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ラトヴイームの守り手だったようです
183
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:14:48 ID:zFxhySAs0
「お前さん」
声。前から。寝転んだ男から。慌ててオレは、目元を拭う。
「察するにお前さん、叡智の蛇に大事なものを獲られたな?」
背中を向けて寝転んだまま、男が話を続ける。叡智の蛇。男はそう言った。
確かアドナも言っていた。識らしめる者であり、同時に呑み込み留まらせる者と。
だから、気をつけなさいと。叡智の蛇――蛇。緑の、瞳。
「いや、詮索する気はないんだ。ただ、おじさんみたいな
人種にとっちゃ出会いは貴重でね。貴重な機会を大切にしておきたいのさ。
で、だ。お前さん、何を獲られたんだい?」
オレは答えない。男は一人で話を続ける。
背中を向けたままで。宙に立てた指で、ふらふら円を描きながら。
「その様子だと……物じゃあないな、人か。大切な人。家族か、兄弟か、それとも――」
指がぴんと、一点に止まった。
「友達か?」
184
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:15:11 ID:zFxhySAs0
――オレは、答えない。
「いやすまないすまない、本当に詮索するつもりはないんだ。
ただひとつ、教えてやった方がいいかと思ってね」
頭を掻きながら男が、上体を起こした。
そして、覗き込むようにして首を回し、こちらの方へと視線を向けた。
「その友達な、生きてるぜ」
言葉にならない、声が漏れた。握りしめた乾燥肉が、ぱきりと乾いた音を立てる。
男が口角を上げた。口の端を上げて笑みを見せ、
無精髭の生えたあごには指を添わせて、言った。
「なあお前さん、おじさんと手を組まないか?」
.
185
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:15:45 ID:zFxhySAs0
腕がない。ボクの腕が。どこにあるの、ボクの腕。
ボクの、ボクの、ボクの腕。
腕がある。知らない腕。
肘から先の破けたところに、皮膚の下から生えた腕。
知らない、知らない、誰かの腕。
だってこんな細くて痩せた、“小指の欠けた”腕だなんて、そんな腕は、ボクのじゃない。
どこ、どこ、ボクの腕。
どこにあるの、ボクの腕。
腕を探して、ボクは駆けた。
薄暗く、埃の積もる邸宅の中を闇雲に、四方八方駆け続けた。
腕はなかった。どこにもなかった。自分の腕などどこにもなく、
自分以外の誰かの腕が、腕のあるべきその場所に、
それが己と主張するかのように脈動していた。
欠けた小指が己を主張し、その主張から耳を塞ぐべく、
拳を握って存在しない小指を隙間に隠した。
186
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:16:27 ID:zFxhySAs0
部屋はあった。部屋はあった。いくつもの部屋はあった。
腕はなかった。見覚えはなかった。見覚えはないけれど、どこに何があるのかは判った。
見知らぬ誰かの邸宅だけれど、そこに息づく気配と生活を知っていた。
「これ、は」
絵があった。絵が飾ってあった。女性の絵。赤子を抱いた女性の絵。
懐かしさなど決してない、懐かしさを覚える女性の。知らない。知っている。
その声、その微笑み、その暖かさ。そして、その――。
187
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:16:58 ID:zFxhySAs0
「あ」
亀裂が走った。絵の中に。絵の中の女性に。絵の中の女性の首に。
亀裂が走った。首から。液体が、流れ出した。絵の中に、赤い、液体が。
女性の皮膚から、血の気が失せていく。土気色に変わっていく。
液体は止めどもなく溢れている。溢れ、溢れて、胸の赤子に降り注いだ。
赤い液体が赤子の頭を、身体を、足を、止めどもなく濡らし続けていく。
止めどもなく、赤く染めていく。目に、口に、流れ込んでいく。
血を含んで赤子が、ふくふくと膨れ上がっていく。生命を、強めていく。
だめだと思った。いけないと思った。
こんなことは間違っていると、正さなければいけないとボクは思った。
けれどボクは、何もしなかった。何をすればいいのか判らなかった。
何かをすることが怖かった。何をするでもなく立ち尽くして、堂々巡りに頭の中を巡らせた。
そうだ、腕を探さなきゃ。こんな腕は違うから。
ボクの知らない女の人をボクは知らない。どうして小指がないの。
どうして懐かしいの。どうして、どうして。
どうして、ぼくは――。
188
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:17:30 ID:zFxhySAs0
「シィ!」
絵画の変化が、止まった。女性の首は斬られていなかった。女性は生きていた。
それは知らない女性だった。首を下げた。腕の中を見た。
生首が、抱きかかえられていた。
「……ショボン、どこにいたの?」
「ずっと側に。お前の最も近い場所に」
ショボンはいう。ショボンの言葉はむつかしい。
何を言っているのかわからない時がたくさんある。
でも、ショボンはボクの友達。大切な友達。
だから、ショボンがそう言うのなら、その通りなのだと思う。
だってショボンは、ボクの友達だから。
「ショボン、腕がないの。ボクの腕がないの。たぶん、ここにはないの。
だからボク、外に行くの。外に行かなきゃいけないの」
ショボンを抱えて、屋敷を走る。道は判っている。知らない場所だけれど、道は知っている。
だから走る。出口に向かって、ボクは走る。扉を開けた。外に出た。
外は、水に囲まれていた。一面が水で、川だった。屋敷の周りを、ぐるりと回った。
どこへ行っても、水しかなかった。水しかなくて、どこにもいけなかった。
腕を探しに行けなかった。それはとても、困ってしまうことだった。
189
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:17:50 ID:zFxhySAs0
「シィ」
ぐるぐるぐるりと屋敷の周りを回りに回って、ボクはそれを発見した。
不揃いに並べられた板の橋が、川の方へと突き出しているのを。
そこに浮かんだ、小さく簡素な木組みの小舟を。
小舟の先端に立つその人を、ボクは見つけた。
「何があっても、私を手放すな」
顔の見えない、渡し守が、見えない顔で、ボクを、見ていた。
.
190
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:18:19 ID:zFxhySAs0
夢を見ました。夢の中の私は、一人の男の子でした。
夢の中の私は、小さく簡素な木組みの小舟に乗っていました。
陽の光がきらきらと水面に反射する光景は心地の良いものでしたけれど、
けれど夢の中の私はそこで、うれしさや楽しさよりも不安や緊張に身を竦めていました。
船を漕いでいるのは、私ではありませんでした。
舟を漕いでいるのは男の人でした。男の人は無言で舟を漕ぎ、
だから私も、何も話せないでいました。聞きたいことはありました。
ずっとずっと、ずっと昔から聞きたいと思っていたことが、私にはありました。
けれど私は、やはりそれを口にすることはできませんでした。
私はただただ自分の手を見つめ、指と指とをこすりあわせ、
右の小指とそこに嵌められたものをさすっていました。
それが、ずっと続きました。
ずっとずっと、無言の時間が続きました。
191
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:18:52 ID:zFxhySAs0
「あ」と、私は声を上げました。
水面から、魚が跳ね飛んだのを目にして。
跳ね飛んだ魚が、水面ぎりぎりを飛ぶ鳥に捕まえられたのを目にして。
時間にして一秒ほどもない、ほんの一瞬の出来事でした。
ほんの一瞬の出来事に私は顔を上げて、飛び去る鳥を目で追いました。
「どこへ行きたい」
舟の先端から、男の人が私の名前を呼びました。
無表情に、淡々とした声色で。男の人が、私のことを見ています。
舟は止まっていました。止まった舟のその先端で、男の人が私の答えを待っていました。
行きたいところ。そう言われて私は再び目を伏せて、てのひらに視線を落としました。
てのひらの、右の小指の、そこに嵌めた指環に視線を向けて。
かさかさとした樹の感触を感じながら。けれど結局、私は何も答えられませんでした。
口を閉じて私は、俯いたまま何も言いませんでした。
192
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:19:12 ID:zFxhySAs0
舟が再び、動きました。
私は何も言いませんでした。何も。
その人が漕ぐ舟に身を任せて、ただただ身体を揺らしていました。
果てなき川の果てに向かって、どこまでも、どこまでも、揺られていました。
どこまでも、どこまでも、どこまでも――。
.
193
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:19:43 ID:zFxhySAs0
「よう、酔いは覚めたかい」
「……あ?」
頭上から投げられた問いかけに、頭がくらくらとした。前後左右もよく判らない。
喉の奥もねじ曲がっている感じがして、すこぶる気持ちが悪い。
「返事を聞くまでもないな」問いかけてきたものと同じ声が、同じく頭上から発せられる。
「ほら飲め」と、口に何かを当てられた。
言われるがままに口を開き、注がれるそれを口にする。獣の臭いがした。
少しずつ、意識がはっきりとし始める。頭上からオレを覗き込む男の顔。
誰だっけ、このおっさん。無造作な無精髭に、わずかに上がった口の端。
ああ、そうだ。乾燥肉の。記憶が蘇っていく。教えてもらった、男の名。
そうだ、確かこいつは、そうだ――フォックス。
194
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:20:21 ID:zFxhySAs0
「疲れもあったんだろうさ。空間の移動は肉体への負担も大きいからな」
そうだ、オレはこいつの、フォックスの提案を受け入れたんだ。
手を組まないかという、その提案を。フォックスは言っていた。
オレの友達――シィ、それにショボンは生きていると。
自分の仕事を手伝ってくれたならシィとショボン、二人を助けだすその手伝いをしてやると。
シィとショボンが生きている。信じがたい発言だった。だってオレは見たのだ。
シィが、ショボンが、あのばかでかい蛇に呑み込まれたのを。
シィ、シィの……腕が、千切れ飛んだ、瞬間を。
無事なはずがなかった。適当なことを言うなと、頭に血が上りもした。
けれど――もし、本当に生きているなら?
断る理由などなかった。
フォックスのいう仕事がなんであろうと、断るなんて選択肢はありえなかった。
もちろん、こいつのことを完全に信用したわけではない。
なにをさせるつもりなのかも判らないし、無精髭は胡散臭いし、
やっぱり全部うそなのかもしれない。オレを利用するだけのつもりなのかもしれない。
それでも、他に宛がないのも事実。
だったら断る理由なんて、あるわけない。
助けられるかもしれない。それが、すべてだった。
195
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:21:05 ID:zFxhySAs0
そうしてオレはフォックスの手を取り、
フォックスがその腰に備えた手斧で切り開いた空間の裂け目へと飛び込み、
あの極彩色の空間を渡って――そうしたら目が回って、気持ち悪くなって、意識を失って――
それで、ここは、どこだ?
