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「お薦め −本」
1
:
FK
:2008/09/10(水) 21:16:23
「お薦め本」についてのスレッドです。
みんなに読んでほしい! と思う本をドンドン、
こんな人に向いてますよ! とか、こんなジャンルですよ、と紹介してみてください。
書店員さんになった気分で?! どうぞ。
216
:
FK
:2010/09/23(木) 19:54:29
2010年 9月21日 (火曜) 『三島屋変調百物語事続 あんじゅう』(宮部みゆき 中央公論新社 2010年 \1800)
「逃げ水」・「藪から千本」・「暗獣」・「吼える仏」の四編からなる。前作『三島屋変調百物語事始 おそろし』(宮部みゆき 角川書店 2008年)の続編ということに(スレッド 4 :FK:2008/09/18(木) 10:36:57 )。
相変わらず、上手い、としか言いようがない。じっくり味わえる・味わうべき中味がある。その点が、文庫版時代小説と違うところ。深みがあり、もう一度手にしてみたくなるのだ。つまり本を処分せずに置いておきたいと思うのだ。
217
:
FK
:2010/09/23(木) 19:55:45
2010年 9月23日 (木曜) 『イキガミ 8』(間瀬元朗 小学館 2010年 \550)
これまた相変わらずいい作品だ。いろいろと考えさせられるが、今作では二つ。まず恋人・酒屋の跡取り息子を車の事故で亡くしてしまう人たちを取り巻くもの。過失なので罪を償えばそれでよし、という考え方とその対極にある残された遺族の思いなどが描かれている。いつまでたっても難しい問題だ。
いまひとつは、恵まれない(と本人が思っている)容姿の男女の人生模様である。恵まれてないと思う男性は、整形に整形を重ね、イケメンとなり自信をつけていく。一方、恵まれているのにそう思えない女性は、いつまでも自信を持つことができず、金目当ての男性に利用されていく。そんな人生模様が描かれ、いずれにせよ最後は、この本の主題である24時間後の死亡通知(イキガミ)を主人公から手渡されていくのだ。
2010年 9月23日 (木曜) 『ハンマーセッション! 1』(棚橋なもしろ 講談社 2007年 \400)
テレビドラマが終了したので、読み出すことに。とりあえず5巻まで入手。
実はかなり設定が違っていた。まず高校ではなく中学であった。校長は坂本であり、水城涼子先生とは親子ではなかった。教頭は女性ではなく男性だった。志田未来扮する楓は実在しない、詐欺師役の音羽四号はドラマでは背か高かったが漫画ではやや低めのよう、最初のハンマーセッションのエピソードはドラマ化されなかった、等々。
218
:
FK
:2010/10/10(日) 11:08:05
2010年10月10日 (日曜) 『心の野球』(桑田真澄 幻冬舎 2010年 \1500)
PL学園そして巨人の投手だったこの著者について、初めて注目したのは彼がタバコについて発言しているとのことを知ったときだった。野球場のロッカールームはタバコの煙でもうもうとしているのが通常であったようで、彼はもちろん吸わないし、その副流煙の危険も知っていて警告を発していたわけで。
その後大リーグに行って、というニュースも遠い話で、今度この本の存在を知ってあらためて彼の考えを読むこととなった。
簡単にいえば精神主義横行の日本のスポーツ界、就中、野球の世界において彼は孤軍奮闘してきたようだ。至極まっとうな考え方で、私には違和感がないのだが、野球界ではそうはいかなかったのだろう。
まだ42歳なので日本では監督になれない年齢のようだが(それもおかしいが)いずれどこかのチームの監督として再登場してくることだろう。楽しみである。
219
:
FK
:2010/10/10(日) 20:53:17
2010年10月10日 (日曜) 『笑酔亭梅寿謎解噺 4 ハナシがうごく!』(田中 啓文 集英社 2010年 \1900)
シリーズ第4作。あいかわらず良い。このシリーズは面白いし、為になるし、と申し分なし。もちろんお堅い人にはこれはなんだ、と言われそうだが、高校生をはじめとしたこれから人生について学んでいく人には必須の小説である(?!)
ま、だまされたと思って読んでもらいたい。世の権威・権力と個人の自由の兼ね合いとか、いろいろ考えさせてくれる。お金がない辛さも。でも何より大事に思うのは、噺家だけでのハナシではないが、やはり[自由]ということ。自由のためにはやせ我慢もしなければならないし、お金にも不自由することだろう。しかし、それでも求めていくだけの価値はあるのだ。
もう一つ私自身もそう思うのだが、噺家も一人でやり、私たち教師も一人でやるということ。小説の中ではかけあい漫才が出てくる。ボケとツッコミである。上手くいけば大ブレークするのだろうが、やはり相手があることであり、自由という点において制約があるようだ。お互いに我慢しあったりするとか、上下関係といったそんな難しさもあるようだ。
私は私一人で教室でみんなと授業をしていくという形態がいい。そこには自由があるから。
220
:
FK
:2010/10/16(土) 11:24:36
2010年10月16日 (土曜) 『誰も知らない「危ない日本」大きな声では言えない7つの問題』(武田邦彦 大和書房 2010年 \1300)
すごい題だが、これくらいにしないと売れないのだろう。内容はこれまで同様の地球温暖化やゴミ問題・リサイクル、さらに別のジャンルでは預金や年金などお金の問題(預金するとお金はなくなる)や政治家(が金儲けするという問題)のことも。
いずれも基本的な考え方は一貫している。マスコミの報道に流されて自分で考えたり調べたりしない私たちの日常を批判するわけだ。
そういえば最近は環境ホルモンもダイオキシンも、さらにチクロ(発がん性ありとされたが、そうではなかったようだ)なども話を聞かなくなった。さんざん私たちを心配させ、また個人や学校の焼却炉を完全に放逐したりもしたのだが。私のことでいえば、そのおかげでシュレッダーかけでずいぶん時間と労力の無駄をさせられている。燃やせば終わりのものを。
あと指摘のあったことでは、終末思想のこと。これが流行ると人々は目の前の生活を大事にすることを忘れ、国民が一致団結する、と。政治家が国民の目をそらせる手段には仮想敵国という手があるが、それ以外にもこんなやり方があったかと思った。
221
:
FK
:2010/10/20(水) 18:01:03
2010年10月20日 (水曜)『影法師』(百田尚樹 講談社 2010年 \1600)
久しぶりに読後、涙が出てきた。それだけ著者が上手いということなのだが、もちろんそれだけではなく、いろいろと人生について思わせ・考えさせてくれるからなのだ。人が人のためになすこと、それも犠牲的な献身をともなうそれは、どうしたら可能となるのだろう。自己の利益を第一に考えてしまうのが世の人の常ではないか。
そんな稀有な出来事に、あってほしいがまずあり得ないと観念しているところに、すっとこのような物語が提示させられるのだ。私たちは感動させられざるをえないだろう。
五郎次は常に勘一に一番いい材料を与えた。悪い材料で覚えても腕はよくならないというのが五郎次の考えだった。(P.26)
222
:
渦森六郎
:2010/10/21(木) 00:13:33
2010年10月20日 『おせっかい教育論』(鷲田清一、内田樹、釈徹宗、平松邦夫 140B 2010年 ¥1200)
今をときめく現代思想家の内田樹、阪大総長で哲学者の鷲田清一、僧侶で大学教授の釈徹宗、大阪市長の平松邦夫が、中之島公会堂で行ったトークショーと、その後のレストランでの座談会とをまとめたもの。
教育とは、「教えたい」という人間の根底にある欲望(おせっかい)から始まるものであり、市場原理で語ってはいけないことであり、行政がやかましく介入してはいけない、という内容の話。
あと、懐徳堂という奇跡的な教育機関を生み出した町人の街・大阪という土地がもつ可能性とかについても言及。
テンポのいい会話がたのしい。内田さん以外は関西人というのがミソかもしれない。
「学校の機能というのはいくつかあって、さっき言ったのは、共同体のフルメンバーとしての責任意識を持った大人を育てていくということなんですけど、もう一つは今出た「アジール」としての機能ですね。どんな共同体でも、どんなきちんとしたルールを持った集団でも、そこからこぼれ落ちていく人たちが必ず発生する。でも、その「こぼれ落ちていく子たち」のうちから次代を担うイノベーターが生まれてくる。これは必ずそうなんです。どんなよくできた共同体でも、いつかどこかで制度疲労を起こして壊れてゆく。だから、その壊れていきそうなものにいちはやく気づいて、そこを補正して制度を再構築できる人が絶対に必要なんです。そういう仕事をする人間は既存の制度の中の「秀才」からは出てこない。絶対、出てこない。イノベーターはつねに「落ちこぼれ」の中から出現する。ですから、制度の中長期的な安全保障を配慮したら、「落ちこぼれたち」を切り捨てちゃいけない。彼らを支え、彼らが自尊感情を持て、生き延びてゆける場所を提供することが必要なんです」(内田)(38ページ)
「内田先生は前からシラバスの悪口言うてたんですよ。それが書かせる立場になって(笑)」(釈)
「シラバスって『仕様書』なんですよ。商品のスペック。でも教育は商品じゃないんです」(内田)(45ページ)
「さっき平松さんがおっしゃってたけれど、生徒が覚えてることを先生が覚えてないっていう話は、本質的なことやと思う。何を教えたかが問題ではなくって、たたずまいを教えた、スタイルを伝えたってことなんですよね。それでいいと思うんですよ。」(鷲田)(137ページ)
ここで話を無理矢理、少し前にこの掲示板で取り上げられたサンデル教授のほうへと持っていく。
僕もあの人のハーバードでの授業のいくつかと、こないだ東大にやってきた時の授業の放送を観ていた一人だ。
だけど、「面白い」とか「新鮮」といった感想を、観る前に期待していたほどは抱かなかった。こういうかたちをとった授業は、もう高校時代に経験済みだったからだ。
