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(´・_ゝ・`)白天、氷華を希うようです('、`*川
1
:
名無しさん
:2024/01/01(月) 00:00:05 ID:yFlHhZ5Y0
四方八方から聞こえる楽しそうな歓声に耳を塞ぎつつ、人にぶつからないように道を歩く。
三年間の高校生活を華々しく飾るはずのメインイベント、修学旅行。
そんな素晴らしい機会を一人寂しく消費していただけの私は、運良く空いていたベンチを見つけるやいなや、そこにゆっくりと腰掛けた。
眼前には、明るい色の私服に身を包んだ高校生たちが和気藹々と走っていくのが見える。
どの子も見覚えのある顔ばかり。
一度も話したことはない、普通科クラスの男子たちだ。
ポケットから取り出したスマホを一瞥する。
“一緒に回ろう”と約束をしたものの、今朝突然体調を崩し、ホテルで一人休んでいる数少ない友人からのメッセージはなかった。
そもそも電波を示すアンテナは小さな一本が辛うじて立っているのみ。おそらく、この人込みのせいで繋がりにくくなっているのだろう。
"これが遊園地というものか"と新たな学びを得たことに嘆息しつつ、私は使い物にならなくなったスマホをカバンに戻した。
101
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:28:49 ID:KKTQDt7.0
(;、;#川「それでも…それでも、ちょっとくらい、特別に想われてるかもって、浮かれてた」
(;、;#川「でも、違う。違った。君にとって私は、やっぱりただの、便利な道具でしか、なかったのね」
心の隅でひっそり抱えていた望みが、蝋燭の火みたいに容易く消える。
想っていた。望んでいた。少しくらいは私のことを、特別に見てくれてるんじゃないかと。
…そんな訳、なかったのに。彼の目に、私なんか、映るわけなかったのに。
あぁ、なんてみっともないんだろう。
“弁えてます”みたいな顔をして、一人でずっと舞い上がって。
その始末が、コレだ。
いい年した女が、ボロボロと涙を流して、顔をぐしゃぐしゃにして、夢見がちな女子中学生みたいな願望を嗚咽交じりに吐き散らす。
もういっそ、消えてなくなってしまいたいと思うほどに、自分が情けなくて仕方がなかった。
102
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:29:52 ID:KKTQDt7.0
(;、;#川「…家から、“結婚しろ”ってせっつかれた?ずっとそういう話はあったもんね。それくらい知ってたわよ」
(;、;#川「手頃な私で、済ませようと、したんでしょ?…私なら、他の女の子と遊んでも怒らないと思った?ついでに、便利な記憶装置を、傍におけると思ったの?」
(;、;#川「私の家の事情だって利用すれば、ずっと私のこと使えるものね。そもそも、私に有利な条件つけたところで、よく考えれば、君は痛くも痒くも、ないもんね」
言えば言うほど、吐けば吐くほど、自分の置かれた立場が鮮明になっていく。
言葉を紡げば紡ぐほどに、私と彼の違いを思い知ってしまう。
“婚約に関する契約書”。あれにどれだけ私に有利な内容が書いてあっても、彼にとってはなんてことはない。
父たちの圧力がかかるであろう私から、離縁など申し出る訳もない。例え理由が、不貞であったとしても。
百歩譲って離縁することになったとて、数千万の手切れ金など、彼にとっては少し良い万年筆を買う程度の出費だ。そんなこと、少し考えれば分かった筈だ。
それでも、分からなかった。考えないようにしていた。ずっと、意図的に目を逸らし続けていた。
少しでも長く、夢を見続けていたい一心で。
103
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:31:30 ID:KKTQDt7.0
(;、;#川「…一瞬、それでもいいって思った。君の助けになるなら、別に、それでも……って…」
“彼の役に立ちたい”。それは、偽らざる私の本心だ。
彼と同じ大学に進んだのも、彼が立ち上げた会社に入る道を選んだのも。
隣にいたい、彼のためになることがしたいと、心の底から願ったから。
それが叶うのならどんな形でもいいと、本気で思っていた“つもり”だった。
その覚悟で、10年以上、ずっと彼の近くにいようと、必死に走り続けていた。
なのに。
( 、 川「……でも、ごめんなさい。…やっぱり、無理、です」
……見てしまった。そして気付いてしまった。
あの夜に。迷いながら歩いていた、あの晩に。
彼が、自分に見せないような顔を、他の女性に向けているのを見た瞬間に。
自分の奥の奥にある、自分勝手で、あまりにも、黒く濁ったその感情に。
例え、君の隣にいられるとしても。
君の横を歩けるとしても。君の役に立てるとしても。
君が選んだのが、私じゃないのなら、もう――。
104
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:33:35 ID:KKTQDt7.0
( 、 川「…………今まで」
(;ー;*川「……今まで、お世話になりました」
震えた手で、胸元に入れていた封筒を出す。
表側には、“退職届”という三文字が、涙が落ちても消えないようにボールペンで書かれていた。
(;´・_ゝ・`)「はっ…?ちょ、ちょっと待て伊藤、"俺"は――」
(、; 川「………しつれい、しま、す………!」
(;´・_ゝ・`)「………っ!お、おい、待てっ………!?」
必死に声を絞り出しながら、彼のネクタイに無理やり封筒を押し付ける。
地面に落ちたそれを拾うこともなく、彼の制止の声に応じることもなく、私は走って部屋を出た。
105
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:34:57 ID:KKTQDt7.0
廊下を走る。
エレベーターに乗り、降りる。
廊下で色んな人から声を掛けられたが、全てを無視して自分のデスクに向かう。
この一ヶ月で、業務の引継ぎは終えていた。
無駄な書類や備品は、全て昨日までに処分しておいた。
鞄を手に取り、嵐のような勢いで部署を出た。
階段を転がるように1Fまで降りてロビーゲートをくぐり、無用の長物となったカードキーを投げ捨てる。
途中ですれ違った同僚にも、上司にも、後輩にも、警備員の人にも、一切挨拶しないまま逃げるように進んでいく。
106
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:35:19 ID:KKTQDt7.0
( 、 ;川「きゃっ………!?」
ふいに、足元が歪んだ。
地面に強打した膝を見てみれば、ものの見事に出血している。
痛みを感じながら振り向くと、ヒールが綺麗に折れていた。
いや、ただ痛いだけじゃない。なぜか顔だけじゃなく、足がべっとりと濡れている。
何故だろうと思いながら、足に走る痛みに歯を食いしばり、未だ目から溢れる涙を拭う。
鮮明になった視界を数度瞬きしてようやく私は、いつの間にか外に出ていることに気が付いた。
地面には、雪が積もっていた。
空を見上げると、ゆらゆらとした雪がゆっくりと、それでいて無数に降下してきているのが見える。
息を吐くと、瞬く間に白く濁り、空中へと霧散していった。
帰らなければ。一刻も早く、ここを離れなければ。
雪景色の中、脳内で繰り返される命令に従って足に力を入れる。
107
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:36:37 ID:KKTQDt7.0
( 、 ;川「…あっ……」
立ち上がろうとした、その瞬間。
運の悪いことに、全く雪が積もっていない地面に向かってポケットからスマホが落ちてしまった。
耳障りの良くない音を立てながら転がるスマホを追いかけ、拾う。
壊れたのか、ヒビは入っていないだろうか。確認しようと慌てて表を向け、液晶を表示させようとタップする。
( 、 川「……あぁ………」
『(´・”_ゝ・`)///v('ー`*川』
案の定、画面には大きなヒビが入っていた。
高校生の頃、修学旅行で訪れた遊園地で撮った、彼との写真。
覚えている。あれは、集合時間まであと5分もないと、二人で園内を走っていた時だ。
途中にあったフォトポイントが、夕日を反射する雪と相まって、あまりに綺麗に見えたものだから。
傍にいた遊園地のスタッフさんに頼んで、撮ってもらったのだ。
テストの点数勝負の結果と、たった一度の修学旅行という口実を使い、撮れた唯一のツーショット。
“写真は嫌いだ”と渋い顔をする彼と、にこやかにピースサインを掲げる私。
そんな過去の私たちを分断するように、中央を走る大きなヒビ。
108
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:37:29 ID:KKTQDt7.0
( 、 川「……うぅ」
(;、;*川「…あぁ、ああ………」
(;Д; *川「あぁ、あ、ああ、……ああぁ……!」
一瞬は止んだ雨が、更に強さを伴って、また降り注ぐ。
決壊したダムみたいに、ボロボロと涙が零れていく。
どうすればよかったんだろう。私は、一体どこで間違ったんだろう。
何も考えず、彼との婚約を受け入れれば良かったのだろうか。
彼の傍で働くことが、間違いだったのだろうか。
彼と同じ大学に進んだ時点で、失敗していたのだろうか。
あんな風に思われていたなんて、知らなかった。
馬鹿にしているなんて、そんなこと、彼に対して思ったことなんて一度もないのに。
109
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:38:29 ID:KKTQDt7.0
私なんかが、彼と会ったこと自体、ダメだったのだろうか。
いくら泣いても答えは出なくて。
擦りむいた膝よりも心が痛くて、鬱陶しい雪も涙も、一向に止んでくれなくて。
スマホに映る、幸せそうな過去の私が、彼の隣で笑っている私が、妬ましくて仕方がなくて。
( 、 川(――ごめんなさい)
( 、 川(あんなに怒鳴って、ごめんなさい。思い上がって、ごめんなさい)
どうしていいか分からない。
涙の止め方も、明日からの息の仕方も、何もかもの検討が微塵もつかない。
ぐちゃぐちゃになった思考のまま、ただ只管、祈るみたいに、想い人への謝罪だけが募っていく。
110
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:39:31 ID:KKTQDt7.0
(;、;*川(―――私、なんか、が)
(;、;*川(好きになって、ごめんなさい)
当然、答えはない。返答も、救いも、何もない。
勝手に期待しただけの痛い女には、部分点すら与えられる余地はない。
0点女のみっともない泣き声が、降り注ぐ雪に埋もれて消えた。
111
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:40:28 ID:KKTQDt7.0
前半はここまで。
来週くらいに後半を投下します。よろしくお願いします。
112
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 09:14:53 ID:6UqyCAwU0
乙
113
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 13:11:55 ID:uELU9.uM0
乙、、、
114
:
名無しさん
:2024/03/19(火) 00:32:07 ID:4hRpiPzg0
*
(´∩_ゝ `)「………」
机の上に置かれた書類をただ眺めるだけで、どれくらいの時間が経ったのだろうか。
やらなくてはいけない業務も、目を通さなければならない書類も、文字通り山のようにある。
自分がやるべきことをやらなければどれほどの損害が出るのか。どれだけの人間が困るのか。その責任についても十分に理解している。
だというのにここ数週間、手も脳も、まるで意欲的に動こうとはしてくれなかった。
一年半かけて選んだ自分好みの椅子に深く背中を預ける。
目の前に置かれた書類の文章を手に取って読もうとするも、意味が全く頭に入ってこない。
これは“読む”とはいえない。ただ眼球が文字を追っているだけだ。
書類を手放し、如何とも言葉にし難いイラつきの衝動に駆られて頭をガシガシとかく。
そうこうしながら書類と詮無き睨めっこを続けていると、ガチャリとドアが開く音がした。
( "ゞ)「……まだ不貞腐れてるのか」
音がした方向に目をむける。そこに立っていたのは無二の親友であった。
115
:
名無しさん
:2024/03/19(火) 00:33:10 ID:4hRpiPzg0
そもそも、顔を向けて確認せずとも分かることだ。
社長室兼作業部屋であるこの部屋に入るには、社員すら持ってない特殊なカードキーが必要である。
それを持っていて勝手にここに入れるのは自分を除けば、デルタと、あの口うるさい腐れ縁くらいのもので――。
脳裏に浮かんだ女性の姿を払うが如く、再び頭を掻きむしる。
考えまいとすればするほどより濃く影を落とす残像の、その存在感は日ごとに増していた。
(; "ゞ)「いい加減やることやってくれ、業務が滞って仕方ない。下からの苦情に取引先へのフォロー…社員たちを誤魔化すのもそろそろ無理だ。俺にも限界ってもんがある」
