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メンバーにガチ恋したらどうしたらいいの?

1名無し募集中。。。:2015/12/17(木) 18:23:24
握手会でガチ恋アピールしてもええのかな?

2北方謙三:2015/12/17(木) 18:31:50
とりあえずソープ逝ってこい!

3名無し募集中。。。:2015/12/17(木) 18:32:07
みんなやってるから大丈夫

4名無し募集中。。。:2015/12/17(木) 18:43:32
誰にしたのか詳しく

5名無し募集中。。。:2015/12/17(木) 18:46:32
アイドルってのは偶像なんだよ偶像にホレてもなんの意味もない
そのアイドルのオフの時はお前の想像してる子とは全くの別人格だ
ちゃんとお給料が発生してる一つのビジネスだよ

6名無し募集中。。。:2015/12/17(木) 18:54:57
>>4
ももちやで

7名無し募集中。。。:2015/12/17(木) 18:55:29
みんなガチ恋してるしいいんじゃない

8まろは可愛らしい ◆XoQppJERwE:2015/12/17(木) 18:59:16
元々その子ヲアイドルと知らなくて一目惚れしたならもう突き進むしかない
それも自分の心が弱りまくっててめっちゃズタズタな時と上手く重なればなw

9名無し募集中。。。:2015/12/17(木) 19:03:36
ハロメン全員にガチ恋してるけど40歳なら大丈夫だよね

10名無し募集中。。。:2015/12/17(木) 19:06:16
>>6
父親が30代ってハロメンも少ないないのに

11まろは可愛らしい ◆XoQppJERwE:2015/12/17(木) 19:10:13
ミスチルの桜井もB'zの稲葉も50前後だし

12名無し募集中。。。:2015/12/17(木) 19:42:36
さんまは飯窪さんにガチ恋してるし

13名無し募集中。。。:2015/12/17(木) 19:59:16
ももちに告白したことあるよ
ビックリしてたよ

14名無し募集中。。。:2015/12/18(金) 06:54:39
ガチ恋なんて軽々しく口にするな
どうせその好きって感情だってぺらっぺらの上辺だけなんだろうよ

15名無し募集中。。。:2021/01/30(土) 04:57:21

https://i.imgur.com/qb4Ce3x.jpg
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16名無し募集中。。。:2023/06/16(金) 23:42:40
逆転野球人生
「ボクは巨人から捨てられた」前年4勝で放出された32歳の西本聖が、新天地で20勝投手になれた理由【逆転野球人生】
2022年10月17日(月) 10:02

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

巨人では“一匹狼”

しのぎを削った同世代のライバルはすでに引退して、オレのポジションは若手選手に奪われた。

そろそろ潮時かもな……。周囲だけでなく、自分すらもそう思う。かつて、そういう状況から移籍を機に劇的な復活を遂げたベテラン選手がいる。元巨人の西本聖である。74年に長嶋巨人の一期生として松山商からドラフト外で巨人入り。実は明治大への入学が決まりかけており、ドラフト外という低い評価に「裏切られた」という怒りもあったが、周囲の強い勧めもありプロ入りを決断した。当初は甲子園のアイドルで同期のドラ1定岡正二を強烈にライバル視するも、3年目に8勝を挙げて先を行くと、その次は1つ年上の怪物投手をターゲットにする。“空白の1日”騒動で入ってきた江川卓に追いつき追い越せと西本は燃えるのだ。鋭いシュートを投げるために当時は珍しいプールトレーニングで手首を鍛え、電車内では一本歯の下駄を履き続けて下半身強化。いやそれ普通に周囲の乗客に迷惑なんじゃ……と突っ込みたくなる猛練習に明け暮れ、背番号30が投げる日には自チームの試合でも「打たれろ、負けろ」と念じ続けた。

「江川さんというのは、ぼくにとってガソリンだった。ぼくという車は、ガソリンがあるから走れた」

のちに週べのインタビューで、投手として圧倒的な才能を持つ江川の存在を「自身のガソリンだ」と語った西本は、80年代の人気絶頂の巨人で強力二本柱を形成する。81年には18勝を挙げ沢村賞と日本シリーズMVPを獲得。4年連続の15勝以上含む6年連続二ケタ勝利を記録して、球界一と称されたフィールディングで7年連続でゴールデン・グラブ賞に輝き、一時期は江川や原辰徳を抑えてチーム最高年俸選手にまで登り詰めた。しかし、財テクや株に興味を示し「たかが野球、されど野球」と飄々とプレーするライバルとは対照的に、グアムキャンプでひとり浜辺ダッシュする西本のガムシャラさはときにチームメイトからも敬遠される。記者投票で入団時のいざこざから20勝達成の江川が避けられ転がり込んだ沢村賞には、同僚からの祝福の声はほとんどなかったという。チームの和を乱すヤツ、いつからか背番号26にはそんなレッテルが貼られるようになる。『週刊読売』84年3月25日号での中畑清との対談企画では、「オレがお前に言えるとすれば、自分を殺して他の連中の中に溶け込んでいけるような余裕を持ってほしいな」と諭された。

17名無し募集中。。。:2023/06/16(金) 23:49:36
「野球に対する考え方はみんなが見習わなきゃいけない点なんだけど、人間関係になるとみんながもう一つ入っていけないという、何かワクがあるわけよ。プロだから一人でやりゃいいんだ。それは決して間違ってないけど、(ものすごく生真面目な顔になって)ただ、一人では勝てないよ」

西本にとって「自身のガソリン」と言うほど江川をライバル視していた

いわばチームリーダーからの公開説教だ。連続二ケタ勝利が途切れた86年前後から、“一匹狼”西本への批判記事やトレード予想がメディアでは目立つようになる。さらに皆川睦雄投手コーチとの確執が表面化して、球団批判で罰金200万円が科せられた。その両者の険悪な関係を修復させようと、球団から“和解ゴルフ”を準備されるも、王監督の前では理解ある大人を演じ続ける皆川コーチの姿に怒りを通り越して呆れる背番号26。両者の関係はもはや修復不可能だった。87年限りで、王巨人の初Vを置きみやげに、その年13勝を挙げたライバルの江川が電撃引退。32歳の西本も88年はたったの4勝に終わり、桑田真澄や槙原寛己ら若手も台頭してきた。世界の王は去り、復帰した藤田元司新監督は新世代の投手王国を作ろうとしている。なぜもっと投げさせてくれない? オレの働き場所はもうないのか……。もはや反骨の右腕・西本のハートの炎は消えかかっていた。

中日で野球人生のリスタート

だが、男の運命なんて一寸先はどうなるかわからない―――。88年オフ、同リーグの中日ドラゴンズへの移籍が決まるのだ。巨人で通算126勝を挙げた西本に加茂川重治を加えた、中尾孝義との2対1の交換トレードだ。一瞬、同期の定岡のように「移籍拒否しての引退」も頭をよぎった。巨人への愛着と未練があった西本は藤田監督の元を訪ね、「来年は二ケタ勝つ自信があります」と訴えるも、「チームには実力のあるキャッチャーが必要だ。過去に(ライバル球団間で)これだけの大型トレードはなかった。球界の発展のためにも分かってくれ」と理由を説明された。しかし、頭では理解できても、感情の整理がついていかない。西本は中日入団発表を終えた直後に収録された週べ88年12月26日号のインタビューで、古巣への本音と新天地での手応えを語っている。

「はっきりいって14年前に18歳で巨人に入団したときよりも、緊張しましたね。ボクは巨人から捨てられたわけですよ。藤田さんはボクの力を必要としなかったわけです。ところが、星野監督は評価してくれた。これから、野球を続けていく上で、このときの気持ちを大切にしていきたい」

「まだまだいけますよ。今年一年、ずっと鍛えてきましたからね。そりゃ、2年くらい前だったら、ヒジもあまりよくなかったし、自信なかったですよ。でも今はベスト。今年の後半なんて、ものすごくいいボールを放ってたんですから」

18名無し募集中。。。:2023/06/16(金) 23:55:54
中日移籍1年目の89年、20勝を挙げた西本

いざ、「打倒江川」から「打倒巨人」へ。西本はライバル江川不在の心の空白を、自分を出した巨人を見返すという新たな目標へと切り替えた。闘将・星野仙一は、87年の開幕戦で自チームの落合博満に対して、臆することなくシュートで内角を抉り、3本の内野ゴロに抑えた西本の気迫を買っていた。巨人ではワガママと揶揄されたキャンプでの自己流調整も中日では許可される。そして、なにより“一匹狼”と呼ばれた西本自身にも変化があった。選手会長の宇野勝から「ニシやん、明日のゴルフ、参加するんやろ」とゴルフに誘われたら気分よく付き合い、巨人時代はまったくやらなかった麻雀もチームに溶け込むために覚えた。「チームに入っていくためにどうしようか考えてる時期に、向こうから来てくれたんで、助かった」と西本は新しい同僚たちに感謝。自身が変われば、周囲も変わる。試合中のベンチでは若い選手が「ニシさんを見殺しにするな」と声を出していた。32歳で体験する名古屋での単身赴任生活で、野球人生のリスタートを切ることに成功する。

