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「お薦め −本」

100渦森六郎:2009/03/07(土) 00:49:59
「もちろん、民主主義的に政治が行われているからといって、その内容までがまともであるという保証はないのだが。」

たしかに、そうは思います。衆愚政治、という言葉もありますしね。
先ほど『坂の上の雲 二』をぱらぱらと読んでいると、ウィッテというロシア帝国の大臣の言葉に、こういうものがありました。
「ロシアは全国民の三五パーセントも異民族をかかえている。ロシアの今日までの最善の政体は絶対君主制だと確信している」(p344)
また、こういう記述もありました。
「ウィッテは、独裁君主においてはなによりも、つよい意志と高潔な思想、感情を第一条件とする。」(p346)
これはまあ、帝政ロシアの場合なのでしょうが、しかしウィッテの言うような理想的な君主がいたとするならば、その君主が腕を振るえる政治体制、つまり独裁政治のほうがむしろ下手な民主政治よりずっと上手くいくのでは、と思ったりもします。民主政治=善、独裁政治=悪、ではないのではないかと思うのです。
にわか勉強で少し書いてみました。

101FK:2009/03/07(土) 20:45:01

2009/3/ 7(土)『穴』(山本亜紀子 四谷ラウンド 2001年 \1619)

 人は誰も見えているものがすべてだと思って生きているが、実際には目に見えない世界が存在しているのかもしれない。
 もしかすると、見えていない世界こそが現実であり、私たちが見て生きているこの世界は幻なのかもしれない。
 なぜなら私たちの命は、幻のように刹那的で、儚いものだから。(P.261)

 手元にありますので、お貸しできます。

102FK:2009/03/10(火) 21:59:10

2009年 3月10日 (火曜) 『ミヨリの森の四季』『続 ミヨリの森の四季』/『Dr.コトー診療所』

 『ミヨリの森』に続く三部作を読了。森と精霊と、男の子ではなく女の子のミヨリ。その織り成す風景が良い。あたまからバカにしてしまうのは勿体ない。こんな世界にこころを遊ばせられることは、とても幸せなことなのだ。そのおこぼれというか、ほんの少しでも一緒に味わえるように、そんな手助けをしてくれるのがこのような作品なのだ。
 アニメ映画の方は途中までだったが、この『四季』のほうではさらに登場人物が増え、面白い展開がある。最終的にイヌワシが登場するのではあるが。

「みんながそれぞれそれなりに元気でいてくれれば私はそれでいい」(P.181 『続 ミヨリの森の四季』)

 これはミヨリのまわりに集まってきていた・出会った人たちが、またそれぞれの場所に帰っていくときの寂しさを感じ、悲しく思っていたシーンがまずあり、そしてそのあと、ようやくこういう心境になることができるのだった。その時のひとりごと。

 あと『Dr.コトー診療所』の第1巻も、先ほど読了。ただちに、いま発売されているところまでの全巻を愛蔵版の方で大人買い。といっても中古だが。ということで、こちらもなかなか良さそうだ。読み進めてみることに。なお蒼井優が出ているというのが、この作品(漫画)を知った切っ掛けなのだが。やっぱり蒼井優か、と言われそう(笑)

103FK:2009/03/12(木) 20:42:47

2009年 3月12日 (木曜) 『フライ,ダディ,フライ』(金城一紀 講談社 2003年 \1180)

 ワォー、と読後、叫びたくなるくらい感動的なお話し。渋い・憎いキャラクターの高校生たち! ムムムとその立派さ(?!)にうならされる。いい話だ。
 本来バイオレンスはイヤで嫌いなのだが、ついつい引き込まれて読んでしまった。いいお話しは主役もさることながら、脇役・バイプレーヤーの素晴らしさで決まるものだ。いい連中ではないか。こんな連中に会ってみたいもの。残念だが、彼らが持っているようなものは私にはかけらもないのだ。イイナー、と嘆息するのみ。

 この本は借り物ですが、上下二巻の漫画は手元にありますので、お貸しできます。
 DVDもあるとか。これも観たいものですね。いま一人捜してみると言ってくれてますが。

104FK:2009/03/13(金) 20:07:08

2009年 3月13日 (金曜) 『Dr.コトー診療所』

 『Dr.コトー診療所』愛蔵版第一部全六巻手に入りました。お貸しできます。
 ベタだけどいいなーと思わせられるお話し。まだ第一巻を読み終えたばかりだが。

105FK:2009/03/16(月) 12:57:30

2009/3/16(月)『おくりびと』(百瀬しのぶ 小学館 2008年 \438)

 映画の脚本をノベライズしたもの。なかなか読みやすく、また内容も良い。あえていえば文庫で180頁ほどという分量も手頃だ。
 予約していたDVDが発送されたとのことなので、楽しみだ。
 以下に上司の佐々木と、火葬場職員の平田の言葉を。


「人間に限らず、たいていの生き物は自分の命を保つために他の命を犠牲にする。そういう死にはみんな目をつぶるんだよ」(P.152 佐々木)


「長いこと、ここにおるとつくづく思います。死は門だな、と」
「死ぬということは終わりじゃない。そこをくぐりぬけて次に向かう。まさに門です」
「私は門番として、ここでたくさんの人をおくってきた。いってらっしゃい、また会おうねって言いながら」(P.171 平田)

【「また会おうね」というのは良い言葉だ。そう死は悲しいことだけど、またいつかどこかで会えるのだと思い、「また会おうね」と言葉を掛け合うというのはとてもいいではないか。】

 手元にありますので、お貸しできます。

106FK:2009/03/20(金) 11:41:24

『スロー快楽主義宣言!』(辻 信一 集英社 2004年 \1800)

 なかなか実践できるものではないが、この人の本はこれで3冊目。

 ぼくたちが普段食べている肉は、自分固有の時間や空間の中で、ゆっくりと生きて愛し合う自由を奪われた不健康で不幸な動物たちの肉だ。そんなハッピーでない動物たちの肉は、それを食べるぼくたちをハッピーにするだろうか。
 野菜についても同じことが言えるかもしれない。現代に生きる人間の不幸は、その周囲に生きる動植物の不幸とつながっている。(P.64)

【なるほど、そういうことなのかもしれない。生きていくためには他の生命を犠牲にしなければならない。だとしても、いや、それだからこそ他の生命の尊厳を尊重しなければならないのだ。】


 そもそも近代社会とは何よりも、合理的な時間秩序を基礎につくられたシステムだと言える。(中略)
 フォード社の「ベルトコンベアによる大量生産方式」が、いかに職人的な「ゆらぐ時間」を解体することで、二〇世紀的な工場づくりを実現していったか(P.78)

【エンデの『モモ』を持ち出すまでもない。私たちがいかに時間によって支配されているか。「ゆらぐ時間」を回復させたいものだ。特に私など仕事柄、痛切にその必要性が感じられる。】

107FK:2009/03/21(土) 13:28:32

2009/3/20(金)『フライ,ダディ,フライ 上下』(秋重学 小学館 2005年 各\505)

 小説『フライ,ダディ,フライ』(金城一紀 講談社 2003年 \1180)の漫画化。小説の通りといえば、その通り。人物が具象化(漫画化)されているのが、先に小説を読んでいたせいで面白い。手元にありますので、お貸しできます。

 なお最後に残された(?)映画もそのDVDを中古ですが注文しました。まもなく。

108FK:2009/03/22(日) 21:36:36

2009/3/22(日) 『ちょいな人々』(荻原浩 文藝春秋 2008年 \1524)

 2006年から2007年にかけての作品7編。まず表題作、「ガーデンウォーズ」「占い師の悪運」「いじめ電話相談室」「犬猫語完全翻訳機」「正直メール」「くたばれ、タイガース」。いずれも面白い。ユーモア小説と言えるのかな。

 「ちょいな人々」は中年サラリーマンの哀感、といったところか。

 「ガーデンウォーズ」は庭先の争い。隣家同士のそれから、共通の敵へ共同戦線。

 「占い師の悪運」の何をやっても真面目でどうしようもない人間にとっては、今は生きづらい社会である。いや、いつの世でもそうか。

 「いじめ電話相談室」は切実。最後に自分で‘いじめバスターズ’を作ってしまうところがすごい。

 「犬猫語完全翻訳機」、あったらいいな、飼ってるペットたちと話ができて、などと思ってたら大間違い。それは想像力の欠如以外の何ものでもないことを思い知るだろう。

 「正直メール」、ケータイメールは苦手。だからそれをヴォイスでやってしまおうというわけ。そこから悲喜劇が。しかし考えてみたらそもそもケータイってのは電話なのだ!

 「くたばれ、タイガース」、若い男性と女性が恋に落ちて、いよいよプロポーズ。そして親にご対面。そこで巨人ファン対阪神ファンのやりとりに。



 コツのひとつは、客を気分良く帰すこと。何も難しいことじゃない。彼女あるいは彼の迷いや悩みを、すべてここで吐き出させ、徹底的にポジティブに励ませばいいだけだ。(P.110 「占い師の悪運」)


「占いなんかに左右されるな。未来は自分で決めろ。大切なことは、つらくたって自分で考えて、悩んで、選ばなくちゃだめなんだ。」(P.117 「占い師の悪運」 【この言葉を吐くことにより彼は失職していくわけだが。】)


 猫の皆さまの声 「おい、お前ら勝手なことばっかりするな。いい加減にしないと、怒るよ、もう」(P.193 「犬猫語完全翻訳機」)


 女の子は自分の父親に似た男と結婚したがる、なんてしたり顔で言う人がよくいる。(中略)「女は自分の父親と似ている男となんか結婚したくはないが、似ている部分のある男と結婚してしまう可能性があることは否定できなくもない」ぐらいには認めてもいい。(P.263 「くたばれ、タイガース」 【私も娘からそんなようなことを言われたことがある。】)

 手元にありますので、お貸しできます。

109FK:2009/03/23(月) 21:47:54

『ドリームバスター 1〜4』(宮部みゆき 徳間書店)

 「2」は一日で読み上げた。なかなか良い。立派なカウンセリングでもある。

 人はその犯した罪、ここでは殺人だが、それを脳あるいは心は、ずっと生涯それを自覚的に抱え続けているのだろうか。ドリームバスターたちはその対象の夢の中に入ってそれを見、知ることになるのだが。

 このお話の時代は未来社会のような内容なのだが、そこには一級市民とか三級市民とかの差別があるようなのだ。なんとも暗い話ではある。もちろん今だって見ようによっては、現実的にそのような差別はあるのだが。
 そんなところをグイッと描き出すのが、凄いところでもある。

 お貸しできます。

110FK:2009/03/26(木) 21:33:25

『英語下手のすすめ』(津田幸雄 KKベストセラーズ 2000年 \648)

 題にひかれて購入。これもブックオフの105円の棚から。しかし内容は大切なことを主張している。同感するところ大。目次を見れば大体の主張が分かる。

目次

序章 英語と私(なぜ英語支配を批判するのか?)

第1章 日本病としての英語信仰(英語を使いたがる日本人)
第2章 「役に立つ英語」のイデオロギー(教養英語から実用英語へ・英会話学校の役割と責任・小学校の英会話教育の問題点・「役に立つ英語」の支配)
第3章 日本女性の英語信仰
第4章 知識人の英語信仰
第5章 英語が国際共通語でいいのか?(英語を使うのは自然?)
第6章 英語信仰からの脱出(日本人が英語下手な本当の理由・日本人は本当は英語が嫌いだ!・大学の英語教育を廃止せよ・外国人とのコミュニケーションを日本語で・英語に使われるな!)
終章 ことばのエコロジーに向けて


 英語を崇拝し、日本語を卑下するといった典型的な「英語信仰」は、精神の奴隷化、自己植民地化以外の何ものでもない(中略)「英語信仰」は人種差別的でもある。白人を賛美し、非白人を軽視する態度が根本にあり、さらにそういった態度を助長・強化する作用もある。(P.34)

111FK:2009/03/29(日) 20:32:39

『本当の戦争』(クリス・ヘッジズ 集英社 2004年 \1800)

 戦争の実態についての437のQ&A。

 戦争はしてはいけないものであり、その準備としての軍隊も持つべきではないことがよく理解される。
 国家は非情なものであり、人々を騙して(言葉の本当の意味で騙して、だ。愛国心とかで)軍隊に志願させ、戦争という名の殺人を犯させる。彼らは自らの命を失うばかりでなく、かりに無事生きて帰ったとしても、精神的な後遺症は生涯残ることになるのだ。まさにその人生を破壊してしまう。そういったことを悟られないように、国家による巧妙な「教育」が学校をはじめとしてあらゆる機会を通してなされるのだ。うかうかと国家に与しては命がいくつあっても足りないのだ。そんなことを教えてくれる本である。

 手元にありますので、お貸しできます。

112FK:2009/03/30(月) 20:02:27

『カリスマ菅野の合格日本史ここが知りたい』(菅野祐孝 文英堂 2003年 \950)

 予備校に比し、特に公立高校の駄目さ加減を指摘されている。その通りなのだが。

 世はもはや公の学校教育に委ねている場合ではないとして、熟通いが今や当たり前の風潮にさえなっています。これは公教育のあり方と学校教師への警鐘というより、ズバリ学校現場の敗北を意味しているのです。(P.54)

【ぐうの音も出ない、と言わざるをえない!】

 手元にありますので、お貸しできます。

113FK:2009/04/05(日) 20:25:53

『有効期限の過ぎた亭主・賞味期限の切れた女房』(綾小路きみまろ PHP研究所 2002年 \438)

 「爆笑ライブ」が4本と自伝からなる。

 ツアー旅行の送迎バスの中で初めて聞かされたのがきっかけ。その後どんどん人気が上がりテレビにも登場し、このように文庫本を私が買うに至った次第。
 細かいこと言えばいろいろ難はあるが、それでも何度聞いても笑ってしまう。けっして上品とはいえない漫談なのだが。

 それと共感してしまう理由の一つは、氏が私と同年の生まれだということもある。

 ちょっとやそっとのことでは動じない。お客さんに受けようが受けまいが、それこそ職人じゃないけど、驚かないんです。(P.151)

【こうまでなるには大変だったろうが、学ぶべき点ではある。】

 手元にありますので、お貸しできます。

114FK:2009/04/07(火) 19:19:07

2009/4/ 7(火)『SPEED』(金城一紀 角川書店 2005年 \1100)

 『フライ,ダディ,フライ』とともに「ゾンビーズ・シリーズ」というらしい。あと『レヴォリューションNo.3』が未読。
 あの高校生たちがまたまたすごいことをやるわけだ。今度の舞台は大学。そしてメインイベントは大学祭。

「車も人もいないのに、どうして停まってなきゃならないんだよ」
「だって――」
「ルールだから?」
「うん」
「もしあの信号が誰かに操作されていたとしたら? 俺たちが前に進めないようにって」(P.192 マギー)

【交通管制であるいは、警察もののドラマや映画でも次々に赤信号にしていって....というのがある。信号は一つの例で、現実の社会の実態を鋭く突いている。】


「これから岡本さんが広い場所に出ていけばいくほど、最低な場所がどんどんと更新されていくよ、きっと」
「落ち込むようなこと、言わないでよ」
「なんで落ち込むの?」南方は不思議そうな声を出した。「最低な場所に出くわしても、岡本さんがそこに馴染まなきゃいいだけの話だろ。それにその場所を変えちまってもいいし、それか――」
「それか?」
「そこから逃げてもいいし」(P.203 南方)

【生きているかぎり最低な場所、に遭遇し、そこで生きていかねばならないことも少なくない。それにしても彼らは強い。でも考えてみれば、至極真っ当な考えであり、行動なのだ。私たちの常識がおかしいのだ。それにしても「逃げる」というのなかなかいい。「負けるが勝ち」というのもあるし。「逃げる」のは必ずしも負けではないのだし!】


「堅苦しいこと言わないでくれよ。出来レースなんて、社会の最低限のお約束事じゃないか。力のある人間が破綻なくちゃんとした地位につけるようにサポートすることのどこがいけないんだい?」(P.237 中川)

【もう身も蓋もない、に尽きる。ふだんすっかりそんなことを忘れて生きているが、毎日の現実は実にその通りではないか。「力のある人間」であれば、まだしも、そうでないのが跋扈している! もちろん「力のある人間」だからといって優遇されるのでは困るが。民主主義は少々の無駄や回り道が、むしろ安全装置として働くことになるのだ。】

115FK:2009/04/09(木) 21:09:15

『Dr.コトー診療所 第一部・豪華愛蔵版』(山田貴敏 小学館 2008年 各\1143)

 新書サイズだと22巻にもなる。長い。しかし、なかなかいい話だ。この先も読み続けたい。その際一つだけ要望を言うなら、1編の終わりごとに(はじまりもそうだが)看護師の星野嬢のコメントから入るのだが、これが(こんな言葉はあまり使いたくないのだが)ややクサイのだ。そんなご大層な触れ込みを次週も期待して読んでもらうために、と書かなくてももう本体で十分魅力があるのだ。不必要だろう。あるとかえって感興を殺ぐというところだ。
 しかし、この先も読んでみたいと思っている。

 手元にありますので、お貸しできます。

116FK:2009/04/10(金) 19:38:30

◆◆◆ 2009年 本屋大賞 ◆◆◆

『告白』湊 かなえ著 (双葉社)
2位 『のぼうの城』 和田 竜著 (小学館)
3位 『ジョーカー・ゲーム』 柳 広司著 (角川書店)
4位 『テンペスト』 池上 永一著 (角川書店)
5位 『ボックス!』 百田 尚樹著 (太田出版)
6位 『新世界より』 貴志 祐介著 (講談社)
7位 『出星前夜』 飯嶋 和一著 (小学館)
8位 『悼む人』 天童 荒太著 (文藝春秋)
9位 『流星の絆』 東野 圭吾著 (講談社)
10位 『モダンタイムス』 伊坂 幸太郎著 (講談社)

 私は『のぼうの城』しか読んでません。『悼む人』は入手したのでこれから読むつもり。最初のページだけ目を通しましたが、なかなか良い感じです。
 『告白』はどうなんでしょう。

117FK:2009/04/12(日) 21:00:11

『聖母(マドンナ)の深き淵』(柴田よしき 角川書店 2003年 \762)

 だんだんとその魅力が分かってきたような気がする。やはり女性(柴田よしき氏は女性)の立場からのハードボイルドであり、女性性からの主張・訴えだ。男中心のものの見方・
考え方を厳しく指弾する革命的なものと言えるかもしれない。

 残酷なシーンは少なくない。しかし、一体何をもって残酷と言い、非道と言えるだろうか。表面的な暴力に目を背けてしまうが、実はもっと巨大で邪な気がつきにくい・目に見えにくい暴力があるわけだ。

 歴史が教えるとおり、いつの時代であってもその支配の基調には暴力があった。そして今もあり続けている。今を生きる私たちはつい、それを忘れてしまっている。それに対し覚醒させ、現実はこうなんだ。今も昔も変わらないのだと教えてくれるのが、この手のハードボイルド小説なのだ。

 いまにしてようやくこの「ハードボイルド小説」の存在意義が私に理解できてきたようだ。これはある意味、現代社会の教科書なのだ。目を背けることなく、つまり直視するためにも私たちは、これらの小説を読み続けていかねばならないのだ。

118FK:2009/04/16(木) 21:09:31

2009/4/16(木)『レヴォリューションNo.3』(金城一紀 講談社 2001年 \1180)

 不良(?)高校生グループのザ・ゾンビーズの繰り広げる活劇(?)の第一作。彼らのキャラがこれでわかる。結果的に最新版から逆順で読んだのだが。
 ともかく面白くワクワクしながら読んでしまう。そして百%肯定するわけではないが、暴力シーンもある。
 この本ではあと二編。「ラン、ボーイズ、ラン」、「異教徒たちの踊り」。時系列的には順序が違ってはいる。シリーズとして三冊なのだが、時系列にこだわらずにこの手のシリーズは読みたいものだ。なお、このあとマンガ版を読む予定。

「勉強の得意な奴らと同じ土俵で戦い続けても、絶対に勝てないぞ。それに、苦手なものを無理して続ける必要もない」(P.23 「レヴォリューションNo.3」 ドクター・モロー)

【相手の得意な土俵にわざわざ入り込んで戦うほど愚かなことはない。最初からそれは負けるに決まっているのだから。そんなことに私たちは意外と気付いてないようだ。それがフェアな戦い方だと錯誤している嫌いがある。フェアプレーはもう一方からすればアンフェアプレー(?)なのだ。】

119FK:2009/04/17(金) 21:36:48

『さまよう刃』(東野圭吾 朝日新聞社 2004年 \1700)

 女性が男性(ここでは未成年者)の集団の暴力にさらされるという、つらいストーリーだ。目をそむけたくなるような叙述はさっと飛ばして、中心となるストーリーを追って一気に読み上げた。

 加害者は法律に守られ、被害者はその命を奪われ家族も生涯にわたって苦しまなければならない。この現実! この矛盾!
 これに対し個人的な「復讐」ということが許されるのか、との問いがなされる。近代以前の社会では、そんなことは当たり前であり、なまじ現代日本社会という人権尊重を建前とする社会ゆえの問題なのかもしれない。

 「警察というのは何だろうな」久塚が口を開いた。
「正義の味方か。違うな。法律を犯した人間を捕まえているだけだ。警察は市民を守っているわけじゃない。警察が守ろうとするのは法律のほうだ。法律が傷つけられるのを防ぐために、必死になってかけずりまわっている。ではその法律は絶対に正しいものなのか。(以下略)」(P.359)

 私たちの教え方が悪いのだろう。法律が誰のため、何のためにあるのか。あるいは警察や軍隊が誰のため、何のためにあるのか。そもそも国家は......。
 そんなことを超越した(?)授業ばかりをしているからだろう。

 戦後60年。60年という年月は、何もかも忘れさせてしまうものなのか。
 民主性のない閉塞した社会が、日本国中を占拠している。実に息苦しい社会を戦後60年、営々と築いてきたものだ。

120FK:2009/04/23(木) 21:02:37

2009年 4月23日 (木曜) 『ぼくと1ルピーの神様』(ヴィカス・スワラップ ランダムハウス講談社 2006年 \1995)(映画[スラムドッグ$ミリオネア]の原作)

 僕は逮捕された。クイズ番組で史上最高額の賞金を勝ちとったのが、その理由だ。(P.9 プロローグ)

 という魅力的な書き出しから始まる。ページを繰ると。

 頭というのは、僕たちが使用を許可された器官ではない。僕たちが使ってもよいとされているのは、両手と両足だけなのだ。(P.10)

 と、ワクワクドキドキするような記述が続いて出てくる。ほんの数頁を読み進めるだけで、この本は間違いなく面白いと思わせてくれる。私はまだ十数頁しか読んでないが、今からが楽しみで、そしてもうこの時点で、「お薦め」するのだ。
 今、私が手にしている本は娘のもの。彼女は未読なのだが、先に回してくれた。2006年の出版なのでずっと読んでこなかったのか、最近手に入れたばかりなのかは聞いてない。とまれ、読みたい人は西宮図書館で借り出せます。4冊在庫で現在の予約件数は3件。

121FK:2009/04/24(金) 19:55:03

『ニッポン泥棒』(大沢在昌 文藝春秋 2005年 \1905)

 大部。あまりなじみのなかった著者なのだが、今回は佐野洋の推薦で見ず転。
 しかしなかなか読み応えがあった。
 もちろん、どうかなと思うところはあるにはあったが、かなりの部分については同感。(太平洋戦争の評価については、異論。もちろん、それをしゃべっているのは現在64歳の戦中派、敗戦時6歳の男性なので致し方ないとも言えるが。)

 「ヒミコ」なるソフトウェアについても、はじめはなかなか理解できなかったが、だんだんと説明されるにしたがい、迫力が出てきた。要するにコンピュータのシミュレーションソフト。(歴史を勉強して考えたら、ソフトがなくても可能なことであり、普段私たちはそれをして生きているとも言えるのだが。)


 「富というのは、自分より裕福な相手から得た財産では決して形成されない。より貧困な人間から収奪してこそ作られるものなんだ。(中略)貧乏人のなけなしの銭を吸いあげる。それが金持になる秘訣だ。」(P.154)
【実に実にその通りだ。本当にひどいものだ。酷いものだ。】


 「どのような仕事でも、ことの大小はあれ、歴史なり、形となって残るものにかかわれるなら、やり甲斐はあるものだ。自分の働きが、あとに何も残さないということになれば、それはひどく虚しく感じるだろう」(P.444)
【何か、欠片でも残したい。それが人間というものだろう。平凡に生きることの難しさよ!】

122渦森六郎:2009/05/04(月) 23:19:22
『新・自虐の詩 ロボット小雪』(業田良家 竹書房 2008年 ¥1000)

すごいものを読んでしまった。
業田さんの「自虐の詩」は名作だったので、図書館で「ロボット小雪」をたまたま見つけて、間違いないだろうと思って借りた。
舞台は、おそらく近未来の日本。そこに暮らす高校生の拓郎の世話をするロボット、小雪が主人公である。さえない拓郎と、真面目だがどこか抜けている小雪の日常が四コマで描かれている。しかし次第に二人の暮らす街の対岸にある謎の街の存在に焦点があてられてゆく…。
最初は「ドラえもん」のような、ほのぼのとした近未来SFギャグといった調子で始まるのだけれども、徐々に現代社会の不平等に対する鋭い批判マンガとなってゆく。ロボットの主人公を通して、人間にバッサリと切り込みを入れてくる。
ただ、結局業田さんのマンガが本当にすごいのは、批判に終わらない所だと思う。鋭く批判はすれども、最終的には優しいのである。人間に対して、完全には望みを捨てていないのである。この「ロボット小雪」も、かすかな希望をのぞかせた終わり方をする。稀有なマンガ。業田良家、すごい。

123FK:2009/05/06(水) 20:08:00

『軍師の門 上』『軍師の門 下』(火坂雅志 角川学芸出版 2008年 各\2000)

 今やってる大河ドラマ「天地人」の原作者の小説。こちらも人気があって図書館で借り出せるまでに時間がかかった。
 竹中半兵衛と黒田官兵衛のサクセスストーリー? 上巻が前者、下巻が後者。
 これまでこの手のは読んできてないので新鮮。

 明(ミン)までをもその掌中に、というのは織田信長の考えであり、秀吉はそれを踏襲したものということらしい。所詮、秀吉は信長のコピーという感じもする。独自の理念・理想はないということか。

 事を成し遂げるには悪にならなければならない。非情であらねばならない。――今の時点から当時のことをどうのこうのいっても始まらないが、酷な時代ではある。作中、秀吉も官兵衛から離反してゆき、もともとの俗物性に戻っていくところなど、残された史実通り(?)になっているのかもしれない。

 結局のところ、信長・秀吉の実像はわからない。作家の想像力に委ねてみるのは面白いことだ。いまさら断罪しても始まらないことなのだから。ただ会社経営者などからいまだに崇拝されているところは、どんなものかと思う。会社員はたまったものではないだろう。

124FK:2009/05/07(木) 18:56:55

2009/5/ 6(水)『日本記念絵葉書総図鑑』(島田建造 日本郵趣出版 2009年 \3800)

 カラー復刻版とあるように原著は1985年のもの。西宮図書館から借り出しました。それにしても切手のそれ同様、絵葉書版があったとは知らなかった。現在も価格がついて流通しているとのこと。近くでは梅田の阪急古書街にある「りーちあーと」で扱っている由。

 何より驚かされたのはその政治性、というべきか。現在、絵葉書といえば観光のそれであって、私もこれまでの旅行で購入してきたものだ。
 なるほど各地の景色や風物も紹介されているが、政治家や軍人の肖像写真などが巧みに組み込まれていて極めて政治宣伝色の強いものという印象を持った。

 目次の大分類は四つ。「内地」、「外地・占領地」、そして「恤兵(じゅっぺい)・慰問」。
 さらに内地のものでは逓信省発行のものに日露戦争のものが、その他の団体発行のものでは「明治35年陸軍大演習」のものなどがある。
 外地・占領地では「台湾総督府」、「樺太庁」、「朝鮮総督府」、「関東州・関東総督府」、「南洋庁」、「満州国」、「蒙彊地区」、「華中地区」、「青島軍政署」、「香港占領地総督部」、「ビルマ国政府」。
 恤兵(じゅっぺい)・慰問絵葉書では、逓信省・陸軍省恤兵部・朝鮮総督府からの発行のものが見られる。

125FK:2009/05/08(金) 20:15:29

2009年 5月 7日 (木曜) 『人を殺すとはどういうことか 長期LB級刑務所・殺人犯の告白』(美達大和 新潮社 2009年 \1400)

