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ラトヴイームの守り手だったようです
283
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:00:04 ID:3ISfrQos0
「手ぇ、放すなよ」
声が聞こえた。手を握られた。姿は見えない。けれど、存在は感じた。
見えない手のその先が、私を引っ張った。私はそのまま、引っ張られるに任せた。
彼が私を呼んだ。私も彼を呼んだ。彼が私を呼んだ。私もまた、彼を呼んだ。
自分がいまどこをどのように動いているのかも判然としないまま、
けれどもわずかな恐れも抱かずに私は、先を進む力に身を任せた。
そうしてそれが、どれだけ続いたことだろうか。遠く、光が見えた。
暗く長いトンネルの、出口を示す光が。一層の力で、先を行く手が私を引っ張る。
握るその手に力を込めて、私も後についていく。走って、走って、一緒に走って。
そうして私たちは、辿り着いた。
そうして、そうして、辿り着いたその先には、光差すその先には――。
284
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:00:29 ID:3ISfrQos0
「……わぁ」
見渡す限りの緑の世界が、目の前に広がっていた。
おとぎ話に出てくるような、光り溢れる神様の楽園。そんな言葉が、自然と浮かぶ。
私たちが暮らす山のすぐ側にこんな素敵な場所があっただなんて。
その余りにも現実離れした光景に私は見惚れ、しばらくそのまま言葉を失った。
「とっておきの秘密基地さ」
へへっと鼻の下をこすりながら、プギャーくんが自慢げに腰を反る。
それからプギャーくんはこっちだと言って、再び私を引っ張り出す。
晴れやかな青の空を背景に頂く、緩やかな稜線を描く緑の丘。
その丘を私たちは、ゆっくりゆっくり、噛みしめるようにして登っていく。
なんだか、どきどきした。
あのトンネルで感じた怖さが残っているのか、この光景に対する感激なのか、
それともそれらとも違う、あるいはそれら全部をひっくるめたなにかなのか。
その正体は判らないけれど、とにかく私はどきどきしていた。
そしてそれは、決していやなどきどきではなかった。
285
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:01:10 ID:3ISfrQos0
「なあお前、ケテルの使徒王物語って知ってる?」
丘の天辺には小さな、本当に小さな小屋があった。
張り合わされた板は不揃いで、全体的にどこか歪んでいる、手作り感満載な小屋。
それは到底、人が住めるようなものには見えなかった。
家を建てようとしてこれを作られたら、殆どの人が怒り出すかもしれない。そんな印象を抱いた。
でも私は、この歪んだ小屋を見て、一目でいいなと思った。
その不揃いさが、楽しんで作ったといった風情が、これを作った人の、
その人柄を反映しているみたいで。「オレが作ったんだ」と、プギャーくんは言った。
やっぱりって、私は思った。
プギャーくんが小屋の前に座った。私もその隣に座る。
するとプギャーくんが、藪から棒に聞いてきたのだ。ケテルの使徒王物語を知ってるかって。
おとぎ話の、英雄譚。絵本にもなっているそのお話を、私はもちろん知っていた。
でも、私の知っているお話が本当に正しいものなのか。
間違っていなかったとしても実はまだ聞いたことのない、もっと詳しい話もあるのではないか。
そう考えると、知っているとは答えられなかった。
それに……プギャーくんがあんまり、きらきらと期待するような目で私を見つめるものだから。
だから私は知らないよって、うそとも言えないうそをつく。
なんだなんだよしゃーねーなーと、プギャーくんはうれしそうに頭をかいた。
286
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:01:39 ID:3ISfrQos0
ケテルの使徒王さま。戦乱の世をひとつにまとめ、平和な世界を築いた伝説上の王様。
嘘か真かはともかくも、いまはいくつにも分かたれた私たちが暮らす国々の、
その礎を築いた偉大なる祖王とされる方。
その王様の物語を、プギャーくんは話して聞かせてくれた。
情感たっぷりに、時には謳うように。
その話し方にはどこか、紙芝居をする彼のお父さんの面影もあって。
たった一人の聴衆に向けて開かれたそのお芝居を私は、間近の特等席で聞き続けた。
「……あん? 使徒王さまはどうしてセフィロトに向かったかだって?
ああそれはな、それはだな――」
プギャーくんが口を閉ざし、感無量に手を叩いた私は、良かった、本当に良かったと、
ちょっと照れくさそうにしている話し手の彼に直接伝える。
それから私は溢れる言葉を抑えようともせず、思いつくままに感じたそれらを述べていった。
それはプギャーくんの話し方そのものについてだったり、物語そのものについてだったり。
そうした言葉の奔流の一環の中で私は、ほんの気なしに、聞いだのだ。
使徒王さまは、どうして王様を辞めてセフィロトに向かったんだろうね、と。
するとプギャーくんはなにやら考え込むようなポーズを取って、
それから自作の小屋に上半身を突っ込み、
もぞもぞとなにやら動いたかと思えば、紙の束を取り出した。
287
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:02:26 ID:3ISfrQos0
「なあこれ、これ見てみろ」
そこには絵が描かれていた。幻想的な街や、幻想的な自然の描かれた絵。
星の川、光の冠、見たこともない大きな鯨。迫力と勢いと、なによりも情念を
そのままキャンバスにぶつけたかのようないくつもの絵。
「プギャーくんが描いたの?」と私が問いかけると、彼は自慢げな笑みを浮かべた。
「お前さ、泣いちゃいけないって思ってんだろ」
ケテルの使徒王物語を描いた絵だとは、すぐに判った。
これは星の飛沫の流れるアッシャーで、これは使徒王さまが神様から授かった宝冠。
それにこれはきっと、黄水晶の王鯨アドナ。一枚一枚、穴が空くくらいにじっと見ていく。
どれもどの絵も、絵だけに収まらない、本当にここに在るかのような存在感が確かにあって。
「泣いたらみんなを、いらいらさせちゃうから……」
「んなこたねーよ」
288
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:03:21 ID:3ISfrQos0
けれど描かれた絵は四枚ほどで、あとは描きかけのもの、
まったく白紙のもので、むしろそちらの方が圧倒的に多かった。
「お前の涙は、お前だけが持ってるもんだろ」
こいつを完成させるのがオレの夢で、“願い”なんだとプギャーくんはいった。
「だってよ、お前だけなんだぜ。親父の紙芝居見て、あんなふうに泣いてたやつ。
他の誰にもできないことを、お前だけがしてたんだ。それってすげーことじゃんか」
「……すごい?」
「ああ、すげー。だから、お前だって思ったんだ。お前とならってさ」
でも、プギャーくんはこうも言った。使徒王がなにを願ってセフィロトへと向かったのか、
果て先にある光とはなんのことなのか。どんなに考えても、オレにはそれがわからなかったと。
だけどよと、プギャーくんは付け加える。
289
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:03:44 ID:3ISfrQos0
「わからんもんは話せもせんし、描けもせん。だからよ、正直お手上げだったんだ。
適当にでっちあげて台無しにもしたくねーし、こいつぁーお蔵入りかねーって。
……でもな、お前と会って、泣いてるお前を見て、思ったんだよ。
もしかしたら……もしかしたらだけど」
プギャーくんは、言った。
「もしかしてお前となら、使徒王物語を完結に導けるんじゃないかって」
プギャーくんはそう、言ってくれた。
「……まーよ、もしダメだったとしてもそれはそれでいいんだ。
だってオレ、お前のこと好きだしな!」
プギャーくんは私に、そう言ってくれたのだ。
「お、見たことない表情! デッサンさせれ!」
「……や、やー」
「なんだよ、なんで隠すんだバカコラー!」
「やー……」
泣いてばかりいたこんな私に、プギャーくんは、そう――。
.
290
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:04:17 ID:3ISfrQos0
プギャーくんは、やさしい人。
嫌なことや悲しいことに傷ついた日は、黙って側にいてくれる。
プギャーくんは、お茶目さん。
いたずらするのが大好きで、街の大人やお父さんによく叱られている。
プギャーくんは、照れ屋なの。
絵を描いてるところを見つめると、なんだよって口をとがらせそっぽを向いちゃう。
プギャーくんは、手先が器用。
欲しいものは買ったりしないで、特別なものを自分で自由に造ってしまうの。
プギャーくんは、ばかこらって言うのが口癖。
やさしい時にも、お茶目な時にも、照れてる時にも、造った時にも、
なんでもかんでもばかこらって付け足してる。
他にも、たくさん、プギャーくん。
プギャーくんは、プギャーくんは、プギャーくんはね――。
.
291
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:04:50 ID:3ISfrQos0
プギャーくんと、離れたくない。
.
292
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:05:20 ID:3ISfrQos0
「お、お、お、お前たちが先に奪ったんだ! だから俺は取り返すだけだ!
お、俺は悪くないんだ! 俺は、俺は!!」
そう言って彼は、深緑の瓶を勢いよく煽った。
口の端から茶色い液体を溢れ零して、それが顎から首に、
首から服の襟にまで伝わっているけどもそんなこと、彼はまるで気にもしない様子で。
やがて彼はその震える手で酒瓶をひっくり返し、
口の側を空いた片手に押し付けたり、片目で底を覗き見たりしていたけども、
とつぜん「クソ、クソ!」と悪態を吐きながらその酒瓶を壁に向かって投げつけた。
割れ散ったガラス片が、私の顔にまで飛んでくる。
猿ぐつわ越しに悲鳴を上げた私を、彼が睨んだ。
「い、い、いいか、動くなよ! にげ、逃げ出したら、
逃げ出したら、ただじゃ済まさねえからな!」
彼はそう言い、部屋を出ていく。
扉の向こうからがちゃがちゃと鍵を掛けるのに手間取っている気配と、
「おんぼろが」と苛立たしげに呻く彼の声が聞こえた。
それも、やがて、途絶えた。声も音も、なくなった。
私は――私はそれで、動かなかった。手も足も荒い縄に縛られ、
椅子に固定された私に、動くことなどできなかった。
いや、たぶん。たぶんそんなふうに拘束されていなかったとしても、私はたぶん動かなかった。
声を殺し、息を潜めてじっとじっと、そこに留まり続けていただろう。
だって私は、私だから。私はだって、こんなにも情けのない私なのだから――。
.
293
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:05:45 ID:3ISfrQos0
あれから。プギャーくんに秘密基地へと案内してもらったあの日から。
私たちは多くの時間を共有してきた。紙芝居を見て、一緒においしいものを食べ歩いて、
こんなふうにしたらどうかな、こういうのはどうかなって、
プギャーくんが絵を描くのを見守って、使徒王さまの紙芝居について意見を交換したりして。
「もしかしたらね、私、思うのだけど」
こんな時間があるなんて、私は知らなかった。
「使徒王さまって、きっと、たくさんの、 たくさんのお別れをしてきたんだよね?
