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wildスレ

297幸せな名無しさん:2016/06/12(日) 15:23:52 ID:KxOCkqM20
はじめまして。
質問をさせて頂いてよろしいでしょうか。
潜在意識について勉強し始めて長くはないのですが、
昨夜、ノートに自分の人生の出来事を書き出してみて
ああ、全部本当の自分の仕業なんだ、この私は本当の自分をみつけるかくれんぼをしていて、見つけるためのヒントにかこまれて生きてきたなと納得しました。
そこで「本当のわたしみつけた」と書いた紙を手に握って眠ったのです。
夢の中で私は誰にだかわからないけれど自分存在の根本に近いレベルの何かを否定され、酷く傷つき恐怖を感じていました。
この夢と恐怖の意味が知りたいのです。
正直、本当の私が「やっとみつけてくれた」と喜んで幸せな夢を見せてくれると思っていたので戸惑っています。
否定は「んなの本当の自分じゃねーよ」なのでしょうか。それとも分離の物語であるエゴが否定されて傷ついたり恐怖を感じているのでしょうか。
よろしくお願いいたします。

298wild:2016/06/12(日) 23:49:51 ID:3mJXPcsY0
>>294
現象さん。

> 楽器の練習などで、その時に完璧に出来るよう練習を頑張るよりも、2・3日間隔を空けて練習する方が、身体に動作が浸透してマスターしやすかったりしますが

ああ、わかりますよ!
私も昔はヘタクソながらギターやってました。
弾けないフレーズを一生懸命練習してしばらく置くと、いきなり弾けたりしますよね!

> 嫁さんの気に入らない点がいくつかあるんですがwww、これもまた自分の意識内、自分が創ってる、と実感すると、なんだか許せるような気がしてきましたww

wwww
でもそうなんですよ。
まあいっかと許せてしまいますよねw
相手の嫌なところの原因は相手にあるのではなく、自分の内面で作ってたのか…ほぅー。
みたいなw
不満や嫌悪は相手から生まれるのではなく、自分の観念、レッテルから生まれますもんね。

> ある俳優の無表情な顔を写したクロースアップを、様々なショット(スープ皿が載ったテーブル、死体、裸の女性など)とつなぎ合わせると、その顔のクロースアップが、隣接するショットに応じて、様々に異なる意味を帯びる。

これはけっこう鋭いこと書いてありますね!
「なる」を実践されてる方はピコン!とくるのではないでしょうか。
記憶を引きずるから一瞬一瞬の現実が繋がってると思い込むんですよね。

シーンは独立していて関係がない。
これはけっこう深いものがありまして、過去があったと主張しているのは思考だけです。
思考が過去の出来事を主張しているだけであって、本当にその出来事はあったのか?
つい今さっき思った思考でさえ、思考でしか思い出すことができません。

①「腹へった」と思考する。
② ①の思考を思い出す思考が湧く。

①②の思考は繋がりがあるように思えますが、②の思考に①が存在したという証拠はどこにもなく、①は本当に起きたことなのか?

つまり常にポコンポコンと新しいシーンが生まれては消えているのに、記憶という思考によって繋がりがあると思い込んでいるのではと考えます。

これを突き詰めると、現実を認識した途端に記憶になるわけですから、今の超最前線には本当にこの現実起きているのか?
実は何も起きていないのではないのか?
という途方もない気持ちになります。
私も完全な「まったき今」と言われる強烈な今というのがまだいまいちドカン!ときてないので予想なのですが、真昼さんが辿りついたのはこの「まったき今」と呼ばれる創造の最前線なのかなと。
私もまったき君になりたいw

299wild:2016/06/13(月) 01:07:00 ID:LQ.aqcis0
>>295
295さん初めまして(^^)

> これは世界の全てを自分の好きなように創造可能ということだとwildさんは思いますか?

好きなように創造は既にしています!
が、エゴの私の好きなようにではなく、意識としての私ですね。
意識の私は常に創造しまくっていまして、その創造物の中にエゴがあります。

ですからエゴが「󾀕󾀕したい!」と思ったことも意識の私が創ったことであり、次に願望実現に向けてあれこれ動きだすのも、うまくいかず悩むのも意識が作り出しました。
エゴの私だけでなく周りの現実と思われるものも創っているのです。

もしエゴに創造の責任が移ってしまうと大変なことになってしまいます。
まず肉体を創造し続けて、その肉体が動ける地面を創造し続けて…。
ちょっとでも油断すると肉体が真っ暗な闇に落ちちゃったりw
なんて自己観察さんだっけかな?が話してましたねw

私はWild(神でも源泉でもOK)を信じて下さいとお話してますが、上記の通り、Wild=私です。

Wildを信じる=自分を信じる

ということになります。
自分を信じている人は実力、運とも恵まれてますよね。
個人としての私に自信がない、エゴこそ私である!と思う人は、Wildを信じてみてはいかがでしょう?
もしかしたらどんどん望む現実を切り開く行動、世界が湧いてくるかもしれません(^^)

300wild:2016/06/13(月) 01:29:45 ID:LQ.aqcis0
>>297
はじめまして(^^)

う󾬇ん…どうなんでしょう。
私は夢のことはあまり詳しくないのでうまいこと言えないな…(^^;

しかし夢見の状態もある意味現実であり、分離の世界ですね。
起きている時でも「んなの本当の自分じゃねーよ」って思考は言ってきたりしますし、傷ついたりします。

297さんは本当の自分に気づかれたようですが、いつもの習慣で夢の中でも思考が否定的なことを主張しているだけだと思います。

私も夢の中では思考まみれになって全然思考に気づけてないですからねw
夢に夢中になってしまっただけだと思うので、あまりお気になされない方が良いかと思います (^^)

301297:2016/06/13(月) 01:55:17 ID:paunEi6s0
>>300
ご回答有り難うございます。
夢をみたことによる不安と恐怖はまだ去りませんが、なんとか気にしないようにします。
私は数年前から、私の人生をコントロールしている何者かの存在に気が付き、それを探してきました。
潜在意識を勉強して、本当の自分以外にないじゃないかと考えるようになりました。
ただ、今のところこの私と本当の私がまだ分離した状態でしか認識できません。
丸投げとか意図とか自動操縦の段階に行くためのアドバイスお願い出来ますでしょうか。

302真昼:2016/06/13(月) 11:51:28 ID:TcDs6NIw0
>>284
現象さん、お忙しい中レスありがとうございます。
僕の雑記をアカデミックに考察して頂けて嬉しいです。
書き込みしてよかったです。現象さんの説明で理解が深まりました。

>例えば、雲みたいなもの、でしょうか。
そうです!僕のイメージでは波、滝、風のようなものです。
波や滝をコップですくったら、それはもう波でも滝でもなく「ただの水」です。
風を袋に入れたら「ただの空気」です。捉えたらそれは消えてしまいます。
認識したら終ってる、全ては消え続けている、というのはそういうイメージです。
この例で言うところのコップや袋にあたるのが、自我・記憶だと思うんです。
「私たちは自分の知っていることしか認識できない。しかし、認識したものは既にそれそのものではない。つまり自分の記憶を認識しているのであり、記憶の中に生きている」
なので、そのものを見ようとするのではなく、そのものになる。
そこの抜けたコップで滝の中に飛び込んで行く。水が通過しているだけのものになる。

それが純粋な体験者と書いた状態です。
感覚的で伝わりにくいかもしれません。すいません。
現象学、僕も勉強してみうかなと思い始めていますw

303真昼:2016/06/13(月) 12:31:19 ID:TcDs6NIw0
>>299
>私はWild(神でも源泉でもOK)を信じて下さいとお話してますが、上記の通り、Wild=私です。

この話と同じ主旨のことを書き込もうと思ってたら、書いてありました。
まさに「既にある」ですねw
自分(自我)に自信を持とうと思うと、その根拠が必要なんですよね。
根拠のない自信を持て、ということをよく目にしますが、ずっとその意味がわからなかったんです。単に独善的なだけではないのか?という風に。

ハーディング実験をやっていて分かったことが、自我に自信を持つのではなく、目の前に見えているものを信じるということなんですね。内側ではなく、外側を信じることが「根拠のない自信」というものなんですね。内側などないのですから。

wildさん開発のRYMを時々試していますが、面白いですね!
ラジオから流れている歌を聞いてると思ったら、いつの間にか思考に興味が移り、興味のあるトピックがラジオから流れるとそっちに移り、また思考に移ります。
音と思考の間を行ったり来たり。

そこで僕も自分用のメソッドを開発しようと思いまして、やってみると案外しっくりきたので書いてみます。(wildさんのスレなのに調子に乗ってすいませんm(_ _)m)
それは、カメラを目の位置に固定して自分の目線から動画を撮影する、というもの。
後でその動画を見返すと、観察者視点というものが少し垣間見えて、頭がない状態をインスタントに感じることができました。
スマホを頭にバンドで固定して家の中をうろついてたので、家族には心配されましたが…
動画には「バカじゃないの?」という家族の顔が映っていますw

wildさんに色々気付きを促して頂いて感謝しています。
スレ汚し失礼しました。

304幸せな名無しさん:2016/06/13(月) 12:45:30 ID:CJAUwbWU0
wildさんこんにちは

私がじれったく思うのは
他人を救いたいという内容の願望について話している人になかなか出会えないことです

今、私は
親の健康診断でイイ結果を出させてやりたい
ある芸能人に仕事でいい成績を出させてやりたい
ということで他人を救いたいと思ってるのですが、
こんな願望はどうしたら叶うと思いますかね?

305幸せな名無しさん:2016/06/13(月) 13:07:40 ID:Dx3c2Mlo0
>>304
横だけどね、救いたいって思わないことだよ
救いたい願望を手放すことだよ
あなたが救いたいと思うから困った人があなたの眼の前に出てくるんだよ
なぜならあなたが救うためには、困った人が必要になるよね
その観念が現象化してるんだ
という私もまたあなたと同じように誰かを救いたい願望がある
偶然あなたのレスを目にしたのも私の救いたい願望が現象化しただけなんだよ

306wild:2016/06/13(月) 15:45:41 ID:LQ.aqcis0
>>301
そんな時こそハーディングの実験です。
私がここで概念交えてあれこれと説明するより、実際に体験してみるのが重要かと思います。
ttp://www.headless.org/japanese/experiments_japanese%E5%AE%9F%E9%A8%93.htm

これに加えてブログ、「願望実現の本質Game of life」さんや「知らんもんは知らん」さんなどを読まれれば、ババババッ!っと体験と理解が繋がるかもしれません。

ぜひご自分で体感してみてください!(^^)

307wild:2016/06/13(月) 16:48:59 ID:LQ.aqcis0
>>303
真昼さん。
いえいえ、私は好きなことを書いてるだけですw
これもWildの仕組んだことなのでしょうw

> ハーディング実験をやっていて分かったことが、自我に自信を持つのではなく、目の前に見えているものを信じるということなんですね。内側ではなく、外側を信じることが「根拠のない自信」というものなんですね。内側などないのですから。

そうですね!
世界とは外側でもあり内側でもあった。
つまり一つ。
本当は一つなんですから、外側と思っていることを信じれば、必然的に内側と思っていることを信じることになりますね(^^)

RYMやられてるんですね?
嬉しいなあ󾬇!
あれ?RYM!?
「Radio earphone method」なのですから、REMですよね(^^;
わたくし、またまたアホな略をしてしまいました…orz
誰も突っ込まないところが皆さんの優しさを感じますw

> ラジオから流れている歌を聞いてると思ったら、いつの間にか思考に興味が移り、興味のあるトピックがラジオから流れるとそっちに移り、また思考に移ります。音と思考の間を行ったり来たり。

これが自我の働きですよね。
意識を向けた方向に現象が起きる。
そしてレッテルを貼る。

一瞬なので現象の後に意識が向くと感じますけど、
厳密には意識の向きと現象を同時に創っているのかと。
これがWildの創造の瞬間なのかな?
この辺りまだ推測なので実感が足りませんけどね(^^;

> 後でその動画を見返すと、観察者視点というものが少し垣間見えて、頭がない状態をインスタントに感じることができました。

これは活気的ですね!!
早速私もやってみましたw
なるほど…「私はスクリーンである」がわかりますね。
ついでにスクリーンと現象が一体であることもうまいことわかります。
これはすごい!シェアありがとうございます!!

全然関係ないんですけど、頭にカメラ巻いてやってる最中、なんとなく「八つ墓村」の田治見要蔵的な気分になったのは私だけでしょうか?www

で、この田治見要蔵は懐中電灯を頭に巻いて人を××しまくるのですが、暗闇の中で要蔵が向いた方に被害者が照らされる。そして××す。
Wild視点だとやはり、要蔵=被害者となるとw

ワケわからない気づきですみません…。
wildスレは掲示板なのでお好きなようにお書き下さい!
私にとっても新たな気づきに繋がりますので(^^)

308wild:2016/06/13(月) 19:08:48 ID:LQ.aqcis0
>>304
こんにちは(^^)

そうですね、
願望実現のカギは信じることにあるのかもしれません。
それはWildか私自信か、それかどちらも信じるか。

Wildを信じるなら、
湧いてくる自身の行動や現実への信頼(完璧!)

自分自身を信じるなら、
私個人の行動への信頼。

視点が違うだけでどちらも同じですw

信頼しきっていれば安心があります。
これは逆もしかりで安心すれば信頼が生まれる。

安心してしまえば願望のことなど忘れてしまいます。
願望=不足ですからね。
それが>>305さんの手放しに繋がるかなと。

もし不安が覗いても信頼があるわけですから「これでよし!」で安心にしてしまう。

でも不安な自分にのまれっぱなしにならず、それに気付かなければいけませんね。

ここで昔の日記を一句w

「無い」が無いと、
「有る」となる。

「分離」が分離すると、
「統合」となる。

不安、恐怖、焦り、無気力…は分離。
世界から切り離されたと錯覚するから分離が生まれる。

分離から分離するのが
エゴに気づくこと。
分離であるエゴがから分離する。
つまりそれは統合となる。

309幸せな名無しさん:2016/06/13(月) 20:44:43 ID:gyvThtBk0
wildさん

一点だけ質問したいです
行動もコントロール外なんでしょうか?
思考、感情が勝手に沸いてくるのは分かるんですが
行動も勝手に湧いてきてコントロール不可なんでしょうか?
とういう事はどんな行動をしようが自分に責任なしということでしょうか?

310wild:2016/06/13(月) 22:57:19 ID:LQ.aqcis0
>>309
はい。

例えば何か行動をしてみて下さい。

「なぜその行動が起きたのか?」
これをどこまでも追求してみてください。

そもそもを追求すると、「私個人が自発的に思ったから起こった」というのがないはずです。
私のすることなすことすべて、世界からの刺激により起こるものではないでしょうか。

その前に、人間という枠組みで産まれたのは私個人の意思なのか?
そこまで考えてみると何か気づくかもしれません(^^)

※注意書※
だからと言って犯罪を肯定してはいけません。
「だって責任はないんだぜ!」とは言っても、その主張が通る世界ではありませんので。

311幸せな名無しさん:2016/06/13(月) 23:50:11 ID:LTXH5jDI0
wildさんも今今メソッドやってるんですかね?