「幾何対黄金のイェツィラ――その中心部に位置するティファレトの城塞さ」
「ティファレト……?」
言われ、辺りを見回そうとする――
が、その動きは即座に止められた。
「振り返ることはお勧めしない。自分の影に取り込まれるぜ。
俺たちが目指すのは――あっちだ」
振り返ろうとした動きを止めた大きくごつごつした手がオレの頭に触れたまま、
異なる方向へと首の向きを誘導する。フォックスが示した目指す方向、
目的の場所に視線を向けたオレは、その余りのまばゆさに目を細める。
196
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:21:30 ID:zFxhySAs0
「眩しい……」
「そこは我慢だ。ま、じきに慣れるさ」
強く、目を焼くような光の塊。まるで太陽のようなそれ。
遥か彼方に位置するその光点を中心にオレは、自分がいまいる空間を見回した。
何もなかった。
白い、ただただ白い空間が、ただのひとつの異物もないままに広がっている。
それはとてつもなく広い――ような、気がする。はっきりとは判らない。
目印となるようなものが本当になにひとつ、ここには存在していなかったから。
あの光点がどれだけ離れたところにあるのかも、判然としない。
「お前さんの友達な、あの光の先に囚われてるはずだぜ」
上体を起こす。指先をまぶたにあて、押すようにして閉じる。
一、二……三秒。目を開く。遥か前方の光の点を見据える。
目を細めたがる肉体の反応を御して、しっかと目を見開き、目的の場所を見据える。
立ち上がる。視線はそのままに。
197
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:21:59 ID:zFxhySAs0
「もういいのかい?」
「……あんたの目的地もあの光の点ってことでいいのか」
「ああ、その通りさ」
「なら、行くぞ」
言って、オレは歩き始めた。いまにも走り出してしまいそうな早足で。
背後から、フォックスの小さく笑う声が聞こえた。
.
198
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:22:39 ID:zFxhySAs0
「あのね渡し守さん。ボクね、いろんなところを旅したよ」
深く深くローブを被った渡し守。
深海のように光の届かないその裡には、どのような面貌が秘されているのか伺えない。
ボクはしかし何故だか声を張り上げる気にならず、
機械のように櫂を漕ぎ続ける渡し守に声を潜めて話しかける。
「たくさんの大人の人達に襲われていたリリを助けたんだ。
首だけで川に落とされちゃったアドナも助けた。
子どもの楽園でもみんなの願いを叶えて助けようとしたんだよ」
風はなく、川には波一つなく、ボクの話す声以外に音という音がここにはなかった。
水を掻く櫂すらも波紋を立てることはなく、ただ景色の動きだけが、
時の止まっていないことを証明していて。
199
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:23:06 ID:zFxhySAs0
「でもね、願いはいまも叶ってないの。
ボクの願いは、もっともっと遠くにあるの。だって、だってね――」
伺うように、渡し守を見上げた。
「ボクの願いは――」
ローブの奥の、光の届かないその暗闇を。
「渡し守さんは……無口だね」
200
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:23:35 ID:zFxhySAs0
渡し守さんはなにも言わなかった。ボクも口を閉じた。そうして一切の音が消えた。
景色だけが流れていく。音もなく、ボクらを乗せた小舟が果てなき川を進んでいく。
抱えたものを見た。指と指とをこすりあわせ、右の小指に触れようとして、
存在しないその場所を通り過ぎ、胸にかかえるものを擦った。胸の中のショボンを擦った。
無言の時間が続き、その間ずっと、ずっとずっとボクは、胸の中のショボンを擦り続けていた。
「あ」と、ボクは声を上げた。何かが水中から浮かび上がってきたから。
それは、魚ではなかった。鯨でもなかった。それは、首だった。女性の首。
うつろな瞳、乾いた唇、生気の失せた、女性の面。女性の生首が、ボクを見つめていた。
それは、ひとつではなかった。女性の生首は、次々と浮かび上がってきた。
音のない川を女性の生首が埋め尽くしていく。隙間なく、びっしりと、女性の首が密集する。
それらすべてが、こちらを見ている。音なく進む小舟に掻き分けられながら、
散らされながらもこちらを向く。どこへ行っても、どこまで行っても、こちらを向く。
胸の内のショボンを抱きしめる。
潰れよとばかりに強く、強く。
渡し守さんに、名を呼ばれた。
201
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:24:23 ID:zFxhySAs0
「どこへ行きたい」
「ボク、は」
右手が何かを握っていた。小指を失った右手が何か太く、荒々しい縄を握っていた。
縄はボクの頭上を越えて、上へと伸びて、伸びて、曇天の空のその更に上までも伸びていた。
曇天の空に隠されたものへと、結びついていた。
「ボクは――」
何かを言おうとした。ボクは確かに、何かを言おうとした。
――しかし、ボクは何も言えなかった。何を言い出すこともできなかった。
“いままでと同じように”。
202
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:24:44 ID:zFxhySAs0
渡し守さんが櫂を止め、こちらを向いていた。
深く被ったローブに手を添わせ、暗闇に覆われたその面を顕にした。
顕となったその双眸で、ボクを見下ろしていた。
何も言わずに、ただ、ただ。
そして、渡し守さんが、頭を、垂れた。
――ボクは、縄を、引いた。
空が、裂けた。音が、生まれた。鉄の塊が、落下する。
斜めに設えられた刃を先端として。そして、そのまま、そして。
渡し守さんの、首が――。
.
203
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:25:19 ID:zFxhySAs0
いい加減、おかしくなりそうだった。
歩いても歩いても遠い遠いあの光は大きくも小さくも変わりはしない。
時間も距離感も喪失し、本当に前へ進んでいるのか、自分が歩いていのかも疑わしくなってくる。
光に満たされた白の世界。歩けば歩くほどに、現実感が喪われていく。
「だから」
だからオレは、話し続けた。隣を歩く、この男に。
この白の空間における、オレ以外の唯一の異物に。無精髭のフォックスに。
「なんで一気に行かないんだよ、その斧使ってよ」
フォックスが答える。あの空間の移動はそこまで精緻に行き先を決定できるものではなく、
ともすれば時空の狭間に落ちて二度と元の場所に
もどれなくなってしまうかもしれない代物であると。
なるほどそういうものかと、オレは納得する。納得しかける。
「……いや、ちょっと待て。てめえ説明もなく、そんな危ない道を渡らせやがったのかよ」
「はっはっは!」
「『はっはっは!』……じゃねーよ!」
「はっはっはっ!」
204
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:25:47 ID:zFxhySAs0
フォックスは何であの光点に向かうんだ。お前も果て先を目指してるのか。
そうした問いにフォックスは真面目に答えはせず、あれやこれやとはぐらかしていたが、
それでもオレは構わなかった。こいつが何を目指していようとオレには関係ないし、
何を目指しているのかに関係なく轡を並べて進めていることに間違いはなかったのだから。
悪い男ではないと、オレはそう思うようになっていた。
どこかいい加減で、だらしなく、胡散臭さだけはどうしようもなく漂っているものの、
悪人ではないとオレには感じられた。半信半疑であったこいつの言葉――
シィとショボンの生存も、いまでは真実だと信じられた。
だからオレは、二人のことを話した。
この西の果てのセフィロトで出会った、二人の友だちのことを。
二人の友だちと旅した冒険のことを。
話しながらに振り返り、今更ながらにありえないことの連続だったとしみじみ思う。
現実離れした、おかしな出来事ばかりであったと。
しかし、現実とはなんだろうか。現実。現実の記憶。記憶はまだ、取り戻せていない。
まばらに浮かぶ記憶らしきものに触れることはあっても、それは一瞬の邂逅に過ぎず、
すぐにも手からすり抜けてしまう。痛烈なその、痛みと共に。痛みの伴う過去。記憶。
それに――願い。オレの、願い。
205
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:26:10 ID:zFxhySAs0
「願いがな、あったんだよ」
何に代えても絶対に、叶えなければならない願い。けれど。
「でも、思い出せないんだ。記憶を失ったってことだけじゃなくて、あいつらに……
シィとショボンに会って、あんまり意識することもなくなってたっていうか……」
シィ。天真爛漫で、純真無垢で、
厄介事ばかり起こす面倒な――弟みたいに目の離せない男の子。
「でも、あいつらと別れてさ。別れてすぐはそれどころじゃなかったけど、
あんたと会って、ここを歩いて……そしたらさ、なんか、思い出して」
助けてやるって意気込んで、押して、走って、一緒に逃げている間は、
それで手一杯で余計なことを考える余裕がなかったように思う。
もしかしたらそうして没頭することで、目を背けていたのかもしれない。
大切な――けれど同時に、痛みを伴う何かから、もしかしたら――。
「よく、わかんねーけど……オレ、願いに誠実じゃなかっていうか、なんか、なんかさ……
なにか、大切なもんを、裏切っちまったような気がして……」
……違う。違う違う。なんだオレ、なんでこんな辛気臭い話してんだ。
気恥ずかしくなる。なにか別の話題に切り替えないと。なにかないか、なにか。
あ、と、頭に浮かぶ。そういえばシィのやつは、何かというとこれで遊ぼうとしていたな。
ショボンも含めて、三人で。そう、このお遊戯で、そうだ――。
206
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:26:35 ID:zFxhySAs0
「……しりとりでも、するか」
「お?」
フォックスが、意表を突かれたような表情でこちらを覗き込んできた。
顔が、熱くなった。
「違う、間違えた。なんでもない、気にすんな、忘れろ……忘れろ!」
「いいじゃないか、しりとり。おじさんは楽しそうだと思うがなあ」
「う、うるさい! ばか! こら!」
フォックスがくつくつと押し殺した声で笑う。……あーもー。
こんな子どもっぽい遊びをしようだなんて。それもこれもシィのやつのせいだ。
あいつ、再会した時にはひどいからな、ばかこら。
207
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:26:57 ID:zFxhySAs0
「……おじさんはな、まあそれなりに長い間ここにいるんだ。
だからまあ、お前さんよりはここのことを理解しているつもりだ」
未だに大きさを変えない光点を目指しながら、隣を行くフォックスを見上げる。
「ここは――セフィロトはな、時間も空間もねじ曲がった場所だ。
一万里もかけ離れた二点を折り曲げてひとつに、寸毫の刻を一千の時間に、
千年の先と万年の以前を同時に、良かれ悪しかれあり得ない重ね合わせを実現してしまうって、
そんな常軌を逸した場所だ。だがそんな不可思議なセフィロトにも、ひとつのルールが存在している」
「ルール?」
「願いがなければ訪れることもできないってルール」
「願い……」
「願い。結実し、現実に現すことを至上の命題とする祈り。
……だがな、おじさんは思うんだ。見つめるべきは、願いそのものじゃないってな」
「……どういうことだよ。大事なのは、願いなんだろ?」
「願いも大事さ。だが、見つめるべきは願いそのものじゃなく、なぜその願いを抱くに至ったかだ。
大切なのはそこさ。抱く願いが真実であればそこには必ず、
ある重要な要素がその裏に存在しているはずだ」
「ある、要素?」
「想いだよ」
208
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:28:07 ID:zFxhySAs0
「……想い?」
「どんな願いであろうと、願いだけがひとりでに生じるわけじゃない。
“貧乏で生活が苦しい”から“金がほしい”とか、
“弱くてばかにされる”から“強くなりたい”とか、
願いの裏には願いを生み出す想いが隠れているもんさ。
そして、想いを満たす解法は存外ひとつってわけじゃなかったりもする」
願いの裏の想い。オレの、想い。
オレの想いから生じた……生じていたはずの、願い。
「いいか、願うことが悪いとは言わない。そいつは確かに前へと進む活力になるだろうさ。
だが、願いのための願いはいずれどこかで破綻する。だから、見つめ直してやりな。
こんなとんでもない所に来てまで叶えたいと思ってしまったお前さんの願いの、
その発端となった想いってやつを」
「……見つけ、直せるかな」
「直せるさ。なに、心配することはない。想いは時だって超えるものだからな」
未だに大きさを変えない光点を目指しながら、隣を行くフォックスを見上げる。
フォックスは、オレを見下ろしていた。無精髭に囲まれた口を、
いかにもニヒルとでもいったように歪めて。
……軽く、本当に軽く、
くすっと笑みがこぼれてしまった。
「……似合ってねーぞ、顔に」
「はは、辛辣だな」
「でも――」
209
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:28:33 ID:zFxhySAs0
でも――そこに続く言葉を、オレは素直に口にしようとした。
本当に、素直な心地で。しかしその言葉が声になることはなかった。
オレは足を止め、その場で振り返りかけた。しかしその動きはフォックスによって止められた。
フォックスが片腕で、オレの動きを制御する。
「影が濃くなって来たんだ、光の近くまできた証拠さ」
「でも……!」
聞こえたんだ。確かに、オレの耳に、その呼び声が聞こえたんだ。
あいつの声が、あいつがオレを呼ぶその声が聞こえたんだ。
ほら、今度こそ間違いない。さっきよりもはっきりと、はっきりと聞こえてきた。
リリ、助けてって、シィの声が!
