- 1 :ガジ :2022/08/02(火) 14:30:17
- 投稿者:原田千育 投稿日:2022年 7月24日(日)16時54分26秒
ピースフェスティバル 戦争体験を語り継ぐ会 2022・7・23 須田雅子さん 「突然家が奪われること」 満州からの引き揚げ体験
初めに「満蒙開拓団はこうして送られた」という映像を見た。そこで、国策として、満州に多くの日本人が開拓民として送られたことがよく分かった。5歳の須田さんが覚えている風景は、夕日がきれいで、馬にのったり、冬には寒くて凍傷になるほどだが、スケートをしたりして、豊かで楽しい開拓団だった。 それが一変したのは昭和20年8月14日に、敗戦による引き揚げ命令が出てからだ。着の身着のまま、持てるだけの荷物を持って、逃避行が始まった。列車にはいつ乗れるか分からない。昼間は見つかるといけないから、夜に移動する。行ったり、来たりをくりかえし、川を渡る時は命がけ、足手まといになるからと自ら川に流されて行くおばあさんがいたりもした。列車から投げてくれる食べ物を拾って食べた。錦州で弟が亡くなった。葫蘆島で乗船寸前に叔母さんが行方不明になった。(後に現地の人と結婚し、家族ができたことが分った。)21年10月8日葫蘆島から乗船し、23日に博多へ到着した。 帰って来てからも大変だった。住む家がないので、父方の農家に1年生の途中までくらしたが、いとこたちと同じクラスで、いじめや差別を感じた。次に母方の実家へいったが、銘仙の織子で、2畳の部屋だった。3年の時、母親が住み込みで、学校用務員になり、やっと住む家ができた。 須田さんが高校生の時、世界史の先生から、「満蒙開拓団は棄民だった」という話を聞き、自分の体験と重なり、納得がいった。差別は許せんと思った。その後、水害にも3回もあったが、母親は「命さえあれば、また頑張れる。家とお米さえあれば、なんとでもできる。」と気丈だった。
その後の交流会で、何人かの方から、自分の親も満州や朝鮮からの引き揚げ者であるが、自分は赤ちゃんで記憶もなく、あまり話を聞いたことが無かったが、須田さんの話を聞いて、断片的に聞いていたことと、いろんなことがつながったという方があった。須田さんも今のうちに親さんやお年寄りの話を聞いてくださいと言ってみえた。須田さんの教え子の方が数人話を聞きにみえ、記念写真を撮って行かれた。壮絶な体験談だが、あたたかい雰囲気のよい会だった。 原田 千育
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