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漫画・ライトノベル以外の書籍スレ

106修都 ◆7VC/HIVqJE:2017/04/13(木) 20:58:38 ID:MDyIz2QM
林英一「小野田寛郎(残留日本兵)と横井庄一(残留日本兵)」(『ひとびとの精神史6巻 70年代』)
1972年1月、グアム島で在留日本兵横井庄一が発見された→報道加熱、横井庄一ブーム
74年2月、捜索隊によって小野田寛郎は発見された→ちょうど日比友好通商条約が批准された後だったので、小野田は日比友好関係の象徴扱いされた→帰国すると小野田ブーム
→報道は横井の時以上に英雄扱いした
ブームの背景→戦中派はありし日の自分の姿を重ね合わせた。若い世代は、戦中と戦後がいかに異なるのかを確認した(横井の天皇観→戦後の日本人はこれを拒絶)
小野田はブラジルに移ると天皇について積極的に発言しはじめた→天皇は責任をとるべきだった→小野田は戦争犠牲者視されることも天皇崇拝者視されることも拒否した
日本人は横井や小野田は未開で野蛮な原始から、豊かで文明の現代にタイムスリップしたかのように受け止めた
→横井が、グアムに比べて日本は「遅れている。自動車が少ない。道路がせまい。家がきたない」と発言したのは強烈な皮肉であった
横井に対しては戦争の犠牲者、被害者というまなざしが向けられがちだった(横井が民兵2人を殺害した話をすると波紋を呼び、横井はそれをなかったと否定した)
→次第に、奇妙な言動をする異人というまなざしに
小野田は、軍国主義の亡霊と批判もされたが意に介さなかった。小野田は戦争の英雄として振る舞った
→小野田の自伝は、ルバング島民に対して差別的であり、島民殺傷の話を得意げに語っていた→やがて小野田に関する記事や論評は見られなくなり、世間の熱狂も冷めていった
ブラジルにいた小野田は80年、浪人生が両親を金属バットで殺害する事件が起こると日本で自然塾の活動を始める
2000年代、一部の日本人の間で小野田は復権した。小野田は首相の靖国神社8月15日公式参拝を支持し、若者にも参拝を呼びかけた
アジア各地に離散した残留日本兵の数は推定1万人にのぼるとされる(その中には、戦後日本人ではないとされた者もいる。台湾出身の中村輝夫(李光輝)など)
→これらの人々の存在に対して日本人は無関心であった


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