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仏教大学講座講義集に学ぶ     【 “宝塔”の意義について 】

1美髯公:2013/11/17(日) 20:36:19

 【仏教大学講座】は
  昭和四十八年は「教学の年」と銘打たれ、学会教学の本格的な振興を図っていく重要な時と言う命題の基に開設された講座です。

 設立趣旨は
  ①日蓮大聖人の教学の学問体系化を図る。
  ②仏法哲理を時代精神まで高めていくための人材育成をする。
  ③現代の人文・自然・生命科学などの広い視野から仏法哲学への正しい認識を深める
  等

 期間は一年、毎週土曜(18:00〜21:15)開座、人員は五十名、会場は創価学会東京文化会館(実際は信濃町の学会別館って同じ所?)

 昭和五十二年度の五期生からは、従来方式から集中研修講義方式に変わり期間は八日間で終了と言う事になる。

  そして、それらの講義を纏めたものがとして「仏教大学講座講義集」として昭和50年から54年に渡って全十冊になって販売されました。
 その中から、御書講義部分を中心に掲載していきたいと思っております。
 個人的には、この昭和48年から昭和52年の間が、一番学会教学の花開いた時機だと思っております。

 なお、よくよく考えた結果、講義担当者名は非転載といたします。
 各講義に於いては、概論・概要でしか講義されておりませんので、あくまでも個々人の勉学の為の一助的な役割しか果たしておりませんので
 その辺りの事を銘記して、各人それぞれ各講義録で精細に学んでいって下さればと思います。
 今回の【 “宝塔”の意義について 】は、講義集の第八集に掲載されております。

2美髯公:2013/11/17(日) 20:39:10

                            = 一、はじめに =

  前回と重複する部分もあるが、まず宝塔及び宝塔品の概要を経文に添って述べておこう。
 法華経見宝塔品第十一では、冒頭から「爾の時に仏前に七宝の塔あり」と、高さ五百由旬の七宝の塔が大地より涌出し、虚空にかかった事が説かれている。
 そして、その宝塔の中に釈迦・多宝の二仏が並座し十方分身の諸仏をはじめ、迹化他方の大菩薩・二乗・人天の大衆が連なって、実に不思議かつ荘厳な
 虚空会の儀式が展開されるのである。まず、この宝塔には東方の宝浄世界から来た多宝如来が中にいて大音声を発して次のようにいう。
 「善い哉善い哉釈迦牟尼世尊、能く平等大慧、教菩薩法、仏所護念の妙法蓮華経を以って、大衆の為に説きたもう。是の如し、是の如し。釈迦牟尼世尊、
 所説の如きは、皆是れ真実なり」
 
 すなわち、釈尊がこれまで説いてきた法華経の教えは、皆真実であると証明したのである。一座の大衆は、虚空にかかった七宝の塔といい、その宝塔の
 中から発せられた大音声といい、まさしく未曾有の出来事であると驚き、歓喜し、立ち上がって恭敬合掌した。その時、大衆の心を代表して大楽説菩薩が
 宝塔涌現の因縁を釈尊に問う。その願いに応じて釈尊は三変土田を行い、十方分身の諸仏を結集した後、自ら座を立って虚空に住し宝塔を開く。
 そして、有名な二仏並座の儀式に入る。経文では、次のように述べている。
 「爾の時に多宝仏、宝塔の中に於いて、半座を分かち、釈迦牟尼仏に与えて、是の言を作したまわく、
  釈迦牟尼仏、此の座に就きたもうべし。
  即時に釈迦牟尼仏、その塔中に入り、其の半座に坐して、結跏趺坐したもう」

 次いで、釈尊は一座の大衆をも神通力をもって虚空に引き上げ、ここに宝塔品の儀式が整って、いよいよ「三箇の勅宣」の説法に入るのである。
 三箇の勅宣とは、釈尊が一座大衆に向かって滅後の法華弘通を三度にわたって勧め命じた事をいうが、経文を挙げれば次の通りである。
 「 ― 大音声を以って、普く四衆に告げたまわく、誰か能く此の娑婆国土に於いて、広く妙法華経を説かん。今正しく是れ時なり。如来久しからずして、
  当に涅槃に入るべし、仏此の妙法華経を以って付嘱して在ること有らしめんと欲す」

3美髯公:2013/11/18(月) 21:41:54

 以上が第一の勅宣の文である。この中の「付嘱して在ること有らしめん」について、天台大師は二意ありとして、次のように述べている(法華文句巻八下)。
 「一に近く在ること有らしむとは、八万二万の旧住の菩薩に付して此土に弘宣せしむるなり。二に遠く在ること有らしむとは、本の弟子下方千界微塵に
 付して、触処に流通せしむるなり」
 すなわち、第一に迹化の菩薩に付嘱してこの娑婆世界に弘宣せしめ、第二に本化地涌の菩薩に付嘱して本縁の国土に流通せしめる、というように二意ありと
 しているのである。もとより、本意は第二にあり、従って天台は「寿量を発起するなり」と釈し、この宝塔品は法華経如来寿量品第十六を説き起こすための
 用意であるととしたのである。

