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近世日本史スレ

1 ■とはずがたり :2003/01/21(火) 15:53
近世日本史を語る。
近世=江戸時代は明治期の宣伝のせいか遅れた封建制度として語られることが多かった。
しかし,国民経済が形成され,工場制手工業が発達し,江戸や上方では高度な都市文化が花開いた江戸時代はまさしく「近代」である。
重商主義としての田沼政権,絶対王政としての水野忠邦政権,市民革命としての明治維新。
経済学の嚆矢とも云える経世史家たち。ゴミを出さない循環型の環境都市。我々はもっと江戸期を肯定的に捉えるべきである。

208 名無しさん :2016/11/06(日) 18:32:14
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161104-00120055-suumoj-life
スーパー銭湯並みにサービス満点だった? 江戸の「湯屋」とは
SUUMOジャーナル 11/4(金) 7:00配信

江戸っ子は風呂が大好きだった。江戸の町は風が強く土ぼこりも多かったので、江戸っ子は毎日入浴した。ただし、火事を嫌うので内風呂はなく、銭湯に通うことになる。そこに、コミュニケーションが生まれて、社交場の役割も果たすようになる。江戸の風呂事情を見ていこう。

連載【江戸の知恵に学ぶ街と暮らし】
落語・歌舞伎好きの住宅ジャーナリストが、江戸時代の知恵を参考に、現代の街や暮らしについて考えようという連載です。

■落語「湯屋番」は、憧れの番台に座ることができた若旦那の妄想で……

「銭湯の番台に座るのは男の夢」のようだが、江戸時代も同じこと。勘当された若旦那が、その夢をかなえたのだが……、という落語が「湯屋番」だ。

鳶頭(かしら)の家に居候の若旦那。まじめに仕事をしている様子を見せて、勘当を解いてもらおうと、鳶頭の知り合いの湯屋に勤めることになった。湯屋は「ゆや」または「ゆうや」と読み、銭湯のこと。江戸では湯屋といい、大阪では風呂・風呂屋といったのだそうだ。

さて、当然ながら最初は外回り、焚き木を拾ってきたりするのが仕事なのだが、力仕事は大嫌いな若旦那。渋っているうちに番台に座る主人の昼飯時になって、無理やり番台に上がらせてもらうことになる。

でも、楽しみな女湯は空っぽ。仕方なく、若旦那は妄想の世界に入る。「色っぽい女性が番台に座る自分を『乙な男だ』と気に入るから、女性の家の前を通りがかれば必ず『お寄りなさい』と声がかかる。いったん辞退する自分の袖を引っ張って、無理やり家の中に入れる……」などと想像しながら、自分で着物の袖を引っ張ったり、もてて困ると自分のおでこを叩いたり……。

男湯の客はその姿に気を取られて、軽石で顔をこすって血だらけになったりして大騒ぎ。そのうち下駄がなくなったと客が怒り出す。すると、若旦那が「そこにある良い下駄を履いてお帰りなさい」。客が後はどうするのだと聞くと、「順に履かせて、しまいは裸足で帰します」。

お後がよろしいようで。

■江戸っ子の入浴の仕方は?入浴マナーは?

江戸時代の前期は蒸し風呂だったというが、次第に湯船に入るスタイルに変わる。入込湯(いりこみゆ)と呼ばれた混浴が当たり前だったが、風紀が乱れるということで幕府は度々禁止令を出した。男湯・女湯が別々なもの、男湯専用、女湯専用のほか、けっきょく混浴も続いたというので、禁止令の効果はあまりなかったようだ。

江戸時代後期の文化年間(1804年〜1818年)になると、江戸には600軒あまりの湯屋があったという。
では、江戸後期の湯屋がどんなものだったか、画像1の浮世絵の女湯と画像2の湯屋の平面図をあわせて見てほしい。

【画像1】女湯の様子「肌競花の勝婦湯」豊原国周(画像提供/国立国会図書館ウェブサイト)

【画像2】湯屋の平面図「守貞謾稿. 巻25」(画像提供/国立国会図書館ウェブサイト)