(´∩_ゝ `)「……やる気が起きない」
( "ゞ)「大学生みたいなこと言うな。ほら、追加だ。さっさと目を通せ」
ただでさえ山のように積まれていた書類の上に、更なる紙の束が置かれる。
ペーパーレスが進むこの時代に、何故こちらが古い企業に合わせて紙を使わなくてはならないのか。
若い頃に飲み込んだつもりの不条理だが、やはり如何とも理解しがたい。
116
:
名無しさん
:2024/03/19(火) 00:34:26 ID:4hRpiPzg0
更なる苛立ちの泡が浮いてくると共にダラリと身体がずれる。
汚いモノでも摘まむかのように一番上の紙を捲ったのはいいものの、面倒な単語が並んだ文章に気が滅入ってすぐに戻す。
( "ゞ)「おい」
あからさまな溜息交じりの注意が耳に入るも、やる気が出ないものは仕方ない。
というか、やる気が出ないのは仕事に限った話ではない。
二週間以上前のあの日から、碌な生活を送っていなかった。
食事も、睡眠も、ただ服を着るという行為ですら面倒で仕方がない。
今では家に帰ることも億劫で、シャワーを社員用のものを使い、夜は社長室の隅にあるソファで寝泊まりする始末。
“どうでもいい”という感情のみが、自分の胸中を占めていた。
( "ゞ)「おいデミタス。まだやる気が出ないところ悪いんだが、お前にお客さんが来てるぞ」
(´∩_ゝ `)「…今日は面会謝絶だ。誰だか知らないが、帰ってもらって…」
「ここまで呼んどいてそれはないでしょう。先輩」
声が聞こえた瞬間、目を見開いてバッと上体を起き上がらせる。
デルタではない声色だった。だが、ひどく馴染みのある声。
そして、今は二番目に聞きたいと願っていた声だった。
117
:
名無しさん
:2024/03/19(火) 00:35:23 ID:4hRpiPzg0
( ^ν^)「…うわ、なんすかこの無駄に広い部屋、入りづら…」
どこかいけ好かない細んだ目と、性格が伺える針金のように歪んだ口元。
一学年下の後輩であり、大学を卒業した今でも頼りにしている弁護士。
“新塚ニュッ”。
ロースクールに進むことなく在学中に司法試験を突破し、早期卒業制度を使って自分たちと同時期に大学を出た白眉である。
だが、何故このタイミングで奴がここに来たのかが疑問だった。
確かに聞きたいことはあったが、彼に連絡はまだしていない。
不思議に思いながらデルタの方を見ると、彼はさも当然といった様子でスマホを操作し、メッセージアプリのトーク画面を表示する。
そこには数日前になされたらしき、デルタとニュッの会話が記録されていた。
(*´・_ゝ・`)「〜〜っ!でかしたデルタ!よし、よく来たなニュッ!入れ!座れ!話聞け!!」
( ^ν^)「命令系のオンパレードかよ」
部屋の中心にあるソファに二人が座る間、机の引き出しに入れていた書類を取り出す。
出した紙の束を持ちながら早足で二人に近付き、自分との間にあるテーブルの上に置いた。
118
:
名無しさん
:2024/03/19(火) 00:40:03 ID:4hRpiPzg0
( ^ν^)「…なんすか、このビリビリのゴミ」
(´・_ゝ・`)「お前に依頼して作ってもらった、伊藤との婚姻証書だ」
(; ^ν^)「はっ?……え、これが!?破ったんすか!?俺がどれだけ必死に作ったと…!」
( “ゞ)「違う。破られたらしい」
(; ^ν^)「破られっ…!?それってつまり、ふ、振られ…」
(;´・_ゝ・`)「わざわざ言うな!とにかく、もう一度これ全部見直してくれ!」
見るも無残なほどに、ビリビリに破られた紙の束。
紙の一片に至るまで念入りにズタボロにされたそれを、一つ一つ、丁寧に修復する作業には骨が折れた。
とんでもなくアナログな重労働と、そんな時代遅れな作業を他ならぬこの自分がやる羽目になったというストレスのお陰でここ数日は睡眠不足である。
119
:
名無しさん
:2024/03/19(火) 00:41:05 ID:4hRpiPzg0
( ^ν^)「…だから、何度も言ってますけど、完璧な契約書なんてこの世に存在しないんですよ」
(# -ν-)「そういう注文をするアホが未だに蔓延ってるから、俺ら弁護士はいつまでも苦しんで……」
(;´・_ゝ・`)「そんな話はいい!早く!」
心底嫌そうな顔を浮かべるニュッに、無理やり書類を押し付ける。一瞬だけ聞こえた舌打ちのような音は気のせいだということにして流した。
テープで継ぎ接ぎに修復されたそれを、彼は再び破れることがないよう、丁寧に一枚一枚確認していく。
時間にして、およそ30分ほどは経過しただろうか。
空調と紙が捲られる音だけが響く部屋を一新するかのように、長い長い溜息が流れた。
( -ν-)「……終わりました」
(;´・_ゝ・`)「…!ど、どうだった。一体どこに問題が…」
( -ν-)「ないっす」
ほぼ反射的に「は?」という声が漏れる。
ニュッは酷使した眼球を労わるように目頭を抑えながら、疲れた声色で話を続けた。
120
:
名無しさん
:2024/03/19(火) 00:42:11 ID:4hRpiPzg0
( ^ν^)「変なトコも、誤字脱字の類もないっすよ。形式的には何の問題もないと思います。婚約に関してって点に限ればっすけど」
( "ゞ)「…それじゃあ、つまり」
( ^ν^)「断言は出来ないっすけど、十中八九、この契約書が問題なんじゃない」
( ^ν^)「やっぱ、問題があるのは婚約云々じゃなくて、盛岡先輩の方――」
(#´ _ゝ `)「――ンな訳あるか!!」
社長室に罵声と、勢いよく机を叩いた音が響き渡る。
気が付けば、自分は無意識に立ち上がっていた。
(#´・_ゝ・`)「僕と……この僕との婚約だぞ!?一体、何の問題が、デメリットがある!?」
(; ^ν^)「うわビックリした……」
(#´・_ゝ・`)「僕には資産も、社会的地位もある!あいつがずっと苦しんでる家絡みの問題も解決できる!!」
(#´・_ゝ・`)「僕自身に問題なんてあるはずがない!!ここに、この書類になにか不備がある筈なんだ!!それさえ見つければ、そうすれば、アイツは……!!」
頭を掻きむしりながら、再び書類を手に取って睨む。
ここにこそ、何か原因があるはずなのだ。
121
:
名無しさん
:2024/03/19(火) 00:42:37 ID:4hRpiPzg0
結婚相手の男性として、“盛岡デミタス”という人間にどれだけの価値があるか、それを伊藤が理解していない訳がない。
自分なら、盛岡家の力も借りず、散々アイツを無碍に扱っていた伊藤家から遠ざけてやれる。
アイツがずっと苦しんでいた原因を、根っこから取り除くことが今の自分になら出来るのだ。
日本で一番とされる国立大学に入り、死に物狂いで経営を学んだ。
空いた時間はほぼ全て、アプリ開発や起業に関することに費やした。
海外に向けて展開した学生向けのファイナンシャル事業も成功させ、自分の家に一切頼らなくてもよくなった。
欲しかった手札は集めきった。10年かけて、必要なものは全て揃えた筈だった。
なのに、ダメだった。一体何がダメなのかも分からず、部分点すら得られず、自分は今こうしてみっともなく地団駄を踏んでいる。
一体、どこに、この盛岡デミタスに、どんな失態があったというのか。
( ^ν^)「…つーか、そもそもどうやって伊藤先輩に告白したんですか」
ニュッが何気なく呟いたのであろう一言に、文字を追う眼球が止まる。
顔を上げると、ニュッは腕を組みながら不思議そうにこちらを見ていた。
122
:
名無しさん
:2024/03/19(火) 00:43:54 ID:4hRpiPzg0
( ^ν^)「婚約証書(こんなもの)を俺に作らせたってことは、結婚してもいい段階まで来たってことでしょう?…そもそも俺は、お二人が付き合ってたことも最近まで知りませんでしたけど」
( ^ν^)「付き合う時はどんな風に言ったんです?こんな形式ばったもの使わなくても案外、その時と同じようにした方が上手くいくかも――」
(´・_ゝ・`)「……いや、付き合ってないが。何言ってるんだ?」
今度は、彼が「は?」と言う番であった。
急に彼の口から出てきた質問に、僕の脳は追いついていなかった。
付き合うも何も、僕と伊藤はそういう関係ではない。
関係性という観点から話すのであれば、色々と名前を付けることは出来る。
友人、元クラスメイト、大学の同期、上司と部下、知人、腐れ縁、その他諸々。
だが、その中に“恋人”という単語はない。そうであったことなど今までの人生で一秒すらない。
自分たちがそういう関係ではない事を、この後輩は知っていた筈なのに、一体どうしてそんな的外れな質問をしてきたのか。
それが自分には全く分からなかった。
123
:
名無しさん
:2024/03/19(火) 00:47:31 ID:4hRpiPzg0
(; ^ν^)「……え?付き合ってすら、ないの?」
(´・_ゝ・`)「ない。そんな打診をしたことすらないな」
(; ^ν^)「………なのに、“結婚しよう”って言ったんすか?」
(´・_ゝ・`)「そうだが。身分関係の変更で重要なのは入籍だと言ったのはお前だろ?なら、わざわざ交際関係を経る必要ないだろ」
(´・_ゝ・`)「まぁ、流石に時間的担保はあった方が良いだろうから婚約という形にしたが」
僕の発言を聞き終わると、ニュッは再び長い溜息をつく。
顔を両手で覆った彼は、指の隙間から隣に座っているデルタを睨みつけた。
( ∩ν∩)「……どういうことですか」
(; "ゞ)「……違うんだ。その、こいつが聞く耳持たなくて……」
(# ^ν^)「そこをどうにか聞く耳持たせるのが関ケ原先輩の役割でしょう!?立派な任務懈怠ですよこれは!」
(; "ゞ)「いや、まさかここまで暴走するとは思わないだろ!?」
僕を置いてけぼりにして、二人は突如として言い合いを始める。
自分の発言が端緒であることは何となく察しているが、一体何か問題があったのだろうか。
124
:
名無しさん
:2024/03/19(火) 00:49:36 ID:4hRpiPzg0
(# ^ν^)「いくらなんでも非常識すぎる!!何なんすかアンタは、人生RTAでもやってんすか!?」
(;´・_ゝ・`)「あ、あーる……??」
(; ^ν^)「意外な無知…!!」
( “ゞ)「こいつ、自分自身はゲームとかやらないからな」
僕の混乱を他所に二人は聞き慣れない単語を交えて会話を続ける。
何を言っているのか要領を得ないが、少なくとも褒められてないことだけは確実だろう。
( "ゞ)「とにかく…原因ははっきりした。間違いなく、書類云々じゃなくお前自身が問題だ」
( ^ν^)「ですね」
(;´・_ゝ・`)「はぁ!?デルタまで…!」
目の前のソファに腰掛けている二人から分かりやすい批難の視線が向けられる。
誰かのフォローを貰おうにも、配慮と記憶力に長けるいつもの部下はいない。
文字通りの孤軍奮闘。善戦を望みたいが、相手がこの二人となれば流石の僕でも分が悪すぎる。
125
:
名無しさん
:2024/03/19(火) 00:51:01 ID:4hRpiPzg0
(;´-_ゝ-`)「…………何がダメだっていうんだ」
潔く白旗を上げ、降参の意を告げる。
この二週間、仕事も商談も放り投げて一人で考え込んだ結果、何も成果を挙げられなかったのだ。
ここで詰まらない意地を張っても仕方ないし、この二人に対してなら猶更というもの。
負け戦に挑むなどという詮無き趣味は、とうの昔に、高校時代で飽きている。
(; "ゞ)「…いや、何がダメっていうか」
( ^ν^)「もう、何もかもがダメですよね。常識なさすぎです」
(;´・_ゝ・`)「だ、だから何に問題があるんだ!?」
後輩からの辛辣な批評に思わず目が点になる。
フォローが得意なデルタからの支援もないどころか、深く頷いている始末。
( ^ν^)「普通、恋人って関係を経由してから結婚について考えるんですよ」
「何を今さら」とでも言いたげな様子で放たれる、溜息交じりの教え。
昔からこの生意気な後輩は言葉を選ぶということをしない。仕方なく敬語を使ってやっているという態度が見え見えの声色と話し方に青筋が立ちかける。
が、今回ばかりはそれを指摘する余裕も立場もない。
126
:
名無しさん
:2024/03/19(火) 00:53:43 ID:4hRpiPzg0
(´・_ゝ・`)「……いや、それは知ってるが、要らないだろ」
( ^”ν^)「はぁ?要らない訳ないでしょう?」
(´・_ゝ・`)「だって、それは一般的な男女の場合だろ?僕と伊藤は高校からの知り合いなんだし、お互いのこともよく知ってる。なら別に、”恋人”って関係はスキップ可能な筈だ」
(´・_ゝ・`)「それに、”僕”だぞ?僕と結婚することのメリットなんて、それこそ伊藤が分かってない筈がないだろ。考える時間がそこまで必要か?」
(; "ゞ)「…本当にRTA知らないのか?走者じゃないのか?」
(;´・_ゝ・`)「だから何なんだその、あーるなんとかってのは!」
(#´・_ゝ・`)「…大体、ニュッだって大して長く付き合ってないくせに、もう結婚するつもりなんだろうが!僕に説教できる立場か!?」
(; ^ν^)「うげっ!?な、なんでもう知って……!?」
(´・_ゝ・`)「先月、偶然出会った津島さんに聞いた。お前、デルタには相談してたくせに僕には何も言わないようにしていたらしいな」
127
:
名無しさん
:2024/03/19(火) 00:56:00 ID:4hRpiPzg0
ニュッの幼馴染であり、彼女でもある”津島デレ”さんと偶然出会ったのは一ヶ月以上前のことだ。