210
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:29:04 ID:zFxhySAs0
「離せよフォックス、シィが、シィがそこに――」
「いない。あれは影の呼び声だ。お前さんを引きずり込むための、ティファレトに仕掛けられた罠さ」
「……だけど」
「さっきも言ったろう? おじさんはそれなりに長くここにいるのさ。
ここの仕組みも理解している。断言してもいい、お前さんの友達は背後にゃいない。
お前さんを待っているのは、あの光の先だ」
「……ん」
気にならない、訳じゃない。すぐにも振り返って確かめたい、そんな気持ちはもちろんある。
でも。オレをつかむ、この腕。この腕の、力強さ。
そこにうそは、ないように感じた。信用できる、気がした。
だからオレは、進む。再び先に、光の下に。
さらに大きくなる呼び声に耳を塞ぎながら、光点に向かって歩く。
未だに大きさを変えない、その光点に向かって――。
211
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:29:32 ID:zFxhySAs0
いや、違う。光点に、違和感。これは……大きく、なっている?
いや、違う。それも違う。これは、距離が縮まっているんだ。近くまで来ているんだ。
光の放つまばゆさは一層強まり、背後から聞こえる声は
ほとんど叫び声となって塞いだ耳を貫通してきたが、けれど、確かに、本当に、
太陽のように遥か彼方と感じられた光が、いまやすぐそこにまで迫っていた。
「もう少しだ、がんばれ」
励ましの声をフォックスが上げる。もう少し、本当に、あともう少し。
終わりの見えなかったゴールに、もう少しで手が届く。
そうした安堵が心の端に浮かんだ瞬間――ふと、気になった。
フォックスは、長い間ここにいると言っていた。でもそれって、おかしくないか。
だってここは――セフィロトは、七日の間しか滞在できないんじゃないのか。
そのための炎の壁なんじゃないのか。
でもフォックスはこの白の空間のことも、
セフィロトのこともオレなんかよりもずっと詳しく知っている様子で。
フォックスは、いったいいつからここにいるんだ。
212
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:29:56 ID:zFxhySAs0
疑問が、足を止めた。フォックスの身体が、オレよりも前にでた。
直後、あれだけ騒がしかった声が一斉に消え去った。静寂――を、破った、声。
シィのものではない。背後から響いた知るはずのない――
しかし、どうしようもなく胸を締め付けてくる、“彼”の、声が。
――どうして見殺しにしやがった。
振り返っていた。考えるよりも先に、声の方へ振り返っていた。
――そこには、少女がいた。めそめそと泣きじゃくる一人の少女。
知らない――知りたくもないやつ。誰だ、お前は。そう、思う。
思うだけで、声はでない。声はでず、身体は硬直し、ただ、少女を見ていた。
めそめそと泣きじゃくる少女を見て、そいつが、涙でぐしゃぐしゃに、
ぐじゃぐじゃになった醜い顔で、醜悪な顔で、憎々しい顔で、殺したくなる顔で、
オレを覗き見、口を開いたのを、見た。そいつが、言った。
ごめんなさい。
.
213
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:30:23 ID:zFxhySAs0
「いやだ、死にたくない、死にたくない!」
「撃て! 撃て! 殺せぇ!」
「腕、腕が……足も……」
「母さん、ぼく、ぼく、母さんのシチュー、残すんじゃなかった……」
「死にたくなければ殺せ! 帰りたければ殺せ! 殺せ、殺せ、殺すんだよぉ!」
「見えない見えない見えない見えない……」
「ああ、神よ……」
……なにが、起こった。どこだ、ここは。
フォックスは。シィは。あの――少女は。
誰もいなかった。側にいるはずの者たちは、誰もここにいなかった。
人はいた。ヘルメットを被った人々。泥だらけの血だらけで、苦しげに喘ぐ人々の群れが。
――銃を抱えた人々の群れが。
214
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:30:46 ID:zFxhySAs0
目の前の人が、立ち上がって銃を構えた。
ヘルメットが割れ、頭が砕け、ぐらりと大きく身体を倒した。思わず、手を伸ばしていた。
そこに、何か棒状の、先端に筒状の黒い物体がいくつもくくりつけられている何かが飛んできた。
それが、破裂した。頭を砕かれ倒れた人の身体が、その爆発によって飛び散った。
散った“それ”が、駆けずり回る人々に踏み散らかされた。
誰も、気に留めてもいないようだった。
気に留める余裕もないようだった。
なんだ、ここは、なんなんだ。オレはただ、見ていた。
何に触れることもできず、まるで幽霊かなにかのようにその場に浮かんで、
ただただそこで巻き起こされる惨状を目にしていた。
それは、まさしく、地獄だった。
人間は容易く千切れ飛ぶ消耗品で、誰もが公平に死と隣合わせの窮地に立たされていた。
みんながみんな生きるために走り、走った直後にその生命を失っていた。
いやだと叫んだ。叫んだはずだった。けれど声はでなかった。オレには声がなかった。
オレは観察する者だった。見たくはなかった。けれど目を逸らすこともできなかった。
だからオレは見た。人が死んでいくところを。銃に撃たれ、手榴弾に吹き飛ばされる、
あまりにも脆い人間の身体を。だからオレは見た。
二つの車輪に備え付けられた、いくつもの銃身が束ねられた化け物みたいな兵器の姿を。
だからオレは見た。回転し、すさまじい轟音と共に無数の弾丸を乱射するその兵器が、
人々を紙切れのように粉砕する様を。だから、オレは――。
.
215
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:31:13 ID:zFxhySAs0
「いかがですか閣下、この威力。本格的にこれを導入すれば、戦争は確実に変わることかと」
場所が、変わった。手入れの行き届いた綺羅びやかな庭に、
それと似つかわしくない人を紙切れのように粉砕したあの兵器。
その兵器の前に立つ二人と、鋼のように背筋を伸ばした同じ表情の人達が数人。
閣下と呼ばれた男が、確かめるように目の前の兵器に手を触れる。
「どれだけ用意できるかね」
「三〇機程度であればいますぐに。二週間ほどお待ちいただければ、更に三〇機ご用意してみせます」
「判った、買おう」
ありがとうございますと、若く背の高い男が頭を下げた。
その直後、屋敷の方から声が響いてきた。
幼く、遠慮のない、あらん限りにのどを震わせた泣き声が。
「赤ん坊か」
「ええ、娘です。先日生まれたばかりでして」
「子は宝だ。君にとっても、国にとっても。
君は商売人だが、この戦争を勝利へ導いた英雄として、後の世に名を残すことだろう。
君の娘も大きくなればきっと、君を誇りに思うはずだ」
「これは、もったいなきお言葉を」
216
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:31:37 ID:zFxhySAs0
二人の男が話している間も、赤ん坊は泣き続けていた。
何が悲しいのか、何が恐ろしいのか、聞く者の神経を逆撫でする悲痛な声で。
悲痛な声が、オレの耳を震わせた。耳を塞いでも、なにをしても、
それはまるで己の裡から轟くかのように、頭と心とを揺さぶった。
そしてオレは、気が付いた。
オレはその、赤ん坊だった。
硬いベッドに寝かされた赤ん坊のオレはこれでもかという程に泣き、泣き、泣き続け、
泣き続けながら大きくなっていった。大きくなってもオレは、泣き続けていた。
声を限りにとはさすがにしなくなったが、めそめそと、しくしくと、
泣かない日はないのではというほどに、泣き通した日々を送っていた。
217
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:32:04 ID:zFxhySAs0
「また泣いているのか」
あの兵器を売っていた若く背の高い――
いや、あの時からいくらか年をとったその男が、オレを睨みつけて言った。
そう言われたオレは身体を縮こまらせ、のどをひくつかせ、
声を抑えようとする努力も虚しくやはり泣いていた。男がため息を吐く。
「いったい何が不満だ。きれいな服を着て、栄養のある食事を摂れて、
これ以上私に何を求めるつもりだ、なあ?」
男はずいぶんと痩せこけていた。
痩せこけ、疲れた顔で、どこか正気を失った目をしていた。
あの、人が簡単に生命を失う場所の、
地獄のような場所で戦っていた人たちと、同じような目をしていた。
「私の何が間違っているというのだ? そうだ、私は間違っていない。
私は祖国のために働いただけだ、働く場所が違っていただけだ。
私は武器を調達し、才のない者が戦場に立って武器を持つ。それの何がいけない。
プロレタリアートどもめ、貴様らの無価値な労働は我々の資本の上に成り立っているとなぜ理解できない。
教養がないからか? それとも元々の知能が違うのか? なあ、どう思う。答えろ、答えなさい」
男がオレを問い詰める。オレは、何も答えなかった。
ひくついたのどは決壊し、抑えていた声は努力も虚しくこぼれだした。
218
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:32:35 ID:zFxhySAs0
「泣くな!」
男の怒声。その声が更に、オレの泣き声を助長する。
男はテーブルを蹴り飛ばし、棚をひっくり返した。それでもオレは、泣いていた。
「私は、私は国に尽くしたのだ。私は英雄なのだ。
私が戦争を長引かせたなどと、断じて、断じて非国民などと――」
男は更に室内を破壊し、何事かと駆けつけてきた従者を押しのけて、部屋の外へと出ていった。
ぶつぶつと、未だ治まらない怒りを何事かつぶやきながら。
その一部始終をオレは、オレの中から見ていた。
何を話すこともせず、ただただ泣き続けるオレの中から見続けていた。
オレはまだ、泣いていた。何が悲しいのか、なぜ泣いているのか、
それすらも判らないままに、オレはいまも泣いていた。泣いたままに、馬車に揺られていた。
それは定期的に通っている教室の帰りで、この帰り道では次にまたこの道を通る時の憂鬱さを思い、
泣きながら馬車に揺られるのが恒例となっていた。
けれどオレは、それにいやだとは言えなかった。それは父の決めたことだったから。
父に逆らうことなど、怖くて出来はしなかった。
だからオレは俯いて、俯いて、ぽたぽたと腿を濡らす涙を見つめて泣いていた。
219
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:32:57 ID:zFxhySAs0
だからオレは、それに気づくのにしばらく時間がかかった。馬車の外。
街の中心に位置する広場の、その脇を通っていた時のこと。
張り上げた声が広場中に広がっているのが聞こえてきた。
普段であれば大きな声など聞こえたら萎縮して、
動くこともままならずに息を潜めて泣いてしまうところだが、
今日は、そしてこの声からは不思議なことに、恐ろしさを感じなかった。
オレはどうしようと迷いながらも、馬車の覆いをちらりと開ける。
そして見た。広場の中に、大勢の子どもが集まっているのを。
そしてその子どもたちが一人残らず、広場の中心を見つめているのを。
けれど、見えたのはそこまでだった。
オレを乗せた馬車はすぐにも広場から離れていってしまい、
その時はまだ、なんだったのだろうという微かな疑問を抱いただけに終わった。
本格的に興味を惹かれたのは、次にこの道を通った時だった。
その日もオレは俯いて泣いていたが、あの張り上げた声が聞こえた途端、
この前のことを思い出した。今度は躊躇わず、覆いを開けた。
220
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:33:21 ID:zFxhySAs0
広場ではこの前と同じように子どもたちが集まり、
真剣な顔で広場の中心に視線を送っていた。
広場の中心。今回は、見ることができた。
そこには一人の男の人と、木組みのなにか、台のようなものが置かれていた。
男の人は台に手をかけながら、張り上げた大きな声で子どもたちに語りかけている。
芝居がかったその様子に、オレは目を離せないでいた。
台の内側にはなにかの絵が描かれているようだったが、遠くてそれが何かは判らなかった。
けれど、胸の沸き立つ思いがした。これが何か判らない。
判らないけども、こんな気持ちは生まれて初めてだった。
もっと間近で、それを見たい、感じたいと思った。
けれど馬車は無情にも、オレを運んで広場から遠ざかっていってしまう。
それからは、教室へ通うのが楽しみになった。
あんなにいやで、悲しくて仕方なかったのに、馬車の中で泣くことはもうなくなっていた。
何度も、何度も、あの広場の前を通って、何度も、何度も、あの光景を眺めた。
何度見ても色褪せることはなく、何度見てもそれは心を浮き立たせた。