その過程でいろいろいいことが起こってるんですよね?
そしてその中には他の人を何かから救った現象もないでしょうか?

312wild:2016/06/14(火) 02:30:02 ID:Zho/uszA0
>>311
純粋な今今メソッドは今はやってないですね。

今は自己観察をやってます。
と言うか自然と自己観察が身についてしまい、仕事中以外はほぼ自己観察状態かもしれません。
自己観察も今今メソッドと大体同じですね。
無思考の空間に思考が現れたら気づくだけです。

人を助けるで思い出しましたけど、自己観察をメソッドとしてやっていた時は、QE(クォンタム・エントレイメント)をかじってた時がありました。
自己観察的要素が多いもんで。

これはこの板的に言うと、
今今+自己観察で別の領域に入り、願望実現させるという触れ込みのものです。

別の領域から生まれる安心に浸り、そこで意図を入れれば叶うといった感じです。
QEをする=すでに意図してる
という考えなので、ただ安心に浸れば叶うという夢みたいな内容ですw

これは家族が体調が悪い時にやってみたら治ったことが何度かあります。
治らない時もありましたけどw
治らないけど緩和することはよくありました。

それくらいですかねー。
QEスレがありましたので覗いてみてはいかがでしょう?

313真昼:2016/06/14(火) 12:45:37 ID:mKOVlYRg0
>>307
レスありがとうございます。REMには全然気がつかなかったですw

>一瞬なので現象の後に意識が向くと感じますけど、
厳密には意識の向きと現象を同時に創っているのかと。

なるほど。仏教には「刹那」という時間の単位があります。1秒=75刹那だそうです(諸説あり)。意識が刹那単位で動いているとすれば厳密にその後に動きを把握するのは至難の業でしょうね。でも、その意識の流れに寄り添って行けば、創造の先端が垣間見えるのかもしれませんね。

>早速私もやってみましたw
なるほど…「私はスクリーンである」がわかりますね。
ついでにスクリーンと現象が一体であることもうまいことわかります。

お試し頂いてありがとうございます。僕の伝えたかったことが伝わったみたいで感激です。
このメソッドのコツは、自分が普段している行動をしてみること、手や足など身体をカメラに映すことですね。

そして僕の目下のテーマは「リアリティーとは何か?どこから来るのか?」ということ。
動画に映っている映像と、今自分の目で見ている映像は何が違うのかを理解したかったんです。

それはそうと、田治見要蔵ってw
懐かしいにも程がありますね。確かに少し狂気じみた感じがしますからねw
僕は要蔵ではなく、お札貼られたキョンシーになった気分でしたよ。何の話?w


昨日話してらした「まったき今」についてはまた次回。

314幸せな名無しさん:2016/06/14(火) 20:03:50 ID:ME25xu760
>>310
ということは、出来ることは思考、感情、行動を観察するだけということでしょうか?
行動まで自由意思が無いとなると、もうすべてを手放して好きなことをやって、
すべてを生み出す源を信頼することが良いということですかね?
自由意思が無いと分かって、もうコントロールする必要はないと、
半ばギブアップして少しホッとしてる自分もいるんですが

315wild:2016/06/15(水) 14:10:06 ID:zrdyOL3Q0
>>313
真昼さん。

仏教には「刹那」という時間の単位があります。1秒=75刹那だそうです(諸説あり)。意識が刹那単位で動いているとすれば厳密にその後に動きを把握するのは至難の業でしょうね。でも、その意識の流れに寄り添って行けば、創造の先端が垣間見えるのかもしれませんね。

仏教についてお詳しいんですね!
そうなんです。
ここが最近もっぱら気になるところ!w
しかし最近、私というエゴが消えて世界だけが在る状態と、この最先端に立つことは違うものなのでは?と思うようになってきました。
それとも角度の違いか…?
はたまた隠れたエゴがあるのか…。
至難の業とおっしゃる通りで、エゴでは認識できなさそうな事よねw
この辺り、再度ただ見るのみに成りきって検証してみようと思います。

> そして僕の目下のテーマは「リアリティーとは何か?どこから来るのか?」ということ。動画に映っている映像と、今自分の目で見ている映像は何が違うのかを理解したかったんです。

なるほど。
私はリアリティーの大元は五感と思考の連携だろうなと思ってます。
仏教だと六根と言われてますね。
本当は六根それぞれが独立しているのに、なぜかまとめあげて一人の個人を作り上げている。

もし視覚しかない世界、または聴覚しかない世界になったら、リアリティーは感じられないのかなと。
実際に六根のどれかひとつに成りきってみるとそのことが体感されることがあります。

> 僕は要蔵ではなく、お札貼られたキョンシーになった気分でしたよ。

www
どちらかと言うとキョンシーですね!
テンテンとスイカ頭は元気かなーw
もうオッサンオバサンなんだろうなw

「まったき今」について楽しみにしてます!(^-^)/

316wild:2016/06/15(水) 14:23:01 ID:zrdyOL3Q0
>>314 > 半ばギブアップして少しホッとしてる自分もいるんですが

そうですね。
私はそのように生きてますw
ただ観ているだけで良いのです。
諦めたところに安心が生まれたようですが、そこが別の領域です(^^)

しばらくするとまたコントロールしようとしてしまうかと思います。
しかしこのコントロールしようという思考も結局は湧いてきたものなので「そのままでいい」と言われているのです。

何かやってもいいし、しなくてもよい。
なのです。

317幸せな名無しさん:2016/06/15(水) 18:49:14 ID:srRkUi6c0
>>316
ありがとうございます
すべてコントロールできないと分かって
今まで読んできた達人が言ってることも
色々繋がってきました

またよろしくお願いします

318現象:2016/06/18(土) 06:47:15 ID:s.z5sUfE0
>>298
wildさん

>現実を認識した途端に記憶になるわけですから、
>今の超最前線には本当にこの現実起きているのか?
>実は何も起きていないのではないのか?
この事情が先日、真昼さんへのレスで書き込んだ「痕跡=記号」のことだと思います。

現実を認識した!と思った瞬間には、今は「たった今」という過去に成っていて、
その源泉としての今の内実を探してもどこにも無く、
たった今という「記憶=痕跡=記号」だけが手元に残っている。

実は何も起きていないのではないか?という疑問は、言い換えると、
現実だと思っているものは幻ではないか?という疑問と同じで、
幻だから、実体はどこにも無い。無の空間に浮かんだ映像のごときもの、ということでしょうか。

以前wildさんが書かれていたダイレクトパスの本、
「気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?」を今日、読み返していたんですが、
前回読んだ時はいまひとつピンとこなかったのに、今回はいろいろハッとしました。

「気づきの中の現れである身体が、気づきを囲い込むことはできない」
「個人が経験しているのではなく、個人は経験されている」(これ、特にハッとしました)
「それは空間であって、あなたはその空間の中に現れている」
「個人というのは、あたかもとても近くから観察しているように感じられる何か」

この本の実践編?「ダイレクトパス ユーザーガイド」の翻訳が、
6月21日に出るようですので買ってみようと思います。

319現象:2016/06/18(土) 06:47:59 ID:s.z5sUfE0
>>302
真昼さん
(このお名前、ニーチェの言う、一切の真実が示される真昼、あらゆる価値の転換の時である大いなる正午、みたいでカッコいいな、と改めて思いましたw)

私が哲学風に書いていることは、
単に哲学書からの受け売りですので、軽く読み飛ばしてくださいね。

>僕のイメージでは波、滝、風のようなものです。
随分と動的なイメージなんですね。なぜだか、ちょっと意外でした。

>波や滝をコップですくったら、それはもう波でも滝でもなく「ただの水」です。
この例え、新鮮でした。
今ここで経験している現実・体験は、「1枚の絵」という全体的なものなのですね?
この1枚の絵の部分に焦点を当てるのではなく、この全体が私、ということでしょうか?

>そこの抜けたコップで滝の中に飛び込んで行く。水が通過しているだけのものになる。
「底の抜けたコップ」、いいですねぇ。感覚的に伝わってきます。
変化・生成する世界に、常に晒されている。世界とは流動そのもの、ということですね。

>現象学、僕も勉強してみうかなと思い始めていますw
是非ぜひ。真昼さんがおっしゃていることは、現象学が言っていることと重なると思いますので、
真昼さんが感じられていることをスッキリと整理できるかもしれません。

おせっかいかもしれませんが、簡単に読書案内などを。。
以前、wildさん宛のレスで書いたことですが、
斎藤慶典という哲学者の本が、現象学の入門に適切かと思います。

「デカルト われ思うのは誰か」(斎藤慶典)は、哲学的知識がなくても読みやすい本ですが、
現象学的な思考を徹底して、思考自体が空転する地点(思考の臨界)まで連れて行ってくれる本です。

「思考する者と、思考された物、この両者を含んだひとつの統一的な事態としての、思考することこそが、私だったのである」
「私とは、行為遂行者ではなく、それを通して、そこにおいて、現象が現れる媒体である」
などなどが書かれています。最終的には、神に触れる、祈り、愛、などに話が及びます。

この次に現象学の入門書として書かれた「フッサール 起源への哲学」(斎藤慶典)をお読みになると、スラスラ入ってくるかもしれません。
そして、現象学の創始者・フッサールの原書(例えば「イデーン」など)にチャレンジされるといいのでは、と思います。

横ですが、
>「まったき今」
非常に興味があります。おヒマな時に、ぜひ真昼さんの実感をお聞かせください。

320wild:2016/06/18(土) 23:40:55 ID:htbzt47g0
>>318
現象さん。

> 幻だから、実体はどこにも無い。無の空間に浮かんだ映像のごときもの、ということでしょうか。

これについてしばらく考えてたんですけれども…これって熟睡中がそうなのかなとw
熟睡中は時間もないですしね。

前に一瞬だけ睡眠から覚醒に移る瞬間を感じたことがあります。
真っ暗な中に閃きのようなものがある状態で、それを目覚まし時計の音と認識した瞬間、私と音という完全な分離が起こりました。
深い瞑想ができれば何度もその状態に入れそうなんですけども…私は瞑想ができないのですw

ところでハイデガーの「現存在」とはまさしくWildのことですね!?
ハイデガー、名前がかっこいいので調べてみましたw
「存在(エゴ)」は「現存在」の残した痕跡であり、決して存在が前に立つことはできない。

起きている最中に現存在そのものになるのは無理なんでしょうかねー。
どんなに世界と一体感を持っても、やはり多少の分離があるのでは?と思いはじめました。
思考を介す前、目に色が飛び込んできた時にはすでに痕跡なのか?
完全に統一すると上下左右もない無になりますもんね。
この辺りがまだ整理できてなく、またまったき今との関連性が知りたいところです。

> 「個人が経験しているのではなく、個人は経験されている」(これ、特にハッとしました)

ダイレクトパス、買われたんですね!
私も初めは意味不明な内容で読むのも辛かったんですけど、そのようにハッとすることが少しずつあり、ある日急にスラスラ読めるようになったんですよね。

私の場合は「見るとは色である」が衝撃でした。
風景をみると、確かにそうなんです。
「色を見ている」ではなく、
見る=色
になってるんです。
またハーディング実験の理解を深める教材にもなりましたね。

ユーザーガイドは私も買います!楽しみです(^^)

321幸せな名無しさん:2016/06/19(日) 18:31:09 ID:fkSkx5fM0
以前、

認識の変更したぜぇ
エゴエゴに戻ってやったぜぇ
wildだろぉ

と言った者です
実はドカン!は経験済みなのです 笑
エゴに戻るのはあえて戻ると言うか、エゴを楽しみたいと思ったからです
エゴを経験しながらそれを別の存在という自分が見ている感じで、エゴも杓子も全部一体感がある感覚なんですよ
エゴって分離って言われていますけど、統合された形でこの世界を見ているというか経験しているというか
現実にハマりそうなエゴを見てやると、その見ている世界が一瞬グラっとして別の世界にシフトしたような感覚もあります
質が違うというのでしょうか
色々な体感ってあると思いますが、とりあえず私のことで言うとこんな感じです

322wild:2016/06/20(月) 01:08:26 ID:3NtIA8vc0
>>321
こんばんわ!
おお!いつぞやの!w

ドカン!されてたんですね〜!
今はエゴ視点とWild視点の真ん中、中道っと言った感じでしょうか?
なんか気づきか深まるとそうなるみたいですねー。
ドカン!と来たばかりの後はしばらくフワフワ感に酔いしれて、その後しばらくすると一気にエゴに呑まれて、
またしばらくすると統合するという方が多いみたいですね!
私もしばらくWild視点に振りすぎてたんですけど、みなさんとやりとりしているうちになんだか統合されたのかなコレ?
Wildとエゴ、合わせて私であるということがしっくり来はじめましたね。
> エゴに戻るのはあえて戻ると言うか、エゴを楽しみたいと思ったからですエゴを経験しながらそれを別の存在という自分が見ている感じで、エゴも杓子も全部一体感がある感覚なんですよ

エゴを楽しみたい。
スイッチ切り替えですね?
なるほどー、言わんとしてることはわかります。
私もですね、例えば女子を口説く時なんか「Wildが󾬇」とか考えてないですね。
完全なるエゴであれこれ考え、どうしたら落とせるかの攻防をですね、楽しみますw
んで玉砕するという…。
つい昨日の話ですwww

ここのスレは認識変更後の方も多く見られてるようですので、どしどし投稿して下さいね!
書き込みありがとうございます(^^)

323wild:2016/06/20(月) 17:16:45 ID:yIHJFHKU0
知らんさんが珍しく気づきという表現されてますね。
私も触発されて最近の気づきを投下してみました。
先人の方々、気づきに興味ある方、みなさんの気づきを聞いてみたいです。

sageってこういう仕組みだったんですねw
いやはや勉強になりました。

324現象:2016/06/20(月) 18:48:00 ID:O0E0Wh620
>>320
wildさん

哲学者のつくった造語は、哲学史的な背景や目論見などがいろいろ絡んで分かりにくいものです。
「現存在」は、簡単に言えば人間のことで、Wildに相当するのが「存在」です。
なんでいちいちややこしくするんだよと思いますがw、
いろんな概念がこびりついた言葉を使うと思想の核心からズレちゃったりするんですね。

ハイデガーは存在論(存在とは何か)の哲学者で、
さて、どこから存在の謎に切り込めばいいかと考えた時、
人間って自分の存在を「了解」している存在者だ、なんらかのかたちで「存在」を知っている、
じゃあ人間の在り方を分析していけば、存在の謎が解けるかも、と考えたんです。

で、人間を「現存在(ダーザイン)=いま・ここに存在する者」として、
「存在了解している存在者」として新たに定義づけて「存在と時間」を書きました。
でも、この角度からは存在の謎を解くのはムリだ、と途中で気づいて執筆をやめてしまいます。
20世紀を代表する哲学書とか言われますが、実は序論だけなんです。
でも非常に面白いですし、出版された当時は哲学界に稲妻のような衝撃が走ったらしいですw

