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大阪の歴史、伝統文化に関するスレ02

1nakano-shima★:2011/01/04(火) 14:35:48 ID:???0
【過去スレ】
大阪の歴史、伝統文化に関するスレ http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/travel/6501/1201947832/

377よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/08/03(水) 23:57:41 ID:n2OWEXO.0
神輿渡御祭:堺の「お旅所」まで練り歩き−−住吉大社 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110803ddlk27040342000c.html

 住吉大社(大阪市住吉区)の神輿渡御(みこしとぎょ)祭が1日あった。若者らがみこしをかつぎ、約6キロ離れた堺市の「お旅所」まで練り歩いた。

 住吉大社の夏祭りを締めくくる伝統行事で、約900人が参加。みこしの行列は約800メートルにもなった。大和川でみこしを受け渡す「神輿受渡式」では、担ぎ手らが「べーら、べーら」と大きなかけ声を上げながら川の中を練り歩き、堺市側の担ぎ手にみこしを引き継いだ。担ぎ手がみこしを高く掲げると、河川敷に詰めかけた人たちから拍手が起こった。

 行列には先月24日に57年ぶりに復活した堺市の伝統行事「鯨まつり」で奉納された、全長12メートルの鯨の山車(だし)も参加した。【内田幸一】

378よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/08/04(木) 00:18:42 ID:n2OWEXO.0
大阪発 羅針盤
地域の取り組みや課題、人々の動きや思いを通して大阪の明日、日本の未来を展望します。


大阪城天守閣復興80周年
2011年8月1日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/compass2011/110801/20110801033.html

「プリトヨ」続く魅力発信を ヒットの陰に大阪の人間力

大阪を舞台にした映画「プリンセストヨトミ」は興行収入が15億円を突破し、「ヒット」作品になった。スクリーンを通して衆目を集めた大阪城の天守閣は折しも11月7日に復興80周年を迎える。これを機に観光の名所だけなく、娯楽芸能の世界でも「絵」になる白亜の城を多角的にとらえ、「プリンセス…」に続く二の矢、三の矢の話題に思いを致し、大阪の魅力を発信する策を考えたい。

■独特な視点を
 5月28日公開した「プリンセス…」の第1週は「パイレーツ・オブ・カリビアン」に次ぐ興行成績を記録するスタートダッシュとなり、7月25日現在の興行収入は15億8400万円、観客動員数は127万3千人を数えた。プロデューサーの土屋健氏によると、「15億円を超え、素晴らしいヒットと映画業界は思っている」そうだ。では、ヒットした要因は何か。

 1615年の大坂夏の陣で自害した豊臣秀頼の息子、国松は処刑され、豊臣家の血筋は途絶えたという通説に反し、国松は生き延びてその末裔(まつえい)を守るため、大坂の人たちは「大阪国」を発足した−。物語の設定は「太閤びいき」の大阪の土地柄を印象付け、大阪国の国民が立ち上がるシーンを作品の見せ場にしたように思う。

 その製作の意図が映画パンフレットのインタビュー欄に載っている。

 原作者の万城目学氏「ずっと住んでいる大阪で、大好きな大阪城に大阪の人の気質や人情を絡めてヘンなエンタテイメントを作った」

 監督の鈴木雅之氏「彼らがあることに関してだけは団結する“人間力”を持っているということを浮かび上がらせたかった」

 虚構の世界とはいえ、大阪の人が脈々と受け継ぐアイデンティティーの強さを描いた視点が「ヒット」につながったすれば、その大阪を象徴する大阪城の捉え方によっては話題になりはしないか。

 大阪城が立つこの地の歴史を独特な視点で捉えた最近の見解として、関西大教授の藪田貫氏が昨年10月に書き下ろした「武士の町大坂」は特筆に値する。その書き出しはこうだ。

 江戸時代の大坂といえば、「町人の都」「天下の台所」と相場が決まっている…しかし時は「武士の世」、大坂にも武士がいたことは間違いなく、なによりもいまも聳(そび)える大阪城が、武士の存在を物語る。

 現在では印象の薄い大坂武士に光を当てた本書は、通説に満足しない層の関心を集め、固定化された大阪のイメージに一石を投じた。斬新な論を展開した著者のよりどころになったのが、いまも聳える「大阪城」だった。

379よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/08/04(木) 00:19:36 ID:n2OWEXO.0
>>378

■「お城ブーム」
 1931年11月7日完成した現在の天守閣は、3代目に当たる。太閤秀吉が創建した初代は夏の陣で焼失し、徳川幕府が再建した2代目は1665年の落雷によって焼失した。戦火、災害に消えた歴史を踏まえた3代目は当時としては最新の鉄骨鉄筋コンクリート造りによって完成し、その財源は大阪の象徴を求めた市民の浄財だった。

 復興30年史に興味深い記述がある。

 1958、59年の両年にかけて全国各地で合計七つの天守閣が再建されたほか、静岡県・熱海には忽然(こつぜん)と熱海城なるものまで出現するありさまで、世はまさに「昭和築城時代」といわれるほどに「お城ブーム」は極点に達した。その端緒が大阪城だった、と30年史は伝えている。

 復興80周年の節目に大阪城天守閣の管理運営関係者は、復興当時を振り返る特別展を計画している。せっかくの機会だけに、全国発信する未来志向の取り組みを望みたい。それだけの素地が、市民の力によって復興した日本で最も親しまれる城の「大阪城」にはある。

「大河」へ署名活動
幸村の入城400周年で長野の有志

 大坂夏の陣で徳川軍と戦った豊臣軍の武将、真田幸村の大阪城入城400周年に当たる2014年に向け、幸村ゆかりの長野県上田市の有志が、NHK大河ドラマの放映を目指して署名集めを展開。7月22日来阪した阿部守一知事や母袋創一市長が、橋下徹知事に協力を呼び掛けた。
 大阪城天守閣復興80周年の今年ヒットした映画「プリンセストヨトミ」の盛り上がりを、大阪城入城400周年に合わせたドラマ化につなげる。そんな機運の醸成を大阪に期待する母袋市長は手始めに、橋下知事に署名簿へのサインを求めた。
 「真田幸村は大阪でも人気。実現すれば長野と大阪のつながりができる」と橋下知事は応じたが、機運の醸成はいかに。
 5月17日時点の署名数合計50万178人のうち東京は3万516人、大阪は1万9193人と2大都市圏の間に開きがあり、母袋市長は「大阪を中心に最後の追い込みをしようと思っている」と話している。
 真田幸村は信濃上田城主の昌幸の子で、地元の有志は2009年11月に署名活動を開始。真田家の旗印「六文銭」にちなんで66万6666人の署名集めを目標にしている。

380よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/08/04(木) 00:24:34 ID:n2OWEXO.0
子規「の・ボール」熱闘交流
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110803-OYT8T00077.htm

 夏の甲子園(第93回全国高校野球選手権大会)が開幕する6日、大会発祥の地の豊中市で、俳人・正岡子規が故郷の松山に伝えた明治時代の野球を再現した「の・ボール野球」の交流試合が行われる。両市がチームを結成し、当時のルールで初めて対戦。豊中市は「試合をきっかけに、野球に縁の深い市同士の交流を深められれば」と期待する。2日は、松山市から豊中市役所に届いたレトロなユニホームに市職員らが袖を通し、着心地を確かめた。(渡辺彩香)

 豊中市は、1915年に同大会の前身にあたる第1回全国中等学校大会が開かれた「高校野球発祥の地」。あまりの人気で観客を収容しきれず、第3回からは兵庫県西宮市に会場を移し、甲子園球場では第10回から行われるようになった。球場のあった豊中グラウンド(豊中市玉井町)は大正末期に取り壊され、住宅地に。現在は、外壁の赤れんがが一部、残っている。

 一方の松山市では、子規が、東京大学予備門時代に熱中したベースボールを1889年(明治22年)頃、故郷の松山中学の生徒らに教えた。子規は野球を題材に短歌や俳句も多く作り、2002年、野球殿堂入り。同市はこれを機に、子規の雅号「野球(のぼーる)」にちなんで明治の野球を「の・ボール野球」と命名し、当時の史料を参考にユニホームや用具、ルールを再現、継承に取り組んでいる。

 交流試合は、豊中市の市制75周年記念事業の一つで、同市側が松山市に呼びかけて実現。ユニホームや用具一式は同市から借りる。両市の選抜メンバーが出場し、豊中市が「紅」、松山市が「白」と胸に刻んだユニホームを着用。スパイクの代わりに足袋を履くほか、審判は羽織はかま姿で登場する。

 また、子規が楽しんだ当時のルールを採用。投手は下から押し出すように投げ、打者は投げてほしいストライクゾーンを打席ごとに審判に申告。飛球はワンバウンドキャッチもアウトで、フォアボールは五球。審判はホームベースを挟んで打者と向き合う位置に立つ。

 豊中ローズ球場(豊中市曽根南町)で6日午後5時半から開会式。山口最丈・松山市副市長が投手、浅利敬一郎・豊中市長が打者を務める始球式の後、プレーボール。

(2011年8月3日 読売新聞)

381よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/08/04(木) 23:50:10 ID:ON4pbSHQ0
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/218 日本橋 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110804ddlk27070485000c.html

 ◆大阪市中央区

 ◇道頓堀近く宿屋ずらり 明治まで商店、民家なく
 道頓堀川を西へ歩く。次第に川沿いがにぎやかになっていく。幹線道路の堺筋に架かるのが日本橋だ。このすぐ西が道頓堀の繁華街。お江戸は「にほんばし」、大阪は「にっぽんばし」。大阪案内人の西俣稔さんが「名前のいわれは不明なんです」という。国の名前を付けてるのに……。

 江戸幕府が直接管理した12の公儀橋の一つ。和歌山へと続く紀州街道にあたり、橋のたもとには京都や金比羅参りの船着き場があって、水陸の交通の要衝だった。また、南詰めには幕府のお触れを張り出す高札場もあって、罪人がさらし者にされた。

 長町と呼ばれた橋筋は、はたごが軒を連ねる旅館街だった。大坂一の繁華街、道頓堀に近く、大坂への観光客は日本橋に宿泊した。明治時代まで、ほかの商店や民家はほとんどなく、1898(明治31)年刊の「大阪繁昌(はんじょう)誌」には43軒の宿屋の名が記されている。今はホテルはホテルでも、周辺にはラブホテルが目に付く。

 そんな宿屋街のお噺(はなし)が「宿屋仇(がたき)」だ。一軒の宿屋に「静かな部屋に泊めてくれ」とお侍がやって来る。どうした拍子か、その隣に伊勢参り帰りの若い衆3人連れを入れたのが騒動の始まり。今の草食系男子ならいざ知らず、若いもん3人で泊まって静かにしてるはずがない。芸者をあげてのドンチャン騒ぎに、お侍が怒らんわけがない。

 仕方なく、3人は布団に潜り込むが、相撲の話に熱が入りすぎ、ドッタンバッタンと相撲を取り始める。侍が怒る。今度は力が入らん話をと、色ごとの話を始めるが、またまた騒ぎ出して−−。

 日本橋は1877(明治10)年に鉄橋になり、1912(同45)年に堺筋が拡幅された時、架け替わった。今の橋は1969年、地下鉄堺筋線の建設で架け替えられた。しかし、川沿いの遊歩道から見上げると、橋の下部は安っぽい緑色に塗られていて、興趣のないことったら、この上ない。橋の上にはいつも、道頓堀の観光客を降ろした観光バスが止まってるし。駐車場の整備をさっさとやるべし。

 日本橋の北側に見上げんばかりの石碑が建っていて、ハトの羽休め場になっている。「安井道頓 安井道卜(どうぼく)紀功碑」と刻まれている。1914(大正3)年、道頓堀川を開削したとされる2人に従五位が追贈されたのを記念して、川沿いの町々がお金を出して建立した。

 道頓は親類らと相談して川の開削を始めたが、大坂の陣で豊臣方について戦死。従弟(いとこ)の道卜らが遺志を継いで完成させた。南堀川といったが、大坂城主となった松平忠明が道頓の功をたたえて道頓堀川と名を変えさせた−−。

 長らくこう信じられていたのだが、道頓は実は平野郷(大阪市平野区)の名家、成安家の出で成安道頓だったのだ。安井道卜の子孫が「道頓堀はうちのもの」と起こした裁判で明らかになった。だから、厳密にはこの碑は間違いということになるが、そう堅いことを言ってたのでは世の中、回らない。

 道卜は大坂三郷の南組の惣年寄(そうどしより)を務めた。惣年寄とは町政をつかさどるトップで、町人の一番えらいさんだ。周辺の町の開発に尽力したと伝わるから、安井家が道頓堀の功労者であることは間違いないようだ。【松井宏員】

382よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/08/07(日) 23:40:20 ID:aACWRE8I0
>>380

子規「の・ボール」のびのびプレー
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110807-OYT8T00022.htm

夏の全国高校野球大会が開幕した6日、大会発祥の地・豊中市で、俳人・正岡子規が明治時代、故郷・松山市に伝えた「の・ボール野球」の試合が当時のルールで行われた。

 子規の雅号「野球(のぼーる)」から命名した「の・ボール野球」の普及を図る松山市に、豊中市が市制施行75周年を記念し、対戦を申し入れた。市民から選抜された両チームの選手は足袋を履き、審判も羽織はかまと当時の姿を再現。打者がストライクゾーンを指定してから打つなどのルールで対戦し、松山市が3対0で勝利した。

 試合に参加した松山市の新開国広さん(67)は「発祥の地のグラウンドで戦うことができて光栄。お互い野球熱の高い地域なので盛り上がり、楽しかった」と満足げ。ヒットで一矢を報いた豊中市の奈須正典さん(55)は「甲子園のような迫力はないけど、牧歌的な楽しさがあった。野球を好んだ子規の気持ちが分かるような気がした」と話していた。

(2011年8月7日 読売新聞)

383名無しさん:2011/08/08(月) 21:13:28 ID:w67qFruI0
歴女の次は…“考古学キッズ”講義ツアー人気 古市古墳群
2011.8.8 14:19

世界遺産登録を目指す古市古墳群(大阪府羽曳野市)で、観光ガイドを行っているボランティアグループが、小学生ら子供向けのガイドを夏休み限定で行っている。年配層に考古学ファンが多いなか“考古学キッズ”を育てて、次世代に歴史遺産を受け継ごうという試みだ。「歴女」など、近年の歴史ブームを子供にも広げたいと願っている。

 子供向けガイドを企画したのは、羽曳野市の細見克さん(70)が代表を務めるボランティアグループ「フィールドミュージアムトーク史遊会」。古市古墳群は都市化された地域にあることから、関心を高めることで古墳を開発の波から守ろうと活動している。

 子供の場合、知識の詰め込みではなく、実際に古墳をめぐってもらい、歴史を体感してもらうのが一番と、時間に余裕がある夏休み限定にしたという。

 毎週、火曜日と木曜日に行われている“講義”は子供たちに盛況といい、応神天皇陵前では、市内の小学校に通う子供たちが「古墳はなんでこんなに大きいの」などと質問をぶつけるシーンも。細見さんは「身近にある歴史遺産の面白さを、分かりやすい言葉で伝えたい」と話している。

http://sankei.jp.msn.com/region/news/110808/osk11080818130005-n1.htm

384よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/08/08(月) 22:49:44 ID:axk1QB5k0
なにわ人物伝 −光彩を放つ−

中馬 庚
2011年8月6日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/110806/20110806031.html

野球発展に尽力した教育者 子規より明確に訳語

 三善 貞司
 中馬庚はベースボールを「野球」と訳し、真の野球道の発展に尽力した教育者で、しかも墓が大阪府豊中市に現存する。城井睦夫氏の『中馬庚伝』は、その生涯を知る最高の書物で、氏の庚に対する敬愛の念と資料収集の情熱があふれており、脱帽のほかはない。以下同書を典拠にして大要を紹介したい。

 庚は明治3(1870)年鹿児島県西千石町の漢学者今藤悔堂(かいどう)の次男に生まれた。この年は庚午(かのえうま)だったので庚四郎(こうしろう)と名付けられる。四つのとき中馬源太夫の養子になり、明治21年上京、第一高等中学校(後の一高)に入学した。同校では英人教師ストレンジが「ベースボール会」を立ち上げ、生徒の鍛錬に当たっており、庚は「赤組は正岡常規(つねのり)(俳人子規)と岩岡保作(九州帝大教授)が、交互にピッチャー、キャッチャーを務めた」(『一高野球部史』)と書いており、自身は内野手、なかなかの強打者であった。

 昭和9(1934)年河東碧梧桐(かわひがしへきごどう)は、「ベースボールを野球と書いた嚆矢(こうし)は子規だ。本名の升(のぼる)をもじって野ボールにしたのである」(『子規を語る』)と書いている。しかし子規は文章の場合弄(ろう)球とか投球と記し、野球の文字は用いていない。大谷藤次郎に宛てた手紙の末尾に「野球(ノボル)拝」とふざけた程度だ。

 子規の本名は常規だが、自作の墓碑銘に、「又(また)ノ名ハ処之助(ところのすけ)、又ノ名ハ升(のぼる) 又ノ名ハ子規 又ノ名ハ獺祭書屋(だつさいしょおく)主人 又ノ名ハ竹ノ里人」と記し、野球(のぼる)はない。

 明治27年一高卒業時に庚は同部史に「速(すみや)かに我(わが)部の名定めずんば 底球部等の奇語慣例化せむ。議決を得ずと雖(いえど)も余は野球とせば、大いに適すべし」と、明確に主張している。東京帝国大学史学科に進学した彼は、同30年日本初の野球文献といわれる『野球』を刊行、詳しく捕球や投球術を記し、魔球(ドロップとカーブのこと)の投げ方図まである。

 卒業後は教職畑を歩いた。県立鹿児島一中をふりだしに、同第二中学教頭、県立新潟中学教頭等を歴任。また日露戦争期には歩兵中尉として広島の大本営に勤務、明治天皇の御前講演にも選ばれ、「終生の栄誉なり」と感激する。

 性格は豪放磊落(らいらく)、正義感の強い型破りの熱血教師で、転勤も多いがその理由の大半はこの気質により、数々のエピソードを残している。友情も人に倍して厚く、大正元年に一高時代の親友で秋田県知事秦豊助に頼まれ、遠く離れた県立大館中学校長に就任するが、「俺は九州男児だ。口も悪いが手も早い。けんかならいつでも買ってやる」とあいさつし、生徒たちの度肝を抜いたそうだ。

 同3年豊助は徳島県知事に転勤、問題のあった県立脇町中学校の再建を懇望する。庚は快諾し校長に着任、英語が達者なくせに修身と漢文を担当した。同校の卒業文集に校長の思い出が綴(つづ)られているが、いずれも痛快無比、「風貌魁偉(かいい)、知識該博(がいはく)、率先実行」と誰もが口にする。

 同5年暴力行為で退学になった他校の生徒Hを、面白い男だと職員会議の反対を押し切って受け入れ、野球部に入部させる。だがHを嫌う生徒グループがいたずらして用具を隠したのを怒り、Hは彼らと乱闘騒ぎを起こし数人にけがを負わせる。被害者の親たちは県を通じHの処罰を要求したが庚は拒み、いきなり辞表を出し誰の仲裁も聞かなかった。

 同7年大阪に移り浪速銀行に入社、同14年退社して麻田村(大阪府豊中市刀根山)に隠棲(いんせい)。好きな釣りを楽しみ、ひっそりと晴耕雨読の毎日を重ねた。昭和7年3月没。享年61。墓は円満寺(同市刀根山5丁目)にある。

 先記した『中馬庚伝』に、「庚の野球殿堂入り(昭和45)に奔走したのは、脇町中学の教え子幸田昌三氏」と記されている。(地域史研究者)

385よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/08/10(水) 21:27:25 ID:U9.R10Ig0
戦争の悲惨さ ここにも 「戦時中の動物園展」始まる
2011年8月10日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110810/20110810019.html

 戦争の犠牲になった動物を悼む「戦時中の動物園展」が9日、大阪市天王寺区の天王寺動物園レクチャールームで始まった。第2次世界大戦中に安楽死させられた飼育動物の剥製などが展示され、戦争の悲惨さを今に伝えている。15日まで。

 戦争中は、空襲でおりが壊れると、動物が逃げ出す恐れがあるため、各地の動物園で猛獣が安楽死させられた。

 天王寺動物園では、1943年8月から44年3月にかけて、ライオンやヒョウ、トラなど猛獣10種26頭が安楽死させられたほか、45年3月の空襲で園内に2千発の焼夷(しょうい)弾が落下し、オオワシなど鳥類10種33羽が焼死した。

 会場には、安楽死させられたアムールトラやヒョウ、ライオン、ピューマなど8体の剥製を展示。食料不足でゾウの餌が青草から栄養価の低いサツマイモのツルに変えられたことや、燃料不足で暖房が使えず、キリンなどの熱帯動物が寒さで死んだことなどが紹介されている。

 親子同然の動物をやむなく安楽死させた当時の飼育員の心境もつづられていて、来場者は、戦争のむごたらしさを感じ取っていた。

386名無しさん:2011/08/11(木) 14:46:35 ID:uC/CHkmo0
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110810-OYT8T01214.htm

戦争に翻弄 私で最後に 中国残留42年 鶴見の女性

スパイ容疑拘束、偏見に苦しみ・・・ 「子供いたから生き抜けた」

終戦直前の1945年4月、一人の少女が養父母に連れられ旧満州(現中国東北部)に渡った。異境の地で待ち受けていたのは養父母との別れ、望まぬ結婚、偏見、スパイ容疑での拘束……。それでも耐えてこられたのは、生み育てた子供たちへの家族愛だった。「私のように戦争で翻弄された人生を、誰にも味わってほしくない」。66回目の終戦記念日(15日)を前に、女性が半生を振り返った。(鈴木隆弘)

 中国残留邦人だった大阪市鶴見区の斎藤和子さん(81)。故郷の島根県を離れ、旧満州の開拓団に合流したのは14歳の時。既に日本の敗戦は濃厚となり、中国人からは「命を捨てに来たのか」と言われた。8月に入ると一緒に来ていた男たちが軍隊に召集されていった。

 終戦前夜、「避難しろ」と言う大人たちに従い、暗闇の中を逃げた。盗賊に襲われ、友達と腕を組んで草むらに隠れた。銃声とともに友達は胸を血で染め息絶えた。逃げる途中で養父母も病死。現在の黒竜江省方正県にたどりつくと、多くの開拓団が集まり、日本人であふれていた。

 「嫁に来てくれ」。間もなく、4人の中国人男性から言い寄られた。無理やり連れて行かれそうになり、柱に抱きついて抵抗したこともあったが、一緒に逃げてきた開拓団の年配の男性から、「いい人なら行ったほうがいい」と諭された。45年12月、身を守るために覚悟を決め、結婚した。まだ15歳だった。