それと同時に、ある想いがオレを支配するようになっていった。
馬車からでなく、直にあれを、見たい。“私”もあの場に、行きたい。
221
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:33:47 ID:zFxhySAs0
地図を、用意した。屋敷からあの広場へ行くにはどのルートを通ればいいのか、
頭の中で何度も何度もシミュレートした。シミュレートするだけで、
本当に屋敷から出るつもりはなかった。
そんな勇気はなかったし、自分にそんなことができるとも思えなかった。
父がオレを家から出したがっていないのを、オレはきちんと知っていたから。
けれど、でも、チャンスが訪れたなら。
そう思わなかったかと思えば、うそになる。
チャンスがあれば、行ってみたい。見てみたい。
それは偽らざる本音で、そうした日が来ることをオレは、
密かに待ち望んでいた。……そして、その日は本当に訪れた。
222
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:34:12 ID:zFxhySAs0
長期の間、父が国外に滞在する予定だと聞かされた。
理由は判らないけれど、父はオレを連れて行くつもりはない様子だった。
父という管理者にして支配者が、突如としてオレの前からいなくなることになった。
さらに、小間使として働いていた少女が実家へ帰るという出来事も重なった。
彼女とはほとんどまともに話したこともなかったけれど、
出自が北方の田舎町であることは聞いており、
その私服が街の男の子のくたびれたそれと同じようなものであることをオレは知っていた。
だからオレは、こう持ちかけた。
私のお洋服とあなたのお洋服、交換しませんか、と。
彼女は喜んで応じてくれた。
整ってしまった。
外へ出るための、あの広場へ行くための準備が、本当に整ってしまった。
信じられなかった。夢かと思った。
同時に、恐ろしかった。
いざ外へ出ようという時に、とつぜん父がもどってくるのではないか、
鉢合わせてしまうのではないか、そんな想像をしてしまって。
それはオレにとって、なにより恐ろしい想像だった。
一方でオレはもう、この湧き上がる感情を抑える術を失っていた。
あの人は何を語っていたのだろう。あの台の中には、どんな絵が収められているのだろう。
どうして子どもたちはあんなに真剣に、あの空間に集まっていたのだろう。
想像すればするほどわくわくは止まらなくなる。
父への恐怖と、このわくわく。これら二項を天秤に掛けてオレは――
初めて一人で、家を出た。
223
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:34:37 ID:zFxhySAs0
何度も何度もシミュレートした、広場までの道のり。
頭の中で描いた地図と実際の光景はまるで異なり、早くもオレは迷いそうになる。
けれど、目印となる店や建物が、あらぬ場所へと行きかけるオレを都度都度引き戻してくれた。
漂うパンの香りがお腹に響くハニエル亭。
灯台のビームみたいに行き先を指し示してくれる宝飾店のエメラルド。
父の会社のロゴが描かれた、酷い言葉で落書きされている金星の看板。
ここまでくればもうすぐだった。
もうすぐであの広場に、夢にまでみたあの場所に辿り着く。
このまままっすぐ、まっすぐ走って、あの、大きく分厚い、鉄柵の門を超えれば――。
224
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:35:06 ID:zFxhySAs0
(行くな!)
“私”が、立ち止まった。胸を抑えて、辺りを見回して。
不安そうな顔で、いまにも泣き出しそうになって。
“私”は、目の前の鉄柵と、ここまで来た道とを見比べていた。
心臓が、痛いくらいに拍動していた。けれど――。
(行くな、行くな!)
“オレ”は叫んだ。けれど“私”は震える手で鉄柵に触れた。
まだそれを押すだけの力はこもっていない。
しかしその柵は見た目に反し、軽く押せばそれだけで簡単に開いてしまう。
それを“オレ”は、よく知っている。
ほんの少し、ほんの少し“私”が力をこめればそれだけで、もう――。
出会ってしまう、“彼”に。
225
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:35:26 ID:zFxhySAs0
(行くな……)
“私”の手に、力がこもる。
(ダメだ……)
鉄のこすれる微かな音。
(やめろ……)
開かれた広場の光。
(やめて……)
その、中心に。中心に――。
226
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:35:52 ID:zFxhySAs0
「困ったやつだね、お前さんは」
空間が、裂けた。目の前の。目の前の裂けた空間から、手が伸びてきた。
伸びた手が、“オレ”をつかんだ。つかんで、それで、そのまま、引きずり込んだ。
極彩色の世界を強い力で引っ張られ、引っ張られ、引っ張られてオレは――
気づけば、白の世界に立っていた。
「……フォックス、オレ」
「色々言いたいことはあるだろうが、まずはこいつだ」
フォックス。無精髭の、だらしない、胡散臭い、オレをこの場に引き戻してくれた大人。
そのフォックスが、オレを引き戻したその手に手斧を構え、それの前に相対していた。
フォックスの前にあるもの。それは、光。光の点として、オレたちが追い続けてきたもの。
それがいまはもう、手の届く距離にあった。
227
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:36:19 ID:zFxhySAs0
「これは……冠?」
太陽のように眩く、直視することの憚られる光を生み出していたそれは、
どうやら冠の形をしているようだった。黄金に輝き完璧な対称を実現している、王様のための冠。
眩しくてほとんど読み取れないものの、その冠には何か文字が刻まれていた。
輪を描いて文字が、冠をぐるりと一周している。
この世のものではない。そんな印象を、一目で受けた。
それを、フォックスが、砕いた。
目を焼く光が消え失せる。世界の白が、硝子のように割れ散っていく。
代わりに現れたのは漆黒の黒にほど近い、深い群青の夜闇の世界。
太陽に隠されていた星々と共に、そこに存在していたものが明かされていく。
台座、階段、柱、ここが建物の内部であったことを顕にしていく。
そして、もうひとつの変化。フォックスが、自分の手斧を見ていた。
自分の手斧の、刃の部分を。そこには、文字が浮かんでいた。
なんという文字かは読み取れない。けれどその形はどことなく、
砕かれた冠に刻まれていたものと似ているように見えた。
砕かれた冠に描かれた文字に似ているそれらの文字がフォックスの手斧に浮かび――
やがて、それも止まった。フォックスが手斧を腰にしまった。
228
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:36:40 ID:zFxhySAs0
「これでおじさんの仕事はおしまいだ。協力してくれてありがとさんだ」
言って、フォックスが冠の置かれていた台座から離れようとする。
そしてお前さんの友達はこっちだと、台座よりも更に奥へと進もうとした。
しかしオレはフォックスの後をついていくことはせず、その背中に視線を投げかける。
オレが付いてこないことに気がついたのか、フォックスが疑問を浮かべた顔で振り返った。
「あんた、本当はオレのことなんて必要なかったんじゃないか」
開口一番、オレはフォックスに問いかける。
フォックスはなんのことやらとでも言いたげなジェスチャーを取ったが、構わずオレは話を続けた。
「実際オレは、なにもしていない。どころかあんたの足を引っ張っただけだ。そうだろ」
「なにをなにを。話し相手になってくれただろ?」
「そんなこと」
あの、白い世界。確かに一人でいたら、気が参ってしまうかもしれない。
少なくともオレならそうだ。でも、フォックスは? 想像できなかった。
フォックスはおそらく、オレなんかいなくても一人で踏破するくらい簡単にできたんじゃないか。
オレとは違って。
……翻って、オレがあそこを渡り切るには、フォックスの存在が必要だった。
答えはたぶん、そこにある。オレは、自分でも言い出しづらいことを、切り出した。
229
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:37:18 ID:zFxhySAs0
「なあフォックス……あんたほんとは初めから、
オレを助けてやるつもりで話を持ちかけたんじゃないか」
「言ったはずさ、おじさんにとって出会いは貴重なんだ。
おじさんはそいつを大切にしたかった……それだけさ」
あくまでもおどけた調子でフォックスは言う。当然納得なんてできなかった。
だからオレはフォックスを睨みつけ、無言の圧で抗議を送る。
約束は、相互に協力し合うものだったはずだ。一方的に助けられるばかりだなんて……
そんなことは、耐えられない。そうした感情を、視線に乗せて。
そうした視線を、フォックスは受けていた。
受けて、相対して、それで――困ったように、笑った。
「それに、ま、なんていうかな――お前さんがな、似てたのさ」
「似てた……?」
「ああ、似てた。どことなく、って程度の話に過ぎないが。
お前さんを見てたら思い出しちまった」
思い出しちまったんだ、あいつのこと。
そう言ってフォックスは、虚空を見上げる。目を細めて、そこに見える何かを見つめるように。
「弱っちい泣き虫のくせに頑固で意地っ張りで……
一度言い出したら聞きゃあしなかった、あのバカを――」
230
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:38:01 ID:zFxhySAs0
静かに、穏やかな口調でそう、フォックスは語った。
いつかのどこかを懐かしむような、そんな寂しさの混じった声で。
オレは……オレも、見上げた。フォックスが見上げた先を。
オレにはそこに星しか見えなかったが、
フォックスがそこに何かを見ているのを否定する気はなかった。
「……遠回しに、オレのことバカにしてねーか」
「はっはっは!」
「『はっはっは!』じゃねーよ、ばか」
ばかと言われて、フォックスはさらに高く笑い声を上げた。
その声につられてオレも、ついつい笑ってしまいそうになる。努めて自制し、唇を噛む。
笑ってなんかやるもんか。納得したわけじゃないんだ。騙されたことにオレは腹を立てているんだ。
……けれど、もう。意地を張る気は、失せていた。
そうだ、こんなところで立ち止まっている場合じゃない。
シィが、ショボンが、この先で待っているのだから。だからオレはこいつに付いていくんだ。
決して認めたわけじゃない。認めたわけじゃないんだからな、このばか、こら。
231
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:38:28 ID:zFxhySAs0
それでオレは、どこへ行けばいい。オレは、そう言おうとした。
言えなかった。フォックスが、手斧を構えていた――
構えていると思ったその次の瞬間には、それが振られていた。
悲鳴を上げる間もなかった。手斧はオレの頭に――
オレの頭に触れるか触れないかというすれすれの場所を、通り過ぎていった。
生暖かなものが、後頭部に降り掛かってきた。背後を見た。
巨大な斧を振りかぶった男が、顔面を両断されていた。
フォックスがそれを突いた。顔面の両断された男が、倒れた。
「フォーックス!!」
怒声が、響き渡った。気づけば周りを、大勢の大人の男達に取り囲まれていた。
彼らはそれぞれが物騒な獲物を持ち、身を兜と鎧に包み、そしてなによりも、
強烈な敵意を宿した瞳でこちらを睨みつけている。
中には興奮しすぎているためか、
ふぅふぅと荒い息を吐きながら口の端に泡を立てているものまでいた。
男たちが、威嚇をするように怒声を上げている。明らかに剣呑な空気だった。
こいつらはいったいなんなのか、なぜこんなにも敵意を剥き出しにしているのか。
なにも判らず、どうすればいいかも判らずオレは、後頭部に付着したものに触れ、
手に付着したそれを見つめた。赤く染まったその手が、細かに震えていた。足が、すくんだ。
232
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:39:02 ID:zFxhySAs0
「こいつらは俺の影だ、お前さんにゃあ関係ない」
身体が、宙に浮いた。持ち上げられ、放り投げられていた。
フォックスに。フォックスから、遠のいていく。
遠のくごとに、視界の端が歪んでいく。極彩色に、囲まれていく。
「フォックス!」オレは叫んだ。フォックスは振り返ることなく手を振った。
そして迫る男たちの方を向いたまま、あの飄々とした声で、
届くことを期していない声量で、つぶやいた。
十にも迫る男たちが、フォックス目掛けて一斉に襲いかかった。
「会うんだろ、友達に」
空間が、閉じた。
跳ねた血が、顔にあたった。
.
