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やまいぬさん歓迎のスレッド

593やまいぬ。:2009/03/31(火) 14:28:58

長い帰路、ずっと「早く家に戻りたい! 家の御本尊に、すぐにでも題目をあげたい!」と、ずっと思っていました。
やっと帰宅すると一目散に御本尊の前に座り、大声で唱題を始めました。

「まさか逢えるとは思わなかった! 本当に嬉しい! 有難うございます!」
と、やっぱり泣いて(^^;唱題を続けるうちに――少し、いつもと違った感覚を覚えました。

当たり前ながら、私はいつもの自分の家に居るのですが――その周囲のすべてがまるで無であるかのような。
自分と御本尊以外、この宇宙に存在しないかのような――。
宇宙? そうです。まるでぽっかりと、御本尊と自分だけがこの宇宙の中で対峙しているような感覚でした。
いや――宇宙のすべてが自分の中にあり、自分自身が宇宙のすべてでもあるような――。

しばらくそんな不思議な感覚の中でさらに唱題を続けると――! 自分と御本尊が一体であるように思えました。
正確には――自分が御本尊の中に、居る。何処に? 曼陀羅のど真ん中に!

大書された「南無――日蓮」の文字――あれは・・・自分だ。

その時、(もちろん暗記など出来てはいませんが)幼いながらも座談会や少年部員会でその頃すでに学んできた
御書の一節が、うろ覚えながらも頭の中をよぎりました。

『我等が頭は妙なり喉は法なり胸は蓮なり胎は華なり足は経なり此の五尺の身妙法蓮華経の五字なり、
此の大事を釈迦如来・四十余年の間隠密したもうなり今経の時説き出したもう此の大事を説かんが為に
仏は出世したもう我等が一身の妙法五字なりと開仏知見する時・即身成仏するなり、開とは信心の異名なり
信心を以て妙法を唱え奉らば軈て開仏知見するなり』

『然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を
生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり』

『始めて我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり。』

等々。

またオイオイと声を上げて号泣しました。
到底言葉で表現など出来ぬほど、あまりにも嬉しく、あまりにも有難く、その大感動で泣きました。

「解った! 全部本当だ! 全部その通りだ! 大聖人様は、譬え話で書かれたんじゃない。そっくりそのまま、
“ありのまま”を書かれていたんだ! そんなことはあるまいと、どこかで比喩だと思っていたが、違う! 全部
そっくりそのままを描かれていたんだ! 凄い・・・これを教えるために大聖人様はいらしたのか・・・
理屈抜きにこれを教えるために、大聖人様は御本尊を遺してくださったのか・・・ただ先生を求めていて、
思いもよらずにそれが解った・・・こんな凄い景色を、先生は見せてくださった・・・」

多分帰宅して唱題を始めてここまで30分とかかっていない筈です。この時挙げた題目は1時間もなかったかも
しれません。もちろん10歳の自分が、この1時間で何か変わったのか? 表面的には「何一つ」。
もちろん眼に見える功徳など、何一つありません。
しかし――ひととして生まれて、これ以上の“功徳”などあるでしょうか?


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