 なんとも特異な本である。匿名の著者のものであり、出版社が出版社なので、つい眉に唾をつけたくなる(先頃、朝日新聞西宮支局での殺人犯の手記という誤報をしたばかり)。
 しかし、それにしてもすごい内容なのだ。人が殺されることなので、読んでいて辛いところもあるが、是非一読を勧める。

 泣く人と泣かない人との違い(中略)他者に対して共感性のない人(P.92)


 受刑者の大半は、服役が償いになっているのだから、その後は何も考えなくてもいいし、することもないという姿勢でした。(P.102)

【刑務所暮らしそのものが償いになっているのだと、私も思っていたのだが。なるほど、氏の言うとおりでそこから先がないから、社会に出てからまた繰り返すことになるのだろう。】


 自分は人の人生を奪っておいて、社会で人生をというのは不公平で、私の信奉する「対称性」にかなっていません。(P.103)

【「対称性」とは、自分が相手を殺す・殺そうとすれば、自分も相手から殺され・殺されそうになるということだ。一方的なのではない。相手にしようとしたことは、自分もされるのだ。それが「対称性」で、自分だけが特権の中に守られるのはおかしいことであり、「対称性」にかなっていないのだ。】


 結晶性知能なら学習した人は向上します。勉強ができた、有名大学に入ったイコール頭が良いと考えられていますが、そういう人は概ね結晶性知能は低くないと思います。しかし、本来の人の頭の良さ、切れるということには、むしろ流動性知能の方が重要です。未知の事柄に対しての対応の仕方である程度は推測できます(P.168)

【このような言葉は初めて聞いた。ま、私もこれで慰められかも。】

126FK:2009/05/11(月) 17:58:27

『越境者的ニッポン』(森巣 博 講談社現代新書 2009年 \720)

 著者は自称ギャンブラー。主にオーストラリア在住。

 常識は「多数者の持つ偏見」(P.31)

【普通とか常識とかという言葉に私たちは弱い。私だけかもしれないが。しかし考えてみたらいずれも「多数者の持つ偏見」、そう所詮は「偏見」なのだ。あとはただそれに与するか、しないかだけの問題だ。】


 (日本人が英語ができないのは)もしかすると意図的な「国の政策」ではなかろうか、と疑い始めた。日本国民を実質的な孤立状態にしておくための、国家的陰謀である。半分ほど本気で、そう疑っている。
 (中略)それでも越境して入ってくるニュースは、いったん日本というシステムに無批判なメディアのフィルターを通したものとする。
 簡単に言えば、江戸時代の鎖国方式での統治が、形を変えながらもまだ継続しているのじゃなかろうか。(中略)セレクティブ・オープニングが徳川幕府の政策だった。(P.35)

【これまたなるほどと思わせられことだ。やはり国家の陰謀なのだ(笑)】

127FK:2009/05/15(金) 21:22:16

『仕組まれた9.11 アメリカは戦争を欲していた』(田中 宇 PHP研究所 2002年 \1400)

 だいたい予想はしていたが、このように検証されていくと、何とも言いようのない感動(?)を覚える。つまりそこまでしても儲けたいのか、あるいはアメリカの国益という名の一部の者たちの利益を計りたいのか。それがアメリカという国家の宿命なのかとも。
 現状認識として今のアメリカは完全に「帝国主義」なのだ。そのように私たちは認識をしなければならないということ。それをあらためて知った思いである。

 たしかに9.11事件の犯人としてサウジ人たちが、いち早くマスコミに流れたのも、不思議と言えば不思議だ。この一事をとってもやはり仕組まれたものと考えるのが妥当か。しかも写真付きで紹介された彼らは、所詮、下っ端。真の実行犯と黒幕は、その煙幕の中で逃げおおせたわけである。
 ジャンボ機の操縦が、一年やそこいらで簡単にできるものかどうか。これも怪しいことではあった。
 炭疽菌についてはまず間違いなく米軍のものらしい。あまりに純度が高すぎて一般では作れないとのこと。その他さまざまの怪しい事実が紹介されている。


 (アメリカの)政府や財界を信じて株式に財産を託していた人々は、生活資金を失っただけでなく、株を買うことは愛国的な行為などではなく、政府と企業にカモにされることなのだと考えるようになっている。(P.179)【今の日本も政府の宣伝に乗れば、いずれこのような憂き目にあうことだろう。】

128FK:2009/05/18(月) 19:55:23

『BG、あるいは死せるカイニス』(石持浅海 東京創元社 2004年 \1600)

 佐野洋の推薦。柴田よしきとも通じるものがある。つまり今の世界が男社会であるということ。それを逆手にとるというか、前提を正反対にしてしまってミステリーを展開している。
 当たり前のように思っている「男中心社会」に対して、疑問を投げかけ、気づかせることができるのかも知れない。


 「男が偉い。そういう『常識』を作って、男を祭りあげる。そして社会の重要な仕事から外し、子作りに専念させる。そういうシステムを作りあげたんだ。男は生物として優秀。(中略)世の中の大多数は女なんだ。多数決で勝てるはずがない」(P.213)

129FK:2009/05/19(火) 21:17:42

『淑女の休日』(柴田よしき 実業之日本社 2001年 \1800)

 上手いなあ、と思わせられる作品。
 シティホテルが舞台。そこへ女性探偵の登場。調査内容はホテルの「幽霊」。
 もちろん幽霊などいるはずがないので、人間の仕業。

 しかしホテルというのは、単に泊まるためのものではないということ。そういうことだったのか、と。
 私たちは日常生活の中で、周囲の人たちから決して丁重に遇されているわけではない。むしろその逆のことが多い。そんな中で、どんな時でもそこにいる限り徹底的に丁重に扱ってもらえる(?)場所がある。それがホテルだというわけだ。

 普段、自尊心を無茶苦茶にされる機会は山とあるが、その反対は皆無に近い。そんな時、是非ともホテルへ! ホテルは私たちに無限にサービスを提供してくれる。お金の続く限り何でも!
 ただそれでも、話し相手だけは提供してくれなさそうではあるが。

130FK:2009/05/23(土) 21:08:02

『やがて消えゆく我が身なら』(池田清彦 角川書店 2005年 \1300)

 めげているときに励まされる内容である。手元にありますので、お貸しできます。


 未来がわかって意味があるのは、対処する方法がある時だけだ。分かってもどうにもならない未来は、わからない方がよいこともあるのだ。(P.49)
【その端的な例が「地震」かもしれない。ただ地震の場合、対処の方法はあるのだが、国家というのはその対策を取りたくないようなのだ。】


 もう少し体の調子が良くなったら、もう少しお金ができたら、もう少し暇になったら。多くの人はそう思って、自分にとって最も大事なこともやらないで、時間だけはどんどん過ぎてゆくのである。(P.85)
【まさしく。このような言葉を励みにして、やってみようと思うのだが、なかなかなのだ。】


 農耕、労働、戦争、奴隷。これらの起源はみな一緒なのだ。(中略)人間にとって働くことは美徳だ、との倫理は農耕の発明以後に、誰かがでっちあげたものに違いない。(中略)一所懸命に働くということは、人類史の大半において、正しい生き方でなかったことは確かなのである。(P.91)
【これまた一般には、理解しにくい理屈なのかもしれない。しかし、縄文の昔にかえって考えてみれば分かりそうなものだ。毎日8時間もそれ以上も彼らが働いていたわけがない。それでいて決して貧しい生活を送っていたわけでもないのだ。誰かの陰謀ではないか!】


 学校は基本的に知識を教えるために存在しており、犯罪の予防のための装置ではない(P.223)
【小学校で女の子が同級生からカッターナイフで殺された事件があった。それについての文章である。あらためて学校の役割を認識させられる。というか、今は知識伝達という本来業務以外のことをいっぱい押しつけられているということだ。あげくが、この防犯のこと。それ以外にもしつけやマナーも学校で教えろという。学校を何だと考えているんだ、ということなのだが、何故かそのような声に弱いのだ。納税者(?)の声に。】


 たてまえだけの学校には、生徒・児童たちの暴力衝動を上手に解放する装置はない。
 たてまえを子供たちに信じ込ませるためには、強い情報統制が必要である。
(中略)何も考えずに、命令通りに動く国民を作るのは為政者の夢かもしれない。しかし同時にそれは亡国への道でもある。「よい子」たちの起こす叛乱は、文科省御用達の愚民化政策の破綻を示す何よりの証拠のように私には思われる。(P.227)
【少年犯罪が増加しているように見える。データ的には昔とそう変わらないそうなのだが。
 そしてその原因である。いろんなことが言えるが、最終責任を「政治」がとらなくて誰が責任をとれるというのか。今は政治が無責任なため、官僚が頑張っているということなのだろう。】


 個性や多様性が叫ばれて久しいが、清く正しく美しくの中だけの多様性じゃしょうがない。何といったって現実は、狡く醜くいかがわしいんだから。たてまえで塗り固めたシステムは一枚岩のように見えるが、実は脆弱なのだ。(P.230)
【現実の汚さを学校というのは隠蔽しようとしているようだ。どうせすぐばれてしまうのに。そんな姑息なことに加担してる私たちの仕事というのは、やはり卑職というべきか。悲しくなる。】


 はっきり言って私は、人間の命が大切だなどと思ったことは一度もない。こういうことを公言すると、この国では恐らくそれだけで人非人だ。ではあなたに聞くが、他人の財産を大切だと思ったことはあるか。私を含め多くの人は他人の財産が増加しようが減少しようが別にどうでもよいと思っているに違いない。しかし、そのことは、他人の財産を勝手に奪ってよいという話とは全く違う。同様に我々はいかなる人の命といえども勝手に奪ってはいけないが、それは人間の命が大切だからではなく、そうしなければ、自由と平等が守られないからだ。(P.235)
【なかなか一般には受け入れられない考え方かもしれない。特に学校では何か事件があったら「命の大切さ」を強調する。生徒たちには単なる建前としかうつらないのではないか。実感はわかない。そのような道徳観・倫理観を持つことは難しい。にもかかわらず愛国心をはじめとして、それを私たちに植え付けようとするのだ。誰のため、何のためかを常に念頭に置かなければならない。】

131FK:2009/05/30(土) 22:51:30

『巴御前』(鈴木輝一郎 角川書店 2004年 \1800)

 相変わらず難しい聞いたこともない言葉を用いる。これはどうしようもないだろう。そのおかげで新しい(?)言葉を知ることもできるのだから。

 さてこの本は、佐野洋が推薦していたもの。木曽義仲が何とその愛馬と語り合い、また巴とも言葉を発することなく対話するというもの。歴史小説のはずがSFっぽい様相を呈するわけだ。

 あと義経が戦いは上手いが、人間的にはどうしようもない人物として描かれているのが面白い。時、折しも天下のNHKが大河ドラマとして「義経」を放映しているのである(注 本書出版時)。

 京都に入った義仲軍が乱暴狼藉略奪をしたということで非難されている。小説ではその背景が紹介されており、納得させられるものがあった。つまり昭和の軍隊も義仲当時の軍隊にも共通するのは、その食料調達方法である。つまり現地調達という名の略奪であった。
 戦いに勝てば女性を襲い、物資を略奪するのはいわば勝者の当然の権利だというわけだ。
 食うや食わずでやってきた軍隊の恐ろしさは想像に絶するものがあっただろう。

132FK:2009/05/31(日) 21:07:42

『ゆび』(柴田よしき 祥伝社 1999年 \619)

 テレビゲームと現実での復讐愛憎のドラマが混線しているようなホラー小説(かな?)。「ゆび」とは人差し指のことである。
 着眼点がいい。人間にとって人差し指は働き者である。良いこともすれば悪いことにも使われる。本体の人間を離れた人差し指が、生きていたときの思いを分離した今、果たしていくのだ。
 もし本当にこんなことがあれば、非常にやっかいなことだ。それほどまでに「人差し指」というのは有用な指なのであった。
 小説のラストは、これで終わるわけではないということを示唆している。

133FK:2009/06/24(水) 18:53:31

『ナラタージュ』(島本理生 角川書店 2005年 \1400)

 主人公は高校の世界史教師。世界史には意味はないのかも知れない。何か寓意があるのだろうか。いかにも教師! という感じでいやなところがある。人の心の中にすっと入っていくところとか。それはしてはいけない、と思うことを平気で、それも生徒あるいはその人間のために(!)ということでやってしまうところ。

 顧問をする演劇部の女子が自殺した際には、「僕は悔しいんだ。なにかほかに方法があったはずなんだ。それを見つけて与えることができなかった」(P.314)と。これを優しさととるか、傲慢ととるか。

 人間の愛情関係というのは何人にもどうしようもないものであり、あるがままなすがままに見守るしかない、との考え方があり、この小説ではそれを肯定的に見る。愛情至上主義という感じ。

 しかし現実に生きる人間はそうはいかず、そんな風に生きられてはまわりが迷惑することにもなる。やはり一線を画すべき時も、状況もあるのだ。それを超越させてしまうのは社会性を欠如させた児戯に等しい行為である。大人は、あるいは教師は生徒や未成年に対して、そのようなことはしてはいけないだろう。

 柚子(ゆずこ)の自殺の必然性はこの小説にとってあったのかどうか。この一事を含め、すべてのエピソードは主人公の女性・泉と葉山先生のために仕組まれた(?)それであり、いくらお話とはいえ、やや無理を感じるところではある。

 概して男性の身勝手さや精神の未熟さを感じさせられた。
 若い頃なら読めたかも知れないが、今となってはこの手の作品はもう無理。
 題材も古くからあるもの。現代の装いはしているが。

 そんなことを思うのは、今の私が同じ「世界史教師」で、羨ましいから、かも(笑)

134FK:2009/06/25(木) 21:49:46

『メリーゴーランド』(荻原 浩 新潮社 2004年 \1700)

 公務員が主人公。経営状態の良くないテーマパークの建て直しに奮闘する。
 役所仕事、さらに輪をかけたように非効率でどうしようもない組織である第三セクター。そんな中でいじらしく(?)頑張る主人公。

 面白いことはこれまでの作品同様なのだが、それを凌駕するどうしようもなさ! 日本社会のシステムはもう、どこでもこんなものなのだろうか、と憤慨することしきり。

 私の身にあてはめても、これがまだ30歳代なら別だが、まもなく50代後半の今日、もはやそんな意気はない。元気はない。どうしようもない。それでも、なんとか毎日、学校は動いていく。私が居ようが居まいが、何をしようとするまいと。それが組織だから。

 自分の思い通りに、理想通りにしたければ、自己資本でシステムを作ってやるしかないということだ。宮仕えでは、どこまでいってもダメということ。学校もそう。自分で作るしかないのだ。ただあいにくとこの日本は、学校を作りにくいところなのだ。

 とか何とか、結局、あまり元気は出ないのだが、これが現実なのだから仕方がないか。いくら小説でも、ハッピーエンドにはできなかったということ。

135FK:2009/06/27(土) 21:25:45

『母恋旅烏』(荻原 浩 小学館 2002年 \714)

 またまた最後に泣かされた。ホロリとさせられる。上手いものだ。
 それと今頃気がついてももはや手遅れなのだが、教師やるには旅芸人の芸、大衆芸能のプロのテクニックを学習しておくべきだった。「つかみ」からスタートし、中だるみになったら「客いじり」。なるほどなー。
 そんな工夫をすれば、も少しいい授業ができたかもしれない。しかし手遅れ。昔は落語とか勉強すればいいのかなとも思ったものだが、今や「大衆芸能!」。

136FK:2009/07/04(土) 21:03:21

『夏と花火と私の死体』(乙一 集英社 2003年 \419)

 こういうやり方もあるのか、と驚かされた。小説の書き方としてこんな「視点」(?)からも書けるのだ、と。上手いものだ。
 そしてさらに驚かされたのは、この作品は氏の16歳時のものと解説で読んで。年齢は関係ないということではあるが。
 この変わったペンネーム(?)の著者の作品を読むのは初めて。子どもから勧められたことがあったが、その時は縁がなく(『ZOO』だったと思う)、今回生徒に勧められて。やはり生徒には弱い(笑)
 もう一作の「優子」はどんでん返しというとオーバーだが、これも視点の違いで最後にひっくり返してしまう話。私には十分理解できていないのだが。最近思うのは実にこの私の読解力のなさであるが、この作品についても漫然と読んでいたのでついに分からなかったという情けない次第。

137FK:2009/07/07(火) 20:40:45

2009/7/ 6(月)『西郷盗撮』(風野真知雄 新人物往来社 1997年 \1800)

 西郷隆盛の肖像写真は現在一枚もないことになっている。しかし実は何枚かあって、そのうちの一枚を撮った写真師が本作の主人公。
 人口に膾炙したキヨソネによる西郷の肖像画はどうやら違うらしい。別人の顔の部分から作り上げたものとか。上野公園の像もその亡妻によると「違う」というわけである。永遠の謎の一つであるようだ。
 なお、細かいところでは西郷の指示による江戸での火付けや押し込み強盗の張本人たち(密偵)のうち、ふたりの名前が紹介されている。そこまで調べてあるのか、というのと、そこまで名前が残されているのか、との感懐を覚える。(P.165)
 比較的スムーズに読むことのできた明治ものであった。最後は、西郷の死と、その後の主人公と、一枚きり彼が撮った西郷の写真の行く末で終わっている。

138渦森六郎:2009/07/07(火) 21:24:53
「西郷盗撮」。面白そうですね。ちなみにキヨソネによる西郷の肖像画は、隆盛の弟である従道(海軍大将)と従兄弟である大山巌(陸軍大将)の顔を合わせて描いたものらしいですよ。

139FK:2009/07/08(水) 21:48:41

2009/7/ 8(水)『水の城 いまだ落城せず』(風野真知雄 祥伝社 2008年 \638)

 『のぼうの城』と同じ武州忍城(ぶしゅう・おしじょう)とその城代・成田長親を主人公にした小説。1590年の豊臣秀吉の小田原攻めの際のお話しである。2000年に単行本で刊行されたものの文庫化。(この二冊を読み比べてみるのも面白い。)
 やはり指導者のあり方はかくあるべし、といった読み方をしてしまう。やはりリーダーが重要だ。その器量のある人間があまりに少ないということか。

140FK:2009/07/20(月) 10:13:23

『だからアメリカは嫌われる』(マーク・ハーツガード 草思社 2002年 \1600)

 内容は凄くて良いのであるが、中身のしんどさでなかなか読了できなかった本。手元にありますので、お貸しできます。



 政治上、われわれは民主主義の国に暮らしているが、実体はほとんどその名に値しない。アメリカ政府は、他国の政府に選挙の運営のしかたを説くけれども、アメリカ国民の大半は投票しない。この基本的な市民の義務を放棄するすることは、物質的な豊かさから生まれる充足感にも原因があるのかもしれないが、もうひとつの原因は確実に、政治制度からの疎外を、多くの国民が実感していることだ。彼らは、政治制度が裕福な有力者の道具となっていることを正しく見抜いている。(P.29)
【これは日本のことではなく、アメリカのこと。でもまったく日本も同じようになっているか。】



 第二次大戦後、自動車がアメリカの輸送網にたいする支配力を強めたのは、企業の極悪行為(ゼネラル・モーターズ、スタンダード・オイル、ファイアストーン・タイヤ&ラバーその他の共同体が、秘密裏に国じゅうのバスと路面電車の路線網を買収、その後閉鎖して、自動車の競争相手をつぶした)と、政府の支援(中略 国土にスーパーハイウェイをはりめぐらした)、そして便利で刺激的な移動手段という自動車そのものの魅力が結びついたおかげだった。
(P.42)
【この「極悪行為」は以前にも何かで読んで知っていた。見事なこの図式は、日本でも同じことが言えるだろう。国鉄民営化をはじめとして。】



 じつは厄介なことに、アメリカ人の大半は外の世界のことをほとんど知らず、とりわけ、政府がアメリカ人の名を借りて何をしているかという情報に不足しているのである。(P.84)
【そこまでメディアによる情報管理がなされていると言うことか。またはそもそもアメリカ人は外のことは何も知りたくないのではないか、との仮説も成り立つだろう。】



 理解していただきたい。アメリカでは「リベラル」といえば「左翼」のことであり、反政府、反企業、反体制の含みを持つ。(P.108)
【やはりそうか、といったところ。言葉の定義があまりにも政治的に規定されている。不幸なことだ。】



 幸いにも、アメリカには国営の、あるいは国に統制された報道機関がない。
あるのは、国に都合のいい報道機関である。(P.109)
【誰にとって幸いなのかは、自明であろう。】



 アメリカ人の多くが仕事中毒であるのは、ひとつに、長時間働くことによって、自分がよい人間であることを自分自身に、そしてほかの人びとに納得させることができるからである。そう考えてみると、貧者にたいするアメリカ人の態度が、同情や寛容より恐怖や軽蔑にかたむきがちであることも説明がつけやすい。貧しいことは、多くのアメリカ人の目には、貧者その人の落ち度だと映るのである。(P.153)
【見事な分析だと思う。そして日本人もそうだ。ただ日本人の場合、後半の貧者に対する考え方まではいってないと思うのだが、それもだんだん怪しくなってきている。】

141FK:2009/07/22(水) 21:22:16

『グフグフグフフ』(上野 瞭 あかね書房 1995年 \1200)

 10年前に図書館で借りて読んだものを入手でき、再読。
 あらためて大したものだと思う。いまだ全集も出ず、ほとんど絶版になっているのだが。

 児童文学であり、子どもたちが読んでその暗喩・隠喩に気がつくという趣向の短編集。まず犬の長太郎が主人公の表題作。人間にこのことがばれると大変だろう。つまり人語が解せ、話せるということ。

 二つめの「つまり、そういうこと」では猫が電話に出て話をしてくる。ラストはふんわりしたいい話。

 三つ目は「ぼくらのラブ・コール」。これは非常に怖い話。戦前の日本社会であり、ナチ支配下のドイツの状況である。愛する、という言葉が脅迫になっている。

 最後に「きみ知るやクサヤノヒモノ」。自らの選択できない出生や両親の離婚などが10歳くらいの少年を取り巻いて出てくる。副主人公は「カセイジン」。
生きていくためには誰かに応援してもらわないと難しいということ。

 手元にありますので、お貸しできます。

142FK:2009/07/23(木) 19:20:24

『ジェニーの肖像』(ロバート・ネイサン 訳・山室静 偕成社 1985年 \500)

 恩田陸の紹介からこの本を知る。やや黄ばんだ20年前の本を図書館の書庫から。内容はなかなか興味深いものがある。1939年の作品。
 ただ訳はいまひとつすっきりしない。偉そうな言い方だが、原書を読んでみたくなる。



 だが――もしもおわりがないとすれば? あるいは、もしも終点でわれわれはもう一度はじめにもどるのだとしたら?......(P.119)

【これは仏教の「無始無終」の考え方のようで興味深い。】



「わたし、科学だとか、数学のようなものが好きなの。でも、歴史はきらいよ。
歴史は、あんまり悲しい気持ちをおこさせるんですもの。」(P.127)

【たしかに歴史はそういうことだろう。きちんと勉強すればするほど、そう実感する。】



「この世界がどんなに美しいか、それを考えていたのよ、イーベン。しかも、わたしたちがどうなろうと、世界はいつまでも美しいのだということをね。
(中略)――わたしたちがいま生きていようと、とおいむかしに生きていようと。」(P.164)

【自然を征服するという欧米の人たちの考えからすると違和感がある。人間が居ようと居まいと自然は厳として存在するのだ。それを「美しい」ととらえるのは人間の考え方。
 それと後段のいまであろうと、とおいむかしであろうと、というのはなかなか考えさせられる。生命の輪廻とかを。】

 訳者は違う文庫本がありますので、お貸しできます。

143FK:2009/07/24(金) 17:56:46

『夜のピクニック』(恩田 陸 新潮社 2004年 \1600)

 本屋大賞作品。内容的には既に『光の帝国 常野物語』に短編であったと思う。
 ともかく氏の一連の高校生もの(?)。しかし私のようにまもなく定年になる人間には、もはや無理なものか、と嘆息。そんな高校時代がかりに私にあったとしても、もはや忘却の彼方である。

 しかし80キロを歩き通すというイベント(歩行祭)って、本当に氏の高校でやってるのだろうか。まるで学校登山のような感じ。
 それと何年か前に、仙台育英高校だったかの生徒の列に車が突入して何人かが亡くなった事故があったことを思い出す。
 とまれ青春の哀感が漂う作品、といったところか。


 当たり前のようにやっていたことが、ある日を境に当たり前でなくなる。こんなふうにして、二度としない行為や二度と足を踏み入れない場所が、いつのまにか自分の後ろに積み重なっていくのだ。(P.16)

【こんなふうに言葉で表現してくれるところに、本を読む利益があるということ。実に実にそうなんだなーと思うのだ。】



「他人に対する優しさが、大人の優しさなんだよねえ。引き算の優しさ、というか(中略)何もしないでくれる優しさなんだよな。それって、大人だと思うんだ」(P.183)

【たいがいの優しさというのはプラスαの優しさだというわけだ。それに対してこのようなセリフを言わせている。】

 DVD、お貸しできます。本もあったと思うが未確認(笑)

144FK:2009/07/26(日) 16:51:56

『押入れのちよ』(荻原 浩 新潮社 2006年 \1500)

 結構、政治的な歴史的なことも扱おうとしているのだなと思った。
 まず最初の「お母さまのロシアのスープ」は731部隊のこと。3つ目の「押入れのちよ」ではからゆきさんを。さりげくなくだが、なかなかいい感じだ。

 2つ目の「コール」は荻原版に換骨奪胎した幽霊もの。大学時代の男二人と女一人のその後の少しペーソスのあるお話。恩田陸だったらもっとねばっこくこれだけで一冊の長編に仕立て上げるところかも知れない。

 4つ目の「老猫」はある種ホラーか。じわじわと恐怖を感じさせる。猫好きの人には嫌われる作品かも知れない。

 5つ目「殺意のレシピ」は喜劇。もちろん最大の悲劇は喜劇だという意味で。
うまいものだ。こんなのを読んでしまうと今夜の食事がすっとのどを通るかどうか?!

 6つ目「介護の鬼」。
 この題から何を連想するか。その楽しみを奪うわけにはいかない!
 現代日本社会の抱える問題で、対策がなされてない介護の問題について独特の視点から刃を突きつけたものと感じた。個人だけが悪いのではない。(もちろん政治的に参政権を行使せずに、といった問題はあるが。)

 7つ目「予期せぬ訪問者」。
 口の端をゆがませて笑うしかないような作品。有り得そうでいて、あり得るはずのないエピソード。あるいは、あり得るはずがないけど、あったら面白い話、か。もっとも殺される女性には気の毒だが。

 8つ目「木下闇」(このしたやみ)。これもそうそうはあるはずがないが、あっても不思議でない子どもの頃の事件。ほとんど喜劇的要素のない悲劇である。

 9つ目、最後は「しんちゃんの自転車」。「木下闇」はその時とその15年後の話。そしてこちらは30年後の話で回想である。
 これまた子どもたちの子どもの頃に起こりがちな事故を描いて、ほんの少しだが人間の生死の問題に触れる。
 とまれ人は様々な過去の思いでの中に現在を生きているものだ。

 以上いずれも短編だが、それぞれにいろいろな趣向が凝らされた作品で、それらを楽しむことができた。

145FK:2009/08/27(木) 20:06:30

2009/8/23(日)『欲情の作法』(渡辺淳一 幻冬舎 2009年 \1100)

 表題の凄さに、書店で手にするのに気が引けるような、そんな本である。と言いつつも、図書館で借りだしたのだが。
 ところがどうだろう読んでみたら、『恋愛の作法』とか『恋愛のすすめ』とか『恋愛成功法』といった内容だったのだ。どうもこれは男性本位の、いやもとい男性に買ってもらうため・読んでもらうためのネーミングのようだった。
 須く世の男性は、この書を読むべし、である!?

