- 1 :hiro-kobe☆ :2007/01/12(金) 21:47:39
- キャップテスト
- 19 :名無しさん :2007/04/02(月) 10:06:56
- 2006年02月03日 [近頃思うこと]
早春賦 明日は立春です。大寒から立春までが、日本では一年のうちで最も寒い季節です。ですから、立春を過ぎると少しずつ寒さが緩み始め、春の気配が忍び入ってくます。したがって、東洋では「立春から立夏まで」を「春」とします。でも、実際は、まだまだ寒い日が続きますね。ですから、「暦の上では、今日から春です。」という言い方をすることが多いですね。その頃に思わず歌いだす歌に、「早春賦」という歌があります。これは、歌詞が文語体ですが、なんとなくイメージがわきます。春の予感を感じます。作詞は、吉丸一昌という人です。彼は、大分県の下級武士の家に生まれ、苦学しながら大分中学、熊本の旧制五高に進みます。五高の教授には、夏目漱石、湯原元一、小泉八雲などがおり、特に夏目漱石との出会いは、のちの一昌の進路を決定づけています。卒業後は、東京帝国大学(現東京大学)の国文科へと進みました。この頃から一昌は『修養塾』と称して少年10名と生活を共にし、勉学から衣食住、就職にいたるまで世話をしたり、東京で丁稚奉公している地方出身の少年や中学に行けない少年のために下谷中等夜学校を開設するなど少年の育成に力を注いでいます。大学を卒業すると東京府立第三中学校(現両国高校)の教諭となり、芥川龍之介を教えています。そして、東京音楽学校(現東京芸大)の教授に招かれ、43歳という余りにも短い生涯を終えました。常に、義理と人情に厚く、常に貧しい人たちに温かい気持ちで接したそうです。作曲をした中田章は、以前にブログでも書いた、「証城寺の狸ばやし」をはじめとして、「夏の思いで」「めだかの学校」など数々の童謡を作曲した中田喜直のお父さんです。また、パイプオルガン奏者としても有名であったそうです。この早春賦は、子どもの頃に習って、歌詞がよくわからず、耳で覚えていて、文の切れ目や、意味を取り違えていた部分の多い曲の一つです。今になると、しみじみ、この歌詞を味わうことができます。また、自分なりの味わい方ができるようになりました。(本当の意味は、違うかもしれませんが) 1.春は名のみの 風の寒さや 谷の鶯(うぐいす) 歌は思えど 時にあらずと 声も立てず 時にあらずと 声も立てず ちょうど、今頃の風情ですね。暦の上では春になったといっても、まだまだ風が冷たく、寒く感じます。谷で冬を越した鶯が、春になって里に下りて、あの美しい声で春を告げようと思っています。しかし、まだ、風が冷たく、春にはもう少しだということで、まだその時ではないということで、鳴き出すのをやめて、声を潜めて、春をじっと待っている。という情景が目に浮かびます。 2.氷解け去り 葦(あし)は角(つの)ぐむ さては時ぞと 思うあやにく 今日もきのうも 雪の空 今日もきのうも 雪の空 池に張った氷は解け始め、そこに生えている葦の芽が出始めてきました。さあ、やっと春が来たかな、と思いきや、昨日も今日もまだ空はどんよりして、雪が舞っています。明日は、晴れるかなと思いながら、空を眺めています。 3.春と聞かねば 知らでありしを 聞けば急かるる(せかるる) 胸の思(おもい)を いかにせよとの この頃か いかにせよとの この頃か 暦の上ではもう春になったよと聞かなければ、そんな気持ちにはならなかったのに、聞いてしまったので、もう、春が待ち遠しくなってしまい、この待ち焦がれる思いをどう晴らしたらいいかわからないくらい、最近の季節の変わりの遅さであろうか。立春と聞くと、私も、こんな思いになります。
- 20 :名無しさん :2007/04/02(月) 10:15:42
- 大町市文化会館前に「早春賦の歌碑」があります。「春は名のみの風の寒さや」で知られる「早春賦」の作詞者・吉丸一昌氏(大分県出身)は、東京音楽学校教授時代の明治44年六月の大町中学校(現・大町高校)開校十周年を記念しての「校歌作成」を依頼され、この年の早春、長野市から大町市にやって来たのではないかと思われます。信州新町、美麻村を抜け、大町市三日町に入る手前の「マムシ坂」の谷あいから見える、眼前にそびえる残雪の北アルプスの光景は、「春は名のみの風の寒さ」であり、「谷の鶯歌は思えど」の歌詞そのままだったのでしょう。大正の初めに「早春賦」は発表され、世に知られるようになりました。JR信濃大町駅前に「早春賦」のメロディーが一日四回(午前九時・正午・午後三時・午後六時)流れる時計台があります。
