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「お薦め −本」

1FK:2008/09/10(水) 21:16:23
 「お薦め本」についてのスレッドです。
 みんなに読んでほしい! と思う本をドンドン、
 こんな人に向いてますよ! とか、こんなジャンルですよ、と紹介してみてください。
 書店員さんになった気分で?! どうぞ。

2FK:2008/09/12(金) 20:12:32

『オロロ畑でつかまえて』・『なかよし小鳩組』(荻原 浩 集英社文庫)

 ともかく面白い。これこそがユーモア小説!!
 さてお話しは、田舎の村の「村おこし」に主人公・杉山が勤めるユニバーサル広告会社が考えたのが、ネッシーならぬ「ウッシー」。ネス湖じゃあるまいし、....でも、それを換骨奪胎(?)して読者を楽しませる。−−こちらが『オロロ畑でつかまえて』。
 その続編が『なかよし小鳩組』。今度のクライアントは「小鳩組」。社会に貢献する(?)姿をアピールするために広告会社を使おうというもの。さあ、杉山たちのお手並み拝見!

 平氏や源氏はその暴力団(武士団)の最たるもので、彼らは歴史上、光り輝く存在として教科書にも掲載されている。ところが今日の社会では、建前上とはいえ、彼らの存在は忌み嫌われている(ことになっている)。

 その中で「小鳩組」の社会的存在意義などを述べたくだりなど、実に見事なもの。そっくりそのまま、頂戴したいくらいだ。

 Q.小鳩グループってどんなとこ?
 A.任侠道という伝統的な思想を信奉し、日々研鑽を重ねる有志が集まった親睦団体です。(中略)街の皆様に安心と平和をお届けする「市民のための自警団」としての責務を担っています。七海市民の皆様から寄せられる生活上のトラブルの解消、(以下略)(P.282)

 なお、両方とも手元にありますので、お貸しできます。

3FK:2008/09/16(火) 18:37:12

『百瀬、こっちを向いて』(中田永一 祥伝社 2008年 \1400)

 本の帯に「人を好きになる切なさと恋のはじまりを予感させるドキドキがあって最高です。」と、私の娘が書いているという親馬鹿チャンリンの理由で読んだ本!?

 4編のうち第一作が表題作、2つ目は「なみうちぎわ」、3つ目の「キャベツ畑に彼の声」はどこかで聞いたことのあるような題名。ゴーストライターと若い国語教師と女子高生。若くて格好いい教師に女子高生が、というもの。
 4つ目の「小梅が通る」が一番いい、私には。ただこのアイデア「ブスメイク」(わざと不美人の化粧をすること)は、他の作品でも読んでいたので驚きはなかった。
 たいていの女の子は美しく見せようとして化粧をするが、実は私には不可解であり、不思議なのであった。このお話でその逆をする女の子に出会って、とても共感できた。

 人は普段、相手によって複数の仮面をつかいわけて生活している。(P.217)

 ブスメイクをするだけで、私に話しかけてくる男子はいなくなる。おかげで女子から嫉妬や反感を買うこともない。(P.231)

 素顔をいつわることで、それまで見えなかったことが、見えるようになる。(中略)人は相手の外見によって態度を変える。素顔でいるときとブスメイクをしているときの、周囲の変化を見るたびに確信は深まった。(P.235)

 あなたのことを好きになる人なんていない。 あなたにちかづく人は、あなたの顔が好きなだけで、あなた自身にはこれっぽっちも興味がないんだからね。(P.259)

 手元にありますので、お貸しできます。

4FK:2008/09/18(木) 10:36:57

 『おそろし 三島屋変調百物語事始』(宮部みゆき 角川書店 2008年 \1700)

 430ページほどの長編。基本的には百物語、つまりお化け・ホラー話。
 しかし設定が上手く、ぐいぐいと読ませられる。そしてフッと、いいなと思わせられるところもさすがだ。

「何故、皆さんがあたしを助けてくださるんです?」
「お嬢さんが聞いてくださったからですよ」
 我々の胸の痛みを。生きていたときにしでかした、愚かな過ちへの後悔を。
「聞いてわかってくださった。お嬢さんの心の内で、涙を流してくださった。そんな酷い出来事は他人事だと、忌まわしい、愚かでくだらないと顔を背けたりなさらずに、我が事のように悼んでくださった」
 藤兵衛は言って、あらためておちかの手を取ると、しっかり握りしめた。
「私どもの罪はお嬢さんの魂の一部になり、お嬢さんの涙で清められました。私どもは解き放たれたのです」(P.383)

【やはり「心と涙」が必要なのだ。私は最近涙もろくなってきてどうしようもないのだが、しかし基本姿勢としては、人に対するに「心と涙」が必要なのだ。】

 手元にありますので、お貸しできます。

5FK:2008/09/20(土) 08:31:29
 
 『砂場の少年』(灰谷健次郎 新潮社 1990年 \520)

 久しぶりに灰谷健次郎を読んだ。きっかけは生徒Aさんの紹介。
 主人公たちは中学3年生、そのあるクラスの担任として35才の男性が臨時採用でやってくる。そして彼こそは先生らしくない先生であった。

 学校のひどさ・えげつなさがしっかり書き込まれているので、読んでいて辛いものがある。もちろん、生徒の側の視点からなのだが。
 それにしてもしっかりした中学生たちだ。本当はみんな潜在的にそのような力を持っているのだが、発揮させられることはない。非民主的なこの日本社会では。
 だから彼らが痛々しい。

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Aさんへ(メール1)
 さきほど『砂場の少年』読了しました。紹介してもらって良かった。何年ぶりの灰谷でしょう。
 さて、何とも複雑な思いです。でもおそらく中学生たちの側から読んでいたろうと思います。まだまだ彼らの苦難はこの先も続くのでしょう。

 最後に「先生らしくない先生」、というのは現代日本では誉め言葉のようですね。

Aさんへ(メール2)
 返信、やや遅れがちですが、やはりいただいたメールを読んで、少し考え込んでしまうからでしょう。
 あなたは中学2年の頃、この小説を読んだとのこと。私が今読むのと、あなたがその頃読んだのとではずいぶん違いがあるでしょう。少し痛々しくも思います。

 "先生らしくない先生"という言い方が今は、ある種の誉め言葉だとは! これは現代の不幸ですね。
 またあなたは"教員"という人間が気に入らなかったとのことですが、私はおそらく教師になってから「気に入らなく」なったと思います。自分も含めておかなければなりませんが。

 私は、あなたによると、"先生らしくない先生"でもあり、"先生らしい(?)先生"のような感じもするとのこと。つまり両方の顔を持っている、と。
 なるほど、そうなんだろうなと私も思います。でも、おそらく本人は(私ですが)本人なりに苦労しているところだとも思います。私はあの臨採の先生にはなりきれませんので。

 手元にありますので、お貸しできます。

6FK:2008/09/22(月) 18:11:35

 『猫と針』(恩田 陸 新潮社 2008年 \1200)

 これは依頼されて書かれた戯曲。したがって全文、台詞とト書き。
 登場人物は男3、女2の五人。ただ名前がカタカナで書かれているので、意外と分かりにくいものとあらためて漢字の威力を思う。そして誰が女性であったか覚えられないので何度「登場人物一覧」を見なおしたことか。

        *

 見られていることでしか自分の存在が確認できなくなっちゃうんだろうね。
(P.74)

【現代人はそのようになってしまっているのかもしれない。自己顕示欲というほどのことはなくても。カラオケもそうかも。】

        *

 カネを払わなきゃ、人は他人の話なんか聞きゃしないよ。裏を返せば、それくらい人の話を聞くってのは重労働だ。(P.86)

【カウンセラーとか教師とかは、そういうことなのか。私自身、やはり仕事でなければ面倒な(?)人の話など聞かない?? おそらく。】

        *

 ファインダー越しに見たものを記録しなければ、それが自分の体験したことだと信じられなくなってしまった。(中略)残しておかなければ不安になる。
 残していないものは、ほんとうにあったことなのか分からない。映したものはとっておかなきゃならない。(P.101)

 手元にありますので、お貸しできます。

7FK:2008/09/23(火) 11:35:57
 
 『宵待の月』(鈴木英治 幻冬舎 2007年 \600)

 なかなかハードな本格的な時代小説である。つまり読むのに苦労するくらいしんどい重い内容である。

 主人公は氏の造型した魅力的な30歳前後の男性・深見半兵衛。出抜(すっぱ)つまり忍者というかスパイというか。その里でともに住む家来たちを引き連れて戦う者である。
 著者の地元ということもあり、ここでも駿河・今川氏が中心人物であり、最終的に例の今川義元が家督を相続しこれから戦国時代を生きていくというところで終わる。ただ彼自身はほとんど名前だけしか出てこない。氏の作品の『義元謀殺』の約30年前、義元18才頃の話である。

 戦国の世の非情さ・無益な戦いと多くの人びとの死、そういったものが描かれていて、読んでいてなかなか辛いものがある。肉弾戦の殺し合いをしなければならない時代というのは嫌なものだ。なのに今の人たちにはそういったところが「面白い」として人気があるのは、皮肉なことだ。
 とまれ『義元謀殺』・『血の城』に続きなかなかの時代小説・歴史小説といえるだろう。

 手元にありますので、お貸しできます。

8FK:2008/09/24(水) 16:55:15

『さよなら、そしてこんにちは』(荻原浩 光文社 2007年 \1500)

 1999年から2007年までの7短編を集めたもの。
 帯に「世のため、人のため、そして家族のため、働き者の悲哀を描く、著者独壇場の傑作集」とある。そのとおりだろう。

 ちなみに他の6編の題名は、「ビューティフルライフ」「スーパーマンの憂鬱」「美獣戦隊ナイトレンジャー」「寿し辰のいちばん長い日」「スローライ
フ」「長福寺のメリークリスマス」。

 この題名からでも、読んでみたくなるではありませんか! ユーモア小説です。

9FK:2008/09/25(木) 22:51:48

 『おひとりさまの老後』(上野千鶴子 法研 2007年 \1400)

 専門的な本を除き、上野氏の本は読みやすく・考えさせられることが多い。この本も切実な老後のことでいま読んでおいて良かったと思う。
 はじめこの題名の「おひとりさま」というのが、どうにもなじまなかったのだが、途中まで読んできてようやく、ああ、あの「おひとりさま」か、と気づいた。たとえば食事でお店に入ったとき人数を聞かれるあの「おひとりさま」だ。 

 ということで私たちはみな、最後は「おひとりさま」になる可能性があるということ。もちろんいまシングルの人は、まさしく「おひとりさま」なのだが、配偶者やパートナーがいる人でもいずれ片方が死んでいき、「おひとりさま」になるのだ。
 そんなわけでこの本はけっしてシングルの人だけのための本ではないということだった。



 ひとり暮らしの基本のキは、ひとりでいることに耐性があること。(中略)しーんとした、だれもいない空間で好きなことに集中できる時間ほど、至福の時間はない。(P.103)
【世の中にはこの耐性がない人の方が多いような気がする。すぐに群れたがる。
最後はみんな孤独なのに。】


 友人をつくるには努力もいるし、メンテナンスもいる。ついでに言っておくと、メンテナンスのいらないのが家族、と思っている向きもあるようだが、これは完全なカンちがい。家族のメンテナンスを怠ってきたからこそ、男は家庭に居場所を失ったのだ。ほうっておいても保つような関係は、関係とはいわない。無関係、というのだ。(P.106)

「職場に友だちができません」と嘆くひとがいるが、職場には友人は求めないほうがよい。同僚のあいだに友人を求めるのは最後の選択肢。(P.107 職場に友人はいなくてけっこう)

「老いるとは、ほかのひとびとから忘れ去られていくということ」と言ったひとがいる。(P.125)

 喪失の経験がつらいのは、同じ時間と経験を共有しただれかが、その死ごと記憶をあちら側へ奪い去ってしまうから。(P.126)

 二村ヒトシさんの『すべてはモテるためである』には、“居場所探し”をするさみしいひとに向けたきわめつきのせりふがある。いわく、“あなたの居場所”とは「ひとりっきりでいても淋しくない場所」のこと。(P.131)

 アウトドアの楽しみの理由のひとつは、わたしを受けいれてくれる大自然があること。もっと正確にいえば、人間を受けいれるでも受けいれないでもなく、ただ自然がそこにある、という圧倒的な事実に接することだ。(中略)「自然がいいのはね、わたしに関係なくそこにある、っていうことよ」(P.135)

 丁寧語は、相手とのあいだに距離を置く技法である。丁寧語を使いつづけるかぎり、「わたしはあなたとこの距離を詰めるつもりはありませんよ」というメッセージが伝わる。これを社会学の用語で「儀礼的距離化」という。(P.206)

 介護には、どこまでやればじゅうぶんという制限のなさ、つまり「無限定性」という性格がある。家族なら背負ってしまいかねないこの介護の「無限定性」に、時間や内容で制限をかけているのが「仕事」としての介護だ。それを利用者も介護者もきちんとわきまえる必要がある。(P.207)
【ここでの介護を教師の仕事に置き換えてみればいい。私たち教師の仕事もうっかりするとその「無限定性」という罠に陥りがちだ。してはいけないことにまで、手を出してはいけないことにまで介入してしまうのだ。】

 ひとは死んで、残った者に記憶を残す。そして記憶というのは、それをもったひとが生きているあいだは残るが、そのひとたちの死とともにかならず消えてなくなる運命にある。(P.234)

 不滅のモニュメントや歴史を超えて名を残したいと思うひとびとの気が知れない。生きているあいだによほど不完全燃焼があったのだろうか、と同情してしまう。(P.235)

 どうも世の中には「正しい死に方」と「正しくない死に方」というものがあるらしく、孤独死は「正しい死に方」には入っていないようだ。(P.236)

 ひとは生きてきたように死ぬ(P.246)【これはまだ分からないけど、そんなような気がするのだ。】

           手元にありますので、お貸しできます。

10渦森六郎:2008/09/26(金) 10:36:11
「夜は短し歩けよ乙女」(森見登美彦 2006年 角川書店 ¥1500)

腹立つくらいに色々なところで好評なので、今さら紹介しなくてもいいかと思われたが、なんだかんだで好きな本なので紹介する。

京都にある某国立大学に通う男「私」が、同じ大学のサークルの後輩「黒髪の乙女」に恋をする、という話。そして「私」は「黒髪の乙女」と「偶然」会うために京の街を駆け回るのだ(要はストーカー)。
しかし、二人のまわりには様々な変人がウヨウヨしており、二人は何かと奇妙な騒動に巻き込まれたりしていく。そんな騒動の果てに「私」は「黒髪の乙女」の心をつかむことができるのか!?

この小説の最大にして唯一(?)の魅力は、「黒髪の乙女」のかわいらしさにある。よくぞここまでかわいらしいヒロインを生み出したものだ、と森見の願望描写力に感嘆した。いや、もちろん他にも面白い人間は出てくるのだが、とりあえず「黒髪の乙女」だ。このヒロイン像は新しい。ぜひ一読あれ。

11FK:2008/09/26(金) 15:39:04

 『のぼうの城』(和田 竜 小学館 2007年 \1500)

 子どもから勧められて。たしかに上手い。読ませる。そして人物造型がいい。豊臣秀吉による小田原攻めの一環として攻められる小城・忍(おし)城が舞台。
 この小田原攻めで唯一落城しなかったこの小城が主人公とも言える。その城代が魅力的ということになるのかも。「のぼう」意味は読み進めていくうちに分かるようになっている。
 ということで魅力的な戦国時代物として仕上がっている。これからも注目か。


 この侍どもは、いざとなれば百姓を楯にして自分だけは命を永らえる、そんな奴らなんだ。百姓の命など、虫けらほどにもおもっていない奴らなんだぞ。(P.109)

「武ある者が武なき者を足蹴にし、才ある者が才なき者の鼻面をいいように引き回す。これが人の世か。ならばわしはいやじゃ。わしだけはいやじゃ」(P.141 城代・長親)

手元にありますので、お貸しできます。

12FK:2008/09/27(土) 17:29:25
 
 『木漏れ日に泳ぐ魚』(恩田 陸 中央公論新社 2007年 \1400)

 前作の『中庭の出来事』同様の手法を感じさせる。若い男と女の主人公たちの話では『夜のピクニック』があり、本作はも
う少し歳がいった男女が主人公である。そして、家族のこと。
 ――これ以上言うと読む楽しみが減じてしまうだろう。中味については何も知らずに読みだすのがいちばん良い。

 この著者の感性が光る言葉がいくつも散見され、頷かされる。

 現実の世界で、何かの終わりが劇的であることなどめったにない。大概はぼんやりとしてはっきりしない、冴えない結末が待っている。(P.243)

 朝はいつも何かをあきらめさせる。私たちの逡巡に、迷いに、決められない何かに引導を渡す。朝の光は、時間切れの合図だ。(P.254)
 
 手元にありますので、お貸しできます。

13FK:2008/09/29(月) 11:00:00

 『さよならバースディ』(荻原 浩 集英社 2005年 \1600)

 なんともやるせない。(しかし、いい材料を小説にするものだと感心。)
 人間が他の動物を好きなようにいらうことの危険性! 道義的にもしてはいけないことなのだ。人間に対しても、他の動植物・非情の生命体も含めすべてに対し。
 科学的にはどうなのか分からないが、やはり馬のハンスと同じことなのだろうか。このボノボの場合も。

 それにしても愛するということは、その最後まで面倒をみなければならないということ、と切実に思う。そして、それができないと分かっているなら、やはり手を出すべきではないのだろう。

 手元にありますので、お貸しできます。

14FK:2008/09/30(火) 21:54:40

 『光の帝国 常野物語』(恩田 陸 集英社 2000年 \495)

 恩田陸作品を初めて読む。担任してた生徒さんからの紹介。恩田ファンのホームページを見ると人気投票の第二位に入っていた。まずは正解の読み始めということのようだ。そして実際読んでみて、なかなか大したものだと思った。