233
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:39:29 ID:zFxhySAs0
オレが飛ばされた先。そこには鏡があった。水の鏡。
垂直に、どこどこまでも続く壁のように聳えし水鏡。
その先にシィが、ショボンがいると、オレには感じ取れた。
理屈ではなかった。理屈でなく、それが判った。だからオレは、その鏡の前に立った。
鏡の向こうに、“私”が映る。てのひらを見る。赤い、赤い、己の手。
その手をオレは、“私”に伸ばした。力を込めて、“私”を押す。
鏡が歪んだ。鏡の向こうの“私”も歪んだ。
泣きじゃくるように顔を歪め、滲んだ赤が向こうへ達した。
それでもオレは力を緩めず、鏡を、“私”を、押し続けた。
触手のように伸びゆく赤が、鏡のすべてを染め上げた。
甲高な音を立て、赤い鏡が割れ砕ける。
そこにはもう、“私”はいなかった。
“私”のいなくなった鏡の向こうへ手を伸ばし、そうしてオレは、落ちていった。
「助けるんだ」とつぶやきながら身を投げ出して、シィの埋まった穴の底へと落ちていった。
.
234
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:40:06 ID:zFxhySAs0
不公平だ、お前だけが人間扱いされるだなんて。
土の中にいた。深く掘られた土の中。膝を抱えて縮こまって、土の中で座していた。
掘られた土の空間に、止めどもなく降り注ぐこれまた土。
降り注がせているのは一人とも二人ともつかない彼ら。
一つの胴に二つの腕、二つの足に二つの頭。涙を湛えた白塗りメイクのピエロたち。
憎しみの声と共に土を降らせる彼らには、主から付けられた傷跡がいくつもいくつも残っていた。
笑顔のメイクに憎悪の色で、声を合わせて彼らは言った。
不公平だ、お前だけが人間扱いされるだなんて。
雨が降ってきた。土が濡れる。濡れた土が泥になる。泥となった土が、身体を覆う。
身体を覆う土が、身体との境界を喪わせる。溶けた泥は僅かな隙間も生むことなく、
包んだそれを侵食していく。泥と自分が一体化するような感覚を覚える。
泥のように意識のないなにかに変じていくのを感じる。そして、これが死かと、理解する。
そうか、これが、死、と。
235
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:40:33 ID:zFxhySAs0
怖くはなかった。喪われていくこと、無くなっていくことに、恐ろしさはなかった。
肉体に伴う苦痛はあったものの、もうすぐこれからも解放されると思うとむしろ安堵が先に立った。
そう、安堵。安堵だった。自分が無くなることへの安堵。
意識や思考から解き放たれることへの安堵。そして、そしてなによりも――
誰に会わずとも済むということへの、安堵。
もうすぐだった。呼吸は止まり、鼓動も弱まっていた。
自分を手放すその時は、もはや目前に迫っていた。涙がこぼれたのが判った。
悲しくないのに、流れる涙。
それは生物としての自己が振り絞りだした、最後の抵抗だったのかもしれない。
生きたいなどと願う、浅ましい生物的本能の。けれど、それもおしまい。
時が、止まった。生命の時が。後にはもう、音もなく――。
236
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:41:00 ID:zFxhySAs0
――存在しないはずの音が、聞こえた。
雨を伝わり、泥を伝わり、裡に抱えるその物体に、喪われた生命の振動を伝わらせた。
泥が、土が、掻き出される音が聞こえた。まさか。そう思った。
泥が、土が、掻き出される振動が伝わった。うそだ。そう思った。
泥が、土が、掻き出される光が伝わった。そんなはずはない。
だって、そんな。そんなことって。敷き詰められた地上との壁が、取り除かれた。
そして、そして――そしてそこには、“彼”がいた。
237
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:41:29 ID:zFxhySAs0
もーいーかい。
雨は、止んでいた。空には、陽が昇っていた。陽を背にして彼が、そこにいた。
彼が、手を、差し伸べていた。出血し、指と爪との間に泥とも土ともつかない
汚れが詰まったその手を彼は、微笑みながら、差し伸べてくれていた。
――ぼくは、つぶやいていた。「いいの」とか細く、声にもならない微かな声で。
微笑む彼が、こくんとうなずく。涙がこぼれた。まだぼくの裡に残っていた涙が、
こんなにも残っていたのかと思うほどのそれらが、これまで抑え込んできた分まで流れ出した。
滲む空、滲む太陽、滲む彼、滲む彼の、瞳。
滲む世界の中にあって唯一確かなその瞳をまっすぐ見つめ、ぼくはそうして、その手を取った。
差し伸べられた手を取りぼくは、ぼくは彼を、彼のその名を、呼んだのだ。
友達の名を、呼んだのだ――。
.
238
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:41:56 ID:zFxhySAs0
違うよ“リリ”、助けてあげるのはボクの方だ!!
.
239
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:42:28 ID:zFxhySAs0
上下が、反転した。上に向かって落ちる。落ちるオレに、手が差し伸べられる。
救う側の立場から、シィがこちらへ手を差し伸べる。
「違う、オレだ! オレが助けるんだ!」
再び上下が反転する。救う側に回ったオレが、シィの手をつかむ。
シィはいやいやと頭を揺さぶり、更に上下がひっくり返る。
「リリ、リリ、ボクがね、ボクが助けてあげるからね!」
仮面の奥のきらきら輝く星のようなその瞳をいつにも増して輝かせ、
シィがオレの手を握る。「助けなんて求めてない」と、オレは叫んだ。
世界がぐるりと変わっていく。「それじゃぜんぜんあべこべなんだ」と、
シィが叫べば世界が回る。上下も左右も不確かなその空間で、
オレとシィは上昇しているとも下降しているともつかないままに、狂った渦に呑まれ流れた。
渦の渦中で揉まれながらも、オレたちは互いに譲らなかった。
そこに、何かが、飛んできた。主導と共に互いの手を握ろうとする
オレたちのその接点を目掛けるように、意思なきそれは高速で浮かび上がってきた。
オレたちが、小さく、それぞれに、それぞれの、悲鳴を上げた。それは死体だった。
首と胴が切り離され、身体中が穴だらけに破損させられている死体。
その死体が、オレたちの接点を切り離すかのように飛来し、通過していった。
240
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:42:53 ID:zFxhySAs0
「シィ!」
「リリ!」
手が、離れた。離れてしまった。オレたちは互い互いに、手を取らんと手を伸ばす。
しかしオレたちは荒れ狂う渦の流れに流れ流され、
伸ばしたその手の長さ分だけ二人の間は離れていく。
互いの名を呼び、「助ける」と叫ぶオレたちの、その声その想いの分だけ彼我の距離は離されていく。
オレたちはもはや、自力で互いを捉えることなどできなくなっていた。
それでもオレたちは、お互いのことを“助けよう”とした。
「二人とも、私につかまれ!」
上空とも下層ともつかない地点から降りてきたそれが、叫んだ。
それ、生首。ショボン。オレが、ショボンをつかんだ。シィが、ショボンをつかんだ。
ショボンを介し、オレとシィの手がつながった。
抱き寄せるようにして己をショボンに接近させ、ショボンを中心に抱き合った。
そうして一塊となった二人とひとつの生首は、
荒れ狂う渦が収束するその地点までぐるぐるぐるぐる揉まれながら落ちてゆき――。
.
241
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:43:38 ID:zFxhySAs0
「ああ、ったく……いい加減うんざりしてくるね」
だれに聞かせるでもなくそうつぶやいたフォックスは、自嘲するように笑みをこぼした。
傷のないところなど身体にはなく、どこもかしこも痛くて熱い。
なにをこんなに躍起になっているのか、自分でも阿呆らしくなってくる。
だがこれも仕方ない、こいつが俺の性分なのだ。
フォックスはそう、自嘲する。
目の前に広がる屍の光景。一〇〇はやったか、あるいは二〇〇か。
場合によれば五〇〇に届いていてもおかしくはない。斬るも斬ったり屍の山。
だが、それでも足りない。こんなものではまるで足りない。
“願い”を叶える、そのためには。
飛びかかってきた戦士の首を、刎ねた。屍の山に、またひとつ。
いとも容易く喪われる生命。だが、俺を取り囲むこいつらに動揺はない。
親しき仲間が死のうとも、いずれ己が死のうとも、死のその瞬間まで戦うことを止めない者たち。
そうした修羅の生き方を、魂にまで刻み込んだ戦士たち。例えその身を、兵士の分にやつしても。
この愛すべき、大馬鹿野郎どもが。
242
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:44:18 ID:zFxhySAs0
空間を、切り裂いた。
「お前たちの飼い主さまに伝えろ。こいつ<宝冠>を返して欲しくば、
果てなき東まで追ってこい。次代の覇者が誰なのか、その身をもって教えてやると。そして――」
裂けた空間に向かって、跳んだ。
「知れ、そして喧伝せよ。『バチカルの暁光』が悪徳を――!」
フォックスは跳んだ。極彩色のその向こう、終わりと始まりの、その地に向かって。
空間が、閉じた。
.
