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沖浦克治と語るスレッド
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838より
生命体は法則に従って生きていますね。←縁起ではないでしょうか?
同じ病気で亡くなる人、生きている人
同じ車に乗って事故にあって亡くなる人、生きている人がいますので。
法則というよりは縁起で、縁起という法則かと思いますがそういった意味合いでの法則ということですか?
死は私どもには不可思議な状態です。
だから妙なんです←わたくしももっと勉強してきますが、不可思議という意味での妙ではないような気がします。
法華経と言っても、生きて行じる私共衆生の中にしかありません。
↑ある なし で語るのは法華経ではないですよ。
御本尊も、経文も法華経そのものではありません。
↑法華経そのものというのはなんでしょうか?わたくしは縁起の法と思っておりましたが。
経は一切衆生の言語音声だとあるでしょう。
紙に書かれた経文は経そのものではないのです。
↑この文章の前から察すると、妙法蓮華経の「経」の字の意味が、妙法蓮華経の中で
一切衆生の言語音声という意味ではないかと思います。
経文のことではないです。
達師は池田先生を生き様のお手本とされたのです。
↑日達猊下の生前のご様子・文章などから「池田先生の生き様をお手本とされた。」
という事実が確認できるものはありますでしょうか?
沖浦さんは、「地獄の相を現じる臨終でなかった」ことが、
日達猊下が池田先生に帰依された証拠とされていますが、
これでは証拠としては不十分だと思われませんか?
世間が納得するでしょうか?
少なくとも私は納得できません。
池田先生が正しいという軸で沖浦さんはお話されているから、
「日達猊下は池田先生に帰依されたから、死に顔が悪相ではなかった。」
となりますが、
日蓮正宗の立場なら、
「池田先生をクビにしたから、悪相で死ななかった」
になりませんでしょうか?
以上、よろしくおねがいします。
帰命とは、生き様のお手本にすることです。
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