ボロボロになるまでユニフォームを着て

89年シーズンの西本は久々にローテの中心で投げ続けた。7月には5連勝で月間MVPを受賞。7月14日、地元ナゴヤ球場の大洋戦で通算136勝目となる10勝目を挙げると、「いい区切りになった。江川さんが引退してからはひとつの夢だったからね」と怪物投手の通算135勝超えを素直に喜んだ。その頃、野球評論家の江川は念願のニューヨーク旅行を実現させ、メトロポリタン美術館を見て回る充電生活中だ。何を優先させて生きるのか、そこに正解はない。人生いろいろである。

「巨人時代はコンディション作りでいまいち、うまくいかないところがあった。18勝を挙げた時(81年)より、いまの方が充実してますね」なんて笑う中日の西本の快進撃は続き、移籍初年度に対巨人戦5勝をマーク。自身初の20勝を記録し、斎藤雅樹(巨人)と最多勝のタイトルを分け合い、トレード相手の中尾孝義とともにカムバック賞にも選ばれた。巨人ではあくまで大黒柱の江川を追う二番手だった右腕が、いわば15年目で初めて「エース」と認められたシーズンでもあった。『週刊宝石』89年12月21日号で対談した小柳ルミ子とは、「他人になんと言われようと、最後はそういう人が勝つんですよ。やっぱり、一生懸命コツコツとやってる人が。私も西本さんと同じですよ。私は、かなりプロ意識が強いほうですから、いまの芸能界では……、早い話がはみ出し者ですね」なんてニシとルミ子が意気投合。契約更改では年俸4400万円から、ほぼ倍増の推定8500万円でサインした。まさに33歳にして実現させた「逆転野球人生」である。

93年はオリックスのユニフォームを着た

その後、移籍2年目の90年も11勝を挙げるが、91年には椎間板ヘルニアを患い引退の危機に。だが、35歳の西本はロサンゼルスへ飛び、失敗したら車椅子生活というリスクの高い手術を受けての復帰を選択するのだ。中日からオリックスを経て、最後は恩師の長嶋監督が指揮を執る巨人へテスト入団。文字通りボロボロになるまでユニフォームを着続け、94年限りで現役生活に別れを告げた。

20年間にも渡った完全燃焼のプロ生活。それはわずか9年で余力を残して去ったライバル江川卓に対する、男の意地のようにも見えた。なお、西本聖の通算165勝は、ドラフト外入団では史上最多である。

文=中溝康隆
週刊ベースボール オンライン

19名無し募集中。。。:2023/06/17(土) 00:16:00
プロ野球はみだし録
江川卓に「逃げられた」西本聖、トレードで中日へ。同一リーグ移籍の危惧と期待【プロ野球はみだし録】
2021年12月30日(木) 11:00

落合とのトレード“回避”も……

89年、巨人から中日に移籍して20勝をマークした西本

1987年オフ、巨人の江川卓がシーズン13勝を残しながらも現役を引退する。このときのことを「ずるい、逃げられた」と振り返るのが西本聖。同じ巨人で江川をライバル視して、ともに切磋琢磨しながら、“魔球”とも評されたシュートを駆使して一世を風靡した右腕だ。

故障もあって81年のキャリアハイを超えられなかった江川だが、これは西本も同様だった。この87年には、ロッテで3度の三冠王に輝いた落合博満が中日へ移籍、初対決で西本が徹底的にシュートを投じて4打数1安打に抑え込む名勝負もあったが、これが西本にとって巨人での最後の輝きだったのかもしれない。首脳陣との確執で出番を減らしていたことに加え、江川が去ったことで原動力となっていた闘志の炎が消えかかっていた。

落合がロッテで移籍を志願したときにも、その交換要員として名前を挙げられていた西本。このときは中日が獲得することとなり移籍は回避したが、奇しくも89年から中日で落合とチームメートとなる。このときは「いいんじゃないんですか、俺には野球しか生きる道はないんですから」と語っていた西本だが、「ジャイアンツに出されたんだから、見返すには同じセ・リーグの球団で対戦して勝つしかない」と思っていたという。消えかけていた闘志が、ふたたび燃え上がったのだ。

これは巨人でもフロントの一部が危惧していたこともであった。「西本は闘志むき出しで巨人に向かってくるはずだ。中日に出していいのか」という声に対して、「ライバル同士でも、こういったトレードをすることが球界の活性化につながる」と言い切ったのが、迎えた89年に復帰したばかりの巨人の藤田元司監督。西本は藤田監督の“期待”にも応える。

西本は「どのチームよりも巨人に負けたくない」と巨人戦で5勝、最終的には自己最多の20勝を挙げて初の最多勝。これは江川のキャリアハイに並ぶ白星でもあった。西本に苦しめられた巨人も劇的な展開に。西本の復活はセ・リーグを盛り上げた一方、そのセ・リーグを巨人は2年ぶりに制して、3連敗からの4連勝で8年ぶりの日本一に輝いている。

文=犬企画マンホール 写真=BBM

20名無し募集中。。。:2023/06/17(土) 00:27:58
プロ野球20世紀・不屈の物語
落合との対決で印象を残すもライバルの江川が引退……。西本聖、中日でプロ15年目の初タイトル、そして“21年目”のフィナーレ/プロ野球20世紀・不屈の物語【1987〜95年】
2020年12月29日(火) 11:05

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

逆風をエネルギーに変えて

89年、中日移籍1年目に20勝をマークした西本

ドラフト外で1975年に巨人へ。最初は同期のドラフト1位、甲子園でアイドル的な人気を集めた定岡正二をライバルに定め、「誰にも負けない」と自負する猛練習で台頭した。79年には空前の騒動を経て江川卓が入団。才能あふれる“怪物”に対して、すさまじい努力で挑む姿は江川を触発し、たがいに切磋琢磨する珠玉のライバルストーリーが紡がれていった。そんな西本聖については、この連載の最初で紹介している。日本シリーズでは江川を超える印象を残すこともあったが、シーズンの白星では84年に15勝で並んだだけで、江川をしのぐことができずにいた西本。だが、江川との物語は唐突に幕が降りる。

87年、江川は13勝。一方の西本は「パ・リーグでは打ったかもしれないけど、セ・リーグでは違うぞ」(西本)と、ロッテで3度の三冠王に輝きながら中日へ移籍してきた落合博満に対して武器のシュートで攻めまくる名勝負を演じたものの、8勝に終わる。そんなオフ、江川が突如として現役引退を発表したのだ。「ずるい、逃げられた、と思いましたね(笑)」と西本は振り返る。プロ13年目、2年連続で2ケタ勝利に届かず、苦しんでいた西本は、自らを発奮させる存在を失ってしまったのだ。

そんな西本に逆風が吹き始める。ふつう逆風が吹けば苦境も深まるものだが、西本の場合は、逆風、それも上のほうから吹き下ろしてくるような逆風は、最強のエネルギー源だった。消えかかっていた闘志の炎は、ふたたび燃え盛る。89年に中日へ移籍。トレードの相手は捕手の中尾孝義で、西本と投手の加茂川重治との2人との交換という、かつて江川との二枚看板で巨人を引っ張った西本にとっては屈辱的なトレードでもあった。このとき、巨人のフロントには「西本は闘志むきだしで巨人に立ち向かってくるはずだ。中日へ出していいのか」という声があったが、藤田元司監督は「ライバルのチームでも、こういうトレードをすることが球界の活性化につながる」と言ったという。

21名無し募集中。。。:2023/06/17(土) 00:47:27
巨人フロントの“悪い予感”も、プロ野球の未来を見渡した藤田監督の“いい予想”も、ともに的中。「球界の活性化」以上に活性化したのは西本だった。当時は巨人のことを尋ねられても「もう昔のこと」と答えなかった西本だったが、のちに「ジャイアンツに出されたわけですから、見返すにはセ・リーグの球団で対戦して勝つしかない。どのチームより負けたくないという思いがありました」と語っている。西本はよみがえった。

真冬の多摩川グラウンドで

西本の“引退試合”で始球式を行った長嶋監督

迎えた89年のペナントレース。西本は巨人からの5勝を含む20勝を挙げる。西本にとっての自己最多だが、江川のキャリアハイに並ぶものでもあった。これで西本は初タイトルとなる最多勝。プロ15年目、33歳のシーズンだった。西本は翌90年にも11勝を挙げたものの、その後は椎間板ヘルニアなどもあって急失速。92年オフに自由契約となり、翌93年にはオリックスで5勝も、1年で再び自由契約に。西本が復活の舞台に選んだのは、巨人だった。かつての恩師でもある長嶋茂雄監督が復帰していて、「もう一度、長嶋監督の下でマウンドに立ちたい」という思いもあったという。テストを受けて復帰した西本に与えられた背番号は、かつて自身が背負った26番ではなく、第1期に長嶋監督が着けていた90番だった。

その94年は、中日との最終戦同率優勝決定試合“10.8”があったシーズン。優勝の行方が最後の最後までもつれたこともあり、西本に一軍での出番はなかった。オフに現役を引退。どん底も頂点も経験した、波乱万丈の20年間だった。