表から入って土間で履物を脱ぎ、番台(平面図の高座)で湯銭を払う。一段高くなっている板間(脱衣場)に上がって着物を脱ぎ、衣服戸棚やカゴに入れる。傾斜のついた流し板があるところが洗い場で、溝があって使った湯は外へ流れ出すようになっている。脱衣場と洗い場に仕切りはなかったが、竹の簀子(すのこ)の所で水を切るようになっていた。

浮世絵では少ししか見えないが、その奥に浴槽がある。ただし、洗い場と浴槽の間に板戸を張って、湯気が逃げて温度が下がらないようなエコ仕様にしているので、戸の下をくぐって中に入るようになっている。これを「石榴口(ざくろぐち)」と呼ぶが、画像3のように豪華な装飾がされていた。江戸は鳥居形が多かったのに対し、大阪は破風形が多かったようだ。

浴槽のある石榴口の奥の空間は、明かり取りの窓もほとんどなく、湯気が漂う暗い空間だった。式亭三馬の『浮世風呂』によると、「田舎者でござい、冷えものでござい、ごめんなさい、といい、あるいはお早い、お先へとのべ、あるいはお静かに、おゆるりなどという類い、すなわち礼儀である」と書かれている。「不慣れだから無礼があったらごめんなさい、冷えた体が当たったらごめんなさい」といった意味で、周囲に断ってから入るのが湯船に入るマナーだった。

ただし、江戸っ子は火傷するほど熱い湯が好みだったので、長湯はしなかった。洗い場でしっかり洗って、「岡湯」と呼ばれる“上がり湯”をもらって出るのが基本。なお、湯船の船に対抗して、岡湯と呼ぶのだそうだ。

【画像3】石榴口「守貞謾稿. 巻25」(画像提供/国立国会図書館ウェブサイト)

209 名無しさん :2016/11/06(日) 18:32:26
>>208

■マッサージや社交場、徹底したサービス業だった江戸の湯屋

落語の若旦那が座った番台だが、実は主人やベテランの番頭しか務められなかった。風呂で使うさまざまなグッズを販売したりレンタルしたりするだけでなく、客同士の喧嘩の仲裁、板の間稼ぎの見張りなどいろいろなことをしなければならないからだ。板の間稼ぎとは、粗末な衣服で風呂に入って、金目になりそうな高価な着物で出ていくという盗人だ。

洗い場では別料金で、三助(さんすけ)に背中を流したり揉んだりするサービスを求めることができる。湯屋は立派なサービス業だったのだ。

さらに、風呂から上がった男客は、有料となるが、脱衣場から二階に上がる梯子(はしご)で二階の座敷に上がって休憩することができた。茶を飲んだり菓子を食べたりしながら世間話をしたり、将棋や囲碁などを楽しんだりした。

湯屋が町に1つはあったという江戸時代なので、湯屋が出てくる落語や歌舞伎は多い。落語「不動坊」に登場する主人公は、湯屋でひと悶着を起こす。歌舞伎の「暗闇の丑松」は湯屋が惨劇の場になる。落語「金明竹」では、上方の客が早口で「おいえはんだっか?(お家さんですか?)」というと、江戸のおかみさんが「お湯屋はこの先…」と答えるといった具合。湯屋が人々の暮らしのなかに溶け込んでいたことが、よく分かる。

こうして、さまざまな職業や階層の江戸の人たちが集まって、おしゃべりをするなどして憂さを晴らせる湯屋は、今のスーパー銭湯と同じように、江戸っ子のための大切な娯楽の場でもあったのだ。

●参考資料
・「ヴィジュアル百科 江戸事情 第一巻生活編」NHKデータ情報部編/雄山閣出版
・「落語と江戸風俗」中沢正人・つだかつみ著/教育出版
・「大江戸暮らし」大江戸探検隊編著/PHP研究所
・「江戸っ子の二十四時間」山本博文/青春出版社
・「落語ハンドブック改訂版」山本進編/三省堂
・「江戸散策」サイト第77回/クリナップ
・「歌舞伎いろは」和の愉しみ くらしの今と昔/歌舞伎美人