 恋愛巧者になる第一歩は、まず沢山の女性を知り、女性にものおじせず、優しく接することができるようになることである(P.36)

 よき恋愛をするためには、いつも恋する気持ちを抱いていなければなりませせん。そしてチャンスとみたら自ら実行することです。(P.47)

 女性も男性も美しくて自信あり気な人はみな、褒められることによって培われてきたのです。(P.60)

 目次から。
 男は振られる生きものである/二兎しか追わぬものは一兎も得ず/考えるよりまず行動を/巧言令色ときめく愛/焦らず明るく正直に

146FK:2009/09/01(火) 20:21:45


『鹿鳴館盗撮』(風野真知雄 新人物往来社 1999年 \1900)

 「盗撮」シリーズの第2作、『西郷盗撮』に続くもの。シリーズといってもその後は出てないようだが。
 今度は鹿鳴館と日本外交にまつわるミステリアスなお話。出だしは、ややエロチックな内容もあり、読み進めづらかった。主な有名登場人物は井上馨・伊藤博文の二人。主人公の写真師が彼らとも会話をすることになる。
 なぜあのような屈辱的といわれた鹿鳴館外交、つまり連夜の西洋風宴会をしたのか。これまで私は深くは考えてこなかったが、著者はそれを伊藤の口を借りて述べており、私もあらためてそのような考え方というか、深慮遠謀があったのかもしれないと思わせられた。日本が列強から侵略はされないまでも、要注意国としてチェックされることを回避するために、野蛮国を装い、有名なビゴーの漫画で揶揄されたような、お猿の貴婦人が着飾ってダンスをするという、そんな風景をあえて演じて見せたのかもしれないのだ。
 だとしたら、伊藤たちの慧眼に敬服するしかないのだが。そのあたりはいま少し、勉強をしてみないとわからないところではある。

147FK:2009/09/02(水) 20:52:05

『「欠陥」住宅はなぜつくられるのか』(河合敏男 岩波書店 2006年 \480)

 一連の耐震偽装問題からのブックレット。

 基本的には甘い法制に原因がある。そしてそれは業界からの圧力による骨抜きのザル法のせいである。やはり国民だけがぼられる対象だ。

 まだ彼のアメリカ合衆国の方が、検査態勢がマシだというのだから悲しくなる。つまり日本はあのアメリカよりはるかに劣っているのである。自明のことであったかも知れないが。



 建物は、消費者の無知につけこんで不当に高い値段で買わされる危険の大きい商品なのです。(P.28)

【たいていの商品は、そのような可能性があるが、ただ大半はただちに検証することができるのと、金額的にも莫大ではないので何とかすませているわけだ。
ところが住宅ばかりはそうはいかない。まさに一生の不覚になってしまうのだから。となると、余程のことがない限りそのような商品には手を出さないのが賢明ということか、庶民には。】



 現代の建築現場は、基本的に性悪説に立って、監視を怠れば必然的に欠陥はつくり続けられると考えなければなりません。そうだとすると、欠陥建築の予防は、公的な検査によって実現すべき問題だという結論になります。(P.51)

【これまたどのような場面でも言えることだろう。被害の大きさからすればより切実であることは間違いない。おなかをこわす程度ではすまないのだから。】

148FK:2009/09/03(木) 20:26:53

2009/9/ 3(木)『われ、謙信なりせば 上杉景勝と直江兼続』(風野真知雄 祥伝社 2008年 \657)

 今年の大河ドラマですっかり有名になった「直江兼続」が主人公の話。著者はすでに1998年にこれを刊行している。ただ、『天地人』の方は有名になったが、こちらは知られないままのようだ。
 補佐役として生きる人間の、その人生を描いたようなものか。なかなか格好良く描かれているのだが、それは今の大河ドラマと同断だろう。たしかになかなか魅力的な人物であったようだ。ただ子どもたちには恵まれず、三人とも自分より先に死んでいっている。仕事では満足できても、家庭では悩みがあったということようだ。むずかしいものだ。
 今夏、そんな直江兼続のことも知らずに、彼が晩年を送った米沢に行ってた次第。ある意味、米沢が一番関係の深い場所であったのかもしれない。もとは越後とはいえ。

149FK:2009/09/05(土) 21:43:13

2009/9/ 5(土)『希望ヶ丘の人びと』(重松清 小学館 2009年 \1700)

 この手のホロッとさせる作品がうまい著者なのだとつくづく思う。『その日のまえに』・『きみの友だち』同様。ただこれは長編。二段組み510頁。
 今作品では『その日のまえに』とやや似ているところもある。そこでは妻であり、母である女性が亡くなる前から、亡くなるところまでが描かれていた。それに対してこの『希望ヶ丘の人びと』はすでに妻であり、母である女性が亡くなって二年が経つ。そこからのスタートだ。
 しかもこの地名であり、場所はその亡くなった妻・母親の育ったところ。したがって昔なじみが健在であり、自ずから様々な思い出がいっぱい詰まったところであるわけだ。わざとその場所を選んで引っ越してきた訳なのだが、はたしてそれがいいことなのかどうか。ともかくそれゆえに様々な問題・事件が生じ、小説は展開していくのだが。
 またあらためてこの地名「希望」というネーミングに、強烈な皮肉を感じさせられもする。希望があるうちは、明るく輝いた言葉であるが、一旦、希望を失った際にはとてつもなく絶望的な気分にさせられるネーミングなのだ。希望という言葉を恥ずかしげもなく使えるのは若いうちだけなのだろう。この言葉を私が口にできなくなってから、もうずいぶんの年月が経つ。


「おとなが考える『もしも』っていうのは、残酷なものだと思わないか?」
「おとなと子どもで違うんですか?」
「子どもの『もしも』は未来に向いてる。可能性だ。もしもボクに翼があったら、もしもタイムマシンがあれば、もしもJリーガーになれたら......ってな。でも、おとなの『もしも』過去にしか向かわない。後悔や愚痴だ。もしもあのとき、ああしてれば、もしもあのとき、ああしてなければ......ってことだろ?」(P.340)

【痛切だ。言われるとおり、おとなのそれは過去にしか向かわず、子どものそれはほとんどが未来に向けてのもの。】


「わたし、悪いけど、ニッポンのこと、やっぱり好きになれない。(中略)徹底的に嫌いになっちゃう前に、お別れしたいの、この国と」
 ニッポンは「みんな同じ」が大前提だから――。
 強くても弱くても、「同じじゃない」ひとは、いつもはじかれてしまうから――。(P.420)

【日系のマリア16歳はこのように言って、母の国アメリカへ帰って行く。そんな国・場所なのである。日本は。】

150FK:2009/09/08(火) 20:50:27

2009/9/ 8(火)『自然はそんなにヤワじゃない』(花里孝幸 新潮社 2009年 \1000)

 題の通りだと思うので、それを確認するために読んだような本。

 第1章 生物を差別する人間
 害虫や雑草という言葉に表れているか。そして「クジラだけがなぜ贔屓される」! そして「誰もが満足する環境はありえない」ということに。

 第2章 生物多様性への誤解
 「汚れた湖の方が生物多様性は高い」。また私たちに「見えない」からといって「いない」ということではないということとか、洪水の効用とかをあらためて考えさせられる。
 
 第3章 人間によってつくられる生態系
 それでいいではないか、いや「それでもいいではないか」とも言えるか。所詮、人間もこの地球上で生きていくしかないのだから。他の生物のことばかり言ってられるか、といったところか。
 
 第4章 生態系は誰のためにあるのか
 「少子化社会の維持を」というのがあるように、やはり少子化は悪いことばかりではない。

151FK:2009/10/02(金) 21:50:54

2009年10月 2日 (金曜) 『徒然草 in USA 自滅するアメリカ 堕落する日本』(島田雅彦 新潮社 2009年 \680)

 小説家による時評・社会分析には鋭いものがあるということだ。いろいろと勉強になった次第。

 資本主義は貧しい者をより貧しくし、戦争と恐慌をもたらし、ひいては人を死に導く。この法則は、歴史が証明している。拝金主義者の人口は圧倒的に多いので、資本主義はもっとも多くの信者を抱える世界宗教のようなものにも見えるが、善悪の区別や内省、理性、あるいは倫理といったものがすっぽり抜け落ちているので、宗教とは程遠いものでもある。
 貨幣は信用の対象だが、いい換えれば、信仰の対象にもなり得る。元々、貨幣は教会や寺院がその価値を保証していた歴史があり、それ自体が宗教的な意味合いを帯びてもいた。(P.45)

【その通りだろう。後段については知らなかった。】


 資本家に倫理を求めるのは、政治家に品性を期待するのと同様難しい。(P.105)

【にもかかわらず、資本家たちは倫理を私たちに説くのだ! 笑止千万!】


 日本が誇る知性や技術はいい教師といい生徒との出会いから生まれるもので、別に愛国心の産物ではない。知性とは自分の頭で考えられるということだ。自分の頭で考える生徒を作るには、自分の頭で考えられる教師を育てる必要がある(P.144)

【何も付け足す言葉は、ない。】


 大衆社会では理性的な個人も衆愚に組み込まれる。権威主義は民衆の無知によって支えられる。わかりやすさの追及は思考能力の低下を招いた。(P.144)

【思い出すのは、分かりやすい授業、というやつだ。これがいかに害毒を撒き散らかしたことか。】


 おのが欲求不満を吐き出すためにも、本能や感情を爆発させるためにも教養が要る。なぜ自分は怒っているのか、何に憤りを覚えるのか、それを伝える言葉を持たない人間は惨めである。(P.145)

【知識や教養を軽んじるなかれ、ということだ。】

152FK:2009/10/10(土) 21:35:16

2009年10月10日 (土曜) 『青き剣舞(けんばい)』(花家圭太郎 中央公論新社 2003年 \1800)

 時代物の単行本は、とっかかりが難しい。少なくない数の人名・地名・官職名・人間関係などが錯綜するからだ。この本もそうで最初はなかなかはかどらなかった。言うまでもなく途中からは、ぐいぐい引きこまれて読み進められたのだが。
 時は赤穂浪士の討ち入りがあった前後の数年間、青春のまっただ中にいながらも、それぞれ各武家の二、三男という不遇の中でそれぞれもがき苦しみながら生きている仲の良い三人の間にまもなく波風が立って、それぞれの思わぬ人生が展開されていくことになる。中でも主人公である玄二郎はなかなか魅力ある好人物として造形されており、このことだけですでにこの小説が読むに値するものとしている(誉めすぎかも)。
 江戸に出て、実際に赤穂浪士の討ち入りに際会するのだが、その前後でそれをめぐっての江戸庶民の賭けが行われていたことについての記述があった。それが史実かどうかは今の私には分からないのだが、さもありなんと思わせられるエピソードである。最後の最後までヒヤヒヤしながら読むこととなる。好著である。

153FK:2009/10/14(水) 22:00:06

2009年10月14日 (水曜) 『群青遙かなり』(花家圭太郎 徳間書店 2005年 \1800)

 折しも世界史の授業を担当しているので、この本のテーマにもついていけた。
 日本の方の主人公は豊後の国の大友宗麟・キリシタン大名とその食客・乾主水(いぬいもんど)、それに対しポルトガルの方はカルロス。いずれも架空の人物、造形されたものとは思うが、彼らがインドのゴアで出会い、さらにその両者のともどもの死の時までを描く。イエズス会の宣教師や豊臣秀吉・島津氏も出てくる。
 海を舞台にしたなかなか気宇壮大な小説であった。場所は違えども同じような歴史、小国が大国に飲み込まれていく様が描かれていて、歴史の勉強にもなる。なかなか魅力的な作品であった。

154FK:2009/10/29(木) 23:14:28

2009年10月29日 (木曜) 『花の小十郎京はぐれ 乱舞』(花家圭太郎 集英社 2002年 \2200)

 460頁の長編。『暴れ影法師』『花の小十郎始末 荒舞』に続く第三作目。
 やや読むのに苦労した。それと「京」が出てくるということは、やはり天皇や公家が出てくるわけで、そうなると破天荒な主人公の本来のありようがかなり鈍ってしまってるように感じる。既存の作品では隆慶一郎のそれがあるが、突拍子もない面白さが天皇たちが登場することによって一挙にトーンダウンしてしまうのだ。それはタブー視しているからか、はたまた尊敬・畏敬の念が強すぎて小説として書くのにブレーキがかかるからなのか。いずれにせよ、いまいちの感をいだかせる結果となっている。


「政事(まつりごと)は世の流れのなかで定まる小局。その前に、この国の在りよう......すなわち、大局があろうかと存じ奉りまする」(P.444)
【歴史上、その時々に権力を握った者たちも、歴史の大きな流れ、あるいはもっと大きな普遍的な存在からすれば、所詮、小局にすぎない。ただ「大局」を何と定義するかで、本来、小局の一つである天皇・朝廷の存在、あるいは神というものをそれだと誤認・誤解する人たちがいるのだ。私の思うには、それは人間も含めたすべての生命体と自然の景観・風土のトータルのもの、といったところか。大局とは何か、と感得するのは困難なことだろう。】

155FK:2009/11/01(日) 20:16:01

2009年11月 1日 (日曜) 『花の小十郎はぐれ剣 鬼しぐれ』(花家圭太郎 集英社 2007年 \2200)

 今作(シリーズ第四作)では、二代将軍・大御所の秀忠が亡くなり、そのあと三代将軍家光がいよいよ専権を揮おうというところでのお話し。主人公はこの家光から憎まれ、命を狙われているという設定。それをどのようにやりこめていくかという面白さがある。失うもののない者は強いということ。それに理もあるわけで。

「わしは指示をせぬのではない。指示を我慢しておるのじゃ」(P.170)
【相変わらず、いろいろと聞くべき言葉が散りばめられている。現代風に言うとカウンセリングでもあり、人の指導にあたっての心構えでもある。ついつい指示したくなるのが、人間だ。】

「賢愚洩らさずその筋々に用ゆべし」(P.172)
【これも同様で、適材適所とか、それぞれの個性を十分に活かすということで、不易の真理であろう。ただ哀しいかな、「賢」は用いても「愚」は排除する場合が多いことだ。どちらも必要なのだが、なかなか難しいようだ。】

156FK:2009/11/03(火) 20:36:13

2009年11月 3日 (火曜) 『いつまでも、いつまでもお元気で 特攻隊員たちが遺した最後の言葉』(知覧特攻平和会館編 草思社 2007年 \1000)

 男子生徒が貸してくれた本。知覧へはそしてその知覧特攻平和会館へも修学旅行で一度行ったことがある。その生徒はまだ行ってないとのこと。
 この手の本は、若い頃「太平洋戦争」についていろいろと勉強をしていた頃にいくつか目にした。これもその頃に一読しているのではないかと思う。
 これ一つ読むだけで、戦争をしてはいけないこと・国家主義教育はしてはいけないことを痛切に理解させられるのではないか。

157FK:2009/11/05(木) 19:53:08

『大脱走』(鈴木英治 中央公論新社 2009年 \1600)

 ソフトカバーの書き下ろし。穴山信君の妻・千鶴のちの見性院が主人公と言っていいか。穴山がいよいよ武田勝頼を裏切り、その妻子を甲府から脱出させるお話しがメインである。まさに、大脱走。それを阻止せんとする勝頼の部下前島平蔵(おそらく架空の人物と思う)を狂言回し(深刻な役割だが)として。
 一気に読んだ。しかし、無用の殺生が愚かな(?)領主によって恣意的になされていくさまは、あまり気持ちのいいものではない。歴史はそのような過程を経ざるをえないとはいえ、哀しいことだ。

158FK:2009/11/07(土) 21:04:04

2009年11月 7日 (土曜) 『イキガミ 7』 (間瀬元朗 小学館 2009年 \540)

 最新刊。二つのエピソード。どちらも道半ばにしてその生命を奪われる無念さに同情し涙を誘われる。間違った思想による合法的な死を与えられる、という残酷さ・酷薄さを実感できる。これまでのと同様、相変わらず良い内容だ。

 DVD、本(全7巻)ともに手元にありますので、お貸しできます。

159FK:2009/11/08(日) 20:24:32

2009年11月 7日 (土曜) 『国芳一門浮世絵草紙 侠客むすめ』(河治和香 小学館 2007年 \533)

 シリーズ第1作。面白い! まず本家本元の国芳が破天荒な、しかも器用で上手い絵師として紹介されている。弟子たちがよってたかっても勝てないくらいの才。次にその娘・登鯉(とり)がいい。狂言回しとして話を進めていく役割と、自身の恋をまじえて成長していく姿がいい。天保の改革の頃の話で、当時の社会に対する批判は、今のご時世にも十分通用する内容がある。大したものだ。
 現在第三作まで出ているようであるが、次が楽しみだ。なお、高校生向きというよりは、やはり大人向きの作品だろう。


「浮世絵ってぇのは、この浮世をそっくり絵にしたものさ。だからじっくり浮世の苦労をした者じゃねぇと、いい絵は描けっこねぇんだ。ただ筆ばかり握っていたってダメってことよ」(P.108)


「だがよ......みっともねえ真似もせず、何にもつまずかねぇで生きてきた奴は......人を許す、ってことを知らねぇよ」(P.110)

【いずれも十分、通用する話だ。】

160FK:2009/11/09(月) 19:26:36

2009年11月 9日 (月曜) 『国芳一門浮世絵草紙2 あだ惚れ』(河治和香 小学館 2007年 \533)

 シリーズ第2作。いい。女性の心理のあやもよく描かれているような気がする。若い登鯉のいくつかの恋もあれば、大人の恋も。その父・国芳の生き方は相変わらず気持ちがいい。それこそ私とは対極にあるような生き方だ。あとうらやましく思うことに、その家はよほど居心地がいいのだろう、みんながなんだかんだとやって来るというところ。目には「物理的な場所」しか見えないのだが、もちろんそれだけで人が集まってくるわけではない。


「女ひとり老いさらばえてゆくのは、世間の人が思うほど寂しくはないけどね」
 でも、人は、自分のためだけに生きていくのは案外むずかしいよ、とお栄は言うのだった。
「......自分のことばっかり考えて生きていくのは、気楽なようで、結構めんどうなものサ」(P.148)

【この真理に、人はなかなか気付けないような気がする。気がついたときには、まわりにはもう誰もいない、ということに!】

161FK:2009/11/10(火) 19:22:55

2009年11月 9日 (月曜) 『国芳一門浮世絵草紙3 鬼振袖』(河治和香 小学館 2009年 \533)

 一年半ぶりの最新刊。シリーズ第3作。間が空いたのは著者の家人が亡くなられたためのようだ。
 さて久しぶりとなったせいか、出足はややなじみにくかったが、徐々にこれまで同様のペースに。やはり、なかなかいい。

 本人の姿が<ない>ことより、こうして遺されたものが<ある>ことに、悲しみはよりいっそうつのるようだ。死んでしまったという実感は、こんなふうに刻まれてゆくものなのだろうか。
 近しい人の死は、こうして折に触れ心に再来し、キリリと痛みを残し、また何もなかったように去って、残された人々を日常の中に置き去りにしてゆくのだろう。(P.59)

【なんと言うことなく、しかし、ぐっとくるこの表現を心に留めて読了。そのおしまいの解説にあたるところで、上記のご不幸を知ったわけで、その伴侶を失った著者の悲しさに思いをはせた次第。
 そうなのだ。残された者は、死ぬまで置き去りにされたままなのだ。ほとんどの日常は、その悲しみを忘れて時を過ごしていくのだが、ときに喪失の悲しみをあらためて悲しまされることとなるのだ。】

162FK:2009/11/11(水) 18:14:12

2009年11月 9日 (月曜) 『秋の金魚』(河治和香 小学館 2003年 \1600)

 重い長編。時代は幕末から明治20年頃まで。登場人物は主人公の女性・留喜(るき)をめぐって、史上、有名な人物があるいは初見の人物が。例えば咸臨丸のアメリカへの航海での乗組員など、私には知る由もない。
 江戸幕府の滅亡から明治維新にかけての歴史の中で、徳川慶喜のような雲の上の人間は別として、仕えていた武士たちのその後はなかなかに凄絶である。
 歴史の表舞台にはけっして出てこないような人々のことが描かれていて、そのような視点もあるのだとあらためて知らされる。いくら勉強しても、まだまだ終わりはない。正史だけではなく歴史小説もその視野に入れておかねば、と思い知らされる。

163FK:2009/11/14(土) 11:39:35

2009年11月14日 (土曜) 『笹色の紅―幕末おんな鍼師恋がたり』(河治和香 小学館 2006年 \1700)

 最後のページを読み終わって、からだがブルッとふるえるような作品だった。良い。実に、良い。こんな本にめぐり会えてよかった、としみじみ思う。
 人の一生、その人生には、重いものがある。もちろん誰の人生にも、何もないはずはない。どう思おうと・思われようと、気付かれようと・気付かれまいと、そこにはいっぱい、言うに言われぬ本人だけの思いや事々があるものだ。
 そんな人の生を垣間見させてくれるのが、小説なのだと思う。

 おしゃあは庄八と出会って、はじめて甘えるということの喜びを知ったように思う。人は甘えることを覚えて初めて他人に優しくなれるのかもしれない。(P.93)
【おんな鍼師・おしゃあの一生を描いた作品だが、その話の中心は、彼女が二十歳の頃に出会った生涯の男性、漁師であった庄八とのこと。愛とか愛情という言葉では言い尽くせないものを、この「甘える」という言葉は含んでいる。このような、甘えられる人を得られることは、人生最大の幸福であろう。】

164FK:2009/12/09(水) 22:21:29

2009年12月 9日 (水曜) 『般若同心と変化小僧 陰謀』(小杉健治 KKベストセラーズ 2009年 \686)

 シリーズ第3作。これも悪役(?)鳥居耀蔵が登場する。この小説の設定では、犯人捜しのミステリーという部分は、ある意味、最初から望むべくもない。つまり変化小僧たちにとっての敵が下手人であり、陰謀を画策しているわけなのだから。
 そうなるとこの小説を読む楽しみというのは、いかに彼ら悪人を追い詰め、天罰(?)を下していくか、という点に集約されるわけだ。誅殺されるのは小悪だけであり、巨悪は生き残っていく。フラストレーションの残る所だ。また、派手なアクションもあまり期待できないし(相手は権力であり手強すぎるので)、明るい笑い声が出るわけでもなく、なかなかストレスの溜まる小説であるといえよう。こんなことで、この小説は売れているのだろうか?!

165FK:2009/12/12(土) 22:55:14

2009年12月12日 (土曜) 『恋細工』(西條奈加 新潮社 2009年 \1300)

 これまた天保の改革・水野忠邦・鳥居耀蔵の頃のお話し。本当にひどかったのだろう。世の中全体が、逼塞してしまっている。しかも、処罰されるのであるから。こんな時代に歴史を逆転させてはいけない。
 ラストでジーンときた。上手いな、と思う。氏の作品は以前『金春屋ゴメス 』とか『烏金』を読んでいるが、本作は題名から予想されるようにこれまでのものとは違う趣のもの。
 簪(かんざし)などの細工をする職人の世界の話。技術的なことはわからないが、職人の世界、そして女性は排除されていることなどが描かれている。また、いわゆる職人と、いわば芸術家ともいえる方向を目指す(?)人物が造形され、対比されている。この時代はまだまだ芸術家の登場する時代ではないか。

166FK:2009/12/15(火) 20:26:24

2009年12月15日 (火曜) 『新版 大学生のためのレポート・論文術』(小笠原喜康 講談社現代新書 2009年 \720)

 いくつかパラパラと捲って。

 文献資料収集は「やみくも・イモヅル・ねらいうち」(P.157)

【そうそう、これはやってるやってる、といったところ(笑)】



 文章をわかりやすくする原則は、ただ一つである。
 一文を短くする。
 たったこれだけである。だからこそ難しい。さまざまなテクニックのすべては、この原則に添うためである。一文は、三〇字以内がよう。長くても四〇字前後。六〇字を超えると苦しくなり、八〇字を超えるとわかりづらい悪文となる。
 ではどうすれば、一文を短くできるのか。最初に次のことをやってもらいたい。
 同じコトバや同じ意味のコトバを二つ以上入れない。(P.197)

【あれこれと私も考えていたが、なるほど、ずばり一言で言えばこの「一文を短くする」なのだった。これに集約できるだろう。】



 「ていねいに語る」にはどうするか。それはやはり一つ一つのコトバや概念に具体性をもたせることである。(中略)「たくさん勉強して、正しい答えを書こうとしてはならない」(P.215)

【曖昧なまま使ってしまうことが多い。それは日常生活のなかでは、それでいいからなのだろう。後段の、「正しい答え」というのが曲者だ。そもそも何にでも答があるとする前提が、実は疑うべきことなのに、さらに「正しい答え」があると前提してしまうとさらにさらに間違いを犯すことになる。】



 日本は明治以来、近代教育という国民教育の時代に入った。端的にいうと近代教育の最大目的は、工場で働く人間をつくることである。この目的のために重要な学力は、「時間を守る道徳」と「自分で考えない(原著、「ない」に傍点)力」の二つである。(P.217)

【授業の遅刻三回で一時間の欠席、などその典型である。会社でも遅刻に対するペナルティはえげつないものがあるだろう、と推測する。なぜ遅刻がダメなのかは、本人のためではなく会社や組織のためであることに気付かねばならない。そのためにもまずは「考える力」をつけなければならない。私から言えば「考える力」をつけられる授業をしなくてはならない。】

167FK:2009/12/19(土) 19:22:35

2009年12月19日 (土曜) 『弩』(下川 博 小学館 2009年 \1700)

 中世・鎌倉末期の歴史小説。「弩」(ど)というのは、武器である。クロスボーに似ている。同じようなものだろう。
 中世農村の農民たちの姿が描かれる。それは自分たちの食い扶持と領主への貢との微妙なバランスの上で成り立っている。それが自然災害や戦争などの人災によって狂ってくる。さらに、混乱の時代にはいくら退治しても、あとからあとから出てくる悪党の存在がある。それらから村を、自分たちの命と財産を守るためにある意味、文字通りの「必死」の状況があったと思われる。
 そんなあたりから、自衛のために武士を雇った村の記録から、この小説は思いつかれたようだ。(黒澤明の『七人の侍』もある。)
 しかし、武力の前になすすべのない農民たち。たしかに一揆や逃散などで戦いもするが、最終的には敗北していくことを歴史は教えている。


 遠大な理想を言葉に代えると人は必ず落ち込んで傷つく。(P.66)

【複雑な心境だが、なんとなくそう思ってしまう。気恥ずかしさなのか、あまりの夢想であるからなのか。】


「吾輔は騎馬武者の恐ろしさを知らんからのう。数十騎もの騎馬武者が束となって押し寄せてくる怖さはこの世の物とは思えぬ。脚が竦んで動けぬ。震え上がって大の大人が小便を垂れ流す。騎馬武者から放たれる雁股の矢は首筋に当たれば首を吹き飛ばすのだ」(P.199)

【吾輔は主人公の農民。世界史の授業で馬・騎馬の役割の大きさに気付かされたのだが、これは洋の東西を問わないものだとあらためて認識させられる。平和的なイメージのある動物・馬なのだが。】

168FK:2009/12/24(木) 21:31:45

2009年12月24日 (木曜) 『新九郎外道剣(二) 七万石の密書』(小杉健治 光文社 2009年 \571)

 シリーズ第2作。相変わらず、「悪」を悪と思わず・自覚せず(?)人を殺していく。本人にこう言わしている。「斬りたくて斬っているわけではない。降りかかる火の粉を払っているだけだ」(P.324)
 しかし、この主人公はまだ見えやすい悪を実行しているわけで、世の中には分かりにくい・見えにくい悪を実行する者がいるということだ。そんなことを気付かせてくれるのも、この手の小説のいいところかも知れない。

169FK:2009/12/25(金) 21:34:50

2009年12月25日 (金曜) 『三人佐平次捕物帳 魔剣』(小杉健治 角川春樹事務所 2008年 \680)

 はやいものでシリーズ第11作。相変わらずの三人兄弟と今回はあと二人が探索に加わり、変化があって面白かった。
 日本刀にはいろいろなお話しがまとわりついているようだが、今作もそれを使っている。妖刀という言い方もしている。要するに持っていると使いたくなる・人を斬りたくなるというやつだ。やはり武器は持たないに限る。また道具は良いものを持たないとダメだということだろう。

170FK:2009/12/30(水) 14:01:24

2009年12月29日 (火曜) 『勘定吟味役異聞 破斬』(上田秀人 光文社 2005年 \629)

 シリーズ第1作。初めて読む著者である。時代小説の書き手の多さにあらためて気付かされる思いだ。さて、初めて読む文体(?)であることから、あるいは読点がないからなのか、私には意味が取りにくい箇所もあった。それでもなお、なかなかスリリングな内容である。
 主人公は26歳の旗本。新井白石に登用(?)され、当時の勘定奉行・荻原重秀と対立していくことになる。そこに柳沢吉保や紀伊国屋文左衛門・金座の後藤家などがからんでくる。そればかりでは華やかさがないので、口入れ稼業の相模屋の娘・紅(あかね)がからんでくる。
 江戸時代の経済や荻原の貨幣改鋳(改悪)のことなどが出てきて勉強にもなる。

171FK:2009/12/30(水) 19:51:16

2009年12月30日 (水曜) 『遠山景元 老中にたてついた名奉行』(藤田 覚 山川出版社 2009年 \800)