つらくて、悲しい、たくさんのお別れを」
痛いも怖いも不安もない。こんな時間があるだなんて。
「だからね、使徒王さまはセフィロトにね、会いに行ったってこと……
ないかな。大切な、その、誰かに」
暖かくて、安らいで、幸福な――こんな、かけがえのない時間が。
「いまはもう会えない、大切な人に――」
私はこの時間が、この幸せな時間がずっと続くと思っていた。
ずっと続くといいなって、そう思っていた。プギャーくんの隣で、そう思っていた。
これからもずっとずっと、ずっとずぅっと、同じ時間を過ごすんだって。
プギャーくんと、私と、同じ時間を――。
.
294
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:06:10 ID:3ISfrQos0
「なんて、なんて浅ましいことをしてくれたんだお前は!!」
お父様が帰ってこられた。すべてを理解し、そのすべてに目を血走らせるほどに激高した上で。
私は私なりに自分の行いを隠してきたつもりだったけれど、それは所詮子供の浅知恵で、
大人たちはみんな、私のことなんてお見通しのようだった。
一人で紙芝居を見に行ったこと、外で買い食いしていたこと、男の子と二人で一緒にいたこと。
それらは全部、私の知らない私を知る人達の目によって監視されていた。
好奇と噂という名の檻の中で。
お父様が何を許せず、何にお怒りになっているのか。それは判るようで判らなかった。
けれど、重要なのは私の理解なんかじゃ決してない。お父様を怒らせてしまった。
それがすべてで、それが、恐怖だった。私にとって神にも等しいお父様の怒りを買ってしまった。
それが、すべてだった。
295
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:06:39 ID:3ISfrQos0
「お前は修道院に送る! 成人するまで帰ってこなくてよろしい!」
あらゆる物事は私の手の届かない頭上で決定され、私は街を離れなければならなくなった。
一度も着たことの洋服や一度も使ったことのない日用品などが、
私とは無関係のところでまとめられていく。
変わりつつある状況を私はただ、見ていた。
手を出そうなどとは思わなかった。怖くて。それに、悲しくて。
軟禁されて、外に出られなくて、私は泣いてばかりいた。
プギャーくんに会いたかった。
プギャーくん、プギャーくん、プギャーくんと、私は繰り返した。
言葉は虚しく空を回った。それでも私は繰り返した。
プギャーくん、プギャーくん、プギャーくん。
もしかしたらそれは私にとっての精一杯の抵抗で、
あるいは彼に向けた贖罪であったのかもしれない。
こんなに苦しんでいるんですという無意味で無価値な、
自己嫌悪と自己憐憫の入り混じった形だけのポーズ。
誰かに見つけてもらうことを期待した、浅ましく他力本願な訴え。
当然そんなものに、現実を変える力なんてあるはずもなく。
296
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:07:04 ID:3ISfrQos0
そして、その日。私は馬車に乗せられた。遠く遥かな修道院へと向かう場所に。
私は抵抗しなかった。心の中でプギャーくんと繰り返す、それ以外の抵抗を。
鞭を打たれた馬が歩を進め、車輪がからからと回りだす。
石畳に舗装された道を、かたこと揺れながら馬車が進む。
プギャーくんに会いたい。私はそう思う。
プギャーくんと一緒にいたい。私はそう思う。
プギャーくんと離れたくない。私はそう思う。
プギャーくんと、離れたくない。
297
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:07:33 ID:3ISfrQos0
声が聞こえた。朗々と張り上げられた、迫力のある声。外を見ないでも判った。
馬車が、私が、いまどこにいるのか。この近くでいま、何が行われているのかを。
その熱気を、固唾をのんで一点に集中する子どもたちのすがたを、私は見ぬままに感じ取れた。
これまでそこで起こったこと、そして――そこで出会った人のことを思った。
このままでいいのと、私の中の何かが訴えた。
このまま彼に会わないまま、遠い遠いどこか
知らない場所に送られて、本当にそれでいいのかって。
いいはずがなかった。紙芝居の主人公たちも、そうだった。
動かないことに後悔して、だから動いて、動いて、願いに向かったのだ。
あの子も、あの子も、あの子も。
……私、だって。
298
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:07:58 ID:3ISfrQos0
飛び出した。馬車から。何も考えずに――なんて言えるほどまっさらではなかったけれど、
怖かったけれど、お父様に怒られることを想像してしまったけれど、それでも私は飛び出していた。
それで私は広場に――は、向かわなかった。そっちではない気がした。
プギャーくんがもし私を待ってくれているなら、私と会ってくれるなら、そこではない気がした。
だから私は、走り出した。山に向かって。街の西の――私たちの“セフィロト”に向かって。
プギャーくん、プギャーくん、プギャーくん。
私は繰り返す。走りながら繰り返す。私は動いている。
止まらないで動いて、願いに向かって走っている。
プギャーくん、プギャーくん、プギャーくん。
会いたい、会いたい、あなたに会いたい。
そう願いながらも私はちゃんと、願うだけでなく進んでる。
街を駆け抜け、山を登って、私は彼に近づいている。
299
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:08:18 ID:3ISfrQos0
トンネルの前までやってきた。
心臓は破裂しそうで、顔は熱いを通り越してひりひりとした痛みを感じたけれど、
でも、あとちょっとだった。あとちょっとだと思えば、
あとちょっとで会えると思えば、こんな痛みなんてへいちゃらだった。
明かりも何もなかったけれど、でも、きっと身体が覚えてる。
彼と通ったこの道を、私は絶対覚えてる。だから私は手ぶらのままに、
楽園へと続くトンネルへ入ろうとした。腕を、つかまれた。プギャーくん?
振り返った。
知らない男の人が、そこにいた。胸ぐらをつかまれ、頬を叩かれた。
.
300
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:08:47 ID:3ISfrQos0
「お、お、お、お前たちが先に奪ったんだ! だから俺は取り返すだけだ!
お、俺は悪くないんだ! 俺は、俺は!!」
どもる彼は口から泡を飛ばしながら、怒鳴り声で私に様々な言葉をぶつけてきた。
俺たちはあの戦争で戦ったんだ。国のため、正義のために戦ったんだ。
クリスマスまでには帰れるはずの戦いだった。簡単に勝てるはずだった。
それをお前らが、お前ら商売人が儲けるために武器を、
見たことも聞いたこともない兵器をばらまいたから戦争はどんどんどんどん長引いた。
長引いて、みんな死んだ。肉屋のアランも、学生だったニコラも、みんな死んだ。
ガキの頃から一緒だったレナルドも死んだ。俺だって、俺だってこんなになっちまった。
全部、全部、お前らのせいで。
なのにお前らはのうのうと暮らしている。
戦ってないくせに、戦争にも行っていないくせに、いいもんを食って、
いい服を着て、いい暮らしをしている。戦ってもいないのに。
なんの苦労もしてないくせに、俺らの屍の上で幸せそうに暮らしてやがる。
こんなの不公平だ。この国は、俺たちの国は、
自由と公平の革命によって生まれ変わったはずなのに。
だからこれは、革命なんだ。俺の、俺による、俺のための革命。
奪われたものを取り戻す、資本家どもに対する革命。
お前たちが奪ったものを、俺がこの手で奪い返すための。
だからこれは正義の革命で、悪いのはお前たちで、俺は悪くないんだ。
俺は、俺は、お、お、お、俺、俺、俺は、俺は。
301
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:09:13 ID:3ISfrQos0
手に持った酒瓶を煽り煽り、彼は私に話し続けた。
私たちがどんなに卑劣で、醜悪で、度し難い存在であるのかを、
手と足とを拘束し、口を抑え、固く椅子に縛り付けた私に向かって訴え続けていた。
そしていつしか部屋の中の酒が尽きたのか、
古ぼけ錆びた扉に鍵をかけて、部屋の外へと出ていったのだ。
私は、誘拐されたらしかった。なんのために、どんな目的で。
おそらくは先程までの訴えに関係する何かを叶えるためなのだろうと、
そこまではなんとなく判った。けれど肝心の、彼の訴え続けていた言葉を私は、
何も理解できていなかった。それどころではなかった。
あの山で、トンネルの前で頬を叩かれて以降、
私の中にはショックと”怖い”以外の何物も消え去ってしまっていたから。
どうしよう、どうなるの。怖いのは嫌だよ。怖いのは怖いよ。どうして怒っているの。
私が何かしたの。私が臆病だから? 私が泣き虫だからですか?
いやだ、怒らないで。怖いことしないで。こんなところにいたくない。
逃げたい。でも怖い。逃げるのも怖い。動くのも怖い。
息をするのも、心臓が動くのも、生きるのも、全部、全部――。
怖い、怖いよ。誰か助けて。誰か、誰か――。
プギャーくん――。
302
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:09:52 ID:3ISfrQos0
「リリ!」
初めは、なんだか判らなかった。
名前を呼ばれたことも、誰が私を呼んだのかも。
だから私は怖くって、止まった呼吸をさらにぎゅっと固めて止めて。
でも、二回目に。もう一度、呼ばれた時に。うそだって、私は思った。
だってこんなところに彼が、彼がいるはずなんかないって。
彼を求める私の頭が、都合よく彼の声を響かせているだけなんだって。でも、違った。
彼の手が、縛られた私の手に触れた。
「なあリリ、オレ、わかったんだよ。お前と会えなくなって、わかったんだ」
視界の端に、ナイフの煌めきが映った。彼がいつも持ち歩いているナイフ。
りんごの皮とか、絵を描くためのペンを器用に削る彼のナイフ。
そのナイフが私の手元へと、私の手首を縛る戒めへとするりと潜り込んでいく。
「お前が来なくなって、正直むかついた。むしゃくしゃした。
意味わかんねーって親父の菓子を貪り食って、ぶん殴られたりもした。
だってお前、あんまりいきなりなんだもんよ。
だから秘密基地で、お前のこと散々にバカコラって怒ったりもした。
でも、でもよ。違ったんだよ、そうじゃねーんだよ」
303
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:10:17 ID:3ISfrQos0
ぎゅうぎゅうに締め付けられて麻痺しかけていた手首に、
留まっていた血液がどっと送られていく。次いでナイフは、足へと向かう。
右足、左足と、私の身体が椅子から解き放たれていく。
「オレ、寂しかったんだよ。お前と一緒にいるのが楽しかったから、
とつぜんいなくなられてショックだったんだよ。
オレは楽しかったのに、お前は違ったのかよって。
それに、それに、絵だって白紙のままなんだ。
描けないんだ、描きたいんだ、一緒に。お前と、紙芝居、完成させたいんだよ。
だから、だから、あー……あーもー!」
そして、猿ぐつわが外されて。
自由になった私は立ち上がって、振り返って彼を、
わずかに顔を赤らめている彼を――プギャーくんを、目の前に捉えて。
「オレにはお前が必要なんだよバカコラ!」
304
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:10:40 ID:3ISfrQos0
「な、な、なんだ、なにしてやがる!」
扉の向こうから、怒声が轟いた。プギャーくんがこっちだと、背後の壁へと身軽に飛ぶ。
そこには小さな窓が、プギャーくんや私のような子どもが
ぎりぎり通れる程度の小さな小さな窓が開いていた。
プギャーくんはその窓へと身体を通し、一度向こうへ抜け出てから反転し、
窓から部屋へと上半身だけで乗り出した。
「来い、リリ!」
ぐぅっと目一杯といった様子で、彼が私に手を伸ばす。彼の手。
大好きなプギャーくんの手。ずっとずっと、ずっとずぅっと会いたかったその人の。
私はその手を見つめる。その手を見つめる私の背後では、
もはや言葉にもなっていない怒りの悲鳴と、がちゃがちゃと扉を揺さぶる音、
乱暴に鍵をいじる音とが重ね合わさった騒音を立てていた。
305
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:11:05 ID:3ISfrQos0
「リリ!」
プギャーくんが私を呼ぶ。私を必要だと言ってくれたプギャーくんが。
うれしい(怖い)。私もだ。私も一緒にいたい(怖い、怖い)。ううん、いる。
これからも一緒にいる。プギャーくんの紙芝居を、私も一緒に作る(いやだ、やめて)。
だから動いて。お願い動いて私の腕。差し伸べられたプギャーくんの大好きなその手を、
私のその手でぎゅっとつかんで(お父様が怒ってる。扉の向こうで怒ってる)。
だから動いて私の足。前に進んで地面を蹴って、
プギャーくんのもとまで飛び上がって(やだ、やだ、やだ、やだ、ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい)。
ほら、動いて(怖い、怖いの)。お願い動いて(怖くて身体が動かないの)。
泣いてなんかいないで。涙を拭って(見つかることが、怒らせてしまうことが怖いの)。
プギャーくんが呼んでるから(逆らうことが怖いの。動くことが怖いの)。
プギャーくんが待ってるから(怖いことが……怖いの)。プギャーくんが――。
306
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:11:46 ID:3ISfrQos0
怖い。
扉が、開いた。男の人が、いた。それを構えて、立っていた。
それは、お父様が、売っていた――。
最後に見たのは、砕けたナイフ。
無数の破片が、宙へと散って。きらきら輝き、それはなんだか、幻想的で。
とっても、とっても、きらきら、綺麗で。
とっても、とっても、とっても、綺麗で――。
.