サンデル教授と学生たちの議論も、どこか定型化してしまっているようにも思われた。ハーバードと東大での、議論の内容が、あまり変わらなかったし。話が広がりそうで、案外広がらないテーマだったのではないかと感じた。問題について言えることが、限られてきてしまうというか。
僕はどちらかと言うと、今回挙げた内田さんたちがしているような、伸びやかで、少し青臭さをも感じてしまうくらいの、それでいて肩の力が抜けている「オジサン・オバハン的」議論のほうが好きだなあ。
223
:
FK
:2010/10/23(土) 19:44:26
2010年10月23日 (土曜) 『寺子屋若草物語 てのひら一文』(築山 桂 徳間書店 2008年 \600)
シリーズ第1作。三姉妹が寺子屋をしている大坂が舞台のお話。寺子屋といえば昼間のものとしか思わなかったが、やはりというべきか、夜学があった。
昼間のが授業料としての束脩(そくしゅう)が必要なのに対し、夜の方はここ大坂では「一文稽古」(いちもんけいこ)といわれ、来れる日だけでよく、しかも授業料はまとめて払う必要のない一日一回あたり「一文」というわけだ。昼、働いて、夜、学校へということなのだ。
こんなのが江戸時代からあったとは、と。大塩平八郎の若いときが出てくるので18世紀初頭の話ではあるが。
三姉妹のうち真ん中のお涼は、大坂の富商五人によって作られてすでに80年あまりになる懐徳堂に通っている。その特色として、「もともと謝儀は自由」(P.57)であり、講堂での座席も早い者勝ちであったようだ(P.59)。さらに「講義の遅刻や早退にも寛容で、商売の都合を優先し、時間がとれるときにだけ講義を聴けば良いことになっていた。」(P.58)とか。ただし「学内では私語は基本的に禁止されている。」(P.59)とも紹介されている。
224
:
FK
:2010/10/30(土) 22:23:16
2010年10月30日 (土曜) 『刀圭』(中島 要 光文社 2010年 \1500)
先に気になった点を上げておくと、「改行」である。むやみな、とまでは言わないが、改行の多さが気になった。(文庫版のエンタテーメント時代小説の改行の多さにはつねづね辟易させられているが、それは文庫版特有の読みやすさも狙ったものであるからだろう、としておこう。)本作はソフトカバーではあるが、単行本なので一行ごとに改行されると、ページ稼ぎかと思ってしまうのだ。なるほどソフトカバーで1500円を取ろうとすれば230ページ前後では無理と判断したのかもしれない。本書は267ページであった。(私たちは紙代を払っているのではないから、ページ数が少なくてもいいのだと思うが。)
さて、それはさておき内容は感動ものであり、いろいろと人間というものについて考えさせてくれる佳作であった。医者を扱った作品は多いが、これは19世紀初頭の江戸が舞台である。父親の後を継いで医者になった24才の青年が成長していく小説である。
(医は仁術など、患者側の都合のいい屁理屈だ。こちらが仁を貫いたところで食い物にされるだけではないか)(P.138)
「タダで治療をしてやれば、いつでも威張っていられてさぞ気分がいいでしょうけど」(P.141)
貧しい人たちからは金を取らずに診る、という理想・理念に燃えての果ては、信じなくてはならないはずの人間への不信感が残るのみで、ついに主人公は燃え尽きてしまうのだ。純粋さというものの脆弱さ・傲慢さといったものが周りの人たちからやんわりと指摘されていくのだが、なかなか本人は理解できない。隠された優越感や使命感が邪魔するのか。私など教師も同じ轍を踏みがちだろう。
「良くも悪くも、人は運と縁によって生かされている」(P.171)とは、一代で成り上がった商人の述懐として出てくるが、そんなことに気がつかないのが若い人の特徴だということだ。そこからは人に対する感謝の念も出てこず、不満や愚痴のみが出てくることになるのだろう。主人公はこういった周りの人たちの言葉の中でだんだんと成長していくことになる。
225
:
FK
:2010/11/14(日) 21:32:37
2010年11月11日 (木曜) 『子どもたちと話す 天皇ってなに?』(池田 浩士 現代企画室 2010年 \1200)
坂口安吾の『堕落論』や福沢諭吉の『帝室論』などが紹介されていた。坂口安吾は読んでないのでこれを機に読もうと思う。
あらためて日本の祝日というものが天皇と深く関わっていることに気付かされる。というかそのために祝日というのが恩恵として設定されたということ。今、皮肉なことに現業部門は祝日も平日並みに労働しているわけだ。天皇制下でこんなことがあっていいのだろうか、と思ってしまう。戦前はどうだったのだろう。
天皇と天皇制について考えるのは、なかなか難しいことだ。この本はかなり平易でそれを生徒たちに考えさせるきっかけになるようだ。
226
:
FK
:2010/12/01(水) 19:55:19
2010年12月 1日 (水曜) 『惨 戦国鬼譚』(伊東 潤 講談社 2010年 \1600)
この著者は初めて。「木曾谷の証人 要らぬ駒 画龍点睛 温もりいまだ冷めやらず 表裏者」の五編が収録されている。いずれも武田家に関するもの。 著者はかなりこの武田信虎や信玄ほか武田家に入れ込んでいるようだ。
面白い解釈としては(事実は知らない)、織田信長が実は徳川家康を恐れ殺そうとしていたこと。そのために穴山信君(梅雪)を利用しようとしたとか。それも信長自ら囮となるため入京、しかもわずかの家臣のみで、というわけだ。さらにその前提としてわざと家康の接待役の明智光秀をその失態から面罵するというやらせを演じてもいたとのこと。なるほどそうかもしれないとおもわせるものがある。ただ逆に光秀に殺されてしまうのだが。
それにしても非情な時代・非情な歴史であることよ。人を信じなければやっていけないにもかかわらず、迂闊に信じると終わってしまうということ。こんな時代に勝ち残れるものの条件とはいったい何なのだろう。歴史のいたずら、とでも言いたくなる。しかし庶民にとっては過酷な歴史のいたずらであろう。
227
:
FK
:2010/12/03(金) 22:33:01
2010年12月 2日 (木曜) 『墨攻 全11巻』(森 秀樹 小学館 1992-96年)
ようやく全巻を読了。映画[墨攻]はこの漫画でいうと前半くらいのもので、あとは趙の国・邯鄲での戦いが中心となっている。しかしそれにしても、いろいろと考えさせてくれる。春秋戦国時代に一世を風靡した「墨家」とその思想。そして末路。
時代からして武力による争闘は避けえない状況である。そんな中でできるかぎり平和的に、しかも自分たちの生命と財産を守るためにはどうすればいいか。自らを守るためには最低限の武力を持ち、撃退するしかないだろう。城を出て攻撃するまではいかなくても、自らのテリトリーを死守するためには徹底的に戦い、侵略者が諦めるまで戦い続けることが必要となろう。
この主人公・革離はそれをやってのける墨家という集団の一員である。ただ時代とともに腐敗堕落していく仲間たちから、彼・革離は離脱し自らの信じる道を歩むことになる。当然、邪魔者として排除され、その命を狙われることになる。最終的に理想の地を求めて東へ向かい、ついに日本らしき所に到るようなのであるが。
現代においても、攻撃・侵略ではなく、自らの地を徹底的に守ることに徹したやり方で平和を実現させていくのが望ましいのだが。そのためにはどんな方策を取ればいいのか。革離なら今どのように考え、行動したことだろう。
228
:
FK
:2010/12/16(木) 20:16:55
2010年12月14日 (火曜) 『家康、死す 上』(宮本昌孝 講談社 2010年 \1700)
徳川家康が影武者であったという話は、隆慶一郎では関ヶ原の戦いの際の話であった(58歳)。本作はなんとそれをさらにさかのぼり、わずか26歳の折に暗殺され同時にそこから影武者となるという奇抜な構想なのだ。下巻がまだなのでまだどんなどんでん返しが待ち受けているか分からない。6歳の人質の際にも影武者と入れ替わっていのかもしれない。
2010年12月16日 (木曜) 『家康、死す 下』(宮本昌孝 講談社 2010年 \1700)
長男・信康の死は謎であった。どうして家康が唯々諾々と信長の切腹命令に応じたのかと、とも。そのあたりからの発想なのかもしれない。影武者といい、すり替えといい。そして家康の最後もふぐにあたったのではなく鉄砲による暗殺としている。
歴史事実は一つしかないはずだが、歴史の創作は無限に可能だということだ。となると、家康と名前をつけられた人間が存在すればそれでオーケーなのであって、この世に一人しか居なかったはずの家康でなくてもいいということだ。ロボットでいいのだろう。そのように考えていくと虚しいものであるが。
229
:
FK
:2010/12/23(木) 20:50:57
2010年12月21日 (火曜) 『損料屋喜八郎始末控え』(山本一力 文藝春秋 2000年 \1571)
シリーズ第1作。なかなか面白い。この損料屋というのは今でいうレンタルショップのようなものか。元武士の主人公(30歳くらいか)が活躍する。それも経済界というか、商売の世界での話。
「万両駕籠」「騙り御前」「いわし祝言」「吹かずとも」の4編からなる。「吹かずとも」は「吹かずとも 嶺の桜は散るものを こころ短き春の山風」。
「棄捐令がいまの金詰まりを引き起こしたのは間違いない。商人は利を貪るのが生業だ、強欲であることは責められん。」(P.295)
【現代ではこのような考え方は通用させてはいけないだろう。強欲は責められるべきなのだ。】
2010年12月22日 (水曜) 『損料屋喜八郎始末控え 赤絵の桜』(山本一力 文藝春秋 2005年 \1524)
シリーズ第二作。「寒ざらし」「赤絵の桜」「枯れ茶のつる」「逃げ水」「初雪だるま」の5編。
「礼を正味から伝えたければ、気持ちだけでは届かない。カネは、そんなときのために役立つ道具だ。」(P.85)
【カネだけとはかぎらないと思うが、何かモノが物を言うのであろう。カネの使い方はつくづく難しいと思う。もっとも、当方にはそもそもそのカネがあまりないのではあるが。】
