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立法府・国会スレ

1とはずがたり:2009/09/18(金) 18:38:27
此迄国会ネタは議員選挙スレhttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1036413264/l50でやって来たんですが与野党逆転で重要な法案審議が目白押しで益々注目度あがりましょうし新スレ立てます。

1193名無しさん:2021/01/11(月) 23:21:56
https://news.yahoo.co.jp/articles/12df2d4fe66279e31e502de8f4efec872fab58c3
国会の舞台裏を解説!意外と知らない「国対委員長」の仕事の中身
1/11(月) 15:01配信

国会運営は、与野党の「国会対策委員会」(国対)という法的根拠のないシステムに依存しています。事実上、与党と最大野党の、2人の国対委員長が特別な権限を持っていますが、いまだその実態については古い55年体制の談合政治のようなイメージでしか捉えられていません。2017年10月、史上初の野党第一党の女性国対委員長となった辻元清美氏が語る、国対委員長の仕事と役割とは。辻元氏が上梓した『国対委員長』を一部抜粋・再構成してお届けします。

 国対委員長に就任後の初仕事は、総選挙後の特別国会の段取りを決めるための与野党国対委員長会談です。常任委員長室という国会議事堂の中でも格式が高い部屋で、与野党の国対委員長が勢ぞろいです。

 自民党の森山裕委員長、公明党の大口善徳委員長、立憲民主党の私、希望の党の笠浩史委員長(後に泉健太委員長)、民進党(衆議院の会派は無所属の会)の平野博文委員長、共産党の穀田恵二委員長、社民党の照屋寛徳委員長、自由党の玉城デニー委員長、日本維新の会の遠藤敬委員長。

 選挙後の初めての会談は、ニュースでいっせいに報道されました。与野党の代表者がソファーに座り、大きなテーブルを挟んでにらみ合う。報道のフラッシュがバシバシたかれる。読者の皆さんもテレビで見たことのある光景だと思います。

 この初日のニュースはとくに女性からの反響が大きく、私自身、驚きました。

 「政治の構図が変わったと実感した」

 この声には、2つの意味があったと思います。1つは、立憲民主党が野党第一党になったこと。もう1つは、その第一党の国会運営の代表者の席に女性が史上初めてついたこと。こうして私の「国対生活」がスタートしました。

■野党が分裂してバラバラ

 今思えば、国対委員長として私の置かれた立場は、3つの点で特殊だったと思います。1つ目は、野党が分裂してバラバラだったこと。与野党を問わず「第一党」は、他党を代表して交渉に臨みます。そこでの合意は決定事項になりますから、持ち帰って他党から文句が出ても引き返せません。なので、与野党協議の前にはよく他党の意見を聴き、野党を取りまとめることが重要です。

 これまでの野党第一党は、野党内では圧倒的多数だったので、この野党内合意形成を多少乱暴にやっても抑え込むことができました。しかしこのときの立憲民主党は第一党といってもわずか55人。第二党の希望の党(のちの国民民主党)は50人でしたから、ほとんど差がありません。

 しかも野党は、立憲、希望、共産、社民、自由、日本維新の会、無所属の会の6党1会派。日本維新の会は衆議院では与党寄りの傾向も強く、お誘いしませんでしたが、これをまとめなければならないのです。

 2つ目は、ほぼゼロからつくった政党が「野党第一党」になったこと。起業したてのベンチャー企業がまずそろえるのは「人」と「場所」です。各党とも国会議事堂の2階、3階に事務室を構えて、膨大な事務が伴う国会運営を行います。なのに、総選挙の前には存在しなかった立憲民主党には、国会内に机すらなく、国会運営に関わってきたスタッフもいませんでした。

 だから私が国対委員長として最初にやらねばならなかったのは、一緒に活動するスタッフを探すこと、そして国会内の「拠点」づくりでした。拠点というと格好良すぎるかもしれません。

 コピー機をリース契約し、インターネット回線を引き、文房具をそろえる……。「とにかく仕事できるようにしなきゃ!」という環境づくりでした(当初は「クリアファイルがない」など、そのつど売店に走りました)。