  次に第二の勅宣の文は、
 「爾の時に世尊、重ねて此の義を宣べんと欲して、偈を説いて言わく」から「諸の大衆に告ぐ 我が滅度の後に誰か能く 斯の経を護持し読誦せん 今仏前に
 於いて 自ら誓言を説け」に至る個所である。
  第三の勅宣の文は、
 「多宝如来 および我が身 集むる所の化仏 当に此の意を知るべし」から「諸の善男子 我が滅後に於いて 誰か能く 此の経を受持し読誦せん 今仏前に
 於いて 自ら誓言を説け」に至る個所である。この第三の勅宣の文の中に、有名な「六難九易」の譬えが説かれている。これは滅後に於いて法華経を
 受持する事の難しさを、六難と九易を対比させる事によって浮かび上がらせたものである。ちなみに列挙すると、次の通りである。

4美髯公:2013/11/24(日) 22:21:31

  まず九易を挙げると、
 ①余経説法易・・・法華経以外の無数の経を説く事は易しい
 ②須弥擲置易・・・須弥山を接って他方の無数の仏土に擲げ置く事は易しい
 ③世界足擲易・・・足の指で大千世界を動かして遠く他国に擲げる事は易しい
 ④有頂説法易・・・有頂天に立って無量の余経を演説する事は易しい
 ⑤把空遊行易・・・手に虚空・大空を把って遊行する事は易しい
 ⑥足地昇天易・・・大地を足の甲の上に置いて梵天に昇る事は易しい
 ⑦大火不焼易・・・枯草を背負って大火に入っても焼けない事は易しい
 ⑧広説得通易・・・八万四千の法門を演説して聴者に六通を得させる事は易しい
 ⑨大衆羅漢易・・・無量の大衆に阿羅漢位を得させて、六神通をそなえさせる事は易しい

 以上が九易であるが、いずれも実現不可能な難事であるように思われる。しかし、そうした難事よりも滅後の法華弘通は更に難事であるとして、六難を
 挙げている。
 六難は次の通り、
 ①広説此経難・・・仏の滅後に悪世の中で法華経を説く事は難しい
 ②書持此経難・・・仏の滅後に法華経を書き、あるいは人に書かせる事は難しい
 ③暫読此経難・・・仏の滅後に悪世の中でしばらくでも法華経を読む事は難しい
 ④少説此経難・・・仏の滅後に一人のためにも法華経を説く事は難しい
 ⑤聴受此経難・・・仏の滅後に法華経を聴受してその義趣を質問する事は難しい
 ⑥受持此経難・・・仏の滅後によく法華経を受持する事は難しい

 以上のように滅後における法華弘通は難事中の難事である事を明言しつつ、三箇の勅宣が行なわれるのである。そして後に「此の経は持ち難し 若し暫くも
 持つ者は 我即ち歓喜す 諸仏も亦然なり」等々と、その難事を越えてよく滅後に法華弘通に耐えうる者を、大いに称賛し、宝塔品は終わっている。

5美髯公:2013/11/26(火) 22:40:49

                             = 二、大御本尊こそ宝塔 =

  それにしても、宝塔の涌現といい、三世十方分身の諸仏の来集といい、六難九易を含む三箇の勅宣といい、この宝塔品には実に不可思議な事ばかりが
 説かれている。いずれも我等凡愚の理解と想像を越えるものばかりだが、いったい釈尊は、ここで何を説こうとしたのだろうか。その真意が分からなければ、
 それがいかに壮大な構想力を持っているとはいえ、現代風にいえば単なる未来空想小説に過ぎなくなってしまう。

  実は宝塔品は、時空を越えた広大深遠な生命のドラマであった。しかもそれは、現実の真っ只中に展開されるドラマなのである。すなわち、かの宝塔は
 仏法の奥底からみるならば、我々衆生の生命に冥伏している仏界を表そうとしたものに他ならない。我々が想像もつかない偉大な仏界の生命が、我が己心に
 涌現する事を、説き明かそうとしたものなのである。虚空とは、まさしく宇宙生命の縮図たる我等が己心を指している。我等衆生の心地である無明の大地から
 仏界が踊出するさまを、釈尊は力説しているのである。

 同品に、この宝塔は法華経を持ち説かれるところ、いつ、どこであっても涌現するとあるが、その意味においてまさしく現実に涌現するのである。
 だが、滅後において法華経を受持し説くといっても、それは至難の業であると知らねばならない。三箇の勅宣が示す通りである。つまり、六難九易という
 難事中の難事を行じうる法華経の行者の出現がなければ、宝塔を打ち立てる事は出来ないのである。ここに、我々は日蓮大聖人の存在の、唯一絶対なるを
 知るのである。結論からしていうなれば、滅後において六難九易という想像を絶する苦難を忍ばれて、一閻浮提総与の大御本尊を建立されたその事実を
 もってはじめて、宝塔は厳然と我々の眼前に蘇ってくるのである。日蓮大聖人は、あの荘厳な宝塔の儀式を借りて、御本仏としての生命を大御本尊という
 一幅の曼荼羅に認められた。この大御本尊を受持し境智冥合しゆく時、我等が己心に妙法華経の宝塔が、事実の上で涌現するのである。従って、宝塔品は
 大聖人の出現を得て初めて、その実の姿を顕わすところとなる。同時にまた、大聖人にとっても、宝塔品は極めて重要な法門の一つとなっている。

