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第25回参議院議員選挙(2019年)

283チバQ:2018/09/04(火) 17:17:14
■徳島消滅、真の狙いは「淡路島」?

 明治新政府の県の統廃合について、慶応大学教授の清水唯一朗さんは『近代日本の官僚』(中公新書)で、「財政適正化は表向きの理由で、旧藩の影響力と反政府の傾向が強い難治県を廃することが目的だった」と指摘する。富国強兵を進めるには、政府の号令に従わない県は邪魔というわけだ。

 徳島が難治県とみなされた背景には、淡路島の帰属問題があったとされる。蜂須賀家政は秀吉の死後、徳川につき、関ヶ原の戦いや大坂冬の陣・夏の陣で活躍した論功で淡路を拝領し、江戸時代を通じて治めていた。だが、廃藩置県の直後、淡路の北半分(津名郡)は兵庫県に編入された。これは廃藩置県の前年に起きた「稲田騒動」の影響だった。

 蜂須賀氏は11代将軍徳川家斉(1773〜1841)の22男を養子に迎えたため、幕末には倒幕に動かなかった。筆頭家老で洲本城代の稲田氏は岩倉具視(1825〜83)に接近し、明治維新に功績をあげたのだが、明治新政府は、蜂須賀氏の家臣は全員士族とし、稲田氏の家臣は陪臣(卒族)扱いにしたため、不満を抱いた稲田氏の家臣は、士族への編入と徳島藩からの分藩を求めた。稲田騒動とは、この動きに反発した徳島藩士が、洲本の稲田氏の別邸や学問所などを襲撃した事件という。

 政府は喧嘩(けんか)両成敗の方針で臨み、徳島藩の首謀者に切腹を命じた。日本最後の切腹刑といわれる。一方の稲田氏や家臣には北海道への移住が命じられ、移住費用は徳島藩が支払うこととされた。廃藩置県直後に淡路島の北半分が兵庫県に編入されたのは、稲田氏の移住が終了するまで、その旧領を徳島県から切り離して騒動を鎮めるためだった。徳島藩が財政難で移住費用を支払えず、兵庫県に肩代わりさせた見返りでもあった。

■「統合は無理」伊藤博文に建議書

 稲田氏家臣の移住完了後に、淡路はいったん徳島県に戻されたが、高知県への併合にあわせて淡路全島は兵庫県に編入されてしまう。騒動のしこりが残っていたのに加え、内務卿の大久保利通(1830〜78)が「開港場がある兵庫県の力を充実させるように」と指示したためという説もある。兵庫県は播磨・但馬・丹波に淡路を編入して、近畿最大の県となった。

 徳島県を併合した高知県では、土佐国州会の解散後に、徳島選出議員も加わって改めて第1回県会が開かれたが、土木予算の配分で徳島と高知の議員が激しく対立し、高知県令(今の知事)・北垣国道(くにみち)(1836〜1916)は内務卿だった伊藤博文(1841〜1909)に「土佐と阿波は土地や人情が大きく違い、統合は無理」とする建議を出した。 北垣は伊藤ら旧長州藩士に知り合いが多く、高知県令になる前に地方行政の監察官(弾正台)として淡路で稲田騒動の調停にあたっているから、伊藤も耳を傾けたのだろう。併合から4年で、徳島県は再び高知県から分離された。

■官軍側の大藩、なのに…鳥取の屈辱

 徳島県は他県を併合したりされたりしたが、鳥取県は一方的に島根県に呑み込まれた。島根県令代理の布告で併合を知らされた鳥取県民は「誰一人として信ずることはできない位であった。特に因幡人士の驚愕は言語に絶した」(『鳥取県郷土史』)という。

 「風俗人情が異なる」だけではない。鳥取藩は因幡・伯耆32万石、約38万人の人口を持つ山陰の大藩だったが、松江藩は18万6000石で人口は約30万人。鳥取藩は鳥羽伏見の戦いでいち早く官軍に加わり、あいまいな態度をとった松江藩が新政府に追及された際に寛大な措置を求めている。鳥取県民にとっては「維新の当時、我が藩の尽力によって救われた松江に併合される事は、この上もない屈辱」(同)だった。

 特に松江から遠い県東部の因幡には士族が多く、不満は大きかった。県都でなくなった鳥取の町は「火が消えた如く」さびれ、禄を失った士族が新たな職に就くことも難しくなった。

 士族らは他地方への米の移送を止める強硬手段に出て鳥取県の復活を求めた。治安は悪化し、鳥取に来た島根県令代理が襲撃を恐れて早々と帰途につき、倉吉で泊まろうとしたが誰も宿を貸さず、徹夜で松江に逃げ帰ったという記録もある。


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