 2男3女の子宝に恵まれたが、一歩外に出ると「日本鬼子」とさげすまれる日々。長期間遠出をすれば公安局に呼び出されて事情を聞かれた。「スパイの子」とからかわれた長女は学校に行かなくなった。66年に文化大革命が始まると、11か月間もスパイ容疑で拘束された。問い詰められても、「子供に害が及びませんように」と念じ、耐えた。

 何度か帰国許可を求める書類をもらったが、認められるのは本人だけ。同じ境遇の母親の中には、泣き叫ぶ子供を振り切り、帰国した人もいた。「私は子供を残して帰れない」。望郷の思いを断ち切るように、書類を家族の前で破り捨てた。

 その後、家族を連れての帰国が認められるようになり、80年代には多くの残留邦人が日本に戻った。「子供を連れて帰れば、今度は中国人だと言われつらい思いをする」。帰国しようとしない母親に、長男が「僕たちのことは心配しないで」と背中を押してくれた。

 87年、56歳で永住帰国を果たした。相次いで来日した子供たちの仕事の都合で、島根から大阪市に移り住んだ。毎年、5月の誕生日には、子供からひ孫まで約30人が集まってくれる。

 日本と中国の国籍が入り混じるが、一つの家族であることにかわりない。「中国での42年間、本当につらかったけど、子供がいたから生きてこられた。家族みんなで集まれる今が一番楽しいね」。斎藤さんは目を細めた。

(2011年8月11日 読売新聞)

387名無しさん:2011/08/11(木) 14:49:46 ID:uC/CHkmo0
http://www.sankei-kansai.com/2011/08/11/20110811-056437.php

2011年8月11日

伝説もとに板絵4枚新調 紀貫之ゆかり 泉佐野の蟻通神社本殿
 紀貫之ゆかりの大阪府泉佐野市長滝の蟻通(ありとおし)神社本殿の板絵4枚が新調された。唐招提寺(奈良市)の伝統行事「うちわまき」の絵を毎年手がける大阪芸術大(河南町)の非常勤講師で画家の中島裕司さん(58)が、神社に伝わる伝説をもとに描いた。

大阪芸大の中島さん描く

 昔、孝行ものの中将が「老人は捨てよ」という定めを破って、老いた両親をかくまっていた。そのとき、唐が日本をわがものにしようと3つの難題を突きつけた。そのひとつが曲がりくねった小さな玉に糸を通すことだった。中将は両親の知恵でアリと蜜を使って玉の中の曲がった穴に見事糸を通した。帝は感心し、老人を捨てる法を改めたという。

 両親は死後「蟻通明神」として祭られたが、あるとき紀貫之が馬に乗ったまま明神の前を通り過ぎようとしたのが無礼であると明神の怒りに触れて嵐になった。落馬した貫之は和歌を詠んで明神の怒りを鎮めた。

 中島さんは幼稚園のころにこの伝説を紙芝居で見たことがあり、板絵制作の依頼を快諾した。

 板絵は馬に乗る貫之や腰に糸をつけられたアリが蜜をたどって玉のなかの穴に糸を通す様子など、もともと描かれていた絵を踏襲して色鮮やかに描いた。

 神社は昭和18年に現在の場所に移り、平成25年が遷座70年にあたる。神社は「新しい板絵とともに歴史を刻んできた神社を次世代に継承していきたい」と話している。

388よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/08/11(木) 20:22:42 ID:KIbwj2EQ0
大阪天満宮で地下水試掘 飲用水質検査へ
2011年8月11日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110811/20110811017.html

 大阪天満宮(大阪市北区)の境内で行われている地下水の試掘作業が10日までに、地下約50メートルに達した。地下水の試掘に携わる関西大「社会的信頼システム創生センター」や地元の天神橋筋商店連合会の関係者が現場を訪れ、地層や地下水の状態などを視察した。地下水の存在は確認されており今後、水質チェックのための採水が行われる。

 大阪・天満地区にはかつて多くの酒蔵が立ち並び、くみ上げた地下水を使った酒造りが行われていた。歴史ある「天満の地下水」を地域の活性化につなげられないかと、大阪天満宮の協力を得て、同センターと天神橋筋商店連合会が1日から現地で試掘作業を進めていた。

 9日夕、工学博士で地質学に詳しい関西大の楠見晴重学長ら関係者が現場を訪れ、地下の地層の状態などを商店街の関係者に説明。地下水は確認されていることから、11日にも飲用に適しているかなどを確認するための採水を行う。今月中にも水質検査の結果が出ることになっている。

 楠見学長は地下水のについて「地域の活性化のインパクトになる。市民にとっては明るい話題」と話していた。

389よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/08/11(木) 20:53:28 ID:KIbwj2EQ0
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/219 相合橋 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110811ddlk27070459000c.html

 ◆大阪市中央区

 ◇なぜか縁切り橋と呼ばれ 悪名払しょく?橋上に広場
 日本橋を西へ歩けば、道頓堀の繁華街だ。しかし、このかいわいも様変わりしたものだ。

 私が学生時代は道頓堀にも、さらに西の日本橋かいわいにも何軒か古本屋があって、よくのぞいたものだが、とうになくなった。相合橋筋にも1軒あり、落語の書籍をなんべんか買った覚えがある。この古本屋はまだあって、先日のぞいたら、おばちゃんが店番していた。落語関係も相変わらず充実していて、よく残ったものだとうれしくなった。

 相合橋は「あいおいばし」と呼ばれているが、字面通りなら「あいあいばし」。正しくは「あいあうばし」と読み、橋にもそう刻まれている。

 大阪案内人の西俣稔さんの解説。「最初に架けられた時は、中橋という名前でした。道頓堀川の真ん中あたりだから。その後、長堀川の橋に、同じ中橋という名前を付けてしもたので、名前を変えたんです」

 いわれにも諸説あり、「中橋と中橋が相対するから、とか、道頓堀の芝居町と、川を挟んで反対側には色町があって、男と女が会ってたから、とか」。なかなか色っぽいやないですか。

 最初は江戸時代の1680年代に架けられたらしく、近松門左衛門の「心中重井筒」に「中橋」が出てくる。「八百八橋物語」(松村博著)によると、1703(元禄16)年の書物に「相合橋」の名が見える。ところが、出会いを連想させる名前なのに、なぜか縁切り橋と呼ばれて、婚礼の行列は絶対に渡らなかったという。

 「心中重井筒」の筋自体が、お店(たな)の入り婿でありながら遊女と縁が切れず、女を刺し殺し、自分も井戸に落ちて死んでしまう−−という、救いようのない話だ。

 戦災で焼け落ちたが、地元が寄付金を募って1950年に木橋として架けられた。いかに地元の愛着深い橋だったかがわかる。62年に鋼の橋に替わった。73年には橋の幅を広げ、縁切り橋の悪名を払しょくしようとしたわけではなかろうが、橋の上に憩いの広場ができた。

 北詰めに石碑が一つ建っている。「盛り場を むかしに戻す はしひとつ」。大正から昭和初期にかけて活躍した文人、食満(けま)南北の句碑だ。1961(昭和36)年に建立された。建立発起人代表は、友人の日本画家、菅盾彦。ほかの発起人には松竹の白井信太郎、歌舞伎役者の片岡仁左衛門、中村雁治郎、文楽の竹本綱大夫、史家の牧村史陽ら、そうそうたる名前が並んでいる。

 南北が詠んだ「はし」は、西隣の太左衛門橋のことだ。芝居好きの南北は、島之内の自宅から太左衛門橋を通って道頓堀の芝居小屋へ通い、ついに雁治郎の座付き作者となった。戦災で焼失した橋が戦後、復活したのを喜んで作った句だという。初めは太左衛門橋に建てられたが、こっちに移ったようだ。

 相合橋の南詰めの、先の古本屋のある相合橋筋のかかりは更地になっている。映画館「道頓堀東映」の跡で、かつての道頓堀五座の朝日座がここにあった。西にビルを一つ挟んで、また更地。ここも道頓堀五座の角座の跡だ。

 人通りは多いものの、はて、南北が句に託した願いは、かなっているのだろうか。【松井宏員】

390よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/08/11(木) 21:04:04 ID:KIbwj2EQ0
菅笠の技術を次世代に 主婦らが保存会
2011年08月11日
http://mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000001108110002

 江戸時代、伊勢参りの人たちが使った菅笠(すげがさ)の一大生産地だった大阪市東成区深江地区で、主婦9人でつくる「深江菅細工保存会」が菅笠作りに励んでいる=写真。全国から菅笠の注文も入るようになり、同会は「今年保存会に若い人が2人も入ってくれた。技術を次の世代にしっかり引き継いでいきたい」と話している。


 深江地区では20年に一度伊勢神宮である式年遷宮に菅笠を奉納している。1988年、その職人が同区深江南3丁目の幸田正子さん(73)だけになり、5年後に迫った菅笠奉納のため、幸田さんが地元の主婦に声をかけ、保存会を作った。メンバーは家事の傍ら技術を学び、奉納用の菅笠やコースターなどの菅細工を作ってきた。8年前からは途絶えていた菅笠の注文も入り始め、お遍路さんや海釣りのマニアらから年間20、30個の注文があるという。


 同会は毎年、地元の小学生を対象にスゲの刈り取りや菅細工作りの体験教室も開いている。メンバーで幸田さんの長女島谷真由美さん(46)=東大阪市高井田元町2丁目=は「菅笠の技術を今も残せていることは深江の誇り。これからも続けたい」と話している。

391名無しさん:2011/08/13(土) 22:59:57 ID:9jiMpZ5k0
米美術館所蔵の太刀など、仁徳陵出土に疑問符

読売新聞 8月13日(土)21時30分配信

 米ボストン美術館が所蔵する、世界最大級の墳墓・大山古墳(仁徳天皇陵、5世紀中ごろ、堺市)の出土品と伝わる獣帯鏡(じゅうたいきょう)や
環頭大刀(かんとうたち)など5点の考古遺物が、6世紀第1四半期のものとみられることが、宮内庁書陵部の調査で分かった。

 古墳の築造時期とずれがあり、大山古墳の出土品である可能性は低くなった。

 調査成果は同庁の「書陵部紀要」に発表された。それによると、同庁研究官がボストン美術館の考古遺物を実見し、国内外の同類の遺物と比較して、
その実年代を検討した結果、同一古墳からの出土品であることを前提とすると、いずれも
「6世紀の第1四半期を中心とした時期であるとすることが最も妥当」と判断した。

 またこれらの遺物は、同美術館に勤務していた美術家・岡倉天心が1906年6月に、京都で購入した可能性が高いことも分かった。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110813-00000656-yom-soci

392よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/08/14(日) 08:49:33 ID:.lBx5.Cw0
先祖を思い祈り 四天王寺で万灯供養法要
2011年8月12日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110812/20110812021.html

 大阪市天王寺区の和宗総本山四天王寺(奥田聖應管長)で、盆行事の「盂蘭盆会(うらぼんえ)万灯供養法要」が行われている。境内・中心伽藍(がらん)に並ぶ約1万本のろうそくのともしびに参詣者らが先祖を思い、手を合わせている。16日まで。

 ろうそくの明かりは迷いの闇を晴らす「智恵」の光の象徴とされ、まとまって大きな感謝や祈りの火を上げる行事として、平安時代から行っている。

 戒名や先祖の霊名を記した特製の万灯ろうそくが金堂と塔を囲うように置かれ、夕刻から徐々に点灯を開始。ろうそくが燃え尽きるまでそばにたたずむ人々の姿が見られる。

 会期中は、同寺僧侶の列が般若心経を唱えながら伽藍内を練り歩く法要を厳かに執り行い、多くの参詣者らが後に続いて伽藍内を1周する。

 今年は伽藍の出入り口に細かい霧をまくミスト機械を設置するなど、ろうそくの熱気に包まれる参詣者らに涼んでもらう工夫をしている。

393よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/08/14(日) 08:51:52 ID:.lBx5.Cw0
救われた命、向き合う空襲 京橋駅空襲、あす慰霊祭
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK201108130091.html

 終戦前日の8月14日、米軍の爆撃で多くの市民らが犠牲になった「京橋駅空襲」。今年も慰霊祭が14日午前11時、大阪市城東区のJR京橋駅前で開かれる。終戦から66年。命拾いした高原秀夫さん(78)は、ようやく昨年から出席できるようになった。

 当時12歳。軍需工場に動員され、「東洋一」とうたわれた大阪砲兵工廠(こうしょう)に研修にきていた。

 正午ごろ。食堂へ行こうと、路上を歩いていた。警戒警報から空襲警報。ウーウーとうなるサイレンの間隔がどんどん短くなる。そして、敵機来襲のサイレンが鳴った。

 近くにいた将校のひとりが、「そこへ入れ」と防空壕(ごう)に逃げるよう指示。高原さんは壕へ飛び込んだ。

 スーっと音がし、数秒後に着弾したのだろう。地響きと轟音(ごうおん)。地面が揺れた。

394よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/08/14(日) 09:04:36 ID:.lBx5.Cw0
炎に浮かぶ幽玄世界 大阪薪能始まる
2011年8月12日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110812/20110812020.html

 大阪の夏の恒例行事「大阪薪能(たきぎのう)」(大阪能楽協会大阪支部、大阪薪能委員会主催)が11日、大阪市天王寺区の生國魂神社(中山幸彦宮司)で始まり、来場者はかがり火が照らす能舞台の幽玄世界に浸った。

 1546(天文15)年に同神社の神前で能が演じられたという故事にちなんで1957年から毎年開催され、今年で55回目。この日は、半能「敦盛」や狂言「御冷し」が披露された後、火入れ式が行われた。

 薪がパチパチと音を立て、幽玄世界を演出する中、第50回を記念して制作された能「生國魂」、続いて「紅葉狩」が上演され、来場者は炎に照らされた舞台に見入っていた。

 12日も午後5時半から開催される。

395よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/08/14(日) 09:28:01 ID:.lBx5.Cw0
なにわ人物伝 −光彩を放つ−

北畠 顕家(1)
2011年8月13日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/110813/20110813027.html
弱冠20歳で花と散る 市民の思い、堂々たる墓碑

三善 貞司
 北畠公園(大阪市阿倍野区王子町3丁目)にある北畠顕家の墓碑は広く知られる。「別当鎮守府将軍従二位権中納言兼右衛門督陸奥権守源朝臣顕家卿之墓」と刻まれた見事なもの。

 ただし、もとは「大名塚」と呼ばれた阿倍野古墳群のひとつで、古松一株ある塚だったが、享保8(1723)年並河誠所(なみかわせいしょ)がこれを顕家墳墓だと断定し、建墓したのに因(よ)る。

 井上正雄は名著『大阪府全志』で、次のように記している。

 「(大名塚と称した墳を)『太平記』の記事に因(より)て、卿の墳墓となしたるなり。岡田溪志(おかだけいし)の『摂陽群談(せつようぐんだん)』に、所伝云(いう) 北畠中納言顕家卿ノ古墳也(なり)ト とあり。是時(このとき)伝説のみにて称呼せしかば、並河永(誠所)の摂津志に至り、直(ただ)ちに顕家卿墓と標(しる)し、在阿部野村云々(うんぬん)と註(ちゅう)したれば、かく認定せられし」

 並河誠所は徳川中期の儒学者。伊藤仁斎の高弟。博学で知られ、経史・諸子百家(中国春秋戦国時代の思想家たち)から和歌・文武・兵法にまで通じたという。日本には地誌のないのを嘆き、享保年間(1716〜36)五畿内を歩いて史跡・口碑・伝承などを収集、『輿地(よち)通志』61巻にまとめて幕府に献上、世間を驚かせている。摂津志もそのひとつ、好奇心旺盛な学者だから、巷説(こうせつ)にとびついたのかもしれない。なお『摂陽群談』は元禄14(01)年の刊だから、溪志は30年ほど前に大名塚が顕家の墓というのは「伝云(伝承の話)」だと、明確に書いている。

 その伝承を事実だと認定した根拠は、『太平記』(著者不詳)の次の部分だ。

 「(天王寺で高師直(こうのもろなお)大軍と戦った顕家軍は)小勢なれば身命棄てて戦ふといへども、利無くして諸卒散々、顕家卿芳野へ参らむと志し、僅(わず)か二十余騎にて大敵の囲(かこみ)を出でむとせしも、戦功徒(いたず)らにして、五月二十二日、和泉の境安部野にて討死し給ひければ、相従ふ兵悉(ことごと)く腹切(きり)一人も不残失(う)せにけり」

 この記述を全くの誤伝だと指摘したのは文学博士星野恒で、大正初年に「北畠顕家卿の戦没地と其(その)墓」と題した論文を発表する。彼は「深掘文書」「吉川・小早川文書」等の古文書と、『公卿補任』『元弘日記裏書』等数多くの文献を詳細に検討し、大要次のように述べている(口語に直す)。

 (1)官軍(顕家軍)は延元3(1338)年3月16日、師直(足利尊氏(あしかがたかうじ)の家臣。合戦の名手高師直)兵と天王寺、及(およ)び安部野で戦い、官軍利を失って敗走。

 (2)5月6日、官軍堺浦を攻撃。和泉の日根野道悟、足利勢に加担し防戦。

 (3)5月8日、師直天王寺に陣す。

 (4)5月9日、官軍熊取・佐野・長滝三城を攻めるも、道悟軍に敗北。

 (5)5月16日、師直堺浦の官軍を猛攻。

 (6)5月22日、顕家官軍諸兵を糾合(きゅうごう)し、堺浦師直兵を攻撃するも大敗。顕家石津で戦没。名和義高・南部師行・新田綿打等皆死す。

 さらに恒は、顕家の戦死を喜んだ足利尊氏が、諸国の大名たちに告知した手紙を挙げ、そのなかに「五月二十二日辰刻(たつのこく)摂津国堺浦 顕家・綿打等凶徒数輩討(うち)取」「顕家等凶徒和泉石津 悉討取」などと記されていると明示し、「安部野は天王寺と接している。敗走した顕家軍が、師直の本陣に近い安部野で戦うわけがない。太平記の著者の杜撰(ずざん)なうろおぼえにすぎず、資料の価値もない」と断定している。

 事実はそうであろうが、北畠公園は昭和3(1928)年「北畠顕家顕彰会」が募金活動を行い、墓域を拡張、民家や私有地を買収して史跡公園を造成、大阪市に寄贈したものだ。二重台石に伏亀を置き竿石(さおいし)を乗せた堂々たる墓碑で、弱冠20歳で花と散った若武者顕家を惜しむ市民の熱い思いがあふれている。

(地域史研究者)

396よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/08/14(日) 09:31:06 ID:.lBx5.Cw0
澪標 ―みおつくし―

文学者を偲ぶ住まい 高橋 俊郎
オダサク倶楽部・図書館司書
2011年8月12日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/miotukusi/110812/20110812027.html

 文学者のゆかりの地やその作品の舞台を歩き、空間を共有することが文学散歩の楽しみだが、街の匂いや音の風景、その住まいのたたずまいからは、作家の息遣いすら感じる時がある。ただ、その住まいが残されているものは少ない。

 東京都新宿区に「林芙美子記念館」がある。『放浪記』を代表作とする林芙美子が、昭和16年に建てて夫や母と暮らし、第2次大戦の戦災からも免れ、大阪を舞台にした『めし』を新聞連載中の昭和26年に亡くなるまでを過ごした住居である。

 茶の間や客間、書庫などが当時のまま残され、新宿区の文化財に指定されている。著名な建築家山口文象の設計で、純和風建築の中にもバウハウスの流れを引くモダンな感覚や、芙美子のこだわりが随所に感じられ、広い庭とともに落ち着いた豊かな空気が流れている。自らが調理したという台所の流し台の高さは、小柄な芙美子を想像させ、倒れて亡くなったという書斎では、背を丸めて一心不乱に執筆する姿を見たような気がした。

 全国に文学者の記念館は様々(さまざま)あるが、自宅をそのまま記念館としたものは意外と少ない。時代の古い作家の場合はもとより、戦災で失われたものなど現在に残るものが少ない中で、老朽化や所有者の事情で失われてしまうものもあり、残念すぎる現実もある。

 大阪ではこの1月に、東住吉区北田辺にあった開高健の育った家が解体された。神奈川県茅ケ崎市には、亡くなるまでの15年間を過ごした邸宅が「開高健記念館」として残されているから、大阪人としては寂しさが増すばかりである。

 逆に、直木三十五は生まれ育った中央区谷町に、民間のからほり倶楽部を中心にして、6年前に「直木三十五記念館」が建てられた。この記念館の内装のモデルは、晩年に自ら設計した横浜市金沢区富岡東の邸宅だが、この邸宅が6月末に取り壊された。

 関東大震災後に関西に移り住んだ谷崎潤一郎は転居をくり返したが、昭和3年に神戸市東灘区岡本に自ら設計して建てた「鎖瀾閣(さらんかく)」は阪神大震災で全壊して、再建はできなかった。他に住んだ家は『細雪』の舞台となった東灘区住吉東町の「倚松庵(いしょうあん)」や芦屋市宮川町の「打出の家」が残されていて、芦屋市には「谷崎潤一郎記念館」が建てられている。

 住まいが残されていなくても、記念館や文学館によすがを残すと、地域の資源として生かされる。川端康成は北区天神橋に生まれ、東淀川区豊里を経て茨木市で育ったが、昭和60年に茨木市が「川端康成文学館」を建てた。茨木市には中央図書館に併設して「富士正晴記念館」もあり、その書斎も再現されている。

 さて、紛れもなく大阪の作家である織田作之助は天王寺区生玉前町の長屋に生まれたが、もちろんその生家は残っていない。しかし、生涯にそこだけ「織田」の表札を出し、そこで『夫婦善哉(めおとぜんざい)』も執筆した新婚当時の長屋が堺市東区丈六に残っており、東京に出て亡くなる直前まで身を寄せた富田林市寿町の実姉宅に残された遺品が、近くの旧杉山家住宅に展示されている。生誕百年を2年後にひかえて、織田作之助という資源を大阪としてどう生かすのか、私たちの課題に他ならない。

 (たかはし・としろう 大阪市西区)

397よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/08/14(日) 10:38:52 ID:.lBx5.Cw0
2011年8月13日
境内に映えるサギソウ 坐摩神社
http://www.sankei-kansai.com/2011/08/13/20110813-056521.php

