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消えた山形 情報掲示板

1siva:2007/02/10(土) 18:46:21
懐かCM
>作者さま
最終的に住んだ天童市や山形だけに限らず、一極化が進んでるようですね。
ら・らポートとか、一つの場所に複数の店舗が集中してる、っていう。
個人的には、昔WINKのコンサートチケットをプレゼントしてくれたヤマザワに
頑張っていただきたいものです(笑)

>ゆきさん
X・Oも無くなりましたか(^^;
ここ何年かで、関東とか関西の大手チェーンが進出してきましたからねえ。。。
駅前通りの蔵王会館や、駅前地下の千代田会館、通称「地下千代」も逝きましたし。

あと懐かしのCMのお話しても良いでしょうか?
米沢の漢方は殿堂入りとして、上山の黒田漢方、サンヨー薔薇チェーン、
サンコーでケンコー、阿部衣料へレッツゴー等々も思い出されるところです。
焼肉レストランかかしも忘れずに。。。(笑)

1908作者:2022/01/14(金) 11:59:00
おもしろかった本
最近みつけました。
5.60年前の山形です。

https://img.shitaraba.net/migrate1/8407.fuku990/0002459.jpg

1909Jpsrw1kh:2022/01/14(金) 14:38:23
(無題)
熊ぱんち@神奈川 様
??セーブオンは2015〜16年頃、店舗が全てローソンに置き換わっていました。
八日町のセーブオンは撤退直前にリフォームされましたが、確か一年足らずでローソンにさらに建て替えられておりました。結果的に無駄なリフォームになるほど突然の撤退だったのかなあなんて思います。

ローソンになったいまでもちょくちょく利用しますが、セーブオンの30円アイスまた食べたいな…

1910熊ぱんち@神奈川:2022/01/14(金) 15:01:54
Re:各都市(米沢)
>作者さん

米沢の場合、買い物圏というか、商店街、繁華街の形成に失敗したんだと思います。共立ビル(サンルート米沢→ホテルモントビュー)のある、バス停「門東町三丁目」の繁華街化を狙って、大沼米沢店、米沢ファミリーデパート、共立ビルなどを引っ張り、駅前方面からのすべてのバスを停車させたまではよかったのですが、悪名高き一方通行のおかげで、近郷近在(米沢駅含む)からのバスや、自家用車のアクセスが改善できなかったと。で、比較的車のアクセスの容易な金池地区(米沢市役所のあたり)に市街地形成を図ったけど、時すでに遅し。市街地と全然関係ない中田地区のジャスコに持ってかれたと。

#大店法とかそういうのの絡みもあるかもです。

1911熊ぱんち@神奈川:2022/01/14(金) 15:22:28
酒屋とコンビニ
>Jpsrw1khさん

セーブオンの山形進出が1987年、セブンイレブンの山形進出が1999年だそうです。セーブオンのローソン化は2016年ですから、山形のセーブオンは、世紀をまたいでいるとはいえ、30年くらいの寿命しかなかったんですねえ。

実は私「山形におけるコンビニ世代」の一世代前の人間で、七日町の「阿部久酒店」とか、花小路前の「梅林堂菓子店」とか、とにかく「マチの酒屋」が元気だったころの世代です。夜の早い山形で、コンビニ顔負けの夜間営業(酒類の自販機が23時以降販売停止になったのもこのころですが、酒屋のほうが、店によっては自販機より遅くまで開いてた(^^;))とか、シャッターたたいてたたき起こすとしぶしぶ付き合ってくれた(よい子はマネしないでね)とかね。

今、どこのコンビニも、遅い時間でもそれなりに人が出ているのを見ると、あの時代は何だったんだろうかと、懐かしいような歯がゆいような感じに襲われます。

#要は呑みたかったんだろうというツッコミ禁止。

1912熊ぱんち@神奈川:2022/01/14(金) 15:44:42
Re:おもしろかった本
>作者さん

この本、著者の方がブログを出されているようですね。

https://ameblo.jp/yamagatayumeyokotyou/entry-12716367583.html

いえあの、知り合いでも何でもないし、宣伝する義理も何にもないんですが、著者の方、仙台在住のお医者さんとは想像の斜め上でした。昔の山形についての内容で、出版にまでこぎつけるその熱意がすごい。ブログによれば、初版は残部わずかで、重版がかかるかどうかは不明とのこと。

1913出稼ぎ中の山形県民:2022/01/15(土) 08:06:23
酒屋その他
七日町の「阿部久酒店」は、私の学生時代には「モンマートあべ久」で、雑誌を買った記憶があります。Google earthの2008年画像に最後の姿が載っています。馬見ヶ崎川沿いには同じく「モンマートせきね」がありました。昭和63年度まで住んでいた米沢にはコンビニが一切なく、ラジオCMで知るぐらいだったので、山形市に引っ越してきて初コンビニに驚きました。まあ山形も米沢も個人商店や食堂が町内にいくつもあり、コンビニの必要性は感じませんでしたが。
米沢市金池は私が転出する間際に急速に建物が増えました。ブックバーンという大きな本屋ができ、山形の桧町にも同じ店がありました。

1914あべ:2022/01/15(土) 08:43:00
Re:おもしろかった本
作者様
熊ぱんち@神奈川様

実は私数年前から夢横丁ブログの愛聴者(?)でして、
消えた山形→山形夢横丁→あなたの知らない過去の酒田→仙台南つうしん
を毎日チェックしております。
山形夢横丁
https://ameblo.jp/yamagatayumeyokotyou/
あなたの知らない過去の酒田
https://akumisakata.exblog.jp/
仙台南つうしん
https://this.kiji.is/-/units/631304261290263649

大都市が栄え地方都市が寂れるのは考えてみれば、
私が高校〜大学時代を過ごした昭和末期の頃でさえ、
西村山の旧三山電車の白岩駅前や間沢駅前なんかは、
規模は小さくても現在の山形米沢福島の様な寂しさがありました。

只あの頃の山形市内を思い出すと、
三日町五日町六日町等の小規模商店街は、
未だ商店街(かな?)の姿を残していましたが、
今では三日町などもうアパート街となってしまい、
昨年度末から旧小立街道終点の一方通行沿いの
旧民家が次々と壊され広場と化しています。

コンビニ…モンマート→ニコマート→サンクス、セーブオンが
山形の黎明期でしょうか?