307
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:12:14 ID:3ISfrQos0
プギャーくんは、やさしい人。
嫌なことや悲しいことに傷ついた日は、黙って側にいてくれる。
プギャーくんは、お茶目さん。
いたずらするのが大好きで、街の大人やお父さんによく叱られている。
プギャーくんは、照れ屋なの。
絵を描いてるところを見つめると、なんだよって口をとがらせそっぽを向いちゃう。
プギャーくんは、手先が器用。
欲しいものは買ったりしないで、特別なものを自分で自由に造ってしまうの。
プギャーくんは、ばかこらって言うのが口癖。
やさしい時にも、お茶目な時にも、照れてる時にも、造った時にも、なんでもかんでもばかこらって付け足してる。
他にも、たくさん、プギャーくん。
プギャーくんは、プギャーくんは、プギャーくんはね ――。
.
308
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:12:40 ID:3ISfrQos0
プギャーくんは、もういない。
.
309
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:13:15 ID:3ISfrQos0
「ごめんなさい……」
なにが。なにがプギャーくんを奪ったのだろう。
恨み言ばかりをこぼし、怒りに任せて凶弾を放ったあの男の人のせいだろうか。
銃を売ることで財を成し、様々な人の恨みを買ったお父様のせいだろうか。
それとも私なんかに何かを見出し、危険を顧みずに助けにまで
来てくれたプギャーくん自身のせいだろうか。
違う。違う、違う、ぜんぜん違う。それらは原因の一旦であって、根本的な真実ではない。
プギャーくんを奪ったもの。その原因は、その真実は、たったひとつの事象に説明できる。
プギャーくんを奪ったもの、プギャーくんを奪った元凶とは――。
私だ。
310
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:13:42 ID:3ISfrQos0
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
怖い怖いと泣きじゃくるばかりで、ただの一歩も動くことのできなかった臆病者。
下劣で、醜悪で、最低で、臆病で、泣き虫な、私だ。私がプギャーくんを奪ったのだ。
私がプギャーくんを死なせたのだ。私がプギャーくんを殺したのだ。
逃げ出す勇気すら振り絞れなかった私が、彼の生命を奪ったのだ。
もしも。もしも私が私でなかったら。
もしも私が短気で、乱暴者で、反抗的で、誰の助けも必要としないくらい強い女の子だったなら。
プギャーくんはきっと、死んだりなんかしなかった。
もしも私が絶対に泣くことのない女の子だったなら。
プギャーくんは絶対に、私を見つけ出すこともなかった。
もしも私が、私でなかったら。
.
311
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:14:27 ID:3ISfrQos0
……そうだ、思い出した。私は――いや、“オレ”は。“オレ”は、“リリ”だ。
短気で、乱暴者で、反抗的で、誰の助けも必要としないくらい強い、
“オレ”が、“リリ”だ。そうだ、思い出した。全部思い出した。
“オレ”の、“リリ”の、願いは。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
少女がすすり泣いていた。
果てしなく続く暗闇の空間に座り込み、めそめそめそめそ泣いていた。
めそめそめそめそめそめそめそめそめそめそ泣きながら、
ごめんなさいごめんなさいと浅ましい贖罪のポーズをこれ見よがしに披露していた。
赦してなどやるものか。誰がお前を赦してなど。
.
312
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:14:55 ID:3ISfrQos0
“オレ”は少女に歩み寄る。手には凶器を、彼の砕けたナイフを持って。
プギャーくんは言っていた。なんでも使いようだと。その通りだった。
プギャーくんは正しかった。この凶器の使い道は、刺して、裂いて、殺す。
やっぱりそれが、正しかった。“オレ”の願いを形にする、これが正しい形だった。
“私”を殺す。その発生の以前より“私”の存在を抹消し、
彼と“リリ”の出会う現実をなかったことにする。それが、“オレ”の、願い。
“私”より分かたれた“私”を絶対に赦さない“私”――“オレ”の、唯一つの願い。
醜悪に泣き続ける、臆病者の前に立つ。
313
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:15:28 ID:3ISfrQos0
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「赦さない」
涙で醜い“私”の胸ぐらをつかむ。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「絶対に赦さない」
彼のナイフを振り上げる。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「例え誰もがお前を赦そうと」
心臓の拍動するその胸目掛け。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「例えプギャーくんが赦そうとも」
凶刃を、彼のナイフを。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「“オレ”だけは絶対、“私”を赦してなんかやらない」
ナイフを――。
.
314
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:16:08 ID:3ISfrQos0
どうして。
「……だって」
どうして、できない。
「だってそれでも、プギャーくんは言ってくれたんだ」
こんなにも赦せないのに。
「“私”のことを、好きだって」
こんなにも憎いのに。
「“私”のことが、必要だって」
いなくなれって思ってるのに。
「“私”のことが嫌いだ。大嫌いだ。でも、でも……
プギャーくんの大切な“私”を奪うなんて――」
覚えてさえいなければ、思い出しさえしなければ。
「そんなの、いやだ、いやだよぉ……」
彼と出会いさえ、しなければ。
「オレ、どうしたら……」
315
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:16:34 ID:3ISfrQos0
「いいんだよ」
“私”が、言った。
涙に濡れたその顔、その手。“私”のその手が、“オレ”のその手をやさしく包む。
やさしく、けれど存外に力のこもった“私”の手は、
ナイフをつかんだ“オレ”の手を緩やかに誘導し、そして――。
「“私”も“私”を赦せないもの」
その先端を、己に向けた。
316
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:17:01 ID:3ISfrQos0
「……やめろ」
「ごめんなさい」
ナイフの先端が、“私”の胸に触れる。
「やめろ、やめろ」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
じわりと服に、血が滲みる。
「やめろ、やめろ、やめろ」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
肉を裂いて侵入していく感覚が、てのひらへと伝わってくる。
317
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:17:24 ID:3ISfrQos0
いやだ。なんでいやなんだ。これが“オレ”の願いだったはずだ。
こいつを殺して、こいつの存在を抹消して、
プギャーくんに“私”と出会わない人生を生きてもらう。
それが“私”の、“オレ”の願いだったはずだ。なのになんでだ。
なんでこんなに嫌なんだ。なんでこんなに――怖いんだ。
ごめんなさいと“私”がいう。そのごめんなさいは、何に対する謝罪なんだ。
“オレ”に対してか。プギャーくんに対してか。
それともお前自身、誰に向ければいいのか判らないのか。
肉が裂けていく。心臓の拍動が、とくんとくんが、
刃の刃先から“オレ”の脳まで一直線にリンクする。
もう数ミリ、髪の毛ほどもない距離を直進すれば、“私”は終わる。
プギャーくんが好きだと言ってくれた、“私”が。ごめんなさいと、“私”が言った。
“オレ”は、叫んだ。
318
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:17:47 ID:3ISfrQos0
「……なん、だ?」
絵が、浮かんでいた。暗闇の空間に、見知らぬ絵が。
――いや、違う。見知らぬ絵だなんて、そんなのはうそだ。
これは、この絵は――プギャーくんの。空中の絵が切り替わっていく。
始まりから始まって、終わりへと向かって。
プギャーくんの描いた、プギャーくんと一緒に考えた絵が――
ケテルの使徒王物語が暗闇に上演される。
どの絵も、どの絵も、どの絵も知っていた。
成長が、旅立ちが、冒険がそこには描かれていた。
出会いが、別れが、戦いがそこには描かれていた。
どの場面も、どの場面も、どの場面も“リリ”は知っていた。
物語がどのように展開し、使徒王さまがどのような足跡を辿り、
そして最後に何者と戦うのか、“リリ”は知っていた。その、最後の敵の名は――。
な、に。
切り替わった絵。
最終決戦を描いたその絵へとスライドした瞬間、周囲の暗闇が激しく歪んだ。
目の前の“私”も、“オレ”も、歪んでいく。自分を保つことができなくなる。
その絵――『果てなき東のクリフォト』の絵を中心にすべてが、
すべてが一変し、そして、“オレ”たちは――。
.