1194名無しさん:2021/01/11(月) 23:22:13
>>1193

■人集めにとにかく苦労する

 とにかく人がほしい。政党は議員だけでは何もできません。そこへ、旧民進党時代から一緒にやってきた党職員2人が「とにかくやりましょう」と駆けつけてくれました。須永英一さんと池田洋一郎さんです。

 民進党が分裂し、党職員の方々もいろんな思いを抱えていたときです。また、厳しい選挙に疲れ果てていたこともあり、気心の知れた2人がまず来てくれたことは涙が出るほど嬉しかったです。

 しかし再会を懐かしむ間もなく、私たちは「6日後に野党第一党として国対を開くためのロードマップ」をつくる打ち合わせに入りました。2人は「僕らも国対は初めてです。辻元さんのやりたい国対をつくってください。僕らはそのお手伝いをします」と明るく言い、膨大な事務作業をオーバーワークぎりぎりでこなしてくれました。

 池田さん、須永さんからは「ぜひ国対に詳しい先輩職員を誘ってほしい」とも言われていました。そこで、旧民主党時代から野党の国会運営を支えてきたベテランの国対職員の中山秀徳さんを拝み倒して、なんとか助けてほしい、とお願いしました。

 中山さんは一度は引退したにもかかわらず、見るに見かねて戻ってきてくれることになりました。国対というのは「経験知」が何より大切です。「16年前の通常国会で、自民党が強行採決したときに、野党が不信任案を続けて出して……」といった事例をいくつ知っているか、そこから新しい戦術をどこまでつくれるかがカギを握る、そんな世界なのです。

 「生き字引」のようなベテラン職員が「軍師」としてどっしり構えていることで、私という新米委員長が仕切る立憲国対は「手ごわいかもしれない」と周囲からなめられなかったと思います。中山さんは、基本は事務所の隅に座ってカレンダーなどを眺めているのですが、何かさらさらと書いてきたメモが、局面を反転させるような奇策だったこともたびたびありました。

■互いに何手も先を読み合う

 与党と野党の駆け引きは、囲碁や将棋の世界と似ているのでしょう。国会法や衆議院規則や先例集などのルールに従い、互いに何手も先を読み合い、石や駒を取り合いながら、盤面をつくっていく。時に花を持たせることはあっても、最後は大局で勝つために死力を尽くす。私は彼(中山さん)から多くの「定石」を教えてもらいました。

 彼らと知恵を合わせながら、議員会館や議員宿舎の部屋割り(こういうことも国対の仕事です)、公用車の手配、国会議員を「どの委員会に配属するか」という人事まで、特別国会が始まるまでの1週間のうちに整えなければなりませんでした。
 
一方で自民党の国対は専任の職員が10名以上、国対委員長を補佐する国会議員(国対委員長代理や副委員長など)も数十人もいるのです。マンパワーが乏しい中、衆議院から派遣される職員たちもこの状況を共有してくれて、皆フラフラになって働いてくれました。

 そして何より3つ目は、「安倍政権」という異様な政権とたたかわなければならなかったことです。私に初めから要求されたのは、従来型の与野党が調整しながら進む国会運営ではなく、三権分立さえないがしろにしかねない安倍官邸との対峙だったのです。

 激突法案やスキャンダルで国会が揉めるとき、ニュースで「たった今、与野党国対委員長会談が終わりました」という報道をご覧になったことはないでしょうか。薄暗い国会の廊下を、大勢の記者を引き連れた「国対委員長」がフラッシュの中で「大筋合意した、ということです」と重々しくつぶやくアレです。

 また、政治家がひそひそと「あれは『国対』の判断だからさ(勘弁してよ)」と漏らすときには、当事者が死ぬまで明らかにされない権力行使の闇がある……。そんな雰囲気が醸し出されます。

 そんな国会対策委員会、通称「コクタイ(国対)」が、結局のところ日々何をやっているのか、ピンとこない人は多いのではないでしょうか。「55年体制における談合政治の温床」などと、ダーティなイメージを持っている方もいるでしょう。

 本来、国会運営は衆参両院の議院運営委員会(議運)の責務です。しかし、各党がいきなり議運に臨むと、各党の意見や思惑がぶつかり合って収拾がつかなくなります。そこで、国会運営の方向をあらかじめ協議するインフォーマルな組織として、各党に国対が設置されているのです。