 輪廻転生という言葉があるが、そんな人、あるいはここでは一族の生まれ変わり生まれ変わりを描いている。その一族は今のたいていの人には失われてしまっている(と私は思う)才能や特異な能力を発揮する。そのための「利用される」という不幸な目にもあうのだが。

 短編連作集の形式を取るが、中にはもっとそれだけで読んでみたいと思わせる内容を持つものもあった。それは著者自身もあとがきで言っているが、その通りだ。

 手元にありますので、お貸しできます。

15FK:2008/10/01(水) 22:30:38

 『やっぱりあぶない投資信託』(水沢 渓 三五館 2006年 \1100)

 金融・証券・保険の世界は、政府や経済界あるいはアメリカなどの意向に左右されることが多く(P.12)【当然のことだろう。】

 投信の運用先の株式に、クズ株といわれる扱いに困る株を混ぜてわからなくしてしまう(中略)証券会社の社員は「投信はゴミ箱」だと言っている(P.1
6)
【どこまでいっても庶民は、ゴミでありクズ扱いなのだ。そんなことは立場を代えてみればすぐ分かることなのだが、われわれは大事にされているように錯覚している。】
【日本で投信が作られたのは1941年で、設立の目的は戦局が不利になっていく中でも株価が下がらないよう、つまり株価維持のために投信で集めた金で株を買い支えすることにあったとのこと(P.46の記載から)。
 そんな生い立ち(?)があったとは! むべなるかな、か。】

 日本の商習慣自体が強者の脅迫的強要の上に成り立っている(P.90)【これは日本社会の特色を見事に言い表している、と思う。】

 「うまい話には裏がある」は、私の長年の経験からしても真実です。また、友人とか同窓生などの話はまず当てになりません。(P.94)

 金融商品をすすめる人がどんなに親しい人でも、「おまかせします」は禁句。すすめる側にはつねにノルマが課せられていて、客のためにすすめるのではないことを知っておくべきです。残念ながら、親や子の場合でさえ信用できないのがこの世界なのです。(P.97)
      *
 1000万円投資術(P.102)
1.減らしたくない(元本を確保しておきたい)→貯金がベスト(500万円)/国内大企業の社債(500万円)
2.多少のリスク覚悟で→株式投資(500万円)
3.リスクの少ない運用→貯金(700万円)/外貨預金(200万円、ユーロ)

 手元にありますので、お貸しできます。

16FK:2008/10/02(木) 22:06:21

 リサイクル図書市民無料配布のご案内
 
時 10/3--10/5 10時〜4時
場所 西宮中央図書館 2階集会室
提供予定冊数 15000冊 
一人あたり 午後1時までは10冊まで
  午後1時以後は制限なし

17FK:2008/10/04(土) 22:08:25

 『笑酔亭梅寿謎解噺』(田中啓文 集英社 2004年 \1800)

 落語のネタにちなんだ短編集。竜二という若者の成長小説でもあるか。
 ネタでは「平林」が懐かしかった。というのもこれだけは父から聞いていたから。「たいらばやしか、ひらりんか......」と。
 あと「時そば」「子は鎹」等々でちょっとしたミステリータッチにも仕立ててある。それはあたかも「名探偵コナン」の毛利小五郎のような感じで。おもしろく、またホロリともさせられる。そして古典落語の啓蒙になっているわけだ。やはり落語、勉強しようと思わせられる。(図書室にあります)

 『笑酔亭梅寿謎解噺2 ハナシにならん!』(田中啓文 集英社 2006年 \1800)

 シリーズ第2作。無茶苦茶な話だが、面白い。落語についての私の無知はどうしようもない、と気付かされる。今さら手遅れだが。
 それと噺家というのは、音楽で言う「演奏者」なのだと初めて気付かされた。そしてなるほどと思った。曲にあたるネタはいくつも既に伝統芸能としてあるわけで、これもクラシック音楽と同じである。それをどのように演奏するかが演奏者に問われているわけだが、まったく同じことが噺家の場合でも言えるわけだ。遅まきながら今頃気がついた次第。(手元にあります、お貸しできます)

 『笑酔亭梅寿謎解噺3 ハナシがはずむ!』(田中啓文 集英社 2008年 \1800)

 第三作。久しぶり。しかし、相変わらずおもしろく、かつ泣かせる。
 今回の話題では「襲名」というのが出てくる。やはり大事(おおごと)なのだろう、この世界では。これをめぐって面白い話になっている。
 あと、所詮は「センス」か、と思わせられるシーンも。何事も努力である程度まではいけるのだが、最後の最後はそのことにセンスがあるかどうかにかかっているようだ。自分のセンスがどこにあるかを探し続ける必要があるようだ。
(手元にあります、お貸しできます)

18FK:2008/10/06(月) 20:08:24

 2005/4/23(土)『神様からひと言』(荻原 浩 光文社 2005年 \686)

 お客様は神さまです、とは有名な歌手の名文句であった。主人公は会社のクレーム受付係。さあどんなクレームが出てくるやら。
 
 文章も上手く、中身もなかなかに泣かせる。若干、下品な用語も出てくるが大人向けゆえ仕方がないか。面白いのでおすすめ。

 手元にありますので、お貸しできます。

19FK:2008/10/07(火) 22:25:33

 『手習重兵衛 闇討ち斬』(鈴木英治 中公文庫 2003年 \648)

 シリーズ第1作。主人公が「手習」つまり寺子屋の先生というわけで23歳の青年(元武士?)といったところ。笑顔がよくて子どもたちから好かれる、という設定。同年代の武士も登場するが、彼がその相棒(?)となるかは、まだ分からない。

 『手習重兵衛 梵鐘』(鈴木英治 中公文庫 2004年 \648)

 シリーズ第2作。オムニバス風にいろいろな人物やエピソードが紹介されてあり、ややとまどうところも。
 どうしようもない無法者はその村なりで、私刑に処していた実態が実際にあったと思うが、そのような話がこの書名にもなっている「梵鐘」。この場合の私刑は処刑であったが。
 ヒューマニズムが通用する時代ではなかったということでもあるか。そのような恩情は社会が食べるに事欠かない余裕のある社会ではないと無理だということか。

 『手習重兵衛 暁闇』(鈴木英治 中公文庫 2004年 \648)

 シリーズ第3作。今度は長編。主人公の過去が分かってくる。いろいろと伏線や新たな人物も登場し、これからのシリーズ化に備えているようでもある。楽しみだ。

 『手習重兵衛 刃舞』(鈴木英治 中公文庫 2004年 \648)

 シリーズ第四作。このシリーズで会話の面白さが引き立つのは同心とその中間とのやりとり。これが一貫しているのだが、今回はその女性版も登場し笑わせる。

 『手習重兵衛 道中霧』(鈴木英治 中公文庫 2005年 \648)

 シリーズ第5作。相変わらず会話の掛け合いは秀逸で、実におもしろい。これだけでも読む価値あり(?)。
 そろそろ話も終わりに近づいてきた。故郷・諏訪への道での事件が中心となる。

 『手習重兵衛 天狗変』(鈴木英治 中公文庫 2005年 \648)

 ついにシリーズ最終巻。掛け合いは面白く、これでお別れ(?)かと思うと寂しさを感じる。とうとう終わってしまった。事件が解決すればもう仕方がないのだが、あと江戸に戻ってからの話を書き継いでくれればとも願ってしまう。

20FK:2008/10/08(水) 22:18:41

 『小袖日記』(柴田よしき 文藝春秋 2007年 \1524)

 タイムスリップして現代に生きる女性が1000年前・平安時代の紫式部のもとに行くことに。「小袖」といわれた女性と入れ代わって。
 この趣向は荻原浩の『僕たちの戦争』と同じ。あと宮部みゆきの『蒲生邸事件』も思い出す。
 小袖が仕える「香子」(こうし)が『源氏物語』を書く際のネタ集めをするという設定。だから本当の『源氏物語』を知っていればもっと面白く読めたか
もしれない。――プロローグ・夕顔・末摘花・葵・明石・若紫の5章とエピロ
ーグからなる。

 手元にありますので、お貸しできます。

21FK:2008/10/09(木) 20:54:19

 『怠ける権利』(ポール・ラファルグ 田淵晋也訳 平凡社 2008年)

 一日三時間しか働かず、残りの昼夜は旨いものを食べ、怠けて暮らすように努めねばならない。(二 労働の恵み)
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 資本主義文明が支配する国々の労働者階級はいまや一種奇妙な狂気にとりつかれている。その狂気のもたらす個人的、社会的悲惨が、ここ二世紀来、あわれな人類を苦しめつづけてきた。その狂気とは、労働への愛情(一 災いの教義)
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 一日に十二時間の労働、これぞ十八世紀の博愛主義者たちの理想とは。なんとわれらは最後の一線を踏み越えてしまったことか! 現代の工場は労働大衆を幽閉し、男のみならず女子供にも、十二時間から十四時間の強制労働を課する理想的な懲役施設になったのである。(二 労働の恵み)
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 「貧しい国家とは、とりもなおさず国民が裕福な国家である。富んだ国家とは、国民が一般に貧しい国家である」(トラシー)(二 労働の恵み)
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 働け、働け、プロレタリアート諸君。社会の富と、君たち個人の悲惨を大きくするために。働け、働け、もっと貧乏になって、さらに働き、惨めになる理由をふやすために。これが、資本主義生産の峻厳な法則なのだ。(二 労働の恵み)
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 現代の軍隊の性格については、もはや誰も幻想を抱いていない。それは「国内の敵」を鎮圧するためにのみ常時維持されてきたのだ。(三 過剰生産のあとに来るもの)
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 一年分の労働をなぜ六ヶ月で貪欲にむさぼり尽くそうとするのか。なぜそれを十二ヶ月に均等に配分し、六ヶ月十二時間労働の消化不良をおこす代わりに、すべての労働者が年間一日、五時間ないし六時間で満足するように仕向けないのか。(三 過剰生産のあとに来るもの)

 手元にありますので、お貸しできます。

22FK:2008/10/10(金) 20:08:11

 『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』(武田邦彦 洋泉社 2007年 \1000)

 本当にこの書名の通りのセリフが口について出てくる。いや、もちろんそれは答えは簡単。儲けるためなのだが。
 人は儲けるためなら、このように世界中(?)を巻き込んだ大嘘を作り上げるのだ。もちろんかなりの投資もしていることだろう。しかし、それ以上に大儲けしているのは間違いない。
 こんな似非科学に騙されるとは! しかし、騙されないようにする方途がいまの教育では欠如しているわけだ。

 手元にありますので、お貸しできます。

23FK:2008/10/11(土) 13:06:20

 『家日和』(奥田英朗 集英社 2007年 \1400)

 短編集。夫婦中心の話が展開するが、まあ「家族」がキーワードか。
 「家(うち)においでよ」などを読むと、ああ、われわれの夢はこれだったのかもしれないな、と思うのだった。考えようによってはちっぽけな夢で、やや哀しくもなるのだが、所詮、願うところはそんなものなのだ。そしてやはりと言うべきか、過去への回帰・ノスタルジー。それを夢見させてくれる短編がこれであった。

 あと、インターネット・オークションの魔性というか、中毒をおもしろおかしく描く「サニーデイ」、倒産のおかげで主夫業となってこれが実はあってたようだと知ることになる「ここが青山」。夢は夢でも主婦が夜見る夢を描くのが「グレープフルーツ・モンスター」、現実のあり得ないという意味での夢のような生活を描く「夫とカーテン」。最後にこれまた強烈な皮肉をきかせる「妻と玄米御飯」、もっともこれは家庭の平和のために取り下げることになるのだが。
 ということで軽く面白くさっと読める短編集であった。

 手元にありますので、お貸しできます。

24FK:2008/10/13(月) 06:38:18

 『歳月』(茨木 のり子 花神社 2007年 \1900)

 今回は詩のおすすめ。
 氏の遺稿集。生前は恥ずかしいということで出版されなかったようだが、実にそのとおりのラブレター集、いや詩集である。
 言葉と言葉の間に大きなふくよかな時空間があって、豊かな気持ちにさせてくれ、しかも亡き夫への無上の愛情が感じられる。本当に幸せな人であったのだろう。
 
 他にも何冊か氏の詩集があります。お貸しできます。

25FK:2008/10/14(火) 06:27:32

 『義元謀殺』(鈴木英治 角川春樹事務所 2000年 \1900)

 上下二巻の長編だが読みやすく面白くドンドン読み進む。氏の作品を読むのは初めて。森村誠一のエッセイ集でその名前を見、その翌日だかに図書館で返ってきた本の棚にこの「下巻」を見つけたので、これも縁かと思い上下二巻を借り出してきた。

 今川と織田、そして武田もからんでの戦国模様を背景にした小説。基本的には織田方から今川方に寝返った武将を義元が暗殺したことから始まる。もちろん義元が疑心暗鬼で殺させたわけだが、その背景には織田方の情報操作があったようだ。さて、その仇討ちという形とあわよくば敵将今川義元を暗殺できれば、ということで集団による殺戮戦が始まっていく。
 この剣戟もリアリティがあり、なかなかに残酷で凄まじいものがある。

26FK:2008/10/15(水) 21:03:53

 『アトピーは合成洗剤が原因だった!』(磯辺善成 メタモル出版 2007年 \1400)

 結論は「界面活性剤」のなせるわざということだ。天然の石けんもダメ、言うまでもなく合成洗剤(洗濯用・ボディソープ・シャンプー・リンス)も絶対ダメということ。

 界面活性剤が皮膚の脂をはぎ落とし、皮脂膜を破壊してしまう(中略)皮脂の膜をはぎ取ったら、さらには表皮の細胞にも取りつき、細胞内のタンパク質を変性させながら、連鎖反応的に次々に細胞を破壊していきます。つまり、浸透と乳化作用を次々にくり返しながら、どんどん体内に入り込んでいくわけです。(P.41)

 つまり皮膚の表面を保護している脂分を界面活性剤が乳化作用で分離し、はぎ落としていくというわけだ。紫外線から守るためにメラニン色素がどんどんできて皮膚が黒くなるのもそう。
 分かってしまえば簡単なことなのだが、実はまだ医学界では定説ではないようだ。やっかいな病気だと思っていたが、根本原因が合成洗剤だとすれば、これはまだ歴史の浅い現代病、しかも作られた病気ということだ。

 手元にありますので、お貸しできます。

27FK:2008/10/16(木) 21:33:22

 『赤ひげ診療譚』(山本周五郎 新潮文庫 1995年 \466)

 「かれらにはなんでもできるのだ、どんな無法なことでもどんなに残酷なことでも、幕府の名をもって公然と押しつけることができる、そして現にそのとおりやっているんだ」(P.90)
【去定・赤ひげの義憤。ここでは江戸幕府だが、歴史を眺めればいつの時代でもこれが実態だ。もちろん今も、形を変え、より巧妙に。】

 平吉はそこでにやっと笑った。「――いつか赤髭先生がおれに云ったっけ、おれがやけ酒を飲みすぎて、妙な物を吐いてぶっ倒れたときだ、先生はこんなおっかねえ顔をして、病気になるほど飲む金があるんなら、ちっとは女房子のことも考えろってな、冗談じゃねえ、ええ、先生は外側からおれのことを見るからそんなことが云えるんだ、おらあそ云ってやった、いっぺんおいらのような人間の心のなかへへえってみてくれって、……(P.112)
【赤ひげのように、かなりできた人物だとしてもこのよう有り様なのだ。私たちはこのような場合、まずは月並みなお説教をまず垂れてしまう。そしてそんなことを当人は百も承知なのだ。言葉が上滑りして、本人には届かない。反発されるのがオチだ。あたまではそのように分かっていても、ついつい、言ってしまう。】

 この世から背徳や罪悪を無くすることはできないかもしれない。しかし、それらの大部分が貧困と無知からきているとすれば、少なくとも貧困と無知を克服するような努力がはらわれなければならない筈だ。
 「そんなことは徒労だというだろう。おれ自身、これまでやって来たことを思い返してみると、殆んど徒労に終わっているものが多い」と去定は云った(P.183)

 人間のすることにはいろいろな面がある。暇に見えて効果のある仕事もあり、徒労のようにみえながら、それを持続し積み重ねることによって効果のあらわれる仕事もある。(P.184)

28渦森六郎:2008/10/17(金) 21:23:25
『春期限定いちごタルト事件』(米澤穂信 創元推理文庫 2004年 ¥580)
『夏期限定トロピカルパフェ事件』(同上 同上 2006年 ¥571)

なるべく目立たず平凡に「小市民」として生きることを目指す高校生、小鳩くんと小佐内さん。しかし、2人のまわりでは何かと謎めいた事が起こる。2人は、小市民を目指しつつも、それらの謎にまきこまれたり、自分から首を突っ込んだりしていく…。
題名のとおり、お菓子も絡んだミステリの短編連作集。人物造形は、可愛らしく、奥行きがある。文章は、さらっと読みやすい。伏線の張り方もうまい。とくに、「夏期…」の最後の場面には、けっこうやられた。読んでいる間の楽しさと読後の余韻の両方が、しっかりしている作品だと思う。

29FK:2008/10/18(土) 10:27:06

 いろいろみんなに紹介してもらえるのはうれしいことです。特に「大人」になってしまうと、ちょっと目にとまらない・入ってこない種類の本があるわけです。今回の渦森氏の本はまさにそれで、いま聞かなかったら一生知らずに終わったかも知れません!
 早速、図書館に予約を入れておきました。

30FK:2008/10/19(日) 19:26:20

 『千年樹』(荻原 浩 集英社 2007年 \1600)

 もっと一気に読んでしまえば良かった。時間がなかったせいで切れ切れに読んだので、その面白さを十分に味わえなかった憾みがある。

 何とも不思議と言えば不思議な話だ。一本の巨樹のまわりで一千年のスパンで繰り広げられる人間のドラマ、といったところか。
 言われてみたら理解できないわけはないのだが、あらためて考えてみたら、そういうことなのだなと思わせられる。つまり一つの場所でも長い時間のスパンで見れば、そこには様々な人間が生活を人生をそこで繰り返してきたのだ。悲劇も喜劇もそこにはあったことだろう。
 面白い趣向の小説であった。

