したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

☆近畿百科☆ニュース その4

929名無しさん:2010/08/15(日) 09:19:13
姫路・黒田さん22年で講演200回
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hyogo/news/20100814-OYT8T00886.htm

15日で終戦から65年を迎える。戦争体験者の高齢化が進み、風化が懸念される中、戦争の記憶を若い世代に伝え、残していこうと活動する人がいる。語り部として講演などを続ける姫路市東延末の黒田権大(ごんだい)さん(81)も、その一人。「戦争は二度と繰り返してはならない」と訴える黒田さんに話を聞いた。(畑夏月)

 「権大よ。しっかりおやりなさい」。黒田さんは、21歳で戦死した兄の保さんが1944年12月17日に記した手紙を見つめた。

 「遺書」と表書きされた封書は、生きて帰れないかもしれないと案じて家族にあてたものとみられる。46年冬、兄の死亡の知らせが届いた直後、母方の祖父母宅で見つかったという。手紙の結びには「皆様、元気に笑ってお暮らし下さい」とつづってあり、家族思いの兄らしい文面だった。

 5つ年上の兄は、県立姫路工業学校工芸図案科(現・姫路工業高校デザイン科)を主席で卒業。東京でガラス工芸会社のデザイナーとして働いたが、44年12月に召集され、翌年、中国・漢口(かんこう)の野戦病院で亡くなった。戦地から遺骨は返らず、遺書と書かれた手紙だけが黒田さんの手元に残った。

 「死を覚悟して戦地に向かった兄の思いはどれほどのものだったのか。まだ若く、才能もあったのに、さぞ無念だっただろう」と手紙を読み返すたびに、今も目頭が熱くなる。

 戦況の悪化とともに、姫路市でもB29の爆撃が襲う。45年7月3日午後11時50分、空襲警報のサイレンが鳴り、当時、16歳だった黒田さんが、田んぼの水路で身を潜めていると、「シュッ、シュッ、シュッ」と発火しながら焼夷(しょうい)弾が落ちてきた。

 住宅街は炎に見舞われ、同居していた足の悪い祖母や祖父はやけどで亡くなり、遺体はトタン板で運んで埋めた。夏が近づくと、今もあの時の記憶が鮮明によみがえる。

 中学時代の恩師に誘われて、67年に姫路市戦災遺族会に入り、89年から会長を務めた。同会は今年3月末、会員の高齢化などで会を維持することができなくなり、解散した。

 「子や孫の世代に戦争の体験を伝え、平和のありがたさを考えてほしい」という義務感から、語り部として22年間活動。これまで小中学校や公民館で200回以上の講演をこなした。

 黒田さんは「戦地で多くの若い命が失われ、国内では空襲で罪のない人たちが多数亡くなった。戦争は人類が犯す最大の罪。家族を亡くした自分が、その悲惨さを伝えるのが使命だと思う。命ある限り続けたい」。

 終戦から65年になるこの夏も、信念は変わらない。

(2010年8月15日 読売新聞)


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板