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沖浦克治と語るスレッド

975沖浦克治:2016/06/13(月) 19:08:21 ID:SZcSAtOs0
六老僧を比較致します。

 日頂師は最後は大石寺に行き重須の学頭となって生涯を終えておられます。
 日持師は外蒙古まで布教に行かれ没年も不明です。
 この方は本物の闘志であられたと思います。

 北海道の名産にホッケの干物がありますが、日持師が中国へ渡る前北海道へ布教に訪れた時、この魚が大漁となって以来ホッケという名前がついたともいわれております。

 真実は定かではありませんが、身を挺して布教を為された事実は残っております。

 このお方は大石寺で隠居していた興師と比較すると、大聖人の御書を身で読まれた点は素晴らしいと思います。

 向師は久遠寺を引き継がれ後の身延の繁栄の基礎を築かれました。

 このお方がおられなかったら、大聖人仏法は後世へ伝わらなかったでしょう。

 日照師は六老僧では最年長で一説では大聖人より年長であられたとのことです。

 あまり後世への影響はなかったと思えますが、比叡山とは密接な関係を持たれ、天台沙門と名乗られることもあって、現実を見据えた堅実な布教を為されたと思えます。

 日朗師は大聖人門下の最も逸材であられたお方です。
 後年鎌倉殿中問答で幕府から指名をされ、文字通り大聖人の法門の理解が最もあったお方でした。

 問答は朗師は高齢のため弟子の日印が代わりに出て、諸宗をことごとく論破されています。

 幕府はこの問答に法華宗が敗北すると禁令を出す用意をしていて、朗師とその弟子がこの危機を乗り切ったのです。

 朗師こそは門下の出家の中での最も正統な後継者であったのです。

 対して興師は見るべき功績がございません。
 大石寺へ移っても重須へ引き籠ってさしたる布教もしていません。

 六老僧の対比はこのようになっています。




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