夜遅くにフラフラと歩いていた彼女を見つけ、「良ければ」と声をかけて駅の近くまで送り、少しだけ雑談をした。
お互いの近況や仕事の話、共通の知り合いであるニュッの話、そして付き合って一年が経った先月にニュッからプロポーズを受けたこと。
「まだ付き合って一年しか経ってないのに、せっかちですよねアイツ」と口では言いながらも、その表情は彼女が作る洋菓子のように甘ったるいものだった。
嬉しそうに式の予定を話す彼女に「自分、何も伝えられてないな」と後輩に不満を抱きつつも、そんな二人をよく見ていたからこそ、自分も結婚しようと思うようになったのだ。
(; ^ν^)「いや、その、盛岡先輩には式の日取りが決まってから話そうと…え、てか、来るんすか?えー?」
( "ゞ)「あ、本当に呼びたくないんだ……冗談かと思ってた…」
(´・_ゝ・`)「二度と僕に常識がどうだのとほざくなよお前」
(; ^ν^)「と、とにかく!俺らは幼馴染だから例外として、普通はちゃんと…」
(´・_ゝ・`)「おい何サラッと自分を棚に上げてんだ」
( "ゞ)「一気に説得力なくなったな」
先ほどまでの悠々とした態度はどこへやら。
恥じるように顔を両手で覆ったニュッはすっかりソファの隅に縮こまる。
一転して意気消沈してしまった後輩を見て、小さく息を吐いたデルタが身をこちらに乗り出してきた。
128
:
名無しさん
:2024/03/19(火) 00:57:16 ID:4hRpiPzg0
( "ゞ)「まぁ、とにかく…世間一般の女性からすれば、交際相手じゃない異性からいきなり”結婚しよう”なんて言われても、“はい”なんて言う訳がないんだよ。付き合いが長いとか、そんなのは関係ない」
( "ゞ)「相手がお前みたいな金持ちであってもな。伊藤さんが至って普通の感性を持つ女性だっていうのは、誰よりもお前が知っているだろう?」
(´・_ゝ・`)「…………」
こちらの反論を想定しきった旧友の言葉に。僕は何も言えず黙り込むしかなかった。
いつもなら例え伊藤が居たとしても何かしらの反撃をするのだが、今回ばかりは何も反論が思いつかない。
本気で何の問題もないと思っていた。
自分にも、伊藤にも、大きなメリットしかない素晴らしいアイデアだと。
だが、どうやらまた失敗らしい。それも幾度も気を付けるよう注意を受けていた点を思いっきり突く形のミス。
つくづく自分の常識の無さが嫌になる。多少はマシになったと自負していたが、とんだ思い上がりだったようだ。
129
:
名無しさん
:2024/03/19(火) 00:58:22 ID:4hRpiPzg0
(´ _ゝ `)「……僕は、ここからどうすればいい」
我ながら本当に情けない小声が、自慢の社長部屋の中に響いた。
今まで、どんな問題があろうともあの手この手で対処してきた。
会社を立ち上げた時も、銀行からの融資を渋られた時も、大手から足元を見られた時も。
「今度こそ終わりだ」と世間から指を差される度に、その都度、困難を乗り越えてきた。
だが、今回ばかりは何も浮かばない。本当に、何をどうすればいいのか分からない。
原因は分かっている。結局、僕は一人では何も出来ないのだ。
詰まるところ、僕は天才などではなかった。
どこかの誰かみたいな、圧倒的記憶力も、コミュニケーション能力も、情報整理能力も持ち合わせていない。
いつもいつも、近くにいる人の助けを得て進んできた。それは、一企業の社長となった今でも情けないことに変わらない。
たった一人の友人との仲直りする方法すら、僕は自分一人では思いつけないのだ。
130
:
名無しさん
:2024/03/19(火) 01:02:10 ID:4hRpiPzg0
( "ゞ)「……連絡はしたのか?」
(´ _ゝ `)「…電話も、メッセージも、全部ダメだった。メッセージは既読すらつかない」
( "ゞ)「家には?」
(´ _ゝ `)「…一回だけ行った。居留守なのか、本当にいなかったのかは、分からなかったが…」
( "ゞ)「こういう時、どうするんだ?」
(;´・_ゝ・`)「いや、だからそれが分からないから」
( "ゞ)「違う。お前じゃない」
顔を上げ、デルタの顔を見る。
そこには自分の右腕ではなく、ましてや副社長でもなく、自分のただの友人としての顔をしたデルタの姿があった。
( "ゞ)「伊藤さんも落ち込んでる筈だ。泣いてたんだろ、彼女」
( "ゞ)「彼女は落ち込んだ時、何をするんだ。どういう所に行くんだ。どういうものに縋るんだ」
( "ゞ)「この10年、お前は彼女の何を見てきたんだ。どういう所を好きになって、どういう所に焦がれたんだ」
( "ゞ)「……お前が一番、伊藤さんのこと知ってるんじゃないのか」
131
:
名無しさん
:2024/03/19(火) 01:04:37 ID:4hRpiPzg0
(;´・_ゝ・`)「……」
(;´-_ゝ-`)「……………」
目を瞑り、思考を巡らせる。
確かに。そうだ。そうだった。言われて今更思い出した。
自分が一番、彼女のことを見てきた。知ろうとしてきた。
何が好きなのか。何が嫌いなのか。
喜んでいる時の笑みも、怒っている時の表情も、悲しんでいる時にすることも、気を抜いて居眠りをする時の横顔すらも、何一つ取りこぼさないように見てきた筈だ。
彼女は昔から、嫌なことがあったら一人で抱え込むタイプだった。
他人を責めることに慣れていない彼女は、自省するため、静かな所で一人で泣こうとする。
それでも、無音に耐えられるほど強くはないから、少しだけ外の音や誰かの声が聞こえるような場所を選ぶ。
高校生の頃はよく、グラウンドに近い教室の隅で放課後、偶にこっそり佇んでいた。
132
:
名無しさん
:2024/03/19(火) 01:05:16 ID:4hRpiPzg0
あとは何だ。何で絞れる。
思考を進ませ、大学生の頃の記憶を漁る。
そうだ、確か地元から彼女の両親が口を出しに来た日があった。
その日の夜、少し心配になって電話をかけたら、酔っぱらったような声色で当たり障りのない返答をされたことがある。
あの時、自分はどう思ったのか。
酒に逃げると安直だなとぁ、口調がへべれけだとか、他の人の声が少しうるさいとか。
聞き慣れないジャズのせいで、彼女の声が聞き取り辛かったとか――。
(´・_ゝ・`)「………なぁ、デルタ」
頬から手を離し、顔を上げる。
すると、目の前に座っていた彼は、僕が何かを言う前にひらひらとスマホをこちらに向けていた。
( "ゞ)「とりあえず、明日の午前までは空けたぞ」
相変わらず、痒い所に手が届く奴だと内心で舌を巻く。
やるべきことは思いついた。それを実行するための時間も、今まさに有能な旧友が確保してくれた。
あとは、自分がなりふり構わず動くだけ。
133
:
名無しさん
:2024/03/19(火) 01:06:12 ID:4hRpiPzg0
(´・_ゝ・`)「ありがとう。…あと、一つだけ、用意して欲しいことがある」
( "ゞ)「なんなりと」
演技染みたニヒルな笑みを浮かべる彼に、こちらも自然と口角が上がる。
僕はポケットからスマホを取り出し、一枚の画像を見せた。
(´・_ゝ・`)「これ、用意しておいてくれないか」
僕が見せたスマホの画面を見て、ニュッは嫌そうに顔をしかめ、デルタは嬉しそうに破顔した。
( ^ν^)「…相っ変わらず常識知らずですね……いや、外れって言った方が正しいか?」
( "ゞ)「それでも”やると決めたらやれる”ってのが“盛岡デミタス”だよなぁ。…いいよ、なんとかしてみる」
(´・_ゝ・`)「ありがとう、任せた」
( “ゞ)「任された。行ってこい」
134
:
名無しさん
:2024/03/19(火) 01:06:37 ID:4hRpiPzg0
互いに作った握りこぶしを合わせ、僕は勢いよく立ち上がった。
デルタが「なんとかする」と言ったのだ。それならば、例えどれだけ無茶な注文でも確実に実現してみせる。
僕がそこに注意を向ける必要も心を配る必要もない。
社長室を出て廊下を進み、早朝のサラリーマンみたいにエレベーターへ乗り込んだ。
上着や最低限の現金が入った予備の財布など、大事な物は車の中。
スマホは今持っているから、外で動くのに支障はない。
液晶パネルに表示されていた、階数の下の時刻を見る。
今は夕方の17時。そろそろ日が沈み始め、冬空の茜が瞬く間に黒へと変わる頃。
エレベーターの液晶パネルが地下の駐車場を示し、静かに扉が開く。
今までにないくらい高鳴る心臓を自覚しながら、僕は止めてある自分の愛車へと走り出した。
135
:
名無しさん
:2024/04/03(水) 21:52:46 ID:VP0Da38U0
*
グラスの中で、カランと甲高い音が鳴った。
項垂れていた視線を向ける。さっきまで綺麗に積まれていた筈の氷塔が崩れていた。
中に入っていた琥珀色の液体は、溶けだした氷の水と混ざって薄くなっている。
手を伸ばし、中途半端に残っていた酒をやるせなさと共に一気に飲み干す。
“ズブロッカ”という酒がある。
ポーランドにある“パイソングラス”という非常に珍しい草を使用して作られたウォッカのことだ。
特徴的なのは、洋酒であるにもかかわらず桜餅のような爽やかな風味。高いアルコール度数とは裏腹に、酒にあまり慣れていない私でもスルリと飲める。
酒好きにも、普段はあまり飲まない私のような人間にも人気の酒だ。
( 、 *川「……すいません、おかわり。ダブルで」
¥・∀・;¥「…伊藤ちゃんどうしたの?流石に今日は飲みすぎじゃない?」
(-、-*川「だーいじょうぶです。どーせ明日も、明後日も、ずーっとお休みなんで」
この店の店主であるマニーさんからの注意にも耳をかさず、手をひらひらと泳がせるのみ。
すると、1分もしないうちに新しいグラスが二つ眼前に置かれた。
右は私が頼んだズブロッカのお代わり。左は頼んだ覚えのないミネラルウォーター。
136
:
名無しさん
:2024/04/03(水) 21:55:52 ID:VP0Da38U0
¥-∀・¥「せめて合間に飲んで。酔った女の子の相手はいいけど、アル中患者の相手は御免だから」
( 、 *川「………どうも」
以前、両親から口を出されて嫌な気分になった時もここに来たことを思い出す。
その時もこうして水を貰ったなと思いながら、苦笑いと共に差し出された気遣いを一口含む。
酒で火照った身体と脳の熱が、キンキンに冷えた水で中和されていくのを感じた。
少し冷えた頭でぼんやりと最近の日々を振り返る。
会社から、あの人から逃げた日から既に二週間以上の時間が経過していた。
最初の数日こそ楽しんでいた。
昼間に起き、化粧も碌にせずに近所をあてもなく散歩し、ずっと気になっていた店に入って食事を楽しむ。
特に理由も無く高いホテルに泊まったり、大浴場に浸かったり、プロのマッサージを受けたり。
多忙な日々の中、無駄に貯まっていた蓄えはまだまだある。しばらくは何も考えず、今までしたくても出来なかったことをしてみよう。
そう思い、色んな物を食べたり、色んな所を巡る悠々自適な甘い生活。
……まぁ、そんな夢に見た生活も僅か7日目で、見事に終わりを告げたのだが。
137
:
名無しさん
:2024/04/03(水) 21:56:27 ID:VP0Da38U0
社会人になってからずっとやってみたいと思っていたことは、蓋を開けてみると僅か1週間で済んでしまうことだった。
私はこれほどまでに詰まらない人間だったのかと落胆すると同時に、無常にも襲ってくる不安感。
勢いで会社を辞めたが、これからはどうするのか。
貯蓄こそ確かに平均以上はあるだろうが、それでも一生分には到底満たない。なんとなくしていた投資や定期預金も、すぐに現金に変えられるものではない。
再就職はどこにするのか。いつするのか。その目途が立ってから辞めるべきだったのではないか。
家にいると、そんな考えばかりが埃のように湧いて出てくる一方であった。
かといって外に出る用事も大して思いつかない。家で出来る趣味を見つけようと思ってなんとなく買った最新ゲームも、操作が複雑すぎて想像していたほど楽しめなかった。
何をすればいいのかに対して答えは出せないどころか、何がしたいのかについても模範解答は出てこない。
ただただ家で、形容し難い将来への不安と過去への後悔が積もっていくのを眺める日々。
そんな毎日に嫌気がさし、こうしてデルタ君から以前紹介されたお気に入りのバーで一人寂しく酒をかっくらっている訳である。
138
:
名無しさん
:2024/04/03(水) 21:57:01 ID:VP0Da38U0
(-、-*川「…あー、おいしくない……」
¥-∀-;¥「ならもう止めときなさい。はいお水二杯目」
(-、-*川「やだぁ、現実はもっとおいしくない……」
マニーさんからの注意も耳に入れず、ちびちびとだが確実に酒を減らしていく。
明日はどうしようか。次は日本酒でも飲みにいってみようか。
そんな詮無いことを考えていると、ふと、周りの喧騒に耳が向いた。
意識していた訳ではない。だが、なんとなく聞き慣れた単語が聞こえた気がしたのだ。
グラスから視線を外し、いつの間にか来ていた人たちの集団に目を向ける。
そこでは、私と大して年が変わらなさそうな人たちが、スーツ姿で騒いでいるのが見えた。
139
:
名無しさん
:2024/04/03(水) 21:59:19 ID:VP0Da38U0
(・∀ ・*)「でさ、けーっきょく俺の案が採用されたんだよ!あんだけ時間かけといてそれってマジ無駄じゃん!?頭悪いっつーかさー」
リハ*´∀`ノゝ「えーマジー?」
(・∀ ・*)「マジだって!つーか普通にやばいやつ?つーの?」