山本久美子

210 とはずがたり :2017/03/22(水) 13:07:22
「武器じゃないか?」“謎の物体”の正体、160年経て判明 蘭学者の緒方洪庵もわからず
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170304-00010000-nishinpc-soci
西日本新聞 3/4(土) 8:20配信

 「武器じゃないか?」「金の宝だろう?」-

 江戸時代の蘭学者で医師の緒方洪庵(1810〜63)も何に使うか分からず、“謎の物体”とされてきた物の正体が160年後の現代、大分県日田市の咸宜園教育研究センターの職員の手で明らかになった。それはろうそくの火を消すための道具「キャンドルスナッファー」。センターで開催中の企画展「廣瀬旭荘・敬四郎文庫」で公開中だ。

 センターによると、物体は洪庵の友人で日田出身の漢詩人・儒学者、広瀬旭荘(きょくそう)(1807〜63)の子孫宅から2012年に見つかった。金属製で全長18・5センチ、幅3センチ。先端は箱型で、はさみのように開閉できる仕組み。この物体について記述した旭荘の日記の一部と、スケッチも一緒に見つかった。日記は1842(天保13)年から53(嘉永6)年の間に書かれたとみられる。

 日記によると、物体は6月26日、旭荘が拠点にしていた大坂(大阪府)で、漁の網に掛かっているのを発見。「色は黒くてかすかに赤く漆で染めたような感じ」といい、「西洋のものではないか」と考えた旭荘は、友人に尋ねるが「戦に使う道具ではないか」という人や「元は金(きん)だろう」という人がいて答えは出ない。物体にはオランダ語に似た文字が彫られていたため旭荘は友人の洪庵にも見せるが回答は「不識」。結局正体は分からなかった。

 突き止めたのはセンターの学芸担当、溝田直己さん(35)。旭荘関連の資料を調査中だった2014年、旅行先でチェコの画家の作品展を観賞。作品の一つによく似たものが描かれているのに気が付き、それがキャンドルスナッファーと分かった。「一体何なのか見当も付かなかったので、絵を見たときは衝撃だった。できるなら旭荘さんにも教えてあげたかった」と溝田さん。企画展は入館無料で31日まで。

=2017/03/03付 西日本新聞朝刊=

211 とはずがたり :2017/04/09(日) 14:54:32
おおっ,tulipsだ♪
別に全世界に公開されてるものの様だけど。

官板実測日本地図
筑波大学
https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/exhibition/kochizu/gazou/lime/3-8.html
国立公文書館
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/category/categoryArchives/0600000000/0605020000/00

“竹島は韓国領”を証明する日本の地図、韓国外交部が密かに保管中=韓国ネット「保管しているだけでは意味がない」「日本は証拠もないのに…」
http://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20170407/Recordchina_20170407027.html
レコードチャイナ 2017年4月7日 13時00分 (2017年4月9日 14時40分 更新)

2017年4月6日、韓国の毎日経済新聞は、日本が竹島(韓国名:独島)を自国の領土と考えていなかったことが分かる重要な資料を韓国の外交部が20年前から密かに保管してきた事実を確認したと明らかにした。この事実は韓国国際法の「代父」と呼ばれる故ペク・チュンヒョンソウル大学法学部教授の10周忌イベントを準備する過程で明らかになったという。

毎日経済新聞によると、韓国外交部が密かに保管してきた重要な資料とは「官板実測日本地図」。同地図について、独島問題専門家は「19世紀の江戸幕府主導の公信力ある官撰地図という点で大きな意味がある」と説明した。同地図は1870年に正式に発行され、「日本の地図製作の手本」と呼ばれている。地図には1900年代初めの江戸幕府の領土認識が正確に示されている。その後の明治時代の多くの官製地図と同じく、伊能忠敬の地図をもとに作られた。しかし、同地図を見ると、隠岐諸島は記されているものの、その上にあるはずの竹島が見当たらないという。毎日経済新聞は「当時の日本が独島を自国の領土と認識していなかった証拠」と説明している。

韓国外交部関係者は「官板実測日本地図を外交部が保管していることは事実。重要な資料であるため、最高の状態で保存できる桐の箱の中に保管している」と明らかにした。また、同地図を公開していない理由について「独島が韓国領であることを示す重要な史料はすでに多数公開している」とし、「多様な機会を通じて関連資料を公開する準備は常にしていた」と説明した。

