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大阪の歴史、伝統文化に関するスレ02

1nakano-shima★:2011/01/04(火) 14:35:48 ID:???0
【過去スレ】
大阪の歴史、伝統文化に関するスレ http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/travel/6501/1201947832/

2339名無しさん:2016/11/03(木) 03:33:14 ID:YkpVs4SE0
桂三金が「三題噺」に挑戦 14日から繁昌亭
2016年11月2日
 客席からキーワードになるお題を三つもらい即興で高座の噺(はなし)を組み立てる「三題噺」に中堅の上方落語家、桂三金(45)が挑戦する。それも定席の天満天神繁昌亭で、14日から1週間連続での実施。120キロと上方落語会きっての“大型”芸人は「僕にとっても大冒険。1週間やり切って自信を付けたい」と張り切っている。


1週間連続で三題噺を披露する桂三金=大阪市北区の上方落語協会

 1夜だけの三題噺は、東京落語の三遊亭円丈など得意とする噺家は東西で何人かいるが、1週間続けるとなると“21題噺”となるだけに、過去にも例がない。

 おとうと弟子三幸とともに三金が登場し、場内からお題を次々と上げてもらい、その中から拍手の数で三つ選んでもらい、いったん退席。楽屋で推考した上で、上方落語で最後を指すトリの直前に当たるモタレで再び登場し、三つのお題を巧みに盛り込んだ落語を披露する。

 関大出身で金融機関勤務の経験もある三金は、古典以外の創作落語もこなすが、「三題噺となると既存のネタにかぶせてばかりでは無理。新たな創作落語にならざるを得ないと思う。創作は文枝師匠からみっちり基礎を学んでおり、思わぬ発想の展開でネタが増えれば」と前向きな姿勢。

 繁昌亭運営委員長の笑福亭松枝は「三題噺から生まれた名作に財布が元になった芝浜があるが、他にも卵酒が出てくる鰍沢(かじかざわ)などが有名。今回は即興といっても時間があるので、キチッとサゲのあるネタにしてもらいたい」と注文。繁昌亭の恩田雅和支配人は「三題噺は手間暇が掛かり昼席ではなかなか掛けることができないため、1週間連続は実にユニーク。お客さんには即興噺が持つ面白さや完成度を楽しんでもらえれば」と期待している。

http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/161102/20161102034.html

2340名無しさん:2016/11/05(土) 04:28:03 ID:nsYbrJ2g0
南陽が「玉田派」復活 25日、国立文楽で襲名興行
2016年11月3日
 約1世紀ぶりに上方講談の名門・玉田派の名跡を復活させる上方講談師、旭堂南陽(39)が25日、日本橋・国立文楽劇場で襲名記念興行を行う。


襲名あいさつに配っている玉田派の家紋が入った扇子と手ぬぐいを示す旭堂南陽=大阪市北区の大阪日日新聞

 南陽は大阪市大法学部出身で留学経験も長く、英語や中国語など日本語以外で7カ国語を操る異色の存在。今春4代目玉田玉秀斎の襲名が決定し、同じ4代目旭堂南陵門下の小二三改め5代目小南陵と共にダブル襲名披露となる。

 当日は両名がそれぞれ1席ずつ語った後、落語家・桂米団治の司会で、東京講談の一龍斎貞水と神田松鯉をはじめ、2人の師匠南陵、落語家の桂文枝と桂春之輔がそれぞれ口上を述べる。ゲストコーナーではザ・ぼんちの里見まさとと歌手のBOROが歌を披露。南陽と日ごろからジャズ講談で競演しているジャズメン4人が集まっておなじみの曲を奏でる。襲名する両名の後輩となる南陵一門の南啓ら講談師6人が集まって真田幸村の立体講談を演じるのも見もの。

 南陽は「長年慣れ親しんだ旭堂の名前から離れるのは寂しい。由緒ある玉田派では家紋も“亀甲に柊(ひいらぎ)”と珍しい物に変わる。まず玉田の名前を広げるために高座を続け、東西のお客さまに応援していただけるよう頑張る。玉田派の代名詞である神道講談と立川文庫物に力を入れ、私がずっと取り組んできた音楽とのコラボも続け、独自性を少しずつ発揮していきたい」と抱負を述べた。

 25日午後6時半開演。入場料4500円(前売り4千円)。問い合わせはMC企画、06(7777)6680。

http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/161103/20161103035.html

2341名無しさん:2016/11/06(日) 14:09:09 ID:htgyxG4w0
勇壮な姿、見物客歓声 地車in大阪城
2016年11月6日
 大阪市内外の多くの地車(だんじり)が一堂に集まる「地車in大阪城2016」(同実行委員会主催)が5日、大阪市中央区の大阪城公園内の太陽の広場で始まった。初日は15台が公園内のコースを巡行し、太鼓に合わせて練り歩く勇壮な姿に見物客から歓声が上がった。最終日の6日は計31台が大規模な巡行を行う。


地車を引いて練り歩く引き手たち=5日午前、大阪市中央区の大阪城公園

 同実行委によると、地車囃子(ばやし)は元々、大坂城築城の際に工事を円滑に進めるための音頭だったと言われているという。“地車の聖地”の大阪城で、歴史のある地車の魅力をアピールしようと、2011年から毎年開催。今年は大阪市城東区を中心に、東大阪市や大東市など計6市から過去最多の計31台が参加し、江戸時代に製作された地車もある。

 この日は15台が巡行し、1台あたり100〜200人の引き手が、高さ3〜4メートル、重さ約3トンの地車を鐘や太鼓に合わせて引き、勇ましい掛け声を響かせた。地車の屋根には指揮を執る「大工方(だいくかた)」と呼ばれる男性が上がり、独特のしぐさで踊る「龍踊り」を披露して見物客を盛り上げた。

http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/161106/20161106026.html

2342名無しさん:2016/11/06(日) 16:39:18 ID:htgyxG4w0
まち歩きや演奏秋空の下満喫 すみ博にぎわう
2016年11月6日
 住吉大社や帝塚山地域の魅力を発信する「すみよし博覧会(すみ博)」(同実行委員会主催)が5日、大阪市住之江区の住吉公園で始まった。秋空の下、まち歩きツアーのほか、地元中高生による音楽ステージなどが行われ、多くの参加者でにぎわった。6日まで。


住吉公園の潮掛道を演奏しながらパレードする市立墨江丘中吹奏楽部=5日午前、大阪市住之江区

 すみ博は1800年の歴史を持つ住吉大社を中心に、歴史と文化に恵まれた地域を住民に再認識してもらおうと、2008年からスタート。住民有志による実行委が運営を手掛け、今回で10回目となる。

 この日は、市立墨江丘中吹奏楽部が住吉公園の潮掛道を演奏しながらパレード。園内の特設ステージでも市立住吉中の吹奏楽部、市立住吉商業高のフォークソング部が元気な演奏を披露した。

 6日は、住吉大社反橋前で伝統芸能やダンスを披露する「住吉っさんの夕べ」をはじめ、住吉福祉会館前広場で「こどもすみ博」が行われる。

 岡本惣治実行委員長(74)は「若い人も住吉の歴史や伝統を認識してほしい。日ごろ、仕事で忙しい人もすみ博を機に足元を見てもらいたい」と話していた。

http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/161106/20161106028.html

2343名無しさん:2016/11/08(火) 04:41:11 ID:yolut8GA0
【亀岡典子の恋する伝芸】
人形遣いが3人とも顔を出し呼吸と力を合わせて…ど迫力の文楽「勧進帳」
(1/3ページ)【ベテラン記者コラム】 .
客席に設けられた花道での弁慶の豪快な引っ込み=大阪市中央区の国立文楽劇場(提供・国立文楽劇場)
「勧進帳」は歌舞伎の方がいいと思っていたが…

 大阪・国立文楽劇場の文楽公演でいま、「勧進帳」が上演されている(11月20日まで)。ご存じ、兄の源頼朝と不仲になった源義経が、家来の弁慶らと供に奥州へ落ちてゆくときの物語だ。

 山伏と強力に姿を変えた一行だが、途中の安宅の関(現在の石川県小松市)で、関守の富樫に見とがめられる。弁慶はとっさの機転で白紙の巻物を勧進帳のように読み上げ、さらに怪しむ富樫の前で義経をさんざんに打ち据える。その行動に、真実を悟った富樫だが、弁慶の主君を思う情に心うたれ、関所を通すのであった-。

 能の「安宅」をもとに、歌舞伎の「勧進帳」が作られ、その後、文楽では明治28年、二代豊澤団平の作曲により、「鳴響安宅新関(なりひびくあたかのしんせき)」のタイトルで初演された。

 正直に言おう。文楽の「勧進帳」は、これまであまりおもしろいと思わなかった。どうしても、人間が演じる歌舞伎の方が、弁慶と富樫の丁々発止のやりとりなど、迫力と緊迫感があるように感じていたのだ。

 最後の飛び六方にしても、弁慶役者が力を振り絞って稲妻のように花道を引っ込む姿に息をのんだものだ。

 もちろん、文楽の「勧進帳」も、義太夫節の力強さや、人形ならではの動きの迫力もある。それでも、やっぱり、この作品は歌舞伎の方がいいなあ、なんて思っていた。
http://www.sankei.com/west/news/161107/wst1611070003-n1.html

2344名無しさん:2016/11/08(火) 04:46:08 ID:yolut8GA0
(2/3ページ)【ベテラン記者コラム】 .
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客席に設けられた花道での弁慶の豪快な引っ込み=大阪市中央区の国立文楽劇場(提供・国立文楽劇場)
大の男が3人がかりで遣うからこその臨場感と迫力

 ところが今回、認識が変わった。平成13年以来、実に15年ぶりに花道を客席に設けて上演された「勧進帳」に興奮したのだ。

 なぜなんだろう。

 文楽人形は主遣い、左遣い、足遣いの3人が呼吸と力を合わせ一体の人形を遣うスタイルで、通常は主遣いだけが顔を出し、左遣いと足遣いは頭巾で顔を隠している。ところが今回は、3人とも顔を出して遣っていた。これは珍しい。しかも、客席を縦断する花道まで設置されている。

 この花道を、主遣いの吉田玉男さん、左遣いの吉田玉佳さん、足遣いの吉田玉路さんの3人の人形遣いが呼吸を合わせ、弁慶の人形を遣って飛び去っていった。座席が花道の近くだったので至近距離で見たが、3人とも額から汗がしたたり、ハア、ハアという荒い息まで聞こえ、驚くほどの迫力だった。

 文楽人形をなぜ、3人もの男性が遣うのか、わかった気がした。もちろん、人間よりも細かい動きや繊細な心理を表現するのに必要だろう。でも、それだけではない。大の男が3人がかりで遣うからこそ、臨場感や迫力が生まれる。人間の感情をまるごと表現するのだから、これくらいのパワーがないと、見る人の心にまで届かないのであろう。

http://www.sankei.com/west/news/161107/wst1611070003-n2.html

2345名無しさん:2016/11/08(火) 04:49:25 ID:yolut8GA0
(3/3ページ)【ベテラン記者コラム】 .
動く度にビュンと風圧が

 そういえば、以前、人形の動きを、すぐ横で見せてもらったことがあった。一番驚いたのは、風圧。人形と3人の人形遣いが動く度にビュンと風が起こるのだ。次いで足遣いが床をドンと踏みならす「足拍子」の音が、こちらの体の芯にまで響く。「文楽人形ってすごい」と、いまさらながら驚嘆したものである。

 今月の文楽公演では、19年ぶりに、「花上野誉碑(はなのうえのほまれのいしぶみ)」より「志渡寺(しどうじ)の段」も上演されている。この作品も一度見たら忘れられない一種、異様な気配に満ちている。この曲を勤めている文楽三味線の鶴澤清介さんは「義太夫節は熱と力でお客さんを異次元に連れていく芸」と言っていたが、こういう曲を聞いていると、なるほど、と納得できるのである。

 日本の古典芸能を、静かでゆったりして退屈と、先入観を持っている人にぜひ見ていただきたいと思う。認識が覆されるに違いない。


http://www.sankei.com/west/news/161107/wst1611070003-n3.html

2346名無しさん:2016/11/09(水) 12:40:53 ID:qyBlkDVA0
東大阪の「樟徳館」、4年に一度の一般公開へ 「あさが来た」のロケにも
2016年11月08日
http://higashiosaka.keizai.biz/headline/367/

 樟蔭学園は11月12日・13日の2日間、同学園が保有する登録有形文化財「樟徳館(しょうとくかん)」(東大阪市菱屋西2)を一般公開する。

 同学園の創立者・森平蔵は1875(明治8)年に兵庫県で生まれ、16歳で大阪市内の木材商に見習い奉公に入り、26歳で独立開業。独立後は木材販売や植林業で成功を収め、木材を運搬する船舶に着目して汽船会社を設立した。大正初期の大阪では商家の子女を中心に教育に対する意識が高まっていたが、学校数が不足しており、平蔵は私財を投じて高等女学校設立することを決意。1917(大正6)年に設置認可を受け、翌1918年に樟蔭高等女学校を開校した。

 同館は、帝国キネマ映画長瀬撮影所の跡地を入手した平蔵が、構想を含め1939(昭和14)年の完成まで7年の歳月をかけて建築した私邸。大阪有数の材木商だった平蔵は、現在では入手困難な銘木を日本中から集め、原木から製材するための専用の製材所を隣地に設けるなど材木にこだわり、「関西で最高の松普請」といわれる大正モダンの香り漂う住居を築いた。建物は平蔵が1960(昭和35)年に亡くなった後、遺志により同学園に寄贈され「樟徳館」と名付けられた。

 建築面積1305平方メートルの建物は、外観は純和風、内観は和洋折衷の装飾が施されているのが特徴で、応接室は天井に大きなクスノキの一枚板、壁には西陣綴(つづ)れ織のクロス、曲線を用いた火灯(花頭)窓など、当時の最高技術が集結。2000年には「造形の規範となり、再現が容易でないもの」として、母屋・土蔵・鎮守社・門・東塀・南塀の6点が国の登録有形文化財に登録された。現在では、NHK連続テレビ小説「あさが来た」や「カーネーション」など、ドラマの撮影にも使われている。

 過去の一般公開時は、地域の人や建築関係者、建築に関心のある学生など、2日間で約2000人が来場した。一般公開する2日間には「樟徳館の魅力」と題し、同学園監事の藤原準二さんが解説する説明会を、各日11時からと13時からの2回行う。

 同学園スタッフは「木造2階建ての関西最高の松普請。今では入手困難な材木や、今ではできない技法を使った建築美を肌で感じていただけたら」と話す。

 開催時間は11時〜16時(受付は15時まで)。入場無料

2347名無しさん:2016/11/10(木) 18:51:54 ID:H4T.a/uA0
http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%e5%a4%a7%e5%9d%82%e3%81%ae%e9%99%a3%ef%bd%a4%e8%b1%8a%e8%87%a3%e6%96%b9%ef%bd%a2%e7%9c%9f%e3%81%ae%e6%95%97%e5%9b%a0%ef%bd%a3%e3%81%af%e4%bd%95%e3%81%a0%e3%81%a3%e3%81%9f%e3%81%ae%e3%81%8b-%ef%bd%a2%e5%9f%8b%e3%82%81%e3%82%89%e3%82%8c%e3%81%9f%e5%a0%80%ef%bd%a3%e3%82%88%e3%82%8a%e8%87%b4%e5%91%bd%e7%9a%84%e3%81%a0%e3%81%a3%e3%81%9f%e5%bc%b1%e7%82%b9%e3%81%af%ef%bc%9f/ar-AAk6G2Y?ocid=spartandhp

大坂の陣、豊臣方「真の敗因」は何だったのか 「埋められた堀」より致命的だった弱点は?

「徳川vs豊臣」が激突した最後の戦いであり、戦国の世に終止符を打った「大坂の陣」。その戦いで豊臣秀頼は徳川家康に敗北するが、「その敗因」はいったい何だったのか。

(言い古された内容のため中略)

 このように、大坂の陣では、「城の堀を埋められたこと」が、豊臣秀頼が負けた「最大の理由」とされています。しかし、本当にそれだけだったのでしょうか。
 今回は、大坂の陣における「本当の敗因」について解説します。
 今回も、よく聞かれる質問に答える形で、解説しましょう。
豊臣家が滅亡した「大坂の陣」とは?
 Q1. そもそも「大坂の陣」とはどんな戦いですか?
 江戸時代初期、大坂城で行われた2つの戦いの総称です。それぞれを「大坂冬の陣(1614年11〜12月)」「大坂夏の陣(1615年4〜5月)」と呼んでいます。
 「関ヶ原の戦い」に勝利し、江戸に幕府を開いた徳川家康が「天下統一最後の総仕上げ」として、幕府にとって最も脅威だった豊臣家をこの戦いで攻め滅ぼしました。ちなみに、「大阪」は明治までは「大坂」と表記されます。
 Q2.「大坂の陣」はなぜ起きたのですか?
 「豊臣秀頼が徳川家康への臣従を断固拒否した」からです。
 徳川家康は当初、孫娘の千姫(せんひめ)を豊臣秀頼に嫁がせるなど「融和的に」豊臣家を幕府の傘下に組み込もうと考えていました。
 しかし、豊臣家では、豊臣秀頼の母「淀殿」やそれを支持する反徳川の強硬派が実権を握り、あくまで幕府への臣従を拒否しつづけました。そのため、徳川家康が「強硬手段」に出て、大坂の陣に発展したとされています。
 Q3. 戦いの発端は「方広寺の鐘銘」と言われていますよね?
 そうです。1614年7月、豊臣家が再建した京都の方広寺の鐘の銘文に、「徳川家康を呪った」とする「国家安康」「君臣豊楽」の記述が見つかり、これがもとで「大坂の陣」が勃発したとされています。
 しかし、実際のところ、鐘自体はそれ以前の4月に完成が周知されており、「家康の言いがかり」と言われても仕方ありません。
 実際、徳川家康は2月頃からイギリスに大砲や火薬の手配を打診するなど、戦いの準備を着々と進めていました。
 Q4.諸大名が豊臣秀頼に味方しなかった理由は?
 「すでに幕府の世襲制が確立し、徳川の世となっていた」からです。
 1600年の関ヶ原の戦いのあと、徳川家康は1603年に将軍になり幕府を開きますが、2年後には将軍職を子の徳川秀忠に譲ってしまいました。これは、大名たちに対して、「これからも徳川の世が続く」ことをアピールするものでもありました。
 しかもこのころ、すでに全国の諸大名は江戸幕府の体制下に組み込まれ、徳川に従うことで領地を安堵された形になっていました。新たな主君は徳川家康であり、「豊臣秀頼に従う理由」は何もなかったのです。
 Q5. では、「戦いの敗因」は何なのでしょう?
 一般的には、「大坂城の“外堀”も“内堀”も埋められたから」といわれています。もちろん、それは間違いではありませんが、こうした状況を招いた「本当の敗因」がほかにあったように思います。
 「大坂の陣」で、豊臣秀頼はなぜ敗れたのか。それを探っていくと、引き分けとなった「冬の陣」の時点で、すでに豊臣秀頼の勝利は難しかったことが見えてきます。
こうして大坂城の堀は失われた