 手元にありますので、お貸しできます。

31FK:2008/10/20(月) 21:32:14

 『読書からはじまる』(長田 弘 NHK出版 2001年 \1500)

 「本の文化」を深くしてきたものは、読まない本をどれだけもっているかということです。(P.6)
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 いい本というのは、そのなかに「いい時間」があるような本です。(P.8)
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 人間は、自分の背中を見ることができません。他人の背中は見えますが、自分の背中は見えないのです。自分では見えないものを背負って生きているのが、人間です。ところで、本には背中があります。.......(P.25)

【話は本のことなのだが、そこには人生論も出てくる。人生と読書とは深いかかわりがあるのだから当然のことか。
 まずは人生のこと。背中は見えないから毎日平気の平左で、厚顔な生き方をしているのかもしれないな、と思う。誰かに言ってもらわなければ、わからない。もしその誰かがいなければ、それを本に、読書に求めることができるということだろう。
 家ででも、書店ででも基本的に私たちは本の背中を見て選書している。その意味では背中というのは本当に大事なものだ。しかし、本の場合、平台に積まれたりして表紙が見えているとこれがまた違ってくる。どちらが効果的なのかは明らかだ。書店では売りたい本をこそ平台に山と積んでいるのだから。買う側からすれば、うかうかとそれに乗らされないように注意しなくては。】
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 忘れられない本があるというようなことを言います。...人間は忘れます。だれだろうと、読んだ本を片っ端から忘れてゆく。中身をぜんぶ忘れる。
....べつに人間が呆けるからではないのです。読んでも忘れる。忘れるがゆえにもう一回読むことができる。...忘れたらもう一回読めばいいという文化なのです。(P.27)
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 本は一度読んでも取っておく。なぜか。忘れるからです。その本がそこになくなれば、読んだことだって忘れてしまいます。...本の文化というものを自分のなかに新鮮にたもってゆくために、つねに必要なことは、そういう再読のチャンスを自分で自分にあたえてやる、ということです。(P.29)
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 読書のためにいちばん必要なのが何かと言えば、それは椅子です。...本を読むときに自分で自分にいちばん最初にたずねることは、その本をいつ、どこで読むか、本を読む場所と時間です。それが、その本をどんな椅子で読むか、ということです。(P.35)

 手元にありますので、お貸しできます。

32FK:2008/10/21(火) 21:38:08

 『イキガミ 1−5巻』(間瀬 元朗 小学館 ) 2008年10月21日 (火曜)

 マンガ。映画「イキガミ」の原作。アマゾンで中古セットを購入して読了。
 映画化されたのは1,3巻のエピソードであったことがわかる。
 しかし泣かされる。ふと5巻の帯を見ると「いま、一番泣ける物語!!!」とあり、ちょっとくやしい。ま、マンガで泣かせられるのは、最近ほかに記憶がない。
 一体、なぜ私は泣けてしまうのか。またじっくり考えてみたい。まずはくどくど紹介せずに、一読あれ! ということで。
 当然、お貸ししますので。なおノベライズしたものも現在注文中です。

33FK:2008/10/22(水) 22:28:18

 『表札など』(石垣 りん 童話屋 2000年 \2000)

 1968年、著者48歳の第二詩集。

旅情

ふと覚めた枕もとに
秋がきていた。

遠くから来た、という
去年からか、ときく
もつと前だ、と答える。
おととしか、ときく
いやもつと遠い、という。
(以下略) (P.26)



幻の花

庭に
今年の菊が咲いた。

子供のとき、
季節は目の前に
ひとつしか展開しなかつた。

今は見える
去年の菊。
おととしの菊。
十年前の菊。
(以下略) (P.36)

 手元にありますので、お貸しできます。

34FK:2008/10/23(木) 21:06:35

 『あてになる国のつくり方』(井上ひさし 光文社 2002年 \1300)

 今は、何を食うかより、何を食わないかが大事な時代になっているのです。(P.71 山下惣一)
【これまでは「何を食べるか」が問題だったが、今は何を避けるか・食べないかが問われる時代となった。無知では知らないうちに健康を害し、寿命を縮めることになってしまう。こんなことは政府や行政機関にお任せしておくのが気楽でいいのだが、幸い日本では私たち一人ひとりが自らチェックしなければならないということだ!?】

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 まず基本は、百姓として家族が食べるものを作る。それを、少し多めにに作って、売れればさらに作る。売れなきゃ作らなければいいだけの話ですから、倒産なんかするわけがない。(中略)なければしないで、自分の本来の仕事をすればいい。つまり、ビジネスではなく暮らしの延長としてやる。これは、大変な強味です。(P.115 山下惣一)

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 よく話を聞き、インターネットで情報をチェックして、なるほど寄付してもいいなと思えたら、寄付をお願いいたします。そして寄付したものがどのように使われたかの説明をNGOに求めることもNGOのパートナーとしての大事な仕事です。納得したらまたその団体に寄付をしていただければと思います。(P.286 井出 勉)

 手元にありますので、お貸しできます。

35FK:2008/10/24(金) 22:13:38

 『室町少年倶楽部』(山田風太郎 文藝春秋 1995年 \1500)

 この本は二編からなる。「室町の大予言」は足利義教、「室町少年倶楽部」は足利義政を主人公にしたもの。

 氏は義政にこう言わしている。

 「そもそもわしは、あのような普請や行事、それほど天下のために悪いことをしたとは思わぬ。この悪天、飢饉、土一揆など相ついでやまぬ世に、将軍たるものがどこにおるかわからぬような存在であって見よ、民の不安はどれほどか。そこにあのような猿楽見物、花見物、寺社参詣、大普請を行えば、民は安心いたす。下々の仕事もふえる、泰平のありがたさも眼に見える。景気もにぎやかになろう。――」(P.212)


【やりたい放題を非難したいのだが、もっともな事を言っているので、かえって説得されてしまいそうだ。もう一つ。】



 どうしてこんなことになってしまったのか。なぜわれわれはこんなに変わり果てたのか。いや、人間はどうしてこんなに変わるのか?(中略)「わしだけは変わらないぞ。わしだけが正気だ! それがわからんか。……」と、つぶやいた。――このとし、応仁元年。(P.248)



 本当の義教や義政はどんな人間であったろうか。―― 教科書からは浮かび上がってこない人間像を描くのが作家の手腕であり、それを私たちは利用させてもらっていいのではないかと思う。

 手元にありますので、お貸しできます。

36FK:2008/10/25(土) 22:06:11

 『他人と深く関わらずに生きるには』(池田清彦 新潮社 2002年 \1300)

濃厚なつき合いはなるべくしない
車もこないのに赤信号で待っている人はバカである
病院にはなるべく行かない
心を込めないで働く
ボランティアはしない方がカッコいい
他人を当てにしないで生きる
おせっかいはなるべく焼かない
退屈こそ人生最大の楽しみ
自力で生きて野垂れ死のう
国家は道具である
働きたい人には職を

 日本の学校は、個人の自立を妨げるように機能しているとしか思えない。他人を当てにして、他人にものを平気で頼み、断られるとムカつくような人を育てているように思える。(P.73 他人を当てにしないで生きる)
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 人は、もはや逃げ場がないと悟った時に、進退きわまって自殺しかねない動物であるが、いざとなった時に逃げ場があると知っていると、逃げないで結構頑張れるものである。(P.94 自力で生きて野垂れ死のう)
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 本来、合理化と省力化が進めば、個々の労働者の労働時間を減らすべきなのである。それなのに、労働時間を減らさないで労働者の数そのものを減らしたわけだから、一企業にとっては合理的な行動でも、マクロにみれば失業者が増えるのは当然だ。(P.142 働きたい人には職を)
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 原則平等が保たれている限り、結果平等を一世代に限り、是正する必要がないという観点からは、所得税(とくに所得に対する累進課税)は間違っていると思う。大金持ちに対する税を極大にしなければならないのは、世代を継続する相続税と贈与税であって、所得税ではない。公正な競争で得た所得に対して税をかけるのは基本的に間違っている。(P.153 原則平等と結果平等)
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 民主主義とは国民をだまして、国民の自己決定の名の下に、自分たちに有利な決定をさせるための装置だと思っているのかもしれない。さらには、うまくいかない時は、札ビラで頬を引っぱたけば、なんとかなると思っているのだろう。(P.159 自己決定と情報公開)

37渦森六郎:2008/10/28(火) 00:16:23
『忍法八犬伝』(山田風太郎 講談社文庫 1999年 ¥714)

江戸時代に書かれた、有名な小説に「南総里見八犬伝」というのがある。室町時代、房総半島に一大勢力を築き上げた、里見家を支えた八人の勇者の話。今回紹介する本書は、その「南総」の室町時代から二百年後の、里見八犬士の子孫の話。山田風太郎が、勝手に八犬士ジュニアを作り上げてしまったというわけである。

江戸時代初期。徳川幕府の重臣、本多佐渡守は里見家を取りつぶそうと画策していた。そして、里見家に隠密を放つ。里見のバカ殿は、まんまと隠密の罠にかかり、家宝である八つの珠を奪われてしまう。この八つの珠は、ほどなく将軍に献上することとなっているもので、それが無くなってしまったとあらば、佐渡守の思うつぼ。御家取りつぶしは必定なのである。
というわけで、里見家存続のため、佐渡守の隠密に奪われた八つの珠を取り戻そうと、八犬士ジュニアたちが立ち上がる!……わけではない。この八犬士ジュニアどもは、里見家のことなんかそっちのけで江戸で遊び暮らしている男どもなのだ。別に里見家がつぶれようが、どうでもいいのである。バカ殿のために命をかける気なんか、さらさら無いのである。しかし、バカ殿の奥方、村雨姫がたった一人で江戸の彼らのもとへやってきた。彼らの力を頼みにきたのだ。この姫様は、里見家存続のために必死なのだ。村雨姫のことを密かに慕っている八犬士ジュニアたちは、八つの珠を取り戻すために立ち上がる!バカ殿ではなく、健気な姫のために。

面白かった。八犬士ジュニアたちと、本多佐渡守の隠密衆による息もつかせぬ忍術合戦はもちろんだが、村雨姫と、彼女をしたう八犬士ジュニアたちがなんとも個性的で可愛らしい。八犬士ジュニアたちが、主君のためなんかではなく、好きな女の人のために戦うというのも良かった。原典の「南総」は、わりと主君への忠義を謳っていた気がするのだが、なんだか、そういう封建主義的なガチガチの価値観に対する、山田風太郎の反発みたいなものも込められている気がした。

手元にあるので、お貸しできます。(そういえば、『夜は短し歩けよ乙女』『春期限定いちごタルト事件』『夏期限定トロピカルパフェ事件』も手元にあるので)

38FK:2008/10/28(火) 06:38:56

 何もかも忘れて読みふける、――そんな本が欲しいものです、読みたいものです。「八犬伝」はそんな一冊のようですね。
 昔、私が読んだものでは吉川英治の「三国志」・「太閤記」・「宮本武蔵」などを思い出します。時間を忘れて読みふけったものです。

39FK:2008/10/29(水) 22:13:36

 『ヴァギナ・モノローグ』(イヴ・エンスラー 白水社 2002年 \1500)

 池澤夏樹の書評を見て。
 題が題だけに若干の抵抗はあるが、良い本ではないかとの予感があった。間違ってなかった。まずは女性のための本であろうが、男性も勇を鼓して(?)読むべきだろう。小さな本で時間的にはすぐに読めるので。

 性とか快感とかを自然のままに見、感じて肯定できることは素晴らしい。しかも今の社会でこそ否定的に見られているが、過去の歴史を見れば人々がいかに大らかに性を謳歌してきたことか。その証明ともなる遺跡・遺品は少なくない。

 誰が何のために性を抑圧するのか。あらためて考えてみなければならない。そして性を自然に慈しみ楽しむことが、どんなに人間的なことかを知らなければならない。

 それにしても女性の性に比べ、男性の性のいかに貧困であることか、非平和的・攻撃的であることか。情けなく思う。

 手元にありますので、お貸しできます。

40FK:2008/10/30(木) 22:09:18

 『北海道の食彩<マッカリーナ>物語』(笠井一子 草思社 2005年 \1700)

 1999年の夏に偶然立ち寄ることのできたこのレストラン・マッカリーナの誕生のいきさつルポ。1997年の6月にオープンしたとのことだった。

 何も知らずに、こんな田舎にやや高めのフランス料理屋があると紹介され、予約も入れてくれ、行くこととなった。本当に偶然の積み重ね。

 そもそもは、まず一回目の羊蹄山行き(ピークハンティング)が成功していたら、マッカリーナはなかった。台風の影響で8合目で引き返し、もう一度ということで北海道旅行の最後に戻ってきたのが始まり。

 しかし、泊まるところがなく、その道沿いのペンション「シェーンベルク」は一杯(現代音楽の作曲家の名を冠するペンションなので、もし泊まれていたとしたらどうなっていただろう。ずっと彼の音楽が鳴り響いていたかも知れない、などと)、さらに道を進んでいきとうとう羊蹄山の登山口まで来てしまい、ついにそこにある自然の家で空きを尋ねたところオーケー。
 ただし食事がないということから、紹介してもらったのがマッカリーナ。

 明くる日は羊蹄山の再挑戦。今度は天候に恵まれ登頂。下りてきてマッカリーナ近くの温泉につかりながら、羊蹄山の姿を見ることができた。ただ閉口したのは、温泉から出たあとの暑さであった。この夏は北海道も異常に暑かったということが後からわかった。

 そんな思いでのマッカリーナの本であった。
 地元のできたての新鮮な野菜のおいしいことは、体験しなくては分からない。そんなメリットのあるお店であった。今度は宿泊して料理を味わいたい。

 手元にありますので、お貸しできます。

41FK:2008/10/31(金) 21:05:14

 『明日の記憶』(荻原 浩 光文社 2004年 \1500)

 読了して、感動でからだが震えた。終わり方の上手さ! 
 実に実に感心させられる。手練れというやつだ。

 主人公は50歳。若年性アルツハイマー!
 私はこう思っている。「死」は怖いとは思えない。それは想像力が及ばないからだろう。しかし、「アルツハイマー」は怖い。私にも十分想像あるいは想定できるからだ。いつまで私に「明日の記憶」が保証され続けるか。猛烈に不安になってくる。私にもいつ何時アルツハイマーは襲ってくるかもしれないのだ。
 身体の死はある意味こわくない。何もかもなくなるからだ。しかし、心の死、精神の死は想像するだに辛く、怖い。

「来年の正月も、こうして自分が自分であるままむかえられますようにと。」(P.221)
 主人公が備忘録をつけだすのだが、アルツハイマーの進行をあらわすようにその文章が誤字まじり、平かなまじりに変化していく。(P.145〜)

 そんな恐怖感を存分に教えられた。最後はどうなるのだろうと心配しながら、読み続けた。そして素晴らしい(?!)結末であった。有り得るオプションの中でもっとも素晴らしいそれではないかと思う。もちろん、家族にとっては大変なことではあるのだが。

 記憶が消えても、私が過ごしてきた日々が消えるわけじゃない。私が失った記憶は、私と同じ日々を過ごしてきた人たちの中に残っている。(P.320)

【これは死んだ場合もそうだ。人びとの記憶の中に残る。その時生きていたという事実は残るのだ。】

42FK:2008/11/01(土) 15:20:10

 『となり町戦争』(三崎亜記 集英社 2005年 \1400)

 これは一体、何なんだろう、との思いで読んでるうちに読了してしまった。
 戦争! 戦争って何? といった感じである。しかし暗喩とでもいうのか、何も分からないままに巻き込まれ、あるいは主体的に戦争に加担・参加していく様が不気味に描かれている。結局、戦争を遂行していたのかどうか、とくにこれという自覚もないままにその役割を果たさせられてしまっている。
 これが実に不気味なことであり、その巧妙さにたいていの私たちはだまされてしまう。その意味でも実に怖い。その怖さを気づかずに平気でいる私たちに警鐘を鳴らす小説なのであるかも知れない。そこまで著者が考えているかどうかは分からないが。
 それにしてもこのようなことを表現することのできる小説という形式は捨てがたいものだ、とあらためて思う。

「戦争という事業においても私たち行政の姿勢は変わりません。公平な事業の遂行によっても、それぞれの住民に起こりうる結果は様々です。(中略)ただ、戦争という事業には、必ず死者が発生します。戦争という事業を行った結果、それに伴う死が誰に生じるかはわかりませんし、それは、私たちの行政の関与するところではありません」(P.72)

【戦争も行政の一環、一つの事業として行われるという自明であったはずのことを、あらためて気づかされた。そうだったのだ。政治の失敗が戦争、という言い方はなされてきていたが、それでもなおかつ、戦争は行政のうちなのだ。】


 この複雑化した社会の中で、戦争は、絶対悪としてでもなく、美化された形でもない、まったく違う形を持ち出したのではないか。実際の戦争は、予想しえないさまざまな形で僕たちを巻き込み、取り込んでいくのではないか。その時僕たちは、はたして戦争にNOと言えるであろうか。(P.77)

【不気味である。誰かが気がついてそれを発言し続けてくれないと。警鐘を鳴らし続けてくれないと。】


「戦争も同様で、今、町は第七次五ヶ年計画に基づいて事業を展開していますが、戦争の計画自体は第三次五ヶ年計画から立案されていたと思います。」(P.147)

【真の目的を隠蔽しつつ、計画立案実施となるわけだ。やたら長い難解な文章はその真の目的を隠すための修辞である。】


「確かに二つの町は、お互いを敵として戦ってきましたが、それと同時に、別の視点から見れば、戦争という事業を共同で遂行したとも考えられます。となり町の協力がなければ、戦争を始めることも終えることもできないわけですから。それに、勝敗を判断するのは私たち行政体の役割ではありません。」(P.155)