バーの中心にある大きなテーブルを囲むグループの中、一人の男性が大声で何かしら話しているのが分かる。
ちらりと目をやる。先ほどの声の主であろう男性と、その周りに数人の男女。誰もかれも、遠目からですら分かるような愛想笑いのオンパレードだ。
察するに、おそらくあの男性が彼らの上司か、同期の出世頭か、何かしら一番影響力がある人なのだろう。
ただ、全員相当酔っているのは事実らしい。
彼以外の人たちも相当大きな声で喋ったり、オーバーな身振り手振りをしている。今のところ注意をするレベルではないし、幸いか不幸か、今日は私以外にお客さんもいない。
気にせずこのまま飲もう。どうせならあまり味わったことのないものがいい。
そう思って眼下のメニューに目を滑らせる。そうだ、次はストリチナヤでも頼もうか。昔、20歳になりたての頃に一度だけ飲んだきりの筈だ。
凝りもせずまだまだ蒸留酒に凭れかかろうとしていた、ちょうどその時だった。
140
:
名無しさん
:2024/04/03(水) 22:01:10 ID:VP0Da38U0
(・∀ ・)「やっぱさ、全然大したことなかったわ!マジふっつーのボンボンだよ」
(・∀ ・)「――“盛岡デミタス”って奴はさ!」
( 、 *川
グラスを持つ手が、スルリと滑った。
氷がテーブルに転がる音でハッと我に返り、慌てて落ちた氷を拾う。
唐突に飛び込んできた名前に意識を奪われたのは刹那、既に液体は飲み干していたのが幸いした。
心配そうにこちらを見るマニーさんに「大丈夫」と小声で返し、水を啜りながら平常心を保とうとするも、聴覚だけが勝手にしっかりとあの社会人集団に向かってしまう。
何よりも私の興味を惹く名前。いや、耳が向かう理由はそれだけじゃない。よく聞くと、彼の声色にも覚えがある。
アルコールで侵され切っていない脳の部分を何とか起こし、必死に記憶の底を漁る。
思い出した。彼は確か、二ヶ月ほど前にうちに商談に来た、大手の通信会社の人だ。
確か名前は”斎藤またんき”。
141
:
名無しさん
:2024/04/03(水) 22:01:43 ID:VP0Da38U0
うちに来た時の彼はあくまで補佐役で、実際には彼を連れてきた精悍な顔立ちをした”高岡”という男性が殆どのやり取りをしていた。
うちの社長相手に一歩も引かず話をする人間は、大手どころか省庁にも滅多にいない。
相当なやり手だと感心していたのだが、どうやらその付き人はそこまででもなかったらしい。
聞いてないフリをしながら水を飲む。というか、意識せずとも勝手に耳に入る声量だ。
話の内容は、酔った今の私でも容易に理解できるものだった。
要するに、彼は有名人である“盛岡デミタス”の讒言と、自分の虚栄心を満たすために喋っているらしい。
話の内容のどれもが、彼の上司の言動に脚色を加えたものばかり。
果てにはうちの社長をこき下ろすような発言もちらほら伺えた。
まぁ、社長が世間から嫌われているのは今に始まったことではない。
高校生の頃からクラスメイトにも先生たちにも煙たがられていたし、大学生になってすぐ起業してからも数多の人たちとコミュニケーション上のトラブルを引き起こしていた。
デルタ君と私がいなければ一体いくつもの民事訴訟を抱えていたのかは想像に難くない。
会社を大きくし、一躍時の人となった今でも、彼をよく知らない世間からの評判もこんなものだ。
やれ“詐欺師”だの、“親の七光り”だの、彼に対する悪口を挙げていけば枚挙に暇がない。
寧ろ彼に純度100%の好感を抱いている人の方こそいない。彼を好意的に捉える人など、それこそ鳥取砂丘から米粒を見つけるくらいには見つけられないだろう。
142
:
名無しさん
:2024/04/03(水) 22:05:38 ID:VP0Da38U0
( ゚¥゚)「え、でもさ、実際あそこまで会社を大きくしたのってあの人なんだろ?この前テレビでやってた」
リハ´∀`ノゝ「確か私たちと年変わらないよね。やばいよね〜」
(・∀ ・)「いやいや、あれは間違いなく親からのお小遣いっしょ!あの社長って有名なトコの御曹司なの、知ってる!?」
こんな悪口、私にとっては浴び慣れたビル風のようなものだ。
実際に働く中ではもっと直接的な嫌味や誹謗を聞いたこともある。
それに比べればこんな酔っ払いの戯言など、いちいち目くじらを立てるまでもない。
<(' _'<人ノ「え、あれってマジなの〜?」
(・∀ ・)「そうそう!つーか実際話したけど、大したことなかったしな。敬語も碌に使えないの!ホントに大卒って思ったわ。でっけーガキって感じ」
凪いだ心持ちでマニーさんに追加の水を頼む。
そもそも、私はもうとっくに会社を辞めた身なのだ。
疾うに部外者である私が彼を注意する義務も責任もない。
143
:
名無しさん
:2024/04/03(水) 22:06:19 ID:VP0Da38U0
(・∀ ・)「どーせ大学もコネだよアレ。苦労とか努力とか、知らなそーなツラしてたし」
(・∀ ・)「時価総額だの個人資産だの、やっぱ嘘吐きは数字使うって本当なんだなって思ったわ」
寧ろ、良い気味だと嗤う権利すら私にはあるかもしれない。
散々こき使ってきた挙句、意味の分からない契約書のようなものまで持ち出してきたのだ。
そうだ、あんな人、そもそも皆から嫌われて正解なのだ。
他者を気遣わない。露骨に出来ない人を見下す。生まれた時から人が羨むものを全て持っていて、それなのに人に合わせようともせず周囲を振り回すだけ振り回す。
終には、自分は綺麗な女性と夜に仲良さげに話ながら、身近にいただけの女を都合よく利用してくる始末。いっそ、本当に地獄に落ちた方がちょうどいいくらいだろう。
(・∀ ・)「そもそも盛岡がやってることって、なんか目新しいとか斬新とか言われてるけど、どれもよく見ればなんかの焼き直しだぜ?社長っつーか、もう詐欺師だよ。さーぎーし!」
(・∀ ・)「商談の時もさぁ、なんか横にいた女に会話投げてたし、かっこわりぃっつーか……」
( 、 *川(……………)
144
:
名無しさん
:2024/04/03(水) 22:10:41 ID:VP0Da38U0
あぁ、そうだ。まさにその通り。もっともっと言ってしまえ。
そこの調子に乗った青年よ。もっと吐き出せ。酒の勢いに身を任せろ。
私が言いたかったことを、世間が思っている妬み恨みをより代弁してみせろ。
グラスから口を離し、席を立つ。
なにが社長だ。なにが代表取締役だ。肩書こそ立派になったのだろうが、貴方の本質は変わらない。
意地悪で、プライドが高くて、不親切で、無愛想で、無神経。
( 、 *川「………」
世間からの悪評判も、彼を煙たげにする人達も、何も間違っちゃいない。
彼は最低だ。ひどい人だ。人間の風上にも置けないような、人の上に立っちゃいけないような人非人だ。
そんな人を。彼を。盛岡デミタスなんて人を、好意的に捉える物好きなどいる訳がない。
蓼食う虫も好き好きというが、あれは蓼なんて比喩では収まらない毒物だ。
そんな彼を好きになる人などいない。そんな感情、間違いだ。幻覚だ。気の迷いで、不正解。
仮にこれがテストなら、部分点すら与えられないほどの不出来。
どんなに控えめに採点しても、経済的視点という項目でせいぜい1点か2点貰えるかどうかが関の山。
だから、あの人の普段の行動にすら、そんな評価が妥当だとするのなら。
145
:
名無しさん
:2024/04/03(水) 22:11:58 ID:VP0Da38U0
(・∀ ・;)「――――へ?」ビチャ
( 、 *川
私のこの行為も、きっと0点なのだろう。
(・∀ ・#)「は、はあぁ!?な…なにすんだよアンタ!?」
頭から水を滴らせた男性が、顔を真っ赤にしたまま私に叫ぶ。
私の右手に握られているのは、すっかり空になったグラスが一つ。
( 、 *川「………すみません。随分酔っぱらってらっしゃるようなので」
('、`*川「お水、少しは飲んだ方がいいですよ」
なんてことはない。
私はただ、騒ぐ彼の頭上で水の入ったグラスを一回転させただけである。
146
:
名無しさん
:2024/04/03(水) 23:57:17 ID:VP0Da38U0
¥・∀・;¥「ちょっ…!?伊藤ちゃん!?」
マニーさんが慌ててカウンターから飛び出てくる。
まぁ、さっきまで大人しく一人で酒を呑んでいた女が、いきなり席を立って歩き出したかと思えば、何の躊躇もなく水を他の客にぶっかけたのだ。そりゃあこんな風に慌てもするだろう。
けれど不思議なことに、そんな彼とは対照的に私はひどく落ち着いていた。
(・∀ ・;#)「は、は!?うっわびっちょびちょ…!ふっざけんなよオイ!!」
('、`*川「さっきからずっとふざけていたのは其方ではありませんか」
(・∀ ・#)「あぁ!?なにスカしたツラしてんだ!?絶対弁償させてやっからな!言っとくけどな、このスーツはお前みたいな女には到底払えないような…」
('、`*川「斎藤またんきさん、でしたよね?どうも、お久しぶりです」
彼の本名を口にした瞬間、生まれたてのヒナみたいに囀っていた彼の口が止まる。
ウォッカのアルコールに浸された脳とは言え、別に過去の記憶が失われる訳ではない。
酒如きで飛ぶ記憶力なら、私はもう少し前向きな人間になっていた筈だ。
147
:
名無しさん
:2024/04/03(水) 23:59:18 ID:VP0Da38U0
('、`*川「二ヶ月と13日前はお世話になりました。私、盛岡デミタスの部下だった、伊藤ペニサスと申します」
(・∀ ・;)「……あ…アンタ、まさか……」
('、`*川「あぁそういえば、上司の高岡さんはお元気ですか?確かあの日は、お二人でいらっしゃったと記憶していますが」
(・∀ ・lii)サァー
私の追撃に、周りの人たちは戸惑い、彼の顔は青くなる。
よかった。どうやらこの人は口こそ悪いものの、どこぞの変人社長ほど記憶力が悪い訳ではないらしい。
あの日、二言三言しか口を開かなかった私のことも思い出してくれたようだった。
(; ゚¥゚)「…え、なに、このおねーさん、知り合い?」
(・∀ ・lii)「い、いや、まぁ、その」
(-、-*川「あぁ、そうそう」
('、`*川「不躾ながら貴方のお話が聞こえてしまったのですが、数点、誤解があるようでしたので訂正しておきます」
人の顔色というのは比喩ではなく本当にここまで変わるものなのかと、どこか他人事のように感心している自分がいた。
だがしかし、病人のような顔色になった青年に気を遣う気は一切湧いてこない。
どこか機械的な心持ちのまま記憶を辿り、埃のようにたまったモヤモヤの悪感情を敬語という名のオブラートにせっせと包むことにした。
148
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:01:16 ID:kBWnHJag0
('、`*川「一つ目。うちの盛岡は金銭の授受を親にねだったことは一度もありません。会社の運営はおろか、学生時代の学費すらも自身で工面していました」
紛うことなき事実である。
会社を立ち上げるにあたって、登記にかかる細かいお金から始まる全ての費用を彼は自分で工面していた。
奨学金を元手にすると言い始めた時は流石に眩暈がしたが、結局彼は今日にいたるまで一度も自らの家を頼ることはしなかった。
('、`*川「二つ目。盛岡はコネで大学に入ってはいません。高校時代は毎日こっそり使われてない教室の隅っこにギリギリまでいて勉強していました。国立はコネが通るほど甘い機関ではありません」
これも事実。
高校三年生の頃、変にプライドが高い彼は、他の生徒のように自習室に入り浸ることをしなかった。
かと言って家にも帰りたくなかった彼が選んだのが、別棟の奥にあった、使われてない教室である。
碌に掃除もされておらず只管に埃が積もる中、彼は黙々と過剰なまでの勉学に励んでいた。
149
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:03:06 ID:kBWnHJag0
確かに、彼は本当に嫌味なやつだ。
生まれは裕福で、才覚もある。私たちのような人間とはそもそも住む世界が違う。
性格はお世辞にも良いとはいえないし、いつまで経っても人の名前と顔を覚えようとはしない。
少しでも納得ができないことがあれば、相手が誰であろうが、ビジネスの場であろうが途端に暴走し始める。彼の特徴を羅列していけば、どうやったって批判の方は多くなるだろう。
それでも。
( 、 *川「最後の三つ目ですが」
それでも、最低でも、デリカシーがなくても、それでも。
眼前にいる人のように、あることないことを平気で口にする人なんかよりも。
いや、なんなら。
色んな言語を自在に操る、ふわりとした自慢の才女よりも。
大学在学中に司法試験に受かった優秀な後輩よりも。
どんな人とも円滑なコミュニケーションを送れる、凄くスマートな同僚よりも。
150
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:05:17 ID:kBWnHJag0
( 、 *川「うちの盛岡は、人並みの優しさなど持ち合わせてもいません。それは事実です」
( 、 *川「が」
ずっと見てきた。十年以上、誰よりもずっと近くで社長を、盛岡君を見てきた。
深夜になって従業員が全員帰った後でも、一人ぽつんと部屋に籠って仕事をする姿を見てきた。
手の打ちようがないと言われた案件も、どうにか結果を出そうと苦心しながら一人で抱え込む彼を見てきた。
( 、 *川「どんな困難な問題も自分の力で切り抜けます。例えそれがどんなに泥臭い方法でも」