2348名無しさん:2016/11/10(木) 18:57:50 ID:H4T.a/uA0
 【敗因1】そもそも豊臣家が孤立していた
 大坂の陣では、豊臣秀頼の呼びかけに対し、これに呼応して10万もの牢人が集まりました。しかし、秀頼に味方した「大名」は皆無です。
 そのころ、時代はすでに「徳川の世」。豊臣秀吉に仕えて天下統一を支えた大名たちも、関ヶ原の戦いのときから徳川方についたり、豊臣方として戦って敗れたりして、多くは亡くなっていました。
 「いまさら豊臣家を支えよう」という大名はいなかったわけです。
 【敗因2】大半が牢人で「優秀な指揮官」が不足していた
 【敗因1】でも述べたように、大坂方の10万の将兵は「牢人」で、「現役の大名」はいませんでした。
 そのため、真田幸村や長宗我部盛親といった一部の武将や元大名を除き、牢人たちを統率する「大軍の用兵」に長けた「優秀な指揮官」が圧倒的に不足していたのです。
 【敗因3】安易に籠城してしまった
 大坂城での籠城策も、大坂の陣の大きな敗因のひとつです。
 「大坂冬の陣」では、本来なら十分な兵力と地の利を生かし、大坂への敵の侵入を阻止する戦いも展開できたはずでした。ここである程度、敵に損害を与えていれば、その後の形勢は変わっていた可能性もあります。
 しかし、秀頼軍は「牢人」主体だったために思うような作戦行動がとれず、早々に大坂城の堅固な守りに頼った「籠城」に踏み切るしかありませんでした。
 【敗因4】「有利な和睦」を提示できなかった
 約1カ月におよぶ籠城のあいだ、「真田丸」での真田幸村の奮戦などがあったものの、戦いは膠着状態が続きます。兵糧、弾薬も減り、冬の厳しい寒さも近づいていたため、家康は秀頼に「和睦」を提案しました。
 この時点で、秀頼が敵の包囲にある程度のダメージを与えていれば、家康から主導権を奪い、豊臣方に「有利な交渉」ができた可能性も十分あります。
 しかし、秀頼は「目先の和平」を急ぎ、城の守りで最も重要な「堀を埋める」という不利な講和条件を受け入れてしまったため、「夏の陣」の悲劇を招くことになりました。
 Q6. なぜ秀頼は「この程度の戦い方しかできなかった」のですか?
 そこが今回のテーマにおける根本的な理由、つまり「本当の敗因」です。
 では、大坂の陣の「本当の敗因」とは何か? それはズバリ、豊臣秀頼の「遅すぎた誕生」です。
 【敗因5】豊臣秀頼の誕生が遅すぎて、秀吉から学べなかった
 豊臣秀頼は「太閤秀吉」の晩年の子で、生まれたときに秀吉はすでに57歳。後継者として生まれながらも、5歳で父を失いました。そのため、彼は偉大な天下人である父の「数々のノウハウ」を受け継ぐことができなかったのです。
 豊臣秀吉は「ひとたらし」の名人ですが、こうした狡猾な「①人心掌握術」を身近で見て学ぶ機会も、秀頼にはありませんでした。
 また、「②戦いのやり方」を知るチャンスもなく、「大坂の陣」を迎えるまでの秀頼の戦歴はゼロ。対して、家康は言うまでもなく「歴戦の猛者」で、実力、経験ともにその差は歴然でした。
 そして、父秀吉には、竹中重治(半兵衛)、黒田如水(官兵衛)といった「優秀なブレーン」に加えて、加藤清正、福島正則といった「子飼い」の武将たちが両腕としてついていましたが、秀頼はそうした「③優秀な人材」に恵まれませんでした。さらに、母「淀殿」の強い影響により、自由に意思決定ができなかったともいわれています。
 「①人心掌握術」「②戦いのやり方」「③優秀な人材」その3つを父秀吉から生前に継承できなかったことが、豊臣秀頼の大坂の陣における「本当の敗因」ではないかと思います。

2349名無しさん:2016/11/10(木) 19:01:52 ID:H4T.a/uA0
「天下の豊臣家の誇り」を守り、滅んでいった
 大坂の陣より少し前、徳川家康は、成人した豊臣秀頼に京都の二条城で対面しました。そのとき家康は、想像以上に立派に成長し、威厳に満ちた秀頼の武者ぶりに「強い脅威」を抱き、これが「後に大坂を攻める遠因」になったともいわれています。
 この会見では、加藤清正が陪臣として秀頼に従い、何かの場合には「家康と刺し違える」覚悟を見せたという話は有名です。こうした豊臣恩顧の武将たちの存在も、家康には脅威だったのかもしれません。
 秀吉の死後、豊臣家は徳川家康の台頭によって「没落の一途」をたどっていました。成長期の豊臣秀頼が目にしていたのは、家族や家臣たちが日々この屈辱にじっと耐え忍ぶ姿です。
 やがて大人になった秀頼は「彼らの思い」を背負い、宿敵家康に反旗を翻します。それが絶望的な戦いであることを知りつつ、最後まで家康に屈することなく戦い抜きました。
 そこまでして彼が守ろうとしたものは何か、それは父が築き天下にその名をとどろかせた「豊臣家としての強い誇り」にほかなりません。もし、父親譲りの資質をもった秀頼が、さらに経験と知識を父秀吉から継承できていれば、その後の歴史は大きく変わっていたかもしれません。
 このように「過去の日本史の中にある経験や知識」は、「組織の永続」を考えるうえで、あるいは「ビジネスパーソンが生き抜く処世術」を身につけるうえで、大いに参考になるものです。
 過去の偉人たちの「成功と失敗」に学ぶことで、ぜひビジネス、そして人生の勝者になってください。

秀次を温存しとけば関ケ原すらなかったとか、真田昌幸が存命中に陣が起きてりゃ九度山で練った策が採用され第2の楠木正成になってた・・

2350名無しさん:2016/11/10(木) 21:22:42 ID:XwuuWezs0
二十五菩薩画が完成 区在住画家、谷さん奉納
2016年11月10日
 信仰の証しとして菩薩(ぼさつ)画を奉納し続けている大阪市平野区在住の画家が「二十五菩薩」の全25体を完成させた。足掛け10年で仕上げ、参詣者の「心のよりどころになれば」と充実感をにじませている。


内覧会の開幕を前にテープカットに臨んだ関係者ら

 奉納したのは、市立デザイン教育研究所教授などを務めた谷守さん(81)。区内の大念仏寺(平野上町1丁目)には、臨終に際して仏や菩薩が迎えに来る「来迎」を表す「万部おねり」という儀礼が伝わり、祭りで登場するのが二十五菩薩だ。

 谷さんが今回描いたのは「日照王」「大自在王」「華厳王」「薬王」の4菩薩。全作品ともアクリル画で荘厳な姿を描き、点描で金色の光沢を綿密に表現した。

 同寺は法要に合わせて2、3の両日に内覧会を開き、2日は同寺の吉村※英前宗務総長や平野区の稲嶺一夫区長らが出席してテープカットも行われた。一時は肺を患ったものの復帰し、二十五菩薩を完成させた谷さんは「ほっとした半面、寂しさもある」としみじみ話した。

 奉納式典は来春あらためて開かれる予定。

※は日ヘンに章
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/161110/20161110031.html

2351undefined:2016/11/11(金) 04:48:27 ID:XwuuWezs0
四天王寺 強力な新顔 「四天王」お守り追加
2016年11月10日
 聖徳太子創建で知られる大阪市天王寺区の和宗総本山四天王寺(森田俊朗管長)の数ある授与品に「四天王のお守り」(1500円)が加わった。寺の名前や地名として親しまれながら「ありそうでなかった」と好評で、太子とともに四天王が再認識されている。


4面に仏法の守護神「四天王」が刻印されたお守り

聖徳太子の一生を描いた「聖徳太子絵伝」。四天王像を刻み戦勝祈願する太子の姿が描かれている=大阪市天王寺区の四天王寺・絵堂

 現代では“トップ4”の意味で多用される四天王。本来は仏法の守護神であり、持国天、増長天、広目天、多聞天からなる。

■創建の原点
 日本書紀が伝える崇仏派の蘇我馬子勢と排仏派の物部守屋勢の衝突では、若き太子が蘇我勢として参戦し、不利な戦況を打破しようと四天王の像を彫って勝利を祈願。「勝利したら四天王を安置する寺院を建立し、世の人々を救済する」との誓いを果たし、四天王寺を建立したとされる。

 建立の経緯を含む太子の足跡は「聖徳太子絵伝」として描かれ、境内・聖霊院絵堂(1983年再建)に奉納。太子月命日の22日に公開されている。2014年春からは、22年に迎える年忌法要「聖徳太子1400年御聖忌(ごせいき)」事業の一環として春と秋に特別御開扉も実施。同寺僧侶が1日数回行う「絵解きと法話」が評判となり、期間中は参詣者が続々と足を運んでいる。

■信心復活 
 絵伝の重要場面に登場し、ひときわ注目を集める四天王。関連の授与品としてはお札があるが、お守りについての問い合わせも寄せられるようになり、約1年半前に製作を企画した。

 高級工芸品の素材に用いられるナツメ材(全長約5・5センチ、1・5センチ角)の4面に四天王それぞれの全身を彫刻。微細な線も鮮明に表現し、底面には職員が手作業で「四天王寺」の焼き印を入れて仕上げている。お守りを手にした参詣者は「ほどよい大きさ」「いつも身に着けられる」と歓迎する。

 同寺参詣課の山岡武明課長は「信心の復活も『1400年御聖忌』の大きなテーマ。現代人に苦しいときこそ神仏への信仰の心を取り戻してもらい、次なる1500年に向かいたい」と話している。

   ◇   ◇  

 四天王のお守りは六時堂、金堂、英霊堂、太子殿、庚申堂で販売。問い合わせは電話06(6771)0066。

http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/161110/20161110027.html

2352名無しさん:2016/11/11(金) 12:35:28 ID:qyBlkDVA0
「野沢菜のルーツは天王寺蕪」 大阪・四天王寺の境内で絆伝える記念碑除幕
2016.11.11
http://www.sankei.com/region/news/161111/rgn1611110070-n1.html

 「信州名物の野沢菜のルーツは天王寺蕪(かぶら)」という由来を記した「野沢菜伝来記念碑」が10日、大阪市天王寺区の四天王寺境内に建立された。野沢菜は、江戸時代、野沢村(現・長野県野沢温泉村)の僧侶が京都への遊学の際に持ち帰った天王寺蕪の種が先祖とされており、除幕式には関係者ら約60人が出席し、新たなシンボルの誕生を祝った。

 高さ約1・8メートル、横約2・4メートルの記念碑が設置されたのは五重塔や金堂のある中心伽藍(がらん)の東側。記念碑には「野沢菜原種旅の起点」と刻まれ、野沢菜のレリーフと大阪から長野までの伝来のルートが紹介されている。

 野沢菜は宝暦6(1756)年、同村にある健命寺の晃天園瑞住職が修行先で天王寺蕪の味に感動し、持ち帰ったのが栽培の始まりと伝えられている。

 一方、天王寺付近が発祥の地とされる天王寺蕪は、与謝蕪村が「名物や蕪の中の天王寺」と詠んだほど全国にその名を知られ、多くの人に好まれたが、明治後期に虫の被害などで姿を消した。

 平成13年ごろ、天王寺蕪の普及を目指す「天王寺蕪の会」の関係者が野沢菜の言い伝えを知り、野沢温泉村を訪ねたのが交流のきっかけ。以来、野沢菜が伝わった道を歩いてたどる「野沢菜伝来の街道(みち)ウォーキング」に参加したり、地元で開かれる“蕪主総会”に出席したりして交流を続けてきた。

 記念碑は今年、同村が村制施行60周年に当たることから「後世にこのつながりを伝えたい」と記念事業の一環として企画された。

 野沢温泉村の富井俊雄村長(66)は「野沢菜を通して長野と大阪の絆を強めていきたい」と話している。

2353undefined:2016/11/12(土) 05:16:51 ID:W7GBlhxs0
寺跡の石、継体天皇?の棺材…市民の通報で発見
2016年11月11日Tweet
寺院跡に立っていた石材(今年10月、大阪府高槻市で)=今城塚古代歴史館提供高槻・今城塚古墳近く

 継体天皇の墓とされる大阪府高槻市の今城塚古墳(6世紀前半)近くの寺院跡に立っていた石材が、同古墳に納められた石棺の一部とみられることがわかり、同市立今城塚古代歴史館が10日発表した。長年にわたって集落の石橋として使われていたが、市民からの連絡で史料の「発見」につながった。

 石材は長さ1・1メートル、幅66センチ、厚さ25センチで、重さ250キロ・グラム。周辺で既に出土した数百点の破片から、古墳には熊本県宇土市産の「阿蘇ピンク石」を使った約7トンの石棺があったと推定され、石材は材質からその一部とみられる。天皇やその近親者が埋葬されていた可能性が高いという。

 地元の伝承によると、1596年の伏見地震後、崩れた墳丘から地元住民が石棺材を搬出し、集落の共同井戸を渡す石橋として使用。滑ってけがをする人が増えたため、たたりを恐れた住民が1960年頃から、古墳から約1キロ離れた「観音寺」でまつったが、2年前に寺が閉鎖され、更地に放置されていた。

 ところが今年7月、NPO法人「高槻市文化財スタッフの会」のメンバーがガイドとして古墳の関係先を巡った際、寺院跡の石材が石棺の材質に似ていることに気づき、連絡を受けた同館が調査にあたっていた。

 鑑定した和田晴吾・立命館大名誉教授(考古学)は「見つかった部材としては最大。納められた人物や石棺の大きさなどの実態に迫る発見だ」と話している。

 石材は今月12日から同館で展示される。問い合わせは同館(072・682・0820)。

http://www.yomiuri.co.jp/osaka/news/20161111-OYO1T50004.html?from=oyartcl_blist

2354undefined:2016/11/19(土) 21:49:40 ID:D7hqDY6w0
「真田丸」は要害堅固…彦根藩「井伊氏家伝書」と書状が語る実録大坂冬の陣
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手傷を負った井伊家家老、木俣守安への見舞い状(彦根城博物館提供)
 徳川家と豊臣家が戦った慶長19(1614)年の大坂冬の陣で、豊臣方の真田信繁(幸村)がこもった「真田丸」の攻略に参加した彦根藩の激戦の様子が分かる史料が彦根城博物館(滋賀県彦根市金亀町)で初公開される。彦根方が果敢に攻めたものの撃退された激戦のがうかがえる内容という。

 史料は、負傷した彦根藩の武将、木俣守安をかつての同僚がねぎらった書状「庵原三郎右衛門書状」と、木俣の子孫がまとめたとされる「井伊氏家伝書」。同市教委が木俣の子孫から入手していた。

 「井伊氏家伝書」は、彦根藩が福井藩と先陣を争い、真田丸の空堀まで進んだが反撃を受けて退却、100人強の死傷者を出し、木俣自身も負傷したと記している。同博物館によると、木俣は命令を受ける前に出撃する「勇み足」だったが、勇猛な先鋒隊としての面目を保ったとして幕府からたたえられたという。

 また「庵原三郎右衛門書状」は、木俣と彦根藩の同僚だった庵原三郎右衛門が書き送った。日付は木俣の負傷から約1カ月後の慶長20年1月5日。「(真田丸の堀まで突き進んだ)手柄は将軍(徳川秀忠)もお喜びで、みんなもほめている。傷を治して復帰を」などと励ましている。

http://www.sankei.com/west/news/161026/wst1610260016-n1.html

2355undefined:2016/11/19(土) 21:55:26 ID:D7hqDY6w0
(2/2ページ) .
 同博物館学芸史料課の渡辺恒一課長は「真田丸での彦根藩の戦いが分かる貴重な史料。敗れたが、将軍から評価され喜んでいたことが分かる」と話している。

 書状と井伊氏家伝書は、同博物館で開催中の「井伊家と大阪の陣」で12月1日から公開される。

http://www.sankei.com/west/news/161026/wst1610260016-n2.html

2356undefined:2016/11/19(土) 22:10:10 ID:D7hqDY6w0
後藤又兵衛討ち死に報告 豊臣秀頼に、書き付け発見
2016年11月17日 11:32

 岡山県立博物館は17日、徳川家が豊臣家を滅ぼした大坂の陣(1614〜15年)で豊臣側の「五人衆」として戦った後藤又兵衛が討ち死にしたことを、配下の武士が豊臣秀頼に報告した書き付けが、京都府内で見つかったと発表した。


 大坂の陣で後藤又兵衛が討ち死にしたことを、配下の武士が豊臣秀頼に報告した書き付け

 同館によると、腰に重傷を負った又兵衛は配下の武士に自身の首を討たせていたが、書き付けでは、その際に秀頼から授かった脇差し「行光」を使っていたことが初めて分かったという。

 書き付けは縦27・4センチ、横35センチ。又兵衛の下で戦い、秀頼に又兵衛の討ち死にを報告したとみられる金万平右衛門の子孫宅で見つかった。25日から同館で展示する。


http://www.nnn.co.jp/dainichi/knews/161117/20161117050.html

2357undefined:2016/11/20(日) 12:16:34 ID:ZdFP/CpA0
初代大坂城「秀吉の石垣」を限定公開
更新:11/20 01:05
http://www.mbs.jp/news/kansai/20161120/00000001.shtml

 豊臣秀吉が築いた初代大坂城の石垣が19日、一般公開されました。

 地下約7メートル。地上から覗き込む形で見ることができるのは、豊臣秀吉が天下統一の拠点とした初代大坂城の石垣です。今の大阪城の真下に埋まっていて1959年に見つかりました。大阪市は普段、安全のため非公開としていますが、より多くの人にその存在を知ってもらおうと1日限定で公開しました。

 「何百年も昔のものだから、めったに見れないので、すごいと思いました」(見学者)

 「400年の歴史がこの7メートルに重なったのかと」(見学者)

 大阪市は2019年度には石垣を地下から見学できる施設を完成させる予定です。〆

2358undefined:2016/11/20(日) 14:07:48 ID:ZdFP/CpA0
泉州の魅力を語る 「村上海賊の娘」題材にシンポ
2016年11月20日
 ベストセラー歴史小説「村上海賊の娘」を題材に泉州弁について語り合うシンポジウム「泉州弁で考える」(泉州観光プロモーション協議会主催)が泉佐野市で開催された。著者の和田竜さんがパネリストの一人として登場し、約300人の参加者に泉州弁や泉州人の魅力について語った。


「俳味という言葉がいいのではないか」と泉州人の気質を表す言葉について話す和田さん

 シンポは12日に開催され、和田さんのほか、岸和田市出身の俳優林英世さん、大阪府立大の西尾純二教授、「Meets Regional」の江弘毅編集長、同協議会会長を務める竹山修身堺市長がパネリストとして登壇。主人公が属する村上海賊の敵役である泉州の侍たちが使う泉州弁について論じた。

 和田さんは「泉州の言葉をきっちり出さないと泉州の侍たちが持っているニュアンスとか感情が伝わらない」と考え、林さんから泉州弁の指導を受けたと説明。「ああ、そらあれじょ。直政(なおま)っさんの国がド田舎やさかいじょ」と総大将を友達のように呼ぶ接し方や、「塩で食(いか)んかえ」という食べ物を薦める際の勢いのある言葉など泉州弁を使うことで「せりふとしての魅力がまったく変わる」と強調した。

 交流のあった大阪人の印象について「へんてこなやつを、へんてこなままにしといてあげる」と語り、小説の中でも堂々と敵前逃亡する味方を「面白(おもしゃ)い」と感じる泉州人を表現。「異質なものを愉快がる俳味のようなものを持っている」と指摘した。

 終了後、和田さんは「ずっと残っている歴史はその土地の人が大事に思っている。自分が昔から使っている言葉を大事に思ってもらえたら」と話した。

http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/161120/20161120032.html