【なるほど相手がいなければ喧嘩にならない。戦争にならないわけだ。ということは、戦争というのは二国間(またはそれ以上の)談合の結果ということか。そうだったのだ。戦争はビジネスなのだ。】


 考えてみれば、日常というものは、そんなものではなかろうか。僕たちは、自覚のないままに、まわりまわって誰かの血の上に安住し、誰かの死の上に地歩を築いているのだ。(P.193)

【そこまで感覚が鋭敏な人間は少ない。また、そうとは気づかないように仕向けられているのだし。】


 こうした、変わらぬ日常のその先にこそ、戦争は、そして人の死は、静かにその姿を現すのだから。(P.194)

【その時がやってきたら、もうすべてはお終いだ。手遅れだ。このこと、つまり戦争を起こさせないためには、先手必勝しかないのだが。私たちに何ができるのか?!】

 手元にありますので、お貸しできます。

43FK:2008/11/02(日) 20:36:24

 『僕たちの戦争』(荻原 浩 双葉社 2004年 \1900)

 現代のサーフィンをしていたはずの青年と、昭和20年戦争中の日本の特攻隊の青年とがクロスして...というお話し。宮部みゆきの『蒲生邸事件』を思い出させる。御菜情菜趣向を考えつくものだ。
 単純に娯楽として読むことができるのはもちろん、歴史とか戦争とかといったハードな内容をさりげなく私たちに教えてくれるの。絶品であった。
 なおテレビドラマ化されており、森山未來が主人公を演じている。(ビデオあります。)

44FK:2008/11/03(月) 21:16:47

 『話術』(徳川夢声 白揚社 2003年 \1800)

 徳川夢声――、どの程度この人のことを知っていたのか、すぐには思い出せない。今の世の中からしても、もう過去の人ということか。
 さて中身は予想通り。期待を裏切らず参考になることが多い。大いに勉強して、励まなくては。

 授業(といっても講義)は、「教室講演」ということになるようだ。


 ハナシに限らず、芸術と名がつくものには、音楽はもとより、美術、彫刻、文学、演劇、みんな「マ」が、重要な位置を占めています。目立たない、目に見えない重要な位置をです。(P.44)

 一言お断りをしておきますが、「間」というのは単に黙っている間というだけの意味ではありません。広く申すと全体のリズムのバランスの問題であります。(P.192)

【音楽なら休符。朗読でも何でもこの「間」が重要だ。生かすも殺すも「間」次第。
 そして氏の言うようにこれはバランス感覚なので、体得するのがまた難しい。センスの問題でもあるか。】

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「君が、現在一番楽しいことは何だ?」という質問を受けると、私は、「気の合った友人と、雑談をとり交わすことだ。」と答える。これはもう、よほど以前から、私の動かない答弁となっています。(P.53)

【これも手を打ちたくなるような内容。私にとっても楽しいこと、すなわち趣味としての「おしゃべり」は得も言われぬ快楽である。至福の味といってもいいものだ。】

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   知人関係の座談法(P.55)

 A・教養が深く見聞が広く、話題が豊富であること
 B・共通の話題を選ぶこと
 C・相手の話をよく聞くこと
  話の腰を折らないこと
  「マ」と気合いを外さずに
  話し手の眼を見ること
  何かしながら聞かないこと

【なかなかに難しそうだ。Aは努力目標。Bは少しの配慮があれば気が付く。
Cは当たり前のことなのだが、意外としていけないことをしている。】
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 客はすぐ目の前にいるから、表情や、眼の配りが、微妙になる。同時に、あまり大きな身振りは、ふさわしくない。
 客が鼻先に座っているから、自然、客席との交流が起こり、直接話法的な、親しみのある話術を生ずる。(P.161)
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 自分のお喋りに、あとで満足しきってるなんて人は、素人はいざ知らず、本職にはほとんどない。本職でそんなオメデタ人があるとすると、まず、その人の芸はなっていないと言ってもよろしい。(P.211)

 手元にありますので、お貸しできます。

45FK:2008/11/05(水) 21:27:32

 『宮大工千年の知恵』(松浦昭次 祥伝社 2000年 \1600)

目次
1章 雀と大工は軒で泣く ――鎌倉・室町に花開いた、日本的「美」の曲線
2章 木造建築に秘められた日本人の英知 ――なぜ古建築は千年の命を持ちえたのか
3章 「木の文化」は、なぜ衰えつつあるのか ――文化財を守る修理、壊す修理
4章 旅回りの「渡り棟梁」 ――古き良き“職人の世界”



 四角四面に計算してその通りに作っても、必ずしも心を落ち着かせるような建物ができるとは限らない。むしろ、微妙にバランスを崩したほうが、美しさと安らぎを感じさせるものができることもある。人間の目や意識の、そういう不思議さを熟知していたのでしょうね。(P.116)
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 江戸時代から『匠明五巻(しょうみょうごかん)』のようなマニュアル書まで出てきて、自分で工夫しなくてもある程度の仕事ができるようになった。材料にしても規格化が進み、仕事の仕方についても効率が最優先されるようになった。そうなった時、中世で成熟を迎えた「木の文化」は、衰退の坂道を転がり落ちていくことになったのです。(P.144)
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 仕事を覚えるのも見よう見真似。何も教えてくれない。それが昔の職人の教育法です。仕事は盗め、というやり方ですね。(中略)昔の職人が弟子に仕事を教えなかったのは、何も憎くて教えなかったわけではないのです。最初から何もかも教えてしまったら、自分で工夫するという知恵が出てこないからです。(P.182)

【よく教師を非難するときに使われるのが「分かりやすい授業」をしているか、というやつである。そもそもこの言葉の定義付けがまず曖昧なのだが、それがかえって非難をする側には好都合のようである。私たちは防戦一方となるしかない。
 しかしここで氏が言われているように、何もかも分かりやすく教えてしまったらお仕舞いなのだ。】

 手元にありますので、お貸しできます。

46FK:2008/11/06(木) 22:07:45

 『人生は、だましだまし』(田辺聖子 角川書店 2003年 \1300)

 〈苦労は逃げえ〉......苦労した人間は大成するというのは本当かどうか。
 劣化世代の人間としては、よくできた〈苦労人〉も見たが、苦労で人間が押しつぶされ、偏屈になり、片意地になり、ねじけてしまった人間も見た。(P.23)

 私はホンモノ、ニセモノを、〈オトナ〉か、〈オトナでない〉か、に分けて考えるのが好きだ(P.24)

 達観、というのは、心中、〈まあ、こんなトコやな〉とつぶやくことである。(P.44)

 そんならさいなら、の意味も込め、その奥に〈では運命のままにお別れいたしますが、これは私の本意ではございません。しかし、こと、ここに立ち到った以上、悪あがきして運命の流れをむりに堰きとめても詮ないこと、昔のたのしい思い出を胸に秘め、一生、忘れはしますまい。あなたさまも新しい未来に希望を持たれ、さらなる面白い人生に出会われますよう、お祈りします。たのしい時間を仰山もろうてありがとさん......〉
 これが煮つまって出てくるのが、〈ほな〉である。(P.154)

 女に言い勝ってはいけない。収拾つけようと思えば。(P.161)

 人生は〈捨てる〉ことにより、形を成しているのかもしれない。少なくとも人生で、〈捨てる〉ということは大きな意味をもつ。捨てたそれのない生活に堪えつつ、馴れてゆかねばならない。......
 人生の喪失感、というのは、味のあるものなのだ。(P.184)

【考えようによっては、人生とは〈捨てる〉ことの繰り返し、連続なのだ。その時その時に様々な思いを重ねつつ、それらを一つひとつ捨てていくことなのだろう。】

 人間には二つのタイプがある。一つはとっつきにくい人、一つはとっつきやすい人(P.210)

 現代では男も女も、〈話しかけやすい〉人柄、というのが望ましい。これはもう、むしろその人間の才能であろう。能弁である必要はないが、人がモノをいいたくなるような、柔和で安穏な雰囲気が、いつも、身のまわりをとりまいている男や女。(P.212)

 気ごころとは、あゆみ寄りのチエの成果である。(P.223)

 〈気ごころ知る〉ということは、かなりの人生的叡知がなくてはかなわない。
人間の五官、感性を総動員して、感知しなければいけない。(P.225)

 手元にありますので、お貸しできます。

47FK:2008/11/10(月) 19:40:32

 『黒澤明と『生きる』』(都筑 政昭 朝日ソノラマ 2003年 \1700)

 いわばメイキング本。お薦めの映画で紹介した[生きる]の。
 あとがきを読んで気がついたのだが、著者によるインタビューが少ない。それだけもう出演者が故人になってしまっているということだ。わずかに若い娘役の小田切みき氏のインタビューがあるぐらいである。

 手元にありますので、お貸しできます。

48FK:2008/11/13(木) 22:08:30

『その日のまえに』(重松清 文藝春秋 2008年 \610)

 映画「その日のまえに」の原作の小説を読んだ。連作短編集。おしまいの3編を中心に映画化したということが分かった。映画のチェロ弾きはギターの弾き語りだった。
 やはり泣かせられる。それは設定がある種の極限状況のせいだろう。ガンにより近い将来に死が待ち受けている、という酷薄な人生の終焉を前にした私たちの叫び・悲鳴、啜り泣き・嗚咽なのだ。
 名台詞がいっぱいあった。やはりうまいものだ。ベタだなと思わなくもないが、やはり感動してしまう。それは氏の言葉をきっかけに私の中から引き出されるものなのだろう。そう、私の中にあるものが、小説によって引き出されていくのだ。いずれ紹介するとして、最後の手紙のひと言を再録。
 <忘れていいよ>

 手元にありますので、お貸しできます。

49FK:2008/11/14(金) 22:42:08

『救曲のタクト』(語り手・宇宿允人 書き手・西村彰史 東京経済 2003年 \1600)

 予想通りの良い本であった。初めて新聞広告(一面最下段)を見た瞬間ひらめいた。そして、まもなく書評欄に。
 音楽についての考え方など大いに共感できる。仕事は違えど、その精神において共通するところあり、ということだ。


   目次

序 タクトに込めた想い
第一章 音楽のために
第二章 音楽への道
第三章 ここに音楽があるから
第四章 音楽と歩み続ける
終章 妻のこと、そして私の楽員へ
あとがき



 心のこもらない下手な演奏は人間の神経をも危め、遣り場のない怒りさえ覚えさせるものなのです。(P.34)

【上手くても心のこもらない演奏がある。心はこもっているようだが、下手な演奏がある。そして心もなく、技術的にも下手な演奏もある。――これまで足を運んだ演奏会で。】

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 クラシック音楽とは、他のジャンルの音楽と違い、常にテンポが変化するのです。一瞬たりとも同じテンポではなく、真正面から耳を澄まして聴く音楽なのです。だからこそ演奏する側も聴くほうも真剣に取り組まなくてはなりません。聴くことも多分疲れると思います。(中略)人間が人間らしく生きていくうえでの本当の意味での必需品であると私は信じています。(P.35)

【なるほど「真正面から耳を澄まして聴く音楽」なのだ。だから疲れて当然ということになる。そして私にとっても「必需品」だ。】

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 ピアノを弾くとき、鍵盤を上から叩くように指導しているのが九〇パーセント以上です。それは基本的に間違った奏法なのです。指は鍵盤につけてから叩き離さなければならないのです。(P.139)

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 船中に貯蔵された水は、いつも揺れているから腐らないのです。揺れることで水が腐らないのと同様に、テンポが揺れることで音楽も腐らないのです。
(P.151)

【なるほど、と思う。ショパンなど、その典型だろう。】

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 私はベートーヴェンの作品を見て、世界中で一番温かい人間であったと想像できるのです。ベートーヴェンの作品は他の作曲家の作品とは違う、人間の欲得、地位、名誉から脱した、何と表現したらよいのでしょうか、優しさと力強さ、神々しさが身体全体を包み、生きる勇気を与えてくれるのです。本当に不思議な作品です。(P.176)

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 素晴らしい芸術家と芸術を理解するパトロンが出てきたとき、本当の文化が誕生するのではないでしょうか。(P.181)

【この日本では非常に難しいことの一つ。真の金持ちがいないということでもある。】

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 芸術作品と日常を結んでいく、という使命を背負っている演奏家の責任は重いと思います。そう、だからこそ、演奏家、つまり芸術家という職業は聖なるものであるとあえて言いたいのです。(P.193)

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 もちろんスコアを見ながらも研究しますが、さまざまな日常の生活の中に音楽はあるのです。多くの演奏家は、生活と切り離したところで音楽を考えているように感じます。(P.203)



 西村 「人に感涙させる音楽の源泉は何か」
 宇宿 「私が作る音楽以前に、あなたが、音楽を聴いて感動する心を持ち合わせているということに目を向けることが大切です。涙を流させているのは、あなたの感受性なのですから」(P.233 あとがき)

【どんなに素晴らしいものが提供されても、ここにあるように、その人の「感受性」の有無や度合いによるのだ。私の授業という仕事でもそうなのかな、と。
つまりエデュケート(educate)、引き出すことなのだろう。】

 手元にありますので、お貸しできます。

50FK:2008/11/15(土) 21:53:48

【訂正】48:FK (投稿日: 2008/11/13 22:08 )で紹介した『その日のまえに』(重松清 文藝春秋 2008年 \610)で、「最後の手紙のひと言を再録。<忘れていいよ>」と記したが、正しくは<忘れてもいいよ>でした。

51渦森六郎:2008/11/15(土) 23:30:07
『おかしな先祖』(星新一 角川文庫 2008年改版 ¥438)

小学6年生の頃、星新一にずいぶんとハマって読みふけった。あの頃は、ただ純粋に楽しんでいただけだったが(もちろんそれでいいのだが)、今あらためて星さんの作品を読んでいくと、短編の1つ1つが人間たちに対する警句になっていることが分かる。それでいて、説教臭さや嫌味を一切感じさせない淡々とした明快な文体。星新一という人は、なんとすごい人なのだ、と思った。
平井和正氏による、巻末の解説も良かった。巻末の解説まで楽しい、というのはなんとも嬉しいことだ。尻尾の部分までアンコが入ったタイヤキの如し。

手元にあるので、お貸しできます。

52FK:2008/11/17(月) 20:12:35
『放送禁止歌』(森 達也 光文社 2003年 \648)

「たとえば“気違い”って第一級の放送禁止用語でしょう。でも語源をよくよく考えれば、気持ちが違うという表現はすごく優しいよね。今一般に使っている精神障害者なんて言葉よりはよっぽど思いやりのある言葉と思うんだけどねえ」(P.43 なぎらけんいち)

【使ってはいけない言葉として、もはやその元々の意味すら知らないまま過ぎてきていた。このような指摘には目を見開かされる。】

 誰もが放送禁止歌を決定する機関として名をあげる民放連。その民放連が策定する「要注意歌謡曲指定制度」は、放送禁止歌を決定するシステムだと長く思いこまれてきた。しかしその本質は、強制力や拘束力などまったくないガイドラインでしかないことが、取材を通して明白になった。(P.72)

【そもそも「放送禁止歌」なるものが存在することすら知らなかった。やはりまずは知ることか。】

「アメリカのテレビやラジオの生放送では、収録と放送の間に六秒のタイムラグをあけることは普通の習慣だよ」(P.144 デーブ・スペクター 「六秒ディレイト」)

【もちろん知る由もなかった。なるほどと思う。その六秒の間に処理するわけだ。】

 大切なことは知ることだ。知って思うことだ。営みを想像することだ。それさえ停止させなければ、同じ過ちを際限なく繰り返すこのエッシャーの騙し絵のような世界から、きっと僕らは、いつかは離脱できる。僕はそう信じている。
(P.236)


   目次

プロローグ
第1章 テレビから消えた放送禁止歌
第2章 放送禁止歌、それぞれの具体的な背景
第3章 放送禁止歌 日本VS.アメリカ
第4章 部落差別と放送禁止歌
エピローグ
あとがき
文庫版のためのあとがき
『放送禁止歌』掲載曲名リスト

 手元にありますので、お貸しできます。

53FK:2008/11/18(火) 21:23:15

『神様からひと言』(荻原 浩 光文社 2005年 \686)

 荻原浩のファンになったきっかけは2005年4月に娘から勧められて読んだ『神様からひと言』(荻原 浩 光文社 2005年 \686)。以後、出る作品は全部読んでいる。本も全部あるはず。
 「神様」とはやはりお客様のようで、これはある食品会社のクレーム処理係のお話。悲喜こもごもというやつ。映画化されており、DVD、お貸しできます。
 私はやはり会社は無理だな、と思わせられた面白い作品。ネタバレなしということで、内容紹介なし。

 手元にありますので、お貸しできます。

54FK:2008/11/27(木) 20:48:05

『絵のある人生 −見る楽しみ、描く喜び−』(安野光雅 岩波書店 2003年 \740)

 絵を見る。――
 それだけでも、とてもいい時間を過ごせる。まして、描ければもっと……。
 実際のところは、まだ分からない。しかしおそらく描けることは素敵なことだと思う。いずれ、童心にかえって描きたいと思っている。



   目次

1 絵を見る……心を動かされる満ち足りた時間
2 絵を描く……ブリューゲルの作品を手がかりに
3 絵に生きる……ゴッホの場合、印象派の時代
4 絵を素直に……ナイーヴ派、アマチュアリズムの誇り5 絵が分からない……抽象絵画を見る眼
6 絵を始める人のために……テクニックは重要な問題ではない
7 絵のある人生
あとがき



 「美しい」と感じる感覚は、一口にいうと、心を動かされることです。(中略)「美」という厄介なものは、対象に備わっている美しさというより、むしろそれを見る自分の感性の責任でもあるといえます。(P.10)

【私たちは勘違いしているようだ。
 私も対象が美しい、あるいは美しくない、と思い込んでいたようだ。
 そうだったのだ。自らの感性こそが美を発見できるのだ。
 となると、普段からしっかり自らの感性を磨いておかなければならないということ。】