319
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:18:28 ID:3ISfrQos0
「儚い野心も、これで終いか……」
「ああ、その通りだバチカルの暁光。いや――」
そう言って私は“敵”の目の前に、アドナから授かった水晶剣を突きつける。
「独冠王」
「はは、ずいぶんと大仰な異名をもらっちまったな」
クリフォトの大樹を背にした男は茶化すように軽口を叩き、
けれども満身創痍のその身体をよろめかせて痛みにうめいていた。
……同情は、しない。やつの周囲に転がる無数の死体。
これらはすべて、この男が生み出した光景なのだから。
クリフォトの化身、悪徳の主たる独冠王の。
「どうした、やれよ」
口の端から血を滴らせ、独冠王が不敵に笑う。
嘲り、挑発するような態度。神と王と人の敵。生きとし生ける者の反逆者。
この男を滅すること。それこそが私に課せられた天命であり、
恒久平和を実現するためになくてはならない一事である。
だから私は、この男を殺さなければならない。
他の誰でもない、使徒王<すべての人の模範にして規範>である、私が。
だが。
320
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:18:58 ID:3ISfrQos0
「……いやだ」
独冠王が私を見ている。
先程までのへらへらした態度ではなく、怒ったような顔をして。
でも、いやだ。だって、だって。だってだってだって……。
「どうして……どうして君なんだ。君じゃなくてもよかったじゃないか。
他にもっと……もつと他に、誰でもよかったじゃないか」
「俺以外の誰にできたさ」
「だとしても!」
だって君は、君と私は――。
「だとしても君は、君は敵じゃない! ケテルに下ることを不満に思う民を、
兵を、争いの種を、それを摘み取るために戦っただけじゃないか。
“すべての人の共通の敵”となることで、その敵意を一身に受けることで
人々の心をまとめようと、ただ君はそうしただけじゃないか!」
あの貧しい村で支え合った――。
「これ以上奪われなくったって、いいじゃないか……」
たった一人の、幼馴染じゃないか……。
321
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:19:38 ID:3ISfrQos0
「……三二〇〇と一人」
「え?」
「この戦いで、俺が奪った生命の数だよ」
そう言って彼は、彼の獲物の手斧を掲げる。
血と油に塗れた、大勢の生命を奪った凶器。彼の悪徳の、その証明。
「判るか、俺はそれだけの未来と願いを奪ったんだ。
奪われたんじゃない、奪ったんだよこの俺が。大罪人だよ、まったくな。
だからよ、俺一人が願いを抱くなんて赦されるわけがない。
――いや、赦せねぇんだ、俺自身が」
真剣な眼差し。真剣な、声。私は知っていた。彼のこうした態度を。
彼がこうした態度を取った時の、彼の決意がどれだけ固いものであるのかを。
私が何を言ったって、彼が聞き入れることはないという事実を。
322
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:20:10 ID:3ISfrQos0
「君は馬鹿だ、大馬鹿だ……」
「お前ほどじゃないさ」
さあ、と、彼が促した。判っている。彼は独冠王で、私は使徒王だから。
これが必然であり、これが必要なことだと、私は既に判っている。
剣を、構え直した。それでいいと、彼がうなずいた。
私は、私は――彼の心の臓を、誤ることなく貫いた。
323
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:20:42 ID:3ISfrQos0
「相変わらず泣き虫だな、トソンはよ……」
飛び散った彼の血が、背後の大樹に降りかかる。
クリフォトの大樹。知恵を司ると謂われるその樹に。
「約束する……誓う。私はこの大樹に誓う」
頭を、肩を密着させるように彼へと、心臓の止まった彼へともたれて、私は言う。
彼に向かって、私に向かって、私は誓う。
「この地に、人の世に、世界に平和を実現したその時には、必ず君に会いに行く。
君を独りになんてしない。どんなに時間がかかろうとも、どんなに争いが続こうとも、
絶対不変の恒久平和を実現して、君の下へ会いに行く。
セフィロトを越えた果て先で、必ず君と会ってみせる。だから、だから――」
永遠の誓いを、約束する。
「だからお願い、待っててフォックス――」
遠い、遠い、果てなき“願い”を――。
……それを、“オレ”は。
.
324
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:21:11 ID:3ISfrQos0
「なんでだよ……」
オレが、つぶやいた。つぶやいたその声は、オレの声ではなかった。
先程まですぐ側で聞き続けていた声――オレは、使徒王の中にいた。
使徒王の身体を借りてオレは、一部始終を見続けていた。
伝説の物語が辿った真実を、オレは、その中心にいた存在の内側から知った。知ってしまった。
「なんでだよ、なんでだよ! だってこんなの……こんなのあんまりじゃねーか!」
オレは叫んだ、吠えた、喚き散らした。だってこんなことって、あんまりひどすぎる。
どうして一緒にいられない。どうして殺し殺されなきゃならない。二人がいったい何をした。
何がそんなに悪かった。みんなのために走った二人の結末がこれだなんて、こんなの、こんなの……
悲しすぎるじゃないか。
オレは泣かない。泣いたりなんかしない。絶対に涙なんか流さない。
でも、でも……使徒王は、トソンは、泣いてたじゃないか。いまも、泣いてるじゃないか。
涙がこぼれた。呻くような声が、のどから溢れた。
密着した彼の、フォックスの身体を揺らしながら。
ひっくひっくと、泣きじゃくった。そうしたら――。
325
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:21:36 ID:3ISfrQos0
「……もしかしてリリ、お前さんか?」
二度と開かないはずのフォックスの目が、開いた。
「驚きだな、お前さんとはよっぽど深い縁があるらしい」
「フォックスあんた、生きて……!」
「ああ」
無精髭のフォックスが、いつものように笑った。
「そいつはちょっとばかし、語弊があるな」
直後に、炎が燃え上がった。
燃え上がった炎はフォックスの身体を包み込み、末端からその肉体を灰へと変換していく。
炎の壁。七日の限りの、タイムリミット。炎はオレの――
使徒王の身体も同様に呑み込み、さらにその火勢を増していく。
「燃えて<死んで>また、やり直すのさ」
326
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:22:10 ID:3ISfrQos0
腕が、足が、喪われていく。
彼を構成するものが、使徒王を構成するものが、生命以前の形まで還元されていく。
「俺たちは願いに囚われているんだよ。
願いが叶うまで何度でも灰になり、何度でもこのセフィロトの道を繰り返す。
例え何百年かかろうと、何千年かかろうと、願いが叶うその時まで永遠に――
俺は悪徳の王で在り続ける」
涙が蒸発する。止めどなく溢れる涙のすべてが、炎に呑まれて消滅していく。
「なんだよ……あんたの願いって、なんなんだよ!」
「あいつの願い<恒久平和>が叶うこと」
327
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:22:36 ID:3ISfrQos0
もはや完全な灰と化した腕を、それでもフォックスはオレ<使徒王>へと伸ばし、
その手でオレ<使徒王>の頬へと触れた。
「なあリリ、終わっちゃいないんだ。使徒王物語は、まだ終わっちゃいない」
「フォックス……」
「物語はな、いまもお前さんたちに続いている。未来を生きるお前たちに」
「フォックスぅ……」
「些細なことで構わないさ。俺たちの時代<切り結ぶことでしか拓けなかった世界>では
為し得なかった何かを、どうか次代へつないでくれ。
いまここを生きる、お前さんだけのやり方で。……そして、そうだ、それからな」
……そして、彼も我も、ついには燃え尽き――。
「俺たちの築いた明日で、どうかどうか、幸せに――」
.
328
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:22:57 ID:3ISfrQos0
少女がいた。呆然とした顔の少女。
胸を赤く、薔薇のように染めた少女が、吐息すら感じるすぐ目の前に座っていた。
我が手を、彼女の胸に当てる。赤く濡れたその胸に。心臓は、まだ拍動していた。
彼女はまだ――“私”はまだ、生きていた。“私”が、嗚咽を漏らし始めた。
「……泣くなよ」
だってと“私”が反論する。
だってだってと、駄々っ子みたいに。
「泣く……泣くな。泣くなって言ってるだろ」
あなただってと“私”が反論する。
あなただって泣いていると、有り得ないことを“私”がのたまう。
「な、泣い……泣いたって、泣いたってどうにもならないだろ!
泣いてたってなにも、なにも変わらないんだ! だから泣くな、泣くなよ……」
オレは泣かない。泣いたりなんかしない。だからこれは涙じゃない。
だからこれは嗚咽じゃない。オレは“私”を赦さない。オレは“私”を受け入れない。
だって、だって、だって。だってだってだってだって――。
「泣くな、よぉ……」
オレまで同じじゃ、同じことを繰り返しちゃう――。
329
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:23:24 ID:3ISfrQos0
「泣いてもいいっつっただろうが、このバカコラ」
.
330
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:23:48 ID:3ISfrQos0
声。二人の“リリ”が、反応する。二人の“リリ”が、同じ場所に視線を向ける。
暗闇の続く、果てしのない空間。そこには誰もいなかった。ただ、ひとつ。
暗闇以外のものがひとつ、そこに存在していた。それが地面に刺さっていた。
フォックスの手斧が、地面に刺さっていた。
涙が溢れ出してきた。オレは、泣いていた。疑いようもなくオレはいま、泣いていた。
手を握られた。泣いている“私”に、手を握られた。オレはそれを――握り返した。
強く、強く、固く、ひとつになってしまうくらいに。
空中に浮かぶプギャーくんの絵。そこにはいま、白紙のキャンバスが表れている。
かつて辿り着くことのできなかった、プギャーくんが期待してくれた、
“リリ”なら導けると信じてもらえた使徒王物語の完結。
未だ未完の、可能性の狭間に揺蕩ったままの、それ。
“オレ”は、“私”は、それに触れた。
“リリ”は二人で白いキャンバス<未来>に触れ、そして、そして――。
.
331
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:24:19 ID:3ISfrQos0
今日はここまで。明日で最後です
332
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 10:54:13 ID:EX/omY3w0
乙です
333
:
◆y7/jBFQ5SY
:2023/06/04(日) 20:22:42 ID:esi.ifqo0
ו
ぼくは人間じゃない。
ぼくを見た人の反応は、大別して三つに分かれる。
嫌悪を顕とするか、過剰なまでに怯えるか、
自分を進歩的人間であるとアピールするための道具として扱うか。
表れる態度にいくらかの差異があるとはいえ、
根っこのところで彼らの意識は共通していたと言える。
それはぼくのことを、同類と見なしていないという視点。
別の何かと捉えている点について、彼らの意識は共通しているといえた。
そしてそれは、余りにも正しい見方だった。
ぼくは、不浄の存在だった。不浄の存在であることを、生まれてすぐに刻まれた。
目元から顎にかけて、片頬に引かれた三本線。赤三本の入れ墨。それは、ぼくの身分を表すもの。
いずれは処刑人となることを定められた、処刑人の子であることを表す印。
そう、ぼくはいずれ処刑人になる存在。それがすべて。ぼくという――
ショボンという人間未満の生き物における、すべて。
334
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:23:05 ID:esi.ifqo0
間違っていると思ったことはなかった。
ぼくが処刑人の子として生まれたことも、みんながぼくを穢れたものとして見ることも。
事実としてぼくは、穢れていたのだから。おそらくは生まれ出るよりもずっと前、
魂が形作られたその時からすでに、もう。
だから彼らの罵倒や投石も、甘んじて受け入れるべきだと思った。
先に彼らを攻撃したのは、彼らの視界に入ったぼくの方なのだから。
加害者はいつだって、ぼくの方であるのだから。
ただ、みんなを不快にしてしまうことは忍びなかった。
ぼくと関わった者は穢れ、不幸になってしまうと、ぼく自身がそう信じていた。
だからぼくは、可能な限り誰とも関わらないようにしていた。
誰にも迷惑をかけずに、ひっそりと穴蔵の奥に閉じこもる。
それがぼくにできる、人間未満であるぼくにできる
唯一の社会奉仕であると、ぼくはそう信じていた。
それがずっと続くと思っていた。父と同じように処刑人となり、蔑まれ、憎まれ、
恐れられながら命を奪って穢れ続けていくのだと、
その生が終演を迎えるその時まで穢れ続けていくだけだと、
それが、それだけがぼくの人生であると、ぼくはそう思っていた。
彼と出会う、その時までは。
.