243
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:45:02 ID:zFxhySAs0
ה
仰向けになっていた。仰向けになって、空を見ていた。
空が高い、高くて青い。清々しく心地の良い風が吹いている。
時間の流れがゆったりとして、切り取られたいまが
永遠に続いているかのような、そんな穏やかな心地がした。
寝転んだまま、隣を見た。ショボンがいた。
ショボンの向こうに、シィがいた。シィがこちらを向いていた。
仮面の奥のきらきらと星のように輝く瞳が、どこかいまは落ち着いた潤いを湛えていた。
「リリ」
「ああ」
二人一緒にショボンを抱え、緑の続くその地に立った。
緩やかな稜線を描く丘が、青の空を背景に佇んでいた。オレたちは、その丘を登る。
そこに力は必要なかった。微弱な風が背中を押す。手をつないで、二人で歩く。
そこには何の障害もありはしなかった。そうしてオレたちは、その樹の前に立った。
丘の上の大樹――ラトヴイームの、その前に。
244
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:45:31 ID:zFxhySAs0
しばらく無言で、その樹を見上げた。そよ風に吹かれ、さわさわと擦れ合う葉の音。
永遠に固定されているようでいて、確かな生を感じさせる瑞々しさ。
目でも耳でも感じ取れない、けれども感じるその呼吸。
なぜだか、涙が溢れそうになる。目元を拭った。
「願い、叶えないのか?」
「……リリは?」
「オレは……」
245
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:45:55 ID:zFxhySAs0
ラトブイームの肌に触れる。ラトヴイームの鼓動を感じた。
不思議なことにそれは、自分自身の鼓動をより一層はっきりと感じさせる。
オレ。オレの、願い。願いの、想い。想いの、過去。
すべてを思い出せた訳では、なかった。
自分が何を願い、その願いを抱くどのような想いを抱くに至ったかの、
そのすべてを思い出せた訳ではなかった。
けれどオレは、過去を見た。少女の過去。“私”の過去。
泣き虫で、弱虫で、臆病者。いつでもなにかに怯えて困って、
だからといって逃げ出すこともできない愚者。
……オレによく似た、いつかのどこかに生きた少女。
オレはあいつを体験した。己のこととして、その感情を追体験して。
あれは、もしかしたら、オレなのかもしれない。
オレの願いは、オレの想いは、あれの中にこそ隠されているのかもしれない。
もう一度あれと重なり、あれの生を辿ればオレは、そこへと辿り着けるのかもしれない。
ラトヴイームの脈動が、“私”を強く感じさせる。
でも、けども――。
“オレ”は、やっぱり、“私”じゃない。
ラトヴイームから、手を離した。
246
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:46:22 ID:zFxhySAs0
「オレは……オレは、いい。それよりもシィ、お前だ。お前は、どうなんだよ」
「ボクは……」
シィの手。シィの手が、ラトヴイームに触れた。喪われたはずの右手で。
異なる人間の腕が生えているかのように、違和感を覚えるその手で。
小指を喪失した、その手で。
「ボクの、願いは……」
シィは、口ごもっていた。仮面の奥でこぼした声が、くぐもったままに聞こえてくる。
その大人しさはオレの見てきたシィの像とはかけ離れ、まるで別の、
別の誰かがシィの姿を象っているかのように感じる。肘から先の右の腕。
小指の欠けた、だれかの腕。
「願いは――」
「シィ、お前の願いは私が知っている」
247
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:46:54 ID:zFxhySAs0
ショボンの声。シィの左腕に抱えられたショボンが、シィを見上げている。
「お前がそれをどれだけ切に願い、故にこそその願いを
封じてしまったその理由を、私は知っている」
シィがショボンを見下ろしていた。静かに、落ち着いた様子で。
しかしその手が、ラトヴイームと触れたその手が震えているのを、
視界の端でオレは見た。
「お前が願いと向き合うためには、時と順序が必要だった。
忘却に堕するでもなく、拒絶に埋没するでもなく、
真正面から己が願いを受け止めるには、絡み合ったお前の過去を紐解く必要があった」
「ショボン、違うよ。ボクは、ボクだよ」
「故に私は導いた。畢竟それがお前を苦しめ追い詰めることになろうとも、
このセフィロトの道を私はお前と共に歩んだ。
なぜならそれは、私にとっての願いでもあるのだから。故にシィよ」
「それ以上はダメだよ。それ以上言ってしまったら、だってボクは、ボクが――」
「いまこそ己と向き合い、交わした約束を果たす時だ。シィ。いや――」
「ボクが、ボクでは――」
「お前の、本当の名は――」
248
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:47:22 ID:zFxhySAs0
「あっははははははは!!」
とつぜん、目の前が炎に包まれた。身体を引く。一歩下がる。
足元に、違和感を覚えた。泥を踏んだような、気色の悪い感覚。
地面を見た。あるべき緑は色を失い、そこには影が広がっていた。
影。首のない、影。ひしめきあう首のない影の群れ。
それらが地面を覆い尽くしていた。足首を、つかまれた。
悲鳴を上げて、もがく。けれど影は、影の手は、
振り払っても振り払ってもオレをつかまえ、泥のような自らの元へと引きずり込もうとする。
逃れる術を探して、手を振り回した。焼ける熱に、手を引っ込めた。
燃え立つ炎、炎の粉。
それは空へと舞い上がって、青きそれを黒の色へと塗りつぶしていく。
世界が火の手に燃えていく。世界の中心が燃えている。
ラトヴイームが、燃えている。
249
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:48:09 ID:zFxhySAs0
「あんな道のりで果て先に辿り着けただなんて、お前ら本気でそう思ったのかい?」
「全くおめでたい奴らだナ。だからお前らここまで来ても、紛い物のままなのサ」
人をばかにした、癇に障る笑い声。間違いようもなかった。
猛る炎に照らされた二つの人影。白塗りの面に、頬まで伸びた赤い紅。
涙を模した三角マークと、二股に分かれたジェスターハット。
見まごうことなき道化師が、そこには二人、立っていた。
互いに向かって片腕伸ばして、手と手の間に、何かを挟んで。
挟まれたそれが、弾ける火の粉に照らされる。
その大きさが、その形が、それの姿が顕となる。
シィの方を、向いた。シィの、胸を見た。
――ショボンが、いなかった。
「やはりそうか。お前たちも、私と同じ――」
「一緒にするなよ生首野郎。アニジャとお前じゃまるで違う」
「オトジャの求めるその願いは、お前なんかのそれとは違う」
樹が、火が、燃え爆ぜる音。空と雲が轟く音。
蠢く影がひしめく水のような濡れた音。それらの混じった音の洪水。
音の洪水に満たされたこの空間において、なおその音は、
遠く小さく離れているはずのその音は、オレの耳の奥を揺らした。
250
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:48:43 ID:zFxhySAs0
少しずつ、少しずつ、わずかに、わずかに、
互いの距離を縮めていく道化師たちの腕と腕。
その間に挟まれたものが歪み、ひしゃげ、
その形が本来のそれから遠ざかれば遠ざかるほどに、
構成するその内側が砕けていけば砕けていくほどに、
隙間を潰していく道化師たちの腕と腕。
挟まれたショボンが潰れれば潰れるほどに。
「お前は結局失敗したのサ」
「後は俺らに任せておきナ」
樹は燃えていた。影はしがみついてきた。シィは固まっていた。道化師は笑っていた。
ショボンは無表情のままだった。何がどうなっているのか判らなかった。
どうしていいのか判らなかった。何かを叫んだ気もするが、なんと叫んだのかは判らなかった。
何を思っていたのかも、何を感じていたのかも判らなかった。
ただ、これだけははっきりしていた。
オレたちは――オレは、間違えてしまったのだ、と。
「シィ。決して、決して私を忘れ――」
――そうして、ショボンが、潰された。
251
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:49:09 ID:zFxhySAs0
「ルール違反に罰則を」
「ペナルティは公平に」
重ね合わさった道化の手から、何かが絶えず滴り落ちている。
それが何かなどとは、考えたくもなかった。
しかし道化師たちは重ねたその手を折り曲げ離し、その接面をこちらにまっすぐ向けてきた。
「似ても似つかぬ誰かの模倣」
「そんな真似事、もうおしまい」
赤と黒のコントラストを見せつけた格好のまま、道化師二人が近づいてくる。
ひしめく影を踏みつけ潰し、火の粉を浴びてやってくる。ぐちゃり、ぐちゃりと影が跳ねる。
道化師二人が近づいてくる。どうすればいいか判らない。
(怖い)
シィは動かない。動かないシィに影が登る。
首のない影がシィの身体を引き込んでいく。埋まりかけたシィ。
埋まりかけたシィの前で、道化師が止まる。そしてその手で、シィに触れる。
赤と黒に塗れた二つのその手で、シィを覆った仮面に触れる。
亀裂が、走った。
252
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:49:33 ID:zFxhySAs0
「虚飾の殻を砕き割り」
「真の己と向き合おう」
交互に重なる道化師の声。その声が響く度に、鉄を溶かして固めただけといった風情の、
シィの面を覆い隠すその仮面に亀裂が走っていく。呪文のように唱えられる道化師の言葉。
巻き起こる音の洪水と同化したそれは、より一層の激しさを加速させ、
そしてそれは来るべき頂点へと達し――一瞬の静寂の下、道化師たちが、声を揃えた。
「さあ、悍ましき自分をいまこそ」
仮面が、割れた。シィの仮面が。隠されていたものが、白日の下に晒される。
そこには、少年の顔が存在していた。少年。赤い線の引かれた少年。
目元から片頬を通り、あごへと向かって引かれた三本の赤い線。
その模様は、どこかで見た覚えのあるものだった。けれど――
けれど、注目すべきは、そこではなかった。だって、これは。この顔は――。
253
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:49:53 ID:zFxhySAs0
「そうだ、お前が――」
「――真の、“ショボン”だ」
ショボン。ショボンだった。
見間違えようもないほどに、完璧にそのまま、ショボンそのものだった(怖い)。
意味が判らなかった。だってショボンは、ついさっきこいつらに。
でも、どう見ても、目の前のこのシィはショボンだった。シィがショボン?
なら、シィは? 仮面の奥から見えた星のようにきらきら輝く瞳。
その瞳はいまや、くすんだ灰に光を失して。
254
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:50:25 ID:zFxhySAs0
「言ったはずだ、ここには何もないと」
声が聞こえた。聞き覚えのない声。どこかで聞いたような気もする声。
声の先には、ローブをまとった何者かが立っていた(怖い)。
全身を覆うローブ。足も、腕も、頭も見えない。
光の吸収を拒むかのように深く濃い暗闇が続くフードの中。
見えない顔。その顔が、フードが、正体不明のその人物自身の手によって、めくられた。
「お前を連れてきたのは、私だと」
赤い、三本の線。目元から頬に、頬からあごへと伝わる紋様。
それは、同じだった。隣で固まったままのシィ――
ショボンに描かれているそれと。血の涙のような、それと。
255
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:50:51 ID:zFxhySAs0
「……父さん」
シィ――ショボンが、つぶやいた。
「生きるべきは、ぼくじゃありませんでした――」
ぷつ、ぷつ、と、赤い玉がローブの男の首に浮いた。
ひとつふたつ、みっつよっつ――数える間もなくいくつもの玉が男の首に浮かび上がり、
隣り合うそれらは結び合って連結し、やがてそれは一本の線となった(怖い、怖い)。
首をぐるりと一周する、赤い線。
その線を基点として、男の身体と首が、ずれた。動いているのは、首の方だった。
ずるずると紅い雫を零して滑る首。なめらかな動きで切断面をなぞったそれは、
ついには支えを失い、影の待つ地へ落下した。
それが、契機となった。
256
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:51:24 ID:zFxhySAs0
首のない影が、シィの――ショボンの肩まで抱きつき、
その頭まで手を伸ばし、己が裡へといよいよ呑んだ。助けなければいけないと思った。
助けるんだ、助ける(怖い)。違う、泣かない。オレは泣かない(怖い、やだ、怖い)。
影たちがまとわりつく。オレは怒っている。怒鳴りつけている(いやだ、怖いよ、怖いよ)。
オレは助けるために来たんだ。助けられるためじゃないんだ(やだ、やだ、やだ、やだ)。
だって、そうじゃなきゃ、そうでなければオレは、何の為に、ここに――。
顔面が、影の手に、つかまれた。
怖い。
引きずられた。引きずり下ろされた。引きずり下ろされ、呑み込まれた。
影の中に、底の底に。光の届かない、影の世界に。なにかをつぶやいた気がする。
怒ったようにも、謝ったようにも思える。そのどちらでもない気がする。
確かめる術は、けれどなかった。もうここには、音もないから。
何も聞こえなかったから。何も。“私”も。何も――。
.