2359undefined:2016/11/20(日) 15:05:32 ID:ZdFP/CpA0
スター浪曲師・梅中軒鶯童全盛期の映像
2016年11月19日Tweet
梅中軒鶯童の浪曲を記録したフィルムの一場面。柔和な表情に身ぶり手ぶりを交えた口演の様子を伝える 昭和の関西浪曲界を代表する人気浪曲師・梅中軒鶯童(ばいちゅうけんおうどう)の全盛期の口演を記録したフィルムが神戸映画資料館(神戸市長田区)で見つかった。1961年にテレビ番組用に収録した時のもの。レコードなどの音源は数多く残るが、映像記録は珍しいという。(横田加奈)

 鶯童は、繊細で軽やかな節回しの「鶯童節」を確立し、30年代から戦後にかけて人気を集め、レコードも多数発売された。師弟関係を重んじる浪曲界への反発から、特定の師匠に付かずに全国を巡業。束縛を嫌い、自由を愛したその生涯は「流れ雲」のタイトルでテレビドラマ化された。

 今回見つかったのは、16ミリフィルムで撮影された毎日放送の番組「浪曲名人会」。約30分間に61年4月放送の演目「紀伊国屋文左衛門」の「戻り船」が収録されている。

 毎日放送によると、当時は撮影テープが高価だったため、放送後は上書きして再利用するケースが多く、映像はほとんど残っていないという。見つかったフィルムは、スタジオ収録の様子を映し出したモニターを撮影し、関係者がたまたま保存していたとみられる。

 「紀伊国屋文左衛門」は、江戸時代の紀州の豪商・紀伊国屋文左衛門の立志伝シリーズで、鶯童の得意ネタの一つ。「戻り船」はその1編で、江戸で大もうけした文左衛門が意気揚々と故郷・紀州に戻るまでを描いている。

 鶯童は、豪快で色気のある語りで、江戸・吉原で豪遊する文左衛門を表現。船上シーンでは、悠々とキセルを吸う所作が優美で、音楽的な「節」とせりふの「啖呵(たんか)」を絶妙な間合いで使い分けている。映像の一般公開の予定はないが、同資料館では今後、検討するという。

http://www.yomiuri.co.jp/osaka/news/20161119-OYO1T50008.html?from=oycont_top_txt

2360名無しさん:2016/11/27(日) 21:26:52 ID:/Blf72kM0
上方講談、小二三さん小南陵襲名 大阪で披露公演
2016年11月25日 21:33

 上方講談、旭堂南陵さん(67)の筆頭弟子、旭堂小二三さん(41)が五代目「旭堂小南陵」を襲名し、披露公演が25日、大阪市の国立文楽劇場で開かれた。二番弟子の旭堂南陽さん(39)の四代目「玉田玉秀斎」襲名も併せて披露された。


 襲名披露の公演をする五代目旭堂小南陵さん=25日夜、大阪市の国立文楽劇場

 小南陵は師匠の前名で、女性が襲名したのは初めて。小南陵さんは俳優として活動しながら2001年に入門し、昨年、文化庁芸術祭新人賞を受けた。玉秀斎さんも01年入門。小南陵さんは「(高座に)上がった瞬間に泣きそうになった」と感無量な様子だった。

 口上では、南陵さんや上方落語協会会長の桂文枝さん(73)らが並んだ。

http://www.nnn.co.jp/dainichi/knews/161125/20161125121.html

2361undefined:2016/12/01(木) 05:21:57 ID:DLqa4zxA0
堺市の履中陵陪塚に祭祀ステージ 大阪、百舌鳥古墳群の方墳で初
2016年11月30日 16:38

 上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵、堺市西区)に付属する陪塚「寺山南山古墳」(方墳、5世紀初)で、祭祀を行うためのステージ状の「造り出し」が見つかり、堺市文化財課が30日、発表した。造り出しは前方後円墳に設けられることが多く、百舌鳥古墳群の方墳で確認されたのは初めて。担当者は「大王に近い人が埋葬された可能性が高まった」と説明している。


 寺山南山古墳で見つかったステージ状の「造り出し」の一部(中央上)。手前の斜面には葺石が敷かれている=堺市

 市によると、長辺約45メートル、短辺約36メートルの方墳で、墳丘は2段で築造されている。2014年3月に百舌鳥古墳群として国史跡になったことから、市が整備のため発掘したところ、古墳の東南側に造り出しが見つかった。

http://www.nnn.co.jp/dainichi/knews/161130/20161130079.html

2362undefined:2016/12/01(木) 05:35:34 ID:DLqa4zxA0
後期難波宮で役所の建物群跡か 後期では初めて
(1/2ページ) .
 聖武天皇が奈良時代に造営した後期難波宮(大阪市中央区)で、役人が文書処理などの実務をした役所「官衙」とみられる建物群の跡が見つかり、市教育委員会が30日、発表した。官衙跡は、飛鳥時代に完成した前期難波宮では発見されていたが、後期で確認されたのは初めて。

 調査を担当した大阪市博物館協会大阪文化財研究所の高橋工調査課長は「塀に囲まれたコンパクトな配置、簡素な構造などから官衙とみて間違いない」としている。

 発掘現場は、天皇が重要儀式や執務をした大極殿など主要建物群の西側。塀とみられる柱穴で仕切られた区域に、4棟の掘っ立て柱式建物跡が見つかり、うち二つは官衙によく見られる細長い建物だった。

 官衙跡のすぐ北側には東西に一直線に並ぶ11個の柱穴を発見。天皇が出入りするような格式の高い門を構えた「五間門区画」の一部とみられ、南北約200メートル、東西120メートル以上の大規模施設があったことも判明した。

http://www.sankei.com/west/news/161130/wst1611300069-n1.html

2363undefined:2016/12/01(木) 06:06:48 ID:DLqa4zxA0
(2/2ページ) .
 高橋課長は大規模施設について「立地や格式から宴会施設だったとする説もある」と指摘。区画内に東西約12メートル、南北約6メートルの遺構も見つかった。小規模な門を建てる際の地盤改良の痕跡か、貯水施設の可能性もあるという。

 難波宮は、7世紀中ごろの孝徳天皇の時代から整備された「前期」と、聖武天皇が726年に造営した「後期」に分かれる。

 現地説明会は12月3日午後1時〜3時。

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http://www.sankei.com/west/news/161130/wst1611300069-n2.html

2364undefined:2016/12/02(金) 15:25:58 ID:.Sbw6kzo0
”鬼門エリア”一般公開開始 四天王寺
2016年12月2日
 大阪市天王寺区の和宗総本山四天王寺(森田俊朗管長)の本坊庭園「極楽浄土の庭」で1日、新たに整備された北東エリア(1450平方メートル)の一般公開が始まった。通路が大幅に延長されたほか、同寺鬼門鎮守である正一位荒陵稲荷(あらはかいなり)大明神も参拝可能となり、早くも多くの来園者が足を運んでいる。


整備を終え公開が始まった荒陵稲荷大明神=1日午後、大阪市天王寺区の四天王寺

 新たな通路は、瑠璃光の池、薬師の滝の周囲を巡るように設け、北東角にあった稲荷社を約2年かけて整備した。同寺によると、かつて境内数カ所に稲荷社と仏教の神・※枳尼(だきに)社が祭られていたとされるが、明治期の廃仏毀釈(きしゃく)や太平洋戦争末期の大阪大空襲でほぼ焼失。唯一、北東の稲荷社が残り、失われた稲荷と※枳尼をここに合祀(ごうし)した。

 現在庭園は紅葉のピークで、訪れた人々が新たなビューポイントから景色を楽しみつつ稲荷社に手を合わせている。同寺参詣課の山岡武明課長は「日本の文化で忘れられかけている鬼門を知ってもらうきっかけにもなれば」と話した。開園は午前8時半〜午後4時(年内無休)。

※は托のヘンが口
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/161202/20161202025.html

2365undefined:2016/12/02(金) 15:41:00 ID:.Sbw6kzo0
「野沢菜のルーツは天王寺蕪」 大阪・四天王寺の境内で絆伝える記念碑除幕
 「信州名物の野沢菜のルーツは天王寺蕪(かぶら)」という由来を記した「野沢菜伝来記念碑」が10日、大阪市天王寺区の四天王寺境内に建立された。野沢菜は、江戸時代、野沢村(現・長野県野沢温泉村)の僧侶が京都への遊学の際に持ち帰った天王寺蕪の種が先祖とされており、除幕式には関係者ら約60人が出席し、新たなシンボルの誕生を祝った。

 高さ約1・8メートル、横約2・4メートルの記念碑が設置されたのは五重塔や金堂のある中心伽藍(がらん)の東側。記念碑には「野沢菜原種旅の起点」と刻まれ、野沢菜のレリーフと大阪から長野までの伝来のルートが紹介されている。

 野沢菜は宝暦6(1756)年、同村にある健命寺の晃天園瑞住職が修行先で天王寺蕪の味に感動し、持ち帰ったのが栽培の始まりと伝えられている。

一方、天王寺付近が発祥の地とされる天王寺蕪は、与謝蕪村が「名物や蕪の中の天王寺」と詠んだほど全国にその名を知られ、多くの人に好まれたが、明治後期に虫の被害などで姿を消した。

 平成13年ごろ、天王寺蕪の普及を目指す「天王寺蕪の会」の関係者が野沢菜の言い伝えを知り、野沢温泉村を訪ねたのが交流のきっかけ。以来、野沢菜が伝わった道を歩いてたどる「野沢菜伝来の街道(みち)ウォーキング」に参加したり、地元で開かれる“蕪主総会”に出席したりして交流を続けてきた。

 記念碑は今年、同村が村制施行60周年に当たることから「後世にこのつながりを伝えたい」と記念事業の一環として企画された。

 野沢温泉村の富井俊雄村長(66)は「野沢菜を通して長野と大阪の絆を強めていきたい」と話している。


http://www.sankei.com/region/news/161111/rgn1611110070-n1.html

2366undefined:2016/12/02(金) 22:08:47 ID:X1JY42/o0
奈良時代「役所」の建物群跡か 後期難波宮で初確認
2016年11月30日 17:36

 聖武天皇が奈良時代に造営した後期難波宮(大阪市中央区)で、役人が文書処理などの実務をした役所「官衙」とみられる建物群の跡が見つかり、市教育委員会が30日、発表した。官衙跡は、飛鳥時代に完成した前期難波宮では発見されていたが、後期で確認されたのは初めて。


 後期難波宮で見つかった「官衙」とみられる建物群の跡=大阪市

 調査を担当した大阪市博物館協会大阪文化財研究所の高橋工調査課長は「塀に囲まれたコンパクトな配置、簡素な構造などから官衙とみて間違いない」としている。

 発掘現場は、天皇が重要儀式や執務をした大極殿など主要建物群の西側。塀とみられる柱穴で仕切られた区域に、4棟の掘っ立て柱式建物跡が見つかった。

http://www.nnn.co.jp/dainichi/knews/161130/20161130095.html

2367undefined:2016/12/03(土) 04:37:28 ID:X1JY42/o0
【亀岡典子の恋する伝芸】
子供の頃にこんな授業があったら…国立文楽劇場近くの小学校で珍しい「文楽授業」 技芸員が指導
(1/3ページ「五条橋の段」を上演する高津小学校の児童=25日午後、大阪市中央区の高津小学校(奥清博撮影)
大阪発祥の伝統芸能通して「地元愛」高めよう

 全国でも珍しい、人形浄瑠璃文楽を授業に取り入れている小学校がある。文楽の本拠地、国立文楽劇場(大阪市中央区)から徒歩約5分の大阪市立高津小学校だ。十数年前から、大阪発祥の伝統芸能、文楽を通して、地域に誇りや愛情を持ってもらおうと文楽の授業がスタート。現在まで継続して行われている。

 そんな高津小学校の文楽の取り組みをより多くの人に見てもらって、文楽に親しく触れてもらおうと、11月25日、一般の観客を対象に、6年生による文楽公演「高津小学校子ども文楽〜伝統を未来へ〜」が開催された。地域の人々を中心に、たくさんの人たちが会場の体育館に集まり、小学生の懸命な演奏や舞台に、温かな拍手が送られた。

 同小学校は明治5年創立。現在の国立文楽劇場の場所に建っていたが、昭和45年、同劇場から約200メートルのところに移転した。その跡地に59年、開場したのが国立文楽劇場であった。そんな縁もあり、高津小学校では文楽を授業に取り入れるようになったのである。

 このプログラムができて2年後、取材で学校を訪れたことがある。子供たちは太夫、三味線、人形遣いの三業に分かれて一生懸命、稽古をしていたのを思い出す。

技芸員の熱血指導に子どもたちの顔も輝く

 “先生”は豊竹咲甫太夫(さきほだゆう)さん、鶴澤清馗(せいき)さん、桐竹勘十郎さんら文楽の技芸員。彼らは公演や稽古の合間を縫って学校を訪れ、熱心に子供たちを教えている。

 勘十郎さんによると、当初は授業のための人形をはじめ何もない状態だったそうで、「子供たちの稽古用にペットボトルで人形の足を手作りしたり、人形自体も作ったりしていました」とのこと。

http://www.sankei.com/west/news/161202/wst1612020010-n1.html

2368undefined:2016/12/03(土) 04:41:39 ID:X1JY42/o0
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(2/3ページ)【ベテラン記者コラム】 .
 見台なども手作り。教科書もない。勘十郎さんは東京公演のときなど、せりふと人形の動きを紙に絵で描いて宅急便で学校に送ったこともあった。

 同小学校の元校長、玉置美智子さんは当日の座談会で、「最初は見台を壊してしまう子もいましたが、秋の発表会が終わるころには、子供たちの顔が輝いていました。文楽の授業を続けて良かったと思いました」。勘十郎さんも「地域や先生方の熱心さでここまで続いたと思う」という。

 当日は、「とーざーい」の声で幕開き。上手に鮮やかな黄緑色の肩衣を身につけた太夫と三味線、下手には囃子方(はやしかた)、そして舞台では黒衣に身を包んだ人形遣いが、弁慶と牛若丸の出会いを描いた「五条橋」、2人の三番叟(さんばそう)が五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈って舞う「二人三番叟」を上演した。

 「二人三番叟」ではリズミカルな浄瑠璃に乗って、足拍子も軽やかに人形たちが舞う。高津小学校バージョンでは、傘の上での玉転がしや皿回しなど楽しい演出もあり、観客を喜ばせた。

 人形を遣った姫野椿さん(11)は「みんなと息を合わせて遣うのが難しい。でも頑張って出来たときはチームワークが深まった」と話してくれた。

 当日は、文楽座の竹本三輪太夫さん、鶴澤燕三さん、勘十郎さん、桐竹勘次郎さんらによる「傾城阿波(けいせいあわ)の鳴門・順礼歌(じゅんれいうた)の段」も上演。文楽にどっぷり触れた半日となった。


http://www.sankei.com/west/news/161202/wst1612020010-n2.html

2369undefined:2016/12/03(土) 04:44:32 ID:X1JY42/o0
(3/3ページ)【ベテラン記者コラム】 .
“技芸員の先生”の数が足りなくなる?

 それにしても、思うのは、もし、小学生のころ、こんな文楽の授業を受けていたら、もっと日本の伝統芸能に親しむのが早かったのではないかということ。難しそうとか、邦楽や義太夫の詞章がわかりにくいと思う前に、体に自然に浄瑠璃が染みこめば、構えずに楽しめただろう。

 いま、文楽や能、歌舞伎などで盛んに子供たちのための体験授業やワークショップが行われている。子供時代に一度触れておけば、いったん忘れても、大人になったとき必ず思い出すものだという。

 文楽は大阪が本場。高津小学校のような取り組みがもっと増えていけばいいのだが、そうなると、教えに行く“技芸員の先生”の数が絶対的に足りないし、頭の痛いところなのである。

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http://www.sankei.com/west/news/161202/wst1612020010-n3.html

2370undefined:2017/01/01(日) 21:40:48 ID:pAl9ciKw0
住吉大社 初詣にぎわう
01月01日 06時21分
http://www.nhk.or.jp/kansai-news/20170101/5711311.html

年を迎え、正月三が日で約240万人が訪れる見通しの大阪・住吉区の住吉大社は初詣に訪れる人たちでにぎわっています。
住吉大社は地元に住む人々を災難から守ってきた神様として知られ親しみを込めて「すみよっさん」の愛称で呼ばれています。
1日午前0時、新年を迎えると住吉大社の境内では太鼓が打ち鳴らされ、それを合図に本殿の前に列を作って並んでいた人たちが一斉に、さい銭を投げていました。
訪れた人たちは手を合わせてそれぞれこれからの1年について願いごとを祈願していました。
大阪市から訪れた60代の男性は「家族の安全を祈願しました」と話していました。
友人と訪れた大阪・岸和田市の20代の女性は「交際相手が欲しいとお願いしました」と話していました。
住吉大社では今年の正月三が日で去年とほぼ同じ、240万人程度の人出を見込んでいるということです。

2371名無しさん:2017/01/03(火) 18:27:45 ID:Yn1wk.ls0
そろばんはじき初め 大阪
01月03日 16時52分
http://www.nhk.or.jp/kansai-news/20170103/5264341.html

子どもたちが、ことし1年のそろばんの上達を願う「はじき初め」が学問の神様、菅原道真をまつる大阪天満宮で行われました。
はじき初めは、府内のそろばん教室でつくる団体が毎年1月3日に行っているものでことしは、小学生や中学生などおよそ1000人が参加しました。
大阪・北区の大阪天満宮の境内には、そろばんが並べられ、子どもたちは、読み上げられた数字を足していく「読み上げ算」に挑戦しました。
読み上げ算では、新しい年にちなんで「2017」が答えになる問題などが出され、日ごろからそ
ろばんに親しんでいる子どもたちは、次々と正しい答えをはじき出していました。
大阪・東淀川区の小学2年の男子児童は、「全問正解できてうれしい。ことしはそろばん1級を
目指して、家でも勉強して頑張りたい」と話していました。

2372名無しさん:2017/01/03(火) 18:32:46 ID:Yn1wk.ls0

正成ゆかりの地日本遺産申請へ
http://www.nhk.or.jp/kansai-news/20170103/5457081.html

南北朝時代の武将、楠木正成、正行の親子にゆかりのある大阪と兵庫の6つの市町村が連携し、2月に、日本遺産への認定を申請することになりました。
日本遺産への認定の申請は、楠木正成の菩提寺、観心寺がある大阪・河内長野市が、正成と息子、正行にゆかりのある、大阪の四條畷市、富田林市、島本町、千早赤阪村、それに神戸市に呼びかけて準備を進めています。
日本遺産は、各地に点在する有形・無形の文化財を観光資源として国内外に発信していこうと、文化庁が昨年度、制度を設けました。
6つの市町村は、「南北朝時代の武将として、正成と正行は知略をもって大軍と向かい合い、後世まで名をはせた。浄瑠璃や講談でも演じられてきたサムライのヒーローは、この地に700年にわたって生き続けている」などとする内容で、2月に文化庁に申請することにしています。
河内長野市教育委員会の太田宏明係長は「楠木正成は全国にファンがいて、準備段階から多くのエールをいただいている。日本遺産認定を地域の活性化につなげたい」と話しています。

2373名無しさん:2017/02/03(金) 12:34:03 ID:qyBlkDVA0
「四代目春団治」、春之輔さんが来春襲名へ
2017年02月03日
http://www.yomiuri.co.jp/osaka/news/20170203-OYO1T50007.html

 上方落語の大名跡「桂春団治」の四代目を、昨年1月に亡くなった三代目の弟子、桂春之輔はるのすけさん(68)が来春、襲名することになった。春之輔さんと松竹芸能(大阪市)が2日、発表した。披露興行は来春、大阪松竹座(同)で行われる。

 春之輔さんは大阪府寝屋川市出身。1965年、三代目に入門した。軽妙な語り口が持ち味で、滑稽噺ばなしから人情噺まで幅広い演目をこなす。79〜92年、テレビの情報番組「2時のワイドショー」にも出演し、人気を集めた。現在、上方落語協会副会長を務めている。

