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本迹に関して対話するスレッド
315
:
梅
:2008/12/12(金) 14:50:29 ID:GzTbFjgs0
森野さん
こんにちは
①>先生は、新人間革命8巻P131で「本迹の勝劣を照らし出して」と言われています。
②>また、P149「本迹といっても、この瞬間瞬間が勝負である」と。
森野さんと同じく私も、基本的には本迹=勝劣であると思います。
つまり、①のように百六箇抄で取り上げる日蓮仏法と釈迦・天台との勝劣、いわゆる『本迹相対』をいうとき。
あるいは、②のように本迹を『個人の一念』の問題にとらえるときです。
そこで、森野さんは、『眠っている時は「迹」・起きている時は「本」』を
同じく本迹で勝劣があるということでした。
しかし、生命論では、私たちの生命は生死・生死を繰り返し永遠だというのに
睡眠時はあたかも「死」のように、起きている時は「生」にたとえたりしますね。
すると、同じように「生死」も「本迹」で「勝劣」があるということになりませんか?
どうですか?
単なる断定だけでなく、その理由まで述べるとすれば、たいへんゴチャゴチャしてきますよね。
さらに百六箇抄では、【久遠自受用報身の本迹】の項で、『男は本・女は迹・知り難き勝劣なり』と言っています。
これは、『男は本・女は迹』と断定した上で『知り難き』『勝劣』と続くわけですから
『勝劣の判定は難しい』という意味になるのでしょうか?
それとも『男は本・女は迹』は『知り難い』が、にもかかわらず『勝劣』はある、という意味でしょうか?
いずれにしても、これらのように「本迹」は一筋縄では行かないものがあります。
この点に、私たち学会員に共通理解があれば、①②のように
「このような場面」では「このような使い方」をしていますと前提を置くか
あるいは、本迹は「必ずしも勝劣に限らない」という前提を取るかなど
対話の「土俵」を設定することができますよね。
沖浦批判者は、このような「土俵」を作ることを全く無視した上で批判しているようです。
沖浦さんは、「本迹は立場」と前提をおいてますから
批判するなら、その辺のところから土表作りをはじめてもよいはずです。
私には、『はじめに批判・非難ありき』に見えてなりません。
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