこそ肝要なのです。もちろん、倫理や求道心はどうでもよいというのではありません。それらは、妙法を根底としたとき、真の意味をもち、生きたものとなっていくということです。 ただ、ここでは、倫理や求道心が大事だということ以上に、生命を本質的に整え、幸福を開く根源の法である妙法を無視し軽んずることが、どんなに愚かな行為であるかを教示されているのです。今日的にいえば、人間論、宗教論が盛んな昨今ですが、人間らしさ、宗教心の根底に妙法を定置できなければ、それらは画竜点睛を欠く、ということではないでしょうか。(文庫本「きょうの発心百選」519)
464
:
taka
:2011/08/18(木) 09:18:02
御書p143・⑯(p499・⑫) 成仏が仏法の本意
仏法は自他宗異なると雖も、翫ぶ本意は道俗貴賎共に離苦得楽現当二世の為なり。謗法に成り伏して悪道に堕つ可くば、文殊の知恵・富楼那の弁舌一分も無益なり。
通解
仏法は、自宗、他宗と異なるといっても、手に取り繰り返し大事にし探求する本意は、出家か在家か、身分が貴いか、賎しいかにかかわりなく、ともに苦しみを離れて楽しみを得、現在と未来にわたる幸福を得んがためである。それなのに(真実の仏法がわからず)謗法の者となって悪道に堕ちてしまったならば、文殊菩薩のようなすばらしい智慧や富楼那のような雄弁をもっていたとしても、それらは少しの利益にもならないのである。
拝読の手引き
この御文では、仏教の目的が明確に述べられています。 仏教にかぎらず、宗教の目的は、僧職の有無、身分の上下にかかわらず、人生の苦悩を解決し、永遠に崩れることのない幸福を築くことにあります。このことは、宗教が単なる精神面だけでなく、生活や人生の基盤、根本であるとの前提に立っていることを意味しています。 それだけに、各宗教において、真面目な信者は真剣に信仰に励んでいるわけです。しかし、どのような宗教によっても、本当に離苦得楽・現当二世の幸福をつかむことができるかどうかを、文証、理証、現証のうえから、つぶさに検討してみることが必要です。もし、自分の信じている宗教が、幸福を築くこともできず、人生を不幸におとすものであれば、宗教本来の目的に反するものであるし、たとえ文殊菩薩のような知恵や富楼那のような弁舌をもっていたとしても、それは、自分の幸福へと生かされず、無意味なことになってしまいます。 現在、文明論や、人生論などの面からも、宗教、とくに仏教が見直されつつありますが、人類の幸福の建設が宗教の目的であるかぎり、この御文に述べられた宗教の”正邪”の問題は、決してないがしろにされてはならないと思います。 私達は、日蓮大聖人の仏法こそ、その目的を実現できる唯一の宗教であることを、具体的な事実をもって、世に証明していきたいものです。(文庫本「きょうの発心百選」407)
465
:
taka
:2011/08/19(金) 09:17:03
御書p151・⑰(p2・⑨) 妙法こそ一切衆生の福田
法華経こそ人天の福田なれば旨と人天を経化し給ふ。故に仏を天人師と号す。此の経を信ずるものは己身の仏を見るのみならず、過現未の三世の仏を見ること、浄頗梨に向ふに色像を見るが如し。
通解
法華経(私たちの立場では、南無妙法蓮華経の御本尊)こそ人天の福田であるので、もっぱら人天を経化されるのである。だから、仏を天人師というのである。この経を信ずるものは、己身の仏を見るだけでなく、過去・現在・未来の三世の仏を見ることができ、それは、あたかも、浄頗梨という鏡(閻魔大王の住む光明院・中殿の裏にあるといわれる九面の大鏡台で、死んだ人が生前に行った善悪の所業すべてを映し出すといわれている)に向かったとき、自分の姿をあますところなく映し出すようなものである。
拝読の手引き
天人師とは、仏の尊称の一つですが、一切衆生を指導し成仏に導く師匠であるところから、この名称があります。 また「己心の仏を見る」「三世の仏を見る」の文の「見る」とは「悟ること」と考えることができます。そして、このことは、具体的な現実の姿としては「成仏する、つまり崩れることのない幸福を築くことができる」、また「三世十方の諸仏が修行して得たすべての功徳を得ることができる」ととらえることができるでしょう。 このように、私達が、御本尊を信じ、仏道修行に励むことによって、永遠に崩れることのない幸福な境涯を築くことができるのは、南無妙法蓮華経の御本尊こそ、あらゆる福徳を生み出す福田であり、すべての民衆を救うことのできる根本の天人師であるからです。 この御文にあるように御本尊には、私達の想像を絶する福徳があるのです。それを、自分のものとし、現実の日常生活の上に、さらに人生のうえにあらわしていけるかどうかは、私達の信心の強弱にかかっています。 各自の信心も、広布の活動も、長い年月をかけて成し遂げられるものです。御本尊の絶大な功徳を確信しつつ、さらに新しい決意に燃えて、互いに励まし合い、助けあって前進していきましょう。(文庫本「きょうの発心百選」402」)