 大阪市中央区の坐摩(いかすり)神社で栽培されている「サギソウ」=写真=が見ごろを迎え、風に揺れる純白の花々が訪れた人たちを楽しませている。

 サギソウは、日当たりの良い湿地などに自生するラン科の多年草。細長い茎の先に直径3センチほどの白い花を2〜3個ずつ付け、シラサギが翼を広げた姿によく似ている。

 同神社の神紋「鷺丸」にちなみ、権禰宜(ごんねぎ)の北岡忠澄さん(36)が十数年前から育てており、境内には「青葉」「暁」など5種類のサギソウ約40鉢が並ぶ。順々に花を咲かせていくため、9月上旬まで楽しめるという。

 北岡さんは「サギソウの白い花を見てひとときの涼を感じてもらえれば」と話している。問い合わせは同神社(電話06・6251・4792)。

398よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/08/14(日) 13:10:12 ID:.lBx5.Cw0
終戦前日の空襲 犠牲者慰霊祭
http://www.nhk.or.jp/lnews/osaka/2004769391.html

66年前のきょう、終戦の前日にアメリカ軍の空襲で大きな被害を受けた大阪・京橋で犠牲者を追悼する慰霊祭が行われました。
大阪・城東区の現在のJR京橋駅の付近は終戦前日の昭和20年8月14日にアメリカ軍の爆撃機による空襲を受け、住民や電車の乗客など500人を超える犠牲者が出たと言われています。
JR京橋駅ではこの悲惨な歴史を風化させまいと毎年、犠牲者の遺族や地元の人たちが慰霊祭を行っていてきょうはおよそ200人が参列しました。
慰霊祭では千羽鶴がささげられた慰霊碑の前で近くにある大阪市立聖賢小学校の児童が「学校で空襲や戦争を学びましたが、爆弾が落ちたとき、自分がそこにいたらと思うと恐くてたまりません。世界中から戦争がなくなる日が来ることを願い、わたしたちも二度と戦争を起こさないことを誓います」と平和への言葉を読み上げました。このあと法要が営まれ、参列した人たちは戦争で犠牲になった人たちに祈りをささげ手を合わせていました。
当時、現場にいたという81歳の男性は「爆弾が落ちた後、あちらこちらに手や足のちぎれた大勢の女の人が倒れていました。戦争は本当にいやだという思いで体が動く限りこれからも参列したいと思います」と話していました。

08月14日 12時18分

399よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/08/14(日) 13:16:45 ID:.lBx5.Cw0
「今でも爆撃思い出す」 大阪・京橋駅空襲慰霊祭
2011.8.13 23:39
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110814/osk11081412270004-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110814/osk11081412270004-n2.htm

 終戦前日の昭和20年8月14日、米軍の爆弾が現在のJR京橋駅(大阪市城東区)を直撃し、乗客ら数百人の命が奪われた京橋駅空襲。14日に66回目の慰霊の日を迎え、同駅近くで慰霊祭が営まれる。

 「今でも高架下で電車が通り過ぎる轟音(ごうおん)を聞くと、爆撃を思い出す」と話すのは慰霊祭世話人会会長で元府議の京極俊明さん(80)=大阪市北区。

 当時、旧制生野中学校(同市生野区)に通っていた京極さんは、空襲警報が鳴ったため、直ちに帰宅を命じられ、友人2人と城東線の寺田町駅から大阪駅行きに乗った。途中、「爆撃のたびに、電車が上下に揺れた。車内は大混乱だった」と振り返る。

 電車が京橋駅に到着したのは午前11時過ぎ、片町線の連絡口へ走ると、40〜50歳ぐらいの男性から「ここはもういっぱいや」と突き飛ばされた。泣きじゃくりながら別の避難場所を探し、屋外の高架下に駆け込むと、そこでも軍刀を持った将校から別の場所へ行くように指示をされた。

 結局、京極さんは近くの溝に隠れたが、まもなく、爆弾が駅を直撃し、将校らの姿は消えていた。

 「もし、将校らが自分を迎え入れていたら、自分も死んでいたかもしれない」と京極さん。その後、一緒に下校した友人が亡くなっていたことも知った。

 「駅で亡くなった人たちは避難のため家などに向かう人々が多かったはず。途中で命を落とし、家族に会えず、どれほど無念だったことか」

 京極さんは、昭和30年から始まった慰霊祭への出席を30年以上、続けている。「今では地元でも、当時のことを知る人が少なく、慰霊碑にいたずらをする人さえいる。戦争の悲惨さを伝え続ける灯を守っていきたい」と話していた。

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401よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/08/15(月) 18:44:14 ID:XBa16Z460
四天王寺 戦没者の慰霊式
http://www.nhk.or.jp/lnews/osaka/2004871731.html

きょうは、終戦の日です。
大阪・天王寺区の四天王寺では戦争で亡くなった人たちを悼む慰霊式が行われました。
この慰霊式は戦争で亡くなった人たちを悼み、平和な世界になるよう祈ろうと終戦の日にあわせ大阪の四天王寺が毎年行っているものです。
終戦から66年になるきょうは、戦争で亡くなった人の遺族などおよそ40人が参列し僧侶が追悼のお経を唱えた後、順番に焼香し、戦争の犠牲者を思いながら静かに手を合わせていました。
式が行われたお堂には、戦前、重さがおよそ160トンある当時、世界最大級の釣り鐘がありましたが戦争中に物資として供出され戦後は遺族の願いで戦没者をまつるお堂として改装されたということです。
参列した76歳の男性は「戦争が終わって66年が経っても私にはまだ時間が止まっているように感じられます。当時は小学生でしたが戦地に行く父親を見送った時の最後の姿がよみがえってきました」と話していました。

08月15日 16時05分

402よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/08/16(火) 06:49:30 ID:WdUVLwBs0
精霊流し オフィス街協力
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110816-OYT8T00026.htm

お盆の15日、大阪市内を流れる堂島川にかかる玉江橋南詰めで、先祖をしのぶ「精霊流し」があった。行事を担う中之島連合振興町会(同市北区)の高齢化が進み、今年から近くのオフィス街の会社員らがボランティアで参加。町会メンバーらは「伝統行事に新しい息吹を」と期待を寄せた。

 精霊流しではかつて、川に供え物を流していたが、数十年前に川の汚染防止のために中止になり、今は供え物を市の清掃車が回収。同時に住民らが川岸に設置されたろうそく台に灯をともし、手を合わせている。

 町会は、最年少役員でも60歳近くと高齢化が進行し、「このままでは担い手がいなくなる」と危機感を強め、注目したのが近くのオフィス街。7月、約700事業所に協力依頼の文書を投函(とうかん)すると、約30人がボランティアに名乗り出た。

 この日、ボランティアはろうそく台の設置や、交通誘導に汗。中之島にある建設会社の社員五百井絢子さん(34)は、PR活動に役立てるために写真撮影を担当。「大勢の人が次々と来て、生活の一部になっている大切な行事だと感じた」と言う。町会の依田均会長(67)は「伝統を絶やせない。外からの目で課題を指摘してもらいながら、協力して残していきたい」と話した。

(2011年8月16日 読売新聞)

403よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/08/16(火) 20:15:08 ID:A2bPOB8A0
大阪空襲死没者追加銘板を除幕 名前確認 遺族安ど
2011年8月16日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110816/20110816024.html

 大阪市中央区のピースおおさか(大阪国際平和センター)で14日、「大阪空襲死没者追加銘板」の除幕式が行われ、集まった遺族らが新たに記された空襲被災者の名前を確認し、冥福を祈った。

 「大阪空襲死没者銘板」は、米軍による大阪空襲の死没者の氏名を登載した銅板。「大阪戦災障害者・遺族の会」が調査・作成した6千人分の名簿が1999年に同センターに寄託され、センターが引き継いで調査を実施し、9千人近くの名前が判明している。死没者を追悼し平和を祈念するため銅板に名を入れ、2005年につくった「刻(とき)の庭」に設置。設置以降に判明した死没者数は94人で、今回追加登載された。

 「豊中市に住んでいて防空壕(ごう)に逃げ込んだ時、爆弾が落ちた。私も含め家族が生き埋めになり、兄が亡くなった」と話す上田文子さんは、戦後生まれの妹の南節子さんとともに、兄の名前を確認しホッとした様子だった。

 「大阪戦災障害者・遺族の会」の伊賀孝子さんは「(遺族の気持ちとして)刻んだり、掘ったりするのは嫌だったので(銘板の名前は)打ち出してもらった。国籍も職業も問わないことに決めて行っている」と話していた。

404名無しさん:2011/08/16(火) 20:33:53 ID:9jiMpZ5k0
終戦記念日、私は東京在住なので靖国にまいりますが、
大阪の皆様はどこか決まって英霊を追悼しに行かれる場所ありますか?

405よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/08/17(水) 21:26:24 ID:hMsUk6To0
大阪税関:引き揚げ者の紙幣など虫干し−−1万点 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110817ddlk27040247000c.html

 大阪税関(大阪市港区)は、終戦後に海外引き揚げ者から預かった紙幣や証券など約1万点の虫干しを公開した。

 戦後、GHQ(連合国軍総司令部)は経済の混乱を防ぐため、海外からの通貨や国債、株券などの持ち込みを制限。大阪税関では、京都・舞鶴港と和歌山・田辺港で約5万3000人から11万点以上を預かった。

 約6割は持ち主や家族に返したが、返却数は年々減り、昨年は6点のみ。現在も4万5000点の引き取り手が現れていない。大阪税関は「貴重な品をできるだけ多くの方に返したい。気軽に連絡を」と話している。問い合わせは大阪税関(06・6576・3115)。【近藤希実】

406よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/08/17(水) 21:34:19 ID:hMsUk6To0
つなぐ(上)児童書で大阪の模擬原爆描く
2011年08月17日
http://mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000001108170004

 本当(ほんとう)にあったことなのだ。それもすごく遠(とお)い、だれか知(し)らない人(ひと)どうしがやったことではなく、あたしの住(す)んでいるこの町(まち)の、いつもアイスを買(か)いに行(い)くコンビニの場所(ばしょ)にも、爆弾(ばくだん)が落(お)ちたのだ。

 先月26日に出版された児童書「パンプキン! 模擬原爆(もぎげんばく)の夏」(講談社)の一場面。小学5年生のヒロカは、冷えたスイカを食べる気にもなれないくらいショックを受けた。夏休みのある日、大阪市東住吉区の自宅近くに昔、米軍が原爆投下の訓練のための爆弾「パンプキン」(模擬原爆)を落とした事実を知り、その理由を聞いたからだ。ヒロカの驚きは、本を書いた児童文学作家の令丈(れいじょう)ヒロ子さん(47)の体験でもある。

 ヒロカと同じ、大阪市東住吉区で生まれ育った。1990年にデビューし、ヒット作の「若おかみは小学生!」シリーズは発行部数230万部を数える。2005年、近くのコンビニに行く道すがら、ビルの脇にひっそりたたずむ石碑に気がついた。

 「模擬原子爆弾投下跡地」。何だろう、これ。繰り返し読んでもピンとこない。近所の人に聞いても首をかしげるばかり。08年、地元で模擬原爆の歴史を語り継いでいるメンバーに出会い、碑の意味を知った。

 終戦直前の45年7月26日、この地にパンプキン爆弾が落とされ、7人が亡くなり、多くの住民がけがをしたこと。パンプキンは14日後に長崎に落とされ7万人以上の命を奪った原爆と同じかたち、重さだったこと。大阪だけでなく日本各地に計約50発が落とされたこと――。

 自分の生活から遠かった「ヒロシマ」「ナガサキ」が急に身近に感じられた。「大阪が被爆地になっても、おかしくなかった」。メンバーの思いを受け止め、初めて史実に基づく著作に挑戦することにした。

 調べるほどに事実は重く、何度もくじけそうになった。「直接の体験者でも、2世でもない自分が、原爆を扱っていいのか」と悩んでいる時、被爆2世の同業者朽木祥さんから励まされた。「無関心になるのが一番怖い。子どもたちに伝えてほしい」

 裾野の広い児童書で、戦争を体験した世代と子どもたちの「中継ぎ役」になろう。そう思った令丈さんは子どもたちが理解しやすいように、戦争に関心が薄い子どもだった自分を登場人物にダブらせた。

 作品では、事実を知ったヒロカは、父親や祖父、同い年のいとこの助けを借り、パンプキン爆弾や原爆、戦争、日本以外の核の被害も調べ、自由研究として壁新聞にまとめた。

 「パンプキン!」は発売1週間で増版が決まった。令丈さんは「受け止め方は様々でいい。大人も含め、パンプキン爆弾のことを知り、事実を知るきっかけになってくれたら」と話す。

◇若いみなさんへ◇

 痛みを伴うかもしれないけれど、自分の国の過去、事実を知る努力をしてほしいです。事実を知らないと、声の大きい人の意見に「そうかな」と思ったり、他者の気持ちがわからなかったりしてしまいます。自分の意見を持つことが大事。新聞でいつもは読まないような記事をみる、ケータイやパソコンで検索してみるなど、ほんのちょっとした「知る努力」をするだけで、ずいぶん違うのではないでしょうか。(談)

 ◇

 戦後66年。戦争体験者の高齢化が進む中、戦争の事実を若い世代につなぐ取り組みをする戦後世代を紹介する。(この連載は3回です)

407よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/08/17(水) 21:41:39 ID:hMsUk6To0
66年目の「終戦の日」 ろうそくともし戦没者供養
2011年8月17日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110817/20110817023.html

 66年目の「終戦の日」を迎えた15日、大阪市天王寺区の旧真田山陸軍墓地では埋葬される戦没者らを供養しようと約5500本のろうそくに火がともされ、墓地一帯が幻想的な雰囲気となった。

 同墓地は、1871(明治4)年創設。明治維新後の戦没者や、病気、事故などで亡くなった兵士らが埋葬されており、墓碑は5200基以上あるという。

 ろうそくの点火は、近隣の興徳寺(青木隆興住職)が毎年この日に寺の精霊流しに合わせて実施。本堂に参った檀家(だんか)らがろうそくを手に墓地を歩き、周囲に生えた草などを取り除きながら1本ずつ丁寧に明かりをともしていった。

 また今年は「日本の心」の探究を目的に教養講座などを開くNPO法人大楽小楽(同市中央区)の会員らも初めて参加。真田山陸軍墓地維持会常務理事の吉岡武さん(73)らの案内で墓地を巡った後、ろうそくの点火に加わり、鎮魂の思いを込めて「ふるさと」などを合唱した。

 同NPO法人理事長の石黒一さん(81)は「今の日本では国を守るという議論が一切なされていない。人によって思いを異なるだろうが、きょうの活動をきっかけに皆で真剣に考えてほしい」と話していた。

408名無しさん:2011/08/19(金) 21:01:03 ID:zxAJVKpU0
http://www.sankei-kansai.com/2011/08/19/20110819-056730.php

2011年8月19日
【海を越えて 松下幸之助研究】(上)欧州で共鳴した経営理念

 8月の強い日差しを浴びた南欧風の建物は、周囲の工場と一線を画し、そこだけ異彩を放っていた。

 1933(昭和8)年の本店社屋を復元した大阪府門真市の「パナソニックミュージアム 松下幸之助歴史館」。パナソニックの幹部、社員もたびたび足を運ぶこの歴史館に、50回以上訪れた外国人がいる。

 パナソニックの英国販売会社パナソニック イギリスの社長をつとめるキース・エバンス(55)だ。

 「歴史館で会社の変遷を見ると、創業者は大恐慌を経験し、第二次世界大戦後は一からやり直さなければならなかった。しかし、決して諦めなかった」

 日本の企業経営者で、幸之助のことを知らない人はまずいない。書店には幸之助の関連本があふれ、自らも数え切れないほどの言葉を残している。それらは日本だけでなく、海を越え、エバンスのように海外にも熱烈な信奉者を生み出してきた。

      □   □
 
 幸之助が活躍した時代は日本の高度成長期と重なっていたため、国内でのさまざまな経営政策に目が奪われがち。が、海外に対する興味と熱意は創業時から並々ならぬものがあった。

 1935年に初の海外駐在員をフィリピンに置き、この年には外国人社員を初採用。39年には中国・上海に乾電池を生産する海外初の工場を設立した。

 終戦で海外の工場は相手国に接収されたが、59年に海外販売会社「アメリカ松下電器」、61年に戦後初の海外製造会社「ナショナル・タイ」を設立した。

 幸之助自身も、生涯で計19回、11カ国を訪問。海外の先端技術や経営手法を相次いで導入する一方、「経営理念は当社の方がすぐれているとの確信を得た」という。

      □   □
 
 幸之助は51年に英国など欧州を初視察した。それから約60年―。欧州は今、各国の財政不安が高まり、物価高騰で消費低迷が続く英国の経済状況も厳しい。

 「欧州は文化も言語も生活習慣も異なる。こうした中では、経営理念の存在がビジネスを展開するときに重要となる」とエバンスは強調する。

 幸之助がわずか34歳で定めた「綱領」、いわゆる経営理念は単純明快だ。

409名無しさん:2011/08/19(金) 21:01:33 ID:zxAJVKpU0
《生産・販売活動を通じて社会生活の改善と向上を図り、世界文化の進展に寄与すること》

 きわめて当たり前のことが書かれているが、こうした理念を掲げる企業は確実に減りつつある。だが、同社幹部の一人は「創業者の言葉がよりどころとなることは少なくない」と話し、エバンスも「コモンプラットフォーム(共通基盤)があることは強みだ」と説く。

 経営理念の存在は、同じ思想を持つ企業同士を結びつけることもある。フランスで家電量販店などを展開する流通大手Fnac社と同国で強固なサプライチェーン(供給網)を構築できたのは「経営理念を共有化できたことが大きい」と顧問の大月均(64)は話す。両社の協業は商品の共同企画にまで発展し、欧州における量販店政策のビジネスモデルとなっている。

      □   □ 

 幸之助が死去し、すでに22年。パナソニック イギリス社長のエバンスは、生前の幸之助に一度も会ったことがない。

 「もしも生きていたらこう言われるでしょうね」

 『新しい変化を何か取り入れましたか?』

 軸(理念)は変えず、それ以外は変化を恐れない―。これは混沌(こんとん)とする世界経済など激動の今を乗り切るためのヒントでもある。 =敬称略

       ◇
 
 米欧の財政悪化は金融市場を揺さぶり、世界経済の先行きは不透明さを増している。経営者が今なすべきことは何なのか。「経営の神様」と呼ばれた松下幸之助の海外展開を通じ、その答えを導き出してみた。

 まつした・こうのすけ 明治27年和歌山県生まれ。9歳のとき奉公に出され、15歳で大阪電燈(現・関西電力)入社。大正7年に松下電気器具製作所を創業した。一代で世界的な電機メーカーを築き上げるとともに、独自の経営論などで後の企業経営者に大きな影響を及ぼした。昭和54年には私財を投じて松下政経塾を設立、政治家の育成にも力を注いだ。平成元年4月、94年の生涯に幕を閉じた。

410名無しさん:2011/08/19(金) 22:14:19 ID:zxAJVKpU0
http://www.sankei-kansai.com/2011/08/19/20110819-056736.php

2011年8月19日

【リポート大阪 2011】旧府庁舎跡にマンション建設 "大大阪の証言者"に保存の声
 明治初めに建設され、昭和20年の大阪大空襲で焼失した旧府庁舎跡が、大阪市西区江之子島(えのこじま)の発掘調査で見つかった。建物の豪華さから「江之子島政府」といわれ、大阪市が人口、面積とも首都・東京市(当時)をしのぐ「大大阪時代」(昭和初め)を見届けた歴史の証言者。しかし、マンション建設で破壊されることになり、研究者らから「一部でも保存を」との声が上がる。(小畑三秋)

 旧府庁舎跡は、高層マンションなどに囲まれた一角で出土。地下のレンガ積みの壁は人の背丈まで残り、旧府庁舎のシンボルだった円形ドームの基礎や石の階段などは当時のまま。発掘現場を歩くと明治期にタイムスリップしたようで、7月30日の現地説明会には千人近くが訪れた。さびた鉄扉もひしゃげた状態で残り、66年前の空襲の痛々しい姿をとどめる。

 発掘は、旧府庁舎跡用地の民間売却に伴って府文化財センターが実施。重機で1メートルほど掘り下げると大量のレンガが出土し、レンガ積みの高さ2メートル近い暖炉や、床がタイル敷きの豪華な部屋なども見つかった。

 石田潤一郎・京都工芸繊維大教授(近代建築史)は「レンガの大量生産ができなかった時代に、これほどふんだんに使ったのは当時の先端技術を駆使した証し」とし、「明治という新しい時代の到来を示す最高の権威として造られたのだろう」と話す。

 しかし、旧府庁舎跡はマンション建設で姿を消すことになり、「記録保存する」(府教委文化財保護課)という。記録保存は、発掘調査で写真撮影や測量などを行い報告書として記録することで、遺跡そのものは残らず、保存とは程遠い。

 文化庁記念物課によると、平成21年度に本格調査された全国の遺跡のうち記録保存は8割以上を占め、残りは史跡整備や学術調査などに伴うもので保存が前提。開発で破壊される予定の遺跡が、保存される例は極めてまれという。

 旧府庁舎跡の全面的保存となれば、売却した土地を再び買い戻さなければならず、事実上不可能。暖炉や壁など一部の保存について府教委文化財保護課は「技術的には可能」としながらも、「調査費として開発業者側に数千万円を負担してもらっている」とし、保存する場合、費用面などの課題も多い。同課は「レンガの一部など、現場で取捨選択して資料として持ち帰る」と説明するにとどまる。

 近代遺跡が大規模に調査される例は少なく、石田教授は「保存には大変な面もあるだろうが、大阪が輝いていた時代を示す貴重な資料。暖炉やドームの基礎など一部でも残すよう努力してほしい」と話す。

旧府庁舎 明治維新とともに江戸幕府の旧西町奉行所(大阪市中央区)が使われたが、明治7年に外国貿易の拠点となる大阪湾近くの江之子島に移転。今回見つかった建物跡は2代目にあたる。円形ドームのある2階建ての中央棟と南北棟があったが、手狭になったため大正15年に現在の場所(中央区大手前)に移された。2代目庁舎はその後、府工業奨励館として使われたが、空襲で焼失した。

411名無しさん:2011/08/19(金) 22:27:29 ID:zxAJVKpU0
http://www.sankei-kansai.com/2011/08/18/20110818-056685.php

2011年8月18日

弥生時代の謎 銅鐸に迫る 和泉市の弥生文化博物館で特別展
 弥生時代最大の謎を秘めた青銅器「銅鐸(どうたく)」をテーマにした特別展「豊饒(ほうじょう)をもたらす響き 銅鐸」が、大阪府和泉市池上町の府立弥生文化博物館で開かれている。精巧な文様のある国宝銅鐸(神戸市桜ケ丘出土)など70点を展示。弥生人の高度な技術や精神世界に迫ることができる。9月11日まで。