同地図について、毎日経済新聞は「伊能忠敬が1800年から1817年までの17年にわたって日本全体を実測し、1821年に完成した『大日本沿海輿地全図』をもとに作られたという点で歴史的な意義がある」とし、「2つの地図のどちらにも独島関連の表記はないため、独島が韓国の領土であることを示す重要な史料と言える」と説明した。

韓国の代表的な独島専門家である世宗大学の保坂祐二教授は、「大日本沿海輿地全図は10回の実測によって作られたが、5回目の実測からは江戸幕府が支援していた国家事業だった」とし、「当時、伊能忠敬は10回の実測を行う過程で独島を訪問しなかった。これは、独島が日本の領土でないことを示す直接的な証拠」と主張した。

ペク・チュンヒョン教授は1961年にソウル大学法学部を卒業し、1968年から2004年までソウル大学法学部の教授を務めた。その後、韓国人初の国連人権特別報告官を務め、国際仲裁裁判所の裁判官としても活躍した。フランスに渡った外奎章閣儀軌の返還、独島領有権紛争、乙巳条約の国際法上の違法性などを明らかにする問題などに積極的に取り組んできたペク教授は、68歳の時に脳出血により死去した。

ペク教授の次男ペク・ヨンジン氏は「1998年に父が当時のお金で1000万円という巨額の私財を投じて地図を購入し韓国に持ってきたが、メディアには知らせなかった」とし、「日韓は当時、『新日韓漁業協定』と『中間水域』についての協議を行っており、敏感な時期だった」と説明した。また、「父は適切な時期に論文を発表しようとしていたが、突然亡くなったため、地図はこれまで日の目を見なかった」と明らかにした。

212 とはずがたり :2017/04/25(火) 12:27:18
なぜ豊臣秀吉は「朝鮮出兵」を決意したのか なんと「あの武将」が発案者だった?
http://www.msn.com/ja-jp/money/other/%E3%81%AA%E3%81%9C%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89%E3%81%AF%EF%BD%A2%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%87%BA%E5%85%B5%EF%BD%A3%E3%82%92%E6%B1%BA%E6%84%8F%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-%E3%81%AA%E3%82%93%E3%81%A8%EF%BD%A2%E3%81%82%E3%81%AE%E6%AD%A6%E5%B0%86%EF%BD%A3%E3%81%8C%E7%99%BA%E6%A1%88%E8%80%85%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%EF%BC%9F/ar-AAn4eD3#page=1
東洋経済オンライン
山岸 良二
2017/02/18

 天下統一を果たした豊臣秀吉は、国内を掌中にしたことでは飽きたらず、海の向こうの大陸への侵攻を企てる。

 この「文禄・慶長の役」と呼ばれる外征、いわゆる「朝鮮出兵」は、しばしば秀吉の錯乱や妄想といった突拍子もない思いつきだとする解釈も聞かれるが、実際は周到な準備のうえで実行された、壮大かつ本気の構想だったことが明らかになっている。

 「日本史を学び直すための最良の書」として、作家の佐藤優氏の座右の書である「伝説の学習参考書」が、全面改訂を経て『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』『いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編』として生まれ変わり、現在、累計17万部のベストセラーになっている。

 本記事では、同書の監修を担当し、東邦大学付属東邦中高等学校で長年教鞭をとってきた歴史家の山岸良二氏が、「文禄・慶長の役」を解説する。



秀吉の意図は「貿易の独占支配」?
 Q10.秀吉が明に攻め込もうとした動機は何だったのですか?

 残念ながら、決定的な動機はわかっていません。

 「恩賞として家臣に与える土地が不足していたため」ともいわれますが、秀吉の具体的な理由を示す当時の記録はまだ見つかっておらず、現在でも諸説が挙げられ、議論が続いています。

 ただし、「文禄の役」後の和平交渉に着目してみると、その中の一文から秀吉の「秘められた意図」をうかがい知ることができます。

 Q11.秘められた「秀吉の意図」とは?

