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ローファンタジー世界で冒険!避難所

385司教ラオ・ユーフェン ◆ZnFkzg9flY:2013/11/10(日) 07:03:38 ID:WaKOo3Og0
大聖堂での諸用を済ませたラオ・ユーフェンは、聖都を発つべく黒塗りの公用車へ乗る。
転送施設の存在する隣都までは、一時間もすれば着くだろう。
明日、バニブルから訪れる使節団も其処を介してエヴァンジェルに訪れるはずだった。

「……此処は暑い。クーラーを付けて」

温帯の気温で疲労した体を柔らかな後部座席に委ねると、女司教は眠るように瞳を閉じた。
運転手が車を走らせると、程なく車内には冷気が満ちてゆく。
涼やかな風を受けて瞼の裏に思い描くのは、羽毛のような薄い氷片が天から降り注ぐ光景。
寒冷な地方の厳冬期に見られる、散氷鵬(フィーヴルユージャ)と呼ばれる自然現象だ。

どれほど昔の事だったのかも忘れる頃。
今はラオ・ユーフェンと名乗る女が、まだ無力な少女だった時代。
アルティヴィツェ北方の寒村が戦乱に巻き込まれた。
あの時も、確か氷の羽毛は天から舞い散っていたと……女司教は思い返す。

戦禍に見舞われた小さな村は、酸鼻を極めていた。
戦闘行為で死傷者は数多。四方数キロに渡って家屋も完全に壊滅。
目に見えるのは、恐怖を煽るかのように燃え盛った赤い炎。
耳に聞こえるのは、耳を塞ぎたくなるような悲鳴と断末魔。
道端に倒れる半裸の女を蹂躙したのは、銃を持つ暴漢だろうか……それとも大鎌を持つ死神?

全てが終わりを告げた村の中で、一人の少女が走る。
砲弾の怒号が聞こえないほど遠くまで逃れた頃には、疲労で目が霞み、足も動かない。
降り積もる雪に埋もれた少女は、ただ凍えながら死を待つのみ。

――――亜人の女か。

冷たさに薄れてゆく意識の中で声。

――――たす、け……て。

見知らぬ人物に助けを乞い、車に乗せられて、行き着いた先は孤児院を装う娼館。
戦乱の収まらない国で、無力な女が食べてゆける術は他に無い。
少女は客を取り続け、やがて最後に自分を買った司祭の口添えで富裕の家の養子となり、新しい姓名を得た。

ラオ・ユーフェンは治癒の術でも癒せぬ病に蝕まれている。
美しいもの、無垢なものを傷つける事を何よりも好むのだ。
かつての己の写し身のような者たちを。

蒐集して、執心して、自分の体に刻まれた経験と、心に刻まれた観念を刷り込む。
ああ、そうだ……彼らも自分と同じ目に会わなければ不公平ではないか。
だから、幾つも造り上げた名ばかりの孤児院で、少年少女を性的に搾取し、訪れた富豪へ養子という形で売り払う。
これが人類。これが運命。これが世界。受け入れて生きよ。

「綺麗なものが、綺麗なままでいるのは……狡い」

女司教は呟き、そのまま凍てつく夢に墜ちてゆく。
彼女を乗せた漆黒の車は市街門を越え、流れる雲を追いかけるように西の彼方へ消えて行った。
そして、一つの駒が聖都という舞台の上から取り除かれる。
泥の心を隠し遂せたままに――――。

386ミリア ◆NHMho/TA8Q:2013/11/11(月) 00:37:03 ID:wHJGL4YM0
正午を過ぎると疎らな雲が空を飾り、太陽から降り注ぐ日差しの矢の勢いを弱めた。
若干歩きやすくなったエヴァンジェルの大通りには、数々の飲食店から入り混じった濃厚な香りが漂う。
鼻腔を擽られた往来の人々たちも足を止め、窓越しに香りの源を覗き込む。
レストランのペスカトーレ、カフェテラスのコーヒー、あるいはパン屋の棚に並べられたパンを。

「いらっしゃい、ませッ」

ロルサンジュのカウンターでは、花柄エプロンと黄緑の三角巾を身につけたミリアが接客に勤しむ。
慣れない仕事をフロレアに付き添われ、却って足を引っ張っている有様ではあったのだが。

「あの、これとこれは何が違うんですか?」

トレーに二つのパンを乗せた若い男子がミリアに問い掛ける。

「右はシーフードベネディクト。
 赤瞑海で獲れた海老と貝にポーチドエッグを乗せて、特製ソースで味付けしたマフィン……だったはず。
 左のはベジタブルベネディクトで、海産物の代わりにアボカドとトマトを使ってる……よね」

自信無さげなミリアが確認の為にフロレアの顔を見ると、返ってきたのは微笑みと頷き。
紙袋にシーフードベネディクトを包むとすぐに次の客、鳥のような羽を持った妖精種が続く。

「すみません、十二枚切りのパンってありますかー?」

「えっと……八枚切りまでしか無いような。
 こういう場合はアタシが切ればいいのかな。
 ま、今ならタイムサービスって事で一枚多い十三枚切りに……しちゃうと薄くなっちゃうか」

ミリアは棚の食パン一斤を台に置き、ブレッドナイフで褐色のクラストに刃を入れる。
刃先が波型の薄い刃はステンレスと鋼の合金で、力を込めずともパンを容易に切り裂く。
ミリアとて決して不器用では無いのだが、出来上がった十二枚切りのパンはやや不揃い。
苦笑いしたフロレアはブレッドナイフを手に取ると、新人アルバイトに代わってパンの切り分けを鮮やかに行う。

「あれ、いつもの子じゃないねぇ?
 これとこれとこれとこれ、良いかい」

三人目の客は直立した栗鼠のような獣人種。
カウンターに立つミリアをしげしげと眺めながら、鯨のような絵柄が描かれた紙幣を差し出す。
リドル(R$)、赤瞑海沿岸の国家で構成される国家連合・アドリア圏で流通する統合通貨だ。
西方で広域に普及している通貨なので、このエヴァンジェルでも見かける事は少なくない。

(いつもの子……リンシィのことか)

「アタシはアルバイトでね。いつもの子はちょっとお休み。
 トリスブレッドとクロワッサン、クイニーアマンにハムサンドが二点、と。
 ちょうど十リドル、お買い上げありがとうございます。又お越しくださいませッ」

続く四人目は体格が良い褐色の男で、作業着から街の補修工事を請け負う工人だと窺い知れる。
短い髪は染めたような赤紫で瞳も濃紺、どこか異国風の面立ちだった。

「サンドイッチ三個、お願いネ」

「この硬貨は……ええっと……」

騎士の図柄が刻印された銀貨に困惑するミリア。
惑いの原因は、聖都に近隣国複数の通貨が数十種類も流通していて、為替レートの把握が困難なこと。
他国の通貨はリドルくらいしか触れる機会の無かったので、見慣れぬ通貨を出されると咄嗟の計算にも詰まる。

(……計算も満足に出来ないとか、リンシィには見せられないな)

387ミリア ◆NHMho/TA8Q:2013/11/11(月) 00:43:46 ID:wHJGL4YM0
「ミリアちゃん、それはペラル銀貨。二枚で五リドルくらい」

フロレアの助け舟でサンドイッチの販売を無事に乗り切ると、ミリアは小さな溜息を吐く。
カウンターの前を見れば十人ほどが並んでいて、滞留の原因は自分の対応の遅さであることも明白だった。

「……ちょっと店も混んで来たし、このままアタシが接客担当だと店の邪魔だよね。
 アタシは単純労働に回るんで、悪いけど接客はフロレアさんが代わってくれないかな。
 明日までにはもう少し色んな事を覚えて、もう少しマシな戦力になるから」

ミリアからカウンターを譲られたフロレアは、流れるように来客を捌く。
ただ早いだけではなく、待っている客にも笑顔で声をかけていた。

(ちょっと時間が空くと、拭き掃除とか店外からの窓掃除もしてるし、無駄な時間が無いな……)

気配りの効いた接客は、人付き合いに疎いミリアから見てもスキルの高さを感じさせるものだった。
それを真似るべく、ミリアもフロレアの仕事振りを観察しながら己の分の仕事をこなす。

やがて忙しい時刻も過ぎ、西の空が赤く溶け始める。
パン屋の扉にも営業終了の札が掛けられると、食事に入浴、温かな家庭のひととき。
それも終わると、ミリアもフロレアに付き添ってリンセルを介護する。

「……フロレアさんはさ、どんな経緯でレナードさんと結婚したの?」

問いかけられたフロレアは、怪訝そうに黒い瞳を見つめ返す。

「私とレンが結婚した理由?」

レンとはレナードの愛称で、ロルサンジュの店主は妻からそう呼ばれている。
フロレアも夫からフローと呼ばれているのだが、さすがに知り合って日も浅いミリアがこれらの愛称で呼ぶことはない。

「あ、えっと……ちょっと気になっただけだけど……。
 どういう気持ちで伴侶を選んだのかなー、とか。
 アタシ、割と人付き合いとか苦手な方だから……何かの参考になればなって」

ミリアは手を止めて言葉を濁す。
強く好意を向けてくる相手――――魅了した相手とどう接すれば良いのか知りたい、とは言わずに。

「劇的な出会いじゃないけど、ミリアちゃんが恋人を選ぶ参考になるなら頑張って話そうかな。
 レンと初めて知り合ったのは二十年くらい前、同じ中学校の一つ上の先輩だったわね。
 十八才の時、母の具合が悪くなって……お金が入り用になったからアルバイトを始めたの。
 その店でパン職人の修行してるレンと再会して、色々と相談するようになったのが付き合う切っかけ。
 この人と結婚するんじゃないって予感がしたのは、それから一年くらい経ってからね」

「困ってる時の相談から仲良くなって……って感じか。
 確かにレナードさんは頼り甲斐ありそうだしね」

「そうね、寡黙だけどいざって時は勇者様って感じですっ。
 あ、でもレンがパン作りで悩んでる時、私が逆に相談に乗ったりすることもあったのよ。
 やっぱり好きな人の力にはなりたいでしょ?」

「……まあ、ね」

ミリアは濡れタオルでリンセルの体を拭き、新しい寝間着に着替えさせた。
白い肌はまだ瑞々しく、薄い唇にも病の翳りは見られず、今日も大丈夫だったと安堵する。
しかし、明日はどうなるのだろう? 明後日は? 五年後、十年後は?
このままの状態が続き、ある日別れは突然に……と考えると気が滅入りそうになってしまう。

「ミリアちゃんは好きな人……いるの?」

気鬱な瞳を察したのか、沈黙を破ってフロレアが問いかけた。

388ミリア ◆NHMho/TA8Q:2013/11/11(月) 00:49:10 ID:wHJGL4YM0
「え、まっ、まあ……嫌いじゃない人ならいる、かも」

「だぁれ? 知りたいなー」

語尾を上げて微笑むフロレア。
意図しての明るい振舞いなのだが、その配慮にミリアが気づいた様子は無い。

「ん、えっと……少し前に知り合った聖堂騎士と助祭の兄弟で――――」

「ミリアちゃん、私は……?」

悲しげに遮る声と縋るような瞳。
しかし、これもまた沈んだミリアの気持ちを見抜いての振舞い。

「も、もちろんフロレアさんも好き……だよ。
 どんな種類の好きかってのは自分でもよく分かんないんだけど……。
 母親ってのとは違うし……姉って感じなのかな……たぶん」

慌てたように付け加えると、フロレアはふふっと笑い声を漏らす。

「私もミリアちゃんのこと、好きよ」

魅了の力で精神を捉えているのだから、必然の答え。
だけど、愛に飢えた心にとっては蜜の甘さ。
心は弾む。微笑みを向けられるのが嬉しい。どうしようもなく。

「あ、ありがと……アタシ、やっぱ年上に弱いのかも……凄く」

俯いて返す言葉は、気をつけないと聞き逃すくらいの声。
リンセルの世話が終わると、ミリアはカーテンを閉める為に窓へ寄った。
頬に感じる熱を冷ましたくて、そのまま窓辺に留まって外を眺める。
すでにエヴァンジェルには夜の帳。光の余韻を失った空には微かに瞬く光の点が幾つも。

「あら、もうこんな時間?」

「明日に備えて寝た方が良いね。
 アタシは此処にマット敷いて寝るからフロレアさんは…………どうしてアタシのマットで寝てるの?」

ミリアが振り返ると、床に敷かれたマットレスの上にフロレアが横たわっている。

「リンシィの自宅療養は今日が初めてだもの。
 容態が急変したりしないか、気になるでしょ?」

「あ、そっか、そうだね。それじゃアタシはどこで寝よっかな。
 まさか、レナードさんと二人きりで寝るって訳にもいかないし」

花柄の軽やかな綿毛布を広げてフロレアが答えを示す――――私の隣で眠りなさいと。

「えっと、それ、少し狭いんじゃないかなー……」

そう言いながら、ミリアは魅了の魔法に掛けられたように毛布の中へ滑り込んだ。

389教皇フランディーノ ◆OzeGYYLSp.:2013/11/17(日) 12:01:02 ID:6HG/U1Cs0
明くる日、聖都はバニブルからの使節団を迎えた。
黒い公用車から降りた壮年の男が、大聖堂に向かって静かに歩いてゆく。
外貌は怜悧の一語で、肩まである黒髪を温かな微風に靡かせ、真紅の瞳は周囲の壮麗な建築を見据えている。
装いは華美にして絢爛。金糸の刺繍を施した赤い服を纏い、襟周りを宝石で彩った青いマントを羽織っていた。
彼の後ろにはスチールグレイの軍服を着込む四人の近衛兵、それに随行の吏員らしき黒髪の女が続く。
これら東方の図書国家から送られた使節団との謁見は、大聖堂の執務室にて行われた。

「お初にお目に掛かります、教皇猊下。
 バニブルの外交司書、ラクサズ・イレアード・イヴンスディールと申します。
 私の事は、どうか気軽にラクサズとお呼び下さい」

絢爛なる男の名乗りは歌うように、声高らかに。
そして、軽やかに頭を垂れての一礼。

「私は三主教の第三百十代教皇フランディーノ・セレゼット。
 今日、遠国からの訪問者とお会い出来て、実に嬉しく思います」

教皇が培ってきた長年の劣等感が、ラクサズの大仰な動作と、瞳の光に此方への微かな侮りを感じさせた。
驢馬にも似た悪相、枯れ木の痩身、容貌の美的な貧しさを侮蔑して来た者と同じ瞳だと。
しかし、教皇は柔和さを繕った表情を崩さない。
対面する相手の気質を読み取ろうと、外交司書の一挙手一投足に目を光らせる。

両者の挨拶は部屋の中央で行われ、その後は部屋の一角を占める長卓に会談の場所を移した。
マホガニーの長卓は側面と脚に美麗繊細な彫刻が施され、光沢を備えた表面も鏡のように美しいもの。
落ち着いた色彩と深みのある古艶は、年月を経た木材と長年の摩擦やワックス掛けの賜物である。
この重厚な長卓に二つの椅子が置かれ、フランディーノとラクサズが席を占めた。

「ラクサズ司書、人類は今、暗闇の荒野を彷徨っています。
 世界は暗く、道を灯す叡智の光を必要としております。
 知恵ある旅人は、この光を兄弟と分かち合い、良き生き方を示さなければなりません。
 幸いにも、バニブルは数多くの光を備えています。
 司書として従事する多くの国民の一人一人は、彷徨える旅人の足元を照らす知の灯火と言えないでしょうか。
 貴国の方々が一人でも多く平和を祈り、悩める者の一助となって頂ければ人類の幸いです」

「猊下、我がバニブルの理念は知の共有。啓蒙も知者の使命ゆえに厭う事などありません。
 我が国は図書国家として知られていますが、書とは数多の先人が積み重ねた知恵と経験。
 筆者の人生そのものと言っても良いでしょう。
 己が生きた証を筆致に残せば、定命の者とて永遠に、永久に、死後も書物の中で生きられる……だから人は書く。
 そして、書いたものが読まれる事を欲する。
 読者の心に自己の断片を刻み、遺伝子さながらに遺志が拡散して、後世の人々に継承されるよう――――。
 我が国土を埋め尽くす蔵書もまた、己の叡智を後胤たる現代人が使う事を望んでいるのです。
 どうして、バニブル人たる私が啓蒙を促す教皇の求めに否と言えましょうか」

言葉は流れるように朗々と。
バニブルの理念と共に吐かれた。
そして、男は憂うな表情で続ける。

「ですが、我が国とて蒙の霧が湧き出る事はあります。
 その件を猊下に御説明したいのですが、此方に映像を再生できる機器はございませんか?
 映像を御覧になって頂ければ判りますが、これは三主教にとっても無関係な話ではありません。
 いえ、寧ろバニブルとエヴァンジェルは相似の立場にあるとも言えましょう」

「……誰か、映像を再生できる機器の用意を」

教皇が人間族の青年助祭トビアーシュに目線を送ると、彼は深みのある赤褐色の鏡台の戸を緩やかに開く。
魔力付与専門の魔術師でもあるラクサズは、鏡台の象嵌細工から一目でそれが魔術具である事を看破した。

「ほう……やはり魔術の品は俗な機械と違い、気品と趣があって良い。
 機械は魔力を操る素養の無いもの達が作るだけあって、どうにも美観と品位に欠けるのがいけません。
 イアハート調査司書、刻針晶を助祭の方へ」

390教皇フランディーノ ◆OzeGYYLSp.:2013/11/17(日) 12:01:49 ID:6HG/U1Cs0
ラクサズが随行官の一人、黒髪の女に呼び掛けると、彼女は鞄の中から掌に収まる程度の水晶を選んで助祭へ手渡す。
六角柱の水晶は金紅石にも似ていて、透明ながら内部で幾筋もの針状結晶が金色に光り輝いていた。
この水晶は記憶媒体として使われる物で、映像再生用の魔術具に嵌め込む事で過去の光景を映し出させるのだ。
トビアーシュが静かに象嵌細工の窪みへ水晶を嵌め込むと、鏡台の鏡は表面に色彩豊かな光を浮かび上がらせる。

「……ラクサズ司書、これは?」

「世界中を航空する独立都市、交響都市艦フェネクスの中央コンサートホールです」

映し出されたのは音楽祭。
和えかな白煙が霧のように漂う中、光の群舞が舞台を照らし、紙吹雪が舞い、透明な歌声が響く。
歌と楽を競い合う祭典は、星霊教団の教主代行を決定する場だった。
沸き返る会場では、精霊楽師が憑かれたように歌い、熟練の弦楽奏者が観衆を蟲惑し、美麗な歌手が熱狂を生み出す。
客席に溢れ返った人種の混交は、供される音楽と歌に酩酊していた。

しかし、程なく宴の陶酔は断末魔を上げる。演奏曲目を狂乱と怒号の不協和音へ変貌させて。
鏡面の映像は、八腕それぞれに人の五指を備えた異形の巨大蜘蛛が、無数の黒宝珠をばら撒く光景へと変っていた。
会場では暴動の狂騒が演じられ、さらには観衆が生気を失ったように崩れ落ちる阿鼻叫喚の図が。

「フェネクスでも大規模な虐殺が起きたとの報告は受けましたが……何とも傷ましい。
 華やかな祝典が、一転して惨禍に変貌した日の聖都を見るようです」

「惨劇の指揮者は、この男――――」

ラクサズの声に続き、鏡面の世界に蒼眼蒼髪の若い男が映し出された。
蒼き人物は飾り立てた宝飾品を照明の光に煌かせ、豪奢なローブを翻し、一振りの長剣を高らかに掲げて宣言を始める。

『――――俺の名はマモン。この世界を支配し、この世界を〝俺達〟のルールで染めることを望むもの。
 俺達は枢要罪、嫉妬を持たぬ原初の罪。俺達を束ねるのは、全て持つものの嫉妬、光への妬みッ!
 聞け、俺達の名を。そして望め、俺達の打倒を、俺達への勝利を、世界の平和を、世界の平穏を、世界の調和を……ッ!』

マモンと名乗った人物の言葉は、聞き手の心を裂いて入り込む。
映像を通してすら、物理的な圧力と感じられる程の暴力的な圧迫感。注視は不可避。

『我らは〝レヴァイアサン〟ッ! 嫉妬の全竜にて、罪を以て世界を制する者――――!
 かかってこい、全世界。今宵より俺達は世界に挑む。
 罪に支配される世界を望まぬなら、正しき世界を望んで立て!
 障害がなければ面白くない。だから、俺達を楽しませるために――――なァ?』

殺戮と共に行われたのは、世界に向けての宣戦布告。
エヴァンジェルの通信機関が災厄で被害を受けていなければ、この凶報は今より広く都市へ浸透していた事だろう。
実際、主催たる神魔コンツェルン・星霊教団の影響力が大きい地域では、受けた驚愕も聖都の比では無い。
遠くの国の出来事と楽観視するものもいる事にはいたが、概ねの者の感性では映像の衝撃が上回っていた。

無論、教皇とて虐殺に動揺は隠せない。
会場内へ雨霰と播き散らされる黒い宝珠。
あれは、前教皇が降神の邪法に用いた宝玉と同じものではなかったか……?
三つでも聖都に甚大な被害を与えた代物をあれだけ保持しているのなら、影響範囲が何処まで及ぶのかは想像も付かない。

「猊下、次の場面は音声と映像を拡大してありますので、注意して御覧下さい」

ラクサズの喚起が、三主降臨の日へと沈みかけた教皇の意識を執務室に引き戻す。

『〝傲慢〟イブリース、ヴェルザンディ。
 ……久しぶりね、あなた達。……ああ、一人では無いのよ。懐かしい存在が、居るかもしれないから』

鏡面の中の舞台に映っているのは、一冊の書物を手にした白眼白髪の女。
枢要罪を名乗る他の七人同様、異形の巨大蜘蛛の掌に乗り、硬く冷たい声質で誰かへ向けて語りかけている。
ヴェルザンディと名乗った女の服にあしらわれるのは、今日の使節団と同様の意匠。
色無しの髪と瞳を除けば、顔の造形からも使節団とは近似な印象が感じられ、彼女もバニブル出身者であると思われた。

391教皇フランディーノ ◆OzeGYYLSp.:2013/11/17(日) 12:02:15 ID:6HG/U1Cs0
マモン、ヴェルザンディに続き、魔術具の鏡台に映った第三の人物は、眼光炯々と鋼の双眸を光らせる男。
彼の身を包む純白の衣装は、三主教の司教ならば見間違いようも無い。

『〝虚飾〟ベリアール、ミヒャエル。
 ……済まぬな。まだ、私は諦めきれない。だから、試させてもらう。この、世界を――ッ』

厳かな衣装で身を包む男は、鏡の中から森厳に宣した。
同時に執務室の三主教徒が一斉に響動めく。
側近の助祭が絶句して鏡面を食い入るように眺め、壁際の聖堂騎士もその一瞬は警護の任を忘れた。
内心を隠す術に長けた三主教の首座のみが、醜貌に驚愕の表情を加えずに平静を保っている。

「ミヒャエル・リントヴルム……」

誰かが呻くような声で前教皇の名を口にした。

「彼が蘇ったというのか? 蘇生の魔術で」

自問したフランディーノは、昨日受けた報告を思い起こす。
大広場で乱射事件が起きた際にも、ミヒャエルを名乗る人物は現れたとの報告を。
それを、教皇庁は三主教に対立する団体が前任教皇を装い、示威運動を行ったものと判断した。
ミヒャエルの凶行を考えれば、求心力が低下した三主教に抗議活動が行われたとしても不思議ではない。

「誰かが……前教皇を装っているのではないでしょうか?
 写し身の魔術を習得した者なら、姿を似せる事も不可能ではありませんが……」

同じように考えた助祭の一人が口を挟む。
――――にも関わらず、フランディーノは映像の人物が偽者とは思えなかった。
彼方を見据えるような瞳、清冽にして凄烈な威圧感、まだ私は諦めきれない……との言葉。
容貌の一部に差異はあれど、鏡面に映る人物が醸し出す雰囲気は、前代教皇が纏う空気と同質。
拒みようのない程の現実感を伴って、ミヒャエル・リントヴルムの再来を諒解させる。
そして、画面は再びマモンへと切り替わった。

『――半年。それが貴様らに与えられた猶予だ。
 それまでに何処まで抗えるか、俺は楽しみにしているよ。
 何か言いたいことがあれば聞いてやろう。聞くだけだが――なぁ?』

傲然と笑みを浮かべ、蒼髪の殺戮者が終止符の刻限を定める。
半年後に何か……おそらくは、今回を上回る程の大規模な虐殺を行うとの意思表示なのだろう。
今までの振る舞いからして、この人物がレヴァイアサンなる武装勢力の首領なのだと誰もが心に感じた。

コンサートホールの全景を見渡せば、暴動と騒乱の影響で瓦礫が散乱しており、数百もの死傷者が倒れている。
生存者すら殆どいない有様ではあったが、会場に居合わせた何人かはまだマモンへの抵抗を続けていた。
その中には星霊教団の教主たる星の巫女の姿があり、三主降臨の日に大広場で一瞥した精霊楽師の姿もあった。
しかし、その戦闘もフィナーレまでは記録されず、誰かの叫び声で唐突に途切れてしまう。

『集え、創世の光よ!』

鏡面から響く男の声と共に、星誕祭を記録した映像は白一色の光に糊塗されて――――鏡は元の鏡へ戻った。
長卓の上で両手を組んだラクサズは、今は室内を映すだけの鏡台から教皇へ視線を向ける。

「何かの魔力が映像機器に干渉したらしく、記録は此処で途切れておりますが……今ので把握は充分でしょう。
 見ての通り、レヴァイアサンなる武装勢力が世界へ向けて宣戦を布告しました。
 嘆かわしい事にバニブルの前元首、ヴェルザンディ国家司書もそれに加担しております。
 三主教の第三百九代教皇、ミヒャエル・リントヴルムと共に」

同じ問題を共有している事を示す意図なのだろうか
ラクサズは殊更にミヒャエルの存在を強調する。
そして、聞き慣れない単語で会談を続けた。

「彼らはアイン・ソフ・オウル――――と呼ばれる存在です」

392教皇フランディーノ ◆OzeGYYLSp.:2013/11/17(日) 12:02:40 ID:6HG/U1Cs0
「アイン・ソフ・オウル……とは?」

教皇が問い掛けると、ラクサズは背後の若い女に目を向けた。

「イアハート調査司書、建国王フラター・エメトとの謁見で知った事実を教皇猊下にも」

イアハート調査司書と呼ばれた黒髪の吏員は、ラクサズの指示を受けると長卓へ近づき、彼の横に立つ。
彼女が着ているのはフォーマルな黒いスーツながら、胸元にバニブルの国章と思しき独特の複雑な意匠が刺繍されていた。
面持ちには若干不安そうな色が含まれてはいたが、近衛兵の一人に視線を向けて頷き、深呼吸すると表情は一転。
至極、落ち着いたように教皇へ向かって喋り始めた。

「はい、それでは御説明させて頂きます。
 まずフラター王に拠れば、人間や妖精、妖魔、獣人に魔獣、竜や神に至るまで。
 全ての意志ある存在は、一つの小さな世界とも言えるらしいのです。
 その中でも、稀に保持する世界像が他の生命体に比べて桁違いに高い存在が現れます。
 彼らは独自の世界律、法則すら自己に内在していて、文字通り自分自身が一個の小宇宙。
 アイン・ソフ・オウルとは、そのような存在群の総称なのです。
 そして、フラター・エメトその人も知識のアイン・ソフ・オウル。
 高名な歴史家にして、様々な魔術を発見された大魔術師でもありますから、教皇様も御存知でしょう」

ラクサズは御苦労――――と黒髪の吏員を労い、今の説明に補足を加える。

「つまり、レヴァイアサンの首謀者が言い放った、世界を俺達のルールで染める、とは文字通りの意味。
 アイン・ソフ・オウルが己の世界律を外界にも広げれば、今の世界を塗り替える事すら不可能ではないのです。
 まさに神の所業とでも言えましょうか」

「なるほど。
 アイン・ソフ・オウルとは世界に直接干渉し、独自の普遍的な事象を作り出す力を備えた存在……。
 何やら、若い頃に目を通した魔術や心霊学の論文を思い出しますね。
 人の心は物理的な力を持ち、共時性(シンクロニシティ)等の現象も、想いが物質世界にまで濃縮した結果であるとの説を。
 祈りが現実になった時の説明として、一般的に三主教徒は神の働きと考えますが」

フランディーノが十年以上前、様々な書籍を読み耽った時代を思い出して応える。
聞いたイアハート調査司書は教皇の言葉から、無意識と時空の関わり、との論文名を脳裏に浮かべて顔を輝かせた。

「あっ、その論文もダァト……じゃなくて、多分フラター王の著作。
 アイン・ソフ・オウルなら、感情や意志でこの世界に十二分に影響を与え、奇蹟のような結果を引き起こせる。
 ……って、フラター王は仰ってました」

バニブル人の専門とも言える書物の話題になったせいか、イアハート調査司書の口調が素に戻ってしまっていた。
ラクサズも鷹揚に頷いてはいたが、目線で黒髪の女吏員に下がるよう伝え、話題をフェネクスの事件へ戻す。

「あの黒い宝玉についてですが、強力なアイン・ソフ・オウルの残滓で“厄災の種”と呼称されております。
 三主教の先代教皇も獲得に動いて、さらには実際に使用されたので、危険性に関しては猊下も御存知かと。
 あれは、数個の欠片ですら一都市を滅ぼすに足る……。
 となれば、力あるアイン・ソフ・オウルがどれだけ危険な存在であるか、猊下にも想像が付きましょう。
 しかし、バニブルも三主教も主席の暴走を招いた以上、事態の収束に力を注がねば各国からの批判は免れません。
 猊下もレヴァイアサンを非難する声明を打ち出し、三主教が世界の人々と共にある事を示さねば」

「……フェネクスの他、全ての無分別な暴力の犠牲者の為に祈りましょう。
 人々も悪に屈する事なく、正義と自由に満ちた安全な社会を構築できるよう戦わねばなりません。
 教皇庁も厄災の種や武装勢力への対応を、より強化する必要があります」

「我が国は書の分析や研究に長けていますが、他国の探索へ回す人員は決して多くありません。
 ですが、三主教は世界中に多くの信徒を抱えている。
 両国が一致協力して足りない部分を補えば、間違いなく相互の利益となるでしょう」

バニブルの外交司書は、薄く微笑を浮かべて言葉を継いだ。
相手に独力で対処できない問題を突きつけ、危機意識を抱かせてから、助力の提案を出すのがラクサズの外交戦術である。
そして、両者は厄災への対応策や、共有する情報の範囲等などの具体的な協議について入り始めた。

393ミリア ◆NHMho/TA8Q:2013/12/07(土) 21:01:01 ID:FVNsleRI0
夜、十二時も過ぎて聖都が静まり返った頃。
ミリアは同衾する相手が気になって、眠りに墜ちることも出来ず、ただ仰向けとなっていた。
己の胸を打つ鼓動が、やけに大きく感じられる。

(……眠れない)
(えーと、母でも友達でもないなら姉が近いって思ったけど……このドキドキは恋愛感情ってじゃないよね)
(一応、少し想像して確かめてみた方がいいのかな……)

ミリアはフロレアの姿を思い浮かべた。
微笑まれて、見つめられて、両腕で抱き締められる――――嬉しい。
抱き返す、頬への軽い口づけ、膝を枕にしての眠り――――心が休まる。

(あ、割と嫌じゃない……かも)

妄想は膨らみ、ミリアの脳裏に月下の夜が描かれた。
月明かりに優しく溶かされた闇には、二人分の白く柔らかな輪郭が浮かぶ。
フロレアの指先が、微かに汗で濡れるミリアの肌を撫で、濡れた舌と舌は何度も絡んだ。
一糸纏わぬ二人は首筋に顔を埋めて濃密な愛を――――。

(いや、こ、これは違う違う違うッ)

弾かれたように上半身が起こされ、妄想は掻き消された。

(フロレアさんは好きだけど、とりあえず、そういった事したいわけじゃないのは分かった)
(第一、そんな関係になったらステンシィ家が家庭崩壊の危機……だし)

ミリアは呼吸を落ち着かせると、静かに目を瞑って眠り直した。
やがて睡魔の囁きに応じて、目蓋の裏に夢の雫が染み出す。
時が経つ程に夢はそこかしこに溢れ、ミリアを飲み込んで、無意識の対岸へと連れ去った。

――――……。

394ミリア ◆NHMho/TA8Q:2013/12/07(土) 21:02:05 ID:FVNsleRI0
朝、カーテン越しの薄暗い光でミリアは目覚める。
まだ働きの鈍い頭を傾けて目覚まし時計を確認すると、長短二つの針は六時半を示していた。
パン屋の起床時間としては遅きに過ぎる時刻で、当然ながら隣を見てもフロレアの姿は無い。

「ん……ぅ……二度寝って訳にはいかないし、アタシも起きなきゃな……」

立ち上がって窓辺へ近づいたミリアが、淡いピンクのドレープカーテンを束ねて窓を開ける。
今日の空は明るく澄んでいて、微かな雲の白が遠くに散るだけの快晴。
眩しい陽の光を浴びて、暖かな風を部屋に迎えると、睡魔も一瞬で溶けてゆくようだった。
そして、ベッドの少女へと振り返るミリア。

「おはよ、リンシィ。
 今日はバニブルの使節団が聖都に訪問するんだって。
 何か治療の件に進展が出るといいんだけどね」

一階へ降り、さらりとシャワーを浴びて眠りの残滓を追い払うと、ミリアはワンピースに着替えた。
服のデザインはクラシカルで色は深みのある青、ゆったりとして着心地も良い。
着替えの後は、髪を櫛で梳かして後ろで束ね、鏡の前で一回転。

(こういう服も結構悪く無いかな……)

ダイニングに向かうと、いつものように短い朝食の時間。
メニューはトーストに昨夜のポトフの残り、カフェオレとヨーグルト。
温かな食事を堪能すると、メモ帳を見ながら開店まで仕事の習得時間に充てる。
その甲斐あってか、ミリアも昨日よりほんの少しだけ、要領良く店を手伝うことが出来た。

「ところでレナードさんがパン作り、フロレアさんが販売で、リンシィが外回りって役割分担ならさ。
 リンシィが学校に行ってる時は、配達ってどうしてたの?」

ミリアは壁のスケジュール帳を見ながら、ふと浮かんだ疑問をフロレアにぶつけた。

「平日はアルバイトの子に配達を任せてたの。
 でも、パレードの日から行方不明になってて……何とか連絡が取れれば良いんだけど」

フロレアの瞳に影が差し、暖かな光も抜け落ちてゆく。
前教皇ミヒャエルの就任日に殺戮された住民の中で、亡骸を残した者は少ない。
ほとんどは醜い肉塊のような怪物に呑まれるという、おぞましい死に方をしたのだ。
そのような話は聖都のどこでも聞かれ、だからミリアも行方不明と死が同義なのは理解していた。
敢えてそれを口にして、憂い顔のフロレアをさらに消沈させる気にはならなかったが。

「そっ……か、早く見つかると良いね。その人。
 それまではアタシが代わりを務めるよ」

ミリアが見知らぬ前任者の代役を名乗り出ると、フロレアも瞳は悲しげなままに笑みを浮かべる。
物憂げな表情、誰を想っているのかが気になった。
人間なのか他の種族なのか、男か女か、年齢や性格は、アタシに比べて好かれる奴なのか……。
好きな人の役に立ちたい気持ちと独占欲、その二つは心の中でせめぎあって暗い感情を露にした。

(最悪だ……前のバイトにジェラシー感じて、帰ってきたらアタシの立場が無くなる……なんて、今そんなこと考えた)

知人の安否を案じてフロレアが悲しんでいるのに、前任者が帰ってこないだろう事に安堵する自分。
そんな自己嫌悪を悟られたくなくて、ミリアは焼きたてのパンが詰められた箱に視線を転じる。
平たい木箱の中には、繊細な表皮のクロワッサンが綺麗に整列。
息を吸い込めば、バターと小麦の芳醇な香りが肺をいっぱいに満たす。
何度か深呼吸しているうちに、知らず識らず暗い淵に沈みかけた気持ちも紛れ、やや気持ちも落ち着いていった。

「それじゃ、さっそくお願いしてもいい?
 まずは大聖堂にクロワッサンを二百個、十一時半までに届けて欲しいのだけど……ちょっと多いかしら」

「ううん、大聖堂までは遠くもないし、往復しても時間内に運べるよ」

395ミリア ◆NHMho/TA8Q:2013/12/07(土) 21:05:44 ID:FVNsleRI0
ミリアはクロワッサンを詰めた箱を抱え持つ
ロルサンジュの厨房から細い路地へ出ると、箱を自転車後部の荷台へ載せて固定。
パン二百個と箱五つの重量は合計二十キロで、ずっしりと重く、運ぶのは苦労しそうだった。
しかし、魔術を使えば運搬も少しは楽になるかもしれない。
そう思案して、ミリアは右手の指で宙に複雑な印を描き、力の充足をイメージしながら呪文の詠唱を始める。

「根源なる二つの力よ 我が望みしは強靭なる四肢 肉体に潜む力の開放。
 半ばを眠らせる五体を霊素で補い 己の内に潜みし力は目覚めん “力強き体躯”」

魔術とは波動や素粒子を制御する技法だとされるが、ミリアも詳細な理論を知っているわけではない。
それでも魔術は正常に機能して、彼女の手足に力が漲るような感覚を与えてくれた。
今、この場で用いられたのは、強化魔術の基本とも言える肉体強化《フィジカル・エンチャント》。
一時的に筋力や持久力、平衡感覚や敏捷性など、身体能力全般を向上させる魔術である。

「……これなら、全部いっぺんに運んでも問題なさそうだな」

荷物の軽さに魔術の効果を実感したミリアが、自転車のサドルに跨ってペダルを漕ぎ出す。
速度を上げるに従って、古風な街並みも後ろへ向かって流れていった。
灰色の後ろ髪も、風を受けてふわりと浮かぶ。

目的地の大聖堂はメインストリートを真っ直ぐ西に進んだ先、街の中心部にある。
補修が続く城門を越えて大広場に入ると、最初に物悲しげなヴァイオリンの旋律が聞こえた。
音源を捜して視線を彷徨わせれば、噴水の前に鎮魂曲を奏でる辻音楽師の姿。
献花台で死者を悼む者も数多く、親の無い子は忘失したように佇み、子を失った親は悲嘆に沈んで蹲っている。

(あの辺りだっけな……ライザに撃たれたのは)

ミリアは献花台の辺りを一瞥すると、雑踏の密度から走行は無理と判断して自転車の座席から降りた。
そのまま、車体を押しながら人混みの迷宮を歩いて、僧院への通用路を目指す。
大聖堂にパンを届けると言っても、実際の搬入口は信徒たちの生活空間である僧院なのだ。
広場の喧騒から外れた通路に入り、石畳を進むと、すぐに蔦の絡んだ鉄柵門へ至った。
俗界と僧院を区切る門には、魔術具の呼び鈴が設置されている。
半透明の青い呼び鈴を鳴らすと、ほどなくして助祭トビアーシュ・レシェティツキが門を開けて出てきた。

「クロワッサンの搬入に来ました……ってトビアか」

「御苦労様です、ミリアさん。
 箱越しにもパンの良い香りが漂ってきますね」

「ま、ね。
 ロルサンジュのパンは他と一味違うよ」

ミリアは荷台の紐を解きながら、若干誇らしげな様子で笑みを浮かべた。
短い間とは言え、今までパン職人であるレナードの手間をかけた仕事振りをつぶさに見てきたのだ。
毎日あれほど努力して作られたロルサンジュのパンが、美味しくないわけがない。
だから、ミリアも自信を持って勧める。

「それは、昼食が楽しみになりますね。
 バニブルの方々の好みにも合えば良いのですが……。
 彼らとの午前の会談はフェネクスの事件に費やしましたので、治癒魔術探求の件は午後に話し合うでしょう」