2010年12月23日 (木曜) 『損料屋喜八郎始末控え 粗茶を一服』(山本一力 文藝春秋 2008年 \1524)
シリーズ第3作。「猫札」「またたび囃子」「猫いらず」「惣花うどん」「いわし雲」「粗茶を一服」「十三夜のにゅうめん」7編からなる。
権謀術数の世界を見事に生き抜いていく主人公に魅力を感じる。そしてこの作品のいいところは、敵役をただの悪のままにしてないというところ。悪人には悪人のなりの論理があるわけだ。そしていいところも。具体的には札差の中でもトップの伊勢屋なのだが、なかなかの茶人であり、商売にはえげつないが、カネを出すべきところは出すというところ、とかである。
この手の小説は、人生や社会のことの勉強になる。高校生には未だしの感もあるが、もう読んでいっていいのではないだろうか。続きが楽しみだ。
230
:
FK
:2010/12/30(木) 16:50:09
2010年12月29日 (水曜) 『マルガリータ』(村木 嵐 文藝春秋 2010年 \1500)
日本におけるキリスト教文学の一冊として残る作品ではないかと思う。かつての遠藤周作の『沈黙』を思いだす。そこにあるのは、なによりキリスト教のというより、日本人の嫌らしさだ。
私にとって目新しい視点としては、南蛮人がその布教の実績を誇示せんがために、日本人にも殉教を強いるということ。そして彼ら天正遣欧使節の四人は、宗教的信念からそのようなことがあってはならないとして最後まで頑張る誓いを立てて、その人生を送っていったということ。千々石ミゲルだけが棄教するわけだが、その深い理由も著者は解き明かしていく。(「四人そろって国外へ追放されるわけにはいかなかったのだ」(P.289))もちろん、小説家としての想像力で。史実は知らない。いや分からないかもしれないが。
あのときからマルチノは澳門でたたかうさだめだったのかもしれない。南蛮人を相手に日の本の人々を守り、南蛮が日の本にいだく虚像を打ち砕く。それがマルチノの行くべき道だったのだ。/日の本の人々は南蛮人のために殉教などしない。天主教を信奉するために残虐な死まで受け入れさせられることはない。この国の人々を、異国人の信仰を強める礎として死なせはしない。(P.258)
「珠の姿を見たか。あれこそ我らが殉教を嫌うた一番の理由ではないか。天主の名で人を悲しませ、苦しませてどうするのだ」(P.276 じゅりあんの言葉)
南蛮人が導き日本人が導かれるという上下の間柄を保つべきだ、日の本の者どもは忠実な切支丹にさえしておけばよいのだ(P.288)
231
:
FK
:2011/01/04(火) 23:16:04
2011年 1月 3日 (月曜) 『小暮写眞館』(宮部みゆき 講談社 2010年 \1900)
700ページを超える長編。読むのも時間とエネルギーがいる。ありふれた人生を描いているようで、小説だからティピカルに描いているのだが、主人公・英一の高校一年から卒業までの三年間を対象としているのだが、人生というものを詳細に描いていくとこのような長編になってしまうのだと思う。
いくらでもありそうなエピソードがあれば、それはないだろうと思われるようなエピソードも織り交ぜられて話が展開していく。
題に「小暮」とあるが、ここに越してきたのは「花菱」家の人びと。小暮写眞館の佇まいを残したままで、その古家に住みだした酔狂な花菱家の人びとを取り巻く事件と、歴史が展開されていく。
私にはやや現実味を欠くようなアイテムが重要な役割を果たす。そう、心霊写真が出てくる不思議な・異な感じの世界なのである。しかしそのような世界を描くことによって現実の世の中がより象徴的に浮かび上がってくることになる。ダイレクトに書かず、小説の世界で書くところに意味があると言うことだ。 小説は、その読むプロセスを楽しめばいいのであって、特に教訓的な何かとか、テーマとか主張とかはなくていいのだろう。指摘しようと思えば、現代社会を抉る様々な問題が、ということになるのだが。
一読しただけだが、いずれ再読すれば、また違った読み方・楽しみ方(?)ができることだろう。その日を楽しみに(私はそのときにはもうすっかり忘れてしまっていることだろうが)。
「生きている者には、ときどき、死者が必要になることがあるんだ。僕はそれって、すごく大切なことだと思うよ。こういう仕事をしてるとさ、この世でいっちばん怖ろしいのは、現世のことしか考えられない人だって、つくづく思うから」(P.351 不動産屋の須藤社長)
【死者も私たちが生きているかぎりともにそこにいるのだ。私たちが生きているかぎり、見守ってくれているのだ、と思いたい。】
「人間関係って、ふしぎだなあ/必要なときに、絶妙なタイミングで、会うべきヒトに会うようにできてるんだよね。これが天の配剤ってヤツかなあ」(P.354 不動産屋の須藤社長)
【一期一会という言葉は私には使い切れない言葉だ。でも会うべくして会う、会わなければならないときに会う、といった考え方をするのはいいことではないか。そのときそのときを大事に、目の前の人を最大限に大事にしてともに時を過ごす。話の中身はときに苦しいこともあるかもしれない。それでもその人と時間を共有できることの幸せは、いずれ時間の経過とともに理解できることだろう。】
232
:
FK
:2011/01/07(金) 18:36:32
2011年 1月 7日 (金曜) 『自殺島 4』
いろいろと考えさせられる漫画だ。無法状態とはどういうことか、具体的にその実態を描く。たとえば自分で獲得した食料でも力(暴力)によって奪われる。島を離脱しようとしたら海上保安庁の船に見つかり「領海侵犯」と警告され、銃撃されるのだ。
人間関係でも人を疑ったり裏切ったり、そしてまた信じることによって再スタートする。こんな原始的な素朴なレベルから考えることができる。それは設定が無人島となっていた「自殺島」であるからだろう。そしてここの住民は日本国籍を剥奪された自殺未遂者ばかりだからだろう。
233
:
FK
:2011/01/15(土) 14:17:03
2011年 1月15日 (土曜) 『砂の王国 上』(荻原浩 講談社 2010年 \1700)
路上に寝て街を眺めれば、人生観は確実に変わる。(P.5)
その最初のページ、この第一行目からぞっとするくらい読んでいて辛くなる内容だ。400ページ近い長編。これまでホームレスという言葉を安直に口にしていたが、とてもとてもそんな生やさしいものではないことを実感(?)させられる思いだ。小説家のすごいところは、自らが体験していなくても、体験している人よりももっとリアルに表現できるということだろう。
この主人公がホームレス生活を余儀なくされ、寒空に段ボール・ハウス、103円しかなくて100円の商品が買えないこと(消費税はやはり悪税だ)、ホームレス生活にもいろいろとしがらみがありそれほど自由とはいえないこと、コンビニなどの廃棄弁当一つ手に入れるのも大変なこと、寝ているところをおもしろ半分に襲われて暴力を受けること、公的機関が救いにならないこと、宗教団体が炊き出しをしてくれるのはありがたいのだがそれも一筋縄でいかないこと、等々が開巻から約200ページにわたって描かれている。何度も本を閉じてしまった。それくらいビィビィッドであり、リアルであり、読んでいて辛くなるのだ。
こんな場面もあった。少しカネが手に入るとそのなけなしのカネをひっつかんで競馬場へ行くのである。一攫千金を夢見て。負けても負けても、どこまでもつぎ込んでいく泥沼というか、まさに地獄がある。
この世には神も仏もいない。あるのは運と不運だけだ。(P.34)
努力さえすれば報われるはず、というのはたわごと。どう考えても「この世には」というのが現実だろう。とことん落ちてしまえば、もうなすすべはないのだ。そんな絶望感を感じさせられる。
さて上巻は、主人公たちが手にした元手をもとにある事業を始めていくわけだが、その最初の一ヶ月余りが過ぎたところまでである。これからどのように展開していくの、ひやひやしながら読み進めることになるだろう。
234
:
FK
:2011/01/16(日) 11:21:08
2011年 1月15日 (土曜) 『同じ月を見ている 全7巻』(土田世紀 小学館)
「同じ月を見ている」全7巻を読了。なかなか歯ごたえのある漫画だった。感心した次第。絵自体はやや稚拙な感じではあるが、内容がいいということ。
あと驚いたのは映画とはかなり違っているということ。まさしく主人公が逆転しているわけだ。漫画ではあきらかにドンが主人公であり、彼の希有な生き方・生涯が話の中心なのだ。
バイオレンスもあるが、それは掲載誌がヤングサンデーということで、そのようになるのだろう。
それにしても彼のような純真無垢な人間というものがこの世に存在するものだろうか。そんな風に思えるくらい、人を悪く思わない。そして自然に自己犠牲をしてしまう。何ともいえないありえない人物造形ともいえる。これまた一種のファンタジーということなのだろう。
235
:
FK
:2011/01/18(火) 21:21:31
2011年 1月18日 (火曜) 『神さまとお話しした12通の手紙』(エリック・エマニュエル・シュミット PHP研究所 2004年 \1100)
映画[100歳の少年と12通の手紙]の原作。一日で10歳ずつ年を取っていくという発想がおもしろくもあり、切なくもある。これも余命ものといえばいえるかもしれない。ただ日本のそれとは違い、ここには宗教があるのだが。
神様への手紙は(おそらく)12月18日から書き始められ、12月30日で終わっている。12月31日はマミーローズが、彼オスカルの最後を書き綴る。
ここで映画のホームページ(
http://www.100-12.com/
)を見、その予告を観た。もうその予告だけ観ても涙が出てきそうになった。昨秋、見逃した映画であった。DVDの発売予定はまだないようだ。なお音楽はミシェル・ルグランとのこと。
「病気はぼくの一部だよ。ぼくが病気だからって態度を変えることないじゃない。それとも健康優良児のオスカルでなきゃ好きになれないの?」(P.99)
236
:
FK
:2011/01/22(土) 22:25:26
2011年 1月19日 (水曜) 『自分らしく生きる』(小澤牧子 小峰書店 1988年)