ハイデガーが何に気づいたかと言いますと、
人間側から存在を問うというのは、問いの方向が逆ではないか、ということです。
私たちはまず「存在してしまっている」。その上で、存在とは何か、という問い・思考が生まれる。
あるいは、「世界の開け」というこの「場」が私たちに「到来した後」に問いも思考もある。

要するに「存在」「我々が存在するという事態」とは、それを「受け入れる」ことではじめて
問いや思考を可能にする前提としての「何ものか」である、とかなんとか。
このへんは話が長くなるので(もう既に十分長いですがw)やめておきますw

(つづくw)

325現象:2016/06/20(月) 18:49:03 ID:O0E0Wh620
(つづき)

>思考を介す前、目に色が飛び込んできた時にはすでに痕跡なのか?
>完全に統一すると上下左右もない無になりますもんね。
思考を介す前には色は存在しないのでは。それはすでに痕跡では、と思います。

現象学では、この「思考を介す前」、我々に本当に与えられている「何か」に
どうすれば到達できるだろうか、といろいろ思索しています。

通常の認識・思考は、すべて「反省的意識」によって得られます。
「反省」するということは、必ずタイムラグがあり、よって認識・思考はすべて痕跡=記号です。

では、「反省の反省」=反省意識を反省意識で捉えてみればどうか。
この場合も同じで、やはり痕跡しか残りません。
「作動する自我」あるいは「流動する現象?そのもの」は常に手元からスルリと逃げてしまいます。

ですから、思考では「最前線の今」は認識できないんですね。
別の領域も本質の私も思考では認識できない、と達人さんが言うのはこのことかと思います。

絶対的に現れないものが「地」として背景として在り、
その上に「図」としての認識(存在物、現象)が生まれる。
この「地と図」の「地」、これがハイデガーの言う「存在」、
フッサールの言う「生き生きとした現在」、ということのようですよw

326現象:2016/06/20(月) 19:24:38 ID:MIoW1IrE0
>>321
エゴと本当の自分を行ったり来たりって、うらやましーです。
すごく楽しそうです。
私も早くそうなりたいんですが、最近はお任せモードで生きてますw

327wild:2016/06/20(月) 20:58:57 ID:yIHJFHKU0
>>325
現象さん。


> 「現存在」は、簡単に言えば人間のことで、Wildに相当するのが「存在」です。

アチャー!そうだったんですね(^^;
全然理解できてなかったですね…恥ずかしいw
訂正と詳しいご説明ありがとうございますw

> 私たちはまず「存在してしまっている」。その上で、存在とは何か、という問い・思考が生まれる。あるいは、「世界の開け」というこの「場」が私たちに「到来した後」に問いも思考もある。

Wildが生み出した思考ではWildの姿は捉えられないということですね。
痕跡が最前線にくることはなく、つまり思考と感覚では捉えられない。

> 思考を介す前には色は存在しないのでは。それはすでに痕跡では、と思います。

なるほど。
ここで言う思考とは、見た瞬間の認識のことですかね?
例えば目の前に不意に何かが横切った時、思考が起こる前にすでに「何か」を視覚で認識しています。
そのすぐ後に縞模様と羽音で「あ!ハチだ!」と思考でラベリングしてハチとなり、危ないと判断して避けます。
哲学的に思考とは、見た瞬間の「何か」も思考としているんですかね?

私はこの「何か」の段階、主客渾然一体となっている瞬間が創造の瞬間かと考えていましたが…気のせいだったのかなw
これも痕跡となると、やはり
私たちが認識できるのは、存在からの分離後の「現れ」だけであり、色が発生した瞬間には分離しているということですね。
となると、やはり熟睡中なんかが存在そのものになっているということになりますかね。

私たちは存在を直接見ることはできないけれども、在ることをわかるくらいしかできないのかな。
よく言われる目が目を見えないと同じですねー。

328幸せな名無しさん:2016/06/20(月) 22:01:04 ID:4Dpr8sV20
Wildさんって優しいね

329真昼:2016/06/20(月) 23:28:45 ID:7/98xa.U0
その話に僕も参加させてください!
まずは>>315
wildさんレスありがとうございます。仏教は詳しくないですw

>しかし最近、私というエゴが消えて世界だけが在る状態と、この最先端に立つことは違うものなのでは?と思うようになってきました。

それは僕も思います。本質的には同じかもしれませんがアプローチが違うのかなと。
以前誰か宛のレスで空(くう)と色(しき)のバランスについて書いてらっしゃいましたよね?
これは非常に重要な考え方だと思います。
①ハーディング実験や自己観察、瞑想など自我から離れて世界だけがあることを観る。
僕なりの表現だと「全て(自我も含む)は外側」を体感する。
②今自分がやっていることに没頭することで自分の先頭に立ち、世界に飛び込んでいく。そして自我が落ちていき、世界そのものとなる。そこには観るものもいない。
僕なりの表現では「全て(世界の全て)は内側」を体験する。
この2つは真逆のようで本質的には同じことなのでしょう。まだ実感はありませんが…

この「全ては外側」と「全ては内側」の融合点が「全てはWild。そしてWildこそ自分」という事なんでしょうか?

あまり関係ないことですが、ハーディングの指さし実験があまりしっくりこない時に「頭がないとはどういうことなのか?」と考えたときに、headless(頭がない)=没頭している状態なんだと思い立ち、単に目の前に没頭してればいいんだと思ったんです。(言葉遊びみたいですが…)
そしてその没頭した状態こそ自分の最前線に立っているということなんだろうと思います。

>実際に六根のどれかひとつに成りきってみるとそのことが体感されることがあります。

はい。僕も没頭状態に入るときは、聴覚だけを研ぎ澄ますようにしています。

長くなるのであとに続けます。

330wild:2016/06/20(月) 23:38:31 ID:DPK9R0.60
>>328
いえいえ(^^;
私は自分の掴んだ真理を打ち壊したいだけなんです。
これこそ絶対真理!となることが自分の気づきを止めてしまいますからね。

でも、ありがとうございます。
なんだか嬉しいです(^-^)

331wild:2016/06/20(月) 23:41:47 ID:DPK9R0.60
>>329
真昼さん!!

私は明日早朝からお仕事ですのでもう寝なければいけません!
しばらく書き込みできませんが、真昼さんの投下楽しみにしてます!(^^)

332真昼:2016/06/20(月) 23:43:36 ID:7/98xa.U0
>>319
現象さんレスありがとうございます。僕も何気に真昼というコテが気に入っています。

>随分と動的なイメージなんですね。
>今ここで経験している現実・体験は、「1枚の絵」という全体的なものなのですね?
この1枚の絵の部分に焦点を当てるのではなく、この全体が私、ということでしょうか?

そうなんです。僕のイメージではかなりスピード感があります。
なにしろ掴んだら終わってるんです。「全体が私」というよりは全体に溶け込んでいる、私という感覚すら極めて希薄な印象です。

また、本の紹介ありがとうございます。是非読ませていただきます。僕の頭でいけるか心配ですが…w

333真昼:2016/06/21(火) 00:30:44 ID:En8J2OqY0
>>331
おやすみなさい。真昼に書き込めばいいものを、こんな真夜中にすみませんw
ちょっと長文下書きしてたのですがまとまりがなくなってしまって、頭がぼんやりして来ましたので、僕も改めてまた書き込みしますm(_ _)m

334現象:2016/06/21(火) 05:12:41 ID:9EYi7vdU0
>>327
wildさん

ハイデガーって哲学者の中でもヤヤコシイ部類に入る人で(でも講義録は丁寧でそこそこ分かりやすいです)、
とくに思考の角度を変えた中期・後期はさらにヤヤコシイと言われています。
ハイデガーが「刊行はオレの死後にしろ」と言い残した中期の「哲学寄与論考」という著書(ノート)は、
私にはほとんどが暗号文ですw でも、分からないなりにも、所々に面白い文章・思索があるのでたま〜にページを開きます。

>Wildが生み出した思考ではWildの姿は捉えられないということですね。
そうですね。Wildの創造物であるエゴが、創造主のWildを包括することはできない、ということになるでしょうか。
Wildというバックボーンがあって初めて存在できるエゴが、自分のバックボーンを取り込もうとするのは不可能というか。
Wildという集合の要素の一つにすぎないエゴが、集合全体を自分の要素にしようとするのは無理というか。

>ここで言う思考とは、見た瞬間の認識のことですかね?
はい、思考というより「認識」という言葉が適切でした。

>哲学的に思考とは、見た瞬間の「何か」も思考としているんですかね?
>私はこの「何か」の段階、主客渾然一体となっている瞬間が創造の瞬間かと考えていましたが
「主客渾然一体」となっている状態は、まだ認識も思考も始まっていないと状態だと思いますので、
これは痕跡ではないと思います。
が、「主客渾然一体となっていたあの状態」と認識・思考した段階で痕跡だと思います。
ですから、主客渾然一体になっている「まさにその時」には、
主客渾然一体となっている状態は存在しない。「無」の状態だと思います。
それはつまり、無からの創造の瞬間、なのかな?(これは私にはまだよく分かりません)。

>色が発生した瞬間には分離しているということですね。
だと思いますが、どうなんだろう。。
赤色、白色、緑色、そうした具体的な色が発生(認識)した瞬間はもちろん、
「色」という概念自体、分離していないと認識できないこと、なのでは?
以前、知らんさんが「黒色ということ自体も疑ってみてください」みたいな事を書かれていましたが。

>私たちが認識できるのは、存在からの分離後の「現れ」だけであり
「認識できる」のは、まさにwildさんがお書きになっている通りだと思います。
分離がなければ認識できない。認識している時は、分離している。分離していないなら無、だと思います。

>よく言われる目が目を見えないと同じですねー。
右足で右足を踏むことはできない、ですね。

335現象:2016/06/21(火) 05:19:29 ID:9EYi7vdU0
>>332
真昼さん

>「全体が私」というよりは全体に溶け込んでいる、私という感覚すら極めて希薄な印象です。
ご存知かもしれませんが、知らんさんの下記メソッド
ttp://siran.gjpw.net/Entry/74/
これについてどう思われるでしょうか? 私は本質を突いていると思うのですが。

>本の紹介ありがとうございます。是非読ませていただきます。
真昼さんは頭で現象学を理解されているのではなく、
現象学を生きていらっしゃる、現象学が言っている事を体感されている、ので、
「この程度の事を書いて大哲学者だと? フッサール」
みたいな事になるのかも、と思ったりw

あまり構えず、思われた事、感じられた事を、テキトーにどしどし書き込んでいただければ、
ピコン!とくる人も居るのではないかと思います。

336幸せな名無しさん:2016/06/21(火) 06:57:12 ID:lF8nMR820
Wildさん、知らんさんの気づき考察読みました。
世界は気づきそのもの。
私とは気づき、焦点。
…で、気づくことでどうしろということなんでしょう?

337真昼:2016/06/21(火) 13:03:09 ID:IF8jih0Q0
>>335
現象さんレスありがとうございます。
「ミラーマンメソッド」ですね?
これは僕も思い出した時にやっています。自由意思がないということをダイレクトに実感できますね。
関係ないかもですが、僕はこれをやっているとき必ず思い出すことがあります。
中学のころ、友人が「太陽を挟んで180度向こう側にもうひとつの地球があって、鏡の世界で繋がっている」というトンデモ話。
鏡を見たときに見えるのは向こうの地球にいる自分。もしかするとそっちが自分の本体でこっちが鏡の世界。向こうが主でこっちが従。
ミラーマンメソッドをやってるとその友人の話もあながち…なんて気にもなってきますw

また、昨夜の「創造、認識、存在」についての現時点での私見です。
私たちが創造しているのは記憶だと考えます。もっと言えば私たちは「創造してる」のではなく「思い出している」ということです。
朝目を覚ませば、「ここはどこか?自分は誰か?」を思い出している。
人に会えば、「この人は家族であり、昨夜ケンカして少し気まずい」と思い出す。
あるいはその記憶がその人を自分の視界に映し出しているとも言えそうです。
自分のカップも、車も車の運転の仕方も、天気も、出会う人も全ては記憶を再生しているのではないかと思うようになってきました。
そして、記憶の創造と再生がこの瞬間に同時に行われているのでないか?
そして真の創造性とはその記憶の外側にあると思っています。
「思っても見なかった方法で解決した」とか「なんだかよくわからないけど上手くいった」といった表現にみられるように、記憶にはないものが入って来る瞬間にこそ創造があるのではないかと。

あれ?また自分で何を言ってるのか解らなくなってきましたwすみません。

あとこれも関係ないですが、ハイデガーといえば歎異抄ですね。
ハイデガーをも唸らせた親鸞の思想。他力本願、絶対他力、悪人正機。どう繋がるのか興味があって「存在と時間」を読んで撃沈した記憶がありますw

338wild:2016/06/21(火) 20:46:08 ID:WXiyO8xc0
>>329

真昼さん。
遅くなりました(^^;


> 以前誰か宛のレスで空(くう)と色(しき)のバランスについて書いてらっしゃいましたよね?これは非常に重要な考え方だと思います。

これは単純にWild視点に振りすぎもいけませんという意味でした。
空に入り浸りでご飯を食べなければやはり死んでしまいます。
達磨さんもそれで手足を失ったのかなと思いますw
空も大切ですが、色という現実世界も私なんですから大切にしましょうよという意味ですね。

しかし真昼さんの①②の考察は鋭いなと感じました。
やはりアプローチの仕方の違いかもしれませんね。

①は開放型、②は集中型。
どちらも自我が薄くなる点では同じです。
しかし何というか、質感がやはり違いますよね。
なんとなくアドヴァイダ系と禅系のアプローチの違いでもあるような気がします。

> この「全ては外側」と「全ては内側」の融合点が「全てはWild。そしてWildこそ自分」という事なんでしょうか?

ここ、ハッとさせられました!
以前見た覚者らしき人の言葉にもありましたね。
没頭と観察の中間視点。
そこが鏡が鏡自身を見る所だと…。
私も没頭にもっと主力を置いてみようかな。
アレです…知らんさん開発の18禁メソwww

私の場合は外側を見てる観察者も外側であると気づいた時に「すべてがWild」となりました。
ですから没頭と観察の中間視点なのかどうかはっきりしないところなんです(^^;

> headless(頭がない)=没頭している状態なんだと思い立ち、単に目の前に没頭してればいいんだと思ったんです。

これは私も気付きませんでしたねー。
確かにそうですよね󾬇!
そう考えるとハーディングの実験は開放型、集中型の両方に対応しているとも言えますね。
というか、ハーディングの実験はバチン!とはまると両方兼ね備えた状態になっているのでは?とも思います。
ここは再度実験してみようかと。

かなり参考になりました。
ありがとうございます!