「そっか。それでフェネクスの事件ってのは……ええと。
 確か、新聞には武装勢力が市民を殺害したとか書いてあったような」

「ええ、また大勢の民衆が殺戮された事件です。
 ある都市で三千、ある国で数万、ある集落で五百、ある地域で数千。
 死後、数字だけで語られる人々にも、一人ひとりに名前や人生があり、大切な人がいて、叶えたい夢もあった筈。
 無辜の命を無造作に奪う彼らの暴挙は、決して許すことなど出来ません……」

若き助祭は、茶色の瞳に静かな怒りを湛えていた。

396ミリア ◆NHMho/TA8Q:2013/12/07(土) 21:10:01 ID:FVNsleRI0
蘇生術が普及した世界だけに、永遠の別離を即座に受け入れられる者は多くない。
何か救命の手段があるのではないか……そう考えてしまう。
ミリアもまた同じく。

「虐殺の犠牲になった死亡者って、蘇生術で蘇らせられないのかな。
 ローファンタジアみたいに死体すら残ってないケースならともかく、フェネクスは違うみたいだし。
 それに直前まで星霊教団がイベントを開いてたなら、誰かしら蘇生を試みてもおかしくはないと思うけど……」

(いや、事件を起こしたのが厄災の種を持つ奴なら……無理か)

苦味を帯びた呟きを口にしてから、ミリアもすぐに察した。
今、世界各地で騒乱を起こしている“厄災の種”は魂喰らいの性質を持つ。
厄災の種の所持者に殺されれば、その場で魂を取り込まれるのだ。
魂を奪われた犠牲者に蘇生の魔術が有効だとは思えない。

「もちろん蘇生を依頼する方も少なくなかったようですが、成功例はほとんど無かったとか。
 蘇生の技法は星霊教団と新魔コンツェルンに拠る複占状態なので、外部の者に原因までは分かりませんが」

トビアーシュの返答も、ミリアの推論を裏付けるものだった。

「蘇生が失敗した原因は魂の喪失だろうね。
 厄災の種ってのは周りに死者の魂が漂ってれば、それを取り込むからさ。
 アレに魂を取り込まれたんなら、蘇生なんて成功するはずないよ」

何気なく意識に上った考えを口にしながら、ミリアは僧院の敷地内に置かれた運搬車へ荷箱を移す。

「…………なぜ、ミリアさんが厄災の種の性質を知っているのでしょうか?」

トビアーシュは搬入の手伝いを止め、怪訝な表情で疑問をぶつけた。
瞳に不審げな、それでいて案じるような色を宿して。
想いを寄せる相手が、危険なことに関わっていないかと心配しているのだ。
だから、ミリアの表情に浮かんだ困惑も見逃さない。

「え、あ、それは……えっと……」

予期せぬ質問を返され、ミリアが答えに窮していると、トビアーシュはより明確な形で問いを重ねた。

「厄災の種を所持しているのですか」

「……………………まぁ、ね」

今さら知らない振りをする訳にもいかず、ミリアも肯定の言葉を返す。

「あれは一介の人間が扱うには随分と危険な物のようですが、性質について詳しく把握しておられるのでしょうか」

「おおまかに幾つか……今の所、扱いに困ってるって事もないけど……」

助祭の口から呆れたような細い溜息。
無計画にも程がある、との言葉は辛うじて飲み込まれた。

「ミリアさんも魔術が使えるようですが、過信は禁物です。
 前教皇は禍神を地上に呼び降ろして数千の死傷者を出し、自らも命を落としたのですから」

「まぁ……何か困ったことが起きたら……相談するよ」

「いえ、困る前に相談して下さい。
 危険性を鑑みれば、問題が起きた時には手遅れの可能性が少なくありませんからね。
 手に余る事態になってから相談されても、おそらく誰もミリアさんを助けられないでしょう」

「そうかもしれないけど……何をどこまで話せばいいのかな……」

397ミリア ◆NHMho/TA8Q:2013/12/07(土) 21:11:23 ID:FVNsleRI0
「では、まず厄災の種をどこに保管されているのか、教えて頂けませんか。
 住み込み先の家に厄災の種を置いているのでしたら、安全上の問題が看過できません。
 彼らが危害に見舞われるのは、ミリアさんも望まないことと思われますが」

どうすべきかを決めかねたように立ち尽くし、逡巡する様子のミリア。
しかし、ステンシィ一家のこれから先を考えれば、意を決するのは早かった。

「アレなら、ここにあるよ」

ミリアの人差し指が、自らの胸を指差す。
細い指先に押されて作られるワンピースの陰影をじっと見つめると、トビアーシュは躊躇いがちに口を開いた。

「まさか、胸に挟んで持ち歩いてるのですか……厄災の種を」

「違う違う、胸の奥――――精神世界とか、無意識の領域って言えばいいのかな。
 アタシが手に入れた厄災の種はね、見つけたその日にアタシの中に入り込んだんだよ。
 そして、すぐに発芽して、今はアタシの内なる世界ってやつに霊的な根を下ろしてる。
 生存戦略なのか、厄災の種もそれぞれ微妙な個体差があるってことなんだろうね。
 アタシのは、キャパシティが小さい代わりに芽吹くのも早い奴だったってとこか。
 ま、そのおかげで種が保持してた知識の断片を手に入れて、学んだわけでもない魔術も使えるわけだけど」

「精神の内部で……発芽。
 そのまま厄災の種が成長した場合、どうなるのですか」

「さぁね、心の中がお花畑になる……とか?」

お手上げとでも言うかのように両手を広げて、おどけるような仕草の少女。

「重要な事ですから真面目にお願いします。
 精神に寄生するような代物でしたら、育つに連れて意志を持ち、宿主を支配するのかも知れないのですよ」

「……ま、そうなる前に自分でけりを付けるつもりではいたけどね。
 父さんの理想を叶えたら、アタシはそこで終わりって」

「つまり、貴女の事を大切に思ってる人を手酷く裏切るつもりでしたか」

ミリアは咎められて拗ねる子供のように視線を逸らす。

「ただ……エヴァンジェルに来てから、それが出来るかどうかは少し自信が無くなってきてる……かも。
 生きて幸せになるのは、死んだ父さんへの裏切りだと思った時期すらあったってのに……」

「心境に変化が生じているのなら何よりです。
 不幸な幕引きを思い留まってくれるなら、私は何度でも神に祈りましょう。
 手を差し伸べられた時には、どうか振り払わないで頂きたいものです。
 それで……芽吹いた厄災の種を除去する方法は御存知なのですか?」

問い掛けの答えとして首が横に振られた。
一瞬遅れて、後ろで結わえた灰色の髪も左右に揺れる。

「前例なんてのも無いだろうし、そんなの分かんないよ。
 物理的な実体が無いみたいだから、引っこ抜くってわけにはいかないと思うけど……」

「そうですか……やはり、困る前に話をしておいて良かった。
 リンセル・ステンシィの他にも、救済の必要な人が見つかったわけですから。
 ミリアさん、厄災の種については教皇猊下の耳へ入れても宜しいですね?」

「……うん」

簡潔かつ素直な返答が述べられ、助祭も安堵した様子を見せ――――それで二人の会話は終わった。
ミリアは荷を降ろした自転車を引いて帰路へ就き、トビアーシュは受け取った荷を持って僧院へ向かってゆく。

398教皇フランディーノ ◆OzeGYYLSp.:2013/12/22(日) 20:43:10 ID:bM9wc.UU0
正午、バニブルからの使節団は迎賓室に迎えられていた。
瀟洒な部屋には落ち着いた色合いの絨毯が敷かれ、中央には大きな円卓が鎮座。
白麻のテーブルクロスで飾られた卓上には、十人分以上もの昼餐が彩りも鮮やかに並ぶ。
献立は羊肉の炭火焼きにジャガイモの塩茹で、クロワッサン、栗のポタージュ、ルッコラのサラダ、葡萄の果汁。
さらに、デザートとして林檎のゼリーが用意される。

「聖堂蔵書《エクレシア・コレクション》を千冊以上も貸与して頂けるとは思いませんでした」

そう言って、バニブルの外交官ラクサズは銀杯を傾け、葡萄の甘さと酸味を堪能した。
同席する教皇も、クロワッサンを二つに裂いて口元へ運ぶ。
褐色のクラストには歯応えがあり、白い生地も柔らかで、噛み締めるとバターの風味が鼻へと抜けてゆく。
ラクサズが杯を置いたのを見計らうと、教皇は口を開いた。

「聖典や古文書を他国へ預ける事は迷いました。
 ですが、今の情勢で有用な知識を活用できないとなれば、弊害の方が大きいでしょう」

「バニブルは書の研究について専門。
 ご希望の治癒魔術の発見にも尽力いたしますので、御心を安んじてください。
 お預かりした稀書も内容を解読次第、教皇庁へ返還いたします。
 それと、我が国の医療司書を聖都へ派遣したいのですが……宜しいでしょうか。
 術師としての能力は聖都の司祭が優れると思われますが、膨大な症例を把握している者がおりまして」

「バニブルの協力を感謝いたします」

ラクサズは頷き、黒髪の吏員に視線を移した。

「イアハート調査司書、マディラ文字程度ならば読み解く事は容易いが、図形や象徴で己の成果を残す魔術師も多い。
 優れた魔術師でもあるフラター王の助力が必要となった時は、貴女へ仲介をお願いしたいものだ」

「…………はい」

イアハートはフラター王を利用したいとの意図に傲慢さを感じて逡巡を見せたが、国益を考えれば断り難い。
やや遅れて返ってきた受諾の言葉を聞くと、ラクサズも教皇へ視線を戻す。

「ああ、それとバニブルの責務として、貸与された書物には写本が作られるでしょう。
 とは言え、我が国の書庫は管理も厳重であり、容易に浅慮な者へ拡散することはありえません。
 もし、お望みとあらば前教皇が解読したという書。
 邪神降臨の秘術が描かれた暗黒の地図も、バニブルにお預け下されば安全に保管いたします」

教皇は静かに首を振った。

「いえ、あの呪わしい書物は三主教の手で閉ざします。
 いずれ、焚書にすべきかどうかも決めなければならないでしょう」

「焚書……三主についての真実を永遠に葬るために?」

ナイフとフォークを優雅に操って羊肉を切りつつ、ラクサズは探るような瞳で教皇に問う。
その紅水晶の如き瞳の奥に、教皇は冷たい炎を感じた。

「前教皇の所業から目を背ける意図はありません。
 人類が扱うには危うい知識だからです、ラクサズ司書」

「猊下、知識自体には善悪などありません。
 悪しき者が用いるから、有益な知識も危険となり得る。
 人々に叡智が行き渡れば、禍き神を喚ぶ術とて、いずれは世を救うものへと転じるかも知れない。
 もし、必要な時に知識が失われる事となれば、焚書は未来に対して罪を負う。
 他国への内政干渉など致したりはしませんが、個人的には賢明な判断を望みます。
 ましてや、バニブルの者にとって書を焼く事は一つの生命を焼くも同義」

「熟慮はしますが、御期待に添えない場合もあるかもしれません」

399教皇フランディーノ ◆OzeGYYLSp.:2013/12/22(日) 20:44:40 ID:bM9wc.UU0
意見の相違を端緒として、ふと歓談が途切れた。
迎賓室も沈黙に包まれ、ナイフやフォークの音だけが控えめに響くのみ。
クリーム色のスープを湛えた皿は涸れ、焙り肉がナイフで割かれ、サラダの緑も淡々と消えてゆく。
しばらくして、助祭の一人が沈黙を破って口を開いた。

「猊下、少し宜しいでしょうか。
 バニブルの方に依頼したい件がありまして――――」

フランディーノが発言者へ目を向けると、トビアーシュ・レシェティツキが背後に佇んでいる。

「何でしょうか、レシェティツキ助祭」

問われたトビアーシュは教皇衣の襟元へ顔を寄せ、会話が漏れぬようそっと囁く。
内容は先ほど聞いた話、ミリアの内なる世界で厄災の種が発芽した件である。

「……う、む」

聞いた教皇は、滅多なことでは変わらない表情を歪めて唸った。
ミリアこそが最愛の人間との感情を刷り込まれているのだから、これも当然の反応であろう。
憂慮で険しさを加えた悪相は、ラクサズに向けられる。

「バニブルは厄災の種の性質について、どこまで御存知なのでしょうか」

声音に微かな緊張を含む教皇の問いかけ。
その挙動から違和感を感じ取ったラクサズは、瞳に好奇の色を浮かべて問い返す。

「我々もそれほど詳しい訳ではありませんが、何かお困りの事態でも……?」

「厄災の種を発芽させた女性がいるのです。
 物理的な形ではなく、内なる世界に根を降ろすとの形で。
 ですが、それがどのような影響を及ぼすのか分からない」

「それで我々の協力を仰ぎたい……と。
 なるほど、厄災の種のデメリットは予想して然るべき事でした。
 芽が出る種ならば、時を経れば大樹に育つのは必然。
 アイン・ソフ・オウルの欠片たる性質からすれば、成長に必要なのは生命や魂、それらを含む根源的な力でしょうか。
 将来的にローファンタジアでの神魔大帝のようになるのか、あるいは別の形となるのかまでは分かりませんが」

ラクサズは危機感を煽った。
種火の如き懸念が、不安と恐怖を振りまく炎へ成長するように。
無論、自国の輸出品目たる知識の商品価値を最大限に高める事こそ、己の務めと考えてである。

「この件についてもバニブルの助力を願えれば幸いですが」 

教皇の依頼を聞いたラクサズは即答せず、目線を落として考え込む。
厄災の種が制御不能になった際の被害は大きいが、調査の場がバニブルでなければ問題にはなるまい……と。
沈黙に焦れて教皇が懇願の句を継ごうとした時、ラクサズは口を開く。

「調査すべきものを知らないままですと、我々とて動きようが無い。
 まずは、対象について正確に知らなければなりません。
 厄災の種を発芽させた女性へ直接お会いしたいのですが……それは可能でしょうか」

「私も今聞いたばかりの事案。現状を充分に把握している訳ではありませんので即答はしかねます。
 とりあえず、今はそういったケースが存在する事だけを知って頂ければ……」

「いえ、急かすような真似は致しませんとも。
 そちらの用意が整うまでは、ゆっくりとお待ち申し上げます」

ラクサズは薄く笑んで言葉を切ると、クロワッサンの一切れを口へ運ぶ。
それを最後として卓上から料理の彩りも消え、歓待の時間は終わりを告げた。

400眠れる少女は異なる地平の夢を見ている ◆Ac3b/UD/sw:2013/12/30(月) 00:27:23 ID:YTKqyL8I0

★★★

http://upup.bz/j/my93348OKOYtFi4W9cgg3_2.png

リンセル「じゃーん! 良いツールを見つけたので、私とミリアさんとライザをモンタージュしてみましたっ」
ミリア「……ローティーン用っぽいせいか、アタシは微妙かな」
リンセル「あれっ? ミリアさん、何か元気ないですよ?」
ミリア「もうずっと頭が鈍くなってて、何も書けない……」
リンセル「えっ、えっと、とりあえず苺デニッシュでも食べて元気出して下さい」
ミリア「うん……」

★★★

401名無しさん@避難中:2014/02/08(土) 00:55:40 ID:HuzkpCHE0
【図書国家バニブルの地下書庫の一冊、その一頁】

◆魔術
魔術とは世界が創造される際に定められた法則に沿って、人為的に神秘を起こす技法。
手法に関しては、オーソドックスな呪文詠唱、石にルーンを刻む、果ては魔術具に演算処理させる等、千差万別。
無数に細分化された系統が存在するが、一般には下記の十系統が良く知られる。

 魔力に働きかける基礎魔術(ソーサリー)、物体の創造と破壊を行う創成魔術(クリエーション)、幻を操る幻覚魔術(イリュージョン)。
 生物の機能を拡大縮小する強化魔術(エンハンス)、物体に魔力を付与する付与魔術(エンチャント)。
 霊魂に働きかける死霊魔術(ネクロマンシー)、信仰に依存する神聖魔術(テウルギア)。
 自然現象を支配する元素魔術(エレメント)、精神に作用する精神魔術(アストラル)、別の空間の存在を呼ぶ召喚魔術(サモン)。

魔術は神秘である。
同じ系統でも遺失した呪文や、使い手が少ない呪文ほど、魔術は効率的かつ強力な性能へ変化する。
逆に誰もが知るような魔術は、用水路を増やせば増やすほど個々の流水量が減るように威力も劣化する。


◆禁術
イストリア共和国で結ばれた国際条約にて、倫理面、犯罪への転用、社会的影響力から国家や個人での使用を禁じた魔術。
下記の禁術は条約加盟国の外で使用しても、使用が発覚すれば加盟国へ入国した際は罪に問われる。

 1.時間操作(停止と逆行。さらに広域空間を対象とした加速や遅延も含む)
 2.生命操作(ゾンビ作成や人造生命創造がこれに当たる。蘇生に関しては一般に医療行為の延長と看做されている)
 3.精神操作(人権を鑑みて支配や憑依などが禁止される。精神医療の分野では一部が解禁)
 4.地形操作(地震などの広域災害、島や大河の創造、大規模な天候変化など。土木工事の補助としての使用は国の許可制)
 5.毒の生成(ウィルス、麻薬、細菌、瘴気など、生物や環境を持続的に汚染する魔術は禁止されている)

条約の中には無いが、透視もプライバシーの観点から一般人が濫りに使う事は許されない。
殆どの国では魔術を用いた犯罪行為は、通常の犯罪と同等の刑罰が科されるのではあるが。
精神操作については、魔術に神秘を保つ必要性がある事から、頻繁に行われているのではと懸念されている。
なお、イストリア条約は魔術師以外が中心となって作った条約なので、実際には使用困難な術も少なくない。

402名無しさん@避難中:2014/02/08(土) 00:57:08 ID:HuzkpCHE0
【ある空想家の光についての考察】

種族や性別、年齢を問わず、ある種の人々は固有の識別色で光を放つ。
この状態の彼らは、他への干渉力を増し、外から加えられた物理的・霊的な干渉をも弱化させるようだ。
結果として、これは彼等の攻撃力と防御力の増大という形で現れる。

赤い絵の具の量が多ければ、少しくらい別の色を加えられても赤いままだし、逆に他の色を赤くすることも出来る。
……とでも表現するのが適切だろうか。絵の具ではなく光だが。
発光条件は研究段階だが、強い感情や意志を抱く事、或いは生命へ危機が及ぶ場合と見られる。

403ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/03/13(木) 23:54:16 ID:0e.JNwMY0
間もなく、正午に差し掛かろうという時刻。
太陽は聖都に強い日差しを投げかけていて、屋根や樹木の下に鮮やかな黒を描いている。
次第に人の流れを増してゆく大通りには、ミリアの姿も混じっていた。
周囲の喧騒も上の空といった感じで、自転車を押しながら帰路に就いている。

(……厄災の種を持ち続けてれば、いずれアタシはアタシじゃなくなるかも知れない)

石畳の歩道を歩きながら、ミリアは己の今後について考えていた。
思索の沼に沈み、足取りは迷い子のそれ。
時折、通行人へぶつかりそうになって、その度に慌てて避けている。

(厄災の種を失えば、アタシは得た魔力を失う。
 力を失って、魅了で築き上げた関係も消えれば、残るのは無力で嫌われものの女が一人……)

厄災の種から得た力を失えば、望みを叶える手段だけでは無く、聖都で得た繋がりをも失う。
魅了した対象への依存と執着を強めている今のミリアにとって、この選択は取り難いものだった。
しかし、厄災の種は破滅の道を歩ませるかも知れない代物。
神魔コンツェルンの総帥のように巨樹の森と化すか、あるいはその前に命を断つ必要に迫られるのか。
幾つかの未来を思い描いてみても、そのどれもが積極的に選べないような光景だった。
だから、出口の無い迷路へ閉じ込められたかのように、何度も思考が同じ場所を彷徨う。
結局、ミリアは何も結論を出せず、胸に重さを抱えたままロルサンジュの戸を潜る事となった。

「ご苦労様、ミリアちゃん」

フロレアの優しげな眼差しに出迎えられると、迷子の果てに見知った場所へ辿り着いたようで、ふっと気が緩む。

「うん……ただいま。
 ロルサンジュの焼き立てパン、ちゃんと大聖堂に届けてきたから」

「元気ないみたいね? 出先で何かあったの?」

フロレアは張りの無い返事に訝しさを抱き、ダイニングへ抜けようとするミリアに声を掛けた。
搬入先で、落ち込む事態にでも陥ったのかと考えたのだ。

「あ、いや……何にも」

厄災の種の事など言えるはずもなく、ミリアは言葉を濁す。
ただでさえリンセルの昏睡で心労を受けているフロレアに、余計な負担を掛けるわけにはいかないと考えて。

「あったのね? クロワッサンを落として崩れちゃったとか?」

にこやかな顔ながらフロレアは引き下がらず、気遣う瞳となって聞き返してくる。

「え、いや、まあ……そうじゃないよ。
 ちょっとね、いつまでこうしてられるのかな、とか考えちゃったりしてさ……。
 アタシ、勿体無いくらいに良くしてもらってるよね。
 お店に置いてもらって仕事手伝わせてもらったり、一緒に食事させてもらったり、同じ部屋で寝たりとか」

「いつまで? 私は今日も明日も明後日も、ずっとミリアちゃんと居たいわ」

迷いのない温かな言葉。
それが魅了の魔力の影響と知るミリアは、好意に後ろめたさを覚えた。
今の台詞は、本来フロレアの愛娘へ向けられるべきものを掠め取っただけなのだから。
もし、彼女の心を捕らえる磁力が消失すれば、きっと今日と同じ台詞は聞けない。

404ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/03/13(木) 23:54:57 ID:0e.JNwMY0
「そう出来れば良いけど……どれくらい一緒にいられるかなんて分からないよ。
 何の心の準備も無くたって、ある日突然、何もかも終わりなんて事だってあるし……」

ミリアは父親との別離を思い出し、胸に締め付けられるような痛みを感じた。
またあの時と同じ想いを味わうのは堪え難いが、力を手放せばそれは容易くやって来るのだ。

「そうね、それでもミリアちゃんが一人でも大丈夫って思えるまでは一緒に居させて」

日差しの声音を向けるフロレアを見つめ返せず、曇天の瞳は足元の景色を写す。

「アタシがこんなに優しくしてもらえるのって……不当に価値があるように見せかけてるからだよね。
 好かれるような偽りの皮を被ってるけど、中身は汚い……。
 本当はフロレアさんにも、レナードさんにも、リンシィにも、誰からも……愛される価値なんて無い」

曖昧に濁した告白が、ミリアの口に出来る精一杯。
魅了の存在を知られなければ、互いを繋ぐ不可視の力が途切れても今の関係を続けられるのではないか。
そんな淡い望みが、核心を口にしようとする意志を押し潰してしまった。
たとえ盗んだ衣服だったとしても、凍えるような冷たさに晒されると分かっていれば……手放したくない。

「愛される価値って、私が決めちゃダメ?
 私はね、もうミリアちゃんが大切な家族の一人としか思えないの」

「その気持ちだって……硝子を宝石と偽るような詐欺で抱かせたもので。
 本当の姿を知ったら同じことなんて言えない……きっと何もかも嫌になるっ」

「ならないわ――――」

憂悶の表情で沈むミリアを温かな両腕で抱き締め、フロレアは言葉を重ねる。

「――――私ね、ミリアちゃんが何に苦しんで、辛い気持ちになってるのか分かりたい。
 簡単には解決しないものだとしても、私も一緒に悩んだり出来ればなって思うの。
 だって、家族が苦しんでたら放って置けないもの」

「アタシなんて、家族の振りしたカッコウの雛だよ……」

「ミリアちゃんは、私やレンやリンシィのことは好き?」

「好きだよ……それは嘘じゃない……けど」

「私もミリアちゃんのこと大好きだし、こうして好きって言える相手がいることは幸せなことよ。
 そしてね、ミリアちゃんの苦しそうな顔を見てると悲しい。
 だから、幸せな顔になれる方法を私たちにも一緒に探させて」

ミリアは何かを答えようとしたものの、見えざる手に喉を潰されたように押し黙ってしまう。
自分の内面を白日の下に晒せば全て終わってしまいそうな気がして、何も答えを返せなかった。
今の居心地の良い空間が破局を迎えることは怖い。

「ええっと……パン、いいですか」

唐突に掛けられた声に振り向くと、カウンターの外で怪訝な顔の男が二人のやり取りへ目を向けていた。
話の途切れを見計らって、店に訪れた客が声を掛けたのだろう。
今は客が最も訪れる正午であり、ミリアが仕事の邪魔になっているのは明らかだった。
それを察したのと、答え難い答えから逃れたい気持ちも有って、ミリアの方からフロレアの手をそっと離す。

「ご、めん……早く店を手伝わなきゃね。
 今の話は自分から話せるようになるまで待ってて」

405ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/03/13(木) 23:55:18 ID:0e.JNwMY0
「お買い上げありがとうございます。
 フィッシュサンドとクロワッサンとシナモンロール、三点で合計7R$になります」

接客が再開されると、カウンター前で滞る列も動き始めた。
背中でフロレアの声を聞きながら、ミリアも店舗を後にしてダイニングへ向かう。
繁忙の音から切り離された暖かな広間に入ると、時間の流れも緩やかに感じられた。
ミリアは南から差し込む陽射しを浴びながら身支度を整え、しばしの時間を心の整理に充てることとする。

(我ながら最悪だ……肝心なことは言わないのに、辛いですって雰囲気だけはチラチラ見せて)

自己嫌悪と共にスタンドミラーに映る顔を睨むと、ふと胸元の首飾りが目に止まった。
指先で銀色のチャームを開くと、父と幼い自分の姿が露わとなる。
刻印の魔術で祖父の姿をコラージュしたものの、写真の景色は変わらないままで、眺めていると故郷を思い出す。

(……アタシ、父さんを忘れつつあるのかな。
 父さんのいない世界で生きてることなんて考えられなかったのに……こうして普通に生きてられるってことは)

故郷の小さな街にいた頃は、父親こそが唯一無二の存在だった。
大きくなったらパパと結婚する、と言う子供の頃のままにミリアは父を愛していた。
愛する相手から肉体を求められる事こそ無かったものの、もし求められたなら応じていたかもしれない。
必要なら、目でも腕でも足でも骨でも血でも心臓でも上げられた、とも思う。

当然、父が病死した際は蘇生を願い出た。
しかし、ミリアの出生国であるイストリア共和国は、社会秩序に関わる魔術の適用が特に厳しい。
父であるドニ・スティルヴァイも、反社会的活動を行ったということで蘇生許可が下りず、遺体も火葬に付された。

唯一の支えを失い、自分も生きていられないと思った。
それなのに……今の自分は新しいコミュミティを得たことで、父親の存在が小さくなりかけていないだろうか。
今の生活に馴染めば馴染むほど、父親を愛していた過去の自分は遠ざかり、思い出も薄れてゆく……?
それは嫌だ……あまりに寂しく悲しい。

(違う、違う、忘れたわけじゃない……父さんを忘れたわけじゃない。
 父さんを愛する気持ちと、ステンシィ家の人を好きな気持ちだって矛盾しない)

己へ言い聞かせるように心の中で呟き、ミリアは静かにチャームを閉じた。
そして、フロレアを手伝いに営業中の店舗へと戻ってゆく。

(今、優先するべきなのは、リンシィを目覚めさせることだよね。
 フロレアさんとレナードさんにとってのリンシィは、アタシにとっての父さんと同じだったはずだから……)

406ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/03/13(木) 23:55:43 ID:0e.JNwMY0
夕刻、ロルサンジュの業務を終えたミリアが、リンセルとの共用部屋へ戻る。
フロレアが夕食を準備する間、自分がリンセルの介護をした方が良いだろうと思って。
部屋の窓からは夕陽の光が入り込み、ベッドで眠り続ける少女の顔も落日の朱で染まっていた。

「……傷だけなら完全に癒えたはずなんだけど、なんで起きれないんだろうね」

ミリアはいつもと同じような呟きを繰り返し、いつものようにリンセルの身の回りの世話を始める。
まずは部屋のカーテンを締めてから、紙製の吸水パンツを脱がせて排泄物の処理。
お湯で絞ったガーゼを用いて、消化管や泌尿器の出口付近を丹念に拭き、清潔さを保つ。
吸水パンツを替えると、医療品店で買い求めた消臭スプレーを部屋に撒く。

スプレーの噴霧から間を置かず、部屋は森林の香りで満ちた。
この変化は排泄の臭気と混ざることで、花のような香りに変える消臭加工技術で為されるらしい。
同じ部屋で寝起きをする以上、どうしても必要な措置だった。
何より、自分がリンセルの立場なら、そのままにしておかれる方が絶え難い。

続いて全身を拭き、髪を洗い、着替えさせ、身体を揉み解してから、最後に輸液を交換する。
全てを終えた頃には、聖都の空から夕映えの色が拭われていた。
負担に感じはいけないと思いつつ、ミリアは細く長い溜息をついて椅子に腰掛ける。
リンセルが入院していた時に比べれば、精神的な疲労が増した感は否めない。
これを何ヶ月、何年も続けられるだろうかと考えると、どうしても重い気分になってしまう。

回復する見込みさえあるのなら、どんな労苦でも耐えられる。
しかし、状況が好転せず、終わりも無いと考え始めたら……もう頑張れないだろう。
もし、寝ているのが父であり、介護も自分一人きりで行っていたとしたら、きっと堪えられないはずだ。
その時の自分は何をするのだろうか……。
ミリアは頭を振って、心に立ちこめた暗鬱の霧を追い出すと、リンセルの髪を梳きながら一方的に語らう。

「どうしたいのか、何をすべきなのか……アタシは迷ってばかりですぐに見失う。
 怖がって逃げてばかりじゃ、結果なんて何も出ないのにね」

返答を期待しての問い掛けではなかったが、予期せずミリアに応えを返すものが現れた。
オルゴール風の聖歌のメロディが。

「……なにこれ、何の音?」

訝しむミリアが音源を目で探すと、机の上の携帯端末タブレットが着信ランプを点滅させていた。
それで、何日か前に連絡用の通信機器をフロレアから借りたことを思い出す。
魔術的な素養が全く無いステンシィ家の人間たちが、通話機器に機械類を使っていたことも。
聖歌の着信メロディもタブレットの本来の持ち主、リンセル・ステンシィが設定したものである。

(あ、電話か……確かアレクとトビアにも番号を教えといたっけ)

ミリアは立ち上がり、ライラックカラーのタブレットを手に取った。
父親の逝去以来、ミリアはこの手のものに触れて来なかったので、使い方には若干の戸惑いがあった。
やや迷いながら画面上の通話アイコンに触れると、スピーカーからトビアーシュの声が流れて来る。

「ミリアさんですか?
 ご依頼のリンセル・ステンシィの件ですが、まずは患者の症状を見たいとのことです。
 明日の昼過ぎ、バニブルから医療司書を派遣して貰えることとなりましたので、ご用意をお願い出来ますか」

「ありがと、トビア。
 あ、一つ希望を述べるなら、リンシィの身体を色々調べるんなら男の医者じゃない方がいいな。
 アタシなら、そうして欲しいからってことだけど……ま、あんまり無理は言えないか」

「分かりました。
 希望が通るかどうかは分かりませんが、バニブルの方へは伝えておきましょう」

「……色々、便利使いして悪い。
 ちょっとは心苦しく思ってるんだけどね」

407ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/03/13(木) 23:56:10 ID:0e.JNwMY0
心苦しさの原因は、魅了の魔力で相手の運命を握っているとの自覚だ。
好意と愛は得たいが、相手の心を意のままにすることには引け目を感じてしまう……。
身の丈に合わない能力を持って、それを持て余しているのが今のミリアだと言えるかもしれない。

「いえ、私のことは便利使いしても一向に構いませんのでお気にせず。
 それと厄災の種の件ですが、教皇庁に厄災の種を専門に扱う司祭が置かれました。
 ミリアさんの問題も解決したいので、明日にでも浄災祓魔局で診てもらいたいのですが……宜しいでしょうか?」

念を押すかのようにトビアーシュは伺いを立てた。
彼の言う浄災祓魔局《じょうさいふつまきょく》とは、主に災異の記録と収束を担当する機関。
教皇庁の行政組織である八省の一つ、検魔聖省の下部組織だ。
バニブルとの会談後、この局には厄災の種が引き起こす様々な問題の担当官――――律種司祭が置かれている。

「それは、リンシィが治ってからの方がいいかな。
 アタシは今すぐどうこうって状態でも無いし……」

ミリアは部屋に横たわる少女を見つめたまま言葉を返し、相手からの返答を待つ。

「ミリアさんの意志は尊重しますが、リンセル・ステンシィが治るのはいつになるか分かりません。
 出来れば、すぐにでも診て頂きたい」

トビアーシュは若干の抗議めいた響きを含ませて言う。
執着するものが、いつ掌から零れ落ちるか分からない不安からだった。
恋情に胸を押される助祭には、リンセルの完治よりミリアの治療の方が優先度が高いのだ。
ミリアもそれを察するが、今は他のことに気を取られたくなくて曖昧に答えを返す。

「う……ん、リンシィを診察した後で時間があったら……ね。
 医者が家に来るんなら、リンシィの両親にも話を通さなくちゃいけないし……今日はこれで」

通話を切ってトビアーシュとの会話を終えると、ミリアは階段を降りてダイニングに向かい、夕食の席へ着く。
テーブルに並ぶのは豚肉のハーブロースト、トマトの赤で可愛らしく彩られたブルスケッタ。
さらにコーンスープ、酢とオリーブオイルで味付けしたパンに野菜を加えたパンツァネッラだ。

「今日も美味しそう。
 いつまでも輸液ってのも可哀想だし、早くリンシィもフロレアさんの料理を食べられるといいよね。
 あ、それでリンシィのことなんだけど……さ。
 知り合いになった三主教の人に話してみたら、バニブルの医療司書に症状の診断をしてもらえそうなんだよね。
 明日の午後、家へ来てもらっても大丈夫かな……」

テーブルの上で両手の指を合わせ、そう切り出すミリア。
期待を持たせて診察を受けさせたのに進展が無い場合を考えると、語尾が小さくなってゆく。

「リンシィの治療に繋がりそうな事なら拒む理由は無い。
 むしろ、此方からお願いしたいくらいだ」

「もちろん大丈夫よ、ミリアちゃん」

娘の回復を待ち望む両親に断る理由はなく、即座に二人分の承諾が返って来た。

「あ、最初は単なる検診だけみたいだから、そんなに期待はし過ぎない方が良いかも……。
 ロルサンジュの仕事にも穴は開けられないし、来客の応対はアタシがするね」

ミリアが述べて――――翌日の午後、リンセルの部屋にバニブルの医療司書がやって来る。

「犬のように這いつくばって、わたしの足を舐めて」

それが、妖しいほどに幼く見える女が放つ第一声だった。

408医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2014/03/14(金) 00:23:52 ID:2VHe4yVI0
名前:コーデファー・コトン・フラスネル
種族:人間
性別:女
年齢:186才
技能:魔術・科学を問わず医術全般
外見:青紫の瞳、真っ白な長い髪、色素の無い皮膚、体型は7才程度で身長112cm/体重20kg
   服装は民族衣装風の緑の上着とスカート、赤い帯、その上にバニブルの国章がデザインされた白いポンチョ
装備:防護術衣(ポンチョ)、自動治癒の術式を施した銀の首輪、懐中時計型の通信魔術具、タブレット端末、医療道具
身分:二級医療司書
出身:湖上都市リン・リグア

【人称】わたし
【傾向】幼児めいた傍若無人さ。好き嫌いが激しい。死への恐れ
【願望】快を得る事とその持続。スキルアップ。自立
【得意分野】医術と診察
【苦手分野】戦闘や肉体労働全般
【最終目標】永久に己を保ち、世界の全てを識ること
【生育環境】バニブルに移り住んだ抗老化学の研究者、家族はいたが現在は孫に至るまで死亡している

409医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2014/03/14(金) 00:31:33 ID:2VHe4yVI0
バニブルの二級医療司書、コーデファー・コトン・フラスネル。
彼女の容姿や背丈は、十歳に満たないと思えるほど幼い。
腰まで伸びる頭髪は生糸の白さを持ち、皮膚も白で、眉や睫毛すらも色彩を欠く。
色を持つ部位と言えば、紫水晶を嵌め込んだかのような瞳だけ。

黒髪黒目の者が多いバニブル人と、欠色のコーデファーが人種的に異なる事は一目瞭然だった。
彼女の出身は大陸の北西域に位置した国家である。
遥か東方のバニブルまで移り住んだ経緯は、不老不死の術を探し求めて知の宝庫へ来たというもの。
そう、この永遠を欲して様々な知識を蒐集する女は、決して見た目どおりの年齢ではない。

「んー……っ! なんで、わたしがこんな所まで来なくちゃいけないのよっ」

三主教の女助祭に伴われたコーデファーが、文句を放ちながら公用車を降りると、ロルサンジュの前に立つ。
服装は緑の胴衣と膝上までのスカート、赤い帯、その上からバニブルの国章をデザインした白いポンチョを羽織っている。
雪のように真っ白な姿は眩い陽射しに輝いていたものの、表情は対象的なまでに曇りを見せていた。

不機嫌の主成分は、全身に溜りに溜まった疲労だ。
コーデファーを含めて、バニブルの医療者は全員が連日不休で診療を行い、疲労を極めている。
都市の地下書庫に封じられていた憤怒のアイン・ソフ・オウルが復活し、広範な区画に被害を与えた影響だった。
バニブルもヴェルザンディ国家司書の離職後、まだ完全に政治的な安定を得た訳ではないのだ。
その上、遠くまで往診させられたものだから、コーデファーも不機嫌になるのだが、ラクサズの依頼なので断れなかった。
彼が、かつての自分自身で選んだ庇護者だけに。

「バニブルの医療司書、コーデファー・コトン・フラスネル様です」

ロルサンジュのダイニングに入ると、付き添いの助祭がリンセルの両親とミリアにコーデファーを紹介する。
当の医療司書は虫の居所が悪そうに黙ったまま。

「今日は遠い所を御足労頂きまして、ありがとうございます。
 どうか、娘を宜しくお願いいたします」

家長のレナードが一礼して挨拶を返し、続いてフロレアも口を開く。

「初めまして、フラスネル様。
 お医者様には診てみらったのですが、娘の昏睡の原因は分からず困り果てていました」

幼女めいた外貌の司書にも頭を垂れ、丁寧に応対するステンシィ夫妻。
常と変わらぬ態度で日々を送ってはいても、内心は藁にも縋る心境なのかも知れない。
しかし、ミリアの態度は違う。
あまりに頼りなげな姿の医療司書に疑いの眼差しを向けていた。
己への敬意の不在と技量への不信を感じ取ったのか、コーデファーもキッと鋭い視線でミリアを刺し返す。
そして、睨みつけた相手に先導されて辿り着いた部屋で、ついに今まで燻っていた彼女の不満は爆発する――――。

「犬のように這いつくばって、わたしの足を舐めて」

ミリアに向けられたのは、純白の容姿さながらの冷ややかな言葉。
幼げな姿の医療司書はリンセルの部屋で椅子に座ると、ルームシューズと靴下を脱ぎ捨て、小さな素足を晒す。

「そしたら、この娘を診てあげてもいい」

唇の端を嗜虐の笑みで歪め、試すような瞳のコーデファー。
この言動や感情の幼さこそが、彼女が不老の代償として得たものだった。
いや、コーデファーの長生はベニクラゲのような退行で為されるので、不老ではなく若返りの繰り返しと呼ぶべきか。
彼女の薬物を用いて若化する方式は、その度に記憶の一部が欠損する難点を持つ。
それは思い出や過去の情景など……エピソード記憶と呼ばれる記憶領域の殆どを喪失させてしまっていた。
百年以上の日月を経て、数多くの医術の知識を保持しながら、コーデファーの精神が年齢相応に成熟できない理由だ。

