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死にたい

221(-_-)さん:2024/05/23(木) 22:44:19 ID:???
ほかに「ワカタケル大王」と記述のある雄略天皇の和名が、埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣や熊本県の江田船山古墳出土の鉄剣に記されていました。これも文字史料が雄略天皇の実在を証明することになりますね。

中国の『三国志』のなかにある『魏志倭人伝』は弥生時代末期の倭国の様子をリポートしている貴重な歴史書です。邪馬台国の様子が書かれていて、その姿はまさに九州吉野ヶ里遺跡の様子とよく一致しています。

整備されている吉野ヶ里歴史公園には、発掘調査の結果から得られた情報をもとにして上物(うわもの=建物)が再現されています。

遺跡からは柱を立てた跡や溝跡、炉跡やゴミ捨て場、そして墓が出てきます。その柱穴の大きさから柱の直径を探り、柱の間隔で建物の大きさを推定します。そして検討を重ねた結論に従って建物を再現します。

ですから推定復元建物は、それほど大きな違いが無い物と思って差し支えありません。すると二階建ての大きな建物や、遠くを見渡すように高く造られた楼観(ろうかん)が現れました。

『魏志倭人伝』にはこのようにリポートされています。

 「宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛」

=「卑弥呼のいる宮殿や高楼は城柵で厳重に囲まれ、常に武器を持った人が守衛している。」

今の吉野ケ里歴史公園にはこの記述をそっくり再現したような風景が広がります。ただし、「だから邪馬台国は吉野ヶ里にあったんだ!」と思うのは軽率です。もっと多岐にわたる研究と検討が必要です。しかしながら弥生時代の集落国家の最もスタンダードな姿を示しているのは間違いありません。

日本列島の時代を徐々に遡ってみましたが、古代の文献はこの辺りが限界です。もちろん時代を下ればどんどん文献資料と考古史料の一致が見られるようになりますし、飛鳥時代や奈良時代以降は現在も継続する寺院などがありますので、訪ねてみるととても興味深い発見をすることでしょう。

近年の発見では1979年1月に奈良市此瀬町(このせちょう)の茶畑で偶然発見された円墳から出土した「銅板墓誌」でしょうか。そこに書かれた文字から『古事記』の編纂者である太安萬呂(おおのやすまろ)の墓であることが判明します。銅板墓誌の記述は『続日本紀』の太安萬呂の記録と一致しています。これについてはまた別稿でご紹介しましょう。

季節も良くなってきました。夏は暑すぎて散策に向きませんが、今のうちにまず資料を読んで、そして歴史の現場を訪ねてください。きっと歴史ロマンのファンになるでしょう!(笑)

柏木 宏之


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