小澤氏の本は二冊目。この本は発行している書店からも分かるように、「中学生以上向き」ともあるように、ちょうど中高生くらいに良い本だ。やや古さを感じさせるアイテム(たとえばラジオカセット)が出てくるのは仕方がない。またテレビの魔力を説くが、いまやゲームのほうがもっとひどい状況だろう。
キーワードをひろえば、自立・個性/生まれかた・家族・性・仕事・お金・頭がいいとは・学校信仰・自殺など。
学校に支配されることなく、学校の外の世界をひろげ、いろいろな知のかたちに出会い、学校をそれらの世界のひとつとして、自分の中に位置づけなおすことを目ざしたい。(P.132)
【学校信仰という言葉は最近使われないようだが、現実はまさにその通りの状況が続いている。学校を全否定するわけではないが、当然、全肯定するわけにもいかない。一例をあげるなら、折しもインフルエンザ流行の季節となったが、学校や軍隊など人が多く集まるところは感染の危険大である。
あくまでも生きていく上での関係せざるをえない世界・社会の一つとして学校を位置づけるべきだろう。】
自殺とは、他人の人生を殺すことをも含んでいるのではないだろうか――。(P.174)
【自分の命は自分だけのものであり、生きようが死のうが自分の勝手だという考え方をする人が絶えない。しかし、それは違う。生まれて以来、家族を含めまったく他人と無関係・無縁に生きることはできない。関係の深浅はあろうとも、自殺は他人の人生の一部(であるかもしれないが)、を殺すことになるのだ。】
自分の見えないところのもの、つまり国だとか正義だとか、社会というあいまいな言葉がひきだされてくるときは、いつも“要注意”だ。そうではなくて、自分の身のまわりのひとびと、そしてそのもうひとまわり外側のひとびと、というふうに、目に見え肌に感じられる人間のかけがえのないつながりをつくりだすことこそが、確かな生きる手ごたえである。(P.181)
【観念論の危険性だ。人によってはこの「国」とか「正義」だとかという言葉が耳に入りやすい。「目に見え肌に感じられる」ということの大切さに気がつきたいものだ。】
237
:
FK
:2011/02/12(土) 20:12:58
2011年 2月12日 (土曜) 『ハンマーセッション! 11』(棚橋なもしろ 講談社 2009年 \440)
まず中学編の全11巻を読み終える。昨年の 9月23日に第一巻を読み始めてから、途中、中断していて。しかしなかなかいいではないか。たしかに露出過多の女の子の描き方は目のやり場に困るものではあったが。
生徒たちの前で逮捕された主人公が、半年後にまた脱獄して言う台詞がいい。
「あんな面白い仕事(ヤマ)一度やったらやめられませんから!」
そしてラストページでは、
「さあ行くぞ! 生徒たちのいる学校へ――!!」
いいではないか。そう「生徒たちのいる学校」には魅力があるのだ。誰でも一度味わったら、すぐ分かる。これほど面白くてやりがいがあって、涙が出そうになるほど感動的な仕事は他にはないのだから。(ただ最近はその素晴らしさを理解できない人が増えてきているようだ。大学入試のせいでもあるだろう。)
238
:
FK
:2011/04/12(火) 22:40:22
2011年 4月12日 (火曜) 『砂の王国 下』(荻原浩 講談社 2010年 \1700)
ようやく下巻を読み終える。思い当たること多く、読んでいてしんどくなる。悲しくなる。
そして最後はその表題が予感させるように、予測された結末の一つとなっていった。もちろん、いまもその教団が続いているかもしれず、なくなったかもしれないが、それはもういいのだ。ある意味、宗教発生のプロセスを楽しめば(?)いいのだろう。
それにしても主人公がホームレスとなって、まさしく後の「大地の会」のように地べたから世界を見るという辛酸をなめる上巻のオープニングが秀逸だ。実にその通りなのだと、実体験のない者にまで、疑似体験させてくれるかのようだ。
とはいえ驚くべきことは、手練れの小説家にかかれば、宗教の一つや二つ、いとも簡単にその教義を作り上げて立ち上げることができるということだ。
「地面に座りこんで、地べたから街や人を眺めているとね、考え方が変わるんだ。すべてが変わるとまでは言わないけれど、心の中には、確実に、変化が起こる」(P.94)
また熱心な信者のありようについては、
人間関係を壊そうが、それまでの生活が損なわれようが、自分の信じるものを人に理解されたい、認められたいという欲望のもとに、どこまでも突き進んでいく。(P.113)
なんにしても真理やのりにこそ依るべきであって、人に依るべきではないということだ。これは永遠の真理であり、私たちの日常生活においても間違わない・騙されないための鉄則であろう。
239
:
渦森六郎
:2011/04/29(金) 19:06:52
2011年4月29日(金)『鈴木先生』全11巻(武富健治 双葉社)
ついに『鈴木先生』が完結した。高校生の頃に読んで、1巻読むのにこれだけ体力を使う漫画があることに衝撃を受けた。読後、ほんとうにぐったりするのである。
中学教師、鈴木先生がクラスの内外で起こる生徒(時には教師)の問題(給食の献立決めから中学生のセックスまで、幅広い)に対して、独自の「鈴木流」教育観で立ち向かうというストーリー。
扱う問題がヘビーなこともしばしばであり、また教師と生徒、時には保護者や他の外部の人間まで、さまざまな事情や葛藤や思惑が絡んで、読者は脳味噌をフル回転させることを要求される。「答えが出なくても、それでも考え続けろ」というメッセージが氾濫している。話題のサンデル教授よりも「白熱教室」だ。
体力を消耗するとは思うけれど、全巻読破すべき作品。非常にすぐれた群像劇であり、教育論であり、演劇論であり、そして人間論だと思う。
240
:
FK
:2011/04/30(土) 15:41:17
2011年 4月30日 (土曜) 『銭売り賽蔵』(山本一力 集英社 2005年 \1800)
江戸時代、両替の手数料で商売とする人たちを主人公にした作品。相変わらず、氏の作品は良い。商人というより職人に近い人たちの心意気が、特に深川の地名とともに印象的である。
上に立つ者というか、社会を動かしていくことに責任を持たなければならない人たちのあるべき姿が描かれてもいる。『おたふく』でもそうだったが、氏の作品に一貫して流れる精神なのだろう。
『鈴木先生』は未見。まずはテレビドラマから観てみることにします。
241
:
渦森六郎
:2011/04/30(土) 20:15:37
『鈴木先生』がどんなふうにドラマ化されているかは分かりませんが、ドラマが面白くてもつまらなくても、漫画は読まれることをおすすめします。おそらくドラマと漫画は別物ですので。
242
:
FK
:2011/06/21(火) 20:53:26
2011年 6月21日 (火曜) 『原発のウソ』(小出裕章 扶桑社 2011年 \740)
たいへん分かりよい読みやすい新書であった。広く読まれると良い本だ。
それにしてもわずかな被曝でも人体に影響があるということを忘れてはいけないようだ。まして子どもたちは成長が早い、つまり細胞分裂の勢いがすごいのでより悪影響を受けてしまうようだ。
本当にどうしようもない大変なことが、とうとう起こってしまったのだとの思いで一杯だ。大袈裟なようだが歴史的大事件だ。
243
:
FK
:2011/08/01(月) 16:22:18
2011年 8月 1日 (月曜) 『川あかり』(葉室 麟 双葉社 2011年 \1500)
相変わらず良い。これもほろりとさせられる。この藩随一の臆病者とされた主人公が、その後どのような人生を送ったのか知りたいものだ。
「しかし、誰かが損をしてでもやらねばならないことも、世の中にはあるのではありませんか」
「若い時はそんなことを思うものだが、それは思いあがりだ。一人だけが犠牲にならなければならないことなど、この世にはひとつもない。この世の苦は、皆で分かち合うべきものだ」(P.89)
若い人というのは、こんな風にして老獪な年寄りたちに騙されて、その命を失っていくのだ。そのような主人公に対して、ベテランが諭すシーンである。
244
:
FK
:2011/08/18(木) 05:55:26
2011年 8月17日 (水曜) 『クロサギ』(全20巻 黒丸・夏原武 小学館)
この夏休みに集中して読み残していた10巻ほどを読んだ。背筋が凍るといっても言い過ぎではない読後感が残る。
人は騙されるもの、いや人は人を騙すものだ。どちらが悪いといった通常の善悪観念や正義感で断罪できるものではない。人間の根源に根ざすどうしようないものがからんでいるからだ。そして欲をかけば騙され、欲がなくても金を持っていればかすめ取られていく。人間関係は基本的には、自分の利益のために構築するものだが、そして否定するものではないが、この詐欺というのは、はなから利益を詐取するためにだけ築かれるものなのだ。悲しい現実である。
「ファイル49 ヘッドハンティング詐欺」(第20巻)の解説で、「金品を要求されたならば、百パーセント詐欺だと思って間違いない」とある。そういえば内職(宛名書きなど)でもはじめに登録料とかでカネを取られる。この時点で詐欺だと気が付くのは難しい。あと宗教でもそうかもしれない。会費とかお布施とかの名目でまさしく「金品を要求」されるのだ。
ということでそれが詐欺であるかどうか見極めるための一つの法則は、この「金品を要求」されるかどうかということになるだろう。
245
:
FK
:2011/09/06(火) 22:05:13
2011年 9月 6日 (火曜) 『ジャーナリズムに生きて』(原寿雄 岩波書店 2011年 \920)から
1.「いい答えはいい質問から」
2.ジャーナリズムをめぐって自由と民主主義が衝突したら、ためらいなく自由を取ろう
3.組織内ジャーナリストは右手でやりたいことをするために、左手でやりたくない仕事もする
4.誰をも喜ばせず、誰をも怒らせず、誰をも愉しませず、誰をも悲しませないニュースがあろうか。誰をも安心させることもなく、不安がらせることもなく、励ますこともなく、落胆させることもない、そんなニュースはない(P.239)