257
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:51:57 ID:zFxhySAs0
クリフォトへようこそ
.
258
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:52:52 ID:zFxhySAs0
今日はここまで。続きは明日に
259
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 09:31:56 ID:vMXEgZxE0
乙
260
:
◆y7/jBFQ5SY
:2023/06/03(土) 21:47:54 ID:3ISfrQos0
―― סוף ――
「なあお前、泣いてたろ」
.
261
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:48:21 ID:3ISfrQos0
生まれる前から怖かった。いつも怖くて悲しくて、いつでもどこでも泣いてばかりいた。
そうして泣いてばかりいる自分のことが、私はとても、嫌いだった。
泣きたくなくても泣いてしまう、感情任せの自分のことが、とてもとっても嫌だった。
嫌だと思えば思うほどに、私の涙は加速した。
お父様は、私のことが嫌いだった。たぶん。たぶんだけれど、私が泣いてばかりいるから。
お父様はいつでも何かに苛々として、私が泣くとその苛々が、余計に酷くなるそうだった。
泣くなと何度も叱られて、叱られる度に泣き出す私を、お父様はきっと大嫌いなはずだった。
だから私も、余計に私が嫌いだった。
こんな私を好きになってくれる人なんてきっとどこにもいないんだって、
そう思って私はずっと、生きてきた。
でも、彼は、違った。
.
262
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:49:02 ID:3ISfrQos0
ある日、私は見た。
お稽古の帰りの馬車の中から、涙の向こうのその光景を。
広場に集まった子どもたち。ずらりと並んだ真剣な表情。
その表情の向けられた、広場の一点。そこから聞こえる、朗々と張り上げられた迫力のある声。
それが何かは判らなかった。
張り上げられたその声はびっくりするほど大きくて、びりびりと肌の震えるのを感じた。
でも、不思議と怖くはなかった。
どころかもっと、聞きたいと思った。もっともっと、知りたいと思った。
それから私はお稽古から帰る度に、広場で行われるその行事を見続けた。
見れば見るほどに、聞けば聞くほどに私の興味はいやにも増して、
いつしか私は、実際にそこへ行ってみたいと思うようになっていた。
そうは思っても、初めはきっと無理だと思っていた。
けれど父が出張し、街の子たちと同じような服を手に入れ、
状況は私を後押しするように整っていって。もちろん、怖かった。
こんな私が行ってもいいのか。父が知ったらなんと思うか。それに、一人で外へだなんて。
行かない理由はいくつもあった。生きたい理由はひとつだった。
だから私は――行くと決めた。
263
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:49:54 ID:3ISfrQos0
何度も何度もシミュレートして、それでも迷った道を通り、
鉄柵の門を開いて私は、夢にまで見たその場に入る。入った瞬間に、感じた。
馬車の中とは、熱が違う。子どもたちが集まる熱も、喧騒も、
想像していたよりもずっとずっと熱くてすごくて、賑やかだった。
それで、それで――どうすればいいのだろう。
子どもたちは友達同士、思い思いに話をしている。
私は辺りをきょろきょろ見回すばかりで、
誰かに話しかけようだなんてそんなことは考えられない。
はしゃぐ子どもが私にぶつかり、
「あ、ごめんなさ――」と言ったそのすぐ後には、その子の姿は遠くに消えて。
私はせめて邪魔しないようにと縮こまり、広場の端に背中をつける。
264
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:50:25 ID:3ISfrQos0
「はいはいみなさまおまたせっしたー!」
あの声だ! よく張り上げられた、大きな声。馬車の中から、何度も聞いた。
てんでばらばらに散っていた子どもたちが、わっと声の下へと集っていく。
いいのかな、いいのかな。そう思いながら私も、そっと彼らの後についていく。
子どもたちが視線を向けるその先には、木組みで立てられた舞台があった。
三つの扉が大きく開き、木枠の裡が目に入る。そこには紙が、収められていた。
文字と、絵。台を操る男の人が、あの大きく響き渡る声で、紙に描かれた文字を読み上げた。
それはこれから始まる物語の――ひとつの完結した世界に冠された題の名だった。
男の人が、表の紙を横へと引き抜く。隠れた紙が、顕となった。
新しい絵、世界の黎明。絵にあわせて男の人が、気持ちと力をたっぷりに、
大きな声を張り上げる。朗々と、謳うように、物語の内側へと導き誘う。
265
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:50:47 ID:3ISfrQos0
そこには宇宙があった。小さな宇宙。
絵と声と、促されし想像によって成り立つ小さな小さな小宇宙。
けれど確かに存在している、心と魂の描き出す実像。
そこには人がいた。人間がいて、感情があった。
私達と変わりなく生きる人々が、苦しみながら、戦いながら、それでも強く生きていた。
男の子がいた。離れ離れになった友達を探す男の子。
友達を探す旅に出た男の子。見知らぬ土地を渡り歩いて、
騙されたり、事件に巻き込まれたりしながらも、めげずに旅する男の子。
その子の旅の軌跡を思って、私は知らず、応援していた。
心の中で――声にも小さく言葉に出して、旅する男の子を応援していた。
がんばれ、がんばれ、がんばれって。
それで、それで……私は、泣いていた。
その子の苦しみに、その子の悲しみに胸の奥がきゅうと痛くなって。
そして――その子の迎えた結末に、「ああ」と嗚咽を漏らすことしかできなくなって。
私は泣いていた。いつものように泣いていた。
だけどいつもの泣き虫と、今日のそれは違う気がした。こんな涙は、初めてだった。
266
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:51:18 ID:3ISfrQos0
「よーしガキンチョども、お駄賃回収すっから逃げんじゃねーぞ!」
子どもたちが一斉に、ぶうぶうぎゃあぎゃあと騒ぎ出す。
紙芝居の男の人は「うっせーぞ!」とがなりながら、子どもたちの間を回っていった。
そして男の人はバスケットに入れた何かと交換に、子どもたちからお金を受け取っていく。
え、お金、お金? お金、いるの?
そんなものは持ってきていないことを百も承知の上で私は、
お洋服を上から下まで確かめたり、ポケットを裏返したりした。
もちろんそこにはお金なんて、硬貨の一枚だって隠れてはいなかった。
そうこうしているうちに、男の人が私のすぐ側にまでやってくる。
「おらよ、持ってけどろぼー!」と、隣の男の子が叫んだ。私の番が来た。
「おら坊主、出すもんだしな」
男の人が、私を見下ろす。大きい。
お父様も大きいけれど、この人はそれよりもずっと、もっと、大きい。
大きな大きなその人が、私を見下ろしている。
その事実だけでもう、いつもの涙が込み上げてくるのを感じた。
267
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:51:38 ID:3ISfrQos0
「あ、あの、私……」
「あん?」
「わ、私、私……」
声が涙に歪んでいるのが、自分でも感じ取れた。
ごめんなさいって言わなきゃ。ごめんなさい。お金、持ってないんです。
知らなかったんです。ごめんなさい。頭の中で、口にするべき言葉を整理する。
けれど口は、のどは、頭のようにやさしくなくて。
結局私は、私、私と繰り返すことしかできなくなって。
その時だった。私の背後から、にゅっとその手が伸びてきたのは。
268
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:52:12 ID:3ISfrQos0
「ほらよ、これでいいだろ親父」
からん、と、小銭がバスケットに放り込まれた。肩の後ろから、顔が出てきた。
男の子の顔。知らない子。その子はにひっと、私に笑いかけてきた。
わけが分からず私は涙を湛えたままに、小さくその場で会釈する。
「なんだ、お前の連れかよ。だったらいらねーよ、息子にやった小遣い回収する親があるか」
「とっとけとっとけ、どうせ今月も金欠だろーが」
「なんだこのやろ、親に向かって生意気な」
「へっ、説教なら帰ってから聞いてやらぁ。ほら、行こうぜ!」
「え、あの、はい……え?」
手を、つかまれた。と思ったら、引っ張られた。
男の子が走り出していた。強い力で、私を握って。
走るの? 付いて行った方がいいの?
疑問を浮かべるも答えのでないまま、抵抗することなく私は彼に付いていく。
「日が落ちる前には帰ってこいよ! 今日はおめぇーが飯当番だかんな!」
「わぁーってるよ!」
269
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:52:40 ID:3ISfrQos0
あっという間に広場を出て、街の中をあちこち走り回って、
いつしか私は、見たこともないその場所に出た。太陽の光を反射してきらきら輝く水の流れ。
本で読んだことがある。たぶん、きっと、これが川というものだ。
これが、川、川なんだ。なんだか……なんだか、すごい。
「ほい、お前のぶん」
川のすぐ側に男の子が座り、何かを私に手渡してきた。
それはあの紙芝居の男の人が、お金と交換して子どもたちに渡していたもの。
薄茶色の円形の物体で、とても軽く、表面は硬い。
これがいったいなんなのか、私にはよく判らない。
悟られないように、男の子を覗き見る。男の子は、その円形の物体をかじっていた。
ぱきっと、硬いものの割れる音が響く。食べるものなのかしら。おいしいのかな。
そんなことを思いながら男の子を見ていると、
視線に気づいたのか男の子が私のことを見上げた。慌てて視線を逸らす。
「食べねーの?」
「あ、はい……いただき、ます?」
270
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:53:22 ID:3ISfrQos0
そう言って私は、けれどすぐには口をつけなかった。
私だけ立ってるの、おかしいかな。直に座って、いいのかな。怒られないかな。
男の子は、川を見ながらぱきぱきと、手元のそれをかじっている。
伺うようにそっと、彼の隣に腰を下ろした。彼は何も言わなかった。
だから私はそのまま、手渡された薄茶色で円形のそれを、
彼がそうしているようにかじってみる。
もそもそした、不思議な食感だった。
舌がぴりぴりする味で、おいしいというよりも、おもしろい。
「うまいだろ」と、彼が尋ねてきた。私は慌ててうなずいた。
うなずいてぱきぱきと、彼がそうするように手元のそれをかじった。
ぱきぱき、ぱきぱき。きらきらと輝く川の前で、私達の鳴らす軽い音が響き渡った。
271
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:54:05 ID:3ISfrQos0
「なあお前、泣いてたろ」
すっかり手元のそれ――たぶん、お菓子?――を食べ終わって、
ゆらゆら揺れる川の流れを見ていた時のこと。前置きなく、彼がそう言ってきた。
怒られる――! 瞬間的にそう思って私は、身体の芯まで凍りつく。
「あ、わ、私……」
「あん?」
「ごめ、ごめんな、ごめんな、さい……私、私なにもわかんなくて、だから、だから……」
「なに謝ってんだ?」
しかし彼は、心底不思議そうにしながら私の顔を覗き見ていた。
その顔には、お父様が私に向けていたような肌に突き刺さるような痛みはない。
……どうして?