1915熊ぱんち@神奈川:2022/01/17(月) 13:45:51
モンマート
>出稼ぎ中の山形県民さん、あべ さん

ここで話題になるまであまり深く考えていなかったのですが、モンマートって、れっきとしたコンビニチェーンだったんですね。

#Wikipediaによれば、ボランタリーチェーンであって、あくまでも酒屋がメインということらしく、セブンイレブンとかのフランチャイジー店とは方向性が違うみたいですが。

そういえば阿部久酒店も、ある日を境に、それまで「マチの酒屋」然とした店だったのが、「モンマートあべ久」になって、自動ドア化したり、雑誌やお惣菜を置いたりし始めたのも、実はこれがバックにあったということでありますか。なんか合点がいきました。

山形だと、下条町の「モンマートいがらし」さんが、2019年ころまで営業していたみたいですが、今は「モンマートなんとか」は消えてしまったようです。くしくも2019年は、セーブオンがローソン化した年。97年のべにばな国体ー新幹線開業が山形にとって「何かが消えた」瞬間だとするなら、2019年も、また一つの「瞬間」だったかもしれません。

1916熊ぱんち@神奈川:2022/01/17(月) 13:52:11
あらら
セーブオンのローソン化は2016年。モンマートが消えたと思われるのが2019年でした。3年間のタイムラグはあったとはいえ、この間が「転機」ということで、自分的には納得です。

1917あべ:2022/01/17(月) 21:44:08
モンマートあべ久とか
インターネットやスマホアプリが当たり前の現在とは違って、
平成半ばまではコンビニ等のコピーサービスは重要な物でした。
モンマートあべ久とか夜遅く営業する店で、
コピー機を置いている所は重宝されていたかと思います。
米沢でも山大近くの書店隣の商店は重宝でした。
当時と比べ今のコピー機の重要度は下がっているのではと思います。

1918出稼ぎ中の山形県民:2022/01/20(木) 20:52:23
コピー機
山形市で初めてコピー機を借りたのは小白川街道の農機具屋で、頻繁に使ったのは東原の大江酒店でした。山大の学内にも山大前のニコマートにもコピー機は無く、最寄りのコピー機が大江酒店でした。

1919出稼ぎ中の山形県民:2022/01/25(火) 06:41:48
道路拡張
地蔵町通りの一角、5小前コインランドリーです。調べによれば、私がいた時より以前(昭和後期)には「みどりや」という食料品店があったようです。写真は南向きに撮影したもので、右は民家、左に坂を上ると5小があり、突き当りに田園・シベール・かまどやがありました。当時は車がほとんど通らず、道のど真ん中をジョギングできたのですが、震災の少し前に拡張され、気軽に横断もできなくなりました。南側に直進すると駅前から東西に伸びる道路に交わります。サトーホテルは当時地蔵町通りの東沿いにありましたが近年西側に移転したようです。駅前通りとの交点にはゼネラルのGSがありました。駅前通りをスッと渡って寿町方面に行けたのですが、現在はベルリンの壁(中央分離帯)ができ、南北が分断され、車でも徒歩でも通れません。

https://img.shitaraba.net/migrate1/8407.fuku990/0002470M.jpg

1920あちち:2022/02/04(金) 20:53:27
旧飯塚踏切
国鉄時代に入れ換えで使ってた木造小屋がそのまま放置されて残ってましたが、土台から腐ってしまったらしくて昨日の強風で線路の中央まで飛ばされて横倒しに・・
撤去作業で
数時間全線運休になりました。

1921あべ:2022/02/04(金) 23:28:24
旧飯塚踏切
山新のホームページ内youtubeで確認しました。
昔踏切があったところですね。
小学生の頃はこの踏切を渡ったお堀の角の下で、
よく釣りをしていました。
下手で全然釣る事が出来ませんでしたが、
帰りに近所の牛乳やだったか一銭店でマミー飲んだりしていました。
いつから東側で釣り禁止になったのでしょうか?

1922作者:2022/02/05(土) 08:29:40
旧飯塚踏切
http://ht9901.zouri.jp/kajou1.htm
この画像には残念ながら写っていませんでしたが、このあたりなのでしょうか。
西堀で釣りしている人は見ますが東は禁止ですか。
昔は遊覧ボートもあったように思います。

1923出稼ぎ中の山形県民:2022/02/06(日) 09:18:36
旧飯塚踏切
国鉄の小屋がまだ残っていたのですね。東ソーや国鉄建物の間を通って通学していたのが懐かしいです。今思うと関係者以外立入禁止だったかもしれません。飯塚踏切を通って大手町のフォーラムに映画を見に行ったりしました。しかし夜は怖くて近づけませんでした。周囲では「絶対出るから夜は霞城公園行くな」と噂が。

1924あちち:2022/02/08(火) 04:46:20
旧飯塚踏切
国鉄がJRになった後に敷地境界を測り直したようで、沿線に住んでた友人の母親が「花を植えてただけなのに、いきなりJRの人が来て無粋なアルミの柵を立てていった」と、嘆いていました。鉄道会社としては当たり前のことをしただけなんでしょうけど。
飯塚踏切から大手門への線路と堀の間の土手の散歩道が金網で閉鎖され釣りが出来なくなったのもその頃だったかと。
数年後にはどのみち大手門工事とミニ新幹線化で消える運命でしたが・・。
当該写真にはギリギリ写っていないようですけどポイント小屋は引き込み線廃止あとも空のまま放置されていました。
踏切そのものの廃止はミニ新幹線の新庄延伸に伴います。

1925あちち:2022/02/18(金) 00:32:14
旧飯塚踏切
訂正させていただきます・・。

倒壊した小屋は、国鉄のポイント小屋ではなく、東側の空き家になった民家の物置小屋でした。
コンクリ土台からきれいに外れて線路に落ちて形を保ったままゴロンでした。
持ち主の了解を得てJRが解体したよのことです。

1926作者:2022/02/18(金) 18:12:22
ありがとうございました
訂正ありがとうございました。
お陰さまで事情がよくわかりました。

1927南山形産:2022/03/07(月) 12:32:47
掲示板サービス終了後の事について
管理人様
初めて投稿させて頂きます。
こちらの掲示板のteacup.が8月1日でサービスを終了するとの事ですが、掲示板はその後も何か他のもので運営はされますでしょうか。
故郷を離れて10年以上が経ち、こちらの掲示板をたまに覗くのが楽しみであった私としては、これまでの書き込みの保存と掲示板の存続を強く希望しております。

1928作者:2022/03/11(金) 21:26:28
大変です
掲示板サイト閉鎖になるんですね。
予想しておらず、次のことも考えていませんでした。
なんとかしたいと思います。

1929出稼ぎ中の山形県民:2022/03/13(日) 09:26:38
教えてください
改めて作者様のHPを見直し、色々教えて頂きたい欲求が沸々と。もし情報をお持ちの方がいらっしゃれば、お寄せ頂ければ幸いです。質問ばかりですみません。
1、山形駅東口の明治パーラーは、平成4年にはまだあったと思うのですが、なくなったのはいつ頃でしょうか?
2、山形駅東口北側に「映劇駅前ロマン」とあるのは、中央郵便局の東側にあった「ロマン映劇」と同じものでしょうか?移転したとすればいつ頃でしょうか(平成元年以前)?
3、五日町踏切南側の飲み屋が無くなったきっかけや時期(平成5年以降?)、また、係員が手動で開閉していたのはいつ頃まででしょうか?
4、十字屋やダイエー付近で路上直販がなくなったきっかけと時期(駅改築や道路拡張と関係あり?)
5、本町や七日町のアーケードが取り払われたのはいつ頃でしょうか?
6、高嶋屋養蛇店はまだ営業中でしょうか?
7、藤田菓子店の解体が平成12年とあるのですが、山形駅前から東進する道路の拡張はその時から始まったのでしょうか?