 この日、記者会見した春之輔さんは「三代目が生前、私を四代目にと指名してくれていた。芸では歴代春団治にかなわないかもしれないが、自分なりに新しい春団治を作り上げていきたい」と抱負を述べた。

2374名無しさん:2017/02/08(水) 12:19:43 ID:qyBlkDVA0
高山右近、晴れて「福者」に 大阪の列福式に1万人参列
岡田匠2017年2月7日
http://www.asahi.com/articles/ASK2745L8K27PTFC004.html

 キリシタン大名・高山右近がカトリックの「福者(ふくしゃ)」に認められたことを宣言する列福(れっぷく)式が7日、大阪城ホール(大阪市)で開かれた。ローマ法王代理としてバチカン(ローマ法王庁)から派遣された枢機卿が進行役の主司式を務め、信者ら約1万人が参列した。

 福者は、聖人に次ぐ崇敬の対象。右近は昨年1月、法王から承認された。

 式では、聖遺物として右近のチョッキの切れ端が壇上に置かれた。岡田武夫・東京大司教が福者の列に右近を加えるよう請願。法王代理のアンジェロ・アマート法王庁列聖省長官が法王の書簡を読み上げ、イタリア語で「福者の列に加えます」と告げた。その後、長崎の信者で画家の三牧(みまき)樺(か)ず子さんが今回の列福式のために描いた右近の肖像画が除幕された。カトリックは今後、右近が亡くなった2月3日を記念日として毎年祝うという。

 右近は戦国時代、今の大阪府豊能町で生まれ、12歳で洗礼を受けた。豊臣秀吉のバテレン追放令でも信仰を捨てず、前田利家に保護された。1614年に江戸幕府の禁教令で国外追放となり、翌年2月3日にマニラで亡くなった。

 これまで日本では、秀吉に処刑され殉教したパウロ三木ら42人が聖人に、江戸初期に聖地エルサレムを訪れたペトロ岐部ら393人が福者に認定されている。(岡田匠)

2375名無しさん:2017/02/22(水) 20:07:22 ID:rWPPEqz20
木彫、匠の技披露 「山本一門」が実演 大阪天満宮
2017年2月19日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/170219/20170219033.html

 大阪市北区の大阪天満宮で開催中の「盆梅と盆石展」で18日、だんじり彫刻を手掛ける山本仲伸さん率いる「山本一門」の彫刻実演が行われた。来場者は厳かな雰囲気の中、匠(たくみ)の技に見入っていた。







黙々と作業を行う山本一門の彫師たち=18日午後、大阪市北区の大阪天満宮


 彫刻の実演は、伝統文化に触れる機会を来場者に持ってもらおうと、ことし初めて開催した。山本さんは貝塚市でだんじりのほか、置物や寺社彫刻を手掛けている。

 参集殿で午後1時から山本さんら4人の彫師がそれぞれの作品を制作。「カッ」「カッ」という木を彫る音が響く中、黙々と作業に取り組んでいた。

 兵庫県西宮市から訪れた男性(60)は「下書きがないのに、彫っていくのがすごい。頭の中でイメージができているのでしょうね」と感心しきりだった。

 「盆梅と盆石展」は3月12日まで。午前9時半〜午後4時。拝観料は中学生以上500円、小学生300円、幼児無料。

2376名無しさん:2017/02/22(水) 20:26:14 ID:rWPPEqz20
香りと花姿 来園者満喫 四天王寺で梅見頃
2017年2月22日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/170222/20170222026.html

 21日の近畿地方は冬型の気圧配置でおおむね曇り空だったが、昼前から高気圧に覆われ中・南部では青空が広がった。

 大阪市天王寺区の和宗総本山四天王寺(森田俊朗管長)では、境内の随所に植えられている梅の一部が見頃となり、多くの参詣者を迎えている。このうち四季折々の草花が楽しめる本坊庭園「極楽浄土の庭」(約1万平方メートル)でも白やピンクのかれんな小輪が枝先を飾っている。

 この日は同寺ゆかりの弘法大師の月命日の縁日「大師会(だいしえ)」で、境内は朝から大にぎわい。庭園内も来園者が絶えず、葉擦れとせせらぎの音に包まれる中、寒風が運ぶ梅の香りと花姿を満喫していた。

 大阪管区気象台によると大阪市の最高気温は8・6度で、前日を9・2度、平年を2・0度それぞれ下回る、寒い一日となった。

 開花時期は品種よって異なり、同寺によると順次咲き替わりながら3月中旬まで楽しめるという。

2377名無しさん:2017/02/22(水) 20:36:55 ID:rWPPEqz20
大量の焼けた瓦出土・・・高宮廃寺跡
2017年02月17日
http://www.yomiuri.co.jp/local/osaka/news/20170216-OYTNT50320.html?from=yartcl_blist

◇「講堂焼失」裏付け

 寝屋川市高宮の国史跡・高宮廃寺跡で、中世に再建された「講堂」が火災により焼失した状況を確認した、と市教委が発表した。焼けた瓦や黒く炭化した土の層が出土しており、市教委は「火災で建物が焼失したという状況が目に見える形で裏付けられた」としている。

 寺域はほとんどが、大杜御祖おおもりみおや神社の境内地内にあったとされる。講堂は僧侶が講話や説法を行った場所で、奈良時代に廃絶し、鎌倉から室町期に再建したとみられている。

 市教委が昨年8月から約500平方メートルを調査した結果、講堂跡(東西16・5メートル、南北13・5メートル)の北東部の土層(深さ約1・2メートル)から、一部が焼損するなどした大量の瓦や炭化した土の層が見つかった。瓦の材質や色などの形状から、1420〜90年代のものとみられるという。

 現地説明会は18日午後1時、同2時から。小雨決行。JR東寝屋川駅から西へ徒歩15分。調査は今年度末で終了するため、今後、周囲は埋め戻される。現状を確認できるのは今回が最後という。問い合わせは、市教委文化スポーツ室(代表072・824・1181)へ。

2017年02月17日

2378名無しさん:2017/03/06(月) 18:54:39 ID:eRtBF0Us0
http://www.news-postseven.com/archives/20170306_498772.html?PAGE=1#container

笑福亭鶴瓶、上方四天王「松鶴」復活の大本命に急浮上
昨年死去した三代目・桂春団治の一周忌追善落語会が2月26日に開催された。そこで、来春に四代目・春団治を継ぐこととなった桂春之輔(68)へ、笑福亭鶴瓶(65)がこんな言葉を投げかけた。
だが1986年に亡くなった後は、襲名をめぐり一門を揺るがす大騒動が起こった。本来なら「松鶴」の後継者は一番弟子の笑福亭仁鶴(80)だったが、彼は「自分で大きくした仁鶴でやっていきたい」と拒否。代わりに仁鶴は独断で六代目の七番弟子である笑福亭松葉を指名した。
 これには兄弟子たちの不満が爆発。騒動は泥沼化し、お家騒動は当時のワイドショーを賑わせた。しかも、指名された松葉は病に倒れ、七代目を継ぐ前にこの世を去った。名跡は遺贈されたが、それ以来、「松鶴」は“空席”のままだ。前出の落語関係者がいう。

「大阪では『松鶴の名前も復活させてほしい』という声が根強い。だが、泥沼の後継者争いを経験した弟子たちは総じて“そんな名跡を継いで嫉妬されたくない”と敬遠気味。そこで名前が挙がっているのが鶴瓶なのです」

 近年の鶴瓶は、確かに落語へ傾注している。若い頃からテレビやラジオを中心に活躍し「落語をやらない落語家」と皮肉られてきた鶴瓶だが、2002年に春風亭小朝(61)から大きな落語会への出演オファーを受けたことをきっかけに真剣に古典を学び直した。2007年には六代目の得意とした演目「らくだ」を「鶴瓶のらくだ」へと改編し全国ツアーを開催して2万人を動員した。

「それだけじゃありません。六代目の自宅を買い取って多目的ホールに改装し、多忙にもかかわらず、月に一度は落語会を開催しています。

 六代目の死後30年近くたった今でも、毎月の墓参りは欠かさない。それほど師匠への思い入れは強いんです。大阪では鶴瓶を推す声は日増しに高まっている」(同前)

 鶴瓶の所属事務所に聞くと「(待望論は)ありがたい話ですが、それはないです」との回答。鶴瓶が“お跡がよろしいようで”と受け入れる日は来るか──。

※週刊ポスト2017年3月17日号

「僕は(襲名に)反対や。あんたが名乗る前に俺が『笑福亭春団治』を名乗るわ」

 鶴瓶流の激励に、会場は笑いに包まれた。もちろん「春団治襲名」は冗談だが、上方落語界では「別の大名跡を手にするのでは」(関西の落語関係者)と噂されている。

「春団治と並び“上方四天王”と言われる『笑福亭松鶴』の名跡です。もう20年以上の長い間、空席となっています」(同前)

 上方四天王とは、戦後、関西の落語界の復興に貢献した「春団治」、「松鶴」、「桂米朝」、「桂文枝」のこと。鶴瓶はそのひとり、六代目・松鶴の八番目の弟子である。

「六代目・松鶴といえば古典落語の大名人であり、上方落語界の巨人です。お酒好きの庶民が活躍する『らくだ』などは絶品でした」(上方文化評論家・福井栄一氏)

2379名無しさん:2017/03/06(月) 18:56:52 ID:eRtBF0Us0

笑福亭鶴瓶、上方四天王「松鶴」復活の大本命に急浮上
昨年死去した三代目・桂春団治の一周忌追善落語会が2月26日に開催された。そこで、来春に四代目・春団治を継ぐこととなった桂春之輔(68)へ、笑福亭鶴瓶(65)がこんな言葉を投げかけた。
「僕は(襲名に)反対や。あんたが名乗る前に俺が『笑福亭春団治』を名乗るわ」

 鶴瓶流の激励に、会場は笑いに包まれた。もちろん「春団治襲名」は冗談だが、上方落語界では「別の大名跡を手にするのでは」(関西の落語関係者)と噂されている。

「春団治と並び“上方四天王”と言われる『笑福亭松鶴』の名跡です。もう20年以上の長い間、空席となっています」(同前)

 上方四天王とは、戦後、関西の落語界の復興に貢献した「春団治」、「松鶴」、「桂米朝」、「桂文枝」のこと。鶴瓶はそのひとり、六代目・松鶴の八番目の弟子である。

「六代目・松鶴といえば古典落語の大名人であり、上方落語界の巨人です。お酒好きの庶民が活躍する『らくだ』などは絶品でした」(上方文化評論家・福井栄一氏)

だが1986年に亡くなった後は、襲名をめぐり一門を揺るがす大騒動が起こった。本来なら「松鶴」の後継者は一番弟子の笑福亭仁鶴(80)だったが、彼は「自分で大きくした仁鶴でやっていきたい」と拒否。代わりに仁鶴は独断で六代目の七番弟子である笑福亭松葉を指名した。
 これには兄弟子たちの不満が爆発。騒動は泥沼化し、お家騒動は当時のワイドショーを賑わせた。しかも、指名された松葉は病に倒れ、七代目を継ぐ前にこの世を去った。名跡は遺贈されたが、それ以来、「松鶴」は“空席”のままだ。前出の落語関係者がいう。

「大阪では『松鶴の名前も復活させてほしい』という声が根強い。だが、泥沼の後継者争いを経験した弟子たちは総じて“そんな名跡を継いで嫉妬されたくない”と敬遠気味。そこで名前が挙がっているのが鶴瓶なのです」

 近年の鶴瓶は、確かに落語へ傾注している。若い頃からテレビやラジオを中心に活躍し「落語をやらない落語家」と皮肉られてきた鶴瓶だが、2002年に春風亭小朝(61)から大きな落語会への出演オファーを受けたことをきっかけに真剣に古典を学び直した。2007年には六代目の得意とした演目「らくだ」を「鶴瓶のらくだ」へと改編し全国ツアーを開催して2万人を動員した。

「それだけじゃありません。六代目の自宅を買い取って多目的ホールに改装し、多忙にもかかわらず、月に一度は落語会を開催しています。

 六代目の死後30年近くたった今でも、毎月の墓参りは欠かさない。それほど師匠への思い入れは強いんです。大阪では鶴瓶を推す声は日増しに高まっている」(同前)

 鶴瓶の所属事務所に聞くと「(待望論は)ありがたい話ですが、それはないです」との回答。鶴瓶が“お跡がよろしいようで”と受け入れる日は来るか──。

※週刊ポスト2017年3月17日号

2380名無しさん:2017/03/21(火) 22:05:45 ID:f218XYX.0
http://www.sankei.com/west/news/170321/wst1703210067-n1.html

「楠木正成考」シンポジウム 井沢元彦氏と東儀秀樹氏が講演 明治神宮会館で開催
 産経新聞で連載中の「楠木正成考」に合わせ、忠義の人で知られる南北朝時代の武将、楠木正成の魅力と現代における意義を考えるシンポジウム「楠木正成考」が21日、東京都渋谷区の明治神宮会館で開かれ、約1900人が熱心に耳を傾けた。
 基調講演では作家の井沢元彦さんが「楠木正成の魅力と再評価」と題し、怨霊信仰など日本の歴史をひもときながら評価の変遷を解説。「正成は軍略家で見通しのいい人だったのに、あえて殉じる道を選んだ。優秀で誠実、魅力に富んだ人だった」と述べた。
 続いて雅楽師の東儀秀樹さんが講演。「学校教育から叙情歌が減っていることに怒りを感じる。美しい歌と言葉に日本の心がある」と話し、今回のために編曲したという唱歌「桜井の決別」で知られる「楠公の歌」を演奏すると、会場は大きな拍手に包まれた。
竹島なんぞくれてやったらよろいいがなとのたまった某落語家は楠公にちなんだ芸名を返上すべきである。

2381undefined:2017/04/20(木) 16:02:04 ID:xksMER4c0
聖徳太子を「厩戸王」とし、「脱亜入欧」を貶める 「不都合」な史実の抹消狙う左翼に警戒を 東京大学名誉教授・平川祐弘
http://www.sankei.com/column/news/170315/clm1703150005-n1.html

昭和の日本で最高額紙幣に選ばれた人は聖徳太子で、百円、千円、五千円、一万円札に登場した。品位ある太子の像と法隆寺の夢殿である。年配の日本人で知らぬ人はいない。それに代わり福沢諭吉が一万円札に登場したのは1984年だが、この二人に対する内外評価の推移の意味を考えてみたい。

 ≪平和共存を優先した聖徳太子≫

 聖徳太子は西暦の574年に「仏法を信じ神道を尊んだ」用明天皇の子として生まれ、622年に亡くなった。厩(うまや)生まれの伝説があり、厩戸皇子(うまやどのみこ)ともいう。推古天皇の摂政として憲法十七条を制定した。漢訳仏典を学び多くの寺院を建てた。今でいえば学校開設だろう。

 仏教を奨励したが、党派的抗争を戒め、憲法第一条に「和ヲ以テ貴シトナス」と諭した。太子は信仰や政治の原理を説くよりも、複数価値の容認と平和共存を優先した。大陸文化導入を機に力を伸ばそうとした蘇我氏と、それに敵対した物部氏の抗争を目撃したから、仏教を尊びつつも一党の専制支配の危険を懸念したのだろう。

http://www.sankei.com/column/news/170315/clm1703150005-n2.html

支配原理でなく「寛容」をまず説く、このような国家基本法の第一条は珍しい。今度、日本が自前の憲法を制定する際は、前文に「和ヲ以テ貴シトナス」と宣(の)べるが良くはないか。わが国最初の成文法の最初の言葉が「以和為貴」だが、和とは平和の和、格差の少ない和諧社会の和、諸国民の和合の和、英語のharmonyとも解釈し得る。日本発の世界に誇り得る憲法理念ではあるまいか。

 ≪独立自尊を主張した福沢諭吉≫

 ところで聖徳太子と福沢諭吉は、日本史上二つの大きなターニング・ポイントに関係する。第一回は日本が目を中国に向けたとき、聖徳太子がその主導者として朝鮮半島から大陸文化をとりいれ、古代日本の文化政策を推進した。第二回は Japan’s turn to the West 、日本が目を西洋に転じたときで、福沢はその主導者として西洋化路線を推進した。

 明治維新を境に日本は第一外国語を漢文から英語に切り替えた。19世紀の世界で影響力のある大国は英国で、文明社会に通用する言葉は英語と認識したからだが、日本の英学の父・福沢は漢籍に通じていたくせに、漢学者を「其功能は飯を喰ふ字引に異ならず。国のためには無用の長物、経済を妨る食客と云ふて可なり」(学問のすゝめ)と笑い物にした。

2382undefined:2017/04/20(木) 16:03:46 ID:xksMER4c0
http://www.sankei.com/column/news/170315/clm1703150005-n3.html

このように大切な紙幣に日本文化史の二つの転換点を象徴する人物が選ばれた。二人は外国文化を学ぶ重要性を説きつつも日本人として自己本位の立場を貫いた。聖徳太子はチャイナ・スクールとはならず、福沢も独立自尊を主張した。太子の自主独立は大和朝廷が派遣した遣隋使が「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや」と述べたことからもわかる。日本人はこれを当然の主張と思うが、隋の煬帝(ようだい)は「之(これ)を覧(み)て悦(よろこ)ばず、〈蛮夷の書、無礼なるもの有り、復(ま)た以(もっ)て聞(ぶん)する勿(なか)れ〉と」いった(隋書倭国伝)。

 中華の人は華夷秩序(かいちつじょ)の上位に自分たちがおり、日本は下だと昔も今も思いたがる。だから対等な国際関係を結ぼうとする倭人(わじん)は無礼なのである。新井白石はそんな隣国の自己中心主義を退けようと、イタリア語のCina(チイナ)の使用を考えた。支那Zh●n★は侮蔑語でなくチイナの音訳だが中国人には気に食わない。

 東夷の日本が、かつては聖人の国として中国をあがめたくせに、脱亜入欧し、逆に強国となり侵略した。許せない。それだから戦後は日本人に支那とは呼ばせず中国と呼ばせた。

http://www.sankei.com/column/news/170315/clm1703150005-n4.html

≪学習指導要領改訂案に潜む意図≫

 アヘン戦争以来、帝国主義列強によって半植民地化されたことが中華の人にとり国恥(こくち)なのはわかるが、華夷秩序の消滅をも屈辱と感じるのは問題だ。

 その中国はいまや経済的・軍事的に日本を抜き、米国に次ぐ覇権国家である。中華ナショナリズムは高揚し、得意げな華人も見かけるが、習近平氏の「中国の夢」とは何か。華夷秩序復興か。だが中国が超大国になろうと、日本の中国への回帰 Japan’s return to China はあり得ない。法治なき政治や貧富の格差、汚染した生活や道徳に魅力はない。そんな一党独裁の大国が日本の若者の尊敬や憧憬(しょうけい)の対象となるはずはないからだ。

 しかし相手は巧妙である。日本のプロ・チャイナの学者と手をつなぎ「脱亜」を唱えた福沢を貶(おとし)めようとした。だがいかに福沢を難じても、日本人が言語的に脱漢入英した現実を覆すことはできない。福沢は慶応義塾を開設し、英書を学ばせアジア的停滞から日本を抜け出させることに成功した。だがそんな福沢を悪者に仕立てるのが戦後日本左翼の流行だった。

 これから先、文科省に入りこんだその種の人たちは不都合な史実の何を消すつもりか。歴史は伝承の中に存するが、2月の学習指導要領改訂案では歴史教科書から聖徳太子の名前をやめ「厩戸王」とする方針を示した由である。(東京大学名誉教授・平川祐弘 ひらかわ・すけひろ)