6美髯公:2013/12/01(日) 00:38:35

  佐渡ご流罪中に著わされた人本尊開顕の重書である「開目抄」には、特に六難九易を中心とした三箇の勅宣に当たる部分からの引用が数多くみられる。
 例えば、
 「当世・日本国に第一に富める者は日蓮なるべし (中略) 大海の主となれば諸の河神・皆したがう須弥山の王に諸の山神したがはざるべしや、法華経の
 六難九易を弁うれば一切経よまざるにしたがうべし」(P.223 ②)
 あるいは、
 「日本国に此をしれる者は但日蓮一人なり。これを一言も申し出すならば (中略)、 三障四魔必ず競い起こるべしと・しりぬ、(中略) 宝塔品の六難九易は
 これなり」(P.200 ⑨)

  大聖人ご在世当時は、権実雑乱の時代であった。そこで大聖人の当面の課題は、諸宗に執着していた当時の人人をして法華誹謗こそが堕地獄の原因であり、
 社会の混乱の要因である事を知らしめることにあった。だが、そのことを一言でも言い出せば三障四魔が紛然として競い起こる。「父母・兄弟・師匠に
 国主の王難必ず来るべし」(P.200 ⑪) である。すなわち、六難九易の経文通りの苦難を忍ばねばならない。だが大聖人は、その苦難を「今度・強盛の
 菩提心を・おこして退転せじと願しぬ」(P.200 ⑯) と、敢然と受けて立たれたのである。なぜか。末法万年に渡る一切衆生のために宝塔を打ち立てんとの、
 大慈大悲の決意を固めておられたからに他ならない。だからこそ「日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲の
 すぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし」(P.202 ⑧) と言明されているのである。

 いわば日蓮大聖人お一人のみが宝塔建立の当事者であらせられ、従って「日本国に第一に富める者」と確信され「一切経よまざるにしたがうべし」との
 御境地に立たれたと拝せる。すなわち、御自身の法華流布の故の激闘の生涯を一つ一つ経文と照らし合わされ、それが見事に符合する事実をもって、
 大聖人は末法の御本仏たる大確信に立たれるに至るのである。宝塔品は、まさしく滅後末法を正意として説かれたのであった。そして、大聖人の出現を
 以って、その一文一文が虚妄でなかった事が実証されたのである。先に述べた通り、六難九易の上に初めて宝塔が打ち立てられるのであるから、
 当然宝塔の儀式そのものもまた、滅後末法を正意として説かれた事になる。それは、いうまでもなく大聖人による本門戒壇の大御本尊建立に繋がって
 行くのであるが、その前に宝塔涌現のもつ意義について、少しみておこう。

7美髯公:2013/12/03(火) 21:58:29

                          = 三、“証前の宝塔”と“起後の宝塔” =

  まず“証前の宝塔”と“起後の宝塔”について。これは天台の大師の釈であるが、いう処の証前とは宝浄世界から来た多宝如来が三周の説法、すなわち
 迹門を真実なりと証明する事であり、起後とは後の本門、なかんずく寿量品を説く起こりになる事をいう。法華文句巻八下に「此塔は正しく前を証し後を
 請せんが為めに地より涌出す」とある。更に証前については「三周の説法は皆是真実なるを証す」とあり、起後については「若し塔を開せんと欲せば、
 須く分身を集め玄を明かして付嘱すべし、声は下方に徹し、本の弟子を召して寿量を論ず」とある。
 
 大聖人は「阿仏房御書」で、この証前起後について、次のように述べられている。
 「天台大師文句の八に釈し給いし時・証前起後の二重の宝塔あり、証前は迹門・起後は本門なり或は又閉塔は迹門・開塔は本門」(P.1304 ④)と。
 多宝如来が宝塔の中から「皆是真実」と大音声を発した時は、まだ塔は閉じられたままであった。その後、三変土田を行ない十方分身の諸仏を結集し、
 釈尊、自ら座より起って虚空に住し塔を開くのである。経文を挙げると「是に釈迦牟尼仏、右の指を以って七宝塔の戸を開きたもう、大音声を出すこと、
 関鑰を劫けて大城の門を開くが如し」の個所である。

  さて、証前の宝塔において迹門を真実なりと多宝が証明したことは、どういう事を意味しているのか。所詮は、三周の声聞が法華経に来って、はじめて
 己心の宝塔を見るという事だと、大聖人は示されている。すなわち、爾前の経において永不成仏と弾呵され続けてきた二乗の衆生が、法華経に至って
 自身の生命の中に宝塔という仏界の生命を涌現させた事を意味していると仰せなのである。本来、二乗の衆生は小乗経の空論・無常観に迷い込んで、
 自身の内部の煩悩を滅する事のみに囚われ、仏の大乗の智慧を知ろうとしなかった衆生である。また仏法を他に向かって説いてはきたが、自ずからの生命に
 実践する事のなかった衆生である。そうした二乗の生命の傾向生を察知した釈尊は、二乗を不作仏と弾呵せざるを得なかったのである。