 銅鐸は約2200年前の弥生時代中期から同時代末までの約400年間にわたり、近畿から中四国を中心に出土。全国で約600個が確認されている。

 銅鐸にはシカや鳥、人が脱穀をする様子などが描かれ、五穀豊穣(ほうじょう)などを祈ったとされる。本来は鐘のようにつるして音を鳴らしていたのが弥生時代末になると1㍍以上の大型になり、祭壇に置いて祭祀(さいし)で使ったとされる。集落中心部より山間部などで見つかることが多く、勢力圏の境界に埋めることで外敵の侵入を防ごうとしたともいわれる。

 特別展では、時期とともに製作技術の変遷がたどれるよう工夫。製作途中で青銅が行き渡らなかったため補修した痕跡のあるものや、表面が極めて丁寧に磨かれたものなど“匠の技”もたどることができる。

 銅鐸に詳しい奈良文化財研究所の難波洋三企画調整部長は、同博物館の講演会で銅鐸の意義について解説。当初は河内地域など限られた場所で生産されたのが近畿周辺も含めて10カ所以上に増え、再び数カ所に集約されていくとし「倭国が『百余国』から『三十国』になり、邪馬台国など有力勢力にまとまっていく状況を反映した可能性もある」と指摘した。

 会期中の講演会の日程は次の通り。27日=「大岩山銅鐸からみえてくるもの」鈴木康二・滋賀県立安土城考古博物館学芸課主任▽9月11日=「弥生時代祭祀と銅鐸」金関恕(ひろし)・弥生文化博物館長。いずれも午後2時から。

 問い合わせは同博物館(電話0725・46・2162)。

412よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/08/20(土) 18:45:43 ID:n9uWDWaM0
なにわ人物伝 −光彩を放つ−

北畠 顕家(2)
2011年8月20日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/110820/20110820050.html

学問優秀、武芸・軍略に通ず 18歳で2国を与えられる

 三善 貞司
 大阪では今も花と散った若武者として人気の高い北畠顕家は、文保2(1318)年北畠親房(ちかふさ)の長男に生まれた。

 父親房は後宇多(ごうだ)・後醍醐(ごだいご)・後村上(ごむらかみ)三天皇に仕えた宮廷の元老で、とりわけ後醍醐天皇の信任は厚く、元亨元(21)年院政が廃され後醍醐天皇の親政になるや右腕となって補佐し、皇子世良(ときなが)親王の養育に当たったが、元徳2(30)年親王が夭折(ようせつ)、嘆き悲しんで宗玄と名を改めて出家、表舞台から消える。

 そちの責任ではないと強く慰留してならなかった天皇は、この年代わりにまだ12歳の顕家を左中弁(さちゅうべん)に任じ、2年後には参議に昇進、左中将(さちゅうじょう)も兼ねるという異例の出世で、廷宮たちの物議をかもした。しかし天皇のえこひいきではない。学問に優れ武芸・軍略に通じ、しかも天皇の北山行幸に供奉(ぐぶ)したおり、花宴で羅陵王(らりょうおう)(雅楽の演目の一。中国北斉の羅陵王長恭が、美貌を仮面でかくし敵軍を破ったもの=抜群の技量と美少年でなければ勤まらぬ)を演じて列座の人たちを感嘆させたから、誰もが麒麟児(きりんじ)だ、神童だともてはやすようになる。

 政治改革を目指していた後醍醐天皇は、幕府の失政が続き武家の信頼までゆらぐのに目をつけ、王朝統一を図り元弘元(31)年討幕の計画を立てるが捕縛され、隠岐に流された。いわゆる「元弘の変」だ。しかしこの事件は北条幕府に不満を持つ足利尊氏(あしかがたかうじ)・新田義貞(にったよしさだ)・名和長年(なわながとし)らが挙兵する火種になり、全国的な内乱となって幕府は壊滅、同3年「建武の中興」と呼ばれる王朝中心の新政府が誕生する。

 建武の中興は鎌倉から西の畿内・中国地方が中心だったから、難題は奥羽両国(陸奥と出羽)の治安だ。そこで天皇はまだ15歳の顕家を従三位に叙し陸奥守に任命、皇子義良(のりなが)親王をつけて任地に赴任させる。顕家は宮城郡多賀を国府とし、鎌倉幕府の職制をまねた政務機構をつくり、高官に奥羽の武将たちを起用、大変な努力と苦心を重ね、なんとか人心を掌握する。もちろん建武の中興のときは、出家の身として政治に全く関わりを持たなかった父親房が同行、神童とはいえ世事に慣れぬ顕家をよく支え、なにかと知恵を出したのが大きい。

 奥羽安定の知らせを受けた後醍醐天皇は手放しで喜び、勲功白眉(はくび)なりとして従二位、鎮守府将軍に任命との破格の待遇で報いる。

 しかし天皇の性急な理想政治構想は、2年たらずで破綻した。建武中興最大の功労者足利尊氏の野望だ。彼が北条幕府を倒したのは父祖の志を継ぎ、源氏による幕府再興のためで、百数十年も続いた武家政治を王朝政治に改めることではない。論功行賞に不満を持つ地方の武将たちも取り込み、建武2(35)年北条の残党北条時行(ときゆき)の反乱を押さえると称して大軍を率いて下向、鎌倉に居座って勅命にも従わなくなる。

 天皇は新田義貞軍を差し向け、京に召喚しようとするが両軍は箱根で激突、義貞軍は大打撃を受けて敗走する。尊氏軍は追跡して京に迫り、朝廷方は楠木正成(くすのきまさしげ)に防戦させたが兵数に大差があり、天皇は京を離れ比叡山の延暦寺に落ちた。天皇が待ち焦がれていた顕家が、ようやく奥羽から駆け付けたのは、その直後である。

 翌延元元(36)年1月、顕家は新田義貞・楠木正成・結城宗広(ゆうきむねひろ)らと軍略を練り、京の皇居を占拠した尊氏軍と激突する。正成の知略と顕家軍の勇猛果敢な攻撃はすさまじく、尊氏軍は徹底的にたたきのめされ逃走、追撃した正成・義貞軍に西宮の打出浜で包囲され壊滅、尊氏らは辛うじて海上に逃げ、船で鎮西(九州)目指して落ちていった。

 顕家は京にとどまり足利色を一掃、大喜びの天皇は、鎮守府大将軍、権中納言に任じ、常陸(ひたち)・下野(しもつけ)の二国を与える。まだ18歳の若者にだ。

(地域史研究者)

413よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/08/20(土) 19:09:58 ID:n9uWDWaM0
2011年8月20日
【海を越えて 松下幸之助研究】(中)アジア進出 利益は二の次
http://www.sankei-kansai.com/2011/08/20/20110820-056767.php

 2008(平成20)年5月10日、大阪府門真市の松下電器産業(現パナソニック)本社は朝から緊張したムードに包まれていた。国賓として訪日した中国の胡錦濤国家主席が午後、同社を視察することになっていたからだ。

 「中国の省エネ・環境保護分野に新たな貢献を果たしてほしい」

 胡主席は応対した中村邦夫会長にこう要請した。その光景は30年前のあの日を再現したかのようだった。

 ■ □ ■

 小雨が降る中、当時相談役だった83歳の松下幸之助は大阪府茨木市のテレビ工場正門前で、中国のトウ小平副総理(当時)を出迎えた。1978(昭和53)年10月28日のことだ。

 トウ氏は、音声多重のカラーテレビなどに関心を示しながら工場を視察。電子レンジであっという間に出来上がった湯気を立てるシューマイを工場社員に差し出され、驚いた表情を見せながら口にほうり込んだ。

 「技術・経営面での援助をお願いしたい」

 「できる限りのお手伝いをします」

 中国の改革開放を進めていたトウ氏の要請に対し、幸之助はこう快諾した。パナソニックの中国事業が本格的に動き出した瞬間だ。

 79年に白黒テレビのブラウン管プラントを初輸出。87年には現地企業との合弁によるカラーブラウン管の製造会社「北京・松下彩色顕象管」を設立。日本企業による戦後初となる中国への工場進出となった。現在、パナソニックは中国に約120社を展開、社員数は計約10万人にのぼるなど、日本企業として最大規模を誇る。

 ■ □ ■

 業界に先駆けて中国進出を決断した幸之助だが、それは市場の成長性を先読みして商機と考えたからではない。進出にあたっては収益性を詳細に調べ、検討を重ねるが、相手国の発展につながるかどうかを最終の判断基準としていた。

 《まず相手国の利益を第一に考える。自分の企業のため、自分の国のためをまったく考えないというのではないが、それが先になってはいけない》

 株主重視で利益を優先したり、円高対応で海外に生産移転する今の企業経営者とは異なり、「進出国の発展、人々の福祉に役立つこと」にこだわり、それを進出理由としてきた。インドネシアもそのひとつだ。

 ■ □ ■

 「1万以上の島々に住む国民とコミュニケーションがとれるようラジオの生産に協力してほしい」。インドネシアの財閥企業の創業者モハメッド・ゴーベル氏の要請に対し、ある日系電機メーカーは「商売にならない」と一蹴。だが、幸之助は「産業を興す手伝いができるのならば」と技術援助を決めた。中国進出のときと同じだ。

 1962年に同国初の白黒テレビを生産以来、両社の事業提携は相乗効果を発揮し、販売、製造会社が次々と設立された。「創業者がすごいのは産業の基盤となる人づくりにも真剣に取り組んだところだ」。白物家電などの生産会社パナソニック マニュファクチャリングインドネシアの菅沼一郎社長はこう話す。

 《ものをつくる前にひとをつくる》

 幸之助が残した有名な言葉のひとつだが、インドネシアでは79年に私財を投じて教育財団を設立し、人材育成にも心血を注いだ。

 ■ □ ■

 トウ氏の要請から約30年を経てパナソニックは今、中国の環境先進化のための協力を求められている。5月末には、中国に家電リサイクルの新会社を合弁設立すると発表した。

 韓国勢が世界の家電市場を席巻する中、「幸之助のグローバル観はそのままに今後は新たな強みが求められる」(関係者)と指摘する。そのひとつが環境技術での貢献であることは間違いない。 =敬称略

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415よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/08/23(火) 20:33:05 ID:vjw6fg8g0
2011年8月23日
近代建築 民都の底力 大阪歴史博物館で特別展
http://www.sankei-kansai.com/2011/08/23/20110823-056837.php

 精密な図面や美しい装飾などを通して大阪の近代建築の魅力を紹介する特別展「民都大阪の建築力」が、大阪市中央区の大阪歴史博物館で開かれている=写真。9月25日まで。

 開館10周年を記念して企画。近代の大阪では、大阪市中央公会堂や大阪城天守閣など、優れた構造やデザイン、細部装飾を持つ公共建築や商業施設が、民間の力や市民の協力などで数多くつくられた。今回は、大阪が誇るこうした“建築力”を、図面に表現された「描く力」、建物の細部に魅力を加える「装飾の力」、建築を愛する人たちによる「伝える力」の3つの視点から展覧している。

 会場には、初公開となる2代目通天閣の設計図のほか、旧鴻池本店のステンドグラスや漆工芸作家の島野三秋作「旧そごう大阪店エレベータ漆螺鈿(うるしらでん)装飾扉」など約280点が並ぶ。

 注目は、明治45年〜大正元年の「大阪市公会堂設計競技第1席 岡田信一郎案透視図」。当時はコンペ自体珍しく、1席作品をはじめ応募した建築家13人の図面が一堂に展示され、「100年前の図面が全部残っているなんて」と来館者を驚かせている。

 開館時間は午前9時半〜午後5時(金曜日は午後8時まで)。火曜日休館。

 観覧料は大人800円、高大生600円、中学生以下無料。

416名無しさん:2011/08/24(水) 12:28:09 ID:rpDEow8U0
「明治の大阪府庁」保存へ レンガ積み暖炉など遺構
2011年8月24日
http://www.sankei-kansai.com/2011/08/24/20110824-056879.php
 明治7年建設の旧大阪府庁舎跡=大阪市西区江之子島(えのこじじま)=から7月に発掘されたレンガ積みの暖炉など一部の遺構について、府が保存する方針を決めたことが23日、分かった。マンション建設に伴い破壊される予定だったが、研究者や市民らから保存を求める声が寄せられ、決断したという。

 旧府庁舎跡は、府有地の民間売却に伴い発掘。中央棟と南北両棟の地下のレンガ壁や、花崗(かこう)岩を組み合わせた中央棟の円形ドームの基礎部分(直径約6メートル)、レンガ積みの暖炉などが当時の状態で残っていた。

 研究者も歴史的価値が高いと評価、現地説明会には歴史ファンら千人近くが訪れるなど関心が高かった。府が開発業者側と協議し、円形ドームの基礎部分と暖炉、石の階段を現地から取り外して保存することを決定。担当の府財産活用課は「多くの人に見てもらえるよう保存場所などを検討したい」としている。府庁舎は大正15年に大阪市中央区の現在の場所に移転され、旧府庁舎の建物は昭和20年の大阪大空襲で焼失した。

417よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/08/25(木) 22:21:17 ID:KpXmsKCU0
旧大阪府庁舎:遺構の一部、移築・保存へ
http://mainichi.jp/kansai/news/20110825ddn041040009000c.html

 大阪府は24日、7月に発掘された明治初期建設の旧府庁舎跡(大阪市西区江之子島2)の遺構のうち、れんが造りの暖炉など一部を移築・保存すると発表した。マンション建設に伴い取り壊される予定だったが、府民や研究者から保存を求める声も寄せられ、「府民に親しまれる貴重な遺構で残すべきだ」と判断した。

 保存されるのは、遺構のうち、直径約10メートルの庁舎中央ドームの基礎部分▽れんが積みの暖炉(高さ約2メートル)▽石造りの階段(奥行約1メートル)−−の3点。府の担当者は「いずれも当時の庁舎の様子を伝えるシンボル的なもの」と説明する。遺構は現本庁舎(大阪市中央区大手前2)に移転する前に使われた1874年完成の庁舎の一部。

 旧府庁舎は2階建てで円形天井などしゃれたデザインで親しまれ、現庁舎への移転後も工業奨励館として活用されたが、1945年の大阪大空襲で焼失した。遺構はもろくなっているため、府は仮置き場を設置して保管し、保存方法や場所を決める。【高山祐】

418よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/08/25(木) 22:47:27 ID:KpXmsKCU0
行ってみよっと:枚方宿 思い巡らす江戸時代 変わらぬ淀川と景観美 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110825ddlk27040363000c.html

 「ぜひ枚方宿(しゅく)を行きましょう」。枚方観光ボランティアガイドの会の竹島健次さん(71)イチ押しのコースへ出発。

 東海道がこの枚方市を通っていた。「枚方宿は東海道56番目の宿です」と竹島さん。東海道……といえば五十三次と習ったもの。なのに56番目?? 江戸時代、東海道は江戸−京都の区間より延長整備され、大坂までとなった。それに伴い、宿も伏見、淀、枚方、守口と四つが加わった。枚方宿は品川の宿から数えて56番目というわけ。宿は幕府が指定した。荷物や書状は当時、宿から宿へとリレー方式で送り継ぎ、宿で荷物の積み替えなどを行った。

 ところで、東海道のうち大阪−京都間は、京都に向かう人は「京街道」などと呼び、「東海道」の名は地元で浸透しなかった。

 さて、その京街道の枚方宿を枚方市駅から歩き始める。両脇はビル。江戸の面影は見当たらない。「通りでタイルの色が違うところがあるでしょ」。道の脇はグレーだが、中央付近は赤などのタイルにして、街道跡を示している。これで江戸時代をイメージしよう。

 「ここ、ゾウも通ったんです」。ゾウ!? 八代将軍、徳川吉宗は外国の知識吸収や珍しい動植物の輸入にご熱心で、「ゾウを見たい」とのたまわれたらしい。“注文の品”は、享保13(1728)年、ベトナムから長崎港に上陸。陸路江戸へ向かう途中、枚方宿にも泊まった。

 さて先へ進む。道路工事にぶつかる。「電線の地中化工事です」と竹島さん。ありし日の情景に近づけようとの取り組みだ。

 万年寺山を登って、秀吉が建てた御茶屋御殿跡へ向かう。「見晴らしがものすごくええんですよ」。竹島さんが待ちきれないように予告する。なるほど、とうとうと流れる淀川が見下ろせる。わんわと波打つ水は生き物のよう。秀吉はここに枚方城主の娘を住まわせた。美女(?)をはべらせ、景観よし。ぜいたくなことよ。

 すぐ近くに梅林がある。花の頃はもちろんすばらしいだろうが、訪ねた6月は青々とした葉で覆われ、グリーンの空間がすがすがしい。「ほら、実が付いてますよ」。まんまるに太った青い梅の実がたわわに実っていた。

 家並みの中、竹島さんが、歩くのがやっとほどの細い路地を入る。えっ行くんですか? 進んだ先で納得。でーんと大きなムクの木が現れた。高さ20メートル以上、樹齢600〜700年。府指定天然記念物という堂々たる老木。「なんでムクの木っていうか知ってますか?」と竹島さん。考えたこともない。「ムクドリがたくさん来るからです」。葉はザラザラしているので、鋳物を磨くのに利用したと言われている。このムクの木の隣にはかつて鋳物工場があった。仕上げに役立てたのだろうか。

 淀川河川敷の淀川河川公園に降りた。シロツメグサのじゅうたんだ。ふわふわした感触が足の裏に伝わる。一歩一歩が腰に響かない。水辺ではたっぽたっぽと川の流れを楽しめる。

 「風が気持ちよろしいな」と地元の竹島さんも、顔にあたる風を感じている。向こうで、若者が草刈り機で雑草を刈り込んでいる。きれいな公園も彼らのおかげ。約2キロ、気持ちいいウオーキングだった。【三角真理】

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 枚方観光ボランティアガイドの会は希望コースを案内する。半日まで無料。問い合わせは072・841・0774(木曜休み)▽市立枚方宿鍵屋資料館に歴史資料展示がある。入館料(一般200円、小中学生100円)。火曜休館。072・843・5128。

419よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/08/25(木) 22:58:10 ID:KpXmsKCU0
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/220 太左衛門橋 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110825ddlk27070369000c.html

 ◆大阪市中央区

 ◇芝居町へ、虚実つなぐ わけあり男女、題材に
 相合(あいあう)橋の西隣の太左衛門橋(たざえもんばし)は、道頓堀川の遊歩道整備に合わせて、08年に板を張り合わせて木製調に姿を変え、芝居町華やかなりしころをしのばせる。

 かつての芝居町・道頓堀と対岸の宗右衛門町を結ぶ太左衛門橋は、芝居と切っても切れない関係にある。

 松井今朝子さんの時代小説「東洲しゃらくさし」に、1794(寛政6)年ごろの道頓堀の描写がある。

 「数ある芝居小屋のなかでも、通りの真ん中に位置する『中の芝居』と、太左衛門橋を渡った角にあたる『角の芝居』の二つの小屋が、当時もっとも格式の高い大芝居とされていた」

 江戸時代、芝居といえば歌舞伎のことで、中の芝居とは中座、角の芝居は角座。いずれも今はない。中座の跡はレジャービルに、角座の跡は更地のままになっている。

 太左衛門橋の名は、芝居小屋の興行主だった大坂太左衛門に由来するらしい。「大阪人物辞典」によると、1652(承応元)年、太左衛門橋南詰めの東角に若衆歌舞伎の小屋を創設した。ちょうど角座の場所あたりだ。のちに角座の名代、つまり興行権の名義人(江戸では座元といった)として知られた。角座のご先祖さんだ。橋がいつ架けられたかは不明だが、大坂太左衛門が芝居見物に便利がいいよう、私費で架けたと推察される。

 芝居町のためにできたような橋だから、芝居の舞台にもなった。「宿無団七(やどなしだんしち)時雨傘(しぐれのからかさ)」は、太左衛門橋の橋詰めが重要な場となっている。

 太左衛門橋北詰めの髪結い床の職人が、湯女を殺した実際の事件を題材に、大当たりを取っていた芝居「宿無団七」に事寄せた作品で、作者は並木正三。回り舞台や役者の宙づりなど、次々に奇抜な舞台仕掛けを編み出した人で、この作品でも、作中に自身を登場させて話題になった。浄瑠璃の近松門左衛門と人気を二分した奇才だ。

 正三の弟子が、「東洲しゃらくさし」の一方の主人公である並木五兵衛(のちの五瓶)。京坂一の作者と名をはせ、大金で江戸の小屋に引き抜かれた。同作では、五兵衛が謎の絵師、写楽を見いだしたという筋立てになっている。

 恐らく、そんないわれも知ってのうえで、織田作之助は太左衛門橋を連作「女の橋」「船場の娘」「大阪の女」の舞台に使った。

 瀬戸物問屋「伊吹屋」の頼りない若だんなが芸者の小鈴にほれる。太左衛門橋の欄干にもたれながら、小鈴は赤子ができたと告げ、動転した若だんなは結婚を約束する。しかし、お家大事の番頭が仲を引き裂き、小鈴が産んだ女の子は伊吹屋が引き取る。数年後、落ちぶれ体を病んだ小鈴は、引き離された娘の舞踊の舞台で三味線を弾いて息絶え、太左衛門橋を運ばれていく。

 伊吹屋のいとはんとして育てられた小鈴の娘、雪子は、奉公人の秀吉と互いに恋心を抱く。東京に出た秀吉から電話があった、その最中に関東大震災が起きる。

 5年後、2人が再会するのが太左衛門橋。「もう春が近いのか、川風も何か生暖かく、ふと艶めいた道頓堀の宵である」。一度は嫁(か)した雪子は、芸者の子であるのがばれて離縁され、宗右衛門町の芸者になっている。片や秀吉は、仕事もなくうらぶれているが、妻がいる。2人はそのまま別れてしまう。

 第二次大戦の空襲で、狭い木橋だった太左衛門橋は焼け落ちる。落ちる寸前の燃え盛る橋を、雪子は娘の葉子の手を引いて北へ逃げる。木橋の太左衛門橋を最後に渡った、という設定だ。

 そののち。雪子が営む喫茶店の客と駆け落ちしたいという娘の恋情にほだされ、雪子は思う。「空襲の夜、雪子が太左衛門橋を渡って逃げる気になったのは、その橋が生みの母の死骸を送って行った橋であり、初恋の男と再会した橋であったからだ」

 いま、南詰めの角座の跡の辺りは、なぜかたこ焼き屋だらけで、健康そうな若い男女ばかりが目立つ。若だんなと小鈴のような、あるいは雪子と秀吉のような、いわくありげな二人連れの姿は、芝居町とともに消えたようだ。【松井宏員】

420よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/08/25(木) 23:06:35 ID:KpXmsKCU0
創業100年以上は大阪で1272社 帝国データバンク大阪支社
2011.8.25 20:35
http://sankei.jp.msn.com/economy/news/110825/biz11082520350037-n1.htm

 1912(明治45、大正元)年までに創業した「老舗企業」が大阪府内で1272社にのぼることが25日、帝国データバンクの調べで分かった。同社は昨年9月に全国ベースで創業100年以上の企業を調査した結果を公表したが、来年が大正元年からちょうど100年になるのを機に、初めて大阪府ベースでまとめた。

 全国には老舗企業が2万4847社あり、国内最古の飛鳥時代(578年)に創業した寺社仏閣建築「金剛組」(大阪市天王寺区)が府内でも最古。他に府内では、戦国時代(1566年)創業の寝具類卸「西川リビング」(同市中央区)もみられ、江戸時代も1610年創業の総合建設会社「竹中工務店」(同区)、1611年創業の医薬品小売り「ヒサヤ大黒堂」(同区)などがある。

 業種別で最多は「貸事務所業」(35社)。繊維卸などが構造不況に伴う業態転換を強いられ、所有するビルや駐車場などの運営を手がけるケースが多い。

 一方、近畿2府4県の老舗企業は計4258社。大阪府以外では業種別の最多は兵庫、奈良、滋賀の3県が「清酒製造」、京都府は「織物卸」、和歌山県は「酒小売」で、地場産業との関連性が強い。

421よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/08/27(土) 20:12:44 ID:kCKripNo0
なにわ人物伝 −光彩を放つ−

北畠 顕家(3)
2011年8月27日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/110827/20110827044.html

天皇に異例の上奏文提出 北条幕府の腐敗政治批判

 三善 貞司
 延元元(1336)年1月、18歳の若武者北畠顕家は、楠木正成(くすのきまさしげ)・新田義貞(にったよしさだ)らと京を占拠した足利尊氏(あしかがたかうじ)軍を攻撃、敗北した尊氏らは鎮西(九州)に逃走する。

 王朝政治が復活した後醍醐(ごだいご)天皇は、顕家の功績は抜群だと鎮守府大将軍、権中納言に任じ、顕家は再び奥羽地方の治安のため、宮城郡多賀の国府に帰国した。

 ところがわずか4カ月後、急激に兵力を回復した尊氏・直義(ただよし)兄弟は大軍を率いて東上。防ごうとした楠木正成を湊川合戦で破り自害させ、後醍醐天皇は吉野に遷幸する。入京した尊氏は光明(こうみょう)天皇を擁立し建武式目を制定、新しい朝廷が誕生して異例の南北朝時代の幕が開いた。

 もちろん天皇は顕家に尊氏討伐を命じるが、天下の体勢は足利氏に加担する者が多く、奥羽の豪族たちも多賀国府を攻撃、翌2年に顕家は多賀を離れ霊山(福島県伊達郡)に移ったほどで、余裕はない。ようやくこの年9月、結城宗広(ゆうきむねひろ)・伊達行朝(だてゆきとも)らと軍兵を集め西上、まず足利義詮(よしあきら)(尊氏の子)を破り鎌倉を鎮圧、翌3年鎌倉を発(た)って東海道から京に入ろうと美濃に到着する。驚いた尊氏は高師冬(こうのもろふゆ)(高師直(もろなお)の養子)、師泰(もろやす)(師直の弟)を派遣して青野原で防戦、戦況は一進一退だったが沿道の今川・土岐(とき)らの諸将が全て足利方についたから、顕家はこのコースを断念、伊勢・伊賀を経て大和から京に進攻する道を選んだ。

 同年2月21日、奈良に入った顕家軍を倒すため、尊氏は執事高師直に大軍を付けて差し向ける。師直は尊氏の右腕で北条幕府を倒した最大の功労者、南北朝時代では並ぶ者なしといわれた軍略家でもある。これは尊氏がどんなに若武者顕家を恐れていたかの証しであろう。

 21日の合戦では顕家に利があらず、彼は河内に走るが官軍を再編成し、3月8日師直軍と天王寺(大阪市天王寺区)で戦い勝利。四天王寺を占拠して本陣とし、男山(京都府八幡市)に弟の北畠顕信(あきのぶ)を籠(こ)もらせ、京を攻撃しようとする。驚いた尊氏は師直に弟の直義を援軍に付け、まず男山の攻略に出るが失敗、続いて洞ケ峠(ほらがとうげ)(京都府南部と大阪府枚方市との境)合戦でも顕信に敗れた。

 師直は作戦を変更、男山を囲んで顕信軍を封じ込め、直義軍と合流して河内方面に進み、14日交野(かたの)(大阪府交野市)、15日渡辺橋(大阪市中央区)、16日天王寺と安部野(同市阿倍野区)で顕家軍と激突、今度はいずれも顕家方の旗色が悪く敗退した。

 5月6日顕家は四散した官軍を集め、堺浦(堺市堺区大浜〜石津一帯)に拠点を構えようとするが、頼みの和泉の豪族日根野道悟たちが足利方に味方、怒った顕家が彼らの居城熊取・佐野・長滝を無謀にも攻撃して大敗、官軍から逃亡する者が増える。

 一方、師直は5月8日天王寺を本陣とし、16日堺浦にも布陣、万全の構えをかためてから顕家との決戦に出た。顕家らは獅子奮迅の働きをみせるが衆寡(しゅうか)敵せず、「顕家卿立つ足もなく成(なり)給ひて、芳野へ参らむと志し、僅(わずか)に二十余騎にて大敵の囲(かこみ)を出でむと、自破利砕堅(かため)給ふといへども、其(その)戦功徒(いたず)らにして、五月二十二日討死し給ひければ、相従ふ兵悉(ことごと)く腹切(きり)て一人も不残(のこらず)失せにけり」、と『太平記』にある。

 死の数日前、彼はあれほどの高庇(こうひ)を受けた後醍醐天皇に、七カ条からなる上奏文を提出している。(1)民衆は戦乱で疲弊しており、税を減免すること(2)宮廷は質素倹約をむねとし、臨時の行幸や酒宴等は控えること(3)恩賞が片寄っている。地方ほど不満が強い。審査し直して公平にすべきこと−などの率直な提案で、建武中興が北条幕府の腐敗政治を十分に正してはいないことを、痛烈に批判している。当時としては異例の上奏だ。

(地域史研究者)

422よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/08/27(土) 20:19:44 ID:kCKripNo0
畑ヶ田遺跡:銭貨入った土器のかめ見つかる きょう説明会−−富田林 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110827ddlk27040446000c.html

 富田林市若松町1の「畑ヶ田(はたけだ)遺跡」から、銭貨5枚が納められた土器のかめや、掘っ立て柱の建物跡が見つかった。市教委は27日午前10時から正午まで、現地説明会を開く。

 遺跡は、弥生時代から中世にかけての集落跡。保育園建設に伴って、市教委が7月から約760平方メートルを発掘調査していた。

 市教委によると、今回の発掘はいずれも奈良時代の物。銭貨は1枚に「開」とみられる字があり、「和同開珎(わどうかいちん)」か「神功開宝(じんぐうかいほう)」と推定。複数枚の銭貨が納められた土器の発見は、府内では2例目という。柱穴は大きいもので一辺約1メートルあり、最大で直径約40センチの柱を持つ建物が存在していたとみられる。

 現地説明会は小雨決行。問い合わせは、市教委文化財課(0721・25・1000)。【三上健太郎】

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424よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/08/30(火) 20:26:21 ID:dA10OV3A0
情報プラザ:大阪市中央公会堂「館内ガイドツアー」参加者募集 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110830ddlk27040372000c.html

 9月27日(火)10時半・13時半・15時半(各60分)、同公会堂(地下鉄・京阪淀屋橋駅徒歩5分、京阪なにわ橋駅すぐ)。重要文化財に指定されている公会堂の大・中・小集会室と特別室を特別公開。公会堂スタッフが歴史や装飾などの見どころを紹介する。各回50人(応募多数の場合抽選)。参加無料。9月2日(金)必着の往復はがきの往信面に<ガイドツアー参加希望>・氏名・住所・電話・参加希望時間・参加人数(1枚で4人まで)、返信面に住所・氏名を明記し、〒530−0005 北区中之島1の1の27、大阪市中央公会堂「ガイドツアー」係(06・6208・2002)へ。

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427よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/09/01(木) 22:33:02 ID:B7yshcwE0
2011年9月 1日
「済美館」改修 輝く110周年 清水谷高、あす文化祭でお披露目
http://www.sankei-kansai.com/2011/09/01/20110901-057194.php

 明治33(1900)年に大阪府第一高等女学校として創立された府立清水谷高校(大阪市天王寺区清水谷町)で、高女時代に建築の同窓会館「済美館(せいびかん)」の全面改修が終わり2、3の両日、同校文化祭に合わせて披露される。

 済美館は明治40年に木造で建築、大正14(1925)年に現在の鉄筋コンクリート3階建てに改築された。当時の府庁営繕課による優雅なデザイン・重厚な設計で、86年たった現在も高い耐震性能を持つ。

 11月6日に開く110周年式典に合わせた記念事業として、同窓会「清友会」やPTAの募金で外観を改修。外壁を白く塗り直し、当時の首相、西園寺公望(さいおんじきんもち)の揮亳(きごう)をかたどった館名や高女時代の校章も鮮やかによみがえった。

 同校卒業生でもある中西修一校長は「文化祭で110年の校風も味わってほしい」と話している。

428よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/09/03(土) 12:50:37 ID:bTuPGB/60
名水復活 伝統の酒を
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110902-OYT8T00040.htm

大阪天満宮 井戸掘削プロジェクト

 大阪天満宮(大阪市北区)で、境内の井戸を復活させるプロジェクトが始動した。江戸時代には、道頓堀や千日前の湧き水と並んで、大阪四清水の一つと称された「天満天神の名水」。当時は付近で酒造りが盛んだったとされ、「くみ上げた水を生かした酒造りで地域の活性化を」と、地元住民らは「名水復活」に期待を寄せている。(斎藤七月、羽尻拓史)

 大阪天満宮文化研究所によると、天満宮の井戸水は江戸時代、宮崎・延岡藩主ら大名が参勤交代の途中に在阪した際、飲用していたとみられ、藩の役人が宮司に水を依頼する手紙が残る。周辺には酒蔵が多くあり、井戸水を利用した酒造りが盛んだった、との説もある。

 約20年前までは、境内の清掃などに井戸水が使われていたが、地下水利用や地下鉄の開発などが進むにつれて水位は徐々に低下し、近年は使われなくなっていた。

 地元商店主らから井戸水の歴史を聞いた関西大の与謝野有紀教授らが、天満宮の協力も得て、今回のプロジェクトを計画。8月に、かつて境内にあった井戸の脇を試掘したところ、地下約60〜70メートル付近の地層に豊富な水が含まれていることがわかり、楠見晴重・関西大学長らに水質の調査を依頼した。

 1日、楠見学長は天満宮に集まった天神橋筋商店連合会の役員らに対し、採取した土のサンプルを示しながら、マンガンの含有量など調査結果を説明。飲料用に適していたとして、「予想以上に良い水で、十分活用できると思う」と結論づけた。メンバーらは今後、本格的な掘削に向けて掘削する場所や時期、水の活用方法などを話し合うことにした。

 土居年樹・同商店連合会長は「酒造りを復活させるなど、地域の歴史が分かるような活用をしていきたい」と期待。寺井種伯宮司は「いい水が出ると分かって安心した。どんな味がするのか、早く口にしてみたい」と話していた。

(2011年9月2日 読売新聞)

429よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/09/03(土) 13:13:36 ID:bTuPGB/60
大阪天満宮の水OK 地下水水質検査飲用に問題なし
2011年9月3日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110903/20110903025.html

 大阪天満宮(大阪市北区、寺井種伯宮司)の境内で行われた地下水試掘後の水質検査の結果が2日までに判明。採水した地下水は飲用上、問題のないことが分かった。今後、本掘が行われることになり、大阪天満宮などは活用を含め詳細について詰めていくことにしている。

 大阪天満宮のある天満地区にはかつて多くの酒蔵が立ち並び、地下水をくみ上げた酒造りが盛んに行われていた。大阪天満宮文化研究所によると、幕末期に宮崎・延岡藩の藩主が大阪を訪れた際、大阪天満宮の井戸水を飲用していたとみられるという。

 地域の活性化に向けた地下水の活用を地元の天神橋筋商店連合会と関西大「社会的信頼システム創生センター」が提案。大阪天満宮の協力を得て、8月に試掘を行った。

 1日夕、大阪天満宮で試掘に携わった同大の楠見晴重学長が、寺井宮司や同連合会の土居年樹会長ら関係者に水質検査の結果を報告。地下約70メートルを試掘し、2カ所の水質を調べた結果、水銀など人体に有害な物質は食品衛生法の基準値以内で飲用上、問題のないことを知らせた。

 今後、本掘に向けてスケジュールを詰めることになり、寺井宮司は「大変うれしい。ぜひ本格的に掘り、地域の皆さんに活用してもらいたい」と話していた。

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431よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/09/03(土) 16:48:42 ID:qz2B/Deg0
なにわ人物伝 −光彩を放つ−

北畠 顕家(4)
2011年9月3日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/110903/20110903046.html

石津で最後の決戦 花の若武者、20歳で討死

三善 貞司
 延元2(1337)年5月22日、足利尊氏(あしかがたかうじ)が派遣した高師直(こうのもろなお)の大軍と最後の決戦場になった石津で、多勢に無勢、花の若武者と謳(うた)われた北畠顕家は、ついに討死した。まだ20歳の眉目秀麗な武将であった。石津川に架かる太陽橋を渡った南詰め(堺市西区浜寺石津町中4丁目)に、彼の墓が現存する。

 井上正雄の名著『大阪府全志』に、詳しい解説があり、大要を記しておく。

 「太陽橋南詰に鎮守屋敷といへるあり。高さ三尺余の角石に『南無阿弥陀仏』と題し、背面中央に『行家』、側面に『正徳三年四月十七日』と刻せり。従来除地にて延宝7(1679)年検地帳に鎮守宮屋敷、宮建の小祠(しょうし)在せしとあるも、小祠正徳年間(1711〜16)台風のために倒壊す。祠(ほこら)は再建に至らず共に倒れし塚上の老松を売却して、現在の碑建てり。(行家とあるが)塚は行家の墓にあらず、顕家の墓なるを、村民『あ』を『ゆ』に誤りて、行家の墓と伝えしものか。顕家の戦没地なれば、顕家の墓なり」

 注を加える。源行家は源為義(みなもとのためよし)の第十子。平治の乱で敗れ熊野に隠れるが、鎌倉の源頼朝(よりとも)の挙兵に応じ、諸国に散った源氏を集め平家と合戦して手柄をたてる。しかし横柄な男で叔父さん風を吹かせたため頼朝に嫌われ、木曽義仲(きそのよしなか)と組んで京に入るが、義仲とも不仲になり、河内の石川で合戦し敗北。今度は源義経(よしつね)を頼るが頼朝は義経・行家を攻撃、2人は大物浦から船で西国へ落ちるも嵐に遭い、行家は和泉に漂流して頼朝派の北条時定(ほうじょうときさだ)に捕らえられ、文治2(1186)年斬首となった。顕家より150年ほど前の人物。

 『吾妻鏡』(1260年ごろ成立。日本初の武家記録)には、行家が捕らわれた場所は近木郷、それより二十数年前成立の『平家物語』には、八木郷と出る。八木郷は山城国だから誤記であろうが、近木郷も和泉国ではなく現在の貝塚市近木(こぎ)・南町のあたりで、石津とはかなり離れている。ゆとあの誤記かどうかは知らないが、石津の墓が行家であるはずはない。

 顕家の死後2年の延元4年、彼の実父北畠親房(ちかふさ)は有名な『神皇(じんのう)正統記』(皇室の正統は後醍醐(ごだいご)天皇の『南朝』で、足利尊氏らの『北朝』ではないとの内容)を執筆するが、そのなかで顕家は忠孝の道を歩いて、和泉の石津で死亡と記している。

 以上で顕家戦没地は石津に確定できるが、本連載(1)で述べたように、長年『太平記』の記述「顕家卿和泉の境安部野にて討死」は、事実として信じられた。『吉野拾遺』(正平13[1358]年成立。南朝を中心とした説話集・伝藤原吉房著)の「源中納言(顕家)の北の方発心(ほっしん)の事」は、その代表である。大要を口語に直して紹介する。

 「刑部丞(ぎょうぶのじょう)から主君顕家公が阿部野の露と消えたと知らされた北の方は失神され、あわてた周りがお顔に水などをかけてやっと気をとりもどし、玉の緒よたえし果(はて)なくくり返し同じ浮世にむすほふるらむ とお詠みになり、観心寺といふ山寺で髪をおろされた。3年ほどたって世の中は静かになったので、夫の戦死した跡を弔おうと刑部丞の案内で阿部野を訪れ、草の上に倒れ伏して号泣し、なき人のかたみの野への草枕ゆめも昔の袖の白露 とお詠みになり、自害されようとする。刑部丞は懸命になって制止し、菩提(ぼだい)を弔おうと住吉や天王寺に案内する。四天王寺の亀井の水のほとりでは、のちの世も契りのために残しけり結ぶ亀井の水茎の跡 と経木にお書きになった。その後お亡くなりになるが、北の方は中納言資朝(すけとも)卿の娘で、顕家戦死のおりはまだ17歳であった」

 阿部野神社(大阪市阿倍野区北畠3丁目)は明治18(1885)年の創建。祭神は北畠親房・顕家父子。境内に顕家の銅像がある。気品ある凛々(りり)しい姿に美のはかなさを感じる。

 ※病気療養のため休筆します。ご愛読ありがとうございました(筆者)。

(地域史研究者)

432よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/09/04(日) 15:47:12 ID:xyHU1sHs0
お化けは「豊臣」ばかり 徳川の罪悪感から生まれた「大阪城の怪談」(上)
2011.8.28 12:00
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/110828/ent11082812000009-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/110828/ent11082812000009-n2.htm
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/110828/ent11082812000009-n3.htm

 ナニワのシンボル「大阪城」は、言わずとしれた豊臣の城。が、実際には豊臣時代はごく短く、江戸期に再建された徳川の城が300年近く続いた。その時代、城に“勤務”する武士の間で、多くの怪談が語られたことはあまり知られていない。「化物屋敷」「暗闇の間」「禿雪隠(かむろせっちん)」…。雨のそぼふる真夏の一夜、城にまつわる恐怖伝説にふれるイベント「大阪城の怪談」に参加した。(松田則章)

 「この地では、歴史的にみて、ものすごい数の人たちが死んでいるが、お化けは『豊臣』ばかり。まず、この点をおさえてほしい」。イベント案内役の大阪城天守閣研究主幹、北川央(ひろし)さんはまず、参加者にこう語りかけた。

 《「大阪城の怪談」は、産経新聞の応援団組織「ウェーブ産経」の主催。約130人が集まり、開催告知の新聞記事を出していない東京や熊本からの参加者もいた》

天下普請で造られた

 大阪城は、上町台地と呼ばれる大阪の中心地の北端に築かれた。その歴史は、戦国から安土桃山時代にかけての浄土真宗の拠点「石山本願寺」にさかのぼる。織田信長の本願寺攻め後に焼失し、豊臣秀吉が跡地に大坂城(当時は「大阪」ではなく「大坂」)を築城。大坂夏の陣(1615年)により落城したあと、2代将軍の徳川秀忠の命により、諸国の大名が加わった“天下普請”で徳川大坂城が建てられた。

433よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/09/04(日) 15:48:36 ID:xyHU1sHs0
>>432

 しかし、幕末の混乱で城内の多くの建造物が焼失。明治以降は旧陸軍用地となり、第4師団司令部庁舎や軍需工場「大阪砲兵工廠(こうしょう)」も建設。戦時中には米軍の標的となり、終戦間際の空襲で、櫓(やぐら)や門など多くの建造物が焼けた。こうした長い歴史の中で、幾多の人々が亡くなったわけだ。

 では、なぜ怪談は豊臣家ゆかりのものばかりなのか。北川さんは「江戸時代に大坂城に着任した大名や旗本の家臣らによって、怪談が語られ始めている。それは、豊臣家(から政権を奪い滅亡に追い込んだこと)に対して徳川方が後ろめたさを共有していたから」と説明。怪談の“正体”は「徳川家の家臣たる譜代大名や旗本の心中にある罪悪感」と分析する。

「千姫観音」の願文

 《北川さんは「怨霊(おんりょう)になった秀吉・秀頼」のテーマで、徳川家がいかに豊臣のたたりを恐れていたかについて、ある文書を紹介した》

 豊臣秀頼の正室、千姫は徳川秀忠と江(ごう)の娘。大坂夏の陣では落城の際に脱出し、翌年には、伊勢・桑名の城主・本多忠政の嫡子、忠刻(ただとき)に嫁いだ。しかし、嫡子・幸千代や忠刻、江と、再嫁から約10年間で相次いで近親を亡くす不幸に見舞われた。

 ちょうどそのころ造られた仏像「千姫観音」の胎内から、こんな願文が見つかっている。

 「占いをしてみましたところ、播磨の姫君様(千姫)にお子ができます度々に、あなた様(秀頼)にお恨みのお心があって、それが障りになっているということです(中略)あなた様の菩提を弔うように姫様に申し上げますので、くやしいお心をあきらめてほしいのです」(現代訳)

 願文を書いたのは、千姫ゆかりの尼寺の上人。不幸の原因は、秀頼の恨み、たたりとみられていたのだ。

 《イベントでは、北川さんのほか、推理作家の有栖川有栖(ありすがわ・ありす)さん、“平成の怪談師”と呼ばれる怪異蒐集(しゅうしゅう)家の中山市朗さんもイベントに招かれ、3人による怪談鼎談(ていだん)も行われた。鼎談が終わると、知らない間に外は雨。蒸し暑さの中にどこかヒンヤリとした空気も漂い、怪異ムードが高まっていた》

434よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/09/09(金) 20:24:01 ID:ACqaWGg20
大阪城の石垣になるはずが… 「残念石」曳いてみよう
2011.9.9 02:07
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110909/osk11090902070000-n1.htm

 ■そりの体験イベント 来月1日

 大阪(大坂)城の石垣に使われるはずだった「残念石(ざんねんいし)」を巨石運搬用のそり「修羅(しゅら)」で曳(ひ)く体験イベントが10月1日午後2時25分から、大阪城内の特設会場で開かれる。主催する大阪市中央区役所は参加者を募集している。

 天守閣復興80周年の記念行事として、同区役所が企画。大坂城の築城や改修に伴って全国各地で切り出されながら、使われずにそのまま残った「残念石」と呼ばれる石材を通じ、城の歴史を振り返ってもらうねらい。