466
:
taka
:2011/08/20(土) 09:08:34
御書p171・⑬(p314・⑬) 妙法は諸天の威食
夫れ以れば一乗妙法蓮華経は諸仏正覚の極理諸天善神の威食なり。
通解
抑考えてみると、一乗の法である妙法蓮華経は、諸仏の悟りの極理であり、諸天善神によって威力を増す食物である。
拝読の手引き
日蓮大聖人は、三災七難に苦悩する当時の日本国を憂えて、11通の諌暁の書をしたためられ、謗法を戒め、法華経を根本に立正安国を訴えられました。その11通のうち、平左衛門尉に宛てられたものが、この御書です。念仏や禅宗、真言宗が盛んであったため、法華経の力用について述べられていますが、文底の立場から、末法濁悪の現代では南無妙法蓮華経の偉大さを教えられているわけです。 諸仏が成仏得道したのは、ほかでもない、実は南無妙法蓮華経という根源の種子を覚知したからです。あらゆる菩薩道を行じ修行を重ねていっても、詰まるところは南無妙法蓮華経の仏種を感得し、仏としての正覚を得たのです。 諸仏が凡夫から仏の境涯にとめざめたのは妙法蓮華経によりました。妙法の御本尊をたもった私達凡夫が、自身の仏性に事実のうえに目覚められないわけがありません。無限の創造性、尽きることのない英知、生命力の持ち主なることは、絶対なのです。ただそれには、信行学が不可欠の要件です。 ”正覚”とありますが、自身の生命の真実の像に正しく目覚めず、人生を狂わせている人が世の中にはなんと多いことでしょう。理論、生活実証ともに”正覚”の姿を示して世を救う使命を自覚したいものです。 諸天善神の威食――私達の生命を守る働きが力を増すには、南無妙法蓮華経という”食物”が必要だと述べられています。唱題することにより、諸天善神がぐんぐんと力を増し、私達は守られていく――言いかえれば、生命の正しいリズムに乗った楽しく充実した人生が展開されていくのです。病魔を伏する生命力も、自然に調和した感応性も、智慧も勇気もわいてくるのです。(文庫本「きょうの発心百選」563)
467
:
taka
:2011/08/21(日) 07:54:35
御書p178・①(p321・①) 希有な人生を大切に
各各所念の如くならば三千年に一度花さき菓なる優曇華に値えるの身西王母の薗の桃、九千年に三度之を得たる東宝朔が心か。一期の幸何事か之に如かん。
通解
(問注所に呼ばれて、信心についていろいろ聞かれることは)皆さん方が(日頃から)望んでいたところであるとするなら、三千年にたった一度、花が咲いて実が成るという、優曇華にあったともいえるでしょうか。また、九千年に三度しか実がならないという、西王母の庭園にある桃の実を得た、東宝朔の心でもあるといえるでしょうか。人間一生のうちで、これほどの幸せはまたとないことでしょう。
拝読の手引き
この御文は、文永6年(1269)五月、幕府の問注所より、冨木種継、四条金吾、太田乗明の三人が呼ばれたことに対して、その際の心構えについて述べられた一節です。 妙法を信仰するがゆえに、当時の最高権力者である幕府の問注所に呼ばれたということは、公場において、妙法の主張を実証する絶好のチャンスであったともいえましょう。 その意義から、漢の皇帝から信頼されながら、ちょっとした失敗で信用を失い、官を下げられた東方朔が、九千年に三度しか実らない西王母の桃の実を得て王のもとに献上するのと同じように、二度とないことであり、三千年に一度しか咲かない優曇華の花にあうのと同じようにまれなことである、と教えられたのです。 同じように今日、正本堂の建立という慶事を終え、広布の第二章に入った私達にとっても、現在の広布を目指しての貴重な活動こそ、一生のうち二度と繰り返すことのできぬほどに重要な局面にあるといえるでしょう。 価値観の混乱と不信が著しい現代、人びとは確信をもって主張しきれる信念・信仰を失っています。このような時代に、信じて疑うことのできない絶対の妙法を知り、広布に生き切っていける私達の立場こそ、優曇華や西王母の庭園の桃の実を得ることにも匹敵するほどに貴重なものであり、二度とめぐり合うことのできない貴重な日々であることを確信していきたいものです。(文庫本「きょうの発心百選」542)