8美髯公:2013/12/15(日) 21:29:38

 つまり、仏法の究極の目的が成仏という最高の幸福境涯の確立にあることを知らず、従って成仏したいと思わなかった二乗は、仏法を己心の外に
 行ずるばかりで、自身の生命変革・一生成仏への実践が欠けていたわけである。その二乗が、法華経に於いて成仏の記別を受ける。これを信解品では
 「無量宝聚 不求自得」― すなわち無量の宝聚を求めずして自ずから得たり、と説いているのである。このように二乗の衆生もまた、我が己心に宝塔を
 涌現させる事ができたのである。これが“証前の宝塔”の元意である。

  考えてみれば、我々もまた「無量宝聚 不求自得」の歓びを感じぜざるを得ないのである。たとえば病気を治したい一心で御本尊を持った人もいるだろう。
 あるいは経済苦を解決したい一心で信心を始めた人もいるだろう。それぞれ身近な悩みを機縁にして御本尊を受持したに違いない。しかし、御本尊に縁し
 題目を唱えていく事によって、おうした身近な悩みは解決することはもちろんの事として、実は自分でも想像していなかった無上の境涯を求めずして自得
 できたのである。従って大聖人は「今日蓮が弟子檀那又又かくのごとし」(P.1304 ⑥) と仰せになっているのである。ここで留意しておきたいことは、
 仏法を我が生命に行じ実践しているかどうかである。たとえどのような深い学識があったとしても、自身の生命を変革していこうという信心の根本姿勢が
 なければ、成仏は思いもよらないという事である。

  有名な「一生成仏抄」の一節に「仏教を習ふといへども心性を観ざれば全く生死を離るる事なきなり」(P.383 ⑩) とある。ここにいう「心性を観ずる」とは、
 末法今時においては“受持即観心”で、御本尊に向かって題目を唱える事に他ならないが、その修行を通して我が己心の中にこそ妙法蓮華経という宝塔が
 涌現すると確信する事が大事である。同じく「阿仏房御書」に「末法に入って法華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり」(P.1304 ⑥) と
 仰せの通りである。

9美髯公:2014/01/03(金) 21:14:15

  次に“起後の宝塔”とは何か。結論をいえば「これ寿量品の遠序なり」(P.211 ①) とあるように、如来寿量品第十六を説き起こす遠序である事は、先に
 述べた。ところで、これは“開塔”の段であるが、塔を開くに当たって十方分身の諸仏が結集する。すなわち、釈迦・多宝の二仏並座に加えて、
 この分身諸仏の来集をもって“開塔”が可能となるわけであるが、それはまさしく令法久住のためであると経文には説かれている。「三仏の未来に法華経を
 弘めて未来の一切の仏子にあたえんと・・・・」(P.236 ⑰) ― すなわち御本尊を信受する者のために“開塔”したというのである。令法久住のためには
 三世十方の分身諸仏の来集が必要であった。いうまでもなく付嘱の対象であるからである。釈迦・多宝の二仏、および三世十方の諸仏は、それぞれ法報応の
 三身を顕している。多宝が法身、釈尊が報身、そして分身諸仏が応身を示している。この三身が一身に具足した姿がなければ、仏の全体像は顕れない。

  日蓮大聖人は、久遠元初の本有無作三身如来の当体として、末法にご出現になった。従って、この大聖人のご出現がなければ、仏法は事実の上で
 広まらないのである。この久遠元初の本有無作三身如来は、本門寿量品の文底に至って初めて説き明かされるのであるが、この宝塔品においてその一端に
 触れている事が、釈迦・多宝の二仏並座、十方分身の諸仏の来集の姿からうかがい知る事ができる。

  本門に至って従地涌出品第十五で、釈尊は本化地涌の菩薩を召し出した。そして釈尊の仏法の要中の要たる寿量品を説き起こしたのである。天台大師が
 「本の弟子を召して寿量を論ず」としているのは、このことである。とまれ“起後の宝塔”は滅後の令法久住を本意として説かれたものであり、寿量品の
 遠序と位置づけられるのである。

11美髯公:2014/01/04(土) 21:37:03

                              = 四、此経難持について =

  かくして、釈迦・多宝の二仏が並座し、さらに十方分身の諸仏が来集し、迹化他方の大菩薩・二乗・人天の大衆が連なり、後の本門の儀式をもってすれば
 六万恒河沙の菩薩も涌現する ― 大聖人は、この荘厳な儀式を借りて大御本尊を御図顕遊ばされたのである。「あまりに・ありがたく候へば宝塔をかきあらわし・
 まいらせ候ぞ」(P.1304 ⑬) と述べられている通りである。そして、その大御本尊を持ち題目を唱える我々の己心に涌現する宝塔というのもまた、かくも
 荘厳なものであると確信したい。題号の「見宝塔品」の“見”とは、まさしくそうした我が生命の荘厳な儀式を見る事に他ならない。また“見る”とは、
 我々にとっては信心の事である。信心によって、己心の宝塔の涌現を見るのである。