だが、ドラマは終わっていなかった。95年1月21日。二軍で歯を食いしばっていた若き日々を過ごした多摩川グラウンドに、巨人、中日、オリックス、さらには松山商高からも、かつてのチームメートが集まってくる。有志が主催した“引退試合”。始球式のマウンドに立ったのは長嶋監督だった。長嶋監督は最終回の7回表二死の場面で代打として登場。背番号90の西本は、自身のトレードマークでもある投球フォーム、左足を天に向かって突きあげて、恩師に渾身のボールを投げ込んだ。そして7回を“完封”した西本は、涙を浮かべながらも、感無量の笑顔。「ほんとうに幸せ。それ以上の言葉じゃありません。いろいろな方が引退されたけど、僕は最高だと思います」

文=犬企画マンホール 写真=BBM

22名無し募集中。。。:2023/06/17(土) 00:58:07
プロ野球仰天伝説
【プロ野球仰天伝説48】引退後も握りを見せなかった西本聖のシュート
2018年2月9日(金) 11:05

長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。

パの三冠王へすべてシュート

負けん気も強かった西本

1987年の開幕戦。対中日戦で巨人の西本聖が、とんでもない勝負をやっている。相手はロッテから移籍した前年の三冠王・落合博満だ。4打席の対戦で、投げた球種はシュートのみ。4打数1安打に抑え、試合も6対0で完封勝利を飾った。

「意地です。パでは打ったかもしれんが、セでは違うぞって」

西本らしい負けん気だった。

西本がシュートを磨いたのは、もともとストレートがナチュラルに変化し、効果があったこともあるが、球があまり速くないと自覚していたからでもある。

「僕の球で三振を狙ったら痛い目に遭うだけです。右打者なら体に近い内角をシュートで攻めれば自打球も多くなるし、必ず恐怖感が出てきますからね」

シュートを持っていると、ゴロにしやすいので、相手が一塁に出ても怖くないという。1球で併殺にできるからだ。事実、81年の日本シリーズでは、対日本ハム戦で被安打13の完封勝利もあった。

94年限りで引退。その後、99年インタビューしたことがあったが、シュートの握りの写真をお願いすると、「これは自分の財産ですから」ときっぱり断られた。目は現役時代と同じく、ギラギラしていた。

西本聖(にしもと・たかし)
1956年6月27日生まれ。愛媛県出身。松山商高からドラフト外で75年に巨人へ。81年には沢村賞、日本シリーズでは2完投でMVPに。89年に中日へ移籍して自己最多の20勝で最多勝。93年にオリックスへ移籍、翌94年にはテストを受けて巨人へ復帰も一軍登板なく、同年限りで現役引退。主なタイトルは最多勝利1回、沢村賞1回。通算成績504試合登板、165勝128敗17セーブ、防御率3.20。

写真=BBM

23名無し募集中。。。:2023/06/17(土) 01:22:09
HOT TOPIC
ドラフト外で史上最多の通算165勝 長嶋茂雄が絶賛した「雑草男」は
2020年12月20日(日) 11:01

キレ味鋭いシュートを武器に

81年、日本ハムとの日本シリーズでMVPに輝いた西本

「ドラフトの順位は関係ない」

プロ野球界に伝わる格言を体現した男がいる。ドラフト外入団で史上最多の通算165勝をマークした元巨人・西本聖だ。

西本は松山商高で好投手として名を馳せていたが甲子園出場は叶わず、ドラフト外で巨人に入団する。打撃投手でも全力投球するなど野球に向き合うストイックな姿勢と並外れた練習量で、首脳陣にも一目置かれるようになる。高卒2年目の1976年に一軍デビューを飾ると、77年は8勝をマークして一軍に定着した。

直球とほぼ球速が変わらず、キレ味鋭いシュートで内野ゴロの山を築いた。当時の長嶋茂雄監督は西本のシュートを初めて見たとき、「このシュートは天下一品のシュートだ。これだけで勝てる」と絶賛。好調時は外角から内角にえぐってくるほどの変化だったという。

ライバルの存在も発奮材料になった。79年に加入した1学年上の江川卓とエースの座を競い合う。81年に自身初の開幕投手を務めて18勝で沢村賞を受賞するなど、80年から6年連続2ケタ勝利をマーク。剛速球で三振の山を築く江川と対照的な投球スタイルで、派手さはないが黙々と凡打に打ち取る。投手で最多タイ記録となるゴールデン・グラブ賞を8回受賞し、打撃でも通算11本塁打をマークするなど、投球以外の能力も非常に高かった。

大舞台にも強かった。西本はその理由について、週刊ベースボールのインタビューでこう分析している。

「開幕試合もそうですけど、大一番が好きでした。なぜなら、自分の価値を見いだせる場だからです。勝てば世間に認めてもらえる。西本聖はドラフト外で入団した。誰も期待などしていなかった。そんな私が開幕のマウンドに立つことになり、そこは『西本聖』をアピールできる。自分の価値を示す絶好の場ですから、喜んで立つことができました」

81年の日本ハムとの日本シリーズでは第2戦(後楽園)で完投勝利、第5戦(同)でも13安打を浴びながら要所を締めて完封勝利で日本シリーズMVPに。83年の日本シリーズ・西武戦でも第2戦(西武)に先発して27アウトのうち21が内野ゴロと本領発揮して完封勝利を飾る。日本一は逃したが、29イニング連続無失点記録はいまだ破られていない。

最後は巨人でユニフォームを脱ぐ

95年1月、多摩川グラウンドで行われた手作りの引退試合では長嶋監督(右)も訪れた

「雑草男」と呼ばれた男は不屈の精神ではい上がる。88年に4勝で終わると、中尾孝義との交換トレードで加茂川重治とともに中日へ。移籍1年目の翌89年に自己最高の20勝6敗、防御率2.44で最多勝と最高勝率を獲得した。90年にも11勝をマーク。その後はオリックスを経て、古巣・巨人のテスト入団を受けて94年に復帰するが、一軍登板機会はなく、同年限りで現役引退した。

この年は巨人が最終戦まで中日と優勝争いを繰り広げ、ペナントレース最終戦となる10月8日の中日と直接対決でリーグ優勝が決した。西本の引退試合が実現しなかったため、95年1月21日に巨人で同期入団の定岡正二が西本を取材していたメディア関係者と引退試合を企画。多摩川グラウンドで行われた試合に桑田真澄、宮本和知、川相昌弘、与田剛、山本昌広、立浪和義、平井正史ら西本を慕う選手たちが集まった。当時の監督だった長嶋茂雄も始球式のために駆けつけ、最終回に代打でサプライズ登場。恩師との対決で、20年間の現役生活に終止符を打った。

通算504試合登板で165勝128敗17セーブ、防御率3.20。倒れても、倒れても、何度もはい上がる。その生き様に影響を受けた人は多いだろう。濃厚な野球人生だった。

写真=BBM

24名無し募集中。。。:2023/06/17(土) 01:56:08
プロ野球はみだし録
見習いたい!? 巨人の西本聖が草分け的な存在だった“アクティブレスト”【プロ野球はみだし録】
2021年12月14日(火) 11:00

完全オフはプールで

81年は日本シリーズでMVPにも輝いている

1年の疲れが溜まってきている季節。疲労の蓄積が身体の不調を呼ぶ悪循環に陥り、休日といえば布団の中で地球の重力に抗うことができず、社会的動物の矜持に懸けてトイレに行くのが精いっぱい、という向きも少なくないだろう。

プロ野球選手も休日の過ごし方は人それぞれだろうが、次元こそ違えど、休日も来たる次の“仕事”に向けての準備期間であることは変わりあるまい。つくづく仕事とは難儀なものだと思うが、ただ横たわって泥のように眠っていれば効率的に疲労が軽減するわけでもないのだから、体というものも厄介なシロモノだろう。

軽い運動をすることで体力の回復を促していくアクティブレスト。昨今のアスリートにとっては常識となっているが、かつてのプロ野球で、その草分け的な存在だったのが巨人の西本聖だった。“怪物”江川卓とエースの座を懸けて激しく争った右腕。空前の騒動を経てプロ入りした江川という天才に、闘志と努力で対峙したのがドラフト外で1975年に巨人へ入団したのが西本。ストイックなまでに練習に取り組む一方で、コーチに頼んで登板の翌日は完全オフにしてもらっていた。

1980年に先発として初の2ケタ14勝と台頭した西本だが、18勝を挙げてリーグ優勝、日本一に貢献して沢村賞に輝いた81年を例に挙げれば、西本は34試合の登板ながら3完封を含む14完投という数字を残している。投手は先発すれば完投するのが当たり前と思われていた時代だ。西本が完全オフの日に行っていたのがプール。水泳で体を動かしながら体力の回復を早めようとしていたのだ。シーズンオフにはテニスやゴルフをする姿も見られたが、これもアクティブレストの一貫。体を動かしながらも、野球から離れるという気分転換もプラスになったはずだ。