468
:
taka
:2011/08/22(月) 12:56:03
御書p183・①(p373・①) 妙法こそ一生成仏の肝要
抑人の世に在る誰か後世を思わざらん。仏の出世は専ら衆生を救わんが為なり。爰に日蓮比丘と成りしより旁法門を開き、已に諸仏の本意を覚り早く出離の大要を得たり。其の要は妙法蓮華経是なり。
通解
いったい、この世に生きている人間で、後の世のことを思わない人はいるでしょうか。仏が世に出たのは、ひとえにこの後世を思いわずらう人びとを、救うためにほかなりません。ここにおいて日蓮は僧となってから、いろいろと法門を学び尽くして、すでにあらゆる仏の真意はどこにあるかを知り、早くも一生成仏の要法を得たのです。その肝要こそ妙法蓮華経にほかなりません。
拝読の手引き
人びとのあらゆる苦悩を解決して、だれもが心の奥底では求めている、一生成仏という最高人格の境涯を開発しきる根本法こそ、三大秘法の御本尊への強固な信仰の持続にあることを教えられています。 人間が現実生活を営むうえには不安、恐怖、苦痛などといった、さまざまな苦悩と出あいます。そのなかで人びとは、過去を振り返りつつ現在をみつめ、推し量ることのできない未来に対する、とらえようのない不安にかられるものです。現実の生活のなかで思い悩み苦労して働くことは、未来をより良い人生であろうとする意識のあらわれでもありましょう。 ところが、人びとの未来には、考えることもできない”死”という深い闇が横たわっています。この”生”と”死”といった人生の根本問題を解決しない限り、あらゆる苦悩の根本的解決法は見いだされないでしょう。仏法はこの”生”と”死”という人生の根本課題を明確に見つめ、解き明かしてきました。 思うに、こういった課題に対して、観念観法的に理解するのみでは、現実に苦悩しながら生きている人びとの力とは成り得ません。自己の人生を観照すると同時に、繰り返しのきかない”人生”の日々を、かけがえのない瞬間の連続として、生かしきっていく実践法を明示された日蓮大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経が、いかに偉大であり、真に庶民のレベルに立っているかを、ひしひしと感ずる昨今です。(文庫本「きょうの発心百選」546)
469
:
taka
:2011/08/23(火) 10:38:48
御書p184・⑫(p817・⑨) 昼夜に語る救済の原理
只今他国より我が国を逼む可き由、兼ねて之を知る故に、身命を仏神の宝前に捨棄して、
通解
ただ今、他国からわが国を責めてくるということについては、かねてから、これを知っているゆえに、身命を仏神の宝前に捨棄して、刀剣いよる迫害、武家の責めを恐れることなく、昼は国主に申し上げ、夜は弟子等に語っているのである。
拝読の手引き
御本仏日蓮大聖人が、一身を妙法流布にささげられ、滅びようとする国を救うため、苦悩の民衆を救済するために、生命に及ぶ迫害も、あらゆる非難、中傷も恐れることなく、権力者の誤りをいさめ、折伏弘教にのぞまれたことを述べられている一節です。 特に、「昼な国主に奏し、夜は弟子等に語る」と述べられていることは、救国済民の究極の哲理を、昼夜を問わず、一方では無知の権力者に教えさとし、他方、弟子等に指導、訓育されたという、全生命傾注の激闘のお姿であると拝せます。 また、この一節は、真言僧・強仁が、愚かにも、大聖人を教訓するような文書を送ってきたことに対する返書の一部ですが、そこには、御本仏としての確信、国を救わずにおかないという烈々とした気迫、大慈悲の精神が脈打っています。 日蓮大聖人のまことの弟子として、妙法広布の大偉業にたずさわる私達は、ここに示される大聖人の精神を、瞬時も忘れてはならないでしょう。今、私達が壮大な文化社会を構築しようとする大地は、いうまでもなく、日蓮大聖人の仏法の流れによって、清らかに潤う妙法を根幹とした大地です。 未聞の哲理をうちたてられ、競い起こる激しい風波のなかで、民衆救済に身命をささげられた大聖人の、想像を絶する激闘こそ、荒涼とした大地に、堅く深く開拓のクサビを打ち込まれた戦いであったといえるでしょう。 広宣流布という大使命を分かちもつ私達は、どのような分野に立とうとも、この御金言に示される大聖人の精神を自らの精神として、さらに、この大地に妙法の清流を注ぎつつ、自らの使命の庭に、美しい妙法の花を咲かせきっていこうではありませんか。(文庫本「きょうの発心百選」120)