272
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:54:32 ID:3ISfrQos0
「怒って……ないんですか?」
「なんで怒るんだ?」
なんで、怒らないの? だってお父様は、私に泣くなって。
私が泣くと、苛々するって。だからあなたも、私を怒ろうと思っていたんじゃないの?
あなたは、違うの? 私のそんな考えを他所にして、彼は身を乗り出して顔を近づけてくる。
その距離の近さに、思わず私は首を丸めてしまう。
「聞かせろよ。今日の紙芝居、どう思った?」
「か、紙芝居……ですか?」
「そうだよ、見たろ?」
「は、はい、ごめんなさい……」
「だからなんで謝んだって。それと敬語もいらねーよ。むずがいーし」
「わ、わかりました……」
「ましたー?」
「あ、えと……わ、わかり……わかった、です」
「……んー、まあいいか。で? 紙芝居、どう思った? 聞かせてくれよ」
「あ、あの……あの、ね……」
273
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:54:58 ID:3ISfrQos0
目を光らせて私を見つめる彼に、私は少しずつ、少しずつ語っていった。
紙芝居。友達を探して旅をする、男の子の物語。
こんなことを言ったら怒られるかもしれない。
そんなことを話したら嫌がられるかもしれない。
そう思いながら私は言葉を選び選び、慎重に思ったこと、感じたことを彼に話した。
彼は怒りも嫌がりもしなかった。
うんうんと都度都度うなづいて、それでそれでと度々先を促して。
だから私も段々と、言葉の限りを払っていった。
自分が思ったことを、感じたことを、
可能な限り間違いなく伝えられるよう、自分の内側を探りに探って語っていった。
私がどんなに好き勝手話しても、彼は私を拒絶しなかった。
拒絶せずに、話の下手な私の話を聞いてくれた。うれしそうに、聞いてくれた。
彼は私を、拒絶しないでくれた。
274
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:55:19 ID:3ISfrQos0
それで、全部、話し終わった。彼は変わらず、私を見ていた。
私はなんだか恥ずかしくなる。視線を下げる。
川の光はいまはもう、夕の赤を映していた。私の顔も、同じくらいに赤かったかもしれない。
「オレ、プギャー。お前は?」
「り、リリ……」
「リリ!」
手を、取られた。両手で握られた。ぶんぶんと、ぶんぶんと上下に振られた。
男の子の、力強さで。
「また来いよ!」
それだけ言い残して彼――プギャーくんは、その場から一気に駆け去っていった。
すごい、足、早いなあ。私はそう思いながら彼の姿が見えなくなるまで見届けて、
それから手元を、夕焼けに染まるてのひらを見つめた。
彼の手のぬくもりが、まだそこに残っている気がした。
.
275
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:55:47 ID:3ISfrQos0
プギャーくんと会うようになった。
約束したわけではないけれど毎週の決まった曜日に私は紙芝居を見に行き、
それからプギャーくんにお話の感想を聞いてもらう。これが恒例の流れとなっていた。
プギャーくんはやっぱりうんうんと私の話を、満足そうに聞いてくれた。
私はそれに、自分で驚いていた。私ってこんなふうに話すことができたんだって、驚いた。
プギャーくんと一緒にいると、初めてのことがたくさんだった。
知らないお菓子を食べた。紙芝居にも触らせてもらった。彼の持つナイフも見せてもらった。
危ないよと私は怯えたけれど、プギャーくんはそれを巧みに操ってみせた。
リンゴの皮を剥いてみせたり、絵を描くためのペンを削ったりして。
「使いようだよ」と、プギャーくんは言っていた。
にっと、口の端を上げたいたずらな笑みを浮かべて。
私と同じくらいの年のはずなのに、プギャーくんはとても大人だった。
そんな彼を私はすごいと思ったし、同時に私は、
なんにも知らない自分のことが恥ずかしくなった。
だからかもしれない。私はいつしか、こう思うようになっていた。
私もなにか、お返ししたいって。
276
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:56:45 ID:3ISfrQos0
「すげー! なんだこれうめー!」
「よ、よかった……お口にあって……」
私の部屋には、私の為のお金がいくらかあった。
それはお稽古に関わる道具を揃えるためであったり、
新しいお洋服を設えるために用意されたお金ではあったけれど、
大半が手つかずのまま放置されていることを私は知っていた。
それでもこれまでは一人で外出なんて考えてこなかったから、
そのお金に手を付けることもなかった。でも、いまは違う。
私はいま外に出て、プギャーくんと会っている。
どうすればそれが叶うのか判らないけども、
私も、私だって、プギャーくんの喜ぶことをしてあげたい。
初めて会ったあの日。プギャーくんはもそもそしたあの薄茶色のお菓子を食べていた。
お菓子を食べるの、好きなのかな。お菓子をあげたら、喜んでくれるかな。
277
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:57:13 ID:3ISfrQos0
家の近所のお菓子屋さん。
入ったことはないけれど、パーティに出されたことがあるから味は知っている。
それはとてもおいしかった――気がする。たぶん。私は、そう感じた。
プギャーくんには、どうかしら。おいしいって、言ってくれるかな。
渡す時にはひどく緊張した。だって私がおいしいって思ったものでも、
プギャーくんにはあわないかもしれないから。おいしくない、いやだって思われて、
それで嫌われたりしちゃったら……それは、とても、泣いてしまいそうになることだったから。
でもプギャーくんは、おいしいって、うめーって言って食べてくれた。
たくさん、食べてもらった。お菓子だけでなく、他のお店にも一緒に行った。
プギャーくんは食べるのが好きみたいだった。
うめーうめーって、たくさんたくさん食べてくれた。
うれしいって、思った。プギャーくんが喜んでくれている。
それがたまらなくうれしくてうれしくて、やっぱり私は泣きそうだった。
278
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:57:35 ID:3ISfrQos0
「金で友達買って、恥ずかしくねえのかよ」
プギャーくんと会うためにいつもの
路地裏を小走りしていたその時、数人の男の子たちに道を塞がれた。
男の子たちはにやにやとした笑みを浮かべて私のことを取り囲み、手や肘でつついてくる。
怖くて、震えて、何も言えずにうつむく私に男の子たちは、持ってるものを出せと命令してくる。
持ってるもの? なんのこと?
男の子たちの言葉の意味が判らずまごまごしていたら、男の子の一人が言った。
金だよ金、金を出せって。金? お金? そう言われてもパニックを起こしていた私は
お金という言葉と懐のそれとを結びつけることができず、何もできずに固まってしまう。
男の子の一人が、壁を蹴った。壁を蹴って彼は、こう言った。
「金で友達買って、恥ずかしくねえのかよ」。すぐには、飲み込めなかった。
彼が発した、言葉の意味を。金で、買う? 友達を? 誰が誰を、買っているの?
……私? 私が、誰を? ……プギャー、くんを?
違うよ。私、そんなこと、してないよ。そう、反論しようとした。けれど、声はでなかった。
なんで、どうして。プギャーくんをお金で買ってるなんて、私、そんなつもり、ない。
私はプギャーくんに喜んでもらいたくて、ただ、それだけで。
でも、でも……他の人には、そう見えるの?
お金でプギャーくんと友達にしてもらってるって、そう、見えてしまうの?
もしかして、みんな、そう思ってしまうの?
プギャーくんは、プギャーくんも……本当は、みんなみたいに?
279
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:58:09 ID:3ISfrQos0
「ひゃーっひゃっひゃっひゃ!」
高らかな笑い声が、路地裏で反響した。男の子たちがなんだなんだと辺りを見回す。
しかし男の子たちがその声の正体を見つけ出すよりも先に、何かが彼らの足元で弾けた。
「く、くっさ! なんだこれ!」
男の子たちが弾けたそこから飛び退き、遠巻きにそれを観察する。
そこには薄いゴムの塊と、濁った色の水たまりが生じていた。
そしてその水たまりからは、なんとも形容しがたい嫌な匂いが立ち上っている。
男の子たちが「てめぇ」とか「この野郎」とか怒鳴っている。
その怒鳴る男の子の洋服で、再び何かが弾けて散った。
「汚水爆弾じゃい! くらえくらえーい!」
水を包んだゴムの塊が、いくつもいくつも降り注いできた。
男の子たちは先程までの威勢もどこへやら、悲鳴を上げて逃げ惑い、
「かーちゃーん!」と叫んだりしながら散り散りに去っていった。
「ひゃーっひゃっひゃっひゃ、おととい来やがれってんだ!」
上空から、勝利を宣言する声が聞こえてくる。その声は、屋根の上から響いていた。
屋根の上の声の主が、滑るようにして壁を伝い、私の前まで降りてくる。
目の前のその人。それは、やっぱり、思っていた通りに――プギャーくんだった。
280
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:58:38 ID:3ISfrQos0
「なんだ、ひっかぶっちまったか?」
心配そうな表情で、プギャーくんが私の顔を覗き込む。私は……私は、泣いていた。
違うの、そうじゃないの。そう言おうとして、だけどそれらは声にならず、
ただただ私は泣いていた。「お金、お金」と繰り返しながら、私はただただ泣いていた。
手を、握られた。
「来いよ、いいとこ連れてったる」
いつかのように手を握られて、引っ張られて、私は彼に付いていった。
右へ左へ曲がり曲がって、街の外れの山にまで。山を登って私と彼は、
黒々とした闇の続くそれの前まで――ぼろぼろに寂れたトンネルの前に立っていた。
プギャーくんから、古ぼけたランタンを押し付けられた。
281
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:59:09 ID:3ISfrQos0
「いいから来いよ、すげーんだって」
閉鎖されて久しい山中トンネル。
散らばった瓦礫を当たり前のように払って彼は、
光の種すらない暗闇へと足を踏み入れていく。
危ないよと、私は思う。子どもだけでこんなところに入るなんて、
絶対にいけないことだよって。けれど私は、思いを言葉にはしなかった。
だから私はおっかなびっくり、すえた臭いの漂う暗闇のトンネルへと踏み込んでいく。
弱々しくて心許ない、いまにも消えてしまいそうな古ぼけたランタンの火を頼りとして。
かすかな明かりに照らされたトンネルの内部は壁も天井もないような有様で、
当然そこはもう道なんて呼べるような道ではなく、大きな瓦礫の上を登ったり、
逆にくぐったりしながら私は、先へ先へと軽快に進む彼の後を追っていった。
待って、待って、お願い待ってと私は思う。
置いていかないで、一人にしないでと私は思う。けれど私は、思いを言葉にしなかった。
それを言葉にするだけの勇気を、私は持ち合わせてはいなかった。
282
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:59:44 ID:3ISfrQos0
だから私は先へ先へと軽快に進む彼の背を、無言のままに追い続けた。
ただひたすらに、他の何にも目をくれず、ただただ彼を追い続けた。
それで――ランタンを落としてしまった。
本当の暗闇に、視界と皮膚とが包まれる。何も見えない、感じない。
彼の存在を感じられない。怖かった。暗闇に包まれた状況そのものよりも、
在るはずのものを感じられないことが怖かった。
在るかどうか定かでないものに思いを巡らせてしまうことが怖かった。
このまま置いていかれてしまうのではないかって、
怖くて怖くて仕方がなかった。涙が溢れてくるくらいに。
――やっぱり私、嫌われているんじゃないかって。
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