 日本史リブレットの一冊。わずか90ページくらいの小冊子で、要領よくまとめられている、ということになるか。専門書というほどではないので、たとえば遠山の「伺書」(うかがいがき、一種の報告書か)などの原文などはあまり引用されていない。
 最近、手にする時代小説で必ずと言っていいほど登場するのが天保の改革の一連の事件である。彼、遠山金四郎は結構、老中に反対意見を述べているようで、そんなところが後世にまで残る名声のもとであったのかもしれない。桜吹雪の入れ墨など本質的な問題ではないだろう。
 ただ、その民のための「反対意見」も究極は、将軍の仁政(?)・治安の維持ひいては幕府のためのものであって、それ以外のなにものでもない、というところは押さえておかなければならないだろう。民主主義の時代ではないのだから。ただ、彼の晩年にはペリーも来航しており、江戸幕府の終焉は近かった。

172FK:2009/12/31(木) 08:58:04

『はむ・はたる』(西條奈加 光文社 2009年 \1400)

 連作短編集、六編からなる。なかなかいい話だ。うまいな、と思う。
 江戸時代、子どもたちは大変な環境の中で生きていたのだと思い知らされる。いつの時代でも女性・子ども・老人は、その時代のマイナス面を背負うことになってしまう。歴史の示すところだ。

 お話しは、勝平という十二、三歳の少年をリーダーに15人もの親なき子、捨てられた子、売られた子などが、寄り添って江戸の長屋で暮らしを立てていくというもの。もちろん、子どもたちだけでは無理で後援者がいるのだが。

 一作ごとに、話し手(子どもたち)を順次替えているというのも、一つの面白い趣向だ。いずれも謎解きがあるわけで、ミステリー仕立てである。

 それにしても、子どもたちも彼らなりに必死に・懸命に考え・感じ・行動しているものだと気付かされる。本当に大したものだ。
 この先も続きが書かれたらいいのだが、やや難しいかもしれない。
 ちなみに、『はむ・はたる』とは「ファム・ファタール」(運命の女、危険な女)のこと。

173FK:2009/12/31(木) 10:13:16

2009年12月31日 (木曜) 『下流の宴』(林真理子 毎日新聞社 2010年出版予定)

 今日で298回目の毎日新聞朝刊連載の『下流の宴』が終わった。読後感はひとことで言って、後味の言いものではない。苦いものを口の中に放り込まれたようなものだ。小説とは、それを読んだ私たちが何を感じ、どう考えるかはまかされているわけだから、すきなように解釈すればいいのだが。
 そもそも、この連載が開始された折、一体『下流の宴』とは何を意味するのか考えさせられたものだ。その後もずっと気になったまま読み続けてきたのだが。
 姉と弟との生き方が、現代の若者の一つの典型して描かれている。姉は上昇志向で、ついに理想的な男性との結婚を果たし夢にまで見た優雅な生活を送ることになるのだが、.....。
 弟は姉同様のコースを期待されながらも途中でドロップアウト。高校も卒業することなくバイトでその日暮らし。そんな中、女の子と出会い同棲。結婚を、と考えるが、親がそんな女の子とは、と反対。面罵された女の子は、発憤して医者になることを決意。二年掛けてついに国立大学の医学部に合格する。しかし、その頃には「弟」君は努力する人って重苦しい、とか、いずれ自分は見下されるのだ等々、のたもうて彼女を驚かせ失望させて....。
 所詮、ダメな人間はどこまでいってもダメ・下流の人間はどこまでいっても下流、そんなことなのだろうか。

174FK:2010/01/03(日) 22:04:34

2010年 1月 3日 (日曜) 『ひまわり事件』(荻原 浩 文藝春秋 2009年 \1800)

 新聞広告の惹句や、この書名にうっかりだまされそうだった。幼稚園児と老人ホームのお年寄りたちとが織りなす、フワンとしたユーモア小説かと思って読み始めたのだった。とんでもない。シリアスな小説であった。495頁。
 まず、いきなり「101」章からスタートし、二つめの章が「1」、そして(鈍い私は考え及ばなかったのだが)最後の章は「100」であった。
 幼稚園児という若すぎる世代と、70代・80代の年寄りとの接点は、ありそうで、ない。あるといいだろう、と安直に私なども考えてしまうのだが、その実態のシミュレーションがこの小説に描かれている。
 机上の空論とまでは言わないまでも、実際は難しいようだ。ともかく話が合わない・感覚が合わない等々、何もかも「合わない」ことだらけ。では、どうすれば? この小説にはそのヒントがあるかも知れない。
 さて「事件」であるが、なぜこのような事件を起こさざるを得なかったか?
 端的に言えば、やはり、大きく言えば日本社会に、小さくはこの幼稚園・老人ホームに民主主義的なシステムが定着、いや存在してないからだ。だから、実力行使のパフォーマンスをせざるを得なくなるのだ。
 なお、教育関連で言えば、会社などがその利益追求の手段として「教育」に手を出すのは感心できないということだ。もちろん、老人ホームでもそうなのだが。「教育は儲かる」では、ダメなのだ。

175FK:2010/01/04(月) 14:06:37

2010年 1月 4日 (月曜) 『おせん 真っ当を受け継ぎ繋ぐ。1』(きくち正太 講談社 2009年 \533)

 テレビドラマ化された『おせん』が16巻で終わり、名称もあらためての『おせん』に。テレビドラマではトラブルがあったようで、残念な思いをしていたが、再開されてよかった。ただ、テレビの『おせん』がDVDで発売されることはまずないだろう。私はかろうじてVHSに残してあるが。
 さて新(?)シリーズ第1巻として発刊された『おせん』はその副題に示されているように、著者の主張が凝縮されているということだろう。ここでは料理や食べ物の世界の話だが、すべてに通じることだ。しかし、真っ当にやっていくのは、どの世界に限らず難しいことだ、としみじみ。

176FK:2010/01/05(火) 17:19:37

2010年 1月 5日 (火曜) 『あなたがもし奴隷だったら...』(ジュリアス・レスター文/ロッド・ブラウン絵 片岡しのぶ訳 あすなろ書房 2000年 \1800)

 図書館で目にした絵本。これから世界史の授業で出てくるところなので、目が行った。

 弱った者、死んだ者は、空になったワイン樽のように海に投げ込まれた。(中略)1518年から1865年まで、イギリス、オランダ、ポルトガル、フランス・アメリカの船が、大勢のアフリカ人を新世界へと輸送した。ただで働かせるために。/何百万のアフリカ人が運ばれた。何百万人が死んだか、だれも知らない。/サメたちのほかは。(P.4)
 【映画[アミスタッド]で観て、知っていたシーンだ。】

 だれかに大事に思われること。だれかを大事に思うこと。それが人間である証しではないだろうか?(P.26)
【奴隷貿易というビジネスの前には、人はそれを忘れてしまうのだろう。金儲けのためには・生きていくためには、人はそれを忘れてしまった振りをするのだろう。】

177FK:2010/01/05(火) 21:21:17

2010年 1月 5日 (火曜) 『勘定吟味役異聞 熾火』(上田秀人 光文社 2006年 \648)

 シリーズ第2作。文庫本でも400頁あるので、なかなか。この勘定吟味役というのは本当に江戸幕府の職制の仲に存在する。「老中に直属し,勘定所役人や幕領代官を監察する役目を負った江戸幕府の役人」(岩波日本史辞典)とのこと。
 この巻では、吉原が登場し、柳沢吉保・荻原重秀・紀伊国屋文左衛門たちに味方する。といっても三浦屋四郎右衛門がそれで、吉原惣名主の西田屋甚右衛門は直接加担していないのだが。
 吉原については隆慶一郎の小説でなじみがあったが、吉原を別の角度から分かりやすく紹介している(P.396 前後)。

178FK:2010/01/07(木) 13:19:22

2010年 1月 7日 (木曜)『はぐれ長屋の用心棒 おっかあ』(鳥羽 亮 双葉社 2009年 \600)

 シリーズ第15作。もうずいぶん長く続いている、というか読み続けているものだ。さすがにパターン化してきていて、ややつまらなくなってきている面もあるが、ある意味、惰性で読んでいる。気分転換・時間つぶし、といったところ。
 今回の中身は、先日、観た映画[グラン・トリノ]を思い出させる。ようするに小悪なのだが、これが意外と厄介なのだ。若い時分には誰でもいろんな誘惑があるものだが、そんな一つを描いている。人生は一つ一つミスをしながら学習していくものだが、事と次第によっては取り返しのつかないこともある。なかなかに人生を生きていくのは難しいものだ。

179FK:2010/01/11(月) 21:42:09

2010年 1月 9日 (土曜) 『徳川家康 トクチョンカガン 上』(荒山 徹 実業之日本社 2009年 \1500)

 昨年、話題となったもの。なぜ「トクチョンカガン」とあるのか、と不思議に思いながらこの本を手にした。第1章を読み始めて時代がいわゆる「朝鮮出兵」の時であることが分かる。場所は朝鮮半島、そして事件は日本の武士たちとの戦いのシーン。このあと朝鮮人である主人公・元信(ウォン シン)がどのようにして「トクチョンカガン」になっていくかが描かれている。
 上下巻、全15章のうち14章までは、たとえば第4章なら「入れ替わった男」といった具合に「〜男」という形のネーミングがされている。
 朝鮮人として日本(豊臣秀吉・豊臣家)への復讐のために、その手に入れた地位を利用していくという発想。具体的には明の属国に、と考えるなど奇想天外なものだ。その手足となって働く異能者はさすがに現実味がない「忍者」ではあるが。

2010年 1月11日 (月曜) 『徳川家康 トクチョンカガン 下』(荒山 徹 実業之日本社 2009年 \1500)

 著者はあとがきで「勝者によって書かれた歴史、謂うところの正史に対抗するものとして稗史があり、その伝統を受け継ぐのが伝奇時代小説であろうかと思う。」(P.266)と書く。ということでこの書物の性格が理解されるわけだ。
 たしかに歴史小説は正史に対する稗史(はいし)のとしての面目があってこそ、その値打ちがあるということだろう。正史の後追いではつまらない。

 さらに豊臣秀吉の文禄慶長の役については「朝鮮は勝者にして被害者でもあるので、秀吉に対する怨念は深い。/徳川は勝者のうえ簒奪者であるから、自らの正統性を強調しなければならない。/爾来、両者がそれぞれの意図により合作して書きあげた歴史、つまり勝者の歴史に拠って、文禄慶長の役は、空虚なる出兵だの、故郷忘じがたく候だのと叫ばれてきた。勝者が作り上げた歴史観に擦り寄って歴史を語るのはさぞや心地よかろう。」(P.266)とも。

 これまで読んできたものからは、家康こそ豊臣家の崩壊を秀忠の陰謀から守ろうとしたとか、秀忠は暗愚であったとか、家康と秀忠の不仲は互いに命を狙うほどであったとか。また家康そのものが関ヶ原で死んでいて、実は影武者であったというのも想像上のこととは思うが、本作も隆慶一郎の作品の場合でもその前提で物語が展開している。面白くはあるが、事実はどうなのか。
 とまれ、このように見てくると、歴史上の人物というのは固有名詞としての人間でなくても、その役割をあてがわれてその役割を果たしさえすれば、それが誰であったとしてもいいということになるのではないか。一体、誰が歴史を動かしてきたのだろうか。

180FK:2010/01/21(木) 22:30:15

2010年 1月21日 (木曜) 『伊藤一刀斎 上』(好村兼一 廣済堂出版 2009年 \1800)

 上巻だけで491頁の長編。第13章まで。結構、面白くてすいすいと読めている。大島から島抜けをした主人公が、どんどん成長していく姿が見られる。つい気持ちが主人公の若者にいって、声援をしている感じとでも言おうか。
 運や才能、人々との縁など僥倖に恵まれてでもある。

「名は人を表すもの。(中略)己の外見や心意気に相応しい名を持つことは、世間の評価の獲得に繋がっていく」(P.485)
【親につけてもらった名前ではなく、「号」とでも言おうか。そこには自分の思想などが込められた名前を自ら考案してつけるのが大事なようだ。疎かにはできない。】

「後は名に相応しい身なりと品格、恥じぬ振舞いを心がける。さすれば世間の目はひとりでにそなたに向く。身繕いを疎かに考えてはならぬぞ。高価な身なりをせよと言うのではない、隙のない身なりじゃ。そもなくば、人から見当違いの侮りを受ける因(もと)ともなろう」(P.489)
【身なりにはかまわないたちなのだが、これを見て、少々、考えてしまう。】

181FK:2010/01/23(土) 11:27:29

2010年 1月23日 (土曜) 『いさご波』(安住洋子 新潮社 2009年 \1500)

 昨年の時代小説の話題作ということで推薦されていた一冊。5短篇。なるほど、哀感とかホロリとさせるところは山本周五郎のような感じか。文章も読みやすい。ということでこれから他の作品も読んでいきたいと思う(寡作のようだが)。
 著者は現在は分からないが、尼崎生まれとのこと。なるほどこれらの短篇の場所もこの近辺であり、特に三田(さんだ)が出てくる。

182FK:2010/01/25(月) 19:09:02

2010年 1月22日 (金曜) 『世界史における時間』(佐藤正幸 山川出版社 2009年 \729)

 気になっていたカレンダー、暦の話。なぜキリストの誕生を基準にした暦が世界的に使用されるようになったのか。
 日本では太陽暦と称して、その宗教色を払拭して採用したわけだが、そんなところに秘密があるようだ。なんと言っても明治初年にはいまだ切支丹は御法度だったのだから。
 とまれ現在私たちが使用する四桁での西暦表記は19世紀中頃からのものではないかと(P.57)。

183FK:2010/01/27(水) 19:56:16

2010年 1月26日 (火曜) 『心をゆさぶる平和へのメッセージ なぜ、村上春樹はエルサレム賞を受賞したのか?』(ゴマブックス 2009年 \1000)

 初めて村上氏のスピーチ全文を読んだ。元は英語だが、翻訳されたもの。結構、良い内容だった。見直した。小説はなかなか私にはあわないので読めないのだが。

184FK:2010/01/29(金) 20:03:15

2010年 1月29日 (金曜) 『ドント・ストップ・ザ・ダンス』(柴田よしき 実業之日本社 2009年 \1700)

 久しぶりのシリーズ。保育所の園長兼私立探偵・花咲慎一郎が主人公のもの。
 なかなか凝った構成で、うまいなと思わせられる。

 踊ろう。/踊ろう。/踊り続けよう。/それがたぶん、生きるってことだし、な。(P.450)

185FK:2010/01/30(土) 11:12:46

2010年 1月29日 (金曜) 『梅咲きぬ』(山本一力 文藝春秋 2007年 \590)

 山本一力氏の作品は日経新聞夕刊の連載小説『おたふく』が読み始めで、この作品にいたく感心したのでいずれ読みたいと思っていたところ。今後、集中的に読んでいきたいと思っている。
 本作品も『おたふく』同様、寛政の改革で棄捐令が出された頃前後のお話。江戸屋の二代にわたる女将、就中、娘である玉枝(4代目秀弥)の半生を描く。
 名台詞というか、共感を呼ぶ言葉がいくつも出てくる。人生の教科書のような趣きもある。ああいう生き方をしたいと思わせられるのだ。

「つらいときは、好きなだけ泣きなはれ。足るだけ泣いてもよろし。そやけど自分が可哀相やいうて、あわれむことだけはあきまへんえ。それは毒や。つろうて泣くのと、あわれむのとは違いますよってな」(P.36)
【これは玉枝のお師匠さんの言葉。玉枝はまだ7歳(といっても当時は数え)。今時の子どもたちにも、このように言えるだろう。】

186FK:2010/01/31(日) 20:16:13

2010年 1月31日 (日曜) 『伊藤一刀斎 下』(好村兼一 廣済堂出版 2009年 \1800)

 下巻は410頁。第14章から第26章まで。その生涯の終わりまで。
 武芸者の常なのかも知れないが、家庭的な幸せはやはり得られなかったようだ。もちろん、時間の長短ではないのだが、その幸せな時間は余りに少なかったような。
 どんな世界にあっても誰しも頂上を目指すのが当たり前だと思っているのだが、ではそこに達した後のことを考えている人は少ないということ。この小説では主人公・伊藤一刀斎の師匠に言わせているが、一旦、頂上に登り詰めたら、あとは下るのみ。そう、何事においてもあとはもう下るしかないのだ。年齢的なものもある。引退・引き際の大切さと難しさがあるということだ。
 いずれは若い人たちに抜かれていくのだ。どのように晩節を汚さずに世代交代していくかはなかなかに難しいようだ。私もそうだ、いずれ。

187FK:2010/01/31(日) 21:08:42

2010年 1月31日 (日曜) 『般若同心と変化小僧 千両箱』(小杉健治 KKベストセラーズ 2009年 \648)

 シリーズ第4作。相変わらず上手い。久しぶりに読むことになり、これまでの登場人物のこととかを忘れていることが、私のような怠慢な読者にはありがちなのだが、そのために、つまり思い出せるように情報が挿入されている。
 今回も過去三作と同様、主人公の同心とその妹の結婚の話題が出てくるが、うまくクリアしていっている。
 ほんとうに義賊というのがいたのかどうか分からないが、本作では変化小僧以外にもうひと組、義賊を登場させている。人々の苦しい生活の中からその願望の表れとして義賊が講談の世界で出てくるのだとは思うが、現実はどうであったろう。

188FK:2010/02/07(日) 21:41:38

2010年 2月 3日 (水曜) 『しずり雪』(安住洋子 小学館 2004年 \1800)

 この作品がデビュー作。中短篇4作が収まる。共通点は岡っ引きの友五郎が出てくるところ。ある意味「友五郎シリーズ」ということになるかも。
 最初に読んだ『いさご波』同様の雰囲気であり、フワッと良い感じの時代小説だ。
*************************************
2010年 2月 7日 (日曜) 『夜半の綺羅星』(安住洋子 小学館 2005年 \1400)

 著者第二作。一長編と一短編の二作が収まる。読み終わってから分かるのだが、実はこの作品もデビュー作に続く岡っ引き・友五郎の話だった。つまりこの二編も「友五郎シリーズ」であった。
 表題は亡き父の形見の根付けのことだった。そして友五郎が友五郎になった経緯、つまりかれこれ二十年前に戻っての話が始まるのだった。友五郎の半生の秘密(?)が明かされるといった趣向であった。
 他の時代小説における岡っ引きとずいぶん違った雰囲気と個性を描いている。この点、『三人佐平次捕物帳』同様で、腐敗した岡っ引きたちが描かれている。そんな中で友五郎は清廉なのであるが。
 まだこの先「友五郎シリーズ」が続くのかも知れない。読み応えがあるので、期待したい。

189FK:2010/02/09(火) 20:37:09

2010年 1月25日 (月曜) 『勘定吟味役異聞(三) 秋霜の撃』(上田秀人 光文社 2006年 \648)
 シリーズ第3作。著者によるあとがきがあり、本シリーズについての考えが述べられている。

2010年 2月 4日 (木曜) 『勘定吟味役異聞(四) 相克の渦』(上田秀人 光文社 2007年 \629)
 シリーズ第4作。相変わらず、きな臭い政治がらみの話と、その合間の活劇(?)とで楽しめる(?)内容となっている。実際の新井白石や間部詮房・柳沢吉保・紀伊国屋文左衛門たちがどうだったのかは分からないのだが、著者の想像力でそれぞれが悪役(?)として造形されている。

2010年 2月 9日 (火曜) 『勘定吟味役異聞(五) 地の業火』(上田秀人 光文社 2007年 \629)
 シリーズ第5作。著者があとがきで書いているのだが、私も同感なのは、江戸時代の貨幣価値のこと。現在の貨幣価値に換算するといくらくらいになるかということだ。江戸の初期と末期とでもは当然違うのだが、いずれにせよ、米価で換算することになる。
 この巻では特に紀伊国屋文左衛門が敵方としてだが、活躍する。主人公の朴念仁に世情の機微を教えたりもしている。それは言うなれば口止め料・賄賂のようなものにもとらえられるが、処世術として、相手の安心のために受け取っておいてやるべきだった、と。関所での話。
 難しいところだが、潔癖感からよりは、人情の観点からぎりぎり受け取っておくべきだったのだろう。それで人間がダメになるようでは、もともとダメだと知るべきなのだ。

190FK:2010/02/19(金) 20:14:14

2010年 2月11日 (木曜) 『勘定吟味役異聞(六) 暁光の断』(上田秀人 光文社 2008年 \590)
 シリーズ第6作。将軍後継をめぐっての政争。そんなに簡単に暗殺されるとは思えないのだが、現実はどうだったのだろう。
 紀伊国屋文左衛門は悪役の魅力を醸し出している、とでもいえようか。しかし、いろいろな人生があるものだ。名誉と金に尽きるのだろうが。

2010年 2月12日 (金曜) 『勘定吟味役異聞(七) 遺恨の譜』(上田秀人 光文社 2008年 \619)
 シリーズ第7作。本シリーズは八巻完結なので、この巻からそろそろ終盤への伏線が張られていっているようだ。後の八代将軍となる紀州の吉宗が、幅をきかせてきているが、すんなりそのようになっていくのか。最終巻が楽しみだ。

2010年 2月18日 (木曜) 『勘定吟味役異聞(八) 流転の果て』(上田秀人 光文社 2009年 \619)
 シリーズ第8作、最終巻。ようやく完結。四年にわたって書かれたとのこと。
 主人公も勘定吟味役を辞任し、七代将軍が病死し、いよいよあの八代・吉宗の登場、享保の改革の開始、というところで終わっている。
 柳沢吉保は亡くなり、紀伊国屋文左衛門はどこか海外へ船出し、敵対勢力はそれぞれ消え去って、ここに小説も終焉となった。
 著者があとがきで書いているが、この時代の政治や人間についてあらためて興味をひかれることとなった。私の持論でもあるが、江戸幕府に全国統治の政治というものは、無いに等しかったということ。地方分権というとおかしいが、各藩ごとに統治が行われており、幕政は、その直轄地・天領のみに限られていたのであり、さらにいえば今のような福利厚生など庶民のための政治はないも同然だったのではないかということ。こんなことを考えさせられた。
 文庫本とはいえ結構な分量で読み応えがあった。(他に170.177.189)

191FK:2010/02/20(土) 22:46:41

2010年 2月20日 (土曜) 『銀二貫』(高田 郁 幻冬舎 2009年 \952)

 いま『みをつくし料理帖』というシリーズで有名(?)な著者の作品をためしに借りだして読んでみた。ところがところが、大したもので。もう何も言わないから、ともかく一読してみたら、とでも言うしかないくらいだった。
 文章も読みやすく、すらすらと読み進めていけて、途中で止めることができなかった。ノベルスの判型で300頁足らずの分量ではあったが。
 時代は天明年間から二十年余り、場所は大坂。寒天の問屋の主人を中心に、そして表題の通り「銀二貫」(33両ほどという)がキーワードとなる。

192FK:2010/02/22(月) 23:03:32

2010年 2月22日 (月曜) 『竜門の衛』(上田秀人 徳間書店 2001年 \648)

 文庫ながら457頁の大作。しかし、300頁ほど読んだところで中断に決した(?) 珍しいことだが。
 この本はシリーズ第1作で著者の第一作なのかも知れない。後のに比べるとやや読みながら引っかかってしまうのは、まだ書き慣れていないせいだろう。さらに舞台が京に移り、天皇が出てきた途端に面白くなくなってきたのだ。読みながら、これを読む意味があるのだろうか、などと考え出した次第。もうこうなるとダメで、遂に止めた。
 そもそも著者のホームページの作品紹介を読んだときにそんな予感がしたのだが、やはりであった。この著者にかぎらず隆慶一郎にしても天皇が出てくるといまいちになる。この点については一度深く考えてみたいと思う。天皇制の問題はやはり深刻かつ難しい。もちろん、そう思わない方が柔軟に考えられていいのだが。
 なお主人公は寺社奉行となった大岡越前に仕える。将軍は八代吉宗で、次の家重についての著者の想像が面白い。つまり言葉を発するのは不自由であったが、その思考力等はなんら遜色なし、というもの。その家重を亡き者にする暗躍が、といったところで読むのを止めてしまった。
 この手のエンタテーメントは、読みながら疑問を感じたり、乗れなかったらもう終わりだということだ。止めるしかない。

193FK:2010/02/25(木) 23:19:08

2010年 2月25日 (木曜) 『青嵐の譜』(天野純希 集英社 2009年 \1600)

 迂闊なことだが、蒙古襲来についての歴史小説があったとは知らなかった。もちろん、昨年のもので最近作ではあったのだが。
 それにしても凄まじいものだ。居たたまれないくらいに、歴史のあるいは人の残酷さ・酷薄さを思い知らされる。
 しかし、武器を持って攻めてこられたら、もはや戦うか逃げるかしかないのだ。そんな時代なのである。著者は言う。庶民にとっては、支配者などは誰であってもいい。ともかく食って行けたら・生きていけたら。それがたとえ異邦人であろうと。
 主人公の男二人・女一人の数奇な運命が描かれている小説ともいえるが、ともかく二度にわたる侵略の凄まじさに圧倒されるだけだ。

194FK:2010/02/27(土) 19:59:23

2010年 2月27日 (土曜) 『秋月記』(葉室 麟 角川書店 2009年 \1700)

 重い。最近は軽い時代小説ばかり読んでいたせいだ。先日の『水神』『銀二貫』『青嵐の譜』に続いて本格的な歴史小説・時代小説といった感がある。
 時は江戸時代も末、場所は九州・大坂。秋月藩とその政事に携わる人たちが主人公である。構成も巧みで、いまその種明かしをしてしまったらつまらないので、何も言えないのだが、ともかく上手いものだ。
 当時の現実を生きた人間を描いていると思えるように、当時の史料と思われるものが引用されている。もちろん、真実は分からないが。政事に携わる人間たちのことは、本当のところなかなか分からないが、そういうこともあっただろうと思わせられることはある。
 あらためて江戸時代の政治の運営の仕方について考えさせられた。つまり、幕府は各藩を貧しい状態に置くことによって統治しようとしたのだが、その消極的なやり方が幕政を260年余り持たせたともいえるが、反面、その崩壊の芽を開幕以来、包含していたということだろう。そして商人たちが、次の時代を切り開くことになった、と。薩摩・長州の人たちはあるいは傀儡であったかも知れない、とか空想してしまうのだった。

195FK:2010/03/11(木) 19:44:38

2010年 2月16日 (火曜) 『織江緋之介見参 悲恋の太刀』(上田秀人 徳間書店 2004年 \590)
 シリーズ第1作。江戸時代、吉原の遊里をメインに展開される若い旗本(次男)が主人公の剣戟。描写でやや分かりにくいところや、主語が不明もしくは違っているような感じがするところもあった。もちろん、こちらの読解力の貧しさによるものだろうが。そんなところは、やはり編集者の腕の見せ所だと思うのだが。次作以降に期待しよう。
 有名な実在登場人物は、松平信綱・徳川光圀、そして柳生の面々。明から豊臣秀吉に「日本国王」の金印が贈られていて、それを家康が入手し、といった話も出てくる。

2010年 2月24日 (水曜) 『織江緋之介見参 不忘の太刀』(上田秀人 徳間書店 2005年 \629)
 シリーズ第2作。基本的には幕政にかかわる政治家(?)たちの勢力争い。ただ、すぐに殺そうとするところが、さすが武士! といったところか。
 主人公も相変わらずずいぶん殺していく。もちろん火の粉を払わないと自らの命がなくなるので、致し方ないこととはしているが。

2010年 3月 3日 (水曜) 『織江緋之介見参 孤影の太刀』(上田秀人 徳間書店 2006年 \629)
 シリーズ第3作。相変わらずたくさん殺すことになるので、しんどいところ。
 主人公がいよいよ権力者というものとぶつかっていくことになるようだ。その非情さにどこまでついていけるか。人間らしさと剣士というものは、一人の人間にあって並立できるものなのだろうか。

2010年 3月 7日 (日曜) 『織江緋之介見参 散華の太刀』(上田秀人 徳間書店 2006年 \648)
 シリーズ第4作。相変わらず剣戟シーンが多い。政争に巻き込まれてのことという訳なのだが。
 なるほどと思ったのは、松平伊豆守に島原の乱についてこう言わしていることだ。まず農民一揆などではないと否定し「あれは、南蛮の侵略よ。いや、その置き土産か」(P.398)
 さらに宣教師たちやその後に続く商人たちが兵器をもたらしたことについて「大筒は、あまりの強すぎた。大きすぎる力は、戦を悲惨にするだけじゃ」(P.399)とも。あと、日本人が奴隷として売られていったことについても指摘させている。つまりヨーロッパの各国が宣教師を先導役に、各地を侵略し植民地化していった手法を、松平の口を借りて批判させている。
 そこまで当時の為政者が深刻に危惧していたのかどうか。ともかく虚々実々、小説家の想像力は、既存の歴史常識や知識から飛躍していく。そこが面白いわけなのだが。