1930作者:2022/03/13(日) 16:49:54
覚えている範囲で
ランダムになりますが、
踏切番は1983年頃に廃止の知らせがあったように思います。
高島蛇やは一度建替えしたのでしたが
それも今回の拡張にかかり、解体されたようです。
アーケード解体は国体準備の頃ですかね〜

1931作者:2022/03/13(日) 17:00:39
(無題)
踏切飲み屋撤去とか路上販売追放なども国体準備の雰囲気の中で行われていたように思います。
当時、街の中の旧来のものは、みっともないと言われ総ざらいされました。
駅前通りの拡張は昭和50年代にダイエー前くらいまで進み、段階的に東に延びたと思います。当初諏訪神社の神木も倒す予定でした。

1932あべ:2022/03/13(日) 17:31:21
ロマン
出稼ぎ中の山形県民 様
「2」その通りです。
移転オープン時に行きましたが、
当時大手町にあったフォーラムの場内をそのままコピーした作りにビックリ!
椅子も同じハイバックシートでピンク映画館も新たな時代に入ったと思いました。
只、ここの映画館はガラガラでも隣の席にピタッと座ってくる方がいたので、
回りの様子に注意しながら見なければならず集中できない所が残念でした。
駅前にっかつの方が安心して集中できますね(何が?)。

1933出稼ぎ中の山形県民:2022/03/13(日) 18:15:10
ありがとうございます
早速のご回答ありがとうございました。県立図書館で以前調査した際、ちょうど国体準備の時期の住宅地図が欠番になっていたので、覚えている方の記憶におすがりした次第です。
平成4年春、五日町踏切の飲み屋に祝勝会で立ち寄った記憶があるのですが、その秋に国体があったはずなので、まさに閉業寸前だったということですね。
また疑問が出てきたらお聞きしたいと思います。

1934出稼ぎ中の山形県民:2022/03/14(月) 06:52:48
追加
当時朝、さわやかな日差しを浴びながら写真館・ロマン映劇前を上っていくと、従業員の方が神社に向かい拝んでいらっしゃる姿を見て、ちょっと感動したものでした。映劇は取り壊されてしまったようですが。誰もいない西口の機関区を通り、狭い路地を抜けて大日堂を曲がり、小姓町の三浦だんご屋のおいしそうな湯気を嗅ぎながら大学へと向かう、坂道であること以外は風情のある通学路でした。

1935南山形産:2022/03/14(月) 12:00:59
掲示板について
作者様

ありがとうございます。
大変かとは思いますが、何卒よろしくお願いいたします。

1936善太郎:2022/03/16(水) 08:33:15
50年前の住宅地図
埼玉在住の50年前の元・山大生です。
添付画像の付近(七日町5丁目10番地)の、50年前の住宅地図を閲覧する方法をご存じの方はいらっしゃいますか?
昔々、この付近の居酒屋で楽しんだことがあり、とても懐かしいのですが。

https://img.shitaraba.net/migrate1/8407.fuku990/0002487M.jpg

1937出稼ぎ中の山形県民:2022/03/17(木) 01:19:03
住宅地図
善太郎様
今震度6で叩き起こされ、PCで地震情報を調べたついでに。
山形県立図書館にある住宅地図の最古のものは昭和34年版で、市内の中心部のみ記載されているのですが、七日町ならば載っていると思います。昭和35年版が無く、昭和36年版からは少し広い範囲で載っています。
倉庫にしまってあるものを係の人に申請して出してもらうのですが、禁帯出(貸出禁止)なので、図書館に行かないと見れません。私は30年分調べるのに他県から3回通いました。欲しいと思っているのですが、中古品のオークションでも入手できないようです。

1938作者:2022/03/17(木) 01:29:03
このあたり?
2ページになるのですが、このあたりでしょうか?

https://img.shitaraba.net/migrate1/8407.fuku990/0002489.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8407.fuku990/0002489_2.jpg

1939善太郎:2022/03/17(木) 10:37:54
ごりら
作者さん、住宅地図の画像、ありがとうございます。
さっそく、その住宅地図とGoogleマップで、「探索」してみました。
50年前の山大生が、バイト料が入るとすぐに、東原町の四畳半から七日町に向かい、入った店が見つかりました。
七日町5-10-13、「ごりら」です。
さっそくGoogleマップの過去分で見たら、懐かしい茶色の木造店舗、まさに、あの店でした。
現在は更地になり、となりに「さる屋」というのがあります。
「ごりら」は閉店したのですね。体格のいいマスターと優しく美人系の奥さんが、いつも笑顔で貧乏な山大生を迎えてくれました。「煮込み」と「サンマの塩焼き」が絶品でした。
おかげさまで、長いあいだ、思い出せなかった店の姿と住所を確かめることができました。
ありがとうございました。
これからもよろしくお願いします。

https://img.shitaraba.net/migrate1/8407.fuku990/0002490.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8407.fuku990/0002490_2.jpg

1940作者:2022/03/17(木) 15:09:22
あっ
今回のお話しをお聞きして気付いたのですが、ごりらのとなりだったから、さる家なのかな?

1941作者:2022/03/17(木) 18:47:36
最優先は
今、山形市では一方通行や狭い道の拡張が最優先です。
幅広くスピードの出せる道が次々生まれるとともに道の両脇からは馴染みの店は消え、通り過ぎるだけの街が大金を投じて作られています。…無念…

1942熊ぱんち@神奈川:2022/03/18(金) 15:54:27
ごりら・古地図
>善太郎さん

この掲示板ではたぶん3回目くらいの登場になるかと思いますが、大風印刷さんの出していた
ミニコミ誌「Gotta」のバックナンバーに、在りし日の「ごりら」の様子が、わりかし鮮明に残っています。

https://www.okaze-gatta.jp/feature/2873

>作者さん

この「Gotta」に引用されている七日町界隈の住宅地図と、作者様の掲載された住宅地図は、ほぼ同じあたりの地図になるかと思います。はからずも「七日町文化」ともいうべき、他ぬか町マーケット以降の変遷を記録した「史料」になってると思います。

牛肉系(スジ、テールなど)の煮込み、やき鳥、サンマの焼いたのに、ちろりからコップへそそぐ2級酒がまあ「七日町文化」の主役だったでしょうか。飲み屋じゃないけど「浜っ子一番」などの懐かしい名前も読み取れます。

1943熊ぱんち@神奈川:2022/03/18(金) 16:00:51
ミニコミ誌の誌名
「Gattahouse」が正当でした。リンクを張ったのは「Gattahouse web」です。

1944善太郎:2022/03/18(金) 19:27:52
山形の街並み
熊ぱんちさん、ありがとうございます。
私が山形に行ったのは、昭和45年4月でしたが、それが今では、街並みもすっかり変わりましたね。
大通りはともかく、ひとつ奥に入ると、ひとりで歩くと迷ってしまうでしょう。

1945作者:2022/03/19(土) 07:25:28
拡幅
ごりらも道路拡張によって角に位置するようになったのですね。
拡張のたびに賑わいが失われるのが皮肉です。