【それぞれを授業という言葉に置き換えてみるといい。
1.はそのままだ。生徒たちからいい答えを引き出そうと思ったらまず「いい質問」を考えねばならない。
2.はやや違うかもしれないが、授業のなかにあってもまずは自由を尊重すべきということ。民主主義というのは多数決原理であり、少数あるいは異質な意見が封じられてしまう畏れがある。そんなとき何より自由をまず取るべきなのだろう。
3.の場合は、自分の考える授業を展開したければ、ということ。
4.は「ニュース」を授業に読み替えればいい。可もなく不可もない授業ではなく。】
246
:
渦森六郎
:2011/10/10(月) 22:25:08
2011年10月10日(月)「恋する原発」
今月発売の『群像』11月号に掲載された、高橋源一郎の中編小説。東日本大震災のチャリティーAV(アダルトビデオ)をつくる男の話。なかなかの不敬・不謹慎小説だ。世が世なら、高橋さんは憲兵にしょっぴかれていただろう(笑)。
今日は早稲田で高橋さんの講演会もあった。AV業界の裏話に始まって、震災後の文学の役割についての話へと持っていくという力技。面白かった。
以下、「恋する原発」の中で面白かった部分を引用。
その時、会長がいきなり、いった。
「関係ないけど、今上天皇は最高だよね」
「ああ、いいですね」と社長が答えた。内心ブルっていたにちがいない。社長と会長は、おれにとって尽きない謎だった。だいたい、この二人にどういう共通点があるのか、おれにはわからなかった。
会長が、会社に来るのは、月に一度の企画会議の時ぐらいだ。理由は「めんどくさいから」。その点では、おれと話が合うような気がする。
「ぼく、陛下のファンなんだけど、知ってるよね。今度、陛下がお出ましになるAVを作らない?」
「むりむりむりむりムリムリむりむりむりむりむりむりむりむり!絶対無理!」
「なんで、なに作ってもいいじゃん。ガミちゃん、表現の自由だよ」
「会長、日本に表現の自由なんかないことを知らないんですか!」
「えっ、なかったの?」
「はい!」
「なんで?」
「だって、国民が表現の自由なんか必要ないと思ってるからですよ! そんなもの、あってもなくてもなんの関係もないと思ってるからです」
「なんだ、そうか」
「そうです」
「じゃあ、言論の自由は? あるの、ないの? どっち?」
「あるわけないでしょ、そんなもの!」
「えっ! そうだったの? 憲法に書いてなかったっけ?」
「書いてあるだけ! ああいうのを、絵に描いた餅っていうんです」
「ふうん、知らなかった」
「会長、何年、日本人やってるんですか。そんなことも知らないの? 信じられない……」
「わかった。おまえがそういうんだから、そうなんだよね」
「だから、とにかく天皇とか皇室とか、ほんと止めてください。あと、最近ではマホメットとか。触らぬ神に祟りなし! お願いします! ほんと、ひどい目に遭ったんだから!」
「でもさ、よく被災地に行って、腰を下ろして、話を聞いてるでしょ、あの人。すごい誠実さが伝わってくるんだよね。いい人だぞ、アキヒトは」
「しつこいなあ、会長……。だから、呼び捨てにしちゃ、ダメだってば!」
「それから、先祖の桓武天皇のお母さんが朝鮮出身っておっしゃったよね」
「そんなことありましたっけ」
「ほら! 確かに、おっしゃったんだよ。でも、その発言で、よく『非国民!』って、いわれなかったよね。あれ、おそろしいほどの御決意で語られたと思うんだよ、ぼくは。で、陛下は絶対、翌日の新聞を見たと思うわけね。『ミチコ、ぼくの昨日の発言、ちゃんと新聞に載ってるかな?』『いえ、あなた、ほとんど載っていないみたいですわ』『ダメじゃん、この国!』っていってたと思うね」
「そんなバカな……」
「国旗の掲揚は強制せぬのが望ましい、っておっしゃっていたこともあったよね。わかってるよね、アキヒトは」
「会長、ファンだっていうのはよくわかりました! でも、お願いだから、呼び捨てはやめてください! もしかしたら、盗聴器がしかけられているかもしれないじゃないですか!」
「いいじゃん、別に。なに、あのハシモトとかいう知事、日の丸を条例で強制させようなんてさ。あんな大御心がわからない知事なんか国賊だ! 大御心は言論の完全なる自由に決まってる!」
(『群像』36、37ページ)
247
:
FK
:2011/10/15(土) 15:04:15
2011年10月15日 (土曜) 今上(きんじょう)天皇
もはや一般には死語でしょうね。それはそれでいいことだと思いますが。
さすがに戦後の天皇なので、私にはある種のリベラルさも感じますが、誤解しているのかもしれません。そう思った理由が引用されていた天皇家の祖先のことと、「国旗の掲揚は強制せぬのが望ましい」との二つの発言。いずれも新聞で見たわけですが。
言論や表現の自由についての一節も、そのとおりですね。権利は守ろうとしなければ、奪われていくもの。原発のことをはじめ、いろんなところでタブーがありますが、最大のタブーが天皇および天皇家に関すること。(にもかかわらず、マサコさんのことが女性週刊誌などで喧伝されるというのは、これは言論・表現の自由からではない、つまりリークというか誘導があるのではと思われます。)
日本にはまだ民主主義はないと私は思っています。もちろん私の言う民主主義とは、選挙制度などの形式的なそれではありません。東日本大震災と放射能汚染への対処を見てましても、よりましな制度としての民主主義すら、まだこの国には存在してないのではないかとつくづく悲観的になります。
248
:
渦森六郎
:2011/11/21(月) 18:00:31
2011年11月21日(月)『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』(與那覇潤 文藝春秋 2011年 ¥1500)
今ツイッターで、與那覇潤という人をフォローしている。愛知県立大学の准教授で、若干32歳。専門は日本近代史。
與那覇先生のつぶやきはなかなか面白いのでいつも楽しく読んでいるのだけど、この度、そんな先生が本を出した。
早速、読了。
中世からポスト3.11の現在まで、およそ1000年の日本の歴史を1冊にまとめるというなかなかの力技。
與那覇先生が本書で目指しているのは、「学界では常識になっているのに、高校の日本史やそのへんの歴史マニアにはまだまだ普及していない最新の研究成果によって、日本史を書き換えること」だ。「高校日本史」から「大学日本史」への橋渡し。
まず、冷戦以降のグローバル化した世界は、宋代の中国を拡大したものにすぎない、という話から始まる。宋代の中国に、やっと世界が追いついてきている(中国化)。そして、今の日本も「中国化」しつつあるという。
「中国化」というのは、著者の造語だが、要するに「皇帝とその子飼いの官僚に権力が集中し」「朱子学という高邁な理念によってその権力が担保・統御され」「その代わり民衆には経済の自由が保証され」「社会の流動性が高まった」社会へと世界が変化しつつあるということだ。「皇帝」を「アメリカ」に、「朱子学」を「ノーベル平和賞」に言い換えれば、そのまま現代の世界の状況に当てはまる。
で、日本の歴史というのは、この「中国化」(郡県制)と「反中国化」(封建制)のせめぎあいの歴史だったのだという主張が、本書の骨子である。
以下要約(すごくヘタクソなので、飛ばしてもいいです)。
既得権益を得ていた貴族による封建制を平氏が撤廃しようとした。そして、宋銭を流通させることによって、貨幣経済を普及させようとした(中国化)
↓
平氏のような国際競争力のない守旧派貴族や源氏によって平氏が滅ぼされ、鎌倉時代に(反中国化)
↓
後醍醐天皇が、楠木正成ら「悪党」や流民、商工業者の力で鎌倉武家政権を打倒。自分と、子飼いの家臣による天皇親政を目指す(中国化)。が、足利尊氏ら守旧派に敗れる(反中国化)
↓
戦国大名による統治によって、民衆は「守ってもらう」存在になり、大名の領地に定住し、その中で結束するようになった。石山本願寺のような、高邁な理念と地域を越えたネットワークをもつ「中国的な」集団は駆逐されていった(反中国化)
↓
江戸時代になると、日本独自の地域密着型身分制ができあがる。自由度は低いが、そこそこ食べていける時代(反中国化)。しかし、朱子学の普及によって「徳さえ身についていれば、誰が君主になってもいい」という考え方が広まってしまい、また、幕府がその正統性を裏付けるために唱えた「大政委任論」も「天皇陛下の威光によっていくらでも幕府を批判できる」思想として利用されてしまう。
そして、それを利用した武家の次男坊・三男坊(どうせ生きてても日の目を見ることがない人々)によって、明治維新が起こる。中央集権・自由経済の時代。競争社会に(中国化)
↓
昭和になると、会社や工場の「ムラ化」が始まり、また在郷軍人によって地域社会がまとまってゆく。日本は江戸時代的な社会へと逆戻りし、(経済に関しては)自由と自己責任の明治時代的な社会が終わる(反中国化)
↓
戦後も江戸時代的な状況は続く(自民党による地方の農村への利益誘導など)。しかし、1980年代あたりから世界では新自由主義が台頭しはじめ、日本でもイエ社会が崩壊しだす。また、小泉純一郎や橋下徹など、「既得権益と戦う」ことを売り物にする専制的なリーダーの出現がちらほら。3.11による地域社会の崩壊、流民の発生(中国化)
ふう、なんとか要約できたか…?いや、できてないですね。なんかもうぐちゃぐちゃ。まだ理解しきれてないから。
でもまあそういう感じのことを、色々な文献や映画を引用しつつ、與那覇先生は言っている。
あと年表とか文献リストも付いてて便利。この本をきっかけに、個々の事柄についての専門的な研究をチェックしにいくことができるようになっている。
さすがに1000年の歴史を1冊にまとめているので、やや大雑把な印象も受けるけれど、しかしまあこういう全体像を俯瞰できるタイプの本があると助かる。大学日本史への入口として、かなり良質なものだと思う。とりあえず史学科の学生は必携なのではありますまいか。いや、史学科の学生じゃなくても、普通に読みやすい一般書なので、1冊持っとくといいと思う。
しかし、與那覇先生、32歳でこんな仕事しちゃうとは…。これからも目が離せない…!