 それは「東アジア交易の独占支配」です。

 秀吉が提示した要件に、「日明貿易の再開」がありました。彼の視野には、高価な明の特産品の交易で莫大な富が生み出される光景が映し出されていたのでしょう。

 室町幕府の衰退により、日明間の貿易は長く途絶えていましたが、この貿易は利潤が大きく、1回の往復で元手の数倍〜数十倍もの利益を得られたといわれます。

 ただ、こうした「貿易のうまみ」にいち早く気づいたのは、秀吉が最初ではありません。実はもっと以前から「明の征服」を思い描いていた「ある人物」がいたのです。

 その、「明国侵攻を最初に発案した人物」とはズバリ、秀吉の主君だった「織田信長」です。

213 とはずがたり :2017/04/25(火) 12:27:42
>>212-213

Q11.「明征服の最初の発案者」は織田信長だった、と?

 はい。信長は「貿易の重要性」を早くから認識しており、対明貿易の復活に向け、朝鮮にその仲介を依頼する交渉を続けていました。

 しかし、思うような反応を得られず、しだいに「武力侵攻」を意識するようになります。信長は安土城を築城しているころ、酒宴で「将来は明国に侵攻する」と口にしたともいわれています。

 信長は周囲のキリスト教宣教師たちから話を聞き、世界の事情、特にアジア地域の情勢にかなり精通していました。事の細かな真偽はともかくとしても、家臣たちに「明国征服」の話をしていたことはあったのでしょう。

 もちろん、まだ日本国内でさえ平定していなかった頃の話。家臣たちも、当時は「話半分」で聞いていたものと思われます。

 ところが、信長から天下統一を受け継ぐ形になった秀吉がその夢を実現させたとき、秀吉は「かつて信長が語っていた明国征服の話」を思い出したのではないでしょうか。

 現在、大阪城には、秀吉が愛用した「三国地図扇面」が残されています。そこには朝鮮と明の国割りが地図で示されていて、これが秀吉の「大陸制服プラン」だったと考えられています。

豊臣も明も滅亡し、「新しい時代」へ
 朝鮮での戦いが終わったあと、日本では戦いの最中に生じた、加藤清正らの前線で死闘を演じた「武士団」のグループ(いわゆる「武断派」)と、石田三成ら後方で軍政を担当していた「兵站(へいたん)官僚」のグループ(いわゆる「文治派」)との軋轢が鮮明となり、豊臣家は家臣の分裂を止められないまま「関ヶ原の戦い」に突入します。

 一方、荒廃した朝鮮半島では復興に膨大な時間を費やし、明は戦いで多くの将兵を失ったためかその後急速に国力を失って、やがて北方の異民族により滅ぼされ「清(しん)」の時代へと移ります。

 豊臣家、そして明国の滅亡――。どちらも歴史の流れの中では止められない出来事であったのかもしれませんが、対外戦争によってその不幸に輪がかけられたことも、また否めない事実でしょう。

 「私欲による無益な戦い」が、戦った両者それぞれに「多くの不幸」をもたらすことになる──。豊臣秀吉の朝鮮出兵に学ぶ「最大の教訓」は、そのことではないでしょうか。

214 とはずがたり :2017/05/25(木) 19:21:00
知らん間に徳島文理大に拾って貰えてたんか>八幡和郎

誰だろ,買おっかねえ,新潮45+,なんで+取れたんだろ?

今上天皇に血統の近い、知られざる「男系男子」の存在が!
https://www.dailyshincho.jp/article/2016/12261605/?utm_source=excite&utm_medium=http&utm_campaign=link_back&ui_medium=http&ui_source=excite&ui_campaign=link_back&all=1

 皇位継承者の不足は、かねてより問題視されてきた。悠仁さまお一人しか将来の候補がいない現状には、旧宮家の復帰、あるいは女系天皇といったことが話題になるが、

〈意外に議論されていないのが、男系でならどういった人たちがいるかということだ〉〈皇室に近い人々の全体像を明らかにしないまま、皇位継承についての議論をすると、得た結論も粗雑で「正統性」が薄いものになりかねない〉

