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ダグラス・ハーディングの実験スレ
108
:
幸せな名無しさん
:2025/07/27(日) 21:54:26 ID:dQ41Uc020
願望。
それは、すべてが既に在るこの私の世界の中に、「まだここにはない」と、「ない」を創り出すことです。
「ない」を創るとは、奇妙なようでいて、とても日常的な営みかと思います。「叶っていない今」を物語の起点として、「叶えるための物語」を生み出そうとする瞬間。
その起動が、願望の発生だと感じます。
私たちは、すでにすべてが在るこの現実という夢の中で、努力や工夫、怒りや悲しみの矢を、放ち続けています。
意識したことも、無意識の抵抗さえも、百発百中でこの世界に現れます。
この世界は、私の「思い」を漏れなく反映する、完璧な夢です。
達人中の達人、詭弁さんが語った「百発百中」。
私は、それこそが「百発百中で漏れなく反映される」という仕組みそのものだと理解しています。
夢の中では、例外なく「思ったことが現れる」。
ポジティブでも、ネガティブでも、曖昧な思考でさえ、「即」、映し出される。
だから、詭弁さんの「微塵もズレなくメソッドを貫けば必ず叶う」という言葉も、それを信じた世界における、百発百中の当然の結果です。
放った矢は、必ず返ってきます。
空に放った矢が、自分の胸に正確に戻ってくるように。
けれどある時、私は「外側」ではなく、それを見ている者のほうに目を向けました。
願っている私、努力している私。
それを見ている「何か」。
しかしそこには、誰もいませんでした。
ハーディングが「頭のない場所」と呼んだ、「見る者なしに見る」という静けさ。
そこには、願望を持つ「私」さえも見当たらなかった。
ただ、見るだけがあり、世界がそのまま「わたし」だったのです。
この世界は、私が、
見ようとせずとも見えている。
聞こうとせずとも聞こえている。
匂おうとせずとも匂っている。
やろうとせずとも、
既に五感も思考も、すでに起きている。
つまり、本当は、最初から「無我」だった。
それなのに、私たちは記憶の連続性を掴んでしまい、「自分が見ている」「自分が考えている」と誤解している。
この誤認こそが、「願望を叶えたい」という構えや努力を生み出している。
でも本当は、最初から「誰か」などいなかった。
世界がそのまま私であり、私がそのまま世界であり、
すべては、無我の中で抵抗なく展開していたのです。
もし、願望を掴むことすらしなければどうなるでしょうか。
誰が願ったのかさえ消えて、ただ、起こることが起きているだけになります。
それが、詭弁さんが語った「百発百中」の先にある、「百発成功」の世界です。
狙って当てるのではなく、すでに当たっていたと知る。
成功や失敗という評価すら、そこでは溶け落ちていきます。
その場所に立ったとき、「叶った」「叶わなかった」という物語の重力から、ふっと自由になります。
百発百中は、悪いことではありません。
それは、思考が反映される夢の法則です。
そこに「意図」という自由は生まれますが、その「意図」さえも、「頭のない場所」というすべてが生まれる透明な意識から湧いた、ただの泡にすぎないのかもしれません。
狙う者がいない。
願った者がすでに夢だった。
そのとき、「すべて起こったことが百発成功だった」と、ふと知るのです。
それは理屈ではありません。
「ああ、もうすべて済んでいたんだな」という、深い静けさの感触。
だから私は、完璧であることを証明しません。
ただ、完璧であると「見る」だけです。
それは、ハーディングの実験で見えた空っぽの中心と同じです。
何もないけれど、すべてがここにあったという直観。
評価の前に、結果の前に、今この瞬間をあるがまま肯定する。すると、その肯定は、次の瞬間も自然に肯定しはじめます。
それは、どこにも抵抗のない、すべてを肯定する「完璧認定」と同じ。
理由もなく、「そうだった」と知るだけの、ひとつの在り方です。
夢の中で迷っても、恐れても、願っても、
すべては百発成功の中で、静かに展開されています。
そう思えるとき、願うことさえも、
祝福された出来事として、やさしく見つめることができるのかもしれません。
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