- 1 :名無しさん :2013/10/18(金) 04:57:26
- 親鸞の言葉や仏教の言葉に対して日頃考えていることや疑問などを共有し話し合いましょう。
一応、浄土真宗掲示板という名前ですが何も専門的な知識は必要ありません。 匿名なので人に言えない愚痴を書くだけでも、宗教って糞気持ち悪いよねという宗教批判だけでも、何のために生きているのか分からないといった問いを共有するだけでも、なんにでも使ってもらえれば幸いです。 よかったらゆっくり話し合いともに学びましょう。
- 69 :名無しさん :2016/09/05(月) 01:44:07
- 南無阿弥陀仏
私達は本願から来て浄土へ還る その道を仏様と歩む 私より前に仏様が私を捕まえている 仏様は何時でも私のご縁を準備している
思うようにならない苦 仏様の救いは常に私達の思いの外にある 私達には既に本願の内にあることが見えない 念仏申しご聴聞する中からしか見えてこない
仏様は関係の中にしかない 私をいくら見ても私は空っぽだ 関係の中から私はご縁を見ていく (省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
- 70 :名無しさん :2016/12/31(土) 01:37:13
- 信心
単純なことを理解するのに 随分随分回り道させられることはある 簡単だ、基本だと世間から言われて 全く簡単でも基本でもなく そういう世間が間違っていただなんて ざらにある それで人は20年ほどを簡単に失う
単純なことを理解するのに 随分随分回り道させられることは良くあって 例えば僕が初めて仏教って何?と聞いた時には 無常感とか空とか説明されたけれども それは全然仏教の本質じゃなくて (省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
- 71 :名無しさん :2017/03/14(火) 00:16:35
- 我ら仏のましますごとくせん
結局これに尽きるかなと思う
無理だけども
それでも、どうしようもなくそう願っている
だから、人を信じられるんだと思う
- 72 :名無しさん :2017/05/19(金) 03:20:17
- 腹が立つとは自分の考えのみを正しいとする心であり、瞋恚の心である
めんどくさいとは自分さえよければいいということであり、貪欲の心である これらの心は正しいことを見失った愚痴の心より生じ、これを総じて無明とする 世の問題の全てはここより起こる
人間に無明を打ち払うことはできない 何故なら、何が正しいか分からないからだ それゆえ阿弥陀は座より立たれ、人に正しい道を示される 我が道をゆけと 人に彼が道をゆきたいと願わしめる これが真宗の肝要である
- 73 :名無しさん :2017/05/29(月) 21:52:18
- 人は満たされていなければ、他者を気遣うことができない
つまり、他者を気遣うことができず、誰かを傷つけてしまうということは、何かしらによって苦しんでいるということに他ならない 横暴に見える他者でも、その背景を知れば必ず理解し合うことができる
しかし、自らのみの力で他者の背景を推し量ることはとても難しいことだ 何故なら、私たちは自分自身から見える範囲でしか物事を考えることができず、怒りや怠慢に簡単に絡め取られてしまい安直な答えをとろうとしてしまうからだ
だからこそ、常に自らを律し、相手の語る内容に耳を傾ける必要があると考えている
ただ、例え他者の語る内容に耳を傾けたとしても、それで万事物事が解決する訳ではない 何故なら、他者に対して自らの背景を語るということは他者の背景を推し量るということ以上に難しいことであるからだ
私たちは自分自身を理解しているつもりであっても、自らの本当の背景に気付いていないことが往々にしてある 自らの背景を語っているつもりであっても、それが実際の本心に即していなければ、問題の解決には至らないのは当然であろう
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
- 74 :名無しさん :2018/02/25(日) 20:33:23
- 宗教の事はみんな長文になりがちだね。
語りたいけど語る場は中々ないし、教えに出会えた感動を表現しようとするとスパっと一言では言えず...って感じかな。 論争もおきがちだし、こうした場は貴重だけど運営も難しそうだね。
- 75 :名無しさん :2019/05/16(木) 20:32:51
- 蜂屋という方の「四十八願講話」という本に「たとえわたしが仏になることができても、他の国の菩薩たちが六字の名号を聞きて、仏に成るまでの間、その身に不自由な点があるなら。わたしは決して仏になりません。 」という無量寿経の四十一願について「これは信心を得たものについての願。信心決定すると、諸根が具足する」と書かれてあって、それはおかしいんじゃないか、だったら身体障碍の方は救われないんじゃないかと思い、四十八願について書かれてある本を読み漁りました。
すると 金子大栄師は「他方国土の諸菩薩衆というのは哲学者や聖道門の修行者のこと」としており 阿満利麿さんは「佛のもとにいて修行しているもの」としており 香月院深励師は「十住以上の浄土嫌いの菩薩を18願に引き入れるための願」としておりました 41願の「他方国土の諸菩薩衆」が誰なのかについては本を読んでも様々な説があり、どれをとっていいのか分かりません 浄土真宗の公式見解?のようなものはどうなっているのでしょう もし蜂屋賢喜代さんの言うように、信心のあるものは身体障碍を負わない、という願だったとしたら、私も体が弱いので、後生が不安です
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