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☆近畿百科☆ニュース その8
1225
:
よっさん
◆XxkTNAUYOc
:2014/01/04(土) 14:10:59 ID:BEzJUObw0
南都楽所 世界唯一の音色
2014.1.4 09:34
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140104/wlf14010409380006-n1.htm
古都・奈良の夜に、冷たい空気を震わせるような笙(しょう)や龍(りゅう)笛(てき)、篳篥(ひちりき)の真っすぐな音が響いている。
5世紀以降、中国や朝鮮半島から日本に渡ってきた音楽や舞が取り込まれ、宮中や神社仏閣の催事に欠かせない音楽として今に伝わる雅楽。その歴史を伝える音楽団体が奈良市にある。
近鉄奈良駅に連なる商店街の奥まった場所、春日大社境内「大宿所(おおしゅくしょ)」にその「南都楽所(なんとがくそ)」の稽古場がある。平安時代に奈良の寺社の法要、祭祀(さいし)音楽をつかさどるために設置された南都楽所だが、明治維新の影響で一時期その名は途絶えた。それが昭和43年に復興され、今に続く。
楽所の復活に尽力し、現在も率いる楽頭の笠置侃一(かさぎかんいち)さん(86)は「ルーツであるアジア大陸ではもう失われた音楽が、唯一日本に残っている。その伝統をしっかり受け継いでいかなければ」と話す。
今、南都楽所には笠置さんが名誉教授を務める奈良大学の学生やそのOBらも加わって伝統を継承する。大人たちが練習する傍らで、小学生の少女も一心に龍笛を吹いていた。
「雅楽の始まりはアジア大陸の音楽が仏教とともに日本に伝わったころ。以来、社寺の法要や祭祀に必要なものとして音楽、舞踊がありました」と南都楽所の笠置侃一さんは説明する。
奈良に都があった天平勝宝4(752)年、東大寺で開かれた大仏開眼法要も音楽で彩られた記録が残っているという。
音楽舞踊の文化が花開き、やがて都が京都に移った平安時代以降、京都「大内楽所」と奈良「南都楽所」、大阪「天王寺楽所」の「三方楽所」と呼ばれる3つの組織に分かれた。南都と天王寺はそれぞれ興福寺や四天王寺に庇護(ひご)されたが、明治維新で楽人が東京に集められ、南都楽所の名は途絶えてしまった。
市井の人々が細々と雅楽を継承し、南都楽所が社団法人として復活したのは昭和43年。今では、冬の風物詩「春日若宮おん祭」をはじめ年間約40の社寺の儀礼に奉仕している。
宮内庁式部職楽部で首席楽長を務め、日本を代表する楽人だった東儀俊美(1929〜平成2011年)は、おん祭を見てこう書き残している。「三方楽所は現在も続いている。そして立派に機能している」と。
□
南都楽所の稽古場では10歳から12歳の少年たちが舞を習っていた。「やりたいというより、やらなあかんかなぁ」と、幼いながらも責任感を口にする。
現代的なダンスとは異なった動き。ゆっくりとした独特の振りは難しく、つい動きが速くなる。「そうやって足がピュッといかないようにし」。体重移動のコツを80歳近い年長者が指導していた。
高校時代に南都楽所に入り、今では楽人の一人として活躍する佐藤いずみさん(33)は「私は歴史の一コマにすぎない。たとえ私がいなくても誰かが必ず伝える。だからこそ途絶えなかったのではないでしょうか」。
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