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本迹のログ倉庫

1美髯公:2009/07/18(土) 14:54:36
 
此処への書き込みは、管理人・スレ主以外は厳禁といたします。
違反投稿に関しましては即削除いたします。

  『五重の相対』とは
 大聖人の教義の一つ。一切の宗教・哲学・思想を比較検討して
その浅深・高低・優劣を判釈する五つの批判原理を言う。
これらの判定により大聖人の仏法が最高で有ると言うことが証せらる。

①内外相対・②大小相対・③権実相対・④本迹相対⑤種脱相対ですね

①は仏教と仏教以外との比較優劣の判定、
②は一代の諸経を小乗経と大乗経に立て分け比較優劣の判定、
③は大乗経の中でも法華経(実)と法華経以外(権)に立て分け比較優劣の判定、
④は法華経28品を14品までを迹門、15品からを本門と立て分け比較優劣の判定、
⑤は大聖人の仏法(寿量文底下種益の法門)と釈迦の仏法(寿量文上脱益の法門)との比較優劣の判定。

  『相対』とは

 ①むきあっていること。対立。
 ②お互いに関係があること。
 ③差別界の現象
 ④他とひきはなしては考えられないこと

以上が国語辞書です

 ①他との勝劣浅深を比較すること
 ②相互に向き合っていること。
 ③相互に関係をもっていること。対立すること
 ④哲学上、絶対に対することばで、他との関係において存在すること。
  あるいは、一定の関係、状況において妥当することをいう。
 ⑤天台において、相対種の開会の略称として用いる。

以上が仏教哲学大事典からです。

 『本迹』とは

 ①本地、垂迹
  本地:仏・菩薩の本体
  垂迹:仏・菩薩が衆生教化のために種々の化身を現じる姿

 ②本門、迹門
  1) 法華経二十八品の前半十四品を迹門、後半十四品を本門と言う
  2) 釈迦仏法を迹門、日蓮仏法を本門と言う
  3) 迹門を不変真如の理、本門を随縁真如の智と言う
  4) 知識を迹門、智慧を本門と言う

いつでも、読みやすいように上記語句の説明を最初に持って来ました

2美髯公:2009/09/10(木) 13:54:20
 以下、他板での「本迹」に関する説明および対話を

転載して行きます。

各人の、考察の一端にでもなればと希望しておりますm(__)m

3美髯公:2009/09/10(木) 13:58:54
−創価学会非公認非公式掲示板 本迹に関して対話するスレッド−

4 :沖浦克治 ◆sFO4WcF4K2:2008/11/11(火) 11:50:49 ID:AJ3hr85o0
 私の本迹に関する考え方を申します。

 本迹を優劣と同一視してはいけないと思います。
 本迹は立場の相違だと捉えた方が適切であると思っています。
 絶対的な真理で本迹を判断は致しません。
 カントの価値論の
 真善美を、牧口先生は、利美善になさいました。

 真理は認識の対象であるから価値の根本からはずされたのです。

 絶対的な法の優劣はこれと同様です。
 たとえば、爾前経の機根の衆生に法華経をといても無駄です。
 法の絶対的な高さからですと、自行化他のお題目を説けばいいですね。
 ところが釈迦も天台も伝教も、お題目は広めなかった。
 衆生の機根の故です。
 この場合、衆生が悟りやすい法、実践しやすい法が本です。
 お題目は迹ですね。
 この衆生はそう言う衆生です。
 法の絶対的な優劣では迹のお題目が勝ります。

 これで分かるように、仏法は人のための法です。
 法のための人ではありません。
 ですから衆生が本、そのための法が迹。
 衆生によって説く法を変えるわけですね。
 これが当然だと思います。


6 :梅:2008/11/11(火) 20:33:35 ID:GzTbFjgs0

ここに、牧口先生の価値論がでてきて、なるほど〜っと思い始めています。

「新・人間革命」第8巻P148で本迹の具体例が出ています。
その最初に、『たとえば、眠っている時は「迹」、起きている時は「本」。』とありますが
私にはそれが分かるようで、分からないでいました(というか・・「います」)
これも、価値論を前提にすれば、眠っている時は価値を創造しているとは言えませんから
「迹」でいいわけですね!?

沖浦さんが言われる「本迹」は『優劣』ではないという点は、『勝劣』の立て分けとは違うのかなど
もう少し勉強していきたいと思っています。
まだまだ、私には言及する力はないと自覚しています。

4美髯公:2009/09/10(木) 14:01:57
−創価学会非公認非公式掲示板 本迹に関して対話するスレッド−

7 :沖浦克治 ◆sFO4WcF4K2:2008/11/11(火) 20:57:18 ID:AJ3hr85o0
 梅さん

 本迹と、勝劣を同じで論じると駄目なんです。
 勝劣はある意味では絶対的な優劣なんです。
 本迹は現実主義なんです。

 学生で学ぶ時は本、遊んでいると迹。
 でも、遊んでいる時劣るとは限らないのです。
 この場合本迹がそのまま優劣じゃないですね。

 日蓮正宗は曼荼羅を絶対として信徒を支配してきた宗派です。
 ですから、曼荼羅が本で勝なんです。
 信徒は人間ですから、迹で劣なんです。

 何が何でもこうしておかないと、曼荼羅を取り仕切りする出家の優位が保てません。
 少し考えると分かりますが、出家に飯食わしているものは在家でしょう。
 じゃ、本は在家じゃないですか。