2383undefined:2017/04/20(木) 18:07:51 ID:xksMER4c0
古民家の台所が幽玄の世界に 大阪・吹田で「能楽囃子」
http://www.sankei.com/region/news/170417/rgn1704170036-n1.html

 古民家の台所を舞台に、簡略化された能を堪能する「能楽囃子(のうがくばやし)の世界」が16日、吹田市南高浜町の吹田歴史文化まちづくりセンター「浜屋敷」で開かれ、約90人のファンを魅了した。

 12回目の今回のテーマは、「ものまね条々」。司会、解説役の上田敦史さん(大倉流小鼓方)によると、ものまねは「物まね」ではなく、世阿弥が説く「さまざまな役柄を演じる際の心構え」のこと。関西で活躍する若手能楽師(観世流シテ方)らが「神」「男」「鬼」などを主人公とする5曲を披露した。

 最初の4曲は、紋付きはかま姿で能のクライマックスシーンを演じる「舞(まい)囃子」形式で行われ、住吉明神が登場するめでたい「高砂」などが舞われた。最後に、宇宙のすべてを映し出す「野守の鏡」を守る鬼神と山伏のやりとりがダイナミックな「野守(のもり)」が、曲の後半の見どころを演じる「半能」形式で披露された。

 浜屋敷は江戸時代の庄屋の屋敷跡で、薄明かりの台所の板間が舞台になった。能楽ファンらは、土間のカマドの前に置かれたイスに座って鑑賞し、幽玄の世界に浸った。

2384undefined:2017/05/01(月) 19:53:49 ID:82wZygKM0
よろい片、日本最北の出土 大和政権と関係か、新潟
2017年4月29日 16:00
http://www.nnn.co.jp/dainichi/knews/170429/20170429061.html


 新潟市東区の「牡丹山諏訪神社古墳」から、5世紀初めの古墳時代中期のものとみられるよろい片が見つかった。古墳時代のよろいとしては日本最北での出土。当時は畿内しかよろいを作る技術がなく、大和政権とのつながりを示す史料として研究者から注目を浴びている。

 調査団代表の橋本博文教授によると昨年9月に発見。縦約3センチ、横約4センチで、厚さ約2ミリの鉄板が2枚重ねられていた。2カ所の穴に革ひもの跡があったことなどから短甲のかけらとみられる。

 同古墳からはこれまで、円筒埴輪や朝鮮半島由来とみられる須恵器なども出土している。

2385undefined:2017/05/01(月) 20:40:34 ID:82wZygKM0
竹内街道・横大路 日本遺産に
04月28日 15時17分
http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20170428/5904421.html

日本の文化や伝統を国内外に発信していこうと、文化庁が認定を行っている「日本遺産」に、大阪府と奈良県の12の自治体が申請していた「最古の国道竹内街道・横大路」が選ばれました。
「日本遺産」は、各地の有形・無形の文化財を地域的なつながりや時代的な特徴ごとにまとめ、その魅力を国内外に発信していこうと、文化庁が、おととし4月から認定しているものです。
今年度は、全国から79件の申請があり、17件が選ばれました。
このうち、大阪府と奈良県の12の自治体が申請していた「最古の国道竹内街道・横大路」は、古代の難波と飛鳥を結んだ道で、現在も大阪・堺市から奈良県の桜井市までを東西に結んでいる道です。
沿道には、百舌鳥・古市古墳群などの重要な文化財が残されるなど、古代から現代まで1400年にわたる悠久の歴史を伝える「最古の国道」として認定されました。
大阪府の文化財が日本遺産に認定されるのは初めてです。
大阪府の松井知事は記者団に対し「海外からも大勢の旅行客が訪れている。日本遺産という冠がつけば、さらに多くの人が訪れてくれると思うので、うれしい」と述べました。

2386undefined:2017/05/01(月) 21:46:35 ID:82wZygKM0
雅楽奉納 うっとり 大阪天満宮「鎮花祭」
2017年4月26日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/170426/20170426023.html

 大阪市北区の大阪天満宮(寺井種伯宮司)で25日、伝統行事「鎮花祭(ちんかさい)」が執り行われた。本殿前の特設舞台で雅楽が奉納され、多くの参拝者がみやびやかな音色や所作に見入った。

 
同祭は「はなしずめのまつり」とも呼ばれる行事。花が咲き誇るこの季節は人々の心も緩みがちで災いが生じやすいことから、古来、花の精霊の仕業と考えられ、舞い散る花に乗って飛ぶ精霊を鎮めて平安を祈念したと伝わる。

 冒頭の管絃では同宮神職が「君が代」と唐楽の「胡飲酒破(こんじゅのは)」を奏で、優美な音色を境内に響かせた。続いて、みこが浪速神楽「式神楽第一」、社伝神楽「珍しな」などを順次奉納した。このほかに関西雅楽松風会の奉仕で舞楽「白浜(ほうひん)」などが演じられ、古式ゆかしい装束と息の合った一挙一動が相まって参拝者を魅了。春の伝統行事を華やかに締めくくった。

2387undefined:2017/05/01(月) 22:02:13 ID:82wZygKM0
40万点 春の古本市 3日まで、古書ファン続々と
2017年4月29日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/170429/20170429025.html

 大阪市天王寺区の和宗総本山四天王寺で28日、春恒例の大古本祭りが開幕した。歴史書や小説、絵本、雑貨など古書類約40万点をそろえ、目当ての品を買い求める来場者でにぎわっている。5月3日まで。

 
 同イベントは関西古書研究会と四天王寺の主催。15回目となる今回は「『長寿』は『食』から」をテーマに、チベットの医療辞典や漢方の専門書など健康に関する書籍が充実。『東京都庁・大阪市役所 庭球対抗試合二十年史』(1957年)など大阪関係の希少本も並ぶ。

 初日のこの日は午前10時の開場と同時に古書ファンが詰めかけ、100円均一コーナーなどに人気が集中。絵本を求めて京都市から訪れた佐藤エミさん(51)は「毎年初日に来るのが楽しみ。買う、買わないにかかわらず、活気があって楽しい」と話していた。

 関西古書研究会の菅哲夫会長は「今年は開店5年未満の若い店の参加が多く、初めて即売会に出すような目新しいものも魅力」とアピールしていた。

2388undefined:2017/05/01(月) 22:05:26 ID:82wZygKM0
二十五菩薩画完成、奉納 10年がかり入魂作
2017年4月30日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/170430/20170430027.html

 大阪市平野区平野上町1丁目の大念仏寺で、伝統儀礼「万部おねり」が5月1日に始まるのを前に、同区の画家、谷守さん(82)が信仰の証しとして祭りに登場する二十五菩薩(ぼさつ)像を描き、完成させた。知人の勧めもあって描き続けてきた谷さんは「10年かかってようやく宿題を果たせた」と胸をなで下ろした。

 
今回奉納したのは、薬王、華厳王、大自在王、日照王の4菩薩。万部おねりは、臨終に際して仏や菩薩が迎えに来る「来迎」の様子を表現した奇祭で、谷さんは節目の年にしか登場しない地蔵菩薩を含めて年に1〜4体ずつ納めてきた。

 谷さんはかつて肺を患い、一時は生死の境をさまようなど筆を休めたが、「もう一度描いてくれ」という菩薩の声に力を得たという。

 24日には法要があり、僧侶や行政、地元町会の関係者ら約60人が参列。同寺の田中瑞修宗務総長が「体力、精神力の結晶だ。いつまでも大切にお守りしたい」とあいさつした。

2389undefined:2017/05/07(日) 19:14:08 ID:dmbp3C5.0
“現代版”菱垣廻船が出航 ヨットで700キロ、江戸へ
2017年5月3日 17:17
http://www.nnn.co.jp/dainichi/knews/170503/20170503071.html

 江戸時代に大阪―江戸を結び、さまざまな生活物資を定期輸送した「菱垣廻船」の航跡約700キロをたどるヨットが3日、大阪港を出発した。天候の回復などを待った港町「風待ち港」に立ち寄りながら、東京港に20日到着する予定だ。

 ヨットはサザンクロス号(全長約12メートル、幅約4メートル)。3日午前11時ごろ、約50人が見送る中、最初の寄港地の兵庫県洲本市に向け出港した。

 菱垣廻船は、「天下の台所」大阪から、しょうゆや酒、木綿などの物資を江戸に運んだ「海の大動脈」で、太平洋岸を航行する南海路の各所には風待ち港が栄えた。

2390undefined:2017/05/14(日) 19:59:43 ID:3zxVZubk0
北前船の嘉兵衛精神を現代に 兵庫で寄港地フォーラム
2017年5月12日 19:27
http://www.nnn.co.jp/dainichi/knews/170512/20170512136.html

江戸時代、日本海側や瀬戸内海を通って大阪と北海道を結んだ「北前船」が寄港した各地の自治体関係者らが集まり、観光振興や地域活性化策を話し合う「第19回北前船寄港地フォーラム」が12日、兵庫県淡路市で開かれた。淡路島は北前船で活躍した豪商高田屋嘉兵衛の出身地で、参加者は嘉兵衛の業績を現代の地域振興に生かす討論などに熱心に聞き入った。

 「嘉兵衛のフロンティア精神に学ぶ」と題された討論では、淡路島観光協会副会長の木下学さんが「嘉兵衛は寄港地で売れる物をしっかり目利きして仕入れ、売っていた」と指摘した。

2391undefined:2017/05/21(日) 14:13:58 ID:MCBszPgY0
津堂城山古墳 石棺を再現 藤井寺市
2017年05月14日
http://www.yomiuri.co.jp/local/osaka/news/20170513-OYTNT50156.html

藤井寺市は、世界遺産登録を目指している古市古墳群の「津堂城山つどうしろやま古墳」の石棺せっかんを原寸大で再現し、古墳北側にある案内棟「まほらしろやま」の敷地で展示を始めた。石棺は100年余り前に発掘されたが、すぐに埋め戻されて、その後、目にすることはできなくなっている。実物と同じ石を用いるなど忠実な再現が心がけられたという。

 津堂城山古墳は、古墳時代中期に築造された大型の前方後円墳。埋葬された人物が誰なのかは分かっていない。1912年(明治45年)に後円部の頂上付近から石棺は見つかった。全長3メートル以上あり、長方形の「長持形ながもちがた石棺」としては国内でも最大級とされた。

 だが、宮内省(当時)の判断ですぐ埋め戻されたため、詳細については不明な点が多い。今回、復元にあたって、残っていた図面や写真、報告書を基にして、長さ約3・5メートル、幅約1・7メートル、高さ約1・9メートルで仕上げた。実物と同じ兵庫県高砂市で採れる竜山石を使い、蓋や側面、底など板状の部材を組み合わせ、突起に施されていた意匠なども再現した。重さは約16トンになった。

 藤井寺市の山田幸弘・世界遺産登録推進室長は「レプリカであるが、これだけ大きな石棺を目にできる機会は貴重。古墳への関心を高めてもらえれば」と話している。午前10時〜午後5時に見学できる。無料。

2017年05月14日

2392undefined:2017/05/21(日) 14:15:32 ID:MCBszPgY0
百舌鳥・古市古墳群、世界遺産再挑戦
2017年5月21日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/170521/20170521027.html

 百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産登録を目指す大阪府と堺、羽曳野、藤井寺3市が、7月末の国内推薦獲得に向けた機運の醸成に余念がない。国内推薦を過去3度見送られた経緯があり「まだかまだかと待っている」(地元関係者)状況だが、果たして4度目の挑戦は結実するのか。


■負けない

 「2025年の国際博覧会(万博)誘致活動もしている。東京に負けない『2極』と呼ばれる大阪をつくりたい」

 松井一郎知事は14日の世界文化遺産登録推進シンポジウムでこう呼び掛けた。来年11月の万博開催地決定を前に世界文化遺産登録の国内推薦を勝ち取り、大阪の魅力を高める思惑が、知事の言葉ににじんだ。

 推薦を獲得した場合、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の諮問機関イコモスによる審査、現地調査を経て19年7月にも登録の可否が決まる。この年は大阪が開催地の一つになるラグビーW杯があり、21年には関西ワールドマスターズゲームズが控える。

 20年五輪・パラリンピック開催地の東京都に「負けない」ほどの素地が大阪、関西にはあり、世界文化遺産登録が実現すれば話題性は高まりそうだ。

■異彩放つ

 百舌鳥・古市古墳群はこれまでに13、15、16年の文部科学省文化審議会の選考で推薦を見送られた。4回目の今年は「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群」(北海道と青森、岩手、秋田3県)と「金を中心とする佐渡鉱山の遺産群」(新潟県)を相手に「1件」の推薦を競う。

 その前段として府と3市が開いたシンポジウムは、有識者らの講演やディスカッションを通して百舌鳥・古市古墳群の優位性を再確認する機会だったが、福永伸哉・大阪大大学院教授(考古学)による「地球遺産」の視点は異彩を放っていた。

 1500年間受け継がれた百舌鳥・古市古墳群の歴史を念頭に「保存管理すれば1千年、2千年先まで残る。(その時に)地球外生物と関係が生まれて全宇宙外交ができれば、地球遺産としてアピールできる」と持論を展開した。「飛躍している」との指摘はあったが、世界遺産登録はゴールではなくその先を見据える姿勢は必要だろう。

 世界遺産は現時点で20件登録されているが、西和彦・文化庁参事官はこう指摘した。

 「世界遺産になれば何が変わるのか。(地元当事者は)そのことをどこかで考えていかなければ、世界遺産になっても息切れしてしまう」

 百舌鳥・古市古墳群 大阪府南部の堺市と羽曳野市、藤井寺市にまたがり、4世紀後半〜6世紀前半に築かれ、日本最大の前方後円墳で全長486メートルの仁徳天皇陵古墳など89基の古墳が現存する。

2393undefined:2017/05/21(日) 14:50:41 ID:MCBszPgY0
お茶屋文化 もっと身近に…ミナミ・たに川2代目
2017年05月16日
http://www.yomiuri.co.jp/local/osaka/news/20170515-OYTNT50456.html

◇一見さん柔軟対応/芸妓衣装体験/HP開設

◇「足運び魅力知って」

大阪・ミナミで唯一残るお茶屋「たに川」(大阪市中央区)の2代目谷川恵めぐむさん(43)が、お茶屋の文化を伝えようと奮闘している。ハードルの高いイメージを払拭するため、「一見いちげんさんお断り」にはこだわらないことを決め、芸妓げいこ衣装の着付け体験などができる講座も開催。谷川さんは「お茶屋をもっと身近な存在にし、大阪の花街文化を残していきたい」と話している。(南部さやか)

 大阪には江戸時代から、北新地、堀江、新町、南地なんち(現在のミナミ)の四つの花街があり、たに川は1969年、南地で芸妓として働いていた谷川さんの母・恵美子さん(77)が創業した。戦前の南地には数百件のお茶屋があったとされるが、今は、たに川を除くと、キタに2軒あるだけという。

 谷川さんは、大学卒業後、就職したものの、「幼い頃から身近にあって親しんできたミナミのお茶屋がなくなるのは寂しい」と店を継ぐことを決意した。

 すでに、2011年からは、講座形式の「お茶屋サロン」(要予約、4000円)も開き、芸妓の生活などを解説。芸妓がカツラに付けるかんざしの展示をはじめ、芸妓の裾引きの衣装を着る体験会なども実施しており、これまでに500人以上が参加したという。 さらに、谷川さんは「お茶屋に行ったことがない人にも広く知ってもらうきっかけに」と今月、店のホームページ(https://ochaya-tanigawa.amebaownd.com)を開設。「一見さんはお断り?」「何人から利用できる?」などの質問項目も設け、お茶屋の内容や魅力などの紹介をしている。

 「何度も訪れることでお茶屋の魅力を知ってもらえる」と考え、「一見さんお断り」としてきたが、谷川さんは「店の特性を理解してくだされば、その限りではありません」と柔軟に対応することも決めた。

 芸妓の後継者不足は深刻で、10〜20歳代の若者が入門しても、稽古の厳しさや芸妓になっても出番の少なさからやめてしまうケースが目立つという。谷川さんは「お茶屋の文化は、老若男女が集う場として舞踏や三味線などの伝統文化と融合して継承されてきた。さまざまな情報を発信していくことで、その文化を守っていきたい」と決意を新たにしている。

 

 ◆お茶屋

 芸妓が披露する唄や三味線の芸を楽しみながら飲食する場だが、芸妓を呼ばずに飲食しても構わない。お茶屋には板前がいないため、料亭や飲食店などから、客の注文に応じる。会議室やけいこ場として利用する人もいるという。

2017年05月16日

2394undefined:2017/06/11(日) 21:07:44 ID:H89tWGz60
大阪港開港150年目 海保が総合訓練
2017年06月04日
http://www.yomiuri.co.jp/local/osaka/news/20170603-OYTNT50195.html

大阪港の開港から今年で150年目になることを記念し、大阪海上保安監部は3日、大阪湾で、船艇や航空機を出動させ、事故対応や救助の手順を確認する総合訓練を行った。多数の市民も見学に訪れた。

 同保安監部が所属する第5管区海上保安本部の管内で、大規模な総合訓練が行われるのは5年ぶり。同管区から職員約270人と巡視船など十数隻と航空機、ヘリコプターが参加し、6種類の訓練に臨んだ。

 航空機が発見した漂流者を救助する訓練では、上空のヘリコプターから隊員がロープで海上に降下し、漂流者役を手際よくつり上げてヘリコプターに収容した。逃走する不審船の追跡訓練では、隊員が乗った2隻のゴムボートが猛スピードで追いかけ、犯人逮捕の練習をした。

2017年06月04日

2395undefined:2017/06/11(日) 21:43:00 ID:H89tWGz60
犠牲者2800人忘れない 第3次大阪大空襲72年法要
2017年06月08日
http://www.yomiuri.co.jp/local/osaka/graph/article.html?id=20170607-OYTNI50068

太平洋戦争中、大阪市北東部を中心に約2800人が犠牲になったとされる「第3次大阪大空襲」から72年を迎えた7日、同市旭区の常宣寺じょうせんじで、慰霊法要が営まれ、遺族ら約50人が参列した=写真=。

 砲兵工廠こうしょうが近くにあった同区の城北公園では、1945年6月7日の大空襲で避難した多くの市民が戦闘機の機銃掃射などで亡くなった。法要では、読経に続き、参列者が焼香をして静かに手を合わせた。大空襲を体験したという東浦栄一さん(88)は「あの経験は決して忘れられない。後世に伝えていきたい」と話した。

2017年06月08日

2396undefined:2017/06/11(日) 21:43:01 ID:H89tWGz60
犠牲者2800人忘れない 第3次大阪大空襲72年法要
2017年06月08日
http://www.yomiuri.co.jp/local/osaka/graph/article.html?id=20170607-OYTNI50068

太平洋戦争中、大阪市北東部を中心に約2800人が犠牲になったとされる「第3次大阪大空襲」から72年を迎えた7日、同市旭区の常宣寺じょうせんじで、慰霊法要が営まれ、遺族ら約50人が参列した=写真=。

 砲兵工廠こうしょうが近くにあった同区の城北公園では、1945年6月7日の大空襲で避難した多くの市民が戦闘機の機銃掃射などで亡くなった。法要では、読経に続き、参列者が焼香をして静かに手を合わせた。大空襲を体験したという東浦栄一さん(88)は「あの経験は決して忘れられない。後世に伝えていきたい」と話した。

2017年06月08日

2397undefined:2017/06/11(日) 22:08:48 ID:H89tWGz60
歌人・石上露子しのぶ 富田林
2017年06月11日
http://www.yomiuri.co.jp/local/osaka/news/20170610-OYTNT50091.html?from=yartcl_blist