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 思うに、昔の絵は長い時間をかけて描いたものばかりです。その絵には、絵が描かれていたときの、時計で計ることのできない時間(思索)があり、絵ができあがってから、こんどは時計で計る意味の時間(歴史)が、ほこりのように降り積もっていると思うことができます。絵を見る人がその時間を共有するのだとしたら、密度は限りなく高いことになります。(P.11)

【じっくりと時間をかけて絵を見たいものだ。あたかも作者がまさに今、描いているが如く、たっぷりと時間をかけて。
 もちろん、まずはそのようなピンとくる絵と出会わなければならないが。これがまた難しいのかもしれない。しかし、苦労して出会ったなら、人生の喜びをたっぷり味わえることだろう。】

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 個展の一室に座っている、精神的に萎縮して、入ってくるすべての人に頭があがらなくなるものです。(P.195)
 自虐的に言うのですが、(中略)個展をする人はばかにしないでくれと言われるかもしれませんが、そのくらい屈辱感に耐える度量がないと、個展はできないし、これから先の人生を生きていけません。(P.196)

【もちろん、ここは私自身の仕事に置き換えて読んでいる。授業である。
 たいていの授業は、生徒たちには申し訳なく思うが、失敗作である。十中、八九はそうなのだ。そのときの「屈辱感」というか廉恥を感じている次第。
 しかしそれに耐えていかないと、この仕事は続けられない。つまり生きていけないのだ。開き直りではなく、努力していく、ということで。】

 手元にありますので、お貸しできます。

55FK:2008/11/30(日) 21:04:41

『宮大工千年の「手と技」』(松浦昭次 祥伝社 2001年 \1600)

 日本の木造建築が技術的にも美的にも頂点に達したのは鎌倉、室町を中心とした中世の頃でしたが、江戸に入ると、部材の規格化が進み、また、標準的なマニュアルのようなものもできて、大工の仕事が楽になりました。(P.52)

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 木造の家はそんなに火事に弱いものではありません。木は燃えるものですが、決して燃えやすいものではないのです。(中略)
 木造の家だったら、たとえ燃え出したとしても、ほんとうに手がつけられなくなるまでには時間がかかるから、逃げる余裕もあります。(P.109)

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 建物であれ何であれ、ものの形は正確であればいいというものじゃない。私らが昔のものを見て、ああ、いいものだなと思うのは、微妙な違いがあるからです。寸法や形にちょっとした違いがあるから味もある。(P.123)

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 ゲンノウであれノコギリてであれ、握った手の小指をしっかり締めないと安定しない。小指がポイントになる。(中略)
 任侠映画では(中略)詰めるのは小指と決まっています。小指がどうでもいい指だからではなくて、実は一番大事なところだからなんです。(P.195)

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 私らの仕事場でも最近は安全面がうるさくなって、草履では駄目で、靴か地下足袋を履かないといけないことになっています。(中略)靴や地下足袋なら足を覆っているからいいが、草履は足が剥き出しになるから怪我をしやすいというのです。
 しかし、ぶつけても何でもないということになると、ついつい歩き方が乱暴になるということはないのでしょうか。草履なら足をどこかにぶつけたら痛いから、足元に気をつけるようになります。神経を使って歩くようになるわけです。(P.198)

【これは私の場合、山靴のことで実にその通りだと実感できる。
 山道を乱暴に歩くと落石を起こしたり、道ばたの高山植物などを痛めたりもする。さらに悪いことは、自らそのような歩き方のせいでバランスを崩して滑落や転倒することである。場所が場所であれば、そのまま転落死ということにもなりかねない。山道に限らないかもしれないが、歩き方は丁寧であった方がいい。

 私は今、可能な限りスポーツサンダルとでもいうのか、要するにサンダルを履いて山道を歩いている(夏山)。このメリットはもまず何よりも靴が軽い。それだけ体力を消耗しなくてすむ。素足なので涼しい、蒸れない。水たまりや小さな流れで濡れても平気である。すぐに乾くのだ。また、サンダルは裏全体がフラットなので、歩きやすい(安定している)。

 一般的な山靴はつま先が上がっていて、足の裏全面を土につくことができない(それだけ不安定になる)。そして何より重い。防水であったとしても、靴の中に水が上から浸入してくるとお手上げである。靴は防水でも靴下がずぶぬれではどうしようもない。私が山靴を履く場合は、靴ではなく防水の靴下を着用している。これなら靴がいくらずぶぬれになろうとも足は濡れない。】

 手元にありますので、お貸しできます。

56FK:2008/12/01(月) 22:39:57

『国境お構いなし』(上野千鶴子 朝日新聞社 2003年 \1600)

 言語というのは時間の堆積した知的財産目録だから、おいそれと身につけることはできないのだ。(P.31)

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 相手が何者かよくわからない社会では、無視黙殺するほど危険なことはない。見知らぬ他人というのは、潜在的な敵である。そう思えば、相手を敵にまわさないためには親しくなるしかない。(P.34)

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 自分が何者でもなく、他人さまの情けにすがって生きるほかない立場に立たされたら、他人の親切が身に沁みる。外国へ旅するのは、人生の棚卸しにもよい。生きるのに何が必要で、何が必要でないか、ときどきふりかえるにも役に立つ。(P.51)

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 国民国家「日本」と「日本人」のアイデンティティを語るには、せいぜい百年さかのぼればよい。(中略)
 歴史を知るとは、自分が背負っているものの重さを理解することだ。(P.58)

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 「発展途上国」は、これから「先進国」なみに「発展」する国々のことではない。「先進国」が「先進国」であるためにつくり出された格差が南北格差である。ここにあるのは、「先進」「後進」の歴史的時差ではない。両者は同時代に生きている。にもかかわらず、「発展途上」の用語は、それを時間軸上の前後の問題であるかのように、粉飾しおおいかくす。(P.59)

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 外国語で自己表現するとは、その言語の回路に合わせた、思考のスタイルやパフォーマンスを要求されるということだ。(中略)言語のあいだには「透明な翻訳」というものはありえない。(P.183)

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 歴史を知るとは重荷から自由になることではない。その重さを正確に測ることである。(P.216)

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 批評とは何か――それは自分が魅惑され、魂を掴まれた対象と格闘し、さようならを言うために書くものだということ(P.244)

57FK:2008/12/02(火) 22:37:07

『脱・持ち家神話のすすめ』(山下和之 平凡社 2003年 \740)

   目次

はじめに
序章 持ち家神話、戦後三〇年の幻
第1章 歴史からみる日本人と不動産
第2章 なぜこんなに持ち家志向が強まったのか
第3章 欧米先進国における「マイホーム」
第4章 マンションブームと懲りない日本人
第5章 日本人にとって「家」とは何だったのか
第6章 新しい「持ち家神話」の確立を目指して



 所有にこだわる限り、結局のところはババの押しつけ合いに過ぎないことに気づくべきではないだろうか。(P.133)

【家を買い替え、買い替えしてステップアップさせていくという考え方のことだ。いずれ誰かがババをひいて損をすることになる。
 私はこのような考え方に与(くみ)することはできない。したがって永遠に家持ちになることもできなければ、小金持ちになることもない。】

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 明治以降、地方を離れて大都市に出てきた人たち(中略)ほとんどの人たちが借家住まいのまま生涯を過ごす。その結果、戦前の東京での持ち家率は極めて低く、八割以上の人が借家住まいだったといわれる。
 その意味では地方から出てきた人たちの集合体である大都市は、そもそも「家」を喪失した人たちの集団であったという見方もできるのではないだろうか。(P.148)

【このような歴史を知ることは大事だ。それでもなお、持ち家志向でありたければ、それはそれでよし、である。家を買うのも一種の投資。得することもあれば損することもある。ただ一般の多くの人には、リスクがあることに気がついていないようだ。それを考慮したうえで、借家住まいでいくか、持ち家でいくかを決めればいい。

 なにより家は生活の基本・土台である。それを十分に満たす良質な住宅が、妥当な価格で提供されることが今もって日本の課題である。
 第二次世界大戦後ドイツやイギリスが力を入れてきたこと、そして日本がサボってきたこと。それが住宅政策であり、私たちはその負の歴史の延長上で今も生きているということだ。

 住宅が金儲けの手段にされている現状では、まともな住宅、それも公的なものが提供されることは難しい。持ち家しかり、まして賃貸住宅をや。】

 手元にありますので、お貸しできます。

58FK:2008/12/04(木) 21:12:26

お薦めのマンガ

 『キャットストリート』の4〜8巻、『イキガミ』6巻、『岳』8巻を入手しました。あと『おせん』15巻、『笑ウせぇるすまん』全5巻、手塚治虫がいろいろ、とありますので。
 なお『キャットストリート』と『イキガミ』はノベライズもあります。

 手元にありますので、お貸しできます。

59エココア:2008/12/06(土) 20:50:26
お薦めのマンガ

「寄生獣」
国内産SF漫画の中では最上級の出来だと思います。私は今まで読んだ漫画の中で寄生獣が一番のお気に入りです。

「シュガシュガルーン」
可愛い、ああ可愛い、ああとても可愛い。

「魔方陣グルグル」
これをこえるぎゃぐまんがにであったことはないです。へっくしょん、まもの。

60FK:2008/12/10(水) 22:42:33
マンガのお薦め

「寄生獣」は全10巻のようですね。「シュガシュガルーン」は全8巻。「魔方陣グルグル」は全16巻。とそれぞれ結構な分量ですね。興味はあるのですが、もし良ければそれぞれの第一巻だけ、チラッと見せてもらえたらうれしいですね。気に入れば「大人買い」しますし(笑)

61FK:2008/12/11(木) 18:28:12

『謎とき日本合戦史』(鈴木眞哉 講談社 2001年 \680)

 第二次世界大戦では多くの日本兵が突撃をし、アメリカ兵の機銃掃射の前に犬死にをしていった。遡れば、日露戦争時の二百三高地での戦いでもそうであった。さらに映画「影武者」でも、武田の騎馬軍団にいたずらに鉄砲の犠牲になっていくのは、どう考えても合点がいかなかった。つまり、これら白兵主義といわれる戦い方(?)に私は大いに疑問を持っていた。

 そんなことから、この本に興味がひかれた次第。結論から言うと、いつの時代でも誰でも白兵戦というか戦争そのものは恐いわけで、結果として肉弾戦的な戦いは非常にまれであったということだ。つまり主たる武器、戦いの勝敗を決したのは「飛び道具」であったということ。
 原始時代の石・弓矢から始まり、それが延々と続き、戦国時代に入り鉄砲が加わり、ついにこの鉄砲が主となっていく。現代はいうまでもなくその延長上のマシンガンやミサイルということになるのだ。
 全歴史時代を通して、戦争はその被害を最小にするために「飛び道具」による戦いが主であったということだ。

62FK:2008/12/12(金) 20:27:35

『世界の英語を歩く』(本名信行 集英社 2003年 \700)

 これを読んで安心した。ネイティヴの真似をしなくてもいい。日本語英語でいいということ。発音も使い方も。ともかく実用になればいいのだ。アイデンティティを失ってまで使う必要はないのだから、日本風英語でいいということ。

   目次
第1章......英語ってなに?
第2章......ノンネイティヴの英語事情
第3章......ネイティヴの英語事情
第4章......文化の多様性と英語コミュニケーション
第5章......世界に発信する英語

 要するに、現代の英語は多国間、多文化間交流を可能にする言語であり、自分の文化を表現する言語でもあるし、他の多様な文化を理解する言語でもあるということです。したがって、英語を特に英米文化と結びつける必要はないということになります。(P.28 第1章)

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 アジアの人々は一般に英米文化を学習するために、そしてネイティヴ・スピーカーと同じように話すために英語を勉強しているわけではありません。むしろ、自分が属している民族と文化を意識し、自分を国際的な場面で表現する道具として、英語を使おうとしているのです。
 このようにして、インド人はインド人らしい「インド英語」を、シンガポール人はシンガポール人らしい「シンガポール英語」を(以下略)(P.85 第2章)

63FK:2008/12/13(土) 19:38:19

『やぶにらみ科学論』(池田清彦 筑摩書房 2003年 \700)

 人は自分で悟る以外は、あらかじめわかることしかわからないのだから、わかる授業しかするな、ということは、難しいことは教えるな、というに等しい。
難しいことを易しく教えることは本当はできない。易しく言えるのであれば、それは難しいことではなく易しいことであろう。(P.91)

【これまで私なども「わかる授業」を、ということをさんざん聞かされてきた。
生徒からも言われたことがある。その時、「歴史が分かるとは、何が分かることか」といったような内容で授業をしたような記憶がある。
 ともかく「分かりやすい授業」という金科玉条の前に、私たち教師はひるんでしまう趣がある。本当はそうじゃないんだが、と思っていても。】

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 小さい時からそれなりの練習をすれば、すべての人がオリンピックの選手になれるはずだ、と信じる人はいない。
 不思議なことに知的な能力に関しては、努力すればわかるはずだ、あるいはすべての人は本来的に平等な能力を持っているはずだ、と信じている(ふりをしている)人がかなりいる。あるいは、このような言説に反対しないことをもって、進歩的知識人の証しだとでも思っている人もかなりいる。知的能力平等原理主義である。(P.134)

【たしかに不思議なことに、このような思い込みが一般に流布していると思われる。
 スポーツなどは簡単に却下されるのに、学力に関しては努力さえすれば誰にでもできるのだ、ということになってしまうのだ。もちろん教師の側もそう思っているふしがある。
 そのような思い込みが、勉強の好きでない、あるいは苦手な子どもたちを苦しめることになるのだ。勉強という唯一の定規に当てはめられて。】

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 高等学校の課程を満足に履修できる人は、人口の三割に満たないだろう。(中略)大学の授業をまともに理解できる人は、せいぜい人口の一割であろう。(P.135)

【そんなものなのかも、と思わせられる。もっとも、その「高等学校の課程」という基準自体ももはや曖昧なのではあるが。
 では、そんな中で私たち教師はどうすればいいのか。答えを見出せないまま、私もまもなく退職することになるのだろう。】

64FK:2008/12/16(火) 21:55:42

『あんちゃん』(山本周五郎 新潮社 1988年 \400)

 「いさましい話」(父親と息子との確執。それも自らの放蕩の結果として、その息子を他家にやって、その二十余年後の再会ということ。藩政とからめて。)

 「菊千代抄」(「七人の侍」の菊千代を思い出す。もちろんあちらは本物の男性。こちらは女性。)

 「思い違い物語」(人をいらいらさせる物言いをうまく使って人物描写をしている。どこまでが思い違いなのか分からないような)

 「七日七夜」(虐げられている人間もいざとなれば。しかしハッピーエンドでほっとさせられる)

 「凌霄花」(ノウゼンカズラ。男女の仲で、結ばれないと分かっていると燃え上がるものだが、それが実現してしまうと逆にまた駄目になってしまう。人間の難しいところ。これも幸いハッピーエンドなので、いいのだが)

 「あんちゃん」(表題作。兄と妹との関係というのは難しいものなのだろう。経験のない者には分からない世界かもしれない。倫理というものが人を危うく不幸にしてしまうところであった。)

 「ひとでなし」(人間、どこまでひとでなしになれるものか。これまた底が深く恐ろしいものだ。どこまでが人間の真実というものなのだろう。)

 「薮落し」(これだけが現代物。水晶を掘り当てることに生涯を家族をすべてを失っていく話。やってられないが、程度の差はあれ、世の中には類似のことがいっぱいあるということだろう。)

 手元にありますので、お貸しできます。

65FK:2008/12/17(水) 19:50:54

『楽天旅日記』(山本周五郎 新潮社 1990年 \400)

 大した作品だと(偉そうに言うようだが)思う。ラストも一般に予想されるような目出度し目出度しではなく、現実的な有り様が紹介されている。現実というのはそのようなものだろう、と思わせられるのだ。
 なかなか良い作品だと思う。このような作品を残しているというのは、やはり大した人であったのだと知らされる。



 ―― 一般人民というものは元来が強権崇拝者である、口ではいろいろ云うけれども、権力に対して実際には服従することを喜ぶ、権力が強く仮借なく行使されればされるほど、これを崇拝し、服従の喜びに酔うものである。(P.127)

【厳しい指摘だ。その通りだろう。悲しいことではあるが。】


 領民があってはじめて政治がある、領主や代官は領民のために政治を行うものだろう、その領民に対して非道な政治が行われるとき、法が領民を守らないで政治の味方をするというのはおかしい(P.180)

【きわめて真っ当なこと、なのだが......】


「人間には進歩というものがあります」
「それは、多数の者を苦しめ犠牲にするほど、ねうちのあるものか、……お互いが助けあい、仕合わせになりながらでは出来ないことか」(P.244)

【進歩というものを無前提に良いものと、私たちは思い込まされているようだ。
それがどれだけ人々を不幸に追いやってきたことか!】


 尤(もっと)もらしいおためごかしな理屈で、自分たちの強権を正当化してみせる現代の支配者諸君よりも、理屈なしに堂々とぶったくりをやった封建君主諸氏のほうが偽善のないだけさっぱりしているかもしれない。(P.250)

【強烈な批判である。もちろんだからといって封建君主に味方するわけではないが。】


 人間の歴史は徒労の歴史だ、生れて来て、なにかをして、死んでゆく、……なにかこのことに意味があるか(P.253)

【ふっとそんな虚無的な気持ちになることがある。そんなことを思う時間を持つことは、人生を生きていく上で必要なことだと思う。】


 およそ世の中に、本気で正義などを唱える人間ほど弱いものはない、かれらは頭でっかちで臆病で、いくらか才能は有っても実行力というものを持たない(P.297)

【悪玉の主人公に言わせるセリフの一節である。耳の痛いところだ。】

 手元にありますので、お貸しできます。

66FK:2008/12/18(木) 20:20:51

『ながい坂 上』(山本周五郎 新潮社 2000年 \629)

 本当に人生というのは「ながい坂」なのだろう。



「おまえがそんなことを気にしてなんになる」と和尚はむぞうさに答えた、「まわりでどんなに手を尽くしても、うまくゆく者もありうまくゆかない者もある、帰りに庭の朝顔を見てごらん、種子も選び、同じように手をかけてやっても、逞しく伸びるやつもあれば、ひねこびてもう枯れかかっているやつもある、人間だって同じことさ、気にするな」(P.140)