 と説くのは、評論家で徳島文理大学教授の八幡和郎氏だ。「新潮45」1月号に寄せた「今上天皇に血統の近い知られざる『男系男子』たち」で、現在の皇室に近い人々の存在を明かしている。※〈〉は本文より引用、以下同

 ***

 八幡氏が試みるのは、皇室典範でも採用されている「サリカ法典式」で男系男子を長子優先で系図をたどって探す〈頭の体操〉である。

“今上天皇に近い血統”と聞いてまず思いつくのは、昭和22年に皇籍離脱された11宮家ではないだろうか。JOC竹田恒和会長の「竹田宮」など、男系男子での継承が今後も見込まれる旧宮家はあるが、そのルーツはいずれも伏見宮邦家親王であるという。

〈伏見宮家は、男系では南北朝時代の北朝崇光天皇の子である伏見宮栄仁親王に始まる。孫の彦仁親王が後花園天皇となって現皇室につながり、その弟の貞成親王の子孫が伏見宮家を継いだ。

 そして、幕末の邦家親王が子だくさんだったので、その子孫がこの11宮家となった〉

 だが意外にも〈男系ということでいえば、伏見宮家の御当主と今上陛下は36親等も離れている〉という。実はより今上陛下に近い血統が存在する。例えば「華園家」である。

■今上天皇の14親等

特集が掲載されている「新潮45」1月号 ネット書店で購入する
“華園”は、明治の苗字義務付けで、浄土真宗興正寺の僧侶である本寂が「華園摂信」を名乗ったことに始まる。

 京都の西本願寺の南にある興正寺に養子に入った本寂は、文政6年から30年にわたって関白を務めた鷹司政通の次男にあたる。さらに政通の曾祖父は東山天皇の第6皇子の直仁親王であるといい、

〈政通の嫡男輔煕の系統は絶えたので、もっとも皇室に近いのは、政通の次男で浄土真宗興正寺の門跡になった本寂の子孫ということになる〉

 その子孫というのが、本寂の玄孫に当たり、現在の興正寺の門主である第31世本顕(華園真暢)。さらには、父親である前門主真準も健在で、皇族を除けばこの人物がもっとも今上天皇に近い(14親等)という。

 ところが「華園家」には“男系男子”にあたる存在がいない。

〈真暢(59)に男子はなく、長女・沙弥香(22)、法名・真慶(しんきょう)さんが2017年4月1日に門主後継者である「嗣法(しほう)」に就任する予定だ〉

 であれば、次に今上陛下に近いのは、誰か。「新潮45」本誌では、その人物の意外な素顔を明らかにしている。

215 とはずがたり :2017/07/25(火) 12:35:42
琉球国王が薩摩藩士に送った書状を発見 異国船に対処か 専門家「珍しい」
http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/115877
2017年7月20日 10:15琉球薩摩歴史尚育王

・19世紀半ばに尚育王が薩摩藩士に送った書状が広島で見つかった
・藩士は琉球に仏艦隊が来航した際、派遣された武装兵のリーダー
・内容は不明だが「比較的身分の低い藩士への国王の書状は珍しい」

 第2尚氏第18代琉球国王の尚育(1813〜47年)が19世紀半ば、薩摩藩士に送った直筆の書状が、広島市内の個人宅に保管されていることが19日、分かった。これまで公になっていない新発見の書状で、確認した法政大学沖縄文化研究所国内研究員の上里隆史さんは「国王が比較的身分の低い藩士に送った直筆文書は珍しい。幕末の琉球と薩摩の政治史を考える上で貴重な史料だ」と話している。

 書状は縦41・2センチ、横50センチ。中央を折り曲げた「折紙(おりがみ)」と呼ばれる古文書の形状で、尚育の署名代わりの記号「花押(かおう)」が記されている。日付は「正月十一日」(1月11日)。日本の武家文書の形式で、薩摩藩士の二階堂右八郎宛てに年始のあいさつなどが書かれているが、書状が途中で切れており、詳しい内容は不明。