335
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:23:35 ID:esi.ifqo0
「はは、どうです! おもしろいでしょう!」
振るわれた鞭が、道化の顔を強か打った。白塗りのメイクを施されたその顔が痛みに歪む。
しかし歪んだのは、鞭を打たれた道化ではなかった。
同じ格好に同じメイクの、同じ顔をした道化。
痛みに息を吐いたのは、打たれた方とは別の道化だった。
エティエンヌ卿が、道化を再び打った。
やはり道化は、打たれたのとは異なる方が痛みに呻いた。
道化は二人いた。二人でありながら、一つだった。
一つの胴に二つの腕、二つの足に二つの頭。同じ顔をした双子のピエロ。
鞭で打たれる彼らを、貴族たちが囲み見る。
好事家として有名なエティエンヌ卿が、新たに手に入れた奇妙なおもちゃを。
ある者は眉をひそめて、ある者は好奇に口を歪ませて、
誰一人としてそれを止めることはしないまま、打たれるピエロを観察していた。
336
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:24:11 ID:esi.ifqo0
ぼくも、そうだった。ぼくも、それに父も。
エティエンヌ卿が主催したパーティに招かれたぼくらは、
断ることもできないままにこの場へ赴き、こうして彼のお披露目会に出席させられている。
周りの貴族たちはもちろんのこと、ぼくたちの来訪を歓迎してはくれなかった。
嫌悪と好奇の視線を隠さず、ひそひそと当てつけるような言葉をささやきあっていた。
おそらくはこれも、エティエンヌ卿の企みのひとつなのだろう。
王に仕える処刑人であるぼくらを所有することなど、子爵であるエティエンヌ卿には叶わない。
自分のものとして披露することはできない。
けれど主催するパーティに呼びつけ、我が物のように見せつけることならば、可能だ。
エティエンヌ卿はぼくたちも数に含めた上で、悪趣味な余興を開きたかったのだ。
つまりいま、ぼくたちは同じなのだと言えた。ぼくと、あの、道化師たちとは。
ぼくと同じく、人間未満の扱いを受けている彼らと。でも、だから、なんだというのか。
ぼくには何もできなかった。鞭で打たれる彼らに対し、人間未満のぼくには、なにも。
ピエロの二人と、目があった。ぼくは……目を逸らした。
会場が、にわかにざわめき出した。
337
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:24:37 ID:esi.ifqo0
「おお、これは公爵閣下! まさかお出で下さるとは!」
百万都市の。王系傍流の。ラトヴイームの。貴族たちのささやき声が聞こえてくる。
そのささやき声の中心をすらりと背の高い、けれどどこか顔色の悪い男性と――
その男性と同じように身なりの良い衣装をまとった少年が、並んで歩いていく。
ささやく貴族の壁を割るようにして歩き、ぼくの前を通り過ぎようとした、その時。
少年の方が、ぼくの存在に気がついた。こちらに気づいた彼は――にこっと、ぼくに、微笑んだ。
これまで見たことのないような、自然な笑みで。
よく判らない感情が走った。
無意識に頬の赤線を、てのひらで隠そうとしていた。
「ご子息も遊んでみますかな?」
エティエンヌ卿が少年に、自身で振るったその鞭を差し出す。
少年はその鞭を受け取り、二人で一つのピエロに向かう。ピエロたちが、怯えるように後ずさる。
後ずさるピエロの前まで、少年が赴く。そして少年は――鞭を置き、ピエロたちを抱きしめた。
338
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:24:57 ID:esi.ifqo0
「痛かったね、怖かったね」
二人のピエロは呆気にとられた顔をしていた。
そしてそれはピエロたちだけでなく、ここにいる誰もが同じように。
ただその少年と、おそらくはその少年の父である公爵閣下を除いて。
少年が、抱きしめるのをやめてピエロから離れた。
「エティエンヌ卿、どうしてこんなひどいことをなさるのですか?」
その声には、問い詰めるような響きはなかった。
純粋に、ただ純粋に、判らないものへ問いかけているといった、そんな風情で。
しかし問いかけられたエティエンヌ卿は見るからに狼狽えた様子で、
きょろきょろと視線をあちらこちらへと向けている。
「大人になれば理解できますよ、小さな紳士」
「そうでしょうか。ぼくにはそうは思えませんが」
「であればあなたは、大人になれますまい」
339
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:25:19 ID:esi.ifqo0
もういいでしょうと、エティエンヌ卿が手を叩いた。
彼の使用人たちが命令に従い山のような料理を次々運び出し、
入れ替わるようにしてピエロたちが広場から引っ込められていった。
エティエンヌ卿が場の注目を集めるように、掲げた両手を打ち鳴らす。
「さあみなさま、余興は終いです。後は思い思いに!」
そこから、特に代わり映えのしない、極々当たり前のパーティへと切り替わった。
それはつまり、ぼくたちがいる理由もなくなったということ。父もそれは理解していた。
名を呼ばれたぼくは、小さく「はい」と返事する。
ここにいても、良いことはなにもない。ぼくにとっても、みんなにとっても。
だからぼくは足早な父に続き、足早にこの場から出ていこうとした。
340
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:25:40 ID:esi.ifqo0
「待って」
まだ声変わり前の子どもの声が、ぼくを呼び止めた。振り返る。
そこには、さっきの少年がいた。ピエロたちを抱きしめ、まるで……
まるで人間のように労っていた、あの。
「君は?」
少年が尋ねてくる。真っすぐな瞳を――星のようにきらきらと輝く瞳をこちらに向けて。
ぼくは――父を見上げた。何も言わず、ただ、そうした。
父も何も言わず、ただ、小さく、うなずいた。
「……ショボン、です。閣下」
「閣下だなんて」
そう言って、少年は破顔する。
そしてそれから、それから少年は信じられないことに、ぼくの前へと手を差し出してきた。
まるで握手を、求めているかのように。
341
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:26:02 ID:esi.ifqo0
「ボクはシィ、シィといいます。よろしくね、ショボンくん」
瞳が、ぼくを見る。星のような瞳が。差し出された手が、もどらない。引っ込まない。
握手。本当に、そうなのだろうか。そんな求めを、これまで受けたことはなかった。
本当に、ぼくが、それをするのか。
頬に、触れていた。片頬に。赤三本の、処刑人であることを証明するその線に。
しばらく、ぼくは、そうしていた。けれど――
シィと名乗ったその少年は、微笑んだままにぼくを見ていて。
手を、握った。人の、体温。人間の。久しく感じることもなかった。
それが、ぎゅうっと、強まった。「よろしくね」と、シィが再び繰り返した。
ぼくは小さく、「はい」と返した。じわりと広がる熱を感じながら、ぼくは彼と、握手した。
.
342
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:26:24 ID:esi.ifqo0
「もーいーかい!」
戸惑っていた。ぼくは戸惑っていた。彼の――シィの行動に、ぼくは困惑していた。
木々の影に身を隠していたぼくを発見した彼が、「みーつけた!」とぼくに触れる。
「次はショボンくんの番だよ」と言って彼は、木々の間を走っていく。
ぼくは言われた通り手頃な木へと頭を伏せて、遅めのリズムでカウントする。
いーち、にーい、さーん……十まで数え終え、
そしてぼくは、どもりながらも声を上げた。「もーいーかい」。
コンタクトを取ってきたのは、シィの方からだった。
エティエンヌ卿のパーティで見た時とは異なる平民の子のような
動きやすそうな格好をしてきた彼は、ある日とつぜんぼくの家へと訪ねてきた。
ぼくの、そして父の家は街外れの森林の中へと人目から隠れるように建てられており、
来客などは滅多になく、況やぼくへの客だなんてこれが初めてのことだった。
343
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:26:53 ID:esi.ifqo0
「ショボンくん、ボクと遊んでくれませんか?」
彼の真意が判らなかった。身分の違う彼の命令に逆らえるはずもなく、
ぼくは彼の“お遊び”に付き合った。付き合っているあいだ中ずっと、疑問が頭を支配していた。
彼はぼくに、何を求めているのか。ぼくといることによって有益な何かが、彼にあるのだろうか。
何もないわけはない。
何もないのにぼくなんかを連れまわす理由など、あるわけがない。
企みがあるならば、それでも構わなかった。
使うだけ使って、捨ててくれればそれでよかった。
利用する理由がなくなれば、いずれは離れていってくれる。そう考えれば、安心できた。
けれど……けれど。彼の、瞳。きらきらと星のように輝く瞳。
その瞳からは、僅かな裏も見て取れず。
まっすぐぼくを、ぼくに付随する何かではなく、ぼく自身を見つめていて。
だから、不安だった。彼がぼくに何を求めているのか判らなくて、不安だった。
この関係が、この状況がいつまで続くものか判らなくて。
判らないまま、不安なままに、ぼくは彼に従った。彼に従って、遊んでいた。
何週間も、何ヶ月も、一緒になって遊んでいた。
344
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:27:16 ID:esi.ifqo0
父は、余計なことを言わない人だった。
あらゆる物事を黙々とこなし、自らの職務についても一切語ろうとしない。
規律のために己を定め、それを遵守するために自らを動かしている。
そのような印象を抱く、正確で、無比で、近寄ることの躊躇われる人だった。
その父が、顔を腫らしていた。驚くべきことではなかった。
ぼくたち親子が暴力の標的にされるのは、そう珍しい事でもなかったから。
謂れなき――いや、“不快にさせてしまった”という謂れのある
暴力によって負った傷だろうと、その時ぼくは、日常の一シーンとして
その出来事を処理しようとしていた。けれど、今回は、事情が違った。
「息子を使って公爵家に取り入ろうなどと」
風の噂が耳に入った。父が怪我を負った理由。
公衆の面前で侮辱され、家畜のように鞭打たれたその理由。
それはすべて、ぼくの行いに責があったらしい。浅ましくもシィと同じ時を過ごしたぼくに。
ぼくはぼくの行いによって、父を傷つけてしまった。迷惑を、かけてしまった。
今回も、また。
345
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:27:38 ID:esi.ifqo0
「父さん、ぼく……」
父と囲んだ静かな食卓。
いつもは無言で食べ始め、無言で食べ終えるだけのその儀式の最中、ぼくはそう、切り出した。
ぼくのせいで父さんに迷惑をかけてしまいました。申し訳有りません。
これからはこのようなことがないようにします。彼に付き合うことも、もうやめます。
申し訳有りませんでした、父さん。申し訳有りませんでした。
ぼくはそう、確かにそう言うつもりだった。真実それは、本心だった。
けれど、言えなかった。黙々と機械のように食事を口に運ぶ父を見ていると、
それだけでぼくはもう、何も言えなくなってしまった。
それでもぼくは謝ろうと、言葉にならない声で呻く。――すると父が、スプーンを置いた。
「いい」
一言。静かに、しかしきっぱりとした口調で、父はそう言った。
そしてそれ以上、父は何も言わなかった。
傷のことについても、ぼくとシィのことについても、何も言わなかった。