昨今は在宅ワークで、脳は仕事でアクティブになっても体はレスト、という形容矛盾のような“アクティブレスト”に陥っている人も多いことだろう。健康のため以上に、明日も元気に働くために、ランニングとはいかなくとも、徒然なるままにウォーキングくらいはしなければなるまい。とは思うものの……。

文=犬企画マンホール 写真=BBM

25名無し募集中。。。:2023/06/17(土) 02:04:12
プロ野球回顧録
「パでは打ったかもしれないがセは違う」巨人・西本聖が全球シュートで落合博満封じ【プロ野球回顧録】
2021年7月27日(火) 11:46

遊び球も見せ球もなく

1986年オフ、中日・星野仙一監督は就任直後にロッテから落合博満を獲得。さらに打倒巨人を掲げて、いわゆる“記事になりやすい”さまざまな挑発的な言葉を繰り返していた。

期せずして両チームは87年、後楽園の開幕カードで激突。巨人・王貞治監督は、4月10日の開幕投手として西本聖を送り込んだ。オープン戦で好調だった西本だが、前年はわずか7勝。皆川睦雄コーチと衝突して罰金を取られ、オフにはトレード話もあった。

周囲の予想はエース・江川卓。開幕戦で「先発・西本」とアナウンスされたとき、後楽園に詰めかけた5万人の大観衆がざわめく。王監督は試合後、「奇策でもなんでもない。開幕戦というのは相当のプレッシャーが掛かる試合。それに耐えられる強さがないと務まらない。江川がそうではないというわけではないが、西本がベストだと思った」と話した。

当然、西本がこの試合に懸ける思いは強く、燃えに燃えていた。特に対落合。パ・リーグの2年連続三冠王だった落合に対し、「パでは打ったかもしれないが、セでは違う。なめられてたまるか!」と闘志をむき出しに挑んだ。

西本が選んだ策は自らの決め球でもあるシュート勝負だった。結果、第1打席三ゴロ、第2打席センター前ヒット、第3打席三ゴロ、第4打席遊ゴロ。ヒットを1本許したが、落合に対する10球はすべて内角へのシュート。遊び球も見せ球も、そして投げ損じもなかった。すべてが落合の体に向かい、食い込んでいった。

落合を封じ込めたのは、シュートと西本の闘志だった

試合も6対0の完封勝利。「自分で言うのもなんですが、名勝負だったと思いますよ。球界を代表するバッターに全部同じ球種を投げて勝負した選手はいなかったと思います」と胸を張り、落合は「今日は何もないよ」と一言を発しただけだった。

この開幕カードは2勝1敗で巨人の勝ち越し。2戦目以降も巨人の投手陣は、落合を徹底的に内角攻めにし、11打数3安打に抑えた。その後の結果を見ると、開幕戦は決して「130分の」ではなかった。

写真=BBM

26名無し募集中。。。:2023/06/17(土) 02:17:13
トレード物語
【トレード物語06】中日・星野監督がタブー視されていたトレードを実現【88年】
2017年11月13日(月) 11:06

近年は少なくなってきたが、プロ野球の長い歴史の中でアッと驚くようなトレードが何度も行われてきた。選手の野球人生を劇的に変えたトレード。週刊ベースボールONLINEで過去の衝撃のトレードを振り返っていく。

西本を高く評価していた星野監督

89年、巨人からトレードで中日に移籍した西本

[1988年オフ]
巨人・西本聖、加茂川重治⇔中日・中尾孝義

1986年オフに星野仙一監督が就任してから、中日ファンはオフになるとド肝を抜かれっぱなしだった。ロッテ・落合博満を牛島和彦、上川誠二ら4人と交換した大トレードに続き、その2年後、88年には中日にとっては永遠の宿敵ともいえる巨人と主力選手同士のトレードまでやってしまったのだ。

巨人・西本聖、加茂川重治両投手と中日・中尾孝義捕手の交換は、親会社が新聞を発行するマスコミのライバル同士であるということにとどまらず、同一リーグの主力選手同士の交換というそれまでタブー視されていたことへの挑戦という意味で、画期的なものだった。

監督就任2年目の同年、早くも中日を優勝させた星野監督は次の大目標、日本一の座を目指して、日本シリーズが終わると休む間もなく補強作戦に明け暮れた。

中日は同年、球宴後、勝率.745という驚異的な強さで突っ走ったが、一つには勢いに乗った打線、もう一つはシーズン半分近い61試合に登板、あらゆるピンチをくぐり抜けてチームに勝利をもたらした守護神・郭源治の存在があったからだ。星野監督は、“勢い”でVまで突っ走ったことへの不安が心から離れなかった。連覇できるチームにするには何が何でも投手力の強力な補強――これしかないと考えていた。

西本への思い入れには、そんな背景がまずあった。西本は75年、松山商高からドラフト外で巨人に入団。持ち前の負けん気とキレ味鋭いシュートを武器に80年から85年まで6年連続2ケタ勝利。81年には沢村賞を受賞していた。しかし、チーム内の最大のライバル・江川卓に衰えが見え始めると、西本自身も緊張の糸が切れたように衰えを見せてもいた。さらに首脳陣とのゴタゴタも目立ってきていた。

星野監督はこうした西本を、やる気を起こさせればまだまだとてつもない力を出す男と見て、むしろ、その“スポ根”を高く評価していた。

一方、中日の中尾は早くから天才的捕手として注目され、専大、プリンスホテルを経て、81年ドラフト1位で中日入りしている。入団2年目の82年のリーグ優勝に貢献し、MVPを獲得したように、センスの良さとスピードのあるプレーで「従来の捕手像を変えた」とまで言われながら、ガッツプレーが再三故障につながり、ゲームから遠ざかるマイナス面も呼び込んでいた。

この2人に加え、巨人側はほとんどファーム暮らしの加茂川をからませたとはいえ、両球団のファンにとっては、まさに驚天動地ともいえる大トレードだったことは間違いない。

解説者時代から中尾に目をつけていた藤田監督

当時、捕手は山倉和博、有田修三という肩の衰えの著しい2人しかいない巨人には、中尾はノドから手が2、3本も出そうな対象。巨人・藤田元司監督は中村武志、大石友好、大宮龍男という強力な捕手陣で、中尾を外野手にまわす“ぜいたく”をする星野監督に、解説者時代からことあるごとに「巨人サイドで考えて中尾をもらえるなら、私ならだれでも出す」といっていたという。

両監督はもともとNHK解説者としてごく親しい間柄にあり、野球に対する情熱の大きさで、人間的に信頼し合っていたことが、このタブーとされてきた同一リーグのライバル球団のトレードを実現させたことになる。

星野監督は、現役時代から“巨人を倒すことがオレの生きがい”と、巨人には不屈の精神でぶつかってきた。このときのトレードでも自ら「中尾を出すことで巨人の最大の弱点が埋められてしまい、他の球団にうらまれるかもしれん」と話したことがある。

事実、中尾を得た巨人は89年、日本一に輝いている。一方、中日も同年、2連覇こそ逃したが西本が20勝を挙げて最多勝をマークした。

「日本のトレードは陰湿でしんきくさいものに仕立て過ぎている。大リーグのように、もっと明るいものにせんといかん」とドライに割り切る星野監督。闘将でなければ、このようなトレードは実現できなかった。

写真=BBM

27名無し募集中。。。:2023/06/17(土) 02:33:53
プロ野球1980年代の名選手
定岡正二 スライダー習得で花開いた“アイドル投手”/プロ野球1980年代の名選手
2018年9月20日(木) 11:06

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

先発三本柱の広島キラーに

1980年に向けて、巨人の長嶋茂雄監督は前途有望な若手だけを集めて静岡県の伊東でキャンプを張った。戦前の伝説的な茂林寺キャンプの再現であり、のちに同じく伝説となった“地獄の伊東キャンプ”だ。

参加したメンバーには、投手では江川卓、西本聖、角三男、鹿取義隆ら、野手では中畑清、篠塚利夫、山倉和博、松本匡史ら。長嶋茂雄監督が去った翌81年の日本一を支えた主力メンバーが並ぶ。そんな“伝説”に腰痛のため参加できず、毎日よみうりランドのプールで泳いでいた男がいる。ドラフト1位で長嶋監督1年目の75年に入団した定岡正二だ。

「寂しかった。新聞では伊東の話題ばかり」という。鹿児島実高3年でエースとして甲子園に出場、鹿児島県勢で初めて準決勝に進出し、アイドル的な人気を誇った。そのフィーバーはプロ入り後も変わらず。だが、結果が伴わず、完全な人気先行だった。

3年目の77年には、同い年でドラフト外の西本が初勝利。5年目には大騒動を経て江川が入団して、はるか先へと走っていった。もともと層の厚い投手陣。自信はついてきたが、チャンスがない状態が続き、「打撃もいいから、野手になるか」と言われたこともあったという。一軍に上がっても敗戦処理ばかりだったが、そこで出会ったのがスライダーだった。

「カーブとストレートで迷ったときに、その中間ぐらいの握りで投げてみたら、バッターも空振りして、あれっていう顔をする。(捕手の)山倉も、そういう顔をした。これ、使えるんじゃないかって」