 曼荼羅は人の信心のためでしょう。
 じゃ人が本で曼荼羅が迹です。

 信心しないと仏になれない、その信心のためには曼荼羅本尊が必要です。
 最初に衆生の成仏と言う大目的があって、仏法は全てがその大目的にしたがって顕われます。
 
 『仏法は眼前なれども機なければ顕れず時いたらざればひろまらざる事法爾の道理なり、』
 (新尼御前御返事)

 法が絶対で本なら、衆生の機根なんか気にするもんですか。
 サッサと法を説いて、悟れない奴は捨てておけ。
 こうりますよ。
 でもそうじゃないと大聖人様が仰せでしょう。
 
 疑うことないですね。 
 曼荼羅が本は、日蓮正宗の邪義です。

 人のための宗教なら、人が本、教えが迹。
 当然の道理だと思いますよ。

5美髯公:2009/09/24(木) 12:32:55
−創価学会非公認非公式掲示板 本迹に関して対話するスレッド−

8 :沖浦克治 ◆sFO4WcF4K2:2008/11/11(火) 21:18:23 ID:AJ3hr85o0
 参考資料です

法華経の智慧 〜二十一世紀の宗教を語る 第五巻 (池田大作著/聖教新聞社 1999.9/20刊)
如来神力品① 地涌の菩薩への「付嘱」―― 広宣流布への荘厳な儀式
全民衆よ!汝自身の尊貴さに目覚めよ!

 「凡夫こそ本仏」の大宣言 (P171〜)
斉藤(斉藤克司教学部長・副会長) 考えてみれば寿量品で否定された「始成正覚」という考え方には、きわめて危険な要素があったのではないでしょうか。
 つまり釈尊が伽耶城近くの菩提樹の下で「始めて」悟った ――この始成正覚の「前は凡夫」「後は仏」と考えてしまうと、「人間・釈尊」が見えにくくなります。
 実際のところは「人間として」真剣に正しき道を求めたからこそ「わが仏界」に目覚めた。そうやって目覚めたからこそ、「人間として」最高の生き方ができた。
 つまり「人間・釈尊」として一貫しているわけです。この一貫性を「始成正覚」は切断してしまう危うさがある気がします。

遠藤(遠藤孝紀副教学部長・墨田区副区長) 始成正覚以後は「人間を越えた」何か特殊な存在になった、そんな錯覚に陥りやすいですね。
 釈尊という人格を、目の当たりにできた 釈尊在世の衆生はいいとして、釈尊滅後の人には、どうしてもそう思われがちだと思います。

須田(須田晴夫副教学部長・墨田区副区長) そこから釈尊を神格化したり、自分達は「凡夫でしかない」と卑下してしまった。これは謙虚なようで、じつは傲慢の裏返しですね。
 「人間(凡夫)」の尊貴さを知りもしないのに、知ったつもりで人間不信になっているわけですから。

名誉会長(池田大作創価学会名誉会長)  「凡夫でしかない」 ―― そういう言い方は、とんでもない間違いです。
 そういう錯覚の黒雲を、大いなる涼風で吹き払ったのが法華経です。「凡夫でしかない」どころか「凡夫こそ仏なのだ」と。「人間こそが最高に尊貴なのだ」と。
 この「法華経の心」を究極まで表現されたのが日蓮大聖人の次の御言葉です。
 『凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、
 然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備え給うと思ひしに、さにては候はず返って仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり』 (全集P1358)   
 『本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり』 (全集P1359)  
 まさに「それまでの仏法がひっくり返ってしまった」御言葉です。凡夫が「本仏」、仏はその“影”である「迹仏」にすぎないと言われるのだから。 
“仏があって凡夫がある”と思っていたら、そうではなく、“凡夫があって仏がある”のだと。 
 仏法だけでなく、全宗教史上、驚天動地の宣言です。
 どんな宗教でも、神仏などの「絶対なる存在」が上、人間はその下と考えるのが通例です。それを否定して、絶対者と思われている神仏は、
 実は凡夫=人間の「影」であり、「用(働き)」であり、「人間のための手段」にすぎない ――こんな宣言は他にありません。
 まさに「人間のための宗教」の大宣言なのです。
 歴史上、「人間のため」のはずの宗教が、いつのまにか「権威のため」の宗教に変貌してきた。その思想的な根っこは「神仏が上、人間が下」としたところにある。
 そう言えるのではないだろうか。

6美髯公:2009/09/24(木) 12:44:46
−けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板 もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋−