【この一節は私自身のための気休めになる。そのように読んではいけないのかもしれないが。そこまでいくには、もちろん、とことんやることはやる。やれることはやる。しかしそのあとは、それぞれにまかせるしかないのだ。そういうある種の諦めが必要だということだ。ちょっぴり悲しくはあるが。】



『ながい坂 下』(山本周五郎 新潮社 1984年 \440)

 ようやく読了。やはり長かった。そして下巻は重かった。上巻が比較的すいすいと読めたのに比べて。その理由は解説者も書いているとおりだろう。

 後半は余りに主水正が出来過ぎて、八方美人的なめでたしめでたしの物語になっている。(P.427 奥野健男)


 いちばん大切なのは、そのときばったりとみえることのなかで、人間がどれほど心をうちこみ、本気でなにかをしようとしたかしないか、ということじゃあないか(P.152)

【その時その時、精一杯、誠意をもってやること、それしかないだろう。そうでなければ悔いが残る。】

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 およそ人間は自分のすることを善だと信じ、他人のすることには批判的になるものだ(P.163)

【自戒せねば。】

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 人間が世間でくらしてゆくには、自分の望みどおりの生きかたができるとは限らない。自分では好まない、嫌いなことでもやらなければならないことがあるだろう。それが人間の生きるということだ(P.344)

【どうってことない、普通のことの言い回しなのだが、なんとなく心にぐっとくる。】

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 これまでどれほど多く、人や大事なものごとに気づかず、みすごしてきたかもしれないし、これからも気づかずに聞きのがしたり、見のがしたりすることがいかに多いかもわからない(P.419)

【これも、自戒せねば。あまり深刻に考えすぎると怖くなって何もできなくなるだろう。そのあたりのアヤチが難しい。】

 手元にありますので、お貸しできます。

67FK:2008/12/19(金) 20:35:14

『水木サンの幸福論』(水木しげる 日本経済新聞社 2004年 \1260)

 構成はメインが日経新聞連載の「私の履歴書」で、あと兄弟三人の鼎談とマンガ「鬼太郎の誕生」。第一部はこの書名にもなっている小論。そこで氏の言う「幸福の七カ条」とは以下の通り。



第一条 成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。
第二条 しないではいられないことをし続けなさい。
第三条 他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追求すべし。

第四条 好きの力を信じる。
第五条 才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。
第六条 怠け者になりなさい。
第七条 目に見えない世界を信じる。



 補足として「第六条 怠け者になりなさい」では、
「努力しても結果はなかなか思い通りにはならない。だからたまには怠けないとやっていけないのが人間です。ただし、若いときは怠けてはだめなのです!
 何度も言いますが、好きな道なのですから。でも、中年を過ぎたら、愉快に怠けるクセをつけるべきです。」

 「第五条 才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。」など、そうだろうなと思う。
 前段は私などもその口で、この教師という職業に「才能」はなくても、なんとか「収入」にはなっている。
 そして意外なような気もするが「努力は人を裏切る」ものだろう、とも。「努力信仰」(?)が強い風土だけに厳しいものがある。まさしく「裏切られる」のだ。自らも苦しめることになる。困ったものだ。

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 あと私など、「第二条 しないではいられないことをし続け」ている方なので、これは幸せなことだ。第三条も、そうだ。
 第七条は、精神世界のことや、自らの人間としての謙虚さのことやら、いろいろあるだろう。

 今どき大上段に振りかぶって「幸福論」など冗談でしょ、というご時世ではある。しかし氏にかかれば、まさしく「ゲゲゲの鬼太郎」の如く飄々としてサラリと言ってのけられるようだ。そして納得してしま

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68FK:2008/12/21(日) 14:25:14

『山彦乙女』(山本周五郎 新潮社 2003年 \438)

 怪奇か伝奇小説とでもいうのか。江戸時代、五代将軍の頃の話。今は滅びた武田家再興の目論見が、側用人柳沢とからみ、そして自然の中へ帰っていく主人公がいる。


 創意やくふうのない仕事、進歩のない事務ほど、人を疲らせ、飽きさせるものはない。そのとしごろの青年たちが、一般にそうであるように、彼も自分の将来に夢をもっていた。はっきりしたかたちではないが、それは充実した、輝かしい、血をわき立たせるようなものであった。
 ――生まれてきたこと、生きていることを、祝福したくなるようなもの。
 ――そして、彼でなければ、それは為し得ないし、彼のためにだけ、存在するようなもの。
 そういうなにかが、有る筈であった。(P.42)

【今となっては、とても懐かしい感覚だ。私もかつてそのように感じ、そのように思いして生きていたはずなのだ。(それが今はどうだろう、と愚痴る体たらくだ。)】

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 ――人間はいかに多くの経験を積みあげても、それで自分を肯定したり、満足することはできない。
 ――現在ある状態のなかで、自分の望ましい生きかたをし、そのなかに意義をみいだしてゆく、というほかに生きかたはない。(P.252)

【厄介なものだ。自分を肯定するということの難しさ。
 ややもすれば思いくずほれる毎日にあって、自分のその生き方に意義を見いだしていくしか、生きるすべはないということだ。これ以上を求めても、もはや詮方なしと思い知るべきだろう。それは決して諦観からくるものではなく、冷静な理性による観点からだ。】

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 彼は云いたかったのだ。過去も現在も、未来も、人間は生きてきて、悩んだり苦しんだり、愛したり憎んだりしながら、やがて死んでゆき、忘れられてしまう。(中略)人間の為したこと、為しつつあること、これから為すであろうことは、すべて時間の経過のなかに、かき消されてしまう。
 ――慥かなのは、自分がいま生きている、ということだ、生きていて、ものを考えたり、悩んだり、苦しんだり、愛しあったりすることができる、ということだ。(P.260)

【これが歴史だろう。ちっぽけな人間の哀しさを感じるところでもある。それでも後段にあるように、生きることはできるはずだ。いや、そのはずであった。今や人生の半ばを過ぎ越し、だんだんと「ものを考えたり」……しなくなってきているようだ。これが人生なのだろう。】

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69FK:2008/12/23(火) 17:18:04

『メルヘンの知恵』(宮田光雄 岩波書店 2004年 \735)

 私たちは、心の底では、自分がはるかに傷つきやすく、自信がなく、つねに他者からの愛と賞賛とを必要とする人間であることを感じているのです。
 私たちは、この傷つきやすさ、自信のなさを克服していかなければならない。にもかかわらず、日常生活においては、あたかも自分には、そうした問題が何ひとつ存在しないかのように自信ありげに振舞わなければならない。まさにこの《二つのこころ》の矛盾したありようこそが私たちの深刻な現実なのであり、私たちの悲劇的な状況を特徴づけるジレンマなのです。(P.5)

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 私たちの外側の姿かたちは、たしかに、年齢とともに変わっていくものです。私たちは知識や経験を身につけながら、年齢を重ねていきます。しかし、人格の内奥においては、私たちは、いつまでも子どものように感ずる、みずみずしいこころをもっているべきではないでしょうか。(P.38)

【たいへん難しいことのようだ。ついつい、「子ども」の心を見失ってしまっている。「みずみずしい」とは何と素晴らしい言葉であることか。】

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 私たちは、人びとから拒否されること、低評価されることを恐れがちです。(中略)つまるところ、自分が《ただの人》=普通の人間であることを認めるのを恐れていることからくるのではないでしょうか。(P.44)

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 身分や財産、学歴や美醜など、私たちは、日頃、多くのものにこだわっています。そうしたすべての違いを、死は、平準化していく役割を果たす(P.154)

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 成功の重圧のもとに立ちつづけることほど人間を疲れ果てさせるものはありません。(P.164)

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 人間は、一人の人のため真剣に打ち込むようになると、いつのときか確実に死神の敵対者となるのです。地上の生に制限をおく自然の法則を受け入れようとはしたくなくなるのです。(P.170)

【これが生への執着。自分のためでもあるが、その人のためにも生き続けたいと願うのだ。】

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 もしも人間に無限の時間があたえられているとしたら、どうなるでしょうか。
 そのとき、私たちは、いま、この時に特定の行為をするという意味を失ってしまうのです。(P.182)

【永遠の命に憧れる、というのはお話だからいいのであって、もしそれが実現したら不幸なことだろう。】

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 私たちは、いま、この場所で、自分に提供されているものとは違う可能性をもっているかのごとく夢想しがちです。(中略)いま自分を求めている事柄にたいして、真剣に自分のすべての力をささげる、それに熱心に集中する。
 一回限りの時は過ぎゆくものであるゆえに、私たちから真剣な責任ある応答と関与とを求めてくるものです。(P.184)

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70FK:2008/12/24(水) 21:16:16

『日本人の歴史意識 −「世間」という視角から−』(阿部謹也 岩波書店 2004年 \700)

 「世間」は日本人一人一人の行動を拘束するものであり、日本人は自分の振舞いの結果「世間」から排除されることを最も恐れて暮らしている。(P.6)

【昔、『甘えの構造』という本に出会ったとき、なるほどそうだったのかと思ったものだ。今、この「世間」という言葉をキーワードにすると、この日本社会のことがいろいろと見えてくる。どちらかと言えば悲観的なことでではあるが。】


 「世間」の中に生きる人々の行動の原理は三つの原則によっている。贈与・互酬の原則と長幼の序、共通の時間意識である。(P.7)


 「世間」の中の日常生活には普段は歴史はほとんど影を投げかけてはいない。私たちは歴史とほとんど無縁な形で日々の生活を送ることができるのである。(中略)これらの人々にとって歴史とは自分の近くを流れている大きな時の流れであって、それを眺めることは一つのドラマを眺めることに等しい。(中略)歴史好きの人々の場合も歴史を自分自身が参加しているドラマだとは思っていないのである。昨日から今日への時の流れのなかにある自分の一生がそれ自体歴史であるということはみな解っている。しかしそれは理屈の上では解っているということにすぎず、感覚的に解っているわけではない。歴史といえばまず自分の外を流れている時の流れのことであり、(中略)日本の多くの人が好む歴史は観客として眺める歴史なのであり(以下略)(P.190)

【歴史の授業をしていても、このように痛感させられる。そしてこの延長上に日本社会のマジョリティが存するわけだ。教育の無力さを感じさせられるところだ。
 対岸の火事である限り、私たちは歴史をエンタテーメントとして安心して見ていられるのだ。まるでテレビを見るように。そして知らぬ間に、歴史の当事者としての役割を奪い去られてしまっているのだ。】


 西欧の個人は人間を世界の覇者として位置づけ、他の動植物を人間に奉仕するものと見なしてきた。このようなキリスト教的な人間理解を私たちは共有できない。私たちにはそれと違った「世間」の歴史があるからである。(中略)
 人間はこの世界の覇者ではない。むしろこの世界の破壊者である。(P.200)

【ここまで言っても大丈夫かな、と思った。この日本にも少なくないキリスト者が存在するのに。もっとも私自身は、氏の考えに共感するが。】


 「世間」は個人が突出することを好まない。全体として「ことなかれの体質」をもっている。その中で自分の資質を伸ばし、自分の主張を貫いてゆくためには闘わなければならないのである。「世間」と闘うことによって私たちは歴史への展望を開くことができる。(P.201)

【世間とぶつかったとき、初めて私たちは歴史の当事者であることに気付かされるのだ。あるいは思い出すのだ。しかし、まずもってぶつかることは避ける・逃げる。世間の無言の圧力の前に。】


 日常生活の中で「世間」の人間関係にかまけている人は歴史と直接向き合う機会が少ない。(中略)「世間」とうまく適応している人は「世間」を知ることができず、その本質を理解することができない。(中略)そのような意味で歴史はまず「世間」とうまく折り合えない人が発見してゆくものである。(P.203)

【自慢しても仕方がないが、私は世間とうまく折り合えない人間の一人だということだ。これまでも、そしてこれからも。】


 「世間」と無自覚のうちに一体化している現在の自分を「世間」から解き放たなければならない。(P.204)

71FK:2008/12/26(金) 17:57:14

『「健康」という病』(米山公啓 集英社 2000年 \660)

   目次
第一章 半健康ではいけないか
第二章 危険因子はほんとうに危ないか
第三章 ダイエットにおける幻想
第四章 スポーツはからだにいいか
第五章 人間ドックは役にたっているか
第六章 薬は効いているか
第七章 ストレスはからだに悪いか
第八章 健康という欲望


 鍛えると強くなるという幻想が強い。(中略)鍛えるという行為は、からだをある意味では改造していくことになる。(中略)人間のからだを異常な状況にさらすことであり、肉体を異常に改造してしまう危険がある。(P.116 第四章 スポーツはからだにいいか)

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 いまは、どこまで生活を犠牲にして、薬を飲むべきかも考えていく時代になっている。(P.186 第六章 薬は効いているか)

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 日常生活がそれほど苦もなく過ごせることに、むしろ満足し、その肉体に感謝できなければ、健康など存在しようもない。(P.214 第八章 健康という欲望)

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「健康」という現代の病気は、多くの人に入りこんでいる。もう一度私たちは、人間は不健康であることが普通であるという、その自覚の上でからだを見つめていかねばならない。(P.217 同)

【良いのが当たり前という考えが、私たちを苦しめているのだ。】

72FK:2008/12/27(土) 20:22:37

『あとのない仮名』(山本周五郎 新潮社 2003年 \590)

 「桑の木物語」を読む。涙が出そうなほど感動させられてしまう。実にうまいものだ。
 解説にあったのだが、氏は時代物に仮託してはいるが、実は現代の人間を描いているということ、それに気付かされるのだ。たしかにそのような「お殿様」も存在したかもしれないが、無理してそう思う必要はない。

 「しづやしづ」は男にとっては永遠に不可解な女性の心理、とでも言おうか。
そんなにまでも、あれほどまでも気が合い、気持ちがよりそいあいしていた二人なのに、どうして別れなければならないのか。愛する男を捨てて行かねばならないのか。
 分からない。どうして、と永遠に男は心の中で問いかけるしかないのか。哀切かつ痛切な、身にしむ話だ。



 どの作品をとってもうならされるような良い作品群。時代背景は現代ではないが、中身は極めて現代的。山本氏自身が文庫本解説の木村氏に「わたしの作品は、頭に丁髷こそ乗せてはいるが、全部、現代小説のつもりなんだよ」と語ったということだが、その通りだと思った。

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73FK:2008/12/30(火) 14:51:08

『信仰への旅立ち 読書のすすめ』(宮田光雄 新教出版社 1999年 \650)

 主としてキリスト者への読書のすすめであるが、私たちにも参考になる。まず以下は遠藤周作の『沈黙』についての文章から。



 いわゆる日本《泥沼》論には、二つの側面があることを区別しなければならない。一つは、母性的原理に支えられた日本社会の民衆心理の側面である。いま一つは、そうした精神風土を力ずくで再生産しつづけようとする、権力的=体制的な側面である。(中略)こうした風土を変革する新しい思想や宗教が入ってくることを権力によって弾圧する政治の動きがある。キリシタン迫害をはじめ、近くは太平洋戦争下における労働運動や宗教弾圧の歴史が示すとおりである。(P.89)

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 母性的原理の社会は、けっしていわれるように寛容なのではない。いっさいを包摂し、すべてのものが一体化することを理想とする共同体は、原理的に異質なものをどこまでも排除する社会である。しかも、個人の尊厳性を知らない精神風土では、人格の内面性まで何のためらいもなく踏み込んで踏みにじることを恐れない。ここにこそ《泥沼》のもっとも醜悪な特質があるといえよう。
(P.90)



 困った社会・日本の分析である。こんな中で生きていかなければならない大変さ!
 『沈黙』は小説を読み、ついで映画でも観た。簡単に言うのははばかられもするが、キリスト教というやはり「宗教」であることからくる問題性を感じ、そしてそれらを表現する作品に感動した。若い頃のことではあるが。

 「すすめ」の中で、すでに読んでいた本は、『星の王子さま』、『愛するということ』(フロム)。
 付録の「一〇〇選」では『ナルニア国ものがたり』、『ゲド戦記』、『生きることの意味』(高史明)、『夜と霧』、『ペスト』(カミユ)、『変身』(カフカ)、『日本の思想』(丸山真男)を読んでいた。
 読んでない本では『生きがいについて』(神谷美恵子)、『罪と罰』・『カラマーゾフの兄弟』、『美しい女』(椎名鱗三)、『薔薇の名前』(エーコ)等々。

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74FK:2009/01/02(金) 22:18:27

『教育とはなんだ』(重松 清 筑摩書房 2004年 \1600)

 教育といっても普段は自分のことしか眼中にないわけで、もっと広くて様々な世界や物事があったことに改めて気づかされた。



「わかる」ことは、「すぐわかる」から来たときは浅い。「わからない」から「腹が立つ」、だから「考える」、そして「わかった!」となったほうが深い。
(P.51 新井紀子氏に聞く「数学」)

【どうも今はみんなせっかちで、すぐに正解を欲しがる。こちらもつい、安直にしゃべってしまう。困ったことだ。
 すぐにはわからせない、とするには、勇気と忍耐が必要なのだ。】

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「『人はその能力に応じて適切な教育が与えられるべきである』というところが、いまはいちばん欠けていると思います。」(P.187 新井紀子氏に聞く「遠隔教育」)

【人間には見栄も外聞もあるし、なかなかそのようにはいかないものだ。しかし、なおこうでなくては、と思う。名よりも実を取るべきなのだ。しかし、難しい。】

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 先生方の悩みには大きく三つあります。対子ども、対困った親、そして対同僚や管理職。前の二つの問題だけでは、じつは休職や退職につながるケースは少ないんです。(P.273 諸富祥彦氏に聞く「職員室」)

【これを読んでなるほど、そうだなと思った次第。まず「対子ども」。授業にせよ、学級担任しているクラスの子どもにせよ、まずは「対子ども」。
 次に厄介なのが口出しをしてくる親。私など特にまず「対子ども」を重視する者には、口をはさんでくる親は困る。もっともその数が少ないので、もってはいるが。
 最後の「対……」については、何も言う気がしない。】

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 教師の質は昔に比べてそんなに変わってはいないと思います。こちらが見ていても頭が下がるような優れた先生が二割、七割がふつうのレベル、残り一割がほんとうにだめな先生。で、だめな先生のうち三分の一は、教師を辞めたいと思っていても給料のために辞めない先生、ですね。これは時代にかかわらず変わっていない。(P.275 諸富祥彦氏に聞く「職員室」)

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 フリーターがどこから生まれているかというと、職業高校よりだんぜん普通高校のほうが多いんですね。「普通」というものが持っている怖さ、「普通」という場所に位置付けられてるひとたちが持っている曖昧さ(P.296 玄田有史氏に聞く「就職」)

【「普通」だとか「世間」だとかが、世の中を悪くしている元凶の一つだ。長い物には巻かれろ、ということだ。そんな人生、面白いはずがないのだが、なおそれでも良いという人が世の中のマジョリティなのだ。
 ではそれに異を唱えるマイノリティのことは、ほっておいてくれればいいのに余計なお節介をしてくるのだ。】

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 いったい、この国はいつから「わかりやすさ」という価値観を金科玉条のものにしてしまったのだろう。「わかりやすさ」は大事なことだけど、それがすべてではないんだという常識にどうやったら戻るのか。(P.297 玄田有史氏に聞く「就職」)

【歯ごたえのない食べ物ばかりを食しているせいだろう。とうとう胃だけではなく、頭まで柔らかい・わかりやすいものでないと受け付けなくなってしまっているのだ。
 そんなご時世で授業をやらねばならないので、苦労するわけ。ま、いつの時代も実はそんなものなのだろう。】



   目次
1.教育論とはなんだ......教育論
2.授業とはなんだ......英語・数学・国語・理科・倫理・家庭科
3.学校とはなんだ......学校改革・民間人校長・校舎・遠隔教育
4.教育の隙間とはなんだ......保健室・給食・課外授業・学童保育
5.教師とはなんだ......教員免許・職員室
6.卒業後に待つものとはなんだ......就職

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75FK:2009/01/03(土) 10:56:39

2009年 1月 3日 (土曜) 岩波新書!

