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日蓮聖人の本尊観
21
:
管理者
:2002/07/30(火) 20:20
85 名前: 川蝉 投稿日: 2002/07/29(月) 15:19
続き。
「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし。仏は用の三身にして迹仏なり」
とは、先学が
「凡夫は迷っていて未だ三身の妙用は起こしていないけれど、理性の本体の三身は衆生に具わっていて滅せず、仏果に到っても増せず。すなわち衆生と仏は一体(生仏一体)であって、仏はこの本体の三身(十界互具の中の仏界)より、迹用を起こして仏となったのであると、凡夫が仏と成れる根拠を強く示す為に体門に約して凡夫を本仏、諸仏を用の迹仏と云われているのである。
本有の妙体(仏界)の隠れると顕れる事について云うと、衆生は隠れているまま、仏はすでに顕出したと云える。
ゆえに衆生は体の三身のみで、用の三身が欠け、仏は用(働き)を完全に現している倶体倶用の仏である。
仏の仏果としての力、救済力は、もともと理性としての本有の体の三身の徳が顕れたものであるので、体に約し理に約し性に約すれば凡夫は本なり体なり性なり、仏は迹なり用なり事なり修なりと云う事がいわれる。故に凡夫が仏に恩を蒙らしむ等とも書かれているのである」
と、的確に説明しています。
「かえって仏に三徳をかうらせ奉るは凡夫なり」
とは、さらに砕いていえば、救われるべき教えを受くべき衆生がいるから仏が救済主・教主と成ることが出来るので、凡夫が居て初めて仏は三徳者の資格があるのだから、「かえって仏に三徳をかうらせ奉るは凡夫なり」と書かれていると受け取っても良いでしょう。
「諸法実相抄」の後半には、
「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。地涌の菩薩にさだまりなば釈尊の久遠の弟子たる事あに疑はんや。経に云く「我従久遠来教化是等衆」とは是れなり」(1360頁6行)
「釈迦仏、多宝仏、未来日本国の一切衆生のために、とどめ(留)をき給ふ処の妙法蓮華経なりと。」(1361頁3行)
「信心つよく候て三仏の守護をかうむらせ給ふべし。」(1361頁11行)
等と有りますし、「諸法実相抄」は、「釈尊は本仏に非らず、法性真如としての妙法蓮華経のほうが本仏だ。凡夫の方が本仏だ」などと云う主張する根拠にはならない御書と思います。
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