1195名無しさん:2021/01/11(月) 23:22:27
>>1194

■国対委員長が初めて出てきたのは1948年

 少し歴史的な話をします。国立国会図書館の調べによれば、日本の議会史上、初めて「国会対策委員長」なる役職が登場したのは、1948年の第2回国会会期中とされています。

 当時の政権は社会党首班の片山哲内閣で、社会党中央執行委員会に国会対策委員会が創設され、正木清議員が国対委員長に就任しています。1月28日の「読売新聞」に報じられています。

 保守政党である自由党系の政党に、国会対策委員会と考えられる組織が登場するのは、1948年10月ごろ(民主自由党)とされています。ただし、設置に反対も多く、当初は党則に明記されない事実上の存在であったようです。

 もう一方の保守政党である改進党系の政党では、民主党が連立派と野党派に分裂したあと、それぞれに国会対策委員会が置かれたようです。民主党野党派の後継政党である国民民主党及び改進党は、国会対策委員会を党則に明記しました。とにかく、歴史は古いのです。

 では、国対委員長はどんな役割を果たすのか。その業務と資格について、2007年10月23日の「日経新聞」に次のように解説されています。

 ●業務―国会運営が円滑に運ぶように、法案を提出してから成立させるまでの議事日程などを決める。

●資格―特になし。政界の駆け引き、交渉術にたけたベテラン議員が就くことが多い。

 「幹事長」は党全体の責任者、政策は「政務調査会長」、国会運営は「国対委員長」が責任を持つというのがスタンダードな政党の役割分担です。

 自民党では、田中角栄、金丸信、竹下登、梶山静六……。社会党では、田辺誠、村山富市、山口鶴男……。国対は、総理大臣や党幹部への登竜門ともいわれてきました。

 かつては、自民党と社会党との金丸・田辺ライン、梶山・村山ラインというように、国対委員長の属人的なパイプで政治を動かしていた時代もありました。

 対立していた自民党と社会党が連立政権を組んで村山政権が誕生したときは「信じられない」と驚かれましたが、村山さんは「国対族」で、自民党とも人脈があったことが大きく作用したともいわれています。

■「たたかいの政治」へと移行する

 ある自民党の国対委員長経験者が、国対委員長の条件を以下のように挙げています(『エピソードで綴る国会の100年』前田英昭、原書房)。

①国会法や先例、先例集について知識を持っていること

②衆参両院を展望する目を持っていること
③各政党の人脈関係を把握しておくこと
④どのような予算案、法案、条約が提出されるか把握しておくこと
⑤法案に軽重の順位を定め、優先すべき重要法案を見極めること
⑥各委員会の人事構成、とくに委員長と理事の配置に気を配ること
⑦各党の勢力分布を常に念頭においておくこと
⑧約束したことは守るため党内の調整をはかること
 社会党の国対委員長経験者もこう語っています(同前)。

①政党間の信義を守ること
②妥協すべき案件と妥協すべきでない案件を常に区別すること
③公人と私人の区別を明らかにすること
④ペテンやハメ手は常用しないこと
⑤党内の取りまとめに努力すること
 私は就任直後、この与野党の国対委員長の心得に目を通しながら、全身緊張でクラクラしていました。国対では、「話し合い」「根回し」と称して裏で手を握り、すべてシナリオはできている。与党から野党への宴会接待攻勢、わざと与党が負ける賭け麻雀、洋服お仕立券を渡すなど、もう絶滅したと思われる典型的な「オトコの政治」がある……。そんな話も先輩議員から聞かされたことがあったのです。

 しかし、これらの話は、自民党は万年与党、社会党は万年野党という役割が固定していたときの話のようです。1993年の細川護熙非自民連立政権の誕生で「国対政治」は幕を下ろしたといわれています。選挙制度が小選挙区制に移行し、野党が政権を取る可能性が出てきたため、馴れ合い政治ではなく、政権交代を賭けた、たたかいの政治へと時代とともに変わっていったのです。

辻元 清美 :政治家


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