「なぁに? 聞こえなかったの? 早くわたしの足を舐めなさぁい♪」

年齢に比して異様な若さを持つ医療司書は、凍れる鈴の声を投げて楽しげに笑った。

410ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/04/03(木) 22:02:52 ID:e3ZW6BgE0
リンセル・ステンシィの部屋にいるのは五人。
寝台に横たわる少女と、その横で佇む母親、椅子に座って素足を晒す医療司書、部屋の隅で見守る女助祭。
そして、硬い表情を浮かべて医療司書の前に立つミリア。
家主であるレナードはロルサンジュの仕事に加え、宗教都市の住民らしく異性の診療という事で席を外した。
医療司書の付き添いとして女助祭が寄越されたのも、その辺りの配慮からであろう。

この部屋を包む空気は、お世辞にも和やかとは言い難い。
フロレアは当惑の表情を浮かべており、付き添いに訪れた女助祭も同様。
往診に訪れたはずの医療者が、わたしの足を舐めて等と発言すれば当然の反応ではあったが。

「足を舐めろ……ね。
 まず、その麗しいお御足を舐めるかどうかを決める前に聞きたいんだけど。
 コーデファーちゃんは本当に医療司書さんかなぁ?
 今日はベテランの医療司書が診察してくれるって話で、お医者さんごっこに付き合う予定じゃなかったんだよね。
 聞き違いか、さもなくば何かの手違いで、児童本の司書が来たってことかなぁ?」

ミリアは幼児を諭すかのような口調で言った。
コーデファーを見て、ミリアが受けた率直な印象は“駄々を捏ねる子供”というものだ。
容貌は十歳にも満たない程度で、幼児めいた要求からは医療者としての精神性を感じられない。
何らかの意図で、無能な者が派遣されたのだろうかと疑問を抱くほどに。

「この凡愚っ。
 わたしはね、186年も生きてるんだから! おまえよりずっとずーっと年上なの!」

ミリアの侮りに対抗するよう、コーデファーは怒気を滲ませて己の年齢を誇る。
容貌が幼げな所為で迫力こそないものの、反駁の言葉は種族差について失念している事をミリアへ思い至らせた。
妖精や妖魔や侏儒など、この社会には長い寿命を持ちながら子供のような容姿の種族も存在するのだ。
最も有名なのは数百歳とも数千年歳とも伝えられる星霊教団の教主、星の巫女だろうか。
コーデファーもそのような種族の一人であれば、外見に反して優れた医術を備えていても不思議ではない。

「186才ってことはコーデファー……さんは人間じゃないよね」

長命な異種族なのだろうかとの推量を持って、やや態度を和らげたミリアが聞き返す。
しかし、問われた相手は瞳に冷たい嘲りを浮かべ、小さな唇から罵りを漏らした。

「なに言ってるの? どこからどう見ても人間でしょう?
 おまえは牛みたいな胸に全部の栄養が流れて、脳がスポンジになっちゃってそうね!」

「いや、だって普通の人間が若いまま186年も生きられるなんて思えないし。
 もちろん、吸血種になっての不死化やら、肉体の機械化やらで延命を試みてる奴らがいるのは知ってるよ。
 でも、そういう奴らって、見た目からして人間とは違ってるじゃない」

「この無知っ。
 そんな視野の狭い物の見方しか出来ないから、狂牛病の疑いが掛けられるのよ。
 わたしは特殊な減齢法を自分の身体に施してるから、とっても若い姿なのっ」

「減齢? ああ、若返りってことね。
 伝説だけなら良くある話だけど、目にするのなんて初めてだし……」

「ようやく理解できたようね。
 それでどうするの? 地面に這い蹲ってわたしの足を舐める気になった?」

411ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/04/03(木) 22:03:41 ID:e3ZW6BgE0
コーデファーは椅子に座ったまま、上目遣いでミリアの顔を覗き込む。
声には出さずとも、口元に描かれた緩い弧が、お前を屈服させたら少しは気晴らしになるだろうと告げていた。
恥を掻かせて楽しむのが目的だから、人払いするわけにも、後でという訳にもいかない。
今、此処で、跪かせて足を舐めさせなけば気が済まないようだ。
知識量と吊りあっていない彼女の精神は、相当に屈折しているようと見えた。

「…………アタシが言えた話じゃないですけど。
 重ねた歳月とか経験を示したいのなら、司書様はもう少し慎ましさを身に付けた方がいいじゃないですか」

ぎこちない追従の笑みを口の端に浮かべて、ミリアは敬意の篭もらない敬語を返す。
リンセルの快癒が最優先事項だとしても、出来ればミリアも他人の足など舐めたいものではない。

「つまり嫌ってこと?
 それなら、診療も他の医者に診てもらえばぁ?
 わたしの診療を拒否するなら、ここにいても時間の無駄だし、帰り支度をさせてもらうわね」

コーデファーは声の温度を下げ、関心が失せたように瞳を逸らす。
ふんと小さく鼻を鳴らして椅子から立ち上がり、本当に帰り支度を始めようともしていた。

「ちょっ、ちょっと待って!
 アタシがコーデファー……様の足を舐めたら、本当にリンシィの診療をしてくれますか」

ミリアはコーデファーの細い腕を掴む。
此処で医療司書にバニブルに帰られてしまえば、リンセルの治癒も遠のきかねないとの焦りからだ。
しかし、その意志を遮るようにフロレアが進み出た。

「そんなことしちゃダメよ、ミリアちゃん。
 フラスネル様、ご自分が足を舐めなさいなんて言われたら、どう思われますか?
 自分が言われて嫌なことや、悲しくなったりすることは、人にも言ってはいけませんよね」

フロレアは膝を落として目線の高さをコードファーに合わせると、青紫の瞳をしっかりと見据える。

「あら、わたしにお説教? へぇ。
 娘が治らなくても良いなんて酷いママ」

「リンセルに治って欲しいとは思ってますが、無理を推してまで診てもらうつもりはありません。
 それに今のフラスネル様は、心も身体もお疲れのようですから」

「疲れてるに決まってるでしょう。
 毎日、おまえたちみたいな凡愚の相手をしなくちゃいけないんだもの」

「でしたら、少しお休みになられてはどうでしょう?
 病を診るべき方が心身を疲れさせていては、お仕事にも差し支えます。
 もうじき憩餐《シンシューレ》の時間ですから、ダイニングに何かご用意いたしますね」

そう言ってフロレアはダイニングに降りてゆき、部屋の入り口近くに佇んでいた三主教の女助祭もそれに続く。

412ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/04/03(木) 22:05:23 ID:e3ZW6BgE0
フロレアの言う憩餐《シンシューレ》とは、大陸西域部の中でも温帯や乾燥帯に多く見られる食文化だ。
正午を過ぎて少し経った頃に甘いものや軽食を取り、紅茶やカフェ・ラッテを嗜んで、午後の活力を養う。
要するにアフタヌーン・ティーやコーヒー・ブレイクの時間である。

「そういえば、何か食べるにはちょうどいい場所ね。
 でも、わたしの機嫌を取った所で患者は診ないわよ。
 だぁって、そっちが診ないで良いって言ったんだもの」

診療の放棄を口にしてミリアを見上げ、クスクスと楽しげに笑うコーデファー。
その傍若無人な有様を見て、ミリアは心を奪う力の行使を決めた。

(人間相手なら……アタシの力で心を捕らえられるはず)

「いつまでしがみ付いてるの、見苦しい」

コードファーが自分に取り縋るミリアへ視線を移した。
刺すような一瞥で射られたミリアは、腕を掴む手に力を込めつつ青紫の瞳に正対する。
今、この部屋には邪魔する者は誰もおらず、魅了の力を用いるにも好機だと感じられた。
悲鳴を上げられても、誰かが階段を登ってくる前に事を済ませられると。

(腕力は無さそうだし、無理やりにでも唇を奪って……言う事を聞かせるしかない)

ミリアの魅了は、体液を媒介として相手の体内に魔力的なフェロモン受容体を作り出す事で為される。
しかし、構造の本質は“世界”の株分けに他ならない。
己が“世界”の一部を伐り出して“小世界”を作り、それを標的に植え付けて心を侵すのだ。
革命のアイン・ソフ・オウルの“世界”を花畑に例えるなら、株分けされた“小世界”は一輪の花とも言えようか。
その己が分身たる一輪の花をコーデファーに挿す為、ミリアは舌で唇を湿らせながら標的の両手首を掴む。
焦りはミリアを拙速な行動に駆り立てさせていた。

「やっぱり、フラスネル様を舐めさせてもらう事にしたよ。
 舐める場所は可愛いらしいあんよじゃないけど、ねッ」

ミリアの意図が分からず、今まで優越の笑みを浮かべていたコーデファーは狼狽する。

「なっ、なんのつもり!?」

「キスするつもりッ」

「は、離してっ! この変態! 変態! 離しなさい! 触らないで!」

答えを聞いたコーデファーは悪罵を吐き捨て、ミリアから顔を背けて海老反りとなる。
眉根に皺を寄せて首を左右に振りながら背を反らし、ついには体勢を崩して床へ押さえつけられた。
掴まれた両腕を振り解いて逃れようとするものの、両者の体格の違いからそれは叶わない。
さながら、鼠を捕らえた猫といった有様だろうか。

「……人に足を舐めさせようとする方が、よっぽどだと思うけどね!?」

互いの優位と劣位が逆転すると、ミリアは組み敷いた相手に言葉を投げ返す。

「ん〜! う〜!」

ミリアが唇を半開きにして濡れた舌を伸ばすと、コーデファーは顔を背けながら口を堅く閉じて懸命に拒む。
しかし、“世界”の力の他に“世界”の力に対抗する術は無い。
閉じられたコーデファーの唇を抉じ開け、強引にでも唾液を捻じ込めば、ミリアの魅了も完遂するだろう。

413Miryis stalemate ◆NHMho/TA8Q:2014/04/03(木) 22:09:41 ID:e3ZW6BgE0
本編でアイン・ソフ・オウルの設定が整備されつつあるし、アタシも能力関係について纏めてみようかな。
……ほとんど死に設定になりそうだけど、ね。

◆蝕界草光《Svjetlo trava/スヴィエトロ・トゥラヴァ》
革命のアイン・ソフ・オウルが絶命に至りそうな時、或いは強い意志を抱いた時に現れる固有光。
若草色の光で描かれた植物文様として、ミリアの全身に浮かび上がって纏わりつく。
この状態のミリアは、外界への干渉力(攻撃力)と自らの干渉排除力(防御力)を増す。
攻防力の上昇は、内在する世界観の律を実相世界に表出させて、外界侵蝕と自己防護を同時に行う結果。
それゆえに革命のアイン・ソフ・オウルが受け入れる意志を持たねば、有益な干渉であろうと無効化する。

基本的に蝕界草光を相殺可能なのは、魔術・奇跡などの“世界”の力のみ。
非アイン・ソフ・オウルに拠る機関銃などの兵器、炎などの自然現象では、光の防護に阻まれて傷一つ付けられない。
ただし、核爆弾のような超巨大な破壊力であれば影響を排除しきれず、攻撃執行者が誰であろうと蝕界草光も貫かれる。
(※この設定は此処だけの設定であり、本編の世界設定に影響を与えるものではない)
(※それでも整合性を取るなら、革命のアイン・ソフ・オウルが核爆弾に耐える人間のイメージを描けず)
(※その破壊力を通す世界観を構築してしまっている事が、本来通らない筈の力で絶命してしまう事の適切な理由となる)

◆愛香播種《Miris ljubavi/ミリス・リュバヴィ》
革命のアイン・ソフ・オウルの力で、煽動家としての面の発露。
標的の体内に混入させた体液から魔力的なフェロモン受容体(小世界)を形成し、ミリアに魅了された状態とする。
同時に脳内物質を操作し、若干だが身体能力を向上させる作用も持つ。
対象人数には限界が存在し、魅了した者達の“世界”の総量が術者の許容量を越えた時点で、全員への影響も消失する。
魅了の影響が消えた者の肉体には耐性が発生して、二度と革命のアイン・ソフ・オウルから影響を受けることが無い。
革命のアイン・ソフ・オウルの遺志で、人間以外の種族は最初から対象外となる。
体内器官なので見えないが、小世界たるフェロモン受容体は常に若草色の光《オウル》を灯す。

◆喰魂《soul eater/ソウルイーター》
厄災の種の性質で、周囲の空間に浮遊する魂を引き込んで喰らい、力を増してゆく。
なお、力を得るのはミリア自身では無く、ミリアを苗床とする厄災の種である。
厄災の種は個体差があれど、保持した力の断片を宿主に与え、善悪を問わず感情の増幅も行う。

◆魔術《wizardry/ウィザードリィ》
厄災の種からミリアが得た知識で、習得したのは二十余りの強化魔術と低級の基礎魔術が幾つか。
魔術士としての区分は、生物の機能を拡張させる強化魔術師(Enhancer/エンハンサー)。
魔力を絵筆として、自らがイメージした機能を対象生物に上書きし、別の姿にデザインする魔術師たちである。

呪文の詠唱開始から効果発動までは、十秒程度が基本。
古式ゆかしく、呪文には精神集中しながらの詠唱、確固たるイメージ、宙に指で印を描く動作が必要。
呪文に一字でも誤字や不明瞭な発音があったり、痛みや動揺で精神を集中できなければ魔術も発動しない。
ミリアが使用できるのは厄災の種が蓄えていた知識のみで、新しく魔術を習得するには通常と同じ修養期間が必要。

※(強化魔術)
視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚強化/肺活量増強/身体能力強化/速度変化/三半規管強化/精神力増大
水中呼吸/乾燥・寒冷環境耐性/不眠/毒耐性/有毒化/飢餓耐性/免疫強化/声質変化/可視領域拡大/治癒力促進
肉体の軽量化/肥満体化/爪や歯や皮膚の硬化/器官作製/分泌物操作/仮死状態/臭気変化/腕の両利き化/痛覚遮断

※(基礎魔術)
持続時間延長/魔術消去/魔力感知/魔力防護/文字・映像の刻印/使い魔の簡易使役

◆魔術具の杖《Teves/テーベス》
巡礼用の杖に似せた攻撃魔杖で“杭打つ者”の意を持つ。製作者は屍鬼狩人のダネシュティ一族。
価格と取得難度は高価な工芸品と同じくらいで、治安が良い国や術具規制の強い国では手に入らない。
テーベスに魔力を込めれば先端に光の杭が生み出され、槍にも似た使い方が出来る。
ただし、術具として扱うには魔術師の基本、魔力を操る技法を習得していなければならない。

414名無しさん@避難中:2014/04/10(木) 01:38:41 ID:PpVg3LbE0
ksks

415 ◆Tio/Ue.LMI:2014/04/13(日) 14:38:45 ID:uKN02lFU0
【獅子の夢/Episode 1.発見】

大陸西域の地中海――――赤瞑海に浮かぶ島の一つ、キュレリア島、その最南端地区ミルヒシャサ。
一面が密林に覆われた熱帯性気候の地であり、古代マディラ文明の残滓が色濃く残る土地でもある。
島を一巡りすれば、罅割れた石柱や、樹林の中に立ち並ぶ獣頭人身の神像などが幾つも見つかることだろう。

それら古代遺跡を守護するような緑の樹木を越えて、道なき道を二人の人物が歩いている。
一人は人間の成人男性、穏やかな顔つきで、漆黒の髪と褐色の肌を持ち、ゆったりとした東方風の民族衣装を纏う。
もう一人も同族と思しき黒髪褐色の風貌と衣装なのだが、まだ年は若く十代半ばといった所だろうか。
先導する青年は疲れた様子も見せず、深い密林の中を歩き続けているものの、道連れの少年はそうではない。
膝までの下生えに加え、不快な暑気と無数に蠢く虫蛇の類に歩みを阻まれながら、青年の後を遅れないように着いてゆく。

「ティーオ、私たちが生きる此の世界は、無数の小さき世界が集ったもの……と教えた事は覚えていますか?」

薄暗い闇の森を杖で突いて歩きつつ、褐色の青年は言った。

「はい、誰の心にも……その深奥には全ての根源となる“世界”が広がってるんですよね、先生。
 人の強い想いに拠って、無限に強く光り輝くような“世界”が。
 そして、その個体群が細胞のように集まって、僕らが目に見る実相の大世界、森羅万象を構成している」

疲労の息を何度も吐きつつ、質問から随分と遅れてティーオと呼ばれた少年が答えを返す。
それを聞くと、師である青年は静かに頷いた。

「格段に大きな“世界”を持つものが動けば、それは地震や波のような歪みを生んで周囲に影響を及ぼします。
 キュレリアで起きた異変も、おそらく枢要罪と称するものたちの出現が切っ掛けでしょう」

「フェネクスで大勢の人たちを殺した奴らが、キュレリア島にも来たんですか?」

「いいえ、おそらくは違うでしょう。
 巨大な力を持った“世界”は、この地で生じて、急速に膨れ上がっています。
 それは、星誕祭の日も島から遠ざかる事はありませんでした」

「島の外から来た者ではないんですね」

「ええ、おそらくは島の者のはずです。
 その者の“世界”は時間を掛けて広がり、己の秩序と法則を築き、重く確固としたものになろうとしている。
 放って置けばキュレリアを飲み込み、冷たく昏い冥府の輝きで、島の全てを塗り潰してしまうかも知れません。
 貴方には感じ取れませんか? この先から薄く伸びてくる黒耀石《オブシディアン》の気配が」

青年の言葉通り、熱帯の森には異様な雰囲気が漂っている。
随分と前から此処に立ち入る島民が誰もいないのも、密林全域に漂う不可視の重圧に心が竦むからだ。

「そういえば、密林に入った時から体が一回りくらい重くなったような……。
 確か、この先ってターグレッティ石窟群でしたよね?
 今から数千年前に獅子皇帝ギルヴィが落命した土地」

歩みを進める少年の言葉と共に緑の森が開け、唐突に鈍い色彩が現れた。
瞳に映る灰色は、密林の緑に埋もれながらも現代に威容を残す、獣頭神マーディトを祀った古代神殿の岩壁だ。

416 ◆Tio/Ue.LMI:2014/04/13(日) 14:39:42 ID:uKN02lFU0
【獅子の夢/Episode 2.遭遇】

褐色の少年と彼の師は、巨岩を穿って造られた神殿に足を踏み入れる。
異教的な装飾で彫刻された巨大回廊が数層にも連なった内部は広大であったが、二人は進み続け、やがて最奥に辿り着く。
石室の暗闇には、獅子の獣皮を纏う魔的な男が蹲っていた。
白い肌に獣血で不可思議な文様を描き、獣骨と黒宝玉で装飾した出で立ちは、さながら古の神を崇める神官のよう。
この異形の男の眼窩に嵌った空色の瞳が、自らの領域に踏み込んだ二人の侵入者を捉える。

「……誰だ」

石造りの遺跡に巣食う男は、闇の中から敵意の篭もった重苦しい声で問い質す。

「ぼ、僕たちは島の異変を平定する依頼を受けたものです。
 キュレリア島で発生した人を襲う魔獣。その源を辿って此処に来ました」

答えたのは、褐色の少年ティーオ。
彼は師であるカルナ・ダネシュティと共にキュレリア島に現れた魔獣、黒耀の獅子を討伐するために訪れていた。
しかし、島の各地で遭遇した黒獅子たちは、殺しても殺しても悉く黒耀色の燐光と化して消え去ってしまう。
常識の生物でないのは明らかで、発生原因を付き止めねば島に安寧が訪れないのも明白。
彼らは未知の魔獣の影を追い、寝座を求め、探し当てた先が密林に佇む石窟神殿というわけだった。

「貴方からは、獰猛にして粗暴な“世界”を感じ取れます。
 そう、これはまるで……獣の心で観た景象」

ダネシュティが弟子の言葉を継ぐ。
彼の黒い瞳には、異形の男が描く心象の“世界”が、五感を越えた超感覚で感じ取れているのだ。

「獣の世界……間違ってはいない。
 俺は獅子皇帝の末裔、獣の王だからな」

来訪者の言葉を肯定して、獣王を名乗る男は獅子のように獰猛な笑みを浮かべた。

「古代皇帝の末裔たる獣の王……。
 キュレリアに出没した魔獣を使役しているのは貴方ですね」

「然り、エルロイの姦計で葬られた父祖の世を取り戻す為、我が尖兵たる魔獣は躍る。
 今の人類が綴った暦法を終わらせ、時の彼方に消え去りし往古の暦を蘇らせ、我らの歴史を刻み直すまで。
 邪魔をするならば、何者であろうと滅ぶと知れ」

「ギルヴィにエルロイ……数千年前に過ぎ去った時代を夢想する獣よ。
 貴方の“世界”は重く、堅過ぎて、今の世界には溶けず、馴染むことも決してない。
 このミルヒシャサから各地に広がってゆけば、厄災として周囲を毀すのみでしょう。
 貴方が伝説の世界を蘇らせると言うのなら、伝説の殺戮者である我が一族が滅します。
 ……ティーオ、下がっていなさい」

褐色の青年が手に持つ杭魔杖《テーベス》を水平に掲げると、その一瞬で先端から光の杭が伸びた。
白銀光に輝く円錐を備えた杖は長槍のようであり、凄烈な光の輝きは魔を滅ぼす聖的な光を連想させる。

「はい、先生もお気をつけてっ」

師の戦闘態勢と同時に弟子が戦闘に巻き込まれないよう遠ざかり、時を同じくして獣王も人ならざる声で吼えた。

「オ、オ、オオォォオオォォッ!」

咆哮を戦いの合図として、獣の王が疾駆する。

417 ◆Tio/Ue.LMI:2014/04/13(日) 14:40:19 ID:uKN02lFU0
【獅子の夢/Episode 3.開戦】

先に仕掛けたのは獣王。
異様に長い腕を振り上げ、対峙する青年の右の肩口から左の脇腹までを漆黒の爪で引き裂こうとした。
左手の爪が弧を描いて大気を切り裂き、悲鳴のような音を空間に刻む。
しかし、ダネシュティの邀撃は迅速に為された。
杭魔杖《テーベス》を流麗に動かして、巧みに爪の軌道へ光の錐を合わせる。

「……ハッ」

気合いと共に吐かれた息と、音叉を思わせる激突音が重なり、石窟神殿の闇に響いた。
左腕に感じた衝撃から自らの攻撃が防がれたと気づき、獣王は残った右腕で追撃を仕掛ける。
ニ撃目は初撃とは逆の軌道で、ダネシュティの左脇腹から右の肩口までを狙う爪撃。

「貴様の得物は一本、此方はニ爪! 防がれる道理はないッ!」

獣の王が吼えた。
が、鋭い爪が切り裂いたのは虚空に残る残像のみ。
必殺を確信して繰り出された追撃は、流水の動きで躱される。

「貴方の理に従う謂れはありません」

ダネシュティは背後に短く跳び退り、槍の間合いを作ると三度の刺突を繰り出す。
宙に閃く銀光は全てが獣王の異装を刺し貫き、赤い飛沫を散らせた。
獣染みた身体能力を持つ獣王からすれば然程の速さとも思えないのに、光の錐は回避行動に合わせて軌道を変える。
ならば、と攻撃に移って爪撃を試みても結果は同様。

「俺の動きが見切られている……ッ!?」

獣王が不快な呻きを漏らすと、ダネシュティは涼しげな表情のまま、杭魔杖《テーベス》の先端を敵対者の心臓に向ける。

「ええ、私には貴方の動きが手に取るように視えます」

「貴様は俺の動きを読めるというのか。
 ならば、躱すことが出来ないくらい攻撃を集中させれば良いだけだ。
 いかに小賢しく動こうと、無数の眷属の動きを読んで、躱しきることなど出来はしまい。
 来たれ……マディラの聖獣たちよ!」

手負いの男の身体から、殺気と共に黒耀石の燐光が立ち上る。
石室全体へ拡散してゆく光の粒子は、瞬く間に十数点を中心として集い、獣皮に黒耀の色を宿す獅子を十数匹も形作った。
これこそが、島を蹂躙する魔獣の群れの正体。
獣王の内なる“世界”の住人とも言える存在たち――――顕現《アヴァター》。

418 ◆Tio/Ue.LMI:2014/04/13(日) 14:41:42 ID:uKN02lFU0
【獅子の夢/Episode 4.滅夢】

石室に出現した十を超える魔獣は包囲の陣を作り、前列の四頭が一斉にダネシュティ目掛けて襲いかかった。
前後左右からの同時攻撃で、残る黒獅子も包囲網から逃れようと飛び出す瞬間を狙い済ましている。
どれほど緊密な個体同士でも不可能と思える程の正確無比な連携攻撃は、歴戦の武術家ですら回避困難だろう。

「先生、後ろからも魔獣が!」

ティーオが叫び、死角への注意を促す。
しかし、警告は杞憂。

「案ずることはありません。
 獣の王が己の“世界”を持つように、私も己の“世界”を持つ」

ダネシュティは背中に目があるかのように杭魔杖《テーベス》を己の背後を通して薙ぎ、再び前方に構えた。
その途中、杖の先端に宿る光の錐が射ち出され、背後の黒獅子の一頭を眉間から臀部まで貫く。
負傷した事で実体を保てなくなったのか、魔獣は光の粒子となって消えていった。

「襲えッ」

王命を聞き、後列で控えていたニ頭の魔獣が攻撃陣形の欠落を埋めようと疾駆する。
それに合わせて、敵の陣形も一瞬毎に変わってゆく。
その流動する複雑な軌跡をダネシュティは正確に見据えていた。
先程まで漆黒だった瞳を、今は白銀に輝かせて。

「暴力的なまでに溢れる戦いの意志は、貴方たちが身体を動かす前に空間へ思念の軌跡を残しています。
 私の“世界”は、それを捉え、この白銀の双眸へ移す事で相手に先んじる」

ダネシュティが速度に勝る相手を体術で凌駕し続けた根拠は、相手を見極める眼。
この天眼とも言うべき力が、今までに幾多の禍物を狩って来た彼の本当の武器なのだ。

魔獣の狩人は、再び杭魔杖《テーベス》に光の錐を灯らせ、杭と化した武器を左翼の獅子へ突き刺す。
頭部を光の粒子として散らせる黒き魔獣。
そのまま、ダネシュティは獅子の包囲を駆け抜けた。
敵意の軌跡を読み、変転する敵の陣形に生まれた僅かな隙を縫う。
銀光の杭を自由自在に振るって戦場を駆ける様は、一陣の死の旋風の如し。

「馬鹿な……王となるべき俺が……これほど容易く……死ぬ……など」

白銀に輝く旋風は、獣の王を終点として止まっていた。
ダネシュティが振るった光の杭は獣皮の衣装を突き破り、心臓を貫いて、獣の夢をも穿つ。
獅子皇帝の末裔を名乗る男は紅い噴血を撒き散らし、キュレリアの石窟神殿に倒れた。
彼が身に付けていた黒い宝玉も静かに転がって、夢の終わりを告げるかのように虚ろな音を鳴らす。

419 ◆Tio/Ue.LMI:2014/04/13(日) 14:43:59 ID:uKN02lFU0
【獅子の夢/Episode 5.凶兆】

「終わった……んですよね?」

ティーオが己の師へ問い掛けるものの、ダネシュティは警戒を解かない。

「いいえ……まだです。
 王が倒れたにも拘らず、飼われていた黒耀の獅子が消えません」

顕現《アヴァター》は、夢見るものが覚めれば、夢像の光景が消えてゆくように滅すべき儚きもの。
それが、奇怪な事に主が斃れた今も、確固とした実体を保ち続けている。

「うぁぅっ」

グロテスクな光景に少年は悲鳴を漏らした。
魔獣の群れに目を向ければ、その全てが床に散った造物主の鮮血を舐めている。
それを見て、ダネシュティは近くの一匹を光の杭で屠った。
凶兆が明確な厄災となる前に、異変の源を葬り去るつもりなのだ。

「……黒獅子が崩れて、新たな像を作ってゆく」

「い、いったい何に? 誰の意志でっ? こんなの自然に起こるはずがないっ!」

事態の収集は遅きに失していた。
魔物狩人の青年と、その弟子は続く異変の発生を目の当たりとしてしまった。
血溜りに浮かぶ黒宝玉を飲み込んだ一頭の獅子が、粘土のように姿を崩してゆく様を。
透明な腕で捏ねられるかのように獅子であった肉塊は蠢き、新たな像を形成する。
程なくして出来上がったのは、雪のような肌に金髪碧眼の美貌を持ち、両肩に生きた獅子の頭部を生やす裸体の青年。

420 ◆Tio/Ue.LMI:2014/04/13(日) 14:47:43 ID:uKN02lFU0
【獅子の夢/Episode 6.敗走】

「……これが、今まで感じていた黒耀石《オブシディアン》の気配の源」

「両肩に獅子頭って……ま、まさか獅子皇帝ギルヴィ……が蘇った?
 で、でも星霊教団が伝える蘇生魔術も、神魔コンツェルンの蘇生技術だって、躯がなければ不可能なはず。
 いくらギルヴィが死んだ土地だからって……」

超常の工芸を披露された観客の一人は目を細めて呟き、もう片方は纏まらない考えを垂れ流す。
石窟神殿に新しく現れた謎の人物は、伝承で伝えられる獅子皇帝の姿そのものだった。
それは、ただの肉塊の像でない事を示すように厳かな声を発する。

「余は還って来た。
 此の男の血脈の中で継がれていた遺志と、強き想いが奇跡を生んだのだ。
 世界を統べる王として、余は今より奇跡を起こした民の祈りに応えるとしよう……世界を我が手に取り戻す」

三頭一身の魔人が腕を翻すと、まだ石窟神殿に残っていた数頭の黒獅子が光の粒子に変じる。
それは室内を渦巻きながら美貌の男に纏わりつき、漆黒の衣装として再構成された。

「言語も法も常識も……万物は常に流転し、変化を続けています。
 ですが、重く確固とした“世界”を持つ者ほど、自ずから変わる事が出来ない。
 だからこそ、彼らは変化してゆく実相の世界から取り残され、新しき世代に追われて座を明け渡す。
 私の眼には……貴方の世界も重すぎるように見えます、獅子皇帝ギルヴィ」

今までに感じた事のない重圧を全身に受けつつ、ダネシュティは言う。

「下賎が皇帝の名を呼ぶとは不遜、余の事は陛下と呼べ」

咎めたギルヴィが不敬を表す者に向かって、ゆっくりと歩む。
意志の軌跡を視る力が、ダネシュティに続く獅子皇帝の行動を伝える。
と、同時に己の弟子が恐るべき力を避けられない事も悟ってしまう。
そして、弟子を守れば己を守れず、逆に己を守れば弟子を守りきれないとも。

「ティーオ、私が全ての力を賭して奴の攻撃を防ぎます。
 貴方は直ぐに此処を離れ、巨大な“世界”を持つものを探して、あれの脅威を報せるように……!」

取捨選択は即決だった。
杭魔杖《テーベス》の先端から伸びた光の円錐が砕け、強い輝きとなって周囲の空間に刻まれてゆく。
師である兄より小さい“世界”しか持たないティーオの眼でも、今ならば師と同じ“世界”を視る事が出来た。
白銀の光で造られた進むべき路と、死を宿して近づいてくる黒耀の光の軌跡が。

「……兄さんも一緒にッ」

普段は先生と呼ぶようにと言われていた事も忘れ、声を涸らして師を誘うティーオ。
しかし、攻撃の軌跡を先行して視る力を得たからこそ、兄である男が奈落に墜ちる事も分かってしまう。

「早く行きなさい、光の道を辿って!」

再度ダネシュティが叫ぶ。もはや時は無い。
少年は兄の言葉に込められた硬い決意を悟り、その決断を無駄にはしないと誓い、涙を堪えて白光の避難路へ飛び込む。
一瞬遅れてギルヴィの生む力が、石窟神殿を埋め尽くした。
不可視の力で束縛されたカルナ・ダネシュティの五体が、雑巾を絞るように容易く捻じ曲がってゆく。
“世界”の全てを羈束するような圧力。
常軌を逸した苦痛を受けながらも、彼の白銀の瞳は絶命するまで光を失わなかった。
例え肉体が消え去っても、自らの“世界”に宿る想いを継ぎ、無限に光り輝かせるものがいると信じていたから。

【獅子の夢.Fin】

数時間後――――古の遺跡を越え、深い密林を抜けた少年が近隣の村に辿り着く。
村人から名を問われると、彼はダネシュティとだけ名乗った。

421Rinsyi ◆Ac3b/UD/sw:2014/04/14(月) 01:34:35 ID:6e1ocbtc0


リンセル「ふわぅっ! 獅子の夢? こ、これは何でしょうか?」
ミリア「もうずっと集中力が低下してて何も書けない状態で……最初から起承転結を決めた挿話なら書けるかなと思って」
リンセル「えっ、えっ、何も書けないって? まさか私たちは打ち切り!?」
ミリア「あ、いや……ちょっと療養中って所だよ」
リンセル「幼女と遊んでるだけなのにリハビリが必要なんですか!? ミリアさんは!?」
ミリア「ごめん、頭が鈍い時は自分で書いた文の意味すら、よく分からないくらいで……脳細胞が死につつあるのかも」
リンセル「なんなんですかその言い訳は!? ロスト・スペラーを見習って欲しいですっ」



リンセル「あと、獅子の夢の話はあのまま終わりなんですか?」
ミリア「うん、あの程度の事なら世界中で起こってるってのを示しただけの挿話だから、あれで完結だよ」
リンセル「つまり、投げっぱなし……! 私の事も投げっぱなしにしないか心配です!」



リンセル「ところで、世界って単語は割と使いますよね」
ミリア「ま、それなりに使うような気もするけど」
リンセル「私たちが生きてる世界(ネバーアース)と、それぞれ個人が持つ世界との区別が難しくないですか」
ミリア「んー……世界って表記だけだと、そうかも」



リンセル「アサキムさんが能力設定でヘルプを求めてますけど、私たちに何か出来る事は無いでしょうか?」
ミリア「負を正に転化させられるかって話?」
リンセル「はい、そうです」
ミリア「陰陽道には、陰陽転化(循環律)って考え方があるけど、その辺りで煮詰めればどうかな」
リンセル「陽極まれば陰極まり、陰極まれば陽極まるって考え方ですね」
ミリア「ま、本質自体を変えるんじゃなくて、ペンキで塗り潰すだけなら力があれば何とでも出来そうだけど」
リンセル「本質を変えるって、どういうことですか?」
ミリア「リンシィ、赤って色を青って色に変えるには、どうすればいいと思う?」
リンセル「えーと……あっ、そういうことですねっ」



リンセル「そういえば、ダァトさんの設定に根源の渦《アカシック・レコード》の一部分に成りつつ有るってあります!」
ミリア「無《アイン》や無限《アイン・ソフ》と、根源の渦が同じかは知らないけど、アタシらよりは答えに近そうな存在だね」
リンセル「属性変更に関しては、ダァトさんを頼ればよさそうですね」
ミリア「自信満々に憤怒の封印は数十年は持つとか言ってて、三日も持たなかった魔術王ダァトさんをね」
リンセル「しーっ……言っちゃダメです」



422医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2014/05/02(金) 23:30:47 ID:mkl28vCY0
>>412
コーデファーはミリアが豹変した理由も意図も分からないものの、自らが不本意な状況に置かれた事だけは理解した。
こうして両腕を掴まれ、床に押さえ込まれてしまっていれば嫌でも分かる。

「おまえっ、キスですって? いきなり何のつもりなの!?
 足なんか舐めなくて良いから、さっさと退きなさい!」

切迫の表情で喚き、何とか逃れようと暴れるコーデファー。
しかし、体格も膂力も幼児のものに過ぎない身では、覆い被さったミリアを跳ね除けるのは難しい。
細い足をばたつかせた抵抗の成果も、床を鳴らす打音のみである。

「退けっ、退けったら! ひぃやっ」

ミリアの舌で頬が濡れた不快な感触に、思わずコーデファーが呻きを漏らす。
この女は何なの? なぜこんな真似をするの?
格好からしてこのパン屋の下働き。
それなら、これは患者を診察しないと言った報復?
そうだ……きっとそうに違いないと、コーデファーは結論付ける。

「そ、そこの娘を診て欲しいんでしょ!? だ、だったら直ぐに止めなさい!」

ミリアの動きが逡巡で止まった。
時間の猶予が生まれると、冷静さを取り戻したコーデファーは今の状況を打開する手段について思い出す。
身に纏う白いポンチョコートが秘める呪衣の防護魔力に。
護身用としてバニブルの医療司書へ支給される官衣の魔力を起動させれば、相手が猛獣であろうと撃退出来る。
しかも、通常の魔術とは違って発動にも複雑な動作を必要しない。
こんな女の言う事を聞く必要など無いのだ。

「Teyurera Pio Naples」

思い至ると同時に行動は為され、コーデファーの唇から不可思議な言葉が漏れた。
呪衣の防御力を発揮させるキーワードだ。
瞬間、呪衣の魔力が励起してコートの表面は蒼白く光った。
魔力から生まれた強い反発力は、自らに覆い被さるものを不可視の障壁で弾き飛ばす。

423ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/05/03(土) 00:29:55 ID:Zo.CJCrE0
「かぁ、ふぅっ……痛っ……」

魔力で弾き飛ばされたミリアは仰向けに転がり、声と息とを吐き出した。
視界が朦朧と白く霞み、全身も電流が走ったかのような痺れで痛む。
数度の呼吸を経て、意識が明瞭さを取り戻すと、目の前には蒼白い霊光を纏ったコーデファーの姿がある。
弾き飛ばされる直前に何かを詠唱した様子から、防御の魔術を発動させた事は一目瞭然だ。
ミリアは己の目論みが失敗に終わった事を悟り、内心で臍を噛む。

「な、何を企んでたか知らないけど、凡愚の分際でわたしにキスしようだなんて、み、身の程を知りなさいっ」

起き上がったコーデファーが、胡乱なものを見る目でミリアを見下ろす。
バニブルの医療司書が魅了の魔力を行使しようとした事を悟れば、問題が拗れて状況を悪化させるのは必至。
この場を穏便に収めるには先の行為への弁解が必要だった。悪意を持たない証明が。
ミリアは苛立ちや全身に走る痺れを堪えて、床に両膝を付いて頭を下げる。

「ご……ごめんなさい、今のは魔が差したって言うか……アタシ、可愛い子を見るとキスしちゃいたくなる性格で。
 それで、どうせキスするんなら唇の方がいいかなって思って……」

「はぁ? ごめんで済めば警察は要らないって言葉、知ってる? 嫌がる他人にキスなんかしたら犯罪なのよ!
 そんな性格直しなさい! この犯罪者予備軍! なに考えてるの!?」

「足を舐めて欲しいって言ってたから……そんなに嫌がるなんて思わなかった……です」

「おまえ、なんか勘違いしやすい上に調子に乗りやすい性格のようね。
 ちょっとでも優しくされると、誰にでも尻尾を振る犬みたい」

為された釈明に一応は納得したのか、コーデファーは呆れたような侮蔑を投げつけ、螺旋階段から一階に降りてゆく。
意気沮喪したミリアが少し遅れて続くと、ダイニングではフロレアが来客を遇する場を設けていた。
テーブルの上には青装飾の皿を並べ、陶器のポットに茶葉を入れている。

「ミリアちゃん、上で大きな音がしたけど……だいじょうぶ?」

「う、うん、まぁ、別にたいしたことはなかったから……。
 レナードさんだけだと、一人で切り盛りするのは大変なはずだし、アタシはお店の方を手伝ってよっか?」

まだ背に残る打撲の痛みを隠して、ミリアはそう申し出る。
コーデファーの不興を買った自分が接待の場にいても、諍いを起こすかもしれないとの考えもあった。
司書の呪衣から霊光は失せていたが、防護の力は消えておらず、着用者を守るべく魔力で覆い続けているとも感じられた。
軽挙から先走って警戒されてしまった以上、迂闊に魅了の術を仕掛ける訳にもいかない。