1946出稼ぎ中の山形県民:2022/03/19(土) 07:58:57
50年前
50年前から現在も残っている店舗といえば、例えば七日町の煉瓦屋(昭和47年開業)・三浦人形店・市島鉄砲火薬店・浅尾製麩所・栄屋・三鴻深瀬、松山の千歳山こんにゃく、東原の北京飯店(昭和45年開業)・高瀬商店・国井酒店・清水屋・生協、寿町の火葬場、駅前の五十番、小白川の福家食堂等でしょうか。
もう無くなってしまいましたが、昭和46年に駅前の十字屋・山大前の田園とブルボン、昭和47年に駅前のダイエー、昭和48年に駅前のニチイが開業したとのことですが、正しいですか?
市内のマーケットは完全撤退していたという話を他で聞いたのですが、もしかすると善太郎様の頃にも生き残っていた店があったのでは?と想像します。

1947善太郎:2022/03/19(土) 11:17:20
思い出の店
昭和48年ごろ、七日町に、「ジャスコ」が開店されました。
YBCで開店の模様を実況中継するなど、大騒ぎでした(笑)。
天井吹き抜けのモダンな建物で、2Fの「蔵王そば」という蕎麦屋さんには何回か行きました。

名前は忘れましたが、八文字屋の並びに、時計・宝飾の店舗ビルがありました。
これまた2Fに中華料理店があり、バイト料が入ったとき、すこし高価な「パーコー麺」を食べ、栄養補給をしました。

「山交」タクシー会社の奥に、山形名物「冷やしラーメン」の店があり、夏の暑い日、その透明の冷えたスープは絶品でした。オバチャンが忙しく切り盛りしていました。あのオバチャンと店、その後、どうなったのでしょう。

当時、通ったパチンコ屋は、七日町通りの「山形ホール」、「蔵王会館」など。
喫茶店は、ジャズ喫茶の「フランセ」、だだっ広い「王城」など。
特に、「フランセ」のママは、寡黙だけどキリッとした美人系。
私がヨイショのつもりで「ママは、みちのくの由紀さおりだね」と言ったけど、ママはニコリともしませんでした(笑)。

1948作者:2022/03/19(土) 23:04:26
思い出の街
ジャスコは開店当初、吹き抜け二階から一階まで降りる滑り台があったと思います。
街全体が魅力的でしたね〜

1949こう:2022/03/23(水) 07:34:42
ラーメン屋
山交タクシーの裏のラーメン屋とは、山銀本店向かいの事でしょうか?

1950善太郎:2022/03/24(木) 18:09:15
冷やしラーメン
すみません。「冷やしラーメン」を食べた店の名前も忘れてしまいました。
七日町の通りに立ち、旧・県庁に向かい、左側の並び(大沼デパート側)です。
建物の名前が「山交ビル」だったかどうか、定かではありません。
旧・県庁にかなり近い場所でした。通りの反対側に「蔵王会館」というパチンコ屋がありました。
通りに面して、タクシー会社があり、その駐車場を右手に見ながら、奥に進んでいった場所に、そのラーメン屋さんがありました。
言い訳になりませんが、50年前の記憶で、かなりボヤけてしまいました。

1951出稼ぎ中の山形県民:2022/03/26(土) 09:45:01
旧県庁付近
善太郎様
参考になるかどうかわかりませんが、手元にある平成元年当時(約30年前)の地図だと、
通りの西側は、大沼デパート→道を挟んでジャスコ(1階が蔵王会館)・十一屋・ワシントンホテル(旧・杉山館)・秋月そばや・吉野巧芸社・梅月堂→道を挟んでマンション・駐車場・市役所、
通りの東側は、大沼の向かいに富岡楽器店→道を挟んでみつます・シベール・フラワーアオキ・リッチモンド・結城屋・ミッシーフジタ・岩淵茶舗・粧苑ヤマザワ・パチンコ千代田城・松坂屋→道を挟んで山銀本店
となっています。

1952善太郎:2022/03/26(土) 11:41:54
待月の冷やしラーメン
ようやく店の名前を思い出しました。
「待月」です。「マチゲツ」と読むのでしょうか。
ここの冷やしラーメンについては、この掲示板で、2009年6月3日、ジャンさんという方が「待月のラーメン」という題で投稿されています。
お店の住所は定かではありませんが、50年前、タクシーが何台か駐車している場所の奥にありました。

1953善太郎:2022/03/26(土) 12:07:30
待月の所在地
間違いました。旅籠町ですね。
現在のCamellia Courtの周辺でしょうか。
この建物が建設される前、このへんにタクシー会社か、駐車場はありませんでしたか?

1954出稼ぎ中の山形県民:2022/03/27(日) 10:01:06
待月
山銀本店の向かい(市役所の南側)には、平成元年当時も山交ハイヤー乗り場と駐車場がありました。

1955善太郎:2022/03/27(日) 13:08:43
待月の冷やしラーメン
冷やしラーメン「待月」は、山銀本店向い、添付画像のあたりにあったのですね。←Googleマップから転載。
長い年月、あやふやな記憶で落ち着きませんでしたが、これで、ようやくスッキリしました(笑)。
ご教示いただいた皆さん、ありがとうございました。

https://img.shitaraba.net/migrate1/8407.fuku990/0002506.jpg

1956こう:2022/03/27(日) 18:45:58
待月
待月にも冷やしラーメンがあったのですね。
私は、もっぱら普通のラーメンでした。あとかなり大きなシュウマイも。
正確な時期は不明ですが、私が20代後半(約30数年前)にはビルの建て替えで表の写真店の並びで営業していましたね。

1957出稼ぎ中の山形県民:2022/04/30(土) 12:17:23
花街等
作者様が1月に紹介していた「山形夢横丁セピアの街」を読みました。すずらん街や駅西の様子が述べられ、笑いも悲しみもある内容でした。「キャバレーに花束を」は現在読んでいます。花小路商店街のHPで「花小路文学賞」作品も全部読みました。最近山形に関する文献を漁っています。
「鬼滅の刃遊郭編」とやらで遊郭建築が脚光を浴びているようです。花小路・シネマ旭の通り・小姓町等にも虫籠窓・丸窓・カフェー建築等が現存し、昔を少し偲ぶことができます。ただ、当時のそれらの街の雰囲気や思い出を、機会があればもっといろいろな人から聞いてみたいと思っています。

1958作者:2022/04/30(土) 20:40:50
さよならデパート
今度は渡辺大輔さんの
?さよならデパート?が出版されましたね。
街の記憶が次々記録されるということは
それだけ失われるものが多いということでもあります。

https://img.shitaraba.net/migrate1/8407.fuku990/0002509M.jpg

1959出稼ぎ中の山形県民:2022/05/03(火) 08:10:43
さよならデパート
「さよならデパート」も読み始めたところです。これはすごい!山形市の歴史を概観でき、「だから現在はこうなのか」と納得できる書です。
大沼の件に限らず、消えていった店や風景の記憶は(個人の経験や口伝は特に)誰かが媒体に残さないと消えてしまいます。有名な大型店でさえ、まとまった記録がなかなか残りません。この掲示板には大きな歴史学的意義を感じます。小規模店や狭かった道路の想い出を、私も忘れる前・消える前にできるだけ残しておきたいと思います。「さよなら定食屋」なら50ページぐらいは書けるかも。

1960南山形産:2022/05/03(火) 22:12:07
(無題)
さよならデパートの存在を本日こちらの掲示板で知りました。
とても興味深い本ですが、都内ですと楽天ブックスで注文して届くまで1週間ほどかかるようです。
今から読むのがとても楽しみです。