339wild:2016/06/21(火) 21:02:13 ID:WXiyO8xc0
>>334
現象さん。

いきなりハイデガーは私には早すぎましたねw
現象さんでも暗号文にしか見えないのなら私もお手上げですw
名前がカッコいいというだけで手を出すべきではなかった…。

> >ここで言う思考とは、見た瞬間の認識のことですかね?
はい、思考というより「認識」という言葉が適切でした。

やはりそうでしたか!
認識、つまり気づきの瞬間ですね。

> ですから、主客渾然一体になっている「まさにその時」には、主客渾然一体となっている状態は存在しない。「無」の状態だと思います。それはつまり、無からの創造の瞬間、なのかな?(これは私にはまだよく分かりません)。

「何か」が横切ったと気づいた瞬間もすでに記憶、痕跡なんですね。
また「主客渾然一体だ!」と感じた時も記憶。
この「感じた」というのは確かに自我の働きであり、後追いですね。

全てが記憶であり、最前線に立ってしまうとそれはもう無になってしまう。
それは、まずひとつの意識、空(無)があり、それ自身が様々な形を創る。
その中の創造物である自我がわずかな時間差で創造物を認識している。
そんなイメージですね!

しかし今のところ私はこうも思うのです。
一切の思い込み、思考、心の動きを捨てて今あるがままを見てみる。
それが私のアプローチのひとつですが、その視点ですと、やはり存在の起こす現象と認識は同時に起きている。
それを認識した後の心の動きも、存在が創ると同時に見ている。
無というものはなく、今ここに在るもの。
それが空=色であり、存在なんではないかと…。
現段階ではですけどね(^^;
しかしここが私の掴んでしまった執着のひとつかもしれません…。
ここを完璧に打ち砕く気づきが降りてきて欲しいところです。

しかし現象さんの哲学視点からのご説明はには考えさせられますね。
道理的には確かにそうですものね󾬇。
いつもありがとうございます!

340wild:2016/06/21(火) 21:24:26 ID:WXiyO8xc0
>>336
こんにちは(^^)
願望実現にどう繋げるかってことですかね?

ここはいろんな考えがあると思いますが、単純にメリットとしては気づきであることに気づいたら心の平安が生まれますかねー。

普段私たちは一人の個人として、世間の荒波を自分の力でなんとかしていかないと破滅してしまう…という考えが常にあるかと思いますが(無かったらすみません)
私も世間もただの気づきだったことに気づくと、なんら問題ではなくなるんですね。
お気楽になってしまうんです。

なんで?と言われますと難しいのですが、簡単に言うと人生夢と同じようなもんなんだなー、という認識になり、どんな怖い夢でもただの夢で心配無用という状態になります。

と言うことは、今まで私には無理だよなーとチャレンジしなかったことも、夢みたいなもんなんだしやってみるか!とエゴがなったりします。

またチャレンジしなくとも、安心の中にいるだけで満足感があります。
これを「なる」に応用してみたり。

願望は、欲しいという不足感ですよね。
夢だと気づくことによって安心に浸れば不足感がない。
つまり心的には叶ってると同じとはよく言われることです。

「ない」という不足を少しずつ埋めて行き、最終的には「ある」にするのが現実的な努力で達成することですけども、すでに安心=叶ってると直結しているので、不思議と状況が整ってきます。
でも安心=不足がないなので本当に叶ってもあまり驚きがないというw

引き寄せに繋げるとこんな感じでしょうか?
ポイントはやはり、気づきを信じて安心するところですかね。
あまり新鮮味のない話ですみません(^^;

341真昼:2016/06/21(火) 23:11:25 ID:En8J2OqY0
>>338
wildさんレスありがとうございます。お疲れ様です。

>しかし何というか、質感がやはり違いますよね。
なんとなくアドヴァイダ系と禅系のアプローチの違いでもあるような気がします。

僕には、このアドヴァイタというのが曲者というか、よくわからないんですよね。
観察者視点すらあまり実感としてドカンと来てないのに、さらにその先の話をされても…みたいな感じになってしまいます。
その反面、禅系というのは僕もそう思って②を書きました。まさしく禅的なアプローチです。道元禅師の言う「修証一等」。悟りと修行は一体不可分である。修行とは喫茶喫飯行住座臥、生活の全て。その修行のなかに悟りを見るという姿勢。僕は好きですね〜。

18禁メソッドですかw僕の個人的なポイントは「我に返らない。賢者モードにならない」ということでしょうかね。これはこの辺にしときますw

僕の場合、ハーディング実験で集中できると没頭(headless)状態になります。
このとき、観察者はいません。純粋な行為者、もっと極端に表現すればスクリーンに入り込んで、スクリーンそのものを体感したこともありました。
目で目を見てるような感じ、正確には目に写っている映像が目そのもの。映像=目。
目で目を見て、映像が映像見てる。あー上手く表現できません。
要は映像しかないわけです。wildさん風に言うなれば、色が色を見る。音が音を聞くといった感じでしょうか。

現象さんの話も絡めて続けたいと思います。

342真昼:2016/06/22(水) 00:17:05 ID:BB4U6akg0
現象さんの>>324のレスは耳慣れない単語に面食らってしまって即座に理解できませんでしたが、ゆっくり読み返して見ると、以前僕が「分かったかも」と言っていた内容が整理できてきました。

>私たちはまず「存在してしまっている」。その上で、存在とは何か、という問い・思考が生まれる。
あるいは、「世界の開け」というこの「場」が私たちに「到来した後」に問いも思考もある。

僕が「全ては終り続けている。後は全て事後の遊び」と書いた内容はまさにこれです。
あらゆる問いや、疑問、後悔、不安などは、全て終わった事後の世界から見た印象にすぎず、「既に存在してしまっている」ものとは関係がない。その印象の中での遊びである。故に、
>人間側から存在を問うというのは、問いの方向が逆ではないか、ということです。

また、「言葉が消えた世界とはどういう世界だろう?」というこを考えてみます。まず言葉とは単独で存在できません。言葉は「それ」と「それ以外」を分けるもの、と考えれば分かりやすいと思います。例えば「自分」という言葉を立てれば、同時に「自分以外」も立ちます。「猫」という言葉には「猫以外」という言葉(概念)が必然的に生まれます。
つまりはこの世から言葉が消えたら、あらゆるものが渾然一体となった世界を見ることができるはず。
既にある世界が、既にある……

ウ〜ン。なんかあと少しの感じがするんだけどなー。

僕でもハイデッガー読めるかも!などと浮かれて、本棚を探したのですが見当たりませんでした。ブックオフに行っちゃったのかもしれませんwそしてさっきネットでハイデッガーの解説を読んでもよく分かりませんでした。単に現象さんの解説が分かりやすかっただけだったようです。

ともあれ、なんか色々理解が深まってきて皆さんには感謝です。ありがとうございます。
勢いで書いたので文法めちゃくちゃで読みにくかったらすみません。

343現象:2016/06/22(水) 04:57:11 ID:xmL/KzMI0
>>337
真昼さん
こちらこそレスありがとうございます。

>私たちが創造しているのは記憶だと考えます。
>もっと言えば私たちは「創造してる」のではなく「思い出している」ということです。
>記憶の創造と再生がこの瞬間に同時に行われているのでないか?
上記のことは、たとえばこんな風に言い換えることも可能ですか?

我々が「物(例えばサイコロ)」として認識しているのは、
変化・流動しつづける現象の中に現れてくる「規則的な構造」のことである。

サイコロが目の前にあります。
(1)真正面から「1」の面を見ている時、他の側面は見えません。正方形の面と、赤い点がひとつ見えるだけです。
(2)少し視点を右にずらすと、見えなかった「2」の面が見えてきます。
(3)つづいて視点を少し上に移動すると、「4」の面も見えてくる。この時点で「1」「2」「4」の3面が見えています。
(4)ぐるっと裏側へ回って見ると、見えていた「1」「2」の面が見えなくなり、替って「5」「6」の面が見える。
(5)再び(3)の視点に戻ると(3)の状態が再現される。

(1)〜(5)まで、現象は次々と変化しました。
各々の場面で、与えられている現象はまったく異なります。
でも、この(1)〜(5)を何度繰り返しても、常に同じ現象の展開が起こる、
規則性がある、つまり安定した「現れの構造」がある。

この安定した「現れの構造」によって、我々は「立方体のサイコロ」という物を認識する。
認識するというか、「解釈する」という方が正確かもしれません。
「6面すべてを一度に見ることは出来ない」のに、立方体のサイコロ、として認識(解釈)しています。

我々が普段、「気付くことなく」意識を向けているのは、
各々の側面(様相)ではなく、流動する経験の中で、
その経験のプロセスが示す安定した規則性=構造のことである。
連続的な現象の変化の中から構造が認知され、それが「物」として認識(解釈)される。

こうした認識の仕組みは、あまりにも当たり前(自明的)なことなので意識されません。
我々の意識は「この物は何だろうか」を主題としており、
上記の事柄は「非主題的」なバックボーンになるため意識に上がらないんですね。

とまあ長々と書いてしまいましたが、どう思われますか?

こんな時間になってしまったので、他の事柄についてのレスはまた今日明日にでも。

344現象:2016/06/22(水) 04:57:46 ID:xmL/KzMI0
>>339
wildさん

「ダイレクトパス ユーザーガイド」買いました。
これ、いいです。とても分かりやすい。
仕事をサボりながら読み、帰りの電車の中で読み、
プラットホームを歩いている時に、スクリーンを見ている視点に成りかけました。
あ、これか!と思ったのですが成れませんでしたけどw
明日(今日)も仕事はテキトーにこなしつつ読みます。

真昼さんと同じくレスはまた今日明日にさせていただきます。

wildさん、真昼さんとやり取りすることで私も認識が深まります。
書き込むからにはちょっとは集中して考えようと思うので、
自分が何を感じ考えているのかをとりあえずまとめることができて有り難いです。

345現象:2016/06/23(木) 05:41:15 ID:pihWJbDc0
真昼さん

>>343をいま読み返すと、一体何をお尋ねしたいのか分かりにくいですね。
サイコロの例で書いた(1)〜(5)のような現象の移り変わりから「現れの構造」が認識されて、
それが立方体という「概念」を形成する。
同じような「現れの構造」を認識した時に、立方体という概念が記憶から呼び出されて、それを当てはめ、これも立方体だと認識する。
これが真昼さんのおっしゃっている記憶の創造と再生なのでしょうか?というお尋ねでした。

>この世から言葉が消えたら、あらゆるものが渾然一体となった世界を見ることができるはず。
「言葉=概念=レッテル=パターン認識」が無くなればそうなると思います。
言葉って世界に亀裂を入れるものですから、亀裂が無くなれば、すべてはひとつになりますね。
この場合、それが「何であるか」が言えず、「これ」とか「このこれ」とか言うしかなくなります。
もっと言うなら、「このこれ」と言う者も居ないでしょうから、無(横溢した無?)なのかも。

>>343のサイコロの例は「現象学という思考」(田口茂)からのパクリですw
この本、現象学の入門書なのですが、予備知識も不要でヒジョーに分かりやすいです。
斎藤慶典氏の著書よりも、この本の方がいま真昼さんが感じていらっしゃることを整理するのに役立つと思います。

>ハイデガーといえば歎異抄ですね。
歎異抄など仏教哲学は西欧哲学より深そうですが全く知らないんです。
ハイデガーは道元の「正法眼蔵」を読んでいたとかいなかったとか、
時間論がよく似ているとかは何かで読んだ記憶がありますが。

>ネットでハイデッガーの解説を読んでもよく分かりませんでした。
入門書などで専門用語・造語の意味を理解すれば読めます。
外国語と同じです。まず単語。基本はこれです。
私もハイデガーやフッサールのほんの一部分を齧ってるだけで、分からないことだらけです。

346現象:2016/06/23(木) 05:42:40 ID:pihWJbDc0
>>339
wildさん

>やはり存在の起こす現象と認識は同時に起きている。
>それを認識した後の心の動きも、存在が創ると同時に見ている。
>無というものはなく、今ここに在るもの。
>それが空=色であり、存在なんではないかと…。
私は「主客渾然一体となった状態は存在しない。無の状態だと思います」と書きましたが、
この「存在しない、無の状態」というのは、認識できないのだから
「無と言わざるをえない」という意味でした。(もうちょっと正確に書くべきでした)

wildさんがお書きになっている「空=色」って、こういうことでしょうか?

アリストテレスに「潜勢態」「現勢態」という概念があります。
潜勢態というのは、まだ何のカタチにも成っていない材料(質料)のことで可能態とも言えます。
この潜勢態が何らかのカタチ(現象・存在)になったものが現勢態です。
(例えば、潜勢態がタネ、その現勢態が花、です)

だとすれば「空=潜勢態」で、そこには様々な可能性が秘められているんですが、
まだ「何ものでもない」という意味で「無」としか言いようがない(◯○であると言えない)。
でも、それは様々な現象・存在の材料に成ることができるので、全くの無ではない。
「何かが満ち満ちた無」である。つまり、空であり色である。ということでしょうか?

「ダイレクトパス ユーザーガイド」を今日も読みました。
思い込みを丁寧に、ひとつひとつ剥がしていく内容にジワジワーっときていますw
色を見る、という事が起こっているのではなく、色とは見ることその事、なんですね。
まだ完全に腑に落ちてはいませんが、読み終わる頃にはそこそこ認識が変わりそうに思います。

347幸せな名無しさん:2016/06/23(木) 07:38:45 ID:YtD2FfjE0
>340
ありがとうございます!非常に勉強になります。
新鮮味のない話し、と書かれている通り、この界隈では『気づき』の意味なんて知ってて当たり前!というような空気が満ち満ちているので、誰にも質問できずにいたんです。
それをこんなにわかりやすく説明してくださって感謝感激でございます!
また質問させてください。

348幸せな名無しさん:2016/06/23(木) 07:45:31 ID:YtD2FfjE0
Wildさんが書かれた、
私とは気づき、焦点
というのは具体的に、『人生夢と変わらない!ということにいちいち気づく』、そしてそれが『心の平安を生む』。なので常に夢であるということに『焦点を当てる』。『よっておいらは毎日ヘイワ』というような意味なんでしょうか?

349真昼:2016/06/23(木) 10:06:49 ID:XZ2p7otQ0
>>345
現象さんレスありがとうございます。

>同じような「現れの構造」を認識した時に、立方体という概念が記憶から呼び出されて、それを当てはめ、これも立方体だと認識する。
これが真昼さんのおっしゃっている記憶の創造と再生なのでしょうか?というお尋ねでした。

そうした根元的な認識についてはどうなんでしょうね。実感としてあるわけではないのでなんとも言えないところではありますが、恐らくそれも記憶が引き出されて、新しい記憶が生成されている、ということではないかと思いますが、どうでしょう。
現象学というのはこうした根元的な認識を掘り下げる学問なんですね。面白い。ご紹介の本はとても興味深いので読みたいと思います。

>言葉って世界に亀裂を入れるものですから、亀裂が無くなれば、すべてはひとつになりますね。

世界に亀裂を入れるという表現、いいですね〜。今度使わさせていただきます(どこで?w)
そのあとの「横溢した無」(この言葉初見だったので調べました)という表現は哲学的でカッコいい。この横溢した無こそ、東洋で空(くう)とか道(タオ)とか呼ばれているものでしょうね。分別知を知識、無分別知を知恵とも言いますね。

あと、ハイデガーといえば歎異抄って意味わからなかったですね。
ハイデガーは晩年こう言ったと言われています。
「今日、英訳を通じてはじめて東洋の聖者親鸞の歎異抄を読んだ。弥陀の五劫思惟の願を案ずるにひとえに親鸞一人がためなりけりとは、何んと透徹した態度だろう。もし十年前にこんな素晴らしい聖者が東洋にあったことを知ったら、自分はギリシャ・ラテン語の勉強もしなかった。日本語を学び聖者の話を聞いて、世界中に拡めることを生きがいにしたであろう。」
この発言が事実かどうかは置いといて(wikiでは削除されてるみたいですが)、西洋と東洋の融合点がそこあるのでしょうかね?