2010年 3月 9日 (火曜) 『織江緋之介見参 果断の太刀』(上田秀人 徳間書店 2007年 \648)
 シリーズ第5作。4代将軍家綱の暗殺未遂事件が出てきたり、本当の御三家というのは将軍家と尾張と紀州であって、水戸は違うのだとの説が出てきている。なるほど、面白い。剣戟シーンは相変わらず多い。

2010年 3月 9日 (火曜) 『織江緋之介見参 震撼の太刀』(上田秀人 徳間書店 2008年 \590)
 シリーズ第6作。ここでも御三家の跡継ぎ争いをテーマにしている。からむのは妖刀・村正というわけだ。このあたりまで来ると、ストーリー展開に乗れるか乗れないかで、楽しめるかどうかということになる。実をいうとだんだん私は乗れなくなってきているのだが。いよいよ次で最終、完結となる。

2010年 3月11日 (木曜) 『織江緋之介見参 終焉の太刀』(上田秀人 徳間書店 2009年 \629)
 シリーズ第7作、完結編。吉原を舞台に活躍(?)してきた主人公もとうとうそこから出て幕臣としての人生を歩むことになる。そんなシーンで完結している。
 あらためて何故、吉原が舞台になるのかと考えてみた。上下関係の厳しい社会で唯一、自由奔放に様々な人間が邂逅できるのがこの吉原であるということ。ここでないと華やかな(?)登場人物が邂逅できる場所は他にないのだから。
 そして吉原が法の埒外にあること、つまり無縁の地であることか。こういう舞台ゆえに自由にストーリーを展開できたのだろうと思った。他の作家による吉原ものもそういうことであったかと思う。しかし長かった。文庫本だが総ページ数は2500ページを超えているのではないかと思う。

196FK:2010/03/18(木) 20:51:07

2010年 3月17日 (水曜) 『実朝の首』(葉室 麟 新人物往来社 2007年 \1900)

 氏の著作の二冊目となる。今度は鎌倉時代。三代将軍・源実朝である。彼を直接的に暗殺したのは公暁であるが、当然、黒幕がいる。その謎解きでもある。
 それにしても殺された実朝の首が行方不明だったとは知らなかった(あとがきで吾妻鏡にその記載があるとのこと)。
 真犯人はいちばん利益のあったものということで、北条氏がもっとも怪しいわけだ。それは義時だが、実朝は姉の政子の子どもである。政子に疑いがかからないわけはないが、どうだったろう。あと今作では他の源氏や、さらに後鳥羽上皇も出てくる。
 さらに犯人が誰にせよ、実朝自身がすでに自分の運命を知っていた、としている。
 私も若い頃『金槐和歌集』を何度も読み、親しみを感じていた。その彼が政治を嫌い疎外されている様子がうかがえたが、実際の政争の凄まじさは想像の埒外のようだ。

197FK:2010/03/18(木) 21:01:43

2010年 3月17日 (水曜) 『人はダマシ・ダマサレで生きる』(池田清彦 静山社 2009年 \648)

 文庫本、エッセイ集。これまでの著作同様、なるほどなと思うことが多い。もはや、いちいち私のコメントはいらない。

 税金というのは、効率のいい仕掛けなのだ。なぜ効率がいいかというと、広く薄く集めるからだ。/不特定多数の人から薄く集める消費税は、その典型だ。(P.76)

 マッチポンプ政策の横行 医療費削減といったら医療費をもっと取ろうとしているんだと思ったほうがいい。国の政策は、まずそういうふうに思ったら間違いはない。(P.100)

 法律は金ヅル いちばんのインチキ「ダイオキシン法」(P.106)

 日本のシステムはかなり硬直化しているけれども、その中で一生懸命やっている人もいる。学校であんなに厳しく締めつけられても、多くの先生はとりあえず頑張っている。/先生を締めつければ締めつけるほど、学校は悪くなる、と僕は思う。/人間は機械じゃないから、尊厳を踏みにじられればやる気をなくすのは当たり前なのだ。/夏休みに、用事もないのに学校に来させられては、これはほとんど先生に対するイジメである。/先生が「ノブレス・オブリージュ」の精神を持つように、社会がしむけていくことが大事なのだ。(P.222)

 教育は単なるサービス業ではないのだ。サービス業ならお客様(生徒)が欲することをサポートすればよい。でも、学校の先生はお客様がいやがることもさせなければならない。サービス業のわけがない。(P.224)

 公正・公平はよいことか/客観的なペーパーテストは一見公正、公平みたいに思えるけれど、実は誰も責任をとらない方式なのだ。(P.230)

 答がある問題は、コンピュータにやらせておけばいいのであって、人間がやる必要はない。いざとなったときにどうしたらいいか問題になるのは、必ず前例がないケースなのだ。そういう困難な問題が発生したとき、的確に判断する能力は、ペーパーテストの能力とパラレルにならない。(P.232)

 客観的とは何か。/客観的とは、いまではなんらかの数字のことだ。しかし、数字になることは、この世界のごくごくわずかなことにすぎない。人生には数字ならないことのほうがずっと多いのだから。(P.233)

 獰猛な農耕民族、おとなしい狩猟民族/冨を貯めこむほうが好戦的
 僕にいわせれば、農耕民になったから戦争が起きるようになったにちがいない。/初期の戦争の目的は、飢えから逃れるためだ。命をかけてやる戦争は、相手が貯めているものを奪うためにしたのだ。/狩猟採集民同士では誰も蓄えなんかないから、命をかけて戦争をしたって何も得るものがない。(P.234)

 怠けて楽しく生きていこう(P.238)

198FK:2010/03/24(水) 21:27:27

2010年 3月24日 (水曜) 『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子 朝日出版社 2009年 \1700)

 書名が刺激的だったのでいずれは目を通そうと思っていたが、なかなかに人気が出てしまい今ごろになった。

 読み終わって。まず表題の答はなかった。もちろん、私の思う「日本人」と著者の想定する「日本人」とは違うからであろう。また、「選んだ」というのにも違和感が残る。長いものには巻かれろ的な意味でのそれはあるだろう。だが主体的に選んだ者は圧倒的に少ないと思う。選挙に参加できた国民の数ひとつとってもそうだ。どうすれば戦争を選ばずにすんだのか? そこまで考えたどり着くのはなかなか大変だ。

 帯に、これは著者のものではなく、編集者のものと思われる惹句がある。「普通のよき日本人が、世界最高の頭脳たちが、「もう戦争しかない」とおもったのはなぜか?」――これにも私は違和感を持つ。ま、「世界最高の頭脳」といっても彼らの思考や行動が、真っ当なものであるという保証はないのだが。

 さてこの本は、男子校の中1から高2までの生徒を相手に「講義」されたものだ。あくまでも講義であって、「授業」とは違うなと思わせられる。何よりも発問が少なく、生徒たち同士のやりとりがないようなので、やはり授業ではない感じ。それに男子生徒ばかりなのもネックだ。やはり女子生徒の考えもあって面白い授業になるのだと思う。

 講義内容については、私の知らなかったことが多く紹介されており、やはり研究者のものだなと思う。ただこれは、とてもじゃないが高校の授業で実現するのは不可能だろう。
 それにしても、けっして読みやすい本ではないのに、どうしてベストセラーになったのか。ひとえに書名の功績か。

199FK:2010/03/24(水) 21:29:22

2010年 3月24日 (水曜) 『風渡る』(葉室 麟 講談社 2008年 \1600)

 黒田官兵衛は人気があるのだと気がついた。本作も主人公は彼である。そしてジョアンという混血の日本人イルマンが話を展開していく役目も担っている。
 切支丹と大名・商人たちとの関わり。特には織田信長であり豊臣秀吉であるが、あと毛利氏や大友氏、高山右近に荒木村重・明智光秀と登場してくる。商人では小西隆佐・行長。
 切支丹に対する特に信長の考えなども著者は分析(?)している。ただ、何人もの大名たちがかくも簡単に切支丹信者になったいったかのように見える、その理由は不分明。
 イエズス会側の人々の人間性についても書かれてあり、宗教とそれを布教する人間の人間性との関連も面白い。要するに同じ信仰を持っていても、良い人もいれば、どうかなという人もいるわけだ。前者ではヴァリニャーノであり、後者ではカブラルである。
 あと画期的なのは、本能寺の変の黒幕は誰か、ということでの著者の考えが示されている。竹中半兵衛の遺言を黒田官兵衛が受け継いで、その役者として明智光秀を、というわけだ。もちろん、一番得をした者が真の黒幕ではあろうが。とまれ半兵衛の復讐というのがあったのかどうか。
 大団円で、実は明智光秀は切支丹に理解があったと言わせており、官兵衛をして、もし明智光秀のままで天下を取っていたら切支丹王国が誕生していたかも知れないと思わせている。どこまでその仮説が通用するのか分からないが、なるほどと思わせられる。

200FK:2010/04/07(水) 22:15:09

2010年 4月 7日 (水曜) 『故郷のわが家』(村田喜代子 新潮社 2010年 \1700)

 久しぶりの著者の小説を読む。9編の連作短編集。この題を見たとき、一体、どんな話が展開するのだろうかと戸惑いを感じたものだ。
 そして今、読み終わって、なるほどそのものずばり「故郷のわが家」での数ヶ月間のお話しであった。柳田笑子(やなぎだえみこ)65歳とその飼い犬ミニチュアダックスフントのフジ子が主人公。東京から故郷の久住高原に、その家(住む人のいなくなった実家)を処分するために帰郷。その間の毎日のこと、そして過去との対話が、夜見る夢と重なり合ってくりひろげられていく。
 故郷は捨て去るものなのかもしれない。それも人生の後半に入った者には。過去に引きずられて生きるのではなく、これから先の余生(?)を充実させて生きていくために。――いうまでもなく故郷は、心のなかではずっと生き続けているのだが。

201FK:2010/04/17(土) 21:47:13

2010年 4月17日 (土曜) 『風の王国 官兵衛異聞』(葉室 麟 講談社 2009年 \1600)

 去る 3月24日に読んだ長編『風渡る』の同一線上に書かれた五編。黒田官兵衛がからむ。たとえば「太閤謀殺」とか「謀攻関ヶ原」といったもの。なお五編目の「伽羅奢――いと女覚え書――」では細川ガラシャの父親である明智光秀が山崎で死ぬことなく落ちのびていた、それも記憶を喪失していて(そのように装って、か)という話にしている。ガラシャが会って気がつくということにしてある。
 隆慶一郎の作品でも生き残って江戸時代初めの頃に活躍していたとするのだが。

「キリシタンは異国からこの国に吹いた風でござった。われらは風となって生きましたが、風はいつかは吹き去る日が来るのです」(P.174 「謀攻関ヶ原」での黒田如水・官兵衛の言葉)
【いろんな意味・感慨があるのだろう。彼が亡くなる二年前に発した言葉としている。どこまでいっても、日本という風土にはキリシタンはあわないのかもしれない。少なくとも爆発的に信者が増えるということにはならないのだろう。】

202FK:2010/05/02(日) 20:54:47

2010年 5月 2日 (日曜) 『水神 下』(帚木蓬生 新潮社 2009年 \1500)

 この1月27日 に『水神 上』を読んで、だいぶ間が空いたので登場人物のことなど忘れていた。
 その時は次のように書いた。
 重い歴史小説。江戸時代の庶民、つまり農民の生活の大変さが描かれている。口で言えるような大変さではない。そんな中で立ち上がっていく庄屋たち。武士が武士であるというだけで、そこまでするのか・できるのかと憤慨・落胆する。民主主義とは程遠い社会であるが、それがほんの少し前まであった歴史の現実なのだ。重い。

 しかし、いい話だった。歴史はこのように無名の人々によって地道に築き上げられてきたのだ。この小説ではほぼ最小限の犠牲ですんでいるが、現実はなかなかそうはいかなかっただろう。
 この話をそのまま現代に置き換えて考えてみることは難しいが、同じような図式が今も存在していることに気がつくべきだろう。著者はそこまで意識はしてないかも知れないが、ある意味、警鐘となるだろう。そも、小説というのは、そういう面を持つものだろう。

203FK:2010/05/04(火) 11:18:21

2010年 5月 4日 (火曜) 『墨染の鎧 上下』(火坂雅志 文藝春秋 2009年)

 4月 1日に『墨染の鎧 上』を、そして今日、下巻を読了。
 安国寺恵瓊が主人公の話。この名前は秀吉の高松城攻めで知ってるくらいであった。このところ読む時代小説では、秀吉・信長などが頻出するのでなじみはある。それにしても立場を替えて見ていくと歴史はまた違った様相を見せるものだ。毛利側の使者としての役割を演じ、秀吉たちと出会った有り様などが描かれている。

 正直言って、だんだんとこの手の本を読むのがいやになってくる。それは所詮は殺しあいであり、政治上の覇権の奪い合いである。私にはもっとも遠い世界の話だ。しかし、当時の歴史に生きる人はそれから逃れることはできない。今の私が、今の歴史から逃れられないように。
 今の視点からどうのこうのと言っても始まらないのだが、やはり基本的に歴史は人びとの営みであり、それもどちらかというとあまり誉められたものではないことが、勝者の記録として残されてきたわけだ。
 歴史を学ぶこと・知ることすら、だんだんと嫌気が差してくる。そんな読後の気分である。

204FK:2010/05/16(日) 22:28:39

2010年 5月16日 (日曜) 『刻まれない明日』(三崎亜記 祥伝社 2009年 \1600)

 久しぶりに著者の作品を。うっかりしていて昨年に発刊されていたのに気がつかなかった。『失われた町』の続編(完結編)になる作品のようだ。
 ある意味完璧な虚構の思念による虚構の世界が構築されている小説世界だ。その中にスッと入っていけるかどうかで、人によって評価のかわるところだろう。
 今回のキーワードのひとつは「道」であり、「歩行技師」である。彼が本作の狂言回しとなって登場する。そして私たちは、「道(road)」とは何か、についてあらためて考えさせられることになるのだ。なお「道」とは私たちが使うあの道路、road や street のことである。
 例えばこんな具合。
 幡谷さんは、ひかり大通りを新たな道として帰属させるため、この街にやってきたのだ。まっさらな道の意識を受け止めながら、更に道の奥へと意識を深めてゆく。/歩くのは今の道だけではない。アスファルトの下には、今は廃止され、忘れ去られてしまった道が眠りについている。失われた道に刻まれた記憶の上をも、幡谷さんは歩くのだ。/役目を果たした道の長きにわたる働きを讃え、安らかな眠りを与える。それも、歩行技師としての役目なのだから。(P.332)

「何もできることはないかもしれない。何かをしても役に立たないかもしれない。それでもなお、何かをしてあげたいと思い続けることだよ」(P.255)

 たった一人でも自分を理解し、求めてくれる人がいるならば、世界の輝きは違う。(P.327)

 氏の作品は、不思議な感覚や思いもよらない思考の世界に引き入れてくれる。本作もその流れの中の一冊であり、いずれまた読み返してみたいと思わせられる。

205FK:2010/07/01(木) 22:07:33

2010年 7月 1日 (木曜) 『勉強しなければだいじょうぶ』(五味太郎 朝日新聞出版 2010年 \1500)

 読了。五味氏の本はおもしろい。授業でも使わせてもらっている。さて今作では。

 俺は単純に学校ってつまらないな、物足りないな、と思っていただけで、学校が嫌いなわけでも、学校を恨んでいるわけでもないの。ただ、使えねえなあと思ってただけなんだ。だって学校のやることって全部が二流でしょ。(中略)/学校でやること、みんな貧乏くさいでしょ。すべてのものにがっかりしちゃう。憧れをどんどん潰されちゃう。つまんないから、だから僕は自分の学習のために街へ出たわけです。学校以外をうろうろしたわけです。そしていろいろ見つけたという寸法。/学校なんかでムリしてやらなくたっていいのにさ。どうせ二流の付け焼き刃なんだから。まがいものをやる必要はないんだよ、人生には。(P.199)
【これはきつい。しかし、そのとおりなのだろう。】

206FK:2010/07/03(土) 17:09:37

2010年 7月 3日 (土曜) 『君たちに明日はない3 張り込み姫』(垣根涼介 新潮社 2010年 \1500)

 『君たちに明日はない』(2005年)、『借金取りの王子』(2007年)に続くシリーズ第3作。テレビドラマ化もされたので、人気があるということか。
 リストラ会社の社員・村上真介が主人公も本作では35歳となる。知り合った「陽子」さんも彼女として登場している。
 今回のFileは4つ。4短編。クライアントは英会話学校(File 1.ビューティフル・ドリーマー)・旅行会社(File 2.やどかりの人生)・自動車業界(File 3.みんなの力)・出版社(File 4.張り込み姫)。
 これまで同様、様々な人間がいて、様々な人間模様が描かれている。なかでもFile 3はなかなか泣かせる。夢であり、理想である。
 さらなる続編に期待。

 高学歴、イコール優秀な人材とは、限らない。学歴で証明できるのは、極言すれば、迅速な事務処理能力と、答えの確定した事象への理解力、全般的な知識及び一般教養の高さに過ぎない。/大事な局面に立ったときの判断力、ファジィな問題に対する洞察力、そして自らの進退を賭けたときの決断力は、学歴とは自ずと別の、個々人本来のポテンシャルや気質に負うところが大きい。(P.251)
【その通りというしかない。】

「日常に連なった事実の中にある、真実。たぶんそれは、石ころのようにさりげなく道ばたに転がっている。だから気がつかない。人から教わっても見聞きしても、結局、一番大事なことは、時間をかけて自分で感じ、発見するしかない」(P.276)
【何事もそうだろうなと思う。いくら人から言われても分からないものだ。自分で気がつくまでは。そして一生、気がつかずに終わってしまうことが人生において大半を占めるのだろう。】

207FK:2010/07/19(月) 12:04:26

2010年 7月19日 (月曜) 『高く手を振る日』(黒井千次 新潮社 2010年 \1400)

 こういうのが小説なのだな、と思わせられる。普段、私が使っている日本語が本当に陳腐なものだと気付かされる。やはり言葉一つひとつが練られて選ばれて、生き生きとしているということだろう。
 この小説は、ともに単身となった70歳代の男女が、思わぬことから学生時代の旧交を温めることになり、その心理のあやを男性側から綴ったもの。この先の私自身を投影して読んでしまう。
 「高く手を振る」とは何なのか? 最後の駅での見送りでのシーンで出てくる。「高く手を振る」というのは、また再会できる可能性が残されているからだろうか。はたまた、もう会えないというのが分かっている別れの挨拶なのだろうか。普通(平時)には元気で行ってらっしゃいであり、戦時には特攻の見送りのように最後の別れということになる。明日もまた、いつも通りに会える者どうしが、どうして「高く手を振る」ことがあろうか。
 「高く手を振る」ことなく、つまり別れることなく、素直にその後の余生(?)をともに過ごせるような、そんな状況はやってこないのだろうか、私たちに。子どもたちとのしがらみや世間体などによって、ありふれた幸せを得ることなく、時間の経過とともにさらに老い、死んでゆくばかりなのだ。

208FK:2010/07/21(水) 22:14:53

2010年 7月20日 (火曜) 『般若同心と変化小僧 闇芝居』(小杉健治 KKベストセラーズ 2010年 \648)

 シリーズ第5作。歴史の教科書で天保の改革の人帰し令が出てくるが、その実態についての実感はなかなか湧いてこない。たまたま本作はそのありさまが描かれており、少しは現実の厳しさを推測することができる。やはり無茶な法令であったということだ。現実を知らなかったのか、知っていてもそうせざるを得なかったのか。
 エンタテーメントではあるが、歴史の真実をさりげなく描いていることもあるものだ。

2010年 7月21日 (水曜) 『大学生のための知的勉強術』(松野弘 講談社現代新書 2010年 \740)

 書名にひかれざっと目を通す。40年前の私の時ともっとも違うのはインターネットが利用できることかもしれない。あと面白かったのは「正しいモグリ学生になるための10ヵ条」(P.218)。

209FK:2010/07/23(金) 15:45:00

2010年 7月22日 (木曜) 『みをつくし料理帖 八朔の雪』(高田 郁 角川春樹事務所 2009年 \552)

 この著者の作品は 2月に読んだ『銀二貫』、6月の『出世花』に続いて。シリーズ第1作。早速、ホロリとさせられ、このシリーズも読み続けていこうということに。
 苦労して苦労しても、健気に頑張っていく主人公・澪(みお)を描く。題名の通り、料理が基本なのだが、私にその詳細・機微は分からない。いずれ分かるときが来るかも知れないが、まずは、また出会えたこの佳品を味わうことに。
 四編からなるが、それぞれ「狐のご祝儀――ぴりから鰹田麩」「八朔の雪――ひんやり心太」「初星――とろとろ茶碗蒸し」「夜半の梅――ほっこり酒粕汁」。それぞれのなかに澪の生い立ちやら、主な登場人物などが紹介されていく。19世紀初めの江戸の町でのお話しである。

2010年 7月23日 (金曜) 『みをつくし料理帖 花散らしの雨』(高田 郁 角川春樹事務所 2009年 \571)

 シリーズ第2作。読み終えて、からだにジーンときた。悔しいけどいい話だ。惚れ込んでしまう。

210渦森六郎:2010/08/16(月) 00:30:07
ずいぶん前の書き込みですが、ちょっと納得いかないので僕の思うところを書いてみたいと思います。(以下引用)

2010年 7月 3日 (土曜) 『君たちに明日はない3 張り込み姫』(垣根涼介 新潮社 2010年 \1500)

 『君たちに明日はない』(2005年)、『借金取りの王子』(2007年)に続くシリーズ第3作。テレビドラマ化もされたので、人気があるということか。
 リストラ会社の社員・村上真介が主人公も本作では35歳となる。知り合った「陽子」さんも彼女として登場している。
 今回のFileは4つ。4短編。クライアントは英会話学校(File 1.ビューティフル・ドリーマー)・旅行会社(File 2.やどかりの人生)・自動車業界(File 3.みんなの力)・出版社(File 4.張り込み姫)。
 これまで同様、様々な人間がいて、様々な人間模様が描かれている。なかでもFile 3はなかなか泣かせる。夢であり、理想である。
 さらなる続編に期待。

 高学歴、イコール優秀な人材とは、限らない。学歴で証明できるのは、極言すれば、迅速な事務処理能力と、答えの確定した事象への理解力、全般的な知識及び一般教養の高さに過ぎない。/大事な局面に立ったときの判断力、ファジィな問題に対する洞察力、そして自らの進退を賭けたときの決断力は、学歴とは自ずと別の、個々人本来のポテンシャルや気質に負うところが大きい。(P.251)
【その通りというしかない。】
(引用ここまで)

たしかに「高学歴、イコール優秀な人材とは限」りませんが、その後の記述が引っかかります。
「迅速な事務処理能力と、答えの確定した事象への理解力、全般的な知識及び一般教養の高さ」と、「大事な局面に立ったときの判断力、ファジィな問題に対する洞察力、そして自らの進退を賭けたときの決断力」を左右する「個々人本来のポテンシャルや気質」とは別の物である、と考えてしまうのも、いささか乱暴であると思います。「迅速な事務処理能力」や「答えの確定した事象への理解力」や「全般的な知識及び一般教養の高さ」を磨くことは、「大事な局面に立ったときの判断力」「ファジィな問題に対する洞察力」「自らの進退を賭けたときの決断力」にも関係してきます。おそらく。
なんの訓練もなしに、「大事な局面に立ったときの判断力」や「ファジィな問題に対する洞察力」や「自らの進退を賭けたときの決断力」が備わっている人なんて、そんなにはいないと思うのです。そういった能力を備えるためには、やっぱりまずは「型どおりの訓練」をしなければならないのではないでしょうか?つまり、「迅速な事務処理能力」や「答えの確定した事象への理解力」や「全般的な知識及び一般教養の高さ」など(絵画におけるデッサンや、スポーツにおける筋トレや、学問における受験勉強にも置き換えることができると思います)を鍛えることです。こういった訓練を、「大事な局面」や「ファジィな問題」や「自らの進退を賭けたときの決断」に応用していくのだと思います。
たぶん著者の言いたいことは、学歴主義批判なのでしょうが、その理屈の組み立てがうまくいっていない感じが少ししますね。

211FK:2010/08/16(月) 22:07:56

2010年 8月16日 (月曜) スレッド210について

 「納得いかない」という感じ方・考え方、私にも理解できます。では何故私が【その通りというしかない】と書いたのか? 一般的にはこの程度の説明で通用するからでしょう。そしてこのような考え方に賛成しない人の方が世の中のメジャーだと思います。だからこそ私はこの文章・考え方に賛同するのですが。
 それとこの小説はやはりエンタテーメントですので、この程度でいいのでしょう。最近読んだ本では 207 :FK:2010/07/19(月)  『高く手を振る日』(黒井千次 新潮社 2010年 \1400)など作者の言葉に対する感覚は凄いものだと感じました。ジャンルが違うということでしょうか。
 今後とも、これは何かおかしいのでは、という鋭敏な感覚を磨いていかれることを。

212FK:2010/08/28(土) 11:44:45

2010年 8月28日 (土曜) 『君が地球を守る必要はありません』(武田邦彦 河出書房新社 2010年 \1200)

 14歳の世渡り術、というシリーズの一つ。そのせいで、このような表題になるのだろう。つまり、今やファッショ的に地球温暖化や環境保護について喧伝される中、冷静に考えて行動していきなさい、とのメッセージになる。
 純粋であり、真面目であるほど世間のかようないかさまに引っ掛かってしまうのだ。政治的・金銭的そして名誉欲のために人は何でもする。人を騙し、不幸にもする、平気で。
 そんな中で、そうではないのだよ、というアナウンスはなかなか難しいことだ。

213渦森六郎:2010/09/15(水) 01:40:37
『人はなぜ学歴にこだわるのか』(小田嶋隆 知恵の森文庫 2005年 ¥648)

しつこいようですが、またまた学歴の話をしようかと思います。
ちょっと前の、このスレッドでの問答(?)以来、学歴というのはけっこう根の深い問題なのではないかという気がしてきたからです。
そんなことを考えていると、上記の本がたまたま我が家の本棚にあるのを発見し、読んでみた次第です。
まずは、面白かった。
特に僕が膝をたたいてしまったのが、以下の文章です。長いですが、ちょっと引用してみますね。

世の人々の多くは反学歴主義者だ。
いや、冗談を言っているのではない。
意外に思う人もあるだろうが、世間の圧倒的多数は、学歴に対して批判的な意見を抱いている。学歴至上主義を標榜する人間がいるにしても、そんな連中はごくごく少数派だ。
とはいえ、それじゃあ現代日本の社会が学歴と無縁なところで動いているのかというとまるでそんなことはない。結局、
「意見としては反学歴主義者だが、態度としては学歴主義者」
といったあたりが、おそらく、平成の日本人の平均的なスタンスであり、
「オレ自身は学歴偏重の考え方には反対だけど、世の中の趨勢がこんな調子だからね」
みたいなことでこの国は動いている。
ということはつまり、多くの人々は、自らを学歴無用論者と規定しつつ、なおかつ、そういう考え方をする自分は少数派に属すると考えているわけだ。
ん? わかりにくいですか?
確かに、「自分を少数派と考える人間が多数派を占めている」という状況は、どうにもわかりにくいですね。なんだか「一匹狼の群れ」みたいで。しかしながら、ともかく、学歴というわかりにくい問題については、わかりにくいスタンスで対応するのが現実的な態度だということをどうやら人々は知っているのですよ。(47、48ページ)

学歴は、怪物だ。それは、わたくしども一人一人の胸中に、頭上に、あるいは眼前に、雲にも似た重苦しさで垂れ込めている。とすれば、その学歴リヴァイアサンの雲の如き巨体にペンひとつで挑んだのは、暴挙だったのかもしれない。
(中略)
いい歳をした男が、学歴やら受験やらについていつまでもくよくよ考えているのは、みっともない話なのかもしれない。が、事実なのだから仕方がない。おそらく、これから先も私は、一生涯、大学だの偏差値だのについてくよくよ考えつづけることになるだろう。なんとなれば、学歴であれ何であれ、何かに対する執着を絶ち切るためには、その対象について、くよくよ考えつづける以外に有効な方法がないからだ。(234、235ページ)
(引用ここまで)