 当日は、香川県・小豆島の「大坂城残石(ざんせき)記念公園」から、現地に残された重さ2トンの巨石と、当時運搬に使用された修羅のレプリカを借り、残念石の修羅曳きにチャレンジしてもらう。対象は、小学5年生以上(小学生は保護者同伴で)。定員100人で先着順。

 会場ではこのほか、大阪城の石垣をテーマにしたパネルディスカッションなども行われる。

 修羅曳きの参加希望者は、ファクス(06・6264・9999)かメール(te0002@city.osaka.lg.jp)で、参加者全員の氏名(4人まで可)と年齢、電話番号を記入して申し込む。問い合わせは同区役所市民協働課((電)06・6267・9837)。

435よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/09/09(金) 20:26:43 ID:ACqaWGg20
「梶原寺」の礎石?発見
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110909-OYT8T00068.htm

 高槻市教委は8日、7世紀半ばから平安時代頃まで存在したとされる「梶原寺」の礎石とみられる巨石(縦約100センチ、横約75センチ、高さ約30センチ、重さ約600キロ)が同市梶原で見つかったと発表した。同寺があったと推定される付近で、市教委は「伽藍(がらん)を備えた本格的な寺院だったことを証明する貴重な資料」としている。

 市教委によると、巨石は約8年前、同寺の中心地だったとみられる現在の畑山神社に近い民家で、塀を新設する際に地中から見つかった。その後、民家敷地内の竹やぶに置かれていたが、所有者が今年5月、梶原寺関連の発掘調査をしていた市教委職員に相談し、調査が始まった。

 柱を据えるため、上面を円形に彫られた直径約50センチ、高さ約10センチの「柱座」が、奈良時代頃のほかの寺跡から出土した礎石と似ていることなどから、梶原寺の礎石と判断したという。

 34年前に付近で実施された発掘調査では僧侶の住居と推定される建物の柱穴が出土したが、礎石が見つかったのは初めて。裏面にも直径約70センチ、高さ約5センチの柱座があり、市教委は「建て替えの際に再利用したとみられ、珍しい」とする。

 畑山神社周辺ではこれまで、奈良時代から平安時代にかけての瓦や瓦を焼く窯跡が出土。「正倉院文書」には同寺について、757年に、造営中だった奈良・東大寺の建物に使う瓦を大阪・四天王寺とともに発注を受けたことが記されるなど、大きな寺だったことがうかがわれるという。

 礎石は畑山神社の境内で保管、展示している。問い合わせは、市立埋蔵文化財調査センター(072・694・7562)。


梶原寺:正倉院文書に記述、礎石発見 厚さ30センチ靴のような形状−−高槻 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110909ddlk27040341000c.html

 高槻市内最古の寺院で、「正倉院文書」にも記述のある梶原寺の礎石が初めて見つかり、市教委が8日発表した。上面には直径50センチ、下面には同70センチの柱座があり、市教委は「建て替え時にひっくり返して再利用した珍しいケース」としている。

 古文書や発掘調査によると、同寺は7世紀半ばに建立され、12世紀には廃寺になった。正倉院文書には「東大寺大仏殿の回廊の瓦を梶原寺に発注した」との記述があり、中心建物があったとされる畑山神社(同市梶原1)付近からは、実際に瓦窯跡も見つかっている。

 この他、瓦や僧坊跡とみられる柱穴が確認されているが、本堂や講堂といった主要伽藍(がらん)に直結する発見は初めて。

 神社に隣接する民家敷地内で見つかり、市が今年5月から調査。長辺1メートル、短辺75センチ、厚さ30センチで、まるで靴のような形状だ。直径70センチの面は削り方がややいびつで、市教委は「建物内でより大きな柱に付け替える際、急ごしらえしたのではないか」としている。

 神社境内に保管し自由に見学できる。市立埋蔵文化財調査センター(072・694・7562)。【熊谷豪】

436よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/09/09(金) 20:43:22 ID:ACqaWGg20
2011年9月 9日
住吉大社 11日に「献灯式」
http://www.sankei-kansai.com/2011/09/09/20110909-057527.php

 創建1800年を迎えた住吉大社(大阪市住吉区)で11日午後6時半から「献灯式」が行われ、13日までの3日間、境内の灯籠約100基がともされる。

 今年1年間を通して同神社で繰り広げられている「御鎮座(ごちんざ)1800年」の記念行事の一環で、住吉名勝保存会が企画。12日に恒例の「観月祭」が営まれるのに合わせて境内の雰囲気を盛り上げようと、灯籠をLED(発光ダイオード)でともすことにした。

 点灯するのは、境内にある灯籠約600基のうち、「西の大鳥居」から国宝の本殿4棟にいたる正面参道と、本殿付近の卯之日(うのひ)参道にある約100基。11〜13日の日没から午後10時まで点灯する。

 11日は献灯式に先立ち、神楽殿で午後3時半から奉納式。観月祭は、12日午後6時から。同神社では「ここ10年近く、灯籠に明かりがともされることがなかったので観月祭、ありがたい試み」と話している。

437よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/09/10(土) 18:27:00 ID:C295MzWw0
幻の「法安寺」跡か 室町期?の礎石発掘
http://www.asahi.com/kansai/entertainment/news/OSK201109100057.html

浄土真宗中興の祖・蓮如(1415〜99)が建てた石山本願寺(大坂本願寺)推定地(大阪市中央区)の南東で、室町時代の礎石建物跡が見つかった。本願寺の進出前からあった法安寺(ほうあんじ)の一部とみられる。同寺の可能性がある遺構が確認されたのは初めて。調査した大阪文化財研究所は「大阪の“空白の中世”を埋める貴重な資料」としている。

 遺構は、現在の大阪城天守閣付近にある石山本願寺推定地の約600メートル南東で見つかった。周囲に溝を巡らせた東西7メートル、南北4メートル以上の土壇(高さ約50センチ)があり、均等に礎石が並んでいた。1辺5.5メートルの正方形の仏堂のような建物とみられる。出土した瓦や土器の種類から、室町時代の建立の可能性が高い。

 土壇の下からは焼土や炭を含む平安時代末〜南北朝時代の大量の瓦が出土。古い寺院が火災で焼失した後、今回の礎石建物が建てられたことがわかった。

 法安寺は、「日本書紀」にも登場する生国魂(いくくにたま)神社(難波大社)の神宮寺として、周辺集落・森三ケ庄の政治・信仰の中心的役割を果たした。やがて石山本願寺が大阪に入り、寺内町が拡大するにつれ、本願寺に取り込まれていったとされる。本願寺は石山合戦(1570〜80年)で織田信長に攻められて1580年に焼失。法安寺の場所も分からなくなった。

438よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/09/11(日) 14:25:52 ID:Gb59qfcs0
大阪の「空白の中世」埋めるかも 法安寺?の礎石発掘
http://www.asahi.com/culture/update/0910/OSK201109100043.html

 浄土真宗中興の祖・蓮如(1415〜99)が建てた石山本願寺(大坂本願寺)推定地(大阪市中央区)の南東で、室町時代の礎石建物跡が見つかった。本願寺の進出前からあった法安寺(ほうあんじ)の一部とみられる。同寺の可能性がある遺構が確認されたのは初めて。調査した大阪文化財研究所は「大阪の“空白の中世”を埋める貴重な資料」としている。

 遺構は、現在の大阪城天守閣付近にある石山本願寺推定地の約600メートル南東で見つかった。周囲に溝を巡らせた東西7メートル、南北4メートル以上の土壇(高さ約50センチ)があり、均等に礎石が並んでいた。1辺5.5メートルの正方形の仏堂のような建物とみられる。出土した瓦や土器の種類から、室町時代の建立の可能性が高い。

 土壇の下からは焼土や炭を含む平安時代末〜南北朝時代の大量の瓦が出土。古い寺院が火災で焼失した後、今回の礎石建物が建てられたことがわかった。

439よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/09/11(日) 17:42:54 ID:Gb59qfcs0
岸和田だんじり77年ぶり新調
http://www.nhk.or.jp/lnews/osaka/2003746621.html

勇壮な「だんじり祭」で知られる大阪・岸和田市で、だんじりの1台が77年ぶりに新調され、きょう、市内を勢いよく駆け抜けて地元の人たちにお披露目されました。けさ5時頃、大阪・岸和田市中井町の神社に昭和9年以来、77年ぶりに新調されただんじりが到着しました。
新しいだんじりは樹齢300年のケヤキの大木を使って宮大工と彫刻師が5年がかりで作り上げたもので、高さ4メートル、重さが5トンあります。
神事の後、お披露目のため、市内の約5キロのコースに出発しました。
岸和田市では自治会ごとにだんじりを所有していて、毎年9月から10月にかけて80台以上のだんじりが市内各地で引き回されます。ことし新調されただんじりは、この1台だけだということで、沿道には大勢の人が集まり、だんじりが勢いをつけたまま交差点を直角に曲がる見せ場の「やりまわし」では大きな歓声があがっていました。
孫を抱いて見物に訪れた男性は「自分も若い頃はだんじりを引いた。孫も岸和田の伝統を引き継いで大きくなったらだんじりを引いてほしい」と話していました。
だんじりを新調した中井町町会長の西村喜代一さんは「だんじりは岸和田のシンボルだ。今後もだんじりとともに地域を発展させていきたい」と話していました。

09月11日 16時35分

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441よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/09/14(水) 09:08:04 ID:M/PqjuC20
環境配慮、LED灯籠 住吉大社で献灯
2011年9月13日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110913/20110913017.html

 大阪市住吉区の住吉大社の灯籠100基に、発光ダイオード(LED)の灯がともっている。住吉名勝保存会(高野伸生理事長)が12日の観月祭に合わせて献灯。環境に配慮した明かりが情緒的なムードを演出している。13日まで。献灯時間は日没から午後10時。

 保存会によると、住吉大社で灯籠をともしたことはこの約10年の間になく、住吉大社発足1800年記念大祭の一環として献灯を計画。境内は樹木が多いため、ろうそくを使用すると火災の恐れがあるため、ワイヤレスのLEDを使い、消費電力量を軽減する「節電」にもつなげた。

 11日の献灯式には住吉大社や保存会の関係者約30人が出席。東日本大震災の復旧・復興を念頭に、高野理事長は「未来への灯でもあってほしい」と語った。

442よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/09/14(水) 14:44:31 ID:hRTKka8s0
上方落語協会の新拠点 三枝さんら集い地鎮祭
2011年9月14日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110914/20110914047.html

 上方落語協会の拠点となる上方落語協会会館の着工を前に13日、大阪市北区天満4丁目の同会館建設予定地で新築地鎮祭が行われ、同協会の桂三枝会長や、設計を手掛けた建築家の安藤忠雄さんらが工事の無事を祈った。

 約60年ぶりに復活した上方落語の定席である天満天神繁昌亭(同区)が、大阪天満宮所有の土地に建てられているため「協会所有の拠点を持ちたい」と用地を探し、建設にこぎ着けた。桂春團治さんをはじめ同協会に所属する落語家や地元の住民、工事関係者が集まった。

 三枝会長は「繁昌亭ができたからここまで来られた。地元やファンの皆さんのおかげ。この会館で100年200年先を見越し、次の世代を育てていきたい」と強調。安藤さんは「今の日本も先行きも暗い中で、心から笑えることを新しいエネルギーにできるような会館になれば」と話していた。

 完成は来春の予定。

443よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/09/14(水) 15:09:26 ID:hRTKka8s0
桂三枝「笑いで笑顔…日本に発信」 安藤忠雄設計、上方落語の殿堂が地鎮祭
2011.9.13 14:23
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110913/osk11091316260009-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110913/osk11091316260009-n2.htm

 上方落語協会(桂三枝会長)の新たな殿堂「上方落語協会会館」が来年4月、大阪市北区に誕生する。きょう13日、建設の安全を祈願する地鎮祭が行われた。この近くに建つ定席「天満天神繁昌(はんじょう)亭」も平成18年、上方落語の殿堂としての期待を担い建設され、15日に開場5周年を迎える。落語ブームは一段落ちついたかに見えるが、協会では同会館を新たな拠点に、さらに全国的な落語ファンの拡大に努める構えだ。(豊田昌継)

 

75万人超の人気を追い風


 地鎮祭には三枝会長のほか協会員、設計を担当した建築家、安藤忠雄氏ら約100人が出席し、鍬(くわ)入れなどを行った。

 三枝会長は「日本が総じて暗いなか、心から笑える発信地になれば。この会館をきっかけに次の世代を育てるのが我々の使命です」とあいさつし、工事の無事を祈願した。

 同会館は鉄筋コンクリート3階建て(延べ床面積約260平方メートル)で、大阪天満宮正門の南東約50メートル、繁昌亭から同約100メートルの、住宅やオフィスビルが混在する約130平方メートルの敷地に建設される。これまで繁昌亭内に置かれていた事務所や、近くのビルに分散していた資料室、稽古場などを1カ所にまとめる。

 総工費は7千万円。土地は「三枝会長の知り合いで、協会の活動に理解ある方が格安で提供してくださった」(協会幹部)といい、設計についても、やはり三枝会長と懇意にする安藤さんが、「落語は日本が誇る文化。意義あること」と無償で請け負うなど、会館建設には大きな期待がかかっている。

 「喜怒哀楽」をコンセプトに、事務所機能のほかに、一般のファンが立ち寄れるスペースも確保。展示や教室など交流の場も持ちたい考えだ。

 一方、協会の念願として建てられた繁昌亭も15日で開場から丸5年。当初は、NHK連続テレビ小説の題材になるなど“落語ブーム”にも乗り、わずか1年で15万人を突破。観客数は月平均1万4千〜1万5千人で、特に昼席は“プラチナチケット”と言われたが、昨年ごろから動員がやや鈍化。月平均も1万人前後で、当日券で入場できる日も出てきた。

 ただ、三枝会長は「(当初の動員が)ミラクルだった。心配はしていない。若い落語家が切磋琢磨(せっさたくま)してくれれば、(お客さんも)来てくれる」と冷静だ。

 定員220人の定席で、今年8月末現在の総入場者数75万人超という数字は誰も予想できなかった上々の記録。この“人気”による蓄財が、会館建設をよりスムーズにさせたともいえ、三枝会長は「将棋会館のように、全国から来ていただいて、新たに落語ファンになっていただけたらありがたい」と、新しい落語の殿堂に期待を込めた。

444よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/09/14(水) 15:11:13 ID:hRTKka8s0
旧桜宮公会堂:カフェレストランに改装へ 結婚式などにも利用 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110914ddlk27040333000c.html

 大阪市は13日、歴史的建造物「旧桜宮公会堂」(北区天満橋1)を、結婚式や披露宴会場としても利用できるカフェレストランとして改装し、来秋オープンすると発表した。明治の趣を感じられる施設として周辺と一体で整備する。事業費は、3億7500万円。

 旧桜宮公会堂は、1935(昭和10)年、明治天皇記念館として建設。正面玄関(国の重要文化財)は、旧造幣寮(現造幣局)鋳造所にあったものを移築している。これまで、図書館やギャラリーとして使われてきたが、07年に閉鎖して以降、立ち入りできなくなっていた。

 事業者は、市が公募し、選定委員会の審査を経て決定した民間事業者。市は、同一敷地内にあり、現在補修工事中の「泉布観」(国の重要文化財)も同時に外観を公開したいとしている。【林由紀子】

445よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/09/14(水) 15:12:48 ID:hRTKka8s0
能勢人形浄瑠璃:古代の伝説など4演目 久佐々神社で17日 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110914ddlk27040381000c.html

 神社境内でかがり火をたいた幻想的な雰囲気の中で、200年の伝統がある浄瑠璃を楽しむ「能勢浄瑠璃公演」(能勢町など主催)が17日、同町宿野の久佐々(くささ)神社で開かれる。古代の伝説や、中世のお家騒動などを題材にした4演目で、観覧無料。

 同町では江戸時代の文化年間から、人形を持たずに語りと三味線で物語が進行する「素浄瑠璃」が伝わっている。こうした伝統を踏まえつつ視覚でも楽しんでもらおうと、98年には人形を取り入れ、「能勢人形浄瑠璃鹿角座」を設立した。

 同神社は和銅6(713)年の創建で、境内には樹齢数百年のスギやヒノキが茂る。豊かな自然を舞台美術として活用しようと、3年前から町内の神社で公演が開かれてきた。

 素浄瑠璃の他、人形浄瑠璃では近松門左衛門原作の「傾城(けいせい)阿波の鳴門 巡礼歌の段」を上演する。大阪・玉造の盗賊の館に、故郷に残してきた実の娘が巡礼で事情を知らずに訪ねてきた。母親はいったんは「難儀がかかっては」と娘を帰すが、思い直して後を追う−−というあらすじ。

 大衆演劇のため江戸中期に建てられた境内の長床を舞台に上演。境内の敷地に座って鑑賞する。

 午後6時半開演で、上演時間は約1時間半。椅子がないため座布団持参がおすすめ。雨天の場合、18日に延期。問い合わせは、浄るりシアター(072・734・3241)。【熊谷豪】

446よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/09/23(金) 10:52:40 ID:3LBOcdWo0
百舌鳥・古市古墳群:シンボルマークとロゴデザイン発表 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110922ddlk27040316000c.html

 府や堺、羽曳野、藤井寺各市でつくる「百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録推進本部会議」は21日、両古墳群の世界遺産登録に向けた情報発信などに使うPR用シンボルマークとロゴデザインを発表した。

 デザインは公募で、審査対象となった46作品の中から、大阪市内のデザイン会社が提案した案が採用された。

 選定理由として、シンボルマークについて、「古墳の造形と豊かな自然をシンプルにシンボライズしている」とした。ロゴのデザインも「シンボルマークとのバランスがよい」として選ばれた。

 推進本部会議は今後、パンフレットや府や3市の職員の名刺などに活用していきたいとしている。【内田幸一】

447よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/09/23(金) 10:55:35 ID:3LBOcdWo0
情報プラザ:金曜歴史講座〜むかしの大阪をみらいの大阪へ伝える〜 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110922ddlk27040345000c.html

 10月7日〜28日の金曜18時半〜19時45分、大阪市中央区大手前4の大阪歴史博物館4階講堂(地下鉄谷町四丁目駅9号出口)。大阪の歴史や文化財の最新情報を届ける連続講座。「陶技の粋ー佐賀藩蔵屋敷跡出土の『鍋島』ー」「おおさかの中心を掘るー難波宮・本願寺・大坂城ー」など。当日先着250人(18時受け付け開始)。参加費200円(資料代)。問い合わせは大阪市博物館協会大阪文化財研究所(06・6943・6833)。

448よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/09/23(金) 12:13:21 ID:3LBOcdWo0
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/224 八兵衛大明神 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110922ddlk27070353000c.html

 ◆大阪市中央区

 ◇中座支えた「おタヌキ様」 解体工事で爆発、たたり?
 道頓堀の中座には「八兵衛大明神」なるおタヌキ様がまつられていた。それには、こんな逸話が残っている。

 元禄時代のこと、淡路島の三熊山に柴右衛門というタヌキがすんでいた。中座の片岡仁左衛門の評判を聞きつけて、三熊八兵衛というさむらいに化けて船に乗り、大坂へやってきた柴右衛門は、木の葉を木戸銭に変えて毎日、中座へ通った。

 小屋では、毎日、木戸銭箱に木の葉が交じっているのを不審に思い、犬を待機させていた。そこへやってきた柴右衛門は、タヌキと見破られて犬にかみ殺されてしまう。ところが、それまで大入りが続いていた中座は客の入りが悪くなる。「タヌキのたたり」と、舞台下の奈落に柴右衛門をまつったところ、客足が戻ったという−−。

 以来、「中座の守り神」として役者たちの信仰厚かったが、99年の閉館で、ご神体は淡路島へ里帰り。三熊山のふもとの洲本八幡神社にまつられている。酒井一成宮司(47)は「ご神体を移す時、私も白装束で中座に行きました」。芸能関係者の参拝が絶えず、亡きいとし・こいしさんや藤山直美さんらもお参りしたという。

 02年に中座が解体工事中、爆発・炎上した時は「柴右衛門のたたり」とうわさされたとか。約350年も続いた中座が売り飛ばされて、しかも解体されるという最悪の末路に、柴右衛門が怒ったとしても不思議ではないが……。

 実は、中座跡に建っている中座くいだおれビルの地下に、八兵衛大明神のほこらが残っている。ビル管理会社に写真撮影を申し込んだが、オーナーの外資系会社に断られた。理由は不明。

 こっちはあきらめて、ご神体が分祀(ぶんし)されている生国魂神社の源九郎稲荷を訪ねた。案内してくれた権禰宜(ごんねぎ)の中村文隆さんによると、もともとこの稲荷は天王寺七坂の源聖寺坂にあったそうだが、大正時代ごろに移されたという。八兵衛大明神が里帰りした時、「大阪に何もしのぶものがなくなるのは寂しい」と、「ミナミの代表的な神社で、芸能とも縁が深い」生国魂神社に分祀されたという。「今も松竹の関係者がお参りにこられてると聞きます」とのこと。

 余談だが、稲荷の裏手に神木の楠(くすのき)がそびえている。雷が落ちて焼けたといい、黒ずんで裂けている。「みーさん(ヘビ)がいるといわれてまして、ヘビを見たら、特に女性は願い事がかなうとされてて、張り込む人もいるんです」と中村さん。なんと、木の根元をヘビがはっているではないか! なんかええこと、あるかな。

 7月末日、道頓堀で公開披露宴があった。大阪市史料調査会の古川武志さん(40)と、なにわの海の時空館名誉館長の石浜紅子さん。「八兵衛大明神のおかげで道頓堀は繁盛しました。大明神にあやかって、僕たちの結婚式が道頓堀、ひいてはミナミの繁栄につながれば」と古川さんは語る。

 八兵衛大明神のほこらにお参りしたあと、キツネの嫁入りならぬ「タヌキの嫁入り」と銘打った宴とあいなった。講談師の旭堂南陵さんが、民話を基にした柴右衛門タヌキの物語を語って喝采を浴びたり。宴の後は道頓堀を練り歩き。道行く人々は、なにごとならんと目を丸くしながら、お2人を祝福。なんともド派手な披露宴に、さぞやおタヌキ様も喜んではったことでしょう。【松井宏員】

449よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/09/23(金) 12:14:03 ID:3LBOcdWo0
あす20回目「ひらおか薪能」 東大阪・枚岡神社
2011.9.23 01:51
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110923/osk11092301510002-n1.htm