「客足の減る時間だから、レンだけでも大丈夫だと思うけれど……。
 そうね、手が足りないようなら手伝ってあげて」

フロレアに言われて、ミリアは店舗へ向かう。
レナードは厨房で作業をしながら、ベルで呼び出し音が鳴る度にカウンターに立って販売を行っていた。

「レナードさん、大変そうだからアタシが売り子するよ」

「ああ、それなら此処はミリアに頼もう。リンシィの様子はどうだ?」

「バニブルから来たのがちょっと難しいみたい人で、今は憩餐でご機嫌取りってとこかな。
 と言うか、えっと、ごめん……たぶんアタシのせいでご機嫌損ねちゃった」

ミリアは自分の言葉でレナードの表情が曇ったように感じた。
言葉を濁しながらも、伝えた内容が診療の不調である以上は当然かもしれない。

「そうか……まあ、あまり気にすることはない。フローが上手く取りなすさ」

慰めの言葉を掛けられ、ミリアは己の不甲斐なさと申し訳なさで目を伏せる。
レナードが厨房へ向かうと、カウンターに入ったミリアは接客を担いつつ、状況を好転させる方法を考え始めた。

424医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2014/05/04(日) 11:49:31 ID:43wzJX.k0
憩餐の準備が整った。
彩りも鮮やかなメニューを見て、甘い物好きなコーデファーの顔は綻ぶ。
フルーツサンドにハムサンド、ナッツ入りブラウニークッキー、甘いパンが数種類、木苺や栗のカップケーキ。
パンや焼き菓子の類は、全てロルサンジュ自慢の品だ。
その周りには砂糖とジャムの瓶、陶器製ティーポット、四人分のティーカップと輪切りのレモン、ピスタチオのジェラート。
ティーポットの注ぎ口からは、爽やかな香気が薫って卓上に広がっている。

「……ミルクはどこ? 無いと飲めないでしょ」

コーデファーはテーブルに視線を走らせると、怪訝な顔でフロレアに問いかけた。
ミルクと砂糖がなければ、コーデファーの舌に慣れた味を作れない。
乾燥した気候や水質の違いもあってか、バニブルでは紅茶にミルクや砂糖をたっぷりと使うのが主流なのだ。

「あら、ごめんなさい。
 今、ご用意いたしますね、フラスネル様。
 エヴァンジェルには紅茶にミルクを入れる習慣が無いから、うっかりしていました。
 せっかくですから、私もミルクティーにして頂いてみますね」

柔和な微笑みを浮かべ、フロレアは冷蔵庫から牛乳を取り出して陶器の小瓶に注ぐ。
エヴァンジェルでは紅茶にミルクや砂糖を入れることは稀で、主にレモンを絞って香りを付ける。
ミリアの故国、イストリアでは蜂蜜やチョコレートを添えられる事も珍しくない。
紅茶の飲み方も各地で作法が違うということだ。

「紅茶に砂糖とミルクを入れるのは常識よ、常識。
 まったく……紅茶の美味しい飲み方も知らないなんて田舎者ね」

「そうですね、確かにエヴァンジェルは大都市ではありません。
 いい所はたくさんあるのですけれど」

コーデファーが殊更に優雅さを繕って陶器の小瓶を持ち、ティーカップに牛乳を入れた。
フロレアが用意したのは、繊細な香りを持つ紅茶。
本来ミルクティー向きではないのだが、牛乳と砂糖は構うことなく大量に注ぎ込まれてゆく。
澄んだ紅茶の琥珀色は一瞬だけ複雑な白い模様を描き、すぐさまベージュ色の濁りに変わった。

「いい所? 名所なんて壊れかけの大聖堂くらいじゃない」

聖都を貶すコーデファーの物言いに、付き添いの女助祭が微かに眉を動かす。
しかし、口を差し挟むつもりは無いようで、席に着いたまま静かに紅茶を嗜んでいる。

「エヴァンジェルのいい所は名所ではありません。
 パン屋としてはパンを誇りたい所なんですけれど、それを作る人たちの方が私にとっては自慢です。
 原材料の小麦を育ててくれた人、作るための器具を作ってくれた人、パン作りを教えてくれた人。
 パンを食べたいと思って足を運んでくれる方たちがいなければ、パンを作ろうとは思わなかったでしょう。
 例えばこのパン一つを取っても、私たちだけでなく様々な人たちが関わらなければ出来上がりません」

そう言って、フロレアはハムサンドを指で千切って口へ運んだ。

「そんなの、どこだって同じじゃない」

「はい、どこでも同じだと思いますよ。
 人は一人では生きられませんから」

「ふぅん、わたしは説教臭い話は好きじゃないの。覚えておいて」

コーデファーは透明な硝子器に盛られたジェラートをスプーンで掬い、ピスタチオの風味を味わいながら舌で溶かす。
鼻白んだ様子の話し相手を見て、フロレアも話題を変えることにした。
そもそも、フロレアは子供のような容姿と性情のコーデファーに大きな期待を寄せている訳でも無い。
今は憩餐を通じて、少しだけ互いの理解が深まれば、それで良いと考えている。
だから、エヴァンジェルについて知ってもらいたいし、コーデファーの背景についても知りたい。
先ほど、ミリアに己の足を舐めろと言い放った感情の裏側に何があるのかも。

425医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2014/05/04(日) 11:50:24 ID:43wzJX.k0
「ところで、フラスネル様は百年以上を生きてらっしゃるのですよね」

「そうよ。
 でも若返る際にセマンティック記憶の一部を残して、エピソード記憶はほぼ消えるわ。
 凡愚に難しい説明はしないけど、思い出みたいな記憶はほとんど無くなるってこと」

「若さと引き変えに今までの人生を忘れてしまう……何だか悲しいですね」

「そんな感傷は凡庸な大衆の考えに過ぎないわ。
 人は死ねば終わり、自分の命に代えられるものなんて何もないもの。
 あっ、死っていうのは蘇生できる段階を過ぎた本当の死のことね」

「死ねば終わり、なのでしょうか……?
 私は何かに想いを残せば、自分が去った後にも誰かの心に留まることができる気がしています」

「それ、三主教の教え?」

「ええ。子供の頃、聖堂で司祭様に聞いたことを今でも覚えています。
 木の幹は枝を伸ばして、その枝からは芽が出て、芽は花を咲かせて、やがて実を結ぶ。
 そうして出来た新たな種が幹について知らずとも、幹が枝に己の愛を分け与えていれば、きっと種まで想いは伝わるって。
 先ほど聖都の名所と仰られた厳かな大聖堂も、それを造ろうと思った人たちは、もう誰も居ません。
 ですが、彼らが街や大聖堂を造った時の想いも、きっと私の心を構成する一部なのだと思います」

「そっ……上の階で眠ったままの娘が、おまえの想いを受け継ぐものってわけ?
 わたしは自分が死んだ後の世界になんて、何の興味も無いわ。
 何かを残したところで、自分がいなければ意味なんか無いもの」

冷たく言い放ったコーデファーがティーカップを口元に運び、乳白色に近くなったミルクティーを飲む。
大量の砂糖が添加されたミルクティーは甘ったるいものだったのだが、コーデファーの表情は満足そのもの。
客人の喉を潤したカップが受け皿に置かれると、フロレアは再び問い掛けた。

「フラスネル様に子供はいらっしゃらないのですか?」

「若返る前の私が付けてた記録を見る限り、ずっと前にはいたみたいね。
 と言っても、自分以外には延命法を施してなかったようだから、子供どころか孫までとっくの昔に老衰で死んでたわ」

興味なさげに答えたコーデファーは、パン・オ・ショコラに手を伸ばす。
温められた四角いクロワッサン生地の中には、舌を楽しませる二筋のチョコレート。
その微かな苦味を帯びた甘さを、小さな舌が存分に堪能する。

「お孫さんまで儲けられていたのなら、少なくとも子供が巣立つまで見守る事は出来たはずです。
 たとえ、もう覚えていなかったとしても、かつてのフラスネル様は子供を愛していたのだと思いますよ。
 フラスネル様なりの愛し方で。
 子供の記録を残しておいたのも、忘れたくない気持ちがあったからではないでしょうか」

「どうかしら。覚えてないから子供への思い入れなんて微塵も無いのだけれど。
 わたしが子供を愛してて、忘れたくなかったのなら、なんで子供の記憶を捨てる決心が出来たというのよ?」

「多分、もう自分がいなくても大丈夫と判断したからこそ。
 フラスネル様は、ご自分の道を進む決心を付けられたのでしょう。
 もちろん、ご自身の研究への揺るがぬ信念や、心の強さもあってのことだと思われます」

コーデファーは窓の外を見つめ、無くした記憶を探すかのように遠い眼差しで考え込む。
しかし、肉体を作り変えることで失われてしまった脳内の記録が、その程度の作業で還るはずもない。
無駄な試みを放棄したのか、すぐに彼女の視線はナッツとチョコレートを塗したドーナツへ向けられた。
小さな指で摘まれて、三回ほども齧られると円形だったドーナツも弧の形。

続いて味わわれるのはフルーツサンド。
大粒の赤い苺、南国産のマンゴーやキウイ、赤瞑海沿岸で栽培される青い果実・ソリュアラが使われ、彩りも鮮やかだ。
果実の甘さを強調するため、クリームの甘さは控えめで口当たりも軽い。

426医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2014/05/04(日) 11:54:22 ID:43wzJX.k0
「パン屋だけあって、パンやケーキの味は悪くないわね」

甘い物を食べている内に機嫌も直って来ていたのだろうか。
真冬の精を思わせるコーデファーの容貌も、やや和らいだ印象だ。

「気に入って頂けたのでしたら嬉しいです」

「おまえ、パン作りだけは凡庸でもないようね。
 わたしにキスしようとした頭のおかしなアルバイトは気に入らないけど、憩餐のお菓子は気に入ったわ。
 お土産に甘い物を贈ってくれるなら、娘の一人くらいは診てあげようかしら」

急に診療するとの言葉が出たのは、ロルサンジュのパンを気に入ったからなのだろう。
まだ手を付けられていないお菓子も少なくないが、コーデファーは満腹のようで未練に満ちた眼を向けている。

「感謝いたします、フラスネル様。
 ロルサンジュのパンや焼き菓子がお気に召したのでしたら、お帰りになる際にお包み致しますね」

フロレアは素直に謝意を述べた。
そして、先ほど上の階で響いた大きな音の原因も理解する。
ミリアがコーデファーにキスをしようとしたのだろうと。
リンセルが事故で意識を失った翌日、ミリアはフロレアにもキスをしている。
混乱や寂しさから取った行動だとしても、相手構わずにキスを迫れば無用なトラブルに巻き込まれかねない。
ミリアの性癖を懸念し、戒める必要を感じながら、フロレアは席を立った。

「それじゃ、鞄を持ってちょうだい。
 色んな診療の道具が入ってるから重いのよ、あれ」

コーデファーは付き添いの女助祭に命じると、足取りも軽やかに螺旋階段を登ってゆく。
彼女は、いつか今日の出来事も一睡の夢の光景として、記憶の中から消してしまうのだろうか?
殊更に他者へ冷淡なのも、その辺りを自覚しているからかもしれないと、フロレアは小さな医師の背を見て漠然と感じた。

「まずは、覧界視での診療ね。
 その女の服は邪魔だから適当に脱がせといて」

リンセルの部屋に戻ったコーデファーは診療の準備を指示しつつ、鞄から奇妙な形の道具を取り出す。
形状は単眼のオペラグラスにも似ていて、透明度が高い幾つもの奇石を一列に連ね、筒の中に嵌め込んだ物のようだ。
これは古代マディラ帝国期に地質や土地の霊格を判断する分析器として使われた魔術具、“覧界視”。
幼げな容姿を持つバニブルの医療司書は、この観測鏡を身体分析の魔術具として使う。

魔術具も魔術と同様に一つの神秘である。
だから、投じられた魔力や製作者の技量にも拠るのだが、基本的には古く、造られた数も少ない程に力を持つ。
覧界視も一点ものの骨董品で、売却すれば邸宅が建てられるような価格が付く代物だ。
これを含む幾つかの希少な魔術具の保持が、ラクサズがコーデファーを保護する理由の一つでもあった。

コーデファーは単眼鏡の魔術具を静かに覗き込み、リンセルの体内気脈の巡りや、各部位の活力を診る。
生きた人間なら様々な色の霊気が見えるはずなのだが、この昏睡する娘の様子は違っていた。
視えたのは空洞のように虚ろな暗さ。
まるで屍のようで、この状態で生身の人間が生きていられる理由が分からない。
覧界視から眼を離すと、コーデファーはリンセルの腕に針を刺したり、冷やしたり、色々と試しながら思案を続ける。

「……違う、氷心病でも無い。屍鬼化でも無いわね」

やがて、診察を続ける医療司書はリンセルの肉体に微かな変化を捉えた。
覧界視での観測を続けていると、六等星よりも弱い霊気の光が微かに生まれては消えてゆく。
コーデファーは即座に脳内に残す膨大な症例から類似例の一つを見つけ出し、芳しくない結論を導き出した。

「おまえの娘は、もう死んでると言っても良いわ」

鈴のように軽やかな声が、リンセルが眠る寝台の上で冷たく、重く響いた。

427ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/05/22(木) 22:33:40 ID:imOD15A20
陽は僅かに西へ傾き始めていた。
飲食店にとって忙しい時間帯は過ぎたものの、ロルサンジュの客足が途絶える程ではなく、それなりに店は忙しい。
ミリアもカウンターで接客しながら、話し掛けてくる客に対応していた。

「ねぇ、あなた。パン・ド・ミを六枚切りにして頂けます?」

「あっ、はい。ただいまっと。
 えーと……此方のお客様の胡麻クリームサンドとバゲットは、合計5R$になりますね」

ミリアは若い学生への会計を済ませると、ブレッドナイフを使って六枚切りにしたパンを中年の女に渡す。
それを終えると、今度は三主教徒と思しきエルフ族の接客だ。

「獣の肉や乳を使っていないパンはありますか?
 教義上の理由で口に入れる事はできないものですから……」

「あぁ、確か三主教には肉や卵を食べない宗派の人もいるんだっけ。
 ロルサンジュは誰にでも対応出来るようにしてたはずだけど……。
 そうそう、そっちの緑の棚がベジタリアン向けだよ」

ミリアは求めの品を指し示す。
フロレアに比べれば遅いが、客捌きも次第に慣れてきたようで、昨日に比べれば列が捌けるのも早かった。
誰かの役に立っている実感があると、やはり嬉しい。
客が途切れて時間が空くと、ミリアは聴覚強化の魔術を使い、背後のドアに隙間を開けて憩餐の会話に聞き耳を立てた。
今の生活を破壊されるような予感に駆られて、胸が騒ぐ。

――――覚えてないから子供への思い入れなんて微塵も無いのだけれど――

ドア越しに聞こえて来る微かな声は、医療司書の冷たい言葉。
彼女が若化と引き換えに捨てたものには、自らの子供の記憶も含まれている。
親から忘れ去られてしまうなど、ミリアにとっては想像するだけでも胸を掻き毟られような心地だ。
果たしてどのような気持ちだったのだろうかと、見も知らぬコーデファーの子に憐憫を覚える。
さらに仕事を続けて時が過ぎ、街並みが夕陽に沈む頃になると、ロルサンジュの営業時間も終わりを迎えた。

「今日は、これで閉店だよね。
 ところで、フロレアさんもバニブルの医療司書さんも、ダイニングから出て来ないんだけど……どうしたんだろ。
 憩餐が終わったら、すぐに帰るようなこと言ってたのに」

「リンシィを診察してくれてるんじゃないか」

「あの我儘そうな司書さんが?
 自分の中から子供の記憶まで消しちゃえるような人が、簡単に心変わりなんてするのかな……」

レナードの意見にもミリアは否定的だ。
初対面のやり取りを思い返すと、コーデファーが善意から診療を始めたとは考え辛い。
ストレス解消の玩具が自分からフロレアに移ったのだろうか。
或いは、さっき自分がされたのと同じ要求や、もっと酷い要求をされているのでは、と嫌な想像ばかりが広がる。

「……ちょっと様子を見てくる」

そう言って、ミリアは廊下を通り、ダイニングの扉を開けた。
数時間前まで憩餐が行われていた場所に、今は人の気配が無い。
玄関に視線を送っても来客の靴は残ったままなので、コーデファーと助祭が屋内にいるのは間違いないようだ。
ミリアはダイニングの螺旋階段を静かに登ると、リンセルの部屋の前で聞き耳を立てた。

――――おまえの娘は、もう死んでると言っても良いわ――――

扉の向こう側で下される宣告を耳に入れ、ミリアは顔色を変えた。
反射的に扉を開けて、リンセルの診察を行うコーデファーへ問い質す。

「リンシィが死んでるって……どういうこと」

428医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2014/06/03(火) 07:49:23 ID:hCwzHIwE0
扉が開く音。続いて問い掛けるミリアの声。
コーデファーは闖入者を小馬鹿にした視線で射ると、呆れたように息を吐く。

「おまえ、なに勝手に入ってきてるの? 
 変質者に近寄られると不愉快で落ち着かないから、今すぐわたしの視界から消えなさい」

自らの叱責でミリアが素直に視界から消えると、コーデファーは小さく鼻を鳴らして椅子に腰掛けた。
視線はベッドで横たわるリンセルに戻したものの、背中は警戒心を漂わせたままだ。
最初に会った時から、この医療司書はミリアに不快感を覚えている。
霊質の高さが、ミリアの持つ高い魔力に反応して、見えざる圧迫感を感じさせるのだ。
呪衣の防護力には自信を置いているものの、無意識に警戒が向く。
もう一度ドアを見て、ミリアが近寄ってこないのを確認すると、コーデファーはリンセルについての説明を再開した。

「例えるなら、この娘は吹雪に晒されて凍りついた命ってところ。
 だけど、完全に凍りつく寸前に僅かな火種が身体の底から生み出されて、辛うじて生と死は拮抗してる。
 一瞬毎に凍っては、僅かに溶けて、また凍りつく。
 その連続が肉体を生にも死にも傾かせず、全ての活動を静止させてるわけよ……分かった?」

コーデファーは、リンセルの心臓の辺りに手を押し当てて言った。
胸の鼓動は鈍く、注意深く聞き取ろうとしなければ感じ取れないほどに弱い。

「僅かな火種……。
 私たちが見つけられるように……リンシィも頑張って火を灯していたのね……。
 フラスネル様、娘がまた元気に笑顔を見せてくれる見込みは……あるのでしょうか?」

言葉を詰まらせながら、フロレアが快癒の可能性を問う。
平静を保とうとはしているようだが、搾り出すかのような声は細く震えていた。
ドアの陰から顔だけ出して部屋を除くミリアも、憂慮の視線をリンセルに向ける。

「助かる見込み? さぁ?
 生きてるとは言えない状態だから、目覚めの魔術は効かない。
 だけど、死んでるわけでもないから蘇生の魔術も効かない。
 肉体に活力が生み出されてる理由も分からない。
 いつまでこの状態が続くかも分からない。
 要するに、分からないことだらけってことだけが分かっただけよ。今のところは」

コーデファーは両手を広げてお手上げのポーズを取ったものの、青紫の瞳には好奇の光を宿らせている。
生死の間を漂うリンセルの不安定な状態は、永遠の生命を求めるコーデファーの関心を引き寄せた。
身体中の生命力が枯渇したように見えるリンセルから、なぜ活力が生み出されているのか。
死に抗える原因が、完全な不老不死に繋がるのではないかとの妄想を生む。

「ともあれ、昏睡の理由を調べようにも、パン屋の二階なんかでは無理ね。
 だから、それなりの設備を備えた所に移す必要があるわ」

言葉を凍らせたまま娘の手を握るフロレアに、コーデファーが提案した。
リンセルの状態についても、本格的に調べるつもりになったのだろう。
手持ちのタブレット端末を操作して、医療施設のリストアップを始めている。
しばらく検索した後、コーデファーは液晶画面に移った地図を見ながら言う。

「エヴァンジェルから五時間ほど南西に行った場所に、サナトリウムを兼ねた研究施設があるようね。
 ドイナカ村のトリフネってとこ……変な名前。 
 わたしが連絡を入れるから、許可が降りるようなら移送しなさい……って、聞いてるの?」

黙り込むフロレアがハッとしたように頷く。

「……あっ、はい、でもまず、レンと相談してから決めたいと思います」

相談の必要から、ステンシィ家のダイニングで家族会議が行われることとなった。
一足先にミリアが階下へ降りてゆくと、室内に残った人物たちも続く。

429ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/06/04(水) 19:52:07 ID:rQZtFMTs0
四角いテーブルに座るのはレナード、フロレア、ミリア、コーデファーの四人だ。
フロレアの説明で娘の状態について一通りを把握すると、レナードは改まった様子で医療司書に問う。

「フラスネル司書、娘の入院費用や期間はどれくらいになるのでしょうか」

「さぁ? 一通りの状態を調べるなら三ヶ月程度。
 外部の研究者が施設を利用させてもらうなら30000R$は必要じゃないの」

そっけない物言いで告げられたのは、見映えの良い新車が買える程度の金額。
金銭面で全く力になれそうもないことを理解して、ミリアは嘆息する。

「30000R$って言っても予想に過ぎないから、実際の出費は多めに見積もった方がいいね。
 それに離れた所にある病院だと、頻繁に様子を見に行くって訳にもいかないけど……」

そう口を挟むミリアをコーデファーが冷笑する。
浮かぶ笑みは膨大な医術知識を持つ事と、自分の他に治せる者などいないとの自負からだろう。

「嫌なら止める? わたしはそれでも結構よ」

「いえ、お願いします」

コーデファーに視線を向けられたレナードが受諾の意思を述べ、フロレアも同じ言葉を返す。
不可解な状態に置かれた娘の両親にとって、現状を変える選択肢はあまりにも少ない。
いつリンセルの生命力が枯渇するのか予期できない以上、早急に治療法を見つけてもらわねばならないのだ。

「そう、まあ当然ね。
 有象無象の凡愚ごときでは、治すどころか何が起きてるのかも理解できるはずないもの。
 せいぜい、自分の手には余るってことが分かるくらいね。
 あ、入院は早い方が良いから移送も明日にして。
 手続きがあるから、この家の人間も誰か来てちょうだい」

「私が行きます」

フロレアが応じると、ミリアも間髪入れずにテーブルへ身を乗り出した。

「アタシも行く。聖都の外は治安も心配だし。
 これでも少しは魔術も使えるから、気休め程度のボディガードにはなれるよ。
 ロルサンジュの販売担当がいなくなっちゃうけど……」

懇願の瞳をレナードに向け、胸を衝き上げる憂慮を口から吐く。
本来、聖都近郊の治安はそれほど悪くないのだが、この数週間の間は大きな事件や事故が立て続けに起こっている。
レナードも心配なのは否めなかったが、強い意志を宿したミリアの瞳を見ると諦めたように頷く。

「……分かった。ミリアもフローとリンシィに付き添ってやってくれ。
 明日の手伝いは、これから何人かの知り合いを当たるから心配しなくていい」

「迷惑かけてごめん、レナードさん」

ミリアの随伴が決まると、コーデファーは眉を顰めて苛立ちを示した。
動物嫌いの人間が、大きめの獣に近づかれた時の感覚が近いだろうか。

「こっちに来ても迷惑になるのは同じでしょうし、その女は別に来なくてもいいのだけれど。
 あ……そういえば、わたしの医療用具や患者を搬送する雑用があったわね。
 まあ、貴重な術具に傷はつけないでちょうだい。
 お前ごときじゃ、一生掛かっても払えないだけの価値あるものだから」

リンセルの入院に関する結論が出ると、コーデファーは庇護者であるラクサズに連絡を取った。
バニブルへは戻らず、リンセルの研究のためにエヴァンジェル近郊の医療施設に向かいたいと。
その許可は降りた。懐中時計の形をした通信魔術具からは構わないとの答えが即座に返された。
全てを終えると、コーデファーは助祭を引き連れてステンシィ家を出て行く。

430医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2014/06/10(火) 05:38:27 ID:iXm7IHA60
家族会議の翌日、ステンシィ家はリンセルを出立させる準備を整えた。
搬送にはエヴァンジェル病院の救急車を用い、約半日を掛けて南西の村に向かう。
ドイナカ村までは急行すれば五時間の道程だが、病体のリンセルを搬送する以上、車を飛ばす訳にもいかない。

「それでは行ってきますね、レン」

「ああ、二人を任せる」

レナードは短く言い、ストレッチャーで車両の中に移される娘の頬から手を放した。
ステンシィ夫妻が短い出発の挨拶を交わすと、救急車は大通りを西に進み始め、そのまま市街を抜けて城壁の外へ向かう。
この車両は赤を基調としていて、三主教の所属だと示すように白黒青の三色ストライプが車体中央に引かれていた。
運転席には病院の運転手が座して、助手席にはコーデファー、車両後部にはリンセルと付き添いの二人が乗り込む。
内部は一応の医療設備が整っていたが、最先端というほどでもない。
これは聖都での医療技術が、神聖魔術を用いた治療を行うまでの一時的な措置としか看做されていないことに拠る。
神聖魔術でも治らない場合は神の意志で治らないので、病を受け入れるべきだという宗派も存在するくらいだ。

「……ちょっ、ちょっと止めて。
 こんな、でこぼこした道路を走る、ものだから、すっかり車酔いしたわ」

広大な緑野に伸びた道路を一時間ほど走った頃だろうか。
コーデファーが朴訥そうな若い男性運転手に車を止めるよう命じた。
運転手は路肩に停車すると、青褪めた顔の同乗者を気遣うように問い掛ける。

「大丈夫ですか?
 私も魔術医ですから、神聖魔術で復調させることも可能ですが?」

「おね、がぁい。
 こんな田舎道を走るって分かってたら、酔い止めを持ってくれば良かっ……ぅぷ、気持ち悪……」

数時間置きに何度も休憩を挟んだ後、救急車は目的地たるドイナカ村に辿り着いた。
此処は薬効が高いと噂の温泉が湧く土地で、閑静な保養地でもある。
聖都を出発したのは朝だったが今は夜。長閑な田園風景も温かな闇の中に沈む。
仄暗い村道を車はゆっくりと進み、ほどなく真っ白なコンクリート建築の前で停車した。
入り口の表示プレートには、公用語で第拾弐号中央精神医学研究施設“トリフネ”と書かれている。

「ようやく着いたようね……。
 今日は疲れたから、わたしはゆっくり寝るわ……研究も明日から。
 おまえは患者を病室まで運んでおきなさい。
 こういった、頭を使わない肉体労働をするために連れて来たようなものなんだから」

コーデファーはミリアに患者の搬送を命じると、研究所付属の宿泊施設へ向かっていった。
居丈高な物言いは相変わらずなものの、乗り物疲れでやや足取りは覚束ない。
残された三者は、ストレッチャーに横たわるリンセルを車内から搬出して病室まで運ぶ。
トリフネでは扉の開閉がコンソールで行われており、簡素な内装も含めて全体的に無機的かつ機械的な印象だ。

「ご家族の方、私は翌日六時に救急車を聖都へ回送させますので、同乗して下さればお送り致します」

患者の搬送を終えると、運転手が帰還の予定を述べた。
ドイナカ村には空間転移の施設が存在するものの、直接聖都には通じていない上に利用料金も高額。
タクシーをチャーターしようにも、五〜六時間乗れば200〜300R$は必要。
村営バスなど公共交通機関を乗り継いで節約する手もあるが、地理や各都市の運賃に秀でない身では返って煩雑だ。
従って、彼の申し出はロルサンジュに帰る上では好都合だった。

「ありがとうございます。それではそうさせて頂きますね」

フロレアは礼を述べると、リンセルの横で佇むミリアに話しかけた。

「ミリアちゃん、今夜だけは病院の宿泊設備を使わせてもらえるみたい。
 今夜は此処に泊まって、エヴァンジェルに帰るのは明日の朝ね。
 しばらく会えなくなるから、今夜は出来るだけリンシィと一緒にいてあげましょう」

431ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/06/15(日) 07:35:40 ID:Fc.kcVHo0
リンセルの病室は近代的な造りで、天井に設置された蛍光灯が部屋の隅々を白光で照らす。
ミリアはストレッチャーからリンセルを抱き上げると、病室のベッドに寝かせた。
それを見て、フロレアは今後の予定を述べる。
今夜は出来るだけリンセルと一緒にいてあげましょう、と言い添えて。
ミリアが頷き、何か出来ることがないかと探し始めると、背後から金属質な声が聞こえた。

「入院準備、私ノ仕事。
 付キ添イ親族、休憩推奨、風呂食事ノ用意アリ」

ミリアが部屋の入り口に視線を向けると、看護婦用の服を着た背の低い女が立っている。
身長はコーデファーより頭一つ高い程度なのだが、顔つきは妙齢の佳を備え、決して子供のものではない。
頭部から覗く触角と、メタリックな光沢を帯びる豊かな巻き髪を備え、象牙色の肌は陶器のような質感。
一目見れば、ミリアにも彼女が異種族であることが分かった。

「此処の看護婦さん?
 人間じゃないみたいだけど、異種族の扱いとか大丈夫なのかな……」

「私、アデライド=べリシャリッツ・ルテニウム。
 金属カラ子孫作ル妖精種、鉱精《コルフィリド》。職歴十二年、心配無用」

看護婦はミリアの不安を払拭するように種族名や職歴を語った。
言葉の端々からぎこちなささが見られるのは、公用語の会話が不得手だからなのだろう。
アデライドが属するコルフィリドとは、身長120-140cmの小人で、鉱物を起源とする知的種族だ。
寿命は300年程度で霊質も高く、魔力的な手段で金属から子孫を作る。
名前の長さは、個体名+親の個体名、素体となる金属で名前が構成されるためだ。

「勤続十年以上のベテランさん……ね。
 じゃ、ここは看護婦さんに任せて、アタシたちは食事と入浴くらいは済ませてこよっか。
 せっかく用意してくれたみたいだし」

ミリアが疲労を癒すことを促すと、フロレアも頷き、鉱精の看護婦に向かって一礼する。

「娘をよろしくお願いいたします、アデライド様」

「万事諒解」

自信ありげな返事を聞くと、フロレアもミリアに続いて病室を出て行く。
様々な心労と慣れぬ場所への不安からか、ミリアの手を握り、歩幅を合わせて。
二人が向かった先は、一階東側の食堂棟。
白を基調とした内装で天井は高く、床は木材のフローリング、四人掛けの白いテーブルが整然と並べられている広間だ。
庭に面した食堂の中では、まだ何人かの先客が遅い夕食を取っている。

432ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/06/15(日) 07:36:24 ID:Fc.kcVHo0
「病院食だからって味付けに手を抜くのは、料理人の怠慢だわ」

食堂では子供用の補助椅子に座るコーデファーが、もぐもぐと口を動かしつつ料理の内容に文句を垂れていた。
此処での食事は地域の特色を生かした山菜がメインで、野菜の味を堪能できるように薄い味付け。
それがバニブルの医療史書の口に合わないようで、唇から吐き出される文句の源となっていた。

「フラスネル様、ご一緒しても宜しいですか?」

フロレアに相席を打診されたコーデファーは、嫌そうな瞳をミリアに向けた。

「フロレアだけならいいけど、そっちの女はお断り」

同席を拒まれたミリアは、一つ離れたテーブルを選んで着席する。
すでに八時を回っているせいか、食堂も閑散としており、座れそうな場所には事欠かない。
相席を頼んだ手前か、フロレアはコーデファーと同じテーブルに座った。
来訪者に用意された献立は野菜スープ、ライ麦ベーグル、山菜のサラダ、川魚の香草蒸し、林檎、ルイボスティーだ。

「体脂肪が減りそうなメニュー。ダイエットには良いかも」

「まるで、草を食べさせられる羊の気分。
 こんなメニューをありがたがるのなんて、ダイエットが必要な肥満体くらいだわ。
 明日は、もう少しましな食事が取れる場所を見つけなくてはいけないわね」

ミリアのダイエットという台詞が聞こえたのか、コーデファーは聞こえよがしに吐き捨てた。
甘味の足りなさで口寂しいのか、彼女はルイボスティーに砂糖とミルクを入れてミルクティーを作っている。

「フラスネル様、リンセルの病室に持参したパンや焼き菓子を置いてありますので。
 明日にでも、どうぞ召し上がってください」

フロレアの申し出を受けて、コーデファーが瞳に喜色を浮かべた。

「気が利いてるわね、フロレア。
 初日から不味い料理を食べさせられてうんざりしてたところだもの。
 ありがたく、わたしが頂いてあげるわ」

そして、エヴァンジェルからの来訪者たちが空腹を癒すことしばらく。

「……三主の恵みに感謝いたします」

あっさりしたメニューと手早く食事を終わらせる習慣から、フロレアが一番早く食事を終えた。
続いて、コーデファーとミリアも夕食を終わらせると、空のトレーを炊事場に戻して食堂から出て行く。

433ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/06/15(日) 07:38:09 ID:Fc.kcVHo0
フロレアとミリア、コーデファーの三人は片側が硝子張りとなった廊下を南に進み、浴場まで辿り着いた。
此処の利用者は職員と軽度の入院患者で、男女とそれ以外の性別で三つのエリアに分かれている。

「おまえ、なんでさっきからわたしの後を着いてくるの? ストーキング?」

コーデファーは苛立ちを込めた視線でミリアを刺す。

「別に後を付けてるってわけじゃないよ。
 アタシらも食事や入浴がしたいってだけ。
 改めて考えてみれば、到着が同じ時刻なんだから予定も同じなのは当然でしょ」

脱衣所に入ったミリアはクラシカルな服を脱ぎ、リボンバレッタを外しながら、問い掛けに言葉を返した。
隣のフロレアもシニヨンを解いて長めの髪を揺らしつつ、真っ白なドロワーズを脱ぐ。

「ふん……少しばかり胸が大きいだけで、それほど大人というわけでもなさそうね。
 フロレア・ステンシィもリンセル・ステンシィも生えてるのに、おまえには生えてないもの」

ミリアが白い肌を露にすると、コーデファーは目敏くフロレアの下腹部と見比べて呟いた。

「あのね、これは身嗜みとして処理してるだけ。
 その方が清潔だし、アタシの国じゃ常識なの。
 お医者様なら、それくらい分かりそうなものだけど」

「あっそ……それ、すごく頭悪そうに見えるわ」

「そう言うコーデファー様も、生えてないじゃない」

「煩い。若化の術を施してるんだから生えてないのは当たり前でしょう。
 相変わらず、栄養が全部胸に吸い取られたような鈍い頭!」

罵りを後に残して、浴場の扉を開けるコーデファー。
熱気で満たされた湿度の高い空間には、半埋め込み式の広い浴槽とシャワー設備が設置されていた。
浴槽を満たす温水は、薬効が高いと評判の村の温泉と同じものだ。

「黙ってればアンティークドールみたいで可愛いってのにね……まったく」

閉口の溜息を吐きつつ、ミリアも浴場を包む温かな靄の中に足を踏み入れた。

「ミ、ミリアちゃん、水着は着けないの?」

白い水着を着けて浴場の中に入ったフロレアが、素裸のミリアを訝しんで聞く。
聖都の住人に公共の場で裸体を晒す習慣はない。
他の地域の人間に比べれば羞恥心も強いので、浴場に全裸で入るのには抵抗があるようだった。

「えっ、なんで? プールじゃないんだし、お風呂で水着なんて着けないよ。
 それに水着なんて着てたら、体だってしっかり洗えないでしょ」

問われたミリアは不思議そうな顔で答える。
故郷であるイストリアでは、公衆の浴場で水着を着ける者など誰もいなかったので当然のことだろう。
ミリアも大きな二つの膨らみの間に銀色のペンダントだけを残して、一糸も纏っていない。
コーデファーも同様なのか、ビスクドールを思わせる白皙の裸身をそのまま晒していた。
入浴中の女性職員や患者たちも一人残らず裸で、水着を纏っているのはフロレアのみ。
そもそも、肌を他者に見られたくない者は個室のバスユニットを使うので当然ではあったのだが。

「で、でも……周りにたくさん人がいる所で……を見せるなんて……」

「混浴ならともかく、ここの浴場は男女でエリアが分かれてるんだから、別に恥ずかしがることもないよ。
 フロレアさんも体を洗う時くらいは、水着を取った方がいいんじゃない?」

フロレアは頬の高潮した顔を激しく横に振って、水着を外すことを頑なに拒んだ。

434ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/06/15(日) 07:38:35 ID:Fc.kcVHo0
パステルカラーのバスチェアに座るミリアが、泡立つスポンジを手に取って肌を擦り始めた。
泡で真っ白になったスポンジは足の裏から首筋まで、ミリアの全身を隅々まで巡ってゆく。
丸みを帯びた丘を駆け抜け、細い谷を通り、白い道を残して。
その泡の道筋も、最後には雨のようなシャワーで残らず洗い流された。
肌に溜まった疲労の跡を全て落とした後は、大きな浴槽に胸まで浸かって温水の心地よさを堪能する。

「リンシィと一緒にお風呂に入った時も、やけに恥ずかしがってたっけ。
 エヴァンジェルの人たちって、みんなこんな感じなのかな」

ミリアは聖都で過ごした期間を思い出して疑問を呟く。
リンセルが恥ずかしがっていたのは、エヴァンジェルの気風だけではない。
当人たちの自覚は薄いものの、魅了の力に囚われた影響でもある。
今のフロレアもリンセルと同じく魅了の影響下にあるので、どうしてもミリアを意識してしまう。
濁った目で見ないよう、フロレアは努めてミリアの裸へ視線を向けないようにしていた。

「……ええ、そう、ね」

「そっか。 
 やっぱり三主教の中心地だと、その辺りも硬い感じなんだ。
 言われてみれば、聖都で肌を露出してる人ってのも、あんまり見なかったような……。
 イストリアの方だと五ヶ月ほど海水浴が出来るってくらい暖かいから、タンクトップも珍しくないけどね。
 バニブルとかは、その辺りどうなんだろ」

ミリアは東の国から来た小さな司書を目で追う。
髪と体を洗い終えたコーデファーは、浴槽に浸からず、浴場内から足早に出て行こうとしている所だった。
脱衣所へ向かう小柄で真っ白な後ろ姿を見て、ミリアはハッと気づく。

(あ……そういえば、今ならコーデファーが魔術具のコートを着てないから、防護の力に阻まれない。
 いや、でも周りには他人もいるし、下手に動いて魅了に失敗したら今度こそ拙い……か)

短慮を悟って、すぐに考えを打ち消すミリア。
真意こそ分からないものの、今のコーデファーはリンセルの治療に前向きな態度だと見えた。
それを安易に壊しかねない行動を取るのは賢明ではないだろう。
思いつきを断念したミリアは髪を洗って浴場を出ると、仮眠室には行かず、フロレアと共にリンセルの病室へ戻った。

「ね、たびたび此処まで来るのが難しくなるなら、今の内にリンシィの写真を撮っておいた方がいいんじゃない。
 結構大切だよ、こういう日々の記録を残しとくのって。
 写真が残ってるから顔は思い描けるけど、アタシはもう父さんの声を正確には思い出せない」

ミリアが殊更に優しげな笑みを作ってリンセルを眺めると、フロレアも労わりの笑みで応じた。

「そうね……それじゃ、可愛い笑顔をいっぱい取っちゃいましょう」

携帯端末タブレットを持った二人が、リンセルの寝顔を写すこと数分。
ミリアの言葉で始まった即席の撮影会は、同じくミリアの言葉で中止される。

「フロレアさん。
 やっぱりリンシィが心配だからさ、此処でもう少し経過を見てたいんだけどいいかな?
 イストリアを出る時に持ち出した2000R$が残ってるから、しばらくだったら村にも滞在できるし。
 ロルサンジュの方は手伝えなくなっちゃうけど……」

ドイナカ村の一日の滞在費用は旅館なら50R$、マンスリーアパートなら食費を抜いて一日あたり25R$が相場。
1R$の価値はハンバーガー1個分や、自動販売機の缶ジュース1本分といったところだ。
野宿で一日一食の生活なら1R$で済ませられるのだが、それはフロレアが絶対に許さないだろう。
ともあれ、予期せぬ出費を考えても一ヶ月程度は村に滞在できるはずだと、ミリアは試算していた。