1961出稼ぎ中の山形県民:2022/05/08(日) 15:54:54
昔の学校名
昭和16年の地図を見て、わからないことがありました。
現市民会館の「第一高等女学校」は山形西高、木の実町の「第二高等女学校」は山形北高、緑町の「山形中学校」「工業学校」「師範学校」は山形東高・山形工業高・山大教育学部、「第二中学校」は山形南高、現市立図書館の「商業学校」は山形商業高、肴町の「女子職業学校」は城北女子高、小姓町の「竹田女学校」は竹田家政専門学校、2小の隣の「清華女学校」は山形学院高、ここまではわかりました。
現NTTの場所にあった「工藝学校」、シネマ旭の道路を挟んだ南向かいにあった「新清女学校」この2つが謎です。

1962作者:2022/05/10(火) 01:17:58
学校
現存の学校の場合は沿革を見れば
過去の名称もわかりますが、廃校になった場合は難しいですね。
当時を知る人も少なくなりました。

1963あべ:2022/05/15(日) 14:11:44
昔の学校名
出稼ぎ中の山形県民 様
「山形市 昔 地図」で検索したら下記文献がヒットしました。
https://lapis.nichibun.ac.jp/chizu/map_detail.php?id=002812840
この地図の事でしょうか?
木の実小路の工藝学校は「市立」と記載されています。
七日町の新済(清?)女学校には新済幼稚園が併記されていますので、
こちらは多分私立なのでしょうね。
ちなみに千歳幼稚園(新築西通り)も戦前からあったんですね。

1964出稼ぎ中の山形県民:2022/05/16(月) 06:57:24
昔の学校名
作者様・あべ様
ご助言ありがとうございました。
新清女学校のほうは花小路・長源寺通り・済生館に近いことから、芸妓関係の養成学校か看護関係の学校がと勝手に想像していましたが、幼稚園もあるとの情報をいただきましたので、そちらの線からも調査していきます。
先日、遊学館向かいの古本屋さんに問い合わせたら、昔の住宅地図は貴重品すぎて入手できず、せいぜい21世紀になってからのものしかないとのことでした。

1965あべ:2022/05/17(火) 00:27:51
昔の学校名
出稼ぎ中の山形県民 様
投稿後色んなキーワードでネット検索したのですが中々無いですね。
昭和12年の地図にも女学校の名は有りました。
旭座、法祥寺、野々村とかのご近所キーワードでも情報得られずです。
そんな中、脱線して面白かった情報として
旭座南側の道路(マンモス駐車場へいたる道)は昔、
寺の境内の小道程度の物だったそうです。
日露戦争のロシア兵捕虜が七日町を散歩した帰り道に通ったとか。
そもそも日露戦争の捕虜が山形に駐留していたとか、
裕福な出身者なので本国からお金を送金して貰い、
七日町とかに買い物や飲食に出かけた等という話が、
現代の戦争とは全く違うのに驚きでした。
本題については
県立図書館(遊学館)だと何かありそうな気がします。
https://www.lib.pref.yamagata.jp/?page_id=20
ここの検索に幾つか入れて見たのですが、
山形県の高等女学校に関する郷土本が1冊ある位でした。
ちなみに父親(85)に聞いたら、
電電公社の所に学校が有ったのはかすかに覚えているそうです。
幼稚園か小学低学年の頃なので「工藝学校」かどうか迄はわからず、
旭座界隈は行かなかったので女学校は全く分からないとの事でした。

1966出稼ぎ中の山形県民:2022/05/17(火) 06:12:50
昔の学校名
あべ様
追跡調査ありがとうございました。実際に当時を知る人の記憶は貴重です。家庭によっては旭座の南側・花小路の通りには行くなと言われていた人もいるようですね。私が中学生の頃はまだ「喫茶店は立入禁止」という校則がありました。いわゆるカフェーは一応法律で禁止されましたが同伴喫茶とかはまだありました。
山形に戻れた際には、古い店の人に昔のことを聞くようには心がけています。山形市は日露戦争のロシア人捕虜を厚遇し、通訳付きで七日町から第二公園まで買い物に行けたとか、どこかの料亭で食事したとか、確か「やまがた街角」に載っていました。

1967山を見上げていた:2022/05/17(火) 21:57:04
山本学園の発祥の地
山本学園の発祥の地
駅近くの八文字屋。むしろ山形市役所近くの八文字屋が本店と思います。
西が国道112号線と接してると思います。裏側が東で、自分はこちらから出入りするほうが多いのです。
駅から東へ登っていく太くて立派な道路を渡ると、八文字屋のたぶん本店は北側、
自分がいつも南側にいて、駅から北へは、最近、八文字屋本店に行くときにしか駅の北へ行かない気がします。
霞城公園を見ると、山形駅も、まだ南側で、山形駅と北山形駅の間が山形城の2の丸の東と接してるともいえます。
八文字屋の本店から東へ少し上って小性町から八文字屋への行きと帰り、八文字屋本店の裏からの出入りと駅から東の太い道路を諏訪神社か諏訪幼稚園ぐらいで渡るのが、
自分の八文字屋への行き来です。
八文字屋の裏から登らないでまっすぐ南へ行けばガソリンスタンド、何種類ものガソリンスタンドが統合したらしいエネオス。
信号と横断歩道で、渡れる場所は多いです。中央分離帯で、信号のない場所は渡れないようですが。
山本学園の発祥の地は小姓町です。
山5小の南に接する道路が小姓町の北を少し残してブッたぎってます。
私の持つ最古の地図。推定1996年は、小姓町は太い道路が無かったようです。
多分、明治時代からは、尋常小学校は優先的に陣取らせてもらってるはずです。
江戸時代の寺子屋が明治に尋常小学校に変わったせいで、
寺は道路の都合で移動させても尋常小学校は移動せずに陣取ってよいと。
地域と密着と子供の教育をいう建前の小学校が明治から。
江戸時代までの寺は寺子屋があったが、尋常小学校があると、明治からの寺は信仰だけなので、
絶対最優先という小学校のような身分ではなく、信仰は、他の都合があれば信仰ではなく他の都合を優先のようです。
小姓町の北の少しぶった切られた部分はともかく、道路が寺の敷地の北の少しの部分。
寺の敷地だった部分が道路になってるようです。
山本学園は寺の敷地の北端に間借りしていたかもしれないです。
小性町から諏訪幼稚園で道路を渡って、八文字屋本店の裏からまっすぐ南のガソリンスタンドで渡らないで、中央分離帯で阻まれない信号なら駅から多めに東へ上って、
南からきて南へ帰る。
逸見魚店は昔は6中の西の道路を北上する行き止まりだった気がします。
逸見魚店からまっすぐ北上すると山本学園の発祥の地に着いた気がします。

1968出稼ぎ中の山形県民:2022/05/29(日) 19:55:12
花小路
30年前に花小路に連れて行かれ、天ぷら専門店で「出されてすぐに食わないと店主から怒られるから気をつけろ」と言われ、緊張しながら魚の天ぷらを食べました。2軒目も同じ花小路の、薄暗いショットバーでウォッカを初めて飲みました。今も当時から残っているお店でしょうか?