 ■観世流の親子3代で「船弁慶」

 秋恒例の「ひらおか薪能(たきぎのう)」が、24日午後5時半から、東大阪市出雲井町の枚岡神社境内の特設舞台で催される。20回目となる今年は、兄・源頼朝から追われる身となった源義経、静御前らの心情などを描いた能「船弁慶」を、観世流の親子3代で共演する。

 ひらおか薪能は、観阿弥の母が河内国にいたとの伝承から「東大阪は能のふるさと」を合言葉に、市民でつくる実行委員会が主催。市内企業や個人からの協賛金で運営されている。

 「船弁慶」では、観世流の大江又三郎さんが静御前、息子の信行さんが平知盛、孫の女性子役、美乃(よしの)さんが義経を演じる。

 また、大蔵流狂言師の木村正雄さんらが出演する狂言「梟(ふくろう)」や、大阪樟蔭女子大客員教授でもある木村さんによる「船弁慶」の作者、観世小次郎についての解説も行われる。

 入場無料で事前の申し込み不要。問い合わせは実行委事務局((電)072・981・4177)。

450よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/09/25(日) 19:41:23 ID:WpZMYPx.0
来月15日で100回目 上方伝統芸能ナイト
2011年9月24日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110924/20110924027.html

 大阪市、大阪商工会議所と共催し、山本能楽堂(大阪市中央区)が主催してきた「初心者のための上方伝統芸能ナイト」が10月15日に第100回を迎える。節目を記念し、10月から年末にかけての6公演を記念公演として特別版で実施する。

 数多くある大阪の伝統芸能を、凝縮した形で観光客にも大阪の市民にも知ってもらおうと2006年の大みそかに初めて開催。文楽や講談、上方落語、浪曲、能、狂言、お座敷遊びなどの中から4種類程度を15〜20分ずつ上演し、解説や体験などで多彩な芸能の魅力を紹介してきた。

 10月1日の99回は「東北スペシャル編」と題し、東北にちなんだ演目を披露。大阪へ避難している東日本大震災の被災者を招待する。15日の100回公演は「感謝の気持ちをこめて〜100回スペシャル!スペシャル編」として、落語家の桂南光さん、桂春蝶さんらを招き落語や能、文楽の上演のほか、これまでの出演者などとともに記念のトークを行う。

 11月5日の「英語で上方・スペシャル!編」は、講談、落語など全編英語で上演、解説。19日は「大阪の音色を楽しむ!スペシャル編」で「大阪の音」をテーマに公演。12月9日は東西の芸の違いが楽しめる「落語・講談東西対決スペシャル編」を、12月31日は「大晦日!年越しスペシャル編」を行う。

 同能楽堂の山本章弘さんは「上方の芸能同士で横のつながりができるようになり、コラボ公演の実現などにもつながってきた」と手応えを語る。一方で「まだ見に来られたことのない地元の方も多い。府外から来る人にこのイベントを薦めてくれる人が増えるよう、今後も継続していきたい」と話している。

 公演はいずれも料金3500円〜。問い合わせは電話06(6943)9454、同会場へ。

451よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/09/25(日) 20:16:21 ID:WpZMYPx.0
蕪村俳句講座で小中学生を表彰
http://www.nhk.or.jp/lnews/osaka/2005818331.html

江戸時代の俳人で大阪出身の与謝蕪村の功績を学びながら、俳句に親しもうという講座で小中学生がつくった俳句の表彰式が行われました。
この講座は、大阪市のNPO法人が開いているもので、きょうの表彰式は大阪・都島区の淀川小学校で行われました。
講座を受講する小学校や中学校の教師の教え子たちから寄せられた1100余りの俳句の中から22の作品が表彰されました。
最優秀賞に選ばれたのは、大阪・港区の中学3年、井上健さんが詠んだ「桜咲き僕ら今日から新学年」という俳句です。
井上さんは、「新しい学年になってうきうきした気持ちをまとめました。俳句は短い中に気持ちを伝えられるところがおもしろい」と話していました。
5年後には、蕪村が生まれて300周年を迎えるということで講座を開いているNPO法人は今後も活動を続け、より多くの人に蕪村の功績を知ってもらいたいとしています。

09月25日 13時44分

452よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/09/25(日) 20:17:34 ID:WpZMYPx.0
沈む夕日に極楽浄土見る 四天王寺「日想観」
2011年9月24日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110924/20110924030.html

 「秋分の日」の23日、大阪市天王寺区の和宗総本山四天王寺(奥田聖應管長)で、浄土信仰の伝統行事「日想観(じっそうかん)」が執り行われた。境内の西大門(極楽門)と鳥居と落日が一直線に結ばれ、集まった参詣者らは夕日に手を合わせ、日没を見届けた。

 同寺は創建(593年)当初、門前には海が広がり沈む夕日を見ることができた。弘法大師・空海はその落陽風景を見て極楽浄土は日の沈んだ向こう側「彼岸」にあると説いたことが、彼岸会のルーツとされている。

 この日は、日没前に同寺の高僧らが門前に参集し、読経などをして法要を執行。参詣者らは差し込む黄金色の日を写真に収め、合掌してこうべを垂れるなどした。

453よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/09/27(火) 07:19:50 ID:w9gS0Nvo0
国内最古の「現役」 愛珠幼稚園舎を一般公開 大阪
2011.9.27 02:01
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110927/osk11092702020003-n1.htm

 ■来月22日 建物解説やピアノ演奏

 国内最古の“現役”幼稚園施設で国重要文化財の大阪市立愛珠(あいしゅ)幼稚園・園舎(同市中央区)が10月22日、一般公開される。学芸員による建物解説や明治期に製造されたドイツ製ピアノの演奏などが行われる。

 愛珠幼稚園は、明治13年に船場北部の連合町会が創設。22年に市立園となり、34年に現在地へ移転。園舎もその際に建てられた。

 敷地の周囲に瓦ぶきの高塀を巡らせ、園舎は大屋根を持つ御殿風の木造建築。内部は、保母らが設計に携わり、採光や通風を良くしたり園児がけがをしないような配慮をしたりと、保育者ならではの工夫が随所にみられる。

 明治42年、“世界最高級”との評価を受けていた独・イルムラー社製のグランドピアノを購入。老朽化が進んだため近年、修復されて往時の音色を取り戻した、という。

 当日は午後1〜4時の間、開放。30分に1回、市教委の学芸員が建物を解説し、幼稚園教諭がピアノ演奏を披露する。入場無料で、事前の申し込みなどは不要。問い合わせは、市教委生涯学習部文化財保護担当((電)06・6208・9030)。

454よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/09/28(水) 22:23:19 ID:a4AnteDQ0
大阪ニュース
「曽根崎心中」の成功祈願 お初天神で坂田藤十郎さん
2011年9月28日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110928/20110928030.html

 大阪市北区曽根崎2丁目の露天神社(お初天神)を27日、上方歌舞伎の重鎮で人間国宝の坂田藤十郎さん(79)が参拝した。11月に東京・国立劇場で行われる「曽根崎心中」公演(3〜26日)の成功祈願。1953年にお初の役で初演しこれまで1300回以上上演したライフワークで代表作だ。

 徳兵衛役の中村翫雀(かんじゃく)さん(52)を伴って境内に設置された「お初・徳兵衛」像を訪れ「久しぶり。また、よろしくね」と藤十郎さん。

 「初演から58年たっているのに毎回新鮮で、初日は初役のつもりでいつも取り組んでいる。自分の分身のようでもあり、翫雀の徳兵衛とも親子とか関係なく、超越した気持ちで恋をしている。こんな幸せなことはない」と藤十郎さんはお初像に手を合わせる。

 「父の相手役をしてから30年たっているが、いつも徳兵衛が入っていきやすいようにお初を演じてもらえる」と、翫雀さんもあうんの呼吸を強調。「どこの劇場でも同じ世界(近松門左衛門作)で演じられる作品。機会があればぜひ国立劇場へ」と親子で声を合わせていた。

455よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/10/02(日) 10:50:00 ID:KM59RV920
「残念石」が400年越しの大阪城へ
http://www.ktv.co.jp/news/date/main.html

大阪城の築城工事にまつわる「残念なもの」歴史ファンらが関心を寄せるその残念なものとは?

【記者レポート】
「3.5トンもあるいわゆる「残念石」400年の時を超え今、大阪城に到着しました」

「残念石」は江戸幕府が大阪城を築いた時に石垣用に切り出されたものの、結局は使われず放置された石のことです。石が切り出された香川県小豆島には今も2800個以上が残っています。この「残念石」、大阪城の天守閣復興80周年を祝うイベントで400年越しの念願が叶い大阪城に運ばれ、修羅引きと呼ばれるソリを使った当時の運搬方法でお披露目されました。

【参加した親子連れ】
「重たかったです。昔の人はすごい努力したんだと思いました。」
「嬉しいだろうなと、残念石もやっと大阪まで来れて。」

そのほか、運搬の際の掛け声から生まれた小豆島の伝統的な「石節おどり」が披露され、訪れた観客を喜ばせていました。

456よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/10/03(月) 22:50:57 ID:QyhW23kY0
【大阪の20世紀】
(1)1901年“新春” 穏やかに明けた元日
2011.9.20 10:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/110928/wlf11092822090138-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/110928/wlf11092822090138-n2.htm
■産経新聞アーカイブ(1999年01月06日 大阪府下版に掲載)

 一九〇一年(明治三十四年)の元日、大阪は穏やかな晴天に恵まれた。気象台の記録では、この日の最低気温は一・二度。冷え込みは厳しかったが、百万人に近かった大阪市民の多くが「良き一年」を祈願して朝日に手を合わせたことだろう。当時は西暦が普及していなかったため、ごく一部の知識人を除いて、「二〇世紀の到来」を意識した人はほとんどいなかった。しかし、この年、大阪で起きた数々のエピソードは「激動の世紀」の幕開けを予感させるに十分だった。

賑わい天下一

 「サアサアお入り、看板ばかりではお分かりにならぬ」「ヤアヤア、今が始まりじゃ」「アーリャ、アリャアリャ」−。

 西日本一の繁華街、大阪・ミナミの千日前通り。明治三十四年も新春から、連日、祭りのような賑わいを見せた。軒を連ねる見せ物小屋からは、威勢のいい口上が響く。

 行き交うのは、前掛姿の中年の商人、キョロキョロと物見遊山の旅行客、遊び人風の男、着飾った良家の「いとはん」、人力車に乗った旦那さん、丸髷(まげ)を結った婦人、書生、丁稚、肩に大きなふろしき包みを背負った男、出前持ち、芸妓…。

 このうち七割は旅行客、地元の人は三割ぐらい。ほとんどは和装だが、洋服の紳士もちらほら。当時は珍しい自転車もたまに行き交う。

 ちなみに三月十一日午後一時から二時までの通りの通行量は、南行きが男八百十七人、女三百六十人の計一千百七十七人、犬一匹。北行きが男五百十四人、女二百二十三人の計七百三十七人、犬は二匹だった。

 大きな劇場「播重定席」の新春の演目は「女義太夫」。美女四十人余りが美声を聞かせるとあって初日から大入りが続く。「南大劇場」は村田正雄一座の新演劇で対抗した。

 小規模な見せ物小屋では、「萬歳席」にひと際大きな人垣ができた。演目は「轆轤(ろくろ)首」。舞台上のちよ(二十一歳)、たき(二十二歳)、きみ(十五歳)の美人三人娘が小唄を歌うと「あら不思議」。三人の首が三尺ほど伸び、また縮む。

 「アナトミ館」のリアルな「人体解剖ロウ細工」、空中ブランコなどを披露する「奥田席」の「西洋大運動」なども盛況。流行の移り変わりは早く、前年流行した洋弓店は、すべて空気銃に代わってしまった。

 どの見せ物小屋にも「懐中物御用心」と立て札が上がる。「掏賊(ちぼ)」といわれるスリたちが客の懐を狙っているからだ。袖を刃物で切ったり、ドンと突き当たったり、手口はさまざま。巷では、「スリ」と「マッチを擦る」をかけて「マッさん」などとも言われた。

 「食い倒れ」の伝統は当時から。「京與」の魚肉すき焼きは「東京人などのかつてその味わいを知らざるところなり」。「滋養亭」の「牛肉すき」も「安くてうまい」と人気を呼んだ。値段は、「魚肉すき焼き」十五銭、「うなぎまむし」十二銭、小鉢五銭、酒九銭、飯四銭、卵四銭、ネギ一銭。物価高は著しく、六、七年前に比べ、二−三倍になってしまった。

幕開け無関心

 こうしたまちの様子は、大阪を代表するジャーナリスト、永江為政(一八六一−一九二五年)が発行した隔週刊誌『大阪経済雑誌』の記事をもとに再現したものだ。

 永江は「日光の美を観ぞして美術の美を語る可(べか)らぞとせば、道頓堀千日前の光景を観ざる者は、以て大阪の繁昌を知る能(あた)はざる也」と断じて、当時の様子を克明に記録した。

 「天下の台所」といわれ、江戸時代から水利を生かした商業の中心地として栄えてきた「大坂」は、明治中期から紡績業など工業都市としても急速に発展した。日清戦争から七年を経た明治三十四年は、「第五回内国勧業博」の開催を二年後に控えていたこともあり、一種独特の活気に満ちていた。

 しかし、今では、当時の大阪の様子を記憶する人はほとんどいない。そんな中、地歌の菊原流の継承者で人間国宝の菊原初子(九九)は、大阪・船場で生まれ育った貴重な証人の一人。

457よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/10/03(月) 22:52:46 ID:QyhW23kY0
>>456

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/110928/wlf11092822090138-n3.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/110928/wlf11092822090138-n4.htm

 「船場は大きなお商売のお店が並んでましてな。通りはお商売の人や人力車が次々通って賑やかでした。けど、若い娘は表を一人では歩けしません。歩くと丁稚さんたちが並んで出てきはって、こっちの方が気がはりましたわ」

 「明治の奇人」「反骨のジャーナリスト」といわれる宮武外骨(一八六七−一九五五年)が大阪で『滑稽新聞』を発行し始めたのも同じ年の一月。退廃的な風刺画と中傷記事が満載された新聞だが、爆発的な人気を呼び、一時は三万部の発行部数を誇った。ただ、この新聞でも二十世紀についての記述はほとんどない。

 『大阪朝日新聞』の元日の紙面でも、「この新年を迎えるに当たりて、吾輩は二の賀すべきことあるをみる。一は明治三十四年を迎えることにして、他は二十世紀の第一年を迎えることなり」と一言触れたにすぎず、大阪で記念行事が開かれた形跡はない。

取り付け騒ぎ

 平穏に新春を迎えた大阪だったが、四月十六日、大阪市内の第七十九銀行の取り付け騒ぎに端を発した金融恐慌が起き、これまで表に出なかった社会不安が一気に噴出し始めた。

 前年の五月に起きた清国・山東省に義和団が蜂起した「北清事変」で、対清貿易に支障が出たことが恐慌の原因とされるが、波紋は難波銀行、天王寺銀行などに次々と広がり、結局、半月の間に大阪周辺の二十四行で取り付けが発生、十四行が一時的に休業に追い込まれた。

 日本銀行大阪支店が救済融資を行い、騒ぎはいったん収まるが、五月末には堂島米穀取引所の紛争から、北浜銀行が取り付けにあい、恐慌が再発。逸身銀行が解散に追い込まれる。

 『日本金融史資料』(日本銀行調査局編)は「全市の恐慌を来たし、大阪の貨幣市場は全く暗黒の世界となり」と解説。大阪経済雑誌も「暗黒世界」と題し「世の中は斯(かく)の如く物騒なり。故に火を見れば火事と思い、人を見れば泥棒と思ふの外(ほか)なきは、実に是(これ)大阪の現状なり」と憂いを吐露している。

 それでも、当時の大阪にみなぎるエネルギーはすさまじかった。六月末には恐慌も沈静化。中小銀行は淘汰されたが、住友銀行など大銀行はかえって資産を増やしている。

 住友金属工業が同年六月、安治川河口に住友鋳鋼場を開設するなど、軽工業中心の大阪の工業基盤は、重化工業まで裾野を広げた。さらに御影石づくりの二代目の大阪駅が完成するなど鉄道や道路などインフラ整備が急速に進んでいく。

 三和総研主任研究員(貨幣金融史)の飛田紀男は「一九〇一年は大阪の産業構造の大きな転換期だった。この年をもって日本の産業革命は完成したともいえ、大阪は近代都市としての第一歩を踏み出した」と解説する。

 =文中敬称略、肩書は当時


 (石橋文登)

458よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/10/04(火) 21:34:35 ID:CWyqQU1k0
茨木城が日本史に与えた影響を解説 8日に講演会 大阪
2011.10.4 02:13
http://sankei.jp.msn.com/region/news/111004/osk11100402140001-n1.htm

 戦国時代、今の茨木市に存在したとされる茨木城が日本の歴史に与えた影響などを紹介する講演会「茨木城と城下町の復元」(市観光協会主催、産経新聞社など後援)が8日、同市駅前の市福祉文化会館で行われる。

 茨木城は現在の阪急茨木市駅西側付近に建てられていたとされ、近くの茨木神社には廃城の際に移築された搦手門(からめてもん)などが残っている。城主は中川清秀らが知られ、戦国から江戸前期に活躍し、武将で茶人としても名をはせた古田織部も城下町に居住していたという。

 茨木市の歴史を調査している京都大人文科学研究所共同研究員の豊田裕章さんを講師に招き、城の歴史や当時の町並みを紹介。城が日本史に与えた影響なども解説する。

 午後2〜4時。入場無料。問い合わせは市観光協会事務局((電)072・645・2020)。

459よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/10/04(火) 21:43:37 ID:CWyqQU1k0
近つ飛鳥博物館で特別展 百舌鳥・古市古墳群の資料540点 大阪
2011.10.2 02:05
http://sankei.jp.msn.com/region/news/111002/osk11100202050001-n1.htm

 世界遺産国内暫定リストに記載された府の「百舌鳥・古市古墳群」をテーマに、宮内庁の所蔵資料を中心にして最新の発掘成果まで約540点を紹介する特別展(府立近つ飛鳥博物館、産経新聞社など主催)が1日、河南町の同博物館で始まった。

 両古墳群の宮内庁の発掘資料がこれだけ一堂に並ぶのは初めてという。百舌鳥古墳群の仁徳天皇陵(堺市)、古市古墳群の応神天皇陵(羽曳野市)という2大古墳を中心に形象埴輪が多い。御廟山(ごびょうやま)古墳(堺市)から出土した囲形(かこいがた)埴輪と家形埴輪は、囲形に家形がすっぽり入るセットだったことが分かる珍しい例。水にまつわる祭祀(さいし)を行った建物の埴輪とみられている。

 また、本展をきっかけにした成果も展示。明治に津堂城山古墳(藤井寺市)から出土した銅鏡の破片は宮内庁と関西大学で別々に保管され、計測で合致することは判明していたが、今回初めて実際に合わせて並べられた。

 12月4日まで(月曜休館、10月10日は開館、11日は休館)。入館料は一般600円など。

460よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/10/05(水) 20:27:35 ID:o6XZPBsk0
技と心を結集 16日、高津宮で「氏子菓子祭り」
2011年10月5日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/111005/20111005025.html

 四季折々の行事を通して気軽に高津宮(大阪市中央区高津1丁目、小谷真功宮司)に集う「たかきや倶楽部(くらぶ)」の発足10周年を記念した「第1回 上町台地 高津宮・氏子菓子祭り」が16日、同宮で開かれる。倶楽部員の中で菓子業に携わるメンバーでつくる「高津宮・氏子菓子製作委員会」が開き、「高津宮氏子ロール」などの氏子菓子を販売。高津宮にちなんだ料理が味わえる屋台が並ぶ。

 同倶楽部は現代生活で失われつつある四季の行事を通して神社に集うことで、日々の潤いを取り戻そうと2001年に発足。メンバーのうち菓子業に携わる高津宮の氏子衆が、高津宮の祭神である仁徳天皇の国民の幸せを第一に願った「特政の精神」に通じる氏子菓子を開発し、製作委員会を09年に結成した。

 地域の活性化に貢献しようと初めて開く氏子菓子祭りは、「それぞれの技と心の結集」がテーマ。スポンジに米粉を使った「高津宮氏子ロール」(ハーフサイズ500円)や、神社にちなみピリッとしたショウガと濃厚なチョコレートの味わいが楽しめる「高津宮ジンジャーチョコ」(35グラム、420円)などを販売する。

 このほか、高津宮の梅林にちなんだ梅のほのかな香りを楽しめる「高津宮 梅香うどん」(500円)などが味わえる「氏子グルメ屋台」もある。

 同委員会の木村裕一さん(60)は、「出店する各社の持てる技と心が結集した氏子菓子祭り。ぜひ味わってほしい」と呼び掛けている。

 祭りは午前11時〜午後5時。問い合わせは電話06(6754)7263、氏子菓子製作委員会(木村アルミ箔内)へ。

461よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/10/08(土) 08:20:28 ID:gE0RNVt20
豪商“夢の跡”たどる 「落語と街歩きで巡る船場」
2011年10月7日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/111007/20111007017.html

 江戸時代の豪商の“夢の跡”をたどる「落語と街歩きで巡る船場・豪商夢の跡」が9日、大阪市中央区今橋2丁目の大阪美術倶楽部(旧鴻池本宅跡)などで行われる。淀屋屋敷跡などを巡る街歩きスタンプラリーでは、淀屋と関係が深い鳥取県の新米コシヒカリなどが抽選で当たる。木戸銭2千円(落語鑑賞・スタンプラリー)。先着120人。

 淀屋研究会と文化活動グループ「熟塾」の共催で船場まつりの一環として行う。

 落語会は午後1時半から同倶楽部3階備前の間で。笑福亭竹林さんの落語入門の一席で始まり、淀屋の栄枯盛衰を物語る「雁(がん)風呂」を林家染雀さんが、鴻池本宅も登場する「莨(たばこ)の火」を笑福亭松枝さんが披露。上方落語を盛り立てるお囃子(はやし)の実演レクチャーもある。

 同倶楽部をスタートするスタンプラリーは午後4時から。淀屋屋敷跡や適塾など8カ所を巡り、江戸時代に“タイムスリップ”する。6カ所以上巡ると抽選会(会場=淀屋橋odona2階ispot)に参加できる。

 鳥取県関西本部や同県倉吉市などが景品を提供。同県奥日野産コシヒカリの新米や倉吉絣(かすり)の小物品などが当たる(空くじなし)。

 問い合わせ、申し込みは電話・ファクス072(994)2856、熟塾へ。

462よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/10/08(土) 08:27:28 ID:gE0RNVt20
「世界遺産」効果360億円
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20111007-OYT8T00089.htm

