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漫画・ライトノベル以外の書籍スレ
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修都
◆7VC/HIVqJE
:2017/04/07(金) 23:03:27 ID:MDyIz2QM
小泉英政「小泉よね(運動家・農家)」(『ひとびとの精神史6巻 70年代』)
1907年、小泉よねは千葉の貧農の3女として生まれた(よね自身は、母親の妹の子で、もらわれてきたと語っている)→7歳で子守奉公に出る→19歳で家を出て職を転々
→42年頃、大木実と出会い、実の家で暮らすようになる。実は米、落花生などの仲買を行っており、芋焼酎の密造も行っていた。小作争議にも関わっていた
47年、実は50歳で急死→よねは1人で生きていくことになる
66年7月、新空港の位置が地元住民に説明もなく閣議決定された→8月、三里塚芝山連合空港反対同盟結成。よねも他の村人達が賛成の中、反対だった
→よねは反対同盟と一緒なら生活を守ってもらえると考えた。反対同盟は、一歩もひるまないよねの姿を借りて存在を示そうとしていた
よねに最初に接触したのは日中三里塚援農隊(日中)だった→毛沢東思想に共鳴したグループ。よねも彼らを信頼していた
よねの宅地、住居に対する強制代執行は71年9月20日に行われる予定だった→地盤が雨で弱くなっている、機動隊員の疲労が激しいなどの理由で21日以降に行うと発表
→農民たちと支援の人々はよねの家の周辺から引き揚げた→20日、強制代執行実施。だまし討ちだった→よねも機動隊に無理やり排除された
→よねは仮説のプレハブに住むようになる→日中のメンバーは反対運動を強固なものにするには生産を上げる必要があると考えた→三里塚で有機農業が始まるきっかけ
73年春、よねは倒れた。9月には末期の胆管がんであると診断され、闘病生活に入った(よね自身にはがんであることは伝えられていない)。12月17日、死亡
最後によねが帰りたかったのはプレハブではなく、潰されてしまった家だったが、それはかなわない願いだった
よね亡き後、国、空港公団、千葉県相手の訴訟、相手から起こされた訴訟、直接交渉が42年続いた→最終決着は2015年5月だった
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