1969熊ぱんち@神奈川:2022/05/31(火) 14:52:28
喜八?
花小路の天ぷら専門店で割と古くから。。。といえば「喜八」(「喜」は旧字、いわゆる「七十七」)かなあ。行ったことありませんし、そんな緊張するような雰囲気かどうかも「?」です。

1970出稼ぎ中の山形県民:2022/06/01(水) 06:28:15
花小路
熊ばんち@神奈川 様
ありがとうございます。「喜八」を食べログで確認したら、「南向きの玄関から入店した」「千歳館側からあまり奥には歩いていない」「カウンター席とテーブル席があった」という朧げな記憶にも合致しました。緊張を強いられたのは、連れて行かれた人のハッタリかもしれません。

1971熊ぱんち@神奈川:2022/06/01(水) 16:11:54
Re:花小路
>出稼ぎ中の山形県民 さん

正直「染太」か「喜八」かで迷ったのですが、「染太」は、天ぷら屋というよりうなぎ屋さんという印象が強く、また「花小路」と言っていいのかどうか微妙な場所だったので、「喜八」かなあと思いました。

閑話休題。

かつては「花小路文学賞」ってのがあったようですね。第二回が募集されたのかどうなのか、その辺まではわからないですが、着眼点がすごいなあと思いました。

http://hanakoji.com/bosyu.html

ここに集いし諸兄には、対象顔負けの作品をかけそうな方もいらっしゃるのではないかと。いえ、ただそれだけなんですが。

1972熊ぱんち@神奈川:2022/06/01(水) 16:15:58
Re^2 花小路
あ。
対象→大賞が正当です。
「消えた山形文学賞」てのも、見てみたい気もします。

1973出稼ぎ中の山形県民:2022/06/01(水) 21:11:47
花小路
花小路文学賞は数年間更新されていないようです。山形舞台の作品は心にグッと来ます。

1974作者:2022/06/07(火) 01:20:12
文学
これからの山形の街が文学を生むような
深みを持てる街並みになるのかとても心配になります。

1975出稼ぎ中の山形県民:2022/06/07(火) 06:08:51
五日町
山形の水系を調べていたら、「五日町と吹張の間の清水」という地名があったようなのですが、どのあたりでしょうか?ちなみに「まるごとやまがた」という小中学生向けの資料集を見たら、現在の五日町踏切の東側クランクあたりまで「五日町」となっていました。

1976熊ぱんち@神奈川:2022/06/07(火) 11:38:43
山形と文学
題名は大げさなんですが、うまいくくりができなかったもので。

まず思いつくのは(アニメだけど)「おもひでぽろぽろ」ですかね。「おくりびと」とか、「おしん」とか。歴史小説を除くと、「小説」とか「文学」って、意外とありそうでないものですね。私が気が付かないor知らないだけなんだろうか。

1977出稼ぎ中の山形県民:2022/06/07(火) 20:34:47
山形文学(東原)
いつも優しい笑顔で、俺を孫のように接してくれる、向かいの八百屋の老夫婦。
段ボールの切れ端に手書きの値札、80円。今日はこれを味噌汁にしよう。
見たことのない菜っ葉だ。勿論商品名など書いてない。聞いてみるか。
「これ何ていうの?」
「菜っ葉。」との答え。見りゃわかるわ!
俺がこの街を離れて間もなく、老夫婦は亡くなったらしい。
狭くて静かな地蔵町通りの鈴木八百屋は、今は「金曜日のパン屋さん」となっている。

https://img.shitaraba.net/migrate1/8407.fuku990/0002528.jpg

1978熊ぱんち@神奈川:2022/06/08(水) 13:52:09
鈴木八百屋さん
私も東原町在住でした(傘屋の隣)。
特に意識はしてなかったんですが、いただいた文章と写真で、確かにこの店の前を行ったり
来たりしていた記憶がよみがえりました。はす向かいが酒屋さん?

文学の力恐るべしです。多謝。

1979出稼ぎ中の山形県民:2022/06/08(水) 16:49:23
地蔵町
画像の鈴木八百屋は下り坂の突き当りで、八百屋の斜め向かいが大江酒店でした(添付画像)。建物は残っていますが、もう貸店舗募集となっています。
東原の傘屋さんと言えば、山大正門前を下る途中の左にある古内和傘店でしょうか?あの近くの下宿に友人も住んでいました。
下り坂の突き当りから地蔵町通りを北進すれば、醤油屋の庄司久仁蔵商店、佐藤花店、七日町第五郵便局(ここから左に曲がるとクランク2つを経て七日町通りへ)、庄司平吉商店(安土桃山時代創業で世界最古レベルの醤油屋らしいです)で小白川街道へ。地蔵町通りを南進すれば薬屋・自転車屋・やぶ家、このあたりまでは熊ぱんち@神奈川様の頃も変わっていないと思います。

https://img.shitaraba.net/migrate1/8407.fuku990/0002530M.jpg

1980作者:2022/06/08(水) 18:25:38
八百屋さん
尾崎床屋の向かいかな?

1981出稼ぎ中の山形県民:2022/06/10(金) 06:44:44
地蔵町
そうです。尾崎理容は健在ですね。
「やまがた街角」で「今は行政が道路を広げる方向だが、広がってしまうと向こう側が別世界のように感じる。昔は道路が狭くて、道路の両側で同じ町を形成していた。」というインタビュー記事が載っています。その点、専称寺あたり〜地蔵町〜小姓町と歩けば、狭さも心地よいし、30年40年前の建物も(全部ではありませんが)残っています。以前住んでいて、今は離れている私にとっては、寺町のオーラ・地蔵町のオーラ・小姓町のオーラと、歴史が育んだ独特の感じがあるのです。
三日町や八日町も古い建物が保存されているほうだと思っていたのですが、先日久しぶりに見たら更地やマンションがあちこちで見られるようになりました。

1982作者:2022/06/10(金) 22:14:01
通行と通過
車にとって通りやすい道は対向車や歩行者に気を遣わない道。
しかし、通行はすぐに通過に変わり、車は道の両脇と無関係になってゆく。
車が気を遣いながら通る道は、街と通行車、歩行者が一体化している。
例としては上山商店街をおすすめします。

http://tamagazou.machinami.net/kaminoyamaonsen.htm

1983あべ:2022/06/12(日) 23:19:17
昭和小僧
作者様
本日のYBCラジオで紹介されていましたね。
それよりも元木元気市場向かいの
タイヤ屋さん工場が撤去された事の方が驚きでしたが。。。
あの店の前だったか後ろかの左斜め細い道が
ガソリンスタンド構内に向かって伸びていますが、
昔の高湯街道(六椹八幡様起点)のなごりでしょうか?