( 、 *川「どれだけ世間から後ろ指を指されようと、自分で決めた道を振り返ることなく歩けるような人間です。」
それを、そんなに頑張ってきた人を。好きな人を。
( 、 *川「カッコ悪くなどありません。寧ろ、誰よりもずっと、ずっとずっと、カッコいい人です」
( 、 #川「……少なくとも」
下らない法螺話で人をこき下ろすような奴なんかに。
人の悪口を楽しそうに、嗤いながら話す奴なんかに。
こんな何も分かってない奴なんかに、馬鹿にされてなるものか。
( 、 #川「陰口で人を貶めた挙句」
( 、 #川「頭から無様に水をかけられた、どこかのお間抜けさんよりは、ずっと!!」
151
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:06:42 ID:kBWnHJag0
言い終わると同時に、周りが静かになった。
そう思ったのは、ほんの一瞬だけだった。
顔を真っ赤にした斎藤さんに、胸倉を捕まれる。
何を言っているのか、アルコールに浸された頭では上手く理解できない。
まるで壊れたラジオみたいに不快な雑音が絶え間なく発信される。
ただ、私への非難であることだけは辛うじて分かった。
手が振り上げられる。
同時に、彼の後ろにいた人たちの顔が一変したのが見えた。
マニーさんの焦った声も聞こえる。勢いよく振り下ろされる腕が、何故かスローに映る。
周りが騒然とし、視覚から得られた情報を処理した脳が緊急事態であることを懸命に叫ぶ中。
私はただ、あぁ、殴られるのかと、どこか他人事のように思うだけだった。
152
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:07:53 ID:kBWnHJag0
( 、 *川(懐かしいな、なんか)
走馬灯みたいに過去の思い出が沸き上がる。
何が気に食わなかったのか、私に手を上げる父の姿。
それを止めることなく、気付いていないフリをしつつ家事に従じる母の背中。
庇うどころか、嘲るように嗤ってこちらをみる兄たちの顔。
何年経とうが、大人になろうが変わらない。
言わなくていいことを言って、人を不愉快にして、叩かれる。
身の丈に合わない努力をしたとて、大した成果は出せないまま空回りして終わる。それが私の人生だ。
そういう星の元に生まれたのだと、とっくの昔に諦めはついている。
だが、今の気持ちはいどうしてか幾分晴れやかだった。
なるほど。言いたいことを言うって、こんなにスッキリするものなのか。
今まで社長の悪口や陰口を言っていた人たちの気持ちがようやく分かった。
反省はない。後悔もない。
よく考えれば当然だ。好きな人の好きな部分を褒めて何が悪いのか。
好きな人を大した理由もなく貶されて、それを怒って何が悪いのか。
開き直りと言われればそれまで。ただ私の胸の中には不思議と不安も恐怖もなく、今まで感じたことのないような満足感だけが渦巻いていた。
腕が感情のまま私目掛けて下ろされる。
大した防御姿勢を取ることもないまま、風に凪ぐ波のような心持ちのまま。
私はただ、数秒後の衝撃に備えて慣れた様子で目を瞑った。
153
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:09:29 ID:kBWnHJag0
(´ _ゝ `)「僕、どっかのクソ生意気な後輩と違って法律には詳しくないんだけどさ」
(´ _ゝ `)「暴行罪って、未遂の処罰規定、あるんだっけ?」
予期していた衝撃は、いつまで経ってもこなかった。
そして、まるでその代わりだとでもいうように、予期していなかった声が聞こえた。
(´・_ゝ・`)「…まぁ、でも、多分、伊藤にも非はあるんだろうな」
(´・_ゝ・`)「相変わらず、優等生のフリして意味分かんないことするよなぁ、お前は」
恐る恐る目を開ける。天井の明かりが、誰かの背に隠れている。
一番会いたくなかった人が、呆れた目で私を見降ろしていた。
154
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:12:07 ID:kBWnHJag0
('、`;川「…………しゃ、ちょう?」
(´・_ゝ・`)「他の誰かに見えるのか、酔っ払い」
目をパチパチと瞬かせるも、眼前の景色はまるで変わらない。
もう十年以上毎日見ていて、ここ十数日一度も見ていなかった顔がそこにあった。
いつ入ってきたのか。いつから居たのか。
いや、そもそもどうしてここに来たのか。まさか、私を探しに来たのか。
無数の疑問符が脳内を踊り出す。だが、私の口から何か言葉が出るよりも、周囲が騒然となる方が早かった。
<(' _';<人ノ「えっ、盛岡デミタス!?本物!?」
リハ;´∀`ノゝ「うっわ…雑誌とかテレビで見るまんまじゃん、やば…!」
¥・∀・;¥「も、盛岡くん…!?」
(´・_ゝ・`)「やぁマニーさん、お久しぶりです、僕から奪ったテーブルたちを使って営む飲食業は順調ですか?」
¥・∀・;¥「あ、あぁ久しぶり…いや奪ってないよ!君が2年以上も買い渋ってたのが悪いんでしょ!?」
(´・_ゝ・`)「その2年にも渡る深慮を台無しにしたのが貴方だ。あぁ、もし経営が難しくなったすぐにご相談を。つい最近コンサル事業も立ち上げたばかりでしてね…」
¥・∀・;¥「えっまさかの営業トーク!?この状況で!?怖っ!!」
155
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:13:29 ID:kBWnHJag0
魂を抜かれたように呆けた私やざわざわとし始めた周りの人たちも気にせず、社長はマニーさん相手に笑顔で話を始めようとする。
この二人、面識あったのか。いや、そういえばここを教えてくれたのはデルタ君だ。そりゃあ繋がりがあって当然か。
当事者である私まで、呑気にそんなことを考える始末。だが、無論そんな歪な状況がいつまでも続くはずがない。
( ∀ #)「―――おいっ!!」
事実、社長の流れるような営業トークは、とある怒号によって中断された。
(・∀ ・#)「なに俺のこと無視して喋ってんだよ!!これが見えてねぇのか!!あぁ!?」
斎藤さんが自らの服を見せつけるように引っ張ってみせる。
シャツの袖や彼の前髪からは未だにポタポタと雫が零れているのが伺えた。
(・∀ ・#)「そこの女…おたくの社員がさぁ、いきなり水ぶっかけてきたんだよ!!」
(・∀ ・#)「部下の責任は上司の責任だよなぁ!!一体、どう落とし前つけてくれる――」
(´・_ゝ・`)「…えっ、まだいたのか君?」
まるで、下校チャイムがなったのにまだ校内にいる生徒を見つけた教師のような。
朝の登校中に見かけた猫が、その日の夕方の下校中にもいた時のような。
そんな、本当になんでもないことのような声色だった。
156
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:14:21 ID:kBWnHJag0
(・∀ ・;)「………は?」
(´・_ゝ・`)「普通、人を殴ろうとしていたところを見られたらすぐに謝るか、面倒ごとになる前にさっさと立ち去るものだと思うんだが…変わった人だな」
(´・_ゝ・`)「あぁ、まさか僕に何か用なのか?仕事の話ならちゃんとアポをとってから後日に頼む。僕には今から個人的かつ、とてもとても大事な用があるんだ」
至って平坦な音程の声が店に響く。
私とマニーさん、そして周りの人たちの顔はどんどん青白くなり、それらと反比例するみたいに斎藤さんの顔は更に赤くなる。
そんな中、社長の顔色だけは一切変化がないのが、殊の外奇妙に思えた。
(・∀ ・;#)「ふっ……ふっっざけんな!!」
予想通りの裂帛が沈黙を破った。
157
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:16:39 ID:kBWnHJag0
(・∀ ・;#)「ざけんなよマジで!!ありえねぇ、ありえねぇ!!はぁ!!お、お前、おかしいだろオイ!!いきなり水ぶっかけて、そんで、そんで…はぁ!?」
(´・_ゝ・`)「初対面の人にお前って言うのも中々ありえないと思うが」
(・∀ ・#)「しょ、初対面だと…!?」
(´・_ゝ・`)「……あ、もしかして話したことあった?しまったな、やっぱりデルタも連れてくるべきだった。今のナシで」
今にも殴りかかってきそうなほどに興奮している彼とは対照的に、社長は心底面倒そうな表情を隠そうともしないまま頬をポリポリと掻くのみ。
相手の反応は当然である。私でも、あんな風に煽られたら正気を保てる自信はない。
(´・_ゝ・`)「しかしそうか…変な人じゃなくて、単に知能とプライドが釣り合ってないタイプか。本当、どこにでもいるなぁ君みたいなの。量産型か?」
(・∀ ・#)「う、訴える、訴える!!裁判だ裁判!!お前の会社ごと訴えてやる!!マジだぞ、マジでやってやる!!」
(´・_ゝ・`)「何を理由に訴えるんだ?」
間髪を入れない社長の言葉に、斎藤さんの勢いがほんの一瞬だけ止まる。
だが、すぐにまた彼は再び大声で怒鳴り始めた。
158
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:17:38 ID:kBWnHJag0
(・∀ ・#)「だから…見て分かんねぇのか!?水かけられて、何十万もするブランド物のスーツもずぶ濡れだ!!どうしてくれるっていう話を…!」
(´・_ゝ・`)「いや、それそんな大した値段しないだろ。見れば分かる。そもそもかかったのって只の水だろう?」
(´・_ゝ・`)「仮に金銭で解決するとしても精々クリーニング代の数千円だ。それをどうして数十万なんて額に増やしたんだ?どういう計算なんだ?」
(・∀ ・#)「……ッ!あ、あれだ、損害賠償――」
(´・_ゝ・`)「それなら尚の事、今この場で主張して支払いを要求するものじゃないだろう。…まさか、それを踏まえた上で大声で“訴訟”と口にしたのか?脅迫や名誉棄損とかのリスクを考えず?社会人なのに?嘘だろ?」
何を言われても、社長の声のトーンは微塵も変化がみられない。
それは一企業の束ねる経営者の冷静な声というよりも、駄々をこねる幼稚園児を諭すような、そんな声色をしていた。
159
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:18:23 ID:kBWnHJag0
(・∀ ・;#)「じゃ、じゃあ、いきなりその女が俺に喧嘩売ってきたのは、どう言い訳すんだよ!?あぁ!?」
(・∀ ・;#)「な、なぁお前ら!!見てたよな!?なぁ!!」
怒号と共に後ろを振り向き、一緒に来ていた人たちを睨みつける。
いきなり話を振られた彼らはオロオロとしながらも、首を縦に振ろうとする者は一人もいなかった。
(´・_ゝ・`)「…あぁ君たち、無理に話合わせなくていいよ。正直、ここに居るのもしんどいでしょ」
(´・_ゝ・`)「大丈夫。そのあたりは、店にあるカメラ見せてもらえばいい話だから」
さらっと言った社長の言葉を聞いて、斎藤さんは汗を浮かべてままマニーさんの方を見た。
¥・∀・;¥「……え、カメラあるって教えたことあるっけ?」
(´・_ゝ・`)「入口と、カウンターの奥に見つけ辛いけどあるでしょ。あれ、昔うちでも導入してたことあるんだ。映像だけじゃなくて音声も拾ってくれるヤツ。レンタル料高くてすぐ外したけど」
(´・_ゝ・`)「ある程度余裕がある個人の飲食経営者が、カメラの一つや二つ、店に置いてない方がおかしいでしょ。必要になったら後で見せてくれ」
¥・∀・;¥「全部バレてる!?会社経営者って皆こんななの!?怖っ!出禁!!」
世間話をする時のノリで話す二人と、さっきまでの勢いがすっかり無くなってしまった斎藤さんという構図が、いやにアンバランスに視界に映る。
また二言三言会話をした後、「あ、そうだ」と思い出したように社長は私の方を向いた。
160
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:19:41 ID:kBWnHJag0
(´・_ゝ・`)「…で、なんでお前は水なんてかけたんだ」
( 、 ;川「……っ」
何を考えているのか分からない双眸が、真直ぐにこちらを射抜いた。
気が抜けていた私は即妙に返事をすることが出来ず、口を真一文字に閉じながら目を逸らす。
意地を張った訳ではない。純粋に、どう答えていいか分からなかったのだ。
いきなり会社を辞め、暴言を吐いて逃げた元部下がどの口で「貴方の悪口を言われたから」などとほざくのか。
(´・_ゝ・`)「だんまりか。まぁ、ある程度は予測がつくが」
(´・_ゝ・`)「…さて、君の望む通りに事を進めたら君が不利になりそうだけど、どうする?まだやる?」
( ∀ ;#)「……ッ」
一瞬だけ呆れたような目をした後、私から斎藤さんへと視線が移される。
斎藤さんの後ろでは既に同僚らしき人たちは気まずさを通りこしてやや苛々しているようにも見える。
知り合いたちの前で水をかけられ、挙句に先ほどまでこき下ろしていた本人にここまで理屈詰めされては立つ瀬がないだろう。ほんの少しだが同情する。
161
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:21:52 ID:kBWnHJag0
(´・_ゝ・`)「君が失礼をした。それに対して伊藤も失礼をした。それであいこだ。それなのに、君は相場以上の見返りが自分に来ることを期待してる。仮に上手くいったとしたって、別に君自身の人生が劇的に変わる訳でも、救われる訳でもないのに」