  「釈迦一代五時継図」の中で、大聖人は宝塔品の最後の文を引かれて、我々御本尊を受持した者の立場を次のように述べられている。「宝塔品に云く『此は
 経は持ち難し若し暫くも持つ者は我則ち歓喜す諸仏も亦燃なり、是の如き人は諸仏の歎め給う所なり是則ち勇猛なり是則ち精進なり是を戒を持ち頭陀を
 行ずる者と名く、則ち疾く無上の仏道を得と為す能く来世に於て此の経を読み持たんは是真の仏子なり』云云」(P.644 ⑰) と。我々は、この持ち難き
 末法の法華経たる寿量文底の南無妙法蓮華経を持つ事ができた。「若し暫くも持つ者は」とは、我々の立場でいえば御本尊を信受し題目を唱えていく者は、
 ということになる。その人は「我」すなわち釈尊が歓喜する。諸仏も歓喜する。全宇宙の諸仏が、ことごとく歓喜するというのである。

12美髯公:2014/01/05(日) 22:07:14

 我々の日々の勤行・唱題は、それほど厳然たる座であると確信すべきである。「是則ち勇猛なり是則ち精進なり」と。ここにいう勇猛精進とは信心唱題で
 ある。勇猛とは精進。「敢で為すを勇と言い智を竭すを猛と言う」― つまり勇敢にして信心に励み尽くすを勇猛というのである。また精進の「精」とは
 無雑、「進」とは無間の謂である。余事を雑(まじ) えず、御本尊を信じて専ら題目を唱え抜く事が精進なのである。このように信心強盛にして妙法弘通に
 邁進する人を、諸仏は賛嘆するのである。

  そして、御本尊を受持する事自体が、実は戒を持ち頭陀行を行ずる事にもなる。戒とは、「防非止悪」の義である。つまり身口意にわたる悪業を断じ、
 一切の不善を禁制する事をいう。また頭陀行とは、身心を修練して衣・食・住に関する貧欲などを払い除く修行で十二種あるとされている。もともと戒とは、
 仏教教団における初期の頃に定められた規範であるが、今日でいえば自己規制と考えてよいだろう。また、末法に於ける唯一の戒は、金剛宝器戒という
 戒である。これは御本尊をひとたび持ったならば、その生命は絶対に壊されない、すなわち受持しきるという戒である。「教行証御書」に「此の具足の妙戒は
 一度持って後・行者破らんとすれど破れず是を金剛宝器戒とや申しけん」(P.1282 ⑪) と。しかも、この戒は「妙法蓮華経は三世の諸仏の万行万善の功徳を
 集めて五字と為せりこの五字の内に豈万戒の功徳を納めざらんや」(P.1282 ⑩) とあるように、御本尊を受持しきるという事の中に、一切の万行万善を
 修せずとも、その功徳が全て納まっているのである。

13美髯公:2014/01/07(火) 21:24:57

                          = 五、「御義口伝」にみる宝塔の意義 =

  次に、日蓮大聖人の「御義口伝」の文によって、宝塔及び宝塔品の意義について、若干触れておきたい。まず「譬喩品九箇の大事」の中の
 「第七 以譬喩得解の事」に次のようにある。「我等衆生の五体五輪妙法蓮華経と浮び出でたる間宝塔品を以て鏡と習うなり、信謗の浮び様能く能く之を
 案ず可し自浮自影とは南無妙法蓮華経是なり云云」(P.724 ⑨)
 ここで五体とは、両手両足、そして頭。五輪とは地輪、水輪、火輪、風輪、空輪、いずれも我々の身体をあらわす。すなわち、我々のこの身体が妙法蓮華経の
 当体であり、その我等衆生の生命を照らし出す鏡こそ、宝塔品の儀式を借りて事実の上に御図顕遊ばされた大御本尊なのである。信ずるにしろ誹謗するにしろ、
 その結果それぞれどういう現象が顕われるかという事は、この鏡によって分かるのである。結論するに、自らの影を自ら浮べる鏡とは南無妙法蓮華経の
 事だと心得べきだと仰せなのである。従って「宝塔品を以て鏡と習うなり」の宝塔とは御本尊と読むべきであり、明鏡の中の明鏡こそ御本尊なのである。

  宝塔を御本尊と読む事については、戸田前会長の『開目抄講義』の下巻に明快に示されている。前回の時にも引用して述べたが、今一度確認のために
 再録しておきたい。
 「迹門の流通分たる宝塔品において、多宝塔が虚空にたち、釈迦・多宝の二仏が宝塔の中に並座し、十方分身の諸仏、迹化他方の大菩薩・二乗・人天等が
 これに連なる、所謂、虚空会の儀式が説かれている。これは一面から考えればはなはだ非科学的のように思われるが、仏法の奥底よりこれを見るならば、
 きわめて自然の儀式である。もし、これを疑うならば序品の時にすでに大不思議がある。数十万の菩薩や声聞や十界の衆生が悉く集まって釈迦仏の説法を
 聞くようになっているが、スピ−カ−もなければ、またそんな大きな声が出るわけがない。しかして八年間も、それが続けられるわけがない。

