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歴史掲示板

12138管理人:2022/07/28(木) 23:27:27
新・神籠石方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013139M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013139_2M.jpg

また連投となりますが、先日お知らせした九州の神籠石を結んだ方位ラインについて、大幅に訂正・追加が生じましたので、お知らせいたします。

まず、図1のように、新たに大島の御嶽神社を頂点としたラインがあることにきづいたのですが、その御嶽神社(大島)⇔志賀島(潮見公園)⇔三雲南小路遺跡⇔雷山神籠石⇔おつぼ山神籠石への東65度偏角のラインがあり、同じく御嶽神社(大島)⇔御所ケ谷雷山神籠石⇔唐沢山城への西30度偏角のラインがあります。

また、その後者のラインに近くに位置する宗像大社⇔大野城⇔女山神籠石への南北ライン(完全な同経度)ラインがあり、このラインに直交する形で、志賀島(潮見公園)⇔鹿毛山神籠石⇔御所ケ谷神籠石への東西同緯度ライン、三雲南小路遺跡⇔大野城⇔宇佐高校庭遺跡への東西ラインがあります。

なお、これらのラインと遺跡の位置関係については図2の一覧図をご参照いただきたいのですが、御嶽神社は台形状地形の上にあり、宗像大社についても、その庭園内の円形の池地の中心をラインが通過するので、その池がそのまま周壕だった可能性があるでしょう。

志賀島についても中東部の潮見公園東部に台形状地形があり、大野城については大城山山頂部の台形状地形の南部に2つのラインの交点があります。

また、図のように、おつぼ山神籠石⇔帯隈山神籠石⇔御所ケ谷神籠石への東35度偏角のラインがあることは以前もお知らせしたとおりですが、このラインと平行に、女山神籠石⇔杷木神籠石⇔唐沢山城への東35度偏角のラインがあり、その後者のラインと雷山神籠石⇔女山神籠石への西55度偏角のラインとが直交しています。

あと、帯隈山神籠石⇔吉野ヶ里遺跡(北墳丘墓)⇔祇園山古墳⇔高良山神籠石⇔本宮神社(五馬)への10度偏角のラインがありますが、その高良山については、図のように女山神籠石⇔高良山(奥宮)⇔内山田⇔鹿毛山神籠石への東70度偏角のラインがあり、このラインは元宮神社(五馬)⇔唐沢山城への東70度偏角のラインと平行になります。

その内山田の字名は邪馬台国の”内部”を想起させる字名でその北の日の岡の字名とともに留意しておくべきかもしれません。

その他、宇佐高校庭遺跡を起点としたラインとして、宇佐高校庭遺跡⇔唐沢山城⇔志賀島(潮見公園)への西10度偏角のライン、宇佐高校庭遺跡⇔平塚川添遺跡⇔帯隈山神籠石への東12度偏角のラインがあり、後者は平塚川添遺跡の中央集落・大型建物南部を通過している点で、昨日お知らせした古墳状地形等を結ぶラインと同じですが、また雷山神籠石⇔平塚川添遺跡(北部)⇔杷木神籠石への西18度偏角のラインでは、平塚川添遺跡の北西部の鷂天神社付近をラインが通過している点で相違があります。

この2つのラインは平塚川添遺跡東のブリジストン工場あたりで交差するのですが、前者の神籠石を意識してないラインと、後者の意識しているラインとで、年代が相違する等の要因が背景にあった可能性もあるでしょう。

これらのラインの年代としては、ライン上に見える志賀島の金印に関連する後漢時代、つまり「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」 建武中元二年(57年)の成立が考えうるでしょう。

そういう意味では、これらのライン上にみえる 鷂天神社、高良大社、宗像大社、本宮神社あたりは、日本最古の神社であった可能性が見えてきますね。鷂天神社で祀られる大日霊貴命、宗像三女神、五馬媛・・・といった女神の原型もこの時期にすでに仕上がっていた可能性もあります。

そして神籠石や山城の成立は通説の7世紀代ではなく、弥生時代まで遡ることもライン面からみてあきらかでしょう。

弥生時代のある時期に、かなり高度な石造技術をもった集団が渡来していたはずで、その起源を探る必要があります。

その集団として考えうるのが、このライン上にみえる三雲南小路遺跡から出土した南越王墓と同類の玉壁にみられるような華南からの渡来人かもしれません。以前その辺の渡来人についてはお話したので割愛しますが、列島外からの石造技術の系譜を調べていく必要がありそうですね。






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