(´・_ゝ・`)「君さぁ、もう二十代後半とか、それなりの年齢だろ?それなりに生きてるだろ?なのに何故こんな詰まらないことに拘るんだ?何の根拠もない他人の悪口を外で言うなんて、ダメなことだって知らないのか?」
(´・_ゝ・`)「教えてくれる人がいなかったのか、それを理解できない頭を持って生まれたのか、どちらにせよ可哀そうだな」
(´・_ゝ・`)「…僕も伊藤に会うまでは、周りから君みたいに見られてたのか。なるほど、ぞっとする」
社長の視線は既に私にはない。ここからでは彼の目の色は伺えないし顔も見れない。
それでも、只の声色だけで十分なくらい、彼の声には気の毒なまでの憐憫の情が含まれているのが分かる。
彼は挑発で言っている訳でも、ましてや真っ青な顔をしている男性を馬鹿にしている訳でもない。
本当に心から、”救えない”と、”どうでもいい”と思っているのだ。いっそただ馬鹿にされた方が、素直に見下された方が斎藤さんにとってはよっぽど楽だったろうに。
162
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:22:19 ID:kBWnHJag0
(・∀ ・;#)「ば、馬鹿にしてんのか!?お、お前、いい加減に――!!」
(´ _ゝ `)「いい加減にするのはそっちだろう」
声の温度が一気に低くなった。
同時に、ずっと前のめりだった斎藤さんがほんの少しだけ後ずさる。
バーの中は外と違って暖かく、適切な温度に保たれている。それは社長がやってきた前と今とで変わりはない筈なのに。
社長の声のトーンが一変したと同時に、空調全てが壊れたのではないかと錯覚するほどに。
それほどに底冷えする空気が一気に部屋の中を満たしていった。
(´ _ゝ `)「僕はな、これから恐ろしく難しい交渉に臨むんだ。今までやった、国や政治家、大手企業の役員共を相手にした商談が、飯事に思えるくらいの交渉だ」
(´ _ゝ `)「なにせ相手が相手だ。この僕…あらゆる才能や環境に恵まれた僕ですら一度も勝てない相手。もちろん、相応の準備も、覚悟もしてここに来た」
(´ _ゝ `)「それを、自分にも非があるような詰まらないことで、やれ謝罪だの訴訟だのほざく蒙昧に邪魔された僕の気持ちが分かるか?なぁ?」
心臓がキュっとなるような低い声。少なくとも、私には今まで一度たりとも向けられたことのないタイプの怒り。
社長が一歩踏み出す。それに応じて斎藤さんは後ろに退く。
斎藤さんの口は開いたまま、そこからは言語化された声など一切発される様子はない。
163
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:23:10 ID:kBWnHJag0
(´ _ゝ `)「…隠し通すつもりだったけどな、結構いま、怒ってるんだ、僕は」
(´ _ゝ `)「お前みたいな取るに足らない凡百が、僕が決めた予定を邪魔した。それだけならまだいい。今の僕なら笑って水に流せる」
(´ _ゝ `)「…でもお前、なんで伊藤に強く出たんだ?伊藤には暴力を振るおうとしてたのに、僕には口だけで、何もしようとしないよな?なんでだ?」
(´ _ゝ `)「まさかとは思うが、こいつを下に見てたりしないよな?この僕ですら一度も勝てないこいつを、僕ですら百点取れなかったテストで百点が取れるこいつを、お前如きが?なぁ?」
(・∀ ・ill)「い、いや……そ、そ、その、ちが」
(´ _ゝ `)「違うのか?違うなら何だ?どういう理由で、どういう了見でこいつを殴ろうとしたんだ?お前は、こいつに暴力を振るえる理由か立場があるのか?こいつの何を知ってるんだ?」
( ∀ ill)「……す、みま、せん、その、ちょっと、まちが、ったっていうか、その」
(´ _ゝ `)「”間違った”?」
低音が響くと同時に、店内にいる人間が全員肩を震わせた。
164
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:24:19 ID:kBWnHJag0
誰でも分かる。今に至るまでに斎藤さんが口にした言葉の中で、それは間違いなく一番の失言だった。
彼の口から訂正や謝罪の言葉は出ず、ただただ恐怖の息が漏れるのみ。
社長に守られている立場の私ですら、今すぐここから逃げ出したいと願ってしまうほどのプレッシャー。
(´・_ゝ・`)「伊藤、こいつはどこの誰だ」
('、`;川「えっ…?」
こちらに振り向かれることはなく、怒りの滲んだ声だけがかけられる。
いきなりの呼び声に上手く反応できないでいると、社長は苛立ちを隠そうともしないまま話を続けた。
(´・_ゝ・`)「こいつ、僕と会ったことがあるってことは、うちと何か関係のある会社の人間なんだろう」
(´・_ゝ・`)「”間違え”でお前を…うちの社員を殴ろうとするような奴がいるトコとなんて取引できるか。どんなメリットがあっても願い下げだ。」
(´・_ゝ・`)「お前、覚えてるんだろ。こいつは誰だ、言え」
165
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:24:51 ID:kBWnHJag0
暖房が効いている筈の部屋の中だというのに、一滴の冷や汗が首筋を流れた。
もはや斎藤さんの顔色は悪いとか青いを通り越して、雪を思わせるように白い。
死刑宣告を裁判官から言い渡された被告人のような、人生の崖際に立たされたような、恐ろしく気の毒な表情をしている。
どうしよう。どうすればいいのか。
どうするのが正解なのか、何がこの場の模範解答なのか、どうすれば100点なのか。
私が彼のことを覚えているのは、もう彼らに知られている。さっき私は斎藤さんの名前を口に出し、更に言えば、彼がうちに来た時の話まである程度鮮明に喋ってしまった。
(´・_ゝ・`)「おい、どうした。何を黙ってる」
考えがまだ纏まっていないところに促しの声をかけられる。
ちらりと社長の向こう側を見る。斎藤さんは、今にも泣きそうな顔をして下を向いている。
166
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:25:27 ID:kBWnHJag0
( 、 ;川(……”知らない”って、言ってしまえば…)
口を開こうとして、そのまま何も発さずに閉じ、心の中で首を横に振る。
社長のことだ。私がここでその場しのぎの嘘を吐いたところで、彼はきっと今日のうちにも斎藤さんのことを調べ上げるに違いない。
そして、斎藤さんを原因として彼がいた会社を非難し、契約を切る。そうなれば、斎藤さんが置かれる立場や受ける叱責は想像に難くない。
社長が生半可な処置で終わらせる訳がない。
ただ自分を馬鹿にされただけなら笑って終わらせるだろうが、その矛先が自分の会社や従業員に向かうとなれば話は別だ。
不確定要素が詰まった不安の種を、彼が摘まない訳がない。徹底的に、根も種も、なんなら土ごと掘り返す。そういう人だ。
正直に言ってしまおうか。焦りにまみれた思考の中で、そんな考えがじわじわと浮かんできた。
どうせ結末は変わらない。早いか遅いか、私がこの場で真実を告げることで変わるのはそのくらいだ。
それに、社長の言い分だって一理ある。
斎藤さんは事実無根の噂や讒言を口にしていたのは本当のことだ。例えそれが、お世辞にも広いとはいえない個人経営のバーの中でも。
けれど、彼だけが悪い訳じゃない。私だって、ただ注意すれば良かったのに酒の酔いに任せて頭から水をかけるなんて暴挙に出たのだ。
しかし、彼はその後、私に暴力を振るおうとした。
でもそれは私が余計なことを言ったからであって。
167
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:26:19 ID:kBWnHJag0
(´・_ゝ・`)「さっさとしろ。早く言え」
('、`;川「い、いや、わたし、は……」
ぐるぐると思考が回る。
理想的な答えを探そうと脳を動かしても、結局は同じ所に辿り着いてしまう。
答えが見えない。分からない。
私はどうしたいのか。この状況が、どうなればいいのか。
私は、私はただ。
社長の悪口を聞きたくなくて、それを訂正して欲しくて。
水をかけたことはやりすぎだったから、それは謝りたくて。
殴られそうになったのは、本当は凄く、凄く怖くて。
社長が来てくれたのが嬉しくて。
私が傷付けられそうになったことに怒ってくれているのも嬉しくて。でもそれを喜んでいる自分が女々しくて嫌で。
何よりも。
何よりも、本当は、私は、社長が。
盛岡くんが怒っている姿を見たくなくて。
168
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:26:55 ID:kBWnHJag0
( 、 ;川「……覚えてません」
口から無意識に漏れた答えは、あまりにも浅慮なものだった。
私の呟きを聞いて、盛岡くんはじろりとこちらを見下ろす。
何も追加の言葉が言えないまま、私はただ黙って地面を見ていた。
(´・_ゝ・`)「…お人よしもそこまでいけば、もはや天然記念物だな」
(´・_ゝ・`)「こんなのを庇って何になる?将来的にうちの会社にも、他の数多の人間にも迷惑をかける可能性が高い人間だ。守る必要性がどこにある?」
(´・_ゝ・`)「どうせ社会的にも求められてないこんなのを放っておく方が、よっぽどだろう?」
溜息交じりの注意が遥か頭上から浴びせられる。
私はただじっと、両手の拳を握ったまま震えている。
169
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:28:33 ID:kBWnHJag0
( 、 ;川「……知りません、私には、分かりません。覚えて、ません」
答えは変わらない。
情けなく震えた声を隠す余裕もないまま、されど答えは変えたくない。
盛岡くんの気持ちは分かるし、その理屈も理解できる。
だけど、理解は出来ても、納得が出来ないことがあるのだ。
(#´・_ゝ・`)「おい、いい加減にーー」
( 、 #川「……………さい」
(´・_ゝ・`)「…は?今なんて――」
('、`#川「うるっっさいわね!!覚えてないっつってんでしょ!!」
もはや、今日何度目の怒号なのか分からない大声がバーに木霊した。
叫んだのは、震えながら立っている斎藤さんでも、苛立っている盛岡くんでも、ましてや店主であるマニーさんでもない。
どこか吹っ切れたような大声の主は、他ならぬ、この私であった。
170
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:29:21 ID:kBWnHJag0
(;´・_ゝ・`)「い、伊藤……?」
('、`#川「何よ!もっともらしい理由つけて、上から睨んで!今更君なんか怖くないわよ!」
('、`#川「……そもそも、もう君の部下じゃないから君の言うことなんて聞く義理ないし!!何が会社のためよ!!私、関係ないもん!!無職舐めんな!!!」
数週間前のように、ふたたび盛岡くんを怒鳴りつける。
なんだかデジャブを感じるが、そんな違和感はこの際どうでもいい。
そうだ。私はもう彼の部下でも何でもない。会社のことなど知ったことではない。
今更私に失うものなんて何もないのだ。というか、一度啖呵を切った身なのだ。
それならば思う存分、好き勝手言ってやろうじゃないか。
171
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:30:25 ID:kBWnHJag0
('、`#川「結局、君もこの人とやってることは変わらないじゃない!自分の気に入らないことをしたから、相手の立場とか、自分の持ってる力とかを利用して、陥れて、スッキリしたいだけじゃない!」
('、`#川「何が会社のためよ!!社員のためよ!!一々綺麗な言葉で取り繕うな!!君の意地悪に、私を利用しようとしないでよ!!」
溢れそうになる感情を必死に言語化していく。
そうだ。私は別に、あの人に怒ってなどいない。
盛岡くんに裁いてもらおうとも思っていない。そもそも、彼がどうなろうが心底どうでもいい。
私はただ、盛岡くんがまた酷いことをしているという事実が嫌なのだ。
彼が誰かを傷つけようとしている景色が、心から腹立たしいのだ。
そして何より、その原因が他ならぬ私にあることが、どうにも我慢ならないのだ。
172
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:31:13 ID:kBWnHJag0
('、`#川「何度でも言ってやるわよ!私は、その人のことなんて知らない!会ってたとしても、顔も名前も覚えてない!」
('、`#川「疑うなら疑えば!?嘘だと思うなら後で気のすむまで調べればいい!!」
嘘なんていくらでも吐いてやる。それが、どれだけ脆い嘘だったとしても。
私が好きなのは、どんな難しい問題にも立ち向かう人だ。
あの手この手で結果を出して、誰にもバレないように研鑽を積んで、その苦労は誰にも見せないように強がる人だ。
だから手伝ってきた。力を貸してきた。
こんな中途半端な才能でも、身の丈に合わない記憶力でも、貴方が歩く道を少しでも舗装出来るならと答えてきた。
それを、それを今更なんだ。何を恰好悪いことをしているのか。
私は。
('、`#川「今の君なんかに、誰かに嫌な事をする気の人なんかに、私の記憶は教えない!!」