こういう調子の文章で、「学歴」というテーマについて書いています。著者自身、早稲田大学という、いわゆる「名門校」の出身で、そのことについても触れています。そして、自分自身、学歴社会に影響されている人間であるということを認識しつつ、そして現代日本における学歴の有用性にも言及しながら、しかし学歴社会を皮肉っている。
「学歴病という名の病気にかかった人間が、しかし自分の病状について、自分自身で冷静に客観的に書いたカルテ」とでも言いましょうか。いや、ちょっと違うかな。うまく言えません。

まあともかく、こんな正直に書かれた批評を読んだのは初めてです。
ちょっと驚きました。
読んで損はないと思います。

214FK:2010/09/20(月) 10:03:17

『人はなぜ学歴にこだわるのか』(小田嶋隆 知恵の森文庫 2005年 ¥648)について

 未読ですが、引用されていた文章から。著者の言う「世間の圧倒的多数は、学歴に対して批判的な意見を抱いている」とは、私は思わないですね。むしろ逆で「世間の圧倒的多数は、学歴に対して肯定的な意見を抱いている」と言うべきでしょう。さらに言うなら「世間の圧倒的多数は、学歴(主義)に屈服・屈従して(させられて)いる」というのが実態ではないでしょうか。「批判的な意見」とは「批判」ではなく嫉妬・やっかみの裏返しではないでしょうか?
 学歴主義を否定できるのは、それなりの有名高学歴を獲得している、ある種、特権階級のみでしょう(非有名高学歴を持たない者からの批判など、やっかみにしか見られないでしょう)。
 学歴についての論議は言うなれば、「本音と建前」のようなもの。結論的に言えば世の人は皆、「学歴が大事」だとしているということ。ただその中にあっても「究極の学歴」を獲得できる人間は非常に少数派なので、実はそちらのことは除外するしかない。つまり「平家にあらずんば」的に、「平家」のかわりに大学名を入れてこられると困るわけだ。さらにそれを公然と主張するのは、さすがにまずいと感じている。世の中では表向き、公平平等でなければならないという建前を通さなくてはならないのだから。陰湿な世界が展開することになりますね。
 私の従来からの主張は、能力があれば学歴はいらない、むしろ邪魔になるということ。だから格段の能力がないと自覚するなら、学歴主義・学歴信仰に乗って生きていくのがいちばんいい。あるいはそれしかない。ここには悲観も楽観もない。現状認識があるだけ。(もちろん超弩級最高高学歴を獲得するにはそれなりの能力が必要なわけでしょうが、それはあくまでも学歴を獲得するまでの話です。それ以降を保証するものではありません。)
 学歴信仰のよってきたるところは、私たち誰しもが持つ悲しい性でしょう。名誉・名声・金・嫉妬・慢心・小心、等々。自分に自信のない人や平凡な能力しか持ち得なかった人々は、学歴信仰にすがるしかない。こういっても身も蓋もないと言うことだが、人口の大半を占めるのはこういった私たちである。何を言おうと学歴主義は不滅だろう。(なお、私は「学歴病」というとらえかたはしませんね。もしそれが「やまい」であらなら、いつか健康体に戻れるでしょう。学歴主義はやはり「信仰」であり、弱者が生きていくためのシビアな現状認識とその対策だと思います。いつまでも時間をかけていても仕方がないので、このあたりで一度アップします。)

215渦森六郎:2010/09/22(水) 02:13:38
「『人はなぜ学歴にこだわるのか』(小田嶋隆 知恵の森文庫 2005年 ¥648)について」について

お返事ありがとうございました。
僕もおおむねFK先生と同じ意見です。
そうですね、病気というよりは信仰、という言い方のほうがしっくりきます。
「本音と建前」と言ってしまえばそうかもしれませんが、小田嶋さんや僕は少しだけ違ったふうに考えています(小田嶋さん本人にきいたわけではありませんが)。「本音と建前」という言い方だと、「本当は学歴社会に賛成だけれども、表向きは学歴なんて関係ないと唱えている」イメージになります。しかしこれは少し違っているのではないかという気がします。一般的な問題として学歴を論じる時には、人々は「学歴なんて関係ない」と言い、しかしこれが自分のことや身内のことになると、180度転換して、受験勉強に励む(励ませる)。これが実態のように思います。つまりですね、地球規模の環境問題について語るときは「二酸化炭素を減らさねば」と言うのに、夏暑い日に自分の家ではエアコンをかけている、そんな感じでしょうか。これは嘘をついている、とか、本音と建前でモノを言っているというわけではなくて、どちらも本心から言っているのだと思います。ただ、一般論と自分の問題が、リンクしていないんです。おそらく。本当は学歴というひとつの問題なのに、あたかも切りはなされた別の問題のようになっている。そして、それらは本人の中で矛盾しないのです。だからこそ、厄介なのだと思います。
あとは、先生は「能力のある人にとって、学歴はむしろ邪魔である」といった内容のことを書かれていますが、たしかにそうでしょうね。なにか非凡な才能を持っている人は、別に学歴に頼らなくても生きていけます。
ただ、学校に行って、そこで色々な人と出会って刺激を受けることによって開花するような類の才能もあるのではないかという気がするので、学校それ自体は「あってもいい」ものだとは思います。
結局、問題なのは学校なのではなく(学校という制度にも、色々と問題はあるでしょうが、それはまた別の次元の話なので、ひとまずおいておきます)、学歴信仰社会のほうなのでしょう。学校はあってもいいものだし、そこに行って何か得るものはある(個人差はあるでしょうが)。ただ、学校というものが今の社会の中で占める比重が、あまりにも大きい(学校の占める比重が大きい社会を、学歴社会と呼ぶのでしょうね)のが、問題なのだというところでしょうか。

かなり書き飛ばしたので、よく分からない文章になっている気がします。
ともかく、この問答(?)に「乗って」もらえてよかった。
最近掲示板が更新されなかったので、さすがの先生もネタ切れかと思っていたのです。

216FK:2010/09/23(木) 19:54:29

2010年 9月21日 (火曜) 『三島屋変調百物語事続 あんじゅう』(宮部みゆき 中央公論新社 2010年 \1800)

 「逃げ水」・「藪から千本」・「暗獣」・「吼える仏」の四編からなる。前作『三島屋変調百物語事始 おそろし』(宮部みゆき 角川書店 2008年)の続編ということに(スレッド 4 :FK:2008/09/18(木) 10:36:57 )。
 相変わらず、上手い、としか言いようがない。じっくり味わえる・味わうべき中味がある。その点が、文庫版時代小説と違うところ。深みがあり、もう一度手にしてみたくなるのだ。つまり本を処分せずに置いておきたいと思うのだ。

217FK:2010/09/23(木) 19:55:45

2010年 9月23日 (木曜) 『イキガミ 8』(間瀬元朗 小学館 2010年 \550)

 これまた相変わらずいい作品だ。いろいろと考えさせられるが、今作では二つ。まず恋人・酒屋の跡取り息子を車の事故で亡くしてしまう人たちを取り巻くもの。過失なので罪を償えばそれでよし、という考え方とその対極にある残された遺族の思いなどが描かれている。いつまでたっても難しい問題だ。
 いまひとつは、恵まれない(と本人が思っている)容姿の男女の人生模様である。恵まれてないと思う男性は、整形に整形を重ね、イケメンとなり自信をつけていく。一方、恵まれているのにそう思えない女性は、いつまでも自信を持つことができず、金目当ての男性に利用されていく。そんな人生模様が描かれ、いずれにせよ最後は、この本の主題である24時間後の死亡通知(イキガミ)を主人公から手渡されていくのだ。

2010年 9月23日 (木曜) 『ハンマーセッション! 1』(棚橋なもしろ 講談社 2007年 \400)

 テレビドラマが終了したので、読み出すことに。とりあえず5巻まで入手。
 実はかなり設定が違っていた。まず高校ではなく中学であった。校長は坂本であり、水城涼子先生とは親子ではなかった。教頭は女性ではなく男性だった。志田未来扮する楓は実在しない、詐欺師役の音羽四号はドラマでは背か高かったが漫画ではやや低めのよう、最初のハンマーセッションのエピソードはドラマ化されなかった、等々。

218FK:2010/10/10(日) 11:08:05

2010年10月10日 (日曜) 『心の野球』(桑田真澄 幻冬舎 2010年 \1500)

 PL学園そして巨人の投手だったこの著者について、初めて注目したのは彼がタバコについて発言しているとのことを知ったときだった。野球場のロッカールームはタバコの煙でもうもうとしているのが通常であったようで、彼はもちろん吸わないし、その副流煙の危険も知っていて警告を発していたわけで。
 その後大リーグに行って、というニュースも遠い話で、今度この本の存在を知ってあらためて彼の考えを読むこととなった。
 簡単にいえば精神主義横行の日本のスポーツ界、就中、野球の世界において彼は孤軍奮闘してきたようだ。至極まっとうな考え方で、私には違和感がないのだが、野球界ではそうはいかなかったのだろう。
 まだ42歳なので日本では監督になれない年齢のようだが(それもおかしいが)いずれどこかのチームの監督として再登場してくることだろう。楽しみである。

219FK:2010/10/10(日) 20:53:17

2010年10月10日 (日曜) 『笑酔亭梅寿謎解噺 4 ハナシがうごく!』(田中 啓文 集英社 2010年 \1900)

 シリーズ第4作。あいかわらず良い。このシリーズは面白いし、為になるし、と申し分なし。もちろんお堅い人にはこれはなんだ、と言われそうだが、高校生をはじめとしたこれから人生について学んでいく人には必須の小説である(?!)
 ま、だまされたと思って読んでもらいたい。世の権威・権力と個人の自由の兼ね合いとか、いろいろ考えさせてくれる。お金がない辛さも。でも何より大事に思うのは、噺家だけでのハナシではないが、やはり[自由]ということ。自由のためにはやせ我慢もしなければならないし、お金にも不自由することだろう。しかし、それでも求めていくだけの価値はあるのだ。
 もう一つ私自身もそう思うのだが、噺家も一人でやり、私たち教師も一人でやるということ。小説の中ではかけあい漫才が出てくる。ボケとツッコミである。上手くいけば大ブレークするのだろうが、やはり相手があることであり、自由という点において制約があるようだ。お互いに我慢しあったりするとか、上下関係といったそんな難しさもあるようだ。
 私は私一人で教室でみんなと授業をしていくという形態がいい。そこには自由があるから。

220FK:2010/10/16(土) 11:24:36

2010年10月16日 (土曜) 『誰も知らない「危ない日本」大きな声では言えない7つの問題』(武田邦彦 大和書房 2010年 \1300)

 すごい題だが、これくらいにしないと売れないのだろう。内容はこれまで同様の地球温暖化やゴミ問題・リサイクル、さらに別のジャンルでは預金や年金などお金の問題(預金するとお金はなくなる)や政治家(が金儲けするという問題)のことも。
 いずれも基本的な考え方は一貫している。マスコミの報道に流されて自分で考えたり調べたりしない私たちの日常を批判するわけだ。
 そういえば最近は環境ホルモンもダイオキシンも、さらにチクロ(発がん性ありとされたが、そうではなかったようだ)なども話を聞かなくなった。さんざん私たちを心配させ、また個人や学校の焼却炉を完全に放逐したりもしたのだが。私のことでいえば、そのおかげでシュレッダーかけでずいぶん時間と労力の無駄をさせられている。燃やせば終わりのものを。
 あと指摘のあったことでは、終末思想のこと。これが流行ると人々は目の前の生活を大事にすることを忘れ、国民が一致団結する、と。政治家が国民の目をそらせる手段には仮想敵国という手があるが、それ以外にもこんなやり方があったかと思った。

221FK:2010/10/20(水) 18:01:03

2010年10月20日 (水曜)『影法師』(百田尚樹 講談社 2010年 \1600)

 久しぶりに読後、涙が出てきた。それだけ著者が上手いということなのだが、もちろんそれだけではなく、いろいろと人生について思わせ・考えさせてくれるからなのだ。人が人のためになすこと、それも犠牲的な献身をともなうそれは、どうしたら可能となるのだろう。自己の利益を第一に考えてしまうのが世の人の常ではないか。
 そんな稀有な出来事に、あってほしいがまずあり得ないと観念しているところに、すっとこのような物語が提示させられるのだ。私たちは感動させられざるをえないだろう。

 五郎次は常に勘一に一番いい材料を与えた。悪い材料で覚えても腕はよくならないというのが五郎次の考えだった。(P.26)

222渦森六郎:2010/10/21(木) 00:13:33

2010年10月20日 『おせっかい教育論』(鷲田清一、内田樹、釈徹宗、平松邦夫 140B 2010年 ¥1200)

今をときめく現代思想家の内田樹、阪大総長で哲学者の鷲田清一、僧侶で大学教授の釈徹宗、大阪市長の平松邦夫が、中之島公会堂で行ったトークショーと、その後のレストランでの座談会とをまとめたもの。
教育とは、「教えたい」という人間の根底にある欲望(おせっかい)から始まるものであり、市場原理で語ってはいけないことであり、行政がやかましく介入してはいけない、という内容の話。
あと、懐徳堂という奇跡的な教育機関を生み出した町人の街・大阪という土地がもつ可能性とかについても言及。
テンポのいい会話がたのしい。内田さん以外は関西人というのがミソかもしれない。

「学校の機能というのはいくつかあって、さっき言ったのは、共同体のフルメンバーとしての責任意識を持った大人を育てていくということなんですけど、もう一つは今出た「アジール」としての機能ですね。どんな共同体でも、どんなきちんとしたルールを持った集団でも、そこからこぼれ落ちていく人たちが必ず発生する。でも、その「こぼれ落ちていく子たち」のうちから次代を担うイノベーターが生まれてくる。これは必ずそうなんです。どんなよくできた共同体でも、いつかどこかで制度疲労を起こして壊れてゆく。だから、その壊れていきそうなものにいちはやく気づいて、そこを補正して制度を再構築できる人が絶対に必要なんです。そういう仕事をする人間は既存の制度の中の「秀才」からは出てこない。絶対、出てこない。イノベーターはつねに「落ちこぼれ」の中から出現する。ですから、制度の中長期的な安全保障を配慮したら、「落ちこぼれたち」を切り捨てちゃいけない。彼らを支え、彼らが自尊感情を持て、生き延びてゆける場所を提供することが必要なんです」(内田)(38ページ)

「内田先生は前からシラバスの悪口言うてたんですよ。それが書かせる立場になって(笑)」(釈)
「シラバスって『仕様書』なんですよ。商品のスペック。でも教育は商品じゃないんです」(内田)(45ページ) 

「さっき平松さんがおっしゃってたけれど、生徒が覚えてることを先生が覚えてないっていう話は、本質的なことやと思う。何を教えたかが問題ではなくって、たたずまいを教えた、スタイルを伝えたってことなんですよね。それでいいと思うんですよ。」(鷲田)(137ページ)

ここで話を無理矢理、少し前にこの掲示板で取り上げられたサンデル教授のほうへと持っていく。
僕もあの人のハーバードでの授業のいくつかと、こないだ東大にやってきた時の授業の放送を観ていた一人だ。
だけど、「面白い」とか「新鮮」といった感想を、観る前に期待していたほどは抱かなかった。こういうかたちをとった授業は、もう高校時代に経験済みだったからだ。
サンデル教授と学生たちの議論も、どこか定型化してしまっているようにも思われた。ハーバードと東大での、議論の内容が、あまり変わらなかったし。話が広がりそうで、案外広がらないテーマだったのではないかと感じた。問題について言えることが、限られてきてしまうというか。

僕はどちらかと言うと、今回挙げた内田さんたちがしているような、伸びやかで、少し青臭さをも感じてしまうくらいの、それでいて肩の力が抜けている「オジサン・オバハン的」議論のほうが好きだなあ。

223FK:2010/10/23(土) 19:44:26

2010年10月23日 (土曜) 『寺子屋若草物語 てのひら一文』(築山 桂 徳間書店 2008年 \600)

 シリーズ第1作。三姉妹が寺子屋をしている大坂が舞台のお話。寺子屋といえば昼間のものとしか思わなかったが、やはりというべきか、夜学があった。
昼間のが授業料としての束脩(そくしゅう)が必要なのに対し、夜の方はここ大坂では「一文稽古」(いちもんけいこ)といわれ、来れる日だけでよく、しかも授業料はまとめて払う必要のない一日一回あたり「一文」というわけだ。昼、働いて、夜、学校へということなのだ。
 こんなのが江戸時代からあったとは、と。大塩平八郎の若いときが出てくるので18世紀初頭の話ではあるが。
 三姉妹のうち真ん中のお涼は、大坂の富商五人によって作られてすでに80年あまりになる懐徳堂に通っている。その特色として、「もともと謝儀は自由」(P.57)であり、講堂での座席も早い者勝ちであったようだ(P.59)。さらに「講義の遅刻や早退にも寛容で、商売の都合を優先し、時間がとれるときにだけ講義を聴けば良いことになっていた。」(P.58)とか。ただし「学内では私語は基本的に禁止されている。」(P.59)とも紹介されている。

224FK:2010/10/30(土) 22:23:16

2010年10月30日 (土曜) 『刀圭』(中島 要 光文社 2010年 \1500)

 先に気になった点を上げておくと、「改行」である。むやみな、とまでは言わないが、改行の多さが気になった。(文庫版のエンタテーメント時代小説の改行の多さにはつねづね辟易させられているが、それは文庫版特有の読みやすさも狙ったものであるからだろう、としておこう。)本作はソフトカバーではあるが、単行本なので一行ごとに改行されると、ページ稼ぎかと思ってしまうのだ。なるほどソフトカバーで1500円を取ろうとすれば230ページ前後では無理と判断したのかもしれない。本書は267ページであった。(私たちは紙代を払っているのではないから、ページ数が少なくてもいいのだと思うが。)
 さて、それはさておき内容は感動ものであり、いろいろと人間というものについて考えさせてくれる佳作であった。医者を扱った作品は多いが、これは19世紀初頭の江戸が舞台である。父親の後を継いで医者になった24才の青年が成長していく小説である。

(医は仁術など、患者側の都合のいい屁理屈だ。こちらが仁を貫いたところで食い物にされるだけではないか)(P.138)
「タダで治療をしてやれば、いつでも威張っていられてさぞ気分がいいでしょうけど」(P.141)

 貧しい人たちからは金を取らずに診る、という理想・理念に燃えての果ては、信じなくてはならないはずの人間への不信感が残るのみで、ついに主人公は燃え尽きてしまうのだ。純粋さというものの脆弱さ・傲慢さといったものが周りの人たちからやんわりと指摘されていくのだが、なかなか本人は理解できない。隠された優越感や使命感が邪魔するのか。私など教師も同じ轍を踏みがちだろう。

「良くも悪くも、人は運と縁によって生かされている」(P.171)とは、一代で成り上がった商人の述懐として出てくるが、そんなことに気がつかないのが若い人の特徴だということだ。そこからは人に対する感謝の念も出てこず、不満や愚痴のみが出てくることになるのだろう。主人公はこういった周りの人たちの言葉の中でだんだんと成長していくことになる。

225FK:2010/11/14(日) 21:32:37

2010年11月11日 (木曜) 『子どもたちと話す 天皇ってなに?』(池田 浩士 現代企画室 2010年 \1200)

 坂口安吾の『堕落論』や福沢諭吉の『帝室論』などが紹介されていた。坂口安吾は読んでないのでこれを機に読もうと思う。
 あらためて日本の祝日というものが天皇と深く関わっていることに気付かされる。というかそのために祝日というのが恩恵として設定されたということ。今、皮肉なことに現業部門は祝日も平日並みに労働しているわけだ。天皇制下でこんなことがあっていいのだろうか、と思ってしまう。戦前はどうだったのだろう。
 天皇と天皇制について考えるのは、なかなか難しいことだ。この本はかなり平易でそれを生徒たちに考えさせるきっかけになるようだ。

226FK:2010/12/01(水) 19:55:19

2010年12月 1日 (水曜) 『惨 戦国鬼譚』(伊東 潤 講談社 2010年 \1600)

 この著者は初めて。「木曾谷の証人 要らぬ駒 画龍点睛 温もりいまだ冷めやらず 表裏者」の五編が収録されている。いずれも武田家に関するもの。 著者はかなりこの武田信虎や信玄ほか武田家に入れ込んでいるようだ。
 面白い解釈としては(事実は知らない)、織田信長が実は徳川家康を恐れ殺そうとしていたこと。そのために穴山信君(梅雪)を利用しようとしたとか。それも信長自ら囮となるため入京、しかもわずかの家臣のみで、というわけだ。さらにその前提としてわざと家康の接待役の明智光秀をその失態から面罵するというやらせを演じてもいたとのこと。なるほどそうかもしれないとおもわせるものがある。ただ逆に光秀に殺されてしまうのだが。
 それにしても非情な時代・非情な歴史であることよ。人を信じなければやっていけないにもかかわらず、迂闊に信じると終わってしまうということ。こんな時代に勝ち残れるものの条件とはいったい何なのだろう。歴史のいたずら、とでも言いたくなる。しかし庶民にとっては過酷な歴史のいたずらであろう。

227FK:2010/12/03(金) 22:33:01

2010年12月 2日 (木曜) 『墨攻 全11巻』(森 秀樹 小学館 1992-96年)

 ようやく全巻を読了。映画[墨攻]はこの漫画でいうと前半くらいのもので、あとは趙の国・邯鄲での戦いが中心となっている。しかしそれにしても、いろいろと考えさせてくれる。春秋戦国時代に一世を風靡した「墨家」とその思想。そして末路。
 時代からして武力による争闘は避けえない状況である。そんな中でできるかぎり平和的に、しかも自分たちの生命と財産を守るためにはどうすればいいか。自らを守るためには最低限の武力を持ち、撃退するしかないだろう。城を出て攻撃するまではいかなくても、自らのテリトリーを死守するためには徹底的に戦い、侵略者が諦めるまで戦い続けることが必要となろう。
 この主人公・革離はそれをやってのける墨家という集団の一員である。ただ時代とともに腐敗堕落していく仲間たちから、彼・革離は離脱し自らの信じる道を歩むことになる。当然、邪魔者として排除され、その命を狙われることになる。最終的に理想の地を求めて東へ向かい、ついに日本らしき所に到るようなのであるが。
 現代においても、攻撃・侵略ではなく、自らの地を徹底的に守ることに徹したやり方で平和を実現させていくのが望ましいのだが。そのためにはどんな方策を取ればいいのか。革離なら今どのように考え、行動したことだろう。

228FK:2010/12/16(木) 20:16:55

2010年12月14日 (火曜) 『家康、死す 上』(宮本昌孝 講談社 2010年 \1700)

 徳川家康が影武者であったという話は、隆慶一郎では関ヶ原の戦いの際の話であった(58歳)。本作はなんとそれをさらにさかのぼり、わずか26歳の折に暗殺され同時にそこから影武者となるという奇抜な構想なのだ。下巻がまだなのでまだどんなどんでん返しが待ち受けているか分からない。6歳の人質の際にも影武者と入れ替わっていのかもしれない。

2010年12月16日 (木曜) 『家康、死す 下』(宮本昌孝 講談社 2010年 \1700)

 長男・信康の死は謎であった。どうして家康が唯々諾々と信長の切腹命令に応じたのかと、とも。そのあたりからの発想なのかもしれない。影武者といい、すり替えといい。そして家康の最後もふぐにあたったのではなく鉄砲による暗殺としている。
 歴史事実は一つしかないはずだが、歴史の創作は無限に可能だということだ。となると、家康と名前をつけられた人間が存在すればそれでオーケーなのであって、この世に一人しか居なかったはずの家康でなくてもいいということだ。ロボットでいいのだろう。そのように考えていくと虚しいものであるが。

229FK:2010/12/23(木) 20:50:57

2010年12月21日 (火曜) 『損料屋喜八郎始末控え』(山本一力 文藝春秋 2000年 \1571)

 シリーズ第1作。なかなか面白い。この損料屋というのは今でいうレンタルショップのようなものか。元武士の主人公(30歳くらいか)が活躍する。それも経済界というか、商売の世界での話。
 「万両駕籠」「騙り御前」「いわし祝言」「吹かずとも」の4編からなる。「吹かずとも」は「吹かずとも 嶺の桜は散るものを こころ短き春の山風」。

「棄捐令がいまの金詰まりを引き起こしたのは間違いない。商人は利を貪るのが生業だ、強欲であることは責められん。」(P.295)
【現代ではこのような考え方は通用させてはいけないだろう。強欲は責められるべきなのだ。】

2010年12月22日 (水曜) 『損料屋喜八郎始末控え 赤絵の桜』(山本一力 文藝春秋 2005年 \1524)

 シリーズ第二作。「寒ざらし」「赤絵の桜」「枯れ茶のつる」「逃げ水」「初雪だるま」の5編。

「礼を正味から伝えたければ、気持ちだけでは届かない。カネは、そんなときのために役立つ道具だ。」(P.85)
【カネだけとはかぎらないと思うが、何かモノが物を言うのであろう。カネの使い方はつくづく難しいと思う。もっとも、当方にはそもそもそのカネがあまりないのではあるが。】

2010年12月23日 (木曜) 『損料屋喜八郎始末控え 粗茶を一服』(山本一力 文藝春秋 2008年 \1524)

 シリーズ第3作。「猫札」「またたび囃子」「猫いらず」「惣花うどん」「いわし雲」「粗茶を一服」「十三夜のにゅうめん」7編からなる。
 権謀術数の世界を見事に生き抜いていく主人公に魅力を感じる。そしてこの作品のいいところは、敵役をただの悪のままにしてないというところ。悪人には悪人のなりの論理があるわけだ。そしていいところも。具体的には札差の中でもトップの伊勢屋なのだが、なかなかの茶人であり、商売にはえげつないが、カネを出すべきところは出すというところ、とかである。
 この手の小説は、人生や社会のことの勉強になる。高校生には未だしの感もあるが、もう読んでいっていいのではないだろうか。続きが楽しみだ。

230FK:2010/12/30(木) 16:50:09

2010年12月29日 (水曜) 『マルガリータ』(村木 嵐 文藝春秋 2010年 \1500)

 日本におけるキリスト教文学の一冊として残る作品ではないかと思う。かつての遠藤周作の『沈黙』を思いだす。そこにあるのは、なによりキリスト教のというより、日本人の嫌らしさだ。
 私にとって目新しい視点としては、南蛮人がその布教の実績を誇示せんがために、日本人にも殉教を強いるということ。そして彼ら天正遣欧使節の四人は、宗教的信念からそのようなことがあってはならないとして最後まで頑張る誓いを立てて、その人生を送っていったということ。千々石ミゲルだけが棄教するわけだが、その深い理由も著者は解き明かしていく。(「四人そろって国外へ追放されるわけにはいかなかったのだ」(P.289))もちろん、小説家としての想像力で。史実は知らない。いや分からないかもしれないが。

 あのときからマルチノは澳門でたたかうさだめだったのかもしれない。南蛮人を相手に日の本の人々を守り、南蛮が日の本にいだく虚像を打ち砕く。それがマルチノの行くべき道だったのだ。/日の本の人々は南蛮人のために殉教などしない。天主教を信奉するために残虐な死まで受け入れさせられることはない。この国の人々を、異国人の信仰を強める礎として死なせはしない。(P.258)

「珠の姿を見たか。あれこそ我らが殉教を嫌うた一番の理由ではないか。天主の名で人を悲しませ、苦しませてどうするのだ」(P.276 じゅりあんの言葉)

 南蛮人が導き日本人が導かれるという上下の間柄を保つべきだ、日の本の者どもは忠実な切支丹にさえしておけばよいのだ(P.288)

231FK:2011/01/04(火) 23:16:04

2011年 1月 3日 (月曜) 『小暮写眞館』(宮部みゆき 講談社 2010年 \1900)

 700ページを超える長編。読むのも時間とエネルギーがいる。ありふれた人生を描いているようで、小説だからティピカルに描いているのだが、主人公・英一の高校一年から卒業までの三年間を対象としているのだが、人生というものを詳細に描いていくとこのような長編になってしまうのだと思う。
 いくらでもありそうなエピソードがあれば、それはないだろうと思われるようなエピソードも織り交ぜられて話が展開していく。
 題に「小暮」とあるが、ここに越してきたのは「花菱」家の人びと。小暮写眞館の佇まいを残したままで、その古家に住みだした酔狂な花菱家の人びとを取り巻く事件と、歴史が展開されていく。
 私にはやや現実味を欠くようなアイテムが重要な役割を果たす。そう、心霊写真が出てくる不思議な・異な感じの世界なのである。しかしそのような世界を描くことによって現実の世の中がより象徴的に浮かび上がってくることになる。ダイレクトに書かず、小説の世界で書くところに意味があると言うことだ。 小説は、その読むプロセスを楽しめばいいのであって、特に教訓的な何かとか、テーマとか主張とかはなくていいのだろう。指摘しようと思えば、現代社会を抉る様々な問題が、ということになるのだが。
 一読しただけだが、いずれ再読すれば、また違った読み方・楽しみ方(?)ができることだろう。その日を楽しみに(私はそのときにはもうすっかり忘れてしまっていることだろうが)。