ややカットボール気味で、横にスライドするというより、落ちながらスライドしていくような独特の軌道を描いた。そして80年、ついに一軍初勝利。

「角と鹿取の同級生がつないでくれた。勝利の味を知らないから、ベンチで祈るような気持ちでした。勝つことの大変さと安心感。野球選手として、ここから始まるんだな、と」

マウンドで投げていると、長嶋監督も声を枯らして激励。江川や西本のときには見られない光景だった。そのまま規定投球回にも到達して9勝。6年目にして、プロ野球選手としてやっていける自信が芽生えた。

藤田元司監督となった翌81年は、4月11日の阪神戦(甲子園)で初回の先頭打者による1安打のみの準完全試合など、幸先のいいスタートを切り、江川、西本との“先発三本柱”が成立する。速球の江川、シュートの西本と、個性も明確に色分けされていたことに加え、いずれもライバル意識を持ちながら切磋琢磨したことなどの好循環もあってチームは優勝、日本一に。自身も初の2ケタ11勝を挙げた。うち半数を超える6勝が前年の覇者で、81年は2位の広島からのもの。

「勝負は楽しかったですね。変化球主体なので、狭い(広島市民)球場でブンブン振ってくれる打者のほうが、やりやすかった」

王座奪還への貢献度は大きかった。

トレードを拒否して29歳で引退

82年も広島キラーぶりは健在で7勝。

「ジャイアンツの伝統の中で、願望よりも指名があったし、充実感はありました」

シーズンでも自己最多の15勝を挙げたが、巨人は勝利数で中日を上回りながらも王座を譲る結果となった。その後は失速。7勝、5勝、4勝と勝ち星を減らしていった。

85年オフ、有田修三とのトレードで近鉄への移籍が告げられるも拒否、そのまま現役を引退する道を選ぶ。29歳。

「あの当時は、それしか選択肢がなかった。でも、あと10年はできたなあ」と笑いながら振り返るが、「ジャイアンツに入って、いらない、と言われたら、そこまでなんだな、とは思っていました。それだけジャイアンツが好きだったのでしょう。やめないで、と言ってくれたファンの人たちの後押しと、自分自身の悔しさ、無念さが、次の仕事で生きてきた」。

その後の野球界にとどまらない大活躍は、ここでは触れない。

写真=BBM

28名無し募集中。。。:2023/06/17(土) 02:42:26
プロ野球はみだし録
定岡正二がトレード拒否、引退。「ジャイアンツにいらないと言われたら、そこまで」【プロ野球はみだし録】
2021年12月15日(水) 11:00

江川、西本、そして定岡

甘いマスクからアイドル的な人気もあった定岡

巨人戦であれば、ほとんどの試合をテレビで見ることができた1980年代。その巨人では投打のスター選手が躍動していた。投手陣は江川卓、西本聖、そして定岡正二。まだ投手が先発すれば完投するのが当然、とされていた時代でもある。彼ら“先発三本柱”は、間違いなく巨人の花形だった。「1本だけ弱かったよ、って言われますけど」と笑うのは定岡だ。

いわゆる“甲子園のアイドル”からドラフト1位で75年に入団した定岡。西本とは同期で同い年、1学年だけ上の江川はプロでは4年の後輩となるが、プロ初勝利は3人の中で最も遅く、6年目の80年。それでも翌81年に初の2ケタ11勝でリーグ優勝、日本一に貢献し、その翌82年には自己最多の15勝を挙げている。これだけでもチームが巨人でなければエースと称えられても不思議ではない数字だが、特筆すべきなのは当時のセ・リーグで巨人と覇権を争っていた広島に強かったこと。81年は11勝のうち6勝、82年は15勝のうち7勝が広島からのもので、勝ち星だけではない貢献度のある右腕だった。だが、そこから勝ち星を減らしていき、85年は4勝。そのオフ、近鉄の有田修三とのトレードを通告される。定岡の決断は移籍の拒否、そして引退だった。

「ジャイアンツに入って、いらないと言われたら、そこまでなんだなとは思っていました。それほどジャイアンツが好きだったのでしょう。1年くらい経っても『もう1度、投げてくれ』と言われないかな、と思っていたくらい」(定岡)

ただ、その夢はかなわず。定岡は2011年のインタビューで振り返っている。

「やめないでと言ってくれたファンの人たちの後押し、自分自身の悔しさ、無念さが、次の仕事に生きてきた。投手は打たれたことよりも、次どう抑えるか、どういうボールを投げるかが勝負です。どんどん次のボールを投げていきます。暴投もありますが、投げ続けたいですね、人生というマウンドで!(笑)」

定岡の現役時代は知らないが、引退してからの大活躍はリアルタイムで見た、という人も少なくないはずだ。

文=犬企画マンホール 写真=BBM

29名無し募集中。。。:2023/06/17(土) 13:01:04
プロ野球デキゴトロジー/1月21日
雑草男・西本聖、「505試合目」の最終登板【1995年1月21日】
2018年1月21日(日) 7:05

引退試合で始球式を行ったのは長嶋監督だった(後ろが西本)

プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は1月21日だ。

心温まる手づくりのセレモニーだった。

1994年限りで20年の現役生活に幕を下ろした元巨人・西本聖投手の引退試合が1995年1月21日、巨人・多摩川グラウンドで行われた。

球団主催ではなく、有志主催という形で実現した引退試合。西本は所属した巨人、中日、オリックス、さらに母校・松山商高のかつてのチームメートをバックに、巨人同期入団の定岡正二氏ら巨人OBチームと対戦した。

松山商高からドラフト外で巨人入団。20年間の通算成績は504試合165勝128敗17S、防御率3.20だった。93年、3球団目のオリックスを自由契約となった後、恩師である長嶋茂雄監督の下でもう一度投げたいという思いから巨人のテストを受け、復帰。だが、ついに一度も一軍登板がなく引退を決意。功労者だけに引退試合も検討されたが、94年は最終戦まで優勝がもつれ込む、「10.8」のシーズン。その機会もなく、引退となっていた。

この日は長嶋監督も訪れ、まずは始球式。さらにゲームの最終回、7回表二死の場面では代打にも立ち、「西本VS長嶋」対決も実現。ボテボテの三塁内野安打で愛弟子の花道に彩りを添えた。試合は7回を西本が1人で投げ切り、「505試合目」を完封勝利で飾っている。

巨人復帰当時、「どうしてももう一度、一軍で勝って、長嶋監督と握手をしたい」と語っていた西本。公式戦ではかなわなかった夢をこの日の試合後に実現させた。

「(長嶋監督に)来ていただいただけじゃなく、打席も立って走ってもらった。いろいろな方がいろいろな形で引退されたけど、僕は最高だと思います」

涙を浮かべながら語った西本に長嶋監督は「体はそんなに大きくないし、素質も恵まれたほうじゃなかったが、不屈の闘志で実績を残した選手。昨季はなんとか一軍のマウンドに立たせてやりたかった。それが私の唯一の心残りです。でも、こうやって友人、知人が集まってのセレモニーというのは、限られた人だけ。今後の人生の大きな財産じゃないでしょうか」とねぎらった。

二軍時代、汗と泥にまみれた多摩川グラウンド。西本のラストゲームに、これほどふさわしい舞台はなかった。

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30名無し募集中。。。:2023/06/17(土) 13:15:00
プロ野球はみだし録
時代を象徴している? 落合とのトレードを通告された牛島和彦の「僕が何かしましたか?」【プロ野球はみだし録】
2021年12月26日(日) 11:00

“戦力外”から“戦力の補強”に

86年オフ、自身を含む4人と落合のトレードでロッテに移籍した牛島

1986年に2年連続3度目の三冠王に輝いたロッテの落合博満がオフに事実上のトレード志願、巨人への移籍が時間の問題といわれた矢先、その新天地として名乗りを上げたのが中日だった。なかなか巨人の交換要員が決まらなかったということもあったといわれるが、就任したばかりの星野仙一監督が「落合を巨人に獲られたら10年は優勝できん」と球団に強く働きかけたためともいう。最終的に中日は落合の獲得に成功。落合1人に対して、中日からは4選手がロッテへ移籍することになる。このうち唯一、移籍を渋ったのが牛島和彦だった。

牛島はドラフト1位で80年に入団、3年目の82年にリリーバーとしてブレークを果たし、7勝17セーブでリーグ優勝に貢献した右腕。この82年は星野監督の現役ラストイヤーでもあり、牛島は星野を兄貴分として慕っていた。星野がチームを去ってからも牛島の活躍は続き、84年には29セーブでその年の最多セーブを記録。16セーブをマークした86年オフに就任が決まったのが星野監督で、これを誰よりも喜んだのが牛島だった。それまでもチームのために投げて、貢献してきた自負もある。これからは星野監督のためにチームを引っ張り、盛り上げていこうと考えてきたタイミングのトレード通告だった。このとき牛島は「僕が何かしましたか?」と尋ねたという。この「何か」は、チームにとってマイナスのことを指している。