何も言わずにスプーンをつかみ直し、また機械のような食事を開始した。
だからぼくも、それ以上何も言えなかった。
ただ「はい」と小さく返事をし、後はいつもどおりの、無言。
346
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:28:06 ID:esi.ifqo0
ぼくは人を不幸にする。
シィは不思議な少年だった。
憎むでも、恐れるのでもなく、ましてや自分の価値を上げるためにぼくを使うのでもなく、
そのどれでもない、ぼくの知らない動機を元に、ぼくと一緒にいようとしていた。
きらきら輝く瞳を向けて、まっすぐぼくを見つめていた。
彼は純粋だった。純粋で、一片の穢れもない、太陽の化身だった。
数ヶ月ものあいだ一緒にいて、ぼくは確信した。彼には裏などない。企みなどない。
彼はただ、彼なのだ。そう成ろうとしているのでもなく、そう偽るわけでもなく、
ただただ彼は、彼なのだ。シィという一個の存在として、ここにいるのだ。
ここにいて――ぼく<ショボン>の前に、現れるのだ。
だからこそ。
347
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:28:34 ID:esi.ifqo0
「なぜ、ですか」
だからこそ、このままにはしておけなかった。
「なぜ、ぼくなのですか」
だからこそ、終わらせなければならなかった。
「あなたはなぜ、ぼくと、遊ぶのですか」
だからこそ、ぼくは――。
「一目見た時にね、思ったんだ。君とならって。
……ううん、違う。それも違うや」
切り揃えられた前髪を左右に揺らして、シィがいう。
「きっともっとね、もっともっと、もっともっと単純に――」
いつものようにぼくを見て、いつものように微笑んで、当たり前のようにシィがいう。
「ボクはね、きっと、こう思ったんだよ」
シィという太陽が、ぼくにいう。
「君と友達になりたいって」
348
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:29:07 ID:esi.ifqo0
友達。
信じられないという思いと、やっぱりと得心する気持ち。
かつて感じたことのないような胸の締め付けられる心地と、
過去に感じた以上の足元がとつぜん喪われるような感覚。
相反する感情が、瞬時にぼくのうちを駆け巡った。
友達。ぼくが。シィの――。
――ダメだ、そんなの。
ダメだ、ダメだよ。君とぼくとは、まったく違う。
身分も、生き方も、存在の次元もまるで違う。なにもかもが違うんだ。
ぼくと一緒にいたらいつかは必ず、避けようのない迷惑が君にも及ぶ。
不浄なぼくの落ちない穢れが、無垢な君にも移ってしまう。
このまま君がぼくといたら、ぼくは、ぼくはきっと――。
ぼくはきっと、君を不幸にしてしまう。
349
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:29:43 ID:esi.ifqo0
彼の迷惑にはなりたくなかった。彼の不幸にだけはなりたくなかった。
けれどもぼくは、それを告げるだけの勇気も言葉も持ち合わせてはいなかった。
いなくならなければならないのに、どういなくなればいいのか判らなかった。
だからぼくは、そのままの関係を続けた。
森林の中を一緒に遊んで、一緒にかくれんぼをして――誰かに後頭部を、殴られた。
350
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:30:10 ID:esi.ifqo0
「不公平だ、お前だけが人間扱いされるだなんて」
気づくと、土の中にいた。深く掘られた土の中。
膝を抱えて縮こまって、土の中で座していた。土の上には、いつかの彼ら。
一つの胴に二つの腕、二つの足に二つの頭。涙を湛えた白塗りメイクのピエロたち。
身体中を傷だらけに、人間未満と打たれた彼ら。穢れたぼくと、同じように。
土が降る。掘られた土の空間に、塊となった土が降り注ぐ。
不快なぼくを覆い隠すように、光を遮り土が降る。
必然だと思った。だって、彼らの言うとおりだ。ぼくは人間じゃない。
人間でないものが人間扱いされるわけにはいかない。人間でないのだから。
人間未満なのだから。人間でないものが人間と関わってはいけない。
人間でないものが人間の中で生きていてはいけない。
結論は、いつだって明快だった。
生きているから、いけないんだ。
生きているから、苦しいんだ。
生きているから、嫌な思いをさせてしまうんだ。
いなくなれば――死んでしまえば、すべては解消されるのだ。
351
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:30:42 ID:esi.ifqo0
怖くはなかった。喪われていくこと、無くなっていくことに、恐ろしさはなかった。
死ぬことは怖くなかった。怖かったのは、不快にさせてしまうこと、不幸にさせてしまうこと。
ぼくはずっと、それだけが怖かった。なにも持たないぼくにできるせめてもの善行が、
これ以上の迷惑をかけないことであると信じていたから。
雨が降ってきた。土が濡れる。濡れた土が泥になる。泥となった土が、身体を覆う。
身体を覆う土が、身体との境界を喪わせる。溶けた泥は僅かな隙間も生むことなく、
包んだそれを侵食していく。泥と自分が一体化するような感覚を覚える。
泥のように意識のないなにかに変じていくのを感じる。
そして、これが死かと、理解する。
そうか、これが、死、と。
352
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:31:07 ID:esi.ifqo0
呼吸は止まり、鼓動も弱まっていた。父のことが、わずかに頭をよぎった。
ぼくが死んで、父は何を思うだろうか。父の暮らしに、何か変わりはあるだろうか。
想像できなかった。きっと父は変わらず正確で、無比で、機械のような生活を続けることだろう。
ぼくがいなくなってもきっと、悲しみはしないだろう。
そう思うと、心の安らぐのを感じた。
涙がこぼれたのが判った。悲しくないのに、流れる涙。
それは生物としての自己が振り絞りだした、最後の抵抗だったのかもしれない。
生きたいなどと願う、浅ましい生物的本能の。
あるいは、あるいはそう――彼を、シィを巻き込む前に逝けることへの喜びか。
あの太陽の輝きを、ぼくという人間未満によって穢さないで済んだことへの。
353
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:31:43 ID:esi.ifqo0
ぼくのことなど、すぐに忘れてほしかった。
この生命が尽きた瞬間に、まさにその瞬間に、ぼくの存在など
頭の片隅にも残さず消し去ってもらいたかった。
彼のこれからに、わずかな陰りも残しては欲しくなかった。
それがぼくの、願いだった。
止まった時で、抱いた願い。
生命の時が、終わりを迎えようとしていた。何も見えない、何も感じない。
これでいい。生まれて初めて垣間見る、死する静寂との邂逅。
後にはもう、音もなく――。
.
354
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:32:11 ID:esi.ifqo0
――存在しないはずの音が、聞こえた。
雨を伝わり、泥を伝わり、裡に抱えるその物体に、喪われた生命の振動を伝わらせた。
泥が、土が、掻き出される音が聞こえた。まさか。そう思った。
泥が、土が、掻き出される振動が伝わった。うそだ。そう思った。
泥が、土が、掻き出される光が伝わった。そんなはずはない。
だって、そんな。そんなことって。敷き詰められた地上との壁が、取り除かれた。
そして、そして――そしてそこには、“シィ”がいた。
355
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:32:48 ID:esi.ifqo0
雨は、止んでいた。空には、陽が昇っていた。陽を背にして彼が、そこにいた。
彼が、手を、差し伸べていた。出血し、指と爪との間に泥とも土ともつかない
汚れが詰まったその手を彼は、微笑みながら、差し伸べてくれていた。
どうしてなんだと、ぼくは思う。そんなにも汚れて、血まで流して、
どうしてぼくのことなんか。こんなこと、ぼくは望んでいない。
ぼくの願いは、君の幸せだ。君が君らしく生きることだ。
だから、ダメだ、ダメなんだよ。ぼくは君を不幸にしてしまう。
決まっているんだ、そういうものなんだ、逃れることはできないんだ、
生まれることを自分で選べないように!
……それなのに、それなのに君は、どうして。
涙がこぼれた。まだぼくの裡に残っていた涙が、こんなにも残っていたのかと思うほどのそれらが、
これまで抑え込んできた分まで流れ出した。その涙が、ぼく自身に教えてくれた。
ああぼくは、ぼくの中の彼は、
こんなにも、こんなにも、大きく――。
356
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:33:21 ID:esi.ifqo0
もーいーかい。
――君と友達になりたい。シィはそう言っていた。
なら、ぼくは? ぼくは、どう思っている。
考えるまでもなかった。ぼくは、つぶやいていた。
「いいの」とか細く、声にもならない微かな声で。
微笑む彼が、こくんとうなずく。
涙が更に、溢れ出した。滲む空、滲む太陽、滲む彼、滲む彼の、瞳。
滲む世界の中にあって唯一確かなその瞳を、きらきらと星のように輝く彼の瞳をまっすぐ見つめ、
ぼくはそうして、その手を取った。差し伸べられた手を取りぼくは、
ぼくは彼を、彼のその名を、呼んだのだ。友達の名を、呼んだのだ。
シィという名を、呼んだのだ。
.
357
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:33:53 ID:esi.ifqo0
しりとり。山崩し。1・2・3の太陽。
二人で遊べる遊びを探して、ぼくらはいつでも二人で遊んだ。
他にもたくさんの、たくさんの遊びを探したり、時には自分たちで考案したりもして、
同じ時間を、同じ気持ちを共有した。
けれどもぼくはやっぱり、なによりもかくれんぼが好きだった。
もーいーかいと、彼が言う。木々の木陰に身を隠す。すぐに見つかる。
いつものことだった。ぼくは見つけるのは得意だけれど、隠れるのは下手だった。
だからいつも、ぼくはすぐに見つかった。彼はすぐに、ぼくを見つけてくれた。
それがとても、うれしかった。
だからぼくは何度も、何度も何度も隠れては、何度も何度も見つけてもらった。
358
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:34:19 ID:esi.ifqo0
「ショボンは本当にあったと思う?」
シィは物語も好きだった。
絵本に伝記、大人が読むような分厚くてむつかしそうな小説も、シィは好んでよく読んだ。
中でもシィは、『ケテルの使徒王物語』をこよなく愛していた。
本を読まないでも諳んじることができるくらいにシィは、使徒王の物語を熟読していた。
だからぼくも、それを読んだ。
彼が好きなものを、彼が心惹かれるものを、ぼくも知りたかったから。
そうしてぼくらには共通の話題がひとつ増えた。
ぼくたちは戯れによく、こんな話をして過ごした。
使徒王さまが旅したところって、どんな場所だったんだろう。
359
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:34:42 ID:esi.ifqo0
『星の飛沫の流れしアッシャー』はきっと、小さな星の欠片が川や海に漂っているんだよ。
触ったらどんな感じなのかな。ぱちぱちって弾けたりしたら楽しいね。
『幾何対黄金のイェツィラ』は?