西洋哲学は答えを求めて思索するのに対して、東洋では答えが始めに提示されてそれを探究するという逆のベクトルを持っていると、何かで読んだことがあります。

ともあれ、現象さんのお陰で急激に頭が良くなってる感じがしますww

350wild:2016/06/23(木) 20:47:58 ID:1ATDQR/M0
>>346
真昼さん
お気遣いありがとうございます(^^)
遅レスになってしまいすみません…。

観察者視点ですが、真昼さんはすでにそこを超えているので気になさらないで良いかと(^^;
観察者というのは身体でも思考でもないただ見てるだけの存在ですが、段階的にまずここに至るのが観察系の常套手段なのかなと思います。
これも思考だったと見抜いた時、世界=私を体感するのかなと考えます。

> 悟りと修行は一体不可分である。修行とは喫茶喫飯行住座臥、生活の全て。その修行のなかに悟りを見るという姿勢。僕は好きですね〜。

やはり禅は直接的に至るような仕組みなのかなと感じましたね。
もうすでにその中にあなたは居るんですよ!って言うのを修行の中で見つけるような仕組みになってるんでしょうね?
あと、公案ってよくわからなかったんですけど、思考に成りきらせるものなのかなーと。

> 18禁メソッドですかw僕の個人的なポイントは「我に返らない。賢者モードにならない」ということでしょうかね。

賢者になりたいのに賢者モードになってはいけないとは奥が深いw
メソッド最中は確かに渾然一体ですw
これを後で気づくのではなく、その場で気づいてる状態が最前線なのかなーと思いますがいかがでしょう?

> 目で目を見てるような感じ、正確には目に写っている映像が目そのもの。映像=目。目で目を見て、映像が映像見てる。あー上手く表現できません。

いえ、私よりもはっきりとそのことがわかっていらっしゃるようです。
真昼さんの表現を見てると、完全に大悟されたようですね!

ところで、次から次へと起こる現象にスピード感があるとおっしゃってましたが、それにうんざりすることはありますか?
私の好きなブログ「私を知る」では、その次々と起こる現象の連鎖が苦である。
つまり私とは一切皆苦であるとの結論に至っておりますが、そこに芯から気づいた時、最後の悟りがあると。

私はなんとなく一切皆苦は知りたくないな󾬇と思うんですけどね(^^;

351wild:2016/06/23(木) 20:54:07 ID:1ATDQR/M0
>>346
現象さん。
遅くなってすみません(^^;

> この「存在しない、無の状態」というのは、認識できないのだから「無と言わざるをえない」という意味でした。

これよく考えたら難しいw
無が有るのか?という話になると私の頭では追いつかなくなります…orz
でも認識できてないから無はあるのかな?う〜ん…(-_-;)

> まだ「何ものでもない」という意味で「無」としか言いようがない(◯○であると言えない)。でも、それは様々な現象・存在の材料に成ることができるので、全くの無ではない。「何かが満ち満ちた無」である。つまり、空であり色である。ということでしょうか?

そうです!
そう言ったものとして空と言いました。
ただ何と言うか、「無のような空」という真っ暗なひとつの状態から分離して現実と思えるものを創っているというよりも、もうすでにひとつの状態なのではないかと。
分離しているように見えるだけで本当はいつもひとつの状態。
それが空=色。
分離しないでどうやって対象を見るんだ?という話になりますが、ここがこの世界の不思議なところでしょうか(^^;

ダイレクトパス的な手法で見てみると、それ以前の創造前のような状態は実は存在してないのではないかと思いました。
「無い」ので無ではありますが…。
時間を持ち出すとまた訳がわからなくなりますが、ずっと有るだけが在るのかと思います。
じゃあ熟睡中はどうなのか?
ハーディングは熟睡をフィルムとフィルムの途切れみたいなもので、それは空そのものではなく途切れが有るだけ的なことを言ってたのを思いだしました。
途切れが現れたとでも言いましょうか…。

はぁ󾬇これはほんと難しい…。
ここはもっと体感していつかうまく話せるようになりたいものです(^^;

ところで、ダイレクトパスユーザーガイドを買われたんですね!
私も買いましたが忙しくてほとんど読めてませんw

流し読みしましたが、現象さん向きの哲学的な内容ですよね?
さっそく「見る=色」がピコン!ときたようで良かった!(^^)/

352wild:2016/06/23(木) 21:22:38 ID:1ATDQR/M0
>>348
いえいえ、ピコン!ときたようで何よりです(^^)

> なので常に夢であるということに『焦点を当てる』。

そういうことになりますね。
でも気づきや焦点だとなんとなく細かくて大変な感じがするので、現実は夢と同じような「意識」が作りだしている。
でも良いかと思います。

これをバチン!と体感したいのなら探求してみてはいかがでしょうか?

例えば
①カップを目の前に置きジッと見ます。

②次に私自身を見ます。

③身体、思考、観察者(目の奥など)を見て行きます。

④またカップを見ます。

⑤この時、カップを見ている私はいますでしょうか?
(この時おそらく思考や肉体、観察者に焦点を当ててしまうかと思います)

⑥もう一度カップに集中します。

⑦⑥に集中している時、思考、肉体、観察者は居ましたでしょうか?

これを何回かやると、実は私という存在は、焦点を当てた所を創りだす存在である。
逆に言うと、創り出したから焦点を当てているとも言えますね。

焦点を当てたから創り出した。
創り出したから焦点を当てた。
どちらとも言える存在であり、日常創りまくっているんです。

少し難しいですかね(^^;
難しい場合は「自分を含め、すべてが意識」でも良いですね(^^)

353真昼:2016/06/23(木) 23:29:06 ID:XXXENlA.0
>>350
wildさんレスありがとうございます。
大悟なんてとんでもないです。僕がいい感じのときって一週間の内で二時間くらいですから。その他の時間はエゴまみれですw
いい感じの時の実感とか印象をメモったりして覚えとこうと思い、また少しでも長くしようと思っているのですが、なかなか…。

>あと、公案ってよくわからなかったんですけど、思考に成りきらせるものなのかなーと

あまり抹香臭いのもなんですが、同じ禅でも公案を用いる臨済宗では見性(人間に本来そなわる、本性を徹見すること)を目指しますが、曹洞宗では修行すること自体に眼目がおかれていて見性をさほど重視していないようですよ。
公案は思考になりきって思考の向こう側にあるものを見せようという試みなのでしょうかね?

>メソッド最中は確かに渾然一体ですw
これを後で気づくのではなく、その場で気づいてる状態が最前線なのかなーと思いますがいかがでしょう?

これはあくまで私見ですが、その場で気付くのではなく、ずっと気付かない境地を考えています。永遠に終わらない18禁メソッドww没頭に没頭する感じです。いかがでしょうか?

>ところで、次から次へと起こる現象にスピード感があるとおっしゃってましたが、それにうんざりすることはありますか?

「私を知る」というブログは難しく感じましたが、自分の感じていることを客観的に知ることができますね。あのような境地とはほど遠いです…
いい感じの時はうんざりすることはありません。なにしろ基本的に何にも気づいていないのですから。気づいていないけれどもマインドフルな感じはあります。表現難しいです。

また、一切皆苦についての私見ですが「起こり」という現象の元にあるのが苦しみなのかな、と今のところは感じています。
例えば頭が痛い(苦しい)から頭に意識が行きます。そして薬を飲んで治まった瞬間というのは意識してないですよね。正しくは頭痛が治ったというより、頭が痛かったことを忘れている。本当に健康な人とは身体のことを意識しない人である、とある名医は言ったそうです。この意味を広げて解釈するなら、苦しみのない人とはなんにも意識をしない人である。何かを意識することはその根底に何らかの苦が潜んでいるのでは。
現時点ではこんな感じかな〜と考えています。

長くなりました。どうかご無理なさらずにご自愛ください。

354wild:2016/06/26(日) 16:12:13 ID:9SIXuy8Y0
>>353
真昼さん。
ありがとうございます(^^)
またまたレス遅くなってすみません…汗

> 僕がいい感じのときって一週間の内で二時間くらいですから。その他の時間はエゴまみれですw

同じくw
しかし既にその世界を見たのですから、根本的な所で現実への捉え方が変わったんじゃないでしょうか?

> これはあくまで私見ですが、その場で気付くのではなく、ずっと気付かない境地を考えています。永遠に終わらない18禁メソッドww没頭に没頭する感じです。

となると、没頭から抜けた時にその時の状態を思い出す感じですか。
その時は自我が完全に奥に引っ込んでおり、いわゆる「それ」が完全に顕現している状態ですね。

これは心を脇に置く、もしくは心の私は何もしない状態。
何もしないこともしないみたいな…。
起こる現象すべて起こるがままになり、まったく掴まない状態。
この、何物も掴まず全部私の意志なしでオートマチックで動いている状態が「気付かない」と同意なのではないかと思いました。
ハーディングの実験中に、起こる事象すべてを委ねるとこのようになりますね。
そして気付くのではなく、現象が起こってくることを「知っている」という感覚、これが真昼さんのおっしゃるマインドフルネスなのかなと。

> また、一切皆苦についての私見ですが「起こり」という現象の元にあるのが苦しみなのかな、と今のところは感じています。

なるほどー、
苦しみの根底である囚われを手放し、次々と起こる「起こり」の連鎖を掴まなくなることが大悟の先の解脱であると件のブログでは言っていましたが、真昼さんの解釈と共通するところがあると感じましたね。

真昼さんとのやりとりで改めて気付くことがありました。
何も気付かない状態のままでいたいのですけど、普段生活しているとどうしても自分が掴んでしまう現象があります。
その囚われ(思考)を自分が掴むことによりまた囚われを作ってしまうんですよねー。

なので普段の生活においては逆に自己観察のように気付く方法も必要なのではないかと私見ですが思いました。

掴んでいることに気付いてすぐ手放すことを繰り返す。
そのうち掴んでる自分も手放すようになり、最終的には常に真昼さんのように底の抜けた状態になれると思いましたけど、どうですかねー(^^;
と、またまた囚われを作っておりますw

355幸せな名無しさん:2016/07/03(日) 01:00:03 ID:LwszfQVw0
wildさん、現象さん、みなさんこんばんは

エゴエゴ煩悩丸出しの超絶強烈キャラ!にはなりたいと思っていない私がお送りする、現実逃避シリーズ
平日の昼間からごろごろ〜ごろごろ
あ〜あ、ゲームのスコア分だけお金入って来たらなあ

以前はこんな風に思ったことありました〜
ゲームのスコアの10分の1でも良いからお金になんないかなあとか思ったり、認識変更前は凄かったです 笑
ちなみに現実逃避シリーズは"ずんの飯尾和樹"さんのネタです


認識の変更をすることが目的になると、それはもう目的なので追うしかありませんよね
私は認識の変更しようとしたわけでもなく、気付いたら変化していたっていうのが本音です
チャネリグン系のブログをはしごしていて、こんな世界あるんだって好奇心から見ていたのが、気付いたら自分が進化していたというか 笑
説明っぽくなりますけど、それってチャネンリグのブログが私にとって"しっくり来た"のと、自然と"そのような状態になっていた"という感じです
チャネリングって胡散臭いですけど、私からすると何もかも新鮮でしたし、好奇心の対象として終始力が入っていなかったように感じます
楽しかったけど盲目的にはなりませんでした
この時は引き寄せとか潜在意識とか知りませんでしたし、認識の変更に潜在意識とかの知識が必須かというと、あまり関係ないですね 笑
ただ、後に潜在意識系とかも知りましたし、チケットも買って読んだし、バシャールとかも動画で見ました

私的には"没頭"することによって、それが何であれ全自動の世界を経験するという感触です
純粋であればあるほど、手に入る速度が速いという印象で、それが物であれ状況であれ同じです
望みは試練と表裏一体みたいなもので、純粋だとベクトルは望みへ、抵抗があるとベクトルは試練の方に向く感じです
これは私の経験則であって、後付けですので何の役にも立たたい代物ですけどね 笑
いずれにしても、望みも試練もどちらも選択する自由はあり、この世はそのどれも経験出来ることが尊いのだと今では思っています
エゴからすると試練なんて嫌だと思いますが、ぬるま湯に浸かるよりは気付きや発見があって良いですね

356幸せな名無しさん:2016/07/03(日) 01:01:18 ID:LwszfQVw0
えっと、私は321の者ですよ〜
wildだろぉ〜

357幸せな名無しさん:2016/07/03(日) 14:24:18 ID:FtaDMoLk0
チャネリグンからのチャネンリグにフフってなりましたw

358現象:2016/07/04(月) 02:54:34 ID:gncVZnqY0
>wildさん
>真昼さん

生きてますww

仕事が忙し過ぎるってこともあるのですが、
「ダイレクトパス ユーザーガイド」を読んで、エゴレベルで納得する知識がまた増え、
頭の中の整理がつかず書き込むことができませんでした。

もう少ししたら(ひょっとすると週末かもしれませんが)また書き込みますね。

359現象:2016/07/04(月) 02:59:24 ID:gncVZnqY0
>>355
チャネリング系のブログですか、面白そうですね。探して読んでみます。

気がついたら認識変更していたとか裏山(古←これも古)
引き寄せもでるなんて裏山裏山w

360真昼:2016/07/05(火) 08:55:46 ID:TJsJOULg0
しばらくです。僕も生きていますw
仕事やらなにやらで、書き込みできませんでした。
僕ももう少ししたら新しいことを書けるかと思います。
みなさんお忙しい毎日ご自愛ください。

361486desu:2016/07/05(火) 19:19:17 ID:28AbwYug0
お久しぶりです。wildさん

認識の変更関係の質問ではないのですが、
認識の変更をした人へお聞きしたく質問させていただきます。

認識の変更をすると、自分の血の繋がった肉親への愛情も、
他人への愛情も同じに感じるときがあるようになりますか?