◇旧杉山家住宅で生誕祭

 富田林市出身の女流歌人・石上いそのかみ露子つゆこ(1882〜1959年)を顕彰する「石上露子生誕祭」が10日、生家にあたる同市の旧杉山家住宅(重要文化財)などで行われ、多くの市民が訪れた。

 露子は「明星」などで短歌や詩、小説を発表。中央歌壇から注目されたが、親の言いつけで結婚を強いられ、創作活動も禁じられた。愛情を注いだ2人の息子に先立たれ、不遇のまま生涯を閉じたとされる。

 活動期間の短さから広く認知されていない露子の業績と人柄を知ってもらおうと、一般社団法人「露香会」などが、露子の生まれた6月に生誕祭を開いており、今年で7回目。

 この日は、かなわぬ恋を題材にした代表作「小板橋」が、琴の演奏にのせて披露され、露子の写真パネルに花が手向けられた。その後、参加した市民たちは中庭で、着物姿の女性らが点たてた茶を味わいながら、在りし日の露子に思いをはせていた。

2017年06月11日

2398undefined:2017/06/11(日) 22:26:46 ID:H89tWGz60
大和政権支えた「陶邑(すえむら)」大量生産の須恵器展示 18日まで狭山池博物館
http://www.sankei.com/west/news/170610/wst1706100039-n1.html

古墳時代に朝鮮半島から伝わった陶質の土器、須恵器の国内最大の産地として知られる、堺市南部一帯の「陶邑(すえむら)」を紹介した企画展が、大阪狭山市池尻中の府立狭山池博物館で開かれている。大和政権を産業面で支えた陶邑の生産態勢などがうかがえる。18日まで。

 陶邑は堺・泉北地域を中心に、大阪狭山市や和泉市にかけて東西15キロ、南北9キロに広がり、古墳時代中期(5世紀前半)〜平安時代前期(9世紀中頃)に須恵器を大量生産。約850基の窯跡が確認されている。

http://www.sankei.com/west/news/170610/wst1706100039-n2.html

企画展では、堺市南区の府立大型児童館「ビッグバン」建設に伴って発掘された、高蔵寺(たかくらでら)13号窯跡(5世紀中頃)出土の須恵器など約50点を展示。同窯跡は陶邑中心部に位置し、須恵器を焼いた窯(長さ約14メートル)が当時に近い状態で残っていた。会場には、貴人用とみられる食事を盛る高杯(たかつき)、壺を置く大型の筒形器台などが並んでいる。

 同窯跡は、仁徳天皇陵古墳(全長486メートル)など巨大古墳が次々に築かれた時期と重なる。府教育庁文化財保護課の渡辺昌宏主任専門員は「陶邑は大和政権を産業や経済面で支え、日本の焼きものの古里でもあることを知ってもらえれば」と話す。入館無料で月曜休館。問い合わせは同館((電)072・367・8891)。

2399undefined:2017/06/11(日) 22:30:43 ID:H89tWGz60
【都市を生きる建築(98)】
「開港150年」大阪に建つモダン…水辺で生き抜いてきた知恵も 商船三井築港ビル、天満屋ビル
http://www.sankei.com/west/news/170610/wst1706100011-n1.html

今年は1868(明治元)年に大阪港が開港して150年ということで、7月を中心にさまざまな催しが予定されている。当時の物流は水運が主役で、あらゆるものと人、そして文化が海を渡って大阪港に集められ、大阪の市街地へと入っていった。1903(明治36)年には陸地から突きだす槍(やり)のような築港大桟橋(さんばし)が完成し、九条の花園橋まで大道路が整備されて(現在のみなと通)、大阪市で初の市電が開通した。大阪港は海外に向かって開かれた大阪のフロンティアであり、港湾事業で大いに栄え、通りにはモダンな建築が建ち並んだ。

 現在は中央突堤と呼ばれる大桟橋の跡のたもとに、当時の面影を今に伝える近代建築が2棟並んで建っている。1933(昭和8)年に建てられた商船三井築港ビルと、1936年の天満屋ビルだ。

 商船三井築港ビルは、大阪の海運を担っていた大阪商船(現在の商船三井)が建て、船員の待合所として使われていたという。大阪商船といえば、大阪を代表する近代建築であった、中之島のダイビルを建てたことでも知られる。こちらは小ぶりなサイズであるが、外壁に貼られたクリーム色のスクラッチタイルと、正面中央の装飾が特徴的だ。もともとは凸型の外観で、両肩の仕上げの異なる部分は後からの増築。サントリーミュージアムがあった頃までは、地下に大阪有数の現代アートのギャラリーがあり、1階にはデザイナーがオフィスを構えるなど、築港のクリエーティブシーンの一翼を担っていた。その後解体の危機が訪れるが、テナントの有志や市民の保存を願う声が届いて活用が決まり、現在は1階で飲食店が営業を続けている。

http://www.sankei.com/west/news/170610/wst1706100011-n2.html

天満屋ビルは地元の有力者が建てたもので、天満屋はその屋号を引き継いだもの。こちらも色違いの茶色いスクラッチタイルで、大きなガラスの開口と幾何学的な構成がモダンだ。現在は陽光がたっぷりと注ぐ部屋にカフェが入居し、ゆったりとした時間を刻んでいる。

 いずれも地上2階建てにみえるが、実は竣工(しゅんこう)当時は3階建てだった。港区と大正区は昔から地盤が低く、台風などの水害に何度も悩まされてきた。それが戦後の復興事業によって、街の道路が約2メートル嵩(かさ)上げされ、それ以前に建てられた建築は1階が土中に埋まってしまったのだ。現在の玄関はいずれもその後に新たに設置されたもので、天満屋ビルの足元には、かつての1階が覗(のぞ)いている。

 そうした目で築港の街を見回してみると、戦後に建てられたビルのなかにも、階段を4、5段上ってから玄関に入る建物が多いことに気付く。水辺で生き抜いてきた建築の知恵だ。(高岡伸一/建築家・大阪市立大学講師)

2400undefined:2017/06/12(月) 18:32:55 ID:CYEo8K3o0
8月、朝席スタート 天満天神繁昌亭
2017年6月8日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/170608/20170608025.html

 上方落語協会は8月から、大阪市北区の天満天神繁昌亭で毎週火曜日朝から朝席を実施すると発表した。また7月3日からの第1週昼席で、桂枝女太(58)が来場者からお題を三つずつ上げてもらい、中入り前にお題を盛り込んだ創作落語を即席で披露する「三題噺(ばなし)」に1週間通しで挑戦することも併せて公表した。


「朝から晩まで繁昌亭で落語を楽しんでいただくのがわれわれの願い」という桂文枝会長(73)。まずは入場料千円の深夜、乙夜寄席を考案した。そしてさらに、朝席をスタート。

 担当主任の笑福亭銀瓶(49)は「昼席でまだ出番がない若手を開口一番に起用。昼席なら中トリクラスをトリに起用して、本舞台でそれぞれ勉強してもらう」と説明する。出演者は5人で、午前10時開演、当日券1800円。9月以降の開催は、客の入りを見て決定するという。

 三題噺は昨秋に桂三金が同様に1週間取り組んだ。枝女太は「以前びわこ放送ラジオで同様の試みをしたが、高座で15分近い創作落語に仕上げるのは至難の業。兄弟子の文枝会長にヒントをもらうなど助けていただいて…」と神妙だ。

 担当の笑福亭仁智副会長(64)は「神戸の繁昌亭オープンの準備が着々と進んでいる。大阪の繁昌亭10周年の1カ月は前年比3割増しのお客さまに来ていただいた。協会員も増えたし、常に挑戦する姿勢を忘れず落語に取り組んでいってもらいたい」と意欲を見せた。

2401undefined:2017/06/12(月) 18:39:44 ID:CYEo8K3o0
12日は「恋人の日」 愛染さんで恋絵馬お目見え
2017年6月11日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/170611/20170611029.html

 12日は「恋人の日」-。“愛染(あいぜん)さん”の呼び名で親しまれる大阪市天王寺区の愛染堂勝鬘院(しょうまんいん)(山岡武明住職)で、12日から期間限定で新たな授与品「恋絵馬」(100円)がお目見えする。古来、恋愛成就や縁結びの“パワースポット”として知られる寺院とあって、関係者が「さらに幸せになってもらいたい」と思いを込め、愛らしいハート形絵馬の準備を進めている。授与は29日まで。

「恋人の日」はブラジルの風習。恋人同士が、縁結びの聖人・聖アントニオの命日の前日に互いの写真を入れた写真立てを贈り合うことにちなみ、全国額縁組合連合会が1988年から事業活性化の一環として取り組んでいる。

 長年多くの恋人たちが足を運んでいる同院では、この記念日に着目し今年初めて企画。大阪の夏祭りの幕開けを飾る伝統行事「愛染祭」(大阪市指定無形民俗文化財、30日〜7月2日)も間近に控えており、そのPRも兼ねた。

 参詣者は恋絵馬を購入後、相合い傘の左右に自分と好きな人の名前、裏面に愛の誓いの言葉や希望を書いて奉納する。近年は外国人観光客の参詣も急増していることから、案内板には英語表記の説明文も加えた。

 奉納された恋絵馬は愛染祭初日の30日に炊き上げられる予定。山岡住職は「多くの方に幸せを願っていただき、本尊の愛染明王の御利益によってご縁が結ばれることを祈念します」と話している。

 問い合わせは電話06(6779)5800。

2402名無しさん:2017/06/12(月) 21:59:22 ID:1FwjtmIM0
http://www.geocities.jp/marco4321ice/

2403undefined:2017/07/24(月) 19:45:26 ID:TlsjoTz.0
夏本番、天神祭始まる 古式ゆかしい神事で
2017年7月24日 12:48
http://www.nnn.co.jp/dainichi/knews/170724/20170724025.html

 水の都・大阪に夏本番を告げる大阪天満宮(大阪市北区)の天神祭が24日朝、市中心部を流れる堂島川のほとりで、古式ゆかしき鉾流神事とともに幕を開けた。
 
 951年に始まった天神祭では当初、天満宮近くの浜から川に鉾を流し、流れ着いた場所に菅原道真の御神霊を祭った。この際、御神霊を乗せた船を、人々が多くの船で出迎えたのが、天神祭で行われる船渡御の起源とされる。

 この日の神事には神職や氏子の代表ら約100人が参列。みこの舞などに続き、神職を乗せた斎船が川にこぎ出した。

2404undefined:2017/07/24(月) 20:17:31 ID:TlsjoTz.0
住吉さん 夏本番 厳かに神輿洗神事
2017年7月19日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/170719/20170719022.html

 大阪市住吉区の住吉大社(高井道弘宮司)の夏祭り「住吉祭」を前に、大みこしを海水で清める「神輿洗(みこしあらい)神事」が17日、同大社近くの住吉公園で盛大に執り行われた。輿丁(よちょう)と呼ばれる担ぎ手約150人によって勇壮な担ぎ出しが繰り広げられ、見守る市民が間近に迫る夏祭りムードを一足早く満喫した。

 この日は午前中から大阪住吉漁業協同組合の奉仕による「汐汲舟(しおくみぶね)」が出され、大阪湾沖合の海水が採取された。夕刻には、神事の行列の先払いを務める「供奴(ともやっこ)」に続き、獅子舞、大みこしの一行が境内を出発し、かつての住吉浜に位置する同公園斎場まで巡行。薄暮の中、神職が厳かに大みこしを海水ではらい清めた。

 大阪の夏祭りを締めくくる住吉祭は30日〜8月1日に斎行。31日午後5時から「夏越祓(なごしのはらえ)神事」、1日午後3時頃からは「神輿渡御」があり、千人を超える渡御列が堺市の御旅所・宿院頓宮(とんぐう)まで練り歩く。

2405undefined:2017/07/24(月) 20:18:43 ID:TlsjoTz.0
みこしや獅子舞、北新地 練り歩く 天神祭
2017年7月22日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/170722/20170722041.html

 天神祭のかつての陸渡御コースをみこしや獅子舞の行列が巡行する行事が21日、大阪キタの繁華街・北新地でにぎやかに繰り広げられた。
 
 伝統的な装束姿の大行列が都心部を練り歩く天神祭本宮(25日)の陸渡御は、かつて北新地にまで及んでいたが、道路整備や交通量の問題で現在は途絶えている。そこで、渡御コースの復活や地域のにぎわいづくりにつなげようと、天神祭を支える団体「講」のうち、天神講獅子と鳳(おおとり)講が2009年から北新地巡行に取り組んできた。

 この日は北新地の関係者も含め約200人が参加。街灯がきらめくビルの谷間に鳳凰(ほうおう)をいただくみこしを躍動させ、軽快な祭りばやしの中で獅子舞や傘踊りを繰り広げた。鳳講の宮本善樹講元は「巡行が夏を乗り切る力となり、地域の活性化につながれば」と思いを込めていた。

2406undefined:2017/07/24(月) 20:22:31 ID:TlsjoTz.0
空から陸から水上から 今年も「天神祭生中継」
2017年7月23日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/170723/20170723025.html

 テレビ大阪は36回目となる「天神祭生中継」(25日夜6時55分)の概要を発表した。司会は14年連続の西川きよしさん(71)と5年連続7回目のハイヒール・リンゴさん(55)とモモコさん(52)のおなじみトリオ。船渡御列の行き交う大川に近い同局本社には、これも恒例になった萬田久子さん(59)と今年はおかに上がっての出演となる三田村邦彦さん(63)、初出演の村井美樹さんが浴衣姿で加わり番組を盛り上げる。

 
担当の羽柴康晴プロデューサーによると、“舞い上がれ!水都彩る天空絵巻”と題し目玉企画は三つ。

 まず『空編』で、系列キー局テレビ東京から中継ヘリコプターを導入。奉納花火水都祭が川面を彩る大川の上は大阪空港への定期航空便着陸コースになり、ヘリ進入禁止のためキタやミナミ、さらにあべのハルカスなどの上空を飛行しながら大都市に上がる花火とのコラボ映像を追う。

 次に『陸編』で、携帯電話電波を使った移動中継システム。天神祭当日は、大川周辺に100万人を超える人出が予想され、通常のテレビカメラ中継は雑踏の中でほぼ不可能。そこでアナウンサーやリポーターが天神橋筋商店街や繁華街に出没し、スマホで特ダネ映像を狙う。

 最後は同じ地上派デジタル内で通常は使わないサブチャンネルによる放送。メインチャンネルは西川さんらトリオによる司会で祭りのうんちくをはじめとするトークを交えて放送するが、サブチャンネルの映像は船渡御と花火など天神祭の雰囲気をふんだんに盛り込み、過去の大阪をテーマにした歌謡曲を流し、「大阪らしいプロモーションビデオの感覚で」と張り切る。

 昨年サブチャンネルでマニアックな花火解説で視聴者を驚かせた漫才師で花火評論家でもある笑い飯哲夫さん(42)によるトークは、今年はメインチャンネルに昇格して昨年以上の切れ味で花火のノウハウを説明する。

 忘れてはならない『水上編』は、船渡御列を縫っての船上からで、今年はおなじみの斉藤雪乃さんに、小塚舞子さんが新たに加わる。

 番組提供スポンサーで奉納花火実行委の一翼を担うフジオフードシステムは、天神橋筋3丁目にある同社スイーツブランド「はらドーナッツ」で、テレビ大阪のキャラクター・たこるくんとコラボした『たこるドーナッツ』を販売。数量限定で『たこるドーナッツ』ミニトートバッグ付きドーナツ8個入りセット(880円)を天神祭当日まで販売。

 司会の西川さんは「天神祭は日本三大祭りの一つでけた違いの人出。大川端にお集まりの皆さんもなかなか祭りの全体像はつかみにくい。その点、テレビなら涼しいご自宅でゆっくり花火や船渡御をご覧いただけます。サブチャンネルを後で見返せば2度楽しめますよ」とベテランらしい説明ぶり。

2407undefined:2017/07/24(月) 20:37:08 ID:TlsjoTz.0
天神祭前夜祭 熱気包む ステージで祭り再現
2017年7月24日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/170724/20170724027.html

 大阪天満宮の天神祭(24、25日)のハイライトを楽しむことができる「天神祭前夜祭inOBP」(実行委員会主催)が23日、大阪市中央区の大阪ビジネスパーク(OBP)内ツイン21のホールで開かれた。高層ビル群に囲まれた近代的な建築物を舞台に、迫力のある踊りや鳴り物の演奏が繰り広げられた。

 
天神祭を通じて地域の交流を深めようと、大阪ビジネスパーク協議会と大阪天満宮でつくる実行委が開いている。1986年から続くイベントで今年で32回目となる。

 イベントには天神祭の陸渡御に実際に参列する「講社」が参加。おはらいの清祓(きよはらえ)式の後、催(もよおし)太鼓やだんじり囃子(ばやし)、獅子舞など次々と熱気あふれるステージが披露された。

 同実行委員長の舟越照代・大阪ビジネスパーク協議会事務局長(65)は「日曜日の開催だったが思った以上に来場者が多かった。地域に定着していると感じる。つながりを深めるためにこれからも続けたい」と話した。

2408名無しさん:2017/07/26(水) 16:19:19 ID:qyBlkDVA0
「模擬原爆」空襲犠牲者を追悼
07月26日 
http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20170726/4552471.html

72年前の昭和20年7月26日、長崎の原爆と同じ型の爆弾に通常の爆薬をつめた「模擬原爆」による空襲を受けた大阪・東住吉区で、当時の空襲の犠牲者を追悼する式典が行われました。
「模擬原爆」は、アメリカ軍が、長崎に投下した原爆と同じ型の爆弾に、通常の火薬をつめて、昭和20年7月26日に大阪に投下したもので、7人が死亡し、73人がけがをしました。
大阪・東住吉区にある「模擬原爆」の慰霊碑の前では、26日追悼式が行われ、模擬原爆の体験者や、東住吉区や泉佐野市などの小中学生、それに広島と長崎の被爆体験者、およそ150人が参加しました。
式では、模擬原爆が投下された午前9時26分に黙とうがささげられ、空襲で亡くなった人たちを追悼しました。
模擬原爆による空襲を体験した92歳の龍野繁子さんは、「追悼式に出席したり、学校を訪れて自分の体験を話したりすることによって、若い世代の人たちに模擬原爆について語り伝えていきたい」と話していました。
東住吉区の中学校の生徒は、「日本の各地に模擬原爆が落とされたことは、知らなくて驚きました。
平和についてみんなと考えを共有したい」と話していました。