 すなわちこれは釈尊己心の衆生であり、釈尊己心の十界であるから、何十万集まったと言っても不思議ではないのである。されば宝塔品の儀式も観心の
 上に展開された儀式である。我々の生命には仏界という大不思議の生命が冥伏している。この生命の力および状態は、想像も及ばなければ筆舌にも尽くせない。
 しかし、これを我々の生命体の上に具現することはできる。現実に我々の生命それ自体も冥伏せる仏界を具現できるのだと説き示したのが、この宝塔品の
 儀式である。即ち釈尊は宝塔の儀式をもって、己心の十界互具、一念三千を表しているのである。日蓮大聖人は同じく宝塔の儀式を借りて、寿量文底下種の
 法門を一幅の御本尊として建立されたのである。されば御本尊は釈迦仏の宝塔の儀式を借りてこそおれ、大聖人己心の十界互具一念三千 ― 本仏の御生命
 である」

14美髯公:2015/05/18(月) 19:06:57
 
 さらにいえば、日蓮大聖人は「阿仏房御書」の中で「妙法蓮華経より外に宝塔なきなり法華経の題目・宝塔なり宝塔また南無妙法蓮華経なり」(P.1304 ⑧) と
 述べられている。以上のように、宝塔とはまさしく大聖人ご図顕の大御本尊と拝すべき事は明白である。また「自浮自影の鏡」については、伝教大師の
 「修禅寺決」にあるが、鏡が森羅万象をその鏡面に映し出すように、一心に十界三千を現ずる天台大師の観心観法を譬えたものである。我々にとっては、
 一心とは信心の一心であり、すなわち御本尊を信じる事によって自分自身の生命が映し出され、そこに仏界が涌現する事を表わしているのである。

15美髯公:2015/05/19(火) 23:34:31

  次に「宝塔品二十箇の大事」に入っていきたい。「第三 四面皆出の事」(P.740 ②) に「御義口伝に云く四面とは生老病死なり四相を以て我等が一身の
 塔を荘厳するなり」と説かれている。
 宝塔品には、宝塔の相を明かして「四面に皆、多摩羅跋栴檀の香を出して、世界に充徧せり」と説いてある。この四面とは、我等が生老病死の四相であると
 仰せなのである。本来、生老病死とは人間生命の根源的な苦悩である。その苦悩をもって「我等が一身の塔」すなわち自身の生命を荘厳するとは
 一体どういう事なのか。

 たとえば病気。我々が病気故に御本尊を持ち、自らの生命を開拓し、宿命転換ができたとする。そして妙法の仏力・法力を我が身の上に実証しゆく事は、
 まさしく我が生命を荘厳したことになる。「このやまひは仏の御はからひか・そのゆへは浄名経・涅槃経には病ある人仏になるべきよしとかれて候、
 病によりて道心はをこり候なり」(「妙心尼御前御返事」 P.1480 ①) と述べられている通りである。また死についていえば、大聖人が御本尊を顕される
 機縁になった熱原の法難に際し、神四郎、弥五郎、弥六郎の三人の農民が不惜身命の信心を貫いて首をはねられた。たとえ無名の庶民の死であったとしても、
 彼等の名は“熱原の三烈士”として、七百年後の今日に至るまで日本国中、否全世界に語り継がれている。死が一身を荘厳したのである。

 このように、生きる事、老いる事、病気で苦しむ事、そして死という最大の苦悩さえもが自身の生命を荘厳していく事になる。そこに南無妙法蓮華経の
 偉大な功徳力がある。「我等が生老病死に南無妙法蓮華経と唱え奉るは併ら四徳の香を吹くなり」(P.740 ③) とは、その原理をいわれているのである。
 四徳とは、常楽我浄である。常とは、三世にわたって永遠に連続して不滅である事。楽とは、生死、煩悩の苦を明らかに見つめ、それを即、涅槃、菩提の
 楽にしていく事。我とは、仏という無上の我が宇宙に遍満している事。浄とは、染法を離れ、浄法にして鏡の如く清浄な事をいう。我々の生老病死という
 四相それ自体が、ありとあらゆる人々にこの四徳の薫風を与えていく。「四面に皆、多摩羅跋栴檀の香を出して」とは、そうした四徳の香りを表している
 だと、大聖人は仰せなのである。

16美髯公:2015/05/20(水) 23:59:50

 さらに「南無とは楽波羅蜜・妙法とは我波羅蜜・蓮華とは浄波羅蜜・経とは常波羅蜜」と。すなわち、我々が大御本尊に帰命し奉り、南無妙法蓮華経を
 唱え南無妙法蓮華経に生き抜く事が真実の安楽であり、楽波羅蜜となる。また「妙法とは我波羅蜜」― 我々の生命の中には我というものが厳然と存在する。
 その我を妙法の当体として輝かして行くという事である。「蓮華とは浄波羅蜜」― 蓮華の特質の一つは、如蓮華在水といって、泥沼の中に華を咲かせる。
 いかなる世界であれ、どんな時代であれ、自分自身が最高の清浄な生き方が出来るという意味である。最後の「経とは常波羅蜜」― “三世常恒なるを経と
 いう”とある通り、自分自身の生命が永遠に続いて行くという事を示している。従って、南無妙法蓮華経と唱える事が、すなわち四徳を我が身に輝かせて
 いくことになるのである。