百舌鳥・古市古墳群 宮本・関大教授ら試算

 2015年の世界遺産登録をめざす百舌鳥(もず)・古市古墳群について、登録されれば最初の1年間の府内での経済効果は約360億円との試算を、宮本勝浩・関西大教授(理論経済学)らが6日、発表した。世界最大級の仁徳陵古墳のある堺市だけでも約169億円に上るとした。

 登録に伴い、府内で世界中から観光客などが2割増え、日帰り客と宿泊客を合わせて156万人増加するとし、飲食費は54億円、土産物代は80億円などと推計し、食材や土産物の材料費など生産面への波及も考慮した。

 堺市によると、2004年に登録された三重、和歌山、奈良県にまたがる世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」で、和歌山県での経済効果の試算は約196億円。竹山修身市長は「堺市だけで和歌山県に迫るほどの非常に高い効果があるとわかった。厳しい経済の中で明るい話題だ」とコメント。

 宮本教授は「古墳の全景を眺めたりイメージしたりできる工夫をすれば来客が伸びて効果はもっと増やせる」とアドバイスした。

(2011年10月7日 読売新聞)

463よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/10/08(土) 08:44:32 ID:gE0RNVt20
大阪城天守閣 復興80年の歩み 特別展8日開幕
2011.10.7 13:35
http://sankei.jp.msn.com/region/news/111007/osk11100714070009-n1.htm

 復興80周年を11月に控えた大阪城天守閣(大阪市中央区)の記念特別展「天守閣復興」が、天守閣3・4階展示室で、8日開幕する。80年の歩みを写真パネルや模型などでたどるほか、天守閣所蔵の重要文化財「大坂夏の陣図屏風(びょうぶ)」も展示する。

 天守閣は昭和6年、大阪市民の寄付150万円(現在の貨幣価値換算で約100億円)で再建。豊臣秀吉が建てた初代天守閣から数えて3代目にあたり、鉄骨鉄筋コンクリート造り。今年11月7日に復興80周年を迎える。

 展示されるのは、3代目天守閣の設計原図10点や復興工事の写真パネル、復興と同時に開園した大阪城公園のイラスト風案内図、シャチホコの小型模型、空襲によって荒廃した櫓(やぐら)の写真パネルなど121点。

 重文の「大坂夏の陣図屏風」は、豊臣・徳川両軍の激突や大坂城(当時は大坂と表記)落城後の光景が描かれた六曲一双の屏風で、秀吉築城の大坂城の外観を伝える貴重な絵画資料として知られる。

 特別展は11月27日までの連日午前9時から午後5時(入館は同4時半)まで。土・日曜日と祝日は開館時間を1時間延長する。入館料は大人600円などで、復興記念日の11月7日は無料。

 また、期間中の11月23日には、復興天守閣の価値を学術的視点から探るシンポジウム「大阪城天守閣復興の意味を問う」が開かれる。参加無料だが、申し込みが必要(先着順)。午後1時から。

 特別展とシンポジウムの問い合わせは大阪城天守閣((電)06・6941・3044)。

464よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/10/08(土) 13:35:27 ID:gE0RNVt20
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/226 阿倍野墓地 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20111006ddlk27070432000c.html

 ◆大阪市阿倍野区

 ◇地域発展に一役 広さ6万2305平方メートル・1万3697基、人が集まる場に
 「大阪市南部は歴史の宝庫です」と大阪案内人の西俣稔さんにいざなわれ、今回から阿倍野区、西成区を歩きます。

 「大阪24区で、川が流れてない区が二つあります。どこか知ってる?」。天王寺区と阿倍野区です。市内で最も高台の上町台地があるから、川は流れてません。

 「なら、なんであべの橋があるか?」と西俣さんがたたみかけてくる。たぶん、川の橋ではなくて、陸橋なのでは。「正解。いまのJR大和路線をまたぐ陸橋です」。JR天王寺駅南のあべの筋に架かっているのがあべの橋。近鉄の駅や市バスのバス停にその名が付いている。

 さて、地下鉄阿倍野駅から歩き始める。チンチン電車が走るあべの筋の阿倍野交差点を西へ折れると、すぐに広大な墓地が現れる。「墓地からぼちぼち行きましょ」と西俣さん。はいはい。

 ここ阿倍野墓地は正式名称を大阪市設南霊園といい、広さ6万2305平方メートル、1万3697基のお墓が並ぶ。1874(明治7)年に、千日前や飛田にあった墓が集められてできた。なにぶん、古い墓地なので空きはなく、お墓を建てたくても新しく建てることはできない。

 江戸時代から大坂には「七墓めぐり」という風習が流行した。お盆の夜にかねや太鼓をたたきながら七つの墓地を巡ると、自分の葬式の日の天気がいいとかいわれた。七墓は諸説あるようだが、今も残るのは京橋の蒲生、北区豊崎の南浜の2カ所だけ。蒲生墓地は京橋の繁華街の中にあり、屋台の立ち飲みから墓地が見下ろせる。花見ならぬ「墓見」ができるわけだ。

 それはともかく、昔から墓地は町の中心には造らなかった。町の周縁に造ったものだから、昔は京橋も町なかではなかった。梅田にも墓地があって(毎日新聞社のすぐ近く)、もとの地名は埋田というくらいだから、住む人もいない土地だった。

 もちろん阿倍野もそうで、墓地ができるまでは、熊野街道筋にあたる今の阪堺電車の東天下茶屋駅辺りと、JR鶴ケ丘駅近辺に農村があっただけ。田畑や原野が広がる土地だった。だから、いくらでも広い墓地を造ることができたのだ。

 「阿倍野墓地ができたことで、阿倍野が発展していくんです」と西俣さん。火葬場もできたので、葬儀に関わる店などができて、人が集まるようになる。【松井宏員】

465よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/10/10(月) 09:04:58 ID:fGFPH.Zc0
実りの季節祝う太鼓・神輿の巡行 大阪・吹田
2011.10.10 02:00
http://sankei.jp.msn.com/region/news/111010/osk11101002010003-n1.htm

 府内各地で9日、秋祭りがにぎやかに繰り広げられ、吹田市の山田伊射奈岐(いざなぎ)神社では市無形民俗文化財に指定されている太鼓と神輿(みこし)の巡行が行われた。

 氏子の若者たちが早朝、「エッサ、エッサ」のかけ声とともに太鼓や神輿を担ぎ、同神社を出発して山田地区一帯を巡行。花笠をかぶり、白や水色、黄色などカラフルな長いタスキをなびかせた小学4年生の「乗り子」たちが「ドンデンドン」と太鼓をたたくと、地区内は秋祭り一色に染まった。

466よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/10/10(月) 14:39:55 ID:fGFPH.Zc0
千利休ゆかりのだんご茶会
http://www.nhk.or.jp/lnews/osaka/2003103961.html

千利休が茶会を開いたと伝えられる大阪市内の神社で、当時を再現した「だんご茶会」が開かれています。
大阪・中央区の玉造稲荷神社は、豊臣家とのゆかりが深く、千利休が茶会を開いてだんごとお茶で武将らをもてなしたと伝えられています。
神社の境内では、当時の茶会を再現する「だんご茶会」が毎年この時期に開かれていて、きょうも裏千家の人たちが屋外で茶をたてる「野だて」を行って、訪れた人にだんごとともにふるまいました。きょうの大阪市は野だてにはうってつけのさわやかな秋晴れとなり、訪れた人たちは千利休をしのびながらお茶とだんごをゆっくりと味わっていました。
市内に住む60代の女性は、「結構なお手前でとてもおいしかった。当時の茶会がいまに受け継がれていることを知り、千利休の偉大さを改めて感じた」と話していました。
「だんご茶会」はきょう午後3時まで開かれています。

10月10日 12時21分

467よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/10/11(火) 20:34:15 ID:FCYavg/s0
”豊臣秀吉と尼崎”展
http://www.nhk.or.jp/lnews/kobe/2023077901.html

天下統一を果たした豊臣秀吉と尼崎の関わりをテーマにした展示会が尼崎市で開かれています。
豊臣秀吉の時代、大坂の隣接地として大きく発展した尼崎には秀吉ゆかりの品が数多く残されており、展示会ではおよそ80点が紹介されています。
このうち尼崎市内の寺院に伝わる「豊臣秀吉木像」は高さが23センチあまりで、慶長3年=1598年に秀吉が死んだあとに作られたものとされています。
また秀吉が京都の聚楽第に天皇を招いた「聚楽第行幸」の様子を描いた屏風は、平成16年に市内の住宅で見つかりました。
このほか尼崎の代官からまつたけ200本を贈られたお礼に記された秀吉の朱印状も展示されています。
訪れた女性は「尼崎にこれほど多くの歴史的な資料が残っていることに驚きました」と話していました。
尼崎市教育委員会のカド野一裕学芸員は「伏見桃山時代の尼崎を展示品から感じとってもらいたい」と話していました。
この展示会は来月13日まで尼信博物館で開かれています。
学芸員カド野さんのカドは木偏に四の下に方です。

10月11日 18時10分

468よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/10/13(木) 21:06:14 ID:hRx6FiCo0
>>464

わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/227 続・阿倍野墓地 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20111013ddlk27070468000c.html

 ◆大阪市阿倍野区

 ◇経済界の大物眠る 意外と多い他県出身者
 阿倍野墓地を歩いてみる。これだけお墓が並んでいると壮観だ。天を突かんばかりにそびえたつ墓石がそこここにある。中でもひときわ目立つのが五代友厚の墓だ。

 中央の通路から奥まった所に据わる墓は、なんと石鳥居付き。巨大な墓石の前には石灯籠(どうろう)が10基も並び、それはそれは立派な墓所だ。五代友厚が大阪にとって、いかに重要な人物だったかを物語っているようだ。

 薩摩藩士だった五代は、明治維新後、新政府で外国との交渉役として働いた。ヨーロッパ外遊の経験を生かして、堺で土佐藩士とフランス兵が衝突した堺事件の処理に当たり、大阪開港に踏み切って、大阪税関の前身となる川口運上所を開設。造幣局も大阪にもってきた。

 実業家に転じて、堺紡績所や全国16カ所の鉱山を経営。インド藍の輸入を防ぐため、堂島に製藍所を設け、さらには証券取引所の前身の大阪株式取引所や、大阪商工会議所の前身の大阪商法会議所を設立して初代会頭を務め−−とまあ、いまの大阪経済界の礎を築いた人物なのだ。このため、北浜の大阪証券取引所の前と、本町橋の大阪商工会議所の脇に銅像が建っている。

 これだけのやり手だったが、私腹を肥やすということをせず、身なりは粗末だったという。西洋通だったが洋食嫌いで、薩摩隼人らしく焼酎好き。明治18年9月25日没。

 大阪案内人の西俣稔さんは、五代の言葉がお気に入りのよう。「成功と失敗の分かれ道はほんの一歩。進めば成功し、遅れれば失敗する、と言うてます」

 大阪になくてはならぬ人物が、薩摩生まれだというところに興味をひかれる。大阪で名をなした人物には、大阪生まれでない人がけっこう多い。阿倍野墓地を逍遥(しょうよう)して墓を見つけた土居通夫もそうだ。

 この人は四国は愛媛の宇和島藩士で、同じ四国の坂本龍馬と意気投合して脱藩し、大坂にやって来た。五代友厚に目をかけられて運上所に勤務。没落寸前の鴻池家の番頭に抜てきされるが、その時の条件がふるっている。「私が職務を怠るか、不利益を与えた時は即刻解雇すること。そうでなければ、何があっても終身雇用せよ」。よほどの自信家でないと吐けないセリフだ。

 鴻池を立て直した土居は、それから大阪電燈、明治紡績の社長や日本生命、大阪毎日新聞の取締役など数々の会社の経営に関わり、大阪商業会議所の第7代会頭も務めた。大阪商議所に五代と並んで銅像が建っている。

 また、1903(明治36)年に大阪で開かれて大きな経済効果を挙げた第五回勧業博覧会を、東京と争って誘致に成功した。5カ月で約450万人を集めた博覧会の跡地が、天王寺公園や新世界だから、土居は新世界の生みの親といえる。

 初代通天閣の建設という功もある。通天閣の名は、土居通夫の通を取って「天に通じる建物」という意味で命名されたと長らく信じられていたが、儒学者の藤沢南岳が名付けたことが1985年に明らかになった。通天閣観光の西上雅章社長は「土居通夫が親交のあった藤沢南岳に、名付け親になって、と頼んだんです。藤沢南岳が土居通夫をヒントにしはったかどうかはわかりませんが」と話す。

 大阪生まれでない大物が経済界になぜ多いのか。商都だったのが大きな要因なのはもちろんだが、大阪が進取の精神にあふれていたからではないか。新しいもの好き、誰もやらないことをやる−−。その気風はいま、どうか? 墓地で考えてしまった。【松井宏員】

469よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/10/13(木) 21:08:12 ID:hRx6FiCo0
行ってみよっと:レトロ建築めぐり 戦火の中、生き残る /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20111013ddlk27040445000c.html

 大阪の都心に残るレトロ建築を観察しに出た。

 オフィス街の北浜(大阪市中央区)。堺筋沿いに細くそびえるのは1930(昭和5)年、生駒時計店の本店として建てられた生駒ビルヂング。「ビルヂング」がいい。

 「これ、スクラッチタイルです。ひっかいたみたいな模様が特徴です」と案内していただく建築士、山本尚子さん(54)。外壁に目を近づけると、なるほど凝っている。「ちょっと離れて見てみましょう」。向かいの歩道から見上げる。ビルのてっぺんの6階で、悠然と時を知らせる時計。当初は英国製だったが、今はリズム社製。そのまま視線を下へ。5階から3階までの壁に振り子の棒が描かれ、2階にはおもりがデザインされている。街路樹の陰になって見えにくいところが、これまた奥ゆかしい。ちなみに午後8時から同10時に行くとイルミネーションの明かりが振り子が振れるように揺らめいてきれい!

 玄関を入ると、鐘が鎮座している。かつては時報を鳴らしたが、昭和40年代に“引退”。現在はデジタル録音で残された音が、毎日8、12、16、20時の4回流れる。「周辺のご迷惑にならないよう、音量を控えめにしています」と生駒伸夫社長。ちょっと耳を澄ませた方がよいかも。

 ガス灯が並ぶ三休橋筋を通って、1927(昭和2)年築の芝川ビルへ。当初は芝蘭社家政学園が入り、いとはんが花嫁修業にいそしんだ。今はチョコレート店、ブティックなどが入居するオシャレなビル。

 角から見る姿がどっしりとしてカッコいい。内部で楽しいのは洗面所のタイル。丸みのある一枚一枚に、心もまあるくなる。山本さんは「インカ文明ふうの彫刻がある部屋があります。今度、ショッピングがてら見てください」。

 次は、1931(昭和6)年築の綿業会館。威厳のある風格は重要文化財だ。何しろ建築にかけた事業費がケタはずれ。故・岡常夫・東洋紡績専務の寄付などで150万円。この数字がどんなもんかこれだけではよくわからないが、同じ年、大阪城天守閣が再建された。その費用が47万円。つまり天守閣三つ建つ勘定。

 では内部へ。玄関ホールはイタリアルネサンス様式。2階までの高い天井を見上げる。「シャンデリアはミラノのスカラ座のものを模したものです」と事務局長の花崎正男さん。絢爛(けんらん)豪華さに、ため息が出る。続いて会員食堂へ。「石の壁のようにみえるでしょ?」と花崎さん。ノックすると、コンコンと軽い音がはねかえってきた。「木製の吸音材です。フォークとお皿がガチャガチャいうのを響かせないためです」と山本さんが解説。当時の紳士淑女は、ナイフ&フォークにまだ不慣れだった!?

 ところで、この辺りは戦火で焼け野原となったが、この建物はしっかと残った。なぜ生き残れた?「壁は耐火れんが、窓はワイヤ入りの耐火ガラスを使っていましたから。関東大震災を教訓に設計したのです。でも、あの窓ガラス見てください」と花崎さん。ゆがんだガラス。熱さに食いしばったよう。

 大正10(1921)年築の青山ビルは、ツタがトレードマーク。巻き付いているのは、昭和期に甲子園から株分けされたものだ。「ツタは建物の温度を下げたり、壁の老化防止に役立っています」と青山正美社長(70)。ビルの奥からのぞくイチョウは樹齢90年、クスノキは300〜400年。自然とともに年を重ねている。さて、1階の丸福珈琲店で一服。趣のある内装に包まれ、カフェインがじんわりしみる。【三角真理】

==============

 綿業会館(電話06・6231・4881)は通常は公開していないが、第4土曜日のみ、有料で予約制で館内見学できる▽青山ビル(電話06・6231・6397)の見学は要予約。

470名無しさん:2011/10/14(金) 19:33:44 ID:N9lOGkPU0
ちょっと気になりましたが大阪のいいニュースってやたらと「写真なし」
が多いですよよね。

471名無しさん:2011/10/15(土) 02:39:12 ID:pr3MS3dk0
大阪国際女子マラソンでも、コースが御堂筋にかかると選手のアップになります
御堂筋の左右の建物は見せません

472よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/10/15(土) 05:21:04 ID:eS4imkoo0
玉造稲荷神社に豊臣秀頼の銅像を奉納
2011年10月14日
http://mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000001110140004

 豊臣秀頼(1593〜1615)が再興した玉造稲荷(いなり)神社(大阪市中央区玉造2丁目)に秀頼の銅像が建てられ13日、除幕式があった。大阪城天守閣の復興80周年を記念して兵庫県西宮市の女性(53)が奉納し、氏子ら約160人が400年前の城主の「登場」を祝った。


 銅像は衣冠束帯姿で高さ3メートル、重さ約720キロ。高さ3メートルの御影石の台座の上に立つ。除幕式には赤い甲冑(かっちゅう)姿で大阪城内の清掃に取り組むNPO法人「大阪城甲冑隊」も登場し、像の前で演舞を披露した。


 禰宜(ねぎ)の鈴木伸広さん(36)は「『ひよわ』などと語られることもあるが、帝王学を学んだ秀頼公の本当の姿を伝えたい」と話した。

473よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/10/15(土) 20:51:11 ID:ybQsD.uY0
第13回和泉弥生ロマン・ツーデーウオーク開幕 大阪
http://www.asahi.com/kansai/sports/news/OSK201110150045.html

 弥生時代の大型遺跡や寺社を巡る「第13回和泉弥生ロマン・ツーデーウオーク」(大阪府和泉市、和泉商工会議所、朝日新聞社など主催)が15日、和泉市いぶき野4丁目の中央公園で開幕した。全国から約1300人が参加し、10〜30キロの3コースに分かれて同市内を歩いた。

 前日からの雨で山道を通るコースの一部が変更となったが、午前7時半に30キロコースの参加者約250人が先頭を切って出発。紅葉で知られる松尾寺や途中の公園などに立ち寄った。

 16日は、弥生時代最大規模の建物跡を復元した池上曽根史跡公園などを回る25キロ、20キロ、10キロの3コースがあり、当日参加も受け付ける。問い合わせは実行委事務局(0725・43・4555)へ。

474よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/10/15(土) 21:27:12 ID:ybQsD.uY0
あすから茨木神社で「黒井の清水大茶会」 大阪
2011.10.14 02:06
http://sankei.jp.msn.com/region/news/111014/osk11101402060003-n1.htm

 豊臣秀吉ゆかりの名水にちなむ「黒井の清水大茶会」が15、16の両日、茨木市元町の茨木神社で開かれる。

 黒井の清水は同神社境内にあり、秀吉が茶の湯に使ったと伝えられる名水。両日とも午前10時〜午後3時に、黒井の清水をモチーフにした創作生菓子付きの野点(のだて)席が設けられるほか、地元物産の販売や写真展なども。また、15日は奉茶式(午前9時〜10時)や茨木神社雅楽会の演奏(午後2時半〜3時)、16日は琴の演奏(午前11時〜11時半、午後1時半〜2時)が行われる。

 茶券は1枚500円で、市観光協会事務所などのほか当日の会場でも販売。着物での参加者には茶券がプレゼントされる。問い合わせは市観光協会((電)072・645・2020)。

475よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/10/16(日) 03:55:51 ID:ybQsD.uY0
「大大阪」の心斎橋体感 ファッションなど展示 歴博で特別展
2011.10.16 02:35
http://sankei.jp.msn.com/region/news/111016/osk11101602350002-n1.htm

 近代の大阪・心斎橋筋にスポットを当てた特別展「心斎橋きものモダン−煌めきの大大阪時代−」が15日、大阪市中央区の大阪歴史博物館で始まり、当時の若い女性のファッションやライフスタイルが紹介されている。12月4日まで。

 開館10周年を記念し、昭和初期に呼ばれた「大大阪時代」の、華やかで活気ある心斎橋筋のにぎわいを体感してもらおうと企画。

 会場には、断髪姿の和装モダンガールを描いた高橋成薇(せいび)作「秋立つ」やしま柄の着物を粋に着こなした小磯良平作「着物の女」など絵画のほか、心斎橋に生まれ育った女性たちが愛用した着物や心斎橋の宣伝が印刷されたマッチラベルなど約150点が並ぶ。

 注目は、近代大阪で隆盛を誇った化粧品メーカーの商品やポスター。製造技術の革新だけでなく、パッケージデザイン自体がモダンで、来館客らは「かわいい」と展示ケースをのぞき込んでいた。

 午前9時半〜午後5時(毎週金曜日は午後8時まで)。観覧料は特別展のみ大人800円、高大生600円、中学生以下無料。

476よっさん ◆yQclIeGV9A:2011/10/17(月) 05:59:16 ID:/2u/a5lw0
光の中に富田の歴史 高槻で「灯露祭」 大阪
2011.10.17 02:25
http://sankei.jp.msn.com/region/news/111017/osk11101702260003-n1.htm

 幻想的な「光」の中で歴史、文化に思いをめぐらす「灯露祭」が16日夕、高槻市富田(とんだ)地区の本照寺と三輪神社で行われた。

 富田の町は戦国時代に寺内町として栄えた。「本能寺の変」で織田信長を暗殺した明智光秀を討つため、羽柴(豊臣)秀吉が「山崎の合戦」に臨んだ際、この町に一時宿陣を設けたという故事もある。江戸時代には酒造業などが盛んだった。

 「灯露祭」はこうした歴史や遺構、文化を活用して町おこし活動をしている地元有志の集まり「けさたんと会」(石井清隆会長)が開催した。

 子供たちが描いた絵を張った灯籠約400個がともされ、寺社の輪郭が夜空に浮かびあがった。

 訪れた家族連れや若いグループは、名物の「水まんじゅう」や酒かすでつくった「あやめうどん」を味わい「きれいやなあ」と話しながら灯籠の間を散策し、地元の歴史や文化を話し合っていた。


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