「生きている者には、ときどき、死者が必要になることがあるんだ。僕はそれって、すごく大切なことだと思うよ。こういう仕事をしてるとさ、この世でいっちばん怖ろしいのは、現世のことしか考えられない人だって、つくづく思うから」(P.351 不動産屋の須藤社長)
【死者も私たちが生きているかぎりともにそこにいるのだ。私たちが生きているかぎり、見守ってくれているのだ、と思いたい。】

「人間関係って、ふしぎだなあ/必要なときに、絶妙なタイミングで、会うべきヒトに会うようにできてるんだよね。これが天の配剤ってヤツかなあ」(P.354 不動産屋の須藤社長)
【一期一会という言葉は私には使い切れない言葉だ。でも会うべくして会う、会わなければならないときに会う、といった考え方をするのはいいことではないか。そのときそのときを大事に、目の前の人を最大限に大事にしてともに時を過ごす。話の中身はときに苦しいこともあるかもしれない。それでもその人と時間を共有できることの幸せは、いずれ時間の経過とともに理解できることだろう。】

232FK:2011/01/07(金) 18:36:32

2011年 1月 7日 (金曜) 『自殺島 4』

 いろいろと考えさせられる漫画だ。無法状態とはどういうことか、具体的にその実態を描く。たとえば自分で獲得した食料でも力(暴力)によって奪われる。島を離脱しようとしたら海上保安庁の船に見つかり「領海侵犯」と警告され、銃撃されるのだ。
 人間関係でも人を疑ったり裏切ったり、そしてまた信じることによって再スタートする。こんな原始的な素朴なレベルから考えることができる。それは設定が無人島となっていた「自殺島」であるからだろう。そしてここの住民は日本国籍を剥奪された自殺未遂者ばかりだからだろう。

233FK:2011/01/15(土) 14:17:03

2011年 1月15日 (土曜) 『砂の王国 上』(荻原浩 講談社 2010年 \1700)

 路上に寝て街を眺めれば、人生観は確実に変わる。(P.5)

 その最初のページ、この第一行目からぞっとするくらい読んでいて辛くなる内容だ。400ページ近い長編。これまでホームレスという言葉を安直に口にしていたが、とてもとてもそんな生やさしいものではないことを実感(?)させられる思いだ。小説家のすごいところは、自らが体験していなくても、体験している人よりももっとリアルに表現できるということだろう。
 この主人公がホームレス生活を余儀なくされ、寒空に段ボール・ハウス、103円しかなくて100円の商品が買えないこと(消費税はやはり悪税だ)、ホームレス生活にもいろいろとしがらみがありそれほど自由とはいえないこと、コンビニなどの廃棄弁当一つ手に入れるのも大変なこと、寝ているところをおもしろ半分に襲われて暴力を受けること、公的機関が救いにならないこと、宗教団体が炊き出しをしてくれるのはありがたいのだがそれも一筋縄でいかないこと、等々が開巻から約200ページにわたって描かれている。何度も本を閉じてしまった。それくらいビィビィッドであり、リアルであり、読んでいて辛くなるのだ。
 こんな場面もあった。少しカネが手に入るとそのなけなしのカネをひっつかんで競馬場へ行くのである。一攫千金を夢見て。負けても負けても、どこまでもつぎ込んでいく泥沼というか、まさに地獄がある。

 この世には神も仏もいない。あるのは運と不運だけだ。(P.34)

 努力さえすれば報われるはず、というのはたわごと。どう考えても「この世には」というのが現実だろう。とことん落ちてしまえば、もうなすすべはないのだ。そんな絶望感を感じさせられる。
 さて上巻は、主人公たちが手にした元手をもとにある事業を始めていくわけだが、その最初の一ヶ月余りが過ぎたところまでである。これからどのように展開していくの、ひやひやしながら読み進めることになるだろう。

234FK:2011/01/16(日) 11:21:08

2011年 1月15日 (土曜) 『同じ月を見ている 全7巻』(土田世紀 小学館)

 「同じ月を見ている」全7巻を読了。なかなか歯ごたえのある漫画だった。感心した次第。絵自体はやや稚拙な感じではあるが、内容がいいということ。
 あと驚いたのは映画とはかなり違っているということ。まさしく主人公が逆転しているわけだ。漫画ではあきらかにドンが主人公であり、彼の希有な生き方・生涯が話の中心なのだ。
 バイオレンスもあるが、それは掲載誌がヤングサンデーということで、そのようになるのだろう。
 それにしても彼のような純真無垢な人間というものがこの世に存在するものだろうか。そんな風に思えるくらい、人を悪く思わない。そして自然に自己犠牲をしてしまう。何ともいえないありえない人物造形ともいえる。これまた一種のファンタジーということなのだろう。

235FK:2011/01/18(火) 21:21:31

2011年 1月18日 (火曜) 『神さまとお話しした12通の手紙』(エリック・エマニュエル・シュミット PHP研究所 2004年 \1100)

 映画[100歳の少年と12通の手紙]の原作。一日で10歳ずつ年を取っていくという発想がおもしろくもあり、切なくもある。これも余命ものといえばいえるかもしれない。ただ日本のそれとは違い、ここには宗教があるのだが。

 神様への手紙は(おそらく)12月18日から書き始められ、12月30日で終わっている。12月31日はマミーローズが、彼オスカルの最後を書き綴る。
 ここで映画のホームページ(http://www.100-12.com/)を見、その予告を観た。もうその予告だけ観ても涙が出てきそうになった。昨秋、見逃した映画であった。DVDの発売予定はまだないようだ。なお音楽はミシェル・ルグランとのこと。

「病気はぼくの一部だよ。ぼくが病気だからって態度を変えることないじゃない。それとも健康優良児のオスカルでなきゃ好きになれないの?」(P.99)

236FK:2011/01/22(土) 22:25:26

2011年 1月19日 (水曜) 『自分らしく生きる』(小澤牧子 小峰書店 1988年)

 小澤氏の本は二冊目。この本は発行している書店からも分かるように、「中学生以上向き」ともあるように、ちょうど中高生くらいに良い本だ。やや古さを感じさせるアイテム(たとえばラジオカセット)が出てくるのは仕方がない。またテレビの魔力を説くが、いまやゲームのほうがもっとひどい状況だろう。
 キーワードをひろえば、自立・個性/生まれかた・家族・性・仕事・お金・頭がいいとは・学校信仰・自殺など。

 学校に支配されることなく、学校の外の世界をひろげ、いろいろな知のかたちに出会い、学校をそれらの世界のひとつとして、自分の中に位置づけなおすことを目ざしたい。(P.132)
【学校信仰という言葉は最近使われないようだが、現実はまさにその通りの状況が続いている。学校を全否定するわけではないが、当然、全肯定するわけにもいかない。一例をあげるなら、折しもインフルエンザ流行の季節となったが、学校や軍隊など人が多く集まるところは感染の危険大である。
 あくまでも生きていく上での関係せざるをえない世界・社会の一つとして学校を位置づけるべきだろう。】

 自殺とは、他人の人生を殺すことをも含んでいるのではないだろうか――。(P.174)
【自分の命は自分だけのものであり、生きようが死のうが自分の勝手だという考え方をする人が絶えない。しかし、それは違う。生まれて以来、家族を含めまったく他人と無関係・無縁に生きることはできない。関係の深浅はあろうとも、自殺は他人の人生の一部(であるかもしれないが)、を殺すことになるのだ。】


 自分の見えないところのもの、つまり国だとか正義だとか、社会というあいまいな言葉がひきだされてくるときは、いつも“要注意”だ。そうではなくて、自分の身のまわりのひとびと、そしてそのもうひとまわり外側のひとびと、というふうに、目に見え肌に感じられる人間のかけがえのないつながりをつくりだすことこそが、確かな生きる手ごたえである。(P.181)
【観念論の危険性だ。人によってはこの「国」とか「正義」だとかという言葉が耳に入りやすい。「目に見え肌に感じられる」ということの大切さに気がつきたいものだ。】

237FK:2011/02/12(土) 20:12:58

2011年 2月12日 (土曜) 『ハンマーセッション! 11』(棚橋なもしろ 講談社 2009年 \440)

 まず中学編の全11巻を読み終える。昨年の 9月23日に第一巻を読み始めてから、途中、中断していて。しかしなかなかいいではないか。たしかに露出過多の女の子の描き方は目のやり場に困るものではあったが。
 生徒たちの前で逮捕された主人公が、半年後にまた脱獄して言う台詞がいい。
「あんな面白い仕事(ヤマ)一度やったらやめられませんから!」
 そしてラストページでは、
「さあ行くぞ! 生徒たちのいる学校へ――!!」

 いいではないか。そう「生徒たちのいる学校」には魅力があるのだ。誰でも一度味わったら、すぐ分かる。これほど面白くてやりがいがあって、涙が出そうになるほど感動的な仕事は他にはないのだから。(ただ最近はその素晴らしさを理解できない人が増えてきているようだ。大学入試のせいでもあるだろう。)

238FK:2011/04/12(火) 22:40:22

2011年 4月12日 (火曜) 『砂の王国 下』(荻原浩 講談社 2010年 \1700)

 ようやく下巻を読み終える。思い当たること多く、読んでいてしんどくなる。悲しくなる。
 そして最後はその表題が予感させるように、予測された結末の一つとなっていった。もちろん、いまもその教団が続いているかもしれず、なくなったかもしれないが、それはもういいのだ。ある意味、宗教発生のプロセスを楽しめば(?)いいのだろう。
 それにしても主人公がホームレスとなって、まさしく後の「大地の会」のように地べたから世界を見るという辛酸をなめる上巻のオープニングが秀逸だ。実にその通りなのだと、実体験のない者にまで、疑似体験させてくれるかのようだ。
 とはいえ驚くべきことは、手練れの小説家にかかれば、宗教の一つや二つ、いとも簡単にその教義を作り上げて立ち上げることができるということだ。

「地面に座りこんで、地べたから街や人を眺めているとね、考え方が変わるんだ。すべてが変わるとまでは言わないけれど、心の中には、確実に、変化が起こる」(P.94)

 また熱心な信者のありようについては、
 人間関係を壊そうが、それまでの生活が損なわれようが、自分の信じるものを人に理解されたい、認められたいという欲望のもとに、どこまでも突き進んでいく。(P.113)

 なんにしても真理やのりにこそ依るべきであって、人に依るべきではないということだ。これは永遠の真理であり、私たちの日常生活においても間違わない・騙されないための鉄則であろう。

239渦森六郎:2011/04/29(金) 19:06:52

2011年4月29日(金)『鈴木先生』全11巻(武富健治 双葉社)

ついに『鈴木先生』が完結した。高校生の頃に読んで、1巻読むのにこれだけ体力を使う漫画があることに衝撃を受けた。読後、ほんとうにぐったりするのである。
中学教師、鈴木先生がクラスの内外で起こる生徒(時には教師)の問題(給食の献立決めから中学生のセックスまで、幅広い)に対して、独自の「鈴木流」教育観で立ち向かうというストーリー。
扱う問題がヘビーなこともしばしばであり、また教師と生徒、時には保護者や他の外部の人間まで、さまざまな事情や葛藤や思惑が絡んで、読者は脳味噌をフル回転させることを要求される。「答えが出なくても、それでも考え続けろ」というメッセージが氾濫している。話題のサンデル教授よりも「白熱教室」だ。

体力を消耗するとは思うけれど、全巻読破すべき作品。非常にすぐれた群像劇であり、教育論であり、演劇論であり、そして人間論だと思う。

240FK:2011/04/30(土) 15:41:17

2011年 4月30日 (土曜) 『銭売り賽蔵』(山本一力 集英社 2005年 \1800)

 江戸時代、両替の手数料で商売とする人たちを主人公にした作品。相変わらず、氏の作品は良い。商人というより職人に近い人たちの心意気が、特に深川の地名とともに印象的である。
 上に立つ者というか、社会を動かしていくことに責任を持たなければならない人たちのあるべき姿が描かれてもいる。『おたふく』でもそうだったが、氏の作品に一貫して流れる精神なのだろう。

『鈴木先生』は未見。まずはテレビドラマから観てみることにします。

241渦森六郎:2011/04/30(土) 20:15:37
『鈴木先生』がどんなふうにドラマ化されているかは分かりませんが、ドラマが面白くてもつまらなくても、漫画は読まれることをおすすめします。おそらくドラマと漫画は別物ですので。

242FK:2011/06/21(火) 20:53:26

2011年 6月21日 (火曜) 『原発のウソ』(小出裕章 扶桑社 2011年 \740)

 たいへん分かりよい読みやすい新書であった。広く読まれると良い本だ。
 それにしてもわずかな被曝でも人体に影響があるということを忘れてはいけないようだ。まして子どもたちは成長が早い、つまり細胞分裂の勢いがすごいのでより悪影響を受けてしまうようだ。
 本当にどうしようもない大変なことが、とうとう起こってしまったのだとの思いで一杯だ。大袈裟なようだが歴史的大事件だ。

243FK:2011/08/01(月) 16:22:18

2011年 8月 1日 (月曜) 『川あかり』(葉室 麟 双葉社 2011年 \1500)

 相変わらず良い。これもほろりとさせられる。この藩随一の臆病者とされた主人公が、その後どのような人生を送ったのか知りたいものだ。

「しかし、誰かが損をしてでもやらねばならないことも、世の中にはあるのではありませんか」
「若い時はそんなことを思うものだが、それは思いあがりだ。一人だけが犠牲にならなければならないことなど、この世にはひとつもない。この世の苦は、皆で分かち合うべきものだ」(P.89)

 若い人というのは、こんな風にして老獪な年寄りたちに騙されて、その命を失っていくのだ。そのような主人公に対して、ベテランが諭すシーンである。

244FK:2011/08/18(木) 05:55:26

2011年 8月17日 (水曜) 『クロサギ』(全20巻 黒丸・夏原武 小学館)

 この夏休みに集中して読み残していた10巻ほどを読んだ。背筋が凍るといっても言い過ぎではない読後感が残る。
 人は騙されるもの、いや人は人を騙すものだ。どちらが悪いといった通常の善悪観念や正義感で断罪できるものではない。人間の根源に根ざすどうしようないものがからんでいるからだ。そして欲をかけば騙され、欲がなくても金を持っていればかすめ取られていく。人間関係は基本的には、自分の利益のために構築するものだが、そして否定するものではないが、この詐欺というのは、はなから利益を詐取するためにだけ築かれるものなのだ。悲しい現実である。
 「ファイル49 ヘッドハンティング詐欺」(第20巻)の解説で、「金品を要求されたならば、百パーセント詐欺だと思って間違いない」とある。そういえば内職(宛名書きなど)でもはじめに登録料とかでカネを取られる。この時点で詐欺だと気が付くのは難しい。あと宗教でもそうかもしれない。会費とかお布施とかの名目でまさしく「金品を要求」されるのだ。
 ということでそれが詐欺であるかどうか見極めるための一つの法則は、この「金品を要求」されるかどうかということになるだろう。

245FK:2011/09/06(火) 22:05:13

2011年 9月 6日 (火曜) 『ジャーナリズムに生きて』(原寿雄 岩波書店 2011年 \920)から

1.「いい答えはいい質問から」
2.ジャーナリズムをめぐって自由と民主主義が衝突したら、ためらいなく自由を取ろう
3.組織内ジャーナリストは右手でやりたいことをするために、左手でやりたくない仕事もする
4.誰をも喜ばせず、誰をも怒らせず、誰をも愉しませず、誰をも悲しませないニュースがあろうか。誰をも安心させることもなく、不安がらせることもなく、励ますこともなく、落胆させることもない、そんなニュースはない(P.239)

【それぞれを授業という言葉に置き換えてみるといい。
1.はそのままだ。生徒たちからいい答えを引き出そうと思ったらまず「いい質問」を考えねばならない。
2.はやや違うかもしれないが、授業のなかにあってもまずは自由を尊重すべきということ。民主主義というのは多数決原理であり、少数あるいは異質な意見が封じられてしまう畏れがある。そんなとき何より自由をまず取るべきなのだろう。
3.の場合は、自分の考える授業を展開したければ、ということ。
4.は「ニュース」を授業に読み替えればいい。可もなく不可もない授業ではなく。】

246渦森六郎:2011/10/10(月) 22:25:08
2011年10月10日(月)「恋する原発」

今月発売の『群像』11月号に掲載された、高橋源一郎の中編小説。東日本大震災のチャリティーAV(アダルトビデオ)をつくる男の話。なかなかの不敬・不謹慎小説だ。世が世なら、高橋さんは憲兵にしょっぴかれていただろう(笑)。
今日は早稲田で高橋さんの講演会もあった。AV業界の裏話に始まって、震災後の文学の役割についての話へと持っていくという力技。面白かった。

以下、「恋する原発」の中で面白かった部分を引用。

 その時、会長がいきなり、いった。
「関係ないけど、今上天皇は最高だよね」
「ああ、いいですね」と社長が答えた。内心ブルっていたにちがいない。社長と会長は、おれにとって尽きない謎だった。だいたい、この二人にどういう共通点があるのか、おれにはわからなかった。

 会長が、会社に来るのは、月に一度の企画会議の時ぐらいだ。理由は「めんどくさいから」。その点では、おれと話が合うような気がする。 

「ぼく、陛下のファンなんだけど、知ってるよね。今度、陛下がお出ましになるAVを作らない?」
「むりむりむりむりムリムリむりむりむりむりむりむりむりむり!絶対無理!」
「なんで、なに作ってもいいじゃん。ガミちゃん、表現の自由だよ」
「会長、日本に表現の自由なんかないことを知らないんですか!」
「えっ、なかったの?」
「はい!」
「なんで?」
「だって、国民が表現の自由なんか必要ないと思ってるからですよ! そんなもの、あってもなくてもなんの関係もないと思ってるからです」
「なんだ、そうか」
「そうです」
「じゃあ、言論の自由は? あるの、ないの? どっち?」
「あるわけないでしょ、そんなもの!」
「えっ! そうだったの? 憲法に書いてなかったっけ?」
「書いてあるだけ! ああいうのを、絵に描いた餅っていうんです」
「ふうん、知らなかった」
「会長、何年、日本人やってるんですか。そんなことも知らないの? 信じられない……」
「わかった。おまえがそういうんだから、そうなんだよね」
「だから、とにかく天皇とか皇室とか、ほんと止めてください。あと、最近ではマホメットとか。触らぬ神に祟りなし! お願いします! ほんと、ひどい目に遭ったんだから!」
「でもさ、よく被災地に行って、腰を下ろして、話を聞いてるでしょ、あの人。すごい誠実さが伝わってくるんだよね。いい人だぞ、アキヒトは」
「しつこいなあ、会長……。だから、呼び捨てにしちゃ、ダメだってば!」
「それから、先祖の桓武天皇のお母さんが朝鮮出身っておっしゃったよね」
「そんなことありましたっけ」
「ほら! 確かに、おっしゃったんだよ。でも、その発言で、よく『非国民!』って、いわれなかったよね。あれ、おそろしいほどの御決意で語られたと思うんだよ、ぼくは。で、陛下は絶対、翌日の新聞を見たと思うわけね。『ミチコ、ぼくの昨日の発言、ちゃんと新聞に載ってるかな?』『いえ、あなた、ほとんど載っていないみたいですわ』『ダメじゃん、この国!』っていってたと思うね」
「そんなバカな……」
「国旗の掲揚は強制せぬのが望ましい、っておっしゃっていたこともあったよね。わかってるよね、アキヒトは」
「会長、ファンだっていうのはよくわかりました! でも、お願いだから、呼び捨てはやめてください! もしかしたら、盗聴器がしかけられているかもしれないじゃないですか!」
「いいじゃん、別に。なに、あのハシモトとかいう知事、日の丸を条例で強制させようなんてさ。あんな大御心がわからない知事なんか国賊だ! 大御心は言論の完全なる自由に決まってる!」
(『群像』36、37ページ)

247FK:2011/10/15(土) 15:04:15

2011年10月15日 (土曜) 今上(きんじょう)天皇

 もはや一般には死語でしょうね。それはそれでいいことだと思いますが。
 さすがに戦後の天皇なので、私にはある種のリベラルさも感じますが、誤解しているのかもしれません。そう思った理由が引用されていた天皇家の祖先のことと、「国旗の掲揚は強制せぬのが望ましい」との二つの発言。いずれも新聞で見たわけですが。
 言論や表現の自由についての一節も、そのとおりですね。権利は守ろうとしなければ、奪われていくもの。原発のことをはじめ、いろんなところでタブーがありますが、最大のタブーが天皇および天皇家に関すること。(にもかかわらず、マサコさんのことが女性週刊誌などで喧伝されるというのは、これは言論・表現の自由からではない、つまりリークというか誘導があるのではと思われます。)
 日本にはまだ民主主義はないと私は思っています。もちろん私の言う民主主義とは、選挙制度などの形式的なそれではありません。東日本大震災と放射能汚染への対処を見てましても、よりましな制度としての民主主義すら、まだこの国には存在してないのではないかとつくづく悲観的になります。

248渦森六郎:2011/11/21(月) 18:00:31
2011年11月21日(月)『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』(與那覇潤 文藝春秋 2011年 ¥1500)

今ツイッターで、與那覇潤という人をフォローしている。愛知県立大学の准教授で、若干32歳。専門は日本近代史。
與那覇先生のつぶやきはなかなか面白いのでいつも楽しく読んでいるのだけど、この度、そんな先生が本を出した。

早速、読了。
中世からポスト3.11の現在まで、およそ1000年の日本の歴史を1冊にまとめるというなかなかの力技。
與那覇先生が本書で目指しているのは、「学界では常識になっているのに、高校の日本史やそのへんの歴史マニアにはまだまだ普及していない最新の研究成果によって、日本史を書き換えること」だ。「高校日本史」から「大学日本史」への橋渡し。

まず、冷戦以降のグローバル化した世界は、宋代の中国を拡大したものにすぎない、という話から始まる。宋代の中国に、やっと世界が追いついてきている(中国化)。そして、今の日本も「中国化」しつつあるという。
「中国化」というのは、著者の造語だが、要するに「皇帝とその子飼いの官僚に権力が集中し」「朱子学という高邁な理念によってその権力が担保・統御され」「その代わり民衆には経済の自由が保証され」「社会の流動性が高まった」社会へと世界が変化しつつあるということだ。「皇帝」を「アメリカ」に、「朱子学」を「ノーベル平和賞」に言い換えれば、そのまま現代の世界の状況に当てはまる。

で、日本の歴史というのは、この「中国化」(郡県制)と「反中国化」(封建制)のせめぎあいの歴史だったのだという主張が、本書の骨子である。
以下要約(すごくヘタクソなので、飛ばしてもいいです)。

既得権益を得ていた貴族による封建制を平氏が撤廃しようとした。そして、宋銭を流通させることによって、貨幣経済を普及させようとした(中国化)

平氏のような国際競争力のない守旧派貴族や源氏によって平氏が滅ぼされ、鎌倉時代に(反中国化)

後醍醐天皇が、楠木正成ら「悪党」や流民、商工業者の力で鎌倉武家政権を打倒。自分と、子飼いの家臣による天皇親政を目指す(中国化)。が、足利尊氏ら守旧派に敗れる(反中国化)

戦国大名による統治によって、民衆は「守ってもらう」存在になり、大名の領地に定住し、その中で結束するようになった。石山本願寺のような、高邁な理念と地域を越えたネットワークをもつ「中国的な」集団は駆逐されていった(反中国化)

江戸時代になると、日本独自の地域密着型身分制ができあがる。自由度は低いが、そこそこ食べていける時代(反中国化)。しかし、朱子学の普及によって「徳さえ身についていれば、誰が君主になってもいい」という考え方が広まってしまい、また、幕府がその正統性を裏付けるために唱えた「大政委任論」も「天皇陛下の威光によっていくらでも幕府を批判できる」思想として利用されてしまう。
そして、それを利用した武家の次男坊・三男坊(どうせ生きてても日の目を見ることがない人々)によって、明治維新が起こる。中央集権・自由経済の時代。競争社会に(中国化)

昭和になると、会社や工場の「ムラ化」が始まり、また在郷軍人によって地域社会がまとまってゆく。日本は江戸時代的な社会へと逆戻りし、(経済に関しては)自由と自己責任の明治時代的な社会が終わる(反中国化)

戦後も江戸時代的な状況は続く(自民党による地方の農村への利益誘導など)。しかし、1980年代あたりから世界では新自由主義が台頭しはじめ、日本でもイエ社会が崩壊しだす。また、小泉純一郎や橋下徹など、「既得権益と戦う」ことを売り物にする専制的なリーダーの出現がちらほら。3.11による地域社会の崩壊、流民の発生(中国化)

ふう、なんとか要約できたか…?いや、できてないですね。なんかもうぐちゃぐちゃ。まだ理解しきれてないから。
でもまあそういう感じのことを、色々な文献や映画を引用しつつ、與那覇先生は言っている。

あと年表とか文献リストも付いてて便利。この本をきっかけに、個々の事柄についての専門的な研究をチェックしにいくことができるようになっている。

さすがに1000年の歴史を1冊にまとめているので、やや大雑把な印象も受けるけれど、しかしまあこういう全体像を俯瞰できるタイプの本があると助かる。大学日本史への入口として、かなり良質なものだと思う。とりあえず史学科の学生は必携なのではありますまいか。いや、史学科の学生じゃなくても、普通に読みやすい一般書なので、1冊持っとくといいと思う。

しかし、與那覇先生、32歳でこんな仕事しちゃうとは…。これからも目が離せない…!