というのも私は、自分の子供だからかわいいという親が苦手というか
ムカムカしてしまいます。
私の祖父は、私の母や、私のことは血がつながっているので、かわいがったり
、大切に扱ってきてくれました。
でも私の父へは血のつながりがないのでいつまでも他人扱いを受けています。
仕事でも、自分が主導権を握り、父から意見されることは大変、気に入らないようです。
また私自身は、親戚の叔父からは自分の子供ではないのでかわいくないと
言われたり、そういう扱いを受けたこともあります。
そのため、自分と血の繋がりのあるものはかわいいけど、
自分の子供じゃない子供はかわいくないという人間をあまり良く思いません。
あと、子供や孫の自慢をする人間に対してもイライラします。
当然、かわいいと思う感情は勝手に発露されるものですし、
かわいいと無理やり思っても思えないのですから仕方がないと
思うところもあります。

そこでお聞きしたいのですが、
以前wildさんにも嫌いな上司がいることは分かっているので、嫌いな対象は
悟っても存在することは分かるのですが、
その上司すらも自分の子供と同じような愛情を持てる瞬間は悟った後ありました
でしょうか。
人間の可能性というか悟った後の人間のことを知りたく
質問させていただきました。

よろしくお願いいたします。

362真昼:2016/07/08(金) 17:40:47 ID:1FEdEAlI0
ご無沙汰致しました。
しばらく、実験的にいろいろなことを試していました。
wildさんがおっしゃるように、自己観察のように気付いていくことは外せませんね。
やみくもに没頭し続けることも、それはそれでOKだとは思いますが、せっかく生きてるわけですから、本当の自分を見つけられたらそれは素晴らしいことですね。
実は僕はここ最近、「言葉忘却メソッド」をやっていて(やっていて、というか僕が作ったんですけどねw)、何となく分かったことがあります。
例えば、この世界から言葉を使う生命、つまり人間が忽然と姿を消したとしたらそこはどういう世界だろうか?個と個が独立していず、全てが渾然一体となった世界。まさしくWild(野性)。本来は私達が今生きている世界だって同じものなはずです。ところがなぜ、そこに「私という苦しみ」が生まれるのでしょうか?

現時点での私見ですが、私達は言葉に縛られているだけなのではないか?
本来私たちが使う「道具」であるはずの言葉に、逆に縛られている。
言語による束縛から自由になることが、私たちの本来性に気付く鍵なのではないか。
野性こそ、悠久のときを生き抜いてきた遺伝子の力に直結したものなのではないか。
なぜなら野性とは獲得するものではなく、もともと備わっているものだから。

言葉忘却メソッド(一種の思考停止法ですね)をやっていると、上手くはまった時には活力が湧いてくるのを体感できます。もちろん人と話しているときや、理解しなくちゃいけないときには言葉を使います。弊害として文章力が落ちたりするので、ほとほどにしといた方がいいかもですが。現にこのレスも四苦八苦しながら書いてますw文法とか滅茶苦茶かもしれないので、読みにくかったらすいません。

また逆に徹底的に言葉を使うのも大切だとも思っていまして、哲学等はその訓練に最適です。今はメルロ=ポンティとかが面白いです。
野性、理性、知性。人間にもともと備わっているものと後から獲得するもの、偶発的に得られるもの。(言葉の定義が少し分かりにくいですが)
これらの性質の高まりが人生をより豊かなものにする…のかな?

まとまりのない文章ですが、近頃はこのように思っています。

363wild:2016/07/09(土) 23:23:26 ID:4BNcepQU0
皆さんしばらく留守にしており申し訳ございません(^^;
ご無沙汰しております…。

私生活で色々と変化があり、またダイレクトパスユーザーガイドを読みきった後に心境の変化がありましてしばらく自分と向き合っております。

私の自我が奥底に大切に握っていた囚われがあったようで(今まで見てみぬふりをしていたようです)、それが表面化してきて真剣に向き合わざるを得ない人生の流れが起こり始めました。
私自身が「まあいっか」では流せない囚われを握っていたことに少々戸惑っておりますw
自分の命も惜しくないくらい自我が薄くなっていたつもりでしたが、私もまだまだですね…。

非常に苦しい今日この頃ですが、徹底的に自我に向き合って行こうと思います。

少しずつレスさせていただきますのでお待ち頂けると幸いです(^^)

364wild:2016/07/11(月) 00:44:44 ID:wembwlek0
>>321さん
だいぶレス遅くなってすみません(^^;
宇宙人と交信しちゃうとはwildだねぇ〜?w

> 説明っぽくなりますけど、それってチャネンリグのブログが私にとって"しっくり来た"のと、自然と"そのような状態になっていた"という感じです

きっかけってありますよね。
しかし潜在意識や呪術、チャネリングなどもそうかもしれませんが、スピは最終的には私という存在とは何か?という地点に行着くのかなと思います。

> 私的には"没頭"することによって、それが何であれ全自動の世界を経験するという感触です純粋であればあるほど、手に入る速度が速いという印象で、それが物であれ状況であれ同じです

ここは興味深いですね。
今に没頭することによって、起こる現象そのものになる感覚でしょうか?
起こる現象に抵抗せず、あるがまま、起こるがまま委ねることのことかと思いました。

これ、逆もまた然りで「全部自動で起こっている」という視点で自分や世界を見ていると、どんどんエゴが無力化していつの間にか没頭になりますよね。
蛇足ですが…(^^;

しかし、思考の「いや、そうは言っても…」という声、抵抗があると試練として現象が起こるというのは面白いですねー!
この辺のお話、この板的には知りたい方も多いと思いますので詳しく教えて頂けますでしょうかm(__)m

365真昼:2016/07/11(月) 22:54:03 ID:h4gGshaE0
>>363
wildさん。何か大きな変化が訪れているようですね
今は苦しいかも知れませんが、どうか心穏やかに過ごされますように。

366wild:2016/07/12(火) 16:10:19 ID:iXACYAFE0
>>358
現象さん

生きておられましたかw
私もしばらく留守がちで申し訳ございません(^^;

ダイレクトパスユーザーガイド、「どや!これでもか!」と言った感じで内容濃すぎですよね。
しかし赤本での疑問も晴れました。
実際にメソッドを繰り返すと腑に落ちるもの満載かと思いますのでぜひw

私はと申しますと、書いてある内容や、今までダイレクトパスで気づいたことすべてをぶん投げてしまおうという心境になってしまい、一回読んだきりですw

367wild:2016/07/12(火) 16:15:00 ID:iXACYAFE0
>>361
486desuさん。
ご無沙汰してます!
レス遅くなってしまい申し訳ございません(^^;

> その上司すらも自分の子供と同じような愛情を持てる瞬間は悟った後ありましたでしょうか。

私の場合で申しますと、何年か前に最初の認識の変更(エゴと私は別物とわかり、真の私を見つけた見性と言われるものかと思います)が起きた後の数日は、嫌いな人も愛せる心境でした。
すべて私の創造物であり、愛しいって感じでしたね。

でもこれって今思うと、認識の変更が出来た喜びもあったから浮かれてただけなのかなとw

今は苦手だなと思うことを相手がしたり言ったりしても、結局はそれを苦手と思う自分自身の思いが原因であり、また思いを自分自身が創りあげているんだなと私自身を観ています。
また私自身も思いであり幻想なんだなと。

また前にも書きましたが、相手も様々な思いに突き動かされてるんだなあーと思うと、「へえ〜大変だね」としか思わない状態ですw
もちろん大きな視点で見ると、相手も私自身が創り出した幻想ですけどね。

自分の相手に対するイメージというものは常に変わるもので、大嫌いだった人でも親近感が湧きはじめたり、その逆もよくある話です。
悟った人というのは、そのような心の動きに巻き込まれず、「心とはそのようにコロコロと落ち着きなく変わるものなんだよね〜」と心の特性を理解し、その呪縛から抜け出てただ心を観ている、または成りきっているのかと思いますね。
愛と言うよりも淡々としていると思います。

368wild:2016/07/12(火) 16:18:05 ID:iXACYAFE0
>>365
真昼さん。
いつもお気遣い頂きありがとうございます(^^)
またレスが大変遅くなってしまい申し訳ございません(^^;

今この苦しみは、なるべくしてなった流れとしか言いようがないなと感じています。
今までのフワフワした性格から、急にヒリヒリとした剃刀のような私となってしまいました…汗
いろんな自分がいて面白いものです(^^;
いつまで続くかわかりませんが、これもWildの導きと信じておりますし、ここを抜けたらまた新たな気づきがあるのかなと少し楽しみでもあります!

> 現時点での私見ですが、私達は言葉に縛られているだけなのではないか?本来私たちが使う「道具」であるはずの言葉に、逆に縛られている。言語による束縛から自由になることが、私たちの本来性に気付く鍵なのではないか。

私ヲタ?の私も正にそのように考えてます。
全体から、言葉がまるでハサミのように切り出して物事を分離させている。
この私自身も切り出されたものですね。
本当は常に全体と渾然一体であり、分離は幻想であることを見抜くこと、もしくは一体となることが野性に戻ることかなと思ってます。
なぜ人間だけがこのような分離の世界に身を置く流れになったのか不思議ですねー。

> 弊害として文章力が落ちたりするので、ほとほどにしといた方がいいかもですが。現にこのレスも四苦八苦しながら書いてますw

真昼さんもそうなってしまいましたか!w
あまり行きすぎると論理的思考も鬱陶しくなり、時に仕事もままならなくなります。
つまり、おバカになりますw
前にセドナを極めた人のブログを見たら、やはりおバカになっていましたw
野性に戻ると人間社会的な生活が少し崩壊するのは仕方のないことですけど、まあ何とかなるでしょうw

哲学を読んでバランスを保つのは良いアイディアですね!
今私は思考フル回転で自我と向き合ってるので図らずもバランス保たされてます(^^;

369幸せな名無しさん:2016/07/13(水) 19:49:18 ID:Y3x3GbvU0
wildさん

こんにちは

以前息子のことで、相談させていただいたものです。
その折には、ありがとうございました。

wildがおっしゃられた、真の安心感について、いろいろと考えいるうちに、
こんなにも、日が経ってしまいました。


社会人として人と話すことのない人生で、常識的な言葉使いを知らないうえに
気持ちが定まらないこともあり、
なかなか書き込めませんでした。

申し訳ありません。
そして、温かい励ましのお言葉をありがとうございました。

最近おもうのは
出来事はWildからの流れで
そこに感情、思考とは別に、
もってうまれた好き嫌いもWildから湧いてくると感じています。

感情が行動を促しますが、
その感情は、後付けされた思考観念
(正しい、間違い、いい、悪い、常識など)による好き嫌いと
もともと、持たされた好き嫌いがまじりあっているように感じます。

いろいろ考えているうちに
本当に何もできないのだから、しかたがないと思っています。

あとは
恐怖(心を痛めること)に向き合う勇気ですよね。
今は、まだ
真の安心感には程遠い気がします。

いろいろと
ありがとうございました。

370wild:2016/07/14(木) 03:43:11 ID:beqAKj1Y0
369さん。
ご無沙汰してます!
お元気でしたか?(^^)

こちらこそ私の拙い文章を真剣に読んで頂いて恐縮です(^^;
ありがとうございます。

ここは掲示板ですので、言葉使いなどお気になさらずいつでも好きなように書き込んで下さいね。
私もよい大人なのに言葉使い適当ですからねw
気楽に行きましょう!

> 感情が行動を促しますが、その感情は、後付けされた思考観念(正しい、間違い、いい、悪い、常識など)による好き嫌いともともと、持たされた好き嫌いがまじりあっているように感じます。

今はご自分を観られてるんですね!
感情に対しての気づきもあったようで何よりです。
そのように、
今まで自分と思っていたものは一体何なのか?
一体どの要素が自分を自分としているのか?などなど…
ご自分というもの(特に思考)を絶えず見続けることが平安への糸口かと私自身改めて考えていますので、ぜひ続けてみて下さい(^^)

> いろいろ考えているうちに本当に何もできないのだから、しかたがないと思っています。

なんとなくですが…少し悲観的になられてますでしょうか?(^_^;)
確かにその通りなんですけども、すべてのコントロールを放棄した先には、平安が待っているんですね。
なぜかと言いますと、
コントロール=エゴであり、エゴが苦しみの原因だからです。

考えることはもうすでにいっぱいされてるのかなと思いますので、次はそれに並行して実践をしてみてはいかがでしょうか?
もうされてたらすみません…。

実践というのは、
その「仕方がない」と思う思考、それによって起こる感情など、ご自分に起こる現象、また周りに起こる現象も一切合切が「起こされてる」もの、
もしくは1枚のスクリーンに現象が「上映中なんだなあ〜」と観てみるんです。
ただただ「観る」だけでも良いです。

もっと具体的には、
・歩いている時、ふと下を見てみた。

・首の筋肉の感覚を感じた。
ご自分の手足と思われるものと地面が見えた。

・「あ、手足が見える」という思考が浮かんだ。

・足の裏が地面を踏みしめる感触と痛みを少し感じた。

・「あー今日も疲れた…明日も面倒だなあ」という思考と共に、重くるしい感情が胸にのしかかり始めた。

これらもスクリーンに上映中の映画として観ます。

371wild:2016/07/14(木) 03:45:43 ID:beqAKj1Y0
続き

このようにご自分の思考、感情、肉体、また周囲の現象…ありとあらゆるものを、まるでWildが1枚のスクリーンに映し出しているかのように観る。
恐怖や心配事と向き合う時も映画として観る。

「369さん物語」という映画を見ているかのような意識で観てみるんです。

やっていると「難しいな󾬇、わからん!」と言う思考も頻繁に映りますが、それも観るだけです。
真の369さんは何もしていません。
ただ映画を観ているだけなんです。

これは自己観察の応用であり、また完全な「お任せ」を体感する真髄なんですね。

私事ですが、何年か前に当時の彼女に怒り心頭中の帰路でこれをやっていていましたw
下を向いて手足を見つつ「ああ󾬇、これは󾀕󾀕(私の本名)物語という映画なんだよな󾬇」と意識していたら、突然ハートが開き、怒り心頭から真逆の超幸福モードにシフトチェンジしました。

エゴを完全に明け渡せた瞬間、エゴをエゴとして本来の私から切り離せた瞬間だったのかなと思います。
(しばらくしたらエゴエゴに戻りましたけど、垣間見たのでやはり今までとは違いました)


暇な時1日中やってみる、
いえ、ちょっとした散歩中でも気づいたらやってみるとかでも良いんです。
頭を使わず何かをしている時がわかりやすいかもしれませんね。
もちろんそのように実践することもWildが上映しているんですけどね(^^;

今回は実践について書かせて頂きましたが、なぜか369さんにはぜひ一度体感して頂きたいという衝動が湧き起こりました。
ただ私が今は実践モード中だからかな?w
気が向くようでしたらぜひやられてみて下さいね。

長々とすみません…(^^;

372幸せな名無しさん:2016/07/14(木) 10:34:50 ID:sHrEzH9M0
早々に、レスをいただきありがとうございます。

実践方法を詳しく説明していただいて感謝しています。


私の場合は自己観察とは程遠く、
すべて、体験からくる考察でしかありません。

ある感情がよみがえりそうになると
その感情を経験したときの記憶をさがしはじます。

思い出したくないので、
思考をストップさせて記憶が蘇らないようにしてしまいます。
だから
感情にもよりそえていません。拒否している状態です。

私物語の映画は、つまらないうえに
起承転結のバランスが
非常に悪い映画だなというのが、悲観的な理由かもしれません。


実践の仕方を詳しく説明していただいてありがとうございました。
映画としてみるといわれても、ここまで深く細かく観てはいませんでした。
集中して、
取り組んでみようと思います。

本当にありがとうございました。

373486desu:2016/07/14(木) 15:02:54 ID:u1GeFRg.0
>>367
私の方こそ、ご返事遅れ申し訳ありません。

wildさん

精神的に大変な時に、質問させていただき恐縮です。
ご協力いただきありがとうございます。

感情も、思考も、行動も、自分という存在も全部幻想であり、
それを淡々と見ているということですね。
私もそうなりたいですw

それに関してもう一つ質問させていただけますか?
自分が持っている観念は抵抗せず受け止めれば手放せるようになりますと聞きます。
(wild視点だと、エゴに自由意思はないので、手放せるときが来れば手放せるになるのかもしれませんが)

