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☆近畿百科☆ニュース その4
949
:
名無しさん
:2010/08/16(月) 07:04:38
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kyoto/news/20100816-OYT8T00040.htm
爆撃去っても食料不足
戦後65年 京都 あの夏の記憶<4> 南方戦線 京丹後の本城さん
戦傷だけでなく、飢えや病気により、数多くの死者が出た南方戦線。1943年(昭和18年)に召集され、暗号兵として赤道直下のインドネシア・ハルマヘラ島などで従軍した本城勉さん(94)(京丹後市大宮町)が、自らの体験をつづった著書「太平洋戦争 南の島転戦記」を読売新聞京都総局に寄せてくれた。熱帯をさまよった兵士たちの苦悶(くもん)の声が行間から聞こえてくるような内容だった。
本城さんは20歳で陸軍兵となったが、ぜんそくの持病があり一時、除隊。43年5月に27歳で召集され、福井県神明村(現・鯖江市)の連隊所属となった。
連隊のうち本城さんが配属された部隊は同年9月、山口県の下関港を出港し、約1か月かけてインドネシアのハルマヘラ島へ。近くの島で、暗号の組み方や解読法など暗号兵になるための訓練を受け、ニューギニア島西部のマノクワリで半年。44年4月に再びハ島へ戻ったが、その後に待っていたのは、食料窮乏の過酷な暮らしだった。
熱帯特有の高温多湿で、全身から汗が噴き出す日々。7月末、島のカウ湾を米軍機に爆撃され、物資を揚陸中だった輸送船が沈んだ。岸壁に積んでいた食料2000トンや砲弾1000トンは灰と化した。
これを契機に米軍の空襲が本格化。本城さんは「毎日、午前9時頃から午後3時頃まで続いた。鳥が鳴かない日はあっても、米軍の爆撃を受けない日はなかった」と振り返る。
部隊は食料を一挙に失い、残った米は“決戦用食料”として備蓄に回した。そんな中、本城さんたちが重宝したのが、島民らが「トベロ」と呼ぶ食料だった。
サゴヤシの木を何度もたたいて細かく砕き、水にさらす。丹念に作業すれば、でんぷん質が底に沈殿した。そのでんぷんにつる草や野菜くずを混ぜ、みそやしょうゆで味付けして食べた。
隊員には毎朝、1日分の食料として、飯ごうに8分目まで入れたトベロが配られた。米軍上陸に備えて密林に潜む生活で、食事時に少しずつすすった。重湯のようで味気なかったが、それでも「当時は、おいしく感じた」。
そして45年8月15日が巡ってきた。前日までうるさいばかりに上空を飛んでいた米軍機の爆音が、ぴたりととまった。
「日本がようやく戦争に勝ったんだ」。部隊にそんな希望的観測が広がったが、半日ほどすると日本の敗戦が分かった。本城さんはスコールでぬかるんだ土の上に座り込み、ぼう然とするしかなかったという。
しかし、悲しんでばかりいられない。本城さんたちには生きて日本に帰るという大きな使命が残されていた。
当時、海外に展開した兵隊を帰国させるのに、日本の船舶は数が不足し、全員の本土帰還には最低10年はかかるとされていた。
この地で、どうやって10年を生き延びるか。本城さんの部隊では、シャベルのみで原生林を切り開き、焼き畑を作ってサツマイモを植えた。
サゴヤシを倒木しておくと、カブトムシの幼虫が育つことを、ある隊員が突き止め、競って飼育した。飯ごうのフタをフライパン代わりにしていためると、香ばしかった。これ以外にもニシキヘビ、カエル、オウム、コウモリ……。捕まえたものは何でも食べた。そうしなければ、生きていけなかった。
そして46年5月、アメリカの輸送船で、ハ島の兵団も本土へ帰れることになった。出港から11日で、船は和歌山県の田辺港に到着した。
時は流れ、今は「飽食」とも称される時代。本城さんは言う。「豪華なペットフードの広告を見ると苦笑いしてしまう。時代が違うといえばそれまでだが、とにかく食べ物というのは本当にありがたいものなんです」(古沢暢之)
(2010年8月16日 読売新聞)
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