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歴史掲示板

1管理人:2012/01/12(木) 17:24:57
古代史掲示板を新設しました
古代史掲示板を新設しました。画像・動画等の投稿も可能です。古代史関連の投稿をお待ちしています。

12139管理人:2022/07/29(金) 15:40:08
新掲示板を開設しました
こちらの掲示板が今月末で終了するので、ひとまず臨時的に新規掲示板を開設しました。こちらのアドレスになりますので、よろしくご確認ください。

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12141管理人:2022/07/30(土) 23:12:08
グスク・神籠石方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013142M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013142_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0013142_3M.png

先日の九州の神籠石を結ぶ方位ラインについてですが、その神籠石の石積みにみられるような石造技術の起源について、以前、沖縄のグスクと神籠石とは類似することを指摘したことがありました。

そこで、九州の神籠石と沖縄のグスクを結ぶ方位ラインを作成したのが図1です。

特に注目すべきことは、九州、沖縄に70度偏角のラインが見えることです。

まず九州では、?元宮神社(五馬)⇔唐沢山城への東70度偏角のライン、それに平行して?女山神籠石⇔高良山(奥宮)⇔内山田⇔鹿毛山神籠石への東70度偏角のライン、やや角度誤差はありますが、?御嶽神社(大島)⇔志賀島(潮見公園)⇔三雲南小路遺跡⇔雷山神籠石⇔おつぼ山神籠石への東65度偏角のラインも、おそらくは平行となるように意識したラインと考えうるでしょう。

その?に接続するのが、?笠狭崎(ニニギ宮)⇔今帰仁グスク⇔北谷沖海底遺跡⇔浦添グスク⇔首里城⇔照屋グスクへの東70度偏角のラインとなります。

また図のように、?のラインが久米島の具志川城に接続することがあります。

あと、斎槻御獄⇔奥間グスク⇔アマングスク⇔越山(沖永良部島)⇔大和グスク(徳之島)⇔宮之浦岳(屋久島)⇔串間への東60度偏角のラインがあったことが予想できます。

この串間からは、中国の南越王墓出土のものと同様な玉壁が出土しており、同じく先のライン?の三雲南小路遺跡からも出土していることがあります。

そして、その三雲南小路遺跡⇔串間への西70度偏角のラインがあり、ここで先の?の東70度偏角のラインと同偏角で交差していることもあります。

あと、野原岳(宮古島)⇔串間への東55度偏角のラインがあり、その間に、トカラ列島や宝島、口之島なども通過しており、このラインも航海指標として用いられていた可能性もあるでしょう。

このような方位ライン無しでは正確に最短航路を用いての航海は難しかったはずで、方位ライン作成の意義のひとつがこれらから垣間見ることができるでしょう。

そこで、魏志倭人伝の邪馬台国の位置についてですが、神籠石が邪馬台国と関わるならば、その起源がグスクにあった可能性があり、グスクのほうがよりしっかりとした石造建造物を残している点で、技術・文化的起源が沖縄方面から派生していたのでしょう。

そうすると、倭人伝における女王国の位置が、投馬国の南に陸行一月・水行二十日とあることも、琉球方面を指していた可能性があり、その件を考慮すべきかもしれません。

ただ、同じく倭人伝には、邪馬台国の南に四千里で侏儒国があるとの記載もあり、こちらが琉球のことだとすると、すでに邪馬台国は九州へと移動していたことも考えうるのですが、ただ問題としては、琉球のグスクに比して、神籠石が不完全に終わっている(あるいはグスクと同類のものが下に埋まっている?)点を考慮すると、これをどう解釈すべきかとの問題も残ります。

ひとつ思いつくところとしては、琉球方面から移住した集団がグスクと同じものを、九州北部に構築しようとしたものの、途中(初期段階)で放棄せざるを得ない状況に追い込まれたとの見方もできそうです。

ただ、神籠石の水門などの完成度をみると、未発掘の可能性もあり、その辺の調査を進めていく必要がありそうですね。



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