「ダメ、知らない村に女の子が一人で暮らすなんて」

真剣な顔つきになったフロレアが、即座に提案を却下する。
ミリアに魅了されたと言っても、安全に関わる案件は妥協しないようだった。

435医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2014/07/01(火) 18:48:27 ID:GGe8u1FI0
コーデファーがドイナカ村に到着した翌日の朝。
彼女が就寝する一室で、目覚まし時計のアラーム音が鳴り始めた。
ベッドの上で眠る部屋の主は、耳障りな電子音を聞いて苛立たしげに唸るが音は止まない。
睡眠妨害の波形パターンを持ったアラームは、ひたすらに鳴り響く。
小さな身体で一分ほども寝床の中を這いずると、コーデファーはようやく瞳を開けた。

「んぅ……はわぁ……ぁ」

上体を起こすとカーテン越しに薄く陽が差し込む部屋を眺め、小さな欠伸。
ベッドの上から見える景色は内装もシンプルな狭い個室で、壁も床も白一色である。
トイレとシャワーとクローゼットこそあるものの、寝るためだけの場所といった印象だ。
家具もデスクとベッドくらいしか置いていない。

(……そういえば、辺境の村に来ていたのだったわ)

起き上がったコーデファーは、無造作に電子時計を掴んでアラームを停止させた。
そのままカーテンを開けて朝陽を浴びると、身だしなみを整え、自分に割り当てられた部屋を出てゆく。

「フラスネル医療司書、御早ウ御座イマス」

リンセルの病室へ向かう途中のコーデファーを見て、廊下を歩く鉱精《コルフィリド》の看護婦が一礼した。

「そこの看護婦、ここには他人の精神を調べる機器があったわね。
 今から昨日運ばれた患者、リンセル・ステンシィを調べるから研究室まで運びなさい」

「了解、研究室マデ、患者ヲ配送」

コーデファーは軽快に返事を返す看護婦を付き従え、目的地である一般病棟へ向かった。
この施設の構造は一般病棟、研究棟、閉鎖病棟、特異病棟の四つに分かれている。
今、リンセルが眠るのは、一般病棟の大部屋。
此処は魔術や異能の力が関わらない患者の中で、他者に危害を加えたり、自傷を行う恐れの無いものが入棟する。
他の病棟も疾患を抱えた患者の入院設備で、残る一つの研究棟は神経や精神に関わる症例の研究所だ。

「おまえたち、まだいたの?
 今から患者の研究に入るから、もう帰っていいわ」

リンセルの病室へ入ったコーデファーが、付き添う二人を見て言葉を投げる。
フロレアが娘を案じるようにベッドの脇で佇み、ミリアはベッドの端に凭れて眠っていた。

「はい……娘をよろしくお願いいたします、フラスネル様」

振り向いたフロレアが応えると、ミリアも周囲の気配に気づいて虚ろな瞳を開く。

「このわたしに任せるというのに随分と不安そうな顔ね、フロレア。
 おまえは余計な心配なんてしないで、家に戻ってパンでも焼いてなさい。
 それじゃ患者を乗せて、アデライド。
 ベッドに寄りかかった邪魔者は、適当に蹴り飛ばしていいわ」

コーデファーに命じられたアデライドがリンセルを抱え、苦もなくストレッチャーに移した。
体躯こそ小さいものの、鉱精たちは頑健で筋力も高いのだ。

436ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/07/10(木) 00:03:48 ID:HeMxprZk0
病棟の一室に清涼な風が吹き込み、ぶ厚い遮光カーテンを揺らす。
身体を洗う朝の空気は新鮮で、木々の香りも強く、ミリアに此処が地方の村であることを実感させた。
リンセル・ステンシィは、妖精種の看護婦に乗せられ、車輪付き寝台車の上で横たわっている。
これから彼女はこの施設の研究室に運ばれ、様々な検査を受けるのだ。

「あのさ、治療の見学とかって出来ないかなー……」

ミリアは研究棟への搬送に付き添いつつ、廊下を歩くコーデファーに問い掛けた。
施設への入院に関しては、昨夜に医師から一通りの説明は受けていたのだが、どうにも不安は晴れない。

「はぁ? 常識で考えなさい。
 研究や手術を一般人に公開する病院なんてあるわけないでしょう。
 ああ……頭の軽そうな女に常識を期待する方が間違ってたわ。
 それとね、研究棟は関係者しか入れないから、お前たちはここまでよ」

コーデファーはミリアと目も合わぬまま歩き続け、頑丈そうな扉の前で立ち止まる。
そして、壁に設置されたコンソールを操作して扉を開けようとするのだが、手を伸ばしても指が届かない。
ジャンプして手を翳しても、一瞬の事では指紋認証カメラも個体識別を行えないようだった。
何度かの無駄な挑戦を経た後、コーデファーは不機嫌そうにミリアを見上げる。

「おまえ、馬になりなさい」

「馬? アタシ、変身の魔術は使えないんだけどなぁ」

「おまえの頭は脳味噌の代わりにプリンでも詰まってるの?
 本物の馬じゃなくて、四つん這いで台になれと言っているの」

「開閉スイッチに手が届かないなら、抱っこしてあげよっか」

「なんで、わたしがおまえなんかに抱っこされなきゃいけないのよ。
 そんな不遜な真似をしたら、一昨日のように魔力で跳ね飛ばしてやるわ」

「ま、台くらいならいいけど、スリッパは脱いでね。滑ると危ないし」

薄い笑みを浮かべたミリアが、両手両膝を床に付く。
すぐさま背に柔らかい重みを感じた。
感触からして、一応スリッパは脱いでくれたようである。
これなら、わざと背中を揺らす必要も無いか……。
そんなことを考えている間に、研究棟と一般病棟を隔てる扉は開いた。

「看護婦、次からここに台を置いておきなさいっ」

高圧的に吐き捨て、コーデファーが台から降りる。
扉の開放を待っていた寝台車も緩やかに動き始め、カラカラと車輪の音を床へ残す。

「……待ってるからね、リンシィ!」

別れを告げるミリアの言葉と共に、リンセルを乗せた寝台車が扉の向こうへ消えてゆく。
それを押す看護婦と、患者を診療すべき医療司書も一緒に。

437ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/07/10(木) 00:04:44 ID:HeMxprZk0
時計の針が六時に近づき、救急車が回送を始める時刻。
ドイナカ村までリンセルの付き添いに来た二人は、揃って病棟を出てゆく。
敷地内の駐車場では、救急車が小さなエンジン音を響かせて、患者の親族が乗り込むのを待っていた。

「それじゃ家に帰りましょう、ミリアちゃん。
 せっかく乗せて下さるのだから御好意に甘えて」

フロレアに乗車を促されるのだが、ミリアは立ち止まったまま動かない。
足を止めたまま、怪訝な顔で此方を窺う瞳を見つめ返す。

「ごめん、フロレアさん。
 やっぱり、もう少し此処に残りたいな……」

ミリアは此処に残りたい原因を自分自身に問い掛けた。
初めて出来た友達だから執着するのか。医者の技量や人格を信じていないからか。
魅了の術で心を捕らえた罪悪感からか。自分で治療を試みて失敗した後悔からか。
或いはその全てなのだろうか……?

「此処に残ってどうするの?」

「うん、まず……住む所を見つける。
 一ヶ月は余裕で滞在できるくらいの資金はあるし、その辺りは大丈夫なはずだよ。
 あ、それと何か仕事が見つかれば、バイトもすると思う。
 これ以上、ステンシィ家に負担をかけるような真似はしたくないし」

「ミリアちゃん、大切なのはそこじゃないでしょ」

フロレアは静かに首を振って諭す。
表情こそ険しげだが、自分を心配して気遣ってくれている、とミリアも感じた。

「もちろん、分かってるよ。
 危なそうな場所や人には近づかないし、夜遊びだってしない。
 仕事も内容を選ぶし……それでもダメ?
 この村でリンセルのことを真剣に考えて守れるのはアタシだけだよ。アタシしか出来ない」

ミリアの瞳に哀訴の色。縋るような光が浮かぶ。
だから、フロレアもどうしたものかと迷い、困ったような表情で沈黙する。

「…………」

「リンシィを父さんみたいに失いたくないんだ……傍に居れなくて後悔したくない。
 アタシが治療に貢献できるってわけじゃないけど……お願い、フロレアさん。
 せめて、入院や治療の様子に納得出来るまでで良いから、リンシィの傍に居させて」

さらに重ねられたミリアの言葉。
昨夜よりも強い響きに聞き手の心が揺らぐ。
もはやフロレアに嘆願を拒む言葉は無いようで、諦めたように小さな頷きを返した。

「……ちゃんと一日一回は近況報告の連絡を入れてね、ミリアちゃん。
 ううん、朝と昼と夜の三回。困った時はいつでもよ」

「ありがと、大好き!」

顔に明るさを取り戻したミリアが、手荷物を取り落としてフロレアを抱擁する。
その頬にキスを。首を傾けて自分にも返答を求める。頬にキスが。そして別離。エンジン音が高く鳴った。
フロレアを乗せた救急車は聖都に帰還するため、朝日の方角へと遠ざかってゆく。

438ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/07/10(木) 00:05:27 ID:HeMxprZk0
ドイナカ村に一人残ったミリアは、現状を確認する。
まずは自分の持ち物からで、服装は白のカットソーに青いベスト、チェック柄のグレーのスカート、黒のレギンス。
ポニーテールを纏めるのが薄紫のリボンバレッタに変わった他は、初めて聖都を訪れた時とほぼ同じ格好だ。
旅行用のスポーツバッグに入っているのは、財布とパスポート。タブレット端末に充電器。数日分の衣料品など。
道中に危険はなかったものの、護衛を買って出たので魔術具の杖も持って来ている。

続いて村の確認。
施設の敷地を出て周囲を眺め渡すと、全体的に草木の色が広がっていて、村の中心部を除けば建物の密度も薄い。
ドイナカ村の大部分を占める緑地にはロッジ風の建物が点在し、そこかしこに草を食む牛や羊の姿が見られる。
地面には建物同士を繋ぐ道路として、灰色の砂利道が伸びていた。
空は明るく澄んでいて、遠くには青々と連なる山の影。
いかにも、田舎の村という風景だ。

まず、最初に生活の拠点となる住まいを決めなければならない。
ミリアは、一ヶ月近い滞在なら旅館よりマンスリーアパートの方が安価だと、事前に調べを付けていた。
だから低価格帯のアパートを探しに、建物が密集する村の中心部へ向かう。
右手にバッグ、左手に杖を持って、五分も砂利道を歩き続けていると、次第に擦れ違う人の姿も増してきた。
村の中心部は石畳で舗装され、往来も雑多で、様々な人々が行き交う。
辺鄙な村ではあるものの、どうやら観光客は少なくないようだ。

ミリアは看板を眺めながら、村を練り歩く。
建物が集まっているとはいえ、たいした規模でもなく、三十分も歩けば見る所もなくなりそうだ。
周囲の緑地と不似合いなコンビニエンスストアや、ファーストフードショップなども見られる。
果たして採算は取れるのだろうか……そんなことを考えながら歩いていると、近くでカランと音が鳴った。
何気なくミリアが振り向いた瞬間、高級そうなスーツを着た赤髪の男が踏鞴を踏み、此方に倒れ込んでくる。
手に持つバッグの重みで、咄嗟には避けられない。
よろけた男が立ち竦むミリアの胸に顔から突っ込む。

「――悪かった。
 これでも、バランスを崩してから倒れ込む刹那の間に、最悪の事態を避ける努力は試みたと主張したい。
 いや、今の俺が言っても説得力は感じられないかもしれないが、誓って嘘じゃない」

「いいから、さっさとどけっ」

幸いにも杖があったので、ミリアは辛うじて転倒を避けられた。
ぶつかってきた側の人物も、軽やかな所作で崩した体勢を戻して顔を上げる。
見た限り二十代後半の人間のようで、端正な顔と乾いたバリトンを持つのだが、どことなく胡散臭い雰囲気だ。
体に染み付いた煙草らしき匂いも、不快で仕方がない。
ミリアは軽快に石畳を転がってゆく空き缶と、男の碧眼を交互に睨みつける。
彼が狙って胸に顔を埋めたのなら杖で殴打すべき所だが、今のは空き缶で足を滑らせての過失だろう。
どちらにしても、初日から余計なトラブルは避けるべきだと判断した。

「……足元には気をつけなよね」

冷たい視線で咎めの言葉を吐き、ミリアは足早に赤髪の男の前から立ち去る。
まずは住居を確保しなくてはならないのだ。面倒事に関わってはいられない。
ほどなく、ミリアは建物の合間にそれらしき看板を見つけた。
近寄って田舎風の素朴な建物を眺めると、住宅の間取りが書かれた紙が幾つもガラス窓に張りつけられている。
不動産の取り扱い店舗だろうと当たりをつけて、ミリアは入り口の扉を開けた。

「あのー……この村で部屋を借りたいんですけど、ちょっといいですか?」

「スターホーム・ドイナカ村支店にお越しいただき、ありがとうございます。
 当店はお客様に都会で味わえない、自然溢れる村での生活をサポートさせていただいています。
 ご予算や、ご要望の方を、お伺いさせて頂いてよろしいでしょうか?」

応対した店員は犬の頭部を持つ亜人の男。
ふさふさとした白い毛皮がマルチーズ種に似ていて、背丈は140cmといったところか。
ミリアは椅子に座ると滞在予算を確認をするべく、バッグから財布を出そうとして、すぐに試みを頓挫させた。
星屑柄の青いスポーツバッグの中からは不思議なことに――――皮の財布だけが影も形もなく消えていたのだ。

439ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/07/17(木) 01:07:13 ID:noqkB3ds0
ミリアは旅行バッグの中に収めていた物を全て取り出し、テーブルの上に置く。
並べられるのは、先ほど確認したばかりの物だ。
当惑と焦燥に満ちた表情で荷物を丹念に探し直すが、やはり皮の財布だけが見つからない。

「無い、病院を出た時は確かにあったんだけど……何で……何で?」

頭の中が真っ白になったミリアは、原因を求めてバッグをひっくり返す。
しかし、バッグに穴は開いておらず、どこかで落としたとの可能性も潰えた。
ミリアの狼狽を見て、店員もトラブルを察して立ち上がる。

「どうかされましたか、お客様」

「いや、一ヶ月ほど部屋を借りようと思ってたんだけど、2000R$は入ってたはずの財布が無くて……」

「お荷物を紛失された場所に心当たりは?」

店員に問われたミリアが思い浮かべるのは、先ほど通りで接触した胡散臭い男。
今にして思えば、道端の空き缶に転んで此方側へ倒れ込んで来たのも不自然だと思える。
気づくには、少々遅過ぎたが。

「心当たり……さっきの赤い髪の奴……に掏られた?」

「スリ? 盗難でしたら駐在所に届けを出されては如何でしょう。
 この店を左手に向かった先、コンビニエンスストアの近くにありますが」

店員は毛皮に覆われた顔を左に傾け、駐在所へ向かうよう助言した。
狼狽したままのミリアも頷き、乱暴に旅行バッグへ荷物を収めると、店の扉を開けて外へ出てゆく。

「ありがと。
 財布が戻ったら、また来るから」

ミリアは念のために通りを見回してみたが、茶髪や金髪の人物ばかりで、赤髪の男は何処にも居ない。
普通に考えれば、もう近くにはいないだろう。
ミリアは憤懣やるかたない様子で石畳を踏みつけつつ、村の通りを進む。
財布を掏った相手もだが、危険を警告されていたにも拘わらず、無警戒に過ぎた自分が腹立たしい。

(セーブオン……聞いたことないコンビニだな)

素朴な建物が並ぶ通りを進めば、見慣れないコンビニエンスストアがあった。
その向かい側を見れば、木製看板に“ドイナカ村駐在所”と書かれた建物が建っている。

440ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/07/17(木) 01:07:44 ID:noqkB3ds0
駐在所とは、過疎地域の治安を担う警備官の詰め所だ。
ドイナカ村の駐在所は民家風の作りで、官舎を兼ねた二階・三階は警備官と家族が居住する。

「あー、本当に盗られたとしてだ。
 財布の中にあんたの髪の毛や爪なんか入れとらんの?」

年老いた警備官、ウィムジー・サンプティアが財布を掏られたと訴えるミリアに問い返す。
彼の服装はダークブルーのスーツに制帽で、腰にはサーベルを佩いているが鷹揚な雰囲気だ。

「え、いや……どうして?」

答えるミリアの表情は怪訝なものだった。

「そりゃ、失くし物へ探索の術を掛けるためだよ。
 鮮度にも拠るんだが、肉体の一部がありゃ術で痕跡を辿れるし。
 そうするように警察でも推奨してんだけどねえ。
 防犯対策を取ってないんじゃあ地道に探すしかないが、財布を掏ったって相手の特徴は覚えてねえか?」

「赤い髪で青い目、年は二十代半ばかな? 服装はストライプのスーツ、背はアタシより一回り高い」

「赤髪青目で二十代の男ねえ。
 そいつぁ村のもんじゃあなさそうだし、観光客を装ったスリかもなあ。
 まずは旅館に連絡して、宿泊客の中に似た奴がいないか調べとこう。
 警邏中の息子にも、それらしい奴を見かけたら知らせるよう伝えとかんとな。
 あー、で、あんたの名前と連絡先は?」

連絡先を聞かれてミリアは言い澱む。
ロルサンジュに連絡が行けば、帰ったばかりのフロレアが迎えに来てしまうだろう。
あれだけ大言壮語を吐いて、こんな不甲斐無い有様は知られたくはなかった。
フロレアに信頼を向けられたままでいたい。レナードにも失望されたくない。
だから、ミリアは偽りの名と経歴を警察官に述べる。

「名前はミーリィス・ステイルメイト、年は20才で本籍はバイタル。
 此処には良い温泉があるって聞いたから、観光に寄ったんだよね。
 連絡先は……これで、いいかな」

ミリアはバッグから取り出したタブレット端末を示す。

「あー、はいはい、いいよ。
 でも、女一人で観光ってのは狙われ易いから、気をつけないとねえ。
 それでバイタルまでの帰宅はどうするん? 誰かに連絡して迎えに来てもらう?」

「あ、えっと……村に知り合いがいるから、交通費くらいは貸してもらえる……と思う」

テンションの低い声でミリアは言う。
確かにコーデファーは知り合いではあるものの、滞在費や交通費を貸してくれるとは思えない。
エヴァンジェルには戻り難く、村に留まる資金の当ても無く、お腹まで空き始めた。
そんなミリアの苦境を知らず、ウィムジーは納得したように頷く。

「あー、そう、村に知り合いがいるなら大丈夫かね?」

「ええ、まあ……それじゃ盗まれた財布の捜索、お願いします……」

「おう」

ウィムジーから応諾の言葉を聞いて、ミリアは駐在所を背にする。
目下の懸念は、どこで寝泊りと食事をするかだった。
全財産の入った財布を掏られてしまった以上、食事も宿泊も出来ないのだ。
野宿の必要に迫られる前に事態を解決すべく、自分でも先程の男を探すべきかもしれない。
そう考えたミリアは焦慮に駆られつつ、窃盗犯の影を求めて長閑な村の中を歩き始めた。

441ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/07/25(金) 08:10:37 ID:RVzLKaes0
ミリアは赤髪の掏り師を探して、村を眺めながら彷徨う。
温泉客を見込んだ観光業に力を入れているせいか、大都市から遠い僻村にも観光客の姿は多かった。
雑多な人の集まる往来で聞き込みを繰り返しつつ、放浪すること数時間。
大通りを何往復しても、掏り師も目撃者も見つからず、次第にミリアの足取りは重くなってきた。

(疲れた……お腹減った)

さらに村を歩くこと数時間。
午後三時を越えると観光客の姿はめっきり減って、村も閑散とした雰囲気を取り戻す。
ミリアは空腹と徒労感で、ファストフードショップ・ラスティックバーガーの前に置かれたベンチへ座り込んだ。
ここだけは田舎特有の清涼な空気の匂いではなく、焼いた肉や揚げたポテトの香りが漂っている。
店内を覗き込むと、田舎料理に飽きた何人かの客がハンバーガーやコーヒーを堪能していた。

(お腹減ったな……ハンバーガー食べたい)

店内で接客するアルバイトと目が合ったミリアは、物欲しげに見つめてみるが、返されたのは営業スマイルのみ。
もちろんだが、笑顔でお腹は膨れない。

(ポテトだけでも食べたい……)

ミリアはベンチから立ち上がると、鉛の足を引き摺って捜索を再開することにした。
表に人通りが少なくなって来たので、今度は人の居そうな建物へ入っては客を見定める。
最初に立ち寄ったのは、白い漆喰壁で三階建ての建物、冒険者の店。
扉を潜って眺めれば、広間に円卓が点在していて、窓際には四人掛けの木製テーブルが整然と並ぶ。
コルクの壁からはランプが突き出していて、暖色の照明で店内を照らしていた。
一見すればガストロ・パブにも見えるこの店なのだが、冒険者の店は上階で武装や雑貨も扱っている複合商業施設だ。
広間奥のカウンターでは、黒シャツにエプロンというラフな格好の男性マスターが客と雑談に興じていた。

(お腹減った……)

ミリアが店内を見回すと広間には十人程が屯していたが、その中に赤髪の掏り師は見当たらない。
誰もが何処となく、胡散臭い雰囲気を漂わせていたのは同じであったが。

「いらっしゃい。
 依頼? 買い物? 食事? あっ……と未成年にアルコールは提供してないけどねー」

恰幅の良いマスターは佇むミリアへ視線を向けると、親しげに声を掛けた。
歳は中年、風貌は堀りの深い赤ら顔、目尻の下がった青色の瞳と丸い鼻と口髭が、のんびりとした温厚な印象を与える。
頭部は禿げ上がっていて、僅かな茶色が側部に残るのみだ。

「お腹空いてるけど、お金無いから食事も買い物もちょっと……。
 ここって、冒険者の店ってとこだよね?
 話だけはならよく聞くんだけど、冒険者って何して稼ぐの? アタシでもなれたりする?」

冒険者が簡単に日当を稼げる仕事なら、宿代や食事代も得られると考え、ミリアはマスターに問い掛けた。

「冒険者が生計を立てる方法?
 んー、この時代、未踏遺跡や秘境で冒険なんて中々できないもんだし、雑事の代行業務がメインかね。
 家事や引越し草むしり、恋人の代理、家のリフォーム、ビットコインのサルベージなんてのもあったかなー?
 後は紛争地へ傭兵や護衛として派遣されたり、魔術が必要な作業でどっかの企業に呼ばれたりか。
 まぁ協会に依頼が来たら、私らで適した人物を斡旋して派遣するわけだ。
 だから、お嬢さんが冒険者になるにも、まず冒険者協会に所属しないと!
 あ、履歴と適性試験が必要で、就労ビザも兼ねた冒険者カードの交付には料金が掛かるよ」

「お金掛かるんだ……じゃあいいや……」

ミリアは悄然とした様子で立ち去り、冒険者の店を後にする。
その後、数軒の店舗を眺めてみたものの捜索の成果は無く、やがて陽も傾き始めた。

(お腹減った……)

442ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/07/25(金) 08:12:42 ID:RVzLKaes0
夕刻、ミリアは疲弊しきってベンチに座り込んでいた。
場所は巡り巡って、再びラスティックバーガーの前だ。
昼間の気温は比較的温暖な上、朝からずっと歩き続けているので、下着も汗ばんできて不快極まりない。
徒労感に空腹も相まって、どうしても気持ちが沈む。

(もう帰りたいな……)

無為に人の流れを眺めていると、不意に荷物を収めたバッグの中からオルゴールの電子音が流れて来た。
ベンチに腰掛けるミリアは、鈍い動作でバッグからタブレット端末を取り出す。
慣れた手つきで通話アイコンに触れると、スピーカーからフロレアの声が聞こえて来た。

「ミリアちゃん、こっちはエヴァンジェルに着いたばかりだけど、そっちはどう?」

「あ、うん……順調だよ。
 今日は旅館に部屋を取って、本格的に住む場所は時間掛けて探すつもり。仕事もね。
 フロレアさんも無事に戻れたみたいで良かった。
 それで、えっと、これから丁度リンシィの様子を見に行くところ」

ミリアは窮状を悟られないよう、努めて明るく答える。

「それなら良かったわ。
 リンシィのことも心配だけど、ミリアちゃんも心配してるのよ。
 近くに居れないから、こうして電話できる時に言ってくれないと分からないもの……。
 困ったことがあったら無理しないで、直ぐに相談してね」

「ありがと。
 でも、アタシ割と世渡りは上手い方だと思うし、あんまり心配いらないよ。
 コンビニがあるから生活に不便ってことも無さそうだし……あ、冒険者の店って知ってる?」

他愛も無い会話は五分ほども続き、またの連絡を約して終わった。
途端に雑踏の孤独へ取り残されて一人。
遠いロルサンジュに向かっていたミリアの意識と心も、僻地の村へ引き戻される。
状況に好転の兆しが見られず、焦りも募り、泣きたい気持ちで溢れる現実に。

(疲れた……お腹……空いた……)
(もう、こうなったら適当に金持ってそうな奴を魅了してでも……)

ミリアは粘りつくような視線を雑踏に這わせ、道行く人の身なりから懐具合を値踏みし始めた。
誰か、裕福な人物を魅了して自分の信奉者に作り変えれば、事態は一気に良くなるだろうと考えて。

(いや……財布代わりを手に入れ為だけに魅了するんじゃ、あの掏り師と変わんない……)

自分が掏り師のような精神で通行人を見ていると自覚して、ミリアは苛立ちを感じた。
夕風で瞼に掛かった髪を掻き上げて深呼吸。荒れた心を落ち着かせようとする。
魅了で現状を変える事も、最初から頭の中にあるにはあった。
しかし、ステンシィ一家と過ごす中で感じた、魅了への困惑が実行を躊躇させる。
今は、己の力をどう捉えるべきか掴みかねているのだ。

(そうだ……面会時間が終わる前にリンシィの様子を見に行かなくちゃ)

リンセル・ステンシィの為に村へ留まるのだから、彼女の状態には気を配らなければならない。
自分はいざとなれば帰れるが、リンセルは違うのだ。
ミリアは座り心地に慣れた木製の長椅子へ別れを告げると、病院へ向かって歩き始めた。
疲れもあってか、時折石畳の上で立ち止まり、歩みも緩やかではあったが。

(今日中に生活費の調達も考えないと……)

漆喰の壁に夕陽色が混じる建物の間を進みながら、ミリアは数年前にイストリアの中学校で聞いた噂話を思い出す。

(服の上からおっぱい触らせるだけで50R$って話、あれホントかな……)

443医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2014/08/08(金) 23:51:48 ID:Zc13ILwo0
夕映えの赤みを帯びて静かに佇む僻村の病院。
医療機器の並ぶ研究棟の一室では、真っ白な検査服を着せられたリンセルがカーボン樹脂台へ寝かせられている。
全身には接続コードが伸びる何本ものベルトを巻かれていた。

その隣室では、回転椅子に座ったコーデファーが大型ディスプレイを眺めている。
画面に映っている映像は、リンセルとミリアだ。
二人は並んで歩いたり、食事をしたり、唇を触れ合ったり、同じような場面を何度も繰り返し演じている。
ディスプレイの内容はリンセルの深層意識であり、夢の視覚化と言っても良い。
精神研究の施設であるトリフネは、脳内の電気信号を変換して生物の心像を映す機器をも備えているのだ。
他人に意識や思考を覗き見られるなど耐え難いことであろうが、昏睡状態のリンセルに抵抗する術は無い。

「こんな状態でも精神が動いてるとは思わなかったけれど……あの女のことばかりね。
 両親ですら、あの女と一緒のシーンだけにしか映らないなんて」

コーデファーは、うんざりした顔でディスプレイ内のミリアに吐き捨てた。
生と死の狭間を漂うリンセルは意識の働きが弱く、大半の映像は明瞭な場面を描く前に崩れ落ちてしまう。
鮮明な映像はミリアと過ごした数日間のみ。
常人より強い干渉力を持つ事と、魅了の影響から、今もミリアはリンセルの心を占めているのだ。
映像から判断する限り、リンセルは砂漠で水を求めるようにミリアを求めていた。

「この女、エッチなことしか考えないし……分析するのもバカらしくなってきたわ」

親密そうにじゃれ合うリンセルとミリアの姿を見せられ続け、コーデファーはイラついた様子だった。
完全な不老不死を求める医療司書が研究結果として欲するのは、このようなものではない。
コーデファーは深層意識の映像から視線を外し、別のディスプレイ――――覧界視の拡大映像に視線を向ける。
リンセルの体内気脈を映した虚ろな闇には、視認すら困難な光が浮かんでは儚げに消えていた。
この弱々しい明滅状態からは何も変化がない。
退屈の欠伸を漏らしたコーデファーは、気分転換に回転椅子で回りつつ別の診断法を検討し始める。
無言の思案は暫く続けられたが、不意に室内スピーカーから流れる硬い声で医療司書の沈思は砕かれた。

「フラスネル医療司書、患者、面会希望者出現」

「患者の親族って誰? フロレアなら今朝エヴァンジェルに帰ったはずでしょう」

アデライドの呼びかけを聞いたコーデファーは、小型集音機を口元に当ててスピーカーの向こうに問い返す。

「面会希望者名、ミリア・スティルヴァイ」

ナースステーションの看護婦は、患者への面会希望者がミリアだと告げる。
夢の中のリンセルが何度も呼ぶ名前であり、コーデファーが聞き知る限り、ロルサンジュのアルバイトだ。

「ミリア・スティルヴァイ……あぁ、あの女ね。
 許可を出す必要なんて無いわ。
 診療中だって言って、さっさと追い払いなさい」

片手を払って追い払う動作をしながら、コーデファーは不快げに吐き捨てた。

「了解、即刻、退去要請」

アデライドと交わす会話が、隣室で眠るリンセルにも聞こえたのだろうか。
ミリアのフルネームが呼ばれた瞬間、覧界視の拡大映像で映される微かな光点が若草の色を帯びた。
すると、甘い夢の景色にも僅かな変化が――――。

444リンセル ◆Ac3b/UD/sw:2014/08/09(土) 00:29:21 ID:RCNAosiU0
無始無終の夢は、どこからが記憶の再現で、どこまでが妄想なのか判然としない。
時折、掠れた記憶が絵筆となってリンセル・ステンシィの心のキャンバスに濃い色を付ける。
夢を再現したディスプレイの景色は白とピンクの可愛らしい厨房で、登場人物はミリアとリンセル。

「人の心を取り込める特別なパン酵母なんて本当ですか、ミリアさん?
 もしかして、これって危険ハーブ……とか入ってませんよね?
 クックックッ、このパンがもっと欲しいなら私の言うことを聞くんだーっ、みたいなのが……」

映像の中でパンを捏ねるリンセルが、隣で佇むミリアに話しかけた。

「それが、どんなドラマのシーンか知らないけど、酵母に入ってんのはアタシの体液だよ」

「た、体液って……ダメじゃないですか!
 手作りバレンタインチョコに血を入れるなんて話は聞いたことありますけど、衛生的にも汚いですし……あっ!
 も、もちろん私は原料ミリアさんのパンが焼き上がったら残さず食べますよっ。
 汚いなんて微塵も思いませんから、美味しく完食ですけど!
 なんだったら、原料のまま食べたっていいんですよ!」

「いや、生憎だけどリンシィに食べて欲しい訳じゃなくて。
 今のアタシの血肉は少しばかり特別でね……女王蜂とか女王蟻のフェロモンみたいな力を秘めてんのさ。
 もし、これを使って特別な力を持ったパンが作れるなら、きっと教皇庁の人間だって取り込める」

リンセルの記憶がミリアの秘密を露見させる。
どこまでが真実なのか判然としないまでも、コーデファーは会話の内容に興味を覚えた。
夢を織り成すのは過去の断片であり、そこには必ずリンセルの見聞きした記憶も含まれている。
この会話とミリアの姿しか映らない不自然な映像を見れば、リンセルが魅了の影響下にある可能性は高い。
一部の医療従事者を除き、自由意志を毀損する術はイストリア条約で禁じられているにも拘らず。
その術の影響こそが、リンセルに今の状態を齎しているとも考えられた。

「き、教皇庁を取り込んで……どうするんですか?」

鬼気迫るミリアの視線に気圧されるような映像内のリンセル。
コーデファーも関心の度合いを増して、二人の会話を注視する。

「アタシ一人じゃ出来ない事に関して、ちょっとばかり力を貸してもらう。
 父さんの理想を叶えるためなら、アタシはどんな手も使うし悪魔にだって魂を売るよ」

「ミリアさんのお父さんの理想って、まさか世界征服とかじゃないですよね?
 私もパンで世界を征するつもりでしたけど……」

「父さんの理想は人間って種族の進化、だったのかな。
 あらゆる種族で均衡の天秤を保てば、どっか一つだけに負担が掛かるなんて事もなくなるからね。
 アタシは、その理念を受け継ぐよ。勇者ボルツの失われた名誉を回復するって遺志もね。
 そして、イストリアの全てにお前たちが間違っていて、父さんが正しかったんだって事を思い知らせてやる――――」

夢の会話が途切れると、次第にディスプレイの映像は溶けて別の形を取り始めた。
リンセル以外にとっては無価値な、甘い夢に。

コーデファーはディスプレイ内のミリアを睨み、しばしの思案を置く。
ミリアが用いた術はどのような種類と系統であり、己の役には立つのだろうかと。
まずは、リンセルの記憶の断片が事実であるかを調べなければならない。
しかし、相手は正体不明の能力を用いる魔術師。防備の無いまま応対する訳にもいかない。
ミリアとの接見は、魔術に対して万全の体勢を築いた後だ。
方針を定めると、コーデファーは再び小型集音機を手に取った。

「……看護婦、聞いてる? 患者の面会は明日の夕方なら出来るって、ミリア・スティルヴァイに伝えておきなさい」

「五分前、面会希望者、退去完了」

「さっさと追って、通達なさい」

445ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/08/22(金) 19:10:29 ID:1N0MIodg0
病院のロビーでリンセルが面会謝絶である旨を告げられ、ミリアはソファーに座り込んでいた。
心身の疲弊は限界に近く、夢魔から囁きかけられているかのように瞼も重い。

(もういいや……ここで寝ようかな……)

疲れ切ったミリアが睡魔に身を委ね、ソファーをベッド代わりにすること五分。
眠りの淵に墜ちた肉体が、唐突に何者かの手で揺す振られる。
ミリアが薄っすら瞼を開くと、己を覗き込む紫の瞳と目が合った。
この病院に勤務する看護婦で、金属質の銀髪を持つ妖精種、アデライドだ。

「リンセルステンシィ、明日夕方、面会可能、担当医許可」

病院の看護婦は単語を羅列して、患者への面会が可能な期日と時刻を告げた。
アデライドが共通語に不慣れなのは分かっているので、ミリアも頭の中で単語を反芻して意味を整理。
半覚醒の鈍い頭で出した結論を口に出す。

「……アタシは明日の夕方、リンセルと面会できるって事でいいの?」

「肯定」

「じゃ、今日の所は出直す……」

アデライドに出直すと言いながらも、ミリアはソファーに腰を沈めたまま立ち上がらない。
睡魔に負けて再び目を瞑り、病院への入館が制限される午後八時まで眠ってしまった。

「……ん」

気が付けば夜が訪れている。
閉館時間となって病院を追い出されたミリアは、まだ明かりが灯るドイナカ村の中心部に向かって歩き始めた。
夜の村は人通りが絶えているものの、観光施設の集中する区域は明るい。
逆に牧草地や森は人工の灯りから恩恵を受けられず、頼りなげな月の光が照らすのみだ。

「これから、どうしよっか……はぁ」

ミリアは力の無い溜息を吐きつつ、明日の夕方までの時間をどう過ごすべきか考える。
早急に解決すべきなのは、生存に必要な衣食住の三つだ。
旅行バッグの中に衣類の替えはあるが、無一文なので食料と住居の問題は解決が難しい。

(あ、いや、そういえば飢餓耐性の術があったっけ……これ使えば、お腹空き過ぎな問題は何とかなるか)
(治癒力促進の魔術もあったな……術で少しは足がマシになるといいんだけど)

ミリアは現状打破に役立ちそうな呪文を脳内でリストアップ。
農道の真ん中で立ち止まると、渇いた喉を咳払いで整え、続いて見繕った呪文の詠唱を始める。

「螺旋為す根源なる力よ 我が望みは飢渇せぬ肉体 湧き出る泉の活力。
 臓腑は霊素で満たされ 全身の血肉とならん “飢えざる胃腑”」

今更ながら、空腹の応急措置が図られた。
魔術で解決しようという発想に半日も掛かったのは、飢えは食事で癒すものという固定観念からだ。
ミリアが魔術に触れた期間の浅さや、疲労と空腹で頭が回らなかった事もあるのだが。
ともあれ、治癒力促進の魔術は鉛の足を軽くして、飢餓耐性の魔術は飢えた肉体を癒す。

「あっ……こんなんなら最初から使っとけば良かったな」

己の中から飢餓感が急速に消えてゆくのを感じてミリアは呟く。
永遠に魔術で空腹を誤魔化し続ける事はできないだろうが、差し当たって今日明日は凌げそうだった。
食事の心配が無くなると幾分か気も楽になる。
後は宿泊の用意だが、これはミリアの習得する強化魔術では解決できない。
とは言え、鈴虫が鳴く牧草地を寝床として、星を観ながら横臥するつもりにもなれなかった。
だから、自然と足が向くのは明るい光が灯った村の中心部だ。

446ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/08/22(金) 19:11:28 ID:1N0MIodg0
ミリアは灰色のポニーテールを揺らしながら、村の大通りを歩く。
人通りは少ないものの、温泉帰りと思しき人影がちらほらと見えるので、心細さは感じられない。
ミリアはラスティックバーガーの前に辿りつくと、テラス席代わりのベンチに座った。
スポーツバッグを脇に置き、魔術具の杖を壁に立てかけて。

(寒くないし、ここで寝ようか……)
(いや、宿無し女が夜のベンチで寝てたら警備官に通報されるね)
(結界張ったり城を造ったりなんて魔法でもなきゃ、ただで泊まれる所なんて作れないし、どうしよっか……)

立ち並ぶ漆喰壁の建物に目を向ければ、どれも街灯の光で染まった薄暗いオレンジ色だ。
その中でファストフードショップだけが不自然に眩く、コントラストを作って周囲の寂しさをより際立たせている。
稀に話し声が聞こえるものの、すぐに途切れ、止まないのは虫の音ばかり。
夜の村は孤独で、その孤独感がミリアの頭にライザ・フェリーシャの事を過ぎらせた。

(今のライザ……イストリアにいた頃のアタシと同じような状況だよな……きっと)

自分の存在で人生を狂わされた少女は、発砲事件を起こしてエヴァンジェルの監舎に投獄されている。
あれから、彼女はどうなったのだろうか。
今の自分よりも、孤独と無力感に囚われているのは確かなはずだ。
魅了の力で三主教の要職の心を捕えている以上、正当な捜査は行われず、彼女の言葉は誰にも届かないのだから。
せめて家族が支えてくれれば良いのだが、アレクサンデルの口からライザと両親の不仲を聞いている。
ならば、彼女にはたった一人の味方もいないのだろう。

あの少女にも魅了の力を行使しておくべきだったのだろうか。
そうすれば、投獄しなくても口を封じてはおけたはずだ。
いや、そもそも魅了の力がなければ、彼女が凶行に及ぶことは無かった……のだろうか。分からない。
ミリアは頭を振って、ライザの境遇を頭から追い出そうとする。

(いや、今は考えても仕方ない……)

影の差した心でベンチから立ち上がり、壁に立てかけた杖を握った瞬間、ミリアは杖の金銭的な価値に思い至る。
この杖は、実家を出る際に家財の一部を処分して手に入れた代物で、高価な工芸品程度の価値があったはずだと。
魔術具を処分すれば、当座の資金は捻出できるだろう。
唯一の護身武器を手放すのは惜しいが、現状の困窮を打開する手段も他に考えつかない。