2409名無しさん:2017/07/30(日) 11:32:25 ID:5kGVTHw60
http://www.sankei.com/west/news/170730/wst1707300002-n1.html
【井上章一の大阪まみれ】
失われたアメリカ文化が大阪で保存されていた!
 ビリケンは、大阪・通天閣のマスコットである。足の裏をなでると、御利益がある。そんな評判もあって、おおぜいの人がここにはやってくる。とりわけ、受験生には人気があるという。
 これを、大阪のシンボルだと考える人も、すくなくない。そう言えば、新世界を舞台として、『ビリケン』という映画がつくられたこともある(一九九六年)。二〇〇五年には、「なにわの文化・観光交流大使」となってもいる。その称号とともに、東京へもちだされたことは、記憶に新しい。
 大阪を代表するキャラクターとしても、ひろくみとめられている。その点では、「くいだおれ太郎」なみになっていると言うべきか。ただ、あの人形とちがい、国際的な舞台では、まだ活躍をしていない。私は、アメリカへいって、その存在感をアピールしてほしいと、考えているのだが。
 とうとつに、アメリカをもちだし、読者はとまどわれたろうか。これには、訳がある。
 ビリケンは、もともとアメリカではやりだした愛玩人形だとされている。シカゴのさる彫刻家が、女性らしいけれども、発案した。夢のなかにでてきた精霊を、彼女がそのまま造形したのだと、言われている。通天閣の説明によれば、一九〇八年のことであったらしい。
http://www.sankei.com/west/news/170730/wst1707300002-n2.html
 なぜか、幸運のシンボルとして、ひところアメリカでヒットした。日本にも、もちこまれている。
 大阪では、旧ルナパークの開園にさいし、これを園地でまつることとなった。園内にもうけたビリケン堂へ、千客万来の招福人形として、しつらえたのである。招き猫や福助にかわる、その舶来版として。一九一二年のことであった。なお、今の新世界は、このルナパーク跡地にひろがる界隈である。
 ルナパークは、一九二三年に閉鎖された。以後、ビリケンは行方がわからなくなる。今のビリケンは、その代替品。戦後に再建された通天閣が、往時をしのぶためにあつらえた像である(一九七九年)。一時は下火になっていた人気も、この復活でよみがえった。
 アメリカでも、二十世紀のなかばごろまでは、そこそこ愛玩されていたという。アメリカ映画の『哀愁』(一九四〇年)にも、マスコットとして登場する。しかし、今はすっかりわすれられているだろう。
 だからこそ、私は大阪のビリケンに渡米をすすめたい。うしなわれたアメリカ文化が、大阪で保存されていたことを、しめすために。(国際日本文化研究センター教授)

2410名無しさん:2017/07/31(月) 20:39:39 ID:zgdI6lyY0
http://www.sankei.com/west/news/170731/wst1707310072-n1.html
仁徳天皇陵含む百舌鳥・古市古墳群が世界文化遺産国内候補に 大阪府

文化審議会は31日、平成31(2019)年の世界文化遺産登録を目指す候補として、大阪府の「百舌鳥(もず)・古市古墳群」を選んだ。来年2月までに政府が国連教育科学文化機関(ユネスコ)に推薦書を提出し、31年夏のユネスコ世界遺産委員会で審査を受ける見通し。
同古墳群は堺市の百舌鳥古墳群と、大阪府羽曳野、藤井寺両市に広がる古市古墳群の総称。古墳群は、国内最大規模の「仁徳天皇陵古墳」(堺市、全長486メートル)や応神天皇陵古墳(羽曳野市、同425メートル)をはじめ、古墳時代最盛期の4世紀後半〜5世紀後半に築造された49基で構成する。全長200メートルを超える前方後円墳は全国に約40基あるが、11基が立地する。
堺市など地元自治体は、古墳群について、「天皇陵を中心に、約1600年前の姿を今に伝えている」などととして推薦を求め、これまでに25、27、28年の3度、文化審議会で審議されたが、いずれも見送られていた。
このため、今回は「仁徳天皇陵古墳」をはじめ、大小さまざまな形が存在する古墳群は他に例がないとする「多様性」をアピールしたことが結果に結びついたとみられる。

http://www.sankei.com/west/news/170731/wst1707310072-n2.html
この日の文化審議会では、「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群」(北海道、青森、岩手、秋田の3県)、「金を中心とする佐渡鉱山の遺産群」(新潟県)の2件も審議対象とされたが、今回は見送られた。

2411undefined:2017/08/06(日) 15:56:07 ID:Dgr72iNc0
百舌鳥・古市の古墳楽しむVR 地元博物館でツアー開始
2017年8月1日 11:07
http://www.nnn.co.jp/dainichi/knews/170801/20170801044.html

 世界文化遺産の推薦決定から一夜明けた1日、百舌鳥・古市古墳群の地元にある堺市博物館で、バーチャルリアリティー(VR)技術で百舌鳥古墳群を上空から眺めることのできる疑似体験ツアーが始まった。

参加者はヘッドマウントディスプレーをつけ、上空300mからの映像で、国内最大の大山古墳(仁徳天皇陵)や周囲の風景を楽しめる。CGで、約1600年前の大山古墳の壮麗な築造当時の姿も再現している。

家族で訪れた仙台市青葉区の男性(44)は「仁徳天皇陵の周囲を歩いただけでは全体像が見えないけど、VRだと手に取るように分かる」と興奮した様子だった。

2412名無しさん:2017/08/06(日) 16:11:36 ID:Dgr72iNc0
豪華な渡御列 沿道沸く 「住吉祭」神輿渡御
2017年8月2日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/170802/20170802027.html

 大阪市住吉区の住吉大社(高井道弘宮司)の「住吉祭」伝統の神輿(みこし)渡御が1日、盛大に執り行われた。千人を超える渡御列が堺市堺区の御旅所「宿院頓宮(とんぐう)」を目指して練り歩き、大阪各地で約1カ月の間に斎行された夏祭りシーズンを締めくくった。

渡御には、明治時代に奉納され昨年大改修が完了した「大神輿」を中心に、神馬(しんめ)や枕太鼓、船みこしといったさまざまな奉仕者が参列。紀州街道を南下し、地元商店街のアーケード内などを通過するたび、沿道の人々から声援や拍手が沸いた。

 このうち大神輿の一行は、「平楽」が語源と伝わる「べぇら、べぇら」の掛け声とともに、住吉大社を象徴する反橋(そりはし)を豪快に渡って境内を出発。大阪と堺の境界となる大和橋上では、担ぎ手が大阪側から堺側へ交代する「神輿受渡式」が執り行われ、勇壮な姿が終始注目を集めていた。

2413名無しさん:2017/08/06(日) 18:17:33 ID:Dgr72iNc0
境内に灯籠、お盆の準備進む 四天王寺
2017年8月3日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/170803/20170803031.html

 大阪市天王寺区の和宗総本山四天王寺で、間もなく迎えるお盆供養「盂蘭盆会(うらぼんえ)」(9〜16日)の準備が着々と進んでいる。連日の炎天下、境内の随所では灯籠(とうろう)などの取り付け作業が行われ、早くも荘厳なお盆の雰囲気に包まれている。

諸堂には象徴的な「献灯灯籠」が整然と飾られており、その数は例年3千灯を超えるという。六角柱の本体がわずかな風を受けてなびく姿が美しさを引き立たせている。

 お盆中の日没後は、迎え火・送り火の役目のほか、故人の供養・感謝などさまざまな意味を込めて点灯され、日中と異なる幻想的な光景が繰り広げられる。

 このほかお盆中は先祖供養の「万灯ローソク」が連日点灯されるほか、伝統河内音頭継承者の河内家菊水丸さんを招いた盆踊り大会(11、12日、午後7時半〜)などを予定している。

2414undefined:2017/08/06(日) 18:32:14 ID:Dgr72iNc0
境内でオペラ「椿姫」 坐摩神社 10月芸術祭
2017年8月5日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/170805/20170805052.html

 都心の神社境内を舞台にしたオペラ公演「せんば鎮守の杜(もり)芸術祭2017」が10月7日、大阪市中央区の坐摩(いかすり)神社で開催される。午後6時開演(開場は30分前)。入場整理券3500円(当日券3800円)。

地域住民や神社にゆかりがある人々でつくる実行委(幡地賢二郎委員長)が主催。音楽を楽しむ文化と環境の創造を目指して開催しており今年で12回目となる。プロ声楽家による趣向を凝らした演目が好評で、今年はジュゼッペ・ベルディのオペラ「椿姫」(1853年)を選んだ。

 当日は、関西を代表する若手実力派の西影星二さん(テノール)がアルフレード役、斉戸英美子さん(ソプラノ)がビオレッタ役で出演。アルフレードの父・ジェルモンは大阪音楽大教授の田中由也さん(バリトン)が務める。

 日中は同会場で、音楽・文化団体のほか若手オペラ歌手が出演する演奏会「せんば鎮守の杜音楽祭2017」(正午開演、入場無料)を開く。

 7月29日には同神社で実行委の結団式があり、出演者など関係者約30人が参集。成功と安全祈願の正式参拝や当日の全体の流れの打ち合わせなどを行い、出席者がいっそう結束を固めた。

 委員長2年目の幡地さん(69)は「昼の部から地元ぐるみで盛り上がることができるように仕掛けていきたい」と奮起。名誉実行委員長の同神社・渡邉紘一宮司は「皆さんのおかげで公演が定着し大変ありがたい。若手の方の出演もあり、今年も新たな期待を寄せている」と話した。

 チケットの問い合わせは電話06(6251)4792、同芸術祭事務局(同神社内)。

2415undefined:2017/08/06(日) 19:45:22 ID:Dgr72iNc0
世界遺産へロマン感じて 大阪・近つ飛鳥博物館で百舌鳥・古市古墳群展
http://www.sankei.com/region/news/170728/rgn1707280068-n1.html

31日の国の文化審議会で、世界文化遺産登録の候補(国内推薦)に選ばれるか注目が集まっている「百舌鳥(もず)・古市古墳群」の魅力を広く発信しようと大阪府河南町の「府立近つ飛鳥博物館」で夏季企画展「百舌鳥・古市古墳群を世界遺産に!-この夏、きみは古墳を知る-」が開かれている。月曜休館で9月10日まで。

 文化審議会に合わせ、地元から機運をさらに高めようという意味もある。企画展では古市古墳群に関する出土品や複製品などを中心に約210点が展示されている。

 会場では「津堂城山古墳」(藤井寺市)から出土した石棺の蓋のレプリカ(長さ約3メートル、幅約1・2メートル)や「栗塚古墳」(羽曳野市)から見つかった家形埴輪(はにわ)などのほか、ブロック玩具「レゴ」製の仁徳天皇陵古墳といったさまざまな品々が並べられている。

 同博物館は「(出土品は)百舌鳥・古市古墳群の謎を解明する重要な史料。この機会に足を運んでいただき、昔の人々の営みを考えてほしい」とPR。期間中は子供向けに「博物館バックヤードツアー」や「こども勾玉(まがたま)づくり工房」などのイベントが行われる。イベントや講演会に関する問い合わせは同博物館(電)0721・93・8321。

2416名無しさん:2017/08/06(日) 20:13:08 ID:/NrfrGio0
http://www.fujisan.co.jp/product/12791182/new/
2017年9月号 (2017年08月04日発売)
歴史のif もし戊辰戦争で幕府軍が勝っていたら首都は大坂、共通語は大坂弁になっていた
前衆議院議員 村上政俊
「秘密の藩民SHOW」>>明治維新によって生まれた47都道府県は、律令国家の66ヵ国の組み合わせを基本としながら人為的な線引きの要素も強い。
典型は大阪府だ。摂津国の1部、和泉国、河内国を人為的に合併した経緯から、今でも旧国のカラーの違いは根強く、府としての一体性は乏しい。(アフリカの国境みたい:引用者)

2417名無しさん:2017/08/12(土) 22:50:11 ID:iGeVFPVQ0
大阪うめきた:梅田墓に「大坂七墓」物証の人骨200体
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毎日新聞
8 時間前
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https://mainichi.jp/20170812k0000e040226000c
 JR大阪駅北側の再開発区域「うめきた」(大阪市北区)に江戸〜明治時代にかけてあった「梅田墓(ばか)」の発掘調査で、200体以上の埋葬人骨が見つかった。梅田墓は、江戸期に庶民の間で流行した盆行事「大坂七墓巡り」の1カ所に数えられ、近松門左衛門の「曽根崎心中」や井原西鶴の「好色二代男」にも登場するが、面影を伝えるものは残っておらず、実態はよくわかっていない。過去の工事で墓石などが出土した例はあるが、学術的な発掘調査で墓の一端が明らかになるのは初めてで、当時の大阪の都市の様相や葬送文化を知る上で貴重な発見だ。
 うめきた2期区域の再開発事業に伴い、今年2〜6月、大阪市教委の指導で大阪文化財研究所が明治期の地図から墓域と推定される約3000平方メートルの一画を含む、約700平方メートルを発掘調査した。
 調査では、きれいな盛り土の層に整然と並ぶ棺桶(かんおけ)に入った状態で土葬された人骨が見つかった。一方、火葬されて骨つぼごと穴に投げ込まれたような状態で見つかったものや、骨つぼに入れられず、同じ場所に何層にも重なって埋葬された痕跡も確認されるなど、多様な埋葬形態が明らかになった。棺桶に納められた人骨の周囲からは、とっくりのミニチュアや六文銭などの副葬品も見つかった。
梅田墓は江戸初期、天満周辺に点在していた墓の一部を旧曽根崎村に集め(現在の大阪駅前第1ビル周辺と推定)、都市化に伴って1680年代に調査地付近に移転したと伝わり、1900年代初めごろまで機能していたとみられる。
 調査地の北端と南端の計3カ所からは、墓域を区画した石垣も確認、北側の石垣は墓石を転用して築かれていた。墓地が造られる前の土層からは17世紀末ごろの磁器が出土した他、見つかった墓石には1674〜1825年の没年が刻まれており、地誌や古地図で墓があったとされる時期と矛盾しなかった。また、南北の石垣の外側からも人骨が見つかり、墓域は従来の推定より広範囲にわたっていたことがわかった。
 調査した大阪文化財研究所の岡村勝行・東淀川調査事務所長は「江戸期の大阪では、火葬が大半だったとする史料が残されているが、土葬もかなりあったことが明らかになった。多様な埋葬形態は、時期の違いや貧富・身分の差によるものかもしれない」と話す。今後、見つかった人骨の男女比や年齢層、栄養状態などの分析を進める予定といい、謎多き墓の実態解明が期待される。【林由紀子】
「歴史の一端解明」 古川武志・大阪市史料調査会調査員(日本近現代史)
 七墓巡りには、肝試しの意味合いや、子どもの大人への通過儀礼的な一面もあったようだ。全て回ると自分の葬式は晴れるとも言われ、文学では心中の場面などで象徴的に描かれた。開発で失われる歴史の一端が発掘調査で解き明かされ、記録される意義は大きい。

2418undefined:2017/08/13(日) 21:10:01 ID:ebkLAfWQ0
京橋空襲は問う 14日に若者組織が2人芝居
2017年8月8日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/170808/20170808022.html

 72年前の終戦前日、空襲に見舞われた京橋を題材にした「未来へのメッセージ」が、空襲があった日の14日、大阪市都島区の会場で開かれる。戦争をテーマに京橋版にアレンジした舞台などで、主催者は「未来の日本を考える機会に」と来場を呼び掛けている。

主催は、若者による地元特性を生かした活性化に取り組む「京橋地域活性化機構」(鷲見慎一理事長)ら。

 同機構などによると、京橋の空襲は1945年8月14日に当時の京橋一帯(現在の大阪ビジネスパーク付近)にあったアジア最大級の陸軍砲兵工廠(こうしょう)を狙い、米軍が爆弾を投下。近くの京橋駅のホームなどを直撃し、身元が判明しただけでも二百数十人が命を落とし、実際の犠牲者は500人とも600人ともいわれている。

 その空襲を伝える被災者慰霊碑がJR京橋駅南口側にあり、記憶の風化を防ごうと1955年から毎年8月14日に慰霊祭が営まれ、遺族や関係者らが平和への誓いを新たにしている。

 「未来-」で上演する舞台は、東京の「演劇集団アトリエッジ」が手掛ける『流れる雲よ』の京橋版にアレンジした2人芝居。主人公が基地に持ち込んだラジオを聴いていると流れる放送が未来の放送で、京橋の空襲や日本の敗戦を伝えるものだと気付き…といった内容。舞台の前には空襲など戦時中の地域の歴史の説明がある。

 72年の経過の中で戦争体験者も減り、戦争への実感も薄らぐ中、舞台を通じて問いかけることで「感情も入りやすく、わかりやすいのでは」と企画した同機構の鷲見理事長(35)。空襲が忘れ去られる危惧と語り継ぐ必要性を感じるとともに、日本を取り巻く情勢不安など「現在、未来の日本を考えるきっかけづくりにし、若い人に見てもらいたい」と訴える。

 未来-は14日、京橋グランドスペース(都島区東野田町3丁目、大京ビル2階)で午後1時開演。50席限定で参加費は千円。申し込みは同機構のホームページなどで。

2419undefined:2017/08/13(日) 21:27:03 ID:ebkLAfWQ0
万の炎、先祖しのぶ 四天王寺盂蘭盆会
2017年8月10日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/170810/20170810029.html

 大阪市天王寺区の和宗総本山四天王寺(森田俊朗管長)で9日、お盆行事「盂蘭盆会(うらぼんえ)」が始まり、朝から多くの参詣者が先祖供養に訪れている。


五重塔をはじめ講堂、金堂を配した境内・中心伽藍(がらん)では、夕刻から先祖の霊名を記したろうそく(万灯ろうそく)約1万本を一斉にともす「万灯供養」があり、幻想的な明かりが夏の夜空を照らしている。

 この日の伽藍内では、日没前から幼児や高齢者まで幅広い年齢層が続々と参詣。回廊沿いに設けられたそうろく台の前で故人の思い出を語り、ゆらめく炎にじっと手を合わせる家族連れや、同寺僧侶の読経とともに伽藍内を練り歩く法要の列に加わる人々など、随所で先祖をしのぶ光景が見られた。

 このほか、1日で千日続けてお参りしたのと同じ功徳が授かるという「千日詣(まい)り」(10日まで)もなされ、境内・六時堂は多くの人々でにぎわった。

 万灯供養は16日まで行われ、点灯は午後6時15分ごろ〜同9時(15日は午後5時40分ごろ〜同10時)。

2420undefined:2017/08/13(日) 21:28:38 ID:ebkLAfWQ0
大阪護国神社で清掃 「日本会議」会員と家族ら
2017年8月11日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/170811/20170811032.html

 大阪市住之江区南加賀屋1丁目の大阪護国神社で境内の清掃活動が行われた。参加者は、ごみ拾いや草取りに汗を流した。


活動は「英霊にこたえる会大阪府本部」と「日本会議大阪」が企画して6日に実施。15日の終戦記念日に同神社で執り行う例祭を前に毎年実施し、今年で13回目を迎えた。

 「清掃活動をひとつのきっかけとして、護国神社がどういう神社であるかを語り継いでいくことも大切」と日本会議大阪の丸山公紀事務局次長。この日は日本会議大阪の会員とその家族ら約30人が参加した。

 門真市から参加した橋本輝明さん(43)は、年老いた両親に変わり、3人の子どもを連れて2年ぶりに参加。「時間がたつと戦争のことを忘れてしまうので、子どもたちのためにも良い機会なる」と話していた。

2421名無しさん:2017/09/08(金) 00:34:37 ID:GjXushS60
大阪とサカ族
https://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara/35471712.html

ついでにお話しておくと鹿児島方言では
「サエギル」という動詞を「セキッ」と発音する。
この方言が「セキッ所=関所」と動詞から名詞を生み出したのである。
その「サエギル」のサエは
「塞の神」と書いて「サイの神」と読むサイが、「サエ」と訛ったたものである。
この字を「サイ」発音するのは「韓音(中国の発音)」である。
「サエギル」という言葉は、古日本語にはなくて、
「塞」という漢字が入ってから生まれた「合成語」だということが分る。
中国には西域の異民族を「塞」と呼んだ文献がある。
この「塞」はもう一つ「ソク」腸閉塞(ちようヘイソクなど)という発音がある。
「塞奴」は「ソクド」と読めるから今の「ソグド人」に一近い発音になる。
『魏書倭人章』にもこれに関連した官名が出てくる。
魏の帯方郡使として当時の倭国へやってきた「塞曹掾史・張政」である。
「塞曹」とは「塞奴」担当官という名だからソグドが話せた可能性がある。
そういう役人を帯方郡に置いたり、それを倭へ派遣したのをみると、
魏人は倭人を「塞族」として分類していた可能性がある。
<塞族>はギリシャ人が「スキュタイ」と呼んだ人々であるが、
「スキュ」はギリシャ訛りで「タイ」は人という意味である。
同じ名を印度北部では「シャーキャ」と発音する。
釋迦(シャカ)はこれに対する当て字である。
鹿児島方言は「シャカ」を「サカ」と発音するが、
日本では「塞」の字を古来「サカ」と発音する。

