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☆近畿百科☆ニュース その4

881名無しさん:2010/08/13(金) 12:52:42
http://mytown.asahi.com/wakayama/news.php?k_id=31000001008110001
65年後・・・特攻兵しのぶ弔電
2010年08月11日

◎広島の男性 戦闘機整備「見送った命数々」

 特攻戦死された中西伸一少尉の命日にあたり、ご冥福をお祈りします――。1945(昭和20)年5月に沖縄沖で、22歳で特攻で戦死した青年の美浜町にある遺族宅に今年5月28日、1通の弔電が届いた。送り主は、青年が乗った戦闘機「飛燕(ひえん)」を旧陸軍の三重県・明野飛行場で整備したという、広島市に住む元航空学校生。戦死した青年の弟が昨年7月、朝日新聞の声欄に兄のことを書いた投書を、元航空学校生が読んで気づき、「特攻兵を見送ってきた私。追悼せずにはいられなかった」と弔電を打ったという。(鵜飼真)

◇本紙・声欄が縁 美浜の遺族宅へ

 弔電を受け取ったのは、美浜町和田の会社役員小松(旧姓・中西)雅也さん(79)。小松さんによると、七つ年上の兄、中西伸一さんは師範学校を出た後、父の後を継いで地元の小学校教師に。1944年、戦況が悪化する中、志願して陸軍の特別操縦見習士官に。その後、フィリピンなどで戦った後、45年5月28日、特攻兵として沖縄に出撃し敵艦に体当たりして戦死したという。

 小松さんは昨年夏、亡き兄と母の思い出を「三十三回忌、初めて泣いた母」の題でつづって投書し、同年7月28日付朝刊の声欄に掲載された。兄が1944年末に帰郷し、特攻隊志願を家族に報告したことや、当時は「しっかり手柄を立てるんやで」と涙を見せなかった母が三十三回忌法要を営んだ後、「今日までは天皇陛下、日本の国にささげた子やった。三十三回忌でやっとワシの子になった」と名前を呼んで号泣したことなどを書いた。

 この記事を読んだ広島市東区牛田東1丁目、会社役員松中義明さん(83)は、すぐに小松さんに電話をした。戦死した日付や所属した部隊名などから、自分が明野飛行場にいた45年5月初めに、特攻に向けて整備した戦闘機に乗った特攻兵だとわかったという。松中さんは、当時の国立航空機乗員養成所の学生で、技術を持った仲間約50人が陸軍兵として明野飛行場で試験飛行や整備、戦闘機の受け渡しをしていたという。松中さんは「当時、明野で渡した飛燕は30機ほど。特攻兵はみんな私と同年代。数日後には死にに行くことがわかって手を振って見送るのは、やりきれなかったです」と振り返る。

 特攻で亡くなった知人らの供養は欠かさない松中さんだが、新聞で知った人の命日に弔電を打つのは初めてだという。「哀悼の意を表し、ご冥福をお祈りします」。松中さんは「声欄の投書の母や弟の思いに涙があふれた。私は戦後、大学に行って商社マン、実業家として働くこともできたが、特攻では多くの若者が志半ばで国のために命を落とした。戦後の繁栄と平和がこうした犠牲の上にあることをかみしめ、慰霊したい」と話している。

 小松さんは「兄の命日に、短い文での弔電、胸に響きました。60年以上たっても、兄のことを思ってくれる人がいて、うれしかった」と語る。小松さんと松中さんはその後5回ほど電話で話して交流、「こんどぜひ会いましょう」と出会いを楽しみにしている


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