(護身って言っても、まず安全に寝る場所を得るのが最大の護身だしね)
(冒険者の店が、閉まってなきゃいいんだけど……)

夕方立ち寄った店の一つに目を向け、ミリアはそちらへ足を運ぶ。
店内を見るとまだ営業中のようで、何人かの男たちがテーブルに陣取り、思い思いにジョッキを傾けていた。
特に武装している訳でもないので、冒険者なのか一般客なのかは判別がつかない。
ミリアはテーブルに座った男たちの横を抜けると、カウンターの前で足を止めた。

「今晩は、さっきのお嬢さん。
 女の子が一人で歩き回るには、ちょっと遅い時間じゃないかなー」

ビアホールの親父然とした赤ら顔のマスターが、空ジョッキを布で磨きながらミリアに話しかける。

「あ……うん。
 まあ、色々あってね。
 ところで、この杖なんだけど引き取って貰えるかな? 魔術具なんだけどさ」

ミリアは握った杖を軽く掲げ、店のマスターに下取り出来るかを問いかけた。
魔術具は大量生産が難しく、基本的には一つひとつが職人に拠る手作りだ。
当然、ミリアもそれなりの値段の提示を期待する。

447ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/08/22(金) 19:12:01 ID:1N0MIodg0
冒険者の店のマスターは客が差し出す杖を受け取ると、さっそく鑑定を始めた。

「魔術具の買取? 構わないけど身分証はある? 免許証とかパスポートとか。
 冒険者なら、冒険者カードを提示してくれればいいんだけど」

質問をぶつけながら、マスターはミリアの表情を観察していた。
海千山千の冒険者を相手にする仕事柄、彼も人物観察に少しは自信がある。
盗品を持ち込んだのなら、見抜けるはずだと思うくらいには。
鑑定は品物だけでなく、持ち込んだ人物も込みで行うのだ。

「パスポートだったらあるよ」

ミリアは旅行バッグからパスポートを取り出して広げる。

「ん……ミリア・スティルヴァイ、人間族の17才。
 ほー、イストリア共和国とは随分遠い所から来たじゃないか。
 それで、この魔術具を護身用に持って来たってわけかな? 魔術師には見えないけど」

提示されたパスポートを眺めつつ、店のマスターは中央大陸の地図を脳裏に描く。
イストリア共和国は大陸の中心部からは、やや西域部に寄った位置にある小国家だ。
さらに西の方にあるドイナカ村やエヴァンジェルとは、数ヶ国を挟む。
少女と言って良い年齢の女が一人旅をするには少々遠い距離なので、護身武器を持ち歩いても不自然ではない。

「それが、こう見えても幾つか魔術は使えるんだよね。
 と言っても、たいした腕前じゃないけど。
 掏りに財布を盗まれて、温泉観光どころじゃなくなった程度ってとこ……」

「掏りの被害に? そりゃ大変だったねー。
 あぁ、ところで魔術具購入の証明書はあるかな?」

「確か、捨ててなかったと思う」

ミリアは旅行バッグの内ポケットを漁り、一枚の折り畳まれた紙を取り出す。
それを受け取った店主は片手で紙を広げつつ、もう片方の手でスマートフォンを操作して相場を調べた。

「商品名は杭魔杖《テーベス》、作成者はダネシュティで、遠近両用の攻撃用マジックロッドねー。
 販売相場が1200R$って所だから、買取は500R$になるけど、どうする」

カウンターのキャッシュトレイに紙幣が置かれる。
示された金額は、旅館で十日の滞在ができる程度。
これでは、当座を凌ぐことしかできない。

「もうちょっと、おまけして欲しいなぁ……」

ミリアは上目使いで媚を売ってみるものの、マスターの表情は渋いまま。
魅了の力を使わなくては、誑し込むのも無理そうだ。

「んー、と言っても、こんな田舎だと魔術具を売るのも大変だしねー……。
 需要の薄い品を抱え込む訳にもいかないし、やっぱり相場通りの値段って事で」

マスターの言い分は尤もで、ドイナカ村で魔術具を売るのは至難だろう。
今の村で脅威となりうるのは近隣の山野に棲息する獣くらいで、それも猟銃があれば事足りる。
わざわざ、扱い辛い魔術具を必要とするものはいない。

「……分かった。500で良いよ」

物足りない金額ではあるものの、ミリアも不承不承頷く。
村内で他に魔術具を買い取ってくれる所も無さそうなので、提示された額で妥協するしかない。
ミリアはカウンターに置かれた500R$分の紙幣を掴むと、メモ帳の間に挟み、スポーツバッグの中に仕舞う。
取引が成立すると、店の主人はミリアを慮ってか、女一人の宿泊先として手頃そうなペンションの名を告げた。

448ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/08/22(金) 19:13:15 ID:1N0MIodg0
ドイナカ村の中心部、雑貨店や飲食店が立ち並ぶ一角にペンション・セプテットは建っている。
二階建てで浅い茶色の煉瓦壁とストーングレイの屋根を持つ、この村ではありふれた宿泊施設の一つだ。
白い玄関扉を見れば、左右に壁掛けランプが煌々と灯っていて、夜の闇を温かく溶かしている。
ミリアが玄関の呼び鈴を鳴らすと扉が開き、宿の主人セザール・サンプティアが客を出迎えた。
セザールは金髪碧眼、三十台と思しき落ち着いた雰囲気の男性の人間だ。
細身の身体にチェックの上着とスラックスという格好である。

「お泊りですか?」

「うん、今から泊まりたいんだけど空き部屋ってある?」

「ええ、ありますよ。
 宿泊料金は朝食込みで一泊45R$、シャワーやトイレは共同になりますが」

想定より一割ほど安い料金を聞いて、ミリアは今夜の宿を此処に決めた。
宿泊記帳が済むと、ペンションのオーナーはミリアに鍵を渡し、着いて来るよう促す。
彼が客に案内した部屋は、階段を登った先の一室。
やや広めの部屋は白を基調とする内装で、小さな窓に厚手のカーテン。
大きめのベッドが中ほどに置かれていて、他の調度品は木製の机と室内をオレンジに染めるランプくらいだ。

「このペンション、客室が七つだね。
 だから、七重奏ってわけ?」

「そうです。
 一人で経営していますので、これくらいが丁度良いのです。
 お客様が多過ぎても目が行き届きませんからね。
 それでは、何かありましたら、お手数ですが一階までお越し下さい。スティルヴァイさん」

「あっ、オーナー。
 出来ればアタシのことはミリアって呼んで欲しい……かな」

スティルヴァイ家の一員であることの自覚は、ミリアに複雑な感情を呼び起こす。
今の自分が、そう呼ばれる資格があるかとの自問を。
かと言って、母親の姓であるカステリットを名乗りたくも無い。
記帳には偽名を書くべきだったかとの考えが過ぎるものの、今更だろう。
冒険者の店の主人には、本名を知られているのだ。
彼の紹介でペンションに来たので、そちらへ伝わって魔術具売却の件を変に勘繰られるのも好ましくない。

(そういや、偽名の使い方とか、今までちょっと適当すぎたかな)
(あんまり関わりたくないから、警備官には偽名を名乗っちゃったけど……)

「分かりました。
 それでは私のことも、セザールと呼んで下さい。
 朝食は翌朝八時にダイニングで始めますので、遅れないように。
 お休みなさい、ミリアさん」

セザールは目尻だけで薄い笑みを浮かべると、客室から静かに立ち去ってゆく。
冒険者の店の主人に比べると、佇まいは優雅な印象だ。
ミリアは一人になると机の上に旅行バッグを置き、中から薄緑のパジャマを取り出した。

「今の所持金は455R$で、エヴァンジェルまでの旅費が約200。
 帰りの事も考えると、村にいれるのは五日が限界ってとこか。
 とりあえず、シャワー浴びて寝よう……。
 あ、そだ、フロレアさんにも連絡しとかないと……」

魔術で肉体の疲れこそ軽減されたものの、まだ眠りへ誘うのに充分な程の精神的疲労が残っている。
だから、シャワーを終えたミリアも、客室に戻るとすぐさまベッドへ倒れ込み、深い眠りに就いてしまった。
翌朝、ペンションのオーナーが部屋の扉をノックするまで。

449医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2014/08/30(土) 06:47:17 ID:uWa2Q9C60
空気の済み切った僻地の村は、夜空も綺麗だ。
蒼白い月と無数の星々も、自らの姿を強く主張して、虚空のキャンバスを絢爛に彩っている。
草地に囲まれて立つ病院もまた、窓から漏れる暗橙光で夜の闇に浮かび上がっていた。
暗いオレンジ色は、照度を落とした常夜灯の光だ。
その薄暗い光で満ちた長い廊下の端、外来研究者用の宿泊室の一つからは若い男の声が漏れる。

「――――魅了の術を使う女、か。
 ならば、フラスネル医療司書が担当する患者に加え、その両親も術の影響を受けた疑いが強いな。
 三主教の中にも、術に囚われた者が何人か紛れているかも知れない。
 術者が昏睡する患者の快癒を望んでいるとすれば、狙うのは病院や医療を司る宣教聖省の関係者か。
 少なくとも、私ならばそうする。
 此方で先んじて事の経緯を調べ上げて対策を具申すれば、教皇庁に対して優位に立てるだろう。
 フラスネル医療司書、聖都の動きやミリア・スティルヴァイの経歴も三日後までには調べておく。
 選定した護衛の派遣と、魔術具の用意も三日後だ。
 それまでは充分に警戒して、彼女への接触は控えるように」

艶のあるバリトンは、バニブルの外交司書ラクサズ・イレアード・イブンスディールの声。
コーデファーが庇護者であるラクサズと、今後の連絡を取り合っているのだ。
近代の機械技術を嫌う付与魔術師が相手なので、通信には懐中時計型の魔術具が用いられている。

「三日後ですって? 遅過ぎるわ。
 明日の夕方にはあの女が来るのだけれど、それまでに準備は済ませられないの」

コーデファーが蓋を開けた懐中時計に目を落として言い返す。

「残念ながら、魔術王ならざる身では全ての準備を一日で終えるのは難しい」

「もっと要領良くやりなさいよ。
 あなたが凡俗でも愚図でも、地位はあるんでしょ」

通信具を通した向こう側にラクサズの冷笑を感じ、コーデファーは不快げに吐き捨てる。

「地位はあるが、外交司書ともなると対面を重んじなければならない。
 魔術具の持ち込みや、武装許可一つ取っても、書類が必要なのだ
 治安の悪い場所なら許可など必要ないが、其方はそうではあるまい」

「面倒なものね。
 それなら、この件は此処の警備官にでも通報すればいいの?」

「そうだ。
 とは言っても、魔術関係は小村の警備官などの手には負えないから、対応するのは地区警察の魔術対策課だ。
 但し、対策課が検討した上で術師の力量が足りないと判断されれば、冒険者協会などへも応援要請が行く。
 腕の良い魔術師を確保するのは、どの行政も苦心している所だからな。
 従って、我々が身分を明かした上で協力の意志を伝えれば、援護の要請は此方へ為されるだろう」

「そう……でも、警備官への連絡は明日で充分だわ。
 どうせ、動くのは三日後なんでしょう。
 明日のミリアの訪問も、監視だけして引っ込んでるわ。
 思い返してみれば、無理やりキスしてこようとしたのも、わたしを術に掛けるつもりだったのね」

声音に怒気が篭もった。
己の意思を他者に委ねる事は、運命を握られる事に等しい。
それゆえに精神を支配する系統の魔術は、イストリア条約で禁術に指定されている。
コーデファーの言葉に滲んだ怒りも、人権を鑑みれば正当なものだと言えよう。

「まだ相手の正体は知れない。慎重を期して短慮は慎むように」

ラクサズの念押しを最後として、ドイナカ村とバニブルを繋ぐ通信は切れた。
会話の相手が居なくなると、コーデファーは机に懐中時計を置き、柔らかな寝床へ転がって瞼を閉ざす。
診療で疲れた医療司書が眠りへ落ちるのに時は掛からず、程なく狭い部屋にも寝息が立ち始めた。

450ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/09/07(日) 02:28:49 ID:E4WKg1xA0
翌朝、ミリアは木製扉を叩くノック音で目覚めた。
頭の中は明瞭で、朝食の準備が出来たと知らせるペンションオーナーの声もしっかりと聞き取れる。

「あ、すぐ行きますっ」

ミリアは扉の外のセザールに返事を返しつつ、寝巻きを着替えた。
今日の装いはエヴァンジェルから持って来たクラシカルな服で、元はリンセルのものだ。
洗面所で顔を洗ってリボンバレッタで髪を結ぶと、ミリアは階段を降りてダイニングへ向かった。
十人以上が寛げるような広間には、四つのテーブルに食器が並べられている。

まずはダイニングを眺め回して空席を探した。
近くの卓には翼人《エルユジャス》の四人一家が座っていて、奥まった場所には四人の侏儒《ドワーフ》族。
窓際の卓には、猫人《シャパリュー》と翅を持つ妖精《フェアリー》の姿。
とりわけ背の低い卓には、二人組の小柄な兎人《ミフィアン》が席に着く。
すでに朝食を食べ始めている者も少なくない。

(なにこのアウェイ感……アタシしか人間がいない)

全てのテーブルを確認してみても、食器の置かれた空席は一つのみ。
必然的にミリアも其処が自分の席だろうと判断して、猫人族と妖精種が座る卓に混じった。
人間以外の種族しかいないダイニングには居心地の悪さを感じるが、朝食を放棄するつもりは無い。

「……どうも。
 昨夜から此処に泊まってるミリアです」

緊張した面持ちのミリアは相席する二人へ、ぎこちなく自己紹介を述べた。

「宜しく、俺は観光雑誌のライターでメーレット・プラヴァ。
 君が昨夜来たのなら、三号室の俺とは斜向かいの筈だ」

高い椅子に腰掛けた猫人が、高い声で挨拶を返す。
メーレット・プラヴァは猫の頭部と黒い毛並みを持ち、背はミリアよりも頭一つ低い程度だ。
聖都のブティックで見かけた猫系亜人と違って、見た目は直立歩行する猫そのもの。
白いブラウスと、サスペンダー付きのショートパンツを身に着けていなければ、大型の猫と言っても通るだろう。
猫人の雑誌記者に続いて、繊細な容貌をした妖精族もミリアに顔を向ける。

「こっちもよろしく。
 私はドリームフォレスト。長いからドリームって呼んでね」

夢の森を名乗る妖精が、朗らかに述べた。
ドリームフォレストの外見は十代に満たぬ子供のようで、背の翅が邪魔なのか腰掛けるのは背もたれの無い椅子。
体には星霊教団製の薄い呪衣を纏っているものの、白い生地を通して華奢なシルエットが透けてしまっている。
性別を持たない種族だからこそ、薄布一枚という服装も許されているのだろう。
少なくとも、ミリアが同じ格好をすれば周囲の困惑を呼ぶのは間違いない。

(……名前の通り、夢の住人ってとこか)

ミリアの着席を確認すると、セザールが料理皿をトレーに乗せて運んで来た。
メニューは、ブラウンソースの掛かった焼き立てソーセージ、大麦とベーコンの煮込みスープ。
パンとチーズ、カリカリに焼いたハッシュポテト、付け合わせの山菜サラダ、林檎の炭酸飲料だ。
素材に自信があるのか、或いは面倒だったのか、これといって凝った調理のものはない。

「グッドアペタイト(良い食事を)」

「ありがと」

オーナーの言葉を合図として、ミリアも食事を始めた。
凄く美味しいというわけではないが、一日ぶりの食事となると舌の上の刺激も懐かしい。

451ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/09/07(日) 02:35:11 ID:E4WKg1xA0
メーレット・プラヴァは料理を口にするたび、三点、二点などと数字を小さく口から漏らす。
もちろん、此処の料理も雑誌の記事にするので、料理の内容を評価しているのだ。
一通りの点数を付け終わると、彼はソーセージを刺したフォークを口に運びつつ、ミリアに話し掛ける。

「人間の年齢や性別はよく分からないが、ミリアさんは成人されているのかな。
 見た処は一人のようだが」

「……いえ、十七だから成人はまだ。それと女です」

返された言葉は簡素。
掏りの被害を受けたばかりの状況で、気心知れない相手との会話ともなれば、ミリアの口調も硬い。

「そうか、猫人で十七と言えば中年と言ってもおかしく無いが。
 まあ成年と未成年の境ってものは、年齢で決めるものじゃない。
 誰かの庇護を必要とせず、自力で社会と関わって生きられるかどうかだ」

「働いて生計を立ててる訳じゃありませんから、やっぱり未成年です」

イストリアでは人間の成人年齢が十八才と規定されている。
年齢に加えて、自立できてるかという基準に合わせても、未成年だと答えざるを得ない。
ミリアが弾まない会話を止めてスープを口にすると、もう一人の同席者が口を開いた。

「大人と子供の境かぁ。
 子供になりたいと思った時が、大人なんじゃないの?
 子供になりたいってことは、子供じゃないわけだし」

ドリームフォレストの言葉を聞いて、メーレットは肩を竦める。

「さぁて、どうなのかね。
 働かずに遊び歩けるなら、俺も子供になりたいもんだが」

皮肉を察してミリアも鼻白む。

「一応、アタシにも就労の意志はありますけどね。
 それに昨日、財布を掏られたばかりで遊び歩ける立場って訳でもないですし」

「それはご愁傷様だ。
 早く悪漢が捕まるよう、俺も祈っているよ。
 とは言え、この辺りはスリが居ても平和な方だ。
 就職口さえ見つかれば、住むには良い環境かも知れない。
 フェネクスみたいに、テログループの標的にはならないだろうからね」

話題にフェネクスの虐殺事件が混じると、陽気そうな妖精族も声の調子を落とす。

「……嫌な事件だったね。
 星霊教団主宰のイベントで起きた死傷事件なのに、誰一人犠牲者を蘇生できなかったらしいし。
 教団じゃ、フェネクスドームに降った黒い宝玉が死者の魂を奪ったから、蘇生も出来ないって見解みたい。
 あの黒い玉に関わった事件の死者は、ほぼ復活も無理だって事だね」

ドリームフォレストから蘇生事情を聞いた猫人は、フンと鼻を鳴らしてスプーンを置く。

「しかし、魔術絡みのテロってのは本当に厄介なもんだ。
 瞬間移動の術があれば、安全な場所なんてもんは無いからな。
 いきなり現れて破壊の術をぶっ放し、すぐに瞬間移動で離脱されると、もう誰にも手の打ちようが無い。
 発電所や政庁には消呪区域が設置されてるが、高位魔術師を擁した武装集団なんて止めるのも困難だ。
 その上、ご丁寧に蘇生を出来なくする手段まであると来た。
 結局、狙う価値の無い場所にいるってのが、一番安全なのかもしれない」

話し込む猫人と妖精。
ミリアは温かなソーセージを頬張りつつ、同席の二人が交わす会話に耳を傾けていた。

452ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/09/07(日) 02:36:12 ID:E4WKg1xA0
観光雑誌の記者と、人当たりの良さそうな種族だけに話が尽きる様子はない。
ミリアが黙々と卓上の料理を減らす間にも、猫人と妖精は世間話を続けている。

「……虐殺って言えば、この地方に近いエヴァンジェルでも起こったね」

「ああ、あったな。
 トチ狂った教皇が、救済と称して化け物の群れを呼んだんだったか……。
 死ぬのが救いってんなら、勝手に一人で死にやがれってんだ。
 他人の命を使わない分、政治的主張を通す為にガソリンで焼身自殺って輩の方が、まだ可愛げがある。
 あんな奴をトップに選んだんじゃ、少なからず三主教への信頼も揺らいだろうな」

「あの事件、犠牲者に蘇生術を掛けて欲しいって依頼が何件もあったけど、私には誰も助けられなかった……」

ドリームフォレストが眉に憂いを作って溜息を吐くと、メーレットは意外そうに相手の顔を眺めた。

「あんた、蘇生術師だったのか。
 何件も術に失敗したとか、村の蘇生事情が不安になるような情報だな」

「ちゃんと成功例もあるって。
 一年に二人くらいは、熊に襲われた人の蘇生もしてるし。
 数週間前にだって、体が一部しか残ってなかった遺体を二人も蘇生させたんだよ」

「そうか、それなら不慮の事故に見舞われても安心ってわけだ。
 そういや、エヴァンジェルの虐殺でも黒い宝玉が使われたって話を聞く。
 大方、ドリームさんの蘇生術失敗もそのせいだろうさ」

「なんだろね、あの黒い宝玉って」

「ドリームさんは星霊教団の人間なんだろう? あんたらでも分からないのか」

「何個か手に入れて調べてるみたいだけど、専門分野じゃないからね。
 ほら、うちのメインって精霊思想の普及とか、自然の摂理の把握とか、環境保護じゃない?
 それに星の巫女が行方不明で、組織の方針も現状維持って感じだしさ」

「世界中に教会を置く思想集団も、トップが消えちゃあ迅速には動けんか。
 いや、大規模だからこそ意見も纏まらんのかな」

「代理を立てるって話も、レヴァイアサンの虐殺事件で流れちゃったしね。
 色んな事を何とかしたいのは、みんな同じなんだけど」

「それなら一つ、まずは手近な所で俺の仕事を何とかして欲しいとこだな。
 村で蘇生師やってんなら、観光ガイドに載ってない穴場なんかに詳しくないかね。
 地元のお奨めも聞いておきたいんだが」

「ドイナカ村に穴場なんて無いよ?
 中心地に温泉と観光施設でしょ、その周囲は農地と牧草地、さらに外側は森と山があるくらいだもん。
 だいたいの観光ガイドには、もう全部載ってるよ。
 楽しみ方も森林浴、渓流釣り、温泉、山菜料理、トレッキング、バードウォチッングってとこかな。
 森に飽きないんだったら、割と良い環境かなって思うけどね」

「変わった風習とか、イベントなんかは無いのか?
 ローカルアイドルとか、変なマスコットを作るのが当世の流行りだが」

「アイドルはいないけど、夏至と冬至、春分と秋分で一年に四回のお祭りがあるよ」

「そりゃ……ありきたりだな」

「ありきたりも良いものだよ」

蘇生師の妖精はそう言って、林檎の炭酸水を飲んだ。

453ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/09/07(日) 02:41:24 ID:E4WKg1xA0
メーレットは雑誌記者の端くれだけあって世情に明るいが、皮肉めいた物言いをする人物。
ドリームフォレストは星霊教団の蘇生師で、人当たりは良い。
これがミリアの二人に対する第一印象だ。

「あ、ドリーム……さんはこの村の人ですよね。
 アタシ、この村にしばらく滞在したいんですけど、あんまりお金がなくて働きたいんです。
 ドイナカ村で仕事の募集ってしてますか」

ミリアは村の就職環境について質問した。
世事に疎そうに見える妖精でも、村民の一人なら少しは就職事情に通じているかもしれない。
期待を込めてドリームフォレストの顔を見つめる。

「ミリアちゃんだっけ。
 ドイナカ村で仕事……ねえ?
 冒険者の店は冒険者資格が必要だし、酪農も狩猟も農業も初心者には難しいしなあ。
 ラスティックバーガーとかコンビニのバイトとか、後は旅館なんかどう?」

妖精が助言すると、猫人の雑誌記者も髯を引っ張りながら意見を述べ始めた。

「若い女なら、それなりの需要がありそうだし、接客業なんかどうかね。
 ローファンタジアじゃ、JKお散歩なんて女子高生が一緒に散歩するだけの接客業も成立してたそうだぞ。
 まあ、市場規模の小さい村じゃ難しいかもしれんが」

今日の予定を決めつつ、ミリアはアドバイスを述べる二人に軽く頭を下げた。
予定は午前から正午に何件かの店を巡って、夕方はリンセルの見舞いだ。

「……ありがとうございます、色々回ってみます」

ミリアが椅子から立ち上がり掛けると、妖精の蘇生師は、あっ……と声を掛けて呼び止めた。

「ところでさ、ミリアちゃんは人間族だよね?
 さっきからとっても強い魔力を感じてて、ずっと気になってたんだけど」

「えっ」

動揺で息を飲む。
思いも寄らぬ一言を聞き、意表を付かれて狼狽した。
ドリームフォレストは、誰も知らぬ間に自分の魔力を計っていたのだろうか……何の為に?
疑念に駆られたミリアは、目前の顔を覗き込む。

「アタシの魔力? な、なんでそんなことが分かるの?」

丁寧な言葉を使うのも忘れて、上擦る声で妖精に問い掛けた。

「あー、私たち妖精《フェアリー》は魔力知覚が鋭敏だからね。
 特別な術を使わなくたって、他人の魔力を計ることは難しくないんだ。
 で、ミリアちゃんの魔力は精霊にも比肩する程だから、珍しいなあって思ってさ」

「え、えっと……魔術師……だから、魔力が高いのかな」

ミリアは曖昧に言葉を濁す。
厄災の種について悟られた訳ではないようだと、ほっと胸を撫で下ろして。

454ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/09/07(日) 02:43:42 ID:E4WKg1xA0
安堵するミリアにメーレットが視線を送った。

「おや、ドリームさんだけじゃなく、ミリアさんも魔術師だったか。
 せっかく魔術が使えるんだったら、そっちを生かしちゃどうかね。
 村に何か、そういった仕事の口は無いのかい?」

横から投げられた質問に、ドリームフォレストは首を振る。

「ドイナカ村で魔力が必要な職なんて、魔術医と蘇生術師と転送ゲートの管理官、後は冒険者くらいだよ。
 ただ冒険者って言っても、小さい村だから依頼がじゃんじゃん入ってくる訳でもないみたい。
 山林ガイド専属の精霊使いが、比較的安定してる程度かな」

「そっか、でもアタシが使うのは強化魔術《エンハンス》だから、精霊とかは詳しくないんだよね……。
 それじゃ、アタシはこれで」

ミリアは別れの挨拶を残して、ダイニングから足早に立ち去った。
妖精族が人間と異なる感覚を持つ事を示されただけに、ドリームフォレストの前にいるのは落ち着かない。

「セザールさん、ちょっと仕事探しに行ってきますね」

「ええ、良い結果になることを祈っていますよ」

炊事場のオーナーと挨拶を交わすと、ミリアは準備のために自室へ戻った。
まずは、持ち物を小さめのウェストポーチに移す。
クラシカルな服装にウェストポーチは似合わないが、さすがに着替え一式を詰めた旅行バッグは持ち歩けない。
持ち歩く所持金も100R$と決め、昨日の警備官の言葉を思い出してポーチやメモ帳に髪の毛を一本忍ばせる。

「そういえば、掏られた財布……戻ってないかな」

外出の準備を終えると、ミリアは一縷の期待を抱いて駐在所に向かって行った。

455医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2014/09/21(日) 10:58:52 ID:ClEAEMQA0
朝の村は陽射しの強さに伴って、人の動きも活発さを増す。
コーデファーが目覚めたのは、道行く観光客で大通りに雑踏が作られる頃合いだ。
遅い朝食を摂った彼女は病院のロビーに赴くと、看護士から駐在所の電話番号を聞きつつ受話機を取る。

「警備官、仕事をお願い出来るかしら。
 この村に凶悪な犯罪者がいるの」

と、切り出すコーデファー。
その声は若化の影響で余りに若々しく、子供の声にしか聞こえない。
だから、応対する老警備官、ウィムジー・サンプティアもあやすように答える。

「ほうほう……凶悪な犯罪者ねえ。そりゃ大変だ。
 それで、お嬢ちゃんはどこのどちらさんだい?」

「あなた、もしかしてわたしを子供だと思って馬鹿にしてない?
 わたしはね、コーデファー・コトン・フラスネル。
 バニブルの医療司書で、今はこの村の病院の外来研究者なのよ」

「こりゃ失礼、お医者さんだったか。
 で、この村でどんな悪事が行われてるのかね?」

「この病院の患者に精神操作の禁術が使われた形跡を見つけたの。
 魔術を使った疑いがあるのは、ミリア・スティルヴァイって女なのだけれど」

「ふーむ、もう少し詳しくお願いできるかな」

「一から十まで説明しないと分からないなんて鈍いわねえ、もうっ。
 病院に運ばれた患者を診て、深層意識の異常に気付いたのよ。
 魅了の魔術が使われたらしいってことにね。
 放置しておいたら、術者は何をするか分からないわよ」

「魅了てぇと、掛けられたもんが惚れちまうって術だろう。
 まあ、なんていうか……もてない奴が血眼になって覚えそうな術じゃなぁ。
 名前からして女なんだろうが、そのミリアってのはどんな奴なのかね」

ウィムジーはホラー映画に出てきそうな怪女を思い浮かべた。

「エヴァンジェルのパン屋で働いてたみたいだけど、出身は……この辺りじゃなさそうね。
 中央大陸の人間だとは思うけど、顔形の特徴なんて説明するのも面倒だわ。
 病院の監視カメラに映ってるはずだから、そっちを見て確認してちょうだい」

「おうよ、そいじゃあすぐ行くから支度しよう。
 だが、俺は魔術なんぞ使えんから、コーデファーさんの話が本当ならそっちの備えをせんとなあ」

老いた警備官は顎を弄りながら考え込む。
魔術の絡んだ事件は、一般駐在員である自分の手には負えない。
こういったケースでは地区を統括する警察署に連絡を入れて、魔術対策課の人員を派遣してもらう。
しかし、現状は各地で多発する異変への対応に追われて、数少ない魔術習得者は酷使されている状態だ。
高度な魔術に対応できる人員の派遣も、いつになるか分からない。

「そう、それならバニブルの外交司書に頼んで魔術師を派遣してもらうから、手続きをお願いできる?
 民間の魔術師を臨時職員扱いとして使うケースもあるんでしょ?
 こっちへの到着には二日くらい掛かるけど、魔術師相手に確実を期すなら人数だって多いに越したことはないわ」

コーデファーの提案は、人手不足の警察署にとっては渡りに舟の申し出だ。
しっかりした身分証明がある人物なら、臨時職員に迎えても問題はない。

「そりゃ助かる。
 上に連絡してもすぐにはダメそうだったら、冒険者協会に頼もうかと考えとったからな。
 あー、でも金一封が目当てなら、たいした額にはならんよ」

456ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/10/06(月) 01:05:11 ID:nUOmiozM0
ミリアは八時過ぎに村の駐在所へ辿り着いた。
民家風の建物の近くに寄れば、矍鑠とした声が大通りにまで漏れ響くのが聞こえる。
窓から内部の様子を窺うと、電話で応対中の警備官ウィムジー・サンプティアが見えた。
彼は足を組んでパイプ椅子に座り、有線の受話器を持ちながら相槌を打っている。

「おう……さすがはお医者さんだ……うむ……うむ」

(電話中か、どうしよ)

しばらく建物の外で佇むミリア。
やがて、駐在所を窺う気配に気付いたのか、ウィムジーが窓へ視線を向けた。
ミリアと目が合うと、老警備官は駐在所の椅子を何度か指差す。
電話が終わるまで、中に入って待つようにとの意だろう。
頷いたミリアが駐在所に入ると、マスカットのような香りが鼻腔をくすぐった。
香りの源はスチールデスクの上で湯気を立ち上らせる紅茶のようで、横には齧りかけのチョコレート。

(これ、朝食かな)

疑問に思いながら、ミリアもパイプ椅子に腰掛けた。
そのまま通話の邪魔をしないように黙っていると、狭い駐在所にはウィムジーのしわがれた声だけが響く。

「分かっておるとも。
 まあ、俺は魔術に詳しくないが、魔術師相手ならそういったもんも必要になんだろうさ」

嫌が応にも会話が耳に入ってしまい、ミリアも耳をそばだててしまう。
会話の相手が医者のようなので、魔術師が事件を起こして誰かが病院に運ばれたのだろうかと想像を巡らせる。

「いやいや、やる気はあるとも……そう慌てなさんな。
 今、ちょうど来客があったんで少し遅れちまうが、ちゃんと行くとも。
 なぁに、病院までは近いから三十分も掛からん」

ウィムジーが会話を締め括って受話器を置くと、ミリアが口を開いた。

「あの、何かあったんですか?
 魔術師って聞こえたんですけど、まさか村のどこかで魔術師が暴れ回ってたり?
 友達が病院に入院してるんで、ちょっと心配なんですけど……」

「おう、ミーリィスさんだったかな。
 さっき、村に悪い魔術師が潜んでるらしいって通報があってね。
 まだ怪我人が出たって話は聞かんが…………ん?
 ミーリィスさんは、村に来たのが初めてじゃないのかね。
 此処の病院に友達が入院してるってことは」

警備官の性なのか、思わず口をつくミリアの不安にウィムジーが反応した。
彼にとっては、バイタル出身のミーリィスが温泉観光へ来た事になっているのだ。

「あ、えっと……村に来るのは初めて。
 友達が此処に入院したって聞いて、見舞いついでに観光しようかなって……」

ミリアは動揺を抑えるのに苦心しつつ、昨日の設定との辻褄を合わせた。
しかし、ウィムジーも病院が精神研究を専門としていることを知っているせいだろうか。
あまり触れられたくないことだとでも思ったのか、質問を重ねる様子は無かった。

「そうだったか。
 まあ病院の監視カメラには犯人が映ってたらしいから、すぐに解決すんだろう。
 ちょうど、これからその映像を確かめに行こうってとこだ。
 明後日には村外から応援の魔術師も来るだろうから、それほど心配はいらんよ。
 お、そうだ、病院へ行く前に昨日の事件の進展も伝えといた方がよいかな」

思い出したようにウィムジーが問う。

457ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/10/06(月) 01:06:00 ID:nUOmiozM0
偽りの経歴から話題が移り、ミリアは密かに胸を撫で下ろした。

「あっ、掏りの件って何か分かりましたか?」

「ううむ……色々と当たっては見たんだが、残念ながらこっちの犯人は全く目撃報告が無い。
 こりゃ、かなり手慣れた奴に違いないわな
 となると、狭い村ん中に留まってる訳もねえだろうから、もう村を出ちまったのかもしれん。
 転送ゲートの管理官も見とらんそうだし、何処へ行ったのやらだ」

ウィムジーは皺深い顔に渋面を描いて頭を掻く。

「やっぱり無理かぁ……」

ミリアの唇から溜息が漏れた。
想像はしていたが、やはり解決の見込みは薄いようだ。

「済まんな。
 とりあえず、近隣の村にも連絡を入れておく。
 バニブルから魔術師が来たら、何か良い手がないか相談してみよう」

うな垂れるミリアの肩をぽんと叩き、ウィムジーは立ち上がった。
腰にサーベルを佩き、警帽を被って身支度を始める。

「魔術師の応援ってバニブルから? こんな遠くの村まで?
 警察の制度ってよく分からないけど、他の国から魔術師の応援を呼ぶものなの?」

警備官の口から何気なく発された国名が、ミリアに違和感を感じさせる。
バニブルは古今東西の書物が収蔵された国家。
優秀な魔術師がいてもおかしくはないのだが、ドイナカ村とは離れ過ぎている。
転送ゲートか転移魔術、航空機を使わなければ、明後日に到着するのが不可能なくらいには。

「ああ、いや、応援の魔術師は病院のお医者さんの伝手でな。
 通報してきた際に協力を打診して来たんで、ありがたく受けたってわけだ。
 地区警察は人手不足だから、普段は冒険者協会の手を借りとるが、いつもひよっ子ばかり送ってきよるからな」
 
「バニブルの魔術師に伝手のある医者って……。
 もしかしてコーデファー・コトン・フラスネル?」

ミリアがバニブルに伝手を持つ医者と聞いて、彼女が思い浮かべる名前は一つしかない。

「確かそんな名前だったが、ミーリィスさんの知り合いかな?」

「ええ、お見舞いの時にちょっと」

予想が当たったにも拘らず、ミリアは訝しく思う。
コーデファーの身勝手そうな性格からして、積極的に治安維持へ協力するイメージは湧かない。
自分の時と同じように、病院内の誰かとトラブルを起こして駐在所へ通報したのだろうか。

(まさか、まだエヴァンジェルでのキス未遂を根に持ってて、アタシを通報……ってことはないか)

「じゃあ、俺はそろそろ行くぞ」

ウィムジーが『警邏中、俺に用事がある奴は此方の番号まで』と書かれた札をデスクに置く。
駐在所を留守にしている間も、携帯電話で連絡を取れるようにだ。
老警備官は一旦は建物の裏手に消えるものの、すぐに警邏の用意を済ませて大通りへ現れた
乗っているのはパトロールカーでもオートバイでもなく、背の高い栗毛の馬。
ミリアも周囲の観光客たちと同じく、物珍しげな顔で注目する。

「この村の警備官って、馬でパトロールするの……?」

458ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/10/06(月) 01:06:27 ID:nUOmiozM0
ウィムジーは自慢の愛馬の鬣を撫でつつ、得意げに笑った。

「おおそうとも、警邏は馬に限るぞ。
 狭っこい路地も入れるし、牧草地や森ならバイクなんぞより、よっぽど速い」

馬首を病院に向けた警備官が栗毛の馬を闊歩させると、ミリアも早足で後を追いかけた。

「友達に怪我が無いか知りたいから、アタシも病院の様子を見に行こうかな。
 あっ、さっき、たいした額を出すとか出さないとか言ってたですよね。
 もしかして、悪い魔術師の逮捕に協力すれば協力金みたいなものが出る?」

「重犯罪者の検挙や情報提供に関しては、貢献の度合いに応じて報奨金が出るぞ。
 確か、俺の聞いた中じゃ300000R$が最高だったか」

「300000R$……!」

想像した以上の金額を聞いて、声が裏返るミリア。
その様子を見て、ウィムジーは報奨金について教えた事を後悔する。
所持金を失った身では、端金とて飛びつきかねないと考えてだ。

「ただな、魔術師相手なら素人はあまり首を突っ込まん方がいい。
 奴らは呪文の一言、二言で簡単に人の命を奪い、心すら操れるからな。
 報奨金と言っても、大々的に報道されてないような奴なら1000R$がせいぜい。
 そう簡単に一攫千金とはいかんし、とてもじゃないが犯す危険にも見合わん。
 何かあったら親御さんも悲しむぞ」

犠牲者が増えぬよう、釘を刺す警備官。
職責もあるが、老齢の彼としては孫ほどの年の少女が事件に巻き込まれるのは忍びない。

「……親なら死んだよ、二年前」

ミリアは視線を前に向けたまま、口重たげに呟く。

「ん、そうか。
 知らん事とは言え、悪い事を言っちまったな。
 だが、残された子供まで若くして死んじまったら親も浮かばれん」

警備官の言葉を聞いてミリアが思うのは、父が死んでから何ヶ月も見続けた夢。
父さんが居なければ生きていけないと泣いて父の胸に縋り、その父から後を追っては駄目だよと諭される夢だ。
もし、あの夢を見なければ、自分は此処でこうして生きていられたのだろうか。分からない。思い返すと胸が痛む。

「……分かってますけど、今は先立つものが無いですから。
 それに魔術師の正体と手の内さえ分かれば、アタシにだって勝算が無い訳じゃないですよ。
 魔術師って言っても、要は呪文を唱えさせなけきゃ良いわけですし」

(アタシも魔術を使えるってこと話すのは……止めとくか、経歴とか聞かれそうだし)

観光客が行き交う大通りの中、石畳を歩く馬の横をついて行くミリア。
魔術具の杖を手放して戦力を大幅に落としたとはいえ、まだ手札は残っている。
手持ちの強化魔術を組み合わせれば、相手を無力化できるかも知れないし、種族が人間なら魅了の対象だ。
しかし、ミリアの魔力を知らない警備官としては危ぶむ態度を変えられない。

「村のもんに魔術師の正体を教えられるかは、上に相談しないと分からんぞ。
 慌てて指名手配すると、逃げちまったり、変な術で暴れ回る恐れもあるからな」

牧草地に囲まれた砂利道を雑談しなが進む内に、ウィムジーとミリアは病院まで至った。
奇妙な状況だった。
コーデファーの通報した魔術師とはミリアのことだ。
しかし、通報を受けた警備官はミーリィスが経歴を詐称したミリアとは知らず。
ミリアを捕まえる気のミリアを伴って、病院へやって来てしまった。

