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戦争 兵器3
1
:
WS
:2020/04/26(日) 07:53:23
主に兵器に関するネタ
前スレ
ttp://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/computer/648/1332660070/
2
:
WS
:2020/04/26(日) 07:56:20
戊辰戦争の銃
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/computer/648/1332660070/998-1000
戊辰戦争
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8A%E8%BE%B0%E6%88%A6%E4%BA%89
戊辰戦争の銃はスナイドル銃、Starr carbine、ドライゼ銃
3
:
WS
:2020/04/26(日) 07:56:51
シャスポー銃
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%BC%E9%8A%83
慶応2年(1866年)12月、ナポレオン3世は2個連隊分(1800丁とも2000丁とも)のシャスポー銃を江戸幕府に無償提供している。
また、幕府もこの銃を10000丁ほど注文している。
しかし1866年にイギリスで採用されたスナイドル銃は、日本での兵器販路開拓においては薩摩・長州をパートナーとしていたイギリス系のグラバー商会(イギリス東インド会社 - 香港のジャーディン・マセソン商会直系)がすでに一歩先んじて大きな市場を得る事に成功していた。
イギリスとの商流が弱い主な佐幕派の諸藩もプロイセン系のスネル兄弟や、長岡藩にガトリング砲を納めた横浜のスイス系ファーブル・ブランド商社、また香港・上海に無数に存在した中国向け兵器商人たちを窓口としていたなど、幕府を経由してシャスポー銃を始めとするフランス製兵器の売り込みを図ったフランスには強力なライバルたちが存在していた。
特にスナイドル銃は簡単な加工で前装銃を後装式に改造できたため、既に多数輸入されていたエンフィールド銃を元に日本国内でも改造する事が可能(事実、当時の鉄砲鍛冶は旧々式化していた数百年前の種子島式火縄銃までも後装銃に改造している)であり、完成度の高いボクサーパトロンは防水・防湿性に優れた密閉構造だったため、多湿・多雨な日本や当時のイギリス植民地であった南・東南アジアでも問題なく着火する信頼性を有していた。
これに対してシャスポー銃は、フランス語通詞が少なかったために教範(取扱・運用説明書)の日本語訳すら完了していなかった。さらに遠く離れたフランス本国で製造されていた専用弾薬の供給も困難であり、薬莢の構造と日本の気候の相性が悪く不発が多かったこともあって全く有効に運用されず、一説には江戸城開城の際に手付かずの状態で蔵に残されていたとも言われている。
大鳥圭介率いる幕府陸軍の精鋭部隊、伝習隊がシャスポー銃を使用していたという記述が散見されるが、これを真っ向から否定する研究者もいる。もっとも、雨が多く湿度の高い日本で紙製薬莢の扱いに苦労したり、不足した専用弾薬を大鳥が日本で作らせたがうまくいかなかった等の記録が残っていることから、伝習隊がシャスポー銃・ドライゼ銃といった紙製薬莢を使う後装式銃を一時期であれ使用していたことは確かなようである。
4
:
WS
:2020/04/26(日) 08:01:51
エンフィールド銃
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E9%8A%83
日本では幕末に大量に輸入され、戊辰戦争では新政府軍の主力小銃であった。
日本で最も初期にエンフィールド銃を導入したのは薩摩藩とされ、薩英戦争後の軍制改革で4,300挺を購入したと伝えられており、輸入された当初はその弾丸の構造からミニエー銃(Minie rifle)の一種とされ、イギリス・ミニエーと呼ばれていた。
1865年(慶応元年)に双方で300万もの兵士が戦ったアメリカの南北戦争が終結すると、南北両軍が使用していた大量の軍需品が民間業者に払い下げられた。これらの払い下げ品には、90万丁近くが米国に輸出されていたエンフィールド銃も含まれており、その多くは市場を求めて太平天国の乱が続いていた中国(上海・香港)へ集まり、幕末の日本にもグラバーに代表される外国商人によって輸入された。
この頃から、フランス製のミニエー銃と区別するために“エンピール銃”・“鳥羽ミニエー”といった呼び名が付けられ、後に発足した日本陸軍ではエンピール銃の呼称が継承された。
長州など倒幕派諸藩は、エンフィールド銃を1挺あたり15両程度で購入させられていたが、後装式銃器の普及で急速に旧式化したエンフィールド銃の価格は、戊辰戦争の頃から暴落した。同時にスナイドル式銃尾装置によりエンフィールド銃を後装式へ改造する方法が欧米から伝えられ、国内での改造が諸藩や鉄砲鍛冶の間で流行した。
ただし、こうした改造を受けたエンフィールド銃の多くは、側方に設けられたヒンジにより機関部が右方向に開くために、タバコ入れに見立てられ莨嚢式(ろくのうしき)の方式名が与えられたスナイドル銃とは異なり、同時期にベルギーより輸入されていたアルビニー銃などと同様に前方に設けられたヒンジにより機関部が前方向に開く方式が使用された。これは前方開放型のアルビニー式がスナイドル式の側面開放型よりも改造が容易であったからに他ならない。スナイドル銃と区別する意味で前開き型には活罨式(かつあんしき)の方式名が与えられ、より正確には前方枢軸型活罨式と呼ばれた。
新生日本陸軍が発足すると、その歩兵操典に後装式を用いる版が採用された事から、日本陸軍の主力小銃は全て後装式に統一され、スナイドル銃(金属薬莢式)が主力小銃となり、ドライゼ銃(紙製薬莢式)が後方装備とされた。
廃藩置県後に新政府管理へ移管されたエンフィールド銃は、1874年(明治7年)頃から徐々にスナイドル銃への改造作業が始められていたが、1879年(明治10年)に西郷隆盛を首魁とする私学校徒が鹿児島の火薬庫に残されていたエンフィールド銃を強奪して決起して西南戦争が勃発する。
これに対して政府軍はスナイドル銃を主力とする鎮台兵を派遣して戦い、連射速度の違いから西郷軍は緒戦から多くの損害を出して圧倒され、日本最後の内戦は前装式銃の時代とともに終焉した。
貧弱な基盤しか有さず、前装式のエンフィールド銃で戦った西郷軍の鎮圧に莫大な戦費と犠牲を費やした政府は、各地に退蔵されていたエンフィールド銃が不平士族や当時隆盛だった自由民権運動激派に強奪されて同様の反乱が発生する事を恐れ、西南戦争後の1878年(明治11年)から全国各地に残されていたエンフィールド銃を集めてスナイドル銃へ改造する作業を行い、老朽化が激しく改造されずに残された物は軍の射撃訓練用として使用されつつ寿命を迎えて廃棄処分となり、民間へ払下げられる運命を辿った。
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