何もかもが左右対称で、全部が全部整っているっていうのはどうかな。
もしかしたら何かが対称なんじゃなくて、右も左もないくらいに見渡す限りの
真っ白が広がっている世界なのかもしれないね。
それじゃあクリフォト、使徒王さまが最後に戦った『果てなき東のクリフォト』はどうだろう。
おどろおどろしくて、いつも曇って、悪魔たちがいるような場所だったりするのかな。
そうなのかもしれない。でもね、ボクはこうも思うんだ。
クリフォトはとても悪い場所だけれど、でも本当は、本当はみんな、その根は同じ――。
360
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:35:05 ID:esi.ifqo0
たくさんの話をした。たくさんの想像をして、たくさんの世界を思い描いた。
幻想的で、綺麗で、現実的ではない話。現実とはかけ離れた、現実よりも素敵な世界の話。
夢の中の、夢のようなお話。存在しない、空想の。
けれどシィは、ぼくにこう聞いたのだ。本当にあったと思うって。
ありえないと思った。だってこれはただのおとぎ話で、空想はただの空想に過ぎないから。
だからぼくは、そんなものは存在しないんだよと思った。そんな素敵な世界はと。
――以前のぼくであれば、そう思っていたはずだった。
ぼくはもう、知っていたから。
奇跡が起こることを、奇跡が現に存在することを、ぼくはもう知っていたから。
だから、疑いなんて微塵もなかった。空想は、夢は、実在する。
アッシャーも、イェツィラも、クリフォトも――セフィロトも、
本当に実在しているって、信じている。嘘偽りなく、ぼくはそう、答えた。
「ショボンならそう言ってくれると思ってた」とシィは、輝く瞳で微笑んだ。
361
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:35:31 ID:esi.ifqo0
「あのね、見てほしいものがあるの」
そう言ったシィに手を取られたぼくは、彼の案内の下、街の西の山を登っていた。
その山は公爵家――即ちシィの家が管理する領地であり、
一般の者が立ち入れば処罰の対象となるという場所であったため、
当然ぼくも足を踏み入れたことはなかった。
山道は思っていたよりもずっと緩やかなもので、
静やかな周りの景色を眺めながら歩くことができた。
山を登っているあいだもぼくはシィといつものようにおしゃべりをして、
けれどもシィはどこへ向かっているのかについてだけは「内緒」と笑って教えてはくれなかった。
ぼくもあえて聞き出すことはせず、手をつなぐ彼に付いていった。
362
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:35:53 ID:esi.ifqo0
やがてぼくらは、山の中腹にぽっかりと開いた大きなトンネルの前へと辿り着く。
トンネルの前には兵隊らしき人物が二人、携えた長槍を交差させて入り口を塞いでいた。
その二人組に、シィが近づいていった。シィが何事か、二人に話す。
しかし二人組は明らかに難色を示したような顔をして、そして時折、
視線をぼくへと向けていた。ぼくを、赤線の引かれたぼくの片頬を見て、
嫌悪の表情を顕にしていた。それと気づかれないように、わずかに俯く。
それでも二人は最終的に、交差させた長槍を引いた。
再び手をつなぎ直したぼくらは二人の兵隊の間を通って、トンネルへと入っていく。
突き刺さる視線を背中に感じながら。
363
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:36:14 ID:esi.ifqo0
「本当はね、勝手に入っちゃダメなんだ。でもどうしても、
ショボンにはどうしてもね、一緒に来てほしかったから」
ささやき声すら反響するトンネルの中で、ぼくに向かってシィが言う。
頑強に積まれ、固められた煉瓦の道。等間隔に明かりの灯された一直線のその道を、
ぼくたちは歩き続けた。長い長い、トンネル道。
「もうすぐだよ」と、シィがささやく。
その言葉通り、進む先の方角から薄暗いトンネルの中へと、まばゆい光が差し込んでいた。
あの先で、シィはぼくに何を見てほしいのだろう。
シィはもう少し、もう少しと、興奮している様子を見せていた。
興奮する彼の手を、ぎゅっと握った。
――トンネルを抜けた。
364
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:36:38 ID:esi.ifqo0
「……わぁ」
見渡す限りの緑の世界が、目の前に広がっていた。
おとぎ話に出てくるような、光り溢れる神様の楽園。そんな言葉が、自然と浮かぶ。
ぼくたちが暮らす山のすぐ側にこんな素敵な場所があっただなんて。
その余りにも現実離れした光景にぼくは見惚れ、しばらくそのまま言葉を失った。
「見て」
シィが指差した。ある一点を。けれど彼が指を差すまでもなく、ぼくはそれを見ていた。
目に入らないはずがない、その姿。大木。天を貫くような、威容を誇る。
「あれが、ラトヴイーム。使徒王さまが持ち帰った、クリフォトの樹」
使徒王さまの? 会話を進めながらぼくたちは、ラトヴイームの下へと歩む。
さわさわとそよぐ葉々の木陰へと入る。
365
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:36:59 ID:esi.ifqo0
「本物なのかはわからない。もしかしたら、そうしたおとぎ話を利用しただけの
真っ赤なにせものかもしれない。でもね、ボクたちは信じてきたの。
この樹は本当に使徒王さまが持ち帰ったもので、使徒王さまの誓いが宿った
大切なものなんだって。そう信じて、ボクたち一族はこの樹を守ってきたの」
世界でたった一本だけの、孤独に聳えるこの巨木を。
そう言ってシィは、聳えるその樹に手を触れた。
「ボクたちはね、ラトヴイームの守り手なんだ」
使徒王の誓い。ラトヴイームに向けて誓われたそれがどのようなものであったのか。
神へ至るためであるとも、世界の理を守るためであるとも言われるけれど、
それらの真偽は曖昧で、今を持っても定かでない。
けれどこの樹に誓ったことは、誓いに込められた想いは間違いなく
存在していたはずだと、はっきりシィは、そう言って。
366
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:37:22 ID:esi.ifqo0
「あのね、ショボン。お願いがね、あるんだ。君にしか頼めない、ボクから君へのお願い」
シィがぼくを見る。その瞳で。きらきらと星のように輝く瞳で。
「ボクはね、セフィロトへ行ってみたい。西の果てのセフィロトの、
その果て先に何があるのか見てみたい。使徒王さまがそこに何を願っていたのか、
ボクたちの守ってきたものの答えが、一体どんなものなのか。ボクはね、それが知りたい。
知りたいんだ。だから、だからね、だからねショボン――」
ぼくを見つけてくれた、その瞳で。
「ボクと一緒に、願いを見つけてくれませんか」
.
367
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:38:00 ID:esi.ifqo0
ラトヴイームの樹の肌を、ほんの少しだけ頂戴する。
ごつごつとして固く、けれど存外伸び縮みして丈夫なその木の皮を、輪っかの形に丸めていく。
丸めて、丸めて――簡素な、本当にただそれだけの指環を造る。
ぼくは、それを造る。シィも、同じように、造る。
「あのねショボン。ボクね、怖かったんだ」
造った指環をぼくたちは、お互いの小指に交換した。
シィの左の小指に、ぼくの右の小指に、それぞれの指環が嵌められる。
指輪を嵌めた互いの小指を、沿わせて重ね、結んでつなぐ。
指環を通じてつながったぼくらは、今度はその樹に――ラトヴイームに向き直る。
「お父様が病に伏せられて、領地を継がなきゃいけないって話になって。
そしたらなんだか周りに誰もいない、一人ぼっちになってしまった気がして」
大きく、高く、孤独に聳えるラトヴイーム。
互いの小指を結んだまま、ぼくらはその樹に手を触れる。
その樹に脈づく想いの鼓動が、ぼくらを通じて循環する。
368
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:38:28 ID:esi.ifqo0
どくどくどくと、生命の流れる音が聞こえる。
どくどくどくと、生命の流れる音が伝わる。
どくどくどくと、生命の流れる音がぼくとシィをつないでいく。
「誰かに側にいて欲しかったんだ。もしかしたら誰でもよかったのかもしれない。
この不安を共有してくれる誰かなら。……でも、いまは違う。
だってボクの手を握ってくれたのはショボン、他ならぬ君だったのだから」
ぼくたちはいま、ひとつだった。ひとつであり、異なる存在でもあった。
異なる存在でもあるぼくたちは声を揃えて、誓いを言葉にする。
同じ言葉を、同じ早さで、口にする。同じ時の中で、同じ想いを共有する。
そうして、ぼくたちは誓った。
二人だけの約束を、目の前の巨木に向けて誓い合った。
「君はそうは思わないかも知れないけれど、でも、これはほんとの気持ち。
ボクが君を助けたんじゃない、君がボクを助けてくれたんだって。だからね――」
二人で果て先に行こうと、二人だけの約束をぼくたちは交わした。
369
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:38:53 ID:esi.ifqo0
「友達になってくれてありがとう――ショボン」
.
370
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:39:21 ID:esi.ifqo0
シィがぼくを見る。シィがぼくに話しかける。シィがぼくの隣にいる。
それらのすべてが形容しがたい安寧そのものとなって、思わずぼくは泣いてしまいそうになった。
こんなにも暖かく、こんなにも穏やかな時間が存在する奇跡に、ぼくは泣いてしまいそうだった。
きらきらと星のように輝くその瞳が、ただそれだけが、
ただそれだけを、ぼくは見続けていたいと思った。
ずっと、ずっと。ずっと、ずっと。そう願っていた。
シィは言った。ぼくに向かって言ってくれた。
友達になってくれてありがとうと、他ならぬシィが、他ならぬぼくに向けて言ってくれた。
ぼくはその瞬間の幸福を、ずっとずうっと、噛み締めていた。
どんな時にも、何が起ころうとも、ずっとずうっと、いつまでも、それを噛み締め生きてきた。
ずっと、ずうっと。ずっと、ずうっと。ずっと、ずうっと。ずっと、ずうっと――。
.
371
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:39:50 ID:esi.ifqo0
「だがしかし、そんな彼をお前は殺した!!!!」
.