470
:
taka
:2011/08/24(水) 10:34:33
御書p186・①(p413・①) 開目の実践
夫れ一切衆生に尊敬すべき者三あり。所謂主師親これなり。また習学すべき物三あり。所謂儒外内これなり。
通解
一切衆生が尊敬するべきものが三つある。いわゆる主師親の三徳がこれである。また、習学すべきものが三つある。いわゆる儒教、外道バラモン、内道がこれである。
拝読の手引き
習学すべき儒外内が法を、尊敬すべき主師親が人を表していますが、この文では、法が傍で人が正なので、儒外内の三徳を尊敬すべきであるという意味になります。そして、その正意は、開目抄末文の「日蓮は日本国の諸人にしう(主)し(師)父母(親)なり」(御書全集p237)の結論に示されるように、内道たる仏法の極理、下種仏法の三徳(日蓮大聖人)を人本尊として尊敬していきなさいということになります。 主徳とは力であり、師徳とは知恵であり、親徳とは慈悲を意味しています。この三徳を兼備している人は誰か――もとより、分々の徳をもっている人はいます。他の思想、哲学、宗教でも、三徳を考えることはできます。だが、いかなる時代においても社会においても、だれ人に対しても、しかも、永遠にわたってこの三徳を備えて、救済し、善導し、包容していく根源的な三徳となると、結論からいって日蓮大聖人をおいてほかにはありません。この真実の三徳を見ることができない盲目を開いていく戦い、それが開目抄の実践なのです。さまざまな低いものへの執着の膜を取り除き、真の三徳の当体たる御本尊に開目させていく実践……それは身近なところから始まります。すなわち、わが身に妙法の功徳を示し、有効活動を展開することです。 御本尊は主師親の三徳の当体です。これを信受する者は、三徳を発揮し、豊かな人間性をみがき、社会に幸福の実証を示していくことができる……それが仏法の本当の姿です。理論だけで人は心を変えるものではありません。自らの姿の上に人間性の美しい勝利の実証を示してこそ、執着をゆり動かし、やがて開目へとつながっていくのです。友好活動のありかた、その重要性をよくよく銘記したいと思います。(文庫本、「今日の発心399」)
471
:
taka
:2011/08/25(木) 10:49:54
御書p187・④(p414・⑥) 三世の生命
妙楽大師云く「仏教の流化実に茲に頼る礼楽前きに馳せて真道後に啓らく」等云云、天台云く「金光明教に云く一切世間所有の善論この経に因る、若し深く世法を識れば即ち是れ仏法なり」等云云、止観に云く「我れ三聖を遣わして彼の真丹を化す」等云云、弘決に云く「清浄法行経に云く月光菩薩彼に顔回と称し光浄菩薩彼に仲尼と称し迦葉菩薩彼に老子と称す天竺より此の震旦を指して彼と為す」
通解
妙楽大師云く「仏教の流布はじつに儒教の力をそのまま生かしたのである。儒教の礼楽が先に流布されて真の道たる仏法が後に弘通されたのである」と。天台大師の云く「金光明経に、一切世間のあらゆる善論はみな仏教によっているのである。もし深く世法を識るならば、すなわちこれは仏法であると説いている」と。天台の止観に云く「釈迦は3人の聖人を遣わして中国の衆生を教化した」と。妙楽の弘決にいわく「清浄法行経にいわく、月光簿菩薩は中国に生まれて顔回と称し、光浄菩薩は同じく孔子と称し、迦葉菩薩は同じく老子と称した。これらはすべて釈尊の使いとして、仏教の先駆として儒教を説いたものである」と。
拝読の手引き
そもそも宗教の目的は、永遠の生命の中に安住せしめるにある。すなわち永遠の生命を感得することがもっとも大事なことで、永遠の生命を認めるならば、過去・現在・未来の三世の生命感を確立せざるを得ない。されば、過去の生命を因として現在の生命が果となる。現在の生命がまた因となり未来の生命が果となる。この三世流転の生命が因果の法則に支配されることはいうまでもない。この因果の法則を立て得ない儒教では、真実の人生観の確率はあり得ないから、仏教に対して儒教を外道というのである。されば、本抄において、「これらの賢聖の人々は聖人なりといえども過去を・知らざること凡夫の背を見ず・未来をかがみざること盲人の前を見ざるがごとし」とおおせられているのである。 