この牛島の発言は、当時のトレードへの意識を象徴しているようにも思える。近年はFAもあってオフに選手が移籍することも比較的ポジティブに捉えられるようになっているが、古くはトレード要員になることには“戦力外”という印象があり、実際にこうした事情からトレードで移籍した選手も少なくなかった。時は流れ、トレードに“戦力の補強”という意味が強くなり、牛島もロッテにとっては“補強”だったはずだ。

トレード通告で一時は引退も考えたという牛島だが、2日後に移籍を承諾。ロッテ1年目の87年に24セーブ、26セーブポイントで初タイトルとなる最優秀救援投手に輝き、89年には先発に回って12勝を挙げている。

文=犬企画マンホール 写真=BBM

31名無し募集中。。。:2023/06/17(土) 13:26:48
プロ野球1980年代の名選手
牛島和彦 セパで活躍したクレバーでクールなクローザー/プロ野球1980年代の名選手
2018年12月15日(土) 11:06

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

中日でクローザーとして優勝に貢献

ドラフト1位で1980年に中日へ。その新人時代、稲尾和久コーチに「9回裏二死満塁、フルカウントで何を投げるか」と問われると、「どのような経緯でフルカウントになったかによるので、分からない」と答えた。

快速球があるわけではなかったが、フォークボールをウイニングショットに巧みな駆け引きで打者を牛耳る投球術が武器だった中日の牛島和彦。高卒新人とは思えないクレバーさに、稲尾コーチは「そう教えようと思っていたのに、先に言われて困った」と頭をかいて笑ったという。

浪商高のエースとして79年の甲子園に春夏連続で出場し、センバツ準優勝、夏もベスト4まで勝ち進んで、漫画から飛び出したような捕手の“ドカベン”香川伸行(のち南海)が一躍、人気者となったが、規格外の体格とパワーを誇った香川とバッテリーを組んだスマートでクールなエースの存在も漫画のような“配役”。高校野球史上、最高の人気バッテリーでもあった。

中日1年目から9試合に登板して2勝、2年目は51試合に登板しているが、先発で失敗し、中継ぎで成功する繰り返しだった。そこで近藤貞雄監督が下した決断は「抑えをやれ」。投手コーチだった権藤博も、「牛島は先発をすると甘い球もある。だけど勝負どころでは素晴らしいピッチングをした。抑えの適正はあったと思う」と振り返る。浪商高でも絶対的なエースで、抑えの経験はなかったが、

「結果が出ないのだから仕方がない。いつかは先発に戻りたいが、とにかく結果を出さなきゃと思った」

現役時代は投手として波乱万丈の道を歩んだ首脳陣と、若き右腕のクールさが、82年のリーグ優勝を呼び込むことになる。8月上旬からはヒジ痛で一時的に離脱したものの、7勝17セーブ、西武との日本シリーズでは、日本一には届かなかったものの、痛み止めを服用しながら4試合に登板して1勝1セーブと結果を残した。

だが、ヒジ痛は尾を引き、翌83年はリリーフ失敗が続く。気分転換も兼ねて先発に回って初の2ケタ10勝を挙げたが、シーズンを通しての安定感には欠けた。続く84年には再びクローザーとなって29セーブでセーブ王。その翌85年は先発にも回って6勝8セーブで、6完投もあった。当時のクローザーは複数イニングにまたがるロングリリーフも当たり前で、投げない試合もブルペンでは投げ込む。その合間に先発も入るわけで、かなりの負担になったはずだが、「気にしなかった。僕も試合に出たかったし、出て成績を残さないと給料も上がりませんし」と笑う。
3勝16セーブをマークした86年オフには、兄貴と慕った星野仙一が監督に就任。だが、これが運命の分かれ目となった。

ロッテ移籍で投球術が進化

「僕が何かしましたか?」

ロッテで2年連続3度目の三冠王に輝いた落合博満との4対1でのトレードを告げられたときの第一声だ。これまで中日のために投げ、これからも星野とともにチームを盛り上げていこうと思っていた矢先だった。引退も考えたが、2日後には受諾。新天地で、その投球術は深みを増していった。

移籍1年目の87年は2勝24セーブでキャリア唯一の最優秀救援投手に。規定投球回には届いていないが、防御率1.29の安定感も光る。以降2年連続セーブ王。中日時代の86年に習得していたが実戦では使っていなかったスライダーがウイニングショットに。パ・リーグでは強打者には速球で押し、打者は速球を強振するのが一般的だったため、特に右打者の外角へ流れるスライダーが効いた。

89年は先発のエースとしてキャリア唯一の規定投球回到達、自己最多の12勝を挙げたが、終盤に肩を壊し、90年から2年連続で勝ち星なし。さらには血行障害にも苦しめられ、93年限りで現役を引退する。この間、92年4月7日のダイエー戦(千葉マリン)で924日ぶりに勝利投手となり、お立ち台で号泣。クレバーでクールな右腕が人前で涙を見せるのは珍しかった。

写真=BBM

32名無し募集中。。。:2023/06/17(土) 13:48:28
プロ野球20世紀・不屈の物語
落合博満の“1/4”になった男たち。その涙と笑顔とは/プロ野球20世紀・不屈の物語【1986〜89年】
2020年9月28日(月) 11:46

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

「僕が何かしましたか?」

1987年、ロッテから移籍して中日の一員となった落合

20世紀の最終盤にFA制度が導入されて、定着した21世紀の昨今、衝撃的なトレードは確実に減った印象がある。最後の衝撃トレードといえるのは、1986年オフ、落合博満のロッテから中日への移籍だろう。衝撃の度合いではプロ野球の歴史でも指折りであり、その後、これを超えるほどの衝撃はない。このことについては落合を紹介した際にも触れたが、2年連続で三冠王に輝きながらも移籍を志願しただけでも前代未聞のこと。どこへ移籍するかによっては球界の勢力図が一変する可能性もあり、その発言だけでなく、一挙手一投足にも注目が集まっていた。

当初は巨人が有力とされていたが、獲得したのは中日。その交換相手に選ばれたのは4人の選手だった。正二塁手の上川誠二が唯一の野手で、クローザーを務めていた右腕の牛島和彦、同じく右腕の平沼定晴、そして左腕の桑田茂だ。これによって球界の勢力図が変わったかは意見の分かれるところだろう。だが、少なくとも、この4人の人生は一変した。4人の記者会見も行われたが、笑顔と拍手で迎えられながらも、全員が硬い表情をしていたのも印象的だ。

移籍を告げられた牛島は「僕が何かしましたか?」と聞き返したと伝わる。トレードされるのはチームに不要な選手というイメージも根強かった時代でもあるが、それ以上に、かつてはチームメートとして一緒に汗を流し、兄のように慕っていた星野仙一監督が就任したばかりのトレード通告だったことが大きかっただろう。引退も選択肢に入れながら、2日間の苦悩を経て移籍を受け入れた牛島は移籍1年目に2勝24セーブで初の最優秀救援投手に輝き、89年には先発に回って12勝を挙げるなどチームに貢献。だが、その後は肩の故障で満足に投げられない状態が続き、92年4月7日のダイエー戦(千葉マリン)で924日ぶりの勝ち星を挙げたときには、お立ち台で号泣した。翌93年オフに現役を引退。中日とロッテ、ともに7年ずつのキャリアを終えた。

ロッテでは本領を発揮できなかった桑田

牛島の場合は、新天地の後半は故障に苦しんだとはいえ、キャリア唯一の規定投球回到達など、新たな花を咲かせたといえるだろう。移籍で運命が暗転したのは桑田だった。北陽高からドラフト外で79年に入団した桑田は、5年目の83年に初めて一軍のマウンドを踏んでおり、遅咲きの部類に入る。左のワンポイントがメーンだったが、86年には自己最多の25試合に登板してプロ初完投をマークするなど、そこからの活躍が期待される左腕だった。だが、ロッテでは登板機会に恵まれず、投げてもワンポイントに終始、移籍3年目には一軍登板なしに終わり、ユニフォームを脱いでいる。

33名無し募集中。。。:2023/06/17(土) 13:58:32
ロッテで正二塁手の座を獲得した上川

グラウンドとスタンドの“距離”が近いと言われていたナゴヤ球場から、閑古鳥が鳴いていた川崎球場へ。「落合の1/4!」というヤジにさらされながらも、「お客さんが少ないからモチベーションは下がる。でも、あたたかかったですよ」と振り返るのが上川だ。

もともと、しぶといプレーで鳴らした陽気なガッツマン。エピソードも牛島と対照的で、「『プロ野球ニュース』のクイズ番組の収録をしていたら電話がかかってきて、すぐ名古屋に来いって。朝の新聞に名前が出ていたらしいですが、見ていませんでした。名古屋に土地を買っていたんですが、こっち(首都圏)は名古屋より狭いのに家賃が倍。子どもも生まれるので(家)を買おうとなって、名古屋の土地を売ったら値段が上がって倍くらいになっていて。あれは助かりました」と笑う。慣れない川崎球場のグラウンドに苦しんだが、移籍3年目には西村徳文を三塁に追いやってレギュラーに。中盤までは”隠れ首位打者”といわれるなど結果も残している。