17美髯公:2015/05/22(金) 00:18:26

  「第五 見大宝塔住在空中の事」(P.740 ⑪) には、次のように述べられている。
 「御義口伝に云く見大宝塔とは我等が一身なり住在空中とは我等衆生終に滅に帰する事なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉りて信心に住する処が
  住在空中なり虚空会に住するなり」
 宝塔が空中に住したとは、いったい何を表しているのか。まず大聖人は、この「見大宝塔」とは宝塔が一身の事であり、「住在空中」とはその我等の一身が
 滅に帰す、すなわち大宇宙に帰していく事であるといわれている。そして南無妙法蓮華経と唱え奉り信心に励む我々が住する処が「住在空中」であり、
 虚空会であると結論づけられている。

 ここで大聖人が示されようとしているのは色心不二、生死不二の理法である。見大宝塔とは色法 (健全なる身体) であり、住在空中とは心法 (価値創造しゆく
 知恵、精神) である。また、その色心不二、生死不二の当体として生命が永遠である事を明かされている。所詮、信心の一念とは、我が胸中を指す以外にない。
 それを住在空中、あるいは虚空会と説いているのである。従って我等が空中に住するとは、まさしく御本尊を信受し題目を唱える事によって絶対に
 崩される事のない永遠の幸福境涯に住する事をいうのである。また、宝塔品では一座大衆をも釈尊が神通力をもって虚空に引き上げ事が説かれているが、
 これも我々衆生の滅の相、すなわち死の相を表している。つまり、我々の生命は永遠にこの生と死を繰り返す。この生死の当体である生命そのものを
 変革する事によって、生死を即涅槃と転ずる事ができるとも仰せである (「第十一 摂諸大衆皆在虚空の事」) 。

  考えてみれば、七宝に飾られた宝塔が大地から涌現し虚空にかかったという宝塔涌現、そしてその後に展開される虚空会の儀式とは、まさしく我々の
 生命が生と顕われ、死と顕われ、その生死の相を永遠に繰り返していく、実にダイナミズムを説き起こそうとしたものといってよいだろう。
 しかも、もう一重立ち入って見るならば、その生死の苦海に沈む我々の生命を、いかにして即涅槃と開覚せしむるか ― その大転換のドラマをも暗示して
 いるのである。大聖人は「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は生死即涅槃と開覚するのを皆在虚空と説くなり生死即涅槃と被摂するなり」 
 (P.742 ②) と仰せである。すでに、虚空会の儀式を借りて、大聖人は大御本尊を御図顕された事をみてきた。恐らく大聖人の御心中は、一切衆生が
 この大御本尊を生命の大回転軸として、生死の苦海から永遠不滅の絶対的な幸福境涯に自在に遊戯する人間革命の壮大なドラマを、事実の上に読み取られて
 いたのではないかと拝せられるのである。

18美髯公:2015/05/23(土) 00:17:22

  次に「第八 南西北方四惟上下の事」は、宝塔品において釈尊が白毫相の光を放って四方十方を照らせば、その光の届く所、いたるところで十方分身の
 諸仏が説法している様子が浮かび上がったという個所についての御義口伝である。
 大聖人は、この十方とは十界を顕わしていると仰せである。しかし、白毫相の光とは十界の衆生が共に具えている貪・瞋・癡の三毒の光であると仰せである。
 そして、この三毒の光を「一心中道の智慧」というと結論づけられている。十界の衆生が等しく具えている三毒とは、実は白毫相の光であったというので
 ある。貪(むさぼ)り・瞋(いか)り・癡(おろか) ― この三毒が、なぜ白毫の光となるのか。それが十界の生命の本有の力用だからである。
 
 すなわち、我が身の三毒を転じていく以外に真実の幸福生活はありえないのである。そして、我が生命の三毒と真正面から取り組む以外に、自身の変革は
 ありえないと決定し、信心に励む所にこそ、一心中道の智慧が顕われてくるのである。従って、一心中道の智慧とは煩悩・豪・苦の三道を、法身・般若・
 解脱の三徳と転ずる信心の一心の事である。我々が南無妙法蓮華経に生ききる時に「十界同時の光指す」― つまり十界のそれぞれが、その当体を改める
 事なしに妙法の当体として輝き渡る生活に入る事ができると仰せなのである。