しかし、私の場合、今回の例もそうですが、嫉妬や自他へのいらだちを感じる思考が自動で出てきて、
嫌な感情も伴った場合、嫌な感情をただぼーと見てみたり、嫌な感情を感じてみたりしてきましたが、
殆ど場合消えません。
消えるときが来たら消えるものなのでしょうか。
それともやり方が悪いんでしょうか。

矛盾した質問をしている気がしますが、
敢えてエゴ的に何かをするとしたら、何をするのがいいのでしょうか。

374wild:2016/07/15(金) 01:48:05 ID:48Vt3ZDY0
>>372
369さん。

いえいえ、ちょうど暇だったもので(^^;
> 私の場合は自己観察とは程遠く、すべて、体験からくる考察でしかありません。ある感情がよみがえりそうになるとその感情を経験したときの記憶をさがしはじます。

そのような掘り下げも、自分を客観的に見る上で効果がありますね。
ただ、掘り下げれば掘り下げるほどそれらしき理由がどんどん出てきて切りがなかったりもします。

その前に、そう言った記憶(思考)や感情を掴んでしまっている者を観る。
または本当にそのような者がいるのかどうかを観察し見抜く。
ここがポイントなのかなと考えています。
が…なかなか私というものは手強くて苦しいもんです(^^;
今の私の場合、私という自我を意識的に作り出してじっくりと観て向き合っています。

> 私物語の映画は、つまらないうえに起承転結のバランスが非常に悪い映画だなというのが、悲観的な理由かもしれません。

人生つまらない、苦しい。
これは誰しもが思うことかと思いますのであまりご自分を責めないで下さい(^^;
肉体が滅ぶその時まで人生の起承転結はわかりませんよ󾬇!w

しかし本当は面白い映画のはずなんです。
ハラハラドキドキの展開満載のあまりに面白い映画であるがゆえ、ストーリーに没頭しすぎて映画の主人公と同一化してしまっているのが現状です。
本当に何も起こらない平凡なつまらない映画でしたら、何も心配することなく見ていられますしね。
これがただの映画だと見抜ければ深い平安が訪れるはずです。

ぜひ集中して「映画を観る」をやってみて下さい。
ハーディングの実験も併せてやると効果的です!
またご質問ありましたらいつでも書き込んで下さいね(^^)

375wild:2016/07/15(金) 01:51:42 ID:48Vt3ZDY0
>>373
486desuさん。

お気遣いありがとうございます(^^)
今はなんとなく落ち着いているところです!

> 嫌な感情も伴った場合、嫌な感情をただぼーと見てみたり、嫌な感情を感じてみたりしてきましたが、殆ど場合消えません。消えるときが来たら消えるものなのでしょうか。

思考はけっこう簡単に流せるんですけど、感情を伴うものはしつこいですよねー。
よくわかります。
執着している事柄には感情が付き物ですね。

感情は思考と同じで生きている間は無くなることはないと思います。
ただ感情が起こってもそれをガッチリと掴まなくなる、すぐに流せるようにはなれると思いますね。

自己観察、セドナ、自愛、感じ切るなどアプローチは様々ですが、どれも執着している物事の考えと一旦距離を置いて客観的に観ますよね。
そうすることによって「手放し」が起こるようです。
ひたすら考えに気づき、観ることを続けるだけでも効果はあります。

しかしなぜ考えと距離を置く、考えを観ることによって手放しが起こるのかは私もはっきりしないのです(^^;

無理矢理それらしい解釈をしてみますと、
黒を認識するには自分は白でなくてはいけません。
黒が黒自体を認識できない。
つまり物事を客観視している時は、考えと別の属性になってるのだと思います。
執着している考えと別の属性に在り続けることによって執着はエネルギーを与えられず力を失うのでしょう。
憶測ですけども…。

ひとつ忘れてはいけない執着があります。
自分自身ですね。
これは根本の執着ですよね。
この根っこが枝分かれして様々な執着を作っています。
ですから、執着している考えを観ると同時に、執着を作っている根本の自分自身というものをよーく観ることが肝要かと思います。

ひたすら自分に焦点を当て続けることにより、自分自身への執着を減らし、また自分とはどんな存在なのかを観察することにより正体を見抜いて行く。
これが方法かと思ってます。
というか、今私が改めてやってる実践ですw

376wild:2016/07/15(金) 01:59:58 ID:48Vt3ZDY0
> つまり物事を客観視している時は、考えと別の属性になってるのだと思います。→×

つまり考えを客観視している時は、考えと別の属性になってるのだと思います。
→〇

物事ではなく考えです。
すみません間違えちゃいました…(..)

377486desu:2016/07/16(土) 01:31:38 ID:INFrm/2U0
>>375
wildさん
丁寧に回答くださりありがとうございます。

そうなんです。大体思考プラス感情という形で出てくるから厄介で困ってますw
しかもいい思い出(思考)や感情ってたまーにしか出てこなくて、
去年や今年を振り返ると、過去の思い出+嫌な感情ばかり出てくるので
しらーと観察しているつもりでも、余裕がない時は、イライラしたり、
数分間嫌な感情思い出に支配されたりしてますねw

>つまり考えを客観視している時は、考えと別の属性になってるのだと思います。
これは体感では、感情に翻弄されてしまっている私ではまだよく分かりませんが
私もこれができるようになるともっと気楽に生きられそうです。


またまた質問なのですが、
>ひたすら自分に焦点を当て続けることにより、自分自身への執着を減らし、
また自分とはどんな存在なのかを観察することにより正体を見抜いて行く。
これが方法かと思ってます。

これは頭のない体操のことでしょうか?
それとも別な方法でしょうか?
>>370
>>371
とは違う気がしますが、どのような方法でしょうか?
お手数ですが、教えていただけないでしょうか?

378wild:2016/07/18(月) 14:44:39 ID:EbnsvHYo0
>>377
486desuさん。


> これは体感では、感情に翻弄されてしまっている私ではまだよく分かりませんが私もこれができるようになるともっと気楽に生きられそうです。

これは感情と本質の私は別物であると切り離して観ることができればわかるかもしれませんね。
感情は思考をトリガーとして出てくることがほとんどです。
先に原因の思考だけやめてしまい、残った感情のモヤモヤだけをただの肉体感覚として観ると良いかもしれません。
思考が感情のエネルギーの供給源なので、そこを断ってしまうわけです。
これは108さんも提唱されてた感じきる方法ですね。

これを何回も繰り返して行くと、「もうこの感情は十分。
飽きた。」となります。
そうなったらまた同じような思考と感情が出てきても流せるようになってきますね。

> これは頭のない体操のことでしょうか?それとも別な方法でしょうか?
>>370>>371とは違う気がしますが、どのような方法でしょうか?お手数ですが、教えていただけないでしょうか?

「頭のない所を見る実験」も「映画を見る」も同じ方法論でして、
私がやっているという意識、行為者という意識を弱めると共に、行為者なんて元々いなくて、全部勝手に起こっていたことなんだということを見抜く方法です。
これはやるとエゴが自然と消滅してしまう非常にダイレクトなものなので、気づきが深ければそのままの状態で今後生きることができると思います。

ただ大半の人が普段の生活をしているとエゴエゴに戻ってしまうことが多いと思ってます。
なので並行してやったほうが良いかなと思うのが自己観察です。
私に集中するとは、自己観察のことを言っていました。

エゴを私としている要素は一体何なのか?
コントロールしようとしている者は私の中の一体どの要素なのか?
などを私に集中して観ることにより曝きます。

具体的には、普通の思考観察に加え、思考、感情、身体のどれがエゴの核となっているのか?
もし思考だと思うなら、どのような思考が私と思わせるのか?
またなぜそう思うのか考察してみたり。
身体だと思うなら、身体のどの部分がエゴの核なのか探ってみたり。
映画だけがある状態から、コントロールをしようとしている状態に入る瞬間を目撃して両者の違いを比べてみたりなど。

そのように、私、エゴの大元を捉えます。

エゴの正体を曝ければ、これも映画に上映中の映像であることがわかると思います。
そうなれば、エゴから一歩引いて過ごすことができますし、そのうちエゴが力を失い薄くなってしまいます。

色々と書きましたが、まずはハーディングの実験などで自然にエゴを脇に置いた状態を体感してみると良いかなと。
エゴエゴ状態とそうでない状態を比較する。
その後で、じゃあエゴとは何なんだろうと考察するのも良いかもしれませんね。

379幸せな名無しさん:2016/07/18(月) 17:05:32 ID:VMEA1Ah60
Wildさんの見解を教えて下さい。
知らんさんのブログに、「私」がいないことに気づいて夢からさめても
世界はやはりそのまま有り続ける、というような事が書かれていました。
(原文そのままではないです、たしかそんな書き方でした。)
ということは、たとえ私がいなくなっても、今の映画を見続けなければいけないんですよね・・。

で、この記事 ttp://siran.gjpw.net/Entry/56/

>全ては意識の投影であるという事です。つまりぶっ殺してやるとか殴ってやりたいとか思っていると、
>実際にそのような事柄か人物かはわかりませんが、それが湧き出てくるというだけです。
 (中略)
>「ポジティブマンタロウ」とか「帰ってきた幸せマン」とかの
>フィルムを入れれば、そのような映画が上映されます。本当に、ただそれだけです。

これはどういう意味でどうやるのでしょうか?
思っていることが源泉の創造に介入できるんでしょうか?
フィルムもたくさんある中からなぜ今の見てるものなのか納得いかないのですがw
それこそ自由意思がないから今のフィルムなのかと思っていたのですが
自分で選べるんでしょうか?

ほかの方のブログですが、もしよければ回答下さい。無理ならスルーして下さい。

380現象:2016/07/18(月) 17:17:48 ID:yi4reb0M0
真昼さん

お久しぶりです。
長い旅から戻ってまいりましたw といっても認識変更したわけではありませんが。

>>362でお書きになっている
>私たちは言葉に縛られているだけではないか?
「ダイレクトパス ユーザーガイド」の実験をひと通りやってみて、
我々は常に概念や意味という解釈した結果を見ているんだな、と実感しました。
私がいま居るこのカフェも概念ですし、私がカフェだと「思っているだけ」なんですよね。

この事はいま体験している全てに当てはまりますし、
言葉を忘却すれば感覚の奔流にもなるのでしょう(私は体感できませんが)。

全ては単に「思われたもの」。
自分が単に思っただけのものなのに、それを本当に存在すると勘違いしてしまう。
その思っただけの物事の中で、喜んだり苦しんだりしているだけ。
言い方を変えれば「言葉に反応しているだけ」なのですね。

>メルロ=ポンティ
「知覚の現象学」序文で、「作動する自我」を認識へともたらすこと、
それこそが哲学の果たすべきべき使命だ、みたいなことを書いていますが、
ほとんど読んだことないので、どこまで解明したのか知りません。
気づきを得られた真昼さんの視点から、
面白かった内容などがありましたらまた書いてみてください。

381現象:2016/07/18(月) 17:18:48 ID:yi4reb0M0
wildさん

ご無沙汰しておりました。
以前にも書いたかもしれませんが、
認識変更について言葉で表現できることはひと通り理解した、
あとは何らかの実践だけ、だとしたら何を書けばいいのか、
なんて思って書き込みできませんでした。

>ダイレクトパスユーザーガイド
私のような鈍い人間にも、ぜーんぶ単なる概念だ、と気づかせてくれる本ですね。
2回読んだあと、時折ぱらぱらとページをめくっています。

この本を読んでから知らんさんのブログを読むと
これまで分からなかった部分が分かったり。
そのうち、何もかもどーでもいいや、ってなりそうで少し怖くなったこともありましたw
この恐怖の先に何かあるんでしょうか?方向を間違ってますか私?w

>私はと申しますと、書いてある内容や、今までダイレクトパスで気づいたこと
>すべてをぶん投げてしまおうという心境になってしまい、一回読んだきりですw
いろいろ心境の変化があったんですね。
すべてをぶん投げるとは、どのような事なのでしょうか?

どうぞご負担にならない程度に書き込みしてくださいね。

382wild:2016/07/18(月) 18:52:20 ID:EbnsvHYo0
>>379
こんにちは。

> ということは、たとえ私がいなくなっても、今の映画を見続けなければいけないんですよね・・。

そうです。
ここで言う私とは普段私だと思っている私、エゴのことですね。
またいなくなるというよりも、いたと思い込んでいたことに気づくだけでありまして、普段の生活をしていれば 「世界の一部として」 相変わらずエゴは在り続けます。
ただエゴの影響は受けづらくなりますかね。
影響を受けづらくなるわけですから、今の納得いかない人生(エゴ)でもオールオッケーになります。

> >「ポジティブマンタロウ」とか「帰ってきた幸せマン」とかの>フィルムを入れれば、そのような映画が上映されます。本当に、ただそれだけです。

この記事は懐かしいですねw
私見ですけども、これは「なる」と同じことをおっしゃっているのでは?

つまり本当の私というものは源泉であり、今この瞬間であり、まっさらなスクリーンみたいなものです。
過去の記憶という色を私自身としてしまい、いつまでもそれを引きずった色をスクリーンに塗ってるからなかなかストーリーが変わらないのです。

ですから今、記憶に囚われず塗り替えてしまえば良いのですが、それにはまず私とは源泉であり、まっさらなスクリーンであることに気づく必要があるのかなと思います。
もしすぐにできるのでしたらそれで良いのかもしれませんけど。

過去に囚われることが無くなれば、過去の経験からくる不安もないです。
ですから今までの自分とは違う行動が湧いてくるのは確かですね。

ただ…その「塗り変えようとしてる私」さえも実はスクリーンに塗られた色であることに気づくことが肝要です。
つまり、
すべては源泉の意思で生み出されたことであり、エゴには源泉の意思に介在することは不可能なんですね。

だからと言って悲観的になるのではなく、エゴのやりたいようにやっていることこそが源泉の意思そのものなんですから、気にせずエゴで色を塗り変えたつもりになっていれば良いわけです。

もし塗り変えも苦しい、疲れた方は、源泉そのものになってすべてを任せていれば良いのかなと思います。

源泉とエゴの関係って非常に難しいですね〜(^^;

383wild:2016/07/18(月) 19:37:58 ID:EbnsvHYo0
>>381
現象さん。
こんにちは!
お気遣いありがとうございますm(__)m


>あとは何らかの実践だけ、だとしたら何を書けばいいのか、なんて思って書き込みできませんでした。

こういったものは理解と体感と言いますもんね。
あとは体感だけとなりましたか󾬇。
うーむ…改めてハーディングの実験などじっくりやられてみてはいかがですかね?
理解が整理された今、新たな発見があるかもしれません!

> この恐怖の先に何かあるんでしょうか?方向を間違ってますか私?w

その先が一皮剥けるところかもしれませんよw

> すべてをぶん投げるとは、どのような事なのでしょうか?