 元日の新聞での広告量はすごいものだが、私などにはどうしても出版社の(全面)広告がまず目に入る。そんな中で、岩波書店は「岩波新書創刊70年」と題して1938年から2008年まで、ほぼ一年ごとに一冊ずつ名前があげられている。(そのうち私がまちがいなく読んだ記憶のあるものはわずかに15冊であった。)
 私の高校時代の思い出の一つは、この学校の図書室から岩波新書をどんどん借りて読んだことだ。生涯でもっとも多くの岩波新書を読んだのはこの時期だと思う。
 その後、「新書」と名付けられた書物がたくさん出版され、私もそちらに目移りしていき、岩波新書からはだんだん遠ざかるようになった。しかし今も、岩波新書の広告は一通り見ている。ただ私の興味をひくようなものがだんだんなくなってきているのだ。これは私の知的好奇心というやつが、なくなってきているせいなのだろう。また、いつか、何かをしなければという、ねばならない時期が過ぎたら高校時代に回帰してみたいと思ってる。

(昔話だが、まだ他の出版社からの新書があまりなかった頃、毎月出される4冊前後の岩波新書をすべて買って読むという猛者もいたようだ。私は少しうらやましく思ったが、真似することはなかった。)

76FK:2009/01/05(月) 20:15:05

『喫茶店で2時間もたない男とはつきあうな』(斎藤 孝 集英社 2004年 \1050)

 お互いの間で話が弾むということは、それだけ二人は人間的につながっていける部分が多いということでもあると思うのです。会話を積み重ねることで暗黙のうちに了解している部分が増えていくと、ひと言言うだけで、いろいろなことが瞬時にお互い理解できたりもします。それは本来大きな快感になるはずです。(P.153)
【話が弾むことによる快感は、なかなか他のものでは代え難いものである。それだけに相手を選ぶので難しいということ。】

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 人生の時間は限られているから(中略)無理せずにほんとうに合うと思える人と楽しく過ごしたいと素直に思うようになるんですね。(P.167)
【歳をとってくると切にそう思う。そういう意味では仕事なども、そろそろ終止符を打つべきだろう。「無理」を強いられる最たるものなのだから。】

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 話し方で成功するための5箇条(P.190)
 1.目を合わせる
 2.微笑む
 3.ときどきうなずく
 4.相づちを打つ
 5.具体的にコメントをする
【本当は常識であり、マナーなのであるが、これができないのだ。】

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 もし2時間、飽きずに、途切れることなく、不快にならずに話が続くようなら、それは相性という点でかなりのレベルだと考えていい。逆に相性の悪い人と喫茶店で向かい合って2時間過ごすのは、相当苦痛だと思います。(中略)だから、いきなりデートするよりも、まずは喫茶店チェック。これをおすすめしたい。(P.193)
【要するに面と向かい合わなくてすむようなデート(映画とか遊園地とか)では、ごまかせるので勘違いしてしまう恐れがあるのだ。その点純粋に(?)向かい合って話をするしかない喫茶店というシチュエーションは最高だというわけ。
 二十歳のころ、喧噪の喫茶店で二時間かそれ以上、向かい合っておしゃべりをしてたことを懐かしく思い出す。それは相性の問題もあるが、若さの問題でもあったいうことか。】



 一つすぐに利用できそうなアイデアがあった。「偏愛マップ」(P.130 あなたの偏愛マップを作ってみよう)と氏がネーミングしているもの。

 ――このリストを持って、二人一組で互いに交換して見せあいながら5分ずつ話をしていく、というもの。

 用紙はA4かB4の白紙で、真ん中に名前を書き、そのまわりの好きなところに好きな大きさで箇条書き的にどんどんメモしていく。好きな音楽・映画・本などといったジャンル別にまとめてみるのもいい。ともかく連想して思いついたものを用紙いっぱいに書いていく。――

 話の取っ掛かりになるし、相手の趣味や感性がうかがわれるので、時間の短さや会話の稚拙さを補って相互理解に役立つと思う。

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77FK:2009/01/05(月) 23:36:03

2009年 1月 5日 (月曜) 『町奉行日記』−−[どら平太]原作

 山本周五郎の『町奉行日記』を読む。やはりというべきか、映画とは違っていた。映画はやはり映画的な面白さを追及するものなのだろう。それに比し、小説は淡々としたものだ。
 いくつかあげれば、まず「仙波」と言われていた大目付の名前は小説では「堀」であった。そして最後の切腹はどら平太の目の前ではなく、後日、自宅でであった。「こせい」さんはお終いに出てくるだけだった(映画では、かなり出番が多く、スリリングなシーンが付け加えられていた)。「濠外」(ほりそと)を牛耳る三人の親分とのやり取りも、はでな立ち回りが映画ではあったが、小説ではそこまではなく、淡々と腹を割った話し合いで解決していっていた。等々。
 映画は視覚的な見せ場を作らなくてはならない、ということなのだろう。やや無理な設定、たとえばこせいさんが危ない、というときに不自然にもさっとどら平太が登場したり、彼一人で多くの敵と戦わせ勝ってしまう、とかだ。(ただテレビ放映版はカットされているシーンがあるので、一概にはその非を論うわけにはいかないのではあるが。)

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78FK:2009/01/09(金) 20:41:32

『不良のための読書術』(永江 朗 ちくま文庫 2003年 \620)

 本・書店・出版などをめぐる本。1997年刊行の文庫版。
 読書日記は読書感想文同様にやめておくべし、と。ただ読んだ本の記録はとっているとのこと。

 刺激的な文句を紹介すると。

「本を最後まで読むのはアホである」
「本はとってもいかがわしい」
「本こそタッチ・アンド・バイ」
「文庫は本の墓場である」
「いい本は見てくれでわかる」
「本は少ないほど気持ちいい」
「持たない、増やさない」

 手元にありますので、お貸しできます。

79FK:2009/01/12(月) 20:59:22

『読書術』(加藤周一 岩波書店 1993年 \850)

 仕事上でもその中心を占めるのが「読書」であり、「読書術」をマスターしておくことは必須のことでもある。
 かつてカッパブックスでベストセラーになったかれこれ40年前の書であるが、いまもって十分に役立つものであった。



 古典とはゆっくり読むための本なのです。(P.52)

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 「本をおそく読む法」は「本をはやく読む法」と切り離すことはできません。
ある種類の本をおそく読むことが、ほかの種類の本をはやく読むための条件になります。また場合によっては、たくさんの本をはやく読むことが、おそく読まなければならない本を見つけだすために役立つこともあるでしょう。(P.6
2)

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 読み通すことのむずかしい本であればあるほど、一日に少しずつ読む工夫をたてる必要があります。(中略)そして、それとは別に、もう少しはやく片づけることのできる本を、何冊か平行して読んでゆくということになります。
(P.86)

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 私にとってむずかしい本は、私にとって必要でなく、私にとって必要な本は、私にとってかならずやさしい、とさえいえるでしょう。(P.203)

 手元にありますので、お貸しできます。

80FK:2009/01/14(水) 20:02:05

『失われた志』(城山三郎 文藝春秋 1997年 \1238)

 対談集(藤沢周平・内橋克人・吉村昭・河盛好蔵ほか)。

 若い頃、氏の小説をまとめて読んだものだ。
 最近読まなくなったのは、経済界の有名人たちを中心にした経済小説がメインになっていたから。どうも経済人やら名士とは肌が合わないので。



 河盛好蔵 (フランスは)文化的な野蛮国です。文化の盛んな野蛮国ですよ。
とにかく、インテリが威張っています。(P.163)


 河盛 フランスというのは、お金がひどく幅の利くところですよ。あらゆる場所で、チップをやったほうがいいです。それに、フランス人というのは、非常にケチですよ。「守銭奴」というモリエールの芝居がございますけれど、守銭奴というのはフランス人というのと同じ意味だと辰野隆先生が言われましたがね。それほどみなケチですね。(P.168)

【さもありなん、である。「文化的な野蛮国」とは言い得て妙である。】

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 城山 手当しなければ友情というものは消えてしまうと言っているね(注『ビジネスマンの父より息子への30通の手紙』)。たとえば、月に一回ぐらいは食事を一緒にするとかね。(P.219)

【どうもこの忙しいご時世では難しいだろう。友情とは無縁に生きてきたような気がする。】



 おしまいの吉村昭との対談では、お互いに徒党を組むのが嫌い、と。組織に属するのはもうこりごり、と。軍隊経験からくるもの。命令されたり指示されたりはご免というわけ。権威も権力も同様。

81FK:2009/01/18(日) 20:56:00

『日本史の快楽』(上横手雅敬 講談社 1996年 \1500)

 学者がその専門的な知識の一端を週刊誌に連載したもの。しかし新知見がたくさんあり勉強になった。



 壇ノ浦の合戦でなぜ二位尼は安徳天皇を抱いて入水したのか?(P.45)

【疑問は残るのだが、一つすぐさま思ったのは捕まえられたら殺されるから。現代に生きる私はこのように思ったのであった。
 ところが、「女は殺さぬ習ひ」であり、公家も殺されないとのこと。平時忠もそこでは殺されてない。なのに二位尼は海へ、しかも安徳天皇を道連れにしたのか?
 大いに疑問とするところ。その答は書かれてなかったのが残念。】

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「34 父に裏切られた護良親王の悲劇」(P.114)

【そうだったのか、と合点。恒良親王が可愛くて、護良親王を捨てた(尊氏に殺させた)ということのようだ。
 これもなぜあの強かった(戦いが上手かった)と思われる護良親王が、そんな簡単にやられてしまったのか、と。
 父親の子どもに対する愛情は公平でなければならない、と私などは思うのだが。
 兄弟といっても母親が違うわけで、その「母親」に対する愛情の深浅によってのことのようだ。
 歴史上の人物にいちいち人間性がどうのこうのと言ってもはじまらないか。】

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「46 「七生報国」を広めたのはだれか」(P.153)

【この言葉は楠木正成のものとされているようが、どうやら違うそうだ。ではいつか?
 昭和のはじめの頃ではないか、と氏は言う。国家の戦争遂行のために創作されたものだろう。もっともまだ完全には証明できないとのこと。】

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「47 「武士=ヤクザ」説は正しいか」(P.156)

【「私も武士を組織暴力団だと考えている。】

 社会の中で、私的な従者(子分)を多数かかえ、武力(暴力)を行使する集団は暴力団と言わざるを得ないが、武士団はこの条件に当てはまる。ただ国家がこの種の暴力集団を手厚く処遇し、時にはその首脳に征夷大将軍などの官職を与えて軍事貴族に取り立て、またそれらの集団がイデオロギーを操作して、自己を巧みに扮飾したため、とても暴力団には見えないだけなのである。(中略)
 現在のように国家が軍事・警察権を独占的に掌握している時代の常識では理解しにくいが、国家がそれらの権限の一部を私的な暴力集団に委ねるのも、歴史上は珍しくはなかった。」(P.157)

【穏やかな書き方をしているが、現に目の前の歴史もそうなのだ。なかなか言いにくいが。
 これまで私が日本史を勉強していて理解し、授業でも生徒たちにそのように説明してきたことの傍証を得た思いだ。】

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「57 歴史は教科書のようには発展しない」(P.186)
「日本歴史の流れは、各時代の中心的な動きだけをつなぎ合わせて構成されているが、それに洩れた重要な要素を組み合わせると、従来とはかなり違った日本史の流れを作ることができるのでないだろうか。教科書に書かれた通りに歴史が発展する土地など、どこにもないのだ。」(P.187)

【その通りなのだが、教科書を見ているととてもそうとは思えないわけだ。厄介なことだ。どんなに注意深く授業をしてみても、そのあたりではずいぶん間違った日本史像を生徒たちにインプットしている。難しいところだ。】

82FK:2009/01/19(月) 20:15:41

『にっぽんロビンソン』(三田村信行 作、田中槙子 絵 ポプラ社 1998年)

 土佐から八丈島の向こうにある鳥島に流された水主たちの話。ロビンソン同様に長平ひとりが最終的に生き残り故郷へ帰ってくる。

 アホウドリを食べ海草や貝を食べ13年間に渡り鳥島で生き抜いたということ。その後漂着した人々と協力して船をつくり八丈島までたどり着き、あとは御用船で江戸へ。そしてそれぞれの故郷へ、ということに。感動ものである。

 なおこの実在の野村長平の話は、吉村昭も『漂流』という小説で書いているそうだ。次に読んでみよう。大人向けのそれと、三田村氏の物語の相違を。

83FK:2009/01/21(水) 20:08:27

『茶色の朝』(フランク・パブロフ 大月書店 2003年 \1000)

 茶色はどうもナチスの色のようだ。50ページに満たない小冊子。不気味な寓話。しかし気づかないうちに身近なところにまで迫っている危険を指摘している。
 高橋哲哉氏が解説というか、「メッセージ」を書いている。

 手元にありますので、お貸しできます。

84FK:2009/01/22(木) 20:45:27

『青い空』(海老沢泰久 文芸春秋 2004年 \2857)

 これは佐野洋のお勧め本。大部でこの本を見たとき(見ず転)ぎょっとした。値段もさることながら。
 しかし内容は良かった。神道・キリスト教・仏教・儒教が出てきて、それぞれの思想性の高低が見事にわかった。
 しかし何もかも政治に関わる者は、私の感覚ではとても是とは出来ないことを平然とやるもののようだ。

 手元にありますので、お貸しできます。

85FK:2009/01/24(土) 12:01:08

『深層』(朔 立木 光文社 2002年 \1600)

 『死亡推定時刻』が良かったので早速求めて読んだ。
 なんともすごい内容だった。それは事件の「深層」なのか、当事者の心の「深層」なのか。
 こういう見方があり得、現に存在したのかもしれないと説得させられる。身につまされる思いもする。

 扱っている事件は、
「針」......大学病院薬物過剰投与事件
「スターバート・マーテル」......大阪池田小児童殺傷事件「鏡」......女子中学生手錠轢死事件
「ディアローグ」......有名作家の子息自死事件

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 上記「スターバート・マーテル」(大阪池田小児童殺傷事件)の死刑囚が2004年 9月14日 火曜に死刑となった。

 その直前の日曜の書評欄に『死亡推定時刻』が掲載されていたが、この覆面著者は、実は女性だったということが判明した。
 細やかな心理の分析は説得力があり大したもので、男性でもこんなふうにできるのだなと思っていた。ただどうしても第一作の『お眠り私の魂』という題名は、男性のものとしたらやや違和感を感じるなと思っていたのだった。
 ということで氷解。そうだったのか、と。

 あと『お眠り私の魂』と計三冊、手元にありますので、お貸しできます。

86FK:2009/01/25(日) 18:35:37

『正義の味方』

 志田未来といえば彼女が出ていたドラマ『正義の味方』の原作漫画全6巻を入手しました。(またまた、大人買い、でしょうか?)読みたい人はどうぞ。なおテレビドラマの方は全10話中1話だけビデオを保存してあります。DVDも出ているのですが、これは買うかどうか迷ってます。

87FK:2009/01/28(水) 11:36:18

2009年 1月28日 水曜 『怪人二十面相・伝』(北村想 新潮社 1989年 \1200)

 さて先日観てきた映画の原作と思って借り出して読んだのだが、実はこれは映画からすればその前の部分であり、時代的にこの小説の終わったところから以後(戦後)のお話ということになる。その内容についてはネタバレになり、映画を観る楽しみが失せてしまうので言うわけにはいかないが。ということでこの小説の最後の章は「終章あるいは新しい序章」となっている。
 登場人物はまさに怪人二十面相である男性・丈吉とその弟子になる平吉が登場し、彼らの人生模様が描かれている。もちろん明智小五郎も小林少年も関わってくる。