249FK:2012/04/04(水) 07:47:06

『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』(與那覇 潤 文藝春秋 2011年 \1500)

 いま、二万二千部の売れ行きという。私には取っつきにくい題名の本で、読むのも大変であった。それは要するに中国史、中でも宋の歴史を中心にした知識がないと理解できないからだ。なんとか一読したが、また読み直すことに。面白い視点が提示されているのだ。
 それにしても日本人は、思想も宗教もなく、では何で動くかというとそれは利害であり、要するにカネなのだという記述があった。悲しいけれどそういうことかと納得してしまう。



『研ぎ師太吉』(山本一力 新潮社 2007年 \1600)

「切れ味は、すでに刃物の内側にひそんでおる。研ぎをする者の勤めは、刃物を砥石にあてて、その切れ味を内から取り出してやることだ。」/研ぎ師の腕がよいから、刃物に切れ味が生まれるわけではない。/刃物が本来持っている切れ味を、内から取り出してやるのが腕のよい研ぎ師。(P.128)
【これはもう教師の仕事そのものだろう。勘違いしている人が少なくないのは、いずこの世界でも同じことか。】

 ともに同じものを食せば、互いに気心が知れる。(P.215)
【たかが、といえないくらいの力というか、影響力があるのだろう。もっとも、職場の人間同士の宴会は、そうはいかないが。】

250FK:2012/04/06(金) 22:51:50

『新しい世界史へ ――地球市民のための構想』(羽田 正 岩波新書 2011年 \760)

 さっと読んだだけではあるが、これまでうっすらと疑問に感じていたことに解答があったような新書であった。それは例えばヨーロッパ中心の見方描き方であるということ、あるいは「イスラーム世界」というくくり方などである。



 「第2章 いまの世界史のどこが問題か?」として三点を指摘する。

 第一の問題点は、現行の標準的な世界史認識があくまでも日本人による世界史の捉え方(P.53)



 続いて二つ目の問題点。

 自と他の違いを前提とする世界史/世界には現実に数多くの主権国家があるのだから、この世界史は世界の現状を追認している。(P.68)



 最後に三つ目の問題点は、ヨーロッパ中心史観。

 おそらく現行の世界史の見方に含まれる最大の欠点である。というのも、現在私たちが世界史を学べば、その結果として、ほとんど自動的に、ヨーロッパは特別であり、世界でもっともすぐれていると信じてしまう仕組みになっているからである。(P.76)

 以上三点を次のようにまとめられている。(P.90)

 現行の世界史は、日本人の世界史である。
 現行の世界史は、自と他の区別や違いを強調する。
 現行の世界史は、ヨーロッパ中心史観から自由ではない。



 では氏が考える「新しい世界史」とは。

 端的に言えば、地球主義の考え方に基づく地球市民のための世界史である。/「私たちの地球」と捉える世界認識が必要である。(P.92)



 そしてそのために必要なことは。

 中心性の排除と関係性の発見(P.102)

 つまりヨーロッパ中心史観の排除であり、またヨーロッパ以外であっても中心性は排除されるべきだということ。もちろん日本も例外ではない。

 人間集団の間の共通性に着目し、集団間の関係性や相関性を重んじた叙述を心がける(P.135)

 国民国家史を寄せ集めた世界史ではなく、(中略)国民国家史を相対化した過去の捉え方がどうしても必要になる。(P.147)



 具体的な描き方については、三つの方法が提示されている。(P.166)

1 世界の見取り図を描く (基本となる単位は人間集団、見取り図の時間の幅は15世紀までは100年程度で(P.177))
2 時系列史にこだわらない (過去のある時代の世界全体の姿を描く)
3 横につなぐ歴史を意識する (一国史的、または二国関係史的にではなく、多角的・俯瞰的に整理する(P.188))

251渦森六郎:2012/04/07(土) 16:12:49
>FK先生

「それにしても日本人は、思想も宗教もなく、では何で動くかというとそれは利害であり、要するにカネなのだという記述があった。」(『中国化する日本』)について

宗教は難しいと思いますが、たしかに日本でも何らかの普遍的な理念が共有されたほうがいい気がします。為政者の暴走を抑えることができるような、時の政府よりも高位にある「理念」です。
僕もどうも日本人(こうまとめてしまうのもよくないかもしれませんが)は、理念が苦手というか、どうしても具体的な形を求めてしまう傾向にある気がします。天皇とか、水戸黄門とか。理念によって為政者を抑止するのではなく、べつの為政者をつれてくることによって、解決しようとする。人格のないモノを想像することが、不得手です。小泉さんや橋下さんが人気なのも、抽象的な理念より具体的な人格によって政治の問題を解決できると多くの人が考えているからだと思います。でも、ほんとうは、その時ごとの為政者についての議論よりも、まず「為政者が誰であれ守られるべき理念」の創造が必要だと最近考えています。

252FK:2012/04/07(土) 22:17:06

2012年 4月 7日 (土曜) 依法不依人(えほう・ふえにん)

 「依法不依人」という言葉を日蓮の言葉として読んだ記憶がある。そのとおりだと、その後の人生の中でしみじみと知ることになった。
 政治家であれ、宗教家であれ、所詮、人は人であって、その人に依っていては間違うことになるのだ。どころか、ひどい目にあうことになるのだ。
 ではその「法」とは何か。もちろんこの「法」とは法律のことではない。これを探求すること、見つけ出すことは意義のあることだと思うのだが。

253渦森六郎:2012/04/09(月) 23:49:18
2012年4月9日(月)『希望論 2010年代の文化と社会』(宇野常寛、濱野智史 NHKブックス 2012年 ¥950)

文芸批評家・宇野常寛氏と情報社会論の専門家・濱野智史氏による対談。3.11の震災以降の日本社会をどう設計していくべきか。抽象的だが前向きな議論が展開されていて、なかなか面白かった。

 なぜ同じ土地にこれだけの原発が集中していくつも建てられてしまうのか。それは原発をめぐる議論が絶対賛成と絶対反対の二項対立に陥ってしまっているからだというんですね。(濱野 28ページ)
 
 僕は、この震災・原発がでかい一発だということには同意します。(中略)ただし、でかい一発がきたとしても日常が終わらなかったというのが、重要な点ではないでしょうか。(宇野 33ページ)
 
 すでにあるリアルな人間関係のハブになっている駅を核とすることで、ネット上にコミュニティをつくる。それが地域のソーシャル・キャピタルを底上げすることに繋がる。(濱野 56ページ)

 みんな、仕事や家族形成で自己実現することに固執しすぎじゃないでしょうか。(中略)たとえば、仕事での自己実現というのは諦めて、アフター・ファイブの共同体やインターネットで知り合った趣味仲間とうまくやることで承認を獲得する生き方はあっていい。(宇野 153ページ)

 日本の学校教育はひたすら「与えられた箱」の「空気を読む」訓練ばかりさせますが、ほんとうに必要なのは「自分に合った箱を探す」訓練と、「選んだ箱に対する距離を計る」訓練じゃないか。(宇野 156ページ)

 グローバル資本主義社会下、ネットワーク社会においては誰もがただ存在するだけで貨幣と情報を通じて小さな決定者であり発信者、つまり小さな「父」として機能してしまう。(宇野 206ページ)

254FK:2012/04/10(火) 22:29:13

2012年 4月 3日 (火曜) 2012年 3月24日 (土曜) 『人生なんてくそくらえ』(丸山健二 朝日新聞出版 2012年 \1700)

 (親がいたから自分が在るのだという)考え方は、社会や伝統や国家や宗教や学校などによってもたらされた、個人の自由という最大の尊厳を著しく傷つける、悪辣で、えげつない洗脳以外の何ものでもない(P.11)
【当たり前のように思わせられていたが、実はそのとおりなのだと思う。この考え方によって多くの人が苦しめられてきたことだろう。罪深いものがある。】

 子は家を出ることによって、本当の人生を味わうために必要不可欠な自立と自律の精神を培い、親もまた、遅ればせながら親であることの真の務めが何であったかを悟る。(P.23)
【家という物理的なものと、そこにいる家族という精神的なものの影響力の大きさは途轍もないものだ。それを実感することができるのが、家出であろう。まさに自立と自律のためには、まず物理的に安全な安逸の場所である家を離れることが必要なのだろう。】

 かつての人間は、ほかの野生動物と同じように、たとえ寿命が短くても、危険だらけの環境にあっても、ただ生きているだけで充実感が得られるような幸福な存在だった。/ところが、文明がもたらした便利さや入り組んだ機構は、仕事の大半を不愉快なもの、苦痛を伴うものに変えてしまい、厭世観や不幸のもととして生きる価値を半減させたのだ。人類の苦悩の原点はまさにここにある。本来ならば、生きることはもっと楽しく、生きる意味など問う必要などまったくないほど、つまり、哲学なんぞが生まれる余地がないほど充実していたはずなのだ。/しかし、今を生きる人間としては、好きも嫌いもなく、このやりきれない世を生き抜かなくてはならない。社会的な意義はあっても、個人的には面白くもなんともない仕事に拘束されて、人生のほとんどを灰色に塗りつぶされなくてはならない。/そこで、またひとつ大きな問題が行く手に立ちはだかる。/仕事の選択だ。/どんな仕事で食べてゆくかによって、本当の自立になるか、本物の人生になるかが決まる。/仕事を大別すれば、ふたつだ。/勤め人になるか、自営業をめざすかの、いずれかだ。(P.39)
【そうだったのだ。かつて人間はみな「ただ生きているだけで」幸せなのであった。本当に哲学など○○くらえ、だったはずなのだ。これは悲しいことだ。生きることが、ただ生きているだけではすまなくなってしまったとは。
 そして仕事である。自分を食べさせるためにどうするか。】

 学歴を雇う側がそれほどまでに重視するのは、ひとえに従順さを測る尺度として見ているからだ。世間の価値観にどこまで従順であるかどうかを、あまりにも馬鹿馬鹿しい受験戦争にどこまで身を投じてきた人間であるかどうかによって判断しようとしているのだ。(P.40)
【そうだったのだ。「従順さを測る尺度」だったのだ。何かおかしいと感じた人たちはそこからドロップアウトしていくのだ。従順ではないから!】

 自分の本当にやりたいことをやるための資金を作るという目的で勤め人になるならまだしも、最初から人生のすべてを捧げるつもりで、仲間がそうしているからということで、あまりに安易に勤め人になってしまうのは、まさに愚の骨頂としか言いようがないではないか。/サラリーマンになるために生まれてきたのか。/勤め人の立場が奴隷そのものだということをわかっているのか。(P.42)
【サラリーマンが現代の奴隷、とはしばしば耳にしてきたことなのに、実感として分かってなかったということだ。そう自由なき奴隷なのであった。】

255渦森六郎:2012/04/17(火) 20:13:39
>学歴を雇う側がそれほどまでに重視するのは、ひとえに従順さを測る尺度として見ているからだ。世間の価値観にどこまで従順であるかどうかを、あまりにも馬鹿馬鹿しい受験戦争にどこまで身を投じてきた人間であるかどうかによって判断しようとしているのだ。(P.40)
>【そうだったのだ。「従順さを測る尺度」だったのだ。何かおかしいと感じた人たちはそこからドロップアウトしていくのだ。従順ではないから!】

そういう側面はあると思います。しかしそれと同時に僕が思ったのは、今の日本では学歴をもっている人のほうが、比較的自由に生きやすいのではないかということです。職業選択の幅が広がりますし、たとえば卒業後にある程度ぶらぶらしていることも許容される気がします。
まあ、ほんとうは学歴があろうとなかろうと、人間は自由に生きていいはずだと思いますが、なかなか今の日本ではそうも言っていられない。自由に生きるには、それなりの勇気と根性が必要とされる世の中になってしまっています。もちろん、学校なり学歴なりによって制限されてしまう自由もありますが、話はそう簡単ではなくて、今の日本では同時に学校なり学歴なりが、ある程度の自由を担保するアジール的なものとして機能している面もある気がする。
だから、僕はとりあえず、学校なり学歴なりを少しでも自由に生きるための道具として利用できる人は、使えばいいと思っています。受験勉強だってしたらいいと。モノは使いようで、一見ネガティブな、自由とは遠いイメージがある学歴も、使い方によっては自由のための武器になる。
もちろん、あくまで「とりあえず」という話です。最終的に、そういう何らかの「武器」をもっていなくても自由に生きられる世の中になってほしいと思いますが。しかし、まずは「武器」をもつことができる人はそれをもち、自由を手に入れられる人から手に入れていけばいいと思う。そういう人の中から、世の中のおかしさに気づく人も出てくるでしょうし。そして気づいたときに、既存の価値観(ここでは学歴ですか)の中で生きている人たちに相対し、説得していかなければならないわけで、その時にとりあえず彼らを振り向かせるために効力を発揮するのが学歴だと思います。
学歴社会に疑義を呈するのはもちろん必要ですが、同時に、学歴を自由のための武器として利用する道を考えてみるのも、建設的ではないかと。そんなことを考えました。

256FK:2012/05/19(土) 17:04:12

2012年 5月18日 (金曜) 『月の上の観覧車』(荻原浩 新潮社 2011年 \1500)

 短編集。8編からなり、いずれも人の人生を短編のなかに凝縮してみせる。上手いものだ。人生の哀歓と哀感がたっぷりと描かれている。
「トンネル鏡」 夜行列車の窓ガラス、昼間でもトンネルに入ったときの窓ガラスは、まるで鏡のように映し出す。不思議な世界とも言えよう。トンネル鏡、とはよく言ったものだ。
 ストーリーとしては、ある男のその母親との半生を描いたもの。短編の中に人生が凝縮されている。「トンネルはときおり私に死を想像させる。」(P.27)

 誰にでも、死者とつかのま出会える瞬間がある。私はそう信じている。おそらく、その瞬間は人それぞれに違い、いつ、どこで訪れるのかがわからないために、たいていの人間が見逃しているだけなのだ。(P.253 月の上の観覧車)
【言うまでもなく私たちは、その自らの死の寸前まで、死者たちとともに生きている。彼らと出会える瞬間は、その肉体的な死とともに極端に減少していく。そしてここの文章にあるようになるのだろう。】

257FK:2012/07/15(日) 10:59:40

 『「美しい」ってなんだろう 美術のすすめ』 (森村泰昌 理論社 2007年 \1470)

 素朴に考えてみて「美しさ」とはどんなものか、いったい何なのか。ふだんはあまり考えないことをこの本をよすがに考えてみようとした。
 これまでの私は、氏のアートにけっして親しんできたわけではない。むしろ私からは遠い世界のような気がしていた。しかし、氏のあのような作品がどうして生み出されるのか、そして「美」とはとの思いでこの本を読むことにした。

 芸能とは、ぜったいにウケないといけない世界である。/芸術とは、ウケなくてもやらねばならない世界をもつことである。/あるいはこう言いかえてもいいかもしれません。/芸能とは、ひとびとに広く行きわたることがめざされている世界である。/芸術とは、深く行きつくことがめざされている世界である。(P.120)
【この二つについても、さほど考えてこなかったが、なるほどと気が付いた。芸能はその時その時に人々に受けいれられないと意味がない。存在しようもない。しかし芸術はその時の人々に受け入れられなかったとしても、さらにその先を見越してというか、そのような姿勢で作り続けていくことができるということ。自分というものをしっかり持っていれば、芸術には終わりはない。あるいはまた完成というものもないのかもしれない。】

 じつは「美」というものは世の中のいたるところにある。でも世の中には、「美」以外にもいろいろ情報がありすぎて、「美」はとても見えにくくなっている。/美術館というところは、そういう見えにくくなった「美」がよく見えるように、つまり世の中のさまざまなものやできごとのなかの、とりわけ「美」というファクターにフォーカスをあてて、「美」がくっきりあざやかに見えるようにと工夫をこらした場所である。(P.274)
【なるほどそうだったのか、と。たしかに私たちのまわりには情報があふれている。その中から「美」というものに気がつけるかどうかというのは結構むずかしいことなのだろう。そもそもその基準も、私たち一人ひとりにあるので余計むずかしい。そんな中で「美術館」というものの存在がクローズアップされるわけだ。これまで数え切れないほど美術館は訪ねてきたけれど、実はそういうことだったのだ。】

「きれい」でなくても「美しい」/「ちっぽけ」でも「無限」の世界がある/みぢかなところに、すばらしい感動がある(P.279)
【このように感じ取れるように自らの感性を常に磨いておかなければ。でないと気がつかずに通り過ぎて行くのだ。】

 それぞれにそれぞれの「美しい」がある。このそれぞれの「美しい」を語りあい、なぜそれが「美しい」のか、意見交換することで、人間や自然や宇宙を理解する糸口も見えてくるはず。
 相手が美しくない、みにくいと思うから、相手が敵に見えてくるのとちがいますか。相手が「美」と感じられたら、その美しいものを破壊しようとは、だれも思わないでしょう。むしろ愛したい、守りたい、慈しみたいと強く望むでしょう。(P.284)
【人によってそれぞれの「美しい」があるということを認め合わなければならない。お互いを尊重しあい敬意を持つことから人との交流が可能なのだ。そしてそれは自らの感性をさらにブラッシュアップしてくれるのだ。
 それにしても醜いものを敵としてみてしまう私たち人間というものの、どうしようもなさ。だからこそ私たちは「美」に対する感覚・感性を培っていかなければならないのだろう。】

258渦森六郎:2012/07/30(月) 14:25:51

2012年7月30日(月) 『まなざしの地獄 尽きなく生きることの社会学』(見田宗介 河出書房新社 2008年 ¥1200)

まず何より文章が洗練されてて、かっこいい。人間の表相を規定する「都市のまなざし」に絡めとられてゆく少年N・N(永山則夫)。彼はそれに対して自ら表相をつくりだすことで、「まなざし」を操作することを試みるが、そのN・Nの行動もまた、「まなざし」のうちに規定されたものなのだった。
ひとりの少年による殺人事件から、当時の社会のうちに潜む問題を浮かび上がらせる。とにかく鮮やかである。たぶん、社会学ってこういうものなのだろう。
併禄されている論考、「新しい望郷の歌」という題名のセンスもまた良い。前近代的な家郷の解体を、大正時代の一家心中の増加の中に見、六十年代はそれに代わるものとして、より個人的な小さな家郷が「つくられて」いった。そもそも「出て行く場所」であり「帰る場所」であった家郷が、「つくる場所」へと変化した。そのような家郷の転換の時代として、六十年代を描き出している。
大澤真幸氏による解説も面白い。彼はさらに現代の酒鬼薔薇事件や秋葉原事件とN・Nの事件とを比較し、そこから「まなざし」に対する六十年代と現代の少年の態度の違いを見る。「まなざし」を操作し、そこから逃れようともがいていたN・Nと異なり、むしろ現代の少年たちは「まなざし」を希求しているというのだ。この対照性のうちに、大澤氏は『まなざしの地獄』の現代社会を逆照射する鏡としての役割を見いだしている。文章の端々から滲み出る、見田氏に対する大澤氏の尊敬と愛情も良い。
ともかく、社会学のお手本かつ前衛という感じの名著だと思った。

259FK:2012/08/17(金) 15:55:06

2012年 8月16日 (木曜) 『縮図・インコ道理教』(大西巨人 太田出版 2005年 \1300)

 本来、この本の題名は『「皇国」の縮図・インコ道理教』であったとのこと。なるほど、それならば大体、何を言わんとするものかが浮かび上がってくる。
 オウム真理教を念頭においたものだが、それと国家としての日本、それも「皇国」というべき日本国家とを考察するものか。
 なぜかくまでもインコ道理教は国家から敵視されるのか。それを「近親憎悪」という言葉から読み取ろうとする。もちろん、小説・フィクションではあるが。
 小説の最後に次のようにある。このことを気づかせたかったということか。なお人名・深山秘陰(ふかやまひいん)とは、インコ道理教の教祖である。

「皇国」すなわち天皇制国家は、神道系であり、インコ道理教は、仏教系である。神道系と仏教系との相違ならびに規模の大小の差はあれ、両者は、いずれも宗教団体・無差別大量殺人組織であり、前者の頭首は、天皇にほかならず、後者の頭首は、深山秘陰にほかならぬ。(P.128)

260渦森六郎:2012/08/30(木) 22:26:39

2012年8月29日(水) 『社会を変えるには』(小熊英二 講談社現代新書 2012年 ¥1300)

500ページの大著だったが、小熊氏の文章は読みやすいのでどうにか読了。
戦後日本の社会運動史と西洋の政治思想史を概観し、企業や家庭や労組や村などに所属していればどうにか富の再分配を受けることができたような時代は終わり、良くも悪くも人々が「自由」に、バラバラになってきた(させられてしまった)というふうに現状を分析する。そして、そんな不安定な時代にいかに新たな自由民主主義にもとづき、主体的な個人によって構成された「われわれ」をつくりあげるか。その方法を提示した論考である。

分厚いが内容的にはコンパクトにまとまっていて、ひとり1冊持っておくといいタイプの本だと思った。

261FK:2012/10/02(火) 12:38:32
2012年 9月17日 (月曜) 『社会を変えるには』(小熊英二 講談社現代新書 2012年 \1300)--1

 500ページ以上もある新書。それでも氏の著作の中ではまだ読みやすい方だろう。題名にも惹かれる。

 お金や暴力は、関係が希薄になってくるところに、関係の代役として入りこんでくるのです。(P.119)
【社会でものを言うのは、やはりカネと暴力なのか、と慨嘆してしまう。】

 お金を使うと、関係を作る手間がはぶけます。それが楽なので、関係をお金に変える動きがおこる。つまり「無縁」になりたくなるのです。しかし、そのぶんだけ関係はお金に浸食されてきます。そうして関係が変質してくると、お金を使わないと人が動いてくれなくなり、お金に頼る度合いが高まって、ますますお金が関係を侵食していきます。(P.225)
【お金というものを私たちは上手く利用・活用しているようでいて、結局それに支配されて生かされているということのようだ。難しいアイテムだ。】

 ハンナ・アレントは、「労働」というのは生きるための手段、食べたり使ったりしたら消えてしまうものを作る行為だから、いくらくりかえしても無常と虚無から逃れることはできないと言います。それにたいし「活動」はそれじたいが目的である行為、「仕事」は目的とつながっている行為ですが、現代ではそれが見失われて「労働」が支配している、と考えました。(P.226)
【なるほどワークというのは、基本的に虚しいものかもしれない。誰かがしないと社会は困るので、その代償として高額の報酬が本来支払われるべきなのだ。ところが現実はその真逆のことを、洗脳によって成し遂げているわけだ。
 あと仕事というのもある程度の満足感を得ることはあったとしても、やはりワーク・労働の延長上にあるものだろう。ということで、ここの言い方でいけば「活動」がもっとも人間らしいものということになる。】

 人間は何か「自己を超えたもの」とつながっていないと、生きづらいものだということ(P.228)
【そうなんだ。私などそうは思ってないつもりなのだが、そうなのかもしれない。】

262FK:2012/10/02(火) 12:39:52

2012年 9月17日 (月曜) 『社会を変えるには』(小熊英二 講談社現代新書 2012年 \1300)-2

投票の代議制というのは、いわば選挙による貴族政です。自由主義というのは、権力は介入するな、生活が安定しているから国政なんか知らない、いい王様が治安と外交だけやってくれ、という考え方です。民主主義というのは、みんなで決めないと納得できない、という考え方です。(P.323)
【あまりに代議制というものを信用しすぎてきたようだ。実は何の根拠もないのに。民主主義というのも民が主権(権力)を握るものと解釈するなら、それに従わざるをえない民衆の立場からしたら、所詮、権力は権力なのだ。それを忘れていた。】

 代議制の自由民主主義への不満が高まったとき、デモや社会運動や国民投票をはじめとした直接民主主義で補ってやらないと、人びとが納得しないのは当然です。(P.324)

 代議制がもとは封建制の産物(P.324)
【なぜ「代議制」がダメなのかと思っていた。現実に日本では機能していず、ダメなのだが、その理由が分からなかった。知るためにはやはりまず歴史から学ぶことが必要だった。】

「教師の役割は、教師を必要としない人間を作ることだ」という言葉があります(P.412)
【誰の言葉かは紹介されてない。自立した人間育成が目的ということか。教師といってもある一時期にほんの少し、その生徒の人生にかかわるだけなのだ。その後の長い人生は自ら作り上げていくしかないわけで、私たち教師がいつまでも面倒を見られるわけがない。しかしその割り切り(というにはあまりにも当然のことだが)をできない人も散見される。】

 参加型・対話型の民主主義を作るしかない(P.422)
【社会を根本的に変えて行くには、いい方向に持って行くためにもその基本は、私は民主主義と個の確立だと思っている。ここで氏が言うように、その民主主義は単なる民主主義ではなく、定義をはっきりさせたこのような形態であるべきだと思った。】

 ある方向に向けて効率化し、無駄や異論をすべて切った組織は、環境の変化や想定外の事態にきわめて弱いことは、組織論では常識です。(P.492)
【いまの日本の会社は言うに及ばず、学校までもがこのようになってきている。私たちヒラにしても意欲が減退するのをとどめるには努力が必要とされる。】

 動くこと、活動すること、他人とともに「社会を作る」ことは、楽しいことです。すてきな社会や、すてきな家族や、すてきな政治は、待っていても、とりかえても、現れません。自分で作るしかないのです。(中略)/社会を変えるには、あなたが変わること。あなたが変わるには、あなたが動くこと。言い古された言葉のようですが、いまではそのことの意味が、新しく活かしなおされる時代になってきつつあるのです。(P.502)
【この本の最後に出てくる結論めいた一節。楽しいこと・楽しくなるであろうことを、それぞれの立場でできる範囲で活動していくということだろう。】

263FK:2012/12/18(火) 22:46:40

『正義という名の洗脳』(苫米地英人 大和書房 2012年 \1400)-1/2

 もう、なるほどと言うしかない。かなり意識し、警戒しているつもりでもすっかり洗脳されてしまっているようだ。(この書自体も私たちを洗脳するものだとも言えるが。)
 簡単に言えば「正義」と聞けばそれを「利権」と置き換えて考えたらいいということだ、と。

 常識というのは「ボトムアップ」によって生まれたものということです。
 一方、正義というのは「トップダウン」で生まれるものです。(P.26)
【正義とは何か。なにやら怪しげなものでありそうな勘は働くのだが。】

 「正義」の反対語は「悪」ではありません。「不公平」「不公正」、もしくは「不平等」という言葉が妥当でしょう。
 民主主義国家で言う「正義」とは、あくまでも「公平」「公正」、もしくは「平等」という意味なのです。だから、民主主義では、正義は法律にほぼ等しいわけです。(P.46)
【ついつい反対語は「悪」だと思ってしまいがちだ。どうも正しいという言葉に翻弄されてしまう。もちろん「不公平」「不公正」「不平等」は、良くない状態・悪い状態と言ってもいいとは思う。】

 正義をつくれるのは、権力を持った者だけということ。/逆に言えば、権力のない正義には意味はありません。(P.68)
【正義を実現するというか、人々に強制するには権力がなければならない。権力者だけが正義を定義でき、私たちに強制することができるということになる。】

 法治国家で、道徳という宗教を教えてはいけません。(中略)小学生には道徳を教えるのではなく、法律を教えなければいけない。(P.143)
【道徳そのものが本来の意味での「宗教」ではないが、あたかも宗教のように効果を発揮するものではある。公教育では宗教教育が禁止されてはいるが、そのかわりにこの道徳教育が侵入しているということだろう。】

 「公平」や「平等」は、社会を運用するためのシステムでしかないのです。システムは価値ではない。(中略)デモクラシー(民主主義)は、バリュー(価値)ではなく、システムです。デモクラシーが正しいわけではなく、より正しいことを選ぶためのシステムにすぎないのです。多数決というのは、まさしくシステムです。(P.151)
【たしかにシステムそのものは価値ではないだろう。そのシステムから価値を生み出していくものだ。民主主義というのは、つい「正しい」ものと考えがちだが、所詮システムなのだから、そこから意味ある価値を引きだすためには私たちのプラスアルファが必要なわけだ。】

264FK:2012/12/18(火) 22:48:02

『正義という名の洗脳』(苫米地英人 大和書房 2012年 \1400)-2/2

 法律に不備があっても、悪いことはしないということを、法の精神から学ぶことができる(P.156)
【それが法の精神ということか。悪いことはしないまでも、その不備のある法律によって不利益を受けている場合はどうすればいいかという問題がある。例えば高速道路の速度制限とか。】

「君は間違っている」は違う。人格やその考え、発想を否定するようなことは、誰であっても言えないはずです。/ですから、学校で教えるべきことは、「自分以外の人に対して、一切評価してはいけない」ということ。正しかろうが、間違っていようが、すべて自己責任なのです。(P.158)
【やや納得しがたい理屈なのだが、それが意見の違う他人を尊重するということか。】

 子どもたちを公平に、平等に扱うのは当然のことですが、教師自身に序列があるのは間違いなのです。/校則も不要です。(P.159)
【一般の人たちには通用しない考え方の一つだろう。序列があるのが当たり前と洗脳されてしまっているので。】

 今の日本の教育は軍国主義の延長線でしかないのです。(P.162)
【体育一つとってもわかるし、授業の開始・終了時の起立・礼もそうだ。】

 日本では、生徒全員がわかるようになるまで教えることを公平だと勘違いしている人がいますが、それは公平でもなんでもありません。/みな同じような人間をつくるという意味では、確かに公平かもしれませんが、それは奴隷をつくるための教育です。(P.164)
【公平でなければならないのは教育を受ける機会であって、その意味では一切学費・授業料が掛かってはいけないのだ。生徒全員が分かるか分からないかは、それこそ生徒一人ひとりに違いがあるのだから、当然出てくる。そのあたりの勘違いにも現場の教師は苦労している。】

 知識を持ち、自分で自由に選択して、自分で責任を取れるようにするのが、本当の意味での公平なのです。(P.165)
【これに尽きるだろう、教育の目的は。そして私たち教師の役割は。】

 大学受験のために、高校の授業も「ひとつの正しい答えを暗記する」ことに重きを置いている。/そのような授業は、何も意味がありません。思考のトレーニングにもなりませんし、正義という幻想が存在するということを教えてしまうことにもなります。/だから、大学受験は必要ないのです。(P.172)
【諸悪の根源は、大学入試である。精神的にも経済面でも。】

「まとめ」から
法律で決めた正義は妥協の産物
正義という言葉を使う人を疑う
正義の裏側には、必ず権力者がいる
宗教は、洗脳のツールとして利用されてきた
正義は「法のもとの平等」と言える
アメリカの正義は、お金で決められている
権力が集中すると、必ず利権が生まれる
勝ち負けには価値がない
「正しい」という言葉を使うのは正しくない
他人に間違いを指摘してはいけない
正義は世論で決まってしまう
メディアが世論をコントロールしている
「正義」を「利権」に置き換えて考える
テレビを見ない
ツイッターやフェイスブックも洗脳のツール

265イヴ:2014/03/27(木) 17:14:46
『メイちゃんの執事』
[宮城理子]「マーガレット」(集英社)
この作品は、私が一番大好きな漫画です♪

一度ドラマ化もされて、御存じの方もいらっしゃると思います。でも、やっぱり放送の関係上などで原作と違う所もあるので、ぜひ一度この漫画を読んで見てください!
少女漫画だけあって、胸がキュンキュンしちゃうような恋が描かれています。
今恋してる人も、してない人も胸キュンなラブストーリーです


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