- 21 :名無しさん :2007/04/02(月) 10:19:24
- 早春賦
【作詞】吉丸一昌 【作曲】中田章 【MIDIデータ作成協力】マルちゃん
1.春は名のみの 風の寒さや 谷の鶯 歌は思えど 時にあらずと 声も立てず 時にあらずと 声も立てず
2.氷解け去り 葦は角ぐむ さては時ぞと 思うあやにく 今日もきのうも 雪の空 今日もきのうも 雪の空
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
- 22 :名無しさん :2007/04/02(月) 10:29:09
- 童謡の先駆者
「早春賦」「故郷を離るる歌」の作詞者
吉丸一昌 よしまる かずまさ
吉丸は明治六年九月十五日、大分県北海部郡海添村(臼杵市海添)の下級士族の家に生まれた。明治十二年、吉丸は臼杵学校へ入学した。この時期「学校へ子どもを取られる」などと言い、学問よリ子どもは労働力とする家庭が多かったが、父は百姓となって働き、母も針仕事をして家計を支えている。 一昌は下等小学級より高等小学校卒業までの成績は優秀で大分県よリ度々表彰されている。つぎに大分県尋常中学校(上野丘高校)へと進んだ。大分中学は府内城前の県庁舎付近の荷揚町にあった。吉丸が五年生のとき大中は上野丘に移転している。 このとき一年生に中根貞彦がいた。吉丸は明治二十七年、六回生として二十二名と共に大分中学校を卒業した。
そして熊本第五高等学校へと進んだ。教授には夏目激石、湯原元一、小泉八雲などがいる。五高時代は剣道に熱中し、いわゆるバンカラな学生だった。そんなとき「奇抜な剃頭事件」があった。これはクラスの秋吉音治(元福岡高校長)がハイカラ風な長髪を始めた。これを見た吉丸が主唱者となって「秋吉はけしからん、なんとか方法を講ぜねばならん」と思案のあげく、クラス一同剃頭になリ秋吉に風刺したいと提案した。一同これに賛成した。 さて実行の日、約半数が剃頭となって現れた。講義に教室へ入ってきた教授はその様子を見て驚き「よくも剃リました!まるで曹洞宗の学校だ」としばし荘然の有様だったと言う。この年吉丸の成績はあまり良くなく英語は落第点だった。 吉丸のクラスメートに藤岡継平がいた。彼は愛媛県出身で中学は松山、夏目鍬石はこの松山中学で教鞭をとったが、赴任したのは藤岡が四年のときであった、夏目激石の例の「坊ちゃん」が松山中学時代の生活を題材にしていることは言うまでもないが、特に藤岡は当時寄宿舎の舎長をしていたので、あのバッタ事件などはよく知っている ようだ。五高へ入学すると間もなく、夏目石も五高の教授に赴任したので藤岡は夏目激石に可愛がられていた。そこで吉丸は「藤岡、済まぬが先生に行って点数を貰って来てくれ」と頼んだ。彼も仕方なく引き受けて夏目先生を尋ね「吉丸の採点を少し加減してください」と言うと、夏目は答案をめくり「ウムこれは少し採点が違っていた」とか何とか言って合格点をくれた。こんなところは夏目淑石の粋な計らいだったのだろうか。いずれにせよ激石との出会いは後の吉丸の進路を決定づけたと言える。 (省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
- 25 :名無しさん :2013/08/28(水) 21:09:51
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- 26 :名無しさん :2013/08/28(水) 21:09:54
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- 27 :名無しさん :2015/01/29(木) 08:20:24
- 辛い 苦しい
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