 近世琉球は1609年、薩摩藩による侵攻後、独立国の体裁を持ちながらも薩摩からの支配を受けていた。

 上里さんによると、二階堂は1844年に琉球へのフランス艦隊の渡来時、薩摩が琉球に派遣した武装兵のリーダー。書状は同年以降、二階堂ら薩摩藩士に送られたものとみられる。当時はアヘン戦争(1840年)で清がイギリスに敗れ、東アジア各国が異国船の渡来に神経をとがらせていた。薩摩が琉球に武装兵を送ることも異例で、琉球国王が薩摩藩士へ書状を送り、連携して異国船に対処していた可能性がある。

 書状を所有する広島市在住の薩摩藩士の子孫の男性(56)は「自宅で花押が特徴的な書状を見つけたため、ネットなどで情報収集した。琉球史のブログで熱心に情報発信をする上里先生がいなければ、書状の確認はできなかった」と説明。上里さんは「琉球の文書がまだ県外に眠っている可能性がある」と話している。

216 とはずがたり :2017/07/25(火) 12:36:57
秀吉の天下統一で琉球に「難題」 島津氏の書状見つかる
http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/27631
2016年4月14日 12:04歴史琉球王国人気記事

 薩摩の戦国大名である島津義久が1590(天正18)年、豊臣秀吉の関東平定を祝う使節を派遣するよう、琉球国王の尚寧に要求した書状が13日までに、愛媛県伊予市で見つかった。近世の日本と琉球の関係を研究する東京大学史料編纂所の黒嶋敏准教授(歴史学)が、義久の花押の特徴などから、原本にほぼ間違いないと確認した。

 縦約33センチ、横約45センチの筆書きで、同年、北条氏を制圧して秀吉が天下統一を果たしたので、早々に京都へ使者をよこすようにと求めた内容。怠れば「難題」が降りかかると、高圧的に書かれている。

 今回の書状は愛媛県伊予市の旧家で見つかった。だが2001年にも山中貞則衆院議員(当時)が愛媛県内に保管されていた類似の文書を県に贈呈。現在、県公文書館が保管しており、同内容で、書体や紙の破れ方が極めて似た2つの文書が存在している。

 琉球大学の豊見山和行教授(琉球史)は「県公文書館蔵の文書がきれいな印象で、どちらかの文書が似せて書かれた可能性があるが目的は分からない。両方を突き合わせて考える必要がある」と指摘。

 黒嶋准教授は、当時は島津氏が1609年に琉球へ侵攻する前段階だったことを踏まえ「朝鮮と琉球を服属すべき国と考えていた豊臣政権下で、島津氏は琉球を政権の要求通りに振る舞わせる役割を担っていた。書状の分析から豊臣政権の琉球政策の解明が進むだろう」と話している。

217 荷主研究者 :2017/07/26(水) 22:54:08

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20170718000258
2017年07月18日 23時20分 京都新聞
新選組、野営でなく豪農に宿陣 禁門の変の新史料

禁門の変の際、新選組が旧東九条村で戦闘したことが記された豪農の日記(18日、京都市南区)

 1864(元治元)年7月の「禁門の変」で、新選組の動向を記した新史料が見つかり、18日、京都女子大の中村武生非常勤講師(幕末政治史)が発表した。当時の東九条村(現京都市南区)の豪農・長谷川家当主の日記で、新選組が村の農家に下宿しながら街道警護に当たったことが分かったという。

 禁門の変は、京都での勢力挽回を目指す長州藩と、京都を守護する会津をはじめ在京諸藩が京都御所などで軍事衝突した事件で、京都は大規模な火災に見舞われた。日記は同家の蔵で2015年に見つかり、中村講師が調査した。

 6月25日付には、会津勢と行動を共にしていた「壬生浪士組」(新選組)が、東九条村の農家に分かれて「御下宿」したとあり、別の日付で「非番」の記述もあった。従来は長州勢の北進を食い止めるため、竹田街道と鴨川が交わる「九条河原」に約1カ月間野営したと考えられていたが、村を拠点に交代制で警護したとみられる。

 禁門の変が起きた7月19日付には、長州勢約30人が正午ごろ、京都中心部から退いて東九条村に迫り、新選組が鉄砲を撃ち合って追い払ったと記されている。

 中村講師は「禁門の変は京都中心部での戦争と思われがち。新選組の京都南部における開戦前の行動や戦闘の様子が初めて分かった」と評価している。


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