459医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2014/10/13(月) 18:02:11 ID:h.wGX6aU0
トリフネは一般の総合病院と違い、研究機関としての側面がある。
午後は研修や回診、授業、手術と時間を割かれるので、外来の患者を受付けているのも午前中のみだ。
従って、まだ九時近くではあったがロビーに人の姿は多い。
ウィムジーも足腰や目の治療で何度か病院に足を運んだ事があるせいか、慣れた様子で受け付けへ向かう。
勤務中の看護婦の中に馴染みの顔を見つけると、早速コーデファーとの面会を申し出た。

「おう、アデライドさん。
 フラスネルってお医者さんから通報を受けたんだが、此方におられるかね」

「フラスネル医療司書、応接室待機、私、案内開始」

「ありがとさん。
 病院に変わった事は無いかね?
 村に悪い魔術師がいるらしくて、こっちのお嬢さんが心配しとるんだが」

ミリアの懸念を晴らすべく、ウィムジーは病院の状況を問う。

「病院、異常無し、平常運転」

「……だそうだ、ミーリィスさん。
 この様子なら、病院には何かあったって訳でも無いだろう。
 じゃ、俺はちょっくら事情聴取に行って来るから、また後でな」

アデライドに伴われたウィムジーは、ミリアをロビーに残して廊下の奥へ進む。
ほどなく、バニブルの医療司書とドイナカ村の警備官は応接室で面会した。
来客用の部屋だからか、さすがに応接室は無機質な印象も無い。
真新しいフローリングの床にレトロなソファーが置かれ、窓から差し込む光が鉢植えの観葉植物を緑に輝かせる。
壁には大型ディスプレイと掛け時計、書類棚がレイアウトされていた。
低い木製テーブルの上には、ミルクで濁ったハイランド地方産のハーブティーと、ロルサンジュの焼き菓子。
その前では、ビスクドールを思わせる可憐な幼女がキャラメルクッキーを齧っていた。

「フラスネル医療司書、警備官、到着」

「見れば分かるわ。
 お前は仕事に戻ってて」

コーデファーが素っ気無い指示を出すと、アデライドも下がってゆく。
横柄な言葉でも気分を害する様子が無いのは、人の感情の機微に疎い妖精種だからだろう。
ウィムジーは踵を返す看護婦に帽子を取って会釈し、それからソファーに腰掛けた。

「あんたがコーデファーさんかい?
 俺より年上だとは聞いとったが……いやー、まったくそうは見えん。
 おお、そうだ、身分証なんかを見せてもらってもいいかね。
 面倒だとは思うが、上に話を通さなきゃならんのでな」

「……これだから、真偽の分からない凡俗は嫌なのよね」

不満を洩らしつつも、コーデファーは医療司書の免許をテーブルに置く。
幼げな容姿の彼女は年齢や能力を疑われるのも日常茶飯事なので、医療司書の免許は常に持ち歩いていた。
年齢や資格の記載された免許証に目を通すと、ウィムジーも感心したように小さく唸る。

「ほぅ……妖精族なら100や200は珍しかないんだが、人間で186才ってのはたいしたもんだ」

「そ、わたしは特殊な施術で若い姿を保ってるの。
 無駄な雑談をするつもりは無いから、さっさと用件だけ伝えるわ。
 ディスプレイを見て頂戴、これが村に潜んでる魔術師、ミリア・スティルヴァイ」

コーデファーがリモコンを操作すると、大型ディスプレイの黒い画面に映像が現れた。
これは監視カメラをダビングした映像で、一昨日に来たフロレアと搬送中のリンセルも映っている。

460医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2014/10/13(月) 18:05:02 ID:h.wGX6aU0
映像は拡大されたミリアの姿で停止して、其処に知った顔を認めたウィムジーが髯の剃り残しを撫でる。

「あー……こりゃ参ったな。
 昨日、財布を掏られて駐在所に被害届けを出して来た子だ。
 バイタル出身のミーリィス・ステイルメイトって名乗ってたんだが、ありゃ偽名だったか」

「……本当に呆れたものね。犯罪者の分際で警察に被害届けなんて。
 頭の中身が足りないとしか思えないわ。
 わざわざ偽名なんか使ってるってことは、疚しい自覚だけはあるようだけど」

「で、このミリアって娘が人の心を誑かす魔術師だってのは本当なのかね?
 見た感じ、あんまり凄腕魔術師って印象はなかったんだが」

ウィムジーが疑いの言葉を挟む。
コーデファーの言葉と監視カメラの映像だけでは、ミリアが魔術師かどうかの判断はできない。
彼としても、誤認逮捕などという事態は避けたかった。

「証拠が欲しいって事? それなら被術者の記憶映像があるわ」

コーデファーは慎重な警備官に若干の不満を表しつつも、ディスプレイの映像を切り替える。
昨日見た光景、ピンク色の厨房でリンセルとミリアが会話を繰り広げる場面に。
ウィムジーも映像を眺めながら、二人が交わす言葉の一通りを聞く。

「……………………ふーむ、フェロモンみたいな体液か。
 人間が働き蟻みたいになっちまうってんなら、そりゃ厄介な代物だわな。
 でもよ、唾とか汗とかに気をつけてりゃいいんだろ。
 雨合羽とかマスクとかゴーグルなんかで、身を守れないもんかね」

まだ得心が行かない様子ながら、ウィムジーも感想を述べた。
ミリアの魅了は体液を媒介とするので、物理的な防御はそれなりに有効な手段となる。
老齢の警備官とは言え、戦闘経験が皆無の相手ならば、制圧するのも不可能ではないはずだ。
しかし、独力で解決されては困るラクサズの意向を汲んで、コーデファーは脅威の喧伝を始めた。

「魔術の素人は単純なものね。
 精神に作用する物質を生成できるってことは、この女は強化魔術師か異能者なのよ。
 能力だって、他人を魅了するだけじゃないかもしれないでしょう。
 不審に思われて知覚や身体能力を強化されたら、監視や逮捕だって簡単じゃないわ。
 素直にバニブルから応援が来るのを待ちなさい」

「相手が魔術を使うとなると、やっぱり明後日まで様子見しなきゃならんか。
 現行犯以外じゃ、俺が独断で逮捕することも出来んしなぁ。
 まずはイストリア条約違反の証拠を地区警察に提出して、国際逮捕手配書の送付を待たないといかん。
 とは言え、被害者の記憶映像ってのは証拠として成立すんのかねえ……。
 家宅捜索や通信傍受も無理だから、もうちっとばかし聞き込みしなきゃならんかもな。
 外国人となると、本籍や経歴まで洗えるかは分からんが」

「エヴァンジェルのパン屋で働いてたけど、そっちも調べられないの?」

「あそこは独立都市だから、うちが独自に捜査すんのは無理だ。
 教皇庁に協力を要請してから、合同で捜査って形になんだろうさ」

「……なんか、本当に面倒なのね」

「警察なんて、どこもそんなもんさ。
 ミリア・スティルヴァイは、あんたが通報した事を知っちまっとるが、通報された魔術師が自分とは思っとらん。
 今のところは知らん振りをしつつ、それとなく情報を仕入れるとしよう」

「そう、目ぼしい映像と患者のカルテはメモリーカードに入れといたから、後の検討はそっちでやって」

コーデファーは大型ディスプレイの端子部に差し込まれていたカード端末を引き抜く。

461医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2014/10/13(月) 18:05:57 ID:h.wGX6aU0
九時半を過ぎ、ウィムジーが話し合いを終えてロビーに戻ると、まだミリアの姿が残っていた。
魔術師捕獲での一攫千金を目論んでいるのなら、真っ先に警備官から情報を得たいはずだ。
対応をどうしたものかと考えながら、ウィムジーはソファーに座るミリアへ近づいた。

「おう、ミリ……ィスさん、まだ残っとったか。
 犯人について知りたいのかも知れんが、危険魔術防止法の規約ってやつでな。
 まだ公開捜査になっとらん魔術師の情報は公にはできん、悪いな」

ウィムジーは、知ったばかりのミーリィス・ステイルメイトの本名を寸での所で飲み込んだ。
ミリア自身が容疑者であることも、適当な名目を述べて煙に巻く。
彼としては、容疑者の周辺環境を知る必要があったから、詳しく話を聞き出す為にも同道を申し出る事とした。

「これから、何か予定はあるかね?
 もし、泊まってるとこに帰るんだったら俺が送ってやろう。
 どこに魔術師が潜んでおるか分からんしな」

ウィムジーが帰りの付き添いを申し出る。
たとえ拒まれたとしても、彼は村の宿泊施設を一つひとつ当たるつもりだ。
ミリアが何も対策をしていない以上、セプテットを本拠としている事は午後にも知られるだろう。

「ああ、ところでミーリィスさん。
 余計な世話かも知れんが、交通費の都合は付いたかね。
 困っとるんなら相談に乗るが」

病院を出た所で、警備官のさらなる問い掛け。
あからさまな事情聴取は行えないので、ウィムジーは案じる態度を装って情報を引き出すつもりだった。

462ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/10/22(水) 00:56:49 ID:EVJh8gkg0
このまま病院に残ってもリンセルと面会できるのは夕方なので、ミリアも警備官の背に続く事とした。
建物の玄関口から出ると、ウィムジーは交通費の都合は付いたかね、と問いかけて相談を促す。
財布を紛失したばかりの来訪者が帰国出来るのかどうか、案じるような様子だ。

(どうしよ……冒険者の店に魔術具売って資金調達したってのは、知られない方がいいか)

ミリアは警備官への返答を考えつつ歩く。
身元が割れたり、辻褄の合わない答えは避けるべきだと考えながら。

「だいじょうぶ。
 滞在費も交通費も、ちゃんと用意できましたから。
 ま、これ以上の相談事は起きない方がいいですけど、何かあったらお願いしますね」

偽った履歴が明らかになる懸念から、ミリアは無難な答えを返す。
たとえ違和感があっても、ウィムジーの方は気付かぬ振りをして話を合わせるつもりだったが。

「おう、何でも相談するといい。
 で、この村には、まだしばらくいんのかね?
 よけりゃあ、晩飯くらいは奢ってやるぞ。
 財布を掏られて、がっくりしたまま帰るってのもあんまりだからな」

再び馬上の人となった警備官が言う。
捜査を兼ねての提案なのだが、それを表情に出すことはない。

「飯って、齧りかけのチョコだったりしない?」

夕食の誘いを受けたミリアが言葉を返す。
何の事かと考えるウィムジーだったが、駐在所に置きっぱなしのチョコレートを思い出して笑った。

「ん? ああ、ありゃおやつだ。
 この年になると朝が早いんで、朝飯も早くなってな。
 ちと小腹が空いた時には、糖分たっぷりのもんを摘まむってわけだ。
 心配せんでも、夕食にはちゃんとしたもんをご馳走するぞ」

迷うミリア。
魔術師に関する情報は非開示とされ、報奨金を手に入れるのは難しいだろう。
警備官と長くいるのは避けたいが、食費が惜しい身にディナーの誘いは魅力的だった。

(アタシの本名を知ってるのは、コーデファーと冒険者の店の主人だけだったっけ。
 後はセプテットのオーナーと、あそこで知り合った二人……ま、だいじょうぶか。
 異種族なら人間の個体識別も難しいはずだし、店を持ってる人なら外での鉢合わせも無いよね)

「それじゃ、ご馳走になろっかな」

「おう、かみさんが腕を奮って手料理作っとるから、駐在所へ六時に来な。
 駐在所って言っても、俺の家だから畏まらんでいい。
 そこらの小洒落た場所なんぞより、うちの方がよっぽど寛げる」

「えっ、あ……うん」

夕食の予定が伝えられ、ミリアが曖昧に頷く。
レストランや食堂への招待を想定していたのだが、意に反して招かれる場所は警備官の自宅。
官舎である駐在所に赴くのは気後れするが、今さら断り辛い。
ウィムジーも断りにくい雰囲気を醸し出すので猶更だ。

463ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/10/22(水) 00:59:47 ID:EVJh8gkg0
草の香りが漂う暖かな陽射しの中、ドイナカ村の砂利道を進む二人。
微風が吹くと、左右の牧草地には草の波。

「そういや、ミーリィスさんはバイタル出身だったな。
 よくは知らんが、どんな国かね?」

馬上の警備官が語らい掛け、問われたミリアは考え込む。
バイタルに行った事は無く、どんな国かはテレビの旅番組や旅行記事で断片的に知っているのみだ
しかし、まさか自分が住んでいた場所を聞かれて知りませんとは答えられない。

「え……えっと、改めて問われると説明するのって難しいな。
 研究機関とか学校が多くて学術都市って感じ? 街全体が学校みたいって言うか」

うろ覚えの知識でバイタルについて答えるミリア。
その様子から得られるものは無いと察して、ウィムジーも別の話題に切り替える事とした。

「学校か。
 俺が警察学校にいたのも随分と昔のことだったなあ。
 刑務所なんて揶揄されるくらいには厳しい所だったから、二度と行きたくはねぇが。
 ミーリィスさんはどうだ? もう卒業して働いてんのかね?」

さりげなく、話題が身分や職業について移った。
ウィムジーは最初に自分の事を話して、ミリアの警戒を解しつつ話を振る。

「あ、はい。学校は卒業しましたけど、仕事の方はちょっと……。
 前はパン屋で働いてましたけど、今は国を出ようかなって考えてて」

実際のミリアの学歴は、四年制の中等教育を一年ほどで中退というものだ。
働いた経験も、ロルサンジュの手伝いくらい。
これをそのまま答える訳には行かないので、アレンジが加えられた。

「ほう、国を出ちまうのか。
 御両親が亡くなったってことだが、ちゃんと行く当てはあんのかね」

「まだ決めてないですけど、幾つか候補はあります」

「そうか、それならいいんだが」

雑談を続ける二人は砂利道を抜けて、村の中心部に戻った。
住処の場所を知られたくないミリアが、別れる口実を切り出そうと立ち止まる。

「あ、買い物とかあるんでアタシは此処で。
 えーと……駐在さんの名前は何でしたっけ」

「ん、そういや名乗ってなかったか。
 ウィムジー・サンプティアだ」

(サンプティア……ってオーナーと同じだけど、この辺りじゃ多いのかな)

「それじゃまたね。ウィムジーさん」

背を向け、去ってゆく馬とは別の方向に足を向けるミリア。
時刻は十時、今から十七時くらいまで求職活動に励まねばならない。

464ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/10/22(水) 01:03:48 ID:EVJh8gkg0
就職先を求めるミリアは、最初にロッジ風の旅館を訪れた。

(出来れば、住み込みの仕事を探したいな……。
 セプテットで暮らし続けるなら、一日に45R$は稼がないといけないし)

木の香りが漂う建物の中。
不安と期待の入り混じった顔のミリアを迎えるのは、地元の人間らしき中年の女性従業員だった。
彼女は笑顔を作って玄関の来客に一礼する。

「いらっしゃいませ。シャモア荘にようこそ。
 当旅館はアメニティとしてお部屋にテレビとインターネット設備、エアコン、バスルームを完備。
 ベッドルームは全室で山を眺めることが出来ます。
 一部屋で一泊230R$になりますが――」

「い、いえっ、宿泊じゃなくて此方で働けにゃいかな、と、お、思い、ましてっ!」

(マズ、緊張しすぎて噛んだ……)

「申し訳ありませんが、今は新規の従業員を募集してないんです。
 異常気象の影響にゃんですかねえ……。
 村の観光客が減りそうなんで、うちも様子を見てるんですよ」

意気込むミリアに断りの言葉が返された。
緊張を解そうとしたのか、従業員も同じような台詞の噛み方をする。
ミリアとしては、むしろ居た堪れない気分となったので、無用な気遣いではあったのだが。

「そう、ですか……ありがとうございます」

一件目の就職活動は撃沈した。
幾分かテンションを落として旅館を出ると、溜息めいた深呼吸。
その後もミリアは新しい職を探しに旅館を巡るのだが、どれも結果は芳しくなかった。
以下はホテル・オリーブドラブの事務室で行われた、ミリアとホテルマネージャーの会話である。

「スティルヴァイさんの特技は強化魔術だそうですが、強化魔術とは何ですか?」

「はい、五感や身体能力を強化する系統の魔術です。
 毒の耐性や水中呼吸や暗視みたいな、他の動物が持つような能力も持たせられます」

「……で、その強化魔術は当ホテルにおいて働くうえで何のメリットがあるとお考えですか?
 少なくとも、毒の耐性や水中呼吸や暗視は当社の業務に必要ありません。
 人並み外れた身体能力もですね」

「で、でも、爪を硬化したり、痛覚の遮断だって出来ますから強盗に襲撃されても応戦できます!
 それに不眠と飢餓耐性の魔術を使えば、不眠不休で働けますから!」

「いや、そういう問題じゃなくてですね……。
 まず労働基準法がありますから、社員を不眠不休で就業させれば、当社が責任を問われます。
 だいたい、魔術ってのは精神を集中して呪文を唱えなくちゃいけないでしょう。
 強盗に遭遇したとしても、相手は悠長に詠唱が終わるまで待ってくれるんですか?」

「え、いや……」

「今、入ってもらいたいのは集客プランを持っている経験者ですが、宿泊業の実務経験は?」

「……無い、です」

村の人間は観光客の減少を見越していて、職探しも簡単にはいかなかった
どの旅館も判断は同じようで、従業員を新規募集している所は見つからない。
最後の方は強化魔術をアピールポイントとして挙げてみたが、たいした利点と判断されなかったようだ。
気付けば昼も過ぎて夕刻。ウィムジーとの約束の時間が近付いていた。

465収集司書スフェルザ ◆LAXUZPoHKY:2014/10/31(金) 18:31:35 ID:SwHMMsyY0
エヴァンジェルの大通りに店を構えるベーカリーショップ、ロルサンジュ。
この瀟洒な店舗の前に、二十台前半の男が立っていた。
顔つきは彫りが深く、浅黒さを持つ黄色の肌を持ち、その上に紋章がデザインされた黒いスーツを着込んでいる。
彼はバニブルの外交使節団の一人であり、名前はスフェルザ・エデラス・コーデッサロットと言う。
スフェルザは書籍蒐集と搬入を専門とする司書で、ラクサズ門下の魔術師でもあった。

「此処が例のパン屋か。
 イヴンスディール司書も面倒な仕事を押し付けてくれる」

ミリアの調査命令を受けたことについて、スフェルザは愚痴を零す。
自分の業務は教皇庁の管理文書を移送する事で、決して人物調査ではないと。
しかし、ラクサズの政治的な立場と、門下である自身の関係を鑑みると拒否権は無い。
スフェルザは小さく舌打ちすると、追加業務を遂行すべく、魔力を持つ金の耳飾りを片耳に装着した。
これは、相手の自覚に反応して会話の真偽を図る魔術具、真実の耳飾りである。

「いらっしゃいませ」

落ち着いた声と香ばしいパンの香りが、ロルサンジュを訪れる来客を優しく迎えた。
店舗中央の長卓には様々なパンが並べられ、壁際の棚にも所狭しとパンが置かれている。
カウンターでは三十半ばと思しき細身の中年女性――――フロレア・ステンシィが佇んでいた。
スフェルザは周囲を眺めつつ、ゆっくりとカウンターに近づいてゆく。
店にはフロレアしか従業員がおらず、ミリアに関しての情報も彼女から聞き出すしかないと考えて。

「この地方独自のものがあれば貰いたいのだが、お勧めはありますかな」

話の取っ掛かりとしてスフェルザが切り出したのは、当たり障りの無い会話だ。
さも、店にあるパンの種類が多くて、何を食べようか決めかねるといった風情である。

「そうですね。
 では、トリスブレッドはどうでしょう?
 三つ編みにした生地の中に果物を挟んで、砂糖と塩の味付けで焼き上げたパンです。
 塩が海の恵み、果実が大地の恵み、卵が天の恵みを意味します。とっても美味しいですよっ」

カウンターを出たフロレアが、棚の一つを指し示す。
艶やかな木製トレーの上には、繊細に編まれた小麦色のパン。
店毎に細かな差異はあるものの、トリスブレッドはエヴァンジェル独自のパンだ。
顔を近づけると、果実の入り混じった香りが鼻の奥を通って、舌すらも甘く撫でる。

「では、それを貰おう。
 甘いものだけではバランスが悪いので、ハムサンドも一つ。
 ああ……西方の通貨は持ち合わせてないのだが、べラス銅貨でも良いですかな。
 エヴァンジェルに来たばかりで両替を失念しておりましてね」

財布の中身を見ながら、スフェルザは言うのであった。

「銅貨なら十八枚になります。
 失礼でなければ、どちらからお越しになられたのか、お聞きしても宜しいですか。
 随分と遠くからお越しのようですけれど……」

「バニブルです。
 先日、使節団に同行して訪れたのですが、しばらく残ることとなりまして。
 此方には、知人から美味しいとの評判を聞いて訪れました。
 時に……先日、灰色の髪をした若い売り子をふと見かけたのですが、今日はおりませんな」

店内を見渡しつつ、スフェルザが本題に入る。
此処から、出来るだけミリアの話題を引き伸ばさねばならない。

466収集司書スフェルザ ◆LAXUZPoHKY:2014/10/31(金) 18:35:05 ID:SwHMMsyY0
来客から売り子について聞かれると、フロレアはミリアの顔を思い浮かべた。
アルバイトを雇う事はあっても、灰色の髪をしているのは彼女一人しかいない。

「ミリアちゃんのことかしら?」

「貴家の御令嬢ですかな」

「いえ、ミリアちゃんはお爺様の訃報を聞いて、エヴァンジェルまで訪れた子です。
 うちの娘と親しくなった縁で店を手伝ってくれて、今では家族同然に思っております。
 病の娘に付き添ってくれていますので、今は此処にいませんけれど……」

娘の診療を行っているのがバニブルの医療者だけに、フロレアも来訪者への親しみを持って答える。
魔術具は反応せず、スフェルザも言葉に虚偽がないと判断した。
ただし、ミリアの行方はすでにラクサズから伝えられている情報に過ぎない。
知りたいのは、ミリアがどのような魔術師なのかや、特殊な力の有無、誰が魅了の影響下に置かれているかなどだ。
出合って間もないミリアを家族同然に思っている点からして、フロレアも魅了されている可能性はあった。
静かに頷きつつ、スフェルザはどう会話を誘導したものかと思案する。

「そうでしたか。
 ちらと見かけただけの見立てではあるが、ミリア嬢からは強い魔力を感じました。
 魔術師として、かなりの才能があるように見受けられますが」

何も知らぬ風を装って、ミリアが強い魔力を持っていると述べられた。
実際はフロレアが魔術に疎そうなのを幸いと、適当を述べているだけだ。
そもそも魔術師であるスフェルザとて、魔術を使わずに魔力を視認したり、多寡を計ることは出来ない。

「そうなのですか?
 魔術が使えるとは言ってましたけれど、私は魔術のことはよく分かりませんので……。
 あっ、トリスブレッドもハムサンドも焼き立てですので、お早めに召し上がると美味しいですよ」

フロレアが袋に詰めたパンを差し出す。

「では、そうするとしよう。
 件のミリア嬢だが、三主教の司祭を目指されるのかな?
 何日か前にも、大聖堂の近くで三主教の方と親しげに話しているのをお見かけした。
 高い魔力を生かすのなら、三主教団の司祭も悪い選択ではありますまいが」

包みを受け取りながら、スフェルザが述べる。
三主教の関係者で、ミリアに魅了された者がいないかを探る意図で。
実際にレシュティツキ兄弟との会話を見られていたわけではない。

「どうなのでしょう。私は三主教徒の方に知り合いがいると聞いたくらいですから……。
 以前、大聖堂にパンを配達してもらったので、その時にどなたかと知り合ったのかしら?」

魔術具はフロレアの言葉に反応しない。
スフェルザはさらなる雑談を続けようとしたが、後ろに別の客が並び始めたのを見て断念した。
パンの包みを受け取ると、彼は一礼して店を出て行く。
魔力感知の術を用いて窓から店内を眺めてみたが、魔力を発するものは何も視認できない。
これ以上得られるものは無いと判断して、スフェルザは速やかにロルサンジュから立ち去った。

続いて、調査に励む男は何人かの住民に聞き込みを行い、旧市街でボルツ・スティルヴァイの名を知る。
分かったのは姓名と性別、年齢、職業、種族、容貌、人柄、経営していた店舗、死亡時期など。
エヴァンジェルでスティルヴァイの姓は珍しく、彼がミリアの祖父との判断も容易だった。

他に情報が得られそうな場所として、スフェルザは聖エヴァンジェル病院に思い至る。
リンセル・ステンシィが入院していた場所なら、ミリア・スティルヴァイも面会に来た可能性が高い。
ただし、普通に見せてくれと頼んだところで、面会記録は得られないだろう。
当節は然るべき手続きを経なければ、個人情報など得られるものではないのだ。
主治医であるコーデファーに資料を請求させねばならない。
自動書記の魔術具で一次報告をラクサズに送ると、ようやくスフェルザは遅い昼食としてパンを口に運んだ。

467ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/11/23(日) 22:59:43 ID:f42jrfyY0
午後五時。
夕食の時間まで一時間の猶予があるので、ミリアはリンセルを見舞うつもりで病院に赴いた。
まずはロビーの受付に向かうと、面会申請を行う為に人間族の若い看護婦に話しかける。

「リンセル・ステンシィのお見舞いに来たんですけど、病室は何処ですか?」

「ご家族の方ですか?」

「いえ、友人です」

「ステンシィさんは特異病棟に移されたので、面会制限が掛けられています。
 特異病棟への出入棟の際には、主治医の許可と随伴、手荷物検査と身体検査、精神鑑定が必要になりますが」

「身体検査に精神鑑定までするんですか……?
 なんか、凄く警備が厳重な感じですね。
 そんな所に移されるほど、リンシィの具合って悪かったんですか」

「主治医の判断ですので、看護婦の私には詳しい病状までは分かりません。
 特異病棟は、一般の病棟では対応が難しい症例を持つ患者用の施設です。
 主に超自然現象や魔術が関わる患者や、自らの異能力を制御できない方に入棟して頂いています。
 超常の力の中には、他者の精神に負担を与えたり、変質させる種類のものもありますから。
 そういったものからの影響を防ぐ為、患者を隔離するわけです。
 外部からの影響を遮断して、初めて症例の原因を特定できるケースというのもありますので」

看護婦の説明を聞いて、ミリアの表情に憂鬱な暗い影が差した。
また一歩、リンセルが自分から遠ざかった気がして。

「主治医のコーデファー・コトン・フラスネルと会えますか。
 特異病棟に行くには、彼女の許可が必要なんですよね」

看護婦が内線電話を掛けて連絡を取ったが、コーデファーは魔術師の準備が整うまでミリアに会うつもりはない。
だから、適当な口実が設けられて、リンセルへの面会許可も降りなかった。

「……申し訳ありませんが、病室の準備を整えるのに忙しく、会うのは難しいそうです。
 今日中には終わらないそうなので、明日またお出で下さい」

いかに友人の顔を見たくても、こう言われてしまっては引き下がるしか無い。
ミリアは虚しく病院を後にして、気の晴れない顔のまま砂利道を引き返した。
リンセルの両親に余計な心配を掛けたくはないが、此処で嘘をつくと転院等の判断を誤らせてしまうかもしれない。
タブレット端末を出すと、ミリアは務めて明るい声を作って通話を始めた。

「あ、フロレアさん。
 リンシィだけど特異病棟ってとこに移される事になったんだって。
 なんだか準備が大変みたいで、今日は顔も見れなかったんだけどね。
 明日には落ち着くような口ぶりだったけど、どうなるやらってとこかな――――」

468ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/11/23(日) 23:01:16 ID:f42jrfyY0
夕映えが村を照らす午後六時。
ミリアはサンプティア家の夕食に招かれていた。
場所は駐在所の二階で、素朴な造りのダイニングルームである。
部屋の中央には低い木製テーブルが置かれていて、弾力の無いクッションが椅子代わりに敷かれていた。

「さ、座布団に掛けてくれ。
 こっちがかみさんのティトリスで、そっちは娘のロードレッタと義理の母さんのモルダードだ。
 息子も二人いるんだが、だいぶ前に家を出ちまってな……。
 男が俺だけになっちまってからは、手狭じゃなくなったのは良いものの肩身が狭くて叶わん」

ウィムジーは薄いクッションへ着席するよう促しつつ、家族の紹介を始めた。
ティトリスは五十過ぎの女、金髪を後ろで一つに束ねて、ふくよかな顔と体つきをしている。
娘のロードレッタは三十ほどの年齢で体型は母親似、髪は茶色のボブヘアで、化粧に若干の濃さがあった。
モルダードは白髪を紫に染めていて、小柄だがどっしりとした印象の体格を持つ。
彼女らのファッションはシャツブラウス、ワンピースにショールなどで、色合いは若干だが派手なものだ。
ミリアが特異能力を持つらしい事は、事故的な体液摂取を防ぐ為にも全員へ伝えられている。

「この度は夕食の席にお招き頂き、真にありがとうございます。
 私はミリ…………ミーリィス・ステイルメイトです」

ミリアは畏まった様子で挨拶すると、隣席のロードレッタを真似て膝を折り畳み、薄いクッションの上に正座した。
真っ白なテーブルクロスの上には村の名物が並ぶ。
山菜料理やオールド・アイベックスのロースト、野菜スープ、パン、チーズ、炭酸林檎ジュースなどだ。
オールド・アイベックスは古くから狩猟されてきたヤギ属の偶蹄類で、柔らかな肉は非常に美味である。

「よろしく、ミーリィスさん。
 あー……ちょっと触っていい? 肌、若っ。すっべすべじゃん。良い化粧水とか使ってる?」

「えっ、いや……特に何も使ってませんけど」

ロードレッタが無遠慮に手を伸ばして、隣に座るミリアの頬を撫でた。
転勤の多い父親の職業が影響してか、彼女は人見知りをしない。

「ロドリー、お客様に失礼ですよ。
 お前は慎みというものを何処かに置き忘れたのですか」

母親のティトリスが顔色を変えて、娘の馴れ馴れしさと無警戒を叱責する。

「はーい、しっつれいしましたー」

反省の色を見せずに娘が応えた。
さりげなく取り出したハンカチで指先を拭いているので、汗でも採取しようとしたのだろうか。
ウィムジーは手を引っ込めたロードレッタを睨みつけつつ、余計な事はするなよと視線のみで念押しした。
万が一にも家族が魅了の魔力に当てられるような事となれば、事態が混乱する事この上ない。
魔術対策課の鑑識に回すべき体液も、食器に付着した分を採取すれば事足りるのだから。

そもそも、ウィムジーは娘も義母もミリアに対面させるつもりはなかった。
しかし、我の強い娘は捜査への協力は警備官の家族の義務だとまで言い張り、義母も一人離れる事を拒んだ。
かくして、捜査に協力的な家族たちを加えて、夕食会は五人で行われたのだった。

469ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/11/23(日) 23:02:39 ID:f42jrfyY0
妻は家事と義母の世話に忙く、耳が遠い義母もあまり会話に加わらないので、客人と話すのは娘が中心となった。
家長のウィムジーは専ら聞き役として、ミリアの様子を窺いながら相槌を打つのみである。
表面上は夕食会も和やかに進み、やがてメインディッシュも各々の腹の中に姿を消した。
最後に振る舞われるのは、クリームと苺が添えられ、硝子の器に盛られた緑のアイスクリームだ。
ロードレッタは金属のスプーンでアイスの塊を掬いながら、ミリアに視線を向ける。

「そいえばさぁ。
 ミーリィスさんは、この村でお財布盗まれちゃったんだよね。
 今はどこに泊まってるの? 知り合いの家? それとも旅館?
 旅館は、たまーにぼったくり価格のとこがあるから気をつけなよ〜」

「アタシが泊まってる旅館は45R$で朝食付きですから、その辺はだいじょうぶです。
 ところで、この緑のアイスクリーム……不思議な味ですね。
 ミントでもピスチタチオでも無さそうですけど」

話題を変えるべく、ミリアは見慣れない氷菓について問い掛けた。

「これ? これは抹茶のアイスクリーム。
 東大陸で取れる茶葉の粉をフレーバーにしてるの。
 最近流行ってるんだけど、ミーリィスさん知らない?」

「初めて聞きました」

「そっかー、バイタルの辺りじゃ、ぜんぜん流行ってないんだ。
 え、あれ? もしかして口に合わなかった?」

「いえ、今まで食べたアイスの中で一番美味しいです」

「でっしょー? そうよねー!
 私ん家なんか、毎日2リットルサイズを一箱消費してんのよ!
 あ、お代わりいる?」

「いえ、もうお腹一杯です」

ロードレッタが笑顔で勧めてくるが、ミリアは腹を摩りつつ断りを述べた。
サンプティア家の女たちの体型を見ると、太りやすい体質ではないミリアとて追加オーダーを躊躇う。

「そういえば、ミーリィスさん、髪が少し傷んでなぁい?
 せっかく髪が長いのに、枝毛だらけなんてダメよ。
 私、美容師やってるから、少し毛先を整えてあげよっかー?」

「おう、そうしとけ。
 この村で床屋と言やぁ二人しかおらんから、こいつの腕もそれなりになってんだろ。
 別に金なんか取ったりせんから、遠慮せずやってもらえ」

ウィムジーは娘の意図が毛髪の入手だろうと気付いて、口添えした。
体液以外にも魔力が宿っているかは不明だが、検体が多いに越したことは無い。

「それじゃ、お願いします。ロードレッタさん」

ミリアは椅子に座らされ、首にカット用のクロスを巻かれた。
ロードレッタが鮮やかに鋏を捌くと、幾本かの灰色の筋が床へ敷かれた新聞紙に落ちる。

「あ、もし良かったら縦ロールとかやってみる?」

「……出来れば、そのままにしといてください」

470ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/11/23(日) 23:03:56 ID:f42jrfyY0
午後七時、村は暮色に沈む。
薄暮れの中を眺め渡せば、どの窓からも暖かな灯りが漏れていた。
時計を見たミリアも暇を告げて立ち上がり、ダイニングを出ようとする。
しかし、ドアノブに手を掛けた所で不意に足を止めると、大きく息を吸い込んだ。

「……やっぱり言っとこう!」

不可解な言葉と共に振り向くミリア。
サンプティア一家は客人に視線を集めると、次の言葉を待った。

「あのっ、アタシの名前なんですけど。
 本当はミーリィス・ステイルメイトじゃなくて、ミリア・スティルヴァイって言います」

言い終えたミリアは、大きく息を吐いて周りの反応を窺う。
本名を明かしたのは、何処か別の場所で知られるよりは、自分から口にした方が良いとの判断だ。
小さな村に長く滞在していれば、いずれは偽名を使っていた事も知られる。
そもそも、セプテットでも冒険者の店でもパスポートを出していたので、今さら名前を使い分ける意義も薄い。

「ミーリィスさんじゃなくて、ミリアさん?
 へぇ、偽名なんか使ってたの? なんで? どうして?」

ロードレッタは興味深げな様子を装い、ミリアに向かって問い掛ける。

「それは……家に連絡されるんじゃないかと思って……思わず。
 あっ、家って言っても出身のイストリアじゃなくて、何日か前までお世話になってた所ですけど……。
 実はそこの子が病気で入院する事になって、容態が心配でアタシも村に残ったんです。
 なのに、財布を盗まれて自分まで困ってます、なんて言い難くて……」

消え入りそうな語尾で語るミリアを見て、ウィムジーは首を振った。

「あー、いかん、そういった隠し事は余計な心配を掛けるだけだ。
 とりわけ、若くて金の無い娘が目の届かん所にいるってのは、親にとって心配なもんだからな。
 早く言ってくれりゃいいのに、より状況が悪くなってから泣きを入れられたら叶わん。
 なあロドリー、そうだろう?
 で……ミリアさんの方は知人に貸して貰ったって金や、泊まってる場所の方に嘘はないのか?」

「泊まってる場所は、セプテットってペンションです。
 宿泊費は誰かから貸して貰ったんじゃなくて、魔術具を売って用意しました。
 イストリアから持って来た物だけど、使ってないから手放しても問題なかったですし……」

「セプテット……セザールのとこか。
 とりあえず財布の紛失届けだけは作り直さんと、公文書の偽造になっちまうな」

「……済みません」

ミリアは申し訳無さそうに頭を下げる。
その様子からは魔術師としての能力や狡猾さは感じられず、大それたことを仕出かすようにも見えない。
ウィムジーも、この少女が本当に危険な魔力を隠し持った魔術師なのかと疑問を抱いた。
確かに魔術具の所持や、病院で見た映像など、気に掛かる点は幾つもあるのだが……。

「魔術具を持ってるってことは、ミリアさんは魔術師だよね?
 ね、ね、どんな魔術を使えるの? 教えて教えてっ!」

ウィムジーがどう聞こうか迷ってる間に、捜査協力の意欲が高い彼の娘は、さっさと質問をぶつけてしまった。

「アタシが使えるのは、生物の能力を拡張する魔術です。
 一時的に筋力を増加したり、暗視能力や水中呼吸を身につけたりとか……まあ、幾つかですけど」

ミリアは就職活動の際に述べた魔術を幾つか上げる。
これくらいの範囲なら明かした所で問題ないと思って。

471ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/11/23(日) 23:07:17 ID:f42jrfyY0
しかし、ロードレッタは話題を際どい方向に誘導してゆく。

「つまり、他の生き物みたいな能力も身につけられる魔術ってわけ?
 蟻の蟻酸とか、電気鰻の電気とか、虫のフェロモンとかも?
 うーん、新しい歯が生える鮫とか、プラナリアの分裂能力とかも便利そーねー」

「あ、いえ、魔術って言ってもアタシが知ってるのはほんの少しで……。
 蟻酸とか電気鰻の能力を使える呪文なんて、あるのかどうかも知らないです」

「じゃあじゃあ、フェロモンがドバーって出るような術は?
 金持ちの男を引っ掛けて、社交界デビューなんて出来ないの?」

「それは……」

言い掛けようとしたミリアが、言葉を切って沈黙する。
彼女が知っている範囲の強化魔術では、他者の心を虜とするのは不可能だ。
ただし、魔術ならざる力を用いれば可能ではあった。

「おい、俺はお前をそんな娘に育てた覚えは無いぞ、ロドリー。
 他人様の心を操ろうなんて術は、国際条約で禁止されてるのも知らんのか。
 人を軽んじるような術で、分別なく男漁りするくらいなら、まだ老嬢でいてくれた方がましってもんだ。
 第一だな、軟弱な馬鹿野郎に自分が無理やり惚れさせられたらどうなんだ?」

「そんなの嫌に決まってるでしょ〜。
 あっ、白馬に乗った王子様ならいいかも」

「随分とまぁ、身勝手なもんだな。
 心を覗こうだの、いいように操ろうだなんて術、俺はあるだけでも気に入らん。
 諂う奴を大量に生産するなんざ、カルト紛いじゃねえか」

ウィムジーの説教はミリアの痛い所を突く。
それはロードレッタに向けられた態を取りつつ、別の人物に向けられているものだ。

「私、魔術なんて使えませんしぃ。言ってみただけですぅ。
 あ、でもでもミリアさんなら出来たりするの?」

憎まれ口を装いつつ、ミリアに質問が向けられた。
この状況ではミリアも応か否か、答えざるを得ない。

「え……その……使えません」

顔を紅潮させ、言葉に詰まるミリアを見て、ウィムジーは内実を察した。
すぐバレるような偽名や経歴を使った事と言い、詐術に関しては年齢相応か、それ以下だ。
一喜一憂が顔に出るなど、詐欺師の真似事をするには拙い。
小心で、かつ場当たり的に行動しているようでもあり、犯罪者としては小物であろう。
ただ、それでミリアの危険度が低いとは断じられない。
本当に他者を操る力を持っていて、それを使ったと見られる以上は。
武器や権威を手にしたことで、凡庸な人間が残虐な行為に手を染めていくなど犯罪史では珍しくもない。
多少なりとも後ろめたさを感じているようなのが、救いではあるが……。