「曲芸をしていて一番恐いのは、客席の中に醒めた視線を見ることなそうな。そういう客と眼があった日にゃ、プツンと演技ごころというやつが切れてしもうて、素にもどるんじゃそうな。そうすると、後はもうてんで曲芸にならんそうな」(P.166)

「いい芸は客が半分つくるといっても過言ではない。しかし、自分の芸の出来映えをいちいち客に問うことは馬鹿げたことだ。客もまた千差万別、十人十色だからな。よい客もいれば、つまらん客もいる。つまらん客の意見は拝聴してもつまらん。とすれば、どうすればよいかというと、この自分が、自分自身がもっとも厳しい客になることだ。厳しい客の顔を持つことだ。客になったつもりで自分を観る。これを客観という。」(P.172)

88FK:2009/01/29(木) 20:19:04

『工作少年の日々』(森 博嗣 集英社 2004年 \1500)

 プロットやキャラクタやシーンや、とにかくそういったものを、さきにきっちり考えてから執筆に取りかかる(中略)そういった小説の書き方は、はっきりいってつまらない(中略)出来上がった作品もつまらなかったし、書いている途中も面白くなかった。(P.122)


 好き放題のエッセイ(エッセイだから当たり前だが)。
 なるほど、まーこんな人なのだろうと思わせられる軽さ、あるいは軽妙なタッチ。
 それにしても佐野洋が言っていたように、いとも簡単にやすやすと小説を量産しているようだ。なんとも恵まれたことよ!
 また工作少年というのはとことんこういうことが好きなのだと、あらためて知った次第。機関車を走らせるというホビーも。

 第10章は「僕の小説の書き方」。
 ここでは工作のやり方同様、あれこれと「行き当たりばったりの創作を続けている」というやり方が氏の創作論、ということになるか。私などの授業でも大体の流れは決めていても、細部はその時その時の興(?)に任せて進める、ことが多い。共感するところだ。

 要するにあらかじめ完成された形が見えているもの作るというのは面白くないということ。まるで仕事のようで。それは創作では製作だからか。
 なるほどなと思いながら読んだ次第。

 あと面白かったものに、章の名前では「散らかしの法則」、「忙しさとは」
「時間の使い方」など。

89FK:2009/01/30(金) 22:42:08

『日本国憲法前文と九条の歌』(きたがわてつ あけび書房 2004年 \1400)

 一体どんなふうなメロディラインなのかと思いつつ購入。
 一読ならぬ一回聴いて、なるほどとうならされた。こんなこともできるのだな、と。
 親しみが持てるようになった。やはり音楽の力は大きいものだと再認識。マイナスの場合としての軍歌を思い出せば、より納得できる。平和の歌はなかなか難しいものだ。

 手元にありますので、お貸しできます。

90FK:2009/02/01(日) 19:23:51

『教育と国家』(高橋哲哉 講談社 2004年 \720)

目次

第一章 戦後教育悪玉論――教育基本法をめぐって
第二章 愛国心教育――私が何を愛するかは私が決める
第三章 伝統文化の尊重――それは「お国のため」にあるのではない
第四章 道徳心と宗教的情操の涵養――「不遜な言動」を慎めという新「修身」教育
第五章 日の丸・君が代の強制――そもそもなぜ儀式でなければならないのか
第六章 戦後教育のアポリア――権力なき教育はありうるか



 孫引きだが「できん者はできんままで結構。(中略)それが”ゆとり”教育の本当の目的。エリート教育とは言いにくい時代だから、回りくどく言っただけの話だ」(斉藤貴男『機会不平等』文春文庫)とは三浦朱門氏の発言。(P.38)

【それならそうと、はっきり言ってくれてたら「誤解」しなかったのに。そうなのかゆとり教育とはエリート教育の「別称」(?)だったのか!】

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 愛国心を持つことと、愛国心を持つように教育することはまったく別のことです。(P.47)

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 社会科という教科は、公共的な事柄への関心を喚起するために重要な役割を果たしうるはずです。(中略)政治的教養を教えるということをもっと積極的に考えるべきではないでしょうか。(P.77)

【このようにもし社会科がきちんと仕事をしていたら、この教科は実に危険な教科ということになっていただろう。すでに「社会科」の名称が高校では廃されて久しい。】

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 権力が必要とする権威を供給してくれる最大の源が天皇ということになる(P.99)

【歴史的にずっとこの状態が続いてきたかのように偽装して、現在もそうなのだ。】

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 国が道徳を教え、将来の市民である子どもたちの「心」を作り上げようとすることの問題性がなかなか意識されないところに、現状の深刻さがあります。
(中略)
 道徳教育について、私が唯一可能だと思うのは、倫理思想について教えることです。(中略)何が正しい道徳であるかは、生徒自身が考えるようにしていくべき(P.118)

【たしかに人の心を操作することの恐ろしさに私たちは気づいていない。もっと警戒すべきことなのに。】

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 国旗・国歌がなくてすめば、さらにベターだというのが私の考えです。(P.164)

【同感。これらがある限り、どこまでいってもその危険性がつきまとうのだ。】

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 学校という場所をつくれば、権力作用なしに学校を運営するのは困難でしょう。
 民主主義と権力作用とは、実は決して相反するものではなくて、民主主義を機能させるためにも権力作用が必要です。少数派は尊重されなければなりませんが、多数決で決まったことを実行するということのなかには、常に権力作用があります。そもそも「民主主義」自体、デモクラシーの「クラシー」とは権力のことですから、デモスの権力、人々(ピープル)の権力、これが民主主義なのです。(中略)
 教育の自由といっても、教員と子どもたちの間には、権力作用という側面が生じるでしょう。(P.195)

【学校にあっては、権力的な関係を否定したいとは思う。しかし現実にはそうはいかない。どこまでいってもやむを得ない側面が残るということ。それが実に「民主主義」というものでもあった。いまだ未熟な民主主義しか持ち得なかったこの日本で、その民主主義が窒息していっている。】

91FK:2009/02/04(水) 20:07:56

『「正しい戦争」は本当にあるのか』(藤原帰一 ロッキング・オン 2004年 \1600)

 対談。というかインタビュー。現実的な学問である政治学の学者としての発言。いろいろと教えられるところがあった。戦後の冷戦構造とその崩壊あたりの解説、等々。



目次

1 「正しい戦争」は本当にあるのか
2 日本は核を持てば本当に安全になるのか
3 デモクラシーは押しつけができるのか
4 冷戦はどうやって終わったのか
5 日本の平和主義は時代遅れなのか
6 アジア冷戦を終わらせるには
あとがき



 日本では親米リベラルっていう政治的な立場はごく少なくて、反米リベラルと親米保守ばっかり。(P.123)

 もともと日本外交のなかには日米安保を中心とするセキュリティ、安全保障のグループと、それから経済援助を中心としている経済外交のグループと両方あって、力関係でいえは安保の方が強い。(P.285)

92FK:2009/02/07(土) 21:59:26

『二十四時間』(乃南アサ 新潮社 2004年 \1400)

 なんとも見事なアイデアだ。一日は24時間あり、その24の正時ごとにエピソードを書き連ねてある。ちなみに最初は「二十三時」、最後は「四時」。
 私にとって涙が出るほど懐かしい「ジェットストリーム」についても書かれてある。

 手元にありますので、お貸しできます。

93FK:2009/02/14(土) 21:37:26

『気をつけ、礼』(重松清 新潮社 2008年 \1400)

 相変わらず泣かせるお話の数々。先生と生徒・教え子。
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「白髪のニール」−−ニール・ヤング、ギター。17歳から45歳へ。


「ドロップスは神さまの涙」−−いじめ・意地悪、保健室登校。五年生の女の子。


「マティスのビンタ」−−中学の美術の先生・つぶされた才能。30年ぶりに入院中の先生を訪れる。

 先生がずっと描きつづけてきたものが、やっとわかった。それは、私もいま――誰だってずっと、目に見えないキャンパスに描きつづけているものでもあった。(P.118)


「にんじん」−−小学校教師・20年ぶりの同窓会での再会。嫌いだった生徒へのこだわり、自らの未熟さ。同窓会での厳しい言葉、しかし救われる思い。

「教師は完璧な人間しかなれないわけじゃないって、先生に教わりましたから」「恨んでませんよ」「もう、昔の話ですから」(P.162)


「泣くな赤鬼」−−高校野球部の鬼監督・クラス担任と退部・中退していった生徒・ゴルゴ。約10年後の再会・ガンで死期が近いことを知らされ、その死まで何度か出会い話すことに。

 走り去った彼らは、ずっと学校に背中を向けたままだったのだろうか。息が切れるまで全力疾走をして、うんと遠ざかってから走るのをやめ、ふと学校のほうを振り返る――そんなことが、ほんとうに、ただの一度もなかったのだろうか。(P.198)

 悔しいけどな、惜しかったけどな、でも、おまえはせいいっぱいやったよ、と手を包む。(P.208)


「気をつけ、礼」−−吃音の男子。中学3年生時のクラス担任。ギャンブルと寸借詐欺。別れ。20年後、少年は小説家に。

94FK:2009/02/15(日) 22:37:21

『どこかで誰かが見ていてくれる 日本一の斬られ役・福本清三』(聞き書き/小田豊二 創美社/集英社 2001年)

 300ページ程もあり、読みやすいのだが時間がかかって年を越してしまった。
 福本氏が兵庫県の人ということもあり、その話し言葉が関西弁というか京都弁も混じっているのだろうが、ふんわりとした柔らかいもので読みやすい。これはひとえに小田氏の功績であろう。(そういう意味からすると小田氏の「あとがきにかえて――」は蛇足かもしれない。なかった方がよかったと思ってしまう。)
 それにしても私自身はこの福本氏のでていた映画を観ているのだろうか。もちろん分かるはずがないのだが。特に時代劇だし......

 それにしてもそれなりに見事な生き方だろう。その点において共感が得られるということでテレビ『にんげんドキュメント』にもなり(実は私はこれを観て氏を知った)、こうして本にもなったということだろう。ただ、これを一種の成功伝としてのみ見たのでは単なる教訓書・道徳書になってしまう。(もっとも氏は酒は飲まないが、タバコは吸っている。)



 ピラニア軍団言うたかて、何もありまへんわ。ただの飲み会ですわ。いえ、私は酒飲みませんから、入ってません。いや、仲よかったですよ、皆とは。でも、なんや昔から、人とつるむのが嫌いなんですわ。(P.245)

【氏のこの生き方は一般化できるものではないかもしれないが、私も「つるむ」云々に関しては同感だ。徒党を組まないというのが、私の信条。もちろんそのために損をしていることもあるのだろうが、本人が気づかないので問題はない。】


 生意気言うようですけど、映画はもちろんスターさんの存在あってのことかもしれ(ま)せんが、基本的には台本でしょう。
 脚本がしっかりしていたら、誰が出ても、どの監督が撮ってもなんとかいきますわ。(中略)もっと悪いことには、その大事な台本を書いてくれる人たちが食っていけんのですわ。食っていけないような商売に、優秀な人材は集まりませんもの。(P.295)


 「大部屋」の仕事のステータスについては次のようにシビアに分析している。
 私が長いこの大部屋生活で感じたことは、スターさんになるには、生まれつき持っている何かがあるんですよ。(中略)私らはこれ以上、落ちるところがありまへんから、楽チンですわ。
 いや、演技なんていうものは、関係あらしまへん。芝居の上手な人はようけおりますけど、芝居がうまいからってスターさんになった人はおりませんもの。脇役にはたくさんそういう人がおりますけど、主役にはなれませんから。いわゆるスターさんが、「芸達者で脇を固める」って言われる、芸達者の方に含まれてしまいますから。
 私ら大部屋は、この芸達者にもなれません。(P.298)




 あと面白いのは、〈大部屋俳優の知恵〉と銘打たれているその体験からくる教訓(?)。
 
 〈大部屋俳優の知恵・其の一〉どっちにしても、しょうもない役なんだから、欲はかくな。(P.25)
 〈大部屋俳優の知恵・其の二〉極端に目立ってはいけないが、少しだけ目立て。(P.27)
 〈大部屋俳優の知恵・其の三〉どんな仕事でもいい。いい思い出を作れ。(P.37)
 〈大部屋俳優の知恵・其の四〉自分の名前を売り込もうとしない。相手から名前を聞かれるようになれ。(P.43)
 〈大部屋俳優の知恵・其の五〉知ったかぶりをしないこと。そうすると、必ず親切な人が現れる。(P.90)

 手元にありますので、お貸しできます。

95FK:2009/02/21(土) 22:14:30

2009/2/21(土)『廃墟建築士』(三崎亜記 集英社 2008年 \1300)

 氏の著作も5冊目となる。相変わらず、異な世界が展開される。表題作ほか「七階闘争」「図書館」「蔵守」の4編。それぞれを紹介することが即、ネタバレになってしまい、これから読もうという人にはよくないので何も言わないことに。ともかく、やはりというべきか、意想外の中味が展開していて面白い。興趣深い。


 決して追いつけぬ、決して寄り添えぬ存在に惹かれて生きることは、虹を追い求めるのにも似て滑稽で、時に惨めだ。(P.159 図書館)

【それでも私たちはその虹を追い求めてしまうものなのだ。悲しい性ではある。いや愛おしい人生であると言うべきか。】

 手元にありますので、お貸しできます。

96FK:2009/02/23(月) 21:42:48

『しろねこくん』(べつやくれい 小学館 2003年 \900)

 月刊誌「デイズジャパン」連載のマンガをまとめたもの。しろねこが主人公。おもしろい。

 手元にありますので、お貸しできます。

97FK:2009/03/06(金) 10:29:02

『ブラザー・サン シスター・ムーン』(恩田 陸 河出書房新社 2009年 \1400)

 短い人生で、そうそう何人も愛せる人が現れるとは思えない。(P.31)

【そうだとも言えるし、そうではないとも言える。難しい。しかし、私はそうだと思うわけなのだが。そう、数人がいいところではないか、その人生で。】


 大学生というのはもっと大人だと思っていたけれど、高校生をもっと大人だと思っていたのと同じくらい大人じゃなかった。本や映画で観た十七歳が、実際自分でなってみたらたいへんショボかったのと同じように、本や映画で観た二十歳は、更に輪をかけてたいしたことがなかった。(P.31)

【そんなものだろう。いつも、つねに違和感がある。そうじゃない・そんなはずがない、なんて。】

 手元にありますので、お貸しできます。

98渦森六郎:2009/03/06(金) 21:05:29
『さくらんぼ爆弾』(柴門ふみ 白泉社 1986年 ¥680)

家の本棚に、ホコリをかぶって、あった。父が昔買ったマンガ。
社内恋愛とか不倫とか、そういう話なのだけれど、ドロドロとはしていなくて、読後感はむしろ爽やかですらある。柴門さん上手い、と思った。意外とこういうのが好きなんだな。父は。

少々汚れていますが、お貸しできます。

99FK:2009/03/06(金) 22:14:12

『戦争の世紀を超えて』(森 達也・姜 尚中 講談社 2004年 \1800)

 ナチスのような悲惨な事態ではなくても、業務として人を殺せるんじゃないか(P.79 姜)

【アウシュビッツをはじめとして、なぜ、かくも多くの人々を淡々と、まるで工場の作業のように殺すことができたのか。その答えは簡単には出てこないだろう。ごくごく普通の家庭生活を送る人たちが、いったん殺人工場に入るや、「業務」あるいは仕事として遂行するのだ。】

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 残虐や極悪非道だから虐殺が起きるのでは決してなく、むしろ全く逆で、潔癖で純真でイノセンスだからこそ、人を大量に殺してしまうんです。(P.255 森)

【私たちの思いこみとしては、殺人者は残虐非道な人たちが実行するもの。たしかに少数を殺す場合はそのようなことだろう。しかし大量殺人はその逆と知るべきなのだ。思想を純真に信じ、実行していくものほど怖いものはない。】

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 (アメリカは)本音では国家としての統合に対して自信がないんです。だから国旗とか国歌とか、そういった偽装された象徴に必死にすがろうとする。
 マイケル・ムーアが「ボウリング・フォー・コロンバイン」で、アメリカ人が銃を手放せない理由を、過剰なセキュリティ意識で説明しています。(P.266 森)

【心理学から分析すれば当然の結論だろう。自信がないから強要するのだ。アメリカ全土に翻った星条旗とあの国歌の大合唱。それらは実に自信のなさから来る強制なのだ。
 WASPたちが加害者として迫害し続けてきたアメリカの歴史をみれば、彼らの怯えが銃を手に取らせ、過剰な反応をもたらし続けてきたことが理解されるということ。】

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 デモクラシーというのは決して非暴力的な社会をもたらすわけではなくて、常に暴力と隣り合わせで反転する構造にある(P.267 姜)

【民主主義というのは良い言葉だ。つい、うっかり良い面ばかりを強調してしまうために、この危険性を忘れてしまっている。もちろん、民主主義的に政治が行われているからといって、その内容までがまともであるという保証はないのだが。】

100渦森六郎:2009/03/07(土) 00:49:59
「もちろん、民主主義的に政治が行われているからといって、その内容までがまともであるという保証はないのだが。」

たしかに、そうは思います。衆愚政治、という言葉もありますしね。
先ほど『坂の上の雲 二』をぱらぱらと読んでいると、ウィッテというロシア帝国の大臣の言葉に、こういうものがありました。
「ロシアは全国民の三五パーセントも異民族をかかえている。ロシアの今日までの最善の政体は絶対君主制だと確信している」(p344)
また、こういう記述もありました。
「ウィッテは、独裁君主においてはなによりも、つよい意志と高潔な思想、感情を第一条件とする。」(p346)
これはまあ、帝政ロシアの場合なのでしょうが、しかしウィッテの言うような理想的な君主がいたとするならば、その君主が腕を振るえる政治体制、つまり独裁政治のほうがむしろ下手な民主政治よりずっと上手くいくのでは、と思ったりもします。民主政治=善、独裁政治=悪、ではないのではないかと思うのです。
にわか勉強で少し書いてみました。


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