249
:
FK
:2012/04/04(水) 07:47:06
『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』(與那覇 潤 文藝春秋 2011年 \1500)
いま、二万二千部の売れ行きという。私には取っつきにくい題名の本で、読むのも大変であった。それは要するに中国史、中でも宋の歴史を中心にした知識がないと理解できないからだ。なんとか一読したが、また読み直すことに。面白い視点が提示されているのだ。
それにしても日本人は、思想も宗教もなく、では何で動くかというとそれは利害であり、要するにカネなのだという記述があった。悲しいけれどそういうことかと納得してしまう。
*
『研ぎ師太吉』(山本一力 新潮社 2007年 \1600)
「切れ味は、すでに刃物の内側にひそんでおる。研ぎをする者の勤めは、刃物を砥石にあてて、その切れ味を内から取り出してやることだ。」/研ぎ師の腕がよいから、刃物に切れ味が生まれるわけではない。/刃物が本来持っている切れ味を、内から取り出してやるのが腕のよい研ぎ師。(P.128)
【これはもう教師の仕事そのものだろう。勘違いしている人が少なくないのは、いずこの世界でも同じことか。】
ともに同じものを食せば、互いに気心が知れる。(P.215)
【たかが、といえないくらいの力というか、影響力があるのだろう。もっとも、職場の人間同士の宴会は、そうはいかないが。】
250
:
FK
:2012/04/06(金) 22:51:50
『新しい世界史へ ――地球市民のための構想』(羽田 正 岩波新書 2011年 \760)
さっと読んだだけではあるが、これまでうっすらと疑問に感じていたことに解答があったような新書であった。それは例えばヨーロッパ中心の見方描き方であるということ、あるいは「イスラーム世界」というくくり方などである。
*
「第2章 いまの世界史のどこが問題か?」として三点を指摘する。
第一の問題点は、現行の標準的な世界史認識があくまでも日本人による世界史の捉え方(P.53)
*
続いて二つ目の問題点。
自と他の違いを前提とする世界史/世界には現実に数多くの主権国家があるのだから、この世界史は世界の現状を追認している。(P.68)
*
最後に三つ目の問題点は、ヨーロッパ中心史観。
おそらく現行の世界史の見方に含まれる最大の欠点である。というのも、現在私たちが世界史を学べば、その結果として、ほとんど自動的に、ヨーロッパは特別であり、世界でもっともすぐれていると信じてしまう仕組みになっているからである。(P.76)
以上三点を次のようにまとめられている。(P.90)
現行の世界史は、日本人の世界史である。
現行の世界史は、自と他の区別や違いを強調する。
現行の世界史は、ヨーロッパ中心史観から自由ではない。
*
では氏が考える「新しい世界史」とは。
端的に言えば、地球主義の考え方に基づく地球市民のための世界史である。/「私たちの地球」と捉える世界認識が必要である。(P.92)
*
そしてそのために必要なことは。
中心性の排除と関係性の発見(P.102)
つまりヨーロッパ中心史観の排除であり、またヨーロッパ以外であっても中心性は排除されるべきだということ。もちろん日本も例外ではない。
人間集団の間の共通性に着目し、集団間の関係性や相関性を重んじた叙述を心がける(P.135)
国民国家史を寄せ集めた世界史ではなく、(中略)国民国家史を相対化した過去の捉え方がどうしても必要になる。(P.147)
*
具体的な描き方については、三つの方法が提示されている。(P.166)
1 世界の見取り図を描く (基本となる単位は人間集団、見取り図の時間の幅は15世紀までは100年程度で(P.177))
2 時系列史にこだわらない (過去のある時代の世界全体の姿を描く)
3 横につなぐ歴史を意識する (一国史的、または二国関係史的にではなく、多角的・俯瞰的に整理する(P.188))
251
:
渦森六郎
:2012/04/07(土) 16:12:49
>FK先生
「それにしても日本人は、思想も宗教もなく、では何で動くかというとそれは利害であり、要するにカネなのだという記述があった。」(『中国化する日本』)について
宗教は難しいと思いますが、たしかに日本でも何らかの普遍的な理念が共有されたほうがいい気がします。為政者の暴走を抑えることができるような、時の政府よりも高位にある「理念」です。
僕もどうも日本人(こうまとめてしまうのもよくないかもしれませんが)は、理念が苦手というか、どうしても具体的な形を求めてしまう傾向にある気がします。天皇とか、水戸黄門とか。理念によって為政者を抑止するのではなく、べつの為政者をつれてくることによって、解決しようとする。人格のないモノを想像することが、不得手です。小泉さんや橋下さんが人気なのも、抽象的な理念より具体的な人格によって政治の問題を解決できると多くの人が考えているからだと思います。でも、ほんとうは、その時ごとの為政者についての議論よりも、まず「為政者が誰であれ守られるべき理念」の創造が必要だと最近考えています。
252
:
FK
:2012/04/07(土) 22:17:06
2012年 4月 7日 (土曜) 依法不依人(えほう・ふえにん)
「依法不依人」という言葉を日蓮の言葉として読んだ記憶がある。そのとおりだと、その後の人生の中でしみじみと知ることになった。
政治家であれ、宗教家であれ、所詮、人は人であって、その人に依っていては間違うことになるのだ。どころか、ひどい目にあうことになるのだ。
ではその「法」とは何か。もちろんこの「法」とは法律のことではない。これを探求すること、見つけ出すことは意義のあることだと思うのだが。
253
:
渦森六郎
:2012/04/09(月) 23:49:18
2012年4月9日(月)『希望論 2010年代の文化と社会』(宇野常寛、濱野智史 NHKブックス 2012年 ¥950)
文芸批評家・宇野常寛氏と情報社会論の専門家・濱野智史氏による対談。3.11の震災以降の日本社会をどう設計していくべきか。抽象的だが前向きな議論が展開されていて、なかなか面白かった。
なぜ同じ土地にこれだけの原発が集中していくつも建てられてしまうのか。それは原発をめぐる議論が絶対賛成と絶対反対の二項対立に陥ってしまっているからだというんですね。(濱野 28ページ)
僕は、この震災・原発がでかい一発だということには同意します。(中略)ただし、でかい一発がきたとしても日常が終わらなかったというのが、重要な点ではないでしょうか。(宇野 33ページ)
すでにあるリアルな人間関係のハブになっている駅を核とすることで、ネット上にコミュニティをつくる。それが地域のソーシャル・キャピタルを底上げすることに繋がる。(濱野 56ページ)
みんな、仕事や家族形成で自己実現することに固執しすぎじゃないでしょうか。(中略)たとえば、仕事での自己実現というのは諦めて、アフター・ファイブの共同体やインターネットで知り合った趣味仲間とうまくやることで承認を獲得する生き方はあっていい。(宇野 153ページ)
日本の学校教育はひたすら「与えられた箱」の「空気を読む」訓練ばかりさせますが、ほんとうに必要なのは「自分に合った箱を探す」訓練と、「選んだ箱に対する距離を計る」訓練じゃないか。(宇野 156ページ)
グローバル資本主義社会下、ネットワーク社会においては誰もがただ存在するだけで貨幣と情報を通じて小さな決定者であり発信者、つまり小さな「父」として機能してしまう。(宇野 206ページ)
254
:
FK
:2012/04/10(火) 22:29:13
2012年 4月 3日 (火曜) 2012年 3月24日 (土曜) 『人生なんてくそくらえ』(丸山健二 朝日新聞出版 2012年 \1700)
(親がいたから自分が在るのだという)考え方は、社会や伝統や国家や宗教や学校などによってもたらされた、個人の自由という最大の尊厳を著しく傷つける、悪辣で、えげつない洗脳以外の何ものでもない(P.11)
【当たり前のように思わせられていたが、実はそのとおりなのだと思う。この考え方によって多くの人が苦しめられてきたことだろう。罪深いものがある。】
子は家を出ることによって、本当の人生を味わうために必要不可欠な自立と自律の精神を培い、親もまた、遅ればせながら親であることの真の務めが何であったかを悟る。(P.23)
【家という物理的なものと、そこにいる家族という精神的なものの影響力の大きさは途轍もないものだ。それを実感することができるのが、家出であろう。まさに自立と自律のためには、まず物理的に安全な安逸の場所である家を離れることが必要なのだろう。】
かつての人間は、ほかの野生動物と同じように、たとえ寿命が短くても、危険だらけの環境にあっても、ただ生きているだけで充実感が得られるような幸福な存在だった。/ところが、文明がもたらした便利さや入り組んだ機構は、仕事の大半を不愉快なもの、苦痛を伴うものに変えてしまい、厭世観や不幸のもととして生きる価値を半減させたのだ。人類の苦悩の原点はまさにここにある。本来ならば、生きることはもっと楽しく、生きる意味など問う必要などまったくないほど、つまり、哲学なんぞが生まれる余地がないほど充実していたはずなのだ。/しかし、今を生きる人間としては、好きも嫌いもなく、このやりきれない世を生き抜かなくてはならない。社会的な意義はあっても、個人的には面白くもなんともない仕事に拘束されて、人生のほとんどを灰色に塗りつぶされなくてはならない。/そこで、またひとつ大きな問題が行く手に立ちはだかる。/仕事の選択だ。/どんな仕事で食べてゆくかによって、本当の自立になるか、本物の人生になるかが決まる。/仕事を大別すれば、ふたつだ。/勤め人になるか、自営業をめざすかの、いずれかだ。(P.39)
【そうだったのだ。かつて人間はみな「ただ生きているだけで」幸せなのであった。本当に哲学など○○くらえ、だったはずなのだ。これは悲しいことだ。生きることが、ただ生きているだけではすまなくなってしまったとは。
そして仕事である。自分を食べさせるためにどうするか。】
学歴を雇う側がそれほどまでに重視するのは、ひとえに従順さを測る尺度として見ているからだ。世間の価値観にどこまで従順であるかどうかを、あまりにも馬鹿馬鹿しい受験戦争にどこまで身を投じてきた人間であるかどうかによって判断しようとしているのだ。(P.40)
【そうだったのだ。「従順さを測る尺度」だったのだ。何かおかしいと感じた人たちはそこからドロップアウトしていくのだ。従順ではないから!】
自分の本当にやりたいことをやるための資金を作るという目的で勤め人になるならまだしも、最初から人生のすべてを捧げるつもりで、仲間がそうしているからということで、あまりに安易に勤め人になってしまうのは、まさに愚の骨頂としか言いようがないではないか。/サラリーマンになるために生まれてきたのか。/勤め人の立場が奴隷そのものだということをわかっているのか。(P.42)
【サラリーマンが現代の奴隷、とはしばしば耳にしてきたことなのに、実感として分かってなかったということだ。そう自由なき奴隷なのであった。】
255
:
渦森六郎