死球を与え、清原にヒップアタックを食らった平沼

一方、事件が続いた(?)のが平沼。リリーフや谷間の先発という役割はロッテでも同じで、4人のうち最も変化がないようにも見えた平沼だったが、牛島が12勝、上川も正二塁手となって、桑田にとってはラストイヤーとなった89年の終盤に“事件”が起きる。9月23日の西武戦(西武)で清原和博の左ヒジに死球を与えると、清原にバットを投げつけられ、さらにマウンドへ突進してきた清原からヒップアタックを食らって2メートルあまり吹っ飛ばされた。平沼は左肩と左太ももの挫傷で全治2週間。その後も96年に古巣の中日へ復帰して、清原が去った西武で98年の1年だけプレーして引退するなど数奇なキャリアをたどった。

文=犬企画マンホール 写真=BBM

34名無し募集中。。。:2023/06/17(土) 14:11:35
プロ野球1980年代の名選手
郭源治 人生を懸けて来日した竜のクローザー/プロ野球1980年代の名選手
2018年12月16日(日) 11:06

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

台湾選手の先駆けとして来日

1980年代は、台湾出身の選手、特に投手の活躍が目立つようになった時代でもある。その先駆けとなったのが81年シーズン途中に来日した中日の郭源治だ。球威もスタミナもあったが、85年に西武へ入団して“オリエンタル・エクスプレス”と称された郭泰源のように、最初から飛ばしたわけではない。課題は勝負どころに弱いメンタル。ただ、それにはパイオニアならではの苦労もあった。

台湾の南東部にある貧しい農家に7人きょうだいの三男として生まれる。少年時代から運動神経が抜群で、68年にリトルリーグの台湾代表に選ばれて、世界大会に優勝。

「大会の後、1カ月くらいチームであちこちに招待してもらって、王様のような暮らしをしました。それが解散して家に戻ると、すごく貧乏。学校へ行くのも裸足です。そのとき僕、泣いちゃった。ただ、そういう経験があると、人間はずっと上にいられないことが分かる。すごく強くなれたと思います」

その後、華興高から合作金庫、輔仁大を経て、兵役に就く。当時の台湾にはプロ野球はなく、日本球界から誘われた。日本の球団など故郷の英雄でもある王貞治のいる巨人しか知らなかったが、最初に声をかけたのはロッテ。同じ投手の李宗源(のち帰化して三宅宗源)と2人で入ることが決まりかけていたが、「一番、熱心に誘ってくれたから、そこ(中日)がいいかな、って。このまま台湾にいても自分の人生が見えてしまう。それに僕、挑戦したかった。お金も欲しかったですからね」と笑うが、台湾の球界を背負う意識はあった。

「僕がダメだったら、台湾の選手はダメと言われてしまうでしょ。失敗はいけない。日本で成功することが僕の使命だった」

兵役の影響で81年の開幕には間に合わず、7月に来日。球団はマンションを用意してくれたが、通訳も断って合宿所に入った。

「僕は人生を懸けて来たんですよ。大変だけど、それを乗り越えないとダメと思った」

だが、言葉の壁は想像を超える高さで立ちはだかった。説明が分からないから、複雑なサインプレーにも対応できず、試合で間違え、そのたびに罰金を取られる。孤独感に襲われ、もう帰ろうと何度も思った。

「当時、僕は無口と言われた。当たり前よ、日本語しゃべれないんだからね(笑)」

日本球界のレベルも想像よりも高かったが、手ごたえもつかんだ。82年には9勝でリーグ優勝に貢献、翌83年からは4年連続2ケタ勝利。そして87年、星野仙一監督が就任すると、ロッテへ移籍した牛島和彦に代わるクローザーへの転向を指示される。

「なんで僕なんだと思った。牛島からは抑えのつらさを聞いていましたから」

周囲も「郭は抑えには優しすぎる」と疑問の声を上げたが、これが完全にハマった。

88年にクローザーとしてMVPに

メンタルが弱いと言われていた先発のときとは別人のような投球で闘志むき出し。87年から2年連続で最優秀救援投手、88年はプロ野球記録を更新する44セーブポイントで優勝の立役者となり、MVPにも輝いた。

「星野さんはマウンドで僕にボールを渡すときがうまい。刺激のあることを言って、それで僕は燃えるんだ。この人は僕の操り方がうまいなって思っていた(笑)」

翌89年には日本に帰化したが、90年代は故障もあって起用法が一定せず。91年は先発に戻って13勝、93年は先発と救援の併用で、94年は先発が多くなり防御率2.45で最優秀防御率。だが、ヒジ痛も悪化して、97年に開場したナゴヤドームのこけら落としとなったオープン戦が引退試合となり、帰国した。

しかし、故郷の台湾で「半年、休んだら治った」と台湾プロ野球で現役復帰。統一、和信で43歳まで投げ続けた。最後まで球速は140キロ台の後半をマークしていたという。苦労人らしく優しい男には間違いなかったが、芯は誰よりも強かった。

「人生は挑戦。挑戦しないで逃げることが一番いけないんです」

写真=BBM

35名無し募集中。。。:2023/06/17(土) 14:38:07
プロ野球20世紀・不屈の物語
プロ20年目の落合博満、あいさつもセレモニーもない“オレ流”のフィナーレ/プロ野球20世紀・不屈の物語【1995〜98年】
2020年12月28日(月) 11:05

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

「長嶋監督が悩む姿は見たくない」

巨人時代の96年、打率.301、21本塁打、86打点をマークした落合だが……

落合博満は、移籍のたびに独特の表現を用いて印象的な言葉を残している。最初のチームだったロッテを去る際には、「稲尾(稲尾和久監督)さんのいないロッテにいる必要はないでしょう」と言い、中日へ移籍すると会見では星野仙一監督の隣で「男が男に惚れて来ただけ」、導入されたばかりのFAで巨人へ移籍したときには「長嶋(長嶋茂雄)監督を胴上げしに来た」と語った。“オレ流”と言われた落合だったが、移籍の際には必ず他者の存在を口にしてきたところが興味深い。

さらに巨人では、全盛期と比べたら数字こそ物足りなくなってはいたが、圧倒的な存在感で有言実行を果たした。移籍2年目の1995年にはリーグ4位の打率.311をマークして、4年ぶりの打率3割。通算2000安打にも到達して、「苦労したよ。これからは楽に打てるな」と笑顔を見せたものの、「名球会入りのために野球をやってきたわけではない」と、その通算2000安打が資格となる名球会へ入ることを拒否するなど、“オレ流”を発揮する。続く96年も打率.301に加えて21本塁打を放ち、やはり4年ぶりに20本塁打を超えた。だが、落合にも巨人を去る日が訪れる。

そのオフには西武の清原和博がFA宣言。FA制度が導入されてから、巨人は豊富な資金力を駆使して各チームでFAを宣言した投打の主力を獲得するようになっていた。その皮切りになったのが93年オフに宣言した落合であり、続いて94年オフには広島から左腕の川口和久とヤクルトから主砲の広沢克己(克)を、さらに95年オフには日本ハムから左腕の河野博文を獲得。清原はプロ入り前から巨人に強い憧れを抱き、ドラフトでPL学園高の同級生だった桑田真澄が巨人から指名された際には会見で涙を流すなど、ドラフト史に残る“事件”の主役となった男だ。

巨人が獲得に乗り出すのは間違いなく、獲得に成功した場合、一塁手の清原が落合とポジションを争うことになる。しかも清原は選手として脂の乗り切った時期であり、落合の出番が減ることも考えられた。それだけではなく、長嶋監督は落合にとっては憧れの存在でもある。そんな長嶋監督が自分に遠慮していることを感じた落合は、「長嶋監督が悩む姿は見たくない」と、自ら自由契約を志願した。

36名無し募集中。。。:2023/06/17(土) 15:00:10
野村克也監督のヤクルトと上田利治監督の日本ハムとの争奪戦となり、落合が移籍したのは日本ハム。新天地で落合に託された役割は四番打者だった。このプロ19年目、44歳の四番打者は、指名打者ではなく一塁を守り、両リーグ通算1000安打の快挙を達成、さらに4チームにまたがり17年連続で規定打席に到達する。初の規定打席はロッテ時代の81年。打率.326で首位打者に輝いて、その後の球界を引っ張る好打者として存在を知らしめたシーズンだった。だが、この97年にはリーグ28位の打率.262の自己ワースト、わずか3本塁打に終わる。まだまだ存在感は他を圧倒していた落合だが、ラストシーンは確実に近づきつつあった。

「ファンあってこそのプロ野球」

現役最後の試合となった98年10月7日のロッテ戦を終えると最後はファンと握手をして回った

そして98年、ついに規定打席にも届かず、打率.235、2本塁打、18打点に終わる。オフに2年契約が切れることで、“退団”となった。10月7日のロッテ戦(千葉マリン)。上田監督に指名打者として先発で出場することを打診されると、「代打で始まった男ですから」と固辞する。79年5月29日の南海戦(川崎)でロッテの新人として代打に立ってデビューした落合。そのロッテの新しい本拠地で、5回表に代打で登場、一ゴロに倒れて、プロ20年目のシーズンを終える。オフに落合の獲得に乗り出すチームはなかった。