147 :もくれん:2008/11/27(木) 14:32:15
これからは、「梅」さんへの「専用レス」です。

梅さん、この夏、沖浦さんの、旧板で沖浦さんが「本尊は衆生己心の妙法で、曼荼羅が迹」が、
掲げられ、東国人さんが、乗り込み、「罵詈雑言掲示板」が生まれ、すぐ消え
とりあえず、その後、旧板のスローガンは、降ろされたのですね。
てっきり、沖浦さんも「その気」は、無くなったと解釈していました。

9月中旬頃、突然、又、「一大秘法はお題目」「衆生己心の妙法は本・曼荼羅は迹」を
主張し始め、その勢いは止まることはありませんでした。

10月中旬まで「対話」を続けましたが、氏の「カン違い」の一番の原因は
「本門の本尊」の「本尊」の意味を、完全に「カン違い」しているのです。

もう何度も書きましたが、書籍「教学の基礎」より
三大秘法の根本である一大秘法は「本門の本尊」
「本門の本尊」とは、
日蓮大聖人が胸中に所持されている、久遠元初の妙法たる南無妙法蓮華経であり、
またそれを(そっくりそのまま)図顕された曼荼羅本尊です・・・

ですから「本門の本尊」の本尊とは「法」そのものですし
曼荼羅本尊も「法」そのものです
ただ、曼荼羅本尊は物質という面から、寿命はある・・・
しかし、そこに顕された「法」そのものは永遠である・・

ですから、沖浦氏の「カン違い」は「本尊」の言葉の意味が、
正しく理解できてないことに尽きます。
そして、宗門(日顕宗)との、氏なりの「たたかい」で、味わったこと・・
つまり、宗門は「坊主が御本尊、なかんずく戒壇様を信徒支配のために
道具として利用している・・これはその通りですね」
この、体験が、曼荼羅本尊を、更に「物」として見る傾向に拍車が
かかってしまった・・と、私は推測していますし・・

梅さんは、有名な「創価仏法研鑽掲示板」、ご存知でしょうか?
その板の常連さんとも、何度か意見を交換しましたが、
概ね、意見は一致しております。
その板の常連さんは、ここ数年間、沖浦氏とは「教学談義」を
してきた方々です。
沖浦氏の思考の傾向性は、もう見抜ききっていますから。
私なんか、この夏からですから、最初は「ビックリ仰天」でしたが。

続く

7美髯公:2009/09/24(木) 12:56:13
−けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

148 :もくれん:2008/11/27(木) 14:52:17
>>147の続き  梅さん

原点に戻り
「衆生己心の妙法は本・曼荼羅は迹」・・これは、入り口で「アウト」です

曼荼羅御本尊と私達の関係を「本・迹」で、表現すること自体、間違いですね。

御本尊様は、私達にとって「帰命の対境」であり・・
御本尊を「明鏡」として、己心の仏界の生命を涌現する・・・

との表現はしますよね。

以下は、オアシスで書いたものを「貼り付け」ましたが
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

同じく全集から、生死一大事血脈抄から  142P〜

したがって、この「久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との
三つと言う表現は、一応、・・・・途中略・・・

再応、元意の辺は、
久遠元初の自受用報身如来 即 日蓮大聖人 と
文底独一本門の大御本尊と
そして、私どもの生命がともに 南無妙法蓮華経であり、

この三つは「まったく差別はないと、解りて、と拝すべきであります。

★これを、差別があると思っていくのは、真実の仏法ではありません。
 仏は、素晴らしい特別な存在であるとし、我々衆生は、卑しく
 醜い存在であって、とうてい仏になどなれるはずがないと考えるのは
 大なる誤りであります。

★ しかしながら、「この三つ全く差別無しと解りて」といっても、
 それを、事実のうえで、「解る」・・理解するというところまで
 達していないのが、凡夫であります。

★  その場合「解りて」とはどういうことかといえば、
  「以信得入」「以信代慧」と示されるごとく「深く信心をとって」
   ということになるのであります。

★ともかく、御本仏日蓮大聖人の御生命も南無妙法蓮華経であり、
 その大聖人の御生命をそのまま、「すみにそめながして、かきて候」
 と仰せられている御本尊も、南無妙法蓮華経である。

★ そして、もったいないことでありますが、
  私ども、一人一人の生命もまた、同じ南無妙法蓮華経であると
  「こう信じて」、南無妙法蓮華経と唱える時、私どもの生命に
  生死一大事の血脈、すなわち、南無妙法蓮華経の大生命が
  脈々と湧現してくるのであります。 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

しいていえば、曼荼羅本尊も「本」私達も「本」ですね・・
差別はないのですから、しかし「信」が条件ですよと・・
ですから、「本・迹」の表現は、完全に間違いなんです。
まず、これが第一段階ですが・・

続く・・


御本尊様は、私達にとって「帰命の対境」であり・・
御本尊を「明鏡」として、己心の仏界の生命を涌現する・・・

との表現はしますよね。


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