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仏教大学講座講義集に学ぶ     【 “宝塔”の意義について 】

13美髯公:2014/01/07(火) 21:24:57

                          = 五、「御義口伝」にみる宝塔の意義 =

  次に、日蓮大聖人の「御義口伝」の文によって、宝塔及び宝塔品の意義について、若干触れておきたい。まず「譬喩品九箇の大事」の中の
 「第七 以譬喩得解の事」に次のようにある。「我等衆生の五体五輪妙法蓮華経と浮び出でたる間宝塔品を以て鏡と習うなり、信謗の浮び様能く能く之を
 案ず可し自浮自影とは南無妙法蓮華経是なり云云」(P.724 ⑨)
 ここで五体とは、両手両足、そして頭。五輪とは地輪、水輪、火輪、風輪、空輪、いずれも我々の身体をあらわす。すなわち、我々のこの身体が妙法蓮華経の
 当体であり、その我等衆生の生命を照らし出す鏡こそ、宝塔品の儀式を借りて事実の上に御図顕遊ばされた大御本尊なのである。信ずるにしろ誹謗するにしろ、
 その結果それぞれどういう現象が顕われるかという事は、この鏡によって分かるのである。結論するに、自らの影を自ら浮べる鏡とは南無妙法蓮華経の
 事だと心得べきだと仰せなのである。従って「宝塔品を以て鏡と習うなり」の宝塔とは御本尊と読むべきであり、明鏡の中の明鏡こそ御本尊なのである。

  宝塔を御本尊と読む事については、戸田前会長の『開目抄講義』の下巻に明快に示されている。前回の時にも引用して述べたが、今一度確認のために
 再録しておきたい。
 「迹門の流通分たる宝塔品において、多宝塔が虚空にたち、釈迦・多宝の二仏が宝塔の中に並座し、十方分身の諸仏、迹化他方の大菩薩・二乗・人天等が
 これに連なる、所謂、虚空会の儀式が説かれている。これは一面から考えればはなはだ非科学的のように思われるが、仏法の奥底よりこれを見るならば、
 きわめて自然の儀式である。もし、これを疑うならば序品の時にすでに大不思議がある。数十万の菩薩や声聞や十界の衆生が悉く集まって釈迦仏の説法を
 聞くようになっているが、スピ−カ−もなければ、またそんな大きな声が出るわけがない。しかして八年間も、それが続けられるわけがない。

 すなわちこれは釈尊己心の衆生であり、釈尊己心の十界であるから、何十万集まったと言っても不思議ではないのである。されば宝塔品の儀式も観心の
 上に展開された儀式である。我々の生命には仏界という大不思議の生命が冥伏している。この生命の力および状態は、想像も及ばなければ筆舌にも尽くせない。
 しかし、これを我々の生命体の上に具現することはできる。現実に我々の生命それ自体も冥伏せる仏界を具現できるのだと説き示したのが、この宝塔品の
 儀式である。即ち釈尊は宝塔の儀式をもって、己心の十界互具、一念三千を表しているのである。日蓮大聖人は同じく宝塔の儀式を借りて、寿量文底下種の
 法門を一幅の御本尊として建立されたのである。されば御本尊は釈迦仏の宝塔の儀式を借りてこそおれ、大聖人己心の十界互具一念三千 ― 本仏の御生命
 である」


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