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☆☆ エジプト カイロ観光 総合情報スレ ☆☆

118在カイロ スルタンホテル 塾長まる。:2008/12/10(水) 23:35:46 ID:nUYvo4bU
>117続き
ムバラク政権にとって治安対策上、より大きな脅威だったのは、イデオロギー的には急進的ながら組織は小さかったジハード団ではなく、独立した武装部門を持ち、構成員の数や組織力で圧倒的に上回っていたイスラム集団だった。それが武装闘争放棄を宣言したことで、政権にとり国内のテロ対策はひとつの山を越えた。「武装闘争放棄」を誓約し釈放された「集団」のメンバーは昨年末で1万2000人を超えたという。
http://sankei.jp.msn.com/world/mideast/081201/mds0812010838000-n3.htm
                  ■□■
アラブ社会主義を唱えたナセルの後を継いで70年に大統領に就任したサダトは、親ソ連だった外交路線を転換して米国に接近。反発するナセル主義者や左派を抑えるため、ムスリム同胞団系の閣僚を任命するなど、ナセル時代に弾圧されたイスラム勢力に大幅な自由を与えた。だが、70年代後半には経済開放政策の失敗で国民の不満が高まっているところに、イスラエルとの平和条約締結(79年)に反発したイスラム勢力に激しい弾圧を加えたことが、皮肉にもイスラム過激派による暗殺の引き金となった。
 イスラム集団の獄中指導部の理論指導者だったナガハ・イブラヒム(52)が武装闘争停止宣言から約10年を経た今、改めて「転向」を総括した文書が手元にある。その最初のページにこうあった。
 「サダト時代はダアワ(人々をイスラムへと導く呼びかけ)にとって黄金時代だった。しかし、若さゆえにイスラムの道を説くだけでは満足できなかった。そう、われわれはイスラム国家を欲した。だが、人々へのダアワは十分ではなかった。その結果、われわれは両方を失った。そればかりか、何千人もの若者を監獄に送り、ダアワの道は閉ざされ、イスラム運動の進展を阻害した」=敬称略
 (村上大介)
【用語解説】イスラム集団とジハード団
 1960年代末の結成とされるジハード団は首都カイロを拠点とした都市型組織で、知識人に支持者が多かった。腐敗した支配者を打倒し、イスラム国家を樹立するという考え方を共有する複数のグループ(細胞)が連携し、ピラミッド型の階層構造ではなかった。
 これに対して、イスラム集団は、70年代前半にナイル川上流の上エジプトの各大学で結成されたイスラム原理主義学生組織が連合して成立した。当時、アシュート大学シャリーア学部の講師だったイスラム法学者、オマル・アブドルラハマン(93年のニューヨーク・世界貿易センタービル爆破事件に関与したとして米国で服役中)を「集団」の精神的指導者に担いだ。
 サダト暗殺では、ジハード団のイデオローグだったムハンマド・ファラグ(事件関与で死刑)が著作「隠された責務」で、「邪悪な支配者」をまず打倒すべきだとする「イスラム社会内部でのジハード(聖戦)優先論」を唱え、ジハード団とイスラム集団の連携のカギを握った。
 90年代以降は、「集団」が観光収入への打撃を狙って観光客など一般人をも標的としたテロを続けたのに対し、ジハード団は2回のムバラク大統領暗殺未遂と首相暗殺未遂など政府要人を狙ったテロを4回実行したにとどまっている。


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