19美髯公:2015/05/23(土) 23:33:29

  次に「第十四 此経難持の事」(P.742 ⑮) に触れておきたい。これは「此の経は持ち難し」についての御義口伝であるが、これは我々の信心に於ける
 根本姿勢であると心得ておきたい。大聖人は「此の法華経を持つ者は難に遇わんと心得て持つなり」と仰せである。これを結論していうならば、受けるべき難を
 受けずして成仏はありえない、との御指南なのである。「教行証御書」に「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」(P.1282 ②) と、我々の信心の根本姿勢を
 戒められているのは、それ故である。すなわち、我々凡夫が自身の胸中に仏界を涌現しゆくには、難を受けるという厳しい戦いがなければならない。
 難を受ける事によって自身の生命が磨かれ、我が己心の仏界が現じてくる。これは仏法の厳然たる方程式なのである。

 他の御義口伝では「難来るを以て安楽と意得可きなり」(P.750 ②) と仰せである。また「受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり、此の経を
 持たん人は難に値うべしと心得て持つなり、『則為疾得・無上仏道』は疑なし」(P.1136 ⑤) とも仰せである。このご教示から、ひるがえって我々の信心の
 姿勢を考える時、勇気という特質が何にも増して重要になってくると思われる。我々自身の生命の淵源を直視し、そこに刻み込まれた宿命と対決し、成仏の
 実証を示して行くためには、いかなる苦難に直面しようともそれを敢然と乗り越えて行く勇気ある信心、実践が不可欠の要素であるからだ。
 
 我々はその根本姿勢を、大聖人の御生涯から学ぶ事ができる。「一生空しく過ごして万歳悔ゆること勿れ」(P.970 ⑭) ― これは大聖人ご自身の激闘の
 生涯の中で、身をもって会得された信心の精髄から発したご教示であると拝せる。いずれにしても、難を乗り越える勇気がなければ信心の本当の醍醐味は
 味わえないし、また、仏法の真意も到底理解できるものではないと知りたい。従って、我々は信心の根本姿勢の核心に“勇気”を置き、そこから発する
 不動の人生を生き抜いて行きたいものである。

20美髯公:2015/05/24(日) 13:40:03

  戸田前会長は、よく次のような意味の指導をされていた。
 「仏法の本質は慈悲である。しかし我々凡夫には、慈悲といってもなかなかそれを実践できるものではない。それに代わるものは勇気である。勇気が慈悲に
 通じるのである」と。実際、苦悩に沈む一人の友を前にして、我々は何をなし得るか。彼の生命を揺り動かせる程の力強い激励の言葉を、どれほど用意
 できるだろうか。また絶望の淵にあってなお“さあ、頑張ろう”との一言を、どれほどの深い響きをもって発する事ができるだろうか。そう考えた時に、
 現実の闇が深ければ深いほど、苦悩の嵐が吹けば吹くほど、信心の確信に裏付けられた勇気という特質が、何にも増して大切になってくるのである。

 その勇気とは、また自身の宿命を直視し、それと真正面から対決するという方向へ向かうものでなくてはならない。人の常として、ともすれば自身の内面から
 目をそらし、外面を飾る事ばかりに気を奪われがちなものである。蔵の財、身の財より心の財第一 ― これは大聖人の御指南である。社会的な地位や財産、
 あるいは表面的な才知うぃいくら積んでも、内面の心の財を積まなければ砂上の楼閣にすぎないのである。要は、自身の生命に刻印された“一凶”を
 禁ずる勇気を持つ事である。自身が直面する苦悩の根源を見すえ、それに敢然と取り組む姿勢に、真剣な祈りも生まれてくる。その時はじめて一生成仏への
 第一歩を踏み出す事ができる。このように、真の勇気は決意を生み、その決意は信心を深めていく ― この繰り返しの中に一生成仏・人間革命という、
 我々の最高の人生の目的も達成されるのである。

  ともあれ、滅後末法において法華経を受持し弘通する事は難事中の難事である。そして、その仏法の方程式通り、大聖人は六難九易の実践の上に、
 大御本尊という宝塔を打ち立てられたのである。その事に思いを至すならば、大聖人の大慈大悲に心からの感謝の念を禁じ得ない。しかも「今日蓮等の
 類い南無妙法蓮華経と唱え奉る処を多宝涌現と云うなり」(P.741 ②) と。あるいは「日蓮が弟子檀那等・正直捨方便・不受余経一偈と無二に信ずる故に
 よって・此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなり・たのもし・たのもし」(P.1244 ⑬) とも仰せである。

21美髯公:2015/05/24(日) 21:16:50

  我々が御本尊を受持し唱題に励む姿が宝塔涌現であり、御本尊という宝塔に入る事になると仰せなのである。釈迦・多宝の二仏が並座し、三世十方の
 分身の諸仏が来集し、迹化他方の大菩薩・二乗・人天の大衆が連なった宝塔の儀式とは、まさしく大聖人御図顕の大御本尊の相貌であった。
 すなわち宝塔とは我々の生命を映し出す明鏡たる大御本尊そのものである。そして、御本尊を受持する我々の胸中にも、宝塔は涌現する。我々もまた
 大御本尊という宝塔の中に入って行く事ができるのである。これが宝塔の意義の根底である。
 以上、宝塔の意義について、大聖人の御書をたどりながら考えてきた。まだまだ深い意義が数多くあるが、今回はこの辺で終わる事にする。


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