そんな目をして誰かの嫌がることをする人の手伝いをした覚えなど、一秒もない。
173
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:32:30 ID:kBWnHJag0
言いたいことは言い切った。
というか、これ以上胸中に沸く感情を言語化できそうになかった。
熱暴走してキーボードが反応しなくなったパソコンよろしく、私は激しく動かしていた口を止める。
しばらく沈黙が流れた。
盛岡くんは数秒、ただ何も言わずに私をじっと見ていた。
呆れたような、驚いたような、なんとも分からない瞳の色。
何を言われるのだろうか。まだ、彼の気は変わらないのだろうか。私の言葉は、想いは伝わらなかったのだろうか。
恐る恐る、彼の顔を覗き見る。そして目が合う。
すると、彼は顔を天井に上げ、長い長い溜息を吐いた。
(´-_ゝ-`)「……………そうか」
ボソリと、何かを諦めたみたいな呟きが零れた。
どうしたのかと私が疑問に思うより先に、彼はゴソゴソとコートのポケットを探る。
ポケットから出ていた彼の手には、数回しか見たことのない財布が握られていた。
確か、彼が車の中に常備しているサブの財布の一つだ。
財布を開いた盛岡くんが小さく「おい」と呟く。
私にではない。もはや小動物のように縮こまってしまっている斎藤さんに向けての呼び声だった。
174
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:33:02 ID:kBWnHJag0
(´・_ゝ・`)「これで、君が言うクリーニング代と、迷惑料にあたる不法行為に基づく損害賠償ってことで、いいか?」
「天は人の上に人を作らず」とかなんとか宣った有名人が描かれた紙幣が無造作にテーブルに置かれる。
遠目から伺う限りでもその数はおそらく10を軽く超えているように見えた。
(・∀ ・;)「えっ……?い、いや、その…」
(´・_ゝ・`)「よく考えれば、水をかけるというのも広義的には暴行と捉えられるかもしれない。それにまぁ、僕の先ほどの発言も脅しと言われれば否定は出来ない」
(・∀ ・;)「い、い、いいですいいです!!こんな大金…!」
(´・_ゝ・`)「いらないなら店に置いていけ。君がここに居る全員の飲み代と迷惑料を払ったという体にしたらいい。もう面倒だから、僕としてはこれで何もかも手打ちにしたい」
そう言いながら、盛岡くんはちらりとこちらを見た。
まるで「これでいいんだろう」と聞いてくるような視線だった。
175
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:33:39 ID:kBWnHJag0
(´・_ゝ・`)「これで君の矜持が満たされるかは知らないが、まだダメなら後日改めて訴訟でも何でもするといい。正直、僕は君の憤懣も目的も、どうでもいい」
( ∀ ill)「あ、あの、ほ、本当に、すみませ……」
(´・_ゝ・`)「謝罪に興味はないからもう黙っててくれ。どうせ明日の僕は君の顔も声も覚えちゃいない」
うわ、また余計なことを言ってやがる。減点だ。
変わらず失礼な言動をする彼にヒヤリとしながらも、私のほっと胸を撫で下ろしていた。
どうやら、大事にする気はすっかり彼の中から無くなったらしい。
斎藤さんはしきりにずっと頭を下げている。彼の同僚らしき人達は、心底ほっとした表情を浮かべていた。
とんでもない事になるかもしれないと恐れていたが、どうやらその心配は杞憂に終わりそうだった。
これで一安心。何事もなく店を出れる。
気を抜いた、その一瞬に。
176
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:34:32 ID:kBWnHJag0
(´・_ゝ・`)「僕の興味は」
('、`*川「へ」
突然、無遠慮に、腕をがしっと掴まれた。
(´・_ゝ・`)「最初からこいつだけだ」
('、`;川「えっ?えっ?」
私ではいくら鍛えたって出せそうにない力が腕に込められる。
痛くはないが、抜けられない、そんな絶妙な力加減。
(´・_ゝ・`)「じゃあマニーさん、お邪魔しました。本当はテーブルも貰いたかったけど欲張りはいけないのでね。今日は本命だけで良しとします」
('、`;川「な、なに!?何よ!?」
¥・∀・;¥「えっ?あ、あぁ、お、お気を付けて…?」
(´・_ゝ・`)「そこのテーブルの上の諭吉は好きなだけ取って下さい。万が一足りなかったり、テーブルに飽きが来たらすぐにご連絡を。それでは」
私の叫び声も、頭を下げたままの斎藤さんも、呆気にとられたままのマニーさんも放ってずんずんとドアに向かっていく。
言いたいことを言うだけ言って、周りへのフォローも後片付けもせずに去る様はまさに嵐のようであった。
177
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:35:36 ID:kBWnHJag0
足早にバーを出ると、冬の夜特有の寒風が頬に当たった。
緊張とアルコールで火照った今の頬には丁度良く、気持ちが良い。
…と、いつもならそう思いながら呑気に駅まで歩いていただろうが、今回は違った。
('、`;川「ちょ、ちょっと!離してよ!」
(´・_ゝ・`)「ダメだ。逃げるだろ」
空いている方の手でペシペシと抗議するも、彼の歩みは止まる様子はない。
店の前には、明らかに道交法を無視した止め方がなされている車があった。
夜の街灯を反射しながら主を待っていたそれは、紛れもなく盛岡くんの愛車である。
('、`;川「い、いいよ!私、一人で歩いて帰るから…!」
(´・_ゝ・`)「勘違いするな。帰らせるつもりはない」
え、と思った瞬間にようやく腕が解かれる。
車の前で立ち止まった彼は、少しぎこちないスピードで私の方に向き直った。
178
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:36:13 ID:kBWnHJag0
(´・_ゝ・`)「…どうせ、明日も用事なんてないだろ。なら、少しだけ僕に付き合ってくれないか。話があるんだ」
(´・_ゝ・`)「行く場所も、ここからそんなに遠くはない。少なくとも、日付は変わる程にはかからない筈だ」
最低限の夜を照らす傍光が彼の整った横顔を照らす。
こうなるのが嫌だから、隙を見てこっそり帰ろうとしていたのに。
舌打ちは心の中にどうにかとどめ、どう返事をしようか考える。
確かに、特に用事はない。明日だって昼過ぎまで寝て、また何処か適当な店にお酒を呑みに行こうと思っていた。
勢いで無職になった女の用事など、そんなものである。
179
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:37:02 ID:kBWnHJag0
('、`;川「…い、いきなり言われても……」
ただ、”予定がない”と一様に断じられるのも少し気分が悪い。
無職になった今の私に張る見栄など微塵もないが、このまま彼と話をしたくないというのも本音だ。
いきなり激情のまま怒りをぶつけた上に、勢いで退職願までぶん投げてきたのだ。それなのに二人きりで話など、気まずいことこの上ない。
どこか怯えたような彼の瞳にどう答えようか迷っていると、
(´ _ゝ `)「………頼む」
彼は遠慮がちに頭を下げた。
('、`;川「えっ…!?ちょ、ちょっと!?」
頭を下げる。別に、人が人にお願いをする時の普遍的な行動だ。
それでも、私は時間帯も気にせず間抜けな声を上げてしまった。
私の記憶には、盛岡デミタスが人に頭を下げるシーンなど、仕事の場ですら見たことがなかったからである。
180
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:38:11 ID:kBWnHJag0
(´・_ゝ・`)「前の、婚約云々についてのことはその…全面的に僕が悪かった、と思う。すまなかった」
“すまなかった“なんて、ありきたりである筈の言葉が延々と脳内に響く。
控えめではあるものの、車の前で頭を下げたままの彼の姿から目が離せない。
“何に謝っているのか”、”謝るなんてことが出来たのか”、なんて失礼な考えまで浮かんでしまう。
(´・_ゝ・`)「ただ、その……情けないことに、僕はまだ、お前が怒った理由が分からない」
(´・_ゝ・`)「僕なりにずっと考えてはみたが、お前があの時、どうしてあんなに怒ったのか、僕の元から去ったのか、結局今日まで分からなかった」
(´・_ゝ・`)「だから一度、ちゃんとお前と話したい。……僕は…その、なんというか……」
顔が上がった。
端正な瞳が忙しなく左右に動いている。時々私を捉えては、すぐにまた違う方向を見て、また私を中心として捉えに戻る。その繰り返し。
そんな彼の目とは対照的に、ピタリと言葉は止まった、
181
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:39:15 ID:kBWnHJag0
何が言いたいのだろう。何を言うつもりなのだろう。いつもなら、どんな難しい商談の時でも、誰が相手の時でも淀みなく流暢に話すのに。
寒空の下、私から何か促すのはどうしてか少し違う気がして、只じっと彼の次の言葉を待つ。
数秒の沈黙の後、彼はまるで言いたくないことを仕方なく言うかのように、漫然と唇を動かした。
(´ _ゝ `)「………お前だけには、嫌われたくないんだ」
それは、ひどく弱々しい呟きだった。
私よりずっと背の高い筈の彼が、いつも自信満々でそれに見合う能力のある彼が、今だけはひどく幼い子どものようにも見える。
既に日は落ちきり、周りには人も居らず、冬特有のしんとした静けさだけが空間に満ちている。
こんな状況でなければ、満足に聞き取れもしなかったであろう声。
私の記憶にない程に縮こまった彼を前に、私は一切の語彙を失っていた。
なんと言えばいいのか分からない。どう反応していいのか皆目見当もつかない。
182
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:40:34 ID:kBWnHJag0
“私にだけは嫌われたくない”という言葉に、喜んでいいのか。
未だ私が怒った理由が分からないという彼に、怒ればいいのか。
とにかく何か言わなければ。このまま黙ってこんな所にいても仕方ない。
ただ、依然として気の利いた言葉は出てこない。
口を無理やり動かそうにも、そこから漏れるのは只の空気の塊と化した単語のなりそこないだけ。
なんと言っていいか分からなくて、けれど、もしこのまま私が帰ったらもう、二度と彼と話せない気がして。
( 、 *川「……あんまり、遅くならないなら」
なんて。
私の口から零れたのは、なんとも面白みのない返事だった。
盛岡くんの顔が少し明るくなる。
そんな彼の様子にちょっと浮かれそうになりつつも、顔を逸らしてなんとか気が付かれないようにする。
無言のまま車に乗り込む。仕事でもプライベートでも、何度も乗った彼の車。
普通の車より大きくて、広々とした車内空間がウリな筈なのに。
どうしてか今日だけは、隣の運転席がひどく近くに思えた。
183
:
名無しさん
:2024/04/06(土) 13:38:34 ID:12yTjduw0
おつです
固唾を呑んで見守っています
184
:
名無しさん
:2024/04/06(土) 16:47:28 ID:0nitWrEg0
乙
185
:
名無しさん
:2024/12/31(火) 23:58:15 ID:LBBiok2U0
*
車の中でも、降りてからも、私たちはお互いに無言だった。
話したくない訳じゃない、と思う。少なくとも私は、彼に聞きたいことが山ほどある。
けれど、心の中とは裏腹に、どうにも言葉は出てこなかった。
車での移動中、彼はじっと黙ったまま前を見て運転するばかり。私もまた、黙って窓から景色を手持ち無沙汰に眺めるばかり。
そんな気まずい空気を破ったのは、「着いたぞ」という彼の呟きだった。
適当な場所に停まった車から降り、スタスタと歩く彼の後ろを追う。
彼は脚が無駄に長いし体力もあるから、数分も歩けば、自然と私が彼を追いかける形になるのが昔からのお決まりだった。
でも、今日はいつもほどの速さじゃない。色々あって疲れた今の私でも難なくついていくことが出来ている。
186
:
名無しさん
:2024/12/31(火) 23:59:15 ID:LAgS5lhk0
ktkr
187
:
名無しさん
:2024/12/31(火) 23:59:49 ID:LBBiok2U0
('、`;川「……えっ?ちょ、ちょっと!?」
ふと、自分たちが今歩いている場所に気付き、反射的な声を上げてしまう。
酒に酔い、暗い周囲の状況も相まって気付くのが遅れてしまった。
前を歩く盛岡くんが入ろうとしているのは、この街を代表する遊園地であった。
(‘、`;川「どこ入ろうとしてるの!?勝手に入ったら…!」
(´・_ゝ・`)「大丈夫だ。許可はとってる筈だから」
やっと口を開いたかと思えば、盛岡くんの口から出てきた言葉はまたしても要領を得ないものだった。
私の呼びかけにもまともに応じず、彼は堂々と園内に入る。
慌てて彼の後ろに続いて私も入園したがいいが、周りの街灯や建造物は一切灯りがついていない。
強いていうなら、所々にポツンと置かれている自動販売機たちが唯一の光源だった。
('、`;川(大丈夫には見えないって!)