大阪の「サカ」は敵をサエぎるもの「城塞」の意味か。
あるいは「城塞(サカ)を作る連中という意味か。
民族名の「塞」であろうか?。
今、仁徳天皇陵のある「堺」は「サカが居る土地」という
意味以外には考えられないから「民族名」が一番有力に見える。
それだと江上波夫氏の『騎馬民族説』を立証することになる。
どの意味にとっても「オーサカ」の語源は「倭塞」だったのである。
そして鹿児島の「大隈=倭住」からの移住地は
「大隈」「大住」「和泉=倭住」という地名として
大阪一体に今なお残っている。
薩摩半島の「出水と川内」というセットになった都市の名が、
大阪では「和泉と河内」というセットになった二大国の名として、
拡大した形で命名されていて、倭国の移動と、その前身が何だったかを、
よく分るように証言している。

 ※出典:加治木義博「言語復原史学会・邪馬壹国大移動:30」

2422名無しさん:2017/09/08(金) 00:46:57 ID:GjXushS60
大阪上空:小型ヘリコプターによる空撮サンプル
https://www.youtube.com/watch?v=svrn0CrjoDU

コメント欄から抜粋
難波の宮水都
5 か月前
そもそも現文明の大元のシュメール文明を築いたシュメール人は
アジア系であり、その後ヒッタイト帝国を築き、のちに中央アジアの遊牧国
スキタイとなる。スキタイ人はサカ族のことであり、古代ギリシャではスキタイ
をサカイと呼んでいた。その後彼等は日本に渡り、古墳時代を形成する。
サカ族は釈迦(シャカ)の大元であり、古代インド南部からスリランカにかけて
弥生文明を築き、スキタイとはまた別のルートで日本に渡来している。
だから古代タミル語と日本語は膠着語などが全く同じなのだ。
シュメール文明の叡智を築いたサカ族の本拠地は堺の仁徳古墳を
見ても分かるように古代大阪である。だから反日欧米系のメディアを
支配しているユダヤ系は大阪叩きに必死なのだ。
サカ族の本拠地大阪だからこれだけの合理性がある街づくりが
古代からされてきたのだ。

NIGHT VIEW of OSAKA Ogawa AIR & SVS
https://www.youtube.com/watch?v=RfzUABWR5v0&amp;feature=youtu.be

時空の栞 -4K Osaka NIGHT VIEW- Timelapse 大阪夜景
https://www.youtube.com/watch?v=gAFlXZi4u0s

大阪都心夜景ドライブ 御堂筋・梅田・難波・天王寺 Osaka Urban Night Drive
https://www.youtube.com/watch?v=aRPqEjGTnPM
コメント欄から抜粋
last ery
2 年前
日本全国旅して回った事あるけどオシャレな街は日本中にたくさんある。
でもオシャレでかっこいい街は大阪しかない。

2423名無しさん:2017/09/08(金) 22:21:57 ID:IeoONghA0
>>2416はここ
http://www.fujisan.co.jp/product/12791182/b/1528757/

2424名無しさん:2017/09/10(日) 12:16:37 ID:1fPvI8sM0

日本人奴隷の存在に激怒した愛国者・豊臣秀吉
岩田温2015年08月21日
http://blogos.com/article/129458/

豊臣秀吉の名前を聞いて、何を思い浮かべるだろうか?
 織田信長の草履を暖めていた話だろうか? 
一夜にして築いたと伝えられる墨俣城だろうか?
 それとも、朝鮮出兵の話だろうか?
これらの話は有名だが、豊臣秀吉に関しては、多くの国民
に知られていない逸話があり、こちらの方が、非常に重要
だと考えている。詳しくは『人種差別から読み解く大東亜戦争』
を参照して欲しいが、簡単に書いておく。

それは、豊臣秀吉が、日本における奴隷制の強烈な反対論者
だったという事実だ。
 奴隷制というのは、日本の内部の話ではない。
戦国時代、多くの大名たちが欧米人との間で奴隷貿易
を行っていた。これも教科書に記載されていない重要な事実だ。
 多くの日本人が奴隷として売りとばされ、哀しい想いをしていた。
これに関して、豊臣秀吉は激怒し、キリスト教の宣教師に対して詰問する。

「予は商用のために当地方に渡来するポルトガル人、シャム人、
カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその
祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国
へ連行していることも知っている。
それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、
現在までにインド、その他遠隔の地に売られて行った
すべての日本人をふたたび日本に連れ戻すよう取り計らわれよ。
もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、
少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。
予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」

2425名無しさん:2017/09/10(日) 12:17:41 ID:1fPvI8sM0

私自身、この秀吉の言葉を知ったのは、奴隷について
一生懸命研究するようになった後だ。多くの日本人は、
愛国者であり、日本人を奴隷とすることに断固として
反対した秀吉の姿を知らないはずだ。
 先に引用した言葉を何度も読み返してほしい。
 私は非常に真面目で、同胞を想う秀吉の愛国心、同胞愛が
滲み出たよい言葉だと思う。
何故、教科書では、こうした豊臣秀吉の功績を記載しないのだろうか。
 伴天連追放令が出されたことだけを取り上げれば、
まるで秀吉がキリスト教を弾圧しただけのような話に聞こえるが、
この伴天連追放令の前段階で、キリスト教徒たちによる
奴隷売買に秀吉が激怒しているのだ。
こうした事実を記さなければ、「伴天連追放令」に至る理屈が理解できないだろう。

人種差別の歴史は根深いが、私たち日本人の先祖が奴隷として
売りとばされていた事実を多くの国民は知らない。

こうした過酷な事実を知ることは、大きく日本史を眺める際に重要なことだろう。

教科書で「南京事件」「慰安婦」の問題が取り上げられることは
多いが、こうした豊臣秀吉の功績については、問題にすらされていない。

どうか、一人でも多くの国民に、秀吉の素朴な愛国心と同胞愛
を知っていただきたいと思う。

南蛮貿易と日本人奴隷 〜日本人女性50人で火薬1樽〜【CGS ねずさん 日本の歴史 7-1】
https://www.youtube.com/watch?v=RS5Io8aQfWw

豊臣秀吉がザビエルの陰謀から日本を守っていなかったら・・・
https://www.youtube.com/watch?v=ywjmoebmRnI

2426名無しさん:2017/09/10(日) 18:31:05 ID:WnonV80A0

日本人の人権を守りぬいた豊臣秀吉
https://www.youtube.com/watch?v=4mG5aHtw5b4

2427名無しさん:2017/09/10(日) 18:42:20 ID:WnonV80A0

秀吉が朝鮮出兵した真実
https://www.youtube.com/watch?v=7iGilu17pos&amp;t=9

2428名無しさん:2017/09/12(火) 00:48:46 ID:XZnka.Z.0
http://www.geocities.jp/marco4321ice/Osaka.html#top

2429名無しさん:2017/10/10(火) 08:16:34 ID:qyBlkDVA0
七代目笑福亭松喬
襲名披露公演 大阪松竹座で
毎日新聞2017年10月8日
http://mainichi.jp/articles/20171009/k00/00m/040/014000c

 上方落語の本格派、笑福亭三喬(さんきょう)さん(56)が8日、七代目笑福亭松喬(しょきょう)を襲名し、お披露目の公演が大阪松竹座(大阪市中央区)で昼夜にわたり開かれた。

 松喬さんは兵庫県西宮市出身。4年前に亡くなった先代(六代目松喬)の一番弟子で、戦後の上方落語復興を先導した六代目笑福亭松鶴(しょかく)の孫弟子にあたる。襲名披露の口上には桂ざこばさん、桂文枝さん、笑福亭鶴瓶さんらが並んだ。松喬さんはトリで登場し、昼の部では、落語家を目指すきっかけとなった演目「初天神」を披露。「師匠の名を継ぐのはプレッシャーもありますが、一落語家としては限りない喜びです」と語った。襲名披露公演は来春まで、全国14カ所で行われる。

2430名無しさん:2017/12/05(火) 08:07:00 ID:qyBlkDVA0
18年2月に春団治襲名公演 道頓堀の大阪松竹座で
2017/12/4
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO24214010U7A201C1AC1000/

 松竹芸能などは4日、落語家、桂春之輔さん(69)の四代目桂春団治襲名披露公演について、2018年2月11日に大阪・道頓堀の大阪松竹座で開催すると発表した。

 公演は昼夜2部制。口上には昼の部が柳家小さんさん、桂文枝さんら、夜の部は柳亭市馬さん、桂文珍さんら人気落語家が顔をそろえ、上方落語の大名跡復活を祝う。〔共同〕

2431名無しさん:2018/10/12(金) 21:36:02 ID:JlEMDSZI0
>>2416
https://www.news-postseven.com/archives/20170812_601539.html
戊辰戦争で幕府勝利ならば大坂が首都、大坂弁が共通語に

2432名無しさん:2018/10/30(火) 21:08:38 ID:NvEUoxdY0
http://www.sankei.com/west/news/181030/wst1810300003-n1.html

【萌える日本史講座】大阪・狭山池の石棺は天皇の墓だった  2018.10.30 10:00
飛鳥時代に築かれた狭山池(大阪府大阪狭山市)でかつて発掘された水路用の巨石は、その大きさや形容から古墳時代の大王クラスを葬った石棺とみられている。府立狭山池博物館の西川寿勝学芸員が、巨石の特徴をもとに、さらに製作時期を絞り込み、被葬者に迫る説を打ち出した。仏教伝来で知られる欽明天皇、聖徳太子の弟の来目(くめ)皇子らが候補という。狭山池の巨石は、古墳から運び出した石棺を水路に転用したと考えられているが、古墳を特定する研究はほとんどないという。同館の特別展「王者のひつぎ」(11月25日まで)で紹介されている。(小畑三秋)
■改修工事で思わぬ発見

 狭山池は周囲約3・4キロで、川をせき止めたダム形式のため池としては国内最古。奈良時代の僧・行基(ぎょうき)や、東大寺再興で知られる鎌倉時代の僧・重源(ちょうげん)らが大規模に改修した。

 巨石は、大正時代末〜昭和初めと、昭和末〜平成初めに行われた堤防の改修工事で計20点以上見つかった。多くが長方形で、最大のものは長さ2・6メートル、幅1・3メートル、高さ約1メートル。内部がくり抜かれ、遺体を納める石棺の本体とみられる。水路にするため、石棺の前と後ろの壁面を削り取って「U字溝」の形にして利用。家の屋根の形をした石材もあり、5〜6世紀の古墳にみられる「家形石棺」とされている。
重源の功績を記した鎌倉時代の文献には、「狭山池に石の樋を築いた」と記載。出土した巨石は、重源の時代に複数の古墳から掘り出されて水路に転用したとみられ、「狭山池石棺群」と呼ばれる。

 家形石棺は近畿の巨大古墳に多く「王者のひつぎ」と呼ばれる。西川さんは、狭山池では長さ2メートル以上の大型のものが半数以上あることに着目し、「大王クラスの古墳から掘り出された可能性が高い」と推測した。

 2メートル以上の家形石棺は、欽明天皇の墓ともいわれる巨大前方後円墳、丸山古墳(奈良県橿原市、全長318メートル)、金銅製の冠など豪華な副葬品が見つかった藤ノ木古墳(同県斑鳩町、直径50メートル)など天皇や皇子クラスの墓に多い。

2433名無しさん:2019/01/08(火) 21:00:25 ID:ylDuNnHU0
真田山旧陸軍墓地の補修費を国が予算計上
1/8(火) 0:59配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190108-00585306-kantelev-l27

関西テレビ

大阪市の真田山旧陸軍墓地について吉村市長は国に修復と保全を求めていて、国は全国の軍用墓地の補修費を大幅に増やした予算案を計上しました。

大阪市天王寺区にある真田山旧陸軍墓地は、戦争で亡くなった軍人や捕虜など1万5千人以上が埋葬されていて、国有地として大阪市が管理しています。

墓石は老朽化が進んでいるものの、個人の名前が書いてあるため市の公金で修復することが難しく、吉村市長は国に国立墓地に変えた上で歴史の遺産として保存計画を立てるよう求めていました。

政府は国立墓地にするかは決めていませんが、全国の軍用墓地の補修予算を現在の年間約300万円から5年間で約5億円に増やす予算案を計上しました。

【大阪市・吉村洋文市長】
「国のために命をおとした先人の墓地なので、きちんと国が整備していくことは重要」

吉村市長は、今後も史跡として国立墓地にするよう求めていくとしています。

2434名無しさん:2019/01/08(火) 21:02:00 ID:ylDuNnHU0
「難波は映画上映発祥の地」 市立中央図書館でエッセイスト・武部好伸さん講演 /大阪
1/7(月) 21:06配信
みんなの経済新聞ネットワーク
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190107-00000056-minkei-l27

 映画興行発祥の地として知られる大阪をテーマにした講演会「映画のはじまり、みな大阪」が2月9日、大阪市立中央図書館(大阪市西区北堀江4、TEL 06-6539-3302)で行われる。(なんば経済新聞)

 「新修大阪市史」(本文編・史料編)、「大阪市の歴史」などに書かれていることや、大阪市史編纂所の歴史情報を紹介するセミナー「探そう!大阪市の歴史魅力」の第13回企画として行う同セミナー。

 当日は、エッセイストの武部好伸さんを講師に招き、大阪が従来言われてきた映画「興行」発祥の地としてだけでなく、映画「上映」も発祥の地だったことを説明する。「『大阪の歴史』86号 日本に初めて映画を持ち込んだ男 大阪の実業家、荒木和一」(2017年、大阪市史編纂所刊)、「大阪『映画』事始め」(2016年、彩流社刊)を中心に解説する。

 1897(明治30)年1月、京都の実業家・稲畑勝太郎がフランスから持ち帰ったシネマトグラフと呼ばれる映写機を使い、京都電灯の中庭(現在は関西電力変電所と旧・立誠小学校にまたがる場所)で試写を行ったのが、日本初の映画上映という。稲畑は同年2月15日、難波の南街会館(現在のTOHOシネマズなんば)で有料上映会を開催。これが映画興行の発祥とされ、1階エレベーター乗り場の壁面には記念の碑文が掲げられている。

 武部さんは、心斎橋の西洋雑貨商・荒木和一が1896(明治29)年12月に米国で購入したという映写機「ヴァイタスコープ」を当時の福岡鉄工所(現在のなんばパークス)内、現在の難波中交差点辺りで試写を行ったとし、それが日本における最初の映画上映だと位置付けている。

 開催時間は14時〜16時(開場13時30分)。定員は300人(当日先着順)。入場無料。

2435名無しさん:2019/01/09(水) 12:20:13 ID:NrdB.GxU0
今宮戎神社で宵戎 商売繁盛願い参拝 大阪
1/9(水) 11:59配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190109-00000023-ytv-l27

読売テレビ

 大阪の今宮戎神社の十日戎が、9日から始まり、商売繁盛を願う参拝客で賑わっている。

「商売繁盛で笹もってこい」

 商売繁盛の神様、「えべっさん」で知られる十日戎は、9日が宵戎。大阪の今宮戎神社の境内では、金烏帽子に千早姿の福娘たちが「吉兆」や大判小判などの縁起物を、手際よく福笹に結び付けていた。今宮戎では、3日間で、90万人の人出を見込んでいる。

2436名無しさん:2019/01/09(水) 14:43:42 ID:NrdB.GxU0
大坂本願寺を再現…北御堂ミュージアム開館
2019年01月09日
https://www.yomiuri.co.jp/osaka/news/20190109-OYO1T50007.html?from=oycont_top_txt

 大阪のメインストリート・御堂筋みどうすじの名前の由来になった大阪市中央区本町の北御堂きたみどう(浄土真宗本願寺派本願寺津村別院)に、「北御堂ミュージアム」が9日、開館する。本願寺や北御堂が大阪の政治や経済、文化などと関わってきた歴史を紹介する。

 施設改修を機に、貸し展示会場などの約300平方メートルを改装した。

 北御堂は、1597年(慶長2年)、この地に坊舎が建てられたのが始まり。約600メートル南の南御堂(真宗大谷派難波別院)とともに、御堂筋の名の由来とされる。

 ミュージアムには、織田信長に対抗し焼失した大坂本願寺(石山本願寺)と周囲の当時の姿を、文献などから再現した模型(1000分の1サイズ)を展示。壁には40メートルにわたり、第1回府議会(1879年)が北御堂で開かれたことなど、大阪の成り立ちから現代までを解説している。掛け軸や古文書など約20点も並べる。

 無料。原則無休で、開館は午前10時〜午後4時。問い合わせは津村別院(06・6261・6796)。

2019年01月09日

2437名無しさん:2019/01/14(月) 13:12:02 ID:NrdB.GxU0
「盆梅と刀剣展」 大阪天満宮、2月9日から
2019年1月12日
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/travel/6501/1294119348/l50

 大阪市北区の大阪天満宮(寺井種治宮司)で梅の銘木や刀剣を集めた「てんま天神梅まつり〜盆梅と刀剣展」が2月9日から始まる。書院造り百畳敷きの境内参集殿を会場に、樹齢約200年の古木や各種銘木を紹介するほか、祭神菅原道真と縁があった歴史上の人物ゆかりの刀剣を展示予定。午前9時半〜午後4時半(入場は同4時まで)。3月3日まで。

刀剣展示のうち入れ替え分は次の通り。

 【前半】(20日まで)肥前国忠吉(初代)▽肥前国住近江大掾忠広(2代)▽肥前国出羽大掾行広(初代)▽肥前国行広(2代)。

 【後半】備前国住長船与三左衛門尉祐定▽平安城住大隈守平広光▽帝室技芸院宮本包則▽帝室技芸院菅原包則。

 15日には関連行事として「篠(しの)笛」玲月流初代森田玲氏と門下生(午後1時〜)▽「講談」旭堂南陵氏、「舞踊」西川梅十三氏(同3時〜)を予定。

 展示拝観料は高校生以上700円、中学生以下400円、団体(10人以上)600円。

 このほかに会期中は境内で骨董(こっとう)市(12〜17日)▽アートクラフト展(18〜24日)▽陶器市(18〜24日)-など多彩な催しを予定。問い合わせは電話06(6353)0025、天満宮社務所。

2438名無しさん:2019/01/16(水) 20:10:15 ID:NrdB.GxU0
どやどや!!護符取り合い 四天王寺に熱気
2019年1月15日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/190115/20190115029.html

 大阪市天王寺区の和宗総本山四天王寺(森田俊朗管長)で14日、天下泰平や五穀豊穣(ほうじょう)を祈願する伝統の奇祭「どやどや」が執り行われた。男子高校生約600人が参加し、もみくちゃになりながら護符(お札)を取り合った。

 どやどやは、元日から2週間続く「修正会(しゅしょうえ)法要」の結願(けちがん)日に行われる。どやどやの名前の起源は諸説があるが、「牛王宝印(ごおうほういん)」という護符を取り合う際に参詣者があふれ返った様子からとされるものや、互いの近況を尋ねる際の「どうや」から来ているものなどが有力だという。

 多くの参詣者が見守る中、清風高と清風南海高の生徒が「わっしょい」と元気な掛け声で境内・六時堂前に集合、水を浴びながら気持ちを高めていった。堂内の天井から護符がまかれると、必死になって手を伸ばしていた。

 護符を手にした生徒らは誇らしげな表情を見せ、「最高です」などと喜びを口にした。

 終了後は魔よけの「牛王宝印楊枝(ようじ)」の授与が行われ、参詣者の長い列ができた。


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