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本迹に関して対話するスレッド
56
:
沖浦克治
◆sFO4WcF4K2
:2008/11/15(土) 06:54:43 ID:AJ3hr85o0
自分の人生で自分こそが本なんだ。との、確信すら持てない人、負け犬になるでしょうね。
自分が本、他は全て迹。
それが分かると、他人の人生では自分が迹なんだと言うことがはじめて理解できます。
本当の平等はそう言うことですよ。
時乃旅人さん。
貴方本当に先生を師匠と思うんですか?
もう一度引用しておきます。
お読みなさいね。
法華経の智慧 〜二十一世紀の宗教を語る 第五巻 (池田大作著/聖教新聞社 1999.9/20刊)
如来神力品① 地涌の菩薩への「付嘱」―― 広宣流布への荘厳な儀式
全民衆よ!汝自身の尊貴さに目覚めよ!
「凡夫こそ本仏」の大宣言 (P171〜)
斉藤(斉藤克司教学部長・副会長) 考えてみれば寿量品で否定された「始成正覚」という考え方には、きわめて危険な要素があったのではないでしょうか。
つまり釈尊が伽耶城近くの菩提樹の下で「始めて」悟った ――この始成正覚の「前は凡夫」「後は仏」と考えてしまうと、「人間・釈尊」が見えにくくなります。
実際のところは「人間として」真剣に正しき道を求めたからこそ「わが仏界」に目覚めた。そうやって目覚めたからこそ、「人間として」最高の生き方ができた。
つまり「人間・釈尊」として一貫しているわけです。この一貫性を「始成正覚」は切断してしまう危うさがある気がします。
遠藤(遠藤孝紀副教学部長・墨田区副区長) 始成正覚以後は「人間を越えた」何か特殊な存在になった、そんな錯覚に陥りやすいですね。
釈尊という人格を、目の当たりにできた 釈尊在世の衆生はいいとして、釈尊滅後の人には、どうしてもそう思われがちだと思います。
須田(須田晴夫副教学部長・墨田区副区長) そこから釈尊を神格化したり、自分達は「凡夫でしかない」と卑下してしまった。これは謙虚なようで、じつは傲慢の裏返しですね。
「人間(凡夫)」の尊貴さを知りもしないのに、知ったつもりで人間不信になっているわけですから。
名誉会長(池田大作創価学会名誉会長) 「凡夫でしかない」 ―― そういう言い方は、とんでもない間違いです。
そういう錯覚の黒雲を、大いなる涼風で吹き払ったのが法華経です。「凡夫でしかない」どころか「凡夫こそ仏なのだ」と。「人間こそが最高に尊貴なのだ」と。
この「法華経の心」を究極まで表現されたのが日蓮大聖人の次の御言葉です。
『凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、
然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備え給うと思ひしに、さにては候はず返って仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり』 (全集P1358)
『本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり』 (全集P1359)
まさに「それまでの仏法がひっくり返ってしまった」御言葉です。凡夫が「本仏」、仏はその“影”である「迹仏」にすぎないと言われるのだから。
“仏があって凡夫がある”と思っていたら、そうではなく、“凡夫があって仏がある”のだと。
仏法だけでなく、全宗教史上、驚天動地の宣言です。
どんな宗教でも、神仏などの「絶対なる存在」が上、人間はその下と考えるのが通例です。それを否定して、絶対者と思われている神仏は、
実は凡夫=人間の「影」であり、「用(働き)」であり、「人間のための手段」にすぎない ――こんな宣言は他にありません。
まさに「人間のための宗教」の大宣言なのです。
歴史上、「人間のため」のはずの宗教が、いつのまにか「権威のため」の宗教に変貌してきた。その思想的な根っこは「神仏が上、人間が下」としたところにある。
そう言えるのではないだろうか。
〜引用終わり〜
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