:2012/04/17(火) 20:13:39
>学歴を雇う側がそれほどまでに重視するのは、ひとえに従順さを測る尺度として見ているからだ。世間の価値観にどこまで従順であるかどうかを、あまりにも馬鹿馬鹿しい受験戦争にどこまで身を投じてきた人間であるかどうかによって判断しようとしているのだ。(P.40)
>【そうだったのだ。「従順さを測る尺度」だったのだ。何かおかしいと感じた人たちはそこからドロップアウトしていくのだ。従順ではないから!】
そういう側面はあると思います。しかしそれと同時に僕が思ったのは、今の日本では学歴をもっている人のほうが、比較的自由に生きやすいのではないかということです。職業選択の幅が広がりますし、たとえば卒業後にある程度ぶらぶらしていることも許容される気がします。
まあ、ほんとうは学歴があろうとなかろうと、人間は自由に生きていいはずだと思いますが、なかなか今の日本ではそうも言っていられない。自由に生きるには、それなりの勇気と根性が必要とされる世の中になってしまっています。もちろん、学校なり学歴なりによって制限されてしまう自由もありますが、話はそう簡単ではなくて、今の日本では同時に学校なり学歴なりが、ある程度の自由を担保するアジール的なものとして機能している面もある気がする。
だから、僕はとりあえず、学校なり学歴なりを少しでも自由に生きるための道具として利用できる人は、使えばいいと思っています。受験勉強だってしたらいいと。モノは使いようで、一見ネガティブな、自由とは遠いイメージがある学歴も、使い方によっては自由のための武器になる。
もちろん、あくまで「とりあえず」という話です。最終的に、そういう何らかの「武器」をもっていなくても自由に生きられる世の中になってほしいと思いますが。しかし、まずは「武器」をもつことができる人はそれをもち、自由を手に入れられる人から手に入れていけばいいと思う。そういう人の中から、世の中のおかしさに気づく人も出てくるでしょうし。そして気づいたときに、既存の価値観(ここでは学歴ですか)の中で生きている人たちに相対し、説得していかなければならないわけで、その時にとりあえず彼らを振り向かせるために効力を発揮するのが学歴だと思います。
学歴社会に疑義を呈するのはもちろん必要ですが、同時に、学歴を自由のための武器として利用する道を考えてみるのも、建設的ではないかと。そんなことを考えました。
256
:
FK
:2012/05/19(土) 17:04:12
2012年 5月18日 (金曜) 『月の上の観覧車』(荻原浩 新潮社 2011年 \1500)
短編集。8編からなり、いずれも人の人生を短編のなかに凝縮してみせる。上手いものだ。人生の哀歓と哀感がたっぷりと描かれている。
「トンネル鏡」 夜行列車の窓ガラス、昼間でもトンネルに入ったときの窓ガラスは、まるで鏡のように映し出す。不思議な世界とも言えよう。トンネル鏡、とはよく言ったものだ。
ストーリーとしては、ある男のその母親との半生を描いたもの。短編の中に人生が凝縮されている。「トンネルはときおり私に死を想像させる。」(P.27)
誰にでも、死者とつかのま出会える瞬間がある。私はそう信じている。おそらく、その瞬間は人それぞれに違い、いつ、どこで訪れるのかがわからないために、たいていの人間が見逃しているだけなのだ。(P.253 月の上の観覧車)
【言うまでもなく私たちは、その自らの死の寸前まで、死者たちとともに生きている。彼らと出会える瞬間は、その肉体的な死とともに極端に減少していく。そしてここの文章にあるようになるのだろう。】
257
:
FK
:2012/07/15(日) 10:59:40
『「美しい」ってなんだろう 美術のすすめ』 (森村泰昌 理論社 2007年 \1470)
素朴に考えてみて「美しさ」とはどんなものか、いったい何なのか。ふだんはあまり考えないことをこの本をよすがに考えてみようとした。
これまでの私は、氏のアートにけっして親しんできたわけではない。むしろ私からは遠い世界のような気がしていた。しかし、氏のあのような作品がどうして生み出されるのか、そして「美」とはとの思いでこの本を読むことにした。
*
芸能とは、ぜったいにウケないといけない世界である。/芸術とは、ウケなくてもやらねばならない世界をもつことである。/あるいはこう言いかえてもいいかもしれません。/芸能とは、ひとびとに広く行きわたることがめざされている世界である。/芸術とは、深く行きつくことがめざされている世界である。(P.120)
【この二つについても、さほど考えてこなかったが、なるほどと気が付いた。芸能はその時その時に人々に受けいれられないと意味がない。存在しようもない。しかし芸術はその時の人々に受け入れられなかったとしても、さらにその先を見越してというか、そのような姿勢で作り続けていくことができるということ。自分というものをしっかり持っていれば、芸術には終わりはない。あるいはまた完成というものもないのかもしれない。】
*
じつは「美」というものは世の中のいたるところにある。でも世の中には、「美」以外にもいろいろ情報がありすぎて、「美」はとても見えにくくなっている。/美術館というところは、そういう見えにくくなった「美」がよく見えるように、つまり世の中のさまざまなものやできごとのなかの、とりわけ「美」というファクターにフォーカスをあてて、「美」がくっきりあざやかに見えるようにと工夫をこらした場所である。(P.274)
【なるほどそうだったのか、と。たしかに私たちのまわりには情報があふれている。その中から「美」というものに気がつけるかどうかというのは結構むずかしいことなのだろう。そもそもその基準も、私たち一人ひとりにあるので余計むずかしい。そんな中で「美術館」というものの存在がクローズアップされるわけだ。これまで数え切れないほど美術館は訪ねてきたけれど、実はそういうことだったのだ。】
*
「きれい」でなくても「美しい」/「ちっぽけ」でも「無限」の世界がある/みぢかなところに、すばらしい感動がある(P.279)
【このように感じ取れるように自らの感性を常に磨いておかなければ。でないと気がつかずに通り過ぎて行くのだ。】
*
それぞれにそれぞれの「美しい」がある。このそれぞれの「美しい」を語りあい、なぜそれが「美しい」のか、意見交換することで、人間や自然や宇宙を理解する糸口も見えてくるはず。
相手が美しくない、みにくいと思うから、相手が敵に見えてくるのとちがいますか。相手が「美」と感じられたら、その美しいものを破壊しようとは、だれも思わないでしょう。むしろ愛したい、守りたい、慈しみたいと強く望むでしょう。(P.284)
【人によってそれぞれの「美しい」があるということを認め合わなければならない。お互いを尊重しあい敬意を持つことから人との交流が可能なのだ。そしてそれは自らの感性をさらにブラッシュアップしてくれるのだ。
それにしても醜いものを敵としてみてしまう私たち人間というものの、どうしようもなさ。だからこそ私たちは「美」に対する感覚・感性を培っていかなければならないのだろう。】
258
:
渦森六郎
:2012/07/30(月) 14:25:51
2012年7月30日(月) 『まなざしの地獄 尽きなく生きることの社会学』(見田宗介 河出書房新社 2008年 ¥1200)
まず何より文章が洗練されてて、かっこいい。人間の表相を規定する「都市のまなざし」に絡めとられてゆく少年N・N(永山則夫)。彼はそれに対して自ら表相をつくりだすことで、「まなざし」を操作することを試みるが、そのN・Nの行動もまた、「まなざし」のうちに規定されたものなのだった。
ひとりの少年による殺人事件から、当時の社会のうちに潜む問題を浮かび上がらせる。とにかく鮮やかである。たぶん、社会学ってこういうものなのだろう。
併禄されている論考、「新しい望郷の歌」という題名のセンスもまた良い。前近代的な家郷の解体を、大正時代の一家心中の増加の中に見、六十年代はそれに代わるものとして、より個人的な小さな家郷が「つくられて」いった。そもそも「出て行く場所」であり「帰る場所」であった家郷が、「つくる場所」へと変化した。そのような家郷の転換の時代として、六十年代を描き出している。
大澤真幸氏による解説も面白い。彼はさらに現代の酒鬼薔薇事件や秋葉原事件とN・Nの事件とを比較し、そこから「まなざし」に対する六十年代と現代の少年の態度の違いを見る。「まなざし」を操作し、そこから逃れようともがいていたN・Nと異なり、むしろ現代の少年たちは「まなざし」を希求しているというのだ。この対照性のうちに、大澤氏は『まなざしの地獄』の現代社会を逆照射する鏡としての役割を見いだしている。文章の端々から滲み出る、見田氏に対する大澤氏の尊敬と愛情も良い。
ともかく、社会学のお手本かつ前衛という感じの名著だと思った。
259
:
FK
:2012/08/17(金) 15:55:06
2012年 8月16日 (木曜) 『縮図・インコ道理教』(大西巨人 太田出版 2005年 \1300)
本来、この本の題名は『「皇国」の縮図・インコ道理教』であったとのこと。なるほど、それならば大体、何を言わんとするものかが浮かび上がってくる。
オウム真理教を念頭においたものだが、それと国家としての日本、それも「皇国」というべき日本国家とを考察するものか。
なぜかくまでもインコ道理教は国家から敵視されるのか。それを「近親憎悪」という言葉から読み取ろうとする。もちろん、小説・フィクションではあるが。
小説の最後に次のようにある。このことを気づかせたかったということか。なお人名・深山秘陰(ふかやまひいん)とは、インコ道理教の教祖である。
「皇国」すなわち天皇制国家は、神道系であり、インコ道理教は、仏教系である。神道系と仏教系との相違ならびに規模の大小の差はあれ、両者は、いずれも宗教団体・無差別大量殺人組織であり、前者の頭首は、天皇にほかならず、後者の頭首は、深山秘陰にほかならぬ。(P.128)
260
:
渦森六郎
:2012/08/30(木) 22:26:39
2012年8月29日(水) 『社会を変えるには』(小熊英二 講談社現代新書 2012年 ¥1300)
500ページの大著だったが、小熊氏の文章は読みやすいのでどうにか読了。
戦後日本の社会運動史と西洋の政治思想史を概観し、企業や家庭や労組や村などに所属していればどうにか富の再分配を受けることができたような時代は終わり、良くも悪くも人々が「自由」に、バラバラになってきた(させられてしまった)というふうに現状を分析する。そして、そんな不安定な時代にいかに新たな自由民主主義にもとづき、主体的な個人によって構成された「われわれ」をつくりあげるか。その方法を提示した論考である。
分厚いが内容的にはコンパクトにまとまっていて、ひとり1冊持っておくといいタイプの本だと思った。
261
:
FK
:2012/10/02(火) 12:38:32
2012年 9月17日 (月曜) 『社会を変えるには』(小熊英二 講談社現代新書 2012年 \1300)--1
500ページ以上もある新書。それでも氏の著作の中ではまだ読みやすい方だろう。題名にも惹かれる。
*