口には出さないまま心中で文句を垂れつつ、置いていかれまいと懸命に彼を追いかける。
このままでいいのか。不法侵入ではないのか。やっぱり今すぐにでも彼を連れて引き返すべきでは。
だが、私がそう言ったところで今の彼が素直に従うだろうか。そもそも、彼は私に何の話をするつもりなのか。
一貫性のない考えを巡らせていると、ぽんと何かにぶつかった。
僅かな痛みに額をさすりながら前を向く。どうやら、私は急に立ち止まった盛岡くんの背中にぶつかったらしい。
188
:
名無しさん
:2025/01/01(水) 00:02:12 ID:TcObiKy60
「突然止まらないでよ」。そう言おうとした私の口からは結局何の声も出なかった。
急に酔いが回って気分が悪くなったからではない。無論、盛岡くんの意味不明な言動に怒りが突如沸いたからでもない。
立ち止まった私と盛岡くんの眼前には、未だ煌々と光る観覧車が聳え立っていたからである。
('、`;川「えっ…!?な、なんで……」
この遊園地の閉園時間は遥か昔に一度調べたことがある。
確か、冬の時期はどんなに遅くても20時には閉まる筈。
そして現在の時刻は今更調べるまでもない。そろそろ日付が変わるかどうかというところ。
事実、ここに至るまでの園内の施設は一つの例外もなく閉まっていた。
…にもかかわらず、観覧車だけは眩いほどに輝いている。
何度瞬きをしてもその光景は変わらないことから、見間違いでもなければ酔っ払いの幻覚でもなさそうだ。
(´・_ゝ・`)「よかった、ちゃんと用意してくれてたな」
私とは違って然程驚いたような様子も見せず、彼は迷いなく観覧車の方へと歩を進める。
観覧車の下、受付らしき場所には従業員と思われる方が一人。
まさか、こんな時間でも本当に観覧車だけ動いているのか。
189
:
名無しさん
:2025/01/01(水) 00:04:19 ID:TcObiKy60
(´・_ゝ・`)「すいません。連絡した盛岡です」
( ´∀`)「うん…?あ、どうもどうも。お待ちしてましたモナ」
温厚そうな男性はペコリとこちらに一礼すると、通常業務だと言わんばかりに私たちを通した。
困惑したままの私を放って、盛岡くんは従業員の男性と共に前へと遠慮なしに歩いていく。
「一体どういうつもりなのか」と口を開こうとするより先に、彼は観覧車のゴンドラ乗り場の前に辿り着く。
そして、彼はゆっくりと私の方を振り向いた。
(´・_ゝ・`)「ほら」
('、`;川「…?」
(´・_ゝ・`)「何色がいいんだ、好きなの選べ」
('、`;川「えっ…?す、好きなのって…」
190
:
名無しさん
:2025/01/01(水) 00:06:15 ID:TcObiKy60
「急に選べと言われても」と心中で毒づきつつ、慌てて上空を回る観覧車に目を凝らす。
青や赤、緑に黄色、よく見れば少し淡いライトブルーやお洒落な紫といった色のゴンドラまである。
昔、高校の頃に修学旅行で訪れた遊園地の観覧車を思い出す。
あそこの観覧車も中々壮大ではあったが、ここまでカラフルではなかったし大きくもなかった。
あの日は確か、そうだ。
集合時刻が迫っていたせいで乗れなくて、盛岡くんと一緒に慌てて集合場所まで走って。
それと確か、観覧車を見ている時に、白い雪が降ってきて――。
('、`*川「……あ」
ふと、一台のゴンドラが目に留まった。
他のカラフルなゴンドラとは違い、あの日を思い出させるような、真っ白で綺麗なゴンドラ。
素早く観覧車全体を俯瞰するように眺めても他に白のゴンドラは見つからない。
あれだけはなにか、特別な一台なのだろうか。普段なら特別料金を要求するような、そういうタイプの物だろうか。
不思議な気分のまま、私はじっとこちらにゆっくり降りてくる白のゴンドラを見つめる。
周囲の光を眩く反射するそれは、私の目には一際魅力的に見えた。
191
:
名無しさん
:2025/01/01(水) 00:08:04 ID:TcObiKy60
(´・_ゝ・`)「……よし。じゃ、あの白いのでお願いします」
( ´∀`)「畏まりましたモナ。どうぞー」
('、`*川「ちょ、ちょっと!私はまだ何も…!」
(´・_ゝ・`)「さっさと乗れ。この寒い中、また一周待つのは御免だ」
にこやかに手早く開かれたゴンドラの扉に向けてグイグイと背中を押される。
従業員さんの柔和な笑みと盛岡くんからの物理的な圧に負け、抵抗も空しく、私は容易くゴンドラの中へと押し込まれてしまった。
(´・_ゝ・`)「よいしょ…うわ、見た目より狭いな」
( ´∀`)「いってらっしゃいませモナ〜!」
狭い室内で体勢を立て直しているうちに後方からガチャという音がする。
振り向くと既に扉は閉まっており、ゴンドラはゆっくりと地上から離れようとしているところであった。
192
:
名無しさん
:2025/01/01(水) 00:10:00 ID:TcObiKy60
('、`;川「えっ!?ほ、本当に乗るの!?何これ、どういうこと!?」
(;´・_ゝ・`)「ちょ…暴れるな。さっさと座れ、危ないだろ」
半ばパニック状態の私に、冷や水のような正論がかかる。
さっきから何なんだこの人は。
いきなり人を車に乗せてどこへ行くのかと思えば、とっくに閉園時間は過ぎている筈の遊園地に連れ込んで。
挙句の果てに既に営業は終わっている筈の観覧車に連れてきて、「さっさと乗れ」だのなんだのと。
彼が突飛なことをするのを見るのは別に珍しいことじゃない。その対象が私であることも含めて。
だが、ここまで意図も目的も見えないのは初めてだった。
「早く座れ」と目で促す彼に私は何も言えないまま対面に腰を落ち着ける。
全くもって意味が分からない。さっきから彼は一体何がしたいのだろうか。
193
:
名無しさん
:2025/01/01(水) 00:12:04 ID:TcObiKy60
( 、 *川「………どういうつもり、なの」
腕を組んだままじっと斜め下を見つめる彼に痺れを切らして話しかける。
やけに真剣そうな表情で「話がある」と言われたかと思えば、車中では何も言われず、既に閉園した筈の遊園地へと入れられ、挙句には観覧車に押し込められたのだ。
それ相応の理由があるに違いない。というか、そうでなければ困る。
(;´・_ゝ・`)「……どういうって…言ったろ。話がしたいって」
('、`*川「その話ってなんなのよ」
(;´・_ゝ・`)「だから……その、あの時、なんであんなに怒ったのかって…」
('、`*川「はぁ?…まだ、本気で分かんないの?」
無意識に荒げてしまった声が狭いゴンドラに響く。
目を左右に激しく泳がせる盛岡くんはそれ以上口を開こうとせず、小さく頭を垂れるだけ。
(´ _ゝ `)「……決して、ふざけたつもりはなかったんだ」
追撃しようとしていたその矢先、零れるような呟きが静かに私の鼓膜を揺らす。
彼は顔を上げないまま、雨だれからポツポツと落ちる雫のようにゆっくりと語り始めた。
194
:
名無しさん
:2025/01/01(水) 00:15:13 ID:TcObiKy60
(´ _ゝ `)「本気で、僕と婚約することが、お前の為になると思った」
「この国の”婚姻”は、法的にも持つ意味が強いから」と、か細い声がゴンドラ内に転がる。
盛岡くんに相応しくない、ひどく自信のない声色だった。
(;´・_ゝ・`)「万が一何かあってもお前の得になるように、証書まで用意して…。揶揄うとか騙そうとか利用しようとか、本当に、そんな気はなかった」
(´ _ゝ `)「……だから、あんなにお前が拒絶するなんて思ってもみなかった。お前には、メリットしかないと思ってたから」
石像みたいに固まったままの静かな語り。
いつもなら決して見えない彼の後頭部がやけに小さく見える。
(´ _ゝ `)「…理由を考えた。何時間も、何日も、何週間も。僕はまた、お前を傷つけたんだと」
(´ _ゝ `)「それでも、情けないことに何も分からなくて……今、このザマだ」
(´ _ゝ `)「…………すまなかった」
私よりもずっと背の高い筈の彼が、今は一回り小さい子どものように見える。
目を瞬かせても眼前の光景は変わらない。盛岡くんは教会に訪れた罪人みたいな姿で、じっと私に頭を下げたままであった。
195
:
名無しさん
:2025/01/01(水) 00:17:04 ID:TcObiKy60
質問に質問で返す。口述の試験なら間違いなく落第に値する対応だ。
答えを言ってもいい。彼の望む模範解答は今すぐにでも出せる。
それでも、私の口から出たのは、まるで答えになっていない質問だった。
盛岡くんの顔がゆっくりと上がる。その表情には困惑の色が見て取れる。
彼はその端正な瞳を丸くしながら、数回戸惑うような瞬きをしてみせた。
(;´・_ゝ・`)「…何でって……昔、言ったろ?」
(´・_ゝ・`)「大きい観覧車、乗せてやるって」
「何を言っているのか」。そう言おうとした矢先にピタリと私の唇は動きを止めた。
“昔”という言葉が脳内で何度も反芻する。
今日じゃない。最近でも、先月でもない。
ずっとずっと昔。私と彼が只のクラスメイトだった頃。
修学旅行の終わり際に彼が、私に言った約束。
196
:
名無しさん
:2025/01/01(水) 00:18:11 ID:TcObiKy60
('、`;*川「………覚えて、たの?」
(´・_ゝ・`)「…今更になって、申し訳ないが」
記憶力に自信のある私でさえ、今の今まで忘れていた。
正直に言えば忘れていたのではない。諦めていたのだ。
あの頃以上に私とは比肩し得ない成長していた彼が、今更あんな取るに足らない約束を覚えている筈がないと。
話の流れでしただけの、あんな大した意味もない只の口約束。
期待するだけ無駄だと思った。口にしたところで、貴重な彼の時間を奪うだけだと。ただ彼の横に居られるだけで満足するべきなのだからと。
それを彼は、今の今まで覚えていたのか。
覚えてくれていた、のか。
197
:
名無しさん
:2025/01/01(水) 00:24:30 ID:TcObiKy60
(´・_ゝ・`)「……あのなぁ、お前に比べれば大したことないだろうが、一応僕も記憶力には自信がある方だぞ」
('、`;川「で、でも君昔から、人の名前とか顔とか、した会話とか、全然……」
(´・_ゝ・`)「それはそうだろ、好きでもない人間のことなんて一々覚えるか。どんなにコストを費やせたとしても顔と名前くらいで精一杯だ」
一瞬だけ合った目が、すぐに景色の外へと向けられる。外から見える景色はまだビルが近く、未だ最高点には到達していない。
どこか罰の悪そうな彼の横顔に、ゴンドラ内の照明が反射していた。
そういうものか、と一人静かに納得して足元を見つめる。
確かに、彼が私を頼る時は大抵、「さっき喋ってたの誰だ?」だの「今日来る人の名字なんだっけ」だの、人間関係についての事柄だった。
それも、あまりに人として最低限弁えるべきことばかりを聞いてくるものだから、すっかり彼はあまり記憶力が良くないと勘違いしてしまっていた。
うっかりしていた。そうだった。そういう人だ。
彼は別に物覚えが悪い方ではなく、ただ特定の人間にしか興味を示さないだけで――。
ぱっと顔を上げる。
普段なら、整っているなぁと感嘆していたであろう、見慣れた横顔。
だが、私が口を数秒噤んだ理由は、そんなことが理由ではなかった。
('、`*川「――君」
('、`*川「 私のこと、好き なの?」
198
:
名無しさん
:2025/01/01(水) 00:31:34 ID:TcObiKy60
脳が動くより先に、文章が整理されるよりも前に、言葉という最低限の形だけを繕っただけの感情が口先からぽろりと零れた。
(´・_ゝ・`)「…?」
彼はちらりと、ほんの一瞬だけ私を見る。
そして数秒、自分がさっき何を言ったのか、ゆっくりと思い出すように目を泳がせる。
しばらくして、ピタリと瞳の動きが止まる。
次の瞬間。
(*;´・_ゝ・`)「……………っ!?」
夏に咲く彼岸花みたいに、頬にぱっと赤みが差した。
(*;´ _ゝ `)「違う!!!」
いつも冷静な彼の口から出たとは思えない大声が、ゴンドラを揺らした。
(;´・_ゝ・`)「……あっ、いや、違う!いや、その、違うというのが、違くて」
(;´ _ゝ `)「ええと……なんだ、その、今のは……あれ、だ。二重否定と、いうか」
(;´・_ゝ・`)「つまりだな、俺は あ、いや…その、僕は… あれ、というか、その……」
全く要領が掴めない言葉が濁流と化す。
一瞬勢いよく立ち上がったかと思えば、目をザバザバと泳がせながら必死に文章未満の何かを羅列している。
女の私ですら羨ましくなるほどの白を纏った頬の肌は、普段とは一転して、一目で分かるほどの濃い朱に染め上がっている。
199
:
名無しさん
:2025/01/01(水) 00:33:39 ID:TcObiKy60
どんな相手でも、『盛岡デミタス』は冷静だった。
学生の頃も、ゼロから起業した時も、事業が軌道に乗る前の頃も、ずっと。
大企業の役員だろうが、官公庁のお偉いさんだろうが、彼はその不遜な態度を崩すことなく、自身の要望を通してきた。その姿に、私含め、何百もの人間が憧れたのだ。
だが、今はどうだろう。そんな姿は見る影もない。
私の目の前にいる男は、まるで好きな人をバラされた中学生みたいに、慌ただしく狼狽しているではないか。
( 、 *川「………いいよ、別に」
零れるように、短い言葉が漏れた。
失望の意を含んだものでもなく、宥めるようなものでもなく。
私の口から漏れたのは、まぎれもない“諦観”の声だった。
(;´・_ゝ・`)「…え……な、なにが…?」
('、`*川「だから…変に言い訳しなくたっていいよって」
(;´・_ゝ・`)「い、言い訳というつもりじゃなくてだな…。ちょっと、待ってくれ。今は適切な言葉を探してる途中で…」
( 、 *川「だからさ、もう、いいんだよ」
( 、 *川「別に君、好きじゃないでしょ、私のこと」
200
:
名無しさん
:2025/01/01(水) 00:34:53 ID:TcObiKy60
盛岡くんの声がピタリと止まる。
さっきまでは夏の曼珠沙華みたいに紅く染まっていた彼の頬が、一気にその熱を失っていくのが見て取れた。
(;´・_ゝ・`)「……は?」
静かな視線が降り注ぐ。
怒りではない。ただただ困惑の色だけが浮かんだ瞳。
無理しなくていいのに、と、私はどこか他人事のように心中で溜息を零した。
嬉しくない。そう言えば真っ赤な嘘になる。
多少なりとも、長年ずっと片思いしていた異性から特別に想われていたのだ。それが嬉しくない筈がない。
けれど、分かっている。私は既に見てしまっている。
それはあくまで、「他の人と比べれば」程度の特別に過ぎないということに。
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