「あの、もう遅いのでお暇します……」

すっかり萎縮したミリアが暗い表情で挨拶を述べ、サンプティア家を後にしてゆく。
一食分と引き換えに、様々な情報を漏らしたことも知らずに。

472医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2014/11/26(水) 06:01:08 ID:ztipe5pE0
ラクサズが魔術師を派遣すると通達してから三日後の朝、予定通り三人の魔術師がドイナカ村に来訪した。
黒い瞳に意志の強そうな光を宿す男、アルサラム・ファラー・アゼルファージ。
端正な顔を持つが軽薄な印象の男、ヴェクス・ロタール・フィユーディティ。
長い黒髪を腰まで伸ばした女性、エクレラ・サーナ・ピアスティラ。
三人目とも年の頃が二十代前半のバニブル人であり、外交司書ラクサズの門下たる付与魔術師たちだ。

彼らは転送施設の“門”から現れた。
この村の転送施設は駅舎に似た外観の建物で、内部には三メートル程の高さを持つ門形の空間転移装置が置かれている。

「魔術具が二十以上!
 あんたら、どっかで戦争でもおっ始めるつもりか?」

転送施設利用者の審査を行う管理官は、驚きを隠せなかった。
書類で持ち込みを申告された魔術具の数は多く、用途も攻撃や探索と多岐に渡っている。
ちょっとしたマフィア程度なら、壊滅に追い込める程度の質と量だ。

「ああ、そんな所だ。
 世の中に害を為す罪人を社会から駆除する為に来たからな」

「違う違う、駆除じゃなくて捕縛だ、ファラー。
 まさか、相手が若い女性だってこと、忘れてないだろうな?」

「アルサラムと呼んでくれ、ヴェクス。
 親しくもない奴から、呪名で呼ばれたくない。
 もう三十回くらい言った筈だが、改めるつもりが無いと考えていいのか。
 それに相手が若い女だからといって、犯した罪が減じることも無い」

アルサラムとヴェクス、二人の男が軽い口論を始める。
いや、生真面目で沸点の低いアルサラムが、軽佻浮薄なヴェクスを一方的に嫌ってると言うべきか。
此処で些細な言い争いの原因となった名前のことについても、簡単に説明しておこう。
バニブル人の人名は礼名・呪名・家名の三つに分けられる。
礼名は個人を識別する名称であり、家名は己の出自や家系を示すものだ。
呪名は霊的な名前のことだが、魔術師でない層にも風習が広まった現代では、単なる愛称としての意味合いが強い。
そして、公式の場では家名と役職を組み合わせて呼ぶのが一般的である。

「二人とも、此処に来た役割だけは忘れないで下さいね」

残る一人の女、エクレラが穏やかに宥める。
彼女は魔術師としての能力は三者の中で一番低いが、従妹という血縁ゆえの信頼をラクサズから得ている。
主な役割は監察であり、アルサラムとヴェクスの調整役と言っても良い。

「もちろんだとも、サーナ。
 手早く終わらせて、美容に良いって噂の温泉に入ろう。
 この村には混浴もあるそうだから、是非とも御一緒したいな」

「またまた御冗談を。
 まずは村の警備官やフラスネル司書と打ち合わせましょう、ヴェクス」

呪名で呼ばれたエクレラは笑顔を作りつつ、ヴェクスと礼名で呼び返す。
お前も礼名で呼びやがれ、と言外の意味を込めてだ。
スタスタと転送施設を出てゆく彼女をヴェクスが追いかけ、アルサラムも続く。
三者が向かったのは病院で、ほどなく連絡を受けたウィムジーも応接室で合流した。
小さな駐在所は大通りに面して人目にもつくので、作戦会議には向かないとの判断からだ。
面倒ではあるが、目立つ事を好まない魔術師たちの協力を得るには、その辺りも配慮しなければならない。

「来たのはエクレラとヴェクス?
 後の一人は知らないけど、ラクサズが送ってきたってことは、それなりの魔術師なのでしょうね。
 それじゃ、さっそく警備官とミリア捕獲作戦を始めて」

長椅子に座るコーデファーは、いつもと変わらぬ横柄な態度でバニブルの僚友を迎えた。

473医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2014/12/12(金) 19:38:33 ID:aCBEk2Hg0
最初にウィムジーから報告が為される。
ミリアの唾液は地区警察に送られ、鑑識官が魔術解析の術を掛けたものの正体は掴めなかったと。
しかし、魔力を感じる事だけは出来たらしい。

「魔力隠蔽の術を掛けて、付与魔力の正体を隠匿したのでしょうか?」

報告を聞くと、エクレラは眉を顰めて呟いた。
魔術解析の術は毒物やポーションのような液体であろうと、付与された魔力の性質を読み解く。
それが阻まれたのなら、何らかの隠蔽措置を施したと考えるのは当然だ。

「いや、それでは条理に合わない。
 魔力隠蔽の術を掛けたのなら、それを上回る魔力で鑑定しない限り、魔力すら感知できないからね。
 おそらく、我々の知る魔術とは別系統の力が働いているから、正体を掴めないのさ。
 東大陸で発展した道術や方術、あるいは何らかの異能力で、魔力解析を阻害したんだろう。
 後はイヴンスディール司書の言ったアイン・ソフ・オウル……考えられるのはそんな所だね」

ヴェクスは、すぐさま妥当と思える可能性を幾つか述べた。
彼は軽佻に見える人物ではあるが、別に頭の回転が鈍い訳でもない。

「アイン・ソフ・オウルとは何だ? 新手の犯罪組織か何かか?」

ウィムジーは聞き慣れない単語を復唱しつつ、魔術師同士の会話に割って入る。
村の治安に関わる事態とあっては、警備官としても仕事を丸投げは出来ない。

「力ある存在群……と説明するのが良いでしょうか。
 先史時代に存在したと伝えられる氷鵬王、古代マディラ帝国を作った獅子皇帝
 あるいはバニブル建国の魔術王フラター・エメト。
 これらの歴史に名を残した英雄なども、アイン・ソフ・オウルであると言われております」

エクレラがラクサズからの受け売りを簡素に説明する。
ウィムジーはミリア捕縛の法的根拠を用意する人物なので、無碍にも出来ない。
とは言え、今一つ理解が薄かったようで、ウィムジーの顔は曇ったままだ。

「要は、神や悪魔に成り掛けてるか、すでに成った連中ということだ。
 奴らは独自に理や法則を作り出して、世界へ敷衍させられるそうだからな。
 ……理解が及ばないなら、人の領域を超えた輩とでも思っておくが良い。
 この村にいるミリアとやらが、アイン・ソフ・オウルかまでは分からないが」

アルサラムが吐き捨てるように追補したが、ウィムジーは首を振る。

「あの娘が神や悪魔とは、ちょっと思えんなあ……」

「しかし、魅了の力を使うのだから小悪魔ではありそうだ」

ヴェクスが口の端に笑みを浮かべると、コーデファーが冷たい視線で刺した。

「余計なお喋りは良いから、さっさとあの女の対策を立てて」

脱線しかけた作戦会議が仕切り直される。
口火を切るのはアルサラムだ。

「そうだな……まずは用意した魔術具の確認をするとしよう。
 近接戦闘用には魔槌と新星の指輪、防護の指輪、硬壁の指輪。
 相手の動きに付いていけなくては話しにならないから、身体能力強化の術を封じた腕輪もある。
 使い魔は戦豹と霧獣と軍蜂、虚霊炉。
 後は拘束用の鋼縛索に、透明化の首飾り、自白用の真実の雫、治癒石、遠見の鏡、透視の瞳、幻霧筒。
 魅了への対策としては、護心の首飾りと解毒の霊薬、消呪の杖……といった所だな」

474医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2014/12/12(金) 19:38:53 ID:aCBEk2Hg0
口頭で魔術具の一覧が示された。
これらはラクサズの一門たる付与魔術師《エンチャンター》達が製作したもので、その全てが美麗な意匠の逸品である。

「僕ら自身も魔術を使える訳だし、これだけあれば足りないという事はないだろう。
 小悪魔ちゃんの捕獲は人目に付かない場所が良いのだが、適切な場所はあるかな、警備官殿」

ヴェクスはミリアを捕獲するのに最適なポイントを聞く。

「んゥむ……そうだな。
 観光コースから少し外れれば、近くの森には殆ど人がおらん。
 誰かを巻き込むことも無かろう」

「森より、此処の特異病棟は?
 リンセル・ステンシィの見舞いに来る筈だから、誘い込む手間も省けるわ」

ウィムジーは決行の場所に近隣の森を挙げ、コーデファーは特異病棟を押した。
特異病棟の建材には、異能全般に反作用として働く魔封石が用いられている。
建物の外側もコンクリート塀で囲まれて、出入り口となるのも別棟の三階から通じる渡り廊下だけ。
魔術や異能が関わる患者の療養施設だけあって、物理的にも霊的にも堅牢だ。
仮に戦闘となっても、外部への影響は殆ど無いだろう。

「ですが、消呪区域の内部では此方の魔力も抑えられてしまいますね。
 互いに魔術が無ければ、有利なのは数の論理。
 近隣の警備官を召集して対処すべきでは?」

テーブルに置かれた特異病棟の資料に目を通しつつ、エクレラが問いかける。

「消呪区域といっても、一定量の魔力を減らすだけよ。
 異能の強度を十段階に分けた場合、体感では完全に魔力の発動を封じられるのは下から三段階くらいまで。
 もし、あの女の魔力が高ければ、数合わせなんか却って被害を増やすだけかも知れないわね」

コーデファーが答えた。
彼女はリンセルの主治医として特異病棟に足を運び、自分の身でも魔術の減衰効果を試している。

「な僕とファラーなら魔術が使えなくなることも無さそうだし、特異病棟の方が良さそうだね。
 あまりに不安があるようなら森へ陣を構築しよう。
 どちらにせよ五時間あれば充分。夕方には動ける。
 コトン、魅了使いの魔術師への連絡と誘導、それと病院側への折衝も頼めるね。
 警察への連絡も必要だろうから、そちらは警備官殿に。
 段取りを詰めるのは、建物の構造を見てからと言う事でどうかな」

「おう、分かった。
 ただ、あんた方も地区警察の臨時職員って事は忘れんでくれよ。
 あくまでも、目的はあの娘を拘留して事情を聞く事だ。
 魔術師相手には魔術師の手を借りなきゃならんとしても、あまり手荒に事を進めてもらっちゃ困る」

ウィムジーは魔術師たちに注意喚起を促しつつ、ヴェクスの要請に応諾した。
アルサラムとエクレラも異論は無いと頷く。
ミドルネームを呼ばれたコーデファーは嫌な顔をするものの、やはり了承した。

475ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/12/21(日) 23:03:47 ID:cxFCtnJw0
三人の付与魔術師たちがドイナカ村を訪れたのと同日、アレクサンデル・レシェティツキも村を訪れる。
彼はミリアが聖都を離れた経緯を知ると、すぐに休暇手続きを取って後を追った。
ミリアの信奉者たる事を強いられた身では、愛の対象が目の届かない場所にいる事は何よりも耐え難い。
バスを乗り継ぎ、タクシーを利用して、正午近くには彼も遠地の僻村へと辿り着いていた。
ダークブラウンのスーツにベージュのコートを纏い、休暇中の聖堂騎士は人波を縫って歩く。
程無くして、アレクサンデルは村内の大通りでミリアと再会した。

「ミリア、探したぞ」

声を掛けられたミリアは足を止め、予期せぬ人物を眺める。
見慣れた聖堂騎士の格好ではないので、自分を見つめる顔も直ぐには分からなかったくらいだ。

「アレク……どうして此処に?
 まさか、アタシに合いたくなったから追って来た、とか?」

この聖堂騎士が聖都から五時間も離れた村に来た理由について、他に思い当たる節は無い。
距離が離れ、時が経っても、魅了の魔力は消えてなど居ないのだから。

「そのまさかだ。
 急に出立するなど、何か拙い事でも起こったのかと思ったよ」

そう言って、アレクサンデルはミリアに駆け寄ると軽く抱擁した。
こうして誰かに抱き締められるのは何時以来だったろうかと、暫し、ミリアは父親の温もりを思い出す。
見知らぬ場所で過ごす中で感じていた孤独感が、少なからず癒されるのは否めない。
体が離れる時は、若干の名残惜しさを感じた程だ。

「ところでアレク、聖堂騎士って警察みたいなものだよね?
 エヴァジェルから離れても大丈夫なの?」

「ああ、引継ぎをして休暇を取ったから暫くは大丈夫」

「街に変わりは無い?」

「まだ少なからず動揺は残っているが、三主教の中心部だ。
 これといって大きな問題は無い。
 ミリアの方は?」

「ま、なんとかやれてたよ。
 事前の予定通りには行かなかった部分も多いけどね」

476ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/12/21(日) 23:04:37 ID:cxFCtnJw0
セプテットに戻る道すがら、ミリアは村で起きた一連の出来事を話す。
始めは鷹揚な態度で聞いていたアレクサンデルだが、会話が進むたびに顔が険しくなってゆく。

「……やはり、来て良かった。
 擦り師に財布を盗まれ、魔術具は売却、無意味な偽名、賞金稼ぎの真似、就職活動も不調。
 挙句の果てには魔術で空腹を紛らわせる。
 此処まで問題だらけとは思わなかった。
 ステンシィ家や俺を頼る選択肢は無かったのか」

「それは、ちょっと決まりが悪いって言うか……」

「体裁など考えずに頼ってくれ。
 もし、もっと酷い状況になっていたらと思うとゾッとする。
 特に如何わしい仕事まで検討していたというのは勘弁して欲しい所だ」

「一緒に散歩するだけでお金が貰える仕事ってのは、魅力的だったんだけどな」

アレクサンデルは呆れた顔だ。
いや、此処に来たのが他の誰かであっても呆れ顔をされた事だろう。

「散歩するだけで高額の報酬を払う、なんて奴の思惑を考えてもみろ。
 体が目当てに決まっているだろう」

「ま、まあ、そうかも知れないけど……。
 結局、止めたんだから良いじゃない」

「良い訳があるか。
 全く……もう少し安心させて欲しいものだな。
 とりあえず資金面に関しては俺が面倒見るが、これは断らせないぞ」

「はい……お世話になります」

「他に気になる点と言えば、フラスネル司書が警備官に通報したという魔術師か。
 念のために俺もミリアと同じ宿に泊まるとしよう」

アレクサンデルはセプテットに着くと、一室だけ残っている空室を宿に取った。
その後は昼食の時間となり、二人して近くの郷土料理店に入ってゆく。
この間、バニブルの魔術師たちも手を拱いている訳ではなく、しっかりと魔術の眼で監視していた。

477医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2014/12/22(月) 00:07:28 ID:8AM9gakU0
ヴェクスとアルサラムが特異病棟に向かい、応接室に一人残ったエクレラがミリアの動向を見張っている。
監視の手段は遠見の水晶球。
この魔術具は魔力の視覚を飛ばして、水晶球に映像を映す。
遠見の水晶球は個々の性能が大きく違うものなのだが、これは影響範囲が狭い代わりに持続時間の長い物だ。
だから、エクレラはもう数時間にも渡ってミリアの動きを継続して監視している。
朝、セプテットから出て就職活動に向かい、現在、アレクサンデルとの昼食を済ませた所まで。

「エクレラさん、口に合うかは分からんが昼飯を持ってきたぞ。
 ん……この男は誰だ?」

午前の業務を終えて病院の応接室に戻ってきた警備官が、エクレラの凝視する水晶を横から覗き込む。
彼の手には菜食中心の料理が乗ったトレー。
魔術を使った監視で手を離せないエクレラに気を利かせて、病院の食堂から持って来た物だ。

「確証は有りませんが、あの魔術師が魅了した相手かも知れません。
 単なる相席にしては親しげにも見えますもの」

エクレラは魔力の流れが途切れないように気を付けながら返答する。
会話に集中して魔術具の映像が途切れてしまっては、笑い話にもならない。

「やや年がいっとらんか?
 三十過ぎ……下手すりゃ親子ほど離れとるが」

ウィムジーは渋い顔で言う。
三十を越えた男が未成年の少女に魅了されるというのは、彼にとっては眉を顰めるようなシチュエーションだ。

「取り巻きに三十過ぎの男がいても不思議ではないでしょう。
 無制限に魔力を使える訳でもなければ、術を掛ける相手だって選ぶはずですから。
 当然ですが、まずは地位や資産、戦闘技能を持ってる者を優先するのではありませんか」

「あぁ、そういや魔術で魅了しとる可能性があるんだったか。
 しかし、魅了ってことは、そのだな、そういう関係にもなっとるのか?」

「さあ……そこまでは。
 ただ、そういう関係でも不思議はありません。
 対象の魅了に体液を使う性質上、最初に事に及んで魅了したとも考えられますし」

主語を暈してはいたが、互いに内容は理解している。
暫くは微妙な雰囲気の中、エクレラが昼食を摂る音のみが応接室に響いた。

「しかし、どうも腑に落ちん。
 一昨日までは、あの娘も金に困ってとる様子だった。
 誰かを魅了出来るなら、俺に紛失届けを出すより、まず金を持ってそうな奴を魅了せんか?」

ウィムジーの疑問は尤もだ。
自らの正体を隠したいであろう魅了使いの魔術師が、律儀に駐在所へ財布の紛失届けを出すだろうか。

「……魅了の術には、何か使用条件でもあるのかも知れませんね。
 それも、捕らえて尋問すれば分かる事です」

エクレラがトレーの食事を半分ほど片付けた所で、ヴェクスとアルサラムが戻って来た。
その後には背丈の小さな医療司書の姿も見える。
どうやら、ミリアを捕獲する為の準備が万端整えられたようだ。

「消呪区域に陣を構築するのは無理そうだが、魔術や魔術具を使えないという事もなさそうだ。
 後は獲物が網に掛かるのを待つのみ。
 コトン、魅了使いの魔術師に連絡を頼むよ」

ヴェクスが言うと、コーデファーは細い指で携帯端末を操り始めた。
昼食の時間を削られたせいか、不機嫌そうな様子を隠そうともしなかったが。

478ミリア ◆NHMho/TA8Q:2015/01/15(木) 21:12:03 ID:omEXX8fE0
特異病棟へ向かう渡り廊下には、対魔術処理を施した二重の金属扉がある。
物理的にも魔術的にも内外部を隔てる防壁であり、異常と正常を分かつ境界線だ。
この威圧感のある厚い扉の前には、真っ白な容貌を持つ小柄な女が立っていた。
頑健な鉱精《コルフィリド》の看護婦を伴い、防護の呪衣を纏って、完全防備といった風情のコーデファーが。
彼女は微かな緊張を含んだ面持ちを以って、ミリアに随行する男へ目を走らせていた。

「そっちは誰?」

「アタシの知り合いで、アレクサンデル・レシェティツキ。
 リンシィが怪我した時、最初に治療してくれたエヴァンジェルの聖堂騎士でね。
 わざわざ見舞いに来てくれたんだよ」

紹介を受けたアレクサンデルが、軽く顎を引いて一礼する。
しかし、彼が病院まで来た理由は、リンセルを見舞うためではない。
ミリアを一人で異能関係の施設へ赴かせるのは不安という保護心からだ。

「諸事に関して宜しくお願いする、フラスネル医療司書」

「エヴァンジェルの聖堂騎士が、こんな遠くの村まで……ご苦労なこと。
 扉の先は検査室になっているから、まずはそこで一人ずつ検査を受けなさい。
 身体検査と精神鑑定は義務だから、誰であっても受けてもらうわ。
 最初はミリアで、そっちの男は控え室で待機」

特異病棟へ向かう際に検査が必要なのは、ミリアの捕獲を試みる側にとって幸いだった。
それを口実として、ミリアを同行者から引き離す事が出来る。

「ああ、そういえば身体検査と精神鑑定をするとかって言ってたね。
 そこまでする必要あるの? アタシはリンシィの見舞いをするだけなんだけど」

「不細工な顔を引き攣らせないでちょうだい。
 納得できないなら、入棟中の患者を何人か、あなたたちに紹介してあげるわ。
 マーク・マーチ、狂時症、周囲の体感時間を狂わせる。
 アストレア・バークレー、心象漏洩症、周囲数メートルの空間に心象風景を投影する。
 イーベル・カルベロッティ、空想模倣症、空想したものに成りきる――」

「空想したものに成りきる病気とか、別に問題無さそうなんだけど」

「人が喋ってる途中に口を差し挟むなんて、育ちの悪さが透けて見えるわ、あなた。
 その男、イーベルは鳥に成りきったら物理法則を無視して飛ぶの。
 象に成りきってる時は、体重が変わらないのに踏んだ奴を圧死させるわ」

「不可思議な話だね」

「あらそう?
 知性体の精神が物理的な力として作用するなんて、魔術師なら常識ではなくって」

「そうかもしれないけど……」

「しかも、始末の悪いことに患者は空想動物園の演者を増やそうとするの。
 特異病棟に隔離するまでの感染者は、二週間で三十人ってところね。
 これを聞いても、あなたが検査を受けたくないないのなら、入棟をご遠慮頂くわ」

コーデファーは認証コンソールを操作する指を止め、脅すように背後を振り返った。

「分かった、分かったよ。
 此処まで来て、引き返したりしないって」

ミリアは諦めたように同意を述べる。
厄災の種と魅了の魔力を隠し持つ事は、他者に知られれば面倒な事態となりかねない。
可能ならば、入棟に当たっての身体検査を回避したかったのだが、そういう訳にもいかないようだ。
とは言え、ミリアは厄災の種の力なら他の魔術で性質を読まれる事はないだろう、と楽観的に考えてもいた。
何よりも、リンセルに会いたい気持ちの方が勝った。

「それよりさ、ここの病院ってセキュリティは大丈夫?
 監視カメラに指名手配の魔術師が映ってたって聞いたけど」

「警備なら万全よ」

コーデファーが心の中だけで冷たく笑む。

479ミリア ◆NHMho/TA8Q:2015/01/15(木) 21:15:20 ID:omEXX8fE0
ミリアを含む四名は一つ目の金属扉を潜り、特異病棟の玄関口に入ってゆく。
まずは小さな控え室があり、アレクサンデルは此処に留められる事となった。
コーデファーから「検査で全裸にもなるから一人ずつよ」と言われれば、彼とて付いて行く訳にも行かない。

訪問者の検査を行うのは検査室。様々な医療機器が並ぶ大きめの部屋だ。
室内には脳波測定器やレントゲン機器があれば、魔術具らしき古めかしいアーティファクトもあった。
その他、部外者では理解しかねるような器具も数多。
コーデファーはミリアに診療台へ寝るよう命じると、己は年代物の金属筒を手に取った。
彼女が最も信頼する医療器具――――覧界視である。
検査を口実として、この機会に出来るだけの情報を集めようという魂胆だ。
そして、覧界視は厄災の種が発する魔力を見逃さない。

「……呆れる程の魔力ね。
 あなた、人外の血でも混じってるの?」

魔術協会の門主たちにも比肩しかねない保有魔力を見れば、コーデファーの疑念も当然だろう。
たかだか十七年しか生きてない人間が持つには、あまりにも不自然な魔力量だ。

「アタシは純然とした人間だよ。
 魔力の高さは……たぶん、体内に内臓してる魔術具の賜物じゃないかな。
 生憎、取り外しは出来ない物だから見せられないけどね」

ミリアは予め用意していた答えを返す。
これで乗り切れると思っていたミリアだが、ひとしきり考え込んだコーデファーは別の質問をぶつけてくる。

「まさか、妊娠はしてないわよね?
 いえ、ここ数ヶ月以内に性行為はした? 相手はさっきの男?」

「な、なんで、そんな事まで答えなくちゃっ……!」

いきなり不躾な質問をぶつけらたミリアは、憮然として抗議する。
三主教徒たちに比べれば倫理観も緩いとは言え、こんな質問をされれば致し方ない。

「お腹に胎児でもいれば、病棟内で影響を受けるかもしれないからよ。
 生まれながらの異能力者になるようなケースがね
 なに? わたしが俗物どものように下世話な興味から聞いたとでも思ったの?
 そんなわけ無いでしょう」

コーデファーは小馬鹿にしたような表情で、ミリアに教え諭す。
相手の態度は不満だが、胎児に影響が出るとの言い分も一応は尤もらしいので、無言を貫くわけにもいかない。

「そういった事になるような経験は、まだ誰とも無いですけどぉ」

不承不承といった態ではあるが、ミリアも声音も低く答えた。

「じゃあ、体に埋めてる魔術具が原因なのかしら……」

声音に冷たい熱を宿らせて、思わせぶりな台詞を発する医療司書。
何かを掴まれたのか、或いは何も掴まれていないのか分からず、ミリアは不快な焦燥を感じた。

「……アタシに何か問題でも?」

「いいえ、何も」

探りを入れようにも、コーデファーの答えはそっけない。

「何も無いなら、検査は終わりってことでいいよね」

「まだに決まってるでしょう。
 子供のように怖がってないで、おとなしくしてなさい」

480ミリア ◆NHMho/TA8Q:2015/01/15(木) 21:17:15 ID:omEXX8fE0
「ここで出来る程度のことは、これで終わりよ」

「ようやくって感じ……」

ミリアは診療台から立ち上がって伸びをする。
結局、全ての検査が終わったのは一時間後のことだった。
出身や住所の記載も今さら誤魔化せないので、そのまま書いている。
この検査は本来は必要の無い項目を幾つも混ぜられていたのだが、ミリアには気付く由も無かった。

「次は聖堂騎士の検査だから、先に行くというのなら看護婦に案内させるわ」

「どうしよ、アレクの検査も終わるまで待ってようかな。
 終わるのが五時くらいになりそうだけど……」

アレクサンデルの存在は監視役のエクレラから他の三者にも伝わっている筈だが、邪魔は少ない方が良い。
合流はさせず、ミリアだけで特異病棟へ向かわせるべき。
そう考えて、コーデファーは不安を煽る事とした。

「ああ……それから一つ言っておくけど、リンセルの病状は芳しくないわ。
 今の時点で分かるのは、おそらく自力で生きてるわけじゃないってことだけね。
 あの娘をこの世に繋ぎ止めてる力も、いつ尽きるのか分からない有様だもの」

ある程度はあったミリアの警戒心も、この一言で一気に削がれてしまう。

「ちょっ、ちょっと待ってよ! リンシィが死ぬっていうの!?」

顔色を変えたミリアが詰め寄ると、コーデファーの呪衣に薄い魔力光が宿った。
触れたものを反発させる防護魔術が発動したのだ。
それを見て、ミリアも手酷く吹き飛ばされた記憶が蘇り、寸での所で蹈鞴を踏む。

「あるいは……そうね。
 あの娘は生と死の狭間にいるもの。
 常に死に続けては、何かの要因で生の側に引き戻されてるって感じに」

「死に続けてるって……ど、どういうこと!?」

「悪いだけど、まだ病状を調べてる段階よ」

「そうだ、さっきアタシの魔力が高いとか言ってたよね!
 何かの治療にアタシの魔力を使えないの!?」

「同じことを二度も言わせないで。馬鹿なの?
 病状を調べてる段階なんだから、治療法だって見つかってないに決まってるでしょう。
 で……あなたは聖堂騎士の検査が終わるまで待ってる?
 待ってる間にどうなるかまでは知らないけど」

「すぐ行くッ」

面会した所で病状が好転する訳でもないのだが、そんな事はミリアの頭に無い。
思い浮かべるのは、我が子を失ったフロレアやレナードの姿。
彼らがリンセルの葬儀に参列する事を考えてしまえば、平静ではいられなかった。

481ミリア ◆NHMho/TA8Q:2015/01/15(木) 21:20:49 ID:omEXX8fE0
看護婦が二つ目の金属扉を開けると、ミリアは早足で検査室から出てゆく。
目の前は全面がライトグリーンに塗装されたロビーで、通路は前方と左右の三つ。
窓の無い頑丈な造りのせいか、色合いは明るいのに閉塞感があって重苦しく、印象としては監獄か要塞。
道が三つに分かれているのを見たミリアは、行き先に迷って看護婦のアデライドを睨む。

「……どっち?」

「左通路、B-4号室」

行き先を聞いて、ミリアは即座に駆け出す。
看護婦が指し示したのは左の通路、棟内では魔力減衰の大きいエリアだ。
中位の魔術師が放った火球でも、人を殺せないレベルにまで威力を低下させられる。

「廊下、疾走禁止」

注意の言葉で速度を落としつつ廊下を歩み、右折した所でミリアは立ち止まる。
この病院では、全ての扉の開閉に認証コンソールの操作が必要なのだ。
病室の前まで辿り着いても、看護婦に開けてもらわねば中へ入れない。

「此処? リンシィが入院してるのは? 開けて! 早く!」

ミリアは追い付いて来た鉱精に、悲鳴のような声で呼び掛ける。

「…………」

看護婦は何も答えず、無言のままコンソールを操作した。
その態度を不審に思うよりも先に、ミリアは開いた扉へ駆け込む。
奥行きがある広い病室は、不要な装飾品の類なども一切無く、設備は備え付けのベッド程度だ。
ミリアは殺風景な部屋の中を歩き、リンセルが眠っていると思しき場所まで近づいた。

「リンシィ……?」

訪問者が呼び掛けた瞬間、聞き慣れない声が響く。

「――――縛せ」

「誰ッ……?」

ミリアの誰何に応えたのは銀色の旋風。
足元から伸び上がった鎖が一瞬で竜巻のような螺旋を形作り、瞬く間に収束する。
全身に絡み付く鉄鎖に体を締め付けられ、ミリアはバランスを崩して転倒した。
鎖の正体は、単体を対象とする拘束用の魔術具、鋼縛索。
一度、呪縛されてしまえば、象ですら逃れる事が出来ない程の拘束力を持つ。
棟内の魔力減衰作用で威力が落ちたとしても、人間程度の筋力では逃れるべくも無い。

「くっ……な……何、これ?」

訳も分からぬままに身動き封じられたミリアは、首だけを動かして周囲を窺う。
状況を確かめようにも、簀巻き状態では芋虫のようにしか動けないのだ。

「それは罪人を捕らえる裁きの枷だ。
 なに、お前が持つ心を誑かす魔力に比べれば、遥かに害は少ない」

再び先程のテノール。
声の主は黒いロングコートを纏い、冷淡な瞳で見下ろす男。
アルサラム・ファラー・アゼルファージは透明化の首飾りを外し、病室の中に姿を現した。

482巡検司書アルサラム ◆FarahLxH6M:2015/01/19(月) 21:46:45 ID:jhEe8gLs0
アルサラム・ファラー・アゼルファージ。
バニブルでは巡検司書を担当していた魔術師だ。
彼は妖異の蔓延る地下書庫を巡回して、目録の作成や書物の保全、遭難者の救助などを行う。
迷宮的な書庫を歩き回るだけに、当然ながら腕も立つ。
ラクサズから他国に派遣する人員として選ばれたのも、戦闘の技量を見込まれてのことだ。
彼は己の足元に転がる捕縛対象、ミリアを侮蔑の視線で刺していた。

「すでに姦計の手練手管は割れている。
 まさか、他者の精神操作が国際条約違反だと知らない筈も無いだろう……魅了使いの魔術師。
 それ以前に、他者の心を魔術で掌握する輩など悪でしかない」

室内に沈黙が作られた。
その張り詰めた緊張を破るのは、二つの靴音。
バニブルの魔術師が扉に横目を向けると、同輩の魔術師と警備官の二人が病室に入って来ていた。

「うん? 割とあっけなかったようだね。
 さて、もう自分が置かれた状況は理解しているよね、お嬢さん?」

黒髪黒目で灰色のロングコートの男、ヴェクスが白い歯を見せて微笑む。
対して、村の警備官であるウィムジーは渋い顔だ。

「オイ、手荒にせんでくれと言ったろう」

「手荒? 魔術協会の制裁よりは遥かに優しいつもりだ」

ウィムジーがアルサラムを諭すも、彼の態度は変わらない。
御し難さに息を吐くと、警備官は屈んでミリアと目線を合わせた。

「ミリアさん、フラスネルって医療司書さんがあんたの国際条約違反を見つけたそうだ。
 患者の治療中に人の記憶を映すって機器でな。
 こんな形となって悪いんだが、精神操作の容疑が掛かってる以上、俺としても尋問せにゃならん。
 まずは護送車で地区警察に運んで、取り調べってことになる。
 俺も間違いであってくれれば良いんだが、ちぃと疑いが強くてなぁ……」

幾分か済まなそうな顔をしたウィムジーだが、この職業意識の強い男は職務は職務として必ず遂行する。
真偽を曖昧にしたまま、嫌疑の掛かっているミリアを見逃す事は決して無い。
それはアルサラムも同様で、しかも彼は誰かに物事を託したり、委ねる事を好まなかった。

「警備官、尋問なら此処でも事足りる。
 虚偽感知の術は、消呪区域内でも何ら効果に変わりは無いからな」

そう言って、アルサラムは虚偽感知の呪文を唱える。
真偽を判別する耳を手に入れると、彼はウィムジーからミリアに視線を移し、尋問を開始した。

「……ミリア・スティルヴァイ、お前が魔術師であるのは間違いないな?
 他者を魅了する力を行使した事も。
 手段と目的は何で、精神操作を施したのは何人だ?
 お前は首謀者なのか? それとも背後に誰かが居るのか?
 前もって言っておくが、魔術師相手に下手な詐術は無駄だ。
 此方が優しい顔を見せている内に吐いた方が良い」

483ミリア ◆NHMho/TA8Q:2015/01/30(金) 00:59:59 ID:M9i/mhRs0
拘束されたミリアは、腹這いのまま周囲を眺める。
部屋の間取りはロビーと同じ程度の広いもので、全体の内装は薄い緑、窓は無い。
扉は通路に面した出入り口と、トイレや浴室に通じるものの二つ。
次に自分の状態を確かめてみるが、ミリアが渾身の力を込めても体を縛する鎖は緩まなかった。
むしろ、少しでも緩みそうになると、独りでに締まって束縛を維持する。

「クソッ……魔術具?」

「そうだ」

ミリアの呟きに答えたのは黒い髪と瞳を持ち、黒いコートを纏った男、アルサラム。
彼は魔術協会の次席導師級すら無力化する魔力減衰帯の中で、正常に魔術を発動させていた。
これは、ヴェクスやエクレラにも出来ない芸当だ。
風貌や服装こそ普通だが、魔術具を操った以上は魔術師なのだろうとミリアも認識する。
そして、彼が何者なのかは見知った老警備官の姿が教えた。
此処まで来れば、遅まきながらミリアもコーデファーの通報した魔術師が誰のことか気付く。

(こいつら、アタシを捕まえる為に集められた魔術師か……)

すでに魅了の力が露見しているのも、間違いないだろう。
そして、それを知りながら一昨日の夕食会は行われたのだ。
さぞ滑稽に感じた事だろうと心中で毒づきながら、ミリアは警備官を睨む。
少しは彼に心を許し、ある種の快さすら感じていた自分を思い返すと、悔しさに舌が震える。
食事に招いたのも今の下準備で、自分を陥れる為だけのものだったのかと。
ウィムジーは職務を遂行しているだけなのだが、どうしても裏切られた感覚は否めない。

しかし、今重要なのはそんな事ではなかった。
まず確かめなければならないのは、リンセルの安否だ。
若干、怒気を抑えるのに苦心しつつ、ミリアは目前のアルサラムを見上げる。

「……リンセル・ステンシィは何処? 具合はどうなの?」

「この部屋にはいない」

「何処にいるの」

「まずは、俺の質問に答えろ。
 お前の背後には誰かが――――」

「リンシィは何処ッ」

ミリアは先程より強い語調で質問を繰り返し、黒コートの魔術師を不機嫌に睨む。
質問を遮られたアルサラムも視線の矢を返し、互いに睨み合う。
険悪さを見かねてか、すぐにもう一人の魔術師が両者の間に割って入った。
無用な衝突を避け、穏便に懐柔しようとの意図からだろう。

「君に掛かった精神操作の嫌疑を考えれば、すぐに合わせられないのは分かるだろう、ミリア君。
 ああ、一応名乗っておくと、僕はヴェクス・ロタール・フィユーディティ、二十四才独身、彼女募集中。
 そっちの無愛想がアルサラム・ファラー・アゼルファージ。
 どちらもバニブルの魔術師だが、此処には地区警察の要請で来たから、今は正式な警察の一員でもある。
 患者の病状に関しては好転も悪化も無いようだが、僕らは医者じゃないんで、まぁ無責任な事は言えない。
 そして、これは重要な点なんだが、知人を回復させたいのなら君も協力しなければならないよ。
 彼女の状態を把握するには、影響を与えている全ての原因を知らなければいけないからね……違うかい?」

何を話して、何を黙すべきか、ミリアは考え込む。
捕まって拘留されたくはないが、リンセルを持ち出されると心は揺れた。
人の力を増す己の力の性質は、リンセルの覚醒について役立つ可能性もあり得る。
しかし、コーデファーも含めて、彼らは信頼の置ける相手ではない。
他者を魅了する能力を知られた以上、このまま囚われれば隔離されるのは確実だろう。

484ミリア ◆NHMho/TA8Q:2015/01/30(金) 01:02:36 ID:M9i/mhRs0
「自分に危険が迫れば、奴隷は切り捨てるか」

不信と迷いで沈黙するミリアをアルサラムは詰った。

「リンシィは奴隷なんかじゃない……何も知らない癖にッ」

ミリアは激昂して言い返す。
アルサラムの辛辣さは悪を憎む心から発したものだが、ミリアにとっては己に向けられた敵意でしかない。
再び険悪となった両者にヴェクスは閉口するが、アルサラムに構う様子は無かった。

「確かにお前たちについては何も知らないな。
 では、教えて欲しいものだ。
 リンセルという少女が、お前にとってどんな存在か」

「リンシィはアタシの友達だよ……初めてと言っても良いね!」

アルサラムは鼻で笑う。

「俺の知っている友達とは、随分形が違う。
 友と言うのは、互いに対等な者の間で作られる関係だ。
 心を弄って作った関係など、奴隷と何ら変わりない」

「そんなんじゃァない!」

ミリアは憎憎しげに怒鳴った。
彼女の主観では、リンセルは奴隷などではなく友達だ。
少なくとも、そう思いたいのは間違いない。
だから、虚偽を検知する魔術にも反応はしなかった。

「魔力で得た奴隷を友と信じ込む醜悪さは聞くに堪えない。
 罪を自覚しない者とは、実に性質が悪いものだ。
 改める事も出来ないのだから。
 自分に都合の良い奴隷を作るつもりでないと言うなら、なぜ魅了の術など掛けた」

ミリアが出来るだけ考えないように避けていた点を、アルサラムは突く。

「それは――――」

ミリアは端緒を思い返す。
リンセル・ステンシィと出会ったのは、エヴァンジェルだ。
あの街を訪れた時の心情は、もう何処にも居ない父親を追って、微かな足跡を探すようなものだったろうか。
心細い不安の中で最初に出会ったのがリンセルで、彼女を手元に置きたいと思ったのは確かだ。
力を使った理由は……それが、父の望んだ通りの世界に繋がると考えて……の筈だ。
そうだ、父の望んだ通りの世界を創る事が自分の存在意義。
迷える娘は、見失いかけた父親の足跡を見出す。

「――――人間って種を変える為。
 人間が強い種族に変われば、人間の心の在り様も変わるからね。
 そう……アタシは人間全てを変えて、父さんの望んだ世界を作り上げてみせる」

自分は好意を持った者を理想の世界に加えようとしたのだ。
搾取と使役ではなく、好意と庇護。
他者の精神を変容させた事実も、ミリアの中で綺麗に折り合いが付く。
そして、唇の片端を鋭く吊り上げての笑み。
意味不明な言動と相まって、アルサラムには魔性の笑みと感じられた。

「世迷言で悪行を正当化するつもりか。
 さっさと今まで魅了したものの術を解け」

「出来ない」


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