お金や暴力は、関係が希薄になってくるところに、関係の代役として入りこんでくるのです。(P.119)
【社会でものを言うのは、やはりカネと暴力なのか、と慨嘆してしまう。】
お金を使うと、関係を作る手間がはぶけます。それが楽なので、関係をお金に変える動きがおこる。つまり「無縁」になりたくなるのです。しかし、そのぶんだけ関係はお金に浸食されてきます。そうして関係が変質してくると、お金を使わないと人が動いてくれなくなり、お金に頼る度合いが高まって、ますますお金が関係を侵食していきます。(P.225)
【お金というものを私たちは上手く利用・活用しているようでいて、結局それに支配されて生かされているということのようだ。難しいアイテムだ。】
ハンナ・アレントは、「労働」というのは生きるための手段、食べたり使ったりしたら消えてしまうものを作る行為だから、いくらくりかえしても無常と虚無から逃れることはできないと言います。それにたいし「活動」はそれじたいが目的である行為、「仕事」は目的とつながっている行為ですが、現代ではそれが見失われて「労働」が支配している、と考えました。(P.226)
【なるほどワークというのは、基本的に虚しいものかもしれない。誰かがしないと社会は困るので、その代償として高額の報酬が本来支払われるべきなのだ。ところが現実はその真逆のことを、洗脳によって成し遂げているわけだ。
あと仕事というのもある程度の満足感を得ることはあったとしても、やはりワーク・労働の延長上にあるものだろう。ということで、ここの言い方でいけば「活動」がもっとも人間らしいものということになる。】
人間は何か「自己を超えたもの」とつながっていないと、生きづらいものだということ(P.228)
【そうなんだ。私などそうは思ってないつもりなのだが、そうなのかもしれない。】
262
:
FK
:2012/10/02(火) 12:39:52
2012年 9月17日 (月曜) 『社会を変えるには』(小熊英二 講談社現代新書 2012年 \1300)-2
投票の代議制というのは、いわば選挙による貴族政です。自由主義というのは、権力は介入するな、生活が安定しているから国政なんか知らない、いい王様が治安と外交だけやってくれ、という考え方です。民主主義というのは、みんなで決めないと納得できない、という考え方です。(P.323)
【あまりに代議制というものを信用しすぎてきたようだ。実は何の根拠もないのに。民主主義というのも民が主権(権力)を握るものと解釈するなら、それに従わざるをえない民衆の立場からしたら、所詮、権力は権力なのだ。それを忘れていた。】
代議制の自由民主主義への不満が高まったとき、デモや社会運動や国民投票をはじめとした直接民主主義で補ってやらないと、人びとが納得しないのは当然です。(P.324)
代議制がもとは封建制の産物(P.324)
【なぜ「代議制」がダメなのかと思っていた。現実に日本では機能していず、ダメなのだが、その理由が分からなかった。知るためにはやはりまず歴史から学ぶことが必要だった。】
「教師の役割は、教師を必要としない人間を作ることだ」という言葉があります(P.412)
【誰の言葉かは紹介されてない。自立した人間育成が目的ということか。教師といってもある一時期にほんの少し、その生徒の人生にかかわるだけなのだ。その後の長い人生は自ら作り上げていくしかないわけで、私たち教師がいつまでも面倒を見られるわけがない。しかしその割り切り(というにはあまりにも当然のことだが)をできない人も散見される。】
参加型・対話型の民主主義を作るしかない(P.422)
【社会を根本的に変えて行くには、いい方向に持って行くためにもその基本は、私は民主主義と個の確立だと思っている。ここで氏が言うように、その民主主義は単なる民主主義ではなく、定義をはっきりさせたこのような形態であるべきだと思った。】
ある方向に向けて効率化し、無駄や異論をすべて切った組織は、環境の変化や想定外の事態にきわめて弱いことは、組織論では常識です。(P.492)
【いまの日本の会社は言うに及ばず、学校までもがこのようになってきている。私たちヒラにしても意欲が減退するのをとどめるには努力が必要とされる。】
動くこと、活動すること、他人とともに「社会を作る」ことは、楽しいことです。すてきな社会や、すてきな家族や、すてきな政治は、待っていても、とりかえても、現れません。自分で作るしかないのです。(中略)/社会を変えるには、あなたが変わること。あなたが変わるには、あなたが動くこと。言い古された言葉のようですが、いまではそのことの意味が、新しく活かしなおされる時代になってきつつあるのです。(P.502)
【この本の最後に出てくる結論めいた一節。楽しいこと・楽しくなるであろうことを、それぞれの立場でできる範囲で活動していくということだろう。】
263
:
FK
:2012/12/18(火) 22:46:40
『正義という名の洗脳』(苫米地英人 大和書房 2012年 \1400)-1/2
もう、なるほどと言うしかない。かなり意識し、警戒しているつもりでもすっかり洗脳されてしまっているようだ。(この書自体も私たちを洗脳するものだとも言えるが。)
簡単に言えば「正義」と聞けばそれを「利権」と置き換えて考えたらいいということだ、と。
*
常識というのは「ボトムアップ」によって生まれたものということです。
一方、正義というのは「トップダウン」で生まれるものです。(P.26)
【正義とは何か。なにやら怪しげなものでありそうな勘は働くのだが。】
*
「正義」の反対語は「悪」ではありません。「不公平」「不公正」、もしくは「不平等」という言葉が妥当でしょう。
民主主義国家で言う「正義」とは、あくまでも「公平」「公正」、もしくは「平等」という意味なのです。だから、民主主義では、正義は法律にほぼ等しいわけです。(P.46)
【ついつい反対語は「悪」だと思ってしまいがちだ。どうも正しいという言葉に翻弄されてしまう。もちろん「不公平」「不公正」「不平等」は、良くない状態・悪い状態と言ってもいいとは思う。】
*
正義をつくれるのは、権力を持った者だけということ。/逆に言えば、権力のない正義には意味はありません。(P.68)
【正義を実現するというか、人々に強制するには権力がなければならない。権力者だけが正義を定義でき、私たちに強制することができるということになる。】
*
法治国家で、道徳という宗教を教えてはいけません。(中略)小学生には道徳を教えるのではなく、法律を教えなければいけない。(P.143)
【道徳そのものが本来の意味での「宗教」ではないが、あたかも宗教のように効果を発揮するものではある。公教育では宗教教育が禁止されてはいるが、そのかわりにこの道徳教育が侵入しているということだろう。】
*
「公平」や「平等」は、社会を運用するためのシステムでしかないのです。システムは価値ではない。(中略)デモクラシー(民主主義)は、バリュー(価値)ではなく、システムです。デモクラシーが正しいわけではなく、より正しいことを選ぶためのシステムにすぎないのです。多数決というのは、まさしくシステムです。(P.151)
【たしかにシステムそのものは価値ではないだろう。そのシステムから価値を生み出していくものだ。民主主義というのは、つい「正しい」ものと考えがちだが、所詮システムなのだから、そこから意味ある価値を引きだすためには私たちのプラスアルファが必要なわけだ。】
264
:
FK
:2012/12/18(火) 22:48:02
『正義という名の洗脳』(苫米地英人 大和書房 2012年 \1400)-2/2
法律に不備があっても、悪いことはしないということを、法の精神から学ぶことができる(P.156)
【それが法の精神ということか。悪いことはしないまでも、その不備のある法律によって不利益を受けている場合はどうすればいいかという問題がある。例えば高速道路の速度制限とか。】
*
「君は間違っている」は違う。人格やその考え、発想を否定するようなことは、誰であっても言えないはずです。/ですから、学校で教えるべきことは、「自分以外の人に対して、一切評価してはいけない」ということ。正しかろうが、間違っていようが、すべて自己責任なのです。(P.158)
【やや納得しがたい理屈なのだが、それが意見の違う他人を尊重するということか。】
*
子どもたちを公平に、平等に扱うのは当然のことですが、教師自身に序列があるのは間違いなのです。/校則も不要です。(P.159)
【一般の人たちには通用しない考え方の一つだろう。序列があるのが当たり前と洗脳されてしまっているので。】
*
今の日本の教育は軍国主義の延長線でしかないのです。(P.162)
【体育一つとってもわかるし、授業の開始・終了時の起立・礼もそうだ。】
*
日本では、生徒全員がわかるようになるまで教えることを公平だと勘違いしている人がいますが、それは公平でもなんでもありません。/みな同じような人間をつくるという意味では、確かに公平かもしれませんが、それは奴隷をつくるための教育です。(P.164)
【公平でなければならないのは教育を受ける機会であって、その意味では一切学費・授業料が掛かってはいけないのだ。生徒全員が分かるか分からないかは、それこそ生徒一人ひとりに違いがあるのだから、当然出てくる。そのあたりの勘違いにも現場の教師は苦労している。】
*
知識を持ち、自分で自由に選択して、自分で責任を取れるようにするのが、本当の意味での公平なのです。(P.165)
【これに尽きるだろう、教育の目的は。そして私たち教師の役割は。】
*
大学受験のために、高校の授業も「ひとつの正しい答えを暗記する」ことに重きを置いている。/そのような授業は、何も意味がありません。思考のトレーニングにもなりませんし、正義という幻想が存在するということを教えてしまうことにもなります。/だから、大学受験は必要ないのです。(P.172)
【諸悪の根源は、大学入試である。精神的にも経済面でも。】
*
「まとめ」から
法律で決めた正義は妥協の産物
正義という言葉を使う人を疑う
正義の裏側には、必ず権力者がいる
宗教は、洗脳のツールとして利用されてきた
正義は「法のもとの平等」と言える
アメリカの正義は、お金で決められている
権力が集中すると、必ず利権が生まれる
勝ち負けには価値がない
「正しい」という言葉を使うのは正しくない
他人に間違いを指摘してはいけない
正義は世論で決まってしまう
メディアが世論をコントロールしている
「正義」を「利権」に置き換えて考える
テレビを見ない
ツイッターやフェイスブックも洗脳のツール
265
:
イヴ
:2014/03/27(木) 17:14:46
『メイちゃんの執事』
[宮城理子]「マーガレット」(集英社)
この作品は、私が一番大好きな漫画です♪
一度ドラマ化もされて、御存じの方もいらっしゃると思います。でも、やっぱり放送の関係上などで原作と違う所もあるので、ぜひ一度この漫画を読んで見てください!
少女漫画だけあって、胸がキュンキュンしちゃうような恋が描かれています。
今恋してる人も、してない人も胸キュンなラブストーリーです
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