1984あべ:2022/06/12(日) 23:35:02
五日町
出稼ぎ中の山形県民様
「吹張」って踏切近くの城跡の事じゃ無いかと思い
検索したらホームページに記載された方がいらっしゃいました。
https://www.yamagatakabuo.online/
ここの2017年5月1日の記事
「山形城三の丸の史跡と五日町の歴史」に
区画整理前の五日町と「吹張町(知らなかった)」の事もありました。
個人的には「みどり湯」の記事が良かった。。。

1985出稼ぎ中の山形県民:2022/06/13(月) 06:42:41
五日町
あべ様 ありがとうございました。三の丸の出っ張った所で吹張と言いますが、旧五日町との境目がどの辺りか探っておりました。?斯波氏がきれいな水の出る場所に築城した、?三津屋に昔の湧き水跡がある、?奥羽本線を通すのに「五日町」周辺の湧き水を埋めた、?細い道路沿いに街ができた、?線路の西側からクランクを経てガードをくぐり、その東側延長線上に細い路地がある、?みどり湯の辺りも「五日町」と呼ばれていた、これらのことから、「清水」なる地名はみどり湯の北側と推定します。
ご紹介いただいたサイトは、だいぶ史跡に関する記事が豊富ですね。

1986作者:2022/06/13(月) 06:45:23
私道
元気市場モーズ向かいの斜め道は私道だったのか、
40年ほど前に宅地に吸収されました。
ガソリンスタンドは油屋と言われ、以前はモーズのところも
油屋敷地でした。

1987あべ:2022/06/13(月) 22:58:46
私道
作者様
昔の空中写真で確認できる事を忘れていました。
https://user.numazu-ct.ac.jp/~tsato/webmap/
1975年と1963年の写真から
臥竜温泉南から現在のローソン東青田5丁目店に至る
川沿いの道のスタート地点ですね(既に埋立てられましたが)。
高湯街道旧道は元木の橋前後の僅かな部分だけの様ですね。

1988あべ:2022/06/14(火) 00:36:11
五日町
出稼ぎ中の山形県民様
「ベニちゃんのまるごとやまがた」一部ですが読みました。
「城下地図を読む」の明治時代の地図を見ると
内ケ崎医院(吹張口)から三津屋までが五日町ですが、
「市街地の発展と利用」の昭和38年の地図には
吹張町の東沿いに「五日町追散(おいちらし)」ともあります。
追散については下記HPが参考になりました。
https://folklore2017.com/kenmei/063.htm
S38年なら外堀は既に宅地等に利用されているでしょうから、
「五日町追散」は福満稲荷神社〜日枝神社の一帯
「五日町と吹張の間の清水」は
居酒屋おおたき裏手〜庄司蕎麦屋裏手〜踏切北ガード西口
の一帯じゃないでしょうか。

1989出稼ぎ中の山形県民:2022/06/14(火) 06:33:46
五日町
あべ様
詳しい情報ありがとうございました。
この吹張周辺は狭くて車も入れない場所があり、小姓町の路地裏のような雰囲気が醸し出されています。直進せずカーブしている道など、味があります。江戸時代も、明治大正も、昭和も、モザイク状にどうにか現存しているものについては、今後も消滅せずにいてほしいと思います。

1990出稼ぎ中の山形県民:2022/06/14(火) 06:50:38
画像の保存
Google mapの2008年画像がだいぶ消去されています。東日本大震災の前後で山形市の風景が結構変わっていると感じており(個人商店が閉店したり等)、貴重な資料だったのですが。

1991熊ぱんち@神奈川:2022/06/30(木) 16:18:02
Re:地蔵町
>出稼ぎ中の山形県民さん

>東原の傘屋さんと言えば、山大正門前を下る途中の左にある古内和傘店でしょうか?

そのとおりです。場所柄あのかいわいは下宿屋も多く、山高時代からの住人という方も珍しくなかったと思います。「ふすま会」も東原ですし。高瀬商店とかも、ずいぶんな歴史になっているのかなと。

そういえば、ガラにもなく高下駄をはいてこの界隈を歩いていたら、たぶん傘屋のおばさんに「下駄の音(からころいうやつ)がおかしいから、下駄の歯に気をつけな。」といわれましたが、それからほどなく、その下駄は壊れました。東原町とおばさん、恐るべし。

1992出稼ぎ中の山形県民:2022/06/30(木) 19:13:58
道路拡張
熊ぱんち@神奈川様
古内傘店の隣の下宿屋は私の友人もいたので入ったことがあります。
今日午後時間給がとれたので、山形まで戻って2時間だけドライブできました。
道路広げすぎですね。他県資本の店に地元の店が駆逐されると、どこの風景だかわからなくなります。
「細谷牛肉店はまだあるかな?」とか「長源寺通り・柳町通り・朝日銀座辺りは再開発されてないかな?」とかドキドキしながらの現地調査でした。

1993作者:2022/07/31(日) 07:22:09
あとわずか
市長さんが県外の方ということもあり、
古くからの風景に思い入れもなく、
街並みはどんどん変わっていきます。
懐かしい風景はあとわずかです。
故郷を離れ、近年帰ってない方はお急ぎください。

http://tamagazou.machinami.net/kaminoyamaonsen.htm

1994熊ぱんち@神奈川:2022/07/05(火) 11:08:57
原付のみ一通逆走可
>作者さん、出稼ぎ中の山形県民さん

確かに、道路拡幅で一見流れがよくなったようにも見えますが、広げた土地が安直に駐車場になっていたり(それもずらーっと)、街路の有効利用とは程遠くて、空虚な感じすら覚えてしまいます。確かに地蔵町とか花小路とかのインチメイトな感じ、どんどん失われているように思えます。

そういえば東原在住時は、大風輪店で買った中古の原付に乗っていましたが、「進入禁止」や「一方通行」の補助標識に「原付を除く」だったか「原付軽車両を除く」だったかがついていて、事実上山形市内のほとんどで、原付の一通逆走がOKでした。米沢ではほとんど見ませんでしたから、あれも山形名物だったのかも。

1995出稼ぎ中の山形県民:2022/07/06(水) 06:12:39
大風輪店付近
大風輪店は恐らく東日本大震災の後ぐらいに閉店し、2016年か2017年頃に更地になりました。向かい側(山大前通りの西側)には、私の時代には峰月堂・山銀の支店がありました(もと銭湯の場所)。山大前の通りから大風輪店を右折し、小白川街道を上っていくと、道路南側には焼鳥屋・床屋・八百屋がありました。焼鳥のいい匂いを強制的に嗅がせられながら、お金がないので我慢してヤマザワで何か買って料理する、というルーティンがありました。
逆に下っていけば、松福亭・竹田魚店・ドレスメーカー学院・アンデルセン・番紅花・米屋・龍馬・岸酒店・電気屋・サンドリヨンと並んでいました。布団屋を左折すれば地蔵町通りへ。
東原に住んでいれば、自転車1つで(または徒歩でも)暮らせた気がします。

1996作者:2022/07/14(木) 18:35:17
小白川
小白川ヤマザワもマンションになりましたね。
今の学生はコンビニさえあればいいのかな?

http://tamagazou.machinami.net/kaminoyamaonsen.htm

1997熊ぱんち@神奈川:2022/07/15(金) 13:49:39
レコード屋?
古本屋や銭湯は、「消えた山形」本編でも掲載がありますし、本屋だと蔵王書店とか八文字屋とかが話題に出てきますが、レコード屋(のちのCDショップ)についてはわたくし的には思い当たるところはありません。今だと「ミュージック昭和」かなあと思うのですが、昔からあこや町にあったとも思えません。