372
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:40:24 ID:esi.ifqo0
聴衆が騒ぐ。暴徒が猛る。めちゃくちゃに投げられた火炎が人を燃やし、
家を燃やし、街を、国を、国家を燃やす。それでも怒りは治まらない。
治まる機会はとうに失した。もはやもう、すべてを燃やし尽くす以外に手立てはなく。
揃えた声の御旗の下に、彼らは権威を簒奪する。
独冠王の名の下に! 独冠王の名の下に!
それは、古の英雄。王権の象徴たる宝冠の主に戦いを挑み、
敗れはすれどもその誇り高き志を最後まで捨てることのなかった偉大なる先達の名。
神の使徒を人へと堕し、一度はその冠を簒奪した真なる自由の体現者。
独冠王――またの名を、バチカルの暁光。
王は人なり、神ならず。人には法を、法の罰を。
国捨て民捨て逃げたる王に、王たる資格はもはやなし。
頭を下げさせその首落とし、頭上の冠取り戻せ。
我らが頭上へ取り戻せ。人民が頂へ取り戻せ。
王政打破の時代の開拓。破壊の後に起こる再生。
人民の人民による人民のための暴力。まさしくこれこそ――革命だった。
そして、王の首が、落とされた。
373
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:40:54 ID:esi.ifqo0
正義は為された。いまや既に、国家と時代は我らがもの。
遍く地上の人民は、己を王とし己に仕える。等しき無謬の公平が、遍く者へと降り注ぐ。
声を上げよ、称える声を。神ならざるとも我ら地上に満ち満ちた、真なる人の体現を。
人なる道の権能を。歌い叫べよ歓びを。国家の舵は、我らがその手に還元された。
我ら民へと返された。新しき時代が、人なる時代が、さあ、いまこそ訪れたのだ――!
「そうサ、ここから先は」
「地獄の一途」
最初にそれを求刑されたのは、一人の男だった。
かつて男は王に仕え、欲も野心も抱かず、己に定められた職務を忠実に、勤勉に務めてきた。
彼を恐れる者、彼を嫌悪する者、彼を目する者は数あれど、彼
の不実を糾弾する者はただの一人もいなかった。そしてそれこそ、罪だった。
忠実であり、勤勉で在り続けた彼は、新しき民のための法によってその死を求刑される。
罪状は――王の下で、罪なき多くの者の首を刎ねたこと。男は、処刑人だった。
――男はぼくの、父だった。
374
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:41:30 ID:esi.ifqo0
「父君の首を刎ねるのだ。それが君の役割、正しさというものだろう」
ぼくはそのとき一二を越えたばかりで、任官するにはまだまだ早すぎる年齢であった。
けれども処刑人を処刑するのであれば、別の処刑人を用立てなければならないのも自明の理で。
だから法が、その問題を解決した。新しき時代の人民は年齢を問わず、
公に奉仕する義務を持つ。そう定められた、法によって。
「君よ、公に尽くし給え」
法と正義の代弁者。
眼鏡を掛けた革命の英雄が、鉄のようにぼくへと告げる。
処刑人の剣。
首を刎ねることだけを目的として作られた、先端が丸みを帯びた特殊な剣。
この剣を用いて罪人の首を一刀のもとに切り落とす。
この技術を習得していることが、かつては一人前の処刑人としての証だった。
だが、いまは違う。首を切り落とすのにもはや、技術など必要ではなかった。
技術を肩代わりする機械が、すでに作り出されていたのだから。
わずか一二の子どもであろうと容易く刑を執行できる機械が――
断頭台<ギロチン>がすでに、存在していたのだから。
375
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:41:58 ID:esi.ifqo0
観衆が、広場を埋め尽くしている。ぼくはそれを、壇上から見下ろしている。
無機質な鉄の仮面のその裡から、ひしめく人民の群れを見下ろしている。
ぼくはあの中の一人ではない。あれは人、人間なのだから。
ぼくは人間ではない。身にまとったローブも、顔面を覆い隠す仮面も、
ぼくが人でないことを物語るその証。処刑人という、不浄の穢れの証明なのだから。
故にぼくは、彼らのうちの一人ではない。
そしてそれは、また彼も。
鉄柵の門が、開かれる。官吏に拘束された男が両脇を抱えられた状態で、
群れる人の裡を引きずられていく。割れる人垣。飛び交う罵声に悪罵に罵倒。
そこに真意などありはせず、ただただ人は熱狂に酔う。燃える革命の火の熱が、
まだまだ足りぬと悪を求める。その集約に向けて、その終焉に向けて、
罪持つ悪を舞台へ送る。――父の首が、それを刎ねる機械と合一した。
やれ、やれ、やれ。熱狂する民衆が声を揃えて火炎を吐く。
執行者に向けて。懲罰を代行する人ならざる人間未満に向けて。
――ぼくに向かって、人が“願う”。やれ、斬れ、殺せ。
正義の殺人をその手に犯せ。お前の父を、お前が殺せ。
376
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:42:19 ID:esi.ifqo0
……いやだ。
父は、余計なことを言わない人だった。
あらゆる物事を黙々とこなし、自らの職務についても一切語ろうとしない。
規律のために己を定め、それを遵守するために自らを動かしている。
そのような印象を抱く、正確で、無比で、近寄ることの躊躇われる人だった。
父を愛しているかと問われれば、答えに窮した。
父を恐れているかと問われれば、うなずかざるを得なかった。
それでも、憎んでいたわけではなかった。嫌いなわけはなかった。
父を尊敬していた。父のように頑健で、揺らぐことのない存在になりたいと憧れてもいた。
父と話したいこともあった。聞きたいこともあった。聞いておかなければならないこともあった。
こんな結末、望んだことなど一度もなかった。
火が燃える。熱狂の火が、人民の火が、ぼくの足元を焼き焦がす。
逃げられない。父もぼくも、猛る焔から逃れる術などもはやない。
やらなければならない。執行しなければ、この火は治まらない。
どこどこまで猛り狂うか、どこの誰にも判らない。
でも……でも、それでも殺したくなどない。
父を、殺したくなど、殺したくなど――。
殺したくなど、なかったのに。
377
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:42:51 ID:esi.ifqo0
「死にたいのか!」
誰かが叫んだ、その声に。
反応したのは、頭でなく。
身体が、そう、反射した。
――歓声が、沸き上がった。
耳が割れる、目が割れる。砕けた世界の、砕けた舞台。
そこに転がる、一つの生首。裁きを下したその証明。
ぼくを通じて正義を為した、公義を掲げる人民の。
彼らが為した、無垢なる殺人。ぼくが犯した、始まりの――。
378
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:43:25 ID:esi.ifqo0
「そうだ、ここが始まり」
「お前が背負う、罪の始まり」
悪は、裁かれた。だから、次の悪が必要だった。
次に選ばれたのは、でっぷりとした腹の大きな金貸しの男。
罪状は、革命政権への寄付に応じず私腹を肥やしたこと。
開かれた鉄柵の門から、男が壇上へと連れてこられる。
抵抗する男が、官吏に無理やり拘束される。
「人殺し」。男がぼくに、訴えた。
違う。ぼくは殺したくなんかない。
できることならばこんなところからすぐにも離れて、
なにもかも投げ捨てて逃げ出したい。
あなたのことも、だれのことも、ぼくは殺したくなんかない。
それに、あれは事故だった、事故だったんだ。殺すつもりなんてなかった。
本当は殺したくなんかなかった。殺したくなんか、殺したいわけなんか、ないのに……。
379
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:43:54 ID:esi.ifqo0
「けれどお前は、もう殺した」
「なのにこいつは見逃すのか」
ささやく声が、左右から。あれは事故だった、事故……だったんだ。
でも、でも……。人々が、平等を謳う。人々が、公正を叫ぶ。
それこそが唯一、唯一この場に求められているもの。
ぼくは、父を、殺した。
だったら。だったらもう、後戻り、なんて――。
手が震える。歯と歯が打ち合わされる。喉の奥が、目の奥が乾いて張り付く。
それでもぼくは、それでもぼくは今度こそ――
自らの意思によって、その縄を引いた。
生首が転がり、歓声が沸いた。
380
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:44:18 ID:esi.ifqo0
「ああ素晴らしきかな」
「人民政治」
「誰もが等しく平等で」
「誰の生命も等しく軽い」
貴族という搾取者であった罪。宗教を通じ誤った価値観を植え付けた罪。
乞食として国家の気品を損ねた罪。製造努力を惜しみ配給を滞らせた罪。
いい加減な仕事で建造物に瑕疵を及ぼした罪。
道化の立場に胡座をかいて革命を嘲弄した罪。
老いを理由に国家への奉仕を怠った罪。
若きを理由に放蕩に堕落した罪。
夜泣きによって人民の安眠を侵害した罪。
若者は若者であることで、
老人は老人であることで、
幼子は幼子であることで死罪を言い渡された。
男であることも、女であることも罪とされた。
死を逃れられる者はいなかった。
政権の中枢にいたとしても汚職を指摘されれば翌日にも処刑された。
ぼくに処刑を命じた者も、独裁を理由に処刑された。
日に一人二人であった処刑の数は一ヶ月後には五人にまで増え、
その数は一〇、二〇と際限なく膨れ上がっていった。
ぼくの刎ねた首の数は、際限なく膨れ上がっていった。
381
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:44:45 ID:esi.ifqo0
「みんなが望んだ、これが地獄だ」
「みんなで堕ちれば、怖くないよナ」
王という悪を打ち倒せば、生活は改善されると人々は信じていた。
そうではないと現実に突きつけられた。まだ悪がいるからと、人々は異なる敵を探し出した。
どれだけ殺しても、生活は悪化していくばかりだった。
王政復古を求める者も目立ち始めた。奴らが国家の秩序を乱しているのだと誰かが叫んだ。
悪はそこにいた。人は更に死んだ。ぼくが殺した。
一人ひとり、ぼくがその首を刎ねていった。
国から逃げようとする者も現れた。身を隠し、騒動が治まるのを待つ者も現れた。
等しく彼らも罪人だった。官吏の職務に、彼らの捜索が追加された。
官吏の数も足りてはいなかった。だからぼくも、彼らを探すように命じられた。
382
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:45:19 ID:esi.ifqo0
「懐かしいナ、懐かしいだろかくれんぼ」
「お前はそうだ、見つけるのが得意だったナ?」
そう、二人の言うとおりだ。双子の道化師の言うとおりだ。
ぼくは見つけるのが得意だった。隠れるのは下手でも、見つけるのは得意だった。
人の隠れようとする心理を、ぼくは誰より熟知していたから。
だからぼくは、だれよりも多くの罪人を見つけた。
絶望に顔を歪ませる老婆を、怒り狂って抵抗する男性を、
無言のまま子を抱きしめる母親を見つけた。
ぼくはなにをやっているのだろうと思った。
ぼくはなぜ、彼らの居所を暴いているのだろうと。
いまだってぼくは、これだけ殺めておいてもなおぼくは、
縄を引くその手の震えを止められないでいるというのに。
なのにぼくは、なぜ、なぜ。
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