少し探求疲れもあるのかもしれません。
現象すべてが結局はすべて私の考え(現れ、気づき)であると言う認識が、なぜか混乱というか苦しみをもたらすようになってしまいました。
何でなのかはわかりません。
真理めいたものを手放さないといけない時期がきたのかもしれませんね。
これを手放してしまったらエゴの拠り所がなくなりますもんね。
だから苦しいのか…。

よくわかりませんが、一度すべての知識を放棄してしまおうという気分であります(^^;

384真昼:2016/07/18(月) 21:26:57 ID:7hws8S760
皆様ご無沙汰です。真昼です。wildさん、現象さん、レスありがとうございます。
何か新しいことを書ければと思っていましたが、特にそういったことがなくて恐縮ですw
チケットでお馴染みの「何もしない」ということについて考察してみようと思います。
何もしないとはどういうことか?
普通の頭で読めば、「何もしないようにして」しまいます。
何もしないことをしてしまう。
そうではなくて、「何もしない」とは全てを「放っておく」という方向性だと思うんですね。言い換えれば、何の感想も持たないということ。目の前の空間に映る映像をただ流しておく。感想を持たない。感想らしきものが流れてきてもそれについての感想を持たない。
イメージとしてはニコニコ動画を見てるような感じですかね。
映像の上にコメント(思考)が流れている。自分にとっての一大事が映像として流れるとコメントがブワーっと流れて何が映っているかですら定かではなくなります。私たちはつい、そのコメントに目がいってしまい、時に映像よりもコメントばかり読んでいる。
でも、そのコメントは元々自分が書き込んだものではないし、基本的に映像とは何の関係もない。どんなコメントも映像には影響を与えるものではない。でも、そのコメントに感想を持ってしまうとそれに伴ってコメントが増える。そしてまた、コメントにコメントするようになり、頭の中がコメントでいっぱいになる。映像そっちのけで、コメント合戦をしている。
「思考をしない」というのは、そうしたことに気づくことができるメソッドのひとつですね。まずコメントの総数を減らす。映像に感想を持たない。コメントしない。ただ見る。それこそ、「何もしない」ということだと思います。

それがどうした?といえば、よく覚者さんが言う「世界とは自分の心が生み出している」というのが分かって来るかと思います。
感想を持ったということは、映像に対して興味があるということだから。例えば、自分にとって思わしくない映像が映ったとして、それを「これは思わしくない」という感想を持ったとき、その映像に興味があるという意思表示になっている。興味があるのだから、それに伴った映像が流れて来るのではないか。それが良いものだろうが悪いものだろうが、興味を持っているものが映像として流れて来るのではないか。これはまだ僕の中では仮説段階ですが。

現象さん、僕はメルロ=ポンティについてはまだ解説書止まりなんです。
密かに現象さんに解説をお願いしようかな…などと厚かましいことを考えていましたw哲学的言い回しに面食らっしまって頭がぼや〜っとしてきて「ポンティさんちょっと何言ってんのかわかんない」状態に陥ってしまうものですからw
もし、機会なとがありましたら読んでみてください。本当に余裕があったらでいいですから。ちょっと厚かましいですね、気分悪くされたらすみません。
メルロ=ポンティのテーマは「身体」です。身体は認識するものであると同時に認識されるものである、という両義性を持っています。個人的に解釈を広げると私たちの身体とは宇宙そのものであり、その身体からの情報を内面世界として形成しています。僕が動くとき、世界が動いているのであり、僕が身体感覚を感じるとき、世界そのものを感じている。身体への信頼性こそが、世界に対する信頼であり、動くに任せるとき、それは世界の動きとなる。いかがですか?

長くなってしまいました。ではごきげんよう。

385379:2016/07/18(月) 22:15:38 ID:VMEA1Ah60
>>382
「なる」のことだったんですね。この記事の意味がやっとわかりました、
wildさん解説ありがとうございました!!

今までずっとエゴにまったく気づかずに生きてきたので
こういう話を知ると、もっと早くちょっとでも気づいていればなーと
ざわざわしてしまってたんですが、エゴも含めてすべて源泉の意思
なら全てこれでよかったのかなと、ちょっとほっとしてます。
ありがとうございました!

386486desu:2016/07/19(火) 02:21:00 ID:qZSffmmE0
>>378

wildさん
ご回答ありがとうございます。

ご返事頂いてから、実際自分の思考、感情を見てみると過去の体験なる思考が出てくるか、何かに対する反応として思考、感情どちらが先か分かりませんが出てくるのが分かります。
そして思考が去ると体のどこか部位に感情が残ります。

感情を感じきることをしているのに感情が残ってる場合はまだ感じで足りないんですよねw

あと他のパターンを観察すると思考経由や感情がダイレクトに出る以外に、風が気持ちいいとか、蒸し蒸しするとか体の感覚が思考の代わりになり、感情を呼び起こすことも見られました。

>エゴを私としている要素は一体何なのか?
コントロールしようとしている者は私の中の一体どの要素なのか?
などを私に集中して観ることにより曝きます。
>具体的には、普通の思考観察に加え、思考、感情、身体のどれがエゴの核となっているのか?
もし思考だと思うなら、どのような思考が私と思わせるのか?
またなぜそう思うのか考察してみたり。
身体だと思うなら、身体のどの部分がエゴの核なのか探ってみたり。
映画だけがある状態から、コントロールをしようとしている状態に入る瞬間を目撃して両者の違いを比べてみたりなど。

ここの部分実際どう進めるかまだイメージが具体的に湧きませんが、まずはおっしゃるように下記のようにしてみます。またやり方分からない場合相談に乗っていただけると幸いです。

>色々と書きましたが、まずはハーディングの実験などで自然にエゴを脇に置いた状態を体感してみると良いかなと。
エゴエゴ状態とそうでない状態を比較する。
その後で、じゃあエゴとは何なんだろうと考察するのも良いかもしれませんね。

387wild:2016/07/19(火) 12:35:21 ID:HvhmueQI0
>>384
真昼さん

> まずコメントの総数を減らす。映像に感想を持たない。コメントしない。ただ見る。それこそ、「何もしない」ということだと思います。

シェアありがとうございます(^^)
これこそ純粋な自己観察であり、お任せですね!
ニコニコ動画のコメントとはわかりやすい。

コメントが流れている画面だけしかないんですよね。
だから感情や肉体感覚もコメントのように画面に浮かび上がっている。
私自身が画面に浮かび上がっているということですね。
こうなると画面を見ている者は何者?となりますが、ここが探求として面白いところです。

> 身体は認識するものであると同時に認識されるものである、という両義性を持っています。

なるほど〜。
身体=五感ですね。
私がリンゴを見るとき、リンゴもまたこちらを見ている。
私がリンゴを触るとき、リンゴもまた私を触っている。
ですね。

私はこれを実感する時、私とは本当に無色透明で変幻自在な存在なんだな󾬇と実感します。
なぜならリンゴを見るとき私そのものは見えず、視覚はリンゴのみになっています。
またリンゴを触るとき、手には私の感触はなく、リンゴの感触だけが手にあります。
ということは私がリンゴを作っていると同意とも言えます。

こういった話、難しいけども楽しいですねw

388wild:2016/07/19(火) 12:44:16 ID:HvhmueQI0
>>385
いえいえ(^^)
ただ、但し書きがあります。
おそらく!w

知らんさんは願望を持つ者を幻想と見抜き、そういったエゴの世界から抜け出しましょうよ。
というのが知らんさん論ですので、チョイスやカセット入れ換えは、そう言うこともできますが基本それもエゴの範疇であり、いずれ苦しみが生みだしますよという主張が少なからずあると思います。
私見ですけどね(^^;

389wild:2016/07/19(火) 13:10:27 ID:HvhmueQI0
>>386
486desuさん

> ご返事頂いてから、実際自分の思考、感情を見てみると過去の体験なる思考が出てくるか、何かに対する反応として思考、感情どちらが先か分かりませんが出てくるのが分かります。そして思考が去ると体のどこか部位に感情が残ります。

素晴らしいじゃないですか!
そうやって普段気にも留めていなかった私を見て行くんです。

>思考と感情どちらが先に出てくるかわからない。

つまり自分では起こる現象はコントロール不可能ということですよね。
良い感じです。

> 感情を感じきることをしているのに感情が残ってる場合はまだ感じで足りないんですよねw

思考を断ち、しつこく集中してみて下さい。
あれ?っていう時がいつかきます。

> あと他のパターンを観察すると思考経由や感情がダイレクトに出る以外に、風が気持ちいいとか、蒸し蒸しするとか体の感覚が思考の代わりになり、感情を呼び起こすことも見られました。

いいですね〜。
ここも精妙に針の穴を見るように続けて観察して見てみて下さい。
そのように思考や感情の連鎖を絶えずしているのが私というものです。
いつも次の瞬間には違う現象をすでに捉えています。
目が覚めている間は、決して同じ状態に留まることなく映像は流れ続けている。
諸行無常な映像を流し続けている、不動のスクリーンがわかりますでしょうか?

> ここの部分実際どう進めるかまだイメージが具体的に湧きませんが、まずはおっしゃるように下記のようにしてみます。またやり方分からない場合相談に乗っていただけると幸いです。

わかりました!(^^)

390真昼:2016/07/19(火) 15:56:03 ID:hQyAzju20
>>387
wildさん、レスありがとうございます。
実は僕も今、少し苦しみの只中にいまして、基本的な所をおさらいしながら向き合ってる最中なんです。
wildさんに教わった「私を知る」というブログも参考にさせていただいています。自分を見る、やっとそれに取り組めるところにきたのかなと。
ご存じかもしれませんが、ラジニーシOSHOのサイトも参考になります。動画などを見ると、とても異様な雰囲気を醸し出していてちょっと怖いですけどねw目は開いていながら、どこにも焦点があってないような。あの方は一体何を見てるのかがとても気になりますw

とはいえ、僕はまだ苦しみを受け入れる覚悟を決められずにウンウン唸っていたりするのですが…

391486desu:2016/07/19(火) 21:51:46 ID:qZSffmmE0

>>389

wildさん

こんばんは。

何年も出てくる負の思考が何個かあります。
いい加減に投げ捨てたいんですが、投げられません。
でも気長に自分と向き合ってみます。

wildさんと出会ってから、転職活動にはさっぱりやる気が起きず
現実に変化はありませんが、この生活もいいところもあるので、
あまり現状への不満を引きずらず生きてみます。

ありがとうございました。

392wild:2016/07/19(火) 23:15:42 ID:462gxIzQ0
>>390
真昼さん。

すでに直面されてるようで、さすが真昼さん早いですね(^^;
追求される方は必ず訪れるようです。
しかししばらく今の段階を楽しむのも良いかと思いますがいかがでしょう。
願望実現もしやすい段階なのかなと経験上感じます。
そうは言っても自然とそちらの方に導かれるんですよね。
不思議なものです。
真昼さんもあまりご無理なさらないで下さいね。

OSHOはまったく手付かずだったのですが、興味はありましたのでこれを機に調べてみようと思います(^^)
ありがとうございます。

393wild:2016/07/19(火) 23:53:54 ID:462gxIzQ0
>>391
486desuさん
こんばんわ!

転職活動中でしたよね。
やる気が起きないなら仕方ないですよ。
今やりたいこと、興味のあることをやってれば良いと思います。

また現状の良いところを見つけられたようで何よりです(^^)
そのような視点が大切かと思います。
たとえ転職したとしても、自分が変わらなければ不満ばかりですよ。
不満ばかり見つける視点を持っていることに気づかない人は、どこへ行っても不満だらけなんですね。

不思議なもので以前の私の場合、「この現状もなかなか良いもんだな〜」という心持ちになった時、急に変化が起こることが多かったですね。
味わうべきものをすべて味わったからでしょうかね?
まあ私の場合の話なので、あまりこれを条件付けしないようお願いします(^^;

394486desu:2016/07/20(水) 14:04:00 ID:mtjNA3dw0
>>393
wildさん
こんにちは。

私は、世間一般だとくず人間と十中八九言われそうですねww

最近ふと今の生活は、自分の理想が実現していたなと思いました。

働けば今より収入は増えるでしょうし、物質的にはいい暮らしができると思いますが、
今の満足(バイト以外しなくていい、自由、最低限金はある..)>働いて得られる満足(収入、承認される、様々な経験..)-働くことで生じる不満足(時間的拘束、嫌なことに耐える辛さ、転職活動の面倒さ..)
と考えると、今の生活は的を得ているなと。

既にあるとは違うかもしれませんが、
自分の希望が実現していたと言えば、既にありました。


不思議なもので以前の私の場合、「この現状もなかなか良いもんだな〜」という心持ちになった時、
急に変化が起こることが多かったですね。

条件付けにはしないようにします。
以前そのように思おうとしても思えなかったので無理に思おうと思っていないが正しい表現ですが。
wildさんのようにそこまではまだ思えてませんが、
何もかもやる気がなくなって、その時その時を適当に過ごしていると、
時々ですが今の生活の良さを感じられる時があります。

気楽に頑張ってみます。

395wild:2016/07/20(水) 21:09:38 ID:zDbjLUQs0
486desuさん。

> 私は、世間一般だとくず人間と十中八九言われそうですねww

いえいえくず人間だなんて、そんなことありませんよ(^^)
どんな人でも少なからず不満はあります。
現状は不満ばかりでなく、恵まれてることもあると気づかれた486desuさんは素晴らしいと思いますよ!

そしてそれこそ既にあるだと思いますよ?
今まで不満というエゴに目が釘付けになっていたけども、視点を変えてよく見たら既にあったじゃないかと。
これも既にあるです(^^)

今ここには安心しかない。
と、よくスピでは言われますけども、その気づかれた視点をもっと今に絞り、今だけに留まるとわかると思います。
今ここには不足、不満はないんだって。
そして私は常に今にしかいなかったと。

まあ、何事も焦らず急がず参りましょう!

396wild:2016/07/20(水) 21:37:28 ID:zDbjLUQs0
現象さん。

現象さんの「概念」という表現、先日読んだ時は「なるほどー」くらいの感覚だったのですが、さっきピコーン!!ときちゃいました。
繋がりました。

私は常に、私に起こるすべての現象、そして私自身さえも定義しています。
つまり概念のことです。

そしてあらゆる概念こそ囚われであり、苦しみの原因であります。

ですからこの自分で作り上げた概念を手放した先が、概念や言葉では表現できぬ本当のWild(これも概念ですが)が姿を現します。

これを手放すには、普段私自身が無意識に作り出した現象を概念化していることに気づく、自覚することが必要です。

常に私自身を観つつ、私に起こる現象に対し「これは私の作った考えである」として自覚し、また私自身さえも概念であることを自覚します。
自分で作った概念を解除し、手放していきます。

これはブログ「私を知る」で慧空さんという方がおすすめしているメソッドです。
すべて概念であると気づかれた現象さんにはぴったりだと思ったのですがいかがでしょう(^^;
お気が向いたら覗いてみて下さい。

しかし…あの本でよくそこまで気づかれましたね!?
さすが現象さんです!!
私の迷いも一気に晴れそうです!
いつもありがとうございますm(__)m


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