70年代とか80年代とか、山形の人はどこでレコードを買っていた、というか、音楽文化の発信点はどこだったんでしょうか。私はレコードプレーヤーがなかったので、どうしてもという場合は、七日町ジャスコのレコード売り場でカセットを買ってました。当時、「ミュージック昭和」は、存在すら知りませんでしたし。

ここでもしばしば話題に出ますが、もしかして「ジャズ喫茶」とか、「喫茶店」が、そういうのの一翼を担っていたんでしょうか。そういえば、NHK-FMの山形ローカルの番組でも、歌謡曲とジャズが多くて、洋盤はほとんどかからなかったかも。謎です。

1998熊ぱんち@神奈川:2022/07/15(金) 14:17:44
コンビニおそるべし
>作者さん

私の知る限りでは、酒屋さんの業態転換で「モンマート」が山形に来たのが1980年代半ば。その後、「セーブオン」がわらわらとでき始めたのが88年から90年ころじゃなかったかと。
いわゆる「三強」が跳梁跋扈し始めるのはそのあとかと思います。そういや「ローソン」の一部は、「セーブオン」からの転換だったような気がする。

それまでは当然、「ヤマザワ」「みつます」の2強だったわけで。あとは地元の酒屋さんとか八百屋さんとか。

そう考えると、山形におけるコンビニって、たかだか30年余りの歴史しかないのですね。それでこれだから、やはりまあ、コンビニ恐るべし。

1999出稼ぎ中の山形県民:2022/07/15(金) 19:43:32
テープやCDを売る店
熊ぱんち@神奈川様
私が平成元年〜4年にテープやCDを買えたと記憶しているのは、七日町の「富岡楽器店」(明治30年創業)、平清水の「創夢館」(1985年創業)、春日町の「八文字屋春日町店」、山大前の通りの「ジャンボシアター」(1989年創業)、十字屋前の地下道、そして山大学生会館の生協です。ダイエーにもあったかもしれません。

2000早起きらいす:2022/07/16(土) 05:42:55
昔、山形駅近くにあったホテル
山形駅周辺も再開発が進み、昔とは様変わりしているようですね。
そこで現地に詳しい皆様にお尋ねします。
今から約40年前(1980年代)に宿泊したホテルを特定したいのですが、
以下のやや曖昧な記憶を手がかりに該当しそうなホテルがあったら、
その名称と所在地などを教えてください。

・山形駅から徒歩圏内
・ビジネス又は観光客向けで比較的大規模
・低層階(1階か地下)にサウナ付き入浴施設(温泉?)
・名称又はキャッチフレーズに「ハワイ」があったような??

2001出稼ぎ中の山形県民:2022/07/16(土) 08:01:55
山形駅前のホテル
早起きらいす様
1980年代であれば山形駅東口限定として、「〇〇旅館」的な名前は除くと、
東に向かう駅前の通りの北側の場合:「ホテルむらさきわ」(香澄町1丁目3−15)、「ホテルリモージュ」(十日町1丁目1−35、駅から600m)、すずらん街に入ると「東急イン」(香澄町1丁目10−1、駅から300m)
駅前ロータリー正面:「ホテル山形」(幸町1−1)
通りの南側:「ホテルキャッスル」(十日町4丁目2−7、駅から700m)
南側の路地裏の場合、駅から200m以内:「サウナ蔵王」(幸町5−5、宿泊施設かどうか不明)、「ビジネスホテルヨシダ」(幸町3−10)、「ホテルマーブル」(香澄町3丁目1−28)
こんなところが候補に挙がると思います。

2002作者:2022/07/16(土) 08:40:05
レコード店
CDというよりレコードを買うには、
やはり富岡本格 あとは七日町十字屋のあとにできたエルタウン庄子電器7番街。ミュージック昭和には中古レコードもありましたね。

あとはテープ専門店でバイパスの鬼がらしの辺りにあったピットインなどですかね。

http://tamagazou.machinami.net/kaminoyamaonsen.htm

2003作者:2022/07/16(土) 08:41:24
本店
富岡本店でした。

http://tamagazou.machinami.net/kaminoyamaonsen.htm

2004黄昏の山形大好き:2022/07/16(土) 13:22:52
お久し振りです。
お久し振りです。割り込んですみません。
先月ニコニコ動画で1993年当時の民放3局(YBC・YTS・TUY)&クロスネット時代の地方CMがあったので、是非ご覧下さい。

https://www.nicovideo.jp/watch/sm9947246
https://www.nicovideo.jp/watch/sm10181856
https://www.nicovideo.jp/watch/sm40171405
https://www.nicovideo.jp/watch/sm40254645

※キッコーセンが無くなってしまいました…。

2005早起きらいす:2022/07/17(日) 05:35:24
山形駅前のホテル
出稼ぎ中の山形県民様
早速の情報提供ありがとうございます。
駅からあまり離れていなかった記憶があるので、立地から考えて
候補の中では香澄町の3軒か幸町の2軒(「サウナ蔵王」を除く)
の何れかだと思いますが、名称ではあまりピンときません。

単なるビジネスホテルというよりもシティホテルに近い感じで、
当時としては比較的高層(6〜8階建?)だったような気がします。
サウナ付き大浴場は宿泊しないと知る機会の少ない情報ですが、
もう少し絞り込めると助かります。
なお、駅西口には候補になりそうなホテルはなかったでしょうか。

2006出稼ぎ中の山形県民:2022/07/17(日) 15:27:13
駅前ホテル等
早起きらいす様
西口の双葉町に一時期住みましたが、ソーダ工場が1990年代中頃まであり、あとは民家・アパートぐらいでした。霞城公園の近くに飲み屋や商店はありましたが、住んでいる私も夜は帰りたくなくなるほど暗黒の世界で、当時の住宅地図でも宿泊施設は確認できず、ホテルでしかも高層となれば東口一択のような気がします。
ビジネスホテルヨシダは3階建てで消去、リモージュは他のテナントも入ったビルなので消去、キャッスルは超高層ですが浴場はなかったと思います。東急イン1階の「とん八」に通っていた際に、奥に椰子の木みたいな装飾があったような(ぼんやりした記憶です)。

作者様
そうそう、庄子電器もテープありましたね。私は286号警察署向かいの店で買いました。

2007たっきゃん:2022/07/17(日) 18:49:30
レコード店・喫茶店
 レコードは富岡本店か大学生協で買いました。もう50年ほど前ですが、LPが2000円、ドーナツ盤500円の頃です。放送禁止になった「金太の大冒険」や「悲惨な戦い(なぎらけんいち)」を買って笑い転げた記憶が・・

 洋盤は確かに喫茶店でよく聞きました。S49年ごろまで山大の南端にあった小さな店では、いつも陽水か小椋桂のアルバムがかかっていましたが、リクエストしたら洋盤もかけてくれました。王城ではS&Gとビートルズがよくかかり、初めて入った時もS&Gの「アメリカ」が迎えてくれました。

 ジュークボックスも健在だった時代です。私は七日町のショットバーで「やさしく歌って」や「青い影」を聞いて感動しました。アーケード街ではカーペンターズやオリビア・ニュートン・ジョンがよく流れており、歩きながら口ずさんだのを思い出します。




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