「引退じゃない。どこでも声がかかればやる。だから退団なんだ。プロ野球選手は個人事業主。結果を残せば報酬を求める。自分を高く評価してくれる球団に行く。契約できればプレーをする。契約がなければバットを置く。それだけだよ」

最後の試合が終わった。だが、セレモニーもなく、スピーチもなかった。もちろん、日本ハムに2年しか在籍しなかったからではない。これだけの結果を残した男としては異例だが、落合にしてみれば当然のことだったのだろう。ただ、いつもとは違う異例の姿を落合は見せる。球場を出ると、球場を去っていく落合を見守る大勢のファンに歩み寄って、握手して回った。「ファンあってこそのプロ野球だからね」と落合。これも、落合にすれば当然のことだったのだろう。この姿こそ、プロ野球で最多となる3度の三冠王に輝いた男のラストシーンだった。

文=犬企画マンホール 写真=BBM

37名無し募集中。。。:2023/06/17(土) 15:12:54
HOT TOPIC
三冠王だけじゃない、落合が残したトンデモナイ記録とは
2020年10月12日(月) 11:02

落合博満といえば、歴代最多となる3度の三冠王を記録した希代の強打者。今後、この記録に並ぶのは難しいと言われているほどのアンタッチャブルな記録だ。しかし、落合はほかにも数多くの「大記録」を残している。今回は、落合が現役時代に残した「トンデモナイ記録」を紹介する。

驚異的なバッティングで3度の三冠王に

三冠王を3度、獲得したロッテ時代の落合

まずは現役20年間の通算成績を見てみよう。

試合:2236(歴代23位)
打席:9257(歴代14位)
打数:7627(歴代27位)
安打:2371(歴代12位)
本塁打:510(歴代6位)
塁打:4302(歴代9位)
打点:1564(歴代5位)
四球:1475(歴代2位)
打率:.311(歴代8位)
出塁率:.422(歴代2位)

試合や打席、打数を見ると分かるように、歴代で見るとTOP10に入るような数字ではない。にもかかわらず、安打以外の打撃ではいずれも上位10人に入る成績(もちろん安打も歴代12位とトップクラスだが)を残している。

また、上のデータにはないが、落合の通算三振数は1135で、歴代42位と球史に名を残す強打者の中では少ない。あの王貞治でさえも歴代21位なのだから、落合がいかに「長打力とバットコントロールに優れ、鋭い選球眼を持つバッター」だったのかが分かるだろう。

今なお破られていない驚異のシーズン出塁率

さて、落合が残した記録の中で、今季大きな注目を集めているのが「シーズン出塁率」だ。落合は3度目の三冠王に輝いた1986年に、歴代最高となるシーズン出塁率.487を記録した(公式記録として扱われるようになった1985年以降)。打撃機会のほぼ半分は出塁しているというとんでもない数字だ。

さらにすごいのは、落合はこの1年だけでなく、前年の1985年には.481、中日移籍後の1991年にも.473と高い出塁率をマーク。歴代記録の1位、2位、4位が落合の記録だ。今季、日本ハムの近藤健介が落合の歴代最高に迫る数字(10月6日終了時点で.467)を残しており、歴代トップ更新となるか、注目を集めている。

38名無し募集中。。。:2023/06/17(土) 15:34:20
数々の日本記録を樹立

落合はほかにもいくつもの日本記録を樹立している。まずはシーズン得点圏打率だ。1985年に落合は.492という驚異的な得点圏打率をマーク。これだけ打たれると相手チームとしてはたまったものではない。そのため、この年は自己最多の26度の敬遠、四球はリーグ最多の110だった。ちなみに、MLBでイチローがシーズン最多安打を更新した2004年の得点圏打率は.372。NPBとMLB、また打順も異なるため単純な比較はできないが、1985年の落合がいかに圧倒的だったのが分かるだろう。

セ・リーグでは通算263本、パ・リーグでは通算247本と、両リーグで200本塁打以上を放っているのも落合ただ一人。リーグをまたいでの移籍となると、大打者でも本来の実力が発揮できずに終わるケースも少なくないが、落合には関係なかった。本塁打に関していえば、ほかにはシーズン50本塁打以上を「2年連続」で記録したのも落合のみ。1985年のシーズン52本塁打は、今なお破られていない「日本人右打者」での最高記録だ。

落合のトンデモナイ記録として1991年の「1試合で6四球」というNPB記録がある。この年の落合はヤクルトの古田敦也と激しい首位打者争いを繰り広げていた。10月13日に、中日とヤクルトはこの年最後の直接対決を迎えるが、この時点では古田が僅差で打率トップ。そのため、ヤクルトは古田を出場させずに休ませ、対する落合には全打席で故意四球(敬遠)を行った。それだけ落合は脅威だったのだ。これが功を奏したのか、最終的に古田は0.003差で首位打者を獲得。落合は前人未到の珍記録を作るものの、タイトルを逃すこととなった。

落合が現役時代に残した数々の記録の中から、特に驚異的なものをピックアップしてみた。あらためて「落合はすごかった」と思った人も多いだろう。果たして日本ハムの近藤は、これほどの大記録を残した偉大なレジェンドの数字を超えられるのか、今後に注目したい。

文=中田ボンベ@dcp 写真=BBM

39名無し募集中。。。:2023/06/17(土) 21:03:18
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平松政次、西本聖、盛田幸妃……打者から恐れられた「シュートの名手」たち
2020年5月24日(日) 11:02

近年は右打者の懐に沈む「ツーシーム」が主流になり、胸元をえぐる「シュート」を投げる投手が減っている。手首やヒジの使い方が難しく、制球を間違えれば死球になる危険性をはらんでいるからだ。だが、打者の腰を引かせ、バットの根元で詰まらせて内野ゴロに仕留めることができる球種として、重宝された時代もあった。球史に残る伝説の「シュートピッチャー」を振り返ってみよう。

・稲尾和久(西鉄)
※通算276勝137敗、防御率1.98 勝率.668

NPB記録のシーズン42勝、日本シリーズで5連投4完投など数々の伝説を打ち立てた鉄腕。球種は直球、スライダー、シュートの3つが大半を占め、抜群の制球力で打者を翻弄した。右打者は手元で鋭く食い込んでくる超一級品のシュートが残像に残り、ウイニングショットの外角に逃げるスライダーに踏み込めなかった。

・平松政次(大洋)
※通算201勝196敗16セーブ、防御率3.31 勝率.506

入団後に同僚から「こんな球しか投げられないのか」と言われ、怒りに任せてそれまで投げたことのないシュートを投げたところ、打者が驚く鋭い変化で「カミソリシュート」が誕生した。ほかの投手のシュートはバットの芯を外して内野ゴロに仕留めるイメージだが、平松のシュートは変化量が尋常じゃなく、右打者の内角を「エグる」軌道で空振りの山を築いた。

・東尾修(西鉄、太平洋クラウン、西武)
※通算251勝247敗23セーブ、防御率3.50 勝率.504

西鉄で若手のときに河村英文投手コーチに伝授されたシュートが野球人生の生命線になった。スライダーを生かすために内角を突くシュートが死球になることも珍しくなく、現役20年間で与死球数165個は日本記録。死球を与えてもマウンドでまったく動じず、外国人に立ち向かっていく姿で「ケンカ投法」の異名を取った。

・西本聖(巨人、中日、オリックス)
※通算165勝128敗17セーブ、防御率3.20 勝率.563

直球とほぼ球速が変わらず、キレ味鋭いシュートで内野ゴロの山を築いた。好調時は外角から内角にえぐってくるほどの変化だったという。ドラフト外入団で無名の存在だったが、剛速球で三振の山を築くライバル・江川卓と対照的な投球スタイルで、巨人の「ダブルエース」として活躍した。

・川崎憲次郎(ヤクルト、中日)
※通算88勝81敗2セーブ、防御率3.69 勝率.521

川崎の代名詞としてシュートを連想する野球ファンが多いだろう。ただ、この伝家の宝刀を習得したのはプロ9年目の27歳だった。翌1998年に17勝をマークして最多勝、沢村賞を獲得。速球中心の三振を狙う投球スタイルから打たせて取る技巧派にモデルチェンジした。その後は右肩の故障に苦しんだが、輝いた時期の印象は強烈だった。

・盛田幸妃(大洋、横浜、近鉄)
※通算47勝34敗29セーブ、防御率4.05 勝率.580

浮き上がるような軌道で打者に向かってくる140キロ近いシュート。「打席に立つのが怖い」と相手球団に嫌がられた。厳しい内角攻めで死球を与えても顔色一つ変えず負けん気も強かった。強打者・落合博満が特に苦手にしていた投手で通算50打数9安打、打率.180に抑え込まれた。脳腫瘍から復活して2001年に近鉄でカムバック賞を獲得したが、脳腫瘍が再発して15年に45歳の若さで亡くなった。

写真=BBM


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