儒教においては、現在をいかにしたならば幸福になるかということを教えるのであるが、結局は過去・未来を知らないから、大聖人のおおせのごとく「父母・主君・師匠の後世もたすけず不知恩の者なり・まことの賢聖にあらず」と申されているのである。不知恩とは、主師親の三徳に現在・未来を通じて報恩しないことをいうのであって、恩を報ぜぬということは人間の特権を放棄し、禽獣に同ずることである。 つぎに、「月光菩薩彼に顔回と称し光浄菩薩彼に仲尼と称し迦葉菩薩彼に老子と称す」という思想は、現在の科学一点張りの社会には不思議に感ずるであろうが、完全に、真実に発展された東洋の生命哲学よりすれば、まことなりとうなずくことができる。三世の生命観に通達するならば、弘決において、このようにいい切った事は確かなことと認めるであろう。(日蓮大聖人御書十大部講義第二巻開目抄上p72)
472
:
taka
:2011/08/26(金) 09:01:15
御書p187・④(p414・⑦) 世法これ仏法なり
天台云く「金光明経に云く、一切世間所有の善論皆此の経に因る。若し深く世法を識れば、即ち是仏法なり」等云々。
通解
天台大師は「金光明経に、一切世間のあらゆる善論は、みな仏の経によっているのである。若し深く世法を知るならば、すなわちこれは仏法であると説いている」と述べている。
拝読の手引き
一切の法を生み出す一法とはいうまでもなく、人間存在の根底を貫く法、また、大宇宙の森羅万象の根源ともいうべき因果の理法のことであり、この法を日蓮大聖人は事の一念三千の南無妙法蓮華経と名づけられたのです。 この偉大な生命哲理にくらべるならば、過去の聖人、賢人の思想、哲学も、またあらゆる権威ある理論体系もすべて序文であるにすぎません。 しかし、無量義経に「無料義とは一法より生ず」と説かれているように、成仏という人間革命の原理は妙法以外にはありませんが、その他の部分部分の原理については他の思想、哲学にも含まれているのです。つまり、絶対妙の立場から妙法を根底にするならば「一切世間所有の善論」つまり、あらゆる思想、哲学、学問体系を用い、生かしていくことができるという意味なのです。 今、私達は人間生命の尊厳を基調とした新しい文化の建設をめざしての戦いを、日夜続けていますが、換言すれば、それは個人における人間革命を基盤にして、政治、経済、教育、文学、芸術、科学等あらゆる分野の変革をめざす総体革命の戦いです。それは即大聖人の仏法を社会に開いていく戦いでもあります。 大聖人の仏法は社会に開かれた宗教であり、大聖人の仏法を学ぶ私たちの使命も現代社会を蘇生すべく、各々の分野で自己の特性を最高に発揮し、妙法の卓越した理念を社会の人々に納得させていくところにあります。 私達があくまでも信心根本に、大聖人の仏法を根底にして、社会の各分野で戦っていくならば、その活動自体すでに仏法の実践になるのです。私達はそうした崇高な使命を自覚するとともに、大聖人の生命哲理へのたゆみない研鑽と思索をさらに深めていく必要があります。そして、総体革命の担い手として、各分野に陸続と進出し、それぞれの立場で本格的な言論戦、思想戦を展開していかなければなりません。(文庫本「きょうの発心百選」170)
473
:
taka
:2011/08/27(土) 09:29:49
御書p188・③(p415・⑦) 外道の三徳
「一切世間の外道の経書は皆是れ仏説にして、外道の説に非ず」
通解
大涅槃経にいわく「一切世間の外道の経書は皆これ仏説であって、外道の説ではない」と。
拝読の手引き
よく宗教を論ずるにあたって、科学と反対のように考えるものがあるが、これは大なる誤りである。科学は物質を対象として深く研究をすすめ、または心の作用を対象として研究をすすめたりするのであるが、真の宗教すなわち最高の東洋哲学は、生命の本質を究めるものであって、決して科学と相反する立場のものでなく、並立して互いに人生を利益するものである。ただし宗教はたんなる哲学ではなくて、究明せられたるところの最高理論を実践活動に移す事によって、生活上の幸福を得るものである。あたかも科学において究明せられた方程式が、実際生活に利用せられて役立つと同様である。(日